日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Richard Karl Freiherr von Weizsäcker EXCERPTS FROM SPEECH BY GERMAN PRESIDENT VS 「未来志向」ザ’我国’代表=安倍サン?아베 신조(일본어: 安倍 晋三)



R.ヴァイツゼッカー 「荒れ野の四〇年」


1985年5月8日、ドイツ連邦議会演説
所収:R.ヴァイツゼッカー(1995)『ヴァイツゼッカー大統領演説集』(永井清彦編訳)岩波書店、pp.3-28


 「一九八五年五月八日、国会で行われた、全世界であまりにも有名になった演説である。この年、敗戦から四〇年というので西ドイッでは第二次大戦とその結果をどうとらえるかで甲論乙駁の議論が進んでいた。ナチズムの過去をどう評価するのか、敗戦はナチズムの暴力支配からの解放とみなすべきか、などの問題をめぐる論議である。さまざまな意見がだされるなか、アメリカのレーガン大統領が訪れようとしていたドイツ兵の墓地にSS隊員の墓もあることが判明して世論はさらに沸騰した。大統領の演説はそうした背景をもつ。ヴァイッゼッカーは、この演説の「赦し」の概念については八九年にアメリカ・ユニオン神学校での講演で神学の視点から詳論しており、この演説をふまえて延々と続いていった「歴史家論争」に対しては八八年の歴史学会で論及している。また九一年にハイネ賞を受賞したさいには東ドイツ、そして統一ドイッでの「過去の克服」の問題への基本的視点を提供している。」(永井解説、p.2)


議長!首相!来賓のみなさま!ご臨席の皆さん、そして国民の皆さん 多くの民族が本日、第二次大戦がヨーロッパの地では終結を迎えたあの日を思い浮かべております。そのさい、それぞれの民族は、自らの運命に応じて、それぞれに独自の感情をもっております。勝利か敗北か、不正と外国による支配からの解放か、あるいほまた新たな隷属への移行、(国土・民族の)分裂、新たな同盟関係、ないしは大がかりな権力の移動か-一九四五年五月八日はヨーロッパにおいて極めて重要な歴史的意義をになった日であります。
われわれドイツ人はこの日をわれわれだけの間で記念いたしておりますが、これほどうしても必要なことであります。われわれは(判断の)規準を自らの力で見出さねばなりません。自分で、あるいは他人の力を籍りて気持を慰めてみても、それ以上の役には立ちません。ことを言いつくろったり、一面的になったりすることなく、能うかぎり真実を直視する力がわれわれには必要であり、げんにその力が備わっております。われわれにとっての五月八日とほ、何よりもまず人びとが嘗めた辛酸を心に刻む日であり、同時にわれわれの歴史の歩みに思いをこらす日でもあります。この日を記念するにさいして誠実であればあるほど、よりこだわりなくこの日のもたらしたもろもろの帰結に責任をとれるのであります。われわれドイツ人にとっての五月八日は、祝賀すべき日でほありません。この日を迎えたとき、もの心がついていた人びとは、きわめて個人的な、従ってきわめてさまざまな経験をしたことを思い出されるでしょう。故郷へ帰った人もいれば、故郷を喪った人もいました。解放された人もいれば、捕囚の身になった人もいました。夜ごとの爆撃と不安が去り、生き延びたことをひたすらありがたく思った多くの人もいれば、自らの祖国が完膚ないまでに打ち破られたことに胸を痛めた人もいました。幻想が粉々になって胸塞がる想いのドイツ人もいれば、新たな出発の機会を与えられたのを喜んでいるドイツ人もいました。直ちに今後の方向を見きわめることほ困難であり、国中が確信を失っておりました。無条件の軍事的降伏であり、われわれの運命は敵の手中に握られておりました。過ぎ去った時は、恐怖の時でした。ことに敵側の多くの人びとにとってはそうでありました。「こちら側がかつてやったことに対し、今度は向うが何倍もの仕返しをしてくるのではないか」(ドイツ人のだれもがそんな思いでありました)。大抵のドイツ人は自らの国の大義のために戦い、耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが、一切が無駄であり無意味であったのみならず、犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであった、ということが明らかになったのであります。疲労困憊し、なすすべを知らず、新たな不安に駆られている、というのが大抵の人びとの気持でした。「親兄妹は見付かるだろうか」「これほどの廃墟のなかで新たに建設することに意味はあろうか」(と人びとは考えていたのであります)。振り返れば暗い奈落の過去であり、前には不確実な暗い未来だけでした 。しかし日一日と過ぎていくにつれ、五月八日が解放の日であることがはっきりしてまいりました。このことは今日われわれ全員が共通してロにしていいことであります 。国家社会主義の暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放されたのであります。解放であったといっても、五月八日になってから多くの人びとの深刻な辛酸が始まり、その後もつづいていったことほ忘れようもありません。しかしながら、故郷を追われ、隷属に陥った原因は、戦いが終ったところにあるのでほありません(拍手)。戦いが始まったところに、戦いへと通じていったあの暴力支配が開始されたところにこそ、その原因はあるのです。一九四五年五月八日と(ヒトラーが政権についた)一九三三年二月三〇日とを切り離すことは許されないのであります。今日というこの日、われわれが勝利の祝典に加わるべき理由ほまったくありません 。しかしながら、一九四五年五月八日がドイツ史の誤った流れの終点であり、ここによりよい未来への希望の芽がかくされていたとみなす理由ほ充分であります。
                 II
五月八日は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。ことにドイツの強制収容所で命を奪われた六〇〇万のユダヤ人を思い浮かべます。戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。虐殺されたジインティ・ロマ(ジプシー)、殺された同性愛の人びと、殺害された精神病患者、宗教もしくは政治上の信念のゆえに死なねばならなかった人びとを思い浮かべます。銃殺された人質を思い浮かべます。ドイツに占領されたすべての国のレジスタンスの犠牲者に思いをはせます。ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもと、づいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス、共産主義者のレジスタンスーこれらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。積極的にレジスタンスに加わることはなかったものの、良心をまげるよりはむしろ死を選んだ人びとを思い浮かべます。はかり知れないほどの死者のかたわらに、人間の悲嘆の山並みがつづいております 。死者への悲嘆、傷つき、障害を負った悲嘆、非人問的な強制的不妊手術による悲嘆、空襲の夜の悲嘆、故郷を追われ、暴行・掠奪され、強制労働につかされ、不正と拷問、飢えと貧罪に悩まされた悲嘆、描われ殺されはしないかという不安による悲嘆、迷いつつも信じ、働く目標であったものを全て失ったことの悲嘆-こうした悲嘆の山並みです 。今日われわれほこうした人間の悲嘆を心に刻み、悲悼の念とともに思い浮かべているのであります。人びとが負わされた重荷のうち、最大の部分をになったのは多分、各民族の女性たちだったでしょう 。彼女たちの苦難、忍従、そして人知れぬ力を世界史は、余りにもあっさりと忘れてしまうものです(拍手)。彼女たちは不安に脅えながら働き、人間の生命を支え護ってきました 。戦場で斃れた父や息子、夫、兄弟、友人たちを悼んできました。この上なく暗い日々にあって、人間性の光が消えないよう守りつづけたのは彼女たちでした 。戦いが終るころから、確たる未来の見通しもないまま、先頭に立って石を一つ一つ積み上げていきだしたのは彼女たちでした。ベルリンはじめ全国の「瓦轢おんな」のことであります。生きのびた夫たちが帰還してくると、彼女たちはまた往々にして後ろに引下がらねばなりませんでした。戦争のため多くの女性が独身のままであり、生涯孤独でした。しかし破壊や、荒廃、あるいは残忍で非人間的な行為のせいで諸民族が内面的に崩れてしまわず、戦いが終ったあとしだいに自分を取り戻したのは、まずもって女性たちのお蔭なのであります。
 

暴力支配が始まるにあたって、ユダヤ系の同胞に対するヒトラーの底知れぬ憎悪がありました。ヒトラーは公けの場でもこれを隠しだてしたことはなく、全ドイツ民族をその憎悪の道具としたのです。ヒトラーは一九四五年四月三〇日の(自殺による)死の前日、いわゆる遺書の結びに「指導者と国民に対し、ことに人種法を厳密に遵守し、かつまた世界のあらゆる民族を毒する国際ユダヤ主義に対し仮借のない抵抗をするよう義務づける」と書いております。歴史の中で戦いと暴力とにまき込まれるという罪-これと無縁だった国が、ほとんどないことは事実であります。しかしながら、ユダヤ人を人種としてことごとく抹殺する、というのは歴史に前例を見ません。この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。しかしながら、ユダヤ系の同国民たちは、冷淡に知らぬ顔をされたり、底意のある非寛容な態度をみせつけられたり、さらにほ公然と憎悪を投げつけられる、といった辛酸を嘗めねばならなかったのですが、これはどのドイツ人でも見開きすることができました。シナゴーグの放火、掠奪、ユダヤの星のマークの強制着用、法の保護の剥奪、人間の尊厳に対するとどまることを知らない冒涜があったあとで、悪い事態を予想しないでいられた人はいたでありましょうか。目を閉じず、耳をふさがずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈然するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽しがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的でほなく個人的なものであります。人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してほいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。何百万人もの死を心に刻むことは世界のユダヤ人一人一人の内面の一部なのでありますが、これはあのような恐怖を人びとが忘れることはできない、というだけの理由からではありません。心に刻むというのはユダヤの信仰の本質だからでもあるのです。忘れることを欲するならば追放は長びく救いの秘密は心に刻むことにこそ これはよく引用されるユダヤ人の金言でありますが、神への信仰とは歴史における神のみ業への信仰である、といおうとしているのでありましょう。心に刻むというのは、歴史における神のみ業を目のあたりに経験することであります。これこそが救いの信仰の源であります。この経験こそ希望を生み、救いの信仰、断ち裂かれたものが再び一体となることへの信仰、和解への信仰を生みだすのであります。神のみ業の経験を忘れる者ほ信仰を失います。もしわれわれの側が、かつて起こったことを心に刻む代りに忘れ去ろうとするようなことがあるなら、これほ単に非人道的だというにとどまりません。生き延びたユダヤ人たちの信仰を傷つけ、和解の芽を摘みとってしまうことになるでありましょう。われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要であります。


   Ⅳ
五月八日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれております。ヨーロッパ人同士の内戦は終り、古いヨーロッパの世界は崩壊してしまっておりました。(歴史学者)ミハエル・シュチュルマー教授の言を籍りれは「ヨーロッパは戦い尽した」のであります。エルベ河での米ソ両軍兵士の邂逅は、さし当ってヨーロッパの一つの時代が終ったことのシンボルであります。これらが古くからの歴史に根ざしていることは確かであります。ヨーロッパの人間は世界中で大きな、それどころか決定的な影響力をもっていましたが、自らの大陸での互いの共存関係はしだいにぎすぎすしたものになってまいりました。ヨーロッパでほ一〇〇年以上にわたって民族主義が余りにも高まり、その衝突に苦しんできたのであります。第一次大戦が終ると一連の平和条約が締結されました。しかし、これにほ平和を樹立する力が欠けておりました。民族主義的な激情の炎が再び燃え上がり、社会の窮状と結びつくこととなったのであります。災いへの道の堆進力はヒトラーでした。彼は大衆の狂気を生み出し、これを利用しました。脆弱なワイマール期の民主主義にはヒトラーを阻止するカがありませんでした。そしてまたヨーロッパの西側諸国も無力であり、そのことによってこの宿命的な事態の推移に加担したのですが、(イギリスの元首相)チャーチルはこれを「悪意はないが無実とほいいかねる」と評しております。アメリカは第一次大戦のあと、また(孤立主義の立場をとって)内に引きこもり、三〇年代にはヨーロッパに対して影響力をもっておりませんでした。ヒトラーはヨーロッパ支配を望みました。しかも戦争によってであります。ヒトラーはポーランドに戦争の手がかりを求め、これを発見いたしました。戦争の始まる数か月前の一九三九年五月二三日、ヒトラーはドイツ軍の将官を前に次のように言明しております。血を流すことなくこれ以上の成果をあげることはできぬ。……ダンツィヒが当面の目標なのでほない。われわれの関心は、東方における生存圏の拡大であり食糧の確保である……つまりポーランドに手を出さない、などというのは問題外である。残るは最初の好機をとらえてポーランドに攻撃を加える決心をするだけのことである……このさい正義やら不正、条約がどうのなどというのは、一切どうでもいいことである。一九三九年八月二三日、独ソ不可侵条約が締結されました。秘密の付属議定書には目前のポーランド分割についての規定がありました。この条約は、ヒトラーのポーランド進攻を可能にするために結ばれたのです。当時のソ連指導部はこのことを重々承知しておりました。独ソ条約がヒトラーのポーランド進攻、そして第二次大戦を意味していることは、政治について考えている当時の人間ならだれもが知っていることでした。だからといって第二次大戦勃発についてのドイツの罪責が毫も軽減されることはありません。ソ連は、自らの利益のために、他の民族の戦いを止むなしとしたのであります。しかしながら、大戦のイニシャチブをとったのはドイツであって、ソ連ではないのであります。暴力に訴えたのほヒトラーであります。第二次大戦の勃発はドイツという名前と切り離すわけにはまいりません。この戦いの間、多くの民族が国家社会主義の統治の下に苦しみ、汚辱にまみれてきたのであります。苦しめられ、隷属させられ、汚辱にまみれさせられる民族が最後に一つだけ残りました。ほかでもないドイツ民族であります。この戦いに勝利を収める力がないなら、ドイツ民族など亡びてしまうがいい――ヒトラーは繰り返しこう述べております。われわれ自身が自らの戦いの犠牲となる前に、まず他の諸民族がドイツを発火点とする戦いの犠牲となっていたのであります。このあと、ドイツは戦勝国同士の申し合せどおりさまざまな地域に分割されました。この間にソ連は、戦時中ドイツが占領していた東ヨーロッパ、東南ヨーロッパのすべての国に進攻いたしておりました。ギリシャを例外として、これらの国はすべて社会主義国となりました。ヨーロッパは二つの相異った政治体制への分裂の道を辿りだしました。この分裂を固定したのが戦後の情勢であることは確かであります。しかしながらヒトラーが始めた戦いなしにほ、この分裂もなかったでしょう。戦禍に遭った諸民族がドイツの指導者たちの始めた戦いを心に刻むとき、まっ先に考えるのはそのことに他なりません。自らの国土が分割され、ドイツの領土が大きく失われたことをみるとき、われわれが考えるのもそのことであります。五月八日にあたって東ベルリンのマイスナー枢機卿は「罪がもたらす絶望的な結果は常に分裂である」と説いておられます。



破壊も恣意的でしたが、人びとに分かたれた重荷も恣意的でした。罪なくして迫害された者の一方に、まんまと逃げおおせた罪人がおりました。住み慣れた環境の中で新しい生活を築く幸運に恵まれた人たちもいれば、父祖の地を追われた人たちもいました。のちにドイツ連邦共和国となった地域に住むわれわれは、自由という貴重なチャンスを与えられました。(しかし東側には)何百万もの同胞が今日に至るまで自由の恩恵に浴することができないでいます。物質面での復興という課題と並んで、精神の面での最初の課題は、さまざまな運命の恣意に耐えるのを学ぶことでありました。ここにおいて、他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れ去ることをしないという、人間としての力が試されていたのであります。またその課題の中から、平和への能力、そして内外との心からの和解への心構えが育っていかねばならなかったのであります。これこそ他人から求められていただけでなく、われわれ自身が衷心から望んでいたことでもあったのです。
かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか――このことを忘れて五月八日を思い浮かべることはわれわれには許されません。ワルシャワのゲットーで、そしてチェコのリジィツェ村で虐殺された犠牲者たち――われわれは本当にその親族の気持になれるものでありましょうか。ロッテルダムやロンドンの市民にとっても、ついこの間まで頭上から爆弾の雨を降らしていたドイツの再建を助けるなどというのは、どんなに困難なことだったでありましょう。そのためには、ドイツ人が二度と再び暴力で敗北に修正を加えることはない、という確信がしだいに深まっていく必要がありました。ドイツの側では故郷を追われた人びとが一番の辛苦を味わいました。五月八日をはるかに過ぎても、はげしい悲嘆と甚だしい不正とにさらされていたのであります。もともとの土地にいられたわれわれには、彼らの苛酷な運命を理解するだけの想像力と感受性が欠けていることが稀ではありませんでした。しかし救援の手を差しのべる動きもただちに活発となりました。故郷を捨てたり追われた何百万人という人びとを受け入れたのであります。歳月が経つにつれ彼らは新しい土地に定着していきました。彼らの子どもたち、孫たちは、いろいろな形で父祖の地の文化とそこへの郷土愛とに結びついております。それはそれで結構です。彼らの人生にとって貴重な宝物だからであります。しかし彼ら自身は新しい故郷を見出し、同じ年配の土地の仲間たちと共に成長し、とけ合い、土地の言葉をしゃべり、その習慣を身につけております。彼らの若い生命こそ内面の平和の能力の証しなのであります。彼らの祖父母、父母たちはかつては追われる身でした。しかし彼ら若い人びと自身は今や土地の人間なのです。故郷を追われた人びとは、早々とそして模範的な形で武力不行使を表明いたしました。力のなかった初期のころのその場かぎりの言葉ではなく、今日にも通じる表白であります。武力不行使とは、活力を取り戻したあとになってもドイツがこれを守りつづけていく、という信頼を各方面に育てていくことを意味しております。この間に自分たちの故郷は他の人びとの故郷となってしまいました。東方の多く古い墓地では、今日すでにドイツ人の墓よりポーランド人の墓の方が多くなっております。何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく、不正に堪えてきた人びとでした。無抵抗に政治につき従わざるをえない人びと、不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせてみたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合せをしてあげるわけにいかない人びとなのであります。五月八日のあとの運命に押し流され、以来何十年とその地に住みついている人びと、この人びとに政治に煩らわされることのない持続的な将来の安全を確保すること-これこそ武力不行使の今日の意味であります。法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという誡めを優先させることであります。これがヨーロッパの平和的秩序のためにわれわれがなしうる本当の、人間としての貢献に他なりません。一九四五年に始まるヨーロッパの新スタートは、自由と自決の考えに勝利と敗北の双方をもたらすこととなりました。自らの力が優越していてこそ平和が可能であり確保されていると全ての国が考え、平和とほ次の戦いの準備期間であった!こうした時期がヨーロッパ史の上で長くつづいたのでありますが、われわれはこれに終止符をうつ好機を拡大していかなくてはなりません。ヨーロッパの諸民族ほ自らの故郷を愛しております。ドイツ人とて同様であります。自らの故郷を忘れうる民族が平和に愛情を寄せるなどということを信じるわけにまいりましょうか。いや、平和への愛とは、故郷を忘れず、まさにそのためにこそ、いつも互いに平和で暮せるよう全力を挙げる決意をしていることであります。追われたものが故郷に寄せる愛情は、復讐主義ではないのであります。



(四〇年前に終ったヨーロッパ)最後の戦いは、人びとの心の中にいまだかつて例をみない平和への憧れを呼びさましました。教会の手による和解のための努力は大きな反響を呼びました。若い人びとの手による相互理解のための仕事にも多くの実例があります。アウシュヴィッツやイスラエルでの「行動・購いの証し」の活動もその一つであります。ニーダーライン地方クレーヴェの町のある教区には最近、ポーランドのいくつかの教区から和陸と連帯の証しとしてのパンが届けられました。クレーヴェの教区はこのパンの一つをイギリスの一教師に送りました。この教師がそれまでの沈黙を破り、自分は戦時中に空軍の一員としてクレーヴェの教会と民間住宅とを爆撃したとの手紙を寄せ、和睦の証しを求めていたからなのです。この人のように、相手が手を差し出すのを待つのではなく、自分の方から相手に手を差しだすことは、はかりしれないほど平和に貢献するものであります。


 Ⅶ
大戦の結果、かつての敵は人間的にも政治的にも互いに近づくことになりました。すでに一九四六年、アメリカのバーンズ国務長官は、シュトゥットガルトでの記念すべき演説でヨーロッパの相互理解を呼びかけ、ドイツ民族が自由で平和を愛好する未来に向けて歩んでいくことに助力を惜しまないように求めたのでした。戦いの傷を癒そうと、当時数え切れぬほどのアメリカ国民が、敗れたわれわれドイツ人に私財を投じて援助を送ってくれました。フランスのジャン・モネ、ロベール・シューマンら、ドイツ側ではコンラート・アデナウアーらの先見の明のお蔭で、仏独間の長年の敵意は今や永遠に過去のものとなっております。建設の意欲とエネルギーとは新しい流れとなって国中をおおいました。(人びとを分かつ)古くからの溝のいくつかは埋め立てられ、宗教間の対立、社会間緊張は緩和されるに至りました。相携えてことに当ったのです。(すべてを無から始めねばならない、という意味での)「零時」ではありませんでしたが、ことを新しく始める好機でした。能うかぎりこれを利用いたしました。隷属に代えて民主的な自由を定着させてきたのであります。戦後四年たった一九四九年の本日五月八日、議会評議会は基本法を承認いたしました 。議会評議会の民主主義者たちは、党派の壁を越え、われわれの憲法(基本法)の第一条(第二項)に戦いと暴力支配に対する回答を記しております。ドイツ国民は、それゆえに、世界における各人間共同社会・平和および正義の基礎として、不可侵の、かつ、譲渡しえない人権をみとめる五月八日がもつこの意味についても今日心に刻む必要があります 。ドイツ連邦共和国は世界の尊敬を集める国となっております 。世界の高度工業国の一つであります 。この経済力で世界の飢えと貧困と闘い、諸民族の間の社会的(不平等の)調整に寄与する責任を担っていることを承知しております。四〇年来、われわれは平和かつ自由に生きておりますが、北大西洋同盟、ヨーロッパ共同体加盟の自由な諸民族の一員としてのわれわれの政策を通じて、自らも平和と自由のために大きな寄与をしてまいりました。ドイツの地において今ほど市民の自由の諸権利が守られていたことはありません 。他のどんな社会と比較してもひけをとらぬ、充実した社会福祉の網の日が人びとの生活の基盤を確固たるものとしております。戦いが終ったころ、多くのドイツ人が自らのパスポートをかくしたり、他国のパスポートと交換しようといたしましたが、今日われわれの国籍をもつことは、高い評価を受ける権利であります。傲慢、独善的である理由は毫もありません。しかしながらもしわれわれが、現在の行動とわれわれに課せられている未解決の課題へのガイドラインとして自らの歴史の記憶を役立てるなら、この四〇年間の歩みを心に刻んで感謝することは許されるでありましょう。-第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、精神を病んでいる市民に暖かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。
-人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人びとに対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう(拍手)。
-独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、いかなる思想、いかなる批判であれ、そして、たとえそれがわれわれ自身にきびしい矢を放つものであったとしても、その思想、批判の自由を擁護するでありましょう。
-中東情勢についての判断を下すさいには、ドイツ人がユダヤ人同胞にもたらした運命がイスラエルの建国のひき金となったこと、そのさいの諸条件が今日なおこの地域の人びとの重荷となり、人びとを危険に曝しているのだ、ということを考えていただきたい。
-東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、これらの諸国との対立解消、緊張緩和、平和な隣人関係がドイツ外交政策の中心課題でありつづけることの理解が深まるでありましょう。双方が互いに心に刻み合い、たがいに尊敬し合うことが求められているのであり、人間としても、文化の面でも、そしてまたつまるところ歴史的にも、そうであってしかるべき理由があるのであります 。


ソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、ソ連指導部には大戦終結四〇年目にあたって反ドイツ感情をかきたてるつもりはないと言明いたしました。ソ連は諸民族の間の友情を支持する、というのであります。東西間の理解、そしてまた全ヨーロッパにおける人権尊重に対するソ連の貢献について問いかけている時であればこそ、モスクワからのこうした兆しを見のがしてはなりますまい 。われわれはソ連邦諸民族との友情を望んでおるのであります。


   Ⅷ
戦いが終って四〇年、ドイツ民族はいまなお分断されたままであります。今年二月、ドレスデンの聖十字架教会での(大空襲四〇周年)記念礼拝のさい、ヘンペル主教は次のように語っております。きびしい国境に遮られたドイツ人の二つの国の成立-これは心に重く、血の滲む思いがいたします。多くの国境があること自体、心に重く、血の滲む思いがするのであります 。武器は心に重くのしかかっています。さきごろアメリカ合衆国ボルティモア市で「ドイツのユダヤ人」と題する展覧会の開会式が行なわれ、二つのドイツそれぞれの大使が招待されました。招待側のジョンズ・ホプキンス大学学長ほ二人の大使に同時に挨拶し、すべてのドイツ人が同一の歴史の地盤の上に立っていることを指摘されました。共通の過去がすべてのドイツ人を一つの絆で結びつけていて、これは喜びとも問題ともなりうる、しかしいつも変らぬ希望の源である、というのであります。われわれドイツ人は一つの民族であり、一つのネイションであります。同じ歴史を生きてきたのでありますから、たがいに一体感をもっております。一九四五年五月八日も民族の共通の運命として体験したのであり、これがわれわれを一つに結びつけております。われわれは平和への意志という点で一体感をもっております。二つの国になっているドイツの地から、平和、そして全ての国との善隣関係を拡げていかねばなりません。他の人びともドイツの地を平和への脅威とするようなことがあってはなりません。ドイツ民族も含めた全ての民族に対する正義と人権の上に立つ平和、ドイツに住むわれわれは、共にこれを希求しております。壁に囲まれたヨーロッパが、国境越しに心からの和解をもたらすことはできません。国境が互いを分け隔てるものでなくなっているような大陸でなくてはなりません。第二次大戦の結末ほまさにそのことをわれわれに告げているのであります。五月八日が、全てのドイツ人を結びつける史上最後の日付のままであることはない、と確信いたしております。


   Ⅸ
大戦から四〇年たった今、過去についてかくも活発な論議が行われているのはなぜか-この何か月かの問にこう自問したり、われわれに尋ねたりした若い人たちがおりました。二五周年、三〇周年のときより活発なのはなぜか、というのであります。これはいかなる内面の必然性によるのでありましょうか。こうした問いに答えることは容易ではありません。外側からの影響があったことも疑いのないところではありますが、もっばらそこだけに理由を求めてはなりますまい。人間の一生、民族の運命にあって、四〇年という歳月は大きな役割を果しております 。ここで改めて旧約聖書を開くことをお許しねがいたい。信仰の如何にかかわりなく、あらゆる人間に深い洞察を与えてくれるのが旧約聖書であり、ここでは四〇年という年月が繰り返し本質的な役割を演じております。イスラエルの民は、約束の地に入って新しい歴史の段階を迎えるまでの四〇年間、荒れ野に留まっていなくてはなりませんでした(申命記・民数記)。当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに四〇年が必要だったのです。しかし、ほかのところ(土師記)には、かつて身に受けた助け、救いほ往々にして四〇年の問しか心に刻んでおけなかった、と記されております。心に刻んでおくことがなくなったとき、太平は終りを告げたのです。ですから、四〇年というのは常に大きな区切り目を意味しております。暗い時代が終り、新しく明るい未来への見通しが開けるのか、あるいは忘れることの危険、その結果に対する警告であるのかは別として、四〇年の歳月は人間の意識に重大な影響を及ぼしておるのであります。こうした両面について熟慮することは無意味なことではありません。われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。若い人たちにかつて起ったことの責任はありません。しかし、(その後の)歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。われわれ年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っておりません。われわれの義務は卒直さであります。心に刻みつづけるということがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人びとが理解できるよう手助けせねばならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたいと考えるのであります。人間は何をしかねないのか-これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。道徳に究極の完成はありえません!いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険に曝されつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。若い人たちにお願いしたい。他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。


ロシア人やアメリカ人、ユダヤ人やトルコ人、オールタナティヴを唱える人びとや保守主義者、黒人や白人 これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。


若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。自由を尊重しよう。平和のために尽力しよう。公正をよりどころにしよう。正義については内面の規範に従おう。今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しょうではありませんか。
ドイツ語→Richard Karl Freiherr von Weizsäcker (* 15. April 1920 in Stuttgart; † 31. Januar 2015 in Berlin) war ein deutscher Politiker (CDU). Er war von 1981 bis 1984 Regierender Bürgermeister von Berlin und von 1984 bis 1994 der sechste Bundespräsident der Bundesrepublik Deutschland. Von Weizsäcker war nach Theodor Heuss der bisher einzige Bundespräsident, der zwei vollständige Amtszeiten absolviert hat. Mit 3652 Tagen hält von Weizsäcker nach Theodor Heuss die zweitlängste Amtszeit eines Bundespräsidenten mit einem Unterschied von nur einem Tag. In seine Amtszeit als Bundespräsident fiel die deutsche Wiedervereinigung in den Jahren 1989 bis 1990; somit wurde von Weizsäcker der erste Bundespräsident des vereinten Deutschlands.ルーマニア語⇒生涯=Biografi S-a născut într-o aripă a Castelului Nou din Stuttgart ca fiul lui Ernst von Weizsäcker și al Mariannei von Weizsäcker (născută von Graevenitz). Tatăl lui, Ernst von Weizsäcker, a fost ofițer de marină în Primul război mondial, în perioada interbelică diplomat, ajungând în perioada nazistă pe postul de secretar de stat la ministerul de externe condus de Ribbentrop și Oberführer SS în cartierul personal al lui Himmler, posturi din care a demisionat în 1943 fiind numit ambasador la Scaunul Sfânt unde a rămas până în 1946. În 1947 a venit la Nürnberg mai întâi ca martor fiind apoi însă arestat de americani și condamnat în cadrul proceselor de la Nürnberg la 7, mai apoi 5 ani de închisoare. Bunicul lui Richard a fost Karl von Weizsäcker, fost prim-ministru al regatului Württemberg (1906-1908) iar fratele lui a fost fizicianul și filosoful Carl Friedrich von Weizsäcker+リヒャルト・カール・フライヘア・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker、1920年4月15日 - 2015年1月31日)は、ドイツの政治家、貴族(男爵)。キリスト教民主同盟(CDU)所属。西ベルリン市長(在任:1981年 - 1984年)[1]、第6代連邦大統領(在任:1984年 - 1994年)を歴任。里夏德·卡爾·馮·魏茨澤克男爵(德語:Dr. Richard Karl Freiherr von Weizsäcker,1920年4月15日-2015年1月31日),是德國的政治家。德国基督教民主联盟成員,曾於1981年任西柏林市長,1984年至1994年擔任德国联邦总統,而他亦於1990年成為兩德統一後首任總統。出身於德國斯图加特的魏茨澤克,父親恩斯特·魏茨澤克是德國外交官,而其兄長卡尔·冯·魏茨泽克則是一名物理學家及哲學家。由於父親要擔任外交職務,所以他在年幼時曾經伴隨父親到瑞士及丹麥定居。十七歲時,魏茨澤克移居英國,並在牛津大学贝利奥尔学院修讀哲學及歷史。後來,他轉到法國的格勒诺布尔進修。在第二次世界大戰爆發後,他就待在德國陸軍部工作,最後更保留了上尉一職。1945年,他在東普魯士任職期間受傷,被迫退回家鄉養傷。退出戰場後,他就到了德國格丁根大学攻讀歷史及法學。後來,他經過了兩次法官考試,最後於1955年受到推薦。1953年,他與結識日久的瑪莉安娜·馮·克萊舒曼結婚,並育有四子。1954年,魏茨澤克加入了德国基督教民主联盟,其後更在1969年成為德國联邦议会的議員(1969年-1981年)。1981年,他被擢升為副議長,以及西柏林市長。隨後的1984年,联邦会议選舉他為德国总統,以接替離任的卡爾·卡斯滕斯,直至1994年由羅曼·赫爾佐克上任為止。他最為人所知的,也是他的演講。而他也曾經是德國新教教會宗教會議的成員之一(1967年-1984年)。2015年1月31日,於柏林逝世,享年94歲[1]。

JST | 更新 2015年04月14日 18時12分 JST ワイツゼッカー氏と安倍首相の落差 ナチスの罪を直視し、戦後ドイツの周辺国との和解に貢献したワイツゼッカー元ドイツ大統領の公式追悼行事が2月11日、首都ベルリンの大聖堂で営まれた。ことし1月31日、94歳で亡くなった「ドイツの良心」。現地発の共同電は「歴史認識をめぐり日本と中国、韓国の関係が困難に直面しているのに対し、ドイツがナチス時代のイメージを払拭できたのは同氏の功績が大きい」と伝えていたが、その通りだと思う。「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」。こんなフレーズで知られる、あの名演説「荒れ野の40年」(永井清彦訳/岩波ブックレット)を読み返してみた。第2次大戦でのドイツ敗戦40周年にあたった1985年5月8日、連邦議会でおこなった演説である。


折から戦後70年。以下のようなくだりが改めて胸に迫ってくる。


■ワイツゼッカー演説
<大抵のドイツ人は国の大義のために戦い、耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが、一切が無駄であり無意味であったのみならず、犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであった、ということが明らかになったのであります><振り返れば暗い奈落の過去であり、前には不確実な未来があるだけでした。しかし日一日と過ぎていくにつれ、5月8日が解放の日であることがはっきりしてまいりました。......ナチズムの暴力支配という人間蔑視の体制からわれわれ全員が解放されたのであります><一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります><今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれていませんでした。この人たちは自ら手を下していない行為について自らの罪を告白することはできません。ドイツ人であるというだけの理由で、粗布(あらぬの)の質素な服をまとって悔い改めるのを期待することは、感情を持った人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております><問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです>


■韓国、中国の「日独比較」論
過去の侵略や戦争に対する反省、戦後補償のありようをめぐって日本はドイツとしばしば対比されてきた。とくに韓国、中国からは「徹底的に反省し償うドイツと、過去を正当化する日本」といった図式で日本非難が繰り返されてきた。2013年5月、訪米して米上下両院合同会議で演説した韓国の朴槿恵大統領は英語で次のようにぶった。名指しこそしなかったものの、日本を当てこするような内容だった。
It has been said that those who are blind to the past cannot see the future. This is obviously a problem for the here and now.
「過去に目を閉ざす者は...」。まったくの偶然だろうが、朴槿恵大統領がこの演説をおこなった日はドイツ降伏68週年にあたった5月8日、まさにその日だった。朴大統領は、ワイツゼッカー演説を意識していたのは間違いないと思われる。
*詳しくは、韓国大統領府のホームページ参照(後半に英文が載っている)


■東郷和彦教授の論考
ワイツゼッカー演説に類するものは日本にはなかったのか。この点、元外交官(条約局長、駐オランダ大使など)の東郷和彦・京都産業大学教授がその著書『歴史認識を問い直す―靖国、慰安婦、領土問題』(角川oneテーマ21)のなかで、次のような指摘をしているのが、私にとっては目からうろこだった。
▽日本人が自ら総合的に戦争責任と歴史認識について結論を出したのは、戦後50年にあたっての「村山談話」(1995年8月15日)しかない。
▽日本とドイツでは、戦争とのけじめのつけ方が大きく違った。日本はサンフランシスコ条約など一連の戦後処理条約、いわゆる「平和条約」を結ぶことで解決してきたのに対し、ドイツのそれは被害者個人への補償として、相手国との間では、補償を支払うための協約を結ぶことで行われた。
▽そんな異なった背景があるのだとしても、村山談話とワイツゼッカー演説を比べると、そのあまりの違いに驚く。
*村山談話は、外務省のホームページ参照


東郷教授は2つの演説(談話)の違いを下のような表に整理してみせている。


村山談話とワイツゼッカー演説比較
村山談話 ワイツゼッカー演説
(1)誰が? 日本 特定個人。国家でも民族でもない。
(2) 何をして? 植民地支配と侵略 ホロコーストを始めとする列挙された犯罪
(3)どう対処し? 痛切な反省と心からのお詫び 心に刻む
(4)責任者は誰で? 日本(と解釈せざるをえない) 犯罪者ではないが、すべてのドイツ人が結果について責任を負う
(5)具体的行動は? 平和友好交流事業と現在取り組んでいる戦後処理問題に対する誠実な対応 特定列挙せず(被害者個人への償い方式が背景)
東郷和彦著『歴史認識を問い直す―靖国、慰安婦、領土問題』(角川oneテーマ21)より


表は、2つの演説について①誰が、②何をして、③それについてどう対処し、④やったことの責任者は誰で、⑤具体的な行動は何か――を簡潔にまとめている。説明の概略はこうだ。


▽村山談話は包括的・直観的・無前提な形で国家の行為をとらえ、それについて謝罪している。このようなやり方は、近代国家では例を見ない。
▽ワイツゼッカー演説は徹底して個別的・分析的・条件付きである。たとえば個別具体的な犠牲者をリストアップ。ナチス以外のドイツ人について「罪はないが責任はある」とし、「全員が過去を引き受けなければならない」などとしている。東郷教授はさらに、ワイツゼッカー演説の思想的背景としてヤスパース、村山談話の精神的背景としては鈴木大拙との関連性について論考を加えている。その詳細は著書に譲るが、ここで明らかなのは、日本の場合、一つには戦争責任の所在を曖昧にやり過ごしてきた結果が、いま大きなツケとして回ってきているということである。


■安倍首相の「戦後70年談話」
いま、気になるのは安倍首相の歴史への向き合い方である。具体的には安倍首相が8月に予定している戦後70年にあたっての「安倍談話」の中身である。安倍首相はこの間、これに関連して次のようなことを言ってきた。
◇2013年4月の参院予算委員会
「安倍内閣として、言わば村山談話をそのまま継承しているというわけではない。これは戦後50年に村山談話が出され、そして60年に小泉談話が出されたわけであって、これから70年を迎えた段階において安倍政権としての談話をそのときに、いわば未来志向のアジアに向けた談話を出したいと今既に考えている」(4月22日)「侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけだし、それは国と国の関係において、どちら側から見るかということにおいて違う」(4月23日)
◇2014年3月14日、参院予算委員会
「歴史認識については、戦後50周年の機会には村山談話、60周年の機会には小泉談話が出されている。安倍内閣としてはこれらの談話を含め、歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいく」
◇2015年1月25日、NHKの討論番組
「村山、小泉談話、安倍政権としてこうした歴代の談話を全体として受け継ぐ考えは、すでに何回も申し上げた通り。安倍政権としてどう考えているという観点から談話を出したい。このような世界をつくっていくかという未来に対する意思を書き込みたい。いままでのスタイルそのまま、下敷きとして書くことになれば、いままで使った言葉を使わなかった、新しい言葉が入ったという、こまごまとした議論になっていく。そうならないように70年の談話は新たに出したい」(要旨=朝日新聞より)
◇同年1月29日、衆院予算委員会
「村山談話、小泉談話については閣議決定されているものであり、我々は全体として受け継いでいる。先の大戦の反省の上に戦後70年どういう国をつくってきたのか、今後未来に向かってどういう国をつくっていくか発信していきたい。(戦争の教訓は)まさに多くの国民の命を失い、アジアの方々にも多大なご迷惑をおかけした」(朝日新聞より)こうして振り返ると、安倍首相の発言は微妙にぶれている。戦後70年の安倍談話に関しては、このところ、村山談話、小泉談話を「全体として受け継ぐ」という言い方で一貫させているが、「全体として」とは引き継がない部分もあるということなのかどうか。いずれにしても、村山、小泉談話にある「植民地支配と侵略」「痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」といったキーワードが周辺国との関係でどうなるかが大きな焦点になるのは間違いない。


■落差
戦後70年談話に向けて安倍首相が「未来志向」「未来についての意思」「未来に向かって...」といった具合に、「未来」を強調しているのも気がかりである。


東郷和彦教授は、さきの著書で次のようなことも書いている。


▽歴史認識問題との関連で、「未来志向」ということを日本側から言い出すことは、禁句だと考える。被害者の立場にたてば、「未来志向」と加害者が言えば、それは「過去を忘れましょう」と言っているのと同じように聞こえる。
▽歴史に認識に関していえば、「未来志向の未来」とは、中国や韓国が日本に向けて送るべき言葉なのである。


同感である。ワイツゼッカー氏と安倍首相の落差を改めて感じてしまう。

1985/05/09 EXCERPTS FROM SPEECH BY GERMAN PRESIDENT 
Following are excerpts from a speech to Parliament today by President Richard von Weizsacker, as translated by the West German Foreign Ministry: Many nations are today commemorating the date on which World War II ended in Europe. Every nation is doing so with different feelings, depending on its fate. Be it victory or defeat, liberation from injustice and alien rule or transition to new dependence, division, new alliances, vast shifts of power - May 8, 1945, is a date of decisive historical importance for Europe. We Germans are commemorating that date amongst ourselves, as is indeed necesary. We must ourselves find our own standards. We are not assisted in this task if we or others spare our feelings. We need and we have the strength to look truth straight in the eye, without embellishment and without distortion. For us May 8 is above all a date to remember what people had to suffer. It is also a date to reflect on the course taken by our own history. The greater honesty we show in commemorating this day, the freer we are to face the consquences with due responsibility. For us Germans, May 8 is not a day of celebration. Those who actually witnessed that day in 1945 think back on highly personal and hence highly different experiences. Some returned home, others lost their home. Some were liberated, whilst for others it was the start of captivity. Many were simply grateful that the fear had past and that they had survived. Others felt, first and foremost, grief at the complete defeat suffered by their country. Some Germans felt bitterness about their shattered illusions, whilst others were grateful for the gift of a new start.
Liberated All of Us
Yet with every day something became clearer, and this must be stated on behalf of all of us today: May 8 was a day of liberation. It liberated all of us from the inhumanity and tyranny of the National Socialist regime. Nobody will, because of that liberation, forget the grave suffering that only started for many people on May 8. But we must not regard the end of the war as the cause of flight, expulsion and deprivation of freedom. The cause goes back to the start of the tyranny that brought about the war. We must not separate May 8, 1945, from Jan. 30, 1933. There is truly no reason for us today to participate in victory celebrations. But there is every reason for us to perceive May 8, 1945, as the end of an aberration in German history, an end bearing seeds of hope for a better future. May 8 is a day of remembrance. Remembering means recalling an occurrence honestly and undistortedly so that it
becomes a part of our very beings.


Remembering Jewish Dead
Today we mourn all the dead of the war and the tyranny. In particular we commemorate the six million Jews who were murdered in German concentration camps. We commemorate all nations that suffered in the war, especially the countless citizens of the Soviet Union and Poland who lost their lives. As Germans, we mourn our own compatriots who perished as soldiers, during air raids at home, in captivity or during expulsion. We commemorated the Sinti and Roman gypsies, the homosexuals and the mentally ill who were killed, as well as the people who had to die for their religious or political beliefs. We commemorate the hostages who were executed. We recall the victims in the resistance movements in all the countries occupied by us. As Germans, we pay homage to the victims in the German resistance, among the public, the military, the churches, the workers and trade unions and the Communists. We commemorate those who did not actively resist, but preferred to die instead of violating their consciences. Alongside the endless army of the dead, mountains of human suffering arose grief at the dead, suffering from injury or crippling or barbarous compulsory sterilization, suffering during the air raids, during flight and expulsion, suffering because of rape and pillage, forced labor, injustice and torture, hunger and hardship, suffering because of fear of arrest and death, grief at the loss of everything which one had wrongly believed in and worked for. Today we sorrowfully recall all this human suffering.


Burden Borne by Women
Perhaps the greatest burden was borne by the women of all nations. Their suffering, renunciation and silent strength are all too easily forgotten by history. Filled with fear, they worked, bore human life and protected it. It is first and foremost thanks to the women that nations did not disintegrate spiritully on account of the destruction, devastation, atrocities and inhumanity and that they gradually regained their foothold after the war. At the root of the tyranny was Hitler's immeasurable hatred against our Jewish compatriots. Hitler had never concealed this hatred from the public, but made the entire nation a tool of it. Only a day before his death, on April 30, 1945, he concluded his so-called will with the words: ''Above all, I call upon the leaders of the nation and their followers to observe painstakingly the race laws and to oppose ruthlessly the poisoners of all nations: international Jewry.'' Hardly any country has in its history always remained free from blame for war or violence. The genocide of the Jews is, however, unparalleled in history. Who Could Be Unsuspecting? The perpetration of this crime was in the hands of a few people. It was concealed from the eyes of the public, but every German was able to experience what his Jewish compatriots had to suffer, ranging from plain apathy and hidden intolerance to outright hatred. Who could remain unsuspecting after the burning of the synagogues, the plundering, the stigmatization with the Star of David, the deprivation of rights, the ceaseless violation of human dignity? Whoever opened his eyes and ears and sought information could not fail to notice that Jews were being deported. The nature and scope of the destruction may have exceeded human imagination, but apart from the crime itself, there was, in reality, the attempt by too many people, including those of my generation, who were young and were not involved in planning the events and carrying them out, not to take notice of what was happening. There were many ways of not burdening one's conscience, of shunning responsibility, looking away, keeping mum. When the unspeakable truth of the Holocaust then became known at the end of the war, all too many of us claimed that they had not known anything about it or even suspected anything. There is no such thing as the guilt or innocence of an entire nation. Guilt is, like innocence, not collective, but personal. There is discovered or concealed individual guilt. There is guilt which people acknowledge or deny. Everyone who directly experienced that era should today quietly ask himself about his involvement then. The vast majority of today's population were either children then or had not been born. They cannot profess a guilt of their own for crimes that they did not commit. No discerning person can expect them to wear a penitential robe simply because they are Germans. But their forefathers have left them a grave legacy. All of us, whether guilty or not, whether old or young, must accept the past. We are all affected by its consequences and liable for it. The young and old generations must and can help each other to understand why it is vital to keep alive the memories. It is not a case of coming to terms with the past. That is not possible. It cannot be subsquently modified or made undone. However, anyone who closes his eyes to the past is blind to the present. Whoever refuses to remember the inhumanity is prone to new risks of infection.


Remember and Reconcile
The Jewish nation remembers and will always remember. We seek reconciliation. Precisely for this reason we must understand that there can be no reconciliation without remembrance. The experience of millionfold death is part of the very being of every Jew in the world, not only because people cannot forget such atrocities, but also because remembrance is part of the Jewish faith. Seeking to forget makes exile all the longer; the secret of redemption lies in remembrance. This oft-quoted Jewish adage surely expresses the idea that faith in God is faith in the work of God in history. Remembrance is experience of the work of God in history. It is the source of faith in redemption. This experience creates hope, creates faith in redemption, in reunification of the divided, in reconciliation. Whoever forgets this experience loses his faith. If we for our part sought to forget what has occurred, instead of remembering it, this would not only be inhuman. We would also impinge upon the faith of the Jews who survived and destroy the basis of reconciliation. We must erect a memorial to thoughts and feelings in our own hearts.


ドイツ語→Shinzō Abe (japanisch 安倍 晋三 Abe Shinzō [abe ɕinzoː]; * 21. September 1954 in Shinjuku, Präfektur Tokio[1]) ist ein japanischer Politiker und seit dem 26. Dezember 2012 der 63. Premierminister Japans. Er übte dieses Amt bereits vom 26. September 2006 bis 26. September 2007 aus. Abe ist Vorsitzender der Liberaldemokratischen Partei, deren Vorsitz er von 2006 bis 2007 innehatte und seit 2012 erneut einnimmt. Die Zeitschrift Time wählte Abe 2014 zu einem der hundert einflussreichsten Menschen weltweit.[2]Abe vertritt ein Wirtschaftsprogramm mit radikalen geld-, fiskal- und strukturpolitischen Ansätzen. Unter dem Begriff der Abenomics wird Abes Versuch zusammengefasst, mit einem umfangreichen Infrastrukturprogramm (13 Billionen Yen), einer enormen Geldschwemme und Deregulierungen die mehr als zwei Jahrzehnte andauernde Wirtschaftskrise zu durchbrechen. Ob Japan sich in einer Deflationsspirale befindet und ob deflationäre Tendenzen für die Kaufzurückhaltung vieler Japaner kausal sind, ist umstritten.Abe hat seit der Oberhauswahl am 21. Juli 2013 eine parlamentarische Mehrheit in beiden Kammern des Kokkai, und innerhalb der LDP hat es bisher (2017) keinen Widerstand gegen seine Deregulierungspläne gegeben. 2015 wurden diese sogar um mehrere sozialpolitische Punkte erweitert, um der demografischen Entwicklung vorzubeugen.[3][4]フランス語→生涯=Les origines de Shinzō Abe remontent à trois importantes familles, influentes dans la préfecture de Yamaguchi depuis le xixe siècle, les Abe, les Satō et les Kishi. Les Abe étaient une riche famille de brasseurs de saké et de soja. Les Satō et les Kishi, pour leur part, étaient deux importantes familles de l'ancien domaine de Chōshū, liées par des alliances matrimoniales et des adoptions réciproques : ainsi, Shusuke Kishi, arrière-grand-père maternel de Shinzō Abe, a épousé une fille de la famille Satō et a adopté leur nom. En échange, son fils aîné, grand-père de Shinzō Abe, né Nobusuke Satō, a à son tour été adopté par la famille Kishi qui n'avait plus d'héritier mâle1,2. L'un de ses arrière-grands-pères est le général Ōshima Yoshimasa. Le grand-père maternel d’Abe est donc Nobusuke Kishi, Premier ministre du Japon de 1957 à 1960, qui fut par ailleurs emprisonné comme suspect de crime de guerre de classe A de 1945 à 1948, en tant qu'ancien haut fonctionnaire du Mandchoukouo, puis du ministère du Commerce et de l'Industrie dans le cabinet de guerre du général Hideki Tōjō. Emprisonné durant trois ans par les Américains, il fut finalement libéré sans assignation devant le Tribunal de Tokyo. Anticommuniste et pro-américain, il mène une politique visant à réinsérer son pays dans le concert des Nations et est l'artisan de la signature en 1960 du controversé traité de coopération mutuelle et de sécurité entre les États-Unis et le Japon, renégociation plus équilibrée entre les deux parties d'un précédent traité mutuel de sécurité passé en même temps que le traité de San Francisco en septembre 1951 qui mettait fin à l'occupation du Japon. Shinzō Abe présente son grand-père comme son modèle en politique, y voyant notamment la référence d'un de ses principaux objectifs : tourner la page de ce qu'il appelle la « société d'après-guerre » et redonner une fierté nationale au peuple japonais3. Dans son livre intitulé Vers un magnifique pays (美しい国へ, Utsukushii kuni e?), Abe a écrit : « Certains avaient l'habitude de montrer du doigt mon grand-père comme un « suspect de crimes de guerre de classe A » et je ressentais une profonde répulsion. À cause de cette expérience, je pourrais bien être devenu attaché émotionnellement au « conservatisme », au contraire4. » Shinzō Abe est le petit-neveu d'un autre Premier ministre, Eisaku Satō, frère de Nobusuke Kishi et jusqu'à présent le chef de gouvernement japonais à être resté le plus longtemps en fonction de 1964 à 1972 (durant le Boom Izanagi, période de forte croissance économique, il a reçu de plus en 1974 le prix Nobel de la paix conjointement avec l'irlandais Seán MacBride, pour sa politique étrangère pacifiste et son rôle dans la préparation et la signature du traité sur la non-prolifération des armes nucléaires). Son grand-père paternel, Kan Abe, a également été un homme politique, député indépendant à la Chambre des représentants de 1937 à 1946. Le père d’Abe est Shintarō Abe, gendre et héritier politique de Nobusuke Kishi devenu une figure politique importante et influente dans les années 1980, ancien ministre des Affaires étrangères et secrétaire général du Parti libéral-démocrate, le parti conservateur libéral au pouvoir sans discontinuer de sa création en 1955 jusqu'à 1993 et de 1994 à 2009. Le frère cadet de Shinzō Abe, Nobuo Kishi (né Abe mais adopté par son oncle maternel), est lui aussi un homme politique du PLD, élu à la Chambre des conseillers pour la préfecture de Yamaguchi depuis 2004. Dans son arbre généalogique se trouve également Yōsuke Matsuoka, ancien ministre des Affaires étrangères du Japon impérial (1940-1941) et qui fut à l'origine du Pacte tripartite signé le 27 septembre 1940.아베 신조(일본어: 安倍 晋三, 1954년 9월 21일 ~ )는 일본의 정치인이다. 자유민주당 소속의 중의원 의원이자 제90·96·97·98대 일본의 내각총리대신으로,[1] 제21대 자유민주당 총재이다. 대학 졸업 후 고베 제강소의 직원으로 일했고, 외무대신의 비서관을 지냈다. 내각관방장관, 내각관방부장관, 자유민주당 간사장과 총재를 지냈으며, 2006년 내각총리대신으로 임명되었으나 이듬 해 사임했다. 2012년 다시 내각총리대신직에 복귀했다. 2013년 야스쿠니 신사 참배로 대한민국과 중국으로부터 많은 비판을 받았다.총리대신이 되기 전에는 제37대 자유민주당 간사장을 지냈으며, 제72대 내각관방장관, 제21대 자유민주당 총재를 지냈다. 2012년 12월 총선에서 다시 승리하여,[2] 5년 3개월만에 다시 총리대신으로 올랐다.2017년 10월 총선에서 또 다시 승리하여, 98대 내각총리대신이 되었다.

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