日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

【Physical Body≪Glitter or Gold≫Michael Olajide Jr】 Everyday、Катюша/Katyusha rocket artillery『週末NOT YET』?終りВаси́лий 'Тигр' Жи́ров/Томас 'The Hit Man' Хирнс《Monday(Lundi)Tuesday(Mardi)Wednesday(Mercredi)》Expansionnisme du Japon Shōwa「清算されない戦争責任」2018/07/27 Canada





(1)、1996年 アトランタ五輪準決勝 ワシリー・ジロフ(カザフスタン=217勝10敗+世界選手権(93年タンペレ大会)銅メダル(95年ベルリン大会)銅メダル・アジア選手権(94年広島大会)銅メダル)VSアントニオ・ターバー(アメリカ(銅メダル)=158勝8敗+世界選手権(95年ベルリン大会)優勝金メダル=31勝(22KO)6敗1分=後にクルーザー級世界王者(ロイ・ジョーンズ(ソウル五輪銀=5階級制覇)に2勝(1KO)1敗と勝ち越した)。
ーサウスポー対決。ジロフが判定勝ち。
(2)、1996年 アトランタ五輪決勝 ワシリー・ジロフVS李承培(이승배Lee Seung-Bae(銀メダル)=バルセロナ五輪銅メダル+アジア選手権(94年広島大会)優勝金メダル(98年バンコク大会)銀メダル=プロ入りはしなかった)
ー同じくサウスポー対決。ジロフの判定勝ち。金メダル獲得。アマ時代のジロフはそれなりに、トップアマらしい「ボクシング」もしていた。
(3)、1999年6月5日 IBF世界クルーザー級タイトルマッチ 王者アーサー・ウイリアムス(30勝(22KO)4敗1分=47勝(30KO)17敗1分)VS挑戦者ワシリー・ジロフ(20連勝(18KO)無敗=38勝(32KO)3敗1分)ミシシッピ州ビロクシ
ージロフが7回TKO勝ちで新王者に就く。ジロフはプロ向き。アマチュアのエリートとは思えない実戦派。ニックネームは’Tiger’(虎)。スタイルは異なるにせよ、右構えのジュー(父親は朝鮮・モンゴル系・母親がロシア人)に似ている(叩き上げ型)。ボディーブローを多用し、積極的に攻撃する(結構パンチは食うながら、びくともせず前進)。この試合も初回から激しい打ち合いとなった。3回にボディー攻撃でダウンを奪い、一進一退。7回にボディーブローでもう1度倒し、ウイリアムス(ロイ・ジョーンズ、ビンス・フィリップスと同郷=フロリダ州ペンサコーラ出身)をストップした。
(4)、2003年4月26日 IBF世界クルーザー級タイトルマッチ 王者ワシリー・ジロフ(31連勝(27KO)無敗)VS挑戦者元二階級王者ジェームズ・ト二ー(65勝(43KO)4敗2分=77勝(47KO)10敗3分)コネチカット州フォックスウッド・リゾート
ート二ーが3-0の判定で王座奪取。ジロフは7度目の防衛ならず(6度(5KO))。すさまじい打撃戦。ながら’Lights out’(相手を消してしまう)の異名通り、ト二ー(かつて無敗の36連勝(23KO)中だった王者ナンをノックアウトしミドル級タイトルを強奪)はほとんどクリーンヒットは許さなかった(しかしジロフのボディー攻撃は有効だった)。KO負けはなく、解説の故スチワードも「誰も完全にジェームズ(ミシガン州グランドラピッズ出身⇒一時期ハーンズ(テネシー州メンフィス出身)の屋敷(豪邸・デトロイト)に居候していた)を負かしてはいない」と語っていた(初黒星(判定負け)を喫したロイ・ジョーンズのパンチも、のらりくらりとうまく外していた)。ジロフについてトレーナーのトミー・ブルックス(元ホリーフィールド及びタイソンのトレーナー)も「ワシリーの防御は、攻撃だ」(攻撃こそ最大の防御、そのもののスタイル)と強調していた。しかし↑の「アマ時代」に関して、スチワード(元全米ゴールデングローブ覇者=プロ入りはせず)も「ジロフはアマチュア出身で、当然ボクシングもできるのだから、するべきだ」と語っていた。しかし最終回に、ダウンを奪われたジロフの初黒星(ちなみにHBO放送では僅差ながら、この回までジロフの勝ちとなっていた)。アマチュア時代、祖国カザフスタンでのジロフの鍛錬法が紹介されていた(シェパード犬と追いかけっこし、戦う・湖のど真ん中に落とす。生きるために岸まで泳ぐ)。ジロフはアトランタ五輪後、アメリカのアリゾナ州(アメリカ人女性と結婚)に移住した。同国人の英雄、ゲンナジー・ゴロフキン(Gennady Gennadyevich Golovkin≪GGG = Triple G≫Геннадий Геннадьевич Головкин父親がロシア人・母親は朝鮮系・世界選手権(2003年バンコク大会)優勝金メダル・アテネ五輪銀メダル(345勝5敗)+37連勝(33KO)無敗=40勝(35KO)1敗1分)の先駆者ともいえる。

①余談としてかつてゴロフキンとスパーリングで手合わせした村田選手(Мурата Рьота (яп. 村田 諒太Ryōta Murata(奈良県出身) 12 січня 1986)ロンドン五輪優勝金メダル・世界選手権(2011年バクー大会)銀メダル・アジア選手権(2005年ホーチミン(旧サイゴン)大会)銅メダル(119勝(89RSC)18敗)16勝(13KO)3敗)が「ガードの隙間をぬってパンチを当てるのがすごくうまい」と感心していたのが印象に残っています②【追記2022年12月20日】全く知りませんでした=『Big Drama in JapanーGennady Golovkin vs. Ryōta Murata』2022年4月9日、さいたまスーパーアリーナ Сайтама Супер Арена, СайтамаでIBF世界ミドル級王者ゲンナジー・ゴロフキンと2団体王座統一戦を行いMurata suffered a ninth-round TKO loss(時間をみつけ次第、観戦します!I will watch it as soon as I find time!)。
フランス語→Vassiliy Jirov est un boxeur kazakh né le 4 avril 1974 à Balqash. Champion olympique aux Jeux d'Atlanta en 1996 dans la catégorie mi-lourds, il passe professionnel l'année suivante et devient champion du monde des lourds-légers IBF le 5 juin 1999 en battant Arthur Williams par arrêt de l'arbitre à la 7e reprise1. Jirov conserve sa ceinture 6 fois avant de s'incliner aux points face à l'américain James Toney le 26 avril 2003.





(1)、1986年1月11日 ミドル級世界ランカー対決 ノンタイトル10回戦 マイケル・オラジデ(カナダ+15連勝(12KO)無敗=27勝(19KO)5敗)VSカーチス・パーカー(17連勝(14KO)無敗=28勝(21KO)6敗=29勝(21KO)9敗)ニュージャージー州アトランティックシティ
ーオラジデが強打のパーカー(’フィラデルフィアの殺人パンチャー’の異名)に10回判定勝ち。オラジデ・ジュニア(英国ロンドン生まれバンクーバー育ちのカナダ国籍)父シニア(アフリカ・ナイジェリア出身)はニューヨークを拠点にしたトレーナー(一時期キャッツキル、ダマト門下タイソンといっしょにいたこともある)。ハンサムなオラジデは「リングのマイケル・ジャクソン」の異名を持ち、登場時(リング入り)のBGMも「スリラー」だった。17歳、横浜で解体作業の仕事に励みながら『ボクシングマガジン』の新人紹介欄で知った(次戦で再びランカー対決、’岩石男’デーブ・グリーン(米(黒人)+21勝(14KO)6敗1分=22勝(15KO)10敗2分)に判定勝ちしたばかり)。このオラジデのことを考えていたのを覚えている(当時は「映像」を見るのはまず不可能=前に参照した「ビデオ」も入手できる試合は限られ、おまけに’値段’はバカにならなかった(苦笑)。
(2)、1987年10月10日 IBF世界ミドル級王者決定戦 1位マイケル・オラジデ(23連勝(17KO)無敗)VS2位フランク・テート(ロス五輪米代表優勝金メダル(125勝15敗)+20連勝(12KO)無敗=41勝(24KO)5敗)ラスベガスシーザーズパレス
ーレナード(ハグラーに判定勝ちし4階級制覇達成)が返上したため、ミドル級はWBA/WBC/IBF3団体、全て空位になった。大半の予想を覆して(試合前の予想はオラジデ(上位ランカーを立て続けに連破)やや有利(賭け率も2-1)だった)テート(デトロイト出身元クロンク門下生)が7回と11回にダウンを奪い、圧勝(大差の15回判定勝ち)。スピードと回転の速さ、小回りで増すテート(ナンに9回TKO負けで王座転落)がオラジデを翻弄(2発打てば5発打ち返される)。オラジデ(前戦において無敗ランカー対決、22連勝(18KO)中のトロイ・ダーレル(米領・バミューダー諸島)から初回、2度のダウンを奪い判定勝ち+ダーレルは次戦でテートにも判定負け=2連敗)の初黒星(延期が重なり約半年のブランクも影響した)。この試合についても痛恨の思い出(苦笑)。アメリカメイン州の田舎テレビ放送により、「骨董品」番組に切り替えられてしまった(よくあること)。すでに故人となった兄貴分の家で、ニュースを見た(オラジデが勝つと確信していたので呆然自失)。
(3)、1988年6月3日 ミドル級世界ランカー対決 ノンタイトル10回戦 マイケル・オラジデ(25勝(18KO)1敗)VSアイラン・バークレー(23勝(15KO)4敗=47勝(27KO)13敗1分)ニューヨーク
ー生き残りを賭けた一戦。バークレー(後にナンにも挑戦し、判定負け+この一戦の無気力及び消極戦法により、ナンは人気と評価をがっくり落とす)はWBAタイトルの決定戦でスンブ・カランベイ(イタリア(アフリカ・スーダンから亡命(難民)+アマ90勝5敗⇒1、無敗の38連勝(22KO)中だったサウスポー1位のへロール・グラハム(英(黒人)=ハメドの先輩+アマ時代、ジュニア世界選手権決勝でムガビを破った)に10回判定勝ちで土をつけた(再戦も判定で返り討ち)2、32連勝(29KO)無敗のマッカラム(後、グラハムに判定勝ち)の挑戦を判定で退け、初黒星を与えた3、後にナンとの統一戦で初回KO負け)42勝(28KO)3敗1分=57勝(33KO)6敗1分)に判定負け。試合展開は壮絶な乱打戦となる。体のパワーで勝るバークレーが圧力をかけ3回に先制のダウンを奪う。しかし4回、オラジデは得意の左フックをカウンターで命中させダウンを奪い返す。KOを狙って猛然と打って出る(何発かいいパンチも当った)が倒せず。バークレーは5回開始早々またダウンを奪い、そのままオラジデをストップした(オラジデは激しく抗議していたが、あの有様ではやむを得ない)。モントリオール時代、アパートの一室はオラジデの写真・ポスター群一色だった思い出も懐かしい(『リング誌』『KOマガジン』(世界王者になってもいないのに表紙を飾り、カラーポスターが巻頭についたのは「ゲリー・クーニー」(ヘビー級白人ホープ=ホームズに挑戦して13回TKO負け)「ムガビ」とこのオラジデぐらい)から切り取った白黒写真が多かったけど)。
(4)、1990年4月28日 WBO世界スーパーミドル級タイトルマッチ 王者トーマス・ハーンズ(アマ155勝8敗+46勝(38KO)3敗1分=61勝(48KO)5敗1分)VS挑戦者マイケル・オラジデ(27勝(19KO)3敗) ラスベガス
ーハーンズが9回にダウンを奪い、12回判定勝ち。オラジデは2連敗(前戦ではデニス・ミルトン(マクラレンに6回判定勝ち(世界戦では)ジャクソンに初回KO負け)に10回判定負け)。しかし前戦宿敵レナードとの2度目の対決(3回と11回にダウンを奪いながらも、3者3様の引き分け+モントリオールの由緒あるポール・ソーヴェ・アリーナの大スクリーンで観戦。ファンは「判官びいき」(タイトル統一戦だった初戦は14回TKO負け)も作用したとはいえ、圧倒的にハーンズを応援(絶えず歓声があがっていた)。レナード(画面に現われるや凄まじいブーイング)の不人気にはびっくりした。当時、すでに落ち目だった往年のヒルトン兄弟もいた)試合ほど出来は良くなかった(もう全盛期は過ぎた晩年(ハグラー(3回KO負け)バークレー(3回KO負け)に敗れた後)9回はノックアウトを狙って猛連打のあと息切れ。逆にオラジデに攻め返され危なかった)。一方、オラジデはこの一試合前からアンジェロ・ダンディー(元アリ、レナードのトレーナー)を迎え、スタイルを一新(’いでたち’もそれまでのニックネーム『The Silk絹(きぬ)』から、トランクス他すべて『THE BATMAN』一色になった)。足を使って待機戦法、後半かなり追い上げたものの、ハーンズが終始優勢だった(オラジデはこの試合から往年の「長髪」を短く刈りこみ登場「パンチを受けたときの見栄えが悪い」とのこと)。オラジデもすでに峠は越えていた(=次戦で無名の選手にノックアウト負け(3連敗)これがラストファイトとなる)。



↑引退後、オラジデは「ボクセサイズ」(フィットネス)のコーチとなった。
2018年7月29日(日)
おはようございます。再び「鉄人48歳」、なかなか疲れがとれない。悪夢だけは相変わらず。去年の今ごろは手術そして8月一杯入院。いろいろありました(正直、なんでいっつも「生き残る」のか・・・まさに「神の思し召し」Ordain&Ordeal「宿命」=不可抗力/Force Majeure(注)そのものなんでしょう) 。仕事場のジムでは、はじめの2日間トレーニング夜当番の先輩ベトナム人従業員(日本出身だといったらびっくりしていた=「ベトナム人に見える」)。すぐ仲良くなり、すでに入魂。日本にいたというフィットネスコーチのお兄ちゃん(ネパール系(インド生まれ)イギリス人)「日本はすばらしい、でもきみは日本人にみえない」あるいは中国系のおじさん「きみはどこの人だ?フィリピンかタイか?」「日本です」というとみんな珍しがりびっくりする。みんな親切で優しいのはおんなじ・・・けど、あんま「日本」云々は耳にしたくも口に出したくもない(仕事中もいろいろさまざまと頭に浮かんでホンマ、わずらわされる)お決まり→「日本だけが特別じゃないJapan is not special」「反日anti-Japan」「むかしのことをいつまでもいうなDon't keep talking about the past」「歴史とはそういうものHistory is like that」「過去は変えられないcan't change the past」「’英霊’を冒瀆する気か?Do you intend to blaspheme the 'spirits of the heroes?'」「いろいろな見方があるThere are many different points of view」「他だって同じことをやったOthers did the same」「日本(ナチス・ドイツ?)は良いこともしたJapan (Nazi Germany?) did some good」「みんなそれぞれ苦労しているEveryone is struggling」「日本人じゃないI am not Japanese地球人だearthling」blase blase(I'm sick to death of hearing those crap)I'm done!!/J'ai fini!!→All of those NIP&JAP things has been and are only disturbing me残念ながら本音(涙)。悲しいけど現実はどうにもならない↓
①Trial by ordeal, a religious judicial practice to determine "the will of God"②不可抗力(英语:Force majeure)是法律术語,一项免责条款,解作一種人們不能预见、不可避免、不能克服的自然、社會現象客观情况。自然现象包括但不限於天災人禍如地震、颱風、洪水和海啸;社会现象則包括但不限於战争スペイン語⇒不可抗力La fuerza mayor o causa mayor, también conocido como mano de Dios o en latín vis maior, es un hecho que no se puede evitar y tampoco se puede preverJap為英文中对Japanese的略稱잽 (용어),泛指日本人Япончик、日本語及日本國等。現今這個詞在某些情況下會被視為帶有種族歧視的意涵,日裔美國人認為這是帶有爭議或冒犯的術語,即使是被用作縮寫亦是如此《東洋鬼Jjokbari쪽발이日本鬼子残酷》


(1)、1980年8月2日 WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者ホセ・ピピノ・クエバス(メキシコ=27勝(24KO)5敗=35勝(31KO)15敗+11度防衛(10KO))VS挑戦者トーマス・ハーンズ(28連勝(26KO)無敗)デトロイト・ジョールイスアリーナ
ーハーンズが戦慄の2回ノックアウト勝ちで新王者に輝く。クエバスは何もできないまま、無惨に倒された。「ハーンズは強い・・・若さに負けた」。両者とも同年齢の22歳ながら(方や長年世界王者でおカネも稼いだ(18歳で戴冠(2回KO勝ち(パンチ力は凄まじかった)’ヤング・ライオン’の異名)以来9連続KO防衛(初防衛戦で来日(端正なマスク、眼光鋭い獰猛、精悍な若武者だった)=金沢で日本王者サウスポーの辻本章次(兄弟ボクサー(奈良県出身)兄英守は日本ライト級王者)を6回、豪腕荒れ狂い3度倒しノックアウト)・一方、ハングリーな新鋭)これがクエバス最後の世界戦になってしまう。試合後、歓喜にごったがえすハーンズ陣営の喧騒をかきわけて盟友ケンティが弟分を抱擁。涙を流しながら二人で殊勲を分ち合う(いつまでも終らない。感動的な光景であった)。
(2)、1987年10月29日 WBC世界ミドル級王者決定戦 1位トーマス・ハーンズ(44勝(37KO)2敗)VS2位ファン・ドミンゴ・ロルダン(アルゼンチン+65勝(45KO)3敗2分=67勝(47KO)5敗2分)ラスベガス・ヒルトンホテル屋外特設会場
ーレナードが返上したタイトルの決定戦。ハーンズが’ハンマー’の異名を持つロルダン(ハグラーに挑戦し、10回TKO負け)を4回に沈め、4階級制覇なる。初回に2度、2回にもダウンを奪いながらロルダンの強打に苦しんだ一戦(4回は左フックを顎に食らい、危なかった)。
再び「週末ノットイエット」は黄昏・・・休みはあっという間に終わってしまう。ホンマ、「暗い日曜日」の夜・・・幼少時代からの名残は去らず気が滅入る。また明日「月曜日」、新たな週の始まり。がんばります!!
                                                                        ’無敵皇軍’悲話
1944年(昭和19年)のビルマ方面軍所属第15軍司令官牟田口廉也の功名心から企画されたインパール攻略をめざす作戦は、
「インパールは非常に長大な補給線をもたねばならず、加えて、アラカン山系の道もないような山や谷を越えなければなりません。後方補給はどのように準備されますか」という第5飛行師団長長田副登の深い憂慮を、
「補給線をもとうとするから苦労しなければならん。貴官はよく空中輸送のことをいわれるが、インパールのような山や密林では、飛行機では輸送もできん。嶮難な山道だから、地上の輸送もあてにすることはできん。それで、わしはジンギスカン遠征の故智にならって、牛と羊をいっしょにつれて行く。(中略)向うへ行けば、草があるから、飼料には不自由しない。糧秣がなくなれば、牛や羊を殺して食う。また’ほしい’を十分に用意して、それを牛の背に積んで行く。’ほしい’は、かさは少なくても、水につければ立派な飯になる。このようにして行けば、相当長期にわたる糧秣も簡単に持って行くことができる」と簡単に一蹴し、
「それにしても、ある程度の補給線は確保しなければなりますまい。これに対しては、敵は飛行機で相当しつこく妨害にでるでしょう。現在、ビルマに出てくる飛行機だけでも、1月には延2500機に達しています。これを一々追い払うことは、とてもできかねます。現在、私の所の飛行機は戦闘機が2個戦隊、軽爆、司偵各1戦隊ですが、実際に動ける飛行機は合せて百機ぐらいなものです」
「いや、いいよ、いいよ。(中略)飛行機が少なかろうと、弾薬糧秣がなかろうと、わしは、乗りかかった船だから、断じてやるという重ねての問答によってもよく理解できるように、まったく彼我の戦力の格段の差を無視して開始された、乱暴きわまる作戦であったのである(高木俊朗『インパール』)。はたせるかな、高度に機械化された装備により周到な反撃の態勢を整えていた英印軍によって、劣悪な装備と補給線を欠いた日本軍がまともな戦闘を交える力のあるはずがなく、弾薬も食糧も尽きはてた敗走の途上、敵の追撃と治療のすべもない傷病と食糧の欠乏とによる飢餓などによって将兵は続々と路上に倒れ、参加兵力約10万の内約3万が死に、約2万が病に倒れ、残存約5万の半数が患者という惨々たる結果に終わったのであった。第31師団長佐藤幸徳は、牟田口の無謀非道な作戦強行に激怒して独断退却を決意し、説得のため来訪した軍参謀長に対し、
「インパール作戦の現状は”大陸のガダルカナル”ともいうべき悲惨な失敗におちいっている。(中略)しかるに牟田口は、いたずらにインパールに妄執している。牟田口の考えているのは政治であって、戦略ではない。自分は親補職として、陛下の軍隊を無意味に餓死させるようなことはできない」と上官を呼び捨てにして罵り、将兵に「無意味」な死を迫る命令を拒んで退却の決意を実行し、抗命の罪が故に師団長の職を解任され、軍法会議に付せられるのもあえて恐れなかった(高木俊朗『抗命』)この類の無謀な作戦によって過大な戦死者を出した例は、規模の大小の差こそあれ、いたるところの戦線で見られたようである。
例えば1944(昭和19)年の中国戦線で第20連隊長と第2大隊長和田健男との間で、次のような激論の交えられた事実の記録がある。
和田「聯隊長殿、会竜山の敵陣地は頂上に向って四段構えであり、障害物の鹿砦は陣前にありますし側防も準備されており、陣地に至る道路には地雷原があります。しかも岩石山で見下ろされており、途中遮蔽物がまったくありません。この陣地を攻撃するには、今夜と明日にかけて十分敵情地形、側防機能等を捜索して明日夜か明後日の黎明攻撃をするのが適当と考えます。そうしなければ、いたずらに損害を出すだけであります」
聯隊長「そんな悠長なことは出来ん。浜口部隊は今夜 岩を夜襲するんだ。和田部隊はどうしても夜襲せよ」
和田「聯隊長殿、浜口部隊は敵の正面に到着したのは昼ではありませんか、和田部隊はこの薄暮に到着したばかりであります。全く状況がちがいます」
聯隊長「和田部隊は、如何なる困難があろうとも今夜聯隊旗の名誉にかけて夜襲せよ」
和田「そんな無茶苦茶な命令を聞くことは出来ません」
聯隊長「何!!貴様は聯隊命令に違反するか!!聯隊長の命令は畏くも天皇陛下の命令だぞ!!」
和田「聯隊長殿、和田大尉は部下が犬死することがわかっている命令を下すことは出来ません」
聯隊長「何が犬死か!!立派な名誉の戦死だ」
和田「何が名誉の戦死ですか!!百%不成功とわかっているのに攻撃して戦死するのは犬死であります。昔からよくいわれる一将功なり万骨枯るという典型的見本であります」
第2大隊長は抗命の罪を賭してついに夜襲の命令に服しなかったが、その後もまたまた同じようなことが起っている。突如聯隊長が電話をかけて来た
「和田部隊は今夜、洞門陣地を夜襲すべし。但し攻撃は奇襲である」
「聯隊長殿、この陣地は重火器によって鹿砦を破壊しなければ突入出来ませんから強襲をやります」
「和田大尉、強襲は絶対駄目だ。奇襲をやれ」
「聯隊長殿、奇襲は敵に企図を秘匿して攻撃出来る時、しかも奇襲で突撃出来る野戦の陣地でなければ効果はありません。この陣地は堅固な障害物があり、しかも敵が待ち構えているのに奇襲など意味がありません。いたずらに損害を受けるだけであります。和田部隊はすでに強襲の諸準備を完了して、攻撃の時機を時間待ちしているのですから絶対奇襲命令を聞くことは出来ません」
聯隊長は一昨日電話で激論を戦わしたためか余り高飛車に出ることなく
「和田大尉、頼む。今回だけは聯隊長の命令を聞いてくれ、頼む」
「聯隊長殿、奇襲をすれば失敗することが判っていますが、それでも命令されますか?」
「失敗すれば責任を持つ」
「損害の責任を聯隊長殿はどのようにして取られるつもりですか」
「馬鹿!!和田大尉!!強襲は絶対許さんぞ」
戦術常識を逸脱したこの聯隊長の敵情陣形の判断と命令、(中略)この陣地、この地形、奇襲出来るものではないのに・・・聯隊長は何故わかってくれないのであろう。もし失敗すればこの前途ある青年たちを犠牲にすることになるのに・・・第2大隊長は今回はやむなく命令を実行するが、はたして犠牲は大きかった。息せき切って走ってきた一人の兵隊、「大隊長殿!!」見れば目にはいっぱいの涙、顔は涙でくしゃくしゃ。最悪の予感が的中した。胸をつまらせながら、「斉藤分隊長以下戦死多数、残った者殆ど重傷。全滅です・・・残念です」星明りに映し出されたその顔が声を挙げて泣き出した。(中略)嗚呼、何故もっと強く聯隊長に反抗しなかったのであろう。もし大隊長として自己の信念の下に命令をはねかえしていたならば・・・、しかし、既に後のまつり、戦死した霊魂は再び帰っては来ない。以上は、『嵐兵団歩兵百二十聯隊史 血涙の記録』所収の当時の大隊長和田健男自らの筆に成る文章であるが、和田は聯隊責任者として巻末のことばのなかで、「勿論戦争は人間と人間の殺し合いである。何人かはその犠牲となる。然し、その犠牲を最小限に留めて任務を達成する為にこそ戦術がある。又これに向って最善の努力をするの各級指揮官の当然の義務である。(中略)然るに近代戦に於て日清・日露戦争当時と同じような攻撃をして、あたら多くの将兵を死地に投じた上級指揮官の作戦指導に、私は全身の血が逆流する怒りを感ずる
と所感を述べている。15年戦争の全体が、軍最高首脳の無謀な戦争開始により多くの国民を死地に投じた暴挙であったし、和田の言うとおり戦争をする以上戦死者の出るのは不可避であったとしても、上引たった2例だけとはいえ、上級指揮官の常軌を逸した作戦命令のために犠牲者の数を激増させた責任問題は、きびしく問われなければならない(家永三郎『戦争責任』(1984年・岩波書店)頁191-194)


(1)、1988年6月6日 WBC世界ミドル級タイトルマッチ 王者トーマス・ハーンズ(45勝(38KO)2敗)VS挑戦者アイラン・バークレー(24勝(16KO)4敗)ラスベガス・ヒルトンホテル
ーバークレーが大番狂わせの3回KOで新王者に就く。ハーンズは2回まで軽快に打ちまくっていたが、リズムが乱れ始め、パンチの交換でバークレーの右フックがカウンターとなる。よろめいたところもう一発右が炸裂しヒットマンは轟沈(キャンバスに後頭部を強打)。なんとか立ち上がったところ後続連打を浴び、ロープ外に崩れ落ちた。アメリカにいましたが、SHOWTIME放送(一般のテレビではみれない)はほとんど見れなかった。バークレーがハーンズを仰向けに倒し、リング外に叩きだした場面をニュースでみて驚嘆したのを覚えている。なお、この敗北を境にハーンズは衰えが顕著になっていく。
(2)、1991年6月3日 WBA世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者バージル・ヒル(ロス五輪銀・ワールドカップ(83年ローマ大会)銅(288勝11敗)30連勝(18KO)無敗=51勝(24KO)7敗+10度防衛(3KO))VS挑戦者トーマス・ハーンズ(48勝(40KO)3敗1分)ラスベガス・シーザーズパレス
ーハーンズが3-0の判定で合計6度目の王座に戴冠(ヒルの初黒星)。クロンク・故スチワードから離れての一戦。試合を通じて、ジャブの突き合いだった。左ジャブ以外あまり手が出ないヒル(ミズーリ州クリントン出身+原住民(チェロキー族Cherokee)の血を引く)と、長距離からいろいろなパンチを放つハーンズの差異が勝敗を決定づけた。そしてハーンズは次の試合において、再戦したバークレー(4回痛烈なダウンを奪われる)に判定負けで王座転落。相性が大きかったといえる。


(1)、1980年8月2日 WBA世界ライト級タイトルマッチ 王者ヒルマー・ケンティ(アマ106勝30敗+17連勝(13KO)無敗=29勝(18KO)2敗)VS挑戦者呉英鍋 (39勝(22KO)7敗3分=43勝(27KO)12敗3分)デトロイト・ジョールイスアリーナ
ーメインはクエバスVSハーンズ。セミだったこの試合(その前がセラノVS上原=上原の6回KO勝ち)、王者ケンティが東洋王者呉を圧倒し9回にストップした。
(2)、1982年10月24日 ライト級ノンタイトル10回戦(世界ランカー対決) ヒルマー・ケンティ(22勝(16KO)1敗)VSロベルト・エリゾンド(24勝(20KO)3敗=32勝(23KO)6敗)ニュージャージー州グレート・ゴージリゾート
ーエリゾンド(WBC王者の故アルゲリョに挑戦し、7回KO負け)が2回終了TKO勝ちでケンティを破る殊勲(余勢を駆って後任WBC王者(アルゲリョが返上)の故チャポ・ロサリオに挑戦したが、初回KO負けの惨敗)。初回は絶好調で、鋭いジャブから連打を放っていたケンティ。エリゾンドは執拗なボディー攻撃で徐々にケンティを追いつめる。ながらケンティは、3回のゴングに応じず試合放棄(クロンク・故スチワード傘下からは離れた後)。最後は、不可解な幕切れ。ケンティは前戦においては無敗の22連勝中だったホープ、ジョン・モンテス(米+兄ヘルマン(クエバスに3回KO勝ち)は元世界ランカー)に判定勝ちしていた。

*マケドニア語→AKB48 (Еј-Кеј-Би Фотиејт) е јапонска женска поп група (идол група) основана од познатиот јапонски музички продуцент и текстописец Јасуши Акимото во 2005 година.
2018/08/07  Mes chers et Dearest my ☆女神☆妖精☆天使☆たち(涙)=今日、久しぶりにみてました。ちょっと緊張した毎日が続いていたので疲れました(~_-; そういうときは一番の癒しです。iPod Nanoの超小型画面じゃなく、40インチのこの薄っぺらで満喫!!呆然、うっとりと眺めちゃいました。愛しのみなさん、お元気ですか?(やっぱり、みなさん最高!!大好き!!~♪ぼくは長い恋愛中~♪ ☆成功熱望☆安全祈願☆ 謝謝 「祖国?」の愛しい人たちへ☆ サム(^_-☆ Merci beaucoup pour votre collaboration!! おかげさまでアクセス数もそろそろ「30万」に達しそうです。本当にお世話さまであります+Thank you very much for your cooperation!

*ロシア語→«Everyday, Katyusha» (Повседневная Катюша) — 21-й сингл японской идол-группы AKB48. Вышел в Японии 25 мая 2011.
グアム(英語: Guam, チャモロ語: Guåhån)は太平洋に在るマリアナ諸島南端の島。英語発音はグワーム。1898年の米西戦争からアメリカ合衆国の海外領土。第二次世界大戦下で1941年から1944年に掛けて日本軍が占領統治し「大宮島(おおみやじま)」と呼ばれた+スペイン語→Guam (en chamorro: Guåhån, hasta 1900 en español: Guaján) es una isla situada en el Pacífico occidental, perteneciente a Estados Unidos como territorio no incorporado. Es uno de los diecisiete territorios no autónomos bajo supervisión del Comité de Descolonización de las Naciones Unidas, con el fin de eliminar el colonialismo日本による占領→1941年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発。大日本帝国海軍は真珠湾攻撃の5時間後(日本時間午前8時30分)に、グアムへの航空攻撃を開始し、2日後に日本軍がアメリカ軍を放逐し、島名を「大宮島」と改名して大日本帝国領土とし、その後2年7か月にわたり占領した。1944年7月、グアムの戦いでアメリカ軍が奪還した。以後アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を拡張し、戦争終結までの間日本列島への爆撃拠点として使用した+英語⇒ During World War II (1939-1945), Guam was attacked and invaded by Japan on Monday, December 8, 1941, shortly after the attack on Pearl Harbor's American Pacific fleet and naval/air bases in Hawaii, hours before. In addition, Japan made major military moves into Southeast Asia and the East Indies islands of the South Pacific Ocean against the British and Dutch colonies, opening a new wider Pacific phase in the Second World War. The Japanese renamed Guam Ōmiya-jima (ja.: 大宮島) or Great Shrine Island
PS:そういえばこの「カチューシャ」がなんで「我国」では「ヘアバンドhair band」になっとるのか(誰が言い出したのか?「さいしょはグー」=「ドリフターズ」式)以下判明しました(2024/03/25)→『髪留め どうしてカチューシャ?実は和製ロシア語』カチューシャの呼び名の由来は、熱愛関係にあった女優松井須磨子Sumako Matsuiと劇作家島村抱月による興行(大正時代1914年)トルストイТолстойの「復活Воскресение」、松井が演じる主役カチューシャは評判となり、松井の使った髪留めがそのままカチューシャと呼ばれるようになったhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/26778 ともあれ、発祥とオリジナルは「ロシア語」=①カチューシャ(露: Катюша)は、ロシア語などによく見られる女性の人名、エカテリーナ(エカチェリーナとも、Екатерина)の愛称形である。ニュアンスとしては「エカテリーナさん」という程度の意味からより親しげな呼びかけまで幅がある。エカテリーナの短縮形には他にカーチャ(Катя)などがあるが、カチューシャはカーチャより親密度の高い呼び方である+イングリッシュ=Katusha or Katyusha is a diminutive of the Russian name Ekaterina or Yekaterina, the Russian form of Katherine or Catherine②民謡=「カチューシャ」(ロシア語: Катюша)はソビエト連邦の時代に流行したロシアの歌曲である。作詞はミハイル・イサコフスキー、作曲はマトヴェイ・ブランテル(Матвей Блантер)である。日本でもいわゆるロシア民謡を代表する一曲として広く親しまれているロシア語→Катю́ша — популярная советская песня. Автор музыки — Матвей Блантер, автор слов — Михаил Исаковский③ロケット砲=カチューシャ(ロシア語:Катюша, ラテン文字表記:Katyusha)は、第二次世界大戦においてソビエト連邦が開発・使用した世界最初の自走式多連装ロケット砲。制式名は82mm BM-8(БМ-8:ベーエーム・ヴォースィェミ)および132mm BM-13(БМ-13:ベーエーム・トリナーッツァチ)である(追加豆知識=なお、BM-13-16やBM-8シリーズが前線のソ連軍兵士たちから女性名の「カチューシャ」の愛称で呼ばれたのに対し、このBM-31-12はそのロケット弾の巨大さから、男性名の「バニューシャ」の愛称で呼ばれていたという)ウクライナ語⇒Катюша — неофіційна назва реактивних систем залпового вогню БМ-8 (калібр 82 мм), БМ-13 (калібр 132 мм) та БМ-31 (калібр 310 мм). Система перебувала на озброєнні Червоної армії під час Другої світової війни
大抵は再びながら↓であります。


グアム島民に対する責任(家永三郎『戦争責任』)
フィリピン人に対する責任と酷似しているのがグアム島民に対する責任である。日本軍はグアム島を占領すると、米軍将兵を捕虜として日本本土の捕虜収容所に送り、チャモロ族である島民を支配下に置いたが、アメリカ人とその文化に親しんでいた島民の多くは、日本軍の支配に反感をいだいていたいので、フィリピンのように対日抵抗は不可能であったけれど、日本軍は彼らを不信の目で見、過酷な労役や不法な虐待を加えて島民を苦しめたばかりか、多くの島民を虐殺した。アメリカ水兵の妻であったチャモロ族出身の女性マリキータは、日本軍隊長の性的要求を拒み、ついに虐殺されたもようで、行方不明となった。その子クリス・ペレス・ハワードは、成人後に島民の賠償請求が講和条約で無視されたのを憤り、かつ自国の安全保障に利用するためにアメリカが再軍備させて再建された日本の新海軍の軍艦が1980(昭和55)年にグアム島に寄港したときに、「グアムに戦争の賠償を」と書いたプラカードをもって日本の「自衛艦」にデモをかけ、島民の対日賠償請求運動に協力した。さらに母の悲劇を中心とする日本占領下のグアムを描いた著作『マリキータ』を著わし、同書は84年に伊藤成彦により日本で邦訳・公刊された。右訳書に掲げられたハワードの「日本の読者へ」と題する日本語序文には、日本へ招かれた帰途考えたことのひとつが、「第2次世界大戦中に日本がアジア・太平洋の広大な地域を侵略したことについて、日本人はほとんど正確な知識をもっていないことがわかったことだ」との感想を述べている。邦訳者は、この本を読むまで「日本占領下のグアムについて、私はまるで知らなかった」と記しているが、私もまた同じであった。かような事態は、日本占領下の太平洋上の数多くの島々のあちこちに生じていたのではないかと思われるので、特にここに付記することとした次第である。
チャモロ族 (Chamorro) は、ミクロネシアのマリアナ諸島の先住民。チャモロは、スペイン語の「刈り上げた」とか「はげ」という意味を表す言葉である。チャモロ以前は、外部に対してはタオタオ・タノ(土地の人)と自称していた+フランス語→Les Chamorros constituent le peuple indigène des Îles Mariannes, politiquement réparties entre le territoire des États-Unis de Guam et le Commonwealth américain des Îles Mariannes du Nord en Micronésie. Des foyers de populations Chamorros ou de descendants de Chamorros se trouvent à Hawaï et sur la côte ouest des États-Unis, notamment en Californie.

中華人民共和国マカオ特別行政区(ちゅうかじんみんきょうわこくマカオとくべつぎょうせいく)、通称マカオ(葡: Macau、澳門=広東語イェール式:Oumùhn、普通話:Àomén、おうもん)は、中華人民共和国の特別行政区の一つ。中国大陸南岸の珠江河口(珠江デルタ)に位置する旧ポルトガル植民地で、現在はカジノや世界遺産を中心とした世界的観光地としても知られる+インターリングア語⇒マカオ=Macao o Macau es un pauc territorio cerca le costa sur del China. Illo es un zona special de China usque recentemente administrate per Portugalイド(人工国際)語⇒マカオ=Makau (Chiniane:澳門; 澳门), oficale la Specala Regiono Administrala di Makao esas autonoma regiono de la Populala Republiko di Chinia ed anciena kolonio di Portugal. Ol jacas an la delto dil Fluvio di la Perli, e formacesas per sola urbo Makau.
英語⇒第二次世界大戦中のマカオ(日本軍による侵攻と占領)=1938–1949: World War II Macau became a refugee center during WWII causing its population to climb from about 200 thousand to about 700 thousand people within a few years. This caused food shortages in Macau leading to food rationing and, in some cases, cannibalism.Unlike in the case of Portuguese Timor, which was occupied by the Japanese in 1942 along with Dutch Timor, the Japanese respected Portuguese neutrality in Macau, but only up to a point. As such, Macau enjoyed a brief period of economic prosperity as the only neutral port in South China, after the Japanese had occupied Guangzhou (Canton) and Hong Kong. In August 1943, Japanese troops seized the British steamer Sian in Macau and killed about 20 guards. The next month they demanded the installation of Japanese "advisors" under the alternative of military occupation. The result was that a virtual Japanese protectorate was created over Macau. Japanese domination ended in August 1945.When it was discovered that neutral Macau was planning to sell aviation fuel to Japan, aircraft from the USS Enterprise bombed and strafed the hangar of the Naval Aviation Centre on 16 January 1945 to destroy the fuel. American air raids on targets in Macau were also made on 25 February and 11 June 1945. Following Portuguese government protest, in 1950 the United States paid US$20,255,952 to the government of Portugal
ポルトガル領ティモール(ポルトガルりょうティモール、略称:葡領チモール、ポルトガル語: Timor Português)は、かつて東南アジアにあったポルトガルの植民地。現在の東ティモールに相当する。1515年から1975年まで存在し、この間、ポルトガルはティモール島をオランダ領東インド(独立後はインドネシア)と分割して統治していた+ポルトガル語⇒チモール=Timor Português foi o nome pelo qual Timor-Leste foi conhecido quando era colónia portuguesa (1596-1975). Durante grande parte desse período, Portugal partilhou a ilha de Timor com as Índias Orientais Neerlandesas, hoje Indonésia. Para além disso, Portugal controlou ainda, nas imediações da ilha, e a ela sujeita, a ilha das Flores, no arquipélago de Sunda.
中立国に対する責任
日本は、連合諸国にも枢軸諸国にも属しない中立国であるポルトガルの領土をも侵略し、アジアでのポルトガル領マカオと太平洋上のチモール島を占領した。それらは戦時中大本営発表として公表されていたので、戦前・戦中世代は知っているはずであるが、戦後世代の大多数はおそらく知らないであろうし、チモール島がどこにあるかさえ知る人は多くないのではなかろうか。しかし、日本人は忘れてしまっても、ポルトガル人は忘れてはいない。ポルトガルの学校で使用する歴史教科書にその事実が明記されているのである。A-H-オリヴェイラーマルケス著(金七紀男編訳)、Historia Portugal(ぽるぷ版『世界の教科書=歴史 ポルトガル3』)には、次のような記述がある。
第二次世界大戦の勃発(1939年)(中略)ポルトガルは初めから中立を宣言し、一連の要因が幸いしてこの姿勢を維持することができた。(中略)しかし、この中立政策はそれなりに代償を支払わねばならなかった。チモールは最初はオーストラリア軍(1941年)、次いで日本軍(1942年)と2度も侵略を受けた。日本軍は3年間チモールを占領し、手当たりしだいに何千人ものポルトガル人と原住民を殺戮したが、それでもポルトガルと日本の外交関係は断絶しなかった。マカオでもやはり日本人が戦時中を通じて、事実上行政権を握っていた。(中略)1939~45年の戦争で戦闘が起こったのはチモールだけだった。1941年末オーストラリア軍が同島に上陸し、リスボン政府の抗議を受けることなく平和裡に島内を占領した。その後、日本軍がオーストラリア軍と戦い、これを追放する目的で上陸してきた。日本軍の侵入は平和的というにはほど遠く、それどころかあらゆる暴力と大量破壊をもたらした。各地でオーストラリア人、チモール人、さらに多くの入植者、白人の政治犯まで加わったゲリラ戦が始まり、それは大戦終了まで続いた。1945年日本軍が同島を撤退するまでに本国出身の多くの白人を含め何千、何百という人々が戦死し、あるいは日本軍の爆撃あるいはその刑務所内で死んだ。ディリその他の集落は破壊され、領土全体は破壊的な戦争で荒廃した。



(1)、1988年、ソウル五輪L・フライ級決勝 金光善김광선(ワールドカップ(83年ローマ大会)優勝金メダル(85年ソウル大会)銅メダル・アジア選手権(86年ソウル大会)優勝金メダル・ロス五輪代表+146勝6敗)VSアンドレアス・テウズ(東ドイツ(銀メダル)=273勝49敗+バルセロナ五輪優勝金メダル・ワールドカップ(87年ベオグラード大会)銀メダル)
ー金が判定勝ちで優勝(金メダル獲得)
(2)、1992年6月7日 WBC世界ライト・フライ(旧J・フライ)級タイトルマッチ 
王者ウンベルト・ゴンザレス(メキシコ+33勝(29KO)1敗=43勝(31KO)3敗)VS挑戦者金光善(5連勝(4KO)無敗+ソウル五輪1回戦で日本代表の瀬川(川益)設男(岩手県出身・全日本王者(拓殖大学)・世界選手権(89年モスクワ大会)代表・ソウル五輪代表・プロ入り後、世界ランカー+日本王者)に判定勝ち。兄瀬川正義はロス五輪代表(全日本王者(拓殖大学)サウスポー・世界選手権(82年ミュンヘン及び86年リノ大会)代表)。プロ入りはしなかった)韓国・ソウル
ーゴンザレスが最終回に2度倒し、金をノックアウト。11回にダウンを奪い、次の回でしとめた。そこまでの採点は金が勝っていた(判定になっていれば新王者)。金の後援者である廉東均염동균(元世界王者=ロイヤル小林に判定勝ちで奪取)が口惜しそうにコーナーに駆け上がっていた。金が攻勢をとりゴンザレスはほとんどサウスポーで戦い、足を使いながら旋回し受身。ときにパワー五分目ぐらいのカウンターを当て応戦する(前回のメルチョール・コブ・カストロ(サウスポー)パスクワを10回に沈め新王者)戦(判定勝ち=タイトル奪回)も同様。パスクワに負ける前のゴンザレスを考えるとまさに「だしがら」(WOWOW解説小泉氏言)のようなボクシングだった。ちなみに金は「張正九장정구(元WBC王者=15度防衛)も柳明佑유명우(元WBA王者=17度防衛)も自分より下の選手」と語っていたのも興味深い。
(3)、1993年7月17日 IBF世界J・フライ級タイトルマッチ 王者マイケル・カルバハル(ソウル五輪フライ級銀メダル(94勝9敗)28連勝(15KO)無敗=49勝(33KO)4敗)VS挑戦者金光善(6勝(4KO)1敗)ラスベガス
ーカルバハルが7回、左フック一発で金をノックアウト。防衛に成功した。金はガードをがっちり固めて積極的に攻撃した。再び優位に試合を進めながらの敗北。金のラストファイトとなる。金は東亜大学の大学院を出たインテリだった(英語に堪能)。金のコーナーにもついていたマッチメーカーの小泉氏によれば、韓国ではアマ選手が優遇され、大きな大会でメダルを獲るたびに年金が加算されるという(給料を含め、毎月合計日本円で50万円ぐらいの収入があった)。陸軍関連の学校教師を務める公務員で、妻子持ち。安定した生活を送っていた。というわけで、プロ入りまで2年間のブランクがあったのが惜しまれる(↑で明らかなよう、アマ時代はもっとスピードがあり、俊敏な選手だった)。


(1)、1990年12月19日 WBC世界ライト・フライ級タイトルマッチ 王者ウンベルト・ゴンザレス(28連勝(25KO)無敗)VS挑戦者ローランド・パスクワ(フィリピン+24勝(11KO)5敗=45勝(17KO)25敗) カリフォルニア州イングルウッド
ーサウスポーのパスクワが初回からワンサイドに打ちまくり6回、豪快にノックアウト(仰向けに倒れたゴンザレスはそのまま10カウント)。調整に失敗し、スパーリング不足だったゴンザレスの完敗。
(2)1993年7月17日 前王者同士によるノンタイトル10回戦(カルバハルVS金光善のセミ) メルチョール・コブ・カストロ(メキシコ+38勝(19KO)4敗4分=71勝(34KO)12敗4分)VS金奉準(24勝(10KO)7敗3分=24勝(10KO)10敗3分)ラスベガス
ーカストロが10回判定勝ち。金は初回から勇敢に前進。積極的に攻めたが、カストロの巧さに機先を制せられ及ばなかった。かつて無敗のホープ大橋秀行(4連勝(3KO))に初黒星をなすりつけた金。晩年の試合(一試合前は井岡弘樹に挑戦し判定負け。王座復帰ならず)。この2試合後に新鋭大場貴志(13勝(11KO)1敗=19勝(17KO)3敗)に4回TKO負け。引退した。

×

非ログインユーザーとして返信する