日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆Europa Wschodnia/Europa de Est★『東欧 再生への模索』小川和男/Search for Eastern Europe regeneration Kazuo Ogawa/Recherche de la régénération de l'Europe de l'Est/ Suche nach Osteuropa-Regeneration⑥


*レシェク・バルツェロヴィチ(Leszek Balcerowicz, 1947年1月19日 - )は、ポーランドの経済学者・政治家で、元副首相、元財務相、前ポーランド国立銀行総裁。1990年代のポーランドにおいて「バルツェロヴィチ・プラン」ないし「ショック療法」として知られる経済移行プログラムを指揮したことで有名。

*Polskiポーランド語⇒Plan Balcerowicza – program reform gospodarczo-ustrojowych, mających na celu odejście od gospodarki scentralizowanej i przejście do gospodarki rynkowej, którego realizacja rozpoczęła się 1 stycznia 1990 roku.
しかしポーランド経済は、このプログラム実施後、急激なシステム転換にともなう混乱が目立ち、GDPは1989~91年の3年間に30%も減少、失業者の急増、国民の消費水準の明らかな低下など、厳しい試練を経験した。
それでも1992年にはGDPが対前年比1・5%増、鉱工業が3・6%増とプラスを記録、93~94年にもプラス成長が続き、ようやくポーランド経済にも明るさがみえはじめた。
市場化が進み、そのための制度的枠組みが整備されたのをみて、1992年後半以降欧米企業の進出が相次いだのが、生産回復に大きく寄与していると考えられる。1994年9月現在、欧米企業の進出件数は1万8000件を越え、累積投資約束額は86億ドルにものぼっている。
また、ポーランド経済にとって長年にわたって重圧であった膨大な対西側債務が大幅に削減されたことも、欧米企業の進出を刺激していると考えられよう。400億ドルを超えたポーランドの対外債務のうち、パリ・クラブ(先進諸国政府で構成する主要債権国会議)は1991年4月、公的債務(政府側の債務)50%を削減すること、つまり棒引きにすることで合意した。また、ロンドン・クラブ(民間の主要債権者=銀行会議)は1994年3月、民間債務の45%を削減することで合意している。
*パリクラブKlub Paryski(フランス語: Club de Paris)は、フランス財務省で年に10回[1] ほど開催される、主要な債権国と債務国が二国間のリスケジュール(返済の繰り延べ)協議を行う非公式会合の呼称である。1956年に創設。
*ロンドンクラブKlub Londyński(London Club)は、政府や中央銀行に対して資金を貸し付けている民間の商用金融機関が、債務国とのリスケなどの返済交渉について協力していくために結成した、非公式な債権者機関の会合。
このような好遇は、通常の国際金融関係ではありえないことである。西側諸国がポーランドの体制転換に寄せる期待の大きさを示している。同時に、この件でイニシアチブをとった米国には、600万人を超えるポーランド系市民が居住し、米国とポーランドとの間には特別な親近関係が形成されている事実を見逃すわけにはいかない。いずれにしても、巨額の対外債務が半減し、ポーランド経済が重圧から身軽になったことは確かである。

*Polskiポーランド語⇒Polonia amerykańska – Polacy oraz Amerykanie pochodzenia polskiego mieszkający w Stanach Zjednoczonych.

*ポーランド系アメリカ人(英語:Polish American、ポーランド語:Polski Amerykanin)は、ポーランドに出自を持つアメリカの市民である。20世紀初頭までに100万人以上のポーランド人がアメリカに移住した。
以上のような状況から、バルツェロビッチ・プログラムの成果に対しては、賛否両論が出されている。ただ、それが国民に非常に大きいコストを強いたことだけは、疑念の余地がない。生産が回復基調だといっても、インフレは年率30%の高水準にあり、失業者数は300万人(失業率は16%)にものぼっている。市民の日常生活は楽になっていない。いままでは手の付けていない国有大型企業の民営化が始まれば、失業者はもっと増えるのではないかという国民の不安は去ることがないのである。

深まるカトリックへの帰依
1993年秋における「左翼民主同盟」と「農民党」による連立政権成立と、「連帯」系政党の敗北は、国民のそうした不満と不安を背景にして実現した。だが、連立政権の手中に苦況を一挙に好転させるような具体的施策も器量もあるわけではない。ポーランド国民は政府を基本的にはいつも信用しておらず、多くの人々が北米や西欧になんとか伝手を求めて、続々と移住しているのが現状である。

*Polskiポーランド語⇒Polonia w Kanadzieポーランド系カナダ人 – Polacy oraz Kanadyjczycy pochodzenia polskiego mieszkający w Kanadzie.

*Polish Canadians (Polish: Polonia w Kanadzie, French: Canadiens Polonais) are citizens of Canada with Polish ancestry, and Poles who immigrated to Canada from abroad.Françaisフランス語→Les Polono-Canadiens sont des citoyens canadiens issus de la diaspora polonaise. Selon le recensement du Canada de 2011, 1 010 705 Canadiens affirment être d'ascendance polonaise.
それでは、国内で人々は、何に希望を見出しているのであろうか。わたくしは多くの人たちが信仰に救いを求めていることは間違いないと考える。ポーランドの全人口(約3840万人)の90%以上が信仰心厚いカトリック教徒であるといわれ、社会主義時代においても、カトリック教会が統一労働者党(共産党)および政府に対しても強い発言力をもっていた。そして今日、教会の力がますます強くなっているのは明らかで、それはワレサ大統領自らが敬虔なカトリック教徒であることを考えれば、教会のかれらに対する影響力が大きいのは当然であるとも考えられる。
ポーランド人は、東方からのモンゴル民族の侵略やロシア正教の浸透に対峙するカトリック世界の最前線を形成してきたことによって、三国分割による亡国時代の苦難のなかで、かれらの信仰をいっそう深め、強いものにしてきた。したがって、ポーランドのカトリシズムは頑健であり、社会主義体制のもとでも少しも弱まらず、教会も強い力を維持できたのである。
政府と経済の混迷が今後も長く続けば、人々のカトリックへの帰依はさらに深まることになろう。西欧や米国では、ポーランドにおけるカトリック教会の役割を肯定的に評価するのが普通であるが、果たしてそうとばかりいえるのであろうか。わたくしは多少ともそのことに疑問を呈しないわけにはいかないのである。

ハンガリー 先駆的な政治・経済改革は旧共産党が主導
ハンガリーは今日、東欧の経済改革を進めた先駆国という栄誉を担っている。この点については、すでに述べた。ハンガリーはまた、議会制民主主義への回帰をめざす東欧の政治改革においても、先駆国である。そして、ゴルバチョフ体制下で進められたペレストロイカの東風は、ハンガリーの政治・経済改革にとってまさしく追い風となった。
ハンガリーの政治改革の大きな特徴は、旧社会主義労働者党(共産党)が自己変革を遂げ、改革を主導したところにある。1985年6月には、名目的ではあったが、東欧諸国で初めての完全複数政党制による選挙が実施され、国際的関心を集めた。
1988年5月に、「ハンガリー事件」以来30年余にわたって政権の頂点にあったカーダル書記長が退任すると、党内では改革推進派が実権を掌握し、改革が加速化された。1989年6月に実施された政治改革では、党議長(党首)と常任幹部会が新設され、党権力が分権化された。ソ連および東欧諸国の社会主義政権では、共産党の政治局と書記局を率いた書記長(または第一書記)が最高権力者であるのが普通であったから、ハンガリーの党改革は非常に大きな意味をもったのである。この改革によって、書記長は4人で構成する常任幹部会員のなかの1人ということになった。
1989年10月になると、いっそう根本的な改革が実現した。「共産主義の放棄」が決定され、社会主義労働者党の党名は、西欧型の社民政党と同じ性格の「社会党」に改称されたのである。そして同年8月、ハンガリー政府は、西欧型の社民政党と同じ性格の「社会党」に改称されたのである。そして同年8月、ハンガリー政府は、ハンガリー・オーストリア国境の鉄状網撤去を決定し、これは旧東ドイツ国民の西側への脱出、さらにはMauerfallベルリンの壁崩壊Fall of the Berlin Wallの契機となった。

*Magyarマジャール語⇒A Magyar Szocialista Munkáspártハンガリー社会主義労働者党(röviden: MSZMP) marxista–leninista párt volt Magyarországon, amely a Szovjetunió támogatásával és felügyeletével egypártrendszer keretében, állampártként gyakorolta kizárólagosan a hatalmat 1956 novembere és 1989 októbere között.
*Magyarマジャール語⇒A Magyar Szocialista Pártハンガリー社会党 (röviden: MSZP) magyarországi balközép szociáldemokrata párt, amely 1989 óta van jelen az Országgyűlésben. A párt 1989. november 21-én alakult az akkori állampárt, a Magyar Szocialista Munkáspárt (MSZMP) volt tagjaiból.
ハンガリーの政治改革は、このように支配党の自己変革によって主導されたが、社会党は1990年4月の総選挙で敗退してしまった。そして「民主フォーラム」が第一党となり、党の自由民主同盟との連立政権を樹立、改革を進めたのである。

*Magyarマジャール語⇒A Magyar Demokrata Fórum (MDF)民主フォーラム magyarországi politikai párt volt, a rendszerváltás egyik meghatározó politikai szervezete.
だが、1994年5月の総選挙では社会党が大勝して復権、7月には社会党と自由民主同盟との連立政権が成立した。改革が一直線には進まず、試行錯誤が繰り返されているわけであるが、これをもって改革の「逆行」とみることができないのは、読者においても明らかであると思う。社会党復権は、社会保障制度の充実とともに市場化の促進を強調している。
この背景には急激な市場化に起因する失業者の増加やインフレの高進、消費生活の目立った低下に対する市民の間における不満の高まりなどが考えられ、これらに対する批判票が社会党復権につながったといえよう。
一方、経済改革では、1989年初めから施行された「新会社法」で、従業員500人までの私企業設立(それまでは20人まで)や外資100%の会社設立が認められ、個人や外国人の株式取引も可能になるなど、市場化が進んだ。

実情は苦しい国民生活
しかし、市場経済がハンガリーにとっていことづくめの結果をもたらしたわけではない。1980年代を通じてハンガリー経済のパフォーマンス(目標達成機能)は悪く、工業部門の改革が実現されないまま対外債務が大きく膨張したし、政府が毎年実施した消費者物価の大幅引き上げに誘発されるインフレの高進から、平均的労働者の実質賃金は1985~90年に年平均約1%も伸びなかった(政府の公式統計『ハンガリー統計年鑑』)。
商店にも食料品マーケットにも消費物資は潤沢にあったが、国民の生活は苦しかったのが実情である。このため目先のきく人たちは、細々としたビジネスに励んだり、昼間の勤務が終った後の夜間アルバイトに精を出して小金を稼いだりしてきた。そしてこのような市民生活は、1990年代半ばの今も、ほとんど変わっていないのである。
ハンガリーは、漸進的な改革プログラムを実行して、急激なシステム転換による重い経済的コストを避ける方向を選択しているが、それは賢明な道であるといえよう。だが、経済のパフォーマンスは引き続いて悪く、1989~93年と5年連続のマイナス成長が記録され、失業率は1992~94年と連続して12~13%の高水準であった。インフレも1990~92年の4年間、年率20~35%と厳しい。
それでも1993~94年と続いて鉱工業生産がプラスを記録、1994年の国内総生産(GDP)もプラス成長となって減産に歯止めがかかり、ハンガリー経済にもようやく回復の兆しがみえたところである。
そして、このような厳しい状況にもかかわらず、ハンガリーでは他の東欧諸国とは異なり、国民の不満が政治的・社会的緊張を極度に尖鋭化させるまでに至らなかった。この背景には、カーダル政権の現実主義路線のもとで長年の間に形成された「対話」が政府と国民の間にあったからであるとわたくしは考える。今日、このことはほとんど指摘されなくなった。だが、見逃してはならない点ではないだろうか。

*Češtinaチェコ語⇒チェコの経済Česká republika je vyspělá země, řazená mezi nejrozvinutější ekonomiky na světě. Je také členem OECD, kde figuruje ve skupině s ostatními bohatými členy. V roce 2019 byl český HDP na obyvatele v paritě kupní síly 39 477 $; česká ekonomika předběhla v roce 2005 ekonomiku Portugalska, poté Řecka, Kypru, Španělska, Itálie a nyní se blíží úrovni Japonska.
チェコ 評価高まるチェコ経済
1990年代中葉を迎えて、チェコの経済に対する欧米諸国の評価が高まっている。「ビロード革命」の後、旧チェコスロバキア(1993年1月1日にチェコとスロバキアの二共和国に分離)では、東欧のマネタリストとして知られるV・クラウス連邦蔵相(その後チェコ首相)の主導の下に市場化が進められた。将来株式に転換されるクーポン券を国民に有料で分配する方式の民営化が実施され、国内経済を活性化する効果が上がると同時に、市場化の一つのモデルとして国際的な関心を集めたのである。

*Češtinaチェコ語⇒Václav Klaus (* 19. června 1941 Praha) je český ekonom a politik, spoluzakladatel Občanské demokratické strany a mezi roky 1991–2002 její první předseda.
しかしながら、クラウス氏はそのラディカルな所説とは反対に、その現実の経済政策はきわめて慎重であり、市場化も概して漸進的である。社会主義時代の社会福祉制度もほとんどそのまま維持されており、このことが国民の現政権支持へとつながっていると考えられる。
だが、旧チェコスロバキア経済も、システム転換のコスト負担を避けることはできず、1990~92年とマイナス成長を経験、「分離」後のチェコ経済も1993年はマイナスであった。1991年の生産減少はとくに大幅であり、GDPは対前年比14・7%減、鉱工業生産は23・5%減と落ち込んだ。
とはいえ、チェコ経済の悪さは、相対的なものである。実際には、失業率とインフレは他の東欧諸国に比べればずっと低いし、財政収支と対外収支の均衡は維持されている。そしてその背景には、欧米諸国への輸出の大幅な増大があるのである。
1994年6月末の外貨準備高は約53億ドルとなり、1993年末を約40%上回った。チェコ政府は、1996年から1999年に返済期限を迎える予定であったIMF(国際通貨基金)からの借入金4億7100万ドル全額を1994年9月に繰り上げ返済した。対外債務の重圧に苦しむ他の東欧諸国とは好対照であるといえよう。
この結果、チェコの通貨コルナの為替レートは1990年前半に安定して推移し、この点でも他の東欧諸国と著しい対照をなしている。
*チェコ・コルナ(捷: Koruna česká)はチェコ共和国で利用される通貨単位。ISO 4217コードはCZK。チェコ国内ではと表記される。英語圏ではクラウン(crown)とも表記される。補助通貨は Haléř(ハレル/ハレシとも)で、1コルナは100ハレルになる。

*Češtinaチェコ語⇒Ekonomika Československa共産主義チェコスロバキアの経済v období 1948–1989 byla jednou z nejsilnějších v rámci RVHP.Ekonomika.
余裕の生活は旧体制時代から
そして、チェコの政治も比較的安定していることもあって、市民の暮しは安定し、ゆとりある日常生活が続けられているという印象を受ける。チェコでは、「共産主義後の世界でもっとも円滑かつ成功裡の体制転換が実現されている」(英誌『エコノミスト』1994年8月6日号)とも評価されているのである。また、「分離」によって、チェコとしては、後進地域であったスロバキアへの経済的負担から解放されるという利点もある。1994年のチェコ経済はプラスに転じ、失業率は4%にとどまっている。
以上のようにみてくると、チェコ国民の生活は市場化にともなって改善されたというような印象を与えかねない。しかし、それはそうではない。もともと旧チェコスロバキアは、社会主義時代の中央経済化システムの下でも、東欧諸国のなかでもっとも堅実な経済運営を進め、市民は高水準の安定した生活を堅持していたのである。
チェコ地方ではとくに、18世紀から第二次大戦までヨーロッパの先進工業地域であったことから、過去の業績は厚く、市民生活を楽しむヨーロッパの長い伝統があった。ほどほどに働き、現状の生活を維持できればそれでよい、という考えが強かったのである。個人主義とマイホーム主義が徹底していたわけで、「プラハの春」以降約20年間にわたって、改革気運が盛り上がらなかったのはむべなるかなであろう。
1980年代初頭のヨーロッパを揺るがした隣国ポーランドの「連帯」運動に対しても、チェコスロバキアの人々は概して冷淡であった。人々がようやく重い腰を上げ始めたのは、ペレストロイカの東風が吹き寄せてからであった。
1980年代前半の頃、仕事でプラハを訪問すると、金曜日の午後の約束ということは、普通にはなかった。経済官庁や国立銀行で外国人に応接できるぐらいの立場の人たちはみなマイカーをもち、週末にはプラハ郊外にある山小屋風の別荘で個人の生活に埋没するのが当り前であった。金曜日の午後、かれらは週末の準備に忙しいわけで、外国人などかまっていられなかったのである。なかには月曜日に別荘から直接出勤する人たちも多かった。午前中はなかなか仕事にならなかったと思う。

そうなると、一週のうち実働は四日ということになり、それもゆっくりと働いていた。その程度の働きで、市民が余裕ある生活を営むことができた現実を考えると、チェコスロバキアの経済力は相当なものであるし、労働生産性も高いとわたくしは真面目に思っていた。
市場化がチェコの人々のビジネス・マインドを刺激し、かれらが「やる気」になれば、チェコ経済が西欧の中堅国に伍すようになるのに、それほどの年月はかからないのではないだろうか。

*Slovenčinaスロバキア語⇒Ekonomika Slovenskaスロバキアの経済Tento článok opisuje ekonomický vývoj Slovenska v rokoch 2000-2022 Obdobie 1995-1998: Za vlády Vladimíra Mečiara bola slovenská ekonomika charakterizovaná ako „hospodárstvo postavené na dlhových základoch“. Podľa nemeckého denníka Handelsblatt vládna koalícia zanecháva nasledujúcej vláde finančnopolitické „mínové pole“. Na druhej strane treba priznať, že celková zadlženosť Slovenska zostala aj na konci vlády Mečiara po Česku najnižšia z krajín strednej a východnej Európy, ako aj mnohých krajín západnej Európy.
スロバキア、厳しい重厚長大型企業の転換
スロバキア経済は苦しい状況下にある。もともとスロバキアは旧チェコスロバキア時代にも後進地域であり、チェコとの間に大きな経済格差があった。この格差是正をはかってスロバキアへの優先投資政策が実施された時代があったが、その結果形成されたのは大規模な製鐵所や石油精製コンビナートを中心とする重化学工業であり、旧チェコスロバキア工業のなかで、スロバキアは素材や中間製品、チェコは最終製品という役割分担があった。
そして「分離」によって、チェコがスロバキアから素材や中間製品を買い付ける必然性はなくなってしまった。このためスロバキア経済は大きな痛手を受け、生産は大きく落ち込んで、失業者が著しく増加したのである。スロバキアの失業率は1993年末に14・4%を記録、同じ時期チェコの3・5%に比べ格段に高い。
市場化の中心的課題の一つである国有企業の民営化についても、大型国有企業の民営化は東欧のどの国でも容易ではないが、スロバキアにとっても大きな難題となっている。
「分離」後、スロバキアでは政治的混乱があったが、1994年3月にV・メチアル内閣が総辞職し、野党五党の連立によるJ・モラフチク政権が成立した。この政権のもとで、短い期間ではあったが、クーポン式民営化が決定されたのをはじめ、市場化が進められ、1994年秋から国有企業632社を民営化する計画が策定された。
だが、1994年9月30日と10月1日に実施された総選挙においてV・メチアル氏が率いる「民主スロバキア運動」が第一党に復帰、同年12月にメチアル内閣はクーポン方式民営化を延期する方針を打ち出すなど、改革に慎重な姿勢をみせている。そしてこの背景には、急激な市場化に対する大規模企業や労働者たちの根強い反対があるのである。
*Slovenčinaスロバキア語⇒Ľudová strana – Hnutie za demokratické Slovensko, skratka ĽS – HZDS人民党・民主スロバキア運動(do roku 2003 Hnutie za demokratické Slovensko, skratka HZDS) bola parlamentná a vládna politická strana pôsobiaca na Slovensku v rokoch 1991 – 2014.

*Slovenčinaスロバキア語⇒Dr. h. c. JUDr. Vladimír Mečiar (* 26. júl 1942, Zvolen)[3][4] je slovenský právnik a politik. Bol prvým (1990 – 1991), druhým (1992 – 1994) a tretím (1994 – 1998) predsedom vlády Slovenskej republiky v 90. rokoch 20. storočia.

*Slovenčinaスロバキア語⇒doc. JUDr. Jozef Moravčík, CSc. (* 19. marec 1945, Očová) je slovenský právnik, vysokoškolský pedagóg a bývalý politik.
また、スロバキアは、ハンガリーとの歴史的に深いつながりから、国内に約56万人(全人口の約11%)のハンガリー人が居住し、難しい民族問題を抱えている。メチアル氏がかなり過激な民族主義者であることもあり、ハンガリー系市民Szlovákiai magyarokの政府に対する反発は強い。そうした事情があって、いま述べた1994年秋の総選挙では、ハンガリー系市民Maďari na Slovenskuの政党「Magyar Közösség Pártjaハンガリー連合Strana maďarskej komunity」が事前の予想を大きく上回る10・1%の票を獲得して躍進した。
スロバキアの前途は平坦ではない。

*Magyarマジャール語⇒A szlovákiai magyarok vagy felvidéki magyarok[m 1] egyike azon kisebbségeknek, amelyek az első világháborút lezáró versailles-i békeszerződések következtében alakultak ki. 

*Slovenčinaスロバキア語⇒Maďari sú najväčšia národnostná menšina na Slovensku. Pri Sčítaní obyvateľov, domov a bytov v roku 2021 sa k maďarskej národnosti prihlásilo 422 065 osôb[1] (7,75% obyvateľstva) a k maďarčine ako k materinskému jazyku 462 175 osôb[2] (8,48% obyvateľstva).

*Românăルーマニア語⇒Economia Românieiルーマニアの経済 este o economie de piață, conform Constituției din 1991. Conform acesteia, statul este obligat să asigure libertatea comerțului și protecția concureței loiale. În economia României acționează așadar legea cererii și a ofertei. La baza acesteia se află proprietatea privată care trebuie protejată și garantată.
*Românăルーマニア語⇒Nicolae Ceaușescu (n. 26 ianuarie 1918, Scornicești, Olt, România – d. 25 decembrie 1989,Târgoviște, Dâmbovița, România) a fost un dictator român, secretar general al Partidului Comunist Român, șeful de stat al Republicii Socialiste România din 1967 până la căderea regimului comunist, survenită în 22 decembrie 1989.
5 苦状が続くバルカン諸国
ルーマニア「飢餓輸出」と対外債務完済
ルーマニアは、国土と人口(約2300万人)の大きさで、ポーランドに次ぐ東欧第二の大国である。また生産量が減少したとはいえ、評価するに足る石油と天然ガス資源があり、広大で肥沃な農地を考慮に入れれば、農業生産拡大の余地も十分ある。しかし、ルーマニア経済の近代化は遅れ、国民は中欧四カ国の人々に比べれば、はるかに貧しい生活を強いられているのが実情である。「東欧革命」がどの国でもほとんど無血で実現されたなかで、ルーマニアだけはチャウシェスク大統領の処刑(銃殺)をはじめ多くの血が流された。そして事件後、政権の受け皿として救国戦線評議会が組織され、一度は共産党の中枢にありながら閑職に追いやられていたイオン・イリエスク氏が議長に選出され、かれの主導の下に暫定政府がつくられた。

*Românăルーマニア語⇒Frontul Salvării Naționale (FSN)救国戦線評議会 a fost o formațiune politică, înregistrată în registrul partidelor politice în 6 februarie 1990, urmare a transformării în partid politic a Consiliului Frontului Salvării Naționale, organ provizoriu al puterii de stat rezultat după Revoluția Română din 1989, al cărui președinte a fost Ion Iliescu.

*Românăルーマニア語⇒Ion Iliescu (n. 3 martie 1930,[3][4][5][6] Oltenița⁠(d), Călărași, România) este un politician român, care a condus statul român în trei rânduri, ca președinte al CFSN între 22 decembrie 1989-1992, apoi ca președinte ales al României între anii 1992-1996 și 2000-2004. Între 1996-2000 și 2004-2008 a fost senator din partea PSD. A fost președinte de onoare al PSD.
1990年5月に実施された大統領選挙と上下両院選挙では、救国戦線評議会が政党に衣替えした「救国戦線」が圧勝、イリエスク議長が高い得票率で大統領に就任し、政権を担うことになった。イリエスク大統領は1992年10月の選挙でも再選され、今日にいたっている。「救国戦線」は1993年7月、社会民主党に改名された。
そして現在、ルーマニアでも複数政党制のもとでの議会制民主主義がめざされ、上下両院が設けられている。しかし、政権内に旧政権の有力者で元共産党員が含まれていることがしばしば問題とされており、また、ハンガリーのように旧共産党が完全に自己変革しているわけでもないこともあって、ルーマニアの民主化・自由化という政治改革に大きな疑問符が付されているのである。また、経済改革も遅れている。

*Românăルーマニア語⇒Partidul Social Democrat (PSD) 社会民主党este un partid politic din România, reprezentant al social-democrației în Parlamentul României.
ところで、チャウシェスク大統領は独裁者であったという評価が、今では定着している。しかしルーマニアは、その独裁体制のもとで、1970年代を通じて華やかな自主独立外交を展開し、とりわけ東欧諸国にあっての対ソ自主独立路線と対西側接近外交は欧米諸国の熱い歓迎を受けた。

また、ルーマニアがIMFと世界銀行に加盟したのは、1972年という早い時期であった。西側諸国政府はルーマニアに対しさまざまな優遇措置を講じ、簡単に借款を供与した。ルーマニアは1970年代に近代的な鉄綱業や石油化学工業を建設したが、それには欧米諸国の融資があずかって大きな力があったのである。
しかし、そうした過大な投資にはもともと無理があり、1970年代末期には経済不振が深刻化し、1980年代初めには対西側債務が110億ドルに達した。巨額の債務がルーマニア経済にとって重い負担となったことは言うまでもない。
そしてチャウシェスク大統領はここにいたり、対外債務完済プログラムを明らかにし、西側からの輸入をそれまでの三分の一に縮小する一方、輸出拡大に全力を投入し始めた。この政策は、国内生産に必要不可欠な工業用原料や消費物資の輸入まで抑制し、農畜産品の大量「飢餓輸出」を続けた荒療治であった。そうした政策に農業生産の不振が重なり、国内では基礎食料品の深刻な不足が続き、国民の不満が著しく高まったのである。
石油の減産が続き、輸入は国内産油量の二倍近くまで増大し、エネルギー事情は急速に悪化した。そして、ついに背に腹はかえられず、1979年以降にはソ連から原油を輸入するという大転換がはかられたのである。
食料品不足と電力不足は、国民生活をはなはだ暗いものにした。厳しい電力使用制限措置がとられ、バルカンの「小パリ」と謳われた美しい首都ブカレストは、ヨーロッパで一番暗い都市と化した。本来豊かな農業国で食料品不足が政治・社会問題になるまで深刻化したのは、直接には「飢餓輸出」のせいであった。西ドイツ(当時)やオーストリアの都市ではルーマニア産の良質の野菜や果物が安く売られていたし、大量の牛肉や豚肉が石油と交換にソ連に引き渡されていたのである。

*Românăルーマニア語⇒București este capitala României. Este cel mai populat oraș și cel mai important centru industrial și comercial al țării.
しかしこの結果、110億ドルの対西側債務は10年間で完済され、1989年3月には対外債務完済宣言が出された。ポーランドをはじめ他の東欧諸国が対外債務の累積に苦しんでいたなかで、ルーマニアの債務完済は偉業である。

国民の積年の恨みが爆発
だが、それは国民にとてつもない犠牲を強いて達成されたことである。西側先進諸国はルーマニアの独裁体制を今日では厳しく非難し、チャウシェスク後における民主化・自由化の遅れをみて、新規投資などは行わない方針を打ち出している。しかし、チャウシェスク独裁下のルーマニアに対して巨額の借款を供与したのは西側先進諸国であり、それを返済したのはルーマニア国民であることを考慮に入れてしかるべきなのではないだろうか。西側先進諸国政府は、片やポーランドの巨額の公的債務については、民主化・自由化の進捗を理由に、実にその半分を棒引にする気前の良さをみせているのである。
独裁体制は全国に網の目のように張りめぐらされた秘密警察によって維持され、密告が横行し、それが社会生活をいっそう暗いものにしていた。西欧の大新聞の記者たちは、ブカレストが当時醸し出していた暗いムードに胸を打たれて、英国の作家G・オーウェルがかれの作品『1984年』のなかで40年前に予想した非情な人間管理社会が、ソ連ではなくルーマニアで現出している、とペンを走らせた。チャウシェスク大統領にあえて苦言を呈する人物もいなくなった。大統領は、窮状がますます深まるのもよく分らないまま、ブカレスト市街の大改造プログラムに着手し、現代の話とはとても信じられない豪華きわまりない大統領宮殿と迎賓館の建造作業を続けたのである。

*Românăルーマニア語⇒Departamentul Securității Statului国家保安局セクリターテ (denumire uzuală: Securitatea) a fost numele dat serviciului de informații din România în perioada comunistă. S-a aflat în cea mai mare parte a existenței sale în subordinea administrativă a Ministerului Afacerilor Interne.
*Românăルーマニア語⇒O mie nouă sute optzeci și patru, scris și 1984『1984年』(1984ねん、原題:Nineteen Eighty-Four, este un roman politic creat de George Orwell în 1948 și tipărit în 1949.

*Românăルーマニア語⇒Casa Poporului国民の館Palatul Parlamentului din București, România (cunoscut înainte de revoluția din 1989 sub numele de Casa Republicii sau Casa Poporului).
ソ連からペレストロイカの波がルーマニアにも押し寄せ、1987年5月、ゴルバチョフ書記長自身がブカレストを訪問、改革を迫った。しかし、チャウシェスク書記長・大統領は、ソ連に同調する姿勢さえ示さず、最後までペレストロイカを批判し続けた。
そして「東欧革命」の嵐が最後にルーマニアを襲い、国民の間の積年の恨みが一挙に噴出して、1989年12月末、チャウシェスク独裁体制は崩壊したのである。
イリエスク現大統領は、チェウシェスク時代の以上のような経済政策とその結果を十分に考慮に入れて、生活の窮乏を訴える国民の声に応える民主重視策を基本的にとっている。このため、急激な経済改革は避け、漸進的な改革を主張しているのである。IMFは、融資の条件として、市場化の促進を強く勧告しているのであるが、ルーマニアの現状に対するより適切な配慮が必要なのではないだろうか。
しかし、1994年の1年間に、IMFと世界銀行をはじめとする国際金融機関と先進諸国政府がようやく合計40億ドルに上る融資を約束したことは、ルーマニア経済の回復に寄与することになろう。

*Българскиブルガリア語⇒Икономиката на Българияブルガリアの経済Economy of Bulgariaе развиваща се отворена пазарна икономика и е една от страните със средно висок доход.[2] Тя е сравнително индустриализирана, със средно развит частен сектор и запазени малък брой стратегически държавни предприятия.
ブルガリア 旧ソ連16番目の共和国の苦悩
バルカンの小国ブルガリア(人口約900万人)は、社会主義時代を通じて、「ソ連の16番目の共和国」と西側で酷評されてきた。トドル・ジフコフ・ブルガリア共産党書記長兼国家評議会議長(当時)は、「東欧革命」の大きなうねりのなかで1989年11月に辞任に追い込まれたが、かれの30年以上にわたった統治は、ソ連との緊密な政治的・経済的結びつきを最大限に活用して進められ、ブルガリアの近代化にかなり大きな成果を残した。

*Българскиブルガリア語⇒То̀дор Хрѝстов Жѝвков е виден политик от Българската комунистическа партия (БКП), който в Народна република България (НРБ) между 1954 и 1989.
ジフコフ政権の忠誠に対して、ソ連も最大限の好遇をもって応え、陰に陽にブルガリア経済を援助したのである。ブルガリアの対外貿易全体の半分以上がソ連との貿易で占められ、ブルガリア経済の文字通り死活を制していた。
とはいえ、ブルガリアとソ連(ロシア)との緊密な信頼関係は、社会主義的連帯によってのみ構築されたのではなかった。同じスラブ民族、言語のキリル文字による表記、東方正教信仰などを通じて、両国民が相互に親近感を抱いていた事実を見逃すことはできない。
しかも、ブルガリア人からすれば、19世紀末にブルガリアが500年のトルコ支配から独立した時、これを助けたのがロシア皇帝アレクサンドル2世であり、ロシア兵5万人がこの時のロシア・トルコ戦争Руско-турска война (1877 – 1878)で落命した歴史的記憶がある。そして第二次大戦時、当時のファッション政権の重圧からブルガリア国民を解放したのもソ連軍であった(On 5 September 1944, the Soviet Union declared war on Bulgaria and on 8 September invaded the country, without encountering resistance)。

*Българскиブルガリア語⇒Александър II Николаевич (на руски: Александр II Николаевич) е император на Русия, цар на Полша и велик княз на Финландия (1855 – 1881) от династията Холщайн-Готорп-Романов.

首都ソフィアの中心地国会議事堂広場に立つアレクサンドル2世の騎馬像(解放記念碑)Мемориална статуя на Освобождението (Статуя на Александър II)や金色のドームがさん然と輝く巨大なアレクサンドル・ネフスキー寺院は、解放を助けたロシアに感謝して、ブルガリア国民の寄進で建立されたものである。このような記念碑はブルガリアの全国各地数百ヶ所に建てられているといわれ、それらの多くが有名な観光名所となっていて、今もブルガリアに貢献しているわけであるから、ロシアが残したものは大きなものであるといえよう。ブルガリアとロシアとの関係は奥が深いのである。
*アレクサンドル・ネフスキー大聖堂(ブルガリア語:Храм-паметник Свети Александър Невски)は、ブルガリアの首都ソフィアにある、ブルガリア正教会の大聖堂。
またトドル・ジフコフ氏は、親ソ路線を貫く一方、西側との経済開発発展にも力を入れ、1980年代には外資導入による合弁企業の設立を承認、1982年には企業の自主性と利潤追求を認める「新経済メカニズムNew Economic Model (NEM)」を導入するなど、経済改革にも努めた。
わたくしは東欧諸国を訪れ始めた1960年代の情況に比べても、その後近代化が進み、市民の生活水準が際立って向上した国としては、ブルガリアが一番であった。
ブルガリアは、もともと閉ざされた国ではない。その地理的位置そのものが、西欧との交流の完全な遮断を許さないといえる。昔から国際的幹線道路が西欧からユーゴスラビアを通り、ブルガリアを抜けてトルコへ、さらに中東諸国へと通じていて、東西物流の大動脈となっていたのである。かの有名な「オリエント・エクスプレス」も、ブルガリアを通って最終駅イスタンブールに到着する。
ブルガリアは、社会主義時代にもこのような現実と特徴を活用し、1960年代の早くから他の東欧諸国に先駆けて国際観光の振興にも努力を払ってきた。1960年代半ばには、当時としてはもっとも資本主義的なドリンクであった「コカコーラ」を導入している。ユーゴスラビアを別にすれば、ブルガリアに次いでポーランド政府がコカコーラを導入を認可したのは、ようやく1970年代半ばになってからである。ブルガリアは、なかなか開けた国であったといえよう。

*Българскиブルガリア語⇒Ко̀ка-ко̀лаコカコーラ (на английски:Coca-Cola) е популярна газирана безалкохолна напитка, предлагана по целия свят, една от най-известните и продавани търговски марки в света. Известна е още със съкратеното разговорно наименование ко̀ла.

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