日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Europa Wschodnia/Europa de Est★『東欧 再生への模索』小川和男/Search for Eastern Europe regeneration Kazuo Ogawa/Recherche de la régénération de l'Europe de l'Est/ Suche nach Osteuropa-Regeneration⑧


*Magyarマジャール語→A Flashdance amerikai, zenés, romantikus film, ami 1983 áprilisában jelent meg. Az 1980-as évek elejének egyik legsikeresebb filmje.Pittsburgh (IPA: [ˈpɪtsbɜːrɡ]) Pennsylvania állam második legnagyobb városa, valamint Allegheny megye fővárosa.
第IV章「西欧」対「東欧」、「東欧」対「ロシア」
1 西欧の繁栄とソ連重視・東欧経済の外交
強大なソ連の吸引力
東欧諸国は第二次大戦後ずっと、東西冷戦体制の下で東西陣営に属しながら、「心では西側、体ではソ連」というのっぴきならない生活にあえいできた。

各国は西側への回帰を切望しながら、ソ連の吸引力が強く、回帰力と吸引力がいつも東西両側に働き、東西に揺れながら45年余の歴史を歩んできた。西方ヨーロッパへの回帰力が強まると、1956年のハンガリー事件、1968年の「プラハの春」、1980年のポーランドの「連帯」といった民主化・自由化運動が湧き上がったのである。
だが、社会主義政権ができてからL・ブレジネフソ連共産党書記長が1982年12月に死去するまで、社会主義国の結束を守ることが各国の国益に優先するという「ブレジネフ・ドクトリン」もあって、東欧の民主化・自由化は成功しなかった。
とくに経済関係では、ソ連の吸引力が非常に強かった。この背景には、東欧諸国が第二次大戦後、いずれの国も急速な工業化をめざしてきたのであるが、概して鉱物資源に恵まれないことから、工業用原燃料供給の圧倒的部分をソ連に依存してきたという事実があるのである。ソ連は東欧諸国の需要拡大によく対応したといえるが、一方では東欧諸国経済のキーポイントを押えてきた。
「東欧革命」による劇的変革は、ペレストロイカの嵐が吹き寄せて東欧の人々の目をさました一方、ソ連国内が混乱に陥り、その東欧に対する吸引力が大きく退潮したことがあって、初めて可能になったのである。つまり、回帰力が強まったことよりは、むしろ東方への吸引力が弱まったことが、東欧のヨーロッパ回帰を可能にしたといえるのである。
西欧諸国の「身勝手」
西欧諸国は、ヨーロッパの伝統的価値の守護者を自覚しながら、しかも経済的繁栄を謳歌しながら、本来のヨーロッパの東半分をソ連にあずけてしまい、東欧諸国で繰り返されるヨーロッパへの回帰運動を見ても、精神的援助を与えるといった曖昧な態度を示すのが精一杯で、実質的には傍観者の立場をとり続けた。
西欧の人たちは自分たちの高い生活水準とゆとりある日常生活を誇り、東欧の人々の貧しさを見下している。だが、西欧の繁栄のかなりの部分は、東欧を見すてた結果得られたものであることに思いを寄せるべきであろう。東欧の民主化・自由化運動に実質的な支援を送っていたならば、西欧が負担しなければならなかった経済的コストは莫大な金額になっていたと考えられるからである。わたくしは、この点を強調せずにはいられない。
西欧の有力政治家たちの東欧軽視もはなはだしかった。1980年代を振り返ってみても、ミッテランFrançois Mitterrand・フランス大統領、コールHelmut Kohl・旧西ドイツ首相、サッチャーMargaret Thatcher・イギリス首相のいずれもが、東欧諸国の首脳たちと直接重要案件について話し合ったことがなかった。ソ連のブレジネフ書記長やゴルバチョフ書記長との協議が合意できればそれで十分で、東欧のことはソ連の手にゆだねてしまっていのたである。

ゴルバチョフ氏、ヨハネ・パウロ二世の力
ロシア人ゴルバチョフ氏は、ペレストロイカの東風を送って東欧諸国に衝撃を与え、民主化・自由化改革へと向かわせた。西欧の政治家たちで、ゴルバチョフ氏が演じた役割に比肩する役割を果たした人はいない。
また教皇ヨハネ・パウロ二世が、この点では、非常に重要な意味を持った。ヨハネ・パウロ二世の存在をそのものと常に人間の尊厳や社会主義を訴える教皇の言葉は、東欧諸国の全キリスト教徒の精神の支えとなり、民主化・自由化の明日への希望を語ったのである。とりわけ、1979年以来四年に一度必ず繰り返されている教皇のポーランド訪問は、ポーランド人たちにはかり知れない勇気を与えてきた。

ウォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍といえば、ポーランドで戒厳令を施行した当人であり、パウロ二世とは相容れなかった立場の人である。しかし、そのヤルゼルスキ将軍は、自分の回想録のなかでパウロ二世について触れ、「会見のたびに、教皇のわが国に抱く関心に心打たれたことを明らかにしておきたい」、「かれは、教会があと押ししてきた巨大な社会運動への支持を取り下げなかったが、いっそうの正義を要求し、同時にポーランド国民の良心とその責任感に訴えた」、「ヨハネ・パウロ二世と会見するごとに、わたくしは深い満足を味わった」、と感慨を記している(ウォイチェフ・ヤルゼルスキ『ポーランドを生きる』、ヤルゼルスキ回顧録、河出書房新社、1994年5月)。

求められる西欧の「寛容」
そして東欧の人々が今、長かったソ連の桎梏を脱し、伝統的ヨーロッパへの回帰をめざしている時、西欧の人たちは温かく迎え入れてしかるべきではないだろうか。西欧の人たちの豊かな生活のほんの少しを切り詰めるだけで、東欧の経済の立て直しに寄与できるのである。
だが、西欧の人たちに寛容の精神を求めても、それは無理のようである。統一後のドイツでは、旧東西ドイツの人たちの精神的亀裂が目立つし、予想をずっと上回る統一のコストをまかなうために「増税」という話が出るだけで、それはもう政治的論議の対象なのである。
また、EUへの東欧諸国の早期加盟が麗々しく語られながらも、EUは現実には、東欧諸国からの農畜産品輸入に対するさまざまな制限措置を撤廃してはいない。
たしかに西欧諸国はどこでも失業率がかなり高く、経済大国を誇る旧西ドイツ地区でさえ、1994年9月のそれは8・8%であった。しかし、そうした状況があるとはいえ、市場経済への転換で苦闘する東欧諸国に対して、「経済難民の輸出国」という非難を浴びせる人たちがいるのは、ゆとりある生活を固守しようとする西欧諸国のあまりの身勝手とはいえないだろうか。

2 「東西問題」が継続されたドイツ統一
大きかった「東西」のギャップ
統一をめぐって旧東西ドイツに生じた現象と問題には、ここでいう「東西問題」、すなわち、「東欧」対「西欧」の諸問題が継続されている。統一は何よりもまず、ドイツ民族の悲願とされ、それが実現した時のドイツ民族の至福感はまことに言い知れぬものであった。
だが、それは長続きしなかった。人々は自分たちの目の前に立ちはだかる現実の難題の多さにたじろぎ、いつまでも幸福に酔ってはいられなかったのである。
政治的統一によって東西両ドイツ人の気質までが統一された、というわけではない。「東西」のギャップは非常に大きく、旧西ドイツは経済力、生活水準など、ほとんどあらゆる点で圧倒的優位にあり、人々は旧東ドイツおよび東ドイツ市民を現在までも見下している。一方、旧東ドイツは劣者の立場にあり、統一後5年を経てなお、人々は旧西ドイツに対するコンプレクスを克服することができず、他の民族に対する極端な排外思想に走ったりしているのである。
旧西ドイツは世界に冠たる経済大国であり、高い労働生産性を誇っていた。そしてその西ドイツ企業との競争にさらされて、旧東ドイツ企業はひとたまりもなく敗退し、倒産に追い込まれてしまったのである。
旧東ドイツ内のデパートやスーパー・マーケットには、贅沢品はもちろん、日用品や食料品まで、旧西ドイツ産をはじめとする西欧製品が陳列され、旧東ドイツ産のキュウリやトマトは形が不揃いという理由で姿を消さざるをえなかった。旧東ドイツの農民は立ち上がれないほどの打撃を蒙ったのである。

埋められぬ格差
統一が実現した頃には、旧東西ドイツ間にある経済格差は5,6年で埋められるという楽観的予測が行き渡っていた。しかしそういった予測にはしっかりした根拠があるわけではなく、わたくしは10年でも無理であると主張していた。しかし、当時これは、日本国内では全くの少数意見であった。
西ドイツの経済格差は大ざっぱにみて、旧西ドイツ二対旧東ドイツ一とされ、生活水準についても同様という評価が多かった。この評価を前提にすれば、旧東ドイツが10年間で旧西ドイツに追いつくためには、すなわち、所得倍増を10年間で実現するためには、年平均7・5%増の経済成長を実現する必要がある。
実際には、1990年代を超えて、世界の先進国のなかで10年間続けて年平均7・5%増という高い経済成長を見込める国などなかった。また、旧東ドイツ経済は、第二次大戦後最良の時代でも、5%台の成長を遂げるのが精一杯で、安定成長が国是であった。しかも、西ドイツ経済も年率3、4%の堅実な成長を遂げるとみられていた。したがって、格差が10年で埋まるというのは統一後人々がみた夢であり、現実にはこの格差はかえってひらいていく懸念があるのである。
深まる失望感
西ドイツの人々にしてみれば、統一のコストが予想外にかさんだことが増税につながり、国内も不況に陥るという状況は、全くの見込み違いであった。
統一の夢が実現した後の失望は東西両方のドイツで大きく、絶大な人気を誇ったコール「統一宰相」にも落日の影がさしている。
そして、旧西ドイツを「西欧」に、旧東ドイツを「東欧」に置き替えてみれば、「西欧」対「東欧」の諸関係の実相と将来図がまことにありありとみえるとわたくしは思うのである。
だが、幸いなことに東欧諸国は分断国家ではない。もし各国政府がしっかりと舵を取ることに成功すれば、旧東ドイツが旧西ドイツにやすやすと席捲されてしまったような事態に陥ることはないであろうと考える。

3 圧倒的なドイツ経済の影響力
東欧各国の高い貿易依存度
東欧諸国の経済の特徴の一つは、概して貿易依存度が高いことである。とりわけ中欧諸国では貿易依存度が高く、国民経済の規模が相対的に小さいことから、外国経済の動向の影響を受けやすい。
計画化経済システムは、経済を計画にもとづいて運営し、好不況の発生を計画化によって制御することを主要目標としてきた。しかし、それにもかかわらず、計画化システムの下においても、東欧経済は対外貿易全体に占める欧米先進諸国、つまり市場経済諸国との貿易のシェアがそれほど大きくなかった時代から西欧の景気変動の影響を受けてきた。なかでも市場経済の導入を模索し、計画化システムをかなり緩めていたハンガリーが、他の東欧諸国に比べてより強い影響を受けたのは、当然であったといえよう。
そしてドイツ(西ドイツ)は東欧諸国にとって、1980年代を通じて西側先進諸国のなかでも最大の貿易相手国であり、1980年代半ばには東欧各国の対外貿易全体の8~12%を占めていた。1960年代以来進められた「東方政策」を背景に、着々と経済的進出を果たしていたのである。
一方、今日から約10年前、つまり1980年代半ばを振り返ってみると、東欧のどの国にとっても、ソ連および東欧諸国との貿易のシェアが非常に大きく、ソ連が最大の貿易相手国であった。当時から西側先進諸国との貿易のシェアがかなり高かったハンガリーでさえ、ソ連・東欧諸国との取引のシェアが対外貿易全体の半分以下を占めていたのである。
対西側貿易への劇的転換
東欧諸国は、体制転換の方向が明確になると、対外貿易のドラスティックな転換をはかり、内政への経済的接近を強めた。その結果、ソ連・東欧諸国との貿易は1990~93年の四年間にほとんど四分の一になるまで縮小。代って先進諸国、とりわけEC(現在はEU)諸国との貿易が激増した。
表IV:1~3は、ハンガリー、チェコおよびポーランドについて、対外貿易が東方から西方へいかに劇的にシフトしたかを示したものである。たとえばハンガリーは、1993年の対外貿易全体の65%以上が西側先進諸国との貿易、約45%がEUとの貿易で占められているのである。とはいえ、ハンガリーの場合、1991~93年に東欧諸国との貿易が著しく回復しており、この点は注目される。
チェコでも、1993年の対外貿易全体の70%以上が先進諸国との貿易、50%以上がEU諸国との貿易で占められていた。旧ソ連および東欧諸国との貿易は、文字通り劇的に減少したのである。『チェコ共和国統計月報』(1994年12月号)によると、1994年1月~9月のチェコの対外貿易の地域構成も、1993年とだいたい同じ特徴を示している。

対ドイツ貿易の巨大なシェア
そして、ドイツがこの東欧経済に占める地歩は、ますますゆるぎないものになってきているのである。東欧各国における対外貿易の西方への転換は、その大きな部分がドイツとの貿易への転換である。三つの表は、この転換をよく示している。1993年のハンガリーの輸出総額の26・6%がドイツへの輸出、輸入総額の21・6%がドイツからの輸入で占められている。
チェコについてみると、1993年の輸出総額のじつに33%がドイツへの輸出、輸入総額は30・8%がドイツからの輸入であった。つまり、チェコの対外貿易全体の約三分の一がドイツとの貿易で占められているわけである。
チェコでは、市場化を進める過程で、伝統的工業部門である機械工業(工作機械、輸送機械、電信機)で新興アパレル産業が回復を遂げ、西欧諸国への機械機器やアパレル製品の輸出が近年大きく伸びている。とりわけ、ドイツに対する機械類の輸出が増加している。一方、ドイツ企業のチェコへの直接投資も活発化し、チェコ企業の近代化につながる技術移転が始まっている。
*アパレル産業Przemysł odzieżowy(アパレルさんぎょう)Clothing industry or garment industryとは、衣服の製造業及び流通業のこと。アパレル (英: apparel ) は衣服を意味する英語の古語に由来する語で、日本語では主に洋装系の既製服を指し、また「アパレル産業」の意味にも用いられる。衣服の企画・製造・卸売を行う企業をアパレルメーカーと呼ぶ。
ドイツとチェコの経済関係は、今後いっそう緊密化する方向にあるといえよう。チェコを旅行するとよくわかるが、市民におけるドイツ語普及度はきわめて高く、そのこともドイツ企業の急激なチェコ進出の要因の一つになっているのではないかと思う。
そして、チェコとドイツとの経済関係について今述べることは、他の東欧諸国とドイツとの関係においても同様であるといえよう。ポーランドにとっては、ドイツは1990年以来最大の貿易相手国であり、取引額で二位以下を大きく引き離している。1993年についてみると、ポーランドの輸出総額の36・3%がドイツへの輸出、輸入総額の28・0%がドイツからの輸入であった。
ドイツは東欧のどの国にとっても最大の貿易相手国であり、各国の対外貿易に占めるドイツのシェアはきわめて大きい。そしてドイツ経済が東欧経済に対して圧倒的影響力をもつようになった現在、ドイツの好不況はたちまち東欧にも波及するのである。
このため、東欧諸国の一部では、ドイツに対する過度の経済依存に対する警戒が出始めている。また、せっかく東方の大国への依存関係を払拭できたのに、ドイツに経済的に支配されたのでは何も変わりがないではないか、という懸念も生れている。
だが、それにもかかわらず、ドイツ経済の東欧への影響力は着実に増大しているのである。

4 東欧のEU加盟問題、厳しい農畜産物規制
EU加盟への布石
EU(欧州連合)の加盟は、東欧のヨーロッパ回帰の象徴であり、東欧の人々の悲願である、などと言われている。EUとしても、東欧の強い期待に応え、1991年12月にポーランド、チェコスロバキア(当時)およびハンガリーとの間で、1992年12月にはルーマニアおよびブルガリアとの間で、EU加盟の前段階といわれる連合協定を締結した。
ドイツのエッセンで1994年12月に開催されたEU首脳会議には東欧六カ国(ポーランド、ハンガリー、チェコ・スロバキア、ルーマニアおよびブルガリア)首脳も招かれ、東欧のEU加盟に積極的なコール・ドイツ首相が「EUは東欧諸国を将来の加盟国として歓迎する、と明確なシグナルを送った」と語った。EU首脳会議に東欧諸国首脳を招いたのは、これが初めてのことである。
そしてハンガリーとポーランドは1994年4月、EUへの正式加盟を申請し、今世紀までの加盟を強く望んでいる。しかし、実際には、EUはさまざまな条件を提示しており、東欧諸国の早期加盟には消極的姿勢を守っているのである。ドイツは前向きだが、フランスやスペインは慎重派、といったEU内の不一致もある。

東欧のEU加盟への「障害」
東欧に対するドイツの圧倒的な経済影響力がさらに強まる趨勢のもとで、東欧が加盟した場合、EUの重心が北に傾きすぎてしまうという懸念はよくきかれる。そして、フランスやイタリアは、北アフリカ諸国やマルタなど地中海諸国との関係強化をめざす「南」重視策を強く主張しているのである。
こうした事情もあって、EUは機会あるごとに、EU諸国と東欧諸国との間の経済格差はあまりに大きく、東欧諸国は市場統合や競争原則などEU共通の仕組みを完全にこなすことができない、と主張してきた。
そして、EU諸国は東欧諸国に対して、加盟の条件として、経済パフォーマンスの改善と並んで、税制、関税制度、会計制度、統計システム等々を広い範囲にわたる制度の改革を要求しているのである。
また、現実の通商関係を拡大するため、EUと東欧諸国との間では、関税の段階的引き下げや輸出入取引の数量規制緩和を盛り込んだ「欧州合意」と名付けられる自由貿易協定が発効している。
しかしながら、こうしたことの一方で鉄鋼、繊維、農畜産物などの「センシティブ」な品目については、EUは厳しい輸入制限を固守している。つまり、東欧諸国がまがりなりにも国際競争力をもつ商品に対しては、EUは高い障壁をめぐらしているのである。
東欧諸国の不満は、当然ながら大きい。東欧諸国側は、東西両欧の代表が参集する国際会議などでは必ずこの問題をもち出し、西欧諸国を批判すると同時に、規制の緩和・撤廃を求めている。
EUが「センシティブ」な品目について東欧諸国からの輸入を厳しく規制する理由の一つは、東欧諸国政府が補助金を支出してそれら商品の生産を助成していることから、自由競争の原則を犯しており、それらの輸入規制は当然だというところにある。
だが、EUのこの主張には、EU側においても疑問が出されている。EUがその共通農業政策によって穀物、牛肉、ミルクなどに膨大な補助金を支出し、フランスやイタリアの農民が恩恵を受けていることは、周知の事実なのである。イギリス人たちは、自国のEU加盟にも冷めた態度をとっており、東欧の加盟問題に対してもかなり客観的である。ロンドン『エコノミスト』誌はしばしばこの問題を論評しており、単純には比較できないとしながらも、「東欧における補助金支出のレベルは、今では西欧諸国の多くと比べて大差がない。1993年について東欧諸国でGDPに占める補助金支出率が一番高かったルーマニアで5・5%、次いでスロバキアで4・8%であったのに対して、1991年におけるアイルランドでは6・6%(EUからの補助金を含む)、ギリシャでは5%以上であった」と指摘している(英誌『エコノミスト』1994年11月5日号)。
東欧諸国の困難な現実
そして実際には、今述べた自由貿易協定にもとづいて輸出先を自由化したことによって、ポーランド、チェコ、ハンガリーなどには西欧諸国側からの安価な野菜、果物、酪農品、加工食品が大量に流入し、各国の農業に深刻な打撃を与えた。一方、EU側の対東欧農畜産物輸入規制は固守されているから、EUへの農畜産物輸出拡大という東欧側の思惑は全くはずれてしまったのである。
この結果、ポーランドでは、困窮した農民が政府の農業政策に抗議して、デモやハンストを行なっている。そして、ポーランド政府(左翼民主同盟)と「農民党」の連立政権)は、国内農業への支援策を明確に打ち出し、EUの規制への対抗措置として、農畜産物輸入関税を引き上げた。
「東欧」と「西欧」との間で、とくに1992~93年に通商戦争のような状況が生じたわけである。
望まれるEU市場の早急な開放
「ジャック・ドロールEC委員長(当時)は、民主主義や自由市場に関する涙ながらの演説を行う一方で、ポーランド紙『ザ・タイムズ』1991年8月25日付)。「金持ちクラブ」と呼ばれる場合もあるEU側が、多少の痛みを分けあって、東欧に向かって早急に市場を開放する必要があるとわたくしは考える。
東西両欧の大きな経済格差がEU加盟の障害という主張にもあまり根拠がない。EU最貧国ギリシャの1人当りの国民所得は8000ドルで、チェコとあまり変りがない。また、チェコがギリシャやポルトガルを凌ぐ日は、それほど遠い将来ではないであろう。
経済格差縮小するためには、当然ながら、東欧諸国の経済成長率がEU諸国のそれを上回り続けなければならない。そのためには、インフラの整備と企業のリストラをはかるための巨額の投資が必要である。その賃金調達には外貨導入と輸出の急速な拡大が何よりも必要なのである。
東欧諸国がこの課題をできるだけ早く達成するためにも、EU加盟を早急に実現して、東欧諸国への直接投資を促進し、東欧諸国の輸出に門戸を開放することが不可欠であるといえよう。
5 コメコン市場の崩壊と見捨てられる倒産企業
旧ソ連と東欧諸国を中心とする経済協力機構であったコメコンは1991年9月に解体し、設立(1949年)以来40年余に及んだその歴史の幕を閉じた。
コメコン(COMECON)は「Сове́т Экономи́ческой Взаимопо́мощи共産圏経済会議Council for Mutual Economic Assistance」の略称であり、これは西側における通称であった。正式名称は「経済相互援助会議」であり、CMEA(クメア)が略称である。また、ロシア語の略称ではSEV(セフ)СЭВと呼ばれており、本部はモスクワにあった。
*Polskiポーランド語⇒Rada Wzajemnej Pomocy Gospodarczej (ros. Сове́т Экономи́ческой Взаимопо́мощи), RWPG (ros. СЭВ) – organizacja powołana w Moskwie w 1949 w celu koordynowania współpracy gospodarczej bloku państw podporządkowanych ZSRR[1]. Załamanie systemu komunistycznego w europejskich krajach satelickich ZSRR po 1989 (zob. Jesień Ludów) oraz zmiany w ZSRR (zob. pieriestrojka i rozpad ZSRR) doprowadziły do rozwiązania RWPG w 1991 w Budapeszcie.

コメコンは、第二次大戦後、アメリカのマーシャル・プランПлан Маршаллаに対抗して設立され、旧ソ連・東欧諸国が戦後の経済復興と発展に全力を挙げて取り組むために相互援助を強化するのが目的であった。

*マーシャル・プラン(英語:Marshall Plan)は、第二次世界大戦で被災したヨーロッパ諸国の為に、アメリカ合衆国が推進した復興援助計画。通常は提唱者のジョージ・マーシャル国務長官の名を冠してこのように呼ぶが、正式名称は欧州復興計画(おうしゅうふっこうけいかく、European Recovery Program、ERP)という。
そしてこの目的にそって、各国の経済計画の調整、工業生産の専門化と協業化(つまり分業化)、物財の安定した相互供給、大規模な共同貿易開発やプロジェクト建設、輸送システムの整備などに努力し、かなりの成果をあげてきたのである。とりわけ、資源開発と輸送における相互協力で成果があがり、超資源大国であった旧ソ連を中心に放射線状の経済相互関係が形成された。旧ソ連・東欧諸国の貿易全体に占めるコメコン域外貿易のシェアは50~80%にも達していた。
東欧諸国にとって、旧ソ連は安価で安定した石油および天然ガスの供給国であり、東欧の工業製品の巨大な輸出市場であったのである。しかしその半面では、東欧各国が労働生産向上と技術革新へ向けての努力を怠り、資源多消費型の工業温存に甘んじる弊害をもたらしもした。
だが、東欧諸国が計画化経済を放棄し、市場経済への移行を開始すると、コメコン域外取引は急激に減少し、対外経済の重心は東方から西方へと急激にシフトした。その結果、域内貿易額は1990~91年のわずか二年間に三分の一程度にまで激減し、東欧諸国の多数の企業が市場を失ってしまった。
コメコンはここにその存在意義を喪失し、崩壊したのである。そして、巨大な旧ソ連市場への輸出がほとんど皆無になった東欧企業は強烈な打撃を蒙った。なかでも、鉄鋼、兵器、造船、化学など電化学工業関連の企業にとって、西欧への輸出市場転換は容易でなく、リストラそのものがこれからの難題となっている。

多発する倒産・失業者と今後の課題
しかも、東欧諸国の市場化はスタートしたばかりである。破産法や会社更生法、銀行制度、失業保険制度等々、市場経済先進諸国で発達している経済的枠組みがまだでき上っていない。赤字企業は倒産してしかるべきである、といった単純で乱暴な議論が行われているプリミティブな段階なのである。
ポーランドにおけるショック療法はそうした方針のもとに敢行され、約300万人の失業者を生む苦痛に満ちた事態を招いた。このため、チェコにおける市場化は、ポーランドの先例を教訓とし、社会主義時代の福祉制度を活用しながら、まず社会の安定を重視して進められている。チェコでは、1993年4月に破産法を施行したが、その運用にはきわめて慎重であり、裁判法における破産宣告は極力避けられている。チェコの失業者が東欧諸国で群を抜いて低く、1994年6月現在3・1%であるのはこうした政策があるからであ、一般的には8%にはね上がる潜在性があるといわれている。
いずれにしても、倒産企業が見捨てられ、失業者が急増すれば、政治・社会的資源が高まるのが当然である。東欧各国の総選挙で国民が旧共産党系政党に投票する背景には、かれらが日々味わっている苦痛があるわけである。

6 旧勢力の復活とロシア民族主義の脅威
旧共産党の復活とソ連支配の記憶
東欧の人々は今、「東欧革命」によって獲得した自由を謳歌し、伝統的ヨーロッパへの回帰志向を強めている。だが、一方でかれらの脳裏から一党独裁体制時代の統制・管理の思い出やその背後にあった強大なソ連・ロシアの姿がいまだに消え去らないのも確かなのである。
ポーランド、ハンガリー、スロバキアおよびブルガリアにおける旧共産党の復権は、完全に自由な総選挙で各国の国民が自ら選択した結果であった。旧共産党といっても、一党独裁時代の党ではなく、それぞれ自己変革を遂げるか、変革をめざし、西欧型の社会民主主義的政党に脱皮したことは、前にも述べた通りである。
V・ハベル・チェコ大統領は、日本の新聞に寄せた小論文のなかで、次のように述べている。「私個人としては、例えばポーランド、ハンガリーにおける左翼諸党の選挙戦勝利が、共産主義への回帰とか改革の鈍化を意味するものだとも思えない。むしろ私は、有権者の一部のこうした見方の変化を、民主主義安定化の前向きの兆候と受け止めたい。ポーランド、ハンガリーの双方とも、問題の左派政党は基本的に社会民主主義的な綱領を掲げて選挙に臨んでおり、そこには改革にストップをかけたり、それぞれの国の外交方針を変えようという意図はみじんも感じられない。こうした変化がイデオロギーに関係あるものとは思われない。一部の国に現れた一定の左翼志向は、予想されたごく自然な反応だったように思う」(V・ハベル「民主化定着の兆し」、『読売新聞』1994年12月19日付)。
ハベル大統領のこの見方は、正鵠を射ているとわたくしは考える。欧米の一部の観察者たちが抱く「共産主義回帰を予示する現象」という懸念は当っていない。

民族主義ロシアの脅威
しかし、それは別に、東の大国ロシアにおけるウルトラ右翼の民族主義台頭が、東欧の人々によって脅威となっていることは、疑念の余地のないところである。それは共産主義とは直接関係がない伝統的ロシアの脅威の復活と考えるべきなのである。
V・ジリノフスキー・ロシア自由民主党党首のようなウルトラ民族主義者が出現し、帝政ロシアのような大国の復活をめざすとかいうかれの主張がロシア国民の間で人気を得るような現象(「ジリノフスキー現象」)の発生は、東欧諸国に警戒心を抱かせずにはおかない。ましてや、エリツィン大統領が、ジリノフスキー氏の台頭に動かされて右旋回し、ロシアの大国主義を正当化する発言を繰り返すようになっては、東欧のロシアに対する警戒が強まるのも当然であろう。
*ウラジーミル・ヴォリフォヴィチ・ジリノフスキー(ロシア語:Влади́мир Во́льфович Жирино́вский、ラテン文字表記の例:Vladimir Voľfovich Zhirinovskii、1946年4月25日 - )は、ロシア連邦の政治家。ロシア連邦軍大佐、ロシア自由民主党の創設者及び同党党首、国家院副議長。欧州評議会議員会議(英語版)の委員でもある。
このような状況では、東欧諸国としては、ヨーロッパへの回帰志向をいっそう強め、政治・経済についてはEUへの加盟、軍事についてはNATO(北太平洋条約機構)への加盟を追い求めざるをえないのである。
NATOへの早期加盟をめざす東欧と及び腰の西欧
東西冷戦の終結は、東側の軍事機構であったソ連・東欧諸国の「ワルシャワ条約機構」の解体(1991年7月)をもたらした一方、東欧諸国に安全保障の真空状態を懸念させることになった。東欧諸国はNATO加盟をめざすことになったが、NATOの東方への拡大はソ連邦解体後のロシアが深く憂慮するところであり、エリツィン政権の強い反発を引き起した。
このためNATO諸国は米国をはじめとして、東欧諸国の加盟には慎重な姿勢をみせ、ロシアを含めた旧ワルシャワ条約機構加盟国と個別に軍事協力関係を形成する「平和のためのパートナーシップ(PFP)」を提案、1994年夏までに旧ソ連諸国と東欧諸国のほとんど全てとの間で協定を取りかわした。

「全欧安全保障協力会議(CSCE)」が、1994年12月初旬、ハンガリーの首都ブダペストで開催されたが、東欧諸国のNATO加盟をめぐって、参加した首脳たちの間では対立が目立った。まず、エリツィン・ロシア大統領がNATOの東方拡大に反対する意向を明確に表明した。そして、ロシアのこのような態度表明があって、東欧諸国はかえっていっそう強くNATO加盟に執着するようになったのである。

*全欧安全保障協力会議(ぜんおうあんぜんほしょうきょうりょくかいぎKonferencja Bezpieczeństwa i Współpracy w Europie、英名:the Conference on Security and Cooperation in Europe)は、欧州全体の安全保障について陣営に関係なく話し合うために1975年に設立された会議。
そして、今述べたPFPについては、ロシアと東欧諸国の両方をなだめる目的の一時凌ぎ策という見方が強い。NATO諸国は、東方拡大問題がそれでなくても不安定なエリツィン政権をさらに揺るがすことを懸念して、決断を下せないでるのである。東欧諸国のNATO加盟問題は、21世紀へ向けてのヨーロッパの国際政治を展望するうえで、目を離すことができない問題の一つであるといえよう。

×

非ログインユーザーとして返信する