日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki①


東欧革命(とうおうかくめい)は、1989年にソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ(特にワルシャワ条約機構)諸国で共産主義体制が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。

Eastern European Revolution What happened inside power Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki al.  Révolution d'Europe de l'Est Ce qui s'est passé à l'intérieur du pouvoir  Osteuropäische Revolution Was ist in der Macht passiert?
In the fall of 1989, in the midst of an unprecedented political drama of the collapse of Communist Party rule, what kind of logic and speculation were mixed in the power centers of each country, and how did the party executives behave? What came after the dramatic fluctuations? We will approach the truth of the "revolution" with a large number of testimonies obtained from on-site interviews. A must-read book for determining the future of confused Eastern Europe and considering the fate of socialism.
À l'automne 1989, au milieu d'un drame politique sans précédent de l'effondrement du pouvoir du Parti communiste, quel genre de logique et de spéculation se sont mélangés dans les centres de pouvoir de chaque pays, et comment les cadres du parti se sont-ils comportés ? Qu'est-ce qui est arrivé après les fluctuations dramatiques? Nous aborderons la vérité de la « révolution » avec un grand nombre de témoignages obtenus à partir d'entretiens sur place. Un livre incontournable pour déterminer l'avenir d'une Europe de l'Est confuse et envisager le sort du socialisme.
Welche Logik und Spekulation vermischten sich im Herbst 1989 inmitten eines beispiellosen politischen Dramas des Zusammenbruchs der kommunistischen Parteiherrschaft in den Machtzentren jedes Landes, und wie verhielten sich die Parteivorstände? Was kam nach den dramatischen Schwankungen? Wir werden uns der Wahrheit der "Revolution" mit einer Vielzahl von Zeugnissen aus Interviews vor Ort nähern. Ein unverzichtbares Buch, um die Zukunft des verwirrten Osteuropas zu bestimmen und über das Schicksal des Sozialismus nachzudenken.


まえがき
「東欧革命」と呼ばれた、1989年の連鎖反応政変から3年。この間、戦後の東欧をソ連に縛り付けてきたワルシャワ条約機構、経済相互援助会議(コメコン)はともに消滅し、結果として多民族超大国(ソ連)の歴史的解体を誘発した。不確実性に満ちた世界に足を踏み入れた旧ソ連・東欧の中小国家群は、国内の経済危機や民族問題など多様な問題を抱え、呻吟している。
*ワルシャワ条約機構(ワルシャワじょうやくきこう、露: Организации Варшавского договора/Варшавский договор, 波: Układ o Przyjaźni, Współpracy i Pomocy Wzajemnej/Układ Warszawski, 英: Warsaw Treaty Organization/Warsaw Pact Organization)は、冷戦期の1955年、ワルシャワ条約に基づきソビエト社会主義共和国連邦を盟主とした東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟。ポーランドのワルシャワにて設立されたために「ワルシャワ」の名を冠するが、本部はソ連のモスクワであった[1]。「友好協力相互援助条約機構」(ロシア語: Договор о дружбе, сотрудничестве и взаимной помощи)が正式名。
*経済相互援助会議(けいざいそうごえんじょかいぎ、ロシア語: Совет экономической взаимопомощи、СЭВ、SEV)は、1949年にソ連の主導のもとで東ヨーロッパ諸国を中心とした共産主義諸国(東側諸国)の経済協力機構として結成された。西側での通称はコメコン(英語: COMECON- Council for Mutual Economic Assistance の略)。
東欧政変は巷間言われるような「下からの民主革命」だったのだろうかー。あまりにも見事過ぎた政変の連鎖反応を目撃し、筆者らはこんな疑問にこだわり続けてきた。「民主革命」後の体制下で、旧共産党員に対する迫害や出稼ぎ労働者らへの襲撃事件といった社会現象を見て、その疑問はますます増幅された。

たしかに、政変の背景には広範な民衆の不満があった。ベルリンやブカレスト、プラハからテレビ画面を通じ世界の茶の間に飛び込んだ民衆デモの映像は、視聴者に「民衆革命」の印象を十分過ぎるほど与えた。しかし、革命とはまぎれもなく政治劇である以上、権力機構の内側でも、権力移行のプロセスが同時進行していたはずだ。戦後の東欧史は、民族国家喪失の歴史にほかならなかった。東欧の共産党はソ連に国際共産主義運動支援の名目で外貨を上納させられ、軍将官はロシア語を学び、ソ連国家保安委員会(KGB)の将校は89年の政変後さえしばらく、各国内務省に常駐を続けていた。
東欧の政変にはモスクワの存在がなお影を落としている。もっとも、「真理の独占」を否定したゴルバチョフのソ連は、かつての抑圧的作用とは逆に、政変を直接、間接に促進する破壊的要因となった。各国の政変にほぼ共通して見られたのは、党の政治的威信と道徳的権威を回復しようとする改革派ないし民族派共産党員の意思だ。東欧世界を揺さぶり、戦後史転換の契機となった東欧の政変は、共産党が残していた最後の自浄力の発現ではなかったか。
東欧の今を理解し、そのゆくえを考えるためには、あの時何が起きたかを知る必要がある。あれから3年が経過し、政変の真相は当事者たちの口から徐々に明らかになってきた。本書は東欧最後の共産党指導者たちとの直接インタビュー、回想記などで明らかにされた証言をもとに、政変に至る過程における権力の内側での危機感と動揺の深まり、そして独裁を廃したとたん、党権力がジリジリと後退を迫られ、ついに政権の放棄に追い込まれていく様を再構成したものである。
東独、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアの四カ国および終章は三浦が、ポーランドとチェコスロバキアは山崎が担当した。                       1992年10月  三浦元博

             1 分断国家と革命ー東ドイツ
독일 민주공화국(독일어: Deutsche Demokratische Republik 도이체 데모크라티셰 리푸블리크[*], 언어 오류(kp): 독일민주주의공화국) 또는 동독(독일어: Ostdeutschland 오스트도이칠란트[*])은 서독과의 재통일이 이루어지기 전의 독일 동부지역 위치했던 사회주의 국가였다. 동독은 1949년 10월 7일부터 1990년 10월 3일까지 존속했다.

*廃墟からの復活(独: Auferstanden aus Ruinen)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ:DDR)の国歌。ヨハネス・ロベルト・ベッヒャー作詞[1]、ハンス・アイスラー作曲。
最後の砦
1992年3月、旧東ベルリン。ドイツ統一からほぼ1年半たった時期に筆者が訪れた統一ドイツの首都は、東西を分断していた壁が完全に撤去され、東側の道路には特有の二気筒エンジン音と排気をまきちらしていたトラバントに代わって、フォルクスワーゲンやベンツが目立った。だが、いったん横丁に入ってみると、街のインフラ整備は思ったほど進んでいない。傷んだ道路やはげ落ちたアパートの壁、街並のみの陰うつさは、その日が曇天だったせいだけではあるまい。電話事情の悪さも相変わらず。所用でホテルからロンドンにかけようとした国際電話は、何度ダイヤルを回してもつながらなかった。「西側のショーウィンドー」と言われたベルリン西部地区の喧騒とは対照的に、通行人の姿はどこかわびしく、街全体がかつての「東欧」の臭いを色濃く残していた。
*東ベルリン(ひがしベルリン、ドイツ語: Ost-Berlin)は、1949年の東西ドイツ分裂から1990年の東西ドイツ統一まで、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の首都だった都市。第二次世界大戦の終戦後にソビエト連邦が占領したベルリン東部の地域で、ベルリン誕生以来の伝統的な都心部はほとんどが東ベルリンに属した。
*ドイツ再統一(ドイツさいとういつ、ドイツ語: Deutsche Wiedervereinigung、英語: German reunification)は、1990年10月3日、ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland、西ドイツ)にドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Republik、東ドイツ)が編入された出来事である。「東西ドイツ統一」「東西ドイツの統一」「ドイツの東西統一」などとも呼ばれる。
*ベルリンの壁(ベルリンのかべ、独: Berliner Mauer)は、1961年から1989年までベルリン市内に存在した壁である。
*トラバント(Trabant)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)のVEBザクセンリンク(ドイツ語版)社が生産していた小型乗用車である。「トラビ」 (Trabi) の愛称で親しまれた。名称はドイツ語で「衛星」「仲間」「随伴者」などを意味する語。1957年に打ち上げに成功したソ連の人工衛星「スプートニク1号」を賞賛して命名された。

ベルリンを訪れた理由の一つは、北部の旧東独政府迎賓館ニーダーシェーンハウゼン城を自分の網膜に焼き付けたいためだった。30年近く続いた「ベルリンの壁」の崩壊、そして、その後のドイツの統一へと続く歴史ドラマは、89年10月9日の午後、この迎賓館の一室で行なわれた2人の男の対面で幕が上がったのだ。
*Deutschドイツ語⇒Niederschönhausen (German pronunciation: [ˈniːdɐˈʃøːnˌhaʊ̯zn̩] (About this soundlisten), literally "Lower Schönhausen") is a locality (Ortsteil) within the borough (Bezirk) of Pankow in Berlin, Germany.

人が歴史をつくるのか、時の勢いが人を動かすのかは分からない。この迎賓館最後の宿泊客となった人物、ソ連共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフは意識してか知らずか、欧州史の歯車を大きく回転させようとしていた。これに必死で抵抗していたのは、ホストの東独社会主義統一党(共産党)書記長(国家評議会議長)エーリッヒ・ホーネッカーだった。2人の息詰まる対決の背景を知るには、話をこの年の夏ごろにまで戻さなければならない。

*ドイツ社会主義統一党(ドイツしゃかいしゅぎとういつとう、ドイツ語:Sozialistische Einheitspartei Deutschlands, 略称:SED)は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の政党。ドイツ統一社会党と呼ばれる場合もある。

*エーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker, 1912年8月25日 - 1994年5月29日)は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の政治家。ドイツ民主共和国第3代国家評議会議長(在任:1976年 - 1989年)およびドイツ社会主義統一党書記長(在任:1971年 - 1989年)。1989年の東欧革命で失脚した。

ホーネッカーの頑迷
イデオロギー国家
東独国家の特殊性と悲劇は、それが民族国家でないところにあった。1989年の東欧諸国の政変の底流には、共産党改革派であると反体制派であるとを問わず、政治、経済の停滞に対する鋭い民族的危機意識があった。この意識は、それが強ければ強いほど、独裁政権の劇的崩壊過程において、逆に国家統合のモメントとして作用する。
1950年代初め、東欧諸国の民族派共産主義者を襲ったスターリンの粛清の嵐も、56年のハンガリー動乱、68年の「プラハの春」も、つまるところ、ロシア憎悪と国民の民族的自覚を強める結果になった。民族的自覚こそ、東欧諸国の改革を底辺で支えた重要な要素だった。
これに対し、東独はまさに分断された片肺国家であるが故に、改革の契機を見出せなかった。東独が民族国家でなかったことが、民族的危機意識をバネに改革に着手することを妨げた。逆に、改革は国家そのものの崩壊の危険を内包していた。次章で見るハンガリーの国境柵撤去(89年5月)を引き金に、東独国民のハンガリー経由西側への流出が東独政権を混乱と動揺に突き落としていたころ、社会主義統一党のイデオローグである党社会科学アカデミー総裁オットー・ラインホルトOtto Reinholdは「ドイツ民主共和国(東独)が資本主義化したら、資本主義の連邦共和国(西独)と並んで存在する理由はなくなろう」と率直に述べた。ラインホルトは「東独と他の社会主義諸国の間には、極めて明瞭な本質的差異がある」としたうえで、「(他の社会主義国の)国家の本質は、その政治システムを拠りどころとはしていないのだ」と指摘した。
この見解は東独指導部のジレンマを的確に表現していた。第二次大戦後の欧州分断の結果として誕生した。
”第二のドイツ”東独のアイデンティティーは民族にではなく「社会主義イデオロギー」そのものにしかなかった。改革の結果、体制が西独のそれに近似することは、とりも直さず国家の存在理由の消滅、すなわち国家の崩壊を意味した。
東独指導部は国民の流出の波に対し、なす術がなかった。書記長ホーネッカーは89年7月初め、ブカレストのワルシャワ条約機構政治諮問委員会(首脳会談)の途中、急性胆のう炎で帰国し、療養生活に入った。8月11日、いったん政務に復帰するが、15日の政治局会議を最後に手術に備えた休養に入り、以後、指導者不在の時期が続いていた。

*エゴン・ルディ・エルンスト・クレンツ(ドイツ語: Egon Rudi Ernst Krenz, 1937年3月19日 - )は、旧東ドイツの政治家。国家評議会議長でドイツ社会主義統一党書記長。
排除された後継者
夏の間の書記長不在は、東独の政治を麻痺させ、危機を一層深める結果となった。当時ナンバー2で書記長後継者と目されていた政治局員エゴン・クレンツもこの夏の危機の間、政治活動から遠ざかっていた。ホーネッカーはクレンツに「休暇」を命じ、療養中の政務全般を保守派の長老政治局員ギュンター・ミッタークに委ねており、ミッターク以外の党幹部を病床に近付けなかった。
*Deutschドイツ語⇒Günter Mittag (* 8. Oktober 1926 in Stettin; † 18. März 1994 in Berlin) war von 1966 bis zum Herbst 1989 Mitglied des Politbüros des Zentralkomitees der SED.
東独指導部の内部に反ホーネッカーの動きが出てくるのは、ちょうどこの時期である。治安・青年問題を担当するクレンツは、ホーネッカーが8月11日、ベルリンに戻った際、次回政治局会議で焦眉の課題である国民の出国問題を討議するよう提案、中央委書記局にまとめさせた状況報告書を提出した。これに対し、ホーネッカーは、「それで、どうするつもりかね。なんのために出国者数の統計なぞ出すのか。それがどうした。壁を築く前に逃げた連中ははるかに多かったよ」と、提案をほとんど意に介さなかったという。
老書記長はクレンツに「休暇に入ってよろしい。ゆっくり休みたまえ」と言い渡した。クレンツはこの後、10月1日の中国建国記念式典に出席するため9月末、北京を訪問するまで、バルト海沿岸の保養地に遠ざけられた。
ホーネッカーが政務に復帰するのは9月25日。翌26日、6週間ぶりに政治局会議を主宰したホーネッカーが提案した議事は、約10日後に迫った東独建国40周年式典の準備であり、深刻な政治問題を取り上げる姿勢は片鱗すら見せなかった。記念式典の効果的演出こそ、この時期、ホーネッカーの最大の関心事であった。自己の”業績”に酔い、現実を見る目が曇る独裁者共通の性向を、ここに見ることができる。
東独政府は30日、プラハの西独大使館に立てこもっていた東独国民5000人の、列車による西独移住を認めたが、これも建国記念日を汚す目障りな問題を片付けておこうという意図から出たに過ぎなかった。ホーネッカーは前日の29日、チェコスロバキア共産党書記長ヤケシュに電話し、東独との友好に讃辞を述べるとともに、大使館内の市民を東独の列車で西独へ移送する旨、通知した。ホーネッカーは、決定理由を「(建国記念日)7日までに片付けるには、これしか方法がない」と説明してはばからなかった。難民の移送が終了した後の10月3日、東独政府がチェコとの査証免除協定を停止、国境を閉鎖したのは当然の措置だった。

アイデンティティーの発見
党幹部の危機感は強まった。改革を求める党下部組織と党外の要求は日増しに強まり、ハンガリー政府が東独国民に対しオーストリア国境の開放を発表したのと同じ日の9月10日、反政府市民団体「新フォーラム」が発足し、政府の活動禁止にもかかわらず、国民運動の求心力として急速に影響力を伸ばしつつあった。このグループはあらゆる社会問題解決のため、政党、宗教の枠を超えた協力を呼び掛けていた。ホーネッカーは、「祖国を棄てる国民に対して涙はいらない」と叫んだが、不満分子を事実上国外追放することで難局を乗り切れると考えていたとするならば、新フォーラムの誕生は政権の”棄民政策”に対する鮮明なアンチテーゼであった。
*新フォーラム(ドイツ語: Neues Forum)は、ドイツの市民団体、政治団体もしくは政党。ドイツ民主共和国(東ドイツ)の民主化運動のなかで結成された。
10月2日、南部の東独第二の都市ライプツィヒで始まり、その後恒年化する「月曜デモ」では、新フォーラムの合法化要求や「ゴルビー!」のシュプレヒコールに混じって「われわれは国内にとどまる」が、合言葉の一つになっていく。フォーラムの指導者ベルベル・ホーライは当時、イタリア共産党機関紙「ウニタ」に国家を内側から改革しようというフォーラム運動の本質を次のように語った。


*ライプツィヒ(ドイツ語: Leipzig.Leipzig)は、ザクセン州に属するドイツの都市である。人口は約60万人。ザクセン州では州都ドレスデンをやや上回って最大の都市で、旧東ドイツ地域ではベルリンに次いで2番目である。
「それ(「国内にとどまる」という合言葉)は、思想の違う人間は国を去るしかないという原理への反抗なのです。われわれは国内において、自分自身の生活の責任を引き受けたいのです。西側の消費物資がすべて手に入るわけでもないのに、これまでみなが消費社会を真似しようとして西側を向いていた国で、われわれが自己のアイデンティティーを発見したということだと思います」

ゴルバチョフの引導
ロシアの諺
ホーネッカーが社会主義と東独国家の不滅性を誇示する舞台にしようとした「建国40周年記念日」は、各国指導者や外交団を集めた表向き盛大な式典とは裏腹に、政権の危機を決定的に深化させる結果となった。
ソ連共産党書記長ゴルバチョフを乗せた特別機は、式典前日の10月6日午前10時半、ベルリンのフェルト空港に着陸、ゴルバチョフとライサはホーネッカー夫妻の出迎えを受けた。
翌日、市内の軍事パレードが終わると、夜の祝賀会に先立ち、ゴルバチョフは宿舎となっていたベルリン北郊の迎賓館、ニーダーシェーンハウゼン城で東独党政治局との会合に臨んだ。最初に挨拶に立ったゴルバチョフは、ソ連のペレストロイカの現状をつぶさに報告した。後にホーネッカー批判と受けとられるロシアの諺「遅れて来る者は人生に罰せられる」を引き合いに出したのは、この演説だ。
政治局員(ベルリン地区党委第一書記)シャボフスキは、ゴルバチョフはあくまでソ連の改革について報告したのであり、この一言がホーネッカーに向けられたものとは受け止めていない。しかしクレンツは回顧録「壁が崩壊する時」(1990年)の中で、このエピソードに触れ、ゴルバチョフはこの諺を引用した際、あたかもだれが自分の真意を理解したかを確かめるように、周囲を注意深く見回したと語っている。ゴルバチョフのこの発言がホーネッカーに向けたものであったのかどうか、今一つはっきりしない。仮に批判を込めていたとしても、外交儀礼のオプラートで包んでいたのは当然で、ホーネッカー本人も含め、東独側はそれほど痛烈なさや当てとは感じなかったに違いない。

*ギュンター・シャボフスキー(ドイツ語: Günter Schabowski, 1929年1月4日 - 2015年11月1日)は、東ドイツのドイツ社会主義統一党(SED)の政治家、ジャーナリスト。
シャボフスキによると、ゴルバチョフの意向を全員がはっきり察したのは、ホーネッカー演説に対しソ連の指導者が見せた冷笑だった。自国の率直な現状分析をしてみせたゴルバチョフとは正反対に、ホーネッカーは東独の発展をとうとうとまくし立て、ソ連にも東独が開発したマイクロチップの共同生産に参加するよう呼び掛けた。
ところが、演説が終わると、ゴルバチョフは軽蔑と失望が混じったような薄笑いを浮かべ(「大変有益な会談でした。私たちの意見の一致が確認できたのですからEs war ein sehr informatives Treffen. Wir konnten unseren Konsens bestätigen(ホーネッカーHonecker)」「そんなことを言っていると、部下から批判を受けますよЭто то, что я сказал. Если вы это сделаете, вы будут критиковать ваши подчиненные (ゴルバチョフГорбачев)」)、一党を見渡した。続いて洩らした舌打ちの音は、だれにもはっきりと聞き取れ、会議場に気まずい雰囲気が流れたという(「ところがひとりだけそれに気がつかない大馬鹿者がいました。ホーネッカーですAber da war ein großer Idiot, der es nicht bemerkt hat. Honecker(シャボフスキーSchabowski政治局員Politisches Präsidiumsmitglied)」)

蒼白のホーネッカー
実はゴルバチョフは全体会議に先立つ差しの会談の席で、老指導者に引導を渡していた。東独側の政治局員らがパレード会場からニーダーシェーハウゼン城の控えの間に到着したあと、しばらく経ってもホーネッカーとミッタークが姿を見せない。ゴルバチョフとの会談が行なわれていることは、だれもがずぐ感づいた。外交儀礼からして会議に出席すべき首相シュトフは、にがにがしい表情だった。ミッタークに出し抜かれたクレンツもまたナンバー2としての面子を潰された。政権の禅譲があったとしても、自分にはチャンスが回ってこないことは、これではっきりした。

*ヴィリー・シュトフ(Willi Stoph, 1914年7月9日 - 1999年4月13日)は、東ドイツの軍人、政治家。閣僚評議会議長(首相)(1964年-1973年、1976年-1989年)、国家元首である国家評議会議長(1973年 - 1976年)を務めた。国家人民軍上級大将。
差しの会談は30分で終わったが、シャボフスキの回顧録『転落』(1991年刊)によると、会談の部屋の外で、ゴルバチョフ番の1人のタス通信記者が会談の終了を待っていた。この記者が目撃したところでは、部屋を退場するゴルバチョフに従うホーネッカーの表情は緊張し切っており、ボスに声を掛けるミッタークに反応する余裕さえなかった。ゴルバチョフが「改革か、引退か」を迫ったことは十分あり得る。ボスに忠義立てし、後継を狙っていたミッタークは後、政治局のホーネッカー退陣動議に真っ先に賛成を表明するが、この時の会談で風向きの変化に気づいたに違いない。
この夜、かつて正体が明らかなことから、西側で「顔のない男」の異名をとった元国家保安省対外情報部長マルクス・ウォルフは、記念式典会場でゴルバチョフの懐刀であるソ連・党国際部長ファーリンと会っている。ウォルフは87年に引退していたが、この年初めから西側マスコミとのインタビューに登場、ゴルバチョフ支持の発言が注目を集めていた。彼の回想記によると、ファーリンは昼間の首脳会談について、ゴルバチョフが通常あり得ないほど突っ込んだ話をしたことを明かし、「あとは(東独の)政治局次第だよ」と言い切った、という。


*マルクス・ヨハネス・ヴォルフ(Markus Johannes Wolf, 1923年1月19日 - 2006年11月9日)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の高級官僚。ソビエト、モスクワに亡命中、ミハイルと呼ばれていたため、ミーシャという渾名がある。東ドイツの秘密警察・諜報機関シュタージ(略号: MfS)内の対外諜報機関HVA(ドイツ語版)の長官、最高責任者を34年間(1952年12月 - 1986年5月30日)[1]務めた伝説的なスパイ・マスター。
この日の夜、各国国家元首とベルリン駐在外交団を招待したレセプションが共和国宮殿で開催されると、市民数千人がゴルバチョフの名を叫んで改革を求めるデモを敢行。警察部隊は強圧手段に訴え、数百人が逮捕されてしまった。ゴルバチョフはレセプション終了後、会場から空港に直行、そそくさとモスクワに帰還してしまった。クレンツはゴルバチョフが玄関で車に乗り込む際、周りにいた東独側の党幹部の何人かに「行動したまえ」と囁いたと言っている。出来過ぎた話ではあるが、この日の出来事が東独党内にホーネッカー退陣への最初のシナリオを送ったことは確かである。辞任は10日後に迫っていた。
プリンスの造反
政治局声明
社会主義統一党政治局は10月11日、国民との党改革の必要を初めて認めた政治局声明を発表する。声明は、「社会主義はすべての人々を必要とし、すべての国民にとっての場所と展望を有する。社会主義は成長し来る諸時代の未来である。まさにそれ故に、われわれは、ここに生きかつ働いた人々がドイツ民主共和国と決別してしまったことに無関心ではいられない。・・・かれらには友人、同僚、婦人があったし、彼らを必要とし、彼らもまたそれを必要とするところの故郷があった。その(決別の)原因は多様であり、われわれ各自が自分の場で、ひざ元にも理由を探さなければならない。・・・われわれは次回中央委員会において、党および全国民に対し、継続性と革新の戦略的概念をめざし、そのための提案を行なうであろう。・・・われわれには討論の用意がある」と宣言した。
翌日の党機関紙『ノイエス・ドイチュラント(新ドイツ)』の一面に掲載された声明は、東独国民の西側への流出の背景に、東独政治体制の行き詰まりがあることを事実上認めた。これはとりも直さず、「出国者は祖国の裏切り者」というホーネッカーの認識を真っ向から否定するものだった。
*ノイエス・ドイチュラント(ドイツ語: Neues Deutschland、新しいドイツ)は、ドイツの日刊紙である。元々、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の支配政党であったドイツ社会主義統一党(SED)の機関紙として創刊され、論調も当然ながら社会主義統一党の見解に沿ったものであった。ドイツ再統一後も存続しており、社会主義統一党の後継である左翼党 (ドイツ)を支持している。

クレンツの反抗
声明の草稿を書いたのはクレンツである。クレンツは10月初め、北京からの帰国途上、機内で草案作成を進め、建国記念日翌日の8日午前、国家保安省で治安問題の会議があった際、出席していたベルリン地区党委第一書記シャボフスキに密かに手渡している。クレンツはこの日午後、ホーネッカーに草案を届け、火曜日(10日)の定例政治局会議に諮るよう要請した。書記長は直ちに電話で「この声明は自分に向けられたものだ」と反発し、政治局の議題として取り上げることを拒んだ。
クレンツはベルリン地区党委にシャポフスキを訪れ、「エーリッヒ(ホーネッカー)はかなり不機嫌だ。提案は政治局に上げないというんだ」と泣き言を言っている。シャポフスキ「それは最初から分かっていたことだ。それでどうした?」クレンツ「おれは、声明はむしろ遅すぎたぐらいだと訴えたのだ。ところが、彼はよく考えるべきだというのだ。明日、おれともう一度話そうというんだ」シャポフスキ「エゴン(クレンツ)、よくやったぞ。君は譲らなかったのだな。賽は投げられた。もう後戻りはできないぞ」
翌日、シャポフスキに叱咤されたクレンツは再び党本部二階の書記長室でホーネッカーの説得を試みる。ホーネッカーは「声明は党の分裂を招くばかりか、君にも重大な責任が降りかかることになるぞ」と脅し、声明を持ち出すならクレンツを後継に推薦しないとまでほのめかした。しかしクレンツは独断で草稿の事前配布に踏み切った。永らくホーネッカーの”子飼い”と言われた気弱なクレンツが、書記長に対し初めて見せた公然の反逆だった。シャポフスキとクレンツには政治局の多数派を獲得し得るとの読みがあった。
政治局会議は10月10日、定例の10時に始まった。政治局の大勢が声明承認に傾いていることをみてとったホーネッカーは、ミッターク、ヨアヒム・ヘルマンJoachim Herrmann、クレンツの3人に最終案の作成を付託するよう提案、クレンツがすかさずシャポフスキをも加えるよう要請すると、ホーネッカーは不承不承同意した。
起草委メンバーはヘルマンの執務室で最終文書の作成に入ったが、風向きを知っていたミッタークもヘルマンも、ホーネッカーの意を受け建国40周年記念演説の内容を一部挿入するよう提案しただけで、声明草案に本質的な変更を加えようとはしなかった。翌11日、続開政治局会議が声明を採択し、ホーネッカー退陣への外堀は埋まった。

*ハンス・モドロウ(ドイツ語: Hans Modrow, 1928年1月27日 - )は、ドイツの政治家。2007年より左翼党の名誉議長を務める。ドイツ民主共和国(東ドイツ)の最後の共産系首相で、「東ドイツのゴルバチョフ」と呼ばれた。
Xデー
モドロウの激怒
声明発表を阻止できなかったホーネッカーはしかし、なおも抵抗を試みる。ホーネッカーは12日、形勢の一気逆転を図る狙いでベルリンに中央委書記・全国第一書記会議を招集した。

ホーネッカーは延々2時間にわたる冒頭挨拶で、またも東独40年の業績を強調し、国家が直面する諸問題はすべて北大西洋条約機構(NATO)の攻撃から生まれていると非難した。しかし、ホーネッカー演説は、のち首相となるドレスデンの第一書記ハンス・モドロウらの激しい反発を招く結果になった。ホーネッカー批判の口火を切ったモドロウは、「書記長発言が、2日間に及んだ政治局会議の結論なのか。だとするなら、指導部は自らの機能不全証明を書くべきだ」と語調荒く切り出し、プラハから列車で東独市民を西独に移送した9月末の政治局決定が、中軸地点にあるドレスデンに混乱をもたらしたことを強く批判。ポツダムの書記からは書記長辞任を暗に求める発言も飛び出し、ホーネッカーの目論見は完全に外れた。
*北大西洋条約機構(きたたいせいようじょうやくきこう、英:The North Atlantic Treaty Organization[2]、NATO, [ˈneɪtoʊ](発音はネイトウに近い[3]); フランス語: Organisation du traité de l'Atlantique nord, OTAN)は、北大西洋同盟とも呼ばれ、ヨーロッパと北米の30カ国による政府間軍事同盟である。

*ドレスデン(独: Dresden、ドイツ語発音: [ˈdʁeːsdən])は、エルベ川の谷間に位置する、ドイツ連邦共和国ザクセン州の州都である。
*ポツダム(Potsdam)は、ドイツ連邦共和国ブランデンブルク州の郡独立市、州都である。
反ホーネッカー派はこの会議の結果、俄然、勢いづいた。会議後、モドロウと言葉を交わしたクレンツは、「政治局じゃあんな激しい書記長批判があったためしはないよ。これで人事問題を提起することができるだろう」と述べ、モドロウに讃辞を送った。会議がホーネッカーのペースで進んでいれば、政治局声明起草の首謀者クレンツは孤立し、破滅の淵に立たされるところだった。
次回の定期政治局会議は17日である。この日を「Xデー」と定めた反ホーネッカー派は、いよいよ書記長引退への段取りに入った。クレンツは首相シュトフと連絡をとり、支持を確認。老齢のため既に引退を考えていたシュトフは、政治局会議で自分が書記長引退の発議役を買って出る意思を表明していた。
知っていたゴルバチョフ
15日夜、自由ドイツ労組同盟議長兼政治局員ハリー・ティッシュの自宅にクレンツ、シャポフスキが集まった。その際の打ち合わせで、ソ連への「事前報告」はティッシュが担当することが決まった。翌日、ソ連労組評議会の招待でモスクワを定例訪問したティッシュは、行事の合間をぬってクレムリンでゴルバチョフとあわただしく会見し、ホーネッカー引退のシナリオを知らせた。報告を聞き終えたゴルバチョフは「成功を祈る」と短く返答し、ホーネッカー追放計画にソ連としての支持を保証したという。


*Deutschドイツ語⇒Harry Tisch (* 28. März 1927 in Heinrichswalde, Kreis Ueckermünde; † 18. Juni 1995 in Berlin) war ein deutscher Politiker in der DDR. Er war Mitglied des Politbüros des Zentralkomitees der SED und Vorsitzender des Freien Deutschen Gewerkschaftsbundes.
*自由ドイツ労働総同盟(じゆうどいつろうどうそうどうめい ドイツ語: Freier Deutscher Gewerkschaftsbund、略称:FDGB エフデーゲーベー)は、かつてのドイツ民主共和国(東ドイツ)唯一の労働組合中央組織(ナショナルセンター)である[1]。
同じ頃、ベルリン駐在ソ連大使チェマソフもシャポフスキから電話で計画を打ち明けられている。60年代後半、ソ連共産大学で学んだシャポフスキは、ソ連大使からシュトフに駄目押しの”圧力”をかけてくれるよう流暢なロシア語で暗に依頼したのだった。ソ連大使が介在することで、ホーネッカー引き降ろし工作は成功を約束されるはずだった。
書記長解任
17日午前10時、中央委の政治局会議室で定例会議が始まった。シャポフスキらは、会議の様子を詳しく証言している。最後に入室したホーネッカーが外遊中の国防相ケスラーを除く全政治局員、同候補24人と握手を交わし終えると、全員着席し、議事が始まった。司会は書記長である。ここまではいつもと変わらない光景だった。当日の議題はむろん、幹部人事は入っていない。
*ハインツ・ケスラー(Heinz Keßler, 1920年1月26日 - 2017年5月2日)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の軍人、政治家。国家人民軍航空軍司令官、国防相、人民議会議員などを務めた。最終階級は上級大将。
しかし、ホーネッカーが日常の党務に関する議題に入ろうとすると、突然、首相シュトフが割って入った。「エーリッヒ、ちょっと発言が」一瞬驚いた表情のホーネッカー。党の序列はカースト的である。一政治局員が書記長の議事進行の膝を折るなど、前代未聞の珍事だった。シュトフは淡々とした口調で続けた。予定通りの行動だった。
「ホーネッカー同志の書記長職解任およびミッターク、ヘルマン両同志の解職を提案したい」ミッタークは経済担当書記として、ヘルマンは宣伝担当書記として、詰め腹を切らされることになった。国民の不満は経済の崩壊と、新フォーラムなど非公認組織への攻撃を続けるマスメディアに向けられていた。ミッターク、ヘルマンとも自ら動議に賛成を表明した。全員発言となり、堰を切ったように飛び出す批判にも、老書記長は顔色一つ変えなかった。ただ一度、国家保安相ミールケが「暴露してもいいんだが・・・」と、書記長の不平を示唆する発言をすると、「じゃ、言ってみろ!」と色をなして叫んだという。
ホーネッカーは自らの解任動議を採決にかけざるを得なかった。ホーネッカー自身も含め全員が解職を支持、クレンツを後継とすることが決まった。翌18日の党中央委の冒頭、ホーネッカーは「健康上の理由」で引退を表明した。声明案文はクレンツとの協議で準備したものだった。
党書記長としての最後の短い挨拶で、ホーネッカーは「私は全生涯を労働者階級の革命的事業とドイツの地に社会主義を打ち立てるというマルクス・レーニン主義的世界観に捧げてきた」と強調し、「社会主義ドイツ民主共和国の建設と発展は、わが党および私自身の共産主義者としての闘いの総仕上げであった」と力説。最後まで”正統派”としての頑迷な姿勢を見せつけた。ドイツ的謹厳さのなせる業か、改革の流れに最後まで抵抗し、その剛直性において東欧諸国指導者の中でもひときわ異彩を放っていたホーネッカーは、こうして歴史の舞台を去った。
中央委は党書記長、国家評議会議長、国防会議議長からの解職を満場一致で承認した。「ホーネッカー退陣」のニュースは同日夕、国営通信ADNを通じ、初めて発表された。世界はゴルバチョフより2日遅れてホーネッカー退陣を知らされたことになる。
*ADNアーデーエヌAllgemeine Deutsche Nachrichtendienst前身は東ドイツの国営通信社 GDR。ナチス・ドイツの通信社 DNBに代って,1946年,ソビエト占領地区に創設され,ドイツ民主共和国の発足とともに国営通信社となった。 90年の東西ドイツ統一で有限会社に転じた。
展望欠くクレンツ
新書記長クレンツは同夜、国営テレビで1時間にわたる演説を行なった。クレンツは「われわれは過去数ヶ月、わが国における社会情勢の展開を本質において、十分現実的に評価せず、また時宣を得た正しい結論を引き出してこなかった」と党指導部の誤りを認め、「われわれは本日をもって、転換を始める。とりわけ政治的・イデオロギー的攻勢を再び取り戻すのだ」と力説した。
だが、クレンツは若者の国外流出を「大きな出血」と認め「だれしも多くの親たちの涙を感じる」と述べ、出国規制の緩和を予言したほかは、なんら具体的な改革プログラムを示せなかった。むしろ、演説の端々に党の公式的表現が目立った。曰くー
「われわれの前にある真実は、社会主義が資本主義に対する唯一の選択肢だということだ。・・・社会主義統一党なくして、ドイツ民主共和国はない。・・・わが共和国はわが党の指導下、あらゆる階級、階層の民主社会であったし、現在も、そして未来もそうあり続けるだろう」「党の伝統的強さである、国民との信頼関係が絶大であることを看破することはできない。そこから、われわれは自らの仕事のため自己批判的結論を導く。しかし、国内外の社会主義の敵が、ここから利益を引き出す試みを一層強めていることも見過ごしてはならない」
演説は、ホーネッカー解任が党指導部に対する党内外からの批判を取り除くことにあったことを問わず語りに示している。党の危機を食い止め、「ホーネッカーなき党」の独裁権力を手つかずのまま温存すること、これが最大の狙いであった。複数政党制も自由選挙の公約もなかった。だが、現実の情勢は党指導部の思惑をはるかに超えていた。20日、ドレスデンで1万人のデモがあったのを皮切りに、23日のライプツィヒの月曜デモは、過去最大の30万人が参加、クレンツ体制にはっきりと不満を意思表示した。シャポフスキは26日、ベルリンで党幹部として初めて新フォーラム代表と会談した。勢いづいた民衆デモは全国各地に波及し、11月4日には首都ベルリンで東独史上最大の100万人規模のデモが起き、発足間もないクレンツ体制を窮地に追い詰めていった。

「壁」の崩壊
クレンツの改革プラン
党中央委は11月8日、総会を開き、クレンツ以下全政治局員がいったん辞任、新たに新指導部を選出した。ヘルマン・アクセント、クルト・ハーガー、国家保安相ミトルケ、人民議会議長ホルスト・ジンダーマン、首相シュトフ、労組同盟議長ティッシュら9人は自ら引退、投票で11人の政治局員を選出し、クレンツ、シャポフスキ、ケスラーら7人が留任、ドレスデンのモドロウら新人が加わった。モドロウはシュトフに代わって新首相候補に指名された。

指導部人事に続いて、基調報告に立ったクレンツは、ここで初めて一連の改革プランを明らかにした。クレンツはまず「現在の権力構造は民主的には十分機能していない。社会主義的民主主義の発展は、実際に民主集中制と中央集権的国家計画により抑圧されてきた」と認め、政治面では、①党と政府の分離、②集会・結社法の整備、③メディア法制定、④秘密警察を保障する選挙法の制定ーなどを打ち出した。また経済改革でも「市場の刺激機能と社会主義的計画の長所を調和させる」とし、市場原理導入に道を開く方向性を示した。
今総会の重要日程は初日で終了、9日は一般討議を続けた。だれも予期しなかった歴史的な情勢の急変は、9日夕に起きた。1961年に構築された「ベルリンの壁」を含め、東西ドイツ国境が突如開放されたのである。
出国暫定規制
クレンツは8日の基調報告で、出国制限緩和に向けた東西ドイツの専門家委員会の設置を呼び掛けていた。この事実からすると、東西ドイツ側の自由往来が実現するのは、当分先のことのように思われた。しかし、実は国境開放は目前に迫っていたのだった。クレンツの話を聞こう。
9日未明、自宅のベッドから消耗し切った体を引きずるように起き上がったクレンツは、気分転換のため、霧雨の中、ジョギングで軽く汗を流した。午前8時前には党本部の執務室に到着、前日の中央委総会の幹部人事や自分の演説、臨時党大会の開催を求めるベルリンの下部党員のデモを伝える朝刊各紙に目を通した。机上に山と積まれた郵便物を整理し終えたのは9時半。10時の中央委再開が迫っていた。
午前の討議が終了すると、クレンツは休憩の合間をぬって、党本部の斜め向かいにある国家討議会に駆け付け、西独ノルトライン・ウェストファーレン州首相ヨハネス・ラウとの会議に臨んだ。ラウの関心は当然、新旅行法案の行方に集中した。クレンツはこの時「両独国家と東西ベルリンの境界を開放する決定が今日にも下されることを、ラウに伝えてしまおう」との誘惑に駆られたと語っている。
*ノルトライン=ヴェストファーレン州(標準ドイツ語:Nordrhein-Westfalen [ˌnɔrtraɪ̯nvɛstˈfaːlən] , 低ザクセン語:Noordrhien-Westfalen)は、ドイツの16ある連邦州の一つである。

*ヨハネス・ラウ(Johannes Rau, 1931年1月16日 - 2006年1月27日)は、ドイツの政治家。所属政党はドイツ社会民主党。ノルトライン=ヴェストファーレン州の州首相(1978年 - 1998年)。第8代連邦大統領(1999年7月1日‐2004年6月30日)。国民的人気が高く、移民・難民受け入れに関しても積極的な発言を続け、ドイツ・トルコ間の親善にも尽力した。また2000年にドイツの元首としては、初めてイスラエル国会でドイツ語の演説をした。これ以外にキリスト教的倫理観の立場からクローンなどの生命倫理に関する問題への発言も多かった。
政府は6日に新施行法案を発表していたが、法案は国民全員に少なくとも年1回、30日の国外施行を認め、旅券は申請から30日以内に発給すると定めながらも、出国の際は出国ビザの取得を義務付け、国家の安全保障、公共の秩序を乱す恐れがある場合、国外旅行を制限するなど、様々な留保条件を付けており、党内からさえ批判があった。
後に党議長となるユダヤ人弁護士グレゴール・ギジは、シャポフスキから10月末完成した草案を見せられ、即座に一笑に付している。ギジは「国が出国を許可するという慣行は全廃するべきだ。出国ビザなど余計だ。すべての市民の旅券を発給するんだ。その上で、相手国の入国ビザを取得できるかどうかは、それぞれ個人の問題なのだ」と法律家らしい鋭い批判を加えたという。法案は公表の翌日、案の定、人民議会で否決されてしまった。
議員の否決に出会ったクレンツは、首相シュトフに対し、新法成立までの間、これに代わる暫定規則を至急まとめるよう指示していた。クレンツはシャポフスキを介し、ギジの批判のポイントを聞かされていた。そして、「ベルリンの壁」崩壊を告げる暫定規則は、この日仕上がることになっていたのだ。午前の中央委討議が始まる直前、シュトフは政府がまとめた暫定規則案をクレンツに手渡したという。同案の要点はー
ー、1988年11月30日の国外旅行に関する法令は、新旅行法が発効するまでの間、適用されない。
ー、旅行および国外移住に関する次の暫定的経過措置が直ちに発効する。
①外国旅行は(旅行目的・親戚関係など)諸条件を提示することなく、申請できる。②警察の旅券・登録部門は、国外移住のための出国ビザを遅滞なく発給するよう指示される。③国外移住に際して、両独国境ないし東西ベルリンのすべての検問所を使用できる。
ー、この暫定的経過措置については、添付の報道機関資料が11月10日に発表される。クレンツは原案を中央委で読み上げた。原案は「暫定的」の文言を削除した上で承認された。暫定措置となると、先行きに不安を感じた市民が警察に殺到し、無用の混乱を招きかねないという配慮からだった。

*グレーゴール・フローリアーン・ギージ(Gregor Florian Gysi, 1948年1月16日 - )は、ドイツの政治家。左翼党所属。1989年に東ドイツ(ドイツ民主共和国)の支配政党であったドイツ社会主義統一党が改組して結成された民主社会党(PDS)初代議長(党首)に就任した。
錯覚
シャポフスキは時計を眺め、外国人記者連中が詰めているモーレン通りのプレス・センターでの記者会見に戻る頃合いを見計らっていた。85年まで党機関紙『ノイエス・ドイッチュラント』の編集長を務めたジャーナリスト上がりで、弁舌のシャープさに定評のある彼は、党スポークスマン役として、マスコミや在野勢力との応対を巧みにこなしていた。シャポフスキはクレンツに小声で退席する旨を告げたが、クレンツとシャポフスキの証言は、多少食い違っている。クレンツによると、シャポフスキは出国に関する規則を記者会見で発表してよいかどうか書記長に尋ねた。クレンツは「もちろんだとも。国際的ニュースじゃないか」と答え、ゴーサインを出したという。
一方、シャポフスキの回想によると、クレンツは書類挟みに報じたA4判2枚を手渡し「こいつを発表しろよ。こいつは大当たりするぞ」と言ったという。シャポフスキが手にした書類は言うまでもなく、新旅行規則の政府案であった。シャポフスキは、中央委でクレンツが同案を読み上げた際、閣議決定済みだと錯覚していた。しかし、実際には未決の書類であった。クレンツはラウとの会見を終え、午後の中央委が始まる3時半直前に原案を手にし、そのまま中央委に出席、口頭で原案を報告した。150人を超す中央委員にコピーを作成する暇はなかった。口頭説明もまた、錯覚を起こさせる一因であっただろう。クレンツとしては、シャポフスキが陥っている錯覚に気付くはずもなく、新規則の概要を説明することに同意しただけのつもりだったかも知れない。
「遅滞なく」
約1時間の記者団へのブリーフィングは午後6時に始まり、終わりに近づいていた。記者団の質問に答える形で、シャポフスキは新規則に関する報道機関用資料を読み上げた。シャポフスキ自身、声明を読みながら、東西ベルリンに触れた箇所に来て初めて、一抹の不安にとらわれたという。ベルリンの地位にかかわる問題は東独政府が勝手に決定できないはずなのだ。しかし、シャポフスキは発効時間を確認する質問にも「私の情報が正しければ”遅滞なく”ということです」と答えるしかなかった。
中央委で承認された政府原案は、前述のように「11月10日発表」を想定していた。むろん、この部分は発表の手順を内輪で確認したものに過ぎず、シャポフスキが読み上げた実際の記者発表用資料には記載されていない。政府原案の第二項にある「直ちに発効」のくだりは、発表予定の当日、すなわち10日を想定していたのだ。クレンツは、この行き違いをシャポフスキの「ちょっとした勘違い」だったと言っている。
国営通信側は同夜、シャポフスキ発言を後追いする形で、暫定出国規則を閣議決定したとの政府スポークスマン発表を流した。暫定出国規則はビザの早期発給を約束していたが、実際の運用に当たっては、身分証明書にスタンプを押すだけの簡便化措置がとられた。テレビ演説した内相ディッケルは「出国ビザは旅券に、あるいは旅券を取得していない市民の場合、身分証明書に記入される」と述べ、これは暫定措置ではなく、恒久的措置であると保証、ポツダム広場など新たに通過箇所を開設すべく西ベルリン当局と協議中であるとして、平静を訴えた。ビザを事実上廃止することにより、暫定規則そのものさえ空文化し、東西の通行は一気に完全自由化されてしまったのである。

*ヘルムート・ヨーゼフ・ミヒャエル・コール(Helmut Josef Michael Kohl、1930年4月3日 - 2017年6月16日)は、ドイツ(旧西ドイツ)の政治家。戦後最長記録の16年にわたって連邦首相を務めた(在任1982年 - 1998年)。冷戦終結の波に乗り、1990年に東西に分裂していたドイツの再統一を成し遂げ、時の人となった[1]。
失われた権力
クレンツの重荷
「ベルリンの壁」がこれほどあっけなく開くとは、西独首相コールを含め西側のだれも予想していなかった。コールはこの日、ポーランド公式訪問のため5日間の予定でワルシャワ入りしたばかりだった。本国からの連絡で、シャポフスキの発表を知ったコールは翌日午後、訪問日程を中断し、ハンブルクから米軍機に乗り継ぎベルリンに入った。
*ハンブルク(ドイツ語: Hamburg [ˈhambʊrk][1]、低ザクセン語・低地ドイツ語: Hamborg (Hamborch) [ˈhaˑmbɔːχ])は、ドイツの北部に位置し、エルベ川河口から約100kmほど入った港湾都市。
ベルリンでは9日夜、東側の市民が同市を南北に隔てる壁に殺到した。国境警備隊はむろん、事前の指示を受けていない。国家保安相ミールケはクレンツに電話連絡し、状況を報告、指示を仰いだ。クレンツは「1日の違いなんか問題じゃない。通してしまえ」と答えたという。こうして数千人の群衆が、深夜から翌日未明にかけ、ノーチェックで壁の関門を通過し、西側の空気を吸った。
翌朝の中央委開会前、政治局員がコーヒータイムに集まった席で、放心状態のクレンツは「いったい誰がこんなことをしやがった」とつぶやいていたという。この時点で既にクレンツ政権は瓦解の淵に立っていた。5月の地方選挙で不正疑惑に加え、長年ホーネッカーの片腕として治安責任者を務めた人物が、国民の信頼を獲得するのは困難だった。さらに、クレンツ自身の性格的弱さと優柔不断も手伝い、ベルリン封鎖(48年)から「壁」の構築(61年)に至る動乱期以来の最大の政治危機は余りに荷が重すぎた。
ホーネッカー解任後の東側の動揺は、多分にクレンツ自身の弱さに起因していた。ホーネッカーが彼をナンバー2に据えていたのは、まさにその無害さのためだったとする見方もあったくらいだ。筆者がベルリンで見たドイツの人気喜劇俳優ディーター・フェラフォルン演じるコントは、クレンツの”バカ殿”ぶりを風刺していて面白い。
「クレンツさん、自分の過去に重荷を感じませんか」と問うインタビューアーに、粋な白スーツ姿のフェラフォルン扮するクレンツは、笑顔を崩さず「どんな過去?」「だって、あなた長年、社会主義統一党政治局にいたでしょう」と突っ込まれても、ポカンとして「政治局?なにそれ?」毎週火曜日午前10時から開催されていたのが政治局会議だったのですよ、と聞かされ、「えっ、そうだったの!」
「中継ぎ」
クレンツが情勢にほとんどと言っていいくらい無理解であったことは否定し難い。筆者は11月10日夜、党本部近くのルストガルテン広場で開かれたベルリン地区党員集会を取材して、クレンツの権威のなさに驚かされた。中央委から駆け付けた書記長が全国党会議の開催について報告すると、党員の間から「臨時党大会だ!」と猛烈なヤジが飛び、クレンツが呆然自失する場面があった。その光景は、あたかも野党団体の集会で吊し上げを食らっているかのようだった。さらに、この日の中央委では、下部組織の反発で、8日に選出されたばかりの新指導部のうち、ハンスヨアヒム・ベーメ(Hans-Joachim Böhme (* 10. Januar 1909 in Magdeburg; † 31. Mai 1968 in Karlsruhe[1])[2] war ein deutscher Regierungsrat und SS-Standartenführer)ら保守派4人が解任され、クレンツ体制の威信を傷つけてしまった。政治局は12日、党全国会議を臨時党大会に格上げし、12月15日に招集することを決めた。クレンツ政権は、下部組織からの突き上げに、また譲歩を迫られた。
西独首相コールの元政策顧問ホルスト・テルチック(Horst M. Teltschik (* 14. Juni 1940 in Klantendorf, Reichsgau Sudetenland) ist ein deutscher Politischer Beamter und Wirtschaftsmanager. Er war enger Vertrauter Helmut Kohls und im Bundeskanzleramt tätig. Von 1999 bis 2008 leitete er die Münchner Sicherheitskonferenz)の回顧録「329日」(1991年刊)によると、ハンガリー首相ネーメトは当時、ソ連による突然の石油供給削減通告で生じる経済危機を回避すべくコールと会談、支援を要請した席で、クレンツの書記長就任を「中継ぎ」と評し、新首相モドロウに注目すべきだと助言している。ソ連・党国際部長ファーリンの右腕の党中央委員ニコライ・ボルチェガロフは、知己のテルチックに、クレンツが12月党大会で辞任するのはほぼ間違いないとのソ連側の見方を伝えているが、これはゴルバチョフがクレンツに信を置いていなかったことの証でもあろう。
したがって、「壁」が開放されたにもかかわらず、コールはクレンツからの会談要請を頑として拒否し続けた。実が熟して自ら落ちるのを待ったのである。

×

非ログインユーザーとして返信する