日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Europa Wschodnia/Europa de Est★『東欧 再生への模索』小川和男/Search for Eastern Europe regeneration Kazuo Ogawa/Recherche de la régénération de l'Europe de l'Est/ Suche nach Osteuropa-Regeneration②

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Istočna Evropa東ヨーロッパ je evropska regija na istoku kontinenta. Termin istočna Evropa nije jednoznačno definiran pa se tako različite države i regije nalaze u različitim definicijama. Sam termin istočna Evropa nosi u sebi geografske, geopolitičke, kulturne i socio-ekonomske konotacije dok se termin Istočna Evropa (sa velikim početnim slovom) u periodu Hladnog rata koristio kao sinonim za Istočni blok.

複雑な宗教分布と難題
東欧の宗教も多様で、複雑である。20世紀も終りに近い今の時期に、世界の最先進地域であり、文明化された生活の営みを人々が自賛するヨーロッパの一隅で、つまり旧ユーゴスラビアにおいて、いつ果てるとも知れない深刻な民族紛争が続き、多くの血が流され、EUやNATOをはじめとするヨーロッパの国際機関も国連も問題解決に向けてほとんど何らなす術がないのは、基本的には民族間の宗教の相違と対立が主因であるといえよう。

東欧の宗教の主流は、もちろんキリスト教である。だが、西欧におけるキリスト教のあり方と東欧における状況とは、著しく異なっている。西欧では、西方教会、つまりローマ法皇を頂点とするカトリックとその絶対的権威に抵抗するプロテスタントがほとんど完全に支配的である。
一方、東欧では、これらのほかに東方正教会(いわゆる「ギリシャ正教」)も有力であり、西方教会と勢力をほぼ二分している。それに加えて、長かったトルコ支配の遺産としてバルカンの各地にイスラム教が根強く残り、しかもユダヤ人の人口も多かったという状況があり、各宗教が混在している都市が稀ではない。こうして、東欧における宗教分布は西欧よりはるかに複雑な様相を呈しているのである。

カトリック信仰が圧倒的な地域
東欧のなかで、西方教会からキリスト教を受け入れたのは今日のポーランド、チェコ(ボヘミア、モラビア)、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、クロアチア、バルト三国などの地域である。そしてこれら諸国では、今もカトリック信仰が圧倒的に優勢である。

よく知られている通り、現ローマ法皇ヨハネ・パウロ二世(1978年より在位)は、ポーランド出自である。わたくしは、70近い外国を訪問しているが、世界中でカトリック信仰が一番厚い国はポーランドではないかと思う。社会主義政権下でも、ポーランド全国の津々浦々にある大小カトリック教会はよく修復され、都市部の大教会の円屋根や尖塔が金色に輝いていた。そればかりではない。国内を自動車で何回もめぐったことがあるわたくしは、全国の町々や村々で新しいモダーンな教会が建設されるのを見てきた。国民の95%がカトリック教徒であることを知れば、教会の繁栄はむべなるかなと思う。だが、エコノミストであるわたくしは、教会にばかりお金がまわって、経済生活にはまわらない弊害の方をどうしても考えざるをえない。
ボヘミアでは、15世紀の初頭にヤン・フスによる宗教改革運動が起こった。フスの運動は、カレル大学におけるチェコ語による講義の敢行にみられるように、当時支配的であったドイツ人教授によるドイツ語による講義に対する反抗、チェコ民族主義高揚の意義を合わせもっていた。そのためカトリック教会がフスを異端として火刑に処した(1415年)ことは、チェコの民族主義に火をつけ、約20年にわたったカトリック教会と国王に対する「フス派戦争」(「ボヘミア戦争」)を誘発したのである。しかし、教会と国王が組織した異端撲滅十字軍の前に、フス派は敗北した。
*Češtinaチェコ語⇒Univerzita Karlova (zkratka UK, latinský název Universitas Carolina) se sídlem v Praze je česká vysoká škola, jedna z nejstarších evropských univerzit, nejstarší severně od Itálie a východně od Paříže.

*ヤン・フス(Jan Hus[jan ɦus] , 1369年頃 - 1415年7月6日)は、チェコ出身の宗教思想家、宗教改革の先駆者。ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。

*フス戦争(フスせんそう、チェコ語: Husitské války、ポーランド語: Wojny husyckie、ドイツ語: Hussitenkriege、イタリア語: Crociata Hussita)は、15世紀に中央ヨーロッパで起こった戦争。ヤン・フスの開いたキリスト教改革派のフス派(プロテスタントの先駆)の信者(ボヘミアとポーランドを中心とする)と、それを異端としたカトリック、神聖ローマ帝国の間で戦われた。
*異端Hereze(いたHäresie、英語: heresy)Ересьとは①正統から外れたこと。学説で正統と対立する異説[3]。系統で正統と対立する異系統②その時代において正統とは認められない思想・信仰・学説などのこと。多数から正統と認められているものに対して、少数によって信じられている宗教・学説など③本来の教義を忠実に継承していないこと。統治者である事に相応しい理由を持っていないこと④宗教において、正統を自負する教派が、正統とする教理・教義に対立する教義を排斥するため、そのような教義をもつ者または教派団体に付す標識。「異端」と一対で「正統」という概念が用いられる。
その後マルチン・ルターがドイツで宗教改革運動を起こすと(16世紀前半)、ボヘミアでも新しく改革運動が起こった。だが、カトリックの守護者を任ずるハプスブルク王家によって、この運動は鎮圧されてしまった。ボヘミアはその後、「三十年戦争」(1618-48年)による国土荒廃を経て、第一次大戦までの長きにわたりハプスブルク王家の支配下におかれた。このためもあって、ボヘミアにおいては、19世紀後半に産業革命を経験し、オーストリア・ハンガリー帝国の工場の役割を果たしながら、新教徒(プロテスタント)がドイツにおけるような力をもつには到らなかった。
*産業革命Průmyslová revoluceIndustrielle RevolutionさんぎょうかくめいRévolution industrielle、英: industrial revolution)Промышленная революцияは、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革のことである。

*マルティン・ルター(Martin Luther [ˈmaɐ̯tiːn ˈlʊtɐ] 、1483年11月10日 - 1546年2月18日)は、ドイツの神学者、教授、作家、聖職者。聖アウグスチノ修道会に属する。1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である+反ユダヤ主義Martin Luther und die Juden:ルターは反ユダヤ主義的主張を持っていた・・・「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていないThose scumbags just want to make fun of us and our religion by calling them proselytes」。

*宗教改革(ReformacjaしゅうきょうかいかくReformace、英: Protestant Reformation)Реформацияとは、16世紀(中世末期~近世)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、旧教(ローマ・カトリック教会)から新教の分離へと発展した。

*三十年戦争Třicetiletá válka(独: Dreißigjähriger Krieg, 英: Thirty Years' WarТридцатилетняя войнаは、ドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台として1618年から1648年にかけて戦われた宗教的・政治的諸戦争の総称である。

*ボヘミア(ラテン語: Bohemia、チェコ語: Čechy、チェコ語発音: [ˈt͡ʃɛxɪ]、ドイツ語: Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。

*東方教会(Източнохристиянски църквиとうほうきょうかいCreștinismul răsăritean、英語: Eastern ChristianityВосточное христианствоは、中東・ギリシャ・アナトリア・東ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派(ギリシャ正教・東方正教会とも称される正教会および東方諸教会)の総称。広義の意味では東方正教会と東方諸教会をも含んだ意味で用いられるが、「東方教会」が正教会(ギリシャ正教)を指している場合もある。
ギリシャ正教の香り
一方、ブルガリア、セルビア、ロシア(ウクライナとベラルーシも含む)、そしてルーマニアは東方のキリスト教を受け入れた。東方正教会では、10世紀までに教義と典礼儀式がほぼ完成の域に達し、その後大きな改新は経験しなかった。したがって、バルカン諸国とロシアは、すでにできあがったキリスト教を受け入れたわけで、同時にビザンツ教会の旧套墨守の体質および俗権との密着の体質を受けついだのである(前掲、森安達也編『スラブ民族と東欧ロシア』山川出版社)。
*正教会Biserica Ortodoxă(せいきょうかいПравославна църква、ギリシア語: Ορθόδοξη Εκκλησία、ロシア語: Православие、英語: Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。

ルーマニアの東方正教の受け入れは、ラテン系民族がカトリック信仰であるなかで、唯一の例外である。ルーマニアという国家の成立はきわめて新しく、19世紀中葉のさかのぼるにすぎない。ルーマニア人を形成したラテン系の民族は、中世において民族としてのまとまりをもたず、バルカン半島の諸国家、なかでもブルガリアの支配下におかれていたと考えられ、この時期に東方キリスト教を受け入れ、また教会スラブ語を典礼用語および文章語として用いていた(森安達也『ビザンツとロシア・東欧』講談社、1985年)。現代のルーマニア語はラテン文字で表記されている。だから、ルーマニア国内を旅行してみて、各地で、ビザンツ建築の影響が濃いといわれる独特の様式の美しい正教寺院を眺め、外壁に金色や銀色でキリル文字が書き出されているのを目の当りに見ると、なんともいえない不思議な気持になるのである。

Byzantine and Russia / Eastern Europe By Tatsuya Moriyasu Bizantină și Rusia / Europa de Est

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Bosna i Hercegovina (skraćeno BiH), država u jugoistočnom dijelu Europe, smještena na zapadu Balkanskog poluotoka. Sa sjevera, zapada i juga graniči sa Hrvatskom, a sa istoka sa Srbijom i Crnom Gorom. Glavni grad zemlje je Sarajevo. Međunarodno priznanje je dobila 6. travnja 1992. godine odvojivši se od bivše Jugoslavije.
イスラム教と旧ユーゴスラビアの悲劇
また400年に及んだトルコの支配は、バルカン諸国にさまざまな点で大きな遺産を残し、各地にイスラム教の面影が濃い。ブルガリアの首都ソフィアの中心部にはモスクのミナレット(尖塔)が残っているし、わたくしはルーマニアの田舎町(ドナウ川下流沿いのHârșova)でイスラム教徒の葬式の列に出会ったこともある。
*Българскиブルガリア語⇒Со̀фия е столицата и най-големият град на България. Тя е 14-ият най-голям град по брой жители в Европейския съюз, с население 1 241 675 души (2019).
*Românăルーマニア語⇒Hârșova (în turcă Hırsova, în rusă Гирсово, în bulgară Хърсово (Hârsovo)) este un oraș în județul Constanța, Dobrogea, România, format din localitățile componente Hârșova (reședința) și Vadu Oii.
イスラム教の勢力が今もとくに大きく残り、現実の政治・社会生活を左右しているのが、旧ユーゴスラビアのなかのボスニア・ヘルツェゴビナである。ここでは、人口400万強の約半分がムスリム人を自称し、長年にわたってセルビア人(正教徒)やクロアチア人(カトリック教徒)と共生してきた。ムスリム人といっても、実際には、民族としてはセルビア人かクロアチア人である。長年のトルコ支配下でイスラム教への改宗が進んだ結果、もともとは宗教的帰属を示したものが民族形成に到ったわけである。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Muslimani je naziv za etničku grupu, odnosno narod koji je 1971. u Socijalističkoj Federativnoj Republici Jugoslaviji bio priznat kao jedan od šest konstitutivnih naroda (uz Slovence, Hrvate, Srbe, Crnogorce i Makedonce), odnosno jedan od tri konstitutivna naroda tadašnje Socijalističke republike Bosne i Hercegovine.
そして、ムスリム人の民族形成の承認は社会主義ユーゴスラビアの民族問題への一貢献であるといわれた(岩田昌征編『ソ連・東欧経済事情』有斐閣選書、1983年)。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでは、遠望するとミナレットが立ち並び、朝と夕なにコーランの読誦がきこえ、ここがヨーロッパの町かと疑わせるユニークな魅力が漂っていた。しかもそこでは、イスラム教徒も、正教徒も、カトリック教徒も共に混在し、仲良く平和に暮らしていたのである。

Soviet Union / Eastern Europe Economic Circumstances-Diverse Socialism Masayuki Iwata/Совјетски Савез / Источна Европа Економске околности-Различити социјализам Масаиуки Ивата

*Bosanskiボスニア語⇒Sarajevo je glavni i najveći grad Bosne i Hercegovine, njena metropola[4] i njen najveći urbani, kulturni, ekonomski i prometni centar, glavni grad Federacije Bosne i Hercegovine i sjedište Kantona Sarajevo.

*ミナレットMunaraMinaretМинаретは、モスクやマドラサなどのイスラム教の宗教施設に付随する塔。塔の上からはイスラム教徒に礼拝(サラート)を呼びかけるアザーンが流される。初期イスラーム世界では、ミナレットはイスラームの権威の象徴となっていた。
*クルアーンKur'an(قرآن qur’ān)КуранあるいはコーランKuranは、イスラム教(イスラーム)の聖典である。イスラームの信仰では、唯一無二の神(アッラー)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は114章からなる。

だが、旧ユーゴスラビア連邦が解体してしまい、宗教にからんだ民族対立が激化し、セルビアとクロアチアが軍事衝突まで起こしている今、平穏な生活は全く失われてしまった。独立したボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人とムスリム人の間で血で血を洗う激闘がいつ果てることもなく繰り返されている。「民族浄化」などという忌わしい論理が大手を振るい、狂信的セルビア人民族主義者たちによるムスリム人虐待が続いているのは、まことに遺憾であるといわざるをえない。

*広義の民族浄化(みんぞくじょうか、クロアチア語・ボスニア語・セルビア語:етничко чишћење/etničko čišćenje、英語:ethnic cleansing)は、おもに戦争における戦略として、虐殺、強姦、強制移住などの手段で特定の民族を殲滅させることを言う。狭義としての民族浄化とは、ユーゴスラビア(5つの民族、4つの言語、3つの宗教を持つ)のような多民族国家[1]において、ユーゴ内のある民族集団を強制的にその地域から殺害などにより除去しようとしたとする言葉。欧米諸国が1990年代前半にユーゴスラビア紛争が勃発した際に、武力介入することを正当化させ、世界世論を支持に誘導するために敵対したセルビア民族のみを悪だとする目的として造語されて対外発信に利用されたプロパガンダ用語である。

セルビア(モンテネグロとДржавна Заједница Србија и Црна Гора新ユーゴスラビア連邦Državna Zajednica Srbija i Crna Goraを形成)のコソボ自治州は、人口約150万人のアルバニア人の自治州で、かれらアルバニア人もまたイスラム教徒である。かれらは、セルビアからの独立運動を繰り返しており、ことあるごとに隣接する本国アルバニアに共鳴するという、セルビアにとって厄介な存在となっている。

*コソボ社会主義自治州(コソボしゃかいしゅぎじちしゅう、セルビア・クロアチア語:Социјалистичка Аутономна Покрајина Косово / Socijalistička Autonomna Pokrajina Kosovo、アルバニア語:Krahina Socialiste Autonome e Kosovës)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)の構成国であるセルビア社会主義共和国(SRセルビア)にあった、2つの自治州のうちのひとつである。1974年に設置され、1990年まで存続した。


また東欧の大小都市には、第二次大戦前まで、どこにもユダヤ人居住区があり、都市人口に占めるユダヤ人の比率は高かった。したがって、多くのシナゴグ(ユダヤ教会)があり、それらは今も残っている。プラハのシナゴグは観光名所の一つとなっているが、もちろん「生きている」シナゴグもある。だが、第二次大戦中にユダヤ人を襲った「不幸」もあって、東欧に現在居住ユダヤ人口は、第二次大戦前に比べてずっと小さく、それだけ問題も分散化してきているといえよう。
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒СинагогаSinagoga (od gr. συναγογε "skupština, okupljanje" - heb. Beit Knesset „Kuća okupljanja” ili Beit T`Phila „Kuća molitve”) je zgrada u kojoj se obavljaju verske aktivnosti u judaizmu.
東欧諸国の社会主義政権は、概して宗教問題にかかわらないというよりは、冷遇政策をとってきた。時代が転換した今、西方教会も昔日の地位を取り戻そうと努力している。社会的混乱の中、民族意識のよりどころとして宗教は明らかに復権を果たしつつあるといえよう。だが、旧ユーゴスラビアにおける事態が明示しているように、狭量な民族主義と宗教との密着は悲劇的結果しかもたさないのではないだろう。

栄枯盛衰の歴史と民族の心理、中世にヨーロッパの大国であった記憶
東欧諸国は今日、国際社会のなかで小国として位置づけられる。だが、東欧各国はそれぞれ、ヨーロッパの大国としての栄光の歴史をもつか、民族あるいは国家として自ら誇ることができる輝かしい前史をもっている。そして、栄枯盛衰の歴史は、東欧諸民族の心理に微妙な襞をつくり出している。

たとえば、チェコ、ポーランド、ハンガリーは中世においてそれぞれヨーロッパの強国であった。チェコは、11世紀から14世紀を通じてヨーロッパの大国であり、経済的に繁栄し、学芸の一大中心地であった。プラハでは1348年に大学(カレル大学)が設立され、同じ頃、今も名橋として残り、世界に知られる石橋(カレル橋)が建造された。チェコの中心を形成するのがボヘミアであるが、「ボヘミアを制する者はヨーロッパを制する」とまでいわれ、ヨーロッパの中心と見なされていた。
ポーランドもまた、14世紀から16世紀を通じてヨーロッパの大国としての歴史を歩み、ポーランドとリトアニアとの同君連合国家の版図は、一時は北はバルト海から南は黒海にまで及ぶ、広大なものであった。14世紀といえば、ロシアはまだいくつもの小公国に分かれ、モスクワ公国といえども当時のポーランドからすれば小さな存在にすぎなかった時代である。ちなみにモスクワ国家の存在がヨーロッパで広く知られるようになったのは、ようやく16世紀になってからであった。

*ポーランド・リトアニア共和国(ポーランド・リトアニアきょうわこく)Polish–Lithuanian Commonwealth、正式国称ポーランド王国およびリトアニア大公国(ポーランドおうこくおよびリトアニアたいこうこく、ポーランド語: Królestwo Polskie i Wielkie Księstwo Litewskie)Abiejų Tautų Respublikaは、ポーランド王国とリトアニア大公国の制度的国家合同(ルブリン合同)によって1569年から1795年まで存在した複合君主制国家。

*モスクワ大公国Grand Duchy of Moscow(モスクワたいこうこく、 ロシア語: Московское великое княжество モスコーフスコエ・ヴェリーコエ・クニャージェストヴォ)Muscovite Russiaは、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。ロシア帝国の前身。モスクワ・ルーシ(ロシア語: Московская Русь モスコーフスカヤ・ルーシMuscovite Rus)とも呼ばれる。
しかも、ロシアは16世紀末から17世紀初頭にかけていわゆる「Смутное время動乱Wielka smutaTime of Troublesの時代を経験した。プーシキンの戯曲やムソルグスキーのオペラで名高い皇帝「Бори́с Годуно́вボリス・ゴドノフBorys GodunowBoris Godunovや「Лжедмитрий I偽ドミトリーDymitr SamozwaniecFalse Dmitry帝たちの短い治世が続き、国内は混乱したのである。ロシアのこの内乱に乗じて、ポーランド=リトアニアとスウェーデンが侵攻し、ポーランドは1610年から1612年の約3年間にわたってモスクワを占領した。
*The Polish-Lithuanian Commonwealth occupation of Moscow Польско-литовская оккупация Москвы took place between 1610 and 1612 during the Polish-Muscovite War, when the Kremlin was occupied by a Polish-Lithuanian garrison under the command of Stanisław Żółkiewski and assisted by Russian boyars led by Mikhail Saltykov. The occupation coincided with Russia's Time of Troubles.
歴史の上で、モスクワを占領した経験をもつのは、この時のポーランド人とフランス人ナポレオンだけである。このことは記憶に値しよう。ナポレオンのPrise de Moscouモスクワ占領Французская оккупация Москвы(1812年)はわずか35日間だけであった。また、第二次大戦中、ナチス・ドイツ軍は、モスクワの市街を眼の前にしながら、市内に突入することもできなかったのである。
わたくしは、ロシアの古い都市スモレンスクやボルガ運河にのぞむ絵のように美しい小都市ウグリチを訪れたことがあるが、両市ともポーランド領内にあった古い記憶をもち、市内に歴史の跡をとどめている。
*Polskiポーランド語⇒Smoleńsk (ros. Смоленск, biał. Смаленск, jidysz סמאלענסק Smolensk) – miasto w Rosji, stolica obwodu smoleńskiego. Położone nad Dnieprem.
*ウグリチUglicz(ウーグリチ、У́глич, Uglich)はロシアのヤロスラヴリ州にある古都。南西から北東へ向けて流れているヴォルガ川の東岸に位置する。

しかし、ピョートル大帝以降18世紀と19世紀を通じてロシアがヨーロッパの大帝国として発展した一方、ポーランドの国運は傾き、18世紀末におけるロシア・プロシア・オーストリア三国にわたる分割によってポーランド国家は滅亡した。そしてポーランドは、それ以来、第一次大戦後に独立を回復するまでの120年余の長きにわたってヨーロッパの政治地図からその名を消す悲劇を経験したのである。今日においても、両国の関係はロシアを大国とし、ポーランドを小国とする関係である。だが、とくにポーランドの人々において、中世の歴史的関係が追憶されることがあることを見逃すことはできない。

外国支配による苦難と民族主義
マジャール人も、ブルガリア人も、セルビア人も、そしてまたルーマニア人も、民族あるいは国家として誇りをもちうる歴史をもっている。しかしながら、東欧の人々が歩んだ歴史はきわめて苛酷なものであり、バルカン諸国はほとんど400年の長きにわたってオスマン・トルコの支配下に苦しみ、ポーランドは前述の通り、18世紀末から第一次大戦にいたるまで外国に支配されていた。そして第二次大戦後においては、ソ連の弾圧の下に呻吟してきた。東欧各国とも独立国であるのに、米国大統領(フォード大統領)でさえ「ソ連の衛星諸国」と失言した時があった。
こうした栄枯盛衰の歴史は、東欧の人々の激烈な民族主義を支え、頻発する民族紛争の誘因ともなっている。東欧の人々のうちにはプライドとコンプレクスが入り乱れた複雑な屈折した感情が潜み、西欧に対する強い憧憬が際立つ一方、東方の大国ロシア(ソ連)に対する反感と軽侮が露呈する場合が多いのである。
第二次大戦後45年間にわたって、つまり「東欧革命」が成就するまで、東欧の指導者たちに課せられた最大の政治的課題は、ソ連との関係をいかに円滑に維持するかにあった。そしてそのためには、過剰な民族主義の高揚は抑制する冷徹な現実主義とバランス感覚が必要であったのである。
1956年の「動乱」後30年余にわたってハンガリーの政治を指導したヤーノシュ・カーダル氏は、このような意味で、まぎれもなく優れた現実主義者であったと、わたくしは今も信ずる。一方、1968年の「プラハの春」を先導し、結局はソ連軍の介入を招き、以後20年間にわたりチェコスロバキアの人々の生活を灰色に閉じ込めてしまったA・ドプチェク氏については、当時の東欧の状況下では、一国の指導者としての適性を欠いていたと思わざるをえない。歴史はめぐり、評価は変った。「東欧革命」によって、ドプチェク氏は完全に名誉を回復し、民族的英雄のように遇され世を去った(1992年11月)。一方、世評はカーダル氏に対して冷たくなり、同氏は1989年7月に淋しく死去した。

*Magyarマジャール語⇒Kádár János, születési nevén Czermanik János József (a magyar dokumentumokba már Csermanek Jánosként került be)[1][2] (Fiume, 1912. május 26. – Budapest, 1989. július 6.) magyar kommunista politikus, a magyar történelem egyik meghatározó alakja.

*Slovenčinaスロバキア語⇒RSDr. Alexander Dubček (* 27. november 1921, Uhrovec – † 7. november 1992, Praha) bol česko-slovenský komunistický politik, a vrcholný predstaviteľ Pražskej jari. 
東欧諸国は今、旧ソ連の桎梏から脱し、伝統的ヨーロッパへの回帰をめざしている。そして今述べたところから明らかであるが、このことは同時に民族主義が著しく高揚して栄光の過去が追想され、懐古趣味が強まっていることも意味しているのである。人々の間では西欧への旅行の人気が高まり、ウィーンの街角ではもちろん、パリやロンドンやローマのあちこちの盛り場で東欧の旅行者たちがかわす、かれらの言葉を耳にする機会が多くなった。

3 本来のヨーロッパを求めて
東西ヨーロッパはもともと一体
わたくしは1960年代半ばに初めて東欧を訪れた。その後ここ20年間は毎年訪問を繰り返している。だから、東欧歴訪の回数は自分でも相当多いのではないかと思う。最近では1993年と1994年に、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、そして旧東ドイツをめぐり、バルト三国にも足を運んだ。
そして、東欧はわたくしにとって、最初の訪問の時から粉うかたなくヨーロッパであったし、訪問を重ねるたびにこの印象と理解は深まっている。とりわけ、チェコ、ハンガリー、ポーランド、そして旧東ドイツという国々、今日、中欧諸国として主権を回復し、国際的注目を集めている国々については、歴史、キリスト教、人々の意識と生活スタイル、風俗、習慣、都市の景観と構造等々、どれを取り上げてみても、西欧の国々との相違よりは、相似の方がはるかに際立っているのである。一方、ロシアとの対比では、相違はかなり目立つといえよう。
東西対立が長く続き、「冷戦」、「鉄のカーテン」、「ベルリンの壁」、「秘密警察」などなどの言葉がそれぞれ意味をもち、重々しく響いていた時代においては、いわゆる「西側」の世界の大多数の人々は、東欧と西欧とは非常に異なる地域、ロシアに近い地域とみなしていたと思う。しかしこう書いて、「それは違う。日本人がそう誤解していただけだ」とも思うのである。西欧の人々にとって、東欧がヨーロッパの一部であることは、全く当然なことなのであった。
「鉄のカーテン」によって西欧と東欧が画然として切り離され、東欧の人々が東方の灰色の世界に閉じ込められてきたという話は虚説である。ヨーロッパ的ということであれば、東欧の人々の生活は、西欧の人々のそれと同じようにヨーロッパ的であった。西欧が富み、東欧が貧しかったのは事実であるが、その対比が相対的なものであるのは、いうまでもなかろう。
東欧の人々の西欧や北米への旅行が全く不可能であったわけでもない。少なくともポーランド市民にとっては、1970年代と1980年代を通じて、西側への旅行はお金と余暇の問題であった。ワルシャワの日本商社で働くポーランド娘が約1ヶ月の夏休みをギリシャやスペインで楽しんでくるのは、普通のことであった。
ハンガリー市民にとっても、事情はだいたい同じであったといえる。チェコスロバアの人々も、団体旅行であればかなり容易に西側に出ることができた。旧東ドイツでは、東ベルリンではもちろん、全国のほとんどいたるところで、西ドイツのテレビ番組を楽しみことができた。
すなわち東西ヨーロッパは本来一体なのであって、分裂は人工的につくられた状態であった。

息づくヨーロッパの歴史と伝統
それよりも、西欧では米国の経済援助が第二次大戦後における経済復興の起爆剤となり、その後の繁栄に大きく寄与した半面、いわゆる「アメリカ化」が進んだことを見落としてはならないであろう。一方東欧では、経済発展のテンポは遅く、社会的変化はゆるやかで、西欧にくらべて停滞が続いた半面、ヨーロッパの歴史と結びついた伝統的慣習が壊れずに残っているのである。

たとえば、労働者の国であったポーランドで、日常生活の挨拶において、男性は必ず婦人の手をとってキスをする。これを怠れば、とんでもない無礼なのである。ハンガリーでも、慶弔の儀式のなかで、大戦までの上流社会の慣行が今も生きている。1970年代中葉のある時、在東京ハンガリー大使館から祝宴の招待状が届けられたが、服装は「ブラック・タイ」という指定であった。つまり「準正装」でお出下さい、ということであり、「平服」が普通の時代にタキシードなど持ち合わせていない日本ビジネスマンたちを困惑させた。当時、日本・ハンガリー貿易関係者たちの間でかなり話題になった話である。

またチェコの首都プラハは、その美しさと古都がもつ趣と深さは東西ヨーロッパの中でも最高との評価も受けている。度重なる戦火をまぬがれ、今に生きる中世の町ともいわれてきた。市の中心部では数百年を経た4,5階建ての建物が空間を惜しむようにびっしりと軒を連ねていて、街のなかを歩く旅行者には路がどちらの方角に通じているのか容易にはわからないほど曲折が多い。
大通りに出ても曲折が多く、車で来た外国人には運転がまことに難しい。市電が市街を網の目のように走り、狭い道を通り、急カーブをゆっくりと曲っていく。近年車が著しく増えて、朝夕の交通渋滞がひどい。一方通行の街路も多い。市街地を抜け出て直線の道路になると、ほっとした気持になる。

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