日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Europa Wschodnia/Europa de Est★『東欧 再生への模索』小川和男/Search for Eastern Europe regeneration Kazuo Ogawa/Recherche de la régénération de l'Europe de l'Est/ Suche nach Osteuropa-Regeneration⑨


第V章 東欧経済のこれから
1 ユーフォリアから覚めて現実直視へ
厳しい課題解決への道
東欧諸国にとって、今後に達成すべき最重要課題は何であろうか。とくに経済にかかわる課題は何であろうか。第I章から第IV章において、東欧諸国のさまざまな問題を取り上げたなかで、わたくしとしては、将来の課題についてまでかなり記述し、答えは出ているように思う。だが、ここでもう一度繰り返すことになるが、締め括りをしてみよう。
東欧の人々は、「東欧革命」を成就して、本当の意味で半世紀ぶりに政治的・社会的自由を手に入れ、東方の大国の支配を脱して伝統的ヨーロッパへ回帰できるということで、一時的ユーフォリア(無上の幸福感)に酔った。

だが、現実の諸問題が解決されたわけではない。全てが始まったばかりで、政治的課題も経済的課題も、基本的には東欧の人々が自ら一つ一つ解決していくほかに特別な手立てはないのである。外国の支援に多くは期待できないであろう。また、EUが東欧諸国の早期加盟に消極的であるのは、第IV章で述べた通りである。IMFの融資には必ず厳しいコンディショナリティ(付帯条件)があり、きわめて性急な市場化を強要するなど、東欧諸国の基礎的経済条件を考慮に入れない要求も多い。
期待しにくい大型援助
東欧諸国としては、これまで長い間社会主義の呪縛に苦しみ、ようやく自由の身になったのだから、西欧諸国が助けてくれるのは当り前という気持が強いかもしれない。しかし、東欧諸国の要求に配慮して、親身になってくれる国などありはしないのである。
まず東欧諸国が一番期待をかけていた経済大国ドイツは、統一のコストが予想をはるかに超えて大きく嵩み、対外支援の余力が小さくなってしまった。しかも、ロシアやウクライナへの経済支援という難題が重なっている。フランスやイタリアには、もともと東欧諸国に対する経済援助の意志がないとまではいえないにしても、その実績は乏しい。
アメリカ政府は、東欧諸国の民主化・自由化を支援し、市場化を促進すると大見栄を切り、先進諸国を主導している。しかし実際には、アメリカ政府は、巨額の財政赤字に苦しみ、東欧諸国に大きな経済援助を差し向ける余裕などあるはずがないと思う。
ロシア・ポーランド大統領の発言には、アメリカに対する甘えのニュアンスが時として込められる。ポーランドの対外債務は社会主義政権時代のものであり、今日の政権には責任がないという主張である。アメリカ政府がイニシアチブをとったことにより、先進諸国政府がポーランドの公的債務を半減したことは先に述べたが、これはあくまで例外であり、ポーランドだけに対する特別な救済措置である。
それでは、アジアの経済大国日本に期待することができるであろうか。日本政府は、先進七カ国の一国として責務を果たすと言って多少の支援に合意している。だが、日本の経済援助の第一の対象地域はアジアであり、その対象国は中国である。ロシアに対する支援も小さくない、ということで、おのずとその答えは得られよう。

求められる慎重な市場化
市場経済メカニズムの導入が万能薬でも特効薬でもないことは、すでに明らかである。東欧の人々はこのことを現実に体験した。人々が市場経済メカニズムに習熟するまでには、今後相当に長い年月が必要であろう。
東欧の人々は、ユーフォリアに酔っている余裕はないはずであるし、より厳しく現実を直視する必要があるのではないだろうか。そして、自助努力なくしては、極端に疲弊した経済を立て直せないであろう。
市場経済への移行に関しても、IMFやアメリカのハーバート大学ビジネス・スクールの一部学者たちの勧告を鵜呑みにしてのあまりに性急な転換措置をとって、つまり人頼みの政策を実行して、結局は自分たちの国内経済を混乱に陥れてしまったような失敗は、二度と繰り返してはならない。
自国の諸条件に見合った。自分の身に合った移行プログラムを熟考して作成し、そのプログラムにもとづいて市場化を進める以外の有効な方法はないものとわたくしは考える。ポーランド、ハンガリー、スロバキア、ブルガリアにおける総選挙の結果、旧共産党系政党が政権に復帰したのは、急激な市場化がもたらした窮状に対する国民の不満と批判の明確な表示であった。完全に自由な選挙によるこのような結果に対して、各国政府が正当に対応しなければならないのはもちろんであるが、欧米先進諸国も、議会制民主主義を本当に支援するのであれば、それ相応の考慮を払うべきであると考える。
チェコとルーマニアでは、政権の性格とそのよって立つ基盤は著しく異なっているが、それぞれの条件を考慮した慎重なペースで市場化が進められている。
東欧安定のための好条件
現在東欧諸国にとって幸いなことは、旧ユーゴスラビア内の難状は別にして、ヨーロッパ政局が概して安定していることである。新聞やテレビでは毎日のように困難な事態が報道されるが、歴史的パースペクティブや広い国際的視点から見れば、それらはヨーロッパのなかの小波であろう。東欧諸国は、国際関係に大きく左右されずに、国内問題の改善をめざして努力を傾けることができるのである。
このことは、両大戦間における情況と今日の情況を対比してみれば、歴然としているとわたくしは思う。東欧諸国は、バルト三国を含めて、第一次大戦後ようやく真の独立を果たしたわけであるが、その期間はわずか20年間にすぎなかった。しかもその間も、ナチス・ドイツの侵略主義とソ連の共産主義と東西両方からの脅威にさらされ続けた。そして結局は、ポーランドもチェコスロバキアも、独立を失ってしまったのであった。
今日、「東欧革命」は欧米諸国から祝福され、歓迎されている。それは、東欧の人々が自らの力で手に入れたものである。大国の利害の妥協による産物などではない。東欧の人々は、東西冷戦体制の崩壊という僥倖があったとはいえ、自分たちが獲得した自由を誇りにしてしかるべきである。
一方、ソ連邦解体のロシアも、趨勢としては東欧諸国と同じ民主化・自由化をめざしている。しかし、ロシア経済は不振をきわめ、立ち直るためには相当に長い年月が必要である。ロシアもウクライナも、内憂に全力をあげて対処するため、外患は可能なかぎり排除する必要があり、全方位平和外交こそ必須の路線であると考えるべきであろう。ここでロシアの伝統的大国主義と外国が声高に指摘するのは、かえってそれを呼びさますようなものであるとわたくしは考える。
21世紀を展望すれば、EUのかたくなな態度も徐々に緩和してくるものと思われる。東欧諸国にEU加盟ヨーロッパ回帰のメルクマールの一つとする思想があるとすれば、東欧の人々が自らの手で着実に市場化を進め、自分たちの経済力を高めることこそ、加盟実現への早道ではないかとわたくしは考えるのである。

2 市場化・民営化ペースの再検討 
増大する政府の役割
東欧諸国のこれからの課題のなかでも、市場化の中心となる民営化は、最重要課題であると強調されることが多い。だが、そのペースについては、再検討の余地が大きい。現実にも、速すぎる民営化ペースを落した国が出ている。IMFの勧告にしたがって目標の民営化率を実現できたとしても、民営化企業が早々に倒産に追い込まれ、失業者が増加したのでは、何のための民営化ということになろう。
現実には東欧各国の民営化が難航し、しかも国有大規模企業の民営化は着手されたばかりである(第III章参照)。そして今後、大規模企業の民営化を進めるに当っては、政府あるいは政府関係機関が具体的な中長期民営化プログラムを作成し、秩序だった民営化を実施していくという方法をとるべきであるとわたくしは考える。なぜなら、自由放任の民営化などありえないし、無秩序な民営化は混乱を引き起こすばかりであるからである。
この点からも、政府や地方行政の役割が今後強化されることになろう。政府の役割の見直しというと、東欧諸国がめざす市場化・民営化の趨勢に対する逆行と受け取る向きがあるが、そういうことはない。
アメリカの市場経済システムとヨーロッパのそれとは違うし、日本のシステムはまた異なる。純粋に自由な市場経済システムなど現実には存在しないし、西欧の市場経済システムでは、周知の通り、政府が大きな役割を果たしているのである。フランスでもイギリスでもイタリアでも、市場経済システムの下で、長い間多数の大規模国有企業が活動してきた。
また、日本はもちろん、社会主義国であったことはないし、計画化経済を実施したこともない。しかし、第二次大戦後における日本の経済発展にとって、政府が作成したガイドライン的な長期・中期経済計画は、きわめて実質的な意味をもち、一定の役割を果たしてきた。
日本では、さらに実質的な「ギョウセイシドウ」があり、この日本語はアメリカの経済関係省庁やビジネス界の一部ではそのまま通用するほどである。このことの詳細は別として、日本経済における政府の役割は、他の西側諸国と比較してもきわめて大きいといえよう。
日本はまた、第二次大戦中から大戦後の中央統制経済を克服して、市場経済への移行に成功した国でもある。東欧諸国は、市場化を進めるに当たって、日本の経済システムと第二次大戦後の経済で参考にできるところも多々あるのではないかと思う。

3 旧ソ連各国との貿易の見直し
激減した対旧ソ連貿易
東欧諸国の経済発展にとって対外貿易がキィ・ファクターの一つである。かつて社会主義時代においては東欧のどの国にとっても、旧ソ連が最大の貿易パートナーとして決定的に重要な地歩を占めていたことは、第IV章において述べた。
けれども、コメコンの崩壊とソ連邦の解体が続き、東欧諸国の対外貿易が東方から西方へ急激にシフトした過程で、東欧諸国と旧ソ連との貿易取引額は四分の一にまで縮小した。
東欧諸国にとっても、ロシアやウクライナをはじめとする旧ソ連諸国にとっても、今後経済の本格的ペレストロイカをはかっていくうえで、激減した相互貿易の回復をはかる必要がかならず生じることになろう。
顧みられない巨大市場
東欧諸国の輸出はたしかに西欧諸国、なかんずくEU諸国へ向けシフトし、増大した。しかし、第IV章でも述べた通り、旧ソ連への完成品輸出で成り立っていた重化学工業関連企業は、巨大な市場を失い、転換もできず、壊滅的打撃を受けた。EUはしかも、東欧諸国からの鉄鋼、繊維、農畜産品輸入には新しい数量規制を設けている。
東欧諸国は、旧ソ連諸国の経済が回復すれば、工業製品についても食料品についても、旧ソ連市場への大量輸出を実現することができよう。もちろん、品質、デザイン、価格、デリバリー等々の点で、西欧製品との競争に打ち勝つことが前提条件であるが。
ロシアの大都市モスクワとサンクト・ペテルブルクの消費市場は、1994年を通じて食料品も、繊維製品も、家電品も、欧米製品や日本製品に全く席捲されるという事態が発生している。東欧諸国は大きな輸出チャンスを失っている、といわざるをえない。
旧ソ連諸国側からみてみると、旧ソ連は東欧諸国から、機械・設備や鉄鋼など重工業関連製品はもちろんであるが、その他にも様々な種類の商品、たとえば繊維品、医療品、化粧品、家電品、生鮮野菜・果実、食肉、加工食品等々を多量に輸入していた。
しかしロシアをはじめ旧ソ連諸国の工業生産が1991~93年の三年間に半減したことから、重工業関連製品の輸入需要も、当然のことながら激減してしまった。しかし、工業生産が少しでも回復に向かえば、旧ソ連諸国における生産設備輸入は再び増大するとみられる。
旧ソ連市場回復の可能性
一方、消費関連商品の輸入需要は減らず、旧ソ連のニュー・リッチたちの急激な購買力増大もあって、現実の輸入は著しく増加している。輸入は、高級品や食料品は、非合法な輸入も含めて、欧米先進諸国から、安価な繊維品や革靴は圧倒的な部分が中国からのものであった。東欧諸国が旧ソ連市場への関心を失わずに、今述べたような商品の対旧ソ連輸出闘争に伍していれば、東欧各国経済の復調にかなり寄与することができたであろう。今後においても、同じ可能性はきわめて大きいのである。
旧ソ連の消費者心理のなかにも根強い欧米ブランド品嗜好がある。自国品の品質やデザインのわるさ、いわゆるファッション感覚の低さ、価格の高騰などいろいろな要素があって、とにかく外国品崇拝なのである。旧ソ連消費市場のこのような特徴を考慮に入れると、東欧各国に現在進出中の欧米企業の営業活動が本格化すれば、東欧を拠点としての旧ソ連市場へのアクセスが非常に大きな魅力をもつことになろう。
旧ソ連諸国では、東欧諸国からの輸入が激減していくつかの難題が発生した。たとえば、医療品・畜産品・衛生用品の極端な不足である。旧ソ連は、ハンガリーや旧東ドイツから多量の医療品を輸入していたが、これがとだえてしまったのである。家電品や衣服であれば、ニュー・リッチが高級品を買い、低所得者層は中国製品を買ったわけであるが、医療品にはそうした区別はなく、絶対的供給量が不足しているのである。このことから、東欧諸国は旧ソ連諸国への医療品輸出を回復することは、比較的容易であろうと考えられる。
豊かな原燃料供給国としての旧ソ連
一方、東欧側の視点に立てば、旧ソ連との経済関係は、東欧の輸入においても重要な意味をもっている。それは、第II章でみた通り、東欧諸国が原燃料供給の大部分を旧ソ連に依存してきたからである。
東欧諸国が旧ソ連から西欧や中近東へ原燃料輸入先を転換することはかなり困難とみられた。旧ソ連からの輸入は長年の間、社会主義諸国の経済協力という考えにもとづいて実現されてきたし、東欧側が供給する商品とのバーター取引的特性をもっていたからである。
西欧や中近東から大量の原油や石油製品を輸入することになれば、多額の外貨が必要であり、東欧各国が概して深刻な外貨不足に苦しんでいることを考慮すれば、旧ソ連から西側諸国へ輸入先をシフトすることは、実に難しい課題なのである。
1990年代半ばの今日、東欧諸国は、石油をはじめとする原燃料の需給問題にかなり上手に対処している。旧ソ連からの東欧諸国に対する原燃料供給は、大幅に減少したとはいえ、維持されている。ロシアは引き続き、東欧諸国に対する最大の石油・ガス輸出国である。
それと同時に、東欧諸国の市場化の過程で発生した鉱工業生産の大幅な落ち込みが要因になって、エネルギー原料をはじめとする原材料需要も減少した点を見逃すことはできない。
だが東欧諸国の経済が今後回復から拡大方向に好転すれば、原燃料需要も増大するとみるのが自然であり、その場合これにどう対応するかは、各国政府が早くから熟考し、準備する必要がある重要な課題である。
ロシアをはじめとする旧ソ連諸国のいくつかが潤沢な天然資源の保有国であることは、今も変らない。東欧諸国としては、あらためて旧ソ連諸国を巨大な可能性をもつ輸出市場として把握する一方、豊富な原燃料供給国としても見直す必要があろう。
ポーランドとロシアとの間では、年間670億立方メートルのロシア産天然ガスをポーランド国内を通過させて西欧へ供給する新しい幹線パイプラインを敷設する交渉が最終段階にある。新パイプラインは、西シベリアの北極圏ヤマル半島を起点にポーランドとドイツ国境まで全長約4000キロメートルを結び、紀元2001年の完成をめざしている。ポーランドでは、現在もロシアから年間約60億立方メートルの天然ガスを輸入しているが、新パイプラインが完工するとさらに年間140億立方メートルを受け取ることになる。ポーランドは将来のエネルギー需要増大を見込み、一方ロシアは巨量の天然ガス埋蔵量を基盤に将来も確実な輸出確保による外貨獲得を期待して、両国の利害が一致しての大規模な経済協力プロジェクトが始動したのである。
このプロジェクトは、1995年1月30日、ワルシャワにおけるコウォドコ・ポーランド副首相兼蔵相とダヴィドフ・ロシア副首相兼経済関係相との会談で確認され、1995年中の着工が決った。
*Polskiポーランド語⇒Grzegorz Witold Kołodko (ur. 28 stycznia 1949 w Tczewie)[1] – polski ekonomista i polityk, profesor nauk ekonomicznych, autor teoretycznego nurtu ekonomii znanego jako nowy pragmatyzm.
*Русскийロシア語⇒Оле́г Дми́триевич Давы́дов (род 25 мая 1940, Москва) Oleg Dmitriyevich Davydov— российский экономист и государственный деятель; министр внешних экономических связей РФ (1993—1997), заместитель председателя правительства РФ (1994—1997).

4 東欧諸国相互間の経済関係の改善と強化
東欧諸国相互の結び付きの弱さ
東欧諸国相互間の経済・貿易関係は、旧ソ連との関係に比べて、その重要度がずっと低かった。社会主義的な経済協力という理念にもとづいたコメコン(旧ソ連・東欧諸国の経済協力機構)域内の経済・貿易関係は、旧ソ連を中心に放射線状に形成されていたのであり、東欧諸国相互間の関係は相対的に弱かったのである。とりわけ、北部の先進諸国と南部バルカン諸国との経済的結びつきは薄かったといえよう。
東欧各国の経済規模が小さいことを考慮に入れれば、コメコン統一市場を形成し、そのもとで国際分業を深め、経済のスケールメリットを追求することが合理的であった。コメコンの盟主であった旧ソ連はこの点を強く主張し、最終的には加盟各国の経済計画の調整と統合にいたる経済統合をめざしていたのである。

しかし、東欧諸国においては、旧ソ連によって自分たちの経済的主権が制限されかねないという危惧が強かったし、各国のナショナル・インタレストも複雑にからみ合い、結果的には合理的な困難分業はついに形成されることがなかった。
けれども東欧経済のこれからを展望してみると、EUとの関係の強化や旧ソ連諸国との関係の見直しと同時に、東欧諸国相互間の関係の改善と強化にも努力を傾けることが必要ではないかとわたくしは考える。隣国同士でありながら、貿易取引き不活発であったこれまでの状態こそ、きわめて不自然であったといえよう。
東欧諸国相互間の貿易取引額は、表V-Iに示す通り小さい。したがって現在の相互取引規模を倍増させることは、各国にとってはそれほど困難なことではないであろう。とくに、中欧四カ国間の相互取引は大きく伸びる可能性がある。
中欧諸国相互間の貿易は、1980年代を通じて、その40~50%が機械・設備で占められていた。この機械・設備取引は、1990~92年に劇的な減少を記録して、シェアは10~20%まで低下して、代って燃料、農畜産品、半製品の取引が拡大した。

①Polskiポーランド語⇒Środkowoeuropejskie Porozumienie o Wolnym Handlu, w skrócie CEFTA (Central European Free Trade Agreement) – porozumienie podpisane 21 grudnia 1992 r. w Krakowie. Sygnatariuszami porozumienia były pierwotnie trzy kraje: Czechosłowacja, Polska i Węgry②Češtinaチェコ語⇒Visegrádská skupinaヴィシェグラード・グループ [višegrádská] (také nazývaná Visegrádská čtyřka nebo V4) je aliance čtyř států střední Evropy: Česka, Maďarska, Polska, Slovenska.

期待されるCEFTAの発展
そうしたなかでポーランド、チェコ、スロバキアおよびハンガリーの四カ国政府が1992年12月に調印した「中欧自由貿易協定(CEFTA)」は、東欧諸国相互間の経済・貿易関係の今後の行方に大きな影響を及ぼす実験として注目されている。
CEFTAは、1991年2月に、ポーランド、旧チェコスロバキアおよびハンガリーの三国首脳がこの協定締結について初めて話し合ったハンガリーの故地にちなんで、「ビシェグラード協定」とも呼ばれ、加盟諸国はビシェグラード・グループ諸国とも呼ばれている。
このCEFTAは、自由貿易圏の形成をめざし、圏内における関税引下げ、非関税障壁の除去、保護政策の緩和などを五年間で段階的に実施して、2001年までに全品目について関税を撤廃することを目標にしている。
しかし、CEFTA加盟諸国の利害は、必ずしも一致していない。とくにチェコが一貫して自由貿易主義の立場に立ち、農畜産品を含む貿易の自由化を主張しているのに対し、ポーランド、ハンガリーおよびスロバキアはきわめて慎重な姿勢をとっていることの影響は大きいといえよう。この点から、貿易自由化による取引の拡大と各国の産業保護との利害の調整が重要な課題として浮上しているのである。それにもかかわらず、CEFTA諸国間の貿易は1994年に大幅な増加を記録した。
また、1994年11月に開催されたCEFTA首相会議では、CEFTAの地理的拡大が話し合われ、1995年中にスロバキアが加盟することが決定された。その他にも、加盟候補国としてルーマニア、ブルガリア、バルト三国が挙げられ、これら諸国が一定の要件を満たせば、順次加盟を認めることで合意が成立している。
だが、CEFTAの役割は、今述べたような圏内貿易の拡大に限定されるわけではない。各国の最終的目標であるEU加盟へ向けての協力。あるいはロシアとの関係についての共同施策なども、きわめて重要な課題である。CEFTA形成をEU加盟のための重要なステップとする認識は、ビシュグラード・グループ諸国の政治的エリートたちの間で共通したものとなっている。

5 日本・東欧経済関係と日本企業
活発でない日本の東欧貿易
日本と東欧しょこくとの経済関係は、残念ながら緊密であるとはいえない。相互の貿易取引額も、西欧諸国と東欧諸国間のそれに比べれば、著しく小さいといえよう。また、貿易そのものも不安定であり、年によって取引額が大きく変動している。
そのなかで現在、日本にとって、東欧の主要な貿易相手国は、ポーランド、旧チェコスロバキアおよびハンガリーの三国で、1990年前半における各国との年間取引額は2~4億ドルとなっている。
また、次のグループは、ルーマニア、ブルガリア、旧ユーゴスラビアで、年間取引額は1億ドル前後である。なかでもルーマニアはかつて、日本にとって東欧最大の貿易相手国であったことがあり、1970年代後半の年間取引額は約3億ドルを記録していた。けれども、これら三国と日本との貿易は、近年きわめて不振といわざるをえない。
バルト三国およびアルバニアと日本との取引額は小さい(表V-2参照)。
そして日本と東欧諸国との間の経済・貿易関係に横たわる最大の問題は、なによりも距離の遠隔である。地理的にも、輸送アクセスの点からも、心理的にもとにかく遠いのである。
日本と東欧諸国の首都との間がようやくダイレクト・フライト便で結ばれたのは、関西空港が開港した1994年のことで、この結果ハンガリーのブダペストが近くなった。なお、わたくしは毎年東欧訪問を繰り返しているが、この際には成田空港から西欧のウィーンやロンドンやフランクフルトに飛び、そこから東欧の都市へ入るのが普通である。もちろんモスクワで乗り換えて東欧諸国の首都へ入ることも、可能である。この場合は、わたくしの仕事柄、モスクワで数泊するのが普通である。
また、東欧の多くの国が内陸国で、海に向かってひらけているといっても、その海がバルト海や海洋とはいえない黒海であることは、日本からの貨物輸送を非常に不便なものにしている。
さらに、距離の問題と同じくらいか、あるいはもっと重要な問題点は、輸出入取引の商品構造である。すなわち、東欧諸国側には、社会主義時代には日本の石油化学ブランドや工作機械をはじめとする機械・設備、近年では乗用車や家電品に大きな需要があり、日本から東欧への輸出が伸びるのに対して、日本が東欧諸国から輸入できる商品が大変少ないのである。
東欧諸国の商品で日本市場に向けて輸出競争力があるのは、農畜産品や鉄鋼である。日本企業は実際にも、鉄鋼、加工食品、魚介類、麦芽やホップ(チェコから)、ガラス器や陶磁器等々を買い付けている。しかし、遠い距離を考えれば、日本の東欧からの輸入を大幅に増大させるような商品ではないし、輸送費が高くなりすぎるきらいもある。このことの結果は明らかで、日本の大幅な輸出超過が続き、輸出入バランスの是正が恒常的な懸案となっているのである。
日本企業は、大手商社が1970年代初めから東欧各国の首都に次々と支店を開き、互いに売り込みにしのぎを削ってきた。歴代駐在員たちの苦労は、日常生活の労苦を含めて、大変なものであったと思う。しかし、それに対して、商談が成立した成果としての駐在員の実績となると、決して大きいものではなかった。その結果どうなるか。日本のサラリーマン社会では、「東欧とのビジネスに関係すると、出世が遅れる」ということになってしまうのである。
それにもかかわらず、東欧ビジネスに非常に長くかかわった商社マンたちが、定年後の生活に入って、かつて駐在した国と日本との間にある市民ベースの友好団体にボランタリーの役員として勤務し、昔を懐かしんでいる例を、わたくしは何人も知っている。これも東欧の国々と人々がもつ魅力によるものであるといえようか。

市場化による東欧フィーバーとその後の落ち込み
その後、東欧諸国は、市場経済への転換にかかわる施策の支柱の一つとして、経済の開放化を積極的に進め、外国資本誘致にさまざまな優遇措置をとるようになった。欧米諸国企業や日本企業の間では、直接投資市場としての東欧市場に対する関心がにわかに高まったのである。
東京でも、1990~91年を通じて、大手都市銀行がそれぞれの本店に備える大ホールで顧客に対するサービス事業として「東欧投資セミナー」を開催すると、600~700人もの企業代表や個人ビジネスマンたちが集まり、まことに盛況であった。しかし、わたくしは、専門家の一人としてこのようなセミナーで度々講師を務めさせられたが、これだけ多く参集した企業のうちから、現実に東欧市場への進出を果たすことができるのは何社か、よくても数社であろうと思うと、いつも元気が出なかった。わたくしは、現実にもとづいて話す以外になかったし、あまりよいことは言えなかったのである。
日本のそのような東欧フィーバーは、ごく短い期間で冷め、1990年代半ばの今、フィーバーの反動からか、東欧市場は全く見込みがないという悲観的見通しがひろまっている。だが現実には、ドイツ企業をはじめとする多数の西欧企業が東欧への進出を果たしていることは、第IV章で述べた通りである。ドイツ企業にとっては、文字通り「地の利」が活かされているのである。一方、日本企業にとっては「不利」ということで、中国市場へ殺到するようなわけにはいかないということであろうか。

活発なドイツの投資活動
1994年6月、わたくしはベルリンの緑濃い閑静な高級住宅街にあるベルリン経済研究所を訪ねて、旧知のマホフスキ教授と懇談した。同研究所はドイツ五大経済研究所の一つであり、同教授は旧ソ連・東欧経済の専門家としてドイツで屈指の一人である。
*Deutschドイツ語⇒Das Deutsche Institut für Wirtschaftsforschung (DIW) mit Sitz in Berlin ist das größte deutsche Wirtschaftsforschungsinstitut. 1925 wurde es von Ernst Wagemann als Institut für Konjunkturforschung (IfK) gegründet und erhielt einige Jahre später seinen heutigen Namen.
マホフスキ教授によると、ドイツの企業家・投資家は、ロシアへの投資にはあまり魅力を感じていない一方、ポーランド、チェコ、スロバキアおよびハンガリー四カ国への投資には、非常に積極的であるという。1993年のこれら「ビシュグラード」四カ国へのドイツの直接投資額は16億マルクに達し、ドイツの全直接投資額の8・5%を占めた。1990年におけるこのシェアは0・5%にすぎなかったので、急激な拡大であるといえよう。それに比べ1993年のロシアへの直接投資額はわずか3000万マルクにとどまったという。
ドイツ企業家・投資家にとってこの四カ国の魅力としては、安い労働力、中小企業レベルで可能な直接進出、民営化の進捗等々を指摘した。この点は、日本企業としても耳を傾ける必要があろう。
日本企業の進出では、「スズキ」のハンガリー進出や「松下」のポーランド進出が国際的な注目を集めた。しかしこれまでのところ、日本企業の進出件数と投資累積額は、欧米の企業と比べると著しく少ない。ポーランドを例にとると、1994年9月現在、直接投資を行なって進出した外国企業が1万6355社を数えるうち、日本企業は25件にすぎない。チェコについてみても(1993年12月現在)、総数約3400件のうち、日本は9件にとどまっている。ハンガリーでも(1993年12月現在)、直接投資額1万8350件のうち、日本の進出は33件であった。
*①Magyarマジャール語⇒A Suzuki Motor Corporation (スズキ株式会社; Hepburn: Suzuki Kabushikigaisha?) egy japán multinacionális cég, mely fő jövedelmét az autók és motorkerékpárok gyártásával szerzi be②Polskiポーランド語⇒Panasonic Corporation (jap. パナソニック株式会社 Panasonikku Kabushiki Gaisha; dawniej Matsushita Electric Industrial Co., Ltd.) – japoński koncern elektroniczny. Spółka publiczna notowana na giełdach tokijskiej i nowojorskiej (NYSE). 1 października 2008 koncern zrzeszający spółki Matsushita, Panasonic i National oficjalnie zmienił nazwę na Panasonic Corporation.
東欧各国の政府当局者たちは、機会がある度に、日本の政府も企業も消極的にすぎると言って不満を表明している。日本企業としては、極端なフィーバーと極端なシステムとの間を大きく左右することなく、現実の状況を見直すことが必要であると言える。

好転する東欧経済に集まる関心
欧米諸国では、東欧諸国経済の好転に注目する向きが増え、1990年代後半という近い将来に東欧市場は、アジアおよび中南米に次ぐエマージング・マーケット(新興成長市場)に成長するという指摘さえ出始めている。
*エマージング・マーケット(Emerging marketsSchwellenmarktとは新興国市場Pays émergentのことで、新興成長市場Развивающиеся рынкиとも呼ばれる。エマージング(Emerging)は「出現、登場、現れる」という意味。国際金融公社(IFC)による命名。
オーストリア国立のウィーン比較経済研究所は、旧ソ連・東欧経済に関する高度の調査・研究で国際的に大変有名である。その比較経済研究所が1995年早々発表した東欧経済の現状ならびに見通しによると、表V-3に示す通り、東欧各国ではGDP(国内総生産)が拡大基調に向かい、インフレも若干低下しており、失業率はチェコを除いて依然として高水準にあるものの、経済全体が改善されている、という結論になっている。
*①Deutschドイツ語⇒Das Österreichische Institut für Wirtschaftsforschung (WIFO) ist ein als Verein organisiertes Wirtschaftsforschungsinstitut mit Sitz in Wien (auf dem Gelände Arsenal)②Das Wiener Institut für Internationale Wirtschaftsvergleiche (wiiw) ist ein als Verein organisiertes österreichisches Wirtschaftsforschungsinstitut mit besonderer Ausrichtung auf Osteuropa.
チェコ、スロバキアおよびハンガリーの三国では、1994年のGDPが体制転換後初めてプラスに転じ、ブルガリアもマイナス成長からどうにか脱したとみられている。ポーランドのGDPは1992年から、ルーマニアのそれは1993年からプラスに転じているから、東欧各国全ての生産が回復に向かい始めたわけである。
第III章の表3では、1994年の生産範囲がもう少し厳しく評価されていた。したがって、この点を考慮に入れると、ハンガリーを例外として、各国とも1994年後半に生産が著しく回復したとみられ、1995年以降へと期待がつながるのである。
IMFをはじめとする国際金融機関やEUが東欧諸国の市場化促進をはかって1990~92年の三年間に供与した資金援助額は約150億ドルにのぼった。1993年以降は、欧米民間銀行がチェコやハンガリーに融資を再開している。1994年には、ポーランドとブルガリアの対外債務の返済繰り延べが認められた。東欧各国への直接投資も著しく増大し(第III章参照)、合弁企業の活動が目立つようになっている。
こうした資金や投資は、東欧各国の産業構造転換や民営化に徐々に効果を上げ始めている。とりわけ、輸出関連部門における貢献度が高いとみられる。
ただし、大規模国有企業の民営化を進めた場合に発生が予想される失業増大の不安は解消されていない。今後、商業・サービス分野における雇用機会のいっそうの増大をはかると同時に、工業部門の再建に力を注ぎ、工業製品の輸出競争力を格段に強化することが必要である。
そのためには、外資導入をさらに活性化させることが必要不可欠であり、換言すれば、欧米諸国や日本にとっての投資機会は多いという結論になる。
日本政府の経済協力と今後の課題
日本政府は、東欧諸国の民主化・自由化と市場化を支援するという先進諸国の合意にもとづいて、東欧各国に対してかなり活発な経済協力を行なってきている。
経済協力としては、ODA(政府開発援助Official development assistance)を含む政府ベースの無償資金協力、日本輸出入銀行の資金によるアンタイドローン(目的を定めない借款Untied loan)供与、環境保全を中心にした技術協力、東欧諸国からのさまざまな専門分野の研修生受け入れ、日本から東欧諸国への専門家派遣等々、多岐にわたっている。
しかし、東欧諸国の工業化水準と生活水準が決して低くないことは、すでに繰り返し述べたところで、その点を考慮に入れれば、通常は発展途上国に供与するODAを東欧諸国に向けるのは筋違いであるといえよう。日本政府がロシアに対してはODAを認めず、独立した中央アジア諸国に対してはそれを認めたことを勘案すれば、なおさらそうである。東欧諸国、とりわけ中欧四カ国の生活水準は、ロシアをずっと凌いで高い。
実際には、市場化がどの国でも長期的課題であることを十分に考慮に入れ、知的支援、つまり、研修生の受け入れや専門家の派遣を根気よく、忍耐力をもって続ける必要があるとわたくしは考える。日本政府の無償資金協力の内容が東欧諸国のオペラ劇場やコンサート・ホールに対する音響機材や照明機材、柔道関連器材などであるのは、愉快なことである。

6 必要なEU以外のヨーロッパへの視点と理解
西欧に属したヨーロッパ理解
日本では、ヨーロッパといえば一般に西ヨーロッパのことをいい、とりわけEU諸国にのみ眼が向いていて、そのことが全く当り前となっている。ほとんどだれも疑念をはさまない。
学者、研究者でも「ヨーロッパ史やヨーロッパ文化と造詣が深い」といっても、その場合のヨーロッパはほとんどが西ヨーロッパであって、とりわけフランス、イギリス、ドイツ、せいぜいイタリアである。ヨーロッパの東半分には全くといってよいほど関心を持たれていないし、旅行されることさえ少ないといってよかろう。もちろん、長年にわたって東欧の歴史や民族、文化を研究してきた人たちも少なからずいるわけであるが、やはり圧倒的多数は西欧の研究を志すのが現実なのである。これからはより多くの人が東欧の研究に関心を向けるようになることを願ってやまない。
そして国際経済研究ということでも、対象は西ヨーロッパである。日本の大学の先生方、経済関係の省庁と関連の諸機関、大小のシンクタンク、そして個々の企業は、EEC(欧州経済共同体European Economic Community)、EC(欧州共同体European Communities)、そしてEU(欧州連合European Union)と名称を変えた経済協力機構の調査・研究にどれほどの労力、時間、費用をかけてきたことであろう。一方、社会主義時代に、ソ連・東欧の経済協力機構であったコメコンについて、わたくしたちごく小数を例外にして、日本では研究らしい研究は行なわれてこなかった。つまり、学界でも実業界でも、関心は西ヨーロッパにばかり集中してきたのである。
また、日本人の観光旅行が盛んになり、毎年大勢がヨーロッパに実見しているのはまことに結構と思うが、やはり旅行先はいうまでもなく西ヨーロッパである。
さらに、マスコミの場合も、西ヨーロッパに偏している。もちろん、東ヨーロッパのことが大きく報道される時がある。だが、それは決って、東ヨーロッパで全ヨーロッパを震撼させるような大事件が発生した時ばかりである。すなわち、ハンガリー事件、プラハの春、ポーランドの連帯等がそれで、大事件が沈静化すれば、マスコミの関心は急速に薄まり、報道は稀になってしまう。1980年夏、ポーランドの古くからの港町グダンスクGdańskで「連帯」運動の波がドラマチックに高まった時、日本の報道機関で東欧全域を含む特派員を常駐させていたのはY新聞一社だけで、プラハの中心地の横丁に面した古いビルに支所があった。
1995年1月27日はアウシュヴィッツ解放50周年50 Years After Auschwitz, End Is Rememberedであった(「解放」したのはソ連軍です。アメリカ軍ではありません)。ポーランドのシロンスクŚląsk(ドイツ語ではSchlesienシレジアSilesia)地方にある収容所跡でワレサ・ポーランド大統領も参列して記念式典が開催され、全ヨーロッパの注目を集めた。日本の新聞でも式典の模様が報道された。だが、Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenauアウシュヴィッツ収容所Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenauがこのシロンスクの静かな中堅都市オシフィエンチムOświęcimの街はずれにあることを知っている日本人が何人いるであろうか。

ヨーロッパの東に新しい眼を
このように、日本人の眼にはヨーロッパの東半分のことは概して入っていない。しかしながら、読者もすでに十分理解されているように、約1億2000万人の多様な民族が生活する東ヨーロッパは、真の魅力に溢れるヨーロッパの東半分なのである。
「東欧革命」を契機に、日本でも各分野で東ヨーロッパに対する興味が強まった。それは、長年にわたってこの地域の調査・研究に取り組んできたわたくしにとって、大変喜ばしいことである。
東ヨーロッパがいろいろな意味で日本から遠いことは、先に述べた。しかし、西ヨーロッパからは近い。東欧各国の首都は、ウィーンやフランクフルトから空路で一時間から二時間の範囲内にある。ウィーンを起点にすれば、ブダペストやプラハもほんとうに近い。スロバキアの首都ブラチスラバはウィーンから車で一時間で行ける。第二次大戦前には、ブラチスラバの良家の子女は、郊外電車を利用してウィーンへ通学していた。
東欧各国とも、観光旅行先として魅力十分である。日本人が大挙して西ヨーロッパへ観光旅行している今日、一日か二日を割いて東欧を訪れるのは、それほど難しいことではないであろう。この点について、全国紙に毎週のように掲載される海外旅行募集広告のなかで、「東欧首都めぐり」などが目立つようになったことは、大変嬉しいことである。暗い東欧、物がない東欧、貧しい東欧、日本人の多くは東欧についてそんなイメージを抱いているが、それはアナクロイズムというものである。
プラハもブダペストもワルシャワも観光都市であり、この本の中でその一端を紹介した。ブラチスラバもブカレストもソフィア、そしてリュブリアーナもザグレブもベオグラードも、いずれも魅力的な都会である。東欧各国の地方もよい。具体的に書いていけば、もう一冊の本が必要である。
日本における東欧に対する関心が一過性のものではなく、長く持続し、さらに高まることを期待したい。

あとがき
日本では「海外旅行」、「海外出張」、「海外生活」などと言う。これは、日本が島国で、外国はすべて海外にあるためである。したがって、当然ながら、日本には真の意味で国境を接する外国が存在せず、普通の日本人にとっては、「国境」のイメージが漠然としたものである。
外国が海外にあるという感覚は世界的にみて、かなり例外的なものではないかと思う。ヨーロッパでは、英国が島国である。しかし、英国もヨーロッパ大陸とは至近距離にあり、昔から相互の人的往来が活発であった。海が相互を別け隔てているという感触はあまりない。英国人たちは、ヨーロッパ大陸に頻繁に出かけることによって、国境の実際をよく理解しているように思う。少なくとも日本人よりはよく知っている。
また現代が航空機の時代であることも、国境の存在感を弱める要因になっている。日本人の海外旅行はほとんど全くが空の旅であり、目的の国の空港に一挙に到着し、そこから次の目的地までまた空路を利用して急ぐ旅が多い。つまり、国境を越える実感をもつことがない旅なのである。
ヨーロッパめぐりのバスツアーや鉄道旅行があるのではないか、という反論が出ると思う。しかしながら、そこでいうヨーロッパは、もちろん西ヨーロッパのことである。西ヨーロッパでは、EUのことをもち出すまでもなく、国境の壁を取り除くため、長い年月をかけ、大変な努力を重ねてきた。その結果いまでは、人の往来に国境の壁はほとんどなくなった。そのため、日本人が西ヨーロッパをバス旅行して、国と国の境を越えてみても、あまりにも呆気なく、「国境」を越える緊張感は全くない、といえるのである。
これに対して、東西対立が厳しかったつい先年まで、東西ヨーロッパ間では状況が著しく異なり、東西間の国境には、程度の差はあれ、緊張が漂っていた。東側の国々はとくに、国境の高い壁を構築し、「ベルリンの壁」はその象徴であったのである。
列車による国境通過も、車での国境通過も、厳しくチェックされ、時間がかかり、不愉快な時もあり、何回繰り返しても理由もなく緊張したものであった。もちろん国によって、チェックの厳しさに濃淡があった。体制転換の今日では自由を謳歌し、欧米での評価が高いチェコにおいて、旧体制時代には国境管理が一番厳重であったと思う。
かつて1970年代半ばに、ウィーンから列車でブラチスラバ(スロバキアの首都)へ赴いたことがある。オーストリアと旧チェコスロバキアとの国境通過に数時間を要し、ブラチスラバに到着した時はよほど遠くへ来た感じがあった。実際には、ウィーンとブラチスラバ両市は距離にして60キロメートル余の至近にあり、今ではウィーンからでも、ブラチスラバからでも、タクシーで一時間で行くことができる。
一方、一般的には管理体制が非常に厳しいといわれていた旧東ドイツの場合、その厳しさは規則の上のことであり、係官たちは概して丁重で礼儀正しく、とりわけ日本人に対しては好意的であった。わたくし自身、旧東ドイツ出入国に際して、ベルリンのシェーネフェルト空港Flughafen Berlin-Schönefeldでタクシーを二時間近くも待ったことがあったものの、不愉快であった記憶はない。
東西対立の時代には、東西間の国境ばかりではなく、同盟関係にあった東欧諸国相互間の国境の壁も高く、また、旧ソ連と東欧諸国間の国境通過にも厳しいチェックがあった。さらに旧ソ連と中国との国境、モンゴルと中国との国境の列車による通過でも、厳しいチェックを体験した。
しかし「ベルリンの壁」がくずれて時代は変わり、かつて厳しかった国境通過も今では大変簡単になった。1990年秋というまだ早い時期、ブラチスラバのホテルで、旅行エージェントに予約してあったマイクロバスが来ず途方にくれていた時、玄関横の客待ちタクシーにウィーンまで行くかときいてみると、いとも簡単にOKといい。現実にウィーンのホテルに到着できた際は、まことに感慨魅了であった。
その後、若い同僚が運転するレンタカーでハンガリーとオーストリアとの国境やチェコとドイツとの国境を越えてみたが、かつてのように車から下ろされることもなく、パスポートの呈示だけで全て完了である。
東西間の往来はこうして、どんどん自由化されている。それと同時に、アメリカや西ヨーロッパの影響が洪水のように押し寄せ、東ヨーロッパに残っていた古いヨーロッパの名残が失われていく。
東欧は今、再生を模索しているわけであるが、それは伝統的ヨーロッパへの回帰志向でもあり、古き良きものごとを壊す試みではないはずである。わたくしなどは、厳しくはあったが、万事がゆったりと流れていた昔日の東欧をなつかしく偲ぶ年齢になった。国境が開放されたのは嬉しいが、東欧の良きものごとが失われないよう祈る気持が強い。
本書では、前著『ソ連解体後ー経済の現実』(岩波新書267)の時と同じように、山田まりさん(新書編集部)に大変お世話になった。ここに心からお礼を申し上げる。
なお、本書で使用した写真は、全部わたくし自身が写したものである。 1995年4月  小川和男

小川和男先生を偲んでIn Erinnerung an Professor Kazuo Ogawaー敬愛大学Keiai University2002年7月19日に亡くなられましたGestorben am 19. Juli 2002享年67歳67 Jahre alt
ロシア東欧貿易会理事・ロシア東欧経済研究所所長。敬愛大学国際学部教授。1961年東京外国語大学ロシア語科卒業。東京都総務局、日本貿易振興会を経て、1972年ソ連東欧貿易会主任研究員、調査部長に就任。1986~88年新潟大学経済学部教授。1995~97年ロシア東欧貿易会専務理事Direktor des Russischen Osteuropäischen Handelsverbandes und Direktor des Russischen Osteuropäischen Wirtschaftsforschungsinstituts. Professor, Fakultät für internationale Studien, Keiai-Universität. 1961 Abschluss an der russischen Sprachabteilung der Tokyo University of Foreign Studies. Nach seiner Tätigkeit beim Tokyo Metropolitan Government Bureau of General Affairs und der Japan External Trade Organization wurde er 1972 Senior Researcher und Research Manager der Soviet Union Eastern Europe Trade Association. 1986-88 Professor, Fakultät für Wirtschaftswissenschaften, Universität Niigata. Von 1995-97『ロシア・CIS経済ハンドブックRussland-GUS-Wirtschaftshandbuch』より Geschäftsführer des Russischen Osteuropäischen Handelsverbandes

Russian Economic Affairs (Iwanami Shinsho)  – November 20, 1998 by Kazuo Ogawa (Author)/Экономические отношения России (Иванами Шиншо) - 20 ноября 1998 г. Кадзуо Огава (Автор)

Aug 1, 2002 — 小川和男さん、逝くKazuo Ogawa passed away
7月19日、ロシア東欧貿易会(ロトボー、と呼んでいます)ロシア東欧経済研究所長の小川和男さんが亡くなられました。小川さんはロシアのペレストロイカの頃、新潟大学でも教壇に立ち、新潟が北東アジアに扉を開こうとする運動に大きな貢献を果たされました。ERINAでも評議員を勤められていました。「中村さん、あなたの地方紙のスクラップはとても参考になります」と、私と会うたびにおっしゃっていただきました。小川さんに感謝の気持ちを込めて、このコーナーを始めますOn July 19, Mr. Kazuo Ogawa, the director of the Russian Eastern European Economic Research Institute (called Rotobo), died. Mr. Ogawa also taught at Niigata University when he was perestroika in Russia, and made a great contribution to the movement for Niigata to open the door to Northeast Asia. He was also a councilor at ERINA. "Mr. Nakamura, your local newspaper scraps are very helpful," he said every time he met me. We will start this corner with gratitude to Mr. Ogawa.https://www.erina.or.jp/columns-today/397/






×

非ログインユーザーとして返信する