日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)⑨


신 · 고마 니즘 선언 6 지음 / 고바야시 요시노리 "일본의 성립 '에서'맹도견 개 권」 「사죄 외교 '까지를 논하고 대 증가한 240 Nouvelle déclaration de gomanisme 6 Écrit par Yoshinori Kobayashi Une forte augmentation des discussions, de "l'établissement du Japon" aux "droits des chiens aveugles" et à la "diplomatie d'excuses" 240
*.Feb 17, 2012 —『 国家と戦争』 小林よしのり 福田和也 佐伯啓思 西部邁

Françaisフランス語→An Jung-geun (안 중근, 安 重根), né le 2 septembre 1879 et mort le 26 mars 1910 à Lüshunkou, est un militant indépendantiste coréen et un calligraphe1, figure importante du nationalisme coréen2.

*오자와 이치로(일본어: 小沢 一郎(東京都出身, 1942년 5월 24일 ~ )는 일본의 정치인으로, 입헌민주당 소속 17선 중의원 의원이다.
中心部日本国民と周縁部日本国民
ー「世界」の対談のなかに、中心部日本国民(日本における支配的なエスニシティ)と周縁部日本国民(帰化した在日朝鮮人とかアイヌ人の人びととか沖縄の人びとなど)という議論が出てきますね。つまり、日本では中心部日本国民が圧倒的で、圧倒的多数であるがゆえに逆にみずからがエスニシティであるという自覚すらない。けれでも、自覚的であれ無自覚的であれ、日本文化とか日本人の国民性とかいうかたちで、支配的な日本国民が何であるかという観念や物語を枠づけている。その中心部日本国民という提起と重ねてもう少しお話いただくと、この間の錯綜した論争のなかでの徐さんの微妙なスタンスがもっとはっきりしてくるかと思うんです。
徐 在日朝鮮人の日本国籍への帰化が始まったのは、1953年からです。それまでは法的には日本国籍を保持していたわけですから、帰化ということもありえなかった。そもそも「帰化」という言葉は、語源的には「君主の徳化に服属する」という意味ですから、これ自体が不適当な用語です。そして、実際の帰化にはさまざまなハードルが用意されていますが、ここでその詳細を述べるいとまはありません。ただ重要なことは一定の要件を満たしさえすれば必ず日本国籍が取得できるというのではなくて、要件を満たしている場合でも、その人の帰化を許可するかどうかの裁量権はあくまで日本国政府(法務大臣)が握っているということです。
53年から90年までに、20万人あまりの在日朝鮮人が帰化したと言われていますが、おそらく相当数が帰化を不許可にされているでしょう。しかし、なぜ不許可にしたかという理由は、法務省は公表しなくていいんです。
つまり、「日本人」の外部から誰を内部に入れ、誰を締め出すかという権限は日本国政府が絶対的に握っている。日本国政府は選んでいるわけですから、先ほど述べた国籍における血統主義原則を守り続けていることもあわせて、誰が国民であるかを決める権限は、結局エスニシティとしての日本人が無自覚なままに握り続けているということですね。
たとえばフランスでは、アルジェリアがフランスとの独立戦争を経て独立しましたね。その時点で、引き続きフランスに居住していたアルジェリア出身者はまったく無前提にフランス国籍の取得を可能にして、二重国籍を認めました。もし日本が敗戦後、そういう制度を導入していれば、私はエスニシティとしては朝鮮人でありつつ日本国籍をもった日本社会の住民であってまったく不思議はなかったわけです。日本に現在ある制度が国際社会で唯一で天然自然の制度ではない。むしろ人為的につくられた特殊で排他的な制度だということを多くの人が自覚することができれば、私の言っていることもわかってもらえるでしょう。「日本は日本人の国である」、「日本人の子が日本人だ」、といった通念を克服し、「日本というのはさまざまな人が住んでいる場所だ」と考えることができなければならないと思っています。

もう一つ、「中心部日本国民」という私の言い方にたいしては、権威主義的な考え方をとる人たちからの反発があります。権威主義というのはつまり、民族、文化、国民などというものはすべて後から頭の中で構成した観念であって、初めから本質的にあるものではないという考え方です。こうした考え方が、イギリスの歴史家のエリック・ホブズボームとかアメリカの政治学者のベネディクト・アンダーソンなどの仕事によって、この10年間、日本社会の一般に受容されました。国家や民族や文化を本質的なものだとする主張は世界中にひろく見られますが、たとえば「日本文化は古代以来悠久なものだ」とか「日本人は優秀な民族だ」とかいう本質的な民族観や文化観は、たやすく排他的な自民族中心主義に結びつきます。それは、過去においては「大和魂」とか「八紘一宇」などといった皇国思想に、現在では「日本人としての誇りの回復」を叫んでいる「新しい歴史教科書をつくる会」等の動きに現われています。権威主義的な発想は、そうした考え方を批判し、「国家」や「国民」という観念そのものが近代の産物にすぎないことを論証する、きわめて有効な議論だったわけです。
しかしそうした権威主義的な発想が方向を誤ると、私のような問題の立て方にたいしてまで、「それは本質主義的だ。あるいは本質主義の罠にはまる議論だ」というふうに線を引こうとするわけです。その人たちが用いる議論の典型的なパターンは、「日本国民はアジアの被害者にたいする責任を負うべきだけれども、その日本国民のなかには元在日朝鮮人とかアイヌとか沖縄の人もいる。そういう周縁部の人がいるのに、それをひとかたまりの日本人と名指すのは本質主義的だ」というものです。
「日本人」といわれる集団の周縁部にそうした少数者がいることはまぎれもない事実であり、その存在を無視して一体のものとしての「日本人」を前提にしてはならないことはいうまでもありませんが、しかし、だからといって、そのことで中心部が無化されるわけではないのです。中心部日本人の、先ほど述べたような当事者としての責任が免罪されるということではない。このように、権威主義的な議論をしばしば、日本国民の1人ひとりが問われている責任そのものを解除する論理に反転して用いられてしまっていると私は見ているわけです。

*에릭 홉스봄(Eric Hobsbawm, CH, 1917년 6월 9일 ~ 2012년 10월 1일)은 영국의 마르크스주의 역사가다. 영국 공산당 당원이자, 공산당 역사가 그룹의 회원이다. 런던 대학교 버크벡 칼리지의 학장(President)을 지내기도 했다.
ナショナル・ヒストリーを越えるとは
―加藤氏の議論が、マジョリティとしての中心部日本国民、その共同性というものを過去の情念を引きずるかたちで出してきているのにたいして、徐さんはマジョリティが無自覚のうちにつくり出してきた文化的な体質そのものを問い直していく課題をも提起されているように思います。そのへんの問題は、ナショナル・ヒストリー(自国史)というものをどう考えたらいいかという問題とからんでくる。国民と国家の来歴の物語が正史として一体化されたかたちで表象されることにたいしては、「個々人の物語」とか「複数の物語」を積極的に対峙していくことの大事さを指摘しておられます。といっても、他者から見て日本人としてくくられるのは確実にあるわけで、自国の過去をどう担っていくのかというところで言えば、こと単純に「ナショナル・ヒストリーを超える」というふうにもいかないわけですね。
徐 まさにそうですね。たとえばこんなことがあります。日本の総理大臣が靖国神社に公式参拝したことについて中国政府が抗議する、そうすると「天皇制も神道も日本固有の文化なんだ。文化にまで口出しされてはかなわない」という反論がある。日本人マジョリティが箸を使って食事する、寿司やそばを好む、室内では履き物を脱ぐ、などといった意味での「文化」であれば、他者がそれを批判する理由はありません。しかし、侵略や植民地支配、南京事件や「慰安婦」制度と結びついている天皇制までも「文化」の名において擁護することが正しいでしょうか。
ドイツではマジョリティの宗教はルター派のキリスト教ですが、そこでは中世以来、「イエス・キリストを十字架にかけた罪はユダヤ人にある」という教義が日常的に語られてきたわけです。たとえば『ヨハネ福音書』には、ユダヤ人が「キリストを十字架につけよ」と熱狂して叫ぶ場面があります。それを歌詞にしたバッハの『ヨハネ受難曲』を年中行事として聴き、感激していたわけですね。キリスト教信仰は「文化」だから自由だといえば、それはそのとおりだと思いますが、しかしその延長線上に<ホロコースト>があったということを忘れるわけにはいかない。

①『ヨハネによる福音書』(ヨハネによるふくいんしょ요한의 복음서、古希: Κατά Ιωάννην Ευαγγέλιον Kata Iōannēn Euangelion、羅: Evangelium Secundum Iohannem)は新約聖書中の一書②ヨハネ受難曲(ヨハネじゅなんきょく《요한 수난곡》Johannes-PassionSt John Passionは、新約聖書「ヨハネによる福音書」の18-19章のイエスの受難を題材にした受難曲・・・ヨハン・ゼバスティアン・バッハJohann Sebastian Bach
つまり、あれほどの侵略や他者にたいする蹂躙を実際に行なってしまった後では、自分たちが日常生活で「文化」ととらえている習慣や生活様式の延長上のどこかに、それを可能にしたものが潜んでいると考えるべきではないのでしょうか。そのように、自分が充填された「文化」にたいしてまっとうな疑いの目をもつこと、それが、破局的な世界戦争を経験した20世紀のあらゆる人間に求めらていると思うわけです。
文化的マジョリティが自己の文化にたいして批判の目をもつということは、そういうことです。自分が自明のものとしている思考方式とか日常生活の習慣にたいする疑い、対象化、自分たちの国や民族の歴史や物語にたいする客観化・対象化が求められるのです。それを拒む単一の公定の物語、つまり「正史」がナショナル・ヒストリーですね。
つまり「日本人」という、疑う余地のない共通の文化や意識をもつ集団がまずあって、それが国家や民族を形成しているのではない。国家という権力関係を内包した場の中にいろいろな人がいて、そこで複数の物語が闘わされている。あるとき権力についた人間の物語が全体の物語であるかのように他者にたいして表象され、自国内の人びとにもその物語の共有を強制する。こういう構造ですね。
日本と朝鮮の関係でいうと、日本国家の正史にたいして被害者である朝鮮民族の正史を対峙させる、これも必要でしょう。しかし同時に、ナショナル・ヒストリーに対抗して個々人の物語を語ることが必要です。日本人のなかにもいろいろな人がいた、支配者でありながら侵略的な行為をすることが嫌だった人、それを拒否した人、あるいは抵抗して命まで失った人も少数ではあったが存在した。そのように歴史に複数化し、あるいは多角化して見るということ、そこにあるさまざまな亀裂や隙間には注目するような視角が必要だということです。

加藤典洋氏は日本というネーションを一つの甕にたとえて、「この甕は戦後割れた。自国の死者の弔いを通じてこれを貼り合わせなければ謝罪もできない」と言いますが、そうではなく、戦前まで存在した強固な甕に、敗戦によってようやく亀裂がはいったんですね。しかし、この間の日の丸・君が代問題の経緯からも明らかなように、日本ネーションの甕はけっして割れてはいない。だからいま求められていることは、そのひび割れた甕をもっと徹底的に割って、割れた破片のなかから、戦前とは異なる別の日本の構想、それも複数の構想が立ち上がってくることだと考えます。そうした複数の構想が互いに闘わされ、日本という場所の住民の多くの支持を得たものが次の時代の物語を語る。そういう運動として歴史をとらえることが「ナショナル・ヒストリーを超える」ということだと思います。そういう段階を踏まなければネーションを超えることはできない。超えるというのは、超越的にジャンプするということではありませんから。
なぜなら、いま私たちは自分が普遍的人間であるかのような意識をもってこの時代を生きていますけれど、国家の保護の外に身をおくということですから、楽なことじゃない。難民として生きないかぎり、私たちは必ずどこかの国の国民として生きている。私たちがそういう時代的制約性の中にいるということを自覚すれば、観念の上でネーションを超えたところで、それだけでは現実のネーションは超えられないことがわかるでしょう。現存するネーションを超える現実的な運動からしか超えられないのです。
私の目には、多くの日本人の思考のなかに単一の日本しか存在しないように見えます。だから日本批判は「外」にしかないことになってしまう。日本批判をする日本人は反日とか非国民ということになる。このことの原因は一つには、日本人マジョリティが近代日本の成功物語と絶縁できていないからだと思います。
昭和の天皇の死去の時も「一身一生」、つまり1人の昭和天皇が戦争と戦後の繁栄という二つの時代を一つの身体で生きたという物語が、知識人やマスコミによって流布されました。アジア侵略によって列強に加わっていた近代日本と、戦後経済大国となった日本とが断絶せずに百年間の一つの成功物語としてパッケージされたわけです。その接着剤が天皇制なんですね。そこには、「日本は経済大国だ。G8のメンバーであり、国連常任安保理事国になるかもしれないくらいの一等国だ。それは近代百年がよかったからだ」という自己肯定がある。
「この人が」と思うような人までが、「日本にそれ以外のどんな具体的な可能性があったのか」などと言うのを聞いて、私はよく驚かされます。「西洋の侵略を目の前にして日本自身が不平等条約に苦しんでいたとき、日本は福沢諭吉の提唱した脱亜入欧の道を選んで中国・朝鮮と絶縁し、むしろアジアの敵になっていった。それはやむを得ない選択だった。他になにができたというのか」。この種の言説は、誰かを殴りながら、殴られている側に「おまえを殴らなくてもいい選択は何かあるのか。あれば教えてくれ」と言っているのに等しい。「代案があるのか?」という台詞が、自己弁護として、そして他者への暴力として機能するのは、まさにこういう場合です。
仮に、他にどんな選択があったのかを明示できなかったとしても、だからといって侵略戦争や植民地支配が正当化されるわけではありません。そういうもっとも原則的な、道徳的な立脚点をはっきもたなければいけない。

さらに言うなら、「その代案を見つけだす責任を負っている当事者は被害者ではなく、あなた方だ」ということです。他者を殴らなくてもすむ日本になれる構想を具体的に出すことによって初めて、アジアの被害者にたいする応答になりうるわけです。
日本の教師たちへ
―日本が今世紀中にやっておかなければいけない問題をやりのこしたまま、過去の記憶をまったく消却したかたちで日本は21世紀に突入してしまうのではないかという思いを深くしました。では最後に、日本の教師へのメッセージということで率直な思いを語っていただければと思います。
徐 私の両親は戦中、京都府で暮らしていました。そのときはまだ、朝鮮人(植民地人)には徴兵制が執行されていなかったんです。これはもちろん朝鮮人への優しさからなどではなく、日本の立場からすれば自分たちが支配している民族に軍事訓練をして銃をもたせる自信が土壇場までもてなかったからです。朝鮮人への徴兵制は1944年まで実施されなかった。けれども徴用はされて、多くの朝鮮人が海外に連行され命を落としました。
私の両親は京都府下の周山村というところで小作農をやり、私の母が田を守って、乳は繊維製品の行商をするという生活をしていたんです。そこへ徴用令がきたのですが、父はこれを拒絶して逃げました。働き手が自分しかいませんから、徴用に行ってしまうと家族が飢え死にするからです。もちろん留守宅の母のところに警察や憲兵隊がきて、いろいろと尋問したのですが、母は、父は行方不明でどこへいるかわからないとまくしたてて、床にころがっている手足をばたばたさせたり泣き叫んだりして、とにかくその場をのがれるということをやったのです。幸い、45年8月に戦争が終わって父は生き延び、私が生れたんですね。

「あの時代はだれも抵抗できなかった」とよく言われるけれど、私の両親はそうやって抵抗した。なぜ私の両親はそれができたのか。私の考えでは、両親が教育を受けていなかったからです。私の母は教育歴ゼロです。字も書けません。父は、本人が言うには高等小学校中退ですから、まあ小学校程度の教育です。当時の朝鮮人として珍しいことではありません。当時行なわれていたのは皇民化教育ですから、学校や教育を通じて天皇崇拝や軍国主義思想を注入される度合いがそれだけ少なかったということです。同じ朝鮮人でも高い教育を受けた人たちは、屈折しながらも志願兵になったり、南方で捕虜監視員になったためにBC級戦犯として処刑された人たちもいます。
*조선적 일본군인(朝鮮籍日本軍人), 조선인 일본병(일본어: 朝鮮人日本兵), 또는 조선계 일본군인(朝鮮係日本軍人)은 일본 제국 육해군에 소속되어 군무원으로 복무한 조선인 군인, 포로 감시원 등 군인에 가까운 임무를 수행한 군속 등이며, 그 중에서도 적극적인 협력자를 가리켜서는 조선인 BC급 전범(朝鮮人BC級戰犯)이라고도 부른다. 이들 중 상당수는 제2차 세계 대전이 끝난 후 미군과 연합군에 의해 BC급 전범으로 재판을 받고, 사형이나 무기징역 등의 처벌을 받았다.
教育というものの機能がこれほどはっきり発揮された場面はないと思うので、私は学生たちにそのことを教訓として語るのです。私の両親が特別立派だったとか、見識があったとか反日思想をもっていたとか、そういう話ではなく、反対に、教育がなく、生活に追われ、家族への愛をもっていたから、抵抗することができたのです。
「それは戦前の話だ」と片づけるわけにはいかないということが、この間、ますます明らかになってきましたね。日の丸・君が代問題をはじめとして、これほど国家が教育に干渉している国というのも世界に例を見出しがたいほどですが、これほどの干渉を許し、ずるずると後退をしてきた人たちの現実主義も、もう一度問われなければならないと思います。

私自身が初等教育を受けたのは60年代前半ですが、社会科教科書には「わが国」と書いてありました。日本は私にとって「わが国」ではないので、私は朗読させられる度にその言葉のところでつっかえてしまいました。ところが、先生も含めて誰もそのことをおかしいとは思っていなかった。日本語を「国語」と言って怪しまないというのも、考えてみれば問題でしょう。そのような私たちにはよく見えているネーションの隙間が見えていないという点では、戦後教育にたずさわってきた人たちも戦前と大同小異じゃないかと私は疑っているのです。その意味で、多数者はみずからを救うためにも、在日朝鮮人など少数者のかすかな声に敏感に耳を傾けるべきだと思います。(1999年7月29日・初出:月刊『教育』1999年11月号、国土社)
難民としての在日朝鮮人 ∎インタビュー 聞き手/野口哲生
戦争責任の概念について
―徐さんは1997年9月に開催されたセンター主催のシンポジウム「ナショナリズムと『慰安婦」問題」の基調報告「民族差別と『健全なナショナリズム』の危険」において、従軍「慰安婦」問題に根本的に求められている認識は「実は植民地支配そのものが全体として強制だった」という観点であるとし、「全世界的に帝国主義支配がまだ終わっていないという問題」を考えねばならないと明快に述べられました。それは日本の旧財閥系の企業や大手ゼネコン、たとえば三菱重工や鹿島建設が、植民地支配と戦争で大きな利益を得、そこで行なわれた本源的蓄積とインフラ構成の土台のうえに戦後日本の繁栄があり、日本人の個々人もその受益者であるのではないか、という問いかけになるわけです。この指摘は今日の日本人の若者に戦争責任や戦後責任を考えさせる契機になると思います。
では、まず「罪」と「責任」、もしくは「戦争責任」と「戦後責任」との概念上の区別や関係性などを教えていただけますか?
徐 私は1991年から法政大学の非常勤講師を務めまして、現在は東京経済大学で「近代アジアの歴史と現実」とか「人種とマイノリティ」という講座を担当しています。ですから、私や高橋哲哉さんが「証言の時代」と呼んでいる1990年代の10年間をたまたま大学という場所で日本の若い人たちに接して過ごしてきたわけです。そこでわかったことの一つは、学生たちがあまりにも歴史の事実について無知であるということです。「高等教育の歴史の時間に習っているはずだ」とあなたはおっしゃったけど、日本史は取らなくてもいいことになっているんでしょ?
―そうです。世界史は必修ですが、日本史は選択ですね。
徐 日本史が選択であるため習っていないというケースも多いですし、また日本史で習わなかったことだから知らなくて当り前だという考え方も私には信じられない。私はそれまで市民運動などを通じて、一般の日本市民に植民地支配の問題や、在日朝鮮人の問題を話しかける機会があったのだけど、その都度いつも自分たち日本人がいかに歴史の事実について無知であるかということを反省する日本人たちに出会って、最初は私としては非常に素朴に喜んでいたのです。しかしそういうことが2,30年も続いて、しかも一向に歴史の事実に冠する学校教育や社会教育が進んでいないという現実があるわけです。

歴史的に振り返ると、1965年の日韓条約の際に、日本の植民地支配をどう捉えるかということが、非常に大きな問題であったにもかかわらず、問題をそのように捉えることは当時の日本のいわゆる革新勢力にもできなかった。それから1970年代を通じて、韓国の民主化闘争にたいする連帯支援の市民運動もありましたが、それは日本の中でもごく少数の人々によってのみ担われて、広い国民的な認識にまで広がらなかった。そして1972年に日中共同声明が出て、日本の中国侵略の問題が指摘されたにもかかわらず、日本の国民たちが広く侵略戦争の歴史を自らのものにして認識する機会にもなりえなかった。さらに1982年にいわゆる教科書問題があって、(検定の際に)「侵略」という記述を「進出」と書き改めさせようとしたことに対する抗議が中国や韓国から起きたことから、正しい歴史教育を行なおうということが、日本と近隣諸国、かつて侵略の被害を受けた国々との間での国際的な公約のようなものになっているにもかかわらず、それから約20年経っている現在、なおかつまったく基本的な歴史的事実の知識が欠如している現実があります。
ただそれだけでなく、いわば自分たちと侵略の歴史、あるいはそこから生ずる「責任」というものとの関係を断ち切るための一種の心理的機制として「無知」が作用するというような場面に私は大学で出くわしています。おそらくこれは植民地支配の問題だけに限らず、広く社会的問題全般に関して日本の若い人たち、私の世代を含む多くの日本人が陥っている現状だろうと思います。しかし「知らない」のだから「責任がない」とか、もっと言うと自分はそれに対して「関心がない」のだから「責任がない」と言うけれど、知るか知らないかとか、関心があるかないかということと、責任があるかないかということとは本来、概念上、別の話です。にもかかわらず「無知」と「無関心」がいわば「自己免責のための心理的機制」として働いているような印象を強く受けています。
一つエピソードをお話ししますが、私は大学で主に戦後補償の問題などを取り上げて、学生たちにフランクな形で「これこれしかじかという企業は植民地時代、あるいは戦争に乗じてこれこれのことをした。しかしその事実を現在も認めようとしないし、補償しようともしていない。ところで君はそこに就職したとしてどうするかね?」と聞くのです。また「たとえばその会社の中に入って、社史を編集する。あるいはさまざまな会議で自らが属することになった会社の歴史について率直に過去を直視しようという提案ができるかね?」と言いますと、非常に印象に残っているのが、ある大学の学生は「先生、それは僕たちに死ねと言っているのと同じことです」と答えました(笑)。その学生は一方では戦争や植民地支配の責任は全て過去の戦時中の世代にあり、その人たちがなぜ抵抗しなかったのか理解できない、その人たちが責任を負うべきだということを、自分たちには責任がないという文脈でいっていたのです。
実は彼らは、かつて天皇制国家にたいしてひとことの異議も呈することができなかった人びとと同じ反応を示しているわけです。集団から孤立するということ、あるいは自らが主体性をもって過去を直視し、隣人との関係を正常化するイニシアティヴをとるというようなことは、戦前の天皇制国家で天皇制そのものに異議を唱えるのと同じか、それ以上に不可能なこととして、一種の無意識の強迫観念のように現在の日本人たちを縛り付けていると思います。非常に深いところで問題にされねばならないことですが、私はそういう、人間の自発性とか自立性ということの驚くまでの喪失、自発的隷徒とか自発的隷属と呼ばれるような現象のこれほどの完成という現実が、広範に日本社会にあると思います。恐らくその「責任」を負うべきなのは、むしろ今の若い人たちよりも、私と同世代ぐらいのいわゆる日本の知識人といわれる人々であると私は思っています。今の若い人たちは、もはや相当の努力をし、相当の機会に恵まれないとそのような自発性というものを自らの手で構築していくという機会そのものを摑むことができない。そういう感じをもっています。
もう一つ言うと、あなたが「務める大学が東大阪にあって、隣接する大阪市生野区に在日朝鮮人が多く住んでいて」ということをおっしゃって、それはその通りですが、何か一般の日常生活で他者との接触が多いから、他者認識をもっているはずだということは、そうではないということがこの10年間くらいでむしろ立証されたと私は思います。
―なるほど、その通りですね。
徐 80年代の後半に中曽根政権が「国際化」をスローガンに掲げて、日本人も海外にたくさん出て行くし、日本にも外国人が労働者として来るというようなことが起きた時、いわゆる文化摩擦という問題としてこのことが語られ、日常的な他者との接触が作られていけば自ずと相互理解が進むという楽観論が語られていました。在日朝鮮人の中にもそういうことを語っている人々がいる。しかしそれはそうではない。たとえば植民地時代ほど密接に日本人と朝鮮人が接触していた時代はなく、植民地時代には日本の敗戦と同時に、軍人等を除いて一般の日本人70万人余りが、朝鮮から日本に引き上げた。今の在日朝鮮人にほぼ匹敵する数の日本人が朝鮮半島で生活をして日常的に朝鮮人と接触していた。その人たちはまさに毎日日常的に朝鮮人を身の回りに見て、共に暮らし、場合によっては友人がいたり、会社の同僚がいたりしていたにもかかわらず、その他者認識というものはほとんど貧困なものに終わったということがあるわけです。
85年以降のいわゆる日本の国際化の状況は、多文化主義とか多文化の問題として提議されている。これが歴史のグローバリゼーションとの関係で不可避的な流れである。不可避的であるから日本社会も開かれた社会になり、多文化化していくであろうと、いわば日本人自身の自主的な、苦しい努力の結果、日本社会を開いていくということよりは、ある種、他律的な形で、経済のグローバリゼーションに伴う不可避的な過程として外国人が入ってくるから日本社会は開かれるという、日本社会の多元化というものに楽観的な展望をそのことから導き出すような議論もありました。「日本人」という自明性は揺るがざるを得ないとか、「日本国家」とか「日本民族」という概念はもはや通用しなくなるからね。しかし歴史はむしろ逆の方向をたどっていると思います。

今日、日本民族、日本国家というものの自明性を強調する声はあるところまでは、いわゆる極右派、自由主義史観派の人びとによって、90年代中国に出てきたかのように見えます。いわゆる極右派、都知事とか、日本国の首相がそのような言説を公然と述べている。わずか数年の間にそういう現実が引き起こされたのを見ると、私はむしろいわゆる国際化というものが日本社会を「帝国化」する方向で進められてきたと思う。日本が形式的な意味での単一民族性を維持していくことができなくなるにしても、そこに入ってくる多民族、多元的な要素を階層化する、だから階層化された多文化主義とか、階層化された多元主義というのは、言い換えれば「帝国」ということです。つまり「帝国化」が現に進んでいると思います。
分かりやすい例をあげると、在日朝鮮人や中国人ら定住外国人を公立学校の教育に採用すべきだという闘いがあって、91年に日韓外相覚書によって教論としてではなく常勤講師として採用することになった。それで差別はなくなったのだからいいだろうという話になった。しかし常勤講師は学校運営に参加できないということになっていて、その後日本の教育はご存知のように国民教育化の度合いを非常に強め、国旗・国歌の強制ということを定めた。そうすると今度は採用された公務委員としての定住外国人は、一方的に公務員として日本国の国旗・国歌の学生・生徒への強制に加担することを強いられる。そのような学校運営に対して異議を唱える権利はあらかじめ奪われている。これはつまりまさに「帝国化」の最も分かりやすいサンプルであるわけです。
さて本題の「罪」と「責任」という問題に入りますと、このような「帝国化」というものは、かつての大日本帝国の歴史的な克服が「不十分」であるばかりでなく、それをなさないという条件、つまりかつての大日本帝国を克服しないという条件の下でできているわけですから、そこにおいては「罪」と「責任」の問題は、(もちろん私は今の戦後世代の日本人や戦中や戦前世代と同じ意味での「当事者としての罪」が問われるべきだとは思わないけれど)「責任であって罪ではない」と言う場合でも、その内容はかなり重いものであると思います。1997年9月に開催された日本の戦争責任資料センター主催のシンポジウム「ナショナリズムと『慰安婦』問題」の基調報告「民族差別と『健全なナショナリズム』の危険」では、私は「罪に限りなく近い」と言ったのです。旧帝国と現在の日本社会が思想的、制度的に断絶をしていた場合でも、「罪はなくても責任はある」ということです。しかし断絶していなくて、また断絶していないという状況に自発的に隷属している場合、それは罪に近い。単に「罪ではなく責任だ」ということを軽く扱われては困ります。

個々の行為、たとえば戦場でレイプしたとか、捕虜を殺害したとか、非戦闘員の財産を略奪したとか、法律に定められた個々の犯罪行為の内容と当事者を特定してそれを処罰するということは、最小限必要なことである。その最小限のことも行なわれていないということが現実なのだけれど、たとえばいま現に行なわれているさまざまな日本国や日本企業の行為が、犯罪に該当するかどうかということは、すぐには立証しがたい。しかし歴史的には後日になっていろいろと明らかになったりするわけです。だから法律に抵触するから「罪」であり、法律に明文規定がないから「罪」に問えないとかいうような議論は、自己弁護の論理としては有効性を持つのかもしれないが、他者と連帯をしたり共生をしたりするための論理は、そのような法形式主義的な論理ではなく、言葉の真の意味でもっと深い「倫理的」なものでなければならない。たとえ法律に明記されていなくても、「罪」に当たるのかどうかという問いを、自らに投げかけるという態度からしか作れないと思います。そういう意味では戦後の若い日本人には当事者としての「罪」はないのだということを強調することは、「倫理的な問いかけ」をしなくていいのだということを決して意味しないということを、私は言いたいのです。しかし、これは既に「倫理的な問いかけ」と言っただけで、「倫理主義」とか「正義派」とか「イデオロギッシュだ」とかいう形で拒絶されるのが日本社会の現状です。
―そういう形の批判が、徐さんを始め、高橋哲哉さんや大越愛子さんに投げかけられています。
徐 国際関係で決まっていくようなことは、国際間の法的な取り決めが圧倒的に不平等な構造的関係の中で、法的に決まっていくわけです。つまり現在でも独立した国家として国際連合に加盟している国が200近くあるとしても、政治的、経済的に従属を強いられている南の国々というものと構造的な不平等関係というのは明らかにあって、そういう場所で法的な取り決めが行なわれていくわけですが、そこで決められている取り決め自体を自らを弁護するために用いるのでないのならば、そのような取り決めの条文にかかわらず、より普遍的、倫理的な次元で自らを問い直すということが、他者との連帯や共存のためには不可欠であるということです。「罪」と「責任」という概念については『ナショナリズムと「慰安婦」問題』(青木書店)、高橋哲哉さんとの共著『断絶の世紀 証言の時代』(岩波書店)、『女性・戦争・人権』第3号(行路社)でも言いましたので、罪(guilt)はないんだということが、自己に対する倫理的問いかけを回避する機制として働いてはならないということを、ここでは付け加えておきたいと思います。
高橋哲哉さんの言っていることは、まだまだ私から見れば入り口というか、必要条件を述べているにすぎない。東アジアに信頼関係を構築するとか、旧植民地支配者と被支配者との間に真に対等な普遍的人間としての関係を築くとか、こういう目標との関係で言うと、彼が述べていることは必要条件にすぎないわけで、彼もそのことを当然自覚していると思うし、必要条件であるということは限定して述べているわけです。ところがその彼の議論すら日本社会の中で大変孤立していますし、あるいはひどいことには、被害者に同一化して代弁していい気になっているとか言われています。

難民としての在日朝鮮人
―徐さんのお話をお聞きしていて三つのポイントがあると思います。まず一つ目は、学校教育に携わる身として「日本では一向に歴史の事実に関する学校教育や社会教育が進んでいないではないか」という問いかけは実感できます。来年から採用される高校の日本史の教科書から従軍「慰安婦」問題を言及する記述がかなり減るみたいですし、大学のシラバスを見ても近現代の東アジア史、日本の侵略の事実を教える講座がほとんどない。つまり現在の日本の学校教育には、侵略の歴史をきちんと教える機会があまりに少ないということです。
二つ目は、徐さんがおっしゃるように、80年代後半以降のいわゆる日本の国際化が、多文化主義とか複数文化として語られているわけです。それはポストコロニアルという学問領域の射程と同時に、経済のグローバライゼーションに伴う過程として、日本に外国人が労働者として入ってくる状況を反映しているのですが、彼らが日本に入ってくる場合、多民族、多元的な要素を階層化するという形になる。そうした階層化された多文化主義とか、階層化された多元主義というのは「帝国化」ということだという観点は重要な指摘だと思います。(97年の外国人の日本への入国者は約467万人で、80年半ばのバブル経済期より多くの外国人が日本にやってきており、国籍別では韓国人とブラジル人が多い。)
最後の三つ目は「罪」と「責任」の不可分な関係性です。確かに戦後生まれの「日本民族」系日本人の若者に、戦前や戦中世代と同じ意味で「当事者としての罪」は問われない。しかし「罪はなくても責任はる」わけです。ただ注意しなければならないのは、日本はドイツと違い全く戦時中の犯罪に対して旧植民地の方々に補償も責任者処罰も行なっていません。したがって日本は、「責任すら認めない恥しい国」なわけです。
徐さんは自らを含む在日朝鮮人を「難民」あるいは「半難民」と規定されています。そこで次に在日朝鮮人が「難民」から「半難民」状態に至る経緯について、概説していただきたいと思います。簡単に戦後の在日朝鮮人の歴史を考えると、まず1945年の衆議院議員選挙の改正によって、在日朝鮮人は参政権が停止され、次いで1947年の外国人登録令によって、在日朝鮮人を外国人とみなし、最後は1952年のサンフランシスコ講和条約によって、在日朝鮮人は日本の国籍を喪失するという形で「難民」状態になるわけです。ところが1965年の日韓基本条約によって、「韓国籍」を保持した人間は韓国の国民に準ずる待遇を受けるようになるわけで、その状態を徐さんは「半難民」と呼んでいますね。
徐 そうです。今あなたが整理したことに付け加えると、1965年の日韓条約の場合、「朝鮮籍」の人々は対象から除外し、「韓国籍」に比してもより無権利な地位を押しつけた。それから「韓国籍」を持っている場合でも、私がまさにそうですが、その韓国という国家と自己との関係において、その国家自体が反共軍事独裁政権ですから、ある意味では絶えず政治的な「難民」を生み出す構造を持っているわけです。
―なるほど
徐 なぜ私は在日朝鮮人を「難民」とか「半難民」とかと称しているかと言うと、日本社会で80年代以降から「難民」という問題への関心がそれなりに持たれて、「難民」のことをある意味でロマンティックに考えたりする人も出てきたりした。しかし「難民」というもの自体がみんな日本社会の外から日本にやってくる人々であって、それを受け入れるべきだとか、受け入れないとか、こういう議論がほとんどだったわけです。しかし日本自身が「難民」を作り出していたわけですし、日本社会の内部に昔から「難民」がいるということ、誰かを「難民」化させたことに責任があるということ、そういう発想をもった人がほとんどいなかった。それは先ほどの「帝国」的多文化主義ということとも関係があるけれど、グローバライゼーションを通じて、否応無しに他者、他民族と連携していく過程において、歴史的な時間軸の考察を無視するところから生じるわけです。いつも絶えず文化の問題、異なった文化との摩擦なり融合なりの問題としか捉えないから、そこにおいて自分たちの果たした役割を歴史的に考察するという契機が絶えず欠如しているわけです。
明日(9月10日)私はパレスチナの平和を考える会主催の「『断絶の世紀』をこえて」で岡真理さんと対談をするのですが、私自身が「難民とは何か」を最初に論じたのは、半世紀以上もキャンプ生活をしているパレスチナの人々についてでした(拙著『「民族」を読む』日本エディタースクール出版部)。これが20世紀という時代を象徴する存在、20世紀の人間の生活形式の一つとして、むしろ一般化した存在なんだということを考え始めたのです。「民族が一国家として一本の線でつながっているというような、そういう虚構がまず形成され、それから今度は帝国主義国によって、帝国的な不平等多民族主義が実行されるわけです。たとえば旧大日本帝国がそうです。つまり大和民族が頂点にいて、大東亜十億の民を率いるという形で、他民族を強引に自己の領域内に引き入れ、しかしその領域内部では圧倒的な不平等が貫徹しているという構造です。これで形を変えて現在まで生き延びている。あるいは再生しようとしているというのは先述した通りです。
そのように「帝国」に引きずり込まれた人々が、「帝国」の解体や再編の過程で再び国家の外にほうり出されるということが「難民」だということです。そういうふうに考えると、私が在日朝鮮人を「難民」とか「半難民」と規定していいとすれば、在日朝鮮人のような生活形式こそが、むしろ現代的、人類史の現段階に適合している生活形式なんだと考えるようになりました。こうした人々は、国家、民族、土地、血統や文化とか本質主義的なイメージにたいして、それらから引き継がされたがゆえに、それらにたいする希求、憧れをもつわけで、良かれ悪しかれナショナリズム的なものが出てくるということはある意味で法則にかなったことなんだけれど、同時にそれらはその人々にとって自明のものではないのだから、国家、民族、土地、血統や文化とかと自分というものの間に覆いがたく存在するすきま、亀裂も否応無く見てしまう存在が「難民」です。そういうことを考えると、この「難民」には可能性があるのです。最も卑近な例でいうと、君が代・日の丸というものが、あれほどたやすく日本社会の中で法制化されて、それぞれの学校現場で抵抗する人たちも大変だと思いますが、強制されている現実が既成事実化しているという時に、それに対して在日朝鮮人や中国人のような立場から、そんなことは変なのではないかという考えをもつことは、比較的簡単なのです。
たとえばどの国にも国旗や国歌があって、日本にあって何が悪いんだという大変凡庸なレトリックが幅をきかせたけれど、自分たちには国家や国歌もないんだ、なくて何がいけないんだということを自然に自分の生活経験の中から考えることができる人々が「難民」です。特に日本という国は、自己の属している共同体、つまり家族、地縁、血縁、地域あるいは会社といった共同体と国家との一体化が甚しく、その国家がヌエ的な形で戦後の象徴天皇制というものにまで癒着していっている。冒頭に言ったように、それに対して異議を唱えるということをほとんどの人がしない。そういう社会はおそらく「難民」のもつような視点をもてない人々が大多数であることによって、文化、歴史、国家など本質主義的に語られる観念と自己とのすきまというものを見ることができない人々が大多数を占めている社会だと思います。
だから在日朝鮮人の立場からの視点を大いに活用してもらえればいいと思うのですが、言説界では身近に在日朝鮮人がいて、在日朝鮮人たちがそのような指摘を繰り返してきたにもかかわらず、在日朝鮮人からではなくフランス現代思想とかポスト構造主義から借りてくる(笑)。加藤典洋氏が、高橋哲哉さんを指して「ポストモダニズム思想に立脚した反国民国家感情」というレッテルを貼っているわけだけれど、ポストモダニズム思想に立脚しなくても、いま言ったように20世紀という歴史の中での人類の経験に照らして見た時に、日本という国民国家の自明性に対する疑いをもつということはそんなに難しいことであるはずがないと私は思います。
先述したシンポジウム「ナショナリズムと「慰安婦」問題」の単行本化の際に書き加えた論文(「日本人としての責任」をめぐって)、本書56頁)で、私は自発的「難民」になるということは、つまり国家のあらゆる庇護の外に出るということなんだと述べました。そこでハンナ・アーレントの言葉を引いているように、実はそれには大変な危険性があると思います。もちろん「難民」であろうと、基本的人権という点では他の人々、市民たちと平等なものを享受すべきだという理念は比較的浸透してきたし、国家と切り離された、国家の庇護の外に出た人間が、なおかつ市民としての権利を主張していくという基盤は、国際社会の中で多少とも形成されつつあるということは認めるにしても、依然として実際に「難民」であるというおとは、大変に苛酷な現実を指しているということを一方では忘れてはなりません。あまりこれを比喩として軽く使い続けるということは、私自身も自戒しなくてはいけないと思いますし、まして「難民」でも何でもない人、日本社会で日本市民としての特権を百パーセント享受している人が、その「難民」の比喩を気軽に使わない方がいいと思います。


*스베틀라나 알렉산드로브나 알렉시예비치(러시아어: Светлана Александровна Алексие́вич, 벨라루스어: Святлана Аляксандраўна Алексіевіч 스뱌틀라나 알략산드라우나 알렉시예비치, 우크라이나어: Світлана Олександрівна Алексієвич 스비틀라나 올렉산드리우나 알렉시예비치[*], 1948년 5월 31일 우크라이나 이바노프란키우스크 ~ )는 벨라루스의 작가다. 2015년 노벨 문학상을 수상하였다.[1][2]
最近の出来事をめぐって
―僕は9月4日と5日に放映されたNHK教育テレビのET2000特集『破滅の20世紀』における徐さんとスベトラーナ・アレクシェービッチさんとの対談を見させていただきました。旧ソ連邦であったベラルーシは、先の大戦におけるソ連とドイツとの戦いの戦場になり4分の1から3分の1の人々が犠牲になりましたし、チェルノブイリ原発事故でもやはり4分の1の人が被害にあわれています。僕は番組をみていて胸のつまる思いでした。他方、最近日韓の若い世代の間では過去に捉われない自由な交流と称して日韓の交流を行なおうという動きがあります。でも僕の立場から言えば、従軍「慰安婦」問題、日本の戦争責任・戦後責任をきちんと果した上での交流でなければいけないと思いますし、今の新しい動きというのはまさに「忘却」であって、若い世代の健忘症ぶりに非常に違和感を感じます。
また新しい動きとして、金大中大統領が就任して97年から文化解放が徐々に行なわれ、この前の「第三次文化解放」では、日本映画の全面解禁、野外を含むコンサートの解禁などが行なわれたわけですが、こうした一連の文化政策に関する問題と、過去に捉われない自由な交流と称する若い世代の動きに関してどうお考えになっているかお聞きしたいのですが。

*韓国での日本大衆文化の流入制限대한민국의 일본 대중문화 개방은 대한민국의 자국 문화의 보호를 위해, 또한 일본 제국의 한국 병합의 영향에 의한 국민 감정을 해치는 등의 이유로, 일본의 만화나 영화, 음악 등 대중 문화를 법으로 규제해왔으며, 대한민국 정부가 4차례간 개방을 한 것을 말한다. 규제한 것의 구체적인 예로는 TV에서 일본 노래를 틀어주는 것을 금지하거나, 일본 애니메이션 방송 금지 등이 있다. 그러나 최근 점차 제한을 완화하고 있다.[1][2] 대한민국 정부는 4차례간 개방을 이루었다.
徐 先程から繰り返していることをもう一度言うと、過去に捉われない自由な交流と称する若い人たちというのは、過去に捉われたくない大人の掌の上に乗っているわけです。
―なるほど。
徐 私が歴史というものに対してもっているイメージは、ページをめくって新しい時代が来たら、前の時代は閉ざされていく、過ぎ去っていくということではなく、それはある地層のように積み重なる、見えなくなってそこに以前のものはあるということです。だからある種の考古学的なもので、その地層の中にうずめ込まれたものが、ある場合には化石になったり、断層になったりして、地表に姿を現わす、その地表に姿を現わしている断片から、自分が立っている土地がどのような積み重ねの上にあるのかということを洞察する力というのは、その人自身の人間的な自立のために必要だと思います。「過去に捉われ後ろばかり見ていては前に進むことができないよ」というメッセージが日本社会で繰り返し流されている。マスコミとか、学校でもそうです。未来志向的な、いつも過去を振り捨てて未来にたいしても希望を燃やしているような人間が、肯定的人間像として描かれているわけです。それこそ「小さき人々」が1日でも1時間でも生き延びるために、自らをそのように励ますということは当然あるし、あっていいと思います。
しかし大事なことは、日本の市民権リベラルについてもそう言えますが、それが実は既得権層、国家、エリートたち、過去を問題にされると困る人々の自己防衛のレトリックとして浸透しているということです。過去を帳消しにすることによって付き合う関係というのは一時的には成立するでしょうが、われわれが立っている場所、比較的に土地というものが、どういう地層の成り立ちからできているか、もっと言うと、そこにどういうふうに死んだ誰の死骸が埋まっているか、ということを知らずには、今の1日1日を自分のものにすることはできない。従軍「慰安婦」問題が非常に象徴的な例ですが、過去がいつも長く伸びた影のようにわれわれを鉤爪でつかんでいる。それを鬱陶しく思うということは当然ある。しかしその過去から遁れる、過去から自らを解放するということはどういうことなのだろう、それを心の中で打ち消したり、忘却するということが解放なのだろうかと考えると、やはり決してそうではない。
過去といっても、過去のすべてをわれわれがいわば百科事典のように知ることはできない。少なくとも、長く伸びた影におおわれているような鬱陶しさを感じているのだとすれば、むしろその過去にさかのぼって私の鬱陶しさをどうにか解決しようとすることこそが、日本の若者にとって本当の意味で自らを人間的に解放する道であると考えます。

高橋哲哉さんが「戦後責任論」で「レスポンスすることは、前向きなことだし、楽しいことなんだ」という趣旨のことを書いたら、それを読んでほっとしたという人もいるそうです。従軍「慰安婦」等のことで、アジア諸国から日本の社会が問われている。そうすると日本社会の構成員の一日本人である若者も何か自分に問われる。それを鬱陶しいと思うから、そのことを振り捨てたい、忘れたい。しかしそれはどういう未来が自分にとって住みやすく清々しく生きられるのかということを構想することができない。構想しようとしないところから来ているのです。被害者からの問いかけに対して十全に答えようとするような営みが全社会的に取り組まれている社会としての未来の日本社会を構想したら、それは大変楽しい社会だと思います。
それは世の中で悪意でもって言われるように、いちいちアジア人に出会うたびにぺこぺこと頭を下げるという話ではなく、なぜそういう犯罪が犯されたのか、その犯罪に対してどういうけじめをつけようとしているのか、そうした犯罪が二度と起こらないような社会を作るということです。そういう肯定的な未来像を多くの人々が共有している日本社会ということを想像してみると、若い人たちが自分がいま身を置いている日本社会をどういう社会に作り変えていくかという構想をもつか、もたないかという問題に関係していくわけです。だから過去を振り捨てて未来に進むというのは、実は未来へと進めないのです。過去は未来のためにある。あるいは未来への構想が過去へとわれわれを引き戻すということだと思います。
次に「文化解放」の問題ですが、金大中大統領が日本に来た時、小渕首相と会見しましたが、そこに大きくは二つの問題があります。一つは「文化解放」の問題、もう一つは「天皇の訪韓招請」の問題。私は「天皇の訪韓招請」の問題にははっきり言って反対です。天皇制という制度がまさに過去を振り捨てようとしている、日本社会に現にある日本国憲法にすら違反するような、天皇主権の復活、元首化という企みに韓国が加担するなら、とんでもないと思うし、より一般論として言っても、植民地支配の清算というものは元首の招請とか、元首との間で図られる和解の儀式とかいうものが意味をもつような種類の事態ではない。金大中大統領の非常に現実的な政治選択として出てきたことだと思いますが、リアルポリティックス的に見た場合にも私には異論があります。
「文化解放」の問題は、両面性があって、まず一般的に言って、あらゆる文化はあらゆる場所で解放されるべきだと私は思っています。しかし、日本文化の解放の問題は、日本語なり日本文化が、朝鮮語なり朝鮮文化というものを長い間抑圧してきたという歴史性の上にあるので、これは一般的な解放ということと単にイコールで結び付けることはできない。けれども、逆にたとえば韓国の中の男性中心的な習慣とか発想というものが、外側の力で揺すぶられるとか、そういうこともありうると思います。それから公然と語られなかったことだけれど、日本文化の流入を禁止するということ、どこかの何かを禁止するということは、絶えず文化を管理・統制するものとしての国家というものを容認するするという立場になるというのです。

たとえば私のすぐ上の兄(徐俊植)が、ソウルで人権映画祭をやろうとして弾圧されたりしたんだけれど、それは日本に限らず外国映画を上映する時には、日本の文部省にあたる役所の事前検閲を経なければならないという制度があるためなのです。こういう制度、一般的に言って、思想、言論、表現の自由を抑圧する制度の存続には、日本文化の流入を阻止するという口実、大義名分が作用してきたということがあります。だから日本文化を解放するということは、文化一般や思想体制一般を解放するということとパラレルな意味を含んでいると思います。しかしここで大変複雑なのは、じゃあそこで流入して紹介される文化とは何かということもあるし、そこで流れ込んでいったものが北野武(ビートたけし)の映画であるという時、それを国家が統制したらいいなんてことはこれっぽっちも思わないけれど、それは日本文化の流入というよりは、ある種の暴力賛美的な文化のグローバリズムで、それが日本経由で入ってくるということです。
*키타노 타케시(北野 武きたの たけし, 1947년 1월 18일 ~ )는 일본의 영화 감독, 배우, 텔레비전 사회자, 코미디언이다. 비트 다케시(ビートたけし)라는 이름으로도 알려져 있는데 주로 코미디언으로서 활동할 때 사용한다.
そこで韓国なら韓国で、その流入にもかかわらず文化的な自主性というか、対抗的な文化をどう培っていけるかという問題が当然問われてくると思います。文化の流入を国家の力を借りて阻止するということはやはり正道ではない。原則的に言うと、これに対する制限は一切撤廃した上で、文化の場所での闘争として、それは行なわれなければならない。だからもちろん韓国についていうと、国内におけるあらゆる文化活動の自由を保障するということが、外来文化の流入と同時に保障されなければなりませんし、国家保安法はもちろんのことですが、いわば言論、表現の自由に関わるような制約は一切撤廃されるような韓国国内の変革を伴わなければならない。
しかし金大中大統領が来て「日本文化の解放をこれから行いますよ」と言った時に、私の教えている学生たちにも典型的に見られた反応ですが、日本が朝鮮を植民地支配したかどうかの認識もおぼろげであり、またその植民地支配の過程でどのような文化抹殺政策を行なってきたか、あるいは自文化を強制的に禁止されていたのかということについての理解もなく、その理解がないがゆえに、そのことが一般的な自由の弾圧に逆用されているような構造への洞察ももちろんできない。つまり過去を全く振り返らないというところから見た場合、「韓国というのは自由のない国であり、日本は自由の国だ。自由のない国である韓国が少しずつ自由になっていくのはよいことである」という、まさに全面的な自己肯定、文化的な優越感の根拠になってしまう。そんな危険性を感じます。私はいま必要な認識の前提として述べたことは、日本の若者にとってあまりにも複雑かもしれないけれど、それでもこの間違った優越感とは闘わなければいけないと思っています。(2000年9月9日・初出:季報『唯物論研究』第74号・VOL24秋、季報『唯物論研究』刊行会編、2000年11月)
*編集上の都合により、聞き手の質問を一部割愛させていただきましたー編集部

五月の蝿のように -私の学問、私の人生
最初、原稿の依頼を受けたとき、何かの間違いではないかと思った。私は学者ではないし、大学教授でもない。私は「もの書き」であり、大学には非常勤講師として出講しているだけである。そもそも『教授新聞』という名からして、気の許せない感じがした。
韓国社会では学歴、出身校、学位の有無、助教授か教授かといった肩書きへのこだわりが強く、権威主義的なアカデミズムがいまだに幅を利かしていると耳にすることが多い。祖国の実情にうといための誤解であれば幸いだが、もしこうした風評にいくらかでも真実が含まれているとすれば、かえって私のような、学者の規格から外れた者が『教授新聞』に原稿を寄せることにも何らかの意味があるかもしれない。
私は1951年、日本の京都府に生まれた。日帝時代に祖父が働き口を求めて日本に来たのが28年のことだというから、わが家の日本居住歴は70年を超えたことになる。
子ども時代を過ごした地域には在日同胞が比較的多数住んでいて、その暮らしぶりは一様に貧しかったが、わが家は小さな工場を営む程度の、ちょっとした成功者だった。私は小学校は地域の公立学校に通ったが、兄の意向で、中学校からは国立の進学校に進んだ。高い教育を受けて将来祖国のために役立つ人材になるように、というのである。まだ12歳の子どもだったのに、まるで発展途上国から派遣されてきた国費留学生のような重い使命を両肩に載せられたわけだ。だが結論からいうと、私はこの期待を裏切ってしまった。私は忍耐を要する地道な勉強がひどく苦手で、学課とは関係のない本ばかり読み、詩や小説を書いて中学・高校時代を過ごしたのである。
1965年の韓日条約以降、僑胞母国留学制度が始まり、67年と68年に兄たちが相次いで留学した。
私が高校3年生の時、つまり1968年は全世界的な学生反乱の年だった。フランス、ドイツ、アメリカ、そして日本でも、学生たちが既成の秩序に反して大々的な反抗を試みていた。日本での学生反乱は東京大学医学部から始まり、特権階級入りを約束されたエリート学生たちが、「自己否定」を合い言葉に、権威主義的アカデミズムに反抗したのである。そのため1969年には東京大学の入学試験が実施できないという前代未聞の事件まで起こったが、まさにその年に私は早稲田大学のフランス文学科に入った。関心があったのは正統的なフランス文学よりも、学生反乱の過程で熱狂的に再評価されていたポール・ニザン(Paul Nizan)や、精神科医でアルジェリア解放戦線の理論家でもあるフランツ・ファノン(Frantz Fanon)だった。大学は学園闘争のためまる1年間、講義が行なわれなかったが、私はかえってそのことを喜んだ。学者になる気はなく、夢でも見るように、ニザンやファノンを研究するくらいなら、むしろニザンやファノンそのものになろうと努めるべきだと考えていた。将来については自分もやがて兄たちのように韓国に帰り祖国のために働くべきだと考えていたものの、その前にフランスに留学することができればいいのだが、といった程度の、きわめて漠然としたイメージしか描いていなかった。
当時の私は一方では依然として第三世界の国費留学生的な使命感を持ち続けたまま、もう一方では、アカデミズムをはじめとするすべての既成の権威に対する軽蔑と敵意という同時代の空気に感染していたようだ。自民族の近代的発展を実現しようとする「第三世界人」と、近代がもたらした悪しき遺制を打ち壊そうとする「先進国人」とが、私というひとりの人格の内部に分裂したまま存在することになったのである。

*폴 니장(Paul Nizan, 1905년 2월 7일, 투르 - 1940년 5월 23일, 파드칼레 레크쉬르앙)은 프랑스의 소설가, 철학가이자 저널리스트이다.[1]

*프란츠 파농(프랑스어: Frantz Fanon, 1925년 7월 20일 ~ 1961년 12월 6일)은 프랑스의 정신과 의사 및 작가이다.
20歳になり、大学3年生になったその春、母国留学中の兄たちが検挙された。「学園浸透間諜団」の首魁というのが陸軍保安司令部の発表だった。私はすぐに大学生活を中断して、実家のある京都に帰った。家業を手伝いながら、兄たちを釈放するための諸々の雑事に日々を過ごすことになったのである。担当教授の温情のおかげで卒業だけはできたが、私が大学で勉強らしきことをしたのは2年生の時の1年間だけということになる。
*재일교포유학생 간첩 조작 사건, 学園浸透スパイ団事件또는 11·22 사건[1]은 1975년 11월 22일 중앙정보부 대공 수사국장이던 김기춘에 의해 발표된 공안 사건이다.
担当教授は大学院に進学するようすすめてくれたが、私はその気になれなかった。兄たちの投獄によって軍事独裁政権下にあった70年代韓国の現実がわが身に迫ってきた。その圧倒的なリアリティーの前では日本での生活の何もかもが空虚なものとしか感じられなかった。それがかりに自分の兄弟でなかったとしても、誰かが時々刻々、投獄されたり拷問されたりしている現実を日常的に感じながら、何の役に立つのかはっきりしない学問に没頭することなど、到底できそうもなかったのである。
どう生きるべきだったのだろう?いま振り返っても、はっきりとした解答を得ることができない。兄たちが投獄された以上、自分もやがて韓国に留学するという選択肢はなくなった。いや、むしろ、そうであるからこと韓国に帰るべきだったと言うことも今なら可能だが、当時の私には思いもつかなかった。さりとてフランス留学の可能性など皆無だったし、一般企業への就職などは論外だった。
もちろん実際に獄中に囚われている人々の労苦とは比較することもできないが、たとえて言うと、あの頃は私は地下室に放り込まれていたようなものだ。3年、5年、8年と、その状態のままで日が過ぎた。1980年には母が、83年には父が世を去った。私はまったく無力だった。ただ、しっかりと目を開けてこの運命の成り行きを最後まで見届けてやろうと肝に銘じていただけである。
結局、兄のひとり徐俊植は事件発生から17年後の1988年に、もうひとりの徐勝は90年に出獄することができたが、私はすでに40歳ちかい年齢になってしまっていた。これから何ができるというのだろうか?相変らず途方に暮れていた時、法政大学で講義しないかと誘ってくれたのは政治思想家の藤田省三先生である。藤田先生は私が「地下室」時代に少しずつ書いた文章に目をとめてくれていて、その経験と思索とを学生たちに分け与えてほしいというのだった。この申し出を受けた私が、今日まで折に触れ想起しているのは、離散パレスチナ人、エドワード・サイード(Edward Said)の言葉である。彼は、知が限りなく細分化され部分化される現代アカデミズムのありようを痛烈に批判し、時代の要請にこたえる本当の知を復活させるためには素人主義(amateurism)に立脚して専門主義(professionalism)と闘うべきだと唱えている。彼はまた、歴史叙述や文学において、支配層の物語( master narrative)に被支配者側の対抗的な物語( counter narrative)を対置させることが、明日の人類の「新しい普遍性」を構築するためにも重要であると強調している。私は、「日本人の物語」と「資本主義的近代の勝者の物語」に全面的に覆い尽くされようとしてる日本社会にあって、在日朝鮮人の立場から対抗的物語を対置していくことに自らの役割を見出したのである。

*에드워드 사이드(Edward W. Said, 1935년 11월 1일~ 2003년 9월 24일)는 팔레스타인에서 태어난 미국의 영문학자·비교문학가·문학평론가·문명비판론자이다.
実際に大学の教室で若い日本人たちと向かい合うことになって、あらためて驚かされた。彼らは自国の侵略と植民地支配の歴史的事実についてほとんど何も教えられておらず、「中国や韓国に謝罪するのはもううんざりだ」、「日本が朝鮮をとらなかったらロシアがとっただろう」、「韓国は日本に近代化してもらったことを感謝すべきだ」などと、無邪気な表情で述べるのである。このような主張を内容とする漫画が数十万部も売れ、漫画家は英雄のようにもてはやされている。自分が帝国主義侵略の受益者であることへのやましさなど、そこには微塵もうかがわれない。若者のこうした現実は、もちろん日本の大人たちの現実の忠実な反映である。
日本人から見れば、在日朝鮮人は自己の近代史のやましい影を思い起こさせる鬱陶しい存在である。だから彼らが好むのは、「過去にこだわらない」「未来志向型の」「明るく元気な」在日朝鮮人なのだ。在日朝鮮人の中からも、こうした日本社会の需要に迎合する者たちが少なからず現われている。学者の世界も例外ではない。


*《달은 어디에 떠 있는가》(月はどっちに出ている)는 양석일(梁石日)의 자전 소설 《택시 광조곡》을 바탕으로 1993년에 제작된 영화이다. 감독은 최양일(崔洋一), 각본은 정의신(鄭義信)이 맡았다.
*양석일(梁石日, 1936년 8월 13일-)는 재일한국인 2세 출신의 소설가이다. 일본 오사카시 이카이노(猪飼野) 태생이며, 부모는 제주도 출신이다. 오사카 후리쓰 다카쓰 고등학교 정시제를 졸업했다.
*최양일(崔洋一, 1949년 7월 6일 ~ )은 일본의 영화 감독이자 각본가. 배우이다. 사이 요이치(さい よういち)로도 불린다. 일본영화감독협회 이사장이자 주식회사 넥스텝 고문이기도 하다. 재일 한국인 2세이다.
*정의신(鄭義信, 1957년 7월 11일 ~ )은 극작가 겸 각본가 겸 연출가이다.
在日朝鮮人と他の在外同胞とが異なる点は何か。それは在日朝鮮人が、かつて自民族を植民地支配した旧宗主国で生活している点である。日常生活において「俺たちが殴ってやったおかげでお前は一人前になったのだ」というたぐいの侮辱にさらされるのは在日朝鮮人だけであろう。在日朝鮮人が尊厳を傷つけられることなく生きていくためには、何よりも、日本社会が広範なコンセンサスとして過去の植民地支配を反省しなければならないのである。しかし、日本は現在、これとは逆の方向へ動いている
日本民族の誇りを取り戻せと叫ぶ右翼勢力の声が日増しに高まっている。彼らは日本軍による中国での虐殺事件や「慰安婦」に関する記述を教科書から削除せよと要求する運動を全国的に展開しており、その影響はいまや教育界からマスコミ界にまで及びつつある。日本政府は、侵略の旗じるしである日章旗と、天皇家の繁栄を願う歌である「君が代」を国旗・国歌として法制化する動きを加速化させている。さらに「日本周辺有事」の際、米軍の軍事活動を日本の自衛隊が最大限支援することを可能にする法整備が進められている。これは、交戦権の放棄を規定した憲法第9条を空洞化させるものであり、このままいけば最悪の場合、来世紀の早い時期に、日本は平和憲法を改悪するだろう。過去の侵略を反省することのできない国が、世界有数の軍備を保有し、憲法上の制約まで取り払った時、はたして何が起こるだろうか。
日本社会の右傾化は、在日朝鮮人をますます生きにくくさせるばかりではない。それは、東アジアの平和にとって最大の脅威である。在日朝鮮人は、いわば「炭坑のカナリア」である。植民地支配の歴史によって産み落とされた在日朝鮮人という存在は、危機に際して最大限敏感に警告を発する役割を歴史から付託されているのだ。そのためなら私は、これからも歴史、政治、文学、ときには美術にいたるまで、手の届くかぎりの分野に口を出し、中国の文学者・魯迅先生にならって、五月の蝿のように俗物どもの頭の上をうるさく飛び回るつもりである。そうした態度は日本では学問的と呼ばれないが(韓国はどうだろう?)。そんなことは私のあずかり知るところではない。(初出:韓国『教授新聞』1999年5月10日)。


極限のユーモア 
奇跡のような逆説
試写会場の証明が暗くなって、ハルモニ(朝鮮語で「おばあさん」)の声が静かに流れ始めたとたん、もう涙がこみ上げてきた。不思議な体験だった。
それは14歳のときに女子挺身隊として朝鮮から富山に連行され、逃げ出したところ松代の慰安所に送られた経験を語る、カン・ドッキョンさんの声だったのだが、その辛い内容にだけ反応したのではない。上映時間の70分あまり、何度も涙が溢れた。同情、悲しみ、怒り、申し訳なさ、それらすべてだが、それだけではない。抱きとられるような、浄化されるような、快い感覚があった。これを「癒し」というのだろうか。だが、安んじて癒されるにまかせてはいけないのだ。
『ナヌム(分かち合い)の家』は、韓国の身寄りのない元日本軍「慰安婦」(性奴隷というべきだ)たちが共同生活する施設である。ピョン・ヨンジュ監督が当時はまだソウル市内にあったこの家に粘り強く通いつめ、ハルモニたちの信頼を得て製作した前作『ナヌムの家』(1995年)は、日本でも各地で上映され深い印象を残した。
『ナヌムの家II』は、その後郊外の田園地帯に移った家で営まれるハルモニたちの日常を追ったものだが、前作と明確に異なるのは、彼女たち自身からの申し出によって製作されたという点だ。半世紀もの間、理不尽にも自らを恥じることを強いられ、沈黙させられてきた彼女たちは、加害者(日本国家)の厚顔な居直りを黙過することができず生き証人として名乗りを挙げた。そして、いま私たちが見いだすのは、驚くべきことに、「自己表現の喜び」(カン・へジョン)までも自らのものにしつつあるハルモニたちの姿だ。彼女たちは「被害者」あるいは「生き証人」と一括して呼ばれる存在から、ひとりひとり名前と個性、はっきりとした意志や主張をもつ主体へと自らを、こんな言葉で形容するのは失礼だが「成長」させたのである。
鶏小屋を掃除しながら、「鶏なんか捨てちまえ。こんなに臭くちゃ男が寄ってこないじゃないか」と大声でぼやく。生まれ変わったら軍人になって国を守りたいと生真面目にいうハルモニを、別のひとりが「軍人になって女を抱こうっていうのか」と茶化す。大柄な監督の胸ぐらをつかんで、男をとっちめる方法を指南する。見ているこちらも、つい声をあげて笑ってしまうのだが、彼女たちが誰であろうかを思い出すとき、これら極限のユーモアにたじろがないではいられない。カン・ドッキョンさんは肺ガンのため死期が迫ったことを知り、「今のうちに撮れ。死んだら撮れなくなるぞ」と監督に言う。まさに極限のユーモアである。彼女の望みどおり、この作品はその見事としかいいようのない死のかたちを見届ける。
あらそい、いたわり、歌い、語り、泣き、笑い、死と向かい合い、死にすら打ち勝つハルモニたちのたたずまいを見ているうちに、人間への愛しさに心を満たされる。しばしば陳腐にしか聞こえない「人間の尊厳」という言葉が、まったく新鮮な響きでよみがえってくる。もっとも尊厳を蹂躙された彼女たちが、そのゆえに、もっとも尊厳に輝く存在になって私たちの前に立ち現われるのだ。この奇跡のような逆説・・・。
日本政府が公式に謝罪し個人賠償に応じるまで最後のひとりになっても闘う、簡単には死にたくない。・・・それがカン・ドッキョンさんの遺した言葉である。
日本政府は「民間基金」というまやかしを押し通そうと躍起になっている。彼女たちに沈黙を強いてきた男性中心社会は韓国でも日本でも牢固としている。私自身もその受益者であり、この点では無実ではない。この現実を前に、彼女たちはなお、身をさらして証言している。私たちの正義のために、私たちの平和のために、私たちはいつまで、彼女たちにそれを続けさせておくのだろうか。
この作品はHabitual Sadness(習慣になった悲哀)である。ハルモニたちから「癒し」だけを平然と受け取ることは、恥ずべき搾取であり陵辱ですらある。(初出:『週刊金曜日』1998年2月13日号)


証言が死んでいく時代 
-プリーモ・レーヴィの自殺から12年
プリーモ・レーヴィといっても、この国ではその名を知る人は多くないだろう。彼がトリノ市レ・ウンバルト街の自宅で自殺したのは、1987年4月11日のことだ。67歳だった。それからちょうど12年が経つが、欧米では現在も彼に関する評論や伝記の刊行が続いており、その死が投げかけた問いはますます重みを増している。
プリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツの<生き残り(survivor)>であり、現代イタリアを代表する文学者でもあった。第二次世界大戦末期、反ファシズム抵抗運動に加わって逮捕され、ユダヤ系であったためにアウシュヴィッツに送られた。ガス室だけは免れたが、アウシュヴィッツ第3収容所(通称「プチ」)で奴隷以下の日々を過ごした。その日常を彼は、「自分以外の全員に対する消耗戦」と簡潔に表現している。数万人の囚人が、そこで、「労働を通じての絶滅」とナチ自身が名づけた政策の犠牲者となった。そこは「人間」という尺度そのものが無効となった逆ユートピアだった。
解放後、トリノの自宅に生還した彼が一気呵成るに書き上げた『これが人間か』と題する著作は世界各国で翻訳され多くの読者を得た。日本では『アウシュヴィッツは終わらない』(朝日新聞社)という書名で1980年に刊行されている。
<生き残り>の多くは、「忘れたいと願いながら、強制収容所の悪夢に責めさいなまれている」。だがレーヴィは忘れることを自らに禁じた。特に社会が忘れ去ることを警戒した。「自分が見て耐え忍んでだことを、証拠として持ち帰る」ことが、彼の「義務」となった。<ホロコースト(Holocaust)>を実現させた「世界観」はまだ生き残っており、人類を脅かし続けている。だからこそ証人として危険を知らせる警鐘を鳴らすべきなのだ。それは破壊された「人間」という尺度を再建する仕事でもあった。こうしてプリーモ・レーヴィ自身が、アウシュヴィッツ以後の世界において私たちがなお「人間」に希望をつなぐことのできる根拠のような存在になったのだ。ところが、その彼が遺書も残さず自殺したのである。

レーヴィの自殺の原因は、一つに特定できるものではない。しかし、私見では、自殺の前年にドイツで起こった「歴史家論争」が濃い影を落としていることは疑いない。この論争でエルンスト・ノルテら保守派の歴史家たちが、ナチの犯罪にはロシア革命への反動という面があった。そうした悲劇は人類の歴史においてつねに生じざるを得ない。ドイツだけが特別だったのではない、などと主張して、「ドイツ国民の誇り」の回復を要求したのである。こうした歴史修正主義の主張はユルゲン・ハーバーマスらの厳しい批判を受け学問的レベルでは敗北したといえるが、一般のドイツ国民には保守派への同調がかなりの広がりを見せた。こうした動きを、プリーモ・レーヴィはどう受け取っただろうか?「結局ドイツは変らなかった」と感じ、絶望感や疲労感、たまらない恐怖感すら覚えたのではないだろうか。
*恩斯特·諾爾特(德語:Ernst Nolte 1923年1月11日-2016年8月18日)德国历史学家和哲学家,主要关注的领域为法西斯主义和共产主义的比较研究(参见纳粹主义与斯大林主义的比较),柏林自由大学现代史名誉教授。
*위르겐 하버마스(Jürgen Habermas, 1929년 6월 18일 )는 독일의 철학자이자 사회학자, 심리학자이며언론인이다. 비판이론과 실증주의, 북미 실용주의 분야를 연구한 사회학자로 유명하다. 소통 행위의 이론에서 공공 영역의 개념으로 잘 알려져 있다. 사회 이론의 기초와 인식론을 중심으로 연구하였으며, 진보된 자본주의 사회와 민주주의, 비판적 사회진화적 맥락, 현대 정치학(특히 독일의)에 영향을 미쳤다.
とはいえドイツは現在も、ナチ時代との絶縁を国民的コンセンサスとして保ち続けている。昨年発足したシュレーダー政権は国籍法を血統主義から出生地主義に改める法改正を提案した。野党勢力の頑強な反対のため実現までには難航が予想されるが、ナチ時代の血統主義イデオロギーからの決別を意味するこうした提案そのものが、自ら変ろうとする意思表明の一つといえる。
*게르하르트 프리츠 쿠르트 슈뢰더(독일어: Gerhard Fritz Kurt Schröder, IPA: [ˈɡɛɐ̯haɐ̯t fʁɪts kʊʁt ˈʃʁøːdɐ], 문화어: 게르하르드 슈뢰데르, 1944년 4월 7일 ~)는 독일의 정치가로 1998년부터 2005년까지 독일의 연방총리를 지냈으며, 사회민주당의 당원인 그는 사회민주당과 녹색당의 연합 정부를 지도하였다.

さて、日本はどうだろう?日本の国籍法は血統主義のままである。「日本国民の誇り」を守るため、教科書から「慰安婦」関連の記述を削除せよと要求する荒々しい声が高まっている。日の丸・君が代法制化の動きが急だが、これは、結局日本は変らなかったし、今後も変るつもりはないという不吉な意思表明ではあるまいか。
3年前の冬、私はトリノにレーヴィの墓を訪ねた。墓は広大な共同墓地の一隅にあり、驚くほど簡素なものだった。黒い墓碑には死者の名と生没年のほかに、174517という6桁の数字だけが刻まれていた。アウシュヴィッツで左腕に入れ墨された囚人番号である。それは死者が、死後もなお、私たちに与え続けている警告にほかならない。
20世紀は二度の世界戦争をはじめとする人類史上未曾有の政治暴力の時代だった。プリーモ・レーヴィは、私たちが暴力の世紀を克服していくための貴重な証人だった。南京事件の「幸存者」(生存者)や元日本軍の「慰安婦」たちもそうである。証人たちはいま、疲れ果て、絶望して世を去りつつある。証人たちの警告に謙虚に耳を傾けることすらできないのならば、来世紀には、私たち人類全体が逆ユートピアへと転がり落ちていくほかないであろう。(初出:『東京新聞』1999年4月8日夕刊)





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