日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

抚顺战犯管理所=中國抗日戰爭期間侵華日本戰犯共計982人⇒中国が日本人戦犯の直筆供述書を初めて全文公開45人分を毎日1人ずつ①


中国が日本人戦犯の直筆供述書を初めて全文公開45人分を毎日1人ずつ  2014/07/11
 
中央公文書館の李明華副館長は3日の記者会見で、同館がインターネット上で公開する「日本人戦犯による中国侵略の罪の自供」について説明した。 李副館長によると、中央公文書館は3日以降、鈴木啓久ら日本人戦犯45人の供述書(日本語)とその中国語訳の原文の画像、および戦犯供述書の要旨(中国語と英語)を初めて公式ウェブサイト上で公開する。45人分を毎日1人ずつ公開する。李副館長は「新中国成立後に接収管理、拘禁した日本人の中国侵略戦犯は1109人に上る。このうち鈴木啓久ら45人の戦犯は比較的地位が高く、罪が重い。1956年6~7月、中華人民共和国最高人民法院(最高裁)特別軍事法廷は瀋陽と大連で彼らに対する公開裁判を行った。今回公開する資料はこの日本人戦犯45人の供述書および詳細な尋問記録などで、原文、補足、訂正、当時の中国語訳、要約などが含まれる」と説明。「全ての供述書は広範で入念な調査・認証後に確定したものであり、告発資料、犯罪現場での実地調査、被害者や目撃者の証言などと結びつけたうえ、戦犯本人の確認、署名を経た、または本人が直接書いたもので、かつ全ての被告が法廷での最終陳述時に全ての起訴事実を認めた。また、今回公開するのはスキャナーでスキャンした供述書そのものであり、削除処理はしておらず、性暴力を受けた女性の氏名を人道的配慮から仮名にしただけだ。したがって、供述書の真実性と完全性に疑いを差し挟む余地はない」とした。李副館長はさらに「供述書で明かされた罪には中国の主権の侵奪、侵略政策の画策・推進、細菌兵器の製造、毒ガスの使用、中国人民の虐殺、拘束、奴隷化、慰安婦の強制連行、婦女強姦、物資・財物の略奪、町や村の破壊、平和的住民の追い払い、国際準則と人道的原則への違反などが含まれ、多くの犯罪行為は人々を激怒させるものだ」と指摘した。
供述書を公開しているページのURLは:
http://61.135.203.68/rbzf/(編集NA)「人民網日本語版」2014年7月4日

日本人戦犯1人目・鈴木啓久の供述書を公開 八路軍幹部を毒ガスで惨殺
人民網日本語版 2014年07月04日15:25

中央公文書館(中央檔案館)は3日以降、鈴木啓久ら日本人戦犯45人の供述書(日本語)とその中国語訳の原文の画像、および戦犯供述書の要旨(中国語と英語)を初めて公式ウェブサイト上で公開する。45人分を毎日1人ずつ公開する。


国家公文書局ウェブサイト上で公開された日本人戦犯・鈴木啓久の1954年7月の供述書によると、鈴木は1890年に日本の福島県に生れ、1934年に中国東北部で中国侵略戦争に参加し、歩兵第28連隊隊長補佐に任じられた。後に1945年4月には日本陸軍中将兼第117師団長に任じられた。同年8月31日、吉林省で捕虜となった。今回公開された鈴木の供述書の原文資料は計38ページ、供述書の当時の中国語訳資料は計33ページ。


鈴木が白状した重要な犯罪行為として、以下のものが挙げられる。


1934年6月頃、錦州で「中国人民ノ農民二名ヲ殺害シマシタ」。
1935年3月上旬頃、高木大佐を援助し、高木大佐は「上板城附近ニ於テ約三〇〇戸ノ部落二個ヲ焼却シ中国人民多数ヲ殺害シマシタ」。
1940年9月、安徽省宣白作戦において、屋内に退避した抗日軍人約50名への「毒瓦斯攻撃ヲ命ジ其ノ全員ヲ惨殺致シマシタ」。
1941年、安徽省巣県に慰安所を設置したうえ、「中国人民及朝鮮人民婦女二〇名ヲ誘拐シテ慰安婦トナサシメマシタ」。
1941年11月、河北省棗強で八路軍を攻撃し「八路軍約一〇名ヲ殺害シ且ツ約六〇〇戸アル村落二個ヲ焼却シ此ノ時中国人民ノ農民一〇〇名ヲ屠殺致シマシタ」。
1941年12月、「長城線附近二粁以内ニ於テ」「住民ヲ悉ク追イ掃ヒ無人地帯トナスベシ」とした。
1942年1月、唐山一帯で田浦大佐に対して掃蕩を命令し「田浦ハ其ノ部落約八〇〇戸ヲ焼却シ且ツ其ノ部落ノ中国人民ノ農民一,〇〇〇名ヲ屠殺シタノデアリマス」
1942年4月、「魯家峪ニ於テノ洞窟攻撃ニ際シ毒瓦斯ヲ使用シテ八路軍ノ幹部以下百名ヲ惨殺シ又戦火内ニ引キ入レラレルコトヲ恐レ魯家峪部落附近ノ山地ニ避難セル中国人民ノ農民二三五名ヲ中モ妊婦ノ腹ヲ割ク等ノ野蛮ナル方法ヲ用ヒテ惨殺シ魯家峪部落約八〇〇戸ヲ焼キ」「俘虜ハ玉田ニ送リ其ノ中約五名ヲ殺害シタ」「且ツ婦女ノ強姦百名ニモ達シタノデアリマス」。
1942年7月、豊潤で「村落約五〇〇戸ヲ焼却シ中国人民ノ農民約一〇〇名ヲ惨殺シマシタ」。
1942年9~12月、遷安、遵化などの地を無人地帯にするため、住民を全て追い払うべく「焼却シタ家屋ハ一万戸余リニ上リ追イ掃ラハレタ中国人民ハ数万ニ上リ又惨殺セラレタ中国人民ハ甚ダ多数アルノデアリマス」。
1942年10月、「灤縣潘家戴荘ノ中国人民ノ農民一,二八〇名ヲ或ハ銃殺シ或ハ刺殺シ或ハ斬殺シ又ハ生埋メヲナス等ノ野蛮ナル方法ヲ以テ集団屠殺シ」「部落全戸八〇〇ヲ焼却」した。
1942年、「日本侵略軍ノ蟠居スル所ニハ私ハ各所ニ慰安所ヲ設置スルコトヲ命令シ中国人民婦女ヲ誘拐シテ慰安婦トナシタノデアリマス其ノ婦女ノ数ハ約六〇名アリマス」。
1944年5月、河南省新郷で「抗日軍(遊撃隊)ヲ攻撃シテ約十名ヲ殺害シマシタ」「攻撃中戦場附近ニ在リシ村落約三〇〇戸ヲ焼キ掃ヒ中国人民ノ農民約一〇〇名ヲ惨殺シマシタ」。
1944年7月、河南省封丘で「抗日軍(遊撃隊)約四〇名ヲ殺害シ附近ノ村落一個約四〇〇戸ヲ焼キ中国人民ノ農民約一〇〇名ヲ殺害シマシタ」。
1944年8月、「抗日軍ヲ攻撃シ其ノ約一〇名ヲ殺害シ且ツ約四〇〇戸ノ中国人民農民ノ家屋ヲ焼却シ中国人民約三〇名ヲ殺害シマシタ」。
1944年11月、「私ハ歩兵部隊ガ林縣南部地区ヲ侵略シタル後其ノ地ヲ撤退スルニ際シ防疫給水班ヲシテ三、四ノ村落ニ虎疫菌ヲ散布セシメマシタ之ガ為其後同縣内中国人民ニ虎疫患者百名以上ヲ出シ死亡者モ亦多数アッタトノ報告ヲ受ケマシタ」。その後、長路県某村でも「焼キ掃ヒ(約三百戸)其ノ村落ノ中国人民ノ農民六百六十名ヲ或ハ銃殺シ或ハ刺殺シ或焼殺スル等ノ残虐ニシテ野蛮極マル方法ヲ以テ虐殺シタノデアリマス」。また、この「侵略中私ノ部下ノ各隊デ俘虜ヲ惨殺シマシタノハ合計三〇名アリマス」。「空気注射ニヨル殺人法ヲ試サントノ意見ニ対シ私ハ病院附野田實ニ対シ其ノ実施ヲ命ジマシタ。当時中国偽縣警備隊員一名入院中デアリマシタノデ之レヲ奇貨トシテ実行サセタノデアリマス」。
1945年春、懐慶の村落で「中国人民ノ農民約五〇〇名ヲ惨殺シ全村約六〇〇戸ヲ焼キ掃ヒマシタ」。
1945年春前後、「附近ノ村落約四〇〇戸ヲ焼キ中国人民ノ農民約一〇〇名ヲ惨殺シマシタ」。
1945年、「日本侵略軍ノ蟠居地ニハ私ハ所謂慰安所ノ設置ヲ命ジ」、中国および朝鮮の「婦女ヲ誘拐シテ所謂慰婦トナシタノデアリマシテ其ノ婦女ノ数ハ約六〇名アリマス」。
1945年7月、中旬「醴泉ニ侵略シ中国人民約四〇名ヲ惨殺」した。
中国侵略期間に「私ノ記憶ニ存スルモノダケデモ中国人民ヲ殺害シタ数ハ五,四七〇名デアリ中国人民ノ家屋ヲ焼却又ハ破壊シタ数ハ一八,二二九戸アルノデアリマスガ其ノ実数ニ於テハ更ニ厖大ナルモノデアリマス」。(編集NA)

「人民網日本語版」2014年7月4日
铃木启久(日语:鈴木 啓久/すずき ひらく Suzuki Hiraku,1890年9月20日-1982年),大日本帝国陆军军人,福岛縣人。最終军衔陸軍中将。参与日本侵华战争期间长期在中国作战,1945年在中国东北被苏联军队俘虏,后移交给中国审判,1963年提前释放回国。铃木启久是“中國歸還者聯絡會”成员。2014年7月3日中华人民共和国国家档案局开始首次整体公布中央档案馆收藏的45名日本战犯侵华罪行自供的档案,首日公布的是铃木启久的自述。铃木自述“只我个人的记忆即杀害了5470名中国人民,烧毁和破坏中国人民的房屋18229户,其实际数字很可能还多”;在唐山地区曾命令所属部队强制居民迁移造成“无人区”;河南林县作战期间,曾下令散布霍乱菌实施细菌战;“在安徽巢县命令设置慰安所并诱拐二十名中国妇女及朝鲜妇女做慰安妇”。[1] 在第27师团步兵团的驻地下令建立了“慰安所”,抓来60名中国妇女充当“慰安妇”。[2]

日本人戦犯2人目・藤田茂の供述書を公開 村民を虐殺   2014-07-07 14:30:12
日本人戦犯・藤田茂の1954年8月の供述書によると、藤田は1889年に日本の広島県に生まれ、1938年8月に中国山西省で中国侵略戦争に参加し、陸軍騎兵第28連隊大佐連隊長に任じられた。後に1945年3月には第43軍第59師団中将師団長に任じられた。同年8月、朝鮮咸興で捕虜となった。 


藤田が白状した重要な犯罪行為として、以下のものが挙げられる。 


1938年8月、山西省河津で住民6人を逮捕し、これらの人々を「尋問スルニハ拷問、殴打等ノ方法手段ヲ使用シ殺害シマシタ」。 
1939年1月中旬、山西安邑県張良村では、将校全員に対して、「兵ヲ戦場ニ慣レシムル為ニハ殺人ガ早イ方法デアル 即チ度胸試シデアル 之ニハ俘虜ヲ使用スレバヨイ」「之ニハ銃殺ヨリ刺殺ガ効果的デアル」との訓話を行った。 
1939年4月、夏県では、「第一中隊長ニ俘虜ノ刺殺ヲ命ジマシタ」「第一中隊長ハ部下ノ兵九名ヲ以テ俘虜ヲ刺殺シマシタ」。 
1939年8月15日、山西省沢州では、「私ハ此ノ俘虜八名ヲ第一中隊ニ九名ヲ第二中隊ニ引渡シ教育材料トシテ刺殺セシメマシタ」。 
1944年5月2日、河南省許昌西南10kmの黄旗衛村では、「俘虜4名刺殺」。 
1944年5月21日、河南省洛陽では、「中国人民射殺・十二名(一名ハ婦人)」。 
1944年10月26日、河南省太康付近では、「中国人民拷問殺人六名」。 
12月16日、黄河北左岸帰徳北方地区では、「中国人民拷問殺人十一名」。 
1945年3月27日、「竹林橋北方200米ノ鄧県―老河口道上約五十戸ノ部落ニ於テ住民ノ凡テ老人、婦人、子供迄モ之ヲ数ヶ所ニ集メ(中略)屠殺シマシタ」。同日には、「馬屈山攻撃ニ於ケル瓦斯弾ノ使用」もあった。 
1945年5月9日,山東省沂水西北25kmで「中国人民殺人、石橋ニ於テ多数」「放火、石橋部落全部焼却」。同月、「本作戦間防疫給水班ヲシテ『コレラ』菌ヲ使用シ細菌戦ヲ実施シマシタ」。豪山の八路軍を攻撃した際には「瓦斯弾、瓦斯筒ノ使用」も行った。さらに「八路軍ノ埋没設置セル地雷ノ被害ヲ予防スルタメ道案内ト称シテ数名ノ人民ヲ先行セシメ事実ハ地雷ノ実地調査ヲ実施セシメタルモノデアリマス」 
1945年6月には、「済南ニ於ケル俘虜虐殺」が行われ、「陣地構築ニ使用シタル済南俘虜収容所ノ俘虜六〇〇名以上ヲ六月一五日以後ニ於テ教育ニ使用シ刺殺セシメマシタ」。 
「終戦後ノ処置。(1945年)八月十七日各大隊長ヲ集メテ次ノ如ク命令シマシタ。1、機密、秘密書類ハ焼却スベシ(日本帝国主義ノ罪行消滅、共産党軍弾圧ノ証拠煙滅) 2、特種弾ヲ埋没スベシ(瓦斯弾、焼夷弾、発煙弾、曳火弾、及信管ノ一部) 3、防毒面ヲ焼却スベシ」(編集MA) 
「人民網日本語版」2014年7月7日

Fujita Shigeru (藤田茂) (born 1889 in Hiroshima Prefecture, Japan) was a Japanese military officer. In March 1945 he became the division commander of the 59th Division, 43rd Army. Fujita was captured in Hamhung, Korea in August 1945. Confession of Crimes against Humanity In August 1954, Fujita made a series of confessions of war crimes, where he admitted to ordering torture, beatings, and killings, including against civilians, in numerous cases.[1]
藤田茂(日语:藤田 茂/ふじた しげる Fujita Shigeru,1889年9月17日-1980年),大日本帝国陆军军人,广岛县人。最终军衔陆军中将。抗日战争期间曾在中国作战,1945年8月在朝鲜咸兴被苏联军队俘虏,后移交给中国审判。1957年提前释放回国,曾任“中国归还者联络会”首任会长。2014年7月4日中华人民共和国国家档案局首次整体公开发布了藤田茂侵华罪行自供的档案,据藤田茂1954年8月笔供提到重要罪行包括,在侵华战争作战期间,曾下令使用瓦斯弹,使用霍乱菌实施细菌战;在山西、河南、山东作战时屠杀中国平民;命令所属部队在战场上杀掉俘虏算入“战果”;在山西在山东等地下令虐杀俘虏,为使士兵习惯于战场,用俘虏进行练习刺杀;在山东作战时使平民十几人先行以"领路"为名,实则是使令实地趟地雷 等等。[1]

日本人戦犯3人目の供述書を公開 毒ガスで掃蕩 軍民多数を殺害(一)  人民網日本語版 2014年07月07日16:58
上坂勝の1954年7月の供述書によると、上坂は1892年大分県生まれ。1934年3月~1941年11月、台湾で歩兵連隊の副隊長、大隊長を務め、階級は少佐、中佐。1945年6月に陸軍第五十九師団歩兵第五十三旅団長に任じられた。同年8月20日、朝鮮・咸興付近でソ連軍の俘虜となった。


 重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


 1942年2月頃、「歩兵第百六十三聯隊長大佐として河北省保定に蟠踞中」、「逮捕監禁しありたる中國人民約二十名を斬殺、刺殺等の方法により虐殺したる事件がありました」。3月頃、約10メートルの鉄道レールが除去されたため「十數人の容疑者を捕へて拷問し殺害三(四)人に及んだとの事でありました」。5月頃、「望都附近の鉄道沿線(望都西方約一粁)の一框舎が八路軍の急襲を受け全滅し輕機關銃及其の他の兵器を全部奪取せられた事件があり」、「約三〇名の住民を拷問し通謀者と目せられるもの約六名を殺害し框舎に接近して居る家に放火し三軒焼却したとの事であります」。
 1942年5月27日、冀中作戦で「私は此の戰鬥に於て第一大隊をして八路軍及住民を殺害すること約八百人に上り」、「赤筒及緑筒の毒瓦斯を使用し機関銃の掃射と相俟って八路軍戰士のみならず逃げ迷ふ住民をも射殺しました、又部落内を『掃蕩』し多數の住民が遁入せる地下壕内に毒瓦斯赤筒、緑筒を投入して窒息せしめ或は苦痛のため飛び出す住民を射殺し刺殺し斬殺する等の残虐行為をいたしました」。「此の侵略作戰に於て聯隊が中國人民に與えた損害は殺人約一千一百名に及び家屋の破壊約十軒、焼失家屋約三軒、掠奪使用家屋約四五〇軒(約十日間)其の他中國人民約二四〇名を框舎構築(八個)のため酷使しました(約十日間)」。
 1943年春、行唐西北方山地において第二大隊は「八路軍戰士や住民に對し殺害約二五〇名 焼失家屋約五〇軒」の損害をあたえた。「各部隊(前記行動間各道路を行進する先頭部隊)は住民の探知組を先頭に進め地雷を踏ましめて虐殺しました」。
 1944年5月、河南省嵩県で兵士一人が行方不明になったために「住民十數人を捕へて」「殺害五(六)人に及び十二(三)軒の家屋を焼却したとの報告がありました」。
 1945年6月、「此の轉進間第一第二大隊は出發當初より俘虜(約五十名位はあったと思ひます)を同行してゐましたが豆腐店南方地區で愈々前進困難となりましたので私は各部隊に『邪魔になる俘虜は殺害し我方の戦死者は指を切り取り持ち歸るべし』と命じました」「俘虜は全部殺害したとの報告がありました」。(編集NA)
「人民網日本語版」2014年7月7日

日本の戦犯4人目・佐々眞之助 中国人を針金で数珠繋ぎにして殺害  2014-07-08 10:27:26
佐々眞之助は1932年から中国侵略戦争に参加。供述によると計5回、5年の長きにわたり中国侵略戦争に参加し、その範囲は北は東北部、南は揚子江に至る。犯した罪行は「滔天」と形容できる。佐々眞の法廷での供述によると、彼と部下はかつて捕えた中国平民を針金で数珠繋ぎにして殺害した。捕えた中国人を針金で縛って川に投げ込み溺死させた。生きている中国人を毒ガス室に入れて実験した。中国人女性数十人を強姦した。湖北省襄樊の戦いで重慶軍3500人を殺害した。 


佐々眞の1954年8月~1956年5月の供述書によると、佐々は1893年福岡県生まれ。1932年9月から中国侵略戦争に参加し、関東軍第十師団歩兵第六十三連隊第三大隊長(少佐)、1945年7月より関東軍第三方面軍第三十九師団長。1945年8月23日にソ連軍の俘虜となった。 


重要な罪行として、以下のものが挙げられる 


1932年10月、「佳木斯駐屯間密偵容疑者トシテ中國人民約三十名ヲ逮捕シマシタ」。「内抗日戰士十五名、人民六名ヲ拷問ノ上殺害シマシタ」。「佳木斯東北方約十粁ノ部落ニ於テ」「戰場ノ部落ノ人民ニ與ヘタ損害、私ノ命令ニ依ル殺害五名」。 
1940年8月、浙江省莫干山で「私ノ部下大隊ハ戰闘間毒瓦斯(緑筒)ヲ使用シテ重慶軍戰士ニ大ナル損害ヲ與ヘマシタ」。10月、浙江省諸曁で「重慶軍戰士約六百名ヲ殺害シマシタ。此中ニハ戰闘中重傷者及俘虜戰士殺害推定約四十名ヲ含ミマス。此罪悪ハ私ガ平素之等俘虜ヲ殺害スベキコトヲ教育シタ結果デアリマス。又各大隊ハ戰闘間毒瓦斯(緑筒)ヲ使用イ重慶軍戰士ニ大ナル損害ヲ與ヘマシタ」。 
1941年1月、浙江省杭州でその指揮する第一大隊は「密偵容疑者逮捕約二十名 拷問殺害約七名」、第二大隊は「密偵容疑者逮捕約二十名、拷問ノ上殺害約九名」第三大隊は「密偵容疑者逮捕約二十五名、拷問殺害約八名」。 
1943年12月、オランダ領アンボン島で「「インドネシア」婦人十数名ヲ強制的ニ使用シテ慰安所一ヲ設ケ日本兵士ノ用ニ供シマシタ。是ハ「インドネシア」婦人ニ對スル重大ナ侮辱行為デアリマシタ」。 
1944年6月、浙江省金華方面より衢州方面に向かう作戦で「人民約五十名ヲ殺傷シ」た。 
1945年1月、湖北省当陽で「師團が各部隊将校ヲ當陽ニ集メテ瓦斯教育ヲ行ッタ時俘虜二名ヲ瓦斯室ニ入レテ瓦斯効力試験ニ使ヒ又師團軍醫部ガ俘虜四名ヲ瓦斯室ニ入レテ瓦斯効力試験ヲ行ヒテ虐待シ共々遂ニ殺害シマシタ」。 
1945年3月、湖北省襄樊作戦期間に、重慶軍戦士約3500人を殺害し、中国人民約200人を殺害し、中国女性約50人を強姦し、民家約200軒を焼却するなどした。(編集NA) 「人民網日本語版」2014年7月7日


日本人戦犯5人目・長島勤の供述書公開 様々な虐殺手段を使用 2014年07月08日08:52
国家公文書局のウェブサイトでこのほど、日本人戦犯・長島勤の中国侵略犯罪の供述書が発表された。これによると、1942年4月から1945年7月までに、長島は、「大小一五回ノ作戦討伐ヲ行ヒ殺害抗日軍人一六六〇名、平和人民九七〇名」「民房二二二〇間以上ヲ焼却破壊シ、抗日軍人九七〇名、平和人民二五〇名ヲ逮捕シ、糧食六〇〇〇噸ヲシマシタ。強制労役12万工日ヲ酷使シマシタ」という。 さらに「毎度ノ作戦ニテ殺害ノ方法ハ銃殺ノ外、刺殺、斬殺、斬首、爆殺、焼殺、絞殺、瓦斯殺等ノ極メテ残忍ナル虐殺手段ヲ執リタルモノ多クアリマシタ。又捕虜ヲ殺害シタコトモ屡々アリマス」と証言している。


 長島の1955年5月の供述書によると、長島は1888年に埼玉県に生まれ、1938年12月に中国に赴き、華中派遣軍特務部部員に任じられた。1942年4月には日本陸軍第59師団第54旅団長に任じられ、1943年6月から1945年4月まで済南防衛司令官を兼任した。同年8月22日、朝鮮咸興で捕虜となった。


 長島が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


 1942年5月から6月まで山東省で、泰安・莱蕪・蒙陰作戦に部隊を指揮して参加し、「結果ハ殺人抗日軍人四〇名、平和人民二〇名、民房焼却破壊一〇〇余間デアリマス」。
 1943年5月中旬には、部隊を指揮して「魯中作戦」に参加し、「結果殺人抗日軍人一三〇名、平和人民二〇名、逮捕抗日軍人三八〇名、民房焼却破壊20余間」。
 1943年6月には、部隊を指揮して「東臨道作戦」(聊城県北方地域)に参加し、「結果ハ殺人抗日軍人六〇名、平和人民三〇名、捕虜二五〇名デアリマス」。
 1943年7月から8月には、部隊を指揮して「十八夏南太行作戦」に参加し、「結果ハ殺人抗日軍人四〇名、平和人民三〇名、捕虜三〇名デアリマス」。
 1943年9月、部隊を指揮して「三教堂作戦」(禹城、済陽、臨邑)に参加し、「結果ハ殺人抗日軍人六〇名、平和人民一〇余名デアリマス」。
 1943年11月中旬から12月上旬には、部隊を指揮して「十八秋魯中魯北作戦」に参加し、「結果殺人抗日軍人三〇名余、平和人民一〇名余、兵舎焼却2棟、民房焼却破壊300余間」「掠奪糧食300噸」。
 1944年3月から4月には、部隊を指揮して「十九春衣剿共作戦」(莱蕪、長清、暦城、斉河、章丘)に参加し、「結果ハ殺害抗日軍人二一〇名、平和人民七〇名、民房焼却破壊300余間」。
 1944年6月から7月には、部隊を指揮して「十九夏衣山東作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人二七〇名、平和人民一六〇名、掠奪小麦五七〇〇噸」。
 1944年8月から9月には、部隊を指揮して「十九夏山東作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人一二〇名、平和人民七〇名、逮捕平和人民二五〇名、掠奪花生油1000籠以上」。
 1944年9月から12月には、部隊を指揮して「十九秋衣山東作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人一九〇余名、平和人民一一〇名、民房焼却破壊200余間」。
 1945年1月から3月には、部隊を指揮して「二十春衣山東作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人四一〇名、平和人民二三〇名、民房焼却破壊三〇〇余間」。

 1945年5月には、部隊を指揮して「秀嶺一号作戦」に参加し、「結果殺害抗日軍人八〇名、平和人民二一〇名、民房焼却破壊一〇〇〇余間」。
 1942年4月から1945年7月まで、「大小一五回ノ作戦討伐ヲ行ヒ殺害抗日軍人一六六〇名、平和人民九七〇名」「民房二二二〇間以上ヲ焼却破壊シ、抗日軍人九七〇名、平和人民二五〇名ヲ逮捕シ、糧食六〇〇〇噸ヲシマシタ。強制労役12万工日ヲ酷使シマシタ」。
 「毎度ノ作戦ニテ殺害ノ方法ハ銃殺ノ外、刺殺、斬殺、斬首、爆殺、焼殺、絞殺、瓦斯殺等ノ極メテ残忍ナル虐殺手段ヲ執リタルモノ多クアリマシタ。又捕虜ヲ殺害シタコトモ屡々アリマス」。
 「一九四五年二月上旬、111大隊ハ私ノ命令デ行動中、東阿県馬家海子ニ於テ負傷員捕虜七名ヲ刺殺シマシタ。一九四二年七月、110大隊ハ莱蕪県九頂山デ瓦斯弾ヲ以テ平和人民老少十五名ヲ殺害(中略)シマシタ」。(編集MA)「人民網日本語版」2014年7月8日


日本人戦犯6人目・船木健次郎の供述書公開 部落を壊滅 毒ガス使用も 2014-07-09 10
日本人戦犯・船木健次郎の1954年5月から6月の供述書によると、船木は1897年に日本の富山県に生まれ、1937年12月に中国東北部に赴き、第4国境守備隊歩兵少佐大隊長に任じられた。1943年8月に日本に帰国し、再び朝鮮に渡った。1945年6月には第137師団第375連隊大佐連隊長に任じられた。同年8月15日、ソ連赤軍の捕虜となった。 


船木が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。 


「我大隊ニ対シテ旅団長ヨリ部落ノ覆滅ヲ命セラレタコトガ数回アツタガ其年月日場所等ハ明確ニハ記憶シテヰナイ。即東斎堂南方十五粁位ノ地点ニテ一ヶ所約一五戸位、東斎堂西南方二十粁位ノ地点ニテ一ヶ所約一五戸位、東斎堂西北方約三十粁位ノ地点ニテ一ヶ所約一五戸位デアル」 
「一九四一年八月頃、宛平県外西南方地区ニ対スル旅団ノ作戦ニ我大隊モ参加シタガ此ノ作戦ノ際、旅団予備隊ガ一部落(東斎堂西南方約四十五粁)ヲ焼却シタ。其戸数ハ一五戸位ト記憶ス」 
「一九四三年四月頃、宛平県外ノ南方地区ニ対スル旅団ノ作戦ニ我大隊モ参加シタガ此ノ作戦ノ際、旅団予備隊ガ同地区(東斎堂西南方約六十粁)ノ部落数個ヲ焼却シタ」 「住民使役ニ関スル事項」では、
「新ニ構築シタ守兵七名乃至二〇名ノ為ノ小陣地ノ数ハ6ヶ所位ト記憶ス。此ガ為ニ要シタ延人員ハ千五百名位ト思フ。又既設ノ陣地ヲ補修強化シタ場所ハ東斎堂ヲ始メトシテ約三ヶ所ト思フ。之ニ要シタ延人員ハ約千名ト思フ」 
「経済封鎖ノ為ノ遮断壕ノ構築」では、「実際ニ壕ヲ築造シタ部分ハ十五粁位ト思フ。之ニ要シタ労力ハ毎日千乃至二千位ニシテ約一ヶ月位ヲ要シタト思フ」 
「毒瓦斯ノ使用ニ就テ。我大隊ニハ一般ノ毒瓦斯ヲ支給サレタコトハ無イ。但シ赤筒ヲ支給サレタコトハアル。其ノ時期ハ一九四ニ年デアッタト思フ。旅団兵器部ヨリ支給サレタ時、大隊兵器掛将校ハ自分ニ対シテ赤筒ハ毒瓦斯ノ範囲ニ属セスト説明シタ。支給サレタ赤筒ノ数量ハ記憶シテヰナイ。大隊トシテハ各中隊ニ対シテ平均ニ配当シタト考ヘル。各中隊ガ赤筒ヲ如何ニ使用シタカハ詳細ニ記憶シテヰナイ」(編集MA) 「人民網日本語版」2014年7月9日


日本人戦犯8人目・榊原秀夫の供述書公開 731部隊の細菌戦に協力 2014-07-11 10
国家公文書局のウェブサイトで10日、日本人戦犯・榊原秀夫の中国侵略犯罪の供述書が公開された。供述書公開は8人目となる。 榊原の1956年4月から5月の供述書によると、榊原は1908年に日本の岡山県で生まれた。1936年9月に偽満駐屯第1師団歩兵第57聯隊附軍医に任じられ、1944年11月から1945年8月まで関東軍防疫給水部林口支部長を務めた。 


榊原が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。 


「林口支部の任務に従って私は在職間、細菌戦準備の為に第一課長細矢少佐に命じ細菌保存培養を実施せしめました」。当時の生産量は、「中蘇国境の東部地面に撒毒し、極めて大量に蘇同盟軍隊のみならず中蘇両国の平和人民をも毀滅せしめるに充分な量」だった。 
「細菌戦準備の為の捕鼠」では、「私は部隊全員を動員して捕鼠に従事致しました」。「間所少尉を長とし約二五名の捕鼠班を常時設置」し、「捕鼠により第七三一部隊に送附致しました鼠の総数は一九四五年四月に一〇〇〇匹、五月一〇〇〇〇匹、六月八〇〇〇匹、七月七〇〇〇匹総計二六〇〇〇匹」にのぼった。 
1945年3月上旬,「私は第七三一部隊の命により」「支部の保存培養中のチフス菌、A型パラチフス菌の試験管二本を第七三一部隊第一部毒力検定班」に提出した。「両菌種共に第七三一部隊第一部保存菌中の標準毒力」に適合しており、「細菌戦の準備の為の保存培養に適」していた。「井戸水には効力の確実を期するために大体一・二本の試験管で屠殺し得ると計画したものであります」。「私は此の効力実験によりて四名の中国愛国者を殺害したものであります」 
1945年4月には、黒竜江省安達県で、「私は安達に於ける殺人実験に参加致しました」。「中国愛国者の方四名」が「安達演習場に二五米―三〇米の間隔に地に打ち込んだ丸太の棒に縛りつけられました」。「軽爆撃機が演習場の上空に飛来し約一五〇米の高度より素焼製爆弾(陶器の一種)を投下し五〇米上空で炸裂しました」。「私は完全予防衣をつけ五・六〇〇米位の距離から此の惨行を見たものであります。此の爆弾は恐るべき炭疽菌を充填した爆弾で鼻咽腔より吸入せしめ当時絶対に生きることの見込のない肺炭疽に、或は破片により皮膚炭疽を起させる全く酷悪の罪行であり、私も此に参加したものであります」 
1945年8月、「蘇聯軍開戦をラヂオに依り知り、直ちに自動車の出動準備を命じ、同時に一切の馬を除いた動物、即ち捕鼠した鼠、白鼠、モルモット、兎、蚤、及保存培養せる細菌を第七三一部隊に送附せしめました」。「部隊建物に藁を積み石油を準備し建物の焼却準備を実施し、更に部隊専用の水源地の給水ポンプの破壊を命じ破壊せしめました」。「細菌戦準備の為の一切の証拠物件を煙滅破壊したものであります」。(編集MA) 「人民網日本語版」2014年7月11日

日本人戦犯9人目・富永順太郎の供述書公開 2014-07-14
日本人戦犯・富永順太郎の1955年2月から12月の供述書によると、富永は1895年に日本の福島県で生まれた。1926年から1931年1月までハルビン日本内務事務官石川銀三の事務所で勤務した。1939年6月以降は、華北交通株式会社の課長、資業局次長、総裁室交通地誌室主事を務めた。 


富永が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。 


「私は一九三八年六月に資業局第二交通課長に転任し」、「路警の名の下に旅客に対しては勿論一般沿線住民に対しても数限りない不法行為が行はれ、後来路警は完く人民の爪弾きを受けていた」 
1941年12月以降は、「私は在京華北交通株式会社本社警務局所属中央特務班班長を兼務していましたので」、「第三国人特に交戦国たる英米仏国僑民に対する取締監視を厳重にしました」。「スパイ嫌疑濃厚なものは逮捕訊問し其内之四名は前記日高機関に送附しました。その内一名は白俄人、他は中国人でありました」 
1943年10月には、,「日本人技術員を謀者として西北地域に潜入させ交通情報の蒐集を行ひました」 
1943年には、「米式重爆B29用新基地を発見し日本軍に報告す」
1944年には、「京漢線南段鉄道復旧工事計画を作製して、日本軍の河南侵略作戦に協力す」(編集MA) 「人民網日本語版」2014年7月14日


日本人戦犯10人目・城野宏の供述書公開 解放軍に毒ガス使用  2014-07-15
日本人戦犯・城野宏の1955年1月の供述書によると、城野は1914年に日本の長崎市で生まれ、1938年に中国東北部での中国侵略戦争に参加し、1949年4月に捕虜となった。 


城野が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。 


1941年、中国の資源を略奪し、日本帝国に対する鉄などの軍事物資の供給を強化した。 
1943年11月から1945年8月までは、「四回一千五百余人の機動兵力を派遣して日軍作戦に参加せしめ(中略)二個大隊を馳せしめて(中略)石炭、鉄の採掘収奪を援護し」、鉄約20万トン余りと食糧約15万トンを日本軍に供給した。 
1946年から1949年までは、「私は五回の閻錫山の反人民作戦に参加し解放軍に抵抗し(中略)解放軍に対し二千数百名の損害と居民の生命財産に対し巨大な損害破壊を与えた」 
1948年10月、「私は今村方策と共謀画策し第十総隊を太原東山戦闘に投入し解放軍に約一千余名の損害を与え太原の解放を妨碍した」。「私は解放軍陣地に落下する十数発のガス弾の炸裂を目撃した」(編集MA) 「人民網日本語版」2014年7月15日


日本人戦犯11人目・相楽圭二の供述書公開 8年で831人殺害 2014-07-15
日本人戦犯・相楽圭二の1954年11月の供述書によると、信楽は1916年に日本の福島県で生まれた。1937年4月に偽満洲国の三江県に赴き、1938年7月から歩兵少尉小隊長、中尉中隊長、警備隊長、代理大隊長、大隊長などの職に就いた。日本の投降後、閻錫山の部隊に入り、少将参謀長や団長などの職に就いた。1949年4月に捕虜となった。 


相楽が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。 


1938年7月27日、大隊長から「うまく斬ってみろ」と命令され、八路軍捕虜の斬殺に参加した。「私は、四十歳位農民風の一名を自ら軍刀で首斬りして殺しました」 
1940年5月には、神池県で、「便衣民兵三名を射殺」し、「中隊が大厳備鎮附近で逮捕して来た民兵二名を八角堡南門外で銃殺させました」 
1940年7月には、朱家川一帯で12人の住民を拉致して拷打審問を受けさせた後「八名を銃剣刺殺し、四名を射殺させ、死体はその場に土をかぶせただけで遺棄しました」。さらに「行宮エン附近で逮捕した住民約七十名の内三十数名を、行宮エン東方一粁地点に於て、半身を土に埋めた上で機銃掃射をもってみな殺し」した。また本部の和泉軍医中尉は篠田衛生軍曹と共同して、八路軍の患者休養所内の重病兵員1人を「生体解剖手段により殺害しました」 
1940年9月には、八路軍の百団大戦反撃作戦に参加し、任家村で、「第三中隊長加藤友記は同村の住民二十名を逮捕した上、寧化堡に於て全員射殺しました」 
1941年9月下旬には、中隊主力を指揮して王家溝襲撃をさせ、「日軍の姿を見て逃げる住民は皆敵性だからやっつけて了えと射撃を号令し、結果、七名の住民を射撃傷害しました」。「東寨鎮に於て住民男十名を拷問にかけ、婦人五名を輪姦したのを容認しました」 
「私の一九三七年四月から一九四五年九月三日迄に於ける日軍に参加して中国人民に対して犯した罪悪事実を統計しますと次の通りであります。即ち殺人した総人数は八百三十一名で、殺人した対象内訳は住民(男)四百二十名、住民の婦女子十四名、民兵九十八名、兵員の内八路軍兵員二五二名、抗日軍兵員三十八名、外に捕虜兵員九名です」。殺人手段は、射殺、刺殺、斬り首斬殺、焼殺、墜死、餓死、獄死があった。 
「傷害した総人数は五百十九名」で、その手段は、射傷、打撲傷、斬傷、地雷を踏ませて爆傷、刺傷があった。 
「中国婦人を強姦した人数は合計三十四名」だった。 
「逮捕した住民は総人数百十二名で、外に戦場に於て兵員を捕虜とした人数は三百六十八名有り、これらは後送処理後の状況は不明です。また逮捕・拉致して拷問又は殴打審問した人数は住民・二百十五名あり、外に平和住民を拉致して地雷踏み・道案内・馬夫・荷物かつぎ・軍用道路又は築城工事に無賃奴役した人数は千百七十一名有りました」(編集MA) 「人民網日本語版」2014年7月15日


日本人戦犯12人目・菊地修一の供述書公開 2014-07-16
日本人戦犯・菊地修一の1954年12月の供述書によると、菊地は1915年に日本の宮城県で生まれ、1937年に偽満州国に派遣された。1945年8月の日本投降後、国民党の閻錫山の部隊に入り、太原綏靖公署教導総隊少将砲兵団長に任じられた。1949年4月24日、山西で捕虜となった。 


菊地が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。 


1938年9月下旬には、河北省尭山県尭山城付近を偵察中、「東門を通過中の二十五歳位の婦女と四歳位の女の子に対して私は、今頃迄城内に残っているのは敵の家族だ射てと命じ、部下に軽機関銃と小銃で射撃させ婦女を射殺させ、次で泣いて母の死体にすがっている女の子に対してもそのまま小銃で射撃させ射殺しました」 
1938年10月上旬には、河北省高邑県で、「初年兵の度胸試しと気合いをかけるため」、「先ず三名に杭にしばった俘虜一名を三十米離れた所から一名づつ突撃の要領で刺突させ、次で別の初年兵二名に同時に穴の側の二名を刺突させ穴に突き落とし」た。 
1939年3月下旬には、山西省代県峨口鎮で、炊事用道具の借用を拒絶した2人の女性を殴打した上、「家屋内で(中略)三十歳位の女性とその子供(中略)の二名を刺殺し、次で他民家で住民三名を刺殺し」た。 
1939年12月中旬には、「太原市内の民家に(中略)案内させ、中国女性一名を強姦しました」 1940年3月下旬には、山西省崞県の「賈荘東北側七十米の河床上で、八路軍俘虜三名を中隊の兵五名が銃剣で刺突後射撃をし斬殺」した。 
1940年4月上旬には、山西神池県で、「水泉梁東方峪地の住民の掃蕩に参加せしめ逮捕住民二十余名を刺突又は射殺させました」 
1940年9月上旬には、「五寨県五寨城内で二十歳位の女性一名を強姦し、其の後更に二回強姦し」た。 
1941年9月上旬には、「偏関城内の憲兵隊に特務工作隊員が婦女三名を連行し、爾後自分の宴会の酒の酌をさせた後二十三時憲兵隊で私が二十二歳位の婦女を強姦し、又部下将校二名の婦女二名の強姦を黙認しました」 
同月上旬、中隊に配属中の軍医中尉河原信二が俘虜1名の生体解剖をしたいとの意見に「解剖を許可しました。(中略)先ず咽喉を切開して声がでない様にし、爾後盲腸の手術後河原信二が拳銃で腸を射撃し、腸の切開縫合を行いそのまま医務室において経過状況をみ、三日後の十四時頃更に関節の切断手術後中隊兵舎の庭に運び、河原信二がまだ生きている俘虜の頭部を拳銃で射撃し死体はその場に埋めました」 
同月中旬、「偏関城内の中隊兵舎にあるトーチカ内で生体解剖を行い、腸を切断縫合し、翌日の午後迄経過を見、十七時偏関城内の中隊兵舎の東南側城壁の所に本人を運び、河原軍医が拳銃で頭部を射撃し惨殺後その場に埋めました」(編集MA) 「人民網日本語版」2014年7月16日


日本人戦犯13人目・永富博之の供述書公開 直接殺害した中国人の総計六十一名(一) 2014年07月16日
日本人戦犯・永富博之の1955年2月の供述書によると、永富は1916年に日本の熊本県に生まれ、1938年に中国江蘇省呉江県で華中派遣軍宣撫班班員に任じられた。1945年8月の日本軍投降後は国民党閻錫山の部隊に入り、1949年に山西で捕虜として収容され、1950年12月9日に逮捕された。


 永富が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


 1938年1月、国士館専門学校の学生の時、南京下関に向かう途中で「何万数えきれない程の死体が累累として横はっている」のを見た。南京下関では、揚子江の河中に飛び込んだ捕虜を「射撃して殺しました」
 1938年4月,将校に模範を示すため、呉江県で捕虜1人を「日本刀で首を斬りました」。また蘇州で「某中国女性を紹介され汚姦しました。その後一週間を経て、再び蘇州に来た時同女性を呉江に連行し一週間姦汚をしました」
 1938年11月には、安慶で「中国女性(三十歳位)を一人呼ばしめ機関内にて姦汚しました」。さらに翌日には中国人家屋で1人の中国人女性を紹介させ、「一回姦汚致しました」。同年12月には、「安慶城内の某中国人家屋にてXXX(年齢十六歳)を紹介せしめ、その夜る強姦致しました」
 1941年5月には、「初年兵五十名に対白兵戦の教育を行うため」、「銃剣を以て一人を一回十米の離れた所から走って来て刺突しました」
 1942年8月には、聞喜県横水鎮東郝荘での調査中、住人5人に対し、「横水鎮小北門外空地に於て日本刀で首を斬」った。
 1942年10月には、聞喜県雲泉村と牛荘村の一帯を捜査した時、逮捕した中国人民「全部を銃剣刺殺し、又小銃で射殺せしめました」
 1942年11月には、聞喜県の掃蕩の際、3人の晋南戦軍戦士を逮捕し、横水鎮情報所で、「情報所で中国人鍛冶屋に作らせた日本刀が斬れるか何うか試すために、横水鎮南門外の畑地の井戸端に於て首を斬らせました」
 1942年12月には、聞喜県下峪口村で、「八名の臀部を目茶目茶に刺し殺害しました」。聞喜県東山底村で20人余りの住民を逮捕して、「日本刀を以て、又藁切刀にて惨殺を行い」、「南門の所二つの中国住民の頭を曝首にしました」
 1943年2月には、聞喜県北白石村を掃蕩し、「十五名を部落の北側の凹地に連行せしめて、小銃にて全部射殺せしめました」。同日、蓋寨村で、「私が工作隊員に命令しまして」、「同村住民を九名小銃にて工作隊に射殺せしめた」ほか、「道案内として連行した住民一名は同地にて焼殺しました」
 1943年10月から11月には、太岳山脈で、中国住民6人を、「高い山の台上から下に全部私が落して殺害してしまいました」。さらに「某村に於て洞窟家屋内に二十名の中国婦人子供を押し込み焼き殺した」
 1944年7月、霍県の保安隊指導官を務めていた時には慰安婦を開いたが、「私の目的はこれにより保安隊兵士を女性にしばりつけ逃亡をなくせしめようと云う考えたのが主なる目的であり又自分もこれから公然と獣欲を満足せしめる事が出来ると云う考えから設けました」
 1944年12月には、霍県李家山一帯の掃蕩の際、村民を逮捕・拷問したが何も言わなかったため、「私が兵士に命令して全部殺害せしめました」。西許村南では11人を小銃で射殺した。
    1945年4月には、保安隊を指揮して捕虜9人を調査し、「目かくしをし、更に縛り上げた上射殺」した。
「私が日本より中国に侵略して来て以来、日軍の非戦に到る迄に犯した罪悪を小計して見ますと、私が自から直接殺害した中国人の総計六十一名」、命令をして殺害した総数は166人、上級の命令を受けて殺害した総数は41人にのぼる。
 「婦女に対する強姦罪悪七名(中人妻に対し五名、娘に対し二名)。慰安所を設置し日軍及び保安隊員の獣欲に供せしめた罪悪三件、人員十二名の婦女。私が姦汚した中国婦女十八名(慰安所五名、食堂女招待四名、私娼八名、女中一名)」(編集MA) 「人民網日本語版」2014年7月16日










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