日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Suh Joon-sik・Follow Passion for self- reliance-From Korean political prisoner to human rights activist/서준식・자생에 대한 열정 - 한국의 정치범에서 인권 운동가로/徐 俊植・自生への情熱―韓国の政治囚から人権運動家へ ④

日帝治下、解放空間で、彼らなりの信念とやり方で努力した結果、「スパイ」の烙印を捺されて監獄で老いていく彼らの姿こそは、悲惨な我が民族の自画像なのかもしれない。分断体制と反共イデオロギーは、明らかに、万国共通のスパイ概念を歪曲して「韓国的」スパイ概念を作り出した。われわれが経験してきた現代史の痛みに照らせば、彼らはわれわれにとってスパイではなく政治犯でなければならないだろう。
いつも多くの人々が倒れていった後で・・・
右に見てきたように、我が国で「スパイ」概念は祖国分断に由来する概念であり、スパイといわれる者は実際にはスパイではない。
スパイ問題は長い間厳格なタブーの問題だった。なぜタブーでなければならないのか。分断体制を長きにわたって支えてきたのは「北からの脅威」という「神話」だった。この「神話」を代表する主役がまさにスパイなのだ。したがって、スパイは、デッチ上げられたものであってはならず、愛国者であってもいけない。恐るべき怪物や殺人鬼でありつづけねばならなかったのだ。これは、分断体制を維持するための一種の恐怖政治だ。こうしたスパイ概念が壊れはじめるとき「神話」は壊れはじめ、恐怖政治は脅威を受けはじめ、そして、分断体制は揺らぎはじめるだろう。
分断40年。われわれは、数多くの人々がスパイ概念の威力の前に倒れていった後で、今ようやくにしてこのタブーに挑戦しはじめるのだ。悲しいかな、われわれは、殺伐たる弾圧の時期にその暴圧を恐れてブルブル震えながら口を噤んでいるうちに、いつも多くの人々が引っ立てられ、倒れていってしまってから、用心深く顔色を窺いながら、歴史のドン尻についていく・・・。
監獄暮らし35年、自由1年 -チョン・デチョル氏の生と死ー   1991年
1人の少年がパルチザンになるまで
「長いあいだ今かいまかと待ち望みながら、南北交流がうまくはかどって北にいる家族と会えるようになることを夢見てきましたが、それも見込みが薄く、やむなくこの道を選びます。」
これは、監獄暮らし35年7ヶ月と「自由」1年ののちにハンサン[閑山]島の人里離れた松林で首をくくって死んだチョン・デチョル氏の遺書の最後の部分だ。チョン・デチョル氏の死は、いわゆる「高位級」たちのきらびやかな「交流」と「統一」ジェスチャーが、分断によって多くの人々が経験している痛みをほんとうに拭い去るためのものではないことを、端的に示す事件だといえよう。
1927年、ビョンアンブクリ[平安北道]ヨンチョン[龍川]で生まれ、極貧のなかで育ったチョン・デチョル氏は、幼いころ、ソダン[書堂]教育を受けていたときに父を失い、4年制の簡易学校だけをかろうじて卒業した。この学校は、歳を取って学業の機会を逸した人々や距離が遠くて学校に通えない子どもたちのために地方の有志たちが設立した、いわば私立国民学校だった。
14歳のとき彼は、当時日帝が傀儡国として建てたいわゆる「満州国」の奉天に渡って、「満州日報」社に雑用係兼配達員として就職し、彼特有の勤勉さで日本人たちからおおいに可愛がられたという。日本人たちの支配地域から中国本土に出ようとして捕まり、口で言えないほどの苦労をしたりもした彼のこうした少年時代は、ひと言で言って刻苦の歳月であり、後に彼の人間性の最大の特徴となる勤勉と独立独歩の精神を育んだ歳月だった。
解放された祖国に帰った彼は、当時の多くの北韓青年たちのように、共産主義青年同盟に加入した。そして、1946年1月には「共青」の推薦でピョンヤン[平壌]学院という軍事・政治幹部養成所に入学し、その4月には朝鮮共産党にも入党するようになる。

小隊長として「38警備隊」に入隊し、オンジン[ 津]地区に配置された彼にとって忘れられない事件が起こるのだが、それは部下隊員の越南(「北」の統治地域から38度線を越えて「南」の統治地域に「脱出」すること)事件だった。ささいな過ちにも敏感な反応を見せ、万事に完璧を期そうとする彼の性格は、一部は、この事件によって降級、後方配置という処分を受けた衝撃にも起因しているようだ。
戦争が起こると、彼は南下し、「ナムへ[南海]旅団」中隊長として一時はナムへ沿岸警備の任務に就くが、[韓国軍側が攻勢に転じた後]退路を断たれ、結局、チリ[智異]山に入って「チョンナム[全南、全羅南道]道党学校」の軍事教官としてパルチザン活動をするようになった。同僚たちの証言によれば、彼は口数が少なくて誠実であり、とても見事に戦ったパルチザンだったという。
いつ果てるともしれない歳月を非転向として踏み止まり
1951年12月、国軍[韓国軍]の第一次攻勢で足に銃傷を負って逮捕された彼は、クァンジュ[光州]パルチザン収容所に収容された。当時、収容所には連隊長、大隊長、監察課長などの「職位」があったが、これは、収容所当局が捕虜を統制・監視させるために、いわば「手先」として作った地位だった。
クァンジュ収容所の連隊長に「イ・ウク」という人物がいた。彼は、38警備時代にチョン・デチョルン氏の直属上官であったし、彼にチョンナム[忠南、忠清南道]地域パルチザンの総参謀長であった人物だ。チョン・デチョル氏は、イ・ウクとの切るに切れない人間関係のためにここで大隊長の職を引き受けることになる。これこそが、彼が遺書に書き残した「・・・無数の過ちを犯し、これを雪ぐすべがない」という言葉の意味であり、影のように一生彼につきまとった痛みの正体だった。35年7ヶ月の間、ありとあらゆる抑圧と暴力のなかでも彼が非転向を貫けたのは、この痛みのためだったかもしれない。
監察課長とは異なり、連隊長、大隊長たちは必ずしも他の捕虜たちの憎悪の対象でのみあったわけではない。事実、イ・ウクは、捕虜たちを陰に陽に助けたし、「生かしてやろう」という当局の執拗な懐柔を頑強に退けて、ついに死刑に処せられた人だ。
パルチザンたちが大量に死刑宣告を受けた1952年の単審制の軍事法廷でチョン・デチョル氏もまた死刑を宣告された。しかし、テグ[大邱]刑務所に移送され、死刑確定通知を待っている彼に、歳若いパルチザンを対象した再審は無期懲役確定を通告してきた。数多くの囚人たちが飢え死にし、凍え死にし、殴り殺され、病死していった50年代の凄惨な監獄で、彼は歯を食いしばって、いつ果てるともしれない歳月を非転向として踏み止まりつづけた。4・19革命(1960年)後にはふたたび20年刑に減刑された。
1960年代のテジョン[大田]監獄での彼は、同志たちのために針仕事、病気の看護などにいつも真心を込める、誠実で勤勉な、模範的な人物として通っていた。
新生活・再投獄、そして自由1年2ヶ月
1973年6月25日、21年6ヶ月ぶりにテジョン矯導所から出獄した彼は、縁故者がないために更生保護所に行くことになり、そこで起居しながら彼はありとあらゆる飯場を転々とした。古物商を売り買いしながらキョンギド[京畿道]まで流れて行ったのは、故郷である北側の少しでも近くにいたかったからだということだった。
1975年の春だった。「水漬く、風光明媚な」キョンギド・クァンジュグン[広州郡]チョウォミョン[草月面]というところで、彼は、人柄の良いオ[呉]氏老夫妻と出会い、その家で働くことになった。貯水池作り、農作業、薬草栽培・・・どんなことでも熱心に、楽しそうに働いたという。なにせ勤勉な性格なので、村人たちも彼のことが気に入り、結婚をしてその村で暮らすように勧めたという。
社会安全法が制定されたのは1975年7月16日。彼の定着の夢がいちばん膨らんでいたときだった。裁判もなしに、「罪を再び犯す顕著な危険性がある人物」だという漠然とした理由で、オ氏老夫妻のそばからふたたび監獄に引かれていった彼の心中はいかばかりだったろう。最初はオ氏夫妻から手紙も領置金も届いたという。しかし、人に絶対に迷惑をかけまいとする彼特有の一徹さのために、それも長続きはしなかったという。体が虚弱なうえに縁故者もいない彼が指圧・鍼術理論を熱心に学んだのは、理由のあることだった。
それは、老年に差しかかった彼のほとんど唯一の「命の綱」ともいうべきものだった。一文無しの彼は、やっとの思いで人の本を借りては、卓越した暗記力でいつのまにか指圧理論に通じていた。お互いを隔離する独居収容の困難さのなかで、彼は、自尊心を曲げて矯導官に哀願しては、病んだ同志たちに指圧を施していき、また、矯導官たちに、さらには、悪質で名を馳せる矯導官たちにも、仁術を施していった。
6月抗争(1987年)の結果として連行した「民主化」の過程で社会安全法がようやくにして廃止されたのは1989年、つまり、制定されてから14年後のことだった。多くの被保安監護者たちは父母兄弟姉妹のもとに帰っていった。14年ぶりに監獄から解き放たれたチョン・デチョル氏は、しかし、行くところがなかった。チョウォルミョンに近いソウルの方に行きたかったが、出所者たちを分散させる政府方針により、彼の居場所は、なんと、プサン[釜山]更生保護所に決定された。
更生保護所の前にタダで地面を借りて指圧施術所を始めはしたものの、無資格で仁術を施す[鍼屋]を人々が訪れる時代はすでに過ぎ去ってしまっていたのだ。結局、彼は、63の歳でふたたび肉体労働という前線に出ざるをえなかった。柑橋園の果樹園で働くために南の果てのハンサン島まで流れていったが、そこでの力に余る労働に耐え抜くことができなかった。すっかり衰弱しきった体に腸チフスまで患った彼は、その事実を誰にも告げられないまま、ついに、病苦と孤独のなかでハン(恨。日本語の「恨み」とは異なり、「誰にたいして晴らせばよいのか分からない漠然とした悔しさ、名づけようのない痛み」を意味する(「徐俊植・全獄中書簡」348頁参照)多い生涯を自ら断ってしまったのだ。長い長い監獄暮らしの果てに「自由」を得てからわずか1年1ヶ月後のことだった。

Suh Joon-sik letter in prison 서준식(徐俊植)전 옥중 서한  1992/10/01
自殺が卑怯な行為だということを彼は、遺書でも言及するほどによく弁えていた。しかし、彼の自殺は、八方塞がりの窮地に追い込まれながらも人には絶対に迷惑をかけまいとする、世の中にたいする彼なりの誠実さによるものだった。そしてそれ以上に、究極的には、政治犯の「自殺」は、政治権力による他殺にほかならないのだ。
維新独裁がもっとも猛威を奮っていたころ、社会安全法は、日帝末期の最後の悪あがきである法律をそのまま真似て作られた。この法は、特定の政治犯のいわゆる「再犯の危険性」を理由に、裁判もなしに投獄したり、住居を制限したり、日常生活を監視・監督する法律だった。社会安全法が存続した14年のあいだ、政治権力の故意の隠匿と国民の無関心のために、多くの人々が恐怖に震えては無念の涙を呑み、妻子と離れ離れになっては病苦と孤独にさいなまれ、あるいは、鉄格子のなかで死んでいった。
政治権力が想像のなかで勝手に作り出したいいわゆる「再犯の危険性」のために裁判もなしに監獄暮らしをせねばならなかった人々だけでも156名(女性1名も含む)、そのうち90名は苛酷な試練のなかで屈服して思想転向書を書かざるをえなかったし、命を失った人は、監獄所当局の残虐行為によって殺害された2名を含めて15名に上る。
最後まで良心を固守し、生きてチョンジュ[清州]保安監護所の鉄門から出てきた51名の平均年齢は65歳だった。彼らは、ほとんど何の社会復帰対策も用意されることなく、いや、今度は社会安全法に代わって舞台に登場した保安観察法の苛酷な軛を嵌められたまま、厳しい世間にほうり出されたのだ。

1989年、社会安全法の廃止と同時に制定された保安観察法もまた、特定の政治犯の内心を根拠として漠然とした「再犯の危険性」を憶測しつつ、裁判もなしに、日常生活にたいする苛酷な監視・監督をする法律だ。被保安観察者がこの処分から逃れようとして身を隠したり逃走したりすると3年以下の懲役を受けることになる。被保安観察者は3ヶ月ごとに、自分の活動事項と、「通信・会合」した他の保安監察処分対象者の人的事項、日時、場所、内容と、3ヶ月間にした施行に関する事項などを、警察署に申告せねばならない。これを怠る場合、2年以下の懲役に処せられる。被保安観察者は、このほかに、検事・警察官の「指導を受ける義務」と「措置に従う義務」を負うのだが、この「措置」というのは、①保安観察法に該当する罪を犯した場合との「会合・通信」の禁止、②公共の安寧秩序に直接的な脅威を与えることが明白な集会または示威場所への出入り禁止、③保護・調査のために特定の場所への出入りを要求する措置、などであり、これに違反すると懲役1年以下となっている。
こうしたさまざまな規制は、公権力によって勝手に解釈され、国民としての政治的権利はもちろん、ときには「人と会う権利」すらも踏みにじることになる。たとえば、テグの享楽養老院では、面会を許可しなかったり、あるいは、刑事の立ち会いがあってはじめて面会を許したりといった具合であり、電話はいっさい許されない。ウムソン[陰域]の「花の村」に筆者が面会に行ったとき、園長は、実務者の「手違い」で面会がなされてしまったことにたいして非常に怒った。
キリスト教会館で民家協とNCC[韓国キリスト教教会協議会]人権委などが共同でチョンジュ保安監護所出所者歓迎会を持ったとき、各地で警察は参加しようとする出所者たちを軟禁したし、それでも封鎖を破って参加した6名のうち4名を刑事立件した。プサンの永生福祉院では監護所出所者チェ・ナムギョ氏の手紙を公然と検閲している。
チョン・デチョル氏をはじめとするチョンジュ保安監護所出所者たちにとって、このような規制は非常に大きな精神的重圧として作用するに決まっており、親しい人といえば監房の同志たちしかいなかった彼らにとって、これは「死へと追い込む」孤立無援を意味するのだ。
結局、老人となって、分断祖国の監獄から厳しい世間のなかへ、何の社会復帰対策も用意されずほうり出された彼らを待っていたのは、事ごとに日常生活に介入する公権力の監視と干渉であったし、食っていくのもたいへん辛い生活だった。それは彼らにとってもうひとつの「監獄」にほかならなかったのだ。
関心と支援が必要だ。しかし、決して同情ではなく・・・
チョン・デチョル氏の死は、われわれに多くのことを求めているように思われる。
まず、われわれはこの邪な分断時代をはたして正しく生きてきたのかを反省してみなければならないだろう。彼がテジョン矯導所で20年を越す超長期拘禁という苛酷な刑罰を受けているころ、われわれは、暴力政治にたいする恐れから、あるいは無知から、口を噤んでいた。彼が21年6ヶ月の監獄暮らしを終えて、辛い肉体労働で2年あまりを過ごした後、「再犯の危険性」という漠然とした理由で、裁判もなしに、ふたたび監獄に引かれていったとき、われわれは、暴力政治にたいする恐れから、あるいは無知から、口を噤んでいた。また、全部で35年7ヶ月の監獄暮らしから彼が釈放された後で保安観察法が彼の日常生活にたいする不当な干渉と威しによって彼を死に追い込みつつあったときにも、われわれは暴力政治にたいする恐れから、あるいは無知から、口を噤んでいた。
われわれは、苦難に満ちたこの分断時代を正しく生きてきたのだろうか。
祖国統一と民衆が主人公となる統一祖国を熱望するわれわれは、これを成し遂げようとした先立つ時代の遺産を尊重せねばならないだろう。日帝時代に熾烈に独立を渇望しつつ名もなく倒れていった愛国者たちが、祖国分断の危機に面した解放空間のおいてその状況と対決する信念一つでもって熾烈に生きた政治犯たちの希望、痛み、苦悩、経験・・・。これらはすべて、われわれが大切に守らなければならない遺産だろう。
顧みれば、この地の分断勢力と反共至上主義は、つねに彼らを冷遇してきたし、われわれに彼らにたいする偏見と蔑視を強要してきたし、われわれもまた、その影響のもとで、分断体制特有の歪曲された感受性を備えてきた。この事実を克明に示すものが、まさしく、チョン・デチョル氏の「孤独な死」なのだ。
長期囚にたいする関心と支援が接に求められている。しかし、それは、決して同情からではなく、民衆が主人となる統一の世を彼らなりの立場から望み見ながら全身で分断体制を拒否した政治犯にたいする敬意からくる関心と支援でなければならないだろう。

V
私の真実、私の告白     1985年
数奇な人生ゆえに明日を期すことが難しい私は、少しでも何かを後に残したい衝動を抑えることができません。何かを・・・。たとえば、この私が世を熾烈に生きていたのだという証拠のようなものを・・・。
私の幼いころからの精神史を詳しく開陳する必要はないでしょう。
自分が朝鮮人だという、少しハン(恨。前出(188頁)の訳注参照)の混じった、はっきりとした自覚。ひどく不出来な友人たちにたいする愛情と連帯感。中学生時代の民衆意識の後退と、それにつづく、堂々と胸を張って生きられない苦痛と不安のラディカルな克服としての、全校生の前での民族的弁論[朝鮮人宣言と差別反対の主張]。そのように自分の身を投げ出してしまったことによって決定された人生、つまり、そのときから踏み外そうにも踏み外せなくなってしまった民族主義者の道。最初から胸を張っていたために飛躍的に発展した高校時代の民族的自覚、そして、それに応じてしだいに強まっていった社会意識と社会科学という学問に対する憧慢。そして、高校卒業と、ついに母国留学・・・。
母国留学生だということで過分にもソウル大学校法科大学に特別枠で入学を許されましたが、もともと秀才ではなかった私は、ウリマル[母国語]の実力が稚拙このうえなかったこともあって、大学生活はとても骨の折れるものでした。
後悔することの多いそのころの話は詳しく話さないことにします。大学生活がはじまると同時にはじまった恋愛にあまりにも多くの時間と精力を浪費してしまったのも後悔されますし、学校の勉強を熱心にしなかったことも、そのほかの教養書籍もたいして読まなかったことも後悔されます。良い友人と深く交わるために捨て身で相手にぶつかっていかなかったことも後悔されますし、酒をあまりにもたくさん飲んだことも、サークル活動を一度もできなかったことも、我が国をまったく施行しなかったことも後悔されます。<この世で一番美しい彼女>と一度たりとも肉体的結合をもたなかったこと(?)も・・・。このように、なにからなにまで恥ずかしく後悔されることばかりです。


他方、精神的に見ると、
第一に、日本からやって来て急に接した我が同胞たちのゾッとするような悲惨な姿が、感受性の鋭い盛りだった私の胸に与えた衝撃は、絶対的でした。このことが私を決定的にマルクス主義者の道へと、また後にはそれとともに(私の解釈する)イエスの道へと、導く要因でした。
下働きをする幼い女の子を見ても、すさんだ娼婦たちを見ても、物乞い・ガム売り・靴磨きの子どもたちを見ても、道行く荷運び人夫たちを見ても、路上で取っ組み合いの喧嘩をするオバさんたちを見ても、涙がドッと溢れだしていたあの新鮮な衝撃を、私はなくさずにしっかり胸に抱こうと努力してきましたし、努力していますし、これからも努力していくでしょう。これが、私の生を支えてくれる力です。
私の<共産主義>はこのように「哀れだ!」と言いながら飛び込んだ<共産主義>ですので、「このままじゃ生きていけない!」と言いながら飛び込んだ同志たちとの体質の違いからくる、微妙でもあればまた辛くもある葛藤は、必然であるようです。
第二に、日本において、熱烈ではあるもののどこか抽象的であり感傷的でもあった私の<民族主義>が、母国で母国の現実を熱心に呼吸して何年か暮らすなかで、より具体的で密度の濃い感情へと進展していったという点を挙げねばならないでしょう。大学3年生のころから私は、夏休みや冬休みに日本に行って過ごすのがとても苦痛になったのです。
言葉ではっきりと説明しにくいのですが、私は、私の<民族主義>が日本に住む同胞たちの民族主義とも違い、(たとえば舌はよく回らず、我が国の文化についての深い造詣はないにしても)この本国の同胞の民族主義とも質的にどこか違うということを、感じています。考え違いをしているのかもしれませんが、私の<民族主義>はもっと熾烈であり、また、もっとハン(恨)の籠ったものだと思うのです。私の<民族主義>は私の生を支えてくれる明確で強い力のひとつである、という意味において・・・。
そして、このことがまた、私に特有の<共産主義>を形作る一つの要因となっており、そのことが、1940年代、50年代風の一枚岩のようなプロレタリア国際主義の信念とともに自らの<共産主義>を形成した戦争世代の同志たちのなかにあって、孤独を感じる一つの理由なのかもしれません。
第三に、私の悠久な孤独、つまり、根本的に私が一種の<境界人>(マージナル・マン)だという事実に由来するだろうこの慢性的な孤独は、このころから本格的にはじまります。(<境界人>-性質の異なる二つの文化に所属するが、そのどちらにも完全に同化していない在り方)
マルクス主義を信奉するようになった私は、そのときから自分の内部の小ブルジョア的要素を払拭せねばならないことを、骨身に沁みて自覚してきましたが、15年間も惨めな懲役暮らしをしながらも、いまだにプロレタリアとの距離が遠いだけではなく、ふたたび小ブルジョアに戻れないこともまた明らかなのです。
大学時代に碌に勉強をしませんでしたし、私のような頭脳でもって学問をすると嘯いて穀を潰すのは<罪悪>だと信じただけではなく、青白いインテリになることも断固として拒否する<剛直な>(?)信条の結果が・・・。<知識人>を自任するのはどう考えても厚かましく、そうかと言っても<無学者>たちと堅い連帯感が感じられるほどには<無学者>的哀しさを味わっているのでもないのです。
<日本>をアルコールで拭きとってしまいたいほど必死に<民族主義者>になろうと奮闘してきましたが、失ったものは<在日同胞>への所属感だけで、その代価として受けて当然なはずの<生え抜き(「生粋」の朝鮮人)>の資格はいまだに拒否されているのです。人々は、「ソ・ジュンシク?ああ、あの在日僑胞?(「僑胞」とは、外国に住む同胞のこと)」と私のことを言います。このような<境界人>的共産主義者が共産主義者として生きていくのはどんなに困難であり、ここ[保安監護所]でどんなに孤独を感じなければならないことでしょう。
悠久な孤独は、どこにもしっかりと根を下ろせそうにない孤独であると同時に、友人のいない孤独でもあります。
<在日同胞>の友人?それは作ろうと思えばいくらでも作れましたが、私は傲慢にも(<日本>をアルコールで拭きとってしまいたかったために)そうしたことを望まず、<生え抜き>の友人を一生懸命に渇望しました。
<生え抜き>といっても、<在日同胞>がもの珍しくて愛想よく近づいてくる<お追従派>を私は軽蔑しましたし、<学究派>たちは私の相手をする時間がありませんでしたし、<出世派>は私が嫌悪しましたし、田舎出の貧しく実直な友人たちは、「在日同胞?フン、いいもの食って、楽に生きやがれ!」と言いましたし、また<学生運動派>は私を中央情報部が目をつけた要視察人物、あるいはその反対に、情報部の手先ではないかと警戒したのです。出身高校や地方別に固まってしまうその当時の大学生たちの(私としては非常に理解しがたかった)生理も、彼らの仲間になるのがとても困難なことのように思わせたのでした。しかし、かれに私に心の通う良い友人がいたとしても(少なくとも1人はいたのはたしかですが)、私の稚拙なウリマルの表現力と、お互いがその中で育ってきた文化の根深い異質性のために、明らかに、直ぐには十分に深い親交を結べなかったでしょう。
<政治学>や<近代思想>の時間に教授にマルクス主義に関するもう少し誠意のある説明を要求しているうちにチャイムが鳴り、ソソクサと逃げていく教授を廊下まで追いかけてつかまえては追及していたアン[安]君、三選反対闘争[1969年]のときのリーダーだった輝かしいアン君は、私の偶像でした。アン君は知らないことですが、私がタバコを喫いはじめた動機は、まったくもってアン君のせいだったのです。2年生の春の< 山祭>(ソウル大学校法科大学学園祭」>。外部人士招請演会場のいちばん前の席に座って、私は講演がはじまるのを待っていました。ほどなくして<偶像>が講演会場にやって来て、座る場所をキョロキョロ探していたかと思うと、私の横の席に来て座ったのです。(ドキン、ドキン!)私の<偶像>は、タバコを取り出して喫おうとして、先に私に勧めました。喫いなれている振りをして生まれてはじめて喫ったタバコ!その恍惚感、幸福感は、はじめて吸い込んだニコチンのせいばかりではなかったのです。そのときまで挨拶さえしたことがなく、その日もひと言も言葉を交わさなかったアン君と私の出会いは、そのようにしてはじまり、私の喫煙もその日からはじまったのです。けれども、デモのせいで追われる身となり、退学処分を受けると、自分から入隊してしまった彼とは、やはり深い親交を結ぶことができませんでした。
今、ここには、30代が私を入れて3名。その3名もお互いに会えないように隔離されており、40代はおらず、残りはすべて50歳以上の人たちです。大学時代から20年間の私の生活は、いつも友人を渇き求めてきた生活でした。しかし、それはいつも友人のいない生活でもあったのです。
私にとってここでの暮らしはどんなに耐え難いことでしょうか!
その他にも、私は幼いときから、心の寛い人間にはなれず、また、おおいに関連で社交的な人間にもなれませんでしたが、しかし、こんなにも非社交的で内省的になってしまったのは、おそらく、ウリマルの表現力が稚拙なために誰と話をするのも怖かったこの大学時代からです。言葉は流暢に話せないが思考する能力は人並みにあるという条件が、ひょっとすると、無口で度量が狭いことや人々をしきりに観察する癖がついてしまったことと相関関係にあるのかもしれません。
観察するがゆえに、人間が嫌いになるのはあまりにも当然です。意識しなくても人々の愚かさ、醜さ、卑劣さがしきりに目につくというのは、じつは、苦しみ以外のなにものでもありません。これは、<人間に対する愛>にとっては明らかに大きな危険です。私のこうした性格的限界は、私が真の共産主義者になることを困難にする大きな要因とならざるをえません。
また、これと関連したことですが、共産主義者にとって望ましい資質というのは思索型ではなく、行動型でなければなりません。活動や闘争それ自体を楽しみ、活動や闘争にウキウキする、そんな体質でなければならないことです。
学校時代に私が幅広く<ブルジョア芸術>を楽しんだとはけっしていえません。いや、二番目の兄や弟の水準から見れば私は<野蛮人>ですらあったのです。それにもかかわらず、私はその時代に、勉強や恋愛や出世や学生運動しか知らなかった多くの友人たちに比べて、たしかに、美しいものにたいする憧憬を(潜在的にであれ)より多くもっていましたし、この憧憬は、後に、この殺伐としたセメント塀のなかでそうした美しいものと完璧に隔離されてからはじめて、抑えるようもなく込み上げてきたのです。ここで私はルオーをはじめとした昔見た美しい絵を、ベートーヴェン、モーツァルト、バッハやシューベルトの歌曲を、どれほど恋い焦がれたかもしれません。共産主義者が、社会主義国家が、過去の特権階級の専有物だった<貴族芸術><ブルジョア芸術>をどこまで継承せねばならないのかという問題は、じつにデリケートでもあればまた難しい問題ですが、ここではいっさいの論議は省略します。
ただ、私は、学生時代に無意識のなかで育まれた<ブルジョア芸術>への愛のために、ここにいる共産主義者たちに共通する芸術に対する無知、さらには敵愾心に取り囲まれて、とても苦痛だという事件だけを述べておきたいのです。
腐ったブルジョア的残滓を私がかなり多く抱え込んでいるということ、そして、ここにいる共産主義者たちが、貧しさのなかで険しい生活をしてきた過程において、良い芸術に接して鑑賞する機会も精神的余裕も剥奪された気の毒な人々だということは、動かしようのない事実です。したがって、私は今、誰が正しく誰が間違っているのかという話をしているのではなく、ただ、苦痛だ、孤独だという事実を語っているにすぎません。
大学時代に私は、本をたくさん読む学生ではありませんでした。そして、社会科学書は好んでも、哲学書とは縁がありませんでした。哲学書を楽しむほど頭が緻密でもなく、忍耐力もありませんでした。そのうえ、直ぐ目の前で惨憺たる姿で展開されている現実の悲惨さを前にしては、哲学書などはどれもこれも網で雲をつかまえるような話だと感じられたりもしました。
獄中でもこうした性格は直らず、検問に引っかかって許可されるはずもない社会科学書ばかりを渇望しているうちに、歳月を空しく過ごしてしまいました。私の思索は哲学的基礎を備えてはいません。
大学時代のマルクス主義の勉強も、実のところは、しがないものでしかありませんでした。しかし、この社会でこれみよがしに闊歩している、マルクス主義への批判なるもののほとんどが、笑うべき無知であり、嘘であり、歪曲であり、残薄なプロパガンダであることを見抜く程度には勉強しておいたのです。
大学3年生のころに、私は明らかに壁にぶち当たっていました。良い友人と交わることの難しさや、そのような抱負や思想をもつ私が<在日同胞>の身でこの社会において何をなしうるのかがはっきり見えてこない、といったことのために・・・。
私は孤独であり、私が所属すべき場、根を下ろすべき場をもちたかったのです。思えば、私の<入北>は当然の成り行きだったのかもしれません。
上のような背景をもって私は長く険しい監獄生活に入りました。
黒い乗用車に乗せられてどこか分からないところへ連行されるとき、私は、「天が崩れるようだ」という表現がすこしも大袈裟な表現でないということを実感していました。
しいて拷問と言えるものもなく、恐喝と殴打で怖じ気づき、私の人生をすっかり棒に振ってしまうことをおとなしく吐いてしまったのでした。
こうした種類の事件というのは、たいていの場合、取り調べが終わると直ちに発表するのではなく、長いあいだ握っておいて、いわゆる<逆工作>を行いながら、政治的に利用できる機会が訪れたときに、はじめて大々的に発表するものなのです。私たちの場合には、パク・チョンヒ[朴正煕]とキム・デジュン[金大中]の選挙の熱気がもっとも盛り上がっていたときに<学園浸透スパイ団>事件として発表され、大学生たちの教練反対デモをシュンと沈静させ、さらにはパク・チョンヒを当選へ導くのに、政治的に一つの貢献をしたわけです。それまでのしばらくの間に、あの人たちの監視を受けながら学校にも通いましたし、また、あの人たちに連れられるままに高級料亭にも出入りしました。あの人たちは、お人形のように奇麗な女性たちともくっつかせてくれながら私たちをつらつら観察するのだという話は、後から聞きました。網にかかった獣が理念だとか良心だとかを投げ捨てて180度堕落して自分たちの忠実な犬になれるかどうかを、です。合格なら<公訴保留>となったり<自首>扱いになったりして、反共戦線に加わるようになるというのがお決まりの道です。私は不合格だったようです。
ソウル拘置所の未決舎で私は<最高に良い房>に入りました。なにも施設が良いということではなく、看守が賄賂を取って金持ちだけを一つの房に詰め込んでくれる、裕福な房だという意味です。密輸、横領、詐欺、贈収賄・・・。私は、そこでの半年の生活で、恥ずかしいことですが、精神的にも日常生活においてのその<罪囚貴族>たちといっしょに特権的で堕落した生活をしていたのです。その人々の利聡く世間ばなれした処世術と考え方の影響が知らず知らずのうちに私の裁判に反映していることを、私は今でも、即座に死んでしまいたいほどの恥ずかしさなしには回顧できません。
苦しかったことを二つお話します。
その一。でもを主導したとして1人のコリョ[高麗]大生が隣の房に入ってきたのでした。うれしくて、洗面に行くおりに房を覗きみながら挨拶の言葉をかたむけたのです。その学生がただちに私にむかって指を突き出しながら言ったのは「あなたたちのために教練反対闘争がダメになってしまった!」でした。その言葉に私は何日も思い煩いました。<国際的な釈放運動>がなくてもよい。死刑判決を受けたって!あのコリョ大生が私にひとこと温かい言葉をかけてくれさえしたら!こんな惨めな心情でした。
その二、いくら噂を掻き集めても、兄が拘置所に入っているようには思えませんでした。「変だ。ひょっとしたら兄さんは高級料亭のキーセン[妓生]試験(?)に<合格>したのだろうか・・・。」こんな突飛なことまで考えたのですが、ハン・スンホン[韓勝憲]弁護士が、兄が火傷を負ったことを知らせてくれ、それを聞いてはじめて、病舎に入ったという重症の火傷患者の話と兄を結びつけることができました。第1回公判に出廷した日、干物の魚を縄で結うように補縄で数珠つなぎに縛られながら、私は、多くの出廷者の中から兄の姿を探していました。あの隅で、顔中でグルグル巻きにして、項垂れて蹲っている人。その人を兄だと私は信じまいとしました。兄のいわゆる<共犯>たちは私にブツブツ不平を言いました。「人をこんな目に遭わせておいて君の兄さんはいったいどこへ行ってしまったんだ?」ついに矯導官の点呼が始まり、兄の名が呼ばれたとき、手を挙げて立ち上がる、あのグルグル包帯を巻いた人・・・。兄の<共犯>たちの口はポカンと開いたままであり、兄の目には涙が溜って溢れそうでした。
1審で死刑を求刑され(宣告は15年)、房を移りました。みな腹を空かしたコソドロたちばかりの<犬の毛房>。そこで私は、私のまったく知らなかった世界がこの世の中にあったのだということをはじめて知りましたし、この世の中にはお互いに出入りしにくい垣根を挟んで二つの種類の<人種>が存在するということを実感することができました。
裏町をうろつきながら、上目遣いで気兼ねしながら飯を食って育った者たち(孤児や家出人)の人間性が、捻くれて歪んでいるのは当然です。この当然のことを私は<5舎上23房>ではじめて皮膚で学んだといえるでしょう。学生時代の私の<貧しい者の悲惨さへの同情>がどんなにロマン的で感傷的なものだったかを、骨身に沁みて自覚しましたし、ほんとうに、<虐げられた者、貧しい者>たちと苦楽を共にすることがどんなに至難のことかを、はじめてある程度の切実さをもって考えたのです。とうてい許せない彼らの卑劣さ、野卑さに憤り、大喧嘩をしてからも、就寝時間に並んで横になり、そいつの身の上話を聞く段になると、喧嘩をしたことが後悔されて、私の心は張り裂けんばかりでした。そうでありながらも私は、8ヶ月間、私のいけない癖(たとえば、ちょっと学があるといって彼らの無学をひそかに見下すこと、あるいは、長期囚だという口実を押し立てて、おいしいものが少ししかないときにはーもちろん、私の家族が面会に来て差し入れてくれたものですがーそれを自分ひとりで食べてしまうこと)を捨てることができませんでしたし、また、喧嘩をやめることができませんでした。23歳の私は、そんなにも分別のない愚か者でした・・・。
こんな場所ではありがちなことなのですが、私はそのころ、取るに足らない学歴と知識のおかげで、しがないコソドロたちからゾンビ[学者]扱いを受けることができました。彼らは私をこう呼びました。<ソ・センウォン>(!)[センウォン(生員)は儒生を呼ぶときの敬称であり、全体で「ソ(徐)学士」といった意味。「ソ・センウォン」はまた、ネズミの俗称でもある]。私はこの綽名が好きです。
その年の秋、寒くなったころに、ソウル市内への衛戍令の発布と同時に、4名のソウル大生が入ってきました。3名はよく知った顔でした。<内乱陰謀>。彼らは、萎縮した私に最初から温かい慰めの言葉をかけてくれましたが、なぜか私の心は惨めでなりませんでした。独裁権力によって捏造された<内乱陰謀>罪の罠に立ち向かい、全国民的同情を受けながら法廷で堂々と陳述する彼らに比べて、弁明の余地なく北>との関係が明らかになった<スパイ>の私との距離は、つい先日まで学校で顔を突き合わせていたときとは異なり、眩暈のするほどはるかに遠いものに感じられたのです。昨日まで同じ列車に乗っていたのに、彼らの乗っている車両が行く線路と私の乗っている車両が行く線路とがある駅で別れたような気持ちでした。さよならー!元気でー!
そんな惨めな心情のなかで私は、刑が確定した後に転向するかどうかの問題をめぐって何ヶ月かのあいだ苦悶しました。前科者たちが聞かせてくれたテジョン[大田]矯導所<特別舎>のゾッとするような恐ろしい生活を、この意気地なしの私がはたして耐え抜けるのか、おおいに疑問でしたし、思想転向を拒否するという条件では<国際的釈放運動>は空しいということが、私にはよく分かっていたのです。しかし、私は、第一に、人々が注目していればいるほど、私の一つの行動でもって、私の抱いていた美しい理想と私を心酔させた社会科学的真理を汚してはならないという、当然の責任に背を向けることはできませんでした。第二に、私は、逮捕されてからそのときまで犯しつづけてきたありとあらゆる無分別な行動と意気地なさと(政治的に利用されたという)<罪>のうえに、さらに転向という屈辱的で大幅な譲歩を重ねることはできませんでした。そうした譲歩をした場合、私が永久に精神的に破滅してしまいそうな、そんな恐れに私は身を震わせていました。それほどまでにその当時の私の心情は惨憺たるものだったのです。そのうえ、私は、私の置かれている条件でたとえ転向をしたとしても、線の別れてしまったあちらの線路を走っていった列車に乗り移ることもできない、ということが分かっていたのです。私はこちらの線路を熱心に走っていくほかないと思っていたのです・・・。
大法院で私の刑が7年に確定したころ、兄と私は、春の日差しが差し込む弁護士面会待合室で会うことができました。私は兄に、テジョンに移ったら転向しないつもりだと宣言し、兄は、しばらく黙っていましたが、口を開いて言いました。お互いがお互いに縛られずに自分の歩むべき道を選択しよう、と・・・。私は、その言葉を聞きながら、火傷で痛んだ兄の手ばかりを見つめていました。
テジョンに移送される私の覚悟は悲壮でした。全国でいちばん規律が厳しい矯導所といわれるだけあって、じつに殺伐としていました。到着したその日に、転向するかどうかを聞かれて首を横に振ると、矯導官が目を剥きました。じつに久しぶりに非転向者が現れたというのです。こうして私の非転向左翼囚生活がはじまりました。規律はとても厳しかったのですが、私の事前の知識とはちがって本を読むことができ、どんなに有り難かったかしれません。
10年、20年の懲役暮らしをしている300名ほどの左翼囚のなかで暮らしながら、当時の心情をひとことで言えば、光栄でした。私のような取るに足りない男がこんな立派な共産主義者たちのそばで暮らせるなんて!
移送されてひと月後にあった<7・4共同声明>を、8月になってはじめて聞いた私の感激といったら!けれども、その良いことが良いことにならずに、棍棒に姿を変えて飛んでくるだろうとは、世間知らずの当時の私がどうして想像できたでしょうか。
南北会談。そこで議論され、ひょっとすると実現するかもしれない政治犯の釈放ないしは交換という事態。そのときのための左翼囚の<整理事業>。つまり、できるだけ多く転向させること→恐るべき拷問・・・。こうした過程は、後から考えると、当然すぎる政治の現実なのです。途方もない数の<教誨師>が増員されました。そして、南北会談が遅々として進展しなくなると、私たちは恐れをもって見つめざるをえませんでした。実際、彼らは、1973~74年に拷問を行いましたし、私はクァンジュ[光州]矯導所で試練を受けることになります。
テジョンでの生活が1年を過ぎるころに行くことになったきっかけは、バカげたものでした。
食事の代わりにくれる乾パンすべてが虫に食われているのを発見して、私は、是正を要求しようとして所長との面談を要求しました。すると、矯導官たちは、私の口を封じるために、いきなり縄で縛り、5~6名で袋叩きにしたのでした。生まれて初めてむちゃくちゃに殴られ、涙と鼻水まみれの顔で泣きわめいて、やめてくれと頼みましたが、気絶してやっと殴るのをやめました。
ところが、殴っておいて、面会時に暴露されるのが怖くなり、9月にクァンジュへ20名を移送する機会があったとき、私をその20名のなかに入れたのです。
殴られたときは死んでしまうかと思われたのですが、何日か過ぎて、心がどんなに爽快だったかしれません。まるで汚れて濁った古い血をすっかり流した後のように、私の内部のどんより澱んで腐っていく部分が流れ出ていってしまったような・・・。それは、<言葉で言って分かる知性人>扱いを受けただけではなく、<殴らないと言うことを聞かない無学者>の哀れさを分かち合うことができたという、そんな気分でした。
ひどい痛みが少しずつ引いていくと、もういちど殴られても大丈夫といった気持になりました。人はそのようにしてどんどん強くなるようです。鋼鉄をしきりに打って鍛えるように。
クァンジュ矯導所での拷問は、2人のゴロツキに棍棒と手錠とロープを与えて「お前たちの好きなようにやってみろ」というものでした。冬の監房で綿入れも布団もなしに過ごさせるのも、棍棒でめったやたらに殴られるのも苦痛でしたが、私は、なによりも水拷問が苦痛でした。水拷問をされた日、その夜の自殺企図が未遂に終わったために、私は未転向として残りましたが、64名だった未転向思想犯が2ヵ月後には25名に減り、2名は半身不随になってしまいました。大韓民国と矯導所当局に対する敵愾心の塊だったこのころの私は、<同志>たちとどんなに濃密な連帯感と愛で結ばれていたことか、いま考えると本当に不思議な気持ちです。それこそ<共に生き共に死ぬ同志>だったのです。
苦しかったのは、体に直接加えられる物質的拷問だけではありませんでした。ちょうど第一次石油ショックで末世的な様相を示していたこのころ、矯導所内では、高位の矯導所も地位の低い矯導官も囚人たちも、目を血走らせて国家財産をくすねる思案をしました。囚人に与える飯もその対象から外れることはできず、飯を押し込んで計る型のなかにその型に合う本を嵌めこみ、定量の半分にもならない飯を型で計って囚人たちに食わせましたし、<転向するときまで領置金の使用を禁止>された私は、夜に寝られないほど腹が空き、アボジ[父]が昔焼いてくださった餅を1日に何十回も思っては何度か泣きました。空腹なあまり餓鬼のような行動もたくさんしました。そして、<センウォン[生員]>も腹が空けば獣になるほかないという真理を体で、実地にこの体で、会得することができました。
また、このころ、本をすべて回収され、せめて聖書だけでも与えてくれという訴えも一言の下に拒絶されたまま、半年のあいだ活字ひとつ見ることができずに過ごしました。独房の冬を本なしに過ごす苦痛!!そのほかに多くの苦しいことがありました。
こうしたすべての苦しさは非常に長期間つづきそうに思えましたが、1974年5月に韓国を公式に訪問した日本の国会議員西村関一氏との面会が実現したときで終わりました。西村氏は地方の名望のある牧師で、日本社会党所属の元老(当時74歳、1980年に死亡)国会議員でした。私を支援してくれる日本人たちの要請を受けて、大韓民国訪問の折りに私に面会させてくれるよう大韓民国政府に特別に要請し、面会が成ったのでした。私は、いったい誰が面会に来るのかさえ知りませんでしたが、会う前に、拷問の件を口外すれば母も妹も国家保安法でつかまえて監獄にほうり込むぞといった、ありとあらゆる脅迫を受けました。
所長室での面会、白髪まじりの温厚な老人は、私の手を取って自己紹介しました。(その瞬間まで誰か分かりませんでした。)あれやこれやの話を少ししてから、私はすぐに拷問を暴露しはじめましたが、そうするいなや、周りを取り囲んでいた20名ほどの私服を着た者たちが、私が嘘をついていると言って大声を上げはじめる。所長室は修羅場になってしまい、私はそのなかで最小限言うべきことをすべて言いましたが、面会はそこで終わり、西村氏は私の目を真っすぐ見つめながら、立ち上がって私の手を握りました。そして私たちはそこで別れました。
ずっとあとになって聞いたところによると、日本でこのことが記事になり、<北>では放送で連日騒いだそうです。私の知ったことではありません。その直後に<真相調査>をしにきたという中央情報部の捜査官から私は数え切れないほどたくさん殴られましたし、それ以後今日に至るまで、私には日本人との面会が厳禁されているだけではなく、日本人がくれるどんな差し入れもお金も小包も手紙も、まったく私の手に届きません。
私の保安監護処分の原決定趣旨文[1978年5月]には「事実無根であるにもかかわらず拷問事件を捏造することによって国威を損傷させ・・・」という件(くだり)があります。お笑いぐさです。
<暴風雨>は過ぎました。もちろん個別的には<暴風雨>も顔負けの野獣のような拷問は続きましたし、領置金使用、読書、医療、書信、運動など、生活全般にわたって直接・間接の禁止ないしは制限を受けて苦しまねばなりませんでした。しかし、いずれにせよ、あのような露骨な形態の暴力はそれからはなくなりました。
心に若干の余裕が生まれ、敵愾心で張り詰めたままでもいられなくなるにつれて、私は、あれやこれやのことをたくさん考えるようになり、その結果、同志たちを、自分自身を、つくづくと観察しはじめたのです。同志たちにたいする失望が大きくなるとともに、あの恐ろしい苦悩の長い旅路がはじまります。同志たちにたいする失望が恐ろしい苦悩を引き起こす理由は、それが、同志たちのなかで共産主義者として生きつづけるための私の資質の問題と直結するからでしょう。長い長い夜、布団1枚を身に巻きつけて横になり、ワット数の低い白熱灯を睨みながら、「私は、この野卑で、偽善的で、愛が枯渇し、頑なで、乱暴な人間たちのなかで同志として生きつづける自信はない」という結論と、「違う。この人々はみな不幸な暮らしをしてきた人々ではないか。この人々に失望するのは<ブルジョア>的残滓のせいだろう。私はここから離れられない。私が踏みしめる土地はここ以外にあろうか」という結論との間を、何十回も行き来した苦痛の夜々。数限りなく何度も死を考えたその夜々に比べれば、あの<暴風雨>は、それでも確かにロマン的で幸福な時間でした。
なぜこんなふうになってしまったのか。
同志たちとのある程度長期にわたる生活から、短期間内には看破できなかった数多くの欠点や、さらに邪な点でも、目につくようになりました。また「私もこの人々と同じくらいの試練を突き抜けて生き延びた」という自信に加えて、「もうこのまま惰性的に暮らすのなら、この人々のように10年、20年暮らすのはたいして難しいことではないだろう」という自信のようなもののために、同志たちを<英雄>ないしは<神>の座から引きずりおろして私と同じ位置に置いて眺めるようになったことなどが、その契機となったにちがいないでしょう。しかし、とりわけ、狭い監房での私の思索が私の精神をいくばかか成長させるなかで、あらゆることを単純に、ないしは概念的にのみ受け取ることができなくなった、という点が重要だと思います。
読みたい本も届かないだけではなく、拷問暴露にたいする報復的な意味がはっきり窺える。私の読書にたいするとてつもなく厳しい制限のもとで、監房には何冊かの辞典類と古びた面白くない本数冊だけしか置けずに暮らさねばならなかったために、おのずと、あれやこれやの無用の、あるいは有用な、とりとめのないことを考える生活をするようになりました。もともと哲学的素養がなかったので、私の思索は、思索であるというよりは、雑駁な考えの範囲を出なかったようです。つまり、この身が直接に悩まされている現実の問題に限定された。論理的というよりも直観的な思索にすぎなかったようだ、ということです。せいぜいのところ、西洋史辞典を友としていろんな時代のいろんな歴史過程について私なりの洞察を読みとる程度に過ぎなかったのです。
そのとても長い歳月を、旺盛な知的欲求を無理やり圧し殺しながら暮らさねばならなかったことを、その当時は何よりも大きな不幸だと思っていました。(私は、本が読みたくて自分の良心を売ってしまう軟弱なインテリゲンチアではないという自負心もありはしたのですが・・・。)
しかし、今にして思えば、それに劣らず大きな不幸があったようです。つまり、絶え間なく供給される本に追われながら多くの読書を通じてどんどん新しい視野を獲得していくことによって人間的な幅を拡げる、ということができず、狭い監房で限定された問題についての集中的でかつ神経質的な思索をするほかない状況に追い込まれ、そうでなくても非社交的で内省的な性格にいっそう拍車がかかる結果になったという意味で、その時期は私の人生においてとても不幸な時期だったのです。今日のこの朴念仁はこの時期の(部分的には)産物であることはたしかです。
本が供給されなかった理由は、数年間どんな手紙も獄外に出なかったからであり、たまに少し本が差し入れられても、ほとんどが不許可にされたからです。
<この身が直接に悩まされている現実の問題に限定された直観的思索>というのは、たとえばー
*思想犯は日常はどんな態度で暮らさねばならないのか *われわれは、いわゆる<政治犯>やデモの最中に捕まった学生たちとどのように違った身の処し方をすべきなのか *転向してなにか為しうることを模索することのほうが、非転向でありつつ何もしないことよりも勝っているのではないか *民族主義と共産主義はどう調和するのか *共産主義者の一般大衆に対する愛はどうあらねばならず、ルンペン[極貧層]に対する愛はどうあらねばならないのか *一般大衆はわれわれの味方か *矯導官はわれわれの敵か *われわれを敵視する一般刑事犯はわれわれの敵か *転向者たちに対するわれわれの姿勢はどうあるべきか *自分の家族に対する共産主義者の愛は世間の常識とどう異ならねばならないのか *共産主義はヒューマニズムなのか *酷薄な政治の現実において、われわれはどこまでヒューマニズムに透徹できるのか *何が私の内部にあるブルジョア的残滓なのか *私は純粋か、つまり、私は共産主義者としての<出世欲>や<功名心>がないと大言壮語できるのか *<出世欲>や<功名心>は絶対にあってはならないのか
ときおり聞こえてくる国内外の情勢の解釈や少しはアカデミックな問題などに没頭したり、昔の恋人、友人たち、そして家族や親戚の従弟妹たちとの美しかった瞬間の果てしない<再放映>に浸ったりもしましたが、そのころの私は、主として右のような求道的な問いと煩悶のなかで歳月を送ったのです。その結果は、同志たちにたいする(緊急措置事犯たちに対しても決して容赦しませんでした)執拗かつ熾烈な観察と峻厳な批判でした。
私は、同志たちがわたしたちの闘争を人間解放として透徹して意識せず、安易に<南北戦争>程度に意識していることが寒心に堪えませんでしたし、あらゆる考え方が機械的で概念的であることが気に入りませんでしたし、人間の問題よりも政治の問題、政治の問題よりも統計数字の問題に、より大きな関心を示すことを確認しましたし、必要以上に多くの人々に敵愾心を抱いていることが気がかりでしたし、すべての問題、ささしな問題にまで、やたら<北>の肩をもつことに反発を感じましたし、思想犯、政治犯らしくなく、堂々ともしておらず正直でもない身の処し方、そして自分たちのことを安易に<北>側の<捕虜>くらいに認識しようとすることに物足りなさを感じましたし、驚くべき無知と、その無知を一流の知性だと錯覚し、そうだと言い張るのが哀れでしたし、芸術にたいする愛好や美しいもの、興味深いもの、魅力的なものなどにたいする愛が足りないことが気に入りませんでしたし、どんな問いにもつねに模範的で公式的な答えしか返そうとしない、率直でない姿勢にうんざりしましたし、なにか積極的な可能性を見いだそうとする考えはまったくなく、ひたすら無難にこじんまりと<非転向>だけを固守しようとしたり、ときには<高い順位>にたいする憧れを示したりするのを見て、純粋ではないと心のなかで罵りました。
話を多くすればするほど異質感を感じ、ますます孤独を感じました。<個性>に違いが見えても、どっこいどっこいであって、私1人だけが他の同志たちからかけ離れていて、いつも「私はとんでもない所にいるのではなかろうか」という恐れを感じえませんでしたし、同志たちにたいする愛が冷めていくにつれて私の観察と批判はいっそう残忍になり、それにつれて愛はいっそう冷めていったのです。
こうした不満を論理的に整理する能力が、私にはありませんでした。そして、漠然とした感傷としてのこうした不満が未整理のままいつも頭の中にぎっしり詰まっているという重苦しさのなかで、クァンジュ矯導所を1977年に去るときまで暮らさねばなりませんでした。けれども、これは、若干は一面的な話でしょう。病を患って臥せったり、教務課に行って<教誨師>たちから死ぬほど殴られたりする同志がいると、私はすぐに右のような峻厳な批判を引っ込めて、後悔したりしました。ほんとうに、同志たちにたいする失望よりは、人間らしくない残忍な奴ら、悪党たちにたいする憎悪と敵愾心のほうが数十倍も大きかったのは当然です。(私自身は、殴られて、クァンジュで2度ー10日間と8日間ー抗議の断食をしました。)ほんとうに、私の同志にたいする感情は、当時も今も<愛憎並存>なのです。
クァンジュ矯導所では1975年から<特別舎>に入ってきたはじめ緊急措置犯たちといっしょに暮らしましたが、とりわけ、本を借りて読む大いなる幸運に出会えたのです。私が矯導所で読んだ良書のほとんどが、彼らから借りて読んだ本でした。そのほかにもいろんなお蔭を被りましたが、良くない面もありました。特別舎に<貴族・ブルジョア階級>と<プロレタリア階級>の差別が生まれたのです。これは、ある意味では仕方のないことでもありました。私はこの問題についても、いつも怒りを爆発させていました。緊急措置犯たちの特権意識と同志たちの無気力・卑屈・・・。緊急措置犯たちはみんな純粋で、学歴があり、堂々としており、愛に溢れてもいましたが、ほとんど軟弱で、吐き気を催す小ブルジョアの匂いがしました。私はここでもマージナル・マン(境界人)だったのです。
私は、テジョン矯導所で少し読んでそのままになっていた聖書を、クァンジュ時代に通読しました。日本から聖書を送ってくれた日本人のキリスト教徒の誠意に報いるためでしたが、それほど大きな感動はありませんでした。創世記と出エジプト記、土師記、ルツ記などはおもしろかったのですが、歴史書は古代史的な興味で、レビ・申命・民数記は法制史的興味で読みましたし、預言書はちょっと読みづらく、詩篇・箴言は好きになれませんでした。福音書にかなりの感銘を受けましたが、なにかはっきりとつかめるものがなく、福音書だけは後ですこし深く読んでみようと決心しました。使徒行伝も若干の歴史的興味で読み、ロマ書以下は<話にならない反動的言説>だと思いました。
*성경 또는 성서(聖經, 聖書, 영어: Bible)는 기독교, 유대교에서 가장 중요한 경전을 일컫는 용어이다. 기독교는 구약성경(히브리성경)과 예수의 죽음 이후 예수를 계속하여 따르던 이들과 바울로 등이 저술한 신약성경을 성경으로 부르며, 유대교에서는 히브리성경만을 성경이라고 부른다. 유대교인과 기독교인은 성경을 '신의 영감으로 된 신의 말씀' 또는 '신과 인간의 관계'를 기록한 거룩한 문서로 받아들인다. 성경 구성은 기독교와 유대교 사이 차이가 있으며, 유대교는 기독교에서 구약성경에 해당하는 부분의 히브리어본인 '타나크'를 사용한다. 국교를 인정하지 않는 미국에서 대통령이 취임 선서할 때 사용한다.
*복음서(福音書)란 고대 그리스어의 '좋은 소식'이라는 뜻을 가진 코이네 그리스어, ‘유앙겔리온’(Ευαγγέλιον: euangelion, 라틴어 Evangelium)을 한자어로 풀이한 것으로서, 기독교에서는 문서나 구전 형태로 내려오던 예수전승(Jesus Traditional)을 복음서 저자들이 기술한 신학적 문헌들을 뜻한다.[1][2] 흔히 신약성경의 마태오 복음서부터 요한 복음서까지의 네가지 복음서를 일컬어 사복음서라 하며, 요한 복음서를 제외한 세가지 복음서를 공관복음서라고 구분하기도 한다.

満期まで1年を残して、6名の同志たちとともにチョンジュ[全州]矯導所に移送されました。移送のケースがあると、送る側の矯導所では扱いに困っている厄介者を送り出し、「ああ、清々する!」というのが決まり文句ですが、私も護送車に乗るときに「ああ、清々する!」と言ってやりました。クァンジュでは私はそのように(私の恵まれた立場を背景にして)妥協を拝して剛直に暮らし、闘争したために、たいへん苦しい目にもあったのでした。

チョンジュ[全州]では、やはり<人民革命党>系統の人々と緊急措置9号違反者たちの助けを受けて、落ち着いた気分で暮らしましたし、クァンジュより生活も楽で、本もかなり読んだほうだといえます。満期が近づき、同志たちと仲よく過ごそうと努力もし、同志たちに多くの愛も感じもしました。
チョンジュ[全州」で私は、緊急措置第9号違反で入ってきていたソガン[商江]大学内のジェズイット[イエズス会]修道院のキム・ミョンシク[金明植]修道士に好意を持ちました。学識があり、素朴で、とても剛直な彼は、懲役暮らしのなかで人々をほとんど○○同志、○○先生、○○氏としか呼んでこなかった私は、チョンジュへ来て、心安く<ミョンシク・ヒョン[兄さん]>と呼ぶ幸福を味わいました。ちかごろもそうです。この世を生きていくのが厭になるとき、人々に交じって人々を憎まずに生きていく自分の能力に乗り越えがたい限界を感じて絶望するとき、私は、驚くべきことに、ふとこんなことを考えることがあるのです。「ミョンシク・ヒョンの後を追ってジェズイット修道院に入ろうか・・・。」
*예수회(라틴어: Societas Iesu)는 로마 가톨릭교회의 엄밀한 학문과 사도적 열성으로 알려진 수도회이다. 이 수도회는 1539년 이냐시오 데 로욜라가 창립했고, 1540년 교황 바오로 3세가 정식 승인했다. 선교사 지원 활동, 복음화, 연구와 교육 분야에서 활동으로 명성이 높다. 널리 알려진 예수회 수도사는 프란치스코 하비에르와 피에르 파브르가 있다.
チョンジュ[全州]でも私たちは、悪辣なテロに抗議して断食闘争をせねばなりませんでした。その闘争にたいする弾圧もまた悪辣でした。4~5日断食した人を夜中に地下室に連れていって、飯を食えと死ぬほど殴るかとおもえば、ひと言の説得も試みることなく、また、殴らないという口約束も忘れて、強制給食を繰り返したりして、鎮圧してしまいました。私は10日間断食をして強制給食をされました。しかし、この闘争はしばらくは効果があったのです。半年後にふたたび、ささいなことに言いがかりをつけて全員に転向強要の拷問を加える過程で、1人を自殺に追い込むまでは・・・(私がチョンジュから出所した後の事件)。
この闘争のおかげで私は、満期出所して監護所に直行するときまで、同志たちと仲睦まじく過ごしました。
満期出所の日(1978・5・27)が近づくにつれて、監護処分を受けるのが心配になりはじめました。外での釈放運動だけを当てにしてはいられない心情でした。転向をすれば出られるだろうが、7年間ありとあらゆる苦しみを味わいながら傷だらけになって守ってきた私の良心なのに、満期の日を1~2ヶ月残して転向するなんて・・・。あまりにも空しい気がしましたー。
最善は、出て<何か良い仕事>をすること 次善は、監護処分を受けて、世間の関心が社会安全法に注がれるのを願うこと 最悪は、出て、何もできなかったり、ロクでもないことしかできないこと・・・
最後まで苦悶し、ゲッソリ痩せてから、じつにソ・ジュンシクらしくも<次善>を選びました。今でもこの判断が間違っていなかったと信じています。
こうして保安監護処分を受け、「出所すれば○○も○○も○○もみんなしよう!」という夢は、無残に潰えてしまいました。31の歳で監護処分を受けた私は、そのことによって一旦は社会的に葬られたわけです。私の個人的な可能性も個人的な欲も、すべてが闇のなかへ葬られました。私はすでに<中年>です。何もできないままにもう<中年>!けれども、こんなふうにばかり考えるとあまりにも哀しいので、私は感謝もしてみます。世間に出てみたところで、世の中のために命を懸けて良い仕事をすることができずに、その日その日を獣のように欲求を満たしながら生きていくに決まっているこの私を、不義で非人間的な法と対決する闘士にしてくれた社会安全法に感謝してみます。
監護所7年は、矯導所の7年のように変化のある7年ではありませんでした。私は、今いるこの監房に5年間いるのです。いまでは、体に馴染んだ服のように私にぴったり合った監房です。
監護所生活については、話すべきことがあまり多くありません。10年間便りの途絶えていた母方の叔母、父方の叔母、そして<自分のガキ>のように可愛い父方の従弟妹、母方の従妹たちとの涙の再会!検事をしている友人を仲立ちにして、10年ぶりに恋しい友人たちとの再会!しかし、10年間も息子たちの監獄暮らしの世話ばかりなさっていた、ああ!わたしのオモニ(母)との涙の離別!!オモニを亡くした私は、オモニを追悼するとともに社会安全法の非人間性に抗議する20日間の断食をしました。水だけを飲んで20日間。ほんとうに苦痛でしたが、やり甲斐のある断食でした。矯導所(末端)たちも雑犯たちも同情してくれました。断食をしながら私はオモニを思って熱い涙を流し、流し、また流しました。
その断食を終え、養生が終わるころ、つまり、20日間の断食を終えてひと月にもならずして、私はふたたび18日間の断食をせねばなりませんでした。今度は当局に対する抗議闘争としてです。これが、私の訴訟で問題となった断食です。

5・17[1980年のチョン・ドゥファンによるクーデター]後の殺伐とした戒厳下で、私たちは2人の死亡者まで出しながら無残に弾圧され、懲罰を受け、監護所開設時から<ソウルの春>の時期に亘って獲得してきた生活権を無力にも一つ、また一つと奪われました<ソウルの春>のときには遠のいていた矯導所たちの暴行は、恐る恐る周りの様子を窺いながらふたたび復活し・・・。
このようにして1年を過ごし、冬を越し、春が来たとき、鏡に映った私の目の下の肉がダラッと垂れ、私は一挙に5~6歳も老けてしまいました。あの麗しかった顔は2度とふたたび戻ってきません・・・。
1982年にイ・ドンミョン[李敦明]弁護士を立てて訴訟[保安監護処分更新決定の無効確認を求める行政訴訟]を提起し、83年には、あんなにも一目お会いしたかったアボジ(父)が亡くなりました。
これが監護所生活の全部です。こうした事件を経験しながら、そのつど、私の同志たちのなかで同志たちとともに共産主義者として生きていける人間なので、あのクァンジュ時代の苦悩が、もっと濃い密度で、もっと熾烈に、もっと苦痛をともなって、私を苦しめます。死への誘惑にさいなまれる日々は、クァンジュ時代よりももっとしばしば訪れたのです。
端的に言って私は、<人間にたいする愛>の意識が明確でなく知性がない私の同志たちのなかで生きるのが、非常に苦痛だったのです。
マルクス主義の根本精神はヒューマニズム(<人間にたいする愛>・<人間解放>と科学思想<知性>とも関連)です。
この根本精神(土台)の上に闘争、革命、組織、国家・・・のような実際政治(建造物)が打ち立てられねばなりませんが、この土台がしっかりしていない場合、その上に打ち立てられる政治的建造物は、その土台から遊離し、それ自体として自律的に動く衝動を内包していると思われます。こうして、根本精神をいつのまにか忘却してしまった非人間的、非科学的な政治過程や政治組織が生まれ、それが、根本精神に反して人間を抑圧するようになるでしょう。この場合、<似非>あるいは<通俗>に陥ることになります。政治を根本精神に縛りつけておくためには、政治の真っ只中でもつねに根本精神に立ち返ろうとする主体的努力が必要でしょう。これは、ローザ・ルクセンブルグの<革命の道徳性>という課題と一脈通じる話になるかもしれません。(ただし、特殊な状況を無視した。根本精神への度過ぎた機械的密着は、ごったがえした。殺すか殺されるかの、酷薄で切迫した現実の政治状況にあって、<人間解放>の効果的実践のための<機動性>を失って、<根本精神>を行動に対するブレーキと化してしまいうるのです。実際の政治のそれぞれの場合、どれだけ<根本精神>に堅く立脚しているのか。あるいは、<根本精神>をどれだけ忘却しているのか、を見極めるのは難しいことです。)

*로자 룩셈부르크(독일어: Rosa Luxemburg, 1871년 3월 5일 ~ 1919년 1월 15일)는 폴란드 출신의 독일 마르크스주의, 정치이론가이며 사회주의자, 철학자 또는 혁명가이며, 레닌주의 비판자이다.
第一に、<人間に対する愛>の欠乏について言うならば、なぜ人間を愛さねばならないのかという哲学的問題を深く掘り下げて説明する能力も私にはありませんし、また、そんな必要もないでしょう。<人間に対する愛>は論理を超えています。
いずれにせよ、人間には<愛>が必要であり、その<愛>が真摯で本物であるならば、<政治>へと高揚せざるをえないと思うのですが、その<政治>もまた、底に厚く敷きつめられていなければならない<愛>から遊離し、それ自体として自律的に作動するとき、非人間的で抑圧的なものとなるのは当然でしょう。
すべての愛は積極的に<政治>的でなければならず、その<政治>的密度が高ければ高いほど、その分だけいっそう濃密な<愛>を底に敷きつめなければなりません。そのことは、どんな条件によっても<自動的>になってしまうことなく、私たちが日々、意識的に<人間に対する愛>の感情に浸り切ろうと努力せずしては、不可能だろうと思われます。マルクス主義者たちは<愛>が行動に対する足枷とならない仕方で、熱烈に人間を愛さねばなりません。テレサ修道女の愛だけでもって人間解放は成しとげられませんが、マルクス主義者は畏敬の心をもってテレサの<愛>を学ばねばならないというのが、私の信念です。
しかしー。

*테레사 수녀(영어: Mother Teresa Bojaxhiu, 1910년 8월 26일 ~ 1997년 9월 5일)는 인도의 수녀로, 1950년에 인도의 콜카타에서 사랑의 선교회라는 천주교 계통 수녀회를 설립하였다. 이후 45년간 사랑의 선교회를 통해 빈민과 병자, 고아, 그리고 죽어가는 이들을 위해 인도와 다른 나라들에서 헌신하였다. 본명은 아녜저 곤제 보야지우(알바니아어: Anjezë Gonxhe Bojaxhiu)이다. 2016년 9월 4일 성인으로 시성되었다.
私がここで出会った自称<マルクス主義者>たちから、私はこうした<人間愛>といった意識をほとんど見いだすことができませんでしたし、そうした意識があっても、その意識は、日常における求道者的な<人間に対する愛>の生へとつながらずにいる、抽象的で概念的なものである場合が大部分でした。この人々一般的な考え方は、意識的であれ無意識的であれ、「社会の仕組みをひっくり返してしまえば<自動的に>人間に対する愛が実現し、人間たちは善良になる」というものです。これは、唯物論哲学の立場から出てきた当然の話であり、また、部分的に妥当性もあるのですが、明らかに、マルクス主義に対する浅薄で通俗的な理解だと言わざるをえないのです。
このような浅薄な意識についていけない私に、この自称<マルクス主義者>たちは、滑稽にも、私に唯物論のABCから親切に教えてくれようとするのです。「われわれはマルクス主義者だから、日々<人間に対する愛>を胸のなかで育み、しっかりと抱きつづけるように努力せねばならない」というよりは、「われわれは人間解放の理想を内容とするマルクス主義を信奉しているから(あるいは、<マルクス主義者>のレッテルを付けているから)、われわれは<自動的に>(誰よりも)<人間に対する愛>をしっかり胸に抱いている人間だ」というのが、彼らの意識にいっそう近いといえます。
<人間に対する愛>をしっかりと胸に抱いた革命家としてのマルクス主義者であれば、おのずと道徳的であるほかありません。したがって、<人間に対する愛>は<革命の道徳性>への道でもあるでしょう。
しかし、私がここで出会った自称<マルクス主義者>たちが、政治意識の明確でないただの<民衆><大衆>とは異なり、30年間マルクス主義の理想のために監獄暮らしをする。政治意識の高い<革命家>を自認しているにもかかわらず、その高い政治性に相応する高い道徳性を概して欠いていると見ざるをえず、ときには、はなはだ不道徳的でさえあると感じざるをえないのです。
私たちがここで日常的に接する<一般大衆>ないしは<被抑圧大衆>は、一般罪囚と末端矯導官しかいません。(もちろん、彼らをむやみにこの範疇に入れることは少し時間がなくはないのですが・・・。)歪んだ社会のなかでありとあらゆる歪んだ常識と虚偽意識に汚染され、人間性を喪失して生きていく彼らは、私たちにいくらかの害悪を及ぼすものとしても、明らかに、私たちの敵対すべき相手ではなく、私たちの愛を受けるべき対象です。しかし、同志たちの彼らに対する感情は概して敵対感情であり、濃密な憐憫や愛は見られません。こんなことが私はととても苦痛です。
ここで出会った<マルクス主義者>たちは、私たちの苦しみと闘争を<人間解放>のための神聖な闘争として明確に認識するよりは、ほとんど無意識的に<南北戦争意識>に浸かっています。したがって、彼らは自分たちを被抑圧大衆(虐げられた者、貧しい者)の味方として明確に認識するよりも、<北>側だと考える、妙な潜在意識を持っています。そこからまた、彼らは、彼らの潜在意識のなかで、<政治犯>や<革命家>であるよりも<戦士>であり<北の捕虜>なのです。彼らに取り囲まれて、私はとても苦痛です。
日常生活における公明正大さ、率直さが身についておらず、ささいな問題にも権謀や矮小な技巧を駆使しつつ生きていこうとする癇疾的な傾向に取り囲まれて、私は苦痛です。
政治犯としての高い道徳性と政治性から滲み出る明確な目的意識を欠いた、ときには、ひたすら獣のような欲求を満たすためだけの、日常の生活権闘争を目撃しながら、私は苦痛です。次に、マルクス主義の根本精神だと私の考えるものの一つである<科学思想>について考えてみようと思います。
マルクス主義で言う真理は、人間が世界を(自然的にであれ政治的にであれ)変革する実践の過程で検証されてくる真理であり、完全な真理に向かってより高い段階へと変身するための中間段階としての真理です。これが、マルクス主義の根本精神である科学思想の前提となる真理観であると、私は思います。
私はマルクス主義者のみならず誰もが(したがって、世俗に飛び込んで世俗のなかで生きようとするキリスト者たちまでも)、こうした科学思想の精神を<土台>として現実の政治過程・組織という<建造物>を打ち立てなければならないということを認めるべきだ、と考えています。
この場合にもやはり、こうした真理観に立脚した科学思想の精神という<土台>から現実の政治が遊離してそれ自体として自律的に行動するとき、その政治はおそらく<変わりうる真理>に背を向けた硬直したしたものになったり、あるいは<いったん定着した真理>を無視した非常に危ういものになったりするほかないでしょう。そうした政治過程や政治組織が人間の着実な発展を阻害する、人間にとって苦痛なものとなるほかないのは、もちろんです。
ここでもやはり、<科学思想>と<政治>の相関関係が成立します。つまり、真理を愛する人は、現実政治において<科学思想>を抑圧する要素を排除するために、どうしても<政治>的であるほかなく<政治>は、硬直したり危うくなったりしないためには、<科学思想>をその根底にしっかり敷きつめねばならないのです。
そしてまた、私は、いわゆる高い権威をもったアカデミックな真理の一つ一つが、現実の政治過程を全的に従属させる権利を決して持つものではないと思います。マルクス主義の(前述の)真理観からいって、マルクス主義者たちは、(最終的に完全なものではない)<真理>が行動にとって足枷とならない仕方で、熱烈に真理を愛さねばならない人々だと思います。
先に私は、私が同志たちのなかで生きていくのが苦痛な二番目の理由として、知性の欠乏(ないしは反知性)を挙げました。そして私は、この場合の<知性>をマルクス主義の根本精神としての<科学思想>と結びつけましたが、これはひょっとして私の強引なやり方かもしれないという気がしないでもありません。しかし私は、マルクス主義の科学思想の精神は、どんな熾烈で激情的で危機的な政治状況にあっても、私たちに、真理を見いだすための正しい態度であるとか、真理を受け入れる(ときには、捨てる!)勇気であるとかいったものを、しっかり保持することを命じていると信じていますし、こうした態度、勇気、そして、そこから得られた真理や真実の蓄積・・・これらのことをひっくるめて私は<知性>と呼ぶのです。
私がここで出会った自称<マルクス主義者>たちに共通するひとつの事実は、社会科学の理論として初歩的な教科書のなかで極く抽象化されたかたちで定式化されているマルクス主義理論の簡潔な公式が、ほとんど信仰の対象となっているということです。それは、現実を解釈するための一つの道しるべ、一つの観点としてその図式、公式に受け入れるのではなく、現実をその図式、公式の枠にむりやり押し込もうとする、硬直した姿勢です。
こうした図式主義やその他のあらゆる面において現れる、具体的な現象の具体的な観察を忌避する概念的な考え方、または自分勝手な安易な一般化は、マルクス主義にたいする浅薄で通俗的な理解に由来することはたしかであり、こうした問題に関して<意見対立>が起こる場合、親切な人は<原則も知らない>私に親切にも唯物史観や経済学のABCを講義してやろうとするのです。
これ以外にも、唯物史観において、歴史の中の人間の主体的作用にかなりの意味を認めたい私が、一般的に唯物史観を徹底的に客観主義的立場(それもやはり、私には、通俗的理解のように思われます)から理解する彼らの間で感じる苦痛は、並大抵のものではありません。
私は、私がここで経験した。同志たちとの数限りなく何度も繰り返された(マルクス主義理論の問題と政治、社会、経済、文化・・・などに関する、流れ込んできた何らかのニュースをめぐる)意見対立を回想するとき、ハン(恨)が積もっていき、孤独なのです。
こうしたことすべてがたんなる(個人対個人の)見解の相違からくる<意見対立>ではなく、その<意見対立>の様相にはいつもひとつの明確な傾向があるのです。傾向、つまり、いつも似た対立の繰り返し・・・、それは、どんなささいな情報についても、ほとんどむちゃくちゃといえるほど自分たちにとって便利な方向へ我田引水式に解釈しようとする同志たちの強引さに対する私の反対、という傾向です。私は、彼らがある事件をめぐって、その場限りの希望的観測ばかりしようとし、理論的裏づける経験法則も厳密な論理的手続きも無視してその事件を解釈しようとすることにたいして、いつも憤慨しました。
すこし理解しにくい事件について、やたら自分たちの側に便利な奇妙な解釈をし、聞きたくない便りにたいして<捏造宣伝>あるいは<嘘>だと断定することなどが、あらゆる情報解釈において日常的に幅を利かしています。
呆れて笑ってしまったり、心のなかで罵って終わったりすることもありますが、私は、そんな非常識なことは言うなと、果敢に反論に打ってでたりもします。<意見対立>・・・。そのたびに私が耳にせねばならない言葉は、
*「ソさんは、私たちの側にしっかり立っていなさい」*「ソさんは、革命的楽天主義を欠いている」*「ソさんは、懲役暮らしが長くないので、純真すぎて、そんな嘘をまともに聞いてしまう」*「ソさんは、目に見える現象だけを信じ、目に見えない真理を見ようとしない」*「ブルジョア学問を勉強したから・・・」などなど
彼らにとっては、「私たちの立場に立つ」というのは、マルクス主義の世界観と理論に立脚し、マルクス主義の立場に立って、一つ一つの事件の意味を解釈としていくことを意味するのではなく、何がなんでも<私たちの側>につくことを意味します。
彼らの楽天は、どんな事件でも自分たちに便利なように無理やり解釈してしまうことを意味します。しかし、なんらかの理論と信念を備えた人の本当の楽天というのは、究極的な私たちの正しさを信じ、究極的な勝利を信じるがゆえに、現実の惨めさをすべて認めながらも、悲惨な現実の窮地のなかでも、ほほ笑むことのできる姿勢というのではないでしょうか。
すべての<意見対立>が具体的にどんな問題をめぐる<意見対立>だったかを、数限りない例を挙げて説明することができますが、止めておきます。ただしー
そうした<意見対立>においてどちらの方が正しかったのかが、しばらくしてはっきりする場合がかなりありました。もちろん、私の方が正しかった場合が断然圧倒的であるほかありませんでした。(明らかに私の判断間違いだった例は、記憶しているかぎりでは・・・ありませんでした。)
<意見対立>の過程で聞かされた上記のような私に対する難詰は、私にとっていくらかは侮辱的なものでした。しかし、結果がはっきり明らかになってからも、私は、そうした侮辱的な難詰についての詫びを、15年間に耳にしたことが一度もありません。詫びといったことを要求したことはありません。しかし、その結果を相手が受け入れることを要求したことはありました。最後まで我を張った人がいます。「この塀のなかで私たちが確認できることは何もない。私たちがそのことを確認しようと思うなら、塀の外に出なければならない!!」と。
こうした結果が限りなく繰り返されても、私は、監獄暮らし15年目の今でも相変わらず孤立的少数派です。いくら正しい判断を数限りなくしても孤立的少数派でしかありえない理由が明らかにあります。なぜいつも正しくても孤立しなければならないのか。
第一に、人々は、現象を具体的に観察するのではなく、自分の頭のなかに住み着いた予断と固定観念に従って自分が頭のなかで作り出した現象を判断するからです。たとえば、<看守>のことを話すとき、すぐ目の前にいる具体的な<看守>を評価するのではなく、自分が頭のなかで作り出した<看守>を評価します。「悪い奴だ」と。
第二に、<私たちの側>につかないという条件においては、その主張が正しかろうが間違っていようが「私たちの立場に立っていない」と批判されますが、何がなんでも<私たちの側>についていれば、その判断が間違ったとしても絶対に批判されないのみならず、<私たちの側>に立ってむちゃくちゃな強弁をふるうほど、思想が確固とした同志だと認められる傾向があるからです。(1979年、中国軍がベトナム国境を越えて進攻したという新聞記事について「私たちに見せようとして嘘の新聞を作った」と主張する人と私は言い争いましたが、その人の<精神的姿勢>が共産主義者として正しいものだと評する人がいました。)

*중월 전쟁(中越戰爭, 중국어 간체자: 对越自卫反击战) 또는 중국-베트남 전쟁(베트남어: Chiến tranh biên giới Việt-Trung/ 戰爭邊界越-中?,은 1979년 2월 17일 국경분쟁을 시작으로 일어난 중화인민공화국과 베트남 사이에 일어난 전쟁이다. 제3차 인도차이나 전쟁이라고도 불리지만, 동원된 두 나라의 병력 규모에 비해 1개월이라는 짧은 기간에 종료되었다. 베트남은 1969년 중소 국경 분쟁에서 소련을 지지한 바 있었다. 1978년 중국이 후원하던 크메르루즈가 이끌던 캄보디아를 베트남이 점령하자, 중국은 북쪽 국경을 통해 베트남을 침공하게 된다.












































×

非ログインユーザーとして返信する