日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Suh Joon-sik・Follow Passion for self- reliance-From Korean political prisoner to human rights activist/서준식・자생에 대한 열정 - 한국의 정치범에서 인권 운동가로/徐 俊植・自生への情熱―韓国の政治囚から人権運動家へ ③


国政監査が真っ盛りのときだった。「きょうの人権だより」は調子良く号を重ねており、国会議員たちは、国政監査の場で爆弾発表するための「事件」を血眼になって探していた。一部の野党議員たちが監査場に「きょうの人権だより」のファイルをもって現れて質疑をする姿を見て、記者たちは不思議がり、いくつかの政治機関からは購読したいという丁重な要請が飛び込んできた。この手ごたえに、昼寝を別たず汗を流して働くわれわれの疲労も吹っ飛んだ。
ある日、アッと驚くニュースが飛び込んできた。民主党カン・スリム[姜秀淋]議員が、ソウル地方検察庁に対する国政監査に、テジョン[大田]矯導所に服役中のカン・ギフン[姜基勲]氏を証人として呼ぶというのだった。これは非常に異例なことだったし、また、監査場での証言内容にかかわらず、カン・ギフン氏はーだから「遺書代筆事件」はーふたたび人々の注目を受けることになったのだ。その直後にまたひとつ驚くべきことが起こった。遺書代筆事件の最も重要な証人であり、この間、公的な発言を忌避しながらほとんど身を隠すようにして生きてきたホン・ソウウン[洪成銀]氏(焼身自殺したキム・ギソル[金基 ]氏の女友達)が、証言したいと自分から買って出たのだ。
カン・スリム議員が困ってしまった。カン・ギフン氏ひとりでも、与党議員とやりあってやっとのことで採択させたのに、ホン・ソンウン氏までも証人として採択させる自信はない、と彼は言った。ホン・ソンウン氏の返事はこうだった。「ものすごいショックのために逃避的な隠遁生活をしてきたが、その一方では、いつかははっきりさせてしまわねばという思いもあったし、もうこれ以上引き延ばしてはいけないという切迫感がある。」そして、彼女は、国政監査の証人に採択されなくても、当日、国政監査場の近くで独自に記者会見をしたい、と言った。
当日(10月11日)、検察庁請願室のロビーでじっと待っているのは手持ち無沙汰だった。その手持ち無沙汰のなかで、カン・ギフン氏の母とホン・ソウウン氏は、まるで実の母と娘のように、心の通う時間を過ごした。顔を見るや「ありがとう」と挨拶をする母をチラッと横目で見ただけのホン・ソウン氏。しかし、時が経てば経つほど、話には心がこもり、ときにはとても楽しそうに、ときにはとても深刻に話を交わす・・・。2人の姿は、端正で、品があり、美しく、崇高でさえあった。1991年のあの事件以来、2人は顔を合わしたことすらなかった。それは、どことなく気まずさがあったからだった。カン・ギフン氏の後輩であるホン・ソンウン氏は、検察でカン・ギフン氏にとって決定的に不利な陳述をした張本人であり、カン・ギフン氏の母は、ホン・ソンウン氏にたいしていくらかはけしからぬという気持ちもあり、また、それとともに、「犯人」の母としてはむやみに重要な証人と会うことはできないという用心深さのようなものがあった。「運動圏」同士で証言を「デッチ上げる」という悪宣伝を、この間、検察はどんなにたびたび喚きちらしたことか!邪な者たちの造り出した事件が、善良な人々の人間としての交わりをこんなにも歪めてしまっていたのだ。
最初のうちは、「遺書事件」を強力部の検事に押しつけ、なんとか自分たちはこの事件と無関係な振りをしようとして、姿を見せなかったソウル地検の公安検事室は、その日、ホン・ソウウン氏の記者会見を出来るだけ盛り上がらない惨めなものにしてしまうために、ありとあらゆる拙劣な妨害指示を守衛室に出した。そうした妨害をふっ飛ばして、検察庁の廊下は詰めかけた記者たちでゴッタ返し、修羅場と化した。ホン・ソンウン氏は、検察がカン・ギフン氏を犯人に仕立てあげるために彼女に加えた恐ろしい脅迫と執拗な懐柔について語り、自分の出廷を妨害した事実を語り、そして、自らの軟弱さを語った。まるで、自分を押さえつける何かに負けないと歯を食いしばって頑張る子供のように、必死の思いで一生懸命に語った。
検察庁の廊下での1日を終え、疲れ切った体で真っ暗な夜道に出たカン・ギフン氏の母は、独り言のように、何度も何度もつぶやいた。「ソンウンがかわいそう。ギフンよりもっとかわいそう・・・。」
SBS[ソウル放送]の番組「それが知りたい」がカン・ギフン氏の事件を取材しはじめたのは夏。「遺書事件・総資料集」が世に出たころだった。そして、途中で検察の圧力によっていちど挫折した後に完結した作品が、最終的に裁判所の圧力で闇に葬られてしまったのは、10月24日だった。大法院の圧力の中心には、カン・ギフン氏の控訴審の裁判長だったイム・デファ[任大和]判事がいた。「それが知りたい」制作チームが経験した一編のドラマをここで紹介する必要はない。「最初はカン・ギフンが本当に遺書を代筆したのだろうと思って」作りはじめた作品が、結局は、公権力の圧力による放送中止で終わったという事実が、とにかく重要なのだ。
検事や判事たちは恐れる。ホン・ソンウン氏の「良心宣言」、SBSの放送中止事態・・・こんなことが、真実の勝利するときまで起こりつづけるだろう。ほんとうに哀れなのはカン・ギフンではなく彼らなのだ。彼らは恐れる。安眠できない。永遠に。
死ぬまで安眠できないのは、政治判事たちの政治検事たちだけではない。イ・グナン[李 安]も同様だ。イ・グナン、そして、絢爛たる技巧を誇っていたあの多くの「拷問技術者」たち・・・。
拷問技術者たちに安らかに眠れるようにしてやる良い方法がひとつある。それは、かつて加えられた拷問によって損害を受けたすべての人々、今でも関節がズキズキ痛む人々、ときどき悪夢を見る人々、精神病院に入退院を繰り返して財産を使い果たした人々、体に傷痕が残った人々、苦痛のなかで虚偽告白をしたり同志を売り渡したりした良心の呵責のために今なお苦しんでいる人々・・・、こうしたすべての人々に、国家と拷問技術者が謝罪し、治療・名誉回復・補償をする、という方法だ。これを行なわないかぎり、彼らは永遠に、安らかな眠りを奪われながら苦しい人生を生きていくという運命から逃れるすべはないだろう。
ムン・グクチンという青年がいる。1980年10月、いわゆる「新軍部」の国家保衛委員会の時代に、ヨンセ[延世]大学哲学科2年生だった彼は、ソデムン[西大門]警察署の刑事たちによって突然連行された。刑事たちは、3日間、何の質問もしないまま、彼を素っ裸にして叺でぐるぐる巻きにし、棍棒でメッタ打ちにし、大きなヤカンから鼻を水に流し込んだ。「警官たちに引っ張られていくときの彼は、恐怖のためにブルブル震えていた。」彼は、結局、学校の図書館から借り出した社会科学書籍のために、国家保安法違反で起訴された。これが彼の最初の監獄暮らしだった。釈放後いつも彼は、「天気の悪い日には膝が痺れ、全身がズキズキ痛む」と訴えていた。
彼の発病は、二度目に逮捕された時のチョン・ニャンニ[ 涼里]警察署でのことだった。1986年10月、当時「タサン・ポイム事件」として知られた或る組織事件の核心活動家と目され指名手配されていた彼は、警察に自供した。拘束3日後に彼は精神錯乱症状を見せはじめたが、警察は取り調べをつづけ、ソンドン[城東]拘置所当局は、彼をギリギリ縛ったまま独房に閉じ込めた。彼は、自分の小便を飲んだり、裸になって「私は共産主義者ではない!」と叫んだりした。精神病院に入れたのは、最初に症状が現われてから1ヶ月半後だった。
その後に彼と彼の家族が味わった苦痛は、誰も言葉では表現しきれないだろう。彼は、齢33にしてすでに6度も精神病院に入退院を繰り返している。精神疾患は徐々にひどくなっており、彼の家族は借金の山を背負いこんでいる。
「ムン・グクチン」は、我が国にはいっぱい存在している[仁川]分室に引っ張られ、恐怖の11時間を過ごしたあと、精神錯乱を起こしはじめたチェ・ヨンミ。ファソン[華城]の連続殺人事件の容疑者とされ、功名心に目の眩んだソデムン警察署の刑事たちが加えた暴行によって精神と家族を破壊されたキム・ジョンギョン氏。ヨンセ大学生だったキム・ポギョン。その他にもまだ・・・。
ムン・グクチン氏は、困難に打ち負かされそうになりながらも、一生懸命に病と闘っているが、その他の多くの拷問後遺症患者たちは、そのまま放置されている。彼らは、文学も思い出せず、本も読めず、自分の大小便を口に入れようとし、包丁や紐で自殺しようとすることもしばしばだ。
拷問犯罪者たちは安らかに眠れないだけだが、拷問被害者たちのほうは、現在、まったく見捨てられているのだ。
齢33にして6度も精神病院に入退院を繰り返しているムン・グクチン氏の精神疾患が1980年と86年の拷問によるものであることを、「文民」政府は「認め」まいとするだろう。派手に行なわれるだろう「文民」一周年の記念行事のときにも釈放されないだろう。その理由をわれわれは知っている。カン・ギフン氏を赦免・仮釈放するというのは理に合わないことであり、それは、下手をすると、カン・ギフン氏を「犯人」に仕立てた権力の悪行を「認める」ものと受け取られる恐れがあるのだ。
「認める」という問題。これこそが「文民」が「文民的」[エセ文民]でしかありえない理由を解きあかす鍵だ。「文民的」政府は、現在の人種弾圧法体系がかつての不法な立法機関で作られたことを「認め」たくないだろうし、「政治判事」の存在を「認め」まいとするだろうし、大量の解雇者が民主化運動のために糊口の道を塞がれたことを「認め」まいとするだろうし、疑惑死が権力のテロに起因するものであることを「認め」まいとするだろう。「文民」と「軍事」の本当の違いは、この「認める」というところにある。両者のあいだに本当に本質的な差異があるというのなら、なぜ「文民」が「軍事」時代に犯された悪行を認めないのか。「認める」ことは行なわれておらず、したがって、本質的な差異もない。つまり、「文民的」人権状況と「軍事」的人権状況のあいだに本質的な差異はないのだ。
最近起こった象徴的な二つの事件は、「文民的」政府が人権をどのような立場から見ているかを呆れるほどはっきりと示していると、私は思う。ひとつは、チェ・ヒョンウ[崔炯佑]内務部長官が、就任直前に月刊誌「マル」とおこなったインタビューで「思想犯には眠らせない拷問を加えてもかまわない」という驚くべき発言をした事件だ。「文民的」政府の最高官僚の人権意識をもろに見せつけるこの発言の底には、人権は誰にでも保障されるのではなく「相手を見て」保障せねばならないという便宜主義的な考え方がある。これは「文民」の考え方であるよりも、むしろ「独裁」の考え方だ。
もうひとつは、前インチョン地検検事アン・ヒグォンが酒に酔って、容疑者に凄まじい暴行を加え、全治6週間の傷を負わせた事件だ。昨年11月、「検事の徹夜調査を禁止します。もしも検事が苛酷な取り調べをしたときには、刑事処分をします」と厳粛な表情で国民に誓った大検察庁監察局長の舌の根も乾かないうちに起こったこの事件に、世論が沸騰すると、大検察庁は、アン検事を3ヶ月の減俸とヨンウォル[寧越]支庁への転出という内部懲戒に処して、事件を揉み消した。「刑事処分」などといったことは、もちろん、あるはずもなかった。こうした揉み消し方は軍事独裁時代の常套手段であって、ここには、「認めること」に類似したこと(文民的な「認めること」?)はあっても、本当の「認めること」はない。
もし「文民」政府が人権状況を画期的に改善する意志をもっているのなら、次のような政策が目に見えるかたちで実行されねばならないだろう。
第一に、かつて発生して現在に及んでいる人権問題の清算。第二に、さまざまな法制度を国際的な人権基準に合うように整備すること。第三に、国民の人権意識を高めるための教育ないし啓蒙。
「文民的」政府は、このいずれにも手をつけておらず、関心もまったくないように見える。つまり、文民的政権には人権政策がないのだ。
「文民」1年・・・。働く人々の生存権が脅かされているということについては、誰もが、ほとんど異議を唱えずに同意するだろう。しかし、市民的・政治的権利の改善において「刮目に値する」向上があった」という観測は、錯覚である可能性が大きい。一部は「文民」と「改革」という声高なスローガン攻勢による錯覚であり、また一部は、全般的な民主化運動の萎縮によって時局・公安事件の絶対量が減少した事実を見過ごすところからくる錯覚だ。事件がどれだけ減少したかは、法務部の統計を見れば分かる。1990年から1993年8月までの主要な時局・公安事件の統計は以下のとおりだ。(1993年の統計は1月から8月まで)
国家保安法
1990年 731 1991年 551 1992年 441 1993年 115
集会示威法
1990年 943 1991年 570 1992年 175 1993年 53
火炎瓶法
1990年 384 1991年 624 1992年 155 1993年 58
労働争議調停法
1990年 1,175 1991年 774 1992年 468 1993年 93
統計 1990年 3、233 1991年 2、519 1992年 1、239 1993年 319
事件が激減したので、その分だけ拷問・苛酷捜査・不法拘禁などのニュースが開かれなくなり、「「刮目に値する」向上があった」と錯覚するのは当然なのだ。しかし、われわれの判断では、その少ない事件のなかでも、人権侵害はかなり見いだされる。国家保安法関連事件は、相変わらずその大部分が、令状の提示もない不法連行であり、安企部による性拷問(キム・サムソク、キム・ウンジュ兄妹事件)のニュースも伝わった。しかも、昨年の夏頃には、警察庁の各対共分室が、まるで渋々とノルマをこなそうとでもするかのように、「事件」にもなりにくい事件での連行・起訴を争うという現象が見られた[ノ・テフン事件、民衆政治連合事件など]。つまり、「文民」政府出帆1年(本年[1994年]3月1日まで)の間に国家保安法で拘束された139名のうち、裁判手続きを経たのは70名であり、そのうちで実刑を受けた者は8名(12・5%)に過ぎなかったのだ。
「文民」と「改革」は色褪せつつあり、言葉の魔術は徐々に失いつつある。チョンワデ[青瓦台。大統領府]と財閥との「関係正常化」、「YS[キム・ヨンサム]」と「チョン・ノ[チョン・ドゥファンとノ・テウ]」との「大和解」、そして、拘束されていた不正人士たちの相次ぐ釈放と農民デモにたいする大統領の強硬鎮圧指示などの一連の過程を目撃しながら、初めは「文民」の夢を膨らませていた国民たちは、万人に適用される正当で公平無私な法と制度への希望を、急速に失いつつある。
かつてのパク・チョンヒ、チョン・ドゥファン政権の「開発独裁」を彷彿させる「苦痛分担と国家競争力強化」論は、われわれの人権状況にたいして暗い影を投げかけている。すなわち、「国家競争力強化」のための体系的な労働統制とそれによる民衆への生活苦、そして、社会福祉部分に対する予算の凍結ないし削減は、必然的に、民主化・自由化への切実な要求を生み出すだろうし、この要求を圧殺するために、軍事独裁時代の悪法が、「文民」によっても相変わらず重宝されるだろう。警察、安企部などの抑圧的な国家機構の暴力は、制限的にではあれ、相変わらず動員されつづけるほかないだろうし、しばし項垂れていた「政治判事」たちがふたたび「司法府改革」を鼻で笑うようになるというのは、十分に予想される事態なのだ。
人権政策はなくとも、逆らえない時代的潮流のために、人権状況に部分的な改善はあるだろう。しかし、それにもかかわらず、「文民」の下でも、軍事独裁下の人権状況の基調はそのまま続くだろう。いまや苦難の時代が終わり、黙っていても「文民」が自分から進んで過去を清算してくれ、抑圧的な法制度を改正してくれ、人権向上のための様々な配慮をしてくれるだろう、と期待するのは、愚かな事にすぎないのだ。

「自由」と「平等」の話    1994年
私は幼いときから「自由」という言葉がとても好きだった。いつからか「自由」の魅力が薄れはじめ、最近ではもう、大繁盛の「自由」がまったく嫌いでたまらなくなることがしばしばだ。「自由大韓」「自由総連盟」」「自由陣営」「自由世界」「自由センター」「自由民主的基本秩序」「自由党」「民主自由党」などなど・・・。
「自由大韓」は、ゲンコツで南ベトナム民族解放戦線ゲリラの頭をブチ割る勇猛なベトナム参戦韓国軍兵士たちのことが思われてゾッとするし、「自由総連盟」は、丸刈りで北韓なまり丸出しの、シャンとした頑固な老人をなぜか連想させる[「自由総連盟」の構成員には、1945年の「解放」直後に朝鮮半島北半部から南半部に下ってきた「丸刈り」の官僚・軍人出身者が多い。前出[53-54頁]の訳注参照]。「自由陣営」と「自由世界」は、図体のデカいアメリカ野郎におとなしく付き添う私の姿が思い浮かんで嫌だし、「自由センター」は安企部[国家安全企画部]が思い出され、「自由民主的基本秩序」はデモをしただけで刑務所に放り込む判事殿が思い出される。「自由党」は政治ゴロ、そして「民主自由党」は、文民政府になっても、私みたいな人間を絶対に党の地区委員会の委員長に迎えてくれたりはしないだろう。
どうして揃いも揃ってこうなのだろうか。どうして私が嫌い私を嫌う人々が「自由」を好むのか。どうして維新・五共時代[パク・チョンヒ、チョン・ドゥファン政権時代]に血を流して「自由」のために闘った人々は、自分たちの団体名に「自由」という字をつけようとしないのか。
人権運動は、「自由」という概念を、「平等」という概念とともに、非常に大切にする。自由と平等という概念にまだなじんでいなかった中世社会においては、当然ながら、「人権」という概念も一般的にはなりえなかった。この二つの概念は人権の存在を左右する基本条件なのだ。
ところが、労働運動、統一戦線運動、学術運動[進歩的な学者・研究者たちが分野ごとに自発的に研究会を組織し、さらに「学術団体協議会」などの運動体を結成して、社会変革に寄与しようとする運動]をしている私の友人たちは、皆が一様に無知で、「人権運動」というと思い浮かぶのは「自由権」だけであって、「平等」とはまったく関係がないものと思い込んでしまう。だから、私を見るそうした友人たちの目が、上のように「自由××」「自由××」という嫌らしい人々を眺めるような目つきに感じられるとき、私はほんとうに嫌だ。ほんとうに、ほんとうに、ゲッソリする。私の罪といえば人権運動をするということ、そして、自由が好きだということでしかないのに。
人権という概念は非常に包括的な概念だ。人権は、包括的でありつつも、決して固定した範疇に止まっているものではなく、歴史が進歩する歩みとともに、その歩みに先立ったり立ち遅れたりしながら、力動的に変化し拡大してきた。人権の理念は、根本において、進歩イデオロギーだと私は信じる。
私は、天が与えた人権<天賦人権>という概念は嘘だと考えている。
歴史のある時点で一定の社会・経済的な変化が生じはじめると、新たに到来する時代を担っていくべき新たな勢力は、「天から下された契約の自由!」だとか「永遠不変の所有権!」だとか叫びつつ、旧時代の拘束と抑圧に反対するのだが、その直後に変化した現実のなかで、そのスローガンはもはやスローガンではなくて、しだいに法に盛り込まれる人権規定となっていく。しかし、時代がさらに変化すれば(歴史の経験がはっきり物語っているように)ふたたび新たな時代を準備する新たなスローガンが現れはじめ、新たな時代に適応できなくなったかつての人権規定のいくつかは、すこしも「永遠不変」のものではないことが判明し、歴史の舞台から姿を消していったりするのだ。
資本主義の展開を確保する社会革命であった近代市民革命は、基本権の中心概念として身体、精神活動、経済活動の自由を確立した。もちろん、経済活動の自由を第一に強調した。しかし、無産者、女性、障害者、そして子どもの人権を含み込まなかったこの「人権」概念は、社会の矛盾、階級の葛藤が激化するなかで、「法の前の平等ではなく実質的平等!」という矢の催促を受けるようになる。結局それは「社会権」という新たな人権領域を受け入れざるをえなくなり、経済活動の自由は人目を気にせざるをえなくなっていく。
19世紀に社会主義思想からの深刻な挑戦を受け、ワイマール憲法から始まる現代福祉国家の人権理念は、資本主義という体制を守るために労働者を適当になだめすかしながら、一応はこの二つの人権概念、つまり「自由権」と「社会権」を統一したものとして登場した。
*바이마르 헌법(영어: Weimar Constitution, 독어: Weimarer Verfassung)은 1918년 11월 7일에 발생한 독일 11월 혁명이후 독일 제국이 붕괴하는데 혁명 이후 이듬해 8월에 만들어진 헌법이다. 이 헌법을 바탕으로 의회민주주의적인 바이마르 공화국이 탄생했다. 바이마르 헌법의 몇몇 조항은 현재의 독일 헌법에 그대로 남아 있다. 바이마르 헌법은 근대헌법상 처음으로 소유권의 의무성(사회성)을 강조하고 인간다운 생존(생존권)을 보장하는 등 20세기 현대 헌법의 전형이 되어 많은 민주주의 국가 헌법에 영향을 주었다.
*복지국가福祉国家는 국민의 공공복리와 행복의 증진을 주요한 기능으로 하는 국가를 말한다. 복지(welfare)란 well(자기의사에 좇아 적절하고 충분히)와 fare(살아가다. 되어가다)로 이루어진 언어로서 ‘사람들의 만족상태와 행복도’를 의미하는데, 사회과학에서 정책 내지 체제의 목적으로서 사회복지가 전제됨으로써 학술적 용어로서도 쓰이게 되었다.
第二次世界大戦後には、第三世界の力が大きくなるとともに、反帝国主義運動を反映する。集団的人権とでも言うべき第三世代の人権概念が誕生することになる。民族の自決権、社会発展に対する権利、人類共同の遺産に共同で参与して恩恵を受ける権利、平和的生存権、環境権などが次々と登場する。
これら第一、第二、第三世代の人権のすべては、現在、条約、宣言などの形で国連文書にされ、すべてひっくるめて「人権」という概念を形作っており、今後展開される人類の歴史のなかで、多くの人々が流す血の代価として新たに闘い取られる「未知の人権」が合流してくるのを待っているのだ。
人権概念はこのように力動的だ。したがって、人権運動は、新たに登場する歴史の主人公とつねに力動的に手を結んでいなければ、古びた勢力とともに歴史の進む道を塞ぐ「自由××」といった反動的運動になるほかない。
「自由と平等」こそが人権の存在を左右する基本条件だと先に述べた。もちろん、この言葉は間違っていないが、誤解してはいけない。「人権」という母のもとで、この「自由」と「平等」というお互いに性格の違う2人の兄弟は、いつも仲の良い兄弟であるとは限らないのだ。これらは、切っても切れない関係にありながら、「お前が男前だって?オレのほうが男前さ?」と言っては、なにかにつけて喧嘩をする、つまり、人権概念の正統性と優越性をめぐって衝突するのだ。ときには自分の身体的欠陥は差し置いて相手の身体的欠陥まであげつらう卑劣な手段をも動員しつつ、野卑な喧嘩をする。自分の子分が洟を垂らしているのに相手が洟を垂らしていることばかりあげつらう。米国の「人権外交」がまさにこれだ。
うわべでは平穏に見える人権の歴史と人権運動のなかで、この争いはじつに熾烈だ。人権運動は、この2人の兄弟(<社会主義と米国>ではなく、<自由概念と平等>だ)のうちのどちらか一方だけの言い分をエコ贔屓して聞いてやるわけにはいかない。2人とも大切だから、悪い癖を直して更生させてやり、うわべがイカしているだけではなく中身のある人間に育ててやるよう努力するほかない。人権運動は自由な平等と自由のために闘う運動だ。
こうした人権運動を一生懸命にしていれば、たとえ「自由××」たちが、いわゆる「両刃の剣」-つまり「北韓の人権問題」(人権問題は、一方では、在野勢力にとって、大韓民国政府当局の人権侵害を批判する「剣」であるとともに、他方では、当局にとって、朝鮮民主主義人民共和国ー北朝鮮ーにおける人権侵害の問題を取り上げることによって、北朝鮮との民族的友好関係のなかで南北統一を実現しようとしている在野勢力の痛手を与える「剣」ともなる」-を猛烈に、そして、口元に会心の笑みを浮かべてはこちらの表情にまで覗き込みながら、振り回しても、まったく右往左往する必要がないと私は思う。要は、人権を語るにおいていったい誰が均衡感覚を持って人権概念を理解し、また人権概念をめぐって苦悶しているのが問題なのだ。
人権運動に身を捧げる私がまるで「自由××」の類いになるかのように私を眺める私の友人の運動家たち。ゲッソリするとは言ったが、彼らの憂慮と気遣いを私は理解できないわけではない。しかし、いくら考えても、統一戦線運動をするファン[黄]某よ、労働運動をするチェ[崔]某よ、君たちはどうしようもなく無知なためにそれほどまでに心配するのだろう。
振り返れば、我が国の人権運動は、長きにわたる軍事独裁の暴圧のなかで、あまりにも世知辛く「自由」ばかりを叫んできた。そして、もちろん、そうせねばならない必要性はいまでも相変わらず厳然と存在しており、それに応えることを私に求めている。均衡感覚をときには失いつつ、「これじゃないんだが・・・」と思いながら、身体の自由、思想の自由、表現の自由、結社の自由を叫ばねばならない。われわれが叫ぶこの自由は、市民革命を成功裏に完遂して経済活動の自由に安住しようとしていたブルジョアジーの自由とは異なるのだから。
しかし、前後の見境なしに調子良く「自由!自由!」と熱を上げているうちに、あとで急に周りに誰もいないのに気がついてショゲる日が来るかもしれない。後になって、自分が一生懸命に作り出した生産物の重みに圧し潰されて窒息するかもしれないのだ。大変だろうが、徐徐に、そして着実に、われわれの人権運動は関心領域を広げていかねばならない。「平等」の領域へ、「平等」の領域へと・・・。私は今この「新公安政局」[1994年のキム・イルソン[金日成]北朝鮮主席の死を挟む約半年間、韓国公安当局が「スパイ」事件の発表、労働・農民・統一運動の弾圧、学生、大学教員の検挙を集中的に行なったことを指す」の時にだけ声を張り上げて寿命の尽きる人間ではなく、人権運動を大切にしながら人権運動を生涯にわたって行なっていかねばならない人間だから・・・。
どうして私が嫌い私を嫌う人々が「自由」を好むのだろうか。どうして維新・5共時代に血を流しながら「自由」のために闘った人々は自分たちの団体名に「自由」という字をつけようとしないのだろうか。
たぶん、こうなのだ。つまり、彼らの「自由××」の「自由」は、私の願う「平等な自由」ではなく、前世紀にすでに抜け殻になってしまった古びた自由だからであり、私の望む「(いままでの人権運動)」反省して自由を蘇らせよう」の自由ではなく「[安企部のスパイ活動防止キャンペーンのキャッチ・フレーズである]自首して自由を見つけよう」の自由であるからだろう。
「自由」は美しい言葉だ。心が震え、胸がときめく言葉だ。1日も早くやって来い、われわれを思う存分われわれの団体の名前に「自由」という字をつけることのできる日よ!
幼い娘たちに          1994年
アパートの遊び場に娘たちを連れて出た。5歳と4歳、2人とも愛らしい。
遊び場の片隅、暑さにグッタリしたように木にクモが巣を張っていた。「ほら、クモだ!」「ほんと、わあ、クモだ!」2人はクモに見とれている。
ふと、はるか昔の幼い日を思う。私の記憶のいちばん底にたいせつにしまっていた思い出。セメント塀の上を這うカタツムリとその後に残されたキラキラ光るカタツムリの跡・・・。ああ、そうだ。この子たちも、はるか後の日には、遊び場の片隅で巣を作っていたクモの物珍しい姿を、おぼろげな記憶の底から呼び出してはいとおしんだりすることだろう・・・。「赤ん坊」とばかり思っていた娘たちがいつの間にか私とおなじ「人間」になっていた。
娘たちよ。はやく大きくなりたいだろうね。大人になって強くなりたいだろうね。父さんもそうだった。父さんも、今のお前たちのように、未来を夢見ながらこの国の市民となる準備を一生懸命にしたんだよ。泣きながら、怒りながら、悲しみに濡れながら、また、ときには喜びに溢れながら、一生懸命に。
立派な市民になるために、娘たちよ。今から人間の「権利」についていっぱい考えておくれ。人間の「権利」、つまりは、お前たちも同じように持っている「権利」について。
権利について考えるというのは苦しいことなんだ。大人たちは、お前の言いたいことを理解しようとはせず、夢のなかでも見たことのないような怖い顔で、あるいはゲンコツやホウキの柄で脅かしながら、お前たちの口を封じてしまうこともあるだろう。大人たちは、お前たちが持っている知的、道徳的、芸術的才能を無視したり、遊びたいお前たちの気持ちを分かってくれずに、「勉強しろ!勉強しろ!」「あれをするな、これをするな」とガミガミ言うことだろう。時には、お前たちがいちばん言われたくない「頭の血も乾かないやつ[生まれたときに頭についていた血がそのまま乾かずにいるほどの若造]が・・・」と言ったり、人を傷つけるようなことばをぞんざいに吐き散らしては、お前たちとお前たちが好きな友だちの心を悲しませることもあるだろう。つまり、大人たちはお前たちの「権利」をめちゃくちゃに踏みにじることだろう。
だから、お前たちの頭のなかが「権利」という言葉でピッタリ埋まると、お前たちは、暴力と打算で満ち満ちたこの社会に「自由」と「平等」も「友愛」も存在しないという事実に、きっと苦しむようになるだろう。
娘たちよ。もしいつか「子どもには権利はなく大人だけ権利がある。大人は子どもを好きなように扱えるのだ」と言う人に会ったなら、その人を嘘つきだと思いなさい。お前たちがこの世に生まれ出るずっと前に、われわれの祖先は、多くの血を流しながらお前たちのために闘い、そして、お前たちが生まれるほんの少し前に、世界中の国々が集って、「子どもの権利条約」という素晴しい贈り物をお前たちのために作ったんだ。この地球が滅びるときまで永遠に記録される、とてもとても大事な約束を。
お前たちが、そして世界中の子どもたちが、辛くて苦しいとき、立派な内容でできていることの約束のことを知ったら、生きる勇気が湧いてきて、すごい力が自分を守っていてくれるのを感じられることだろう。
けれども、子どもたちを好き勝手に扱いたがる嘘つきの大人たちは、お前たちにこの贈り物をタダでは渡してくれないものだ。だから、世界中の子どもたちは、こんな立派な贈り物があるということすらいまだに知らずにいるんだ。
娘たちよ。父さんはお前たちのために嘘つきたちと闘ってお前たちの権利を奪い返してこよう。けれども、父さんが力尽きたら、お前たちが自分の力で父さんのように闘って、お前たちのもの、お前たちの権利を取り返さなければいけないんだ。
立派な市民になるために、娘たちよ、いまから「権利」についていっぱい考えておくれ。
権利を考える人は、権利に助けられながら権利を守ることのできる人だ。権利を考える人は、自分の人生の意味と目的を考えることのできる人だ。権利を考える人は、奴隷ではなく、美しい精神に満ち溢れた自由人だ。権利を考えるお前たちは、もはや「女の子」ではなく「人間」だ。権利を考えるお前たちは、もはや「赤ん坊」ではなく「市民」だ。
IV
苦難を受ける長期拘禁良心囚ー「スパイ」は本当にスパイなのかー   1990年
驚くべき事件
月刊「シンドンア(新東亜)」1988年10月号に掲載された「スパイにデッチ上げられた72日間の拷問」という手記は、拷問によってスパイがデッチ上げられる過程の生々しい描写のために、われわれに大きな衝撃と込み上げる憤りをもたらす。
1971年に漁夫として北[朝鮮民主主義人民共和国ー北朝鮮]に拉致されてから翌年帰還したキム・ソンハク[金成鶴]氏は、それから約14年経った1985年12月のある日、わけも分からないままキョンギ[京畿]道警対共分室に連行された。令状なしの72日間の密室捜査の過程で彼は、身の毛もよだつ無差別殴打、水拷問、電気拷問などを繰り返し加えられ、人間の限界の前で泣きわめきながら、屈服してしまった。
このようにして出来上がった事件の内容は、北韓[北朝鮮]で洗脳教育・指令を受けて帰還、トンヘ[東海]沿岸の軍事機密探知、友人たちに北韓を讃揚・鼓舞、などとなっている。地獄そのものである密室から逃れたキム氏は、言葉では言い表せないほどの解放感とともに、これでようやく自分がされたことをすっかり暴露できる機会がやってきたと思って、心をときめかせはじめる。しかし、検事の態度はあまりにも冷やかだった。彼は、ふたたび押し寄せてくる絶望感に包まれるようになる。
キム・ソンハク氏は、実に希有なことに、無罪となった。弁護士は検事に、スパイ罪の物的証拠となる無線機や乱数票があるのかと問いただした。もちろん、そんなものがあるわけがなかった。結局、検事は、仕方なく、スパイ罪の部分を取り上げて、反国家団体讃揚・鼓舞罪だけで公判を維持した。彼が友人たちに北韓を讃揚・鼓舞したというこの部分についても、法院は、長期間の不法監禁による被告人の「心理的負担」を理由に、自白の証拠能力をにんていせず、無罪を宣告した。
キム・ソンハク氏の事件は、他のスパイ事件と比べてすこしも特異な事件ではなく、型に嵌った平凡なスパイ事件だ。しかし、その一方でこの事件は、謎のような驚くべき事件だ。絶望に泣きわめきながら冤罪だと主張するあの多くのスパイ事件の被告たちのうちで、乱数票表や無線機を証拠物として押収された人はひとりもおらず、また、1~3ヶ月に及ぶ不正監禁下で惨たらしい拷問捜査をうけなかった人はほとんどいない。そして、その被告たちのすべてがスパイとして断罪され、懲役7年から無期懲役の刑を宣告されたのだ。だが、ひとりキム・ソンハク氏だけは無罪判決を受けたのだ。これは謎というほかない。
とにかくキム・ソンハク氏は無罪となった。さもなければ、彼は極悪非道なスパイ・デッチ上げを克明に世間に暴露することもできなかったろうし、他の「スパイ」たちのように、自分の潔白を誰も信じてくれないこの世を失意と諦めのなかで生きていくほかなかったろう。
広範囲に「造り出される」スパイ
罪もない人々が途方もない拷問によってスパイにデッチ上げられることもありうるということを、一部の人々はずっと前から知ってはいた。しかし、キム・ソンハク氏の事件の場合のような暴露記事をつうじて、あるいは、辺りを窺いながらヒソヒソと交わす政治談議をつうじて、人々が知るようになるスパイ・デッチ上げは、じつは「氷山の一角」にすぎない。
昨年(1989年)末のチョン・ドゥファン[全斗煥]前大統領にたいする国会聴聞は修羅場のうちに終わったが、彼にたいする72項目にのぼる筆問書のなかには次のようなものも含まれていた。
第49項ー保安司令部や国家安全企画部、治安本部などの捜査機関で、在日同胞、北側に拉致された漁夫、6・25(1950-53年の朝鮮戦争)時に越北したり拉北されたりした者の家族などを対象に、各種の拷問などの人権蹂躙をつうじて、罪のない人々をスパイにデッチ上げたということについて。
国会で一国の前職大統領に投げつけられたこの質問は、明らかに、我が国におけるデッチ上げスパイというものが捜査の手違いで「はからずも」生みだされるものではないことを強く示唆している。スパイ・デッチ上げは、人々が普通に考えているのとは次元を異にした規模で広範囲に、そして、たぶん計画的に、おこなわれている。
長期拘禁良心囚、どんな人々か
民主化実践家族運動協議会(民家協)では長期拘禁良心囚を「7年以上の刑期を宣告された良心囚」と規定している。このように規定する理由は、刑法上、間諜[スパイ]罪(98条)に宣告される刑罰が「死刑、無期または7年以上の懲役」となっていることと関係がある。
1990年10月現在、我が国の監獄には149名の長期拘禁良心囚がいる。149名の長期拘禁良心囚は、「越北企図」(3名)などのいくつかの場合だけを除いて、ほとんどが「スパイ」だ。これには二つの理由がある。
第一に、戦争(朝鮮戦争)以後40年近い歳月が流れるあいだ、戦争のときからの左翼囚のなかでスパイ罪を適用されなかった人々(パルチザンなど)が赦免、そして決定的には昨年の社会安全法の廃止、などの過程を経て、ほとんどすべてが出獄してしまったからであり、第二には、6月抗争(1987年)以後の高潮した民主化要求に押されたノン・テウ[盧泰愚]政権は、野党との協商を経て、良心囚大赦免措置(1988年12月21日)を断行したが、このとき、「南民戦(南朝鮮民族解放戦線)関連者たちをはじめとする多くの長期囚を釈放しながらも、250名ほどの「スパイ非転向左翼囚」を釈放対象から除外したからだ。
結局、1988年の「12・21」大釈放措置と1989年の社会安全法廃止を契機として、我が国の「長期拘禁良心囚問題」は「スパイ間諜」になってしまったのだ。
そのほとんどがスパイ罪の適用を受けている149名の長期拘禁良心囚のうち思想転向を拒否する58名の非転向左翼囚は、すべてテジョン[大田]矯導所[刑務所]に収監されており、残りの91名の転向者たちはテグ[大邱]、アンドン[安東]、チョンジュ[全州]、クァンジュ[光州]の四ヶ所の矯導所に分散して収監されている。彼らの年齢別、服役年数別の分布は表I、表IIのとおりだ。
表I:年齢別長期拘禁良心囚 70歳以上 17 60歳ー69歳 42 59歳以下 90
表II:服役年数別長期拘禁良心囚 39年 2 35年ー38年 5 30年ー34年 11 20年ー29年 26 19年以下 105
先に述べたように、長期拘禁良心囚は「スパイ」だ。この「スパイ」たちは、おおよそ二種類の範疇に分けられる。一つは、長期間の苛酷な拷問によってデッチ上げられた疑いの濃い「デッチ上げスパイ」たちであり、もう一つは、北韓から南派されてきた工作員たちだ。とくに後者はそのほとんどが、20年から40年にわたる、世界に類例のない超長期の拘禁を受けている。
一つの統計が意味する多くのこと
われわれに多くのことを示唆してくれる統計がひとつここにある。表IIIは、昨年(1989年)11月現在で矯導所に服役中の長期拘禁良心囚211名を、事件年度別・事件類型別に分類したものだ(もちろん、こうした統計が公式発表されるわけがない。民家協長期囚家族協議会で調査・作成したものだ)。
表によれば、1950年代、60年代をとおして北韓から相当数の「工作員」が「南派」されたことがわかる。この時期に、「スパイ」といえばすなわち南派工作員にほかならなかったのだ。しかし、1970年代に入ってスパイ事件は質的に変化する。つまり、南派工作員はほとんどいなくなるくらいに激減する。
1970年代初めは、国際的には、長期間維持されてきた冷戦体制が本格的に崩壊し「デタント」時代の幕が開く時期であり、国内的には、パク・チョンヒ[朴正熙]の平和的競争を内容とする対北提案(1970年)、南北赤十字会談(71年)、7・4共同声明(72年)、南北国連同時加入提案(73年)とつづく過程で、南北間の敵対的関係と北進統一政策が公式に廃棄された時期に当たる。
北韓から南派されてきた工作員の数のドラマチックな変化は、まさにこのような国際・国内情勢を反映するものであろうし、事実、南北赤十字会談と7・4共同声明以後の「南派」はごく例外的だという事実は、南韓(大韓民国)の公安当局でも常識となっているという。
他方、1970年代以後にもスパイ事件は絶え間なく起こっている。しかし、この時期のスパイは、50年代、60年代のスパイとはその様相をおおいに異にしており、すでに「南派」ではない。このような「南派」ではないスパイ事件は、第5共和国[チョン・ドゥファン政権]の時期に爆発的に増加する。
1970年代以後の多くのスパイ事件はデッチ上げられた疑いが濃厚だ。50年代、60年代の南派工作員に対する検挙・取り調べの経験が蓄積されるなかで、スパイ捜査の「型」が確立したと見ることができ、70年代以後のスパイ事件なるものは、たいてい、取るに足りない行動をこの「型」に無理やり嵌め込んだ痕跡があるという主張や、大衆の民主化要求に対抗して「北からの脅威」を絶え間なく強調せねばならない独裁政権の政治的必要のために、70年代以後は、基本的には「いなくなった」スパイを「造り」出さざるをえなかったのだろうという推測は、二つともかなり根拠がありそうだ。
1970年代以後のスパイ事件
1970年代以降のスパイ事件の類型は次のとおりである(表II参照)。・
①越北および行方不明者事件(現在9名)
この類型は、戦争中まで左翼活動をしていた越北したり行方不明になった人の南韓居住の家族たちが、跡に南派されてきた(ないしは、捜査機関が、南派されてきたと主張する)その越北者によって「包摂」され、いわゆる「固定スパイ」になった、という類型だ。
②越南者事件(現在2名)
1950年代に南派工作員として南に下ってきてから、自首したり、身を隠したまま何の活動もしなかったことがほとんど確実であるにもかかわらず20-30年経ってから第5共和国の時代の時に連行されたりして、固定スパイとして有罪判決を受けた場合だ。
③拉北漁夫事件(現在12名)
1960年代と70年代の初めに、魚がよく捕れる海上分界線(停戦ライン、いわゆる「38度線」)近くで漁労作業をしている途中に、「拉北」されていく漁夫たちがとても多かった。
彼らは、帰還して、情状による司法処理をされて釈放されてから、たいていは十数年後に、70年代と80年代(とくに第5共和国の時期)に大量に連行され、普通1~3ヶ月ほどの苛酷な拷問捜査を受けて「スパイ」となる。
④在日同胞事件(現在6名)
在日同胞は、38度線路のない異国の社会で日常的に朝鮮総連(在日朝鮮人総連合会)系の同胞たちと接触しながら育つため、国内の同胞たちのように「北」にたいする恐怖心や敵愾心を身につけていないのはごく当然だといえよう。こうした感覚をもった彼らが国内に入ってきて稚拙な行動をすれば、彼らをスパイに仕立てるのは捜査官たちにとって「寝転んで餅食い(朝飯前)」だろう。
⑤日本関連事件(現在29名)
国内に居住人が、親戚・友人訪問、就業、旅行などの目的で日本に行って朝鮮総連系の同胞と直接・間接に接触することによって、スパイとして断罪される場合だ。この類型は、事件数がもっとも多く、やはり第5共和国の時期に集中している。
⑥民主化運動関連海外留学生事件(現在8名)
国内でいわゆる運動圏ないしはその周辺にあった人が外国に留学すると、彼らが元来もっていた統一問題に対する関心から、そこで簡単に会える親北韓人士たちと接触するようになる。この類型の特徴は、彼らをスパイとして検挙するにとどまらず(いや、むしろ彼らの「スパイ事件」を媒介として)彼らが関与してきた国内の運動団体に圧迫を加えるところにある。したがって、彼らの「スパイ事件」は、適切な時期にマスコミに大々的に報道されるのが通例だ。
上の①~⑥は、その性格上、デッチ上げの蓋然性が非常に高い類型であって、第5共和国時代のスパイ事件は、ほとんどがこうした事件だ。この他に1970年代以後のスパイ事件としては、
⑦いわゆる「統一革命党再建」事件(現在8名)
この類型の特徴は、南韓での自生的共産主義者たちの地下組織だという性格を強く持っていながらも、明らかに北韓との関係もあったという点にあり、そのために、「デッチ上げ」とも「南派」とも言いにくい類型だ。1980年代からは無い。
⑧南派工作員事件(1971年以後は2名のみ)
ひとりは1950年代の南派であるので、事実上は1名にすぎない。
⑨外国経由訪北事件(現在4名)
彼らはすべてが北韓訪問を認めているが、スパイ行為をしたかどうかは議論の余地がある。
証拠もない荒唐無稽な事件、事件、事件・・・
こうした1970年代以後のスパイ事件にはおおよそ共通した特徴がある。
第一に、スパイ行為を証明するに足る物的証拠がほとんどなく、有罪判決は全面的に被疑者の自白に依存しているという点だ。
「スパイ検挙」が新聞にデカデカと報道されるとき、記事といっしょに掲載される衝撃的な押収証拠品の写真を、われわれはよう目にする。しかし、その「証拠物」のひとつひとつを仔細に眺めると、そこにはわれわれが日常的に手にすることのできる平凡なものはあっても、「スパイ」の印ともいうべき無線機も乱数表もないことがわかる。
●ラジオ一台/紙10枚/鍵1個/薬ビン2個(イ・チャングク[李昌図]事件)
●ガスライター/日本の会社の横のボート場で撮った写真(チャ・ブンギル[車豊吉]事件)
●日本製セーター1着/日本円千円/用紙が3枚抜けた手帳(キム・ヤンギ[金良基]事件)
●カメラ/オクボ[玉浦]造船所建設現場の写真1枚(キム・ジャンギル事件ー彼は土木下請業者である)
●日本で買ったアメリカ製万年筆2本(キム・ピョンジュ[金炳柱]事件)
このような荒唐無稽な「証拠」が検事によって提出され、判事によって採択される。
第二に、ほとんどすべての事件が1-3ヶ月におよぶ不法監獄下で取り調べが行われ、被疑者たちが一様に凄まじい拷問を受けたと主張しているのだ。
不法監禁は、たとえば、60日(パク・トンウン[朴東雲]、76日(イ・チャングク)、95日(イ・ジェドゥ)、4ヶ月(ソ・チャンドク)、3ヶ月(シン・グィヨン[辛貴永]、113日(キム・チョル[金哲])、90日(ヤン・ジョンイ[梁貞伊]、女性)などだ。
この期間に全員がさまざまな凄まじい拷問を受けるのだが、おもに水拷問と電気拷問を交互に受ける。ひとしりき水拷問をやり終えてから、水にビッショリ濡れた体に電流を流すと、電気拷問の効果がおおいに増幅されるのだ。
第三に、これらの事件の主たる「スパイ事実」というのが、誰でも網に掛かるほど包括的に解放された国家機密の探知・。漏洩となっているという事実だ。たとえば、キムポ[金浦]空港の通関手続き(キム・ヤンギ)、ヨンセ[延世]大学のデモの光景(イ・チャングク)、キョンプ[京釜]高速道路が四車線だという事実(シン・グィヨン)などだ。
我が国の大法院は、国家保安法に規定された「国家機密」という曖昧な表現を「新聞、ラジオなどに報道され、公知の事実であるとはいえ・・・」などというように非常に包括的に解釈している。
スパイはなぜデッチ上げられるのか。
その理由は、まず、長い分断状況のなかでわれわれに重くのしかかる反共産主義にある。自由、民主、人権などの価値の上に「反共」を君臨させる風土は、数多くの密室捜査機関による拉致、不法監禁、拷問を黙認したし、検事と秘密警察機構の野合と法官の無気力を生んだ。これは、スパイ・デッチ上げの大量生産システムだ。
第二の理由は、独裁政権維持のための政治的必要を挙げることができる。選挙時、民主化運動の高潮期、政権の道徳性が世論の俎上に上って政権が窮地に陥るとき・・・。そのたびに、新聞紙面を衝撃的な「スパイ団検挙」という見出しが飾ってきた事実を、たいていの人々は知っている(表IIIを詳しく眺めればこのことは明らかになる)。
最後に、対共捜査要員たちの褒賞欲を挙げざるをえない。保安司[国軍保安司令部]で多くの在日同胞スパイ事件のデッチ上げに参加していて、日本に渡って保安司の内幕を生々しく暴露した在日同胞キム・ピョンジン[金丙鎮]氏の「保安司」という本は、彼らが褒賞と昇進にどんなに大きな期待をかけてスパイ捜査に臨むかを、じつに生々しく描写している。捜査に着手するとともに支給される工作金に対する期待、事件を一つうまく仕上げたら貰える莫大な褒賞金と褒賞休暇への期待、昇進と栄転に対する期待・・・。
デッチ上げられたスパイたちは、残酷な拷問と引き続く獄苦のために、冷え冷えとした監房で呻吟している。過程までも破壊され、監獄に孤立している彼らには、真相を明らかにして汚名を雪ぐすべがない。スパイ・デッチ上げは、分断祖国の最も尖鋭な病理現象だ。

*간첩 행위(間諜行爲, 영어: espionage, spying)는 적대 세력 등의 정보를 얻기 위해 불법으로 적의 정보를 얻는 첩보활동을 의미하며, 간첩죄를 적용하여 처벌한다. 특정 국가 또는 단체의 정보를 수집, 정탐하여 자국이나 자신의 단체에 제공한다. 대체적으로 첩보는 합법적인 활동을 의미하지만, 간첩은 그렇지 않다. 이러한 행위를 하는 자를 간첩 또는 세작이라 하며, 상황이나 관점에 따라 공작원(工作員), 스파이(spy), 비밀요원(秘密要員, secret agent) 등 여러 호칭으로 불린다. 간첩의 활동 분야는 군사, 경제, 산업 분야 등 여러 분야이다. 특히 산업관련 특허나 설계도 등을 빼어서 다른 나라나 다른 회사에 넘기는 자를 산업스파이라고 호칭하며, 국외로 빼돌리는 경우 대한민국에서는 국가정보원이 이를 수사관리하고 있다. 구약성서의 여호수아 2장 1절에서 24절에도 여리고성에서 활동한 간첩들과 이들에게 협조한 라합 서사(Narrative)가 나올 정도로 전쟁사에서 스파이의 역사는 길다.

彼らがどうしてスパイだというのか   1990年
ネルソン・マンデラよりも長い監獄暮らし
昨夏(1989年)、我が国を訪問したドイツ記者協会代表は、私の手をしっかり握って涙ぐみながら言った。ドイツでは無期懲役を宣告された人でも15年ほど監獄暮らしをすれば皆出られるのに、あなたは17年もの歳月をどんなふうに監獄で暮らしてきたのかと・・・。さて、なんと言ったものやら・・・。
インチョン[仁川]で貧困のうちに育ったイ・ジョンファン[李鍾煥]はすでに67歳の老人だ。

幼くして父を亡くした彼は、国民学校(小学校)を中退し、日帝末期と解放直後に肉体労働をして家族の生計を支えたが、いつも母と弟妹たちを食わせるのに足りなかった。いつしか、労働者が貧しさと飢えから自由になり人間らしい待遇を受けるべきだという素朴な理想を抱くようになった彼は、多くの友人たちとともに南労党[南朝鮮労働党]に入党し、労働運動と政治運動に奔走するようになる。

넬슨 롤리랄라 만델라(영어: Nelson Rolihlahla Mandela, 1918년 7월 18일 ~ 2013년 12월 5일)는 남아프리카 공화국에서 평등 선거 실시 후 뽑힌 세계 최초의 흑인 대통령이었다. 대통령으로 당선되기 전에 그는, 아프리카 민족회의(ANC)의 지도자로서 반아파르트헤이트운동 즉, 남아공 옛 백인 정권의 인종차별에 맞선 투쟁을 지도했다.
戦争「朝鮮戦争」が始まるや、彼は越北し、ファンヘド[黄海道]にあった南労党系の政治学校で3ヶ月の教育を受けたあと、政治工作をするために故郷のインチョンに下ってきたが、38度線をほんの少し越えたところで南側の要員に検挙されてしまう(1951年)。
単審制の軍事法廷で国防警備法33条(附逆[国家反逆行為への加担]が適用され、15年の刑を宣告された。しかし、どうしたわけか、6ヵ月後に判決無効となり、一事不再理の原則も無視されたままふたたび最初から裁判を受けることになり、今度は32条<間諜>の適用を受けて無期懲役。彼が犯したとされるスパイ行為の内容はといえば、38度線から護送されてくる途中で目隠しの隙間から軍事施設を見たという、呆れかえるようなことだった。
彼は「スパイ」であるゆえに、しかも、その素朴このうえない信念を守ろうとして思想転向を拒否するゆえに、いつも減刑や釈放の対象から除外されてきて、今日まで40年間も監獄にいなければならなかったのだ。
南アフリカ共和国の黒人解放運動の指導者ネルソン・マンデラが20年以上監獄暮らしをしているころ、彼がどんな思想の持主で、どんな運動をしたのか、現代の南アフリカ共和国の政治において彼がどれほどの比重を占めたのかについてほとんど無知な人々も、「20年」の監獄暮らしを話題にしては憤ったりした。
昨年の秋、「マンデラ釈放迫る」の報に接してマンデラ紹介に大きな紙面を割いた我が国のある日刊紙は、その記事のなかで「世界でもっとも長く監獄暮らしをした人」だとマンデラを紹介した。我が国の新聞記者の笑うに笑えない無知ぶりが表れたわけだ。
アフリカ民族会議を組織し、反乱罪で1962年から監獄暮らしを始め、この春に28年ぶりに釈放されたマンデラの「記録」は、その新聞記事を書いた記者の母国である当の我が国では「出世のための根回し(ゲタ履かせ)」をしてようやく30位に入れる「記録」なのだ。
ネルソン・マンデラの記録も色褪せる我が国の「超長期囚」たちは、1950年代、60年代のスパイ、つまり、1970年代以後の事件デッチ上げの疑いが濃い多様な「スパイ」たちとは別の、もうひとつのスパイの範疇をなす南派工作員たちだ。「本物」のスパイである彼らは、いったいどんな人々なのか。

分断の監獄で死んでいくスパイ、チョ・ヨンスン

1952年から37年ものあいだ監獄暮らしをしたチョ・ヨンスン[趙容淳]は、昨年1月19日、74歳でテジョン[大田]矯導所で獄死した。1964年に高血圧で脳血管が破裂してから生涯を終えるときまでの25年間、彼の矯導所生活は、半身不随に加えて言語障害という惨い状態でつづけられた。

大部分の南派工作員は南韓出身だ。チョ・ヨンスンもやはり南韓のチュンチョプクト[忠清北道]クェサン[拽山]で農民の子として生まれた(1915年)。幼いころソダン(書堂。初学者たちの私塾)教育を受け、遅れて新制の学校に入ったために、彼は15歳になってもまだ国民学校生(小学生)だった。1929年、この15歳の農村少年の人生を決定する大事件がチョルラナムド[全羅南道]クァンジュ[光州]で起きる。クァンジュ学生運動がまさにそれだ。クァンジュ学生運動の報に接した彼は、逸る心で自分の通う国民学校で抗日運動団体を組織するが、これがついには発覚し、テジョン刑務所で少年囚として6ヶ月間監獄暮らしをすることになる。テジョン監獄は、現在と同じく、当時も政治犯獣重拘禁刑務所だった。

出獄後、彼は易学に没頭するようになり、深い造詣を備えるに至るが、これには、幼くしてソダンで受けた体系的な漢学教育と彼特有の勤勉さが大きな助けになったといえる。

この易学の知識は、日帝末期に食いぶちを求めて家族を率いてソウルに上ってきたとき、かなり名の知られた人相見として世渡りしながら、金持ちのヤンバン(両班。「上流階級」を指す)、成金、親日派たちを食い物にして暮らしていくのに、大きな元手になったという。

チョ・ヨンスンは、当時、透徹したソンピ[儒学者]精神を備えた民族主義者として、日本帝国主義と親日の悪徳商人たちを憎悪しはしたが、けっして社会主義思想に共感する人ではなかった。彼はただ、勤勉で人物を鋭く見抜ける人相見でしかなかった。そんな彼が、解放直後、民衆意識の飛躍的な高潮期にふたたび人生の転換点を迎えることになる。

彼は「高い人品を備えた或る南労党員を知るようになった」と言った。「祖国と民族しか知らなかった」彼が、はじめはその南労党員の世界観に拒否感をもったのはあまりにも当然だったろう。しかし、「高い人品」に心をひかれ、交遊を繰り返す過程で、彼の世界観は徐々に変わっていった。自分の経験してきたドン底の生活と「人相見」だという劣等感のために狭く閉ざされていた彼の視野は、「被抑圧大衆」「平等」「人間解放」などの概念を理解するようになるにつれて、パッと開けはじめ、彼は胸の躍る感激のなかで南労党に入党するにいたる。

こうして、人相見という立場を利用して高官や親日派の人相を見ながら南労党のための情報活動に従事する南労党秘密党員としての彼の新たな生活がはじまる。

この時点で彼を「スパイ」だと定義する人はいないだろう。しかし、6・25戦争[朝鮮戦争]は彼を「スパイ」にしてしまう。戦争が起こり、人民軍が掌握したソウルで彼は自分が南労党員であることを明かすのだが、まさにそのことのために、やがて[韓国軍側の]攻勢に押されて後退することになった人民軍とともに夫人と3人の子を連れて越北するほかない身となってしまう。

1951年、彼は南側に残った重要な人物との途切れた連絡をつなぐために、当時としては大人よりも多少は容易に前線を越えられた少年、つまり自分の14歳になった息子を使いとして送る。このときの父の心情がどのようであったかはチョ・ヨンスンその人だけが知る問題だろう。

その息子は行方不明となり、彼は「気が狂いそうだった」。1952年に彼がヒョイと情報工作のために38度線を越えてきたのも、息子の行方を尋ねてみようという欲があったからだという。数日も経ないうちに彼は南韓当局に逮捕されてしまう。軍事法廷で死刑宣告を受けた彼は、後に、民間法廷で無期懲役を宣告され、監獄暮らしをはじめる。

彼の長い監獄生活は、凄まじい断食闘争で綴られている。どんな不当な仕打ちにも妥協のない闘争をした彼は、47日の断食闘争の記録保有者である。半身不随の身となってからは手洗いからひとりで這いだすのがとても困難になった彼は、他の同志たちの混居収容を闘い取るために、たびたび断食闘争をせねばならなかった。

体に染みついた人相見臭さをなくすために彼が監獄で傾けた努力もまた、涙ぐましいものだったという。彼は、好奇心から人相を見てくれと頼んでくる看守たちを怒鳴りつけ、「人相なんぞは金稼ぎ用の詐欺」だと戒めたりした。

彼は、また、詩情の豊かな人だった。彼は多くの自作誌を暗記していたし、誰かが冗談交じりに「おい、チョ同志、長生きしてどうする気だ!」と毒づくと、よく回らない舌で「ずっとずっと長生きして誌を書くのさ・・・」と言ってはハハハッと笑った。彼の監房には漢詩が刻まれていたと伝えられる。

彼は、新制の教育をまともに受けられなかったことからくる根深い劣等感を持ちつづけていた。この劣等感が彼を、暇さえあれば本を繙く勤勉な人にし、本を読んでいて分からないところがあると誰彼なしに、よく分かるまで非常に丁寧に質問する謙虚な人にした。

他人の悪口を言わず、他人の悲しい話をまるで自分のことのように彼は悲しんだ。また、自分に加えられる侮辱や悪行に対しては、よく回らない舌で怒鳴りつける、頑固な老人だった。ある日、運動場で若い看守がネチネチと言った。「あなた方は自分たちのことを政治犯だと思っているが、政治犯でなくてスパイだ。スパイには、当然、政治犯の権利はない・・・。」

チョ・ヨンスンは容赦なく烈火のごとく怒鳴りつけた。

「祖国分断の元凶であるアメリカと反民族的なイ・スンマン[李承晩]独裁政権に反対して、祖国統一を成し遂げようと努力した私がなぜスパイなのか!同じ国から同じ国に来た私がなぜスパイなのか!」

「本物」のスパイとはどんな人々か

イ・ジョンファン、チョ・ヨンスンのような(デッチ上げスパイではない)「本物」のスパイが、現在、我が国の監獄には48名残っている。彼らのうち98パーセントに当たる46名は、20~40年間も監獄暮らしをしてきた「超長期囚」だ。イ・ジョンファンのように1951年に監獄暮らしを始めて、同じく最長期の服役囚であるキム・ソンミョン[金善明]も、イ・ジョンファンと同じようにして生きてきた。

キム・ソンミョンー64歳

キョンギド[京畿道]ヤンピョン[楊平]で生まれ、幼いときからヨンドゥンポ[永登浦]で機械工として働く。解放後、南労党に入党。右翼テロと闘う行動隊員として活動し、6・25時に越北し、政治教育を受けて南派。38度線ですぐに逮捕され単審制の軍事法廷で15年の刑を宣告されたが、半年後に判決無効でふたたび裁判を受け、スパイ罪で無期。キム・ソンミョンより3ヶ月後の1952年1月に逮捕されたキム・ウテク[金宇沢]の場合を見ると、

キム・ウテクー70歳

キョンサンプクト[慶尚北道]アンドン[安東]出身。朝鮮王朝時代の高官キム・ソンイル[金誠一]の直系の子孫。国民学校を卒業し、面[村]の職員として働いているときに解放。解放後、地方議会選挙で当選した経歴がある。6・25時に軍人民委員長。後退しながら越北してから政治教育を受けて南派され、38度線で逮捕される。

右に紹介した人々とは異なり、キム・イルソン[金日成]大学(7名)をはじめとした錚々たる高等教育機関を卒業した人々も彼らのなかにはかなりおり、ソウル大、コリョ[高麗]大、ヨンセ[延世]大出身も少なからず目につく、教員出身も何名かいる。たとえば、5ヶ国語に精通したチョルラブクト[全羅北道]スンチャン[淳昌]出身のパク・ポンヒョン[朴鳳鉉]は、ヨンセ大学英文科を卒業し、ドイツ語教員を経て、クァンジュ一高の校長までしたことがあるという。彼は、越北したあとも北韓で中学校校長をしたことがあり、1958年から今日まで32年間服役している。

彼らの大部分は60歳以上の高齢者であり、しかも、3名だけを除いてすべて思想転向を拒否しているために、いつも減刑、仮釈放、特別赦免から除外される差別待遇と、矯導所在所者のうちもっとも劣悪な処遇に縛りつけられる差別待遇とを甘受しながら、監獄暮らしをせねばならない。彼らは、ただ人道主義の立場からだけ言っても、監獄から解き放たれるべき人々なのだ。

「本当のスパイ」は本当にスパイなのか

ここに重要な統計数字がひとつある。それは、48名の南派工作員のうち圧倒的多数である32名は南韓出身であるという事実だ(北韓出身12名、「満州」出身1名、未確認3名)。この数字はわれわれに、祖国分断の悲劇を実感させる。

荒っぽく、多少図式的に説明すれば、解放空間(1945年に日本の植民地支配から解放された直後の状況)で左翼的性向の政治、社会、文化運動に参加していた。あの膨大な数の人々は、イ・スンマン政権が確立されつつあった1947年頃からこの地では身の置き所がなくなり、あるいは山へ、あるいは地下へ、あるいは「北」へ逃げざるをえなかった。彼らは、パルチザンになったり、南労党の地下組織運動をしたり、「スパイ」として南に下ってきたりした。しかし、「根」を同じくする彼らのなかでいまだにスパイだけは、この社会において「北の残忍な殺人鬼」でありつづけねばならない厳格なタブーだ。

チョ・ヨンスン老人は叫んだ。「同じ国から同じ国に来た私がどうしてスパイなのか!」この叫びは、48名の南派工作員すべての叫びでもある。彼らが青少年期を送ったのは、日帝時代と解放直後だった。日帝時代には38度線ではなく、解放後に38度線ができたのだが、かなり容易に行き来することができた。38度線が「鉄壁」に変じたのは戦争の結果であり、ちょうどその頃からこの「スパイ」たちの長い監獄暮らしがはじまったのだ。彼らが「同じ国から同じ国に下ってきた」と感じるのはきわめて当然だろう。

チョ・ヨンスンが、解放後、人相見の身分を利用して南労党のために情報収集したことをもってわれわれはそれをスパイだと規定しない。ところが、彼の意識のなかでその活動と全くの同質性と連続性をもって行われた戦争当時の情報工作(ないしは南派)を、われわれは嫌悪と恐怖の目つきで「スパイ」だと呼ぶのだ。チョ・ヨンスンのように、48名の南派工作員たちも、自分のことを決して「スパイ」と意識していないだろう。彼らは、明らかに「祖国分断の元凶であるアメリカと反民族的なイ・スンマン独裁政権に反対して、祖国統一を成し遂げようとした私がどうしてスパイなのか!」と主張するだろう。なんと不幸な時代を生きてきたのだろうか、彼らは・・・。

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