日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【百人斩比赛/100인 참수 경쟁/百人斬首競争】Contest to kill 100 people using a sword/Der Hyakunin-giri Kyōsō/Concours de décapitation de 100 personnes倭寇왜구《武田邦彦Kunihiko Takeda》東洋鬼동양귀『日本の戦争冤罪研究センターJapanese War False Accusation Research Center/小林よしのりYoshinori Kobayashi』

100인 참수 경쟁(한국 한자: 100人斬首競爭, 일본어: 百人斬り競争, 중국어 간체자: 百人斩, 정체자: 百人斬)은 중일전쟁 시기의 중국에서 일본의 두 군인들이 누가 먼저 100인을 군도(軍刀)로 살해하는지를 겨뤘다는 사건이다.1937년 11월 30일자 ‘오사카 마이니치 신문’(大阪每日新聞)과 12월 13일자 ‘도쿄 니치니치 신문’(東京日日新聞)에서 일본군 무카이 도시아키(向井敏明) 소위와 노다 쓰요시(野田毅) 소위가 일본도(日本刀)로 누가 먼저 100인을 참수 시키는지를 겨뤘다고 보도되었는데, 패전 이후 이들은 중국 난징에서 열린 난징 재판에서 사형을 언도 받고 총살형을 당했다.

『朝日新聞』(1971年)の連載第23回(本多勝一『中国の旅』(朝日文庫)1980年)
「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが」と姜さんはいって、2人の日本兵がやった次のような「殺人競争」を紹介した。「向井敏明」と「野田毅」の2人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約10キロの間に、100人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・。2人はゲームを開始した。結果は「向井」が89人、「野田」が78人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山までの約15キロの間に、もう一度100人を殺せ、と。結果は「向井」が106人、「野田」は105人だった。こんどは2人とも目標に達したが、上官は言ったー「どちらが先に100人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城までの8キロで、こんどは150人が目標だ」この区間は城壁に近く、人口は多い。結果ははっきりしないが、2人はたぶん目標を達した可能性が高いと、姜さんはみている(P、234)」↓1937年の『毎日』新聞記事
東京日日「百人斬り競争」報道ー1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <第1報>
百人斬り競争!両少尉、早くも八十人 [常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せたその後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。

向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ
1937年(昭和12年)12月4日朝刊 <第2報>
急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過 [丹陽にて三日浅海、光本特派員発]
既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。

1937年(昭和12年)12月6日付朝刊 <第3報>
89-78〝百人斬り〟大接戦 勇壮!向井、野田両少尉 [句容にて五日浅海、光本両特派員発]
南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。

1937年(昭和12年)12月13日朝刊 <第4報> 
百人斬り〝超記録〟 向井 106-105 野田 両少尉さらに延長戦 [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発]
南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した 野田 「おいおれは百五だが貴様は?」  向井 「おれは百六だ!」・・・・両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局 「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」 と忽ち意見一致して 十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が 「百人斬ドロンゲーム」 の顛末を語つてのち 知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を 「えいまゝよ」 と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだと飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。<二人が軍刀をついて立っている写真つき>【写真説明】〝百人斬り競争〟の両将校(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。

資料1:本多勝一『殺す側の論理』(朝日文庫)1984年
月刊誌『丸』の1971年11月号に、このときの報道をした鈴木二郎元特派員が、「私はあの、”南京の悲劇”を目撃した」という文章を発表している。その中から一部をつぎに引用する。(前略)わたくしたちは昭和12年12月12日に、砲弾に崩れた中山門をよじのぼって南京城内にはいるまで、上海から京滬線沿いに竜華、南市、崑山、太倉、常熱、蘇州、無錫烶と、つかずはなれず従軍したが、この間、二人の陸軍少尉の”百人斬り競争”という特電が生まれた。南京いりするまでに、どちらがさきに敵の百人を斬るか、というのである。この特電は、南京落城直前までの数回大きく報ぜられたのであるが、この記事が、(東京裁判で)告発する検事側の注目するところとなり、「虐殺」の訴因の一環として、証人指名、呼出状となったのである。南京いりして展開する「虐殺」に接する前に、「虐殺」とみられたこの”百人斬り競争”の始末をのべてみる。(中略)検事の喚問は、やはりこの”競争”を「虐殺」として、事実の有無、取材の経緯、そして両将校の”競争”の真意をするどく追及されたが、どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく、ただ二人がこの”競争”を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであって、その残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が”逃げるものは斬らない”といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが、期せずして、「決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない」と強調した。検事にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それがあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証言台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間「書類不備」?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて、「もう二人ともこなくてよい」といわれた。つぎの出番と緊張していたわたしは証言台に立たずにすみ、ホッとしたものだった。しかし両将校は国府側にとらわれ、これを知ったわれわれの嘆願署名のかいもなく処刑されたと聞かされた。(後略)
資料2 たしかに「逃げるものは斬らなかった」かもしれないが、「立ちむかってくる敵だけを斬った」ことをすっかり否定する証言が、月刊誌『中国』(徳間書店)の1971年12月号にある。志々目彰氏が「日中戦争の追憶ー”百人斬り競争”」と題して書いた文章から、以下に引用しよう。
(前略)ところがこの事を、私は小学生の時本人から聞いて知っていたが、それは私にとって”中国体験”のはじまりでもあった。それは小学校卒業の1年前、昭和14年の春だったにちがいない。生徒を前にA先生が「いちばん上級になった君たちに」といったのと、これで上級生がいなくなってせいせいするぞという解放感で気持が弾んでいたのを記憶している。A先生はわが校の先輩であるというバリバリの青年士官をつれてきた。陸軍士官学校を出てまだ何年もたたないというその若い将校のキビキビした動作、ピンと前の立った士官帽をはっきりと思い出す。私の出た学校は鹿児島県立師範学校附属小学校。父は県庁の下級官使で、本来この学校へこどもを出せる階級ではなかった。私も附属特有のお坊ちゃんムードが嫌いで、それに勉強も好きでなかったから、毛並みのいい級友たちとは一歩距離があった。鹿児島というところは軍人の産地で、中学で少しできる奴は身体がよければ海軍兵学校か陸軍士官学校に進む土地柄であった。私自身その3年後に陸軍幼年学校の生徒になったのだが、陸軍将校には特別の憧れや関心をいだいていなかった。それは、長兄の影響ー日夜海軍兵学校のことを言いくらし、希望をつらぬいて江田島に入り、終戦の百日前に水上偵察飛行隊の分隊長として戦死したーを強く受けて、熱烈な海軍ファンだったかもしれない。さて、小学生を前にしたN少尉は、ずいぶんくつろいでいたようだ。世間でみる軍人という堅い感じは少しもなく、また私たちが数年後に自ら体験した気負いもなかったと、今にして思う。それは戦火をくぐりぬけてきた人の落ちつきであったかもしれないが、やはり母校の小学生、身内に話しているという気軽さでもあったのだろう。たんたんと話した内輪話は、ほぼ次のようなものであった。「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ・・・実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない・・・占領した敵の塹壕にむかって「ニーライライ」とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る・・・百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆どだ・・・2人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない・・・」これを聞いて、私の頭には新聞写真で見たような敵の陣地が浮かんできた。腰を丸め手をあげてゾロゾロ出てくる中国兵・・・なぜ中国兵は逃げないのだろう?反抗しないのだろう?兵士がみんな馬鹿ということがあるだろうか。そのほかにも「中支戦線」や戦場生活の話を聞いた筈だが、忘れてしまっている。「ニーライライというと、シナ兵はバカだからぞろぞろと出てくる・・・」という言葉は今でもはっきり覚えている。「ニーライライ」というのは、お前来い来い、という意味だそうだ。それは竹内好さんや安藤産太郎さんたちのいう”兵隊シナ語”の一種でもあったのだ。その頃は私たちには、斬られた中国兵のために憤り、或いは同情する”ヒューマニズム”はなかった。その中国の兵士たちにも自分のような弟がいるかもしれないなどは、思ってもみなかった。軍人になろうとしている兄貴を慕っていた私だから、そんな類推ができない筈はなかったのに・・・。だが、白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという”勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ、それ以上のことは幼い自分には分からなかった。これでいいのだろうか、そんな軍と軍人で果たして”聖戦”が可能なのだろうか。陸軍幼年学校に入り、国軍の生徒としての教育をうけるようになってから、そのことをあらためて思い返すようになっていた。(中略)(PP、192-194
①Actually, I didn't kill more than four or five people in hand-to-hand combat ... We'd face an enemy trench that we'd captured, and when we called out, "Ni, Lai-Lai!" (You, come here!), the Chinese soldiers were so stupid, they'd rush toward us all at once. Then we'd line them up and cut them down, from one end of the line to the other. I was praised for having killed a hundred people, but actually, almost all of them were killed in this way. The two of us did have a contest, but afterwards. I was often asked whether it was a big deal, and I said it was no big deal ...
②На самом деле в схватках я убил не более четырёх или пяти человек… Мы становились перед захваченным нами окопом и звали их: «Ни, лай-лай» (ты, иди сюда!), и глупые китайцы все разом начинали бежать к нам. После этого мы выстраивали их в шеренгу и убивали, с одного конца до другого. Меня хвалили за то, что я убил сотню человек, но честно говоря почти все они были убиты вот так. У нас двоих было соревнование, но когда меня спрашивали, трудно ли это было, я всегда отвечал, что нет…

①Kunihiko Takeda: If you think of the Nazis as evil, you're misunderstanding history!②2019/01/14 —武田邦彦Kunihiko Takeda 南京大虐殺の大嘘を認めた本多勝一の正体!The true identity of Katsuichi Honda, who admitted the big lie about the Nanjing Massacre!中国の虐殺を日本の虐殺と捏造した朝日新聞! The Asahi Shimbun fabricated a massacre by China as a massacre by Japan!③2017/09/30 - 【武田邦彦Kunihiko Takeda】日本が30年取り憑かれてきた『幻想の言葉』に終止符を打つ時がきた!The time has come for Japan to put an end to the 30-year obsession with the "word of illusion"! 「中国人100人斬り競争」なんて有りもしない愚劣な嘘報道をして戦争を煽ったのは何を隠そう朝日なのですIt is the Asahi that has inflamed the war by reporting such stupid lies that there is no such thing as a "competition to kill 100 Chinese④2015/04/09 - 朝日、毎日は「百人斬り」を虚偽と認めてほしいI want Asahi and Mainichi to admit that "Hyakunin-Kiri" is false稲田朋美政調会長Tomomi Inada, Chairman of the Policy Research Council
主張の根拠
1、野田少尉と同郷である志々目彰は、小学生の時、学校で野田少尉が百人斬りの講演を行い、野田自身が「投降した敵」を斬ったことを自分から告白していたことを、講演から32年後に証言している。
2、野田少尉と同じ中隊に所属していた望月五三郎の手記『私の支那事変(私家版)』(P42-45)に、「百人斬り」の一環として、野田少尉が無辜の農民を日本刀で斬殺した記述がある。
3、少なくとも、戦時中は野田・向井両名とも事件を否定するような証言はしておらず、むしろ自分の故郷などで武勇伝的に語っていた。また、大阪毎日新聞鹿児島沖縄版1938年1月25日付の記事では、野田が故郷の友人に宛てた手紙が掲載されており、「百人斬り」の実行を記している。
4、野田少尉の父、野田伊勢熊氏は昭和42年6月の段階で野田少尉が「南京入城前に百人斬り競争を同連隊の向井少尉となし」たことを認めている。
5、2少尉が作成した遺書の中でも、2少尉が「百人斬り競争」について話したことにより新聞記事になった、と認めている。
6、南京攻略戦においては、捕虜や一般民衆に対する殺害はごくありふれた現象だったことを示す資料は多数存在している。
7、秦郁彦は1991年に野田の故郷鹿児島でインタビューを行い、野田自身が地元の小学校や中学校で捕虜殺害を自ら公言していたことを調べ、日本大学法学会『政経研究』42巻4号に発表している。また、「投降捕虜処刑の有無」に「論点をしぼってみる」と自説部分を始め、「(野田が)捕虜を並べての据え物斬りをやったと『告白』したのは事実らしい」と結論付けた。

8、「253人を斬り『今度千人斬り發願』Killing 253 people, "This time, I want to kill 1,000 people"さすがの’波平’も無茶苦茶 野田部隊長からの朗信As expected, 'Namihei' is also unreasonable. A message from Commander Noda」(1938年1月25日の大阪毎日新聞・鹿児島沖縄版Osaka Mainichi Shimbun, Kagoshima Okinawa version)https://www.moong.info/2018/12/12/nankin-100kill/

↑中国側の記録(中文字幕+解説)戦後、東京でGHQに逮捕され、巣鴨に収監。後に中国へ移送。「100人斬り」向井少佐(事件時少尉)、野田少佐(少尉)といっしょに到着して船から降りる「300人斬り」田中軍吉中佐(大尉)右後方に向井少佐が続く①百人斬り→向井敏明少佐、野田毅少佐=(1)向井敏明 - 当時陸軍少尉。第16師団歩兵第9連隊。百人斬り競争の容疑で起訴、1947年12月18日、第一回公判、当日死刑判決。東京日日新聞昭和12年12月13日の記事、それを転載したハロルド・J・ティンパーリの書籍が証拠とされた。1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年36+向井敏明(1912年6月3日-1948年1月28日)是第二次世界大戰期間的一名日本陸軍軍官,曾參與南京大屠殺。日本戰敗時任職陸軍少佐。日本投降之後,被定為乙級战犯,並在中國南京被處決。(2)野田毅- 当時陸軍少尉。第16師団歩兵第9連隊。百人斬り競争の容疑で向井敏明と共に死刑判決を受けて1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年35+野田毅(1912年-1948年1月28日)是第二次世界大戰期間的一名日本陸軍軍官,曾參與南京大屠殺。日本戰敗後,被認定為乙級戰犯,在中國南京被處決。中华民国方面的判决资料上称其为野田巖,與其本名野田毅在日語發音中相同。②三百人斬り→田中軍吉中佐 - 当時陸軍大尉。第6師団中隊長。300人斬りの容疑で起訴、山中峯太郎編著『皇兵』(昭和15年)のなかの「三百人も斬った隊長の愛刀助広」として説明されたことや中国人の処刑写真などが証拠とされ、死刑判決。1948年1月28日、雨花台で銃殺刑。享年42+田中军吉(1905年3月19日-1947年1月28日),第二次世界大战时期日本軍人。1937年至1938年南京大屠杀期间,在日本侵华派遣军之谷寿夫第6师团任上尉中队长,手持一把名为“助广”的军刀,连续劈杀中国南京战俘、平民300余人。山中峰太郎所写之《皇兵》一书详细记载了其杀人经过。战后由东京国际军事法庭引渡回中国审判,被处决于南京雨花台。

↑百人斬り関連(証言の再現フィルム及び「新聞記事」についての解説(英字幕つき))
「歴史改竄派の貧困なる精神」本多勝一インタビュー
-聞き手・星徹
「日本軍は中国で何をしたか」を取材して
ー本多さんは1971年以降たびたび中国を訪問し、日本の侵略戦争による被害実態を取材してまわりました。71年には『中国の旅』を『朝日新聞』に連載し、84年には『南京への道』を『朝日ジャーナル』に連載しました。そして、その後もこういった取材をつづけられ、単行本にもまとめました(*1)。こういった取材を、なぜしようと思ったのですか?
本多:基本的には、ベトナム戦争での取材(*2)がきっかけです。ベトナム戦争というのはご存じのとおり、ベトナムにとってはもともとフランスからの独立戦争ですね。それで、最後のディエンビエンフーの決戦で決着がついて、あれでもうベトナムの独立が決まったはずなのに、そこに介入してきたのがアメリカだったわけです。今度はアメリカからの独立戦争というかたちになっていった。このように、これは基本的にアメリカの侵略ですよね。それを取材していて、とくに最前線で従軍取材していて、アメリカがいかにひどいことをやっているかが分かってきた。そういった経験を通して、「それでは日本はどうだったのか?」「日本もかつての侵略戦争で、似たようなことをやっていたのではないか?」と思うようになったのです。それが最初のきっかけです。戦後すぐに極東国際軍事裁判(東京裁判)がありましたが、あれはアメリカを中心とする連合国の一方的な法廷でした。だから、あのなかで語られた南京大虐殺については、説得力をもったかたちではあまり話が展開していなかった。そして、戦後かなりたった1970年、つまり日中国交回復直前のころになっても、「日本軍はかつて中国で何をしたか?」についての具体的な風景は、ミニコミのようなものは別として、一般的なマスコミではほとんど出ていませんでした。それで、なんとか現地に入って取材したいと思ったのです。
ー取材したその71年当時、日本においては被害面は多く語られていたけれども、加害面はあまり語られていなかったのですか?
本多:まったくそのとおりですね。あのころは、日本の多くの人々はまだ事実を知らない段階ですね。現在かなり知ったうえで黙っている例も多いのですが、当時は無知な状態でした。だから、原爆などの被害面ばかり語られていたように思います。
-当時の中国では、自国の被害状況はあまり調べられていなかったのですか?
本多:中国では日本の敗戦後、長らく内戦が続いていたので、それどころではなかったでしょう。そして内戦後も、文化大革命など内政的な大混乱もあり、そのような余裕があまりなかったのだと思います。また、日本に対して寛大・宥和政策を進めるという毛沢東・周恩来路線のために、あまり日本の旧悪を追及してこなかったのでしょう。
ー72年には日中国交正常化が達成し、中国はさらに日本との友好路線を進める方向に行きました。その前の年に本多さんは『中国の旅』の取材をしたわけで、いい時期だったのではないですか?
本多:そうですね。中国側はその後「日本との友好関係を壊さない」という原則を国是としたために、当分はこの種の「日本の犯罪」取材のための入国を歓迎しなくなりましたからね。のちに82年の教科書問題(*3)があってから、また変わりましたが。
ー南京大虐殺については、当時の中国ではあまり研究されていなかったのですか?
本多:やっていた人もいたのですが、それが表に出てこなかった状況だと思います。
ーこれらのルポを発表して、当時の日本ではどのようなものでしたか?
本多:『中国の旅』は何百万部という媒体(『朝日新聞』)で連載したので、ものすごい反響でしたね。読者からのハガキや手紙が何百何千と、段ボール箱で2個分くらい来たんですから。そして、それまでのカナダエスキモーとかベトナム戦争などのルポでもそれぞれ反響は大きかったのですが、これほど(内容が)深刻なことはなかった。そのなかのほとんど、9割何分が、「よくやってくれた」という趣旨の激励や感想でした。そしてほんの数パーセントだけは、「売国奴」などと書いてあったりして、憎しみを表すようなものでしたね。それ以来、反動側や体制側の人々や売国右翼ー「よい右翼」もいるので私はこう言うのですがーの人々とか、(株)文藝春秋や産経新聞社などの体制側マスコミが攻撃をしかけてきました。それ以前のルポはやっぱり日本のことじゃないし、ベトナム戦争にしても日本は直接関わっていませんから、そういうことはなかったけれど、今度は直接かかわったことなので、大反響と同時にそういった攻撃も強烈になりはじめたのです。
ー数パーセントあったという批判とか非難についてですが、それは「ウソだ」ということを言っていたのですか?それとも「なんでそんな恥さらしなことを発表したんだ」ということなのでしょうか?
本多:「ウソだ」という具体的な主張は、ほとんどなかったんです。大多数は、「仮に事実だとしても、そんなことを発表するべきではない」といったような内容で、冷徹な反論でもそうでしたね。売国右翼が赤インキなんかでガーッと書きなぐってきた脅迫状もありましたけど。彼らからすれば、そういった事実を発表すること自体が売国的だ、ということなんですかね。私としては、日本がアジアをはじめ世界から孤立しないための愛国的行為なんですがね。せめてヨーロッパにおけるドイツのやり方を学んでほしい。
ニセモノを祭り上げるマスコミ産業
ーその後、さまざまな南京大虐殺「否定論」が出てきて、本多さんはそういった「否定派」と長年にわたり対決してきました。そのなかには、「百人斬り競争」に関しての山本七平氏や鈴木明氏との”論争”もあります。まあ、論争なのかどうかわかりませんけれども。また、渡部昇一氏・板倉由明氏・石原慎太郎氏などとの”論争”もあります(*4)。こういった”論争”をとおして、彼らの歴史認識や論理性について、どのように思うようになりましたか?
本多:結局は、事実かどうかなんですね。彼らは、事実かどうかを争わないんです。ちゃんと証拠も示さないで、「あれはウソだ」とか言ってるだけでしょ。あるいは事実を改竄したりして。とくに板倉なんかは、明らかに事実を改竄していますからね(*5)。事実で争っていけば、こういった連中はいずれは敗北せざるをえません。しかし、彼らは「事実で争う」というレベルじゃないんですよね。捏造でも平気でやるような破廉恥犯罪人の類なのですから。彼らの基本的特徴は、ひとことで言えば「国際性のなさ」だと思うんですよ。「国際性のなさ」というのは、外国語ができるかどうかということではなくて、とくにアジア近隣諸国の人々と今後どうやって平和につき合っていくか、といった基本的な認識の欠如なんです。彼らにはそういった認識がまったくないから、私は彼らのことを「売国的だ」と言っているんです。そんなことをやっていたら、日本は滅びる方向に行くよ、ということですね。そういった意味で、改竄や捏造までやる彼らの態度は「売国的唯我独尊」だと思うんです。もしこちらの事実が違っていれば、いつでも訂正しますよ。だけど、そういう問題じゃなくて、彼らの言うのは非常に不毛な話ですね。ばかばかしいという思いでしたね。だから最初は、私は彼らのことをあまり相手にしていなかったんです。その代わりみたいによく反撃してくれたのが、洞富雄さん(元早稲田大学教授・故人)だったわけです。洞さんは、彼らに対して主として文献で細かく反論してくださいました(*6)。その一方で、私は現地ルポで実証していったわけです。だから、私は彼らに対して、あまりまともに相手にしてはいませんでしたよ。あまりにひどいときだけ、反論しましたけどね。
ー本多勝一集21「愛国者と売国者」には、そういった反論の多くが載っているんですか?
本多:ええ、重要な部分は載っていますね。
ーこういった彼らとのやりとりを、本多さんは「論争」と考えていますか?
本多:いや、そうは思っていませんね。論争だったら、たとえば「これは事実かどうか?」といった内容を論じ合えるのですが、そういったレベルの問題ではないんですからね。
ー渡部昇一氏は現在でも、積極的に南京大虐殺「否定論」を主張しつづけ、日本の侵略戦争の事実を歪曲して正当化しようとしています。本多さんは『潮』87年9月~11月号で「「学者」について学者たちに問う」を連載して(*7)渡部氏のインチキ性を暴露していますが、彼のそういったところは現在でも変っていないようですね。事実も論理もメチャクチャで・・・。
本多:いちばんの問題は、石原慎太郎もそうだけど、これら当人にあるのではないと思うんですよ。こんな連中はほかにもいくらでもいるわけで、問題はこんな生物どもを持ち上げるマスコミの方にある。あるいは、選挙(1999年)で石原に投票したレベルの人々(都民有権者のわずか十余パーセント)とかね。そっちがいちばんの問題だと思うんです。テレビでも何でも、彼らにあんなに場を与えなかったら、あんなインチキは出ようがないでしょう。他方、かれらを批判するわれわれには場を与えないいまのマスコミ。
ーそういったインチキな人間はいつの時代でもいる、ということですね?
本多:ええ、常にいましたね。だから、そんな連中に何を言っても無駄であって、彼らが出る場を与えるほうが問題なのです。これもせめてドイツを見習ってほしい。
ー石原氏は現在は東京都知事で、相変わらず日本の侵略の歴史事実を歪曲したり、民族差別発言なんかもしています。そういった事実があるにもかかわらず、マスコミの一部は彼を持ち上げて、「石原ブーム」を巻き起こそうとさえしているようです。都知事の定例記者会見でも、記者たちは彼の恫喝とハッタリに完全に押さえ込まれているようですね。
本多:ええ、そのテレビ中継(東京MXテレビ)をビデオにとった人から借りて観ていると、記者たちがまるでだらしない。われわれが現役のころは、少なくともあんなことはなかった。普通の記者会見でも、もっと突っ込みがありましたね。少し前、佐高信たちと衆議院議員会館で記者会見をやったときのことなんですが、こっちが話したあとに「質問はありますか?」と尋ねても、満席なのに一つも質問がないんです。あんなことは、昔はなかった。いまの現場記者たちは腑抜けになっているのかね。情けない状況ですね。あれじゃあジャーナリストではなくただの広報マンだ。
ーそういったことが、ニセモノがのさばる一因になっている、ということですか?
本多:マスコミもだけれど、日本全体がそちらに傾いてきたんでしょうね。もうこうなると、民度の問題になってきますね。でもやはりマスコミの責任がいちばん大きい。
ー問題の本質を分かりやすいかたちで人々に掲示するなど、ジャーナリズムの役割が十分には果たされていない、ということですか?
本多:そういった本来のジャーナリズムの役割が、まるっきり果たされていない。だんだんダメになってきていますからね。読売や産経はもともとダメですけど。朝日もしだいに読売に近づいてきています。ジャーナリズムならぬ「情報商売」としてのマスコミ。
ー重要なことを書かない、ということもあるようですね。
本多:書く記者がいても、それが紙面に出ないとかね。
日本人の「民度」の問題
ー「李秀英裁判」の東京地裁判決が事誌(2002年)5月10日に出され、単行本『「南京虐殺」への大疑問』
のなかで李さんをニセモノ扱いした著者の松村俊夫氏らが敗訴し、彼女への名誉毀損が認められました。この本には本多さんへの批判というか非難も書かれていて、それに対して本多さんは裁判所に「意見書」(第II章に掲載)を提出しました。松村氏の言説などを通じて、どのようなことを感じましたか?また、先に挙げたようなかつての南京大虐殺「否定派」との異同は?
本多:彼は、論理的思考の類が全くできない人ですね。本のなかで、私が主張している事実とは正反対のことを私が書いていることにしてるでしょ。資料や文献を読む力もないし、日本語としての読解能力もない。それは「意見書」に書いたとおりで、とてもまともに相手にする人ではありません。だから、これもさっき言ったのと同じように、こんな本を出すほうが問題なのです。編集者は、どうしてこんなことが分からないんですかね。確信犯にしてはお粗末すぎるから、やはり無能なんでしょう。そっちのほうが問題なのであって、まともに論ずる対象ではまったくありませんね。それから、かつての「否定派」との比較で言えば、程度問題だと思いますよ。渡部とか板倉なんかも、まるっきり論理性もクソもないのだけれど、松村はもっと極端になったとんでもない代物ですね。
ー質的には同じだけれど、ひどさの度合いの問題だと・・・?
本多:程度があまりにもお粗末すぎて。やはり問題は、こういう連中に場を提供する日本型無責任の体制マスコミのほうです。
ー彼らは、事実に対してのいい加減な姿勢、論理性のなさ、そして中国人への差別感情、といった面でも共通しているのではないですか?
本多:もちろんですが、くり返すように、問題はこんなものをのさばらせる側にあります。
ーこの三つのうちで、最後の「中国人への蔑視感情」という点は、本多さんが先ほど言われた「国際性のなさ」と共通する面もあると思いますが。
本多:「国際性のなさ」ということでは、人によって色あいが違うとは思いますがね。石原慎太郎なんかは、(日本人以外の)アジア人を非常に蔑視しているでしょ。自分こそが軽蔑されるべき存在なのに、彼にはそこが分からないんですよ。しかしこれも、こんな男自体よりそれを支える「場」としてのかなしくもアワレな日本人にある。
ー石原氏は、『産経新聞』(2001年5月8日・朝刊)の「日本人よー内なる防衛を」という評論のなかで、日本国内で中国人による凶悪な殺人事件などが増加していることを取り上げて、「こうした民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と書いています。これは、中国人には人殺しのDNA(遺伝子情報)が組み込まれている、という意味にしかとれません。このことから見ても、彼は明らかに民族・人種差別主義者であり、とくに中国人への根強い蔑視感情を持っている、と言えると思います。
本多:あれこそ名誉毀損にならないのかねえ。自分の劣悪なDNAこそ問題でしょう。日本にいる中国人全部に対する侮辱でしょ。ああいう生物を放っておいていいのかねえ。知事不信任案が都議会に出ないのも、都民の「民度」を象徴している。もう何の期待もしていません。
ーあれが、石原氏の本音なんでしょうね。
本多:そんな奴に人気があって、選挙にも投票するとなると、結局は日本人全体の民度の問題になりますね。ドイツなんかでは考えられない。犯罪になりますよ。
ーまた戻ってしまいますけど、そこにはやはり、先ほど本多さんがおっしゃたジャーナリズムの問題があるわけですね?
本多:まずはそこがいちばんの問題ですね。マスコミの側が腰が引けていて、そういった問題を伝えないし、批判もしないから、「民度」も低いまま。
ーところで、南京大虐殺「否定派」の人々は、大きく二つの型に分けられるのではないでしょうか?一つは、「こうあってほしい」という思い込みから、どんどん妄想が膨らんでいく「天然ボケ・妄想型」に近い人で・・・。
本多:まあ、「無知型」とか「幼児型」とか「単なるバカ型」とか(笑)・・・。
ーまあ、そうですね。もう一つは、大規模な虐殺があったことはある程度わかっていて、なんとか誤魔化してやろうとする「狡猾型」があると思います。もちろん、一人のなかで両面あわせ持っていて、その割合の違いということですけれども。
本多:問題は、確信犯かどうかということでしょ?
ーええ、これまで本多さんがかかわった渡部氏とか石原氏について、どうでしょうか?
本多:べつに「かかわった」わけではなくて、かれらが噛みついてきた。テーマは違うけれども、『朝日ジャーナル』でかつて渡部昇一が立花隆と論争していましたが(*8)、あれを読んでいて、これは「バカ型」だと思いましたね。よく学者でもね、知識はあってもまったく論理ができない人っているでしょ。その類じゃないですかね、渡部は。確信犯というのは、ある程度は頭がきれないとダメでしょ。
ーその辺のところは、先にあげた「「学者」について学者たちに問う」を読むと、よく分かりますね。
本多:まともな学者だったら、正確な事実を基礎にして、そこから理論なり論理なりを組み立ててるわけでしょ。もちろん「事実の選び方」には違いがあるにしても、そこのところは、右とか左に関係なく、まともな学者ならちゃんとしてますよ。この人はそれができないんじゃないか、と思いますね。だから、あの人はおそらく確信犯じゃなくて、「単なるバカ型」じゃないかと思います。
ー思い込みが激しいということですかね?
本多:思い込みが激しくてもね、右であろうと左であろうと、あるレベル以上の人は論理性が一貫しています。だけど、この人はそういうのがなくて、知的レベルが非常に低い。
ーしかし、そういう人が大学教授になっていますね。
本多:だから、そういうレベルの男を大学教授にするほうが悪いわけよ。また、そういうのをテレビに出して利用する側が悪い。本人にとっては、ある意味ではかわいそうです。だけど、被害者は国民ですからね。
ー南京大虐殺「否定派」の人たちにとっては、自分たちに都合のよい「物語」に沿った史料を恣意的に採用し、気ままな推測を重ねたうえでそれらをつなぎ合わせ、または改竄して、思いどおりの結論を導き出していく、というのが「定石」のようですね。
本多:分かりやすい例で言うと、やはりナチ=ドイツの「ウソも千回言えば本当になる」という考えと同じじゃないですかね。嘘つきが「ウソ」と言うんだから、もうどうにもなりませんね。とてもまともに相手にしてられない。だから結局は、問題はそういった発言の場を与えるマスコミの側にある、と何度でもくり返さざるえない。しかし、いまやまともなジャーナリズムがない状況で、それもあんまり期待できないけれど。期待するとはずれて損するし(笑)。
ダメなマスコミ産業と臆病な”知識人”
ー新聞・テレビ・雑誌といった巨大情報産業(マスコミ)は、日中十五年戦争・アジア太平洋戦争の事実を真摯に伝えていると思いますか?また、こういった 体の問題は、どういったところにあると思いますか?
本多:いちばん分かりやすいのは、何度もいうようにドイツとの違いだと思います。ドイツも日本と同じころ敗戦となったわけですが、両国の根本的な違いは、日本は戦前と戦後が連続しているということです。岸信介のようなA級戦犯容疑者が総理大臣になったりするんですから、ドイツとはまったく違いますよね。そういった基本的な大違いがあるところから見ると、細かいことはどうでもいい、という気になりますね。それをマスコミがほぼ平行して反映するから、そういう体制に対して根本的な批判はしないでしょ。これが最大の問題です。それ以上こまかいことをほじくったってばかばかしい、という気がするんです。
ー日本のマスコミ報道において、広島・長崎への原爆投下や東京をはじめとする無差別空襲など被害に関する面と、日本軍の加害に関する面、という視点からはどうでしょうか?
本多:私は以前から、あの戦争を「50年戦争」と言っているんです。日清戦争からずっとつながっているわけで、15年戦争という言い方はおかしい。それはともかくとして、多くの人がこのなかの二つの違った戦争を混同している。これは考え方の根本にかかわってくることです。まずアジア諸国に対しては、明らかに日本の侵略戦争だった。しかし、アメリカやイギリスやオランダなどアジアに植民地を持っていた国々に対しては、日本の侵略戦争とは言えない、と私はずっと言ってきた。これは侵略者同士のケンカであって、両方とも侵略者だ、ということです。これを区別しないと、いろいろと問題が起こってくる。そういった意味では、原爆や東京大空襲などは、侵略者同士のケンカの結果としての被害ですよ。これらは、アメリカによるひどい行為ですよね。だけど、アジアに対する日本の侵略戦争という加害面と、こういった原爆などの被害面は別問題ですよ。それをごっちゃにしてしまって、両者の違いをちゃんと見極めないところに、かなり大きな問題がありますね。
ー日本のメディアも、そういった違いをあまり伝えていない、ということですね?
本多:ええ、基本的にはやってませんね。一緒にして論じちゃっている。非常に良くないことですね。本当はね、「侵略者同士」と言っても、日本はもちろんアジアに対しては侵略しましたけど、アメリカに対しては侵略してませんよ。真珠湾攻撃は、軍事施設に対してだけですからね。しかし、向こう側(アメリカ)はすでに日本の暗号を解読していて、日本の攻撃を事前に知っていた、ということも明らかになってきた。ヒトラーのポーランド進撃も、二週間前にベルリンの日本大使がうった暗号電報をアメリカが解読して知っていたくらいです。それどころか、ルーズベルト政権は1940年から日本に「攻撃」させるべく陰謀をすすめていたことも、情報公開で明らかになった(*9)。日本はアメリカにだまされて、ワナにはまったわけです。アメリカはワシントン初代大統領が先住民族に対して侵略して以来、いつだってそうでしょ。わざとやらせといて、「やられた」と言って「反撃」で丸ごと奪ってしまう。真珠湾だって、やられたのは軍事施設だけでした。しかし「反撃」として彼らが日本にやったのは、大空襲も原爆も、一般の人々に対する皆殺し攻撃、無差別虐殺です。そこを区別しないから、おかしくなっちゃう。
ー日本の多くの人々は、そういった被害については言うのですが、「アメリカがやった」ということはあまり言わないですね。もちろん、加害についても言いませんが。その代わり、「原爆が悪い」「戦争が悪い」みたいなことばかり言います。
本多:だから、ぜんぜん論理性がない。
―メディアについて、とくにNHK(日本放送協会)について、日本のかつての戦争についての報道姿勢はどうでしょうか?
本多:NHKというのは、戦前から政府の単なる広報機関ですからね。いまでもニュース番組なんか見ていても分るように、いまの政権の広報ばかり、批判なんかほとんど言わない。
―毎年の敗戦記念特集なんかでも、広島・長崎の原爆被害や沖縄の戦争被害、そして学徒出陣などについてはやるのですか、「日本軍は中国で何をしたか?」といった加害面はほとんどやらないですね。これこそが、日本にとっての本質的な問題だと思うのですが。
本多:もう救いがたい。NHKに期待は一切していません。だから受信料も払わない。
―近年またまた南京大虐殺「否定派」が騒ぎだし、(株)文藝春秋や産経新聞社などの情報産業は、そういった記事を積極的に取り上げています。そのほとんどは昔と同じような内容のくり返しなのですが、このような現状において、学者や知識人と言われる人々はいま何をなすべきだと思いますか?
本多:歴史改竄派のインチキに対して、一般の人々はいちいちその根拠の正当性を確かめたりしませんから、そういったことは見破るのは難しいんです。そこで、学者や「知識人」と言われる人々こそが、その知識を武器にしてそういったインチキを見破り、一般の人々に広く知らしめる役割を担ってるはずです。しかし、現在の日本の状況はどうでしょうか?歴史改竄派のインチキの先頭に立って行動したり、提灯持ちをしたりといった御用学者や御用“知識人”は問題外として、彼らのインチキに異議を唱えることのない臆病“知識人”が多すぎる。真の知識人や学者であれば、ニセ学者やニセ知識人のインチキを告発して、そういった害虫どもを利用するマスコミを攻撃するはずです。ごく少数の学者を例外として、なぜそういったことをしないのか。ヒトラー台頭のドイツでは、「知識人」がナチの不当性やインチキに十分には異議を唱えなかったからこそ、その後の悲惨な結果を招くことになった。同時期の日本についても、同じことです。そしていま、学者や知識人と言われる人々はそういった教訓から学んで、自分たちだけの「知の領域」とやらに閉じこもらないで、真の知識人らしく行動してほしいけど、ひとつは先ほどからくりかえすように、マスコミにその「場」がもっとなければね。
―これまでのお話から言えることは、ジャーナリズムの役割と学者など「知識人」の役割の両方が非常に重要である、ということですよね?
本多:ええ。一般の国民の意識が、それによって変わりうるのですから。
―ジャーナリズムの側が問題の本質をちゃんと伝えないので、先ほど本多さんが言われた「ウソも千回・・・」のようなインチキがまかり通っていくんですかね?
本多:そう。どんどん悪循環になっていく。
―そういった状況になれば、国民のうちのある部分は、「もしかしたら、彼らの言うことが正しいのかな」と思ったりするんじゃないですかね?
本多:だから「ウソも千回」であり、いちばん責任があるのはジャーナリズムになってくる。だけど、いまの日本では「ジャーナリズム」とは言えません。
―マスコミ産業ですか(笑)
本多:情報商売。それも体制御用商売(笑)。
私たちの進むべき道

ーこういったなかで、日米安保体制は年々強固なものとなり、有事法制は目の前に迫り、「ブッシュの戦争」にも巻き込まれる可能性が増大しています。こういった日本のの政治の動きと歴史改竄派の動きとの関係を、どのように考えたらよいのでしょうか?
本多:アメリカのブッシュ政権は、イラク攻撃をいまにもやろうという姿勢ですね(*10)ヨーロッパではイギリスがいちばんそれに同調していますが、ドイツのシュレーダー政権ははっきりと反対を表明しています。こういった違いは、どこから来るのか?基本的にはドイツの世論が「ブッシュの戦争」への協力を許さないわけです。今回のドイツ総選挙(2002年9月)でシュレーダー政権与党が勝利しましたが、世論がそういった姿勢だからこそ勝った。同じ敗戦国の旧ファシズム国家でも、こういったドイツの姿勢と日本の姿勢を、ぜひ比べてもらいたい。ただ、ドイツがいつも良いというわけではなくて、戦後のドイツのあり方を批判している人もいます。かつてラルフ=ジョルダーノの『第二の罪ードイツ人であることの重荷』(白水社)を核にして日本を論じたことがあるけれど(*11)、ジョルダーノなどはその典型です。この本の訳者の1人・永井清彦氏はかつて、「満点を100点とすると、ドイツは50点だけれど、日本は2点か3点だ」というような趣旨のことを書いていました。これはおもしろい比較で、私もそういった違いだと思うんですよ。また、ドイツ現代史専攻の石田勇治・東京大学教授が述べているように、ドイツの場合も戦後のある時期までは、元ナチ党員の教員や官僚・裁判官・政治家などが国家の要職に留まったり、一度失職しても何年か後には復職したりして、非ナチ化が十分に行われていなかったようです。しかしその後は、日本と違って、「過去の克服」を紆余曲折がありながらも着実に進めていったそうですね。こういった違いが、今回アメリカによって行われようとしている「イラク攻撃」へのドイツ国民の姿勢にも表れているんだと思います。ドイツははっきりと反対を表明しているのに、日本はアメリカに引きずられちゃってるでしょ。
ー戦後の加害責任の取り方の違いが大きく影響している、ということですかね?
本多:結局は、そうなってきますね。日本の場合は、戦後にA級戦犯容疑者を総理大臣にした延長が現在なんですからね。戦前と戦後のあいだに断絶がないわけです。
ーこういった状況下で、日本の若者の多くは、かつての戦争について知らない、または無関心な状態です。小林よしのり氏のマンガなんかは、そういった若者たちにつけ込んでいるのだと思います。また最近、若者のあいだに「ぷちナショナリズム症候群」が広がっているとよく言われます。サッカーの応援なんかで、若者が日の丸をペイントする例に見られるように、無邪気なナショナリズムの風潮がひろがってきた、ということのようです。こういった日本の現状を、どのように思いますか?
本多:困ったことだと思いますね。これもマスコミ(情報産業)がダメなことの反映ですが、小林よしのりだって他の歴史改竄派と同じでね。事実と違うことをいっぱい書いています。あれは確信犯なのか無知によるものかは知らないけれど。
ー後ろで糸を引く人がいるんでしょうか?
本多:あの人は、自分自身が主体となって1人で何かをやれる哲学などある人じゃありませんからね。マンガを描く能力があるだけであって。根本的な問題を考えるという点においては無能な男だから、いいように傀儡にされちゃうんですね。
ー最後に、日本は今後どういった方向に進むべきだと思いますか?
本多:日本はもちろん世界の一員だけれども、とくにアジアの一員として、国際性を持った方向に進むべきだと思いますね。そのための大前提はやはり、負の面を含めて歴史事実を明らかにして、そこから真摯に学ぶということでしょう。しかし歴史改竄派の連中は、この大前提のところでインチキをして、歴史事実をひっくり返そうとしている。こんなことをしていては、日本はいつまでたってもダメですよ。彼らは結果的には、日本が国際性を持つ方向に進むのを邪魔している。彼らのやっていることこそが真の売国奴です。本当は、こういった売国的歴史改竄派なんかマトモに問題にされるようなレベルじゃないんだけれど、マスコミが彼らに場を提供するから、いまのようなバカげた状況になる。そこのところを変えていかないとダメですね。そのためにジャーナリストとしてやるべき仕事は、まともなメディアをつくることでしょうが、これには若い力も結集しないとね。
ー本当に、そのとおりですね。今日は、どうもありがとうございました(2002年10月22日、東京都内にて)
『南京大虐殺改竄派の敗北』(教育史料出版界・2003年、頁194-215)(注)1、これらの集大成として、本多勝一集14『中国の旅』(朝日新聞社・1995年)と同23『南京大虐殺』(1997年)がある。2、本多は1966年12月からベトナム取材をつづけ、『朝日新聞』などに連載ルポを掲載し、読者の圧倒的な支持を得た。本多勝一集10『戦場の村』(1994年)と同11『北爆の下』(1995年)に、それらルポが収録されている。3、翌年4月から使用される高校歴史教科書の検定で、中国や韓国(朝鮮)をはじめとするアジア諸国への「侵略」を「進出」など他の表現に書き換えさせたり、南京大虐殺などの歴史事実を改竄・歪曲したことなどに対して、これら諸国が猛反発し、外交問題にまで発展した(俵義文『徹底検証 あぶない教科書』(学習の友社・2001年、を参照)。4、本多勝一集21『愛国者と売国者』(1997年)300~355ページを参照されたい)。5、板倉氏が(株)文藝春秋(文春)などの反動雑誌でひどい改竄・捏造をして本多攻撃をし、そのすべてが暴露されたいきさつは、洞富雄氏らによる『南京大虐殺の現場へ』(朝日新聞社・1988年)の第1部にくわしい。しかし文春は、こうした改竄・捏造事件について、訂正も謝罪も全くしていない)。6、洞富雄『南京大虐殺の証明』(朝日新聞社・1986年)その他がある。7、前掲『愛国者と売国者』に所収。8、立花隆氏は、『朝日ジャーナル』(朝日新聞社・週刊)に連載した『ロッキード裁判批判を斬る』の中で、渡部昇一氏などの「ロッキード裁判批判」論を批判した。これを巡って、両氏の論争が同誌1985年8月30日号から続いた。9、松尾久子『言挙げせよ日本』(プレジデント社・2000年)の第一章とか、ロバート=B=スティキット『真珠湾の真実』(妹尾作太男監訳・文藝春秋・2001年)参照)。10、2003年3月20日にアメリカ・イギリス両軍はイラクへの軍事攻撃を開始し、4月中旬にはフセイン政権を崩壊させた。11、『愛国者と売国者』・第5部『日本人であることの重荷』を参照されたい。12、石田勇治『過去の克服ーヒトラー後のドイツ』(白水社・2002年)を参照されたい。13、香山リカ『ぷちナショナリズム症候群』(中央公論社・2001年)を参照。

①河村市長「南京大虐殺否定」発言を石原知事が擁護(12/02/24)Governor Ishihara defends "Mayor Kawamura's denial of Nanjing Massacre'' statement (12/02/24)東京都の石原知事は会見で、「南京大虐殺」を否定した名古屋市の河村市長の発言について、当時、現地を取材した大宅壮一氏らの話を根拠に「河村君の言うことが正しい。日中共同で調査したらいい」と持論を展開しましたAt a press conference, Governor Ishihara of Tokyo responded to Nagoya Mayor Kawamura's remarks, which denied the Nanjing Massacre, based on the stories of Soichi Oya, who interviewed the area at the time, and said, "Kawamura is right. Japan and China should jointly investigate," he said
↑②「入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思うI think it is true that there was a considerable massacre before, during and after entering the castle(中略omission)まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるねWell, as an eyewitness, I can fully say that there was a fairly large-scale massacre」(1966年、中国にて大宅壮一氏Mr. Soichi Oya in China

①"Nanjing Incident" 2-1 Matsubara Jin x Watanabe Shoichi (H19.1.17)-
Missionary Letter Tokyo Trial Record Reverend Maggie's Testimony The Tokyo Trial Ignored the Lytton Report and Rejected Opinion Advertisement, The "Nanjing" part of the Newsweek movie "Tokyo Trial" is a phony film.

↑②矢吹一夫『政変昭和秘史』(上)Kazuo Yabuki, Secret History of the Showa Era (1)より

「(中略)当時の逓信事務次官だった小野猛は、極秘だがお目にかけよう、と言って分厚い数冊の写真帳を貸してくれたので、開いて見たら、暴行の限りを尽くした写真が一杯である(Omitted) Takeshi Ono, who was the vice minister of communications at the time, lent me several thick photo books, saying that it was strictly confidential, but I would like you to see it, and when I opened it, it was full of photographs showing all possible violence・・・一同はこれを取り囲んで一見するや否や、さすがに顔色が変わり、ううん、と唸ったきり、しばらくは一言も発するものもないAs soon as everyone surrounded this and took a look, their complexion changed, they groaned, "Uh-huh," and then they didn't say a single word for a while・・・日本民族に潜在する残虐性が、戦場という異常状態に触発されて暴発したものであるにせよ、あまりにも無惨であり、ひどすぎるという慨嘆の声であるEven if the cruelty latent in the Japanese people was triggered by the abnormal conditions of the battlefield, it is a voice of lament that it is too cruel and too terrible(P398)

《紹介:鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」本多勝一『ペンの陰謀』(潮出版社)1977年》

(オ) 鵜野晋太郎は,上記「ペンの陰謀」に「日本刀怨恨譜」を寄稿し,その中で,中国兵を並べておいて軍刀で斬首するという「据え物斬り」を行っていたこと,鵜野晋太郎自身,昭和31年に,住民,捕虜等を拷問,殺害したとの罪により中国当局によって禁固13年を言い渡されたことなどを述べ,「百人斬り競争」については,「  当時私は幼稚な『天下無敵大和魂武勇伝』を盲信していたので,百人斬りはすべて『壮烈鬼神も避く肉弾戦』(当時の従軍記者の好きなタイトルである)で斬ったものと思っていたが,前述の私の体験的確信から類推して,別の意味でこれは可能なことだ----と言うよりもむしろ容易なことであったに違いない。しかもいわゆる警備地区での斬首殺害の場合,穴を掘り埋没しても野犬が食いあさると言う面倒があるが,進撃中の作戦地区では正に『斬り捨てご免』で,立ち小便勝手放題にも似た『気儘な殺人』を両少尉が『満喫』したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが,それもそう大したことではなかったのだろう。又百人斬りの『話題の主』とあっては,進撃途上で比隣部隊から『どうぞ,どうぞ』と捕虜の提供を存分に受けたことも類推出来ようと言うものだ。要するに『据え物百人斬り競争』が正式名称になるべきである。尚彼等のどちらかが凱旋後故郷で講演した中に『戦闘中に斬ったのは三人で他は捕えたのを斬った云々』とあることからもはっきりしている。その戦闘中の三人も本当に白兵戦で斬ったのか真偽の程はきわめて疑わしくなる。何れにせよ,こんなにはっきりしていることを『ああでもない,こうでもない』と言うこと自体馬鹿げた話だ。私を含めて何百何千もの野田・向井がいて,それは日中五○年戦争----とりわけ『支那事変』の時点での"無敵皇軍"の極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。」と記載している(乙1)。

①Whatever you say, it's silly to argue about whether it happened this way or that way when the situation is clear. There were hundreds of thousands of soldiers like Mukai and Noda, including me, during those fifty years of war between Japan and China. At any rate, it was nothing more than a commonplace occurrence during the so-called Chinese Disturbance.

②« Quoi que vous disiez, c'est idiot de discuter pour savoir si c'est arrivé de cette façon ou de cette façon quand la situation est claire. Il y avait des centaines et des milliers de [soldats comme Mukai et Noda], dont je faisais partie, durant ces cinquante ans de guerre entre le Japon et la Chine. En tout cas, ce n'était rien de plus qu'un événement banal au cours du désordre chinois. »

日本人戦犯7人目・鵜野晋太郎の供述書公開「生体刺突」を命令(一)

日本人戦犯・鵜野晋太郎の1954年8月の供述書によると、鵜野は1920年に日本の広島県に生まれた。1941年4月から9月まで日本第39師団第232連隊の兵士として湖北省漢口に滞在し、その後帰国した。1942年4月から1945年5月までは湖北省で第232連隊に所属。1945年5月に第232連隊設営将校中尉に任じられた。同年8月にソ連軍の捕虜となった。鵜野が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。1942年5月下旬には、湖北省鐘祥県郭劉湾で、「該部落中国人民家屋十棟(30間)を(中略)燼滅の為放火全焼」し、「部落に居住する中国人民農民一名(四十歳位男)を新四軍戦士容疑者の口実をつけ部下分隊長中田伍長に命じて潅水拷問の後、私は首を斬って殺し死体は現場に放置しました」1943年2月から3月には、湖北省当陽県仙人砦尹家西側で、「小型赤筒及び中型赤筒(何れもクシャミ性毒瓦斯、放射量不明)を放射して抗日軍を混乱に陥らしめた上、銃、砲の射撃に依り正義の反撃を挫折せしめ全期間を通じ二百名の戦士を屠殺しました」1943年4月上旬には、湖北省宜昌県天宝山で、「該地を侵略した八中隊が逮捕した該地に居住する中国人民農民三名(何れも二十五歳位)を私は拳銃で二名を射殺し、一名を同時撤退してきた七中隊の岩佐見習士官に拳銃で射殺させ」、「更に七中隊が逮捕して送致して来た抗日軍戦士二名及び該地に居住する中国人民農民男八名を同行中の七中隊の兵四名に『面倒だから殺してしまえ』と命令し、二大隊配属の工兵中隊に交付させ、手足を縛り掩蓋内に押し込んで掩蓋爆破と諸共に爆殺しました」1943年4月下旬には、湖北省当陽県窯嶺包で、「該地点で大腿部に受傷して倒臥し苦悶中の抗日軍戦士一名(二十五歳位)を訊問後、部下梅崎次郎上等兵に命じて小銃を以て頭部を射撃させ射殺しました」1943年10月下旬には、湖北省当陽県で、「熊家坡部落及び該地東側台上を目標とし私自ら中型赤筒(クシャミ性毒瓦斯)五十発を投射し」、「該部落約二十棟に居住する中国人民百名以上の人々が被害を蒙った」1943年11月中旬には,在湖北省枝江県で、「抗日軍輜重連の戦士(二十五歳位、所属十三師或は十八師)を逮捕し被害者の携行している迫撃砲弾匣一箱を背負はした儘、手足を縛り小河に蹴落し溺殺しました」1943年11月中旬には、「湖北省松滋県米積台南方約五粁の部落に於て」「該地に居住する中国人民農民一名(四十歳位)に潅水拷問を行って窒息させて殺しました」1943年12月中旬には、湖北省枝江県仁和坪で、「該地に居住する中国人民農民一名(四十歳位)を逮捕連行させ、私は先づ太さ十糎の角木を腿と脚との間に挿入して座らせる方法で拷問した上、更に腿と脚を天秤棒で殴打する方法で拷問し、膝関節脱臼及び大腿骨折して殺しました」1944年3月には、湖北省当陽県で、「逮捕して送致して来た抗日軍情報員容疑者一名(四十歳位)を部下濱田康男兵長に命じて天井吊しの拷問を行ひ、両腕がぶらぶらとなり第一関節の皮膚を裂傷させた上、留置場に監禁した為、被害者は危篤状態になったので留置場外側に引っ張り出し、近藤軍医大尉の点検を受けた所、近藤は『手遅れだ』と言ったので、私は『面倒だから殺してくれ』と依頼し、近藤をして百CC注射器で膝関節内側静脈に空気注射を二回行ひ殺しました」1944年4月には、湖北省当陽県熊家坡で、「聯隊長の命令の下に第一線に蟠踞する各大隊が逮捕して送致して来た抗日軍戦士五名(二十歳乃至二十五歳位、所属三七師及び一三二師)及び抗日軍情報員二名(三十歳位)を四中隊初年兵に刺突訓練の目的で生体刺突を執行させ殺しました。本屠殺中に私は自ら抗日軍情報員一名(三十歳位)を首を斬って殺しました」 1944年9月,湖北省当陽飛机場西北角で、監禁中の抗日軍情報員の殺害を要請され、「被害者一名(二十五歳位)を首を斬って殺しました」(編集MA)「人民網日本語版」2014年7月11日 

【参考資料Reference Material】古屋 哲夫Tetsuo Furuya『日中戦争Sino-Japanese War』(岩波新書Iwanami Shinsho)1985年

ーこの大虐殺事件は単なる偶発的事件ではなく日本の軍隊のあり方、戦争のやり方そのものに関係していると考えられるので、その点に少し触れておかなくてはなるまいThis massacre is not just an accidental incident, but it is thought to be related to the nature of the Japanese military and the way of war itself, so I must touch on that point a little.

①日本軍が補給の不十分な、というよりむしろ、意図的に補給力を節約して現地での物資調達に依存する軍隊だったということであり、この調達が掠奪となり、そこから一般人への暴行・殺人が日常的経験として蓄積され、その軍隊の基本的性格を形成する、という事態を指摘しておかなくてはならないRather than being undersupplied, the Japanese army was an army that intentionally conserved its supply capacity and relied on local procurement of supplies. It must be pointed out that this procurement becomes looting, and from there assaults and murders of civilians accumulate as daily experience, forming the basic character of the army.

②これは補給の問題にも関係するが、投降者を簡単に殺害してしまうという点であるThis is also related to the supply issue, the point is that they easily kill surrenderers.

③これも前項の問題とも関連するが武器を捨てたものでも、反抗的態度のみえる者は殺すという問題であるThis is also related to the previous issue, but even if enemies who have thrown away their weapons, they will kill those who show a rebellious attitude.

①Self-deprecating Hardcover that Textbooks Could Teach – July 1, 1997 by Yoshinori Kobayashi (Author), Yoshikazu Takeuchi (Author)「日本の戦争冤罪研究センターJapanese War False Accusation Research Center」時浦兼Ken Tokiura所長Director「よしりん企画一の博識であるHe is the most knowledgeable person in Yoshirin Kikaku」小林曰くAccording to Kobayashi「反左翼の鬼Anti-Left Demon」≪社長のブレーンPresident's brain≫

You can't help but laugh at such self-torture! These "self-torture people" are allies of justice who blame their own country and blame their ancestors. Yoshinori Kobayashi of "New Gomanism Manifesto" and up-and-coming columnist Yoshikazu Takeuchi will slash through gags and real intentions the identity of "self-torture" that makes Japan feel disgusted⇔「『南京虐殺』はグローバルな共同幻想に止まるThe ≪Nanjing Massacre≫ remains a global collective fantasy(東中野修道Shūdō Higashinakano'博士Ph.D')」≪肯定的評価Positive Bewertung≫漫画家小林よしのりおよび時浦兼からは「最新の研究として一番信用でき、徹底して資料に当たっている」と評されているDie Manga-Künstler Yoshinori Kobayashi und Ken Tokiura beschrieben es als „das glaubwürdigste, da die neueste Forschung und eine gründliche Referenz.“

↑②「今なお地球は平らであるとかたくなに信じている人たちがいる。そういう人に、「地球は丸いのです」と言って月から地球を写した写真を見せても、「いや、この写真はコンピューター・グラフィックスでつくった捏造写真で、地球は平らである写真はじつはNASAが隠しているのです」といった理屈を並べて、決して自分の信念に疑いを抱かないのである。これが妄想の怖さなのであるThere are still people who firmly believe that the earth is flat. Even if you tell them that the earth is round and show them a picture of the earth taken from the moon, they will say, "No, this picture is a fake picture made with computer graphics. The picture of the earth is flat, in fact, NASA is hiding it." This is the fear of delusions」(中山治Osamu Nakayama日本人はなぜ多重人格なのかWhy do Japanese people have multiple personalities?洋泉社Yosensha Co., Ltd、1999年、206頁)


×

非ログインユーザーとして返信する