日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)③

*박정희(朴正熙,[4] 1917년 11월 14일 ~ 1979년 10월 26일)는 대한민국의 제5·6·7·8·9대 대통령이다. 본관은 고령. 호는 중수(中樹)이다. 군사정변으로 정권을 교체하고 제5대 대통령 선거에서 당선되어 1963년 대통령에 취임하였다. 1979년 사석에서 김재규 중앙정보부장에 의해 암살되었다.
*Jeon Du-hwan hay Chun Doo-hwan (Hangul: 전두환 (âm Việt: Chon Đu Hoan, chữ Hán: 全斗煥 (âm Hán Việt: Toàn Đẩu Hoán), sinh ngày 18 tháng 1 năm 1931, là một tướng lĩnh và chính khách người Hàn Quốc, từng giữ chức vụ Tổng thống Đại Hàn Dân Quốc từ ngày 1 tháng 9 năm 1980 đến 25 tháng 2 năm 1988. 
*盧泰愚(韩语:노태우/盧泰愚 Roh Tae-woo,1932年12月4日-),大韩民国第十三任总统,大韓民國陸軍退役將領,全罗南道光州交河卢氏[1]:3,祖籍中国山东[2]。

私がベトナム人と直接に顔を合わせたのは、実はその時が最初ではない。大学生になったばかりの1969年、東京で1度だけ南ベトナムの留学生に会ったことがある。彼は日本で反戦活動を行なったために南ベトナムには帰れない立場になっていたのだが、このベトナム人との出会いは、私にとってぎこちないものではなかった。むしろ、私と彼とは、言葉には出さずとも難民どうしにのみ通いあう親しみの感情を共有したように思う。その後、日本を追われた彼はカナダに渡ったらしいが、それっきり消息を聞かない。
アヴィニョンでの、ベトナム人との2度目の出会いがぎこちないものになることを私は覚悟した。いまや私は「難民」ではなく、韓国の「国民」なのである。厳密には私は韓国にも日本にも参政権がないことが如実に示すとおり、半難民あるいは半国民とでも言うべき存在であるにせよ。
いよいよ、ベトナム料理店の店主が注文を取るために私の方へ歩み寄ってきた。やはり「ジャポネ?」と尋ねるつもりだろうか・・・。
言うまでもないことだが、ベトナム戦争については日本の手も汚れている。日本政府は終始一貫してアメリカの戦争政策をもっとも忠実に支持した。ベトナムの村や森に爆弾の雨を降らせた米軍の軍用機は日本の基地から出撃した。日本経済も戦争特需に潤った。だが、その事情は一般のベトナム民衆には見えにくい。名分もなく他人の土地に踏み込んで暴れた韓国人傭兵の印象とは比べものにならないに違いないのだ。
そんなことは起こらないことはわかっていたが、ひょっとするとコップの水ぐらいかけられるかもしれないと思った。それくらいのことは当然だと覚悟した。
政治家、高級軍人、あるいは大企業のトップなどに負わされるべきものから、積極的支持者、消極的協力者、無関心な傍観者をへて、派兵を阻止することができなかった抵抗者のそれにいたるまで、ベトナム人に対する「韓国人としての責任」の軽重には大きな幅があるのはもちろんである。その配列表の上部に並ぶのは「責任」というより、むしろ「罪」を問われるべき者たちである。そして、配列表における私自身の位置は、先に述べた事情から、ほとんど欄外に近い最下部であるということはおそらく許されるだろう。それでも私は、たとえ極小のものであるとしても、ベトナム人に対する、自分の「韓国人としての責任」を否定することはできないと考えた。
なぜか?私に「韓国人」の「血」が流れているから?ちがう。では、私という人間が朝鮮(韓国)文化に充𥪧されているからだろうか?ちがう。
それでは、私がベトナム派兵を決定した韓国の政権を支持したり、それによって何らかの恩恵を受けたことがあるからか?それもちがう。私は韓国という国家によって、いかなる恩恵も保護も受けたことはなかった。それどころか、韓国に「母国留学」した兄ふたりが1971年に政治犯として投獄され、私自身も一家の者も有形無形の圧迫を受けてきたのだ。
それでも私が「韓国人としての責任」を負っていることを承認せざるをえないのは、私が韓国政府発給のパスポートをもって旅していたからである。もと「傭兵隊長」が発給したパスポートを手にしたからこそ、私はこのアヴィニョンに来ることができたのだ。旅に出るために、より一般化して言えば、難民として生きることの不利益や苦しみを免れるために、不承不承にではあるが、自分が韓国という国家の国民であることを私は追認したのである。この思いは、私をひどく憂鬱にさせた。

もしも私が戦争の最中に韓国軍の制服を着てベトナムのジャングルを歩いていたとすれば、ベトナム人に狙撃されて命を落すことは大いにありうる。その際には、たとえ私自身が内心においてどんなことを考えていようと、撃つ側にはそんなことを識別することはできない。撃たれた私は薄れていく意識のなかで、自分を撃ったベトナム人を恨むのではなく、ベトナム派兵を強行した自国権力を恨み、それへの抵抗を貫くことができなかった自分自身を責めるほかないだろう。パスポートを取得することと、軍服を着て従軍することとの間には、言うまでもなく大きな差がある。しかし、パスポートから軍服までが「国民」の論理によってひと続きに繋がっているということも否定できないのである。
1951年生まれの私は、ちょうど、ベトナムに派兵された韓国兵と同世代である。徴兵されていればベトナムに派兵されたかもしれない。そうなっていたら酷い処罰を覚悟で派兵に抵抗できただろうか?いや、たとえ個人として抵抗したとしても、それは自己の良心の問題にすぎず、結果として派兵を阻止できなかったという政治的な意味での責任はやはり免れないのではないか。こうした自問にぎりぎりの決着をつけずにここまで来れたのは、実際には韓国の法律が私のような在日の半国民の兵役義務を免除しているからにすぎないのである。
ベトナム人から「おい、韓国人」と名指された時、「ぼくは韓国人であるつもりはない」とか「ぼくは地球市民」などという、そんなはぐらかしは通用しない。また、「韓国人といってもいろいろな人がいて、中にはいい人もいる」などと、そんな当然すぎる子どものような理屈を相手方がわかっていないかのように言うことこそ無礼きわまる。ましてや、「韓国人を非難の目で見るのはベトナム人のナショナリズムだ」などと言うことは、不信や軋轢の原因を相手側に押しつける本末転倒の論法でしかない。どう言おうとも、もと「傭兵隊長」が大統領の座に君臨しており、韓国政府が何らかの謝罪もしようとしていない現実が、そんな弁明など吹き飛ばしてしまうのだ。
水をかけられたり声高に非難されたりすることがなかったとしても、こわばった微笑や突然の口ごもりなどによって、ベトナム人という他者から私は「韓国人」と名指される。「韓国人の血」や「韓国文化」など、何らかの「民族的本質」(そんなものがあるだろうか?)のゆえにではなく、自分の属している集団と他者との関係のゆえに、他者からそのように名指されるのだ。私はその名指しを承認せざるをえないのである。(日本社会からの排除や差別によって、自分が「朝鮮人」であることを「日本人」という他者から叩き込まれたのに似て。)
その名指しを避けるためにできることは、すぐさま「韓国人」であることを、観念においてではなく、実際にやめることでしかない。やめる?だが、いかにして?
多くの日本人にとって、「国民になる」とか「国民をやめる」といったことは実感しづらいであろう。その理由は、ほとんどの日本人が生れながらに「日本国民である」ためだ。つまり、正確にいえば、彼ら/彼女らは生まれながら日本国家によって「国民」として拘束されているため、国家による拘束さえも自然のものとしか感じることができず、したがって拘束の代償として国家から自分に与えられた「国民」であることの特権性を自覚することもできないのである。
よく考えてみればわかることだが、ある国の国民をやめることは、国民になるより難しい。さらに難しいのは、いかなる国の国民にもならないこと、つまり恒常的難民として生きることだ。それができないとすれば、残された途は自分の帰属している国を、正確に言えば、自分を「国民」として拘束している国家を、変える(ひいては解体する)こと以外にない。
ベトナム人からの名指しに遭った時、私は不条理を感じ、怒りを覚える。だが、明らかなことは、その怒りはベトナム人に向けられるべきではなく、自分を拘束している国家に、大義のない派兵を強行し、そのことを謝罪しようともしない韓国の政治権力に向けられなければならないということなのである。
これは甘ったるい想像だが、このような私自身の望みと行動がほんとうに真摯なものであるならば、私とアヴィニョンのベトナム人との出会いは、韓国人対ベトナム人という対立構図から解放されるかもしれない。半難民どうしの連帯と永続的な友情の起点になるかもしれない。だが、その乏しい可能性をひらくため努力すべき者は誰かというと、「お互い」などと安易に言うべきではなく、まず第一義的に、加害者「韓国人」である私の個なのだ。
若い日のホー・チ・ミンのような料理店主は、ついに私のかたわらに立った。職業的微笑をたたえたまま、私の目をのぞき込んだ。彼の目は笑っていない。彼はゆっくり口を開いた。
「ジャポネ?・・・」それからどうなったかは、ここには書かないでおこう。長々と書いたが、ここまでは前置きである。
この文章を読む読者の大半は日本人だろうが、私がベトナム人との出会いの際の心の動きをここに披瀝したのは、「韓国籍」をもつ在日朝鮮人(半難民)としての私のささやかな経験を、日本人読者の知的(?)消費に供するためではない。まさか「自由主義史観」流の読まれ方はしないと思いたいが、念のためにことわっておいたほうがいいだろう。ベトナムに対する韓国の加害責任を指摘することで、アジア諸民族に対する日本の加害責任を相対化し弁護するためではもちろんない。日本人の皆さんに、こう問いかけるためだ。
私にとってのベトナム人は、あなたにとっては誰だろう?他者からの名指しに、あなたはどう反応するのだろうか?
*전쟁특수(戰爭特需)는 전쟁 시 군용품이나 무기, 식량, 의약품 등 군인들이 전장에서 사용하는 필수품의 사용이 증가함에 따라 발생하는 특수(特需)이다. 교전국이 아닌 제3국이 전쟁특수를 누리는 경우가 다반사이며, 물건을 판매할 때 거두어지는 세금이 늘어나기 때문에 국고가 증대한다.


고마 니즘 사상 강좌 정의 · 전쟁 · 국가론 - 자신과 사회를 잇는 회로 (일본어) 단행본 - 1997/7/1타케다 파랑 상속인 (의) 하시 츠메 다이 자부로 (의) 고바야시 요시노리 (의)Lectio Gomanism cogitatio iustitiae, bello, National Societate Opera, Circuit: et, qui tibi Connects (Iaponica) Hardcover - 1997/7/1Seiji Takeda Daisaburo Hashizume Yoshinori Kobayashi 
ーDoutez de la justice superficielle et de l'innocence naïve ! Une bataille continue de 12 heures sans nourriture sur les thèmes de "problème des femmes de réconfort", "responsabilité de guerre", "discrimination", "mouvement citoyen", "État et individu".

昨年(1997年)9月28日のシンポジウム「ナショナリズムと『慰安婦』問題」においては、パネル討論は事実上、上野千鶴子氏からの多岐にわたる問題提起をめぐって展開し、いささか混乱したまま時間切れになったという印象を私はもっている。当日の上野氏の問題提起のうち、直接に私に向けられたものは次の2点であった。
① 徐京植のいうように「慰安婦」制度を植民地支配の枠で捉えるならば、それは植民地女性の負った被害であって、日本人は男も女も国を挙げて報国のために挺身したことになってしまう。それでは日本人「慰安婦」の問題を問題化できなくなってしまうではないか。
② 小林よしのり氏は日本軍兵士である「じっちゃん」への同一化を訴えている。他方、徐は「もと慰安婦は私の母だ(2)」と言っている。山崎ひろみ氏は「慰安婦」問題に向い合う自らの姿勢を「加害者の娘として、被害者の姉妹として」と形容している。どれも家族の用語で語られているが、これに非常な危険を感じる。家族はひとまとまりの同一性ではなく、利害の異なる権力関係だからだ。・・・
① については、当日の討論のなかで不十分ながら応答したつもりなのでここで詳しく繰り返すことはしない。第II部の討論に加わった金富子氏の、日本人女性には「二重の課題」がある、「日本人女性は政治共同体としての加害国民の1人として戦争責任を果すことによって、はじめて国境を超えた女たちの連帯が可能であるのであって、その逆ではない」という指摘は、私の真意にもよく合致するものであった。日本人総体を「加害者」一色に塗りつぶすことによって日本人「慰安婦」の存在を黙殺するなという、そんな単純きわまる形式理論を私は述べたのだろうか?そうではない。日本人の多くは、その責任の軽重に差があるとはいえ、日本による植民地支配と侵略戦争に関して「他者」(アジアの被害民族)に対する加害者であり、同時に自国の権力による被害者でもある。ここには、「性差」という分割線に交錯して、相変わらず「民族」という分割線が走っているのである。そのような交錯する2本の分割線を座標軸として自らの位置を見きわめ、日本人の「二重の課題」を見据えることなくして、日本人と「他者」との連帯は困難だと言っているのである。「階級」というもう1本の分割線を考慮すれば「三重の課題」ということになる。日本人「慰安婦」問題がもっと精力的に取り組まれるべきであることは、こうした重層的な課題を明らかにするという意味でも当然であり、そのことこそ、アジアの被害者の要求にも合致する。
② の問いには正直なところ、いささかぐったりとさせられた。もちろん家族は「ひとまとまりの同一性」ではなく「権力関係」である。私は、それを「ひとまとまりの同一性」だと主張しただろうか?この問いのレトリックには①の問いにも通底することだが、加害者と被害者との「違い」を無化しかねない乱暴な一般化があると私は感じる。私がもと「慰安婦」を「母」にたとえたことは、そのたとえを用いた私の立場、文脈、目的等々から切り離して批判されるべきではない。私における「母」は、被支配民族の、下層階級の、しかも家族という権力関係のなかで抑圧されている女性である。これと小林氏における「じっちゃん」とを並列し、両者のたとえは同じであると括ることのできる心性が、私には信じがたい。両者の「違い」こそが意識されなければならないのではないか。こうした説明を繰り返さなければならない現状、ときには自分と小林よしのり氏とがいかに違うかという「弁明」すら強いられる状況には消耗感を禁じえないが、シンポジウムの後、もう1度だけいうつもりで、あえて「母を辱めるな」と題する一文(3)を書いたので、参照していただきたい。

さてシンポジウムでの上野氏の問題提起に、次のような主旨の発言があった。
橋爪大三郎氏は、竹田青嗣、小林よしのり両氏との鼎談において、戦前と戦後の日本は政治共同体としての同一性を有している。したがって日本という政治共同体に属している個人として大日本帝国に関する責任はとらなければならないと述べるとともに、「私やあなたが、昭和10年代の日本に生きていて、ある日召集されたとする。それは国家の合法的な手続きに基づくもので、憲法(大日本帝国憲法)の定める国民の義務でもある。とすれば応召して戦地に赴くことは断じて正しい」と言っている(4)。さて、高橋哲哉氏はシンポジウムの第I部で「日本人としての責任をとる」と言ったが、もし日本人としての政治共同体に属する責任とおっしゃるなら、橋爪氏の議論とどこが違うのか?・・・
上野氏のこの発言を聞いて、実は私は啞然としてしまった。結論から言うと、橋爪氏の議論と高橋氏の議論とが、本質的に違っていることは一目瞭然だからだ。似ているように見えるとすれば、橋爪氏の似非(えせ)「市民社会論」のレトリックに幻惑されているからでしかない。この一目瞭然の「違い」が上野氏には見えないのだろうか。それとも、本質的に違っているふたつのものをあえて「同じだ」と括ってみせることで論敵を挑発する論争術を意図的に採用しているのだろうか。そうだとしても、この際そうした論争術は問題の整理に役立つよりはむしろ混乱を助長しただけだと私は思う。
そこで、上野氏の発言は私に向けられたものではなかったが、この機会に、「集団の責任」という問題について、私も私なりの考え方の筋道を示しておきたいと考えた。ただし私は日本人ではないので、まずはじめに自分自身の「韓国人としての責任」についての考え方を差し出しておくことにしたのである。
ここで少し論点を整理してみよう。まず「罪」と「責任」の区別を確認しておかなければならないだろう。ハンナ・アーレントによると、「罪」は個人に帰属させられるものであって、集団に帰属させるべきものではない。「集団の責任」にはふたつの条件がある。すなわち、自分が行っていないことに対して責任があるとみなされることであり、自分の自発的行動によっては解消できないしかたである集団(集合体)に成員として属していること、である。この種の責任はつねに政治的であり、それを負わされえないのは「亡命者や国家なき人々」だけである(5)。私自身の言葉を添えるなら、それも、より厳密にいって、ある国家の岸辺を離れ別の岸辺に漂着するまでの間の難民だけなのである。
ただし、このアーレントの考えに、疑問点もなくはない。たとえば「ネイションの過去の功績や犯罪」は、どこまで遡るべきなのか。ナポレオン・ボナパルトは「シャルルマーニュの時代からロベスピエールの恐怖にいたるまで」と言ったらしいが、私には疑問である。日本について当面の主題に即していえば、「大化の改新以後」とか「豊臣秀吉以後」ではなく、「明治維新以後今日にいたるまで」というのが妥当であろう。
いずれにせよ、この考えにしたがって言えば、私個人は韓国のベトナム派兵の「罪」を問われることはないが、「韓国人」として政治的な意味での「集団の責任」を負わなければならないということである。同じように、戦後生まれの日本人たちには日本国の植民地支配と侵略戦争についての「罪」はないが、それらについて「日本人」として「集団の責任」は免れないということなのである。

*다이카 개신(大化改新)은 일본 아스카 시대의 고토쿠 오키미 2년, 일본 연호로 다이카(大化) 2년(646년) 봄 정월 갑자 초하루(1일)에 발호된 「개신(改新)의 조(詔)」를 토대로 한 정치개혁 운동이다. 
*백강 전투(白江戰鬪, 중국어: 白江口之战→백강구 전투, 일본어: 白村江の戦い→백촌강 전투)는 663년 8월에 신라의 백강(현재의 금강 하구 부근)에서 벌어진 백제·왜의 연합군과 당·신라의 연합군이 벌인 전투이다. 당·신라 연합군의 승리로 끝났다. 중국의 통일왕조 당이 등장하여 동아시아의 세력 판도가 새롭게 바뀌며 일어났던 전쟁이며, 왜국의 참패로 인해 왜국의 국방·정치제제의 변혁이 일어난 원인이 되었다. 또한 백제 부흥운동이 실패하는 등 신라의 삼국통일에 결정적 영향을 미쳤다.
*도요토미 히데요시(일본어: 豊臣 秀吉, 1537년 3월 17일[1] ~ 1598년 9월 18일)는 센고쿠 시대와 아즈치모모야마 시대에 활약했던 무장, 정치가이며 다이묘이다. 오다 노부나가(織田信長), 도쿠가와 이에야스(徳川家康)와 함께 전국 3영걸로 불린다. 또한 임진왜란을 일으킨 장본인이기도 하다.
*임진왜란(壬辰倭亂) 또는 임란(壬亂)은 1592년(선조 25년) 일본 도요토미 정권이 조선을 침략하면서 발발하여 1598년(선조 31년)까지 이어진 전쟁이다. 또한 임진왜란은 동북아에 막대한 영향을 끼쳤으며, 두 번의 침입이 있어서 제 2차 침략은 정유재란이라 따로 부르기도 한다. 또한 이때 경복궁과 창덕궁 등 2개의 궁궐이 소실되었다.
*메이지 유신(일본어: 明治維新 메이지 이신[*])은 막번 체제를 해체하고 왕정 복고를 통한 중앙 통일 권력의 확립에 이르는 광범위한 변혁 과정을 총칭한다.[1] 메이지 유신은 학문상 명칭이며, 당시 고잇신(일본어: 御一新) 등으로 불렸다.[2] 메이지 유신의 개시 시기는 1868년이며 종료 시기는 1871년 폐번치현(廢藩置縣), 1873년 지조개정(地租改正), 1877년 세이난 전쟁(西南戰爭), 1889년 헌법 발표 등 여러 설이 있으며 정설은 확립되지 않았다.[3] 그러나, 중국 학계에서는 1889년 헌법 제정으로 메이지 유신이 종료되었다고 본다.

現状に照らして私の考えを付け加えるならば、なるほどこのように「罪」と「責任」は画然と異なるものではあるが、当事者でない戦後世代に「罪がない」という側面のみが強調されて、「責任がある」という側面が捨象されてはならない。そもそも、明確に「罪」がある当事者たちが平然と跋扈し社会の中枢に位置を占め続けているのが日本社会である。こうした社会においては、罪/責任概念の(ときには意図的な)混乱は、罪なき者に罪を押しつける方向によりも、実際には、罪ある者の罪を覆い隠す、一種の共犯関係をうち固める方向に役立てられる危険性のほうが強い。「私たちには罪はない」という言葉は、「私たち」とは誰のことであり「罪」とは何を指すのかをつねに厳密に規定しつつ用いるのでなければ、罪ある者をかばい、ひいては他者に対する集団の責任を否定する結果をもたらすであろう。
戦後世代の日本人といえども、現在日々刻々犯されつつある日本の国家犯罪の共犯者になることはありうる。たとえば被害者が年老いて死んでゆくのを見ながら公式謝罪と個人補償を拒み続けることも国家による犯罪のひとつだ。シンポジウムの際、私は、既得権集団のたとえとして鹿島建設を挙げた。鹿島が国家と共謀して犯した過去の犯罪に直接かかわっていない人は、その「罪」を問われることはない。しかし、株主、社員、下請け、顧客等々というかたちで鹿島の既得権の分け前にあずかっている広汎な受益者には「責任」がある。そして、鹿島が現在ただいま犯しつつある犯罪(被害者の補償要求を拒絶すること)を支持ないし容認するならば、その行為はもはや「責任」の域を超えて限りなく「罪」に近づくと言わねばならない。鹿島というのは一例に過ぎない。同じようなことは、実は日本のほとんどの社会組織について言えるだろう。さしずめ、東京大学などはどうだろう?
話を戻そう。上野千鶴子氏は、橋爪大三郎氏と高橋哲哉氏とは「日本人としての責任」を承認しているという点で同じ論理に立っているというのだが、どうだろうか?橋爪氏は、上野氏が引用した部分に続いてこう述べている。
「・・・犠牲を覚悟して、兵士となり、前線におもむくことは、立派な覚悟である。それが、誤りだとか犯罪だとか言う資格は誰にもないはずだ。(略)・・・侵略戦争だったから、参加してはいけない戦争だったと言う人もいる。だが、召集された私やあなたが、個人の資格でそれを主張し、徴兵を拒めるだろうか。「良心的徴兵拒否」の制度があればまだしも、当時はそんなものはなかった。侵略戦争ではなく、アジア解放の戦争と信じて応召したものもいたろう。いずれにせよ個々人は、市民として義務を果す以外にないのであり、その戦争の性格について責任を問われなくて良い。戦争の勝算や正当性に疑問がある場合のほうが、戦場におもむく兵士の苦悩は深いのである。にもかかわらず、徴兵に応じた父祖たちを、私たちは誇りに思うべきだろう。そしてそれは同時に、抗日戦争に起ち上がった中国の人びとや、独立運動に身を投じた朝鮮の人びとを、誇りに思うことに通じる。(略)戦争を憎み、戦争を防ぐ努力をすることと、戦争に参加した父祖たちの行為を肯定すること。この2つは完全に両立する!戦後を健全な市民社会に立て直すため、ここから議論を出発させるべきだ。しかし戦後思想は、ついにこのことを理解しなかった。小林よしのり氏が直接的に指摘したのは、この欠陥であったと私は理解している(6)」。
大のおとなが「メシも食わずに12時間連続闘論」(この書物の惹句)した結論がこれとは、まことに寒心にたえない。そのような書物がさしたる批判も受けずに流通している日本社会の現状には、寒心を通りこして恐怖すら覚える。
橋爪氏の議論は、そもそも大日本帝国という天皇制国家に市民社会が成立していたかのような虚構に立つ、一目瞭然である。上野氏は何よりもまず、これは「市民社会論」ではないということを明確にし、そこから議論を始めるべきであった。
橋爪氏は、対米開戦については「第二次大戦が始まっていたので戦争自体が非合法だったとは言いにくい面」があり、また、「日米戦争は対等な主権国家の戦争というふうに理解できる面が多い」などと留保を付けているが、「満州や中国に対する戦争というのは、ちょっとちがう面がある。これはいわゆる侵略戦争なんです」と述べている(7)。
疑問の多い見解だが、どんな留保や限定を付けようとも、少なくとも日本の行なった対中国戦争が侵略戦争だったことは橋爪氏も認めているようだ。だが、そうであるならば、兵士個々人の主観的な「覚悟」のいかんにかかわらず、兵士となることは侵略への加担以外のなにものでもないではないか。「誤りだとか犯罪だとか言う資格は誰にもない」などという悲壮ぶった脅し文句に胡麻化されてはいけない。侵略の犠牲者、侵略への加担を拒否した者にはその資格がある。戦争の本質が侵略であることに気付いた当の兵士にもその資格がある。いや、侵略戦争への加担が誤りであり犯罪であるということに、そもそも「資格」などいらないのである。
個々の兵士、なかでも徴兵された下級兵士は、兵士になったというそのことだけをもって「罪」を問われることはないが、しかし、戦争の性格についての「責任」は免れないのである。その兵士が自立した市民であろうとすればするほど、そうなのだ。
「良心的兵役拒否」制度といえども、ドイツなどで現行のそれは国家が強制力によって国家目的に人力を動員するという点で本質的には徴兵制の延長であり、無批判に賞賛すべきものではない。だが、そうであるにしても、国家による恣意的動員に市民の側から制限を加えるそうした制度は、じっと待っていて国家が自動的に与えてくれるものではない。市民の側のねばり強い抵抗の結果として闘い取られる権利なのである。実際には、日本の侵略戦争の最中にも、少数だったとはいえ、徴兵を拒否した日本人がいた。その他にも、侵略戦争に抵抗した日本人たちがいた。この人々こそが、真の意味で「市民としての義務」に忠実たらんとした人々だと私は思うが、橋爪説によると、この人々は市民としての義務を怠った存在ということになる。
橋爪説のいう「兵士の苦悩」について一言すれば、なるほど、人間生活のなかでは公共の利益のために自己犠牲が求められる局面もある。場合によっては、そうした自己犠牲が誇らしいものであることもあるだろう。だが、その自己犠牲は、何に捧げられたものかということと無関係に誇らしいのではない。暴力団の組長に捧げられた下級組員の自己犠牲は、当人のナルシシズムにはかなっているかもしれないが、少しも誇らしいものではない。誤った目的に捧げられた自己犠牲は愚かしく痛ましいだけだ。抽象的大義のための自己犠牲は、それ自体誇らしいと橋爪氏は言いたいらしいが、国家がすなわち大義なのではない。ましてや、橋爪氏が誇るという日本軍兵士の自己犠牲は侵略という目的に捧げられたものなのだ。

「抗日戦争に起ち上った中国の人びと」云々のくだりは、一見すると橋爪説と超保守派との一線を画するものにみえかねないが、よく見ると、侵略した側もされた側も「大義」への自己犠牲において同列だと橋爪氏は言っているのである。お互い様ではないか、というわけだ。だが、はっきりさせておかなければならないのは、日本の「侵略」と、それに対する「抗日」や「独立」とは同列ではないということだ。それを同列だというのは、結局は日本が引き起こしたあの特定の戦争の性格を戦争一般に解消し、その「侵略戦争」としての本質を覆い隠すものでしかない。ただし、「抗日」「独立」のために献身した中国人や朝鮮人と同列の日本人がいなかったわけではない。それは、先に述べたとおり、侵略戦争に抵抗するという「大義」のために自己を犠牲に供した人々である。
「戦争に参加した父祖」といっても、その中身はさまざまだが、その行為をひとしなみに「肯定」せよと橋爪氏は力説する。だが、A級戦犯の責任も、最末端の二等兵のそれと同じように粉れ込ませ、その罪を減免させる効果が隠されている。天皇主義イデオロギーの信奉者として自ら進んで戦争に参加した者はいうまでもなく、無知あるいは無力のゆえにいやいやながら戦場に動員された下級兵士にも「責任」があることを否定することはできないが、だからといって、私はここで、彼らにもA級戦犯と同等の「罪」を問うべきだと言っているのではない。実際には、彼ら下級兵士の大多数は、徴兵制度という強制力によって国家の共犯者にされたのだ。そうした事情が認められるからこそ、彼らには「責任」はあるが、特別な場合を除いて「罪」は問われないのである。やむをえなかったということと、それを「肯定」するということは根本的に違う。橋爪氏はこの歴然たる違いが見えないか、あるいは、あえてすり替えようとしているのだ。かりに戦前の日本に市民社会が成立しており、日本軍下級兵士の侵略戦争への参戦は市民としての自由意志による選択だった(だから肯定せよ)というのならば、理の当然として、当の兵士の戦争責任はより重く問われなければならないことになるが、それでいいのだろうか。
私はまだ橋爪氏に好意的すぎるかもしれない。「戦争に参加した父祖たちの行為」という言葉は、私は、兵士として応召することに限定して論を進めてきた。しかし、橋爪氏は「父祖たちの行為」という言葉を、慰安所に通う行為や非戦闘員を殺傷する行為まで含めて故意にあいまいに用いているとも読める。だとすれば、何をかいわんやである。
私の常識では、国家が戦争に突き進もうとするとき、それへの抵抗や不服従が広汎に起こる社会こそが健全なる市民社会である。だが、国民が唯々諾々と侵略戦争に参加することを「市民の義務」と呼び、「戦後を健全な市民社会に立て直す」という橋爪氏は、つまり戦後を戦前のような社会に「立て直す」というのであろうか。要するに、橋爪説は「市民社会論」を装って、国家への自発的隷従を発励しているにすぎないのである。
さて、上野氏はこう述べている。「「市民社会論者」、橋爪大三郎の「啓蒙」はわかりやすすぎるほど明快である。(略)法理的には、日本国は大日本帝国の犯した犯罪の責任をとるのが正しい。主権者としての国民は「国民として」責任をとるのが正しい、という結論が引き出される(8)。」
だが、つぶさに見てみると、橋爪氏の責任論は明快ではない。というより、むしろその「責任」の内容はきわめてあいまいである。彼は鼎談のなかで、「慰安所」に対する賠償責任があるかどうかという問いに、「そこまでは私はわからない」と答えている(9)。はたして橋爪氏は「国民として」誰に対して、いかなる「責任」をとるというのか。彼は、もと「慰安婦」をはじめアジアの戦争被害者に対して日本国民が果すべき「責任」の内容を、明確な言葉で述べていはいない。
同じ鼎談で彼は、「国家という共同体は、継承され、継承されることによって私たちの生活の安全も守られているわけですから、その国家の現在と過去に対しては自分にも義務と責任があるはずです。そういうかたちで自分の責任を確認していく以外に、国家の過去に対して、むきあう方法はないだろう。そのことにむきあってさえいれば、べつに謝罪なんかしなくたって、中国や韓国など、過去に戦争をした国の人たちとも堂々とつきあえるのではないか」と述べている。
橋爪氏がここでいう「義務と責任」とは、はたして誰に向けられたものなのだろうか。

いうまでもなく、現在ここで私たちの議論の主題となっている「国民としての責任」とは、日本国が「他者」(もと「慰安婦」をはじめとする戦争被害者)に対して果たすべき「責任」のことであり、その成員がいやおうなく負っている「集団の責任」のことである。橋爪氏がいうような、国民が国家から課される「義務」(たとえば戦前における兵役義務)のことではない。ところが橋爪氏はいわゆる「国民の義務」と「国民としての責任」とをほとんど同義のように用いている。言いかえれば、国民として国家との共犯関係を引き受けろと言っているのに等しい。したがって、中国や韓国の人々とも、過去にひどいことしたが、それは「国民の義務」を果したまでという理屈によって、「謝罪なんかしなくたって・・・堂々とつきあえる」というわけである。
上野千鶴子氏が、「ここには、国民国家がその国民に対して、死を要求できるほどの排他的な超越性をもつこと・・・そのような集団的同一化への強制・・・への疑いもまた、きれいさっぱり拭い去られている(11)」と正しく批判しているとおり、橋爪氏の「国民の責任」論はその実、国家主義そのものといっても過言ではない。
ところが、その上野氏は続けて次のようにも言うのである。
「高橋哲哉氏は、「日本人」として「責任をとる」と言う。彼に言う「日本人」が、国民国家という政治的共同体に属する一員としての責任、という意味なら、橋爪氏の「市民社会論」と高橋氏の立場はそう距離がないことになる(12)。」
はたしてそうだろうか?高橋氏はシンポジウムにおいて「責任は他者からくる」「他者からのアピールに応じるのが責任の起源」であると強調し、もと「慰安婦」の呼びかけに応答することに現在の「日本という政治共同体を変えていくときの一つの原理的批判の源泉、よりどころがあるのではないか」と述べている。詳しくは彼自身の発言を参照してもらいたいが、少なくとも高橋氏の「日本人としての責任」論は明確に、「他者」に対してのものであり、「他者」に応答しようとするものである。また日本という政治共同体を変えていくという指向性を明示している。こうした点で橋爪説との「距離」は一目瞭然だと私は思う。
この問題は実は、上野氏の「シンポジウム」定義にかかわっている。
上野氏は「新しい歴史教科書をつくる会」の「国民的プライド」回復の欲望は「国民のあいだに集団的アイデンティティをうちたてたいという欲望と同一のものだ」と指摘したうえで、こう続ける。「そこでは国民国家と自分の同一化、「国民の1人としてのわたし」および「わたしたち」への誘惑と強制とがある。このなかには、「加害国民の1人としてのわたし」も含まれる。が、それもまた国民国家と自分との同一化にもとづいている。そして国民国家と個人とのこの同一化を、わたしたちはナショナリズムと呼ぶ(13)。」
このような定義を適用して、上野氏は、橋爪説も高橋説もともにナショナリズムであるとみなすのであろう。だが、それは乱暴というものではないか。
橋爪説は先に詳しく述べたように、その本質は明らかに「国民国家と個人との同一化」といえるだろう。だが、高橋説はそうではあるまい。言葉のうえではどちらも「政治共同体の成員としての責任」と言っているが、その意味内容ははっきりと違っているのである。上野氏はその「違い」を捨象している。だが、高橋・橋爪両氏の間に走る分割線のほうが、上野氏が引いてみせた、上野氏と高橋・橋爪両氏との間の分割線よりもはるかに本質的なものだと私は思う。
「加害国民の1人としてのわたし」もまた「国民国家と自分の同一化」の欲望であると上野氏はいう。だが、そう大雑把に括る前にもう少し落ち着いて考えてもらいたい。
この文章の前半で述べたように、私は自分の「韓国人としての責任」を認めるものだが、その理由は、私が「国民の1人としてのわたし」という幻想にとらわれて、自分と韓国という国家とを「同一化」しているからではない。そうではなく、国家のほうが私を「国民の1人として」拘束しているからなのだ。国民国家と自分との分離を欲望するのであれば(私もそれを欲望する者のひとりだが)、国家が自分を拘束しているという現実から目を背けさせるのではなく、その現実そのものを変革していく以外にないのである。付け加えて率直に言わせてもらえば、日本社会においては「加害国民の1人としてのわたし」という観念の過剰が問題なのではなく、その過少が、そして、その内実の空虚さこそが問題だと私は考えている。
上野氏は「国民」というのは「わたし」を作り上げているさまざまな関係性のひとつにすぎないとして、「単一のカテゴリーの特権化や本質化」を拒絶すると述べている(14)。上野氏と同じように、「日本人」というのは自分を構成する多面的なアイデンティティの一側面にすぎない、と多くの日本人がことさらに言う。そんなことは当然ではないか。私にとっても、「韓国人」というのは「私」の一側面にすぎない。だが、ある集団の他の集団に対する加害責任が問題となっているこの場で、「あなた」という存在の、逃れようのない一側面こそが名指しを受けているのである。その名指しに応答することは、決して「単一のカテゴリーの特権化や本質化」ではない。ベトナム人から私が「おい、韓国人」と名指されたとき、「いいえ、ぼくは男です」と「私」の別の側面で応じたとすれば、それははぐらかしであり、対話の拒絶に等しいではないか。
日本国民の皆さん、自分はたまたま日本に生れただけであって「日本人」であるつもりはないとか、自分は「在日日本人」に過ぎないとか、どうかそんな軽口は叩かないでいただきたい。あなた方が長年の植民地支配によってもたらされた既得権と日常生活における「国民」としての特権を放棄し、今すぐパスポートを引き裂いて自発的に難民となる気概を示したときにだけ、その言葉は真剣に受け取られるだろう。そうでないかぎり、「他者」はあなた方を「日本人」と名指し続けるのである。

「そもそも国家なしの個人なんて世界で生きていけるのですか。どこの国にも所属していない個人が世界で認められますか。個人の背中には、いやおうなしに国家が貼りついているのであって、その背中に自信をもって背すじを伸ばしていい。おまえの背中はクソまみれだと言われるより、おまえの背中だってなかなか立派じゃないかと言われたほうがいい(15)。」
小林よしのり氏の言葉である。「クソまみれ」とは、いかにも彼らしい品のない形容だが、ともあれ彼も、「国家なしの個人が世界で生きていけるのか」と、この部分だけみると、私と似たようなことを言っている。そこで、ここまで辛抱強く読んでくれた読者に尋ねたいが、私の言っていることは彼と「同じ」だろうか?
私は、彼とはちがって、自分を騙してまで「クソまみれ」の背中を立派だと思い込もうとしているのではない。自国の権力によって理不尽にも背中になすりつけられた「クソ」を、なんとかして拭いとるために努力しようとするのである。私の「韓国人としての責任」は、朴正熙や全斗煥と「同一化」して、彼らを「かばい」、彼らの罪に連座することではない。彼らやその残党と闘い、韓国政府にベトナムに対する公式謝罪と個人補償を実現させ、そうしたことを再び繰り返さないような社会に韓国を変えるべく努めることである。それが背中の「クソ」を拭いとる唯一の途だからだ。

こうした考え方も、「国民国家という政治的共同体に属する一員としての「責任」を承認しているという理由で、上野千鶴子氏は「ナショナリズム」だと規定するのだろうか。こうした「ナショナリズム」規定からは、被害者への公式謝罪と国家補償を日本国政府に要求すること自体が、国家の存在を前提としているがゆえにナショナリズムであり、すなわち悪だ、という倒錯した主張まで跳び出しかねない。
ナショナリズムは悪だ、なぜならそれはナショナリズムだからーそんな粗雑な循環論法が流通している空間では、いったんナショナリストというレッテルを貼られそうになった者は、なにはともあれ自分からその致命的なレッテルを剥がそうと懸命になるほかないようだ。だが、私の考えは違う。私自身は自分の考え方を「ナショナリズム」だとは考えないが、その当否は、第三者が判断するだろう。いずれにしても私は、自分はナショナリストではないとあわてて弁明するつもりはない。私の考えでは、誰かの定めた「ナショナリズムの定義」に自説が当てはまるかどうかが重要なのではない。重要なのは、高橋氏と橋爪氏との間、私と小林氏との間に走っている分割線のこちら側には被害者との連帯(「同一化」ではない)への指向があり、あちら側には独善、不正義、戦争へと転落する坂道が続いているのである。
ところで、上野氏もシンポジウムの際、「私は日本国民の1人であるから日本国民として日本政府になすべきことはたくさんある。それは十分承知している」と述べていた。私はこの態度表明を心から歓迎するものだが、それでは、上野氏の概念規定によれば、氏自身も名所ナリリストだということになるのだろうか?
もはや紙数が尽きたが、最後に、加藤典洋氏の「敗戦後論」について簡単に触れておきたい。私が堂々、戦後日本人の主体意識は空洞化しており「他者」の声はその空洞を虚しく素通りしていると言っているので、読者のなかには、私の議論と加藤説とが「同じ」だと考える人もいるかもしれない。たしかに加藤氏はこんなことを言う。
「日本人はおかしいじゃないか。おまえたちがおかしいじゃないかと言われたとそのとき、その「おまえたち」に合致する「われわれ」というものもはやいないし、その「おまえたち」を引き受ける人は誰もいない。「敗戦後論」というのは、だったらおれが全部ひきうけてやるよ、と書いたものなんですよ(16)。」
この声を聞いたとき私は、ほんの一瞬だけだが、あやうく頷きそうになった。事実、私たち朝鮮人のなかから、日本にもようやく強靭な謝罪の論理が登場したと、誤って加藤説を肯定的に評価する声があらわれている。しかし、私はこう言いたいーちょっと待て、その先は断崖だ。
「第二次大戦は日本人にとって(略)たんに負けいくさに終わった戦争というだけでなく、同義的にも「正義」のない悪い戦争だったという点、やはり、これまでにない新しい意味をもっている。(略)第二次大戦は、残されたものにとってそこで自国の死者が無意味な死者となるほかない、はじめての戦争を意味したのである(17)。」
そうなのか?それでは台湾を奪取した日清戦争、朝鮮「併合」に帰結した日露戦争、「満州事変」その他、第二次大戦にいたるまでの日本の一連の侵略戦争は「正義」のある戦争だったのか?そこでの「自国の死者」は意味ある死を死んだのか?それは、どんな意味なのか?

その点だけからでも、加藤説ははじめから台湾、朝鮮、「満州」など被植民地民衆を黙殺するものであり、日本の「戦争責任」の範囲から植民地獲得戦争や被植民地支配の責任を除外しようとする、私たち朝鮮人にはなじみのステレオタイプであることがわかる。加藤氏は「悪から善をつくるべきだ」というが、日清、日露以来の戦争と植民地支配が「悪」だったことをはっきりさせないかぎり「悪から善をつくる」ことなどできはしない。
また、なぜ加藤氏は、「悪から善をつくる」その範型として、たとえば長谷川テルのような侵略戦争に抵抗した日本人ではなく、無意味な自殺行為と知りつつ死んでいった戦艦大和の士官を想起するのか。それは痛ましくはあっても誤った自己犠牲でしかなかったではないか。長谷川テルのような存在は、加藤氏にとって「日本人」の外部、非「国民」なのか。ここに加藤氏の、特攻隊の「散華」の美学に通じる民族的自己愛が端的に露呈している。
「侵略された国々の人民にとって悪辣な侵略者にはほかならないこの自国の死者を、この(外向きのー引用者)正史は"見殺し“にするので、この打ちすてられた侵略者である死者を”引きとり“その死者とともに侵略者の烙印を国際社会のなかで受けとることが、じつは、一個の人格として、国際社会で侵略戦争の担い手たる責任を引きうけることだ・・・(18)」
この引用部分の"引きとり“は、初出では”かばい“となっていた。加藤氏は言葉を誠実に用いるげきだ。このくだりで加藤氏が言っている「侵略戦争の担い手たる責任を引き受ける」とは、天皇をはじめ罪ある者の罪を明らかにして、裁くべきは裁き、罰するべきは罰し、戦争被害者への公式謝罪と補償を「国民の責任」として推し進めるという意味だろうか。そうではあるまい。
「烙印」とは、意に反して外部から強いられたるもののたとえであろう。加藤氏自身が明確に日本の引き起こした一連の戦争を侵略戦争だと認識していれば、出てくるはずのない表現である。つまり、ここで言われていることは、「烙印」された民族という国民的被害者意識と共犯意識を形成し、それにくるみこんで、「他者」の名指しから罪ある者を(そして自分自身を)「かばう」ということなのだ。
加藤氏個人の「人格分裂」の原因なのである。それを日本社会に投影してみせた「敗戦後論」がもてはやされている現象は、加藤氏と同じような「人格分裂」を抱えた日本人たちがいかに多いかを示している。加藤氏のいう「責任」は、本質的には橋爪氏と同じように、「他者」の呼びかけに耳を塞ぎ、ひたすらに自己を慰めるためのレトリックでしかない。
加藤氏は「戦争で死んだ自国の死者を、しっかりと無意味な死と受けとめ、しかも、その無意味に頭を垂れ、無意味なままにこれを厚く弔う同者の術を、いまからでも遅くない。編みださなければならないのである」という(19)。
「無意味な死」とはどういうことか?勝ちいくさなら「意味」があったのか?加藤氏のいう「よごれ」は「敗戦の屈辱」とほとんど同義である。しかし、敗戦が「よごれ」なのか?そうではなく、侵略こそが「よごれ」であろう。もし、日本が戦争に勝っていたら、その「よごれ」は現在もっと救いようのないものだったのである。敗戦を「よごれ」ととらえるのは、戦勝国アメリカしか眼中になく、日本の戦争における真の「他者」(アジアの諸民族)を黙殺しているからにほかならない。

この「自国の死者」たちが戦争という国家の行為によって死んだのである以上、その死の意味は当の意味と無縁ではありえない。遺族や友人が自己に近しい死者をそれぞれの固有の意味の意味づけにおいて弔うことは当然のことだが、弔いが集団的に行なわれるのである以上、その戦争が侵略戦争だったという明確な「意味」から切り離して、「無意味なままに」弔うことはできないのである。それをすることは、侵略戦争から「侵略」という「意味」を抜き取るという仕方で、別の意味づけをすることになるからだ。「無意味なままに」などと言う前に、いま靖国神社で行なわれている「英霊」という虚偽の「意味」づけから死者たちを取り戻すことが先決なのである。
しかも、「自国の死者」というひと括りの観念によって、自国民を死に追いやったA級戦犯の死から自国権力によって死を強いられた最末端の一兵卒の死まで、いや一般非戦闘員の死にいたるまでの、侵略戦争のなかで占めるさまざまな死の「意味」の違いを消去してはならない。すなわち、加藤氏のいう「無意味なままに弔う固有の術」なるものは、結局のところ、侵略戦争の死者という「意味」を覆い隠し、死者たち内部の支配/被支配関係を隠蔽する「術」でしかないのだ。
日本政府が「速やかに戦後責任をまっとうしようとしない(20)」理由は、加藤氏のいう日本社会の「人格分裂」のせいなどではない。「他者」に対する「日本人としての責任」を自覚して担おうとする人々と、「他者」を黙殺して自己愛に終始しようとする人々との対立のせいであり、日本では前者が極端に少数かつ脆弱であり、後者が依然として社会の中枢を占め続けているという単純な現実のせいである。はたして加藤氏自身はどちらに属するのか?それとも、自身の「人格分裂」ゆえに答えられないというだろうか。加藤氏がほんとうに「他者」の「おかしいじゃないか」という声にを引き受けるというなら、彼のすべきことは「固有の術」を編み出すことなどではなく、前者に助勢して他者と闘うことでしかない。それが、「国民としての責任」をまっとうする途なのである。
日本国民がそれぞれに自己を責任主体として自覚することは是非とも必要だが、この機に乗じて本質主義的な「国民主体」なるものを立ち上げようとする加藤典洋の説は、「空虚な主体」に投げかけられた「危険な主体」への誘いなのである。その先は断崖だ。

*Daisaburo Hashizume橋爪大三郎 (Hashizume Daisaburo(神奈川県出身) , October XXI, 1948) a Iaponica sociologi Francici . Professor emeritus Tokyo Institutum Technologiae . Center Director of World History Deputy pristini, Tokyo in Instituto Technologiae.

















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