日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆スピンクス兄弟☆Leon Spinks/Michael Spinks《Primo Michele Levi》『夜と霧』… trotzdem Ja zum Leben sagen→Viktor Emil Frankl&キング牧師演説 "私には夢がある" - Martin Luther King "I Have A Dream"+Națiunea islamului/Taiheiyō no kiseki ⇔Die Schlacht um Saipan


↑モントリオール五輪(1976年)初の兄弟優勝金メダル (1989年(20歳)、五輪スタジアムに出向いた(また大酒飲んだ酔っぱらい状態だったながら=最初で最後。以後、2度と訪れることはなかった)。五輪金メダル獲得選手たちのパネル入り写真が通路に陳列されていたのを感慨深く眺めたもんだった。ボクシングのアメリカ代表優勝選手はスピンクス兄弟・レナード・デービス(2回戦で日本代表サウスポーの瀬川幸雄(プロ入り・青森県出身・全日本選手権制覇=WBA世界J・フェザー級王者リカルド・カルドナ(コロンビア)に挑戦=初回、先制のダウンを奪うも判定負け)に判定勝ち)・ランドルフ(そのカルドナを最終15回にストップして新王者となる)プロで世界王者になれなかったのは一番期待されていたデービス(3度の挑戦実らず)だけ)・・・。


(1)、1978年2月15日 世界ヘビー級タイトルマッチ 王者故モハメド・アリ(ローマ五輪L・ヘビー級優勝金メダル(99勝8敗)+55勝(37KO)2敗→56勝(37KO)5敗)VS挑戦者故レオン・スピンクス(2021年2月に死去★追悼★享年67歳・世界選手権(74年ハバナ大会)銅メダル・モントリオール五輪L・ヘビー級優勝金メダル(178勝7敗)+6連勝(5KO)無敗1分→26勝(14KO)17敗3分)ネバダ州ラスベガス ヒルトンホテル
ースピンクスが大番狂わせ。15回判定勝ちでアリからタイトルを強奪(2-1のスプリットデシジョンながら文句なし)。アリは11度目(通産20度目)の防衛に失敗した。待機戦法「ロープ・ア・ドープ」(ロープに誘い込む)が裏目に出た試合展開。活きのいいファイターレオンは、初回からロープにもたれ、ガードを固めるアリをお構えなしに打ちまくった。加えてアリ(すでに36歳、衰えは顕著)は調整不足だったのかもしれない(「キングコングのような体であがり」(締りが足りない)と酷評されていたのを覚えている)。わずかに最終回、逆転ノックアウトを狙って猛然とラッシュ。何発か有効打を命中させ、レオンを窮地に追い込んだのが唯一の見せ場となる。アリは太りやすい体質だったので、食事のメニューには細心の注意を払っていた。試合前、サウナの中でダブついた腹の贅肉を握りながら「これをみてくれ。練習しようが何をしようがまったくかわらないんだ。若い頃はその辺をひとっ走りすれば簡単に落ちたもんだが、年はとりたくないものだ」と嘆いていたのを思い出す。
(2)、1978年9月15日 世界ヘビー級タイトルマッチ 王者レオン・スピンクスVS挑戦者モハメド・アリ ルイジアナ州ニューオリンズ
ーアリが雪辱。15回大差の判定勝ちでスピンクスからタイトルを奪回。3度目の戴冠を成し遂げた。「今度はただでは済まないぞ」と試合前、おどけたアリがレオンの首を締めていた写真も忘れられない。初顔合わせとは正反対。アリは往年を彷彿させる「蝶の舞」式のフットワークを駆使。終始足を止めず、ほとんどロープにもたれて休まなかった。またレオンの出鼻を左フックで挫き、カウンターを炸裂させた。3-0で王座復帰。アリの熟練さ老獪さが、レオンの若さと勢いを封じた試合といえる。スピンクスはリング外。契約上(ファイトマネーは10億円を得たが)のゴタゴタに乱されるを強いられたのが気の毒。「その後は再三交通違反で捕まったり、3人の子供の未婚の母親から認知訴訟を起こされたりのトラブル続き、豪遊癖も手伝って早々と”金欠病”の噂も立っている」(名ボクサー100人)。


(1)、1980年10月18日 世界L・ヘビー級ランカー対決ノンタイル10回戦
マイケル・スピンクス(モントリオール五輪ミドル級優勝金メダル(93勝7敗)+13連勝(8KO)無敗→31勝(21KO)1敗)VSアルバロ・ヤキ・ロペス(メキシコ+49勝(33KO)10敗=61勝(39KO)15敗)ニュージャージー州アトランティックシティー
ーマイケルのベストファイト。7回、連打を炸裂させ。2度ダウンを奪いロペスをノックアウト(「ジンクス」と呼ばれる強烈な右を何発も叩き込んだ)。マイケルはプロ転向後しばらくの間は、自分のキャリアは二の次にしてまで兄レオンに付きっ切りで世話をやいていた。「やったぞっ!俺の自慢の兄貴がアリに勝ったんだっ!」(胴上げされ歓喜するレオンの横で拍手し、満面の笑顔のマイケルだった)。少年時代はよく、兄にいじめっ子から守ってもらったそうだ(ミズーリ州セントルイスの(貧民街)ゲットー出身)。
(2)、1981年11月7日 WBA世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者マイケル・スピンクス(16勝(10KO)無敗)VS挑戦者ボンゼル・ジョンソン(22勝(11KO)2敗) ニュージャージー州アトランティックシティー
ー7回、マイケルは右一発でジョンソンをKO。初防衛に成功した。ジョンソンのラストファイト。ライトヘビー級時代のマイケルは迫力満点。誰よりも抜きんでて、無敵だった。



(1)1980年10月2日 WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 王者ラリー・ホームズ(アマ19勝3敗(アリの元スパーリングパートナー)+35連勝(27KO)無敗→69勝(44KO)6敗)VS挑戦者元王者モハメド・アリ(56勝(37KO)3敗)ネバダ州ラスベガスシーザーズパレス
ホームズが10回終了TKO勝ち(アリはコーナーから出てこなかった)。アリ(スピンクスとの再戦に勝った後、タイトルを返上して一度は引退していた)は4度目の王座戴冠果たせず。「元は俺のスパーリングパートナー、たいしたことはない」(アリ)「あんな老いぼれ、相手じゃない」(ホームズ)。試合前、38歳のアリは不安を振り払うかのように過剰なパフォーマンスに興じる。一方、円熟の王者ホームズ(ノートン(アリと1勝2敗+フォアマンに2回KO負け)に判定勝ちで奪取)はどっしりと構え、余裕しゃくしゃく。初回からホームズのワンサイド(中盤からロープに詰められっぱなし)。ジャブの威力も桁違い(ホームズの左は突き刺すようなストレート)。アリはカウンターを狙ったが、全盛期の感覚はよみがえらなかった。ホームズが老いたアリを倒せなかったのは、敬意を払いすぎたからといわれた。なお王者ホームズのファイトマネーが8億円だったのに対し。アリは挑戦者ながら17億円だった(この高額につられてカムバック)。
(2)、1981年6月12日 WBC世界ヘビー級タイトルマッチ 王者ラリー・ホームズ(37連勝(28KO)無敗)VS挑戦者元王者レオン・スピンクス(10勝(8KO)2敗2分け)ミシガン州デトロイトジョー・ルイスアリーナ
ーホームズが3回にレオンをノックアウト。初回からラッシャースピンクスは勇敢に打って出た。上体をよく動かし、止まった標的にならずに突貫。ホームズの左ジャブはほとんど外していた。しかし3回につかまり。コーナーに詰められ、打ちおろしの右連発で沈められてしまう。すでに自らのキャリアに集中し、来月に世界挑戦(グレゴリー(ムスタファ・ムハマド)に15回判定勝ちで王座獲得)を控えたマイケルが派手に着飾ったいでたちでついていた。これが短かったレオンのプロ全盛期、最後の試合だったかもしれない。後に、一階級下げてクルーザー級に転向(鳴かず飛ばずで終わった)。晩年は(再び(ボテボテだった)ヘビー級に戻る)負けがこみ、噛ませ的な存在にまで落ちぶれたのは悲しかったです。スピンクスは後にたびたび来日する(1、86年にアントニオ・猪木氏と異種格闘技戦(8回フォール負け=「もう一回やりたい。次はぶったたいてやる。5カウントはいくらなんでも早すぎる」)2、プロレス団体FMWのシリーズに参加し、大仁田厚と対戦=「楽しかったぜ。大仁田に伝えてくれ。また、いつでもやろう」)。

(1)、1977年10月22日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 スコット・レドー(21勝(13KO)6敗1分=33勝(22KO)13敗4分)VSレオン・スピンクス(5連勝(5KO)無敗)ラスベガス
ー五輪金からプロ入り。ホープ、スピンクスがつまずく。10回引き分け。レドーは後に、ホームズに挑戦し6回TKO負け。
(2)、1979年6月24日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦ランカー対決
レオン・スピンクス(7勝(6KO)1敗1分)VSゲリー・コーツィ(南アフリカ+21連勝(13KO)無敗=33勝(21KO)6敗1分)フランス
ーコーツィ(後のWBA王者)が3度のダウンを奪い、初回でレオンをノックアウト。スピンクスはアリとの再戦を含め2連敗。タイソンと弟マイケルの決戦時、画面(私が観戦していた会場、大スクリーンでもおんなじ)にレオンが現れるや冷ややかなブーイングが巻き起こっていたのはさびしかった(タイソンの元妻、ロビン・ギブンスはもっとすさまじかったけど(笑))。



(1)、1985年9月21日 IBF世界ヘビー級タイトルマッチ 王者ラリー・ホームズ(48連勝(34KO)無敗)VS挑戦者元統一世界L・ヘビー級王者マイケル・スピンクス(27連勝(19KO)無敗)ラスベガス
ーホームズの連勝ストップ。スピンクスが判定でL・ヘビー級王者としては史上初となる。ヘビー級王者に就き、同時に2階級制覇達成。ホームズ(36歳)はとっくに全盛期は過ぎていた。すでに下り坂。体が一回り大きく、パワーは桁違いのホームズ相手にマイケルはのらりくらり戦法。ヘッピリ腰のようなスタイルから接近するや、細かいパンチを連打で当てていた。勝利を歓喜するマイケルの横で、ホームズは判定に納得せずおおむくれ。そして故マルシアノ(49連勝(43KO)=王者のまま無敗で引退)にはなれなかった。その後、兄レオンがリングに上がり、画面に登場。涙を流していた。
(2)、1986年4月19日 IBF世界ヘビー級タイトルマッチ 王者マイケル・スピンクス(28連勝(19KO)無敗)VS挑戦者ラリー・ホームズ(48勝(34KO)1敗) ラスベガス
ーマイケルが再びホームズに12回判定勝ち。返討ちと初防衛に成功。前回より接近した内容だった。終盤戦14回、ホームズは打ちおろしの右ストレートを炸裂させ。ノックアウト寸前に追い込む。ながらもしとめられず。再び判定には不満たらたらだった(マイケルは初戦より疲れ(笑顔もなかった)、ダメージも深かった)。


(1)、2004年4月10日 WBC・WBA世界ウェルター級タイトルマッチ 王者コリー・スピンクス(アマ78勝3敗+32勝(11KO)2敗=39勝(11KO)8敗)VS挑戦者前IBFスーパーウェルター級王者ザブ・ジュダー(アトランタ五輪米代表(110勝5敗)+30勝(22KO)1敗(WBC王者ジューとの王座統一戦で2回TKO負け)=44勝(30KO)9敗)ラスベガス
ーサウスポー対決。ダウン応酬の末、コリー(レオン・スピンクスの長男)が判定でジュダーを破る。実力はジュダーが一枚上だったはず。でも、ムラッ気があるボクサー。
(2)、2005年2月5日 再戦 ミズーリ州セントルイス
ー気合満々のジュダーが9回KO勝ちで雪辱。痛烈なノックアウトでコリーを破り、2階級制覇達成。
2019年2月18日(暗い月曜日?)
ーみなさん こんにちは☆ 記憶がよみがえったのは小学校の卒業アルバム。「尊敬する人」にこのスピンクス兄弟をあげました→別にそれほどってわけではなかったけど、ぱっと思いついたので出したまで。他のクラスメートたちで「父親」とか「両親」って書いてる人がたくさんいた。嫌味でも当てつけでもなんでもなく、正直「うらやましい」と感じたものだ(そんなことを考えたことは今だに一度もないので)。
ーなんか「天皇陛下サマご退位?」+「ネトウヨ」だの「杉田水脈議員先生」どうこうってので気が滅入りました。ので↑はじめました(徐々に足していきますのでよろしくお願いします)。体調不良のまま「3連休」はあっという間に終わってしまった。大分体にガタが来ている様子ながら、また明日からがんばります☆ 謝謝 一路平安 サム


プリーモ・ミケーレ・レーヴィ(Primo Michele Levi, 1919年7月31日 - 1987年4月11日(自殺))はイタリアの化学者・作家。アウシュヴィッツ強制収容所からの生還者であり、この体験を記した『これが人間か(イタリア語版)』で世界的に知られる+イタリア語→Primo Michele Levi (Torino, 31 luglio 1919 – Torino, 11 aprile 1987) è stato uno scrittore, partigiano e chimico italiano, autore di racconti, memorie, poesie, saggi e romanzi. Partigiano antifascista, il 13 dicembre 1943 venne arrestato dai fascisti in Valle d'Aosta venendo prima mandato in un campo di raccolta di tutti gli ebrei a Fossoli e nel febbraio dell'anno successivo, deportato nel campo di concentramento di Auschwitz in quanto ebreo. Scampato al lager, tornò avventurosamente in Italia, dove si dedicò con impegno al compito di raccontare le atrocità viste e subite. Il suo romanzo più famoso, sua opera d'esordio, Se questo è un uomo, che racconta le sue terribili esperienze nel campo di sterminio nazista, è considerato un classico della letteratura mondiale, inserendosi nel filone della memorialistica autobiografica e nel cosiddetto neorealismo. Laureato in chimica, in alcune delle sue opere appaiono riferimenti diretti e indiretti a questa branca della scienza
フランス語→Primo Levi, né le 31 juillet 1919 à Turin et mort le 11 avril 1987 à Turin, est un écrivain et docteur en chimie italien rendu célèbre par son livre Si c'est un homme, dans lequel il relate son emprisonnement au cours de l'année 1944 dans le camp de concentration et d'extermination d'Auschwitz-Monowitz. Juif italien de naissance, chimiste de profession et de vocation, il entre tardivement dans une carrière d'écrivain orientée par l'analyse scientifique de cette expérience de survivant de la Shoah, dans le but de montrer, retranscrire, transmettre, expliciter. Il est l'auteur d'histoires courtes, de poèmes et de romans.


ヴィクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl、1905年3月26日 - 1997年9月2日)は、オーストリアの精神科医、心理学者。著作は多数あり日本語訳も多く重版されており、特に『夜と霧』で知られる+ドイツ語→Viktor Emil Frankl (26. März 1905 in Wien, Österreich-Ungarn – 2. September 1997 ebenda) war ein österreichischer Neurologe und Psychiater. Er begründete die Logotherapie und Existenzanalyse, die vielfach auch als die „Dritte Wiener Schule der Psychotherapie“ bezeichnet wird. Eines seiner bekanntesten Werke ist das im Jahr 1946 erschienene …trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager, in welchem Frankl seine Erlebnisse und Erfahrungen in vier verschiedenen Konzentrationslagern, darunter Auschwitz, während des Zweiten Weltkriegs schildert+ポルトガル語→「夜と霧」=Em Busca de Sentido é um livro de Viktor Frankl de 1946, Em Busca de Sentido (título original:Ein Psycholog erlebt das Konzentrationslager) retrata suas experiências como um detento de um campo de concentração e descreve seu método psicoterapêutico de como encontrar uma razão para viver. De acordo com Frankl, o livro tenta responder a pergunta "Como a vida cotidiana dentro de um campo de concentração se reflete na mente de um prisioneiro mediano?". A primeira sessão do livro constitui as experiências de Frankl nos campos de concentração, enquanto que a segunda metade é uma introdução à Logoterapia.


マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(英語: Martin Luther King, Jr.、1929年1月15日 - 1968年4月4日)は、アメリカ合衆国のプロテスタントバプテスト派の牧師である。キング牧師(キングぼくし)の名で知られ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動した。「I Have a Dream」(私には夢がある)で知られる有名な演説を行った人物。1964年のノーベル平和賞受賞者。本人死後、2004年の議会名誉黄金勲章受章者。アメリカの人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)の歴史を語る上で重要な人物の一人であるラテン語→Martinus Lutherus King Jr. (natus die 15 Ianuarii 1929; interfectus die 4 Aprilis 1968) fuit minister Ecclesiae Baptisticae et praeclarissimus concitor pro commodis hominum iurum civilium nigricolorium omniumque originis Africanae more inviolentia in Civitatibus Foederatis Americae. King rhetoricis insignis anno 1963 Itinere in Vasingtoniam Occupationis Libertatisque Causa liberationem nigricoloribus defendit.
マルコム・X(Malcolm X, 1925年5月19日 - 1965年2月21日)は、アメリカの黒人公民権運動活動家。ネーション・オブ・イスラム (NOI) のスポークスマン、ムスリム・モスク・インク (Muslim Mosque, Inc.) およびアフリカ系アメリカ人統一機構 (Organization of Afro-American Unity) の創立者でもある。出生名はマルコム・リトル (Malcolm Little)。非暴力的で融和的な指導者だったキング牧師らとは対照的に、アメリカで最も著名で攻撃的な黒人解放指導者として知られているが、彼が活動中に暴力行為にでたことは一度もないスコットランド語⇒Malcolm X (pronounced /ˈmælkəm ˈɛks/ (deprecatit template); 19 Mey 1925– 21 Februar 1965), born Malcolm Little an an' a' kent as El-Hajj Malik El-Shabazz (Arabic: الحاجّ مالك الشباز‎), wis an African-American Muslim meenister, public speaker, an human richts activist. Tae his admirers, he wis a courageous advocate for the richts o African Americans, a man who indictit white Americae in the hairshest terms for its creemes against black Americans. His detractors accuised him o preachin racism, black supremacy, antisemitism, an violence. He haes been cried ane o the greatest an maist influential African Americans in history, an in 1998, Time named The Autobiography of Malcolm X ane o the ten maist influential nonfiction beuks o the 20t century. 
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(1)、1977年3月11日 L・ヘビー級ノンタイトル10回戦 エディー・グレゴリー(20勝(17KO)2敗=50勝(39KO)8敗1分)VS故マシュー・フランクリン(13勝(8KO)2敗2分=39勝(29KO)16敗3分け) ペンシルベニア州フィラデルフィア
ーグレゴリー(ムスタファ・ムハマド)がフランクリン(サアド・ムハマド)に10回判定勝ち。後に世界王者となった2人の対決前哨戦となった。統一戦は、本決まりになりながらも流れてしまったのは残念。マシューは公園に捨てられていた孤児だった(カトリック系の孤児院に保護され、育てられた)。「マシュー・フランクリン」という名前もシスター(尼さん)がつけたもの。
(2)、1980年3月31日 WBA世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者マービン・ジョンソン(ミュンヘン五輪銅メダル(257勝19敗)+24勝(19KO)3敗=43勝(35KO)6敗)VS挑戦者エディー・グレゴリー(35勝(31KO)4敗1分)テネシー州ノックスビル
ーグレゴリーが11回にジョンソンをノックアウト。新王者に就く。ジョンソンは故ガリンデス(アルゼンチン(10度防衛)=引退後、カーレーサーになり事故死)に11回KO勝ちで再び就いた王座の初防衛に失敗。後に無敗のスチワートと空位のWBAタイトルを争い、7回TKO勝ちで3度目の王座に就く。再戦は8回TKO負け、転落=ジョンソンのラストファイト。グレゴリーはヘビー級転向も試みたが、失敗(世界ランカー、スナイプス(ホームズに挑戦しダウンを奪いながら、11回TKO負け)に10回判定負け)。


(1)、1977年7月26日 北米L・ヘビー級タイトルマッチ 王者マービン・ジョンソン(15連勝(12KO)無敗)VS挑戦者マシュー・フランクリン(15勝(9KO)3敗2分)フィラデルフィア
ー最終12回、マシューが無敗のメダリストであるジョンソンを逆転ノックアウトで沈めた。北米タイトルを強奪。
(2)、1979年4月22日 WBC世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者マービン・ジョンソン(22勝(17KO)2敗)VS挑戦者マシュー・サアド・ムハマド(22勝(13KO)3敗2分)インディアナ州インディアナポリス
ー世界戦での再戦となったが、マシューが8回TKOでジョンソンを破り新王者に就く。「「やったぜ、世界チャンピオンなんだ!」。子供のようにはしゃぎ回るマシューの晴れの姿を、実の両親は知っていただろうか」(名ボクサー100人)。ジョンソンはパルロヴ(ユーゴスラビア・クロアチア人=共産圏初のプロ世界王者)に10回TKO勝ちで奪ったタイトルの初防衛に失敗した。

ネーション・オブ・イスラム (Nation of Islam, NOI) は、アメリカ合衆国におけるアフリカ系アメリカ人のイスラム運動組織。後述するように伝統的なイスラム教の教義を大きく否定しているため、イスラム教の一派というよりも、イスラム教から派生した新宗教と見なされているイングリッシュ→The Nation of Islam, abbreviated as NOI, is an African American political and religious movement, founded in Detroit, Michigan, United States, by Wallace D. Fard Muhammad on July 4, 1930.  Its stated goals are to improve the spiritual, mental, social, and economic condition of African Americans in the United States and all of humanity. Critics have described the organization as being black supremacist and antisemitic.The Southern Poverty Law Center tracks the NOI as a hate group. Its official newspaper is The Final Call. In 2007, the core membership was estimated to be between 20,000 and 50,000. Fard disappeared in June 1934. His successor Elijah Muhammad established places of worship (called temples or mosques), a school named Muhammad University of Islam, farms, and real estate holdings in the United States and abroad. The Nation has long been a strong advocate of African-American businesses.There were a number of splits and splinter groups during Elijah Muhammad's leadership, most notably the departure of senior leader Malcolm X to become a Sunni Muslim. After Elijah Muhammad's death in 1975, his son, Warith Deen Mohammed, changed the name of the organization to "World Community of Islam in the West" (and twice more after that), and attempted to convert it to a mainstream Sunni Muslim ideology.+ルーマニア語⇒Nation of Islam (abreviat ca N.O.I., literal: Națiunea islamului) reprezintă o mișcare religioasă modernă, născută în sânul comunității de culoare din S.U.A. Apărută ca revoltă față de realitatea crâncenă a discrimnării manifestate de majoritatea albă, mișcarea se socotește a poseda un caracter mesianic, aducând populația împovărată de propriul său trecut, printr-o forță religioasă de expresie islamică, la un stadiu de reală egalitate și dreptate . N.O.I. pretinde aspirații la binele întregii omeniri [1].


(1)、1980年11月28日 WBC世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者マシュー・サアド・ムハマド(27勝(20KO)3敗2分)VS挑戦者ロッテ・ムワレ(ザンビア(旧英領北ローデシア)21連勝(16KO)無敗→44勝(34KO)9敗+*ジンバブエ(南ローデシア))カリフォルニア州サン・ディエゴ
ーマシューが4回にムワレをKO。防衛に成功した。絶好調、全盛期だった。
(2)、1982年10月2日 世界L・ヘビー級ランカー対決 元WBA王者エディ・ムスタファ・ムハメド(40勝(33KO)6敗1分)VSロッテ・ムワレ(24勝(19KO)1敗)ラスベガス
ーエディが4回にムワレをノックアウト。エディの右ストレートが豪快に顎を打ちぬいた。痛めたのか?ムワレは顎を抱えて不可解な動作。横向きになってしまう。そこへもう一発左フックが炸裂。深々と沈められた。
PS:すでに2年半前になるけど。アメリカの老大将店でウエーターだった黒人青年(大将家に住んでいて、馬の世話と敷地の手入れ担当=「自然」「緑」(芝生+草原)そして「青空」がすごく似合っていた)。ザンビア出身だった(本当に真面目で働き者。さわやかな青年だった)。ムワレの名前を出したらむろん知っていて、嬉しそうだった(涙)+「ザンビアは今、女性ボクシングが盛んなんだ」「ネットで出て来るよ」=まだ調べてなかった(苦笑))。
ザンビア共和国(ザンビアきょうわこく)、通称ザンビアは、アフリカ南部に位置する共和制国家。イギリス連邦加盟国のひとつである。かつてはイギリス領北ローデシアであった地域。内陸国であり、コンゴ民主共和国、タンザニア、マラウイ、モザンビーク、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラ、ボツワナの8つの国に接している[3]。首都はルサカで、2018年に発表された世界平和度指数ランキングでは163か国中48位となり、アフリカでもっとも平和な国の一つとして評価されている+イド語→Zambia esas lando qua jacas en sudal Afrika. Lua vicina landi esas la Demokratial Republiko Kongo norde, Tanzania nord-este, Malawi este; Mozambik, Zimbabwe e Namibia sude; ed Angola weste. Lua chef-urbo esas Lusaka. Ol esas lando senlitora+スコットランド語⇒Zambie, offeecially the Republic o Zambie (/[unsupported input]ˈzæmbiə/) is a landlocked kintra in Soothren Africae. The neighbourin kintras are the Democratic Republic o the Congo tae the north, Tanzanie tae the north-east, Malawi tae the east, Mozambique, Zimbabwe, Botswana an Namibie tae the sooth, an Angolae tae the wast. The caipital ceety is Lusaka, locatit in the sooth-central pairt o the kintra. The population is concentratit mainly aroond the Lusaka in the sooth an the Copperbelt tae the northwast.


PS:↑これなんなんスか?また政府広報「’我が国’ど根性英雄伝」かなんか?(ため息)→『太平洋の奇跡−フォックスと呼ばれた男−』(たいへいようのきせき フォックスとよばれたおとこ)は、ドン・ジョーンズの長編実録小説『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』を原作とした 2011年2月11日公開の日本映画。厚生労働省社会保障審議会が推薦する児童福祉文化財の1つに選ばれている+太平洋的奇迹(英语: Oba: The Last Samurai ,日語:太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-)2011年2月11日上映于日本的第二次世界大戰题材电影+フランス語→1945 : End of War (autres titres : Oba: The Last Samurai ou Codename: Fox) est un film de guerre japonais réalisé par Hideyuki Hirayama, sorti en 2011. Le film raconte l'histoire vraie de Sakae Ōba, capitaine de l'armée impériale japonaise qui, suite à la bataille de Saipan, résista avec ses hommes durant 512 jours sur l'île.


ドイツ語→サイパン島の戦い=Die Schlacht um Saipan war eine größere Schlacht im Rahmen des Pazifikkriegs während des Zweiten Weltkrieges. Sie fand im Juni 1944 im Rahmen der Eroberung der Marianen-Inseln durch die US-Marineinfanterie auf der Hauptinsel Saipan statt, die von den japanischen Verteidigern unter General Yoshitsugu Saito stark befestigt worden war. Am 9. Juli wurde die Insel als gesichert gemeldet, obwohl versprengte japanische Einheiten den Kampf fortsetzten. Die Spuren der Schlacht sind heute noch auf Saipan zu sehen und werden von japanischen und amerikanischen Touristen und Veteranen besucht.+エスペラント語→サイパン島の戦い=La batalo de Saipano estis batalo ene de la kadro de la Pacifika Milito, ene de la Dua Mondmilito, okazinta sur la insulo Saipano (insuloj Marianoj) inter la 15a de junio kaj la 9a de julio 1944. Estris la usonajn fortojn la leŭtenanta generalo Holland Smith kaj la japanajn la leŭtenanta generalo Ĝoŝicugu Saito. La usonanoj estis pli ol duoble la fortojn de la 31 000 japanoj. La usonanoj suferis 3426 mortojn, dum la japanoj 29 000 mortojn (9000 el kiuj pro memmortigo, inter kiuj multaj civiluloj konvinkitaj de la japana propagando, ke usonanoj masakraĉos ilin). La invado al Saipano surprizis la japanojn kiuj atendis la atakon pli sude. 


アイザック・ドイッチャー(Isaac Deutscher、1907年4月3日 - 1967年8月19日)はイギリスのマルクス主義歴史学者、ジャーナリスト、政治活動家。ポーランド系ユダヤ人。ソ連問題評論家としてレフ・トロツキー及びヨシフ・スターリンの伝記を著したことでも知られ、特にトロツキー伝三部作はイギリスの新左翼の間で高い評価を受けた[1]+ポーランド語⇒Izaak Deutscher (Isaac Deutscher, ur. 3 kwietnia 1907 w Chrzanowie, zm. 19 sierpnia 1967 w Rzymie) – polski i brytyjski publicysta, historyk i aktywista marksistowski. Autor biografii Józefa Stalina i Lwa Trockiego, a także tłumacz literatury żydowskiej na język polski.+ロシア語→Исаа́к До́йчер (англ. Isaac Deutscher; иногда Дейчер[3], 3 апреля 1907, Хшанув, Австро-Венгрия, ныне в составе Польши — 19 августа 1967, Рим, Италия) — польский и британский историк и публицист, автор книг по истории и социологии, биограф Льва Троцкого и Иосифа Сталина, специалист по проблемам Советского Союза и ВКП(б)



(1)、1981年12月19日 WBC世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者マシュー・サアド・ムハマド(31勝(22KO)3敗2分)VS挑戦者ドワイト・ブラクストン(15勝(8KO)1敗1分→41勝(25KO)11敗1分) ニュージャージー州アトランティックシティー
-「傷だらけの栄光」(ボクシングマガジンの記事表題)まさしく元囚人のブラクストンがマシュー・サアド9度目(8度(7KO))の防衛を阻み、10回TKO勝ちで新王者に輝く。’ミスター・エキサイト’の異名を持っていたマシューは「打たせて打つ」ボクシング。この試合は’打たせ過ぎて’負けた形になった。同じく「ボクマガ」の記事内でも、危険なスタイルによるダメージの蓄積が心配されていたのを思い出す。なお、この試合後ブラクストンは改名(黒人回教団に改宗)した。
(2)、1982年8月7日 WBC世界L・ヘビー級タイトルマッチ 王者ドワイト・ムハマド・カウィ(17勝(10KO)1敗1分)VS挑戦者前王者マシュー・サアド・ムハマド(32勝(23KO)4敗2分) ペンシルベニア州フィラデルフィア
ーカウィが6回にマシュー・サアドをストップ。2度目の防衛に成功した。これがマシュー最後の世界戦となる。92年に来日。横浜で田村潔司と対戦し、初回フォール負け。








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