日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

『バルバロッサ (赤ひげ) 作戦Unternehmen Barbarossa』<ヨーロッパ東部戦線>●ドイツ軍、東方へ向かうОперация «Барбаро́сса»⇔Великая Отечественная война卐独ソ戦と大祖国戦争☭☆2020🍁CANADA

バルバロッサ (Barbarossa) は、イタリア語で「赤ひげ」の意。
1、神聖ローマ皇帝、フリードリヒ1世の呼び名、赤髭王。下記もこの皇帝に由来するものが多い。

2、バルバロッサ作戦 - ナチス・ドイツのソビエト連邦侵攻作戦。史上最大の軍事作戦であるため数々のゲームタイトルにもなっている。
Deutschドイツ語→Barbarossa (italienisch für roter Bart) bezeichnet:
1、Friedrich I. (HRR) Barbarossa (um 1122–1190), Kaiser des römisch-deutschen Reiches von 1155 bis 1190 2、Unternehmen Barbarossa war der Deckname für den deutschen Angriff im Jahr 1941 auf die Sowjetunion im Zweiten Weltkrieg, siehe auch Deutsch-Sowjetischer Krieg



バルバロッサ作戦(バルバロッサさくせん、ドイツ語: Unternehmen Barbarossa (英語Operation Barbarossa)ウンターネーメン・バルバロッサ)は、第二次世界大戦中の1941年6月22日に開始されたドイツ国によるソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称である。今日では独ソ戦序盤の戦闘の総称とされる場合もある。枢軸国以外にも、親枢軸のスペインやフランス国(ヴィシー政権)が派兵している。作戦名は神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世のあだ名「Barbarossa」(「赤ひげ」、イタリア語のbarba「あごひげ」+rossa「赤い」 )に由来する。フリードリヒ1世は伝説的な人物で、民間伝承によると現在も眠り続けており、ドイツに危機が訪れた時に再び目覚めて帝国に繁栄と平和をもたらすとされた。それにあやかっての命名、また第3回十字軍総司令官として戦果を残し、ボヘミア王国とハンガリー王国に神聖ローマ帝国の影響を拡大した実績から、対ソ戦にふさわしいと判断されたと考えられている。ドイツ陸軍はポーランド侵攻の「白作戦」、フランス侵攻の「黄作戦」「赤作戦」など、攻勢作戦名に色名を付ける伝統があり、それの発展形とも考えられる。バルバロッサ作戦が頓挫した影響か、翌年の攻勢作戦はまた「青作戦」と純粋な色名に戻された。Українськаウクライナ語→Операція «Барбаросса» (нім. Unternehmen Barbarossa) — стратегічна наступальна операція збройних сил Німеччини та її союзників проти СРСР. План операції передбачав швидкоплинну військову кампанію з повним розгромом Червоної Армії та захопленням європейської частини СРСР по лінії Волга — Архангельськ. Незважаючи на початковий успіх німецьких військ, завершити операцію у встановлені терміни Вермахту не вдалося, війна переросла в широкомасштабну та довготривалу.Русскийロシア語→Операция «Барбаро́сса» (Директива № 21. План «Барбаросса»; нем. Weisung Nr. 21. Fall Barbarossa, в честь короля Германии и императора Священной Римской империи Фридриха I Барбаросса) — разработанный в 1940—1941 годах план нападения нацистской Германии на СССР и одноимённая военная операция, осуществлявшаяся в соответствии с этим планом на начальной стадии Великой Отечественной войны.

独ソ戦(どくソせん、英語: German-Soviet War)、または東部戦線(ドイツ語: die Ostfront)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。大戦の当初はポーランドを共に占領していたドイツとソビエト連邦であったが、1941年6月22日に突如ドイツ国防軍がソ連に侵入し、戦争状態となった。当時のソ連は国民を鼓舞するため、ナポレオン・ボナパルトに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(ロシア語: Великая Отечественная война)と呼称。一方、ドイツ側では主に東部戦線と表現される。
The Eastern Front of World War II was a theatre of conflict between the European Axis powers and co-belligerent Finland against the Soviet Union (USSR), Poland and other Allies, which encompassed Central Europe, Eastern Europe, Northeast Europe (Baltics), and Southeast Europe (Balkans) from 22 June 1941 to 9 May 1945. It has been known as the Great Patriotic War (Russian: Великая Отечественная война,Velikaya Otechestvennaya Voyna) in the former Soviet Union and modern Russia, while in Germany it was called the Eastern Front (German: die Ostfront),[4] or the German-Soviet War by outside parties.
青木茂『第二次世界大戦全戦線ガイド』(1998年・新紀元社)
太平洋と地中海(1941年4月―6月)
―ヒトラーの基本方針のひとつ、ロシア征服の機は熟していた。この大事業の前提となるのがイギリスの無力化であった。そのため、ドイツは短い持ち時間の中で、大西洋と地中海で奮戦した。しかしロシアの征服は、当時のドイツの力を根本的に超えてはいなかっただろうかー
<ヨーロッパ東部戦線>●ドイツ軍、東方へ向かう
ここで、第2次世界大戦はひとつの宿命的な転換期を迎える。ヒトラーがソ連の征服に乗り出したのである。そもそもヒトラーは、ドイツの生存圏確保には広大なロシアの土地が必要であると考えており、共産主義は不倶戴天の敵であるとも考えていた。ソ連との戦いは避けることはできず、問題なのはタイミングだけであった。ドイツが想像を超える速さでフランスの脅威を取り除き、ソ連軍がスターリンの粛清で弱体化し、かつドイツとの不可侵条約に安心しているこの時こそソ連を倒す千載一遇の機会であると思われた。イギリスとの戦争を決着させないままソ連とも戦端を開くことへの不安もあった。確かにイギリスの攻略には失敗したが、同時にイギリスにはドイツを背後から襲う力がないことも確かであった。ドイツ海軍がイギリスを締めつけていれば、それで充分であると思われた。ドイツはフランスと東ヨーロッパの占領で充分な資源を持つことができ、その時点ではイギリスはもちろんアメリカをも上回る生産力を持っていた。ヒトラーがソ連攻略を決めたのは前年の7月であり、すでに準備は整っていた。

The Führer to the German People: 22 June 1941(1941年6月22日、総統よりドイツ人民へ(ヒトラーの対ソ戦開始布告)
German people!(ドイツ人民たちよ!)  National Socialists!(国家社会主義者たちよ!)  After long months when I was forced to keep silent(私は数ヶ月の強いられた沈黙の後), despite heavy concerns(重大な不安(心配)にも関らず), the time has come(時はきた) when I can finally speak openly(私はとうとう率直(隠さず)に語ることができる).  When the German Reich received England’s declaration of war on 3 September 1939(1939年9月3日にドイツ(第3)帝国が、イギリスの宣戦布告を受けたとき), the British attempted once again to frustrate any attempt to begin a consolidation, and thus a strengthening, of Europe(イギリスは再び欧州を統合(整理)する及びそれが故強化の試みを失敗(挫折)させるを企図した) by fighting the then strongest power on the Continent(それから大陸最強の力として戦う).  England formerly destroyed Spain through many wars(イギリスは以前(むかし)、数々の戦争においてスペインを破った).  For the same reason it waged its wars against Holland(同じ理由(原因)でオランダに対する戦争を遂行した).  With the help of all of Europe it later fought France(全欧州の助力(支援)でフランスと戦った).  And around the turn of the century(そして世紀の変換時), it began to encircle the German Reich and it began the World War in 1914(ドイツ帝国を包囲し、1914年に第一次世界大戦を開始した).  Germany was defeated in 1918 only because of its inner disunity(内部の不統合だけの理由で1918年、ドイツは敗れた). The results were terrible(この結果は猛烈(不愉快)だった). After first hypocritically declaring to be fighting only against the Kaiser and his regime(当初偽善的にカイザー(皇帝)と彼の政権だけに対して宣戦を布告した), they began the systematic destruction of the German Reich after the German army had laid down its arms(ドイツ軍が武器を置いた(降服)後、組織的にドイツ帝国破壊を開始した). As the prophecy of a French statesman(フランス人政治家の預言), who had said that there were twenty million Germans too many(ドイツ人は200万人多過ぎると言っていた人間), began to be fulfilled through starvation, disease, or emigration(飢餓、病気、もしくは移住を通じて実現されはじめた(満たされた)), the National Socialist movement began building the unity of the German people(国家社会主義運動は、ドイツ人の統合(団結)させるためはじめられた), thereby preparing the rebirth of the Reich(それによって帝国の再誕生を準備(用意)する). This new revival of our people from poverty, misery, and shameful contempt was a sign of a pure internal rebirth(純粋な内部再生の標示であった貧困、悲惨、さらに恥ずべき蔑み(屈辱)からの、われらの人々による新たな再生). England was not affected(イギリスは影響されなかった), much less threatened, by this(これによる、はるかに少ない脅威). Nonetheless(にも関らず), it immediately renewed its hateful policy of encirclement against Germany(即座にドイツに対する敵意に満ちた政策を更新した). Both at home and abroad(自国及び外国双方), we faced the plot(我々は策謀に面した) we all know about (われわれはみな知っている⇒)between Jews(ユダヤ人) and democrats(民主主義者たち), Bolshevists(ボルシェヴィキ(共産主義者)たち) and reactionaries(反動勢力たち), all with the same goal(すべて同じ到達点(目標)): to prevent the establishment of a new people’s state(新たな国家設立を阻止するため), to plunge the Reich again into impotence and misery(帝国を再び、虚弱(不能)無力と悲惨(窮乏)不幸に投げこむため). The hatred of this international world conspiracy was directed not only against us(憎悪に満ちたこの国際的陰謀はわれわれだけに向けられたのではない), but also against those peoples who also had been neglected by Fortune(幸運(果報)繁栄に見放された人間たちに対しても), who could earn their daily bread only through the hardest struggle(日々のパンを、骨折り闘争を通じてしか得られない人間たち). Italy and Japan above all(イタリアと日本他すべて), alongside Germany(ドイツと並んで(平行して)), were almost forbidden to enjoy their share of the wealth of the world(世界の富による、彼らの取り分を満喫するをほとんど禁じられた). The alliance between these nations was(これらの国々との同盟は), therefore(だから(それが故)), only an act of self-defense against a threatening, egotistical world coalition of wealth and power(おそろしい(威嚇)、利己主義(自己本位)うぬぼれた富と力の世界による提携への自己(正当)防衛行為である). . .


ミンスクの戦い(英:Battle of Białystok–Minsk、Беластоцка-Мінская бітваビアウィストク=ミンスクの戦いБелостокско-Минское сражение)Kesselschlacht bei Białystok und Minskは、独ソ戦におけるバルバロッサ作戦発動後、1941年6月22日から29日にかけてドイツ国防軍のソ連国境侵入時にドイツ中央軍集団によって行われた戦いである。ドイツ軍はミンスクでソ連軍を包囲した。
ミンスク(ベラルーシ語: Мінск ミーンスク、ロシア語: Минск)は、ベラルーシの首都。首都としてどの州にも属さない市である。
●バルバロッサ作戦
1941年6月22日未明、ドイツ軍の精鋭300万名は4000kmの戦線で一斉にソ連領に攻め入った。ドイツ陸軍で最大の攻撃力を持っていたのは中央軍集団である。航空1個戦隊に支援された歩兵3個軍と機甲2個集団は、モスクワ前面のソ連軍主力を撃滅する任務を与えられていた。作戦の第1段階はビャリストク突出部のソ連軍を包囲撃滅することである。北部からホト将軍の第3機甲集団が、南部からグデーリアン将軍の第2機甲集団が東へ向かって突進し、6月28日に両機甲集団はミンスクで包囲の輪を閉じ、50万名のソ連軍を補足した。しかしグデーリアンに言わせれば、これは成果ではなく次のステップへのチャンスに過ぎなかった。ドイツ軍はべレジナ河に突進を続けた。急進撃中の中央軍集団戦区でもドイツ軍の苦戦はあった。「ブレスト・リトフスク要塞」の抵抗は激しく、空軍と協同した猛攻撃にもかかわらず、そこは6月末まで攻略できなかった。またその後もしばらく散発的な抵抗が続いた。ミンスクで包囲されたソ連軍も北と南へ脱出をはかった。激しい戦闘が続き、約20万名の兵力と500輌の戦車が脱出に成功している。包囲網の掃討は7月3日までかかった。ここで約29万名が捕虜となり戦車2500輌が破壊または捕獲された。中央軍集団の北では、レニングラードを目標とする北方軍集団が歩兵2個軍と機甲1個軍団で東プロイセンからバルト3国に突入していた。目標にはバルト海沿岸の港も含まれていた。北方軍集団の機甲兵力は第4機甲集団でラインハルト将軍の第41機甲軍団が北を、マンシュタイン将軍の第56機甲軍団が南を進んだ。機甲部隊は快調に前進したが、リトアニア、ラトヴィア国境のドヴィナ河の線で後続部隊を待つよう命じられ、結局6月中には旧ラトヴィア=ソ連国境であるペイプス湖の線にソ連軍が築いた「スターリン線」に対する攻撃を開始できなかった。そのためこの戦区ではソ連軍の退却を許してしまい、中央軍集団のような包囲作戦は成功しなかった。中央軍集団の南から攻撃を開始したのは南方軍集団である。またその南のルーマニア=ソ連国境にはルーマニア第3軍、第4軍が展開していたが、政治的な理由で6月の間は参戦しなかった。南方軍集団の兵力も歩兵2個軍、機甲1個軍であったが、その担当戦線はドイツの3つの軍集団の中で最も長く、しかも部隊の集結はバルカン作戦の影響でやや遅れていた。もうひとつ重要なことは、この戦区は最もソ連軍の戦力が充実していたという点である。6月22日の攻撃開始の4日後、ドイツ軍はソ連軍南西戦線正面軍の機甲兵力による反撃を受けた。これらの部隊はT-34、KV-1などの強力な新鋭戦車を装備しており、ドイツ軍がこれを撃退できたのはソ連軍の練度がドイツ軍のそれに比べて低かったことによっていた。このような状況だったので、ドイツ軍は6月の間、南方軍集団戦区では目立った進撃ができなかった。

「私にはできない。(開戦)演説はモロトフにやらせてくれЯ не могу этого сделать. (Начало войны) Пусть выступит Молотов.(スターリン=ドイツの奇襲攻撃のニュースを聞いて)

Molotov addresses the Soviet people re. German invasion.(モロトフ外相によるドイツの侵略に関するソ連人民への声明。ラジオ演説)
Title: "Soviet newsreel / 59 / 1941 / M. Fidelevoy"/ "Radio address of the USSR's Chairman of the Council of People's Commissars and the People's Commissar for Foreign Affairs, V.M. Molotov / June 22, 1941" MS of Molotov(1941年6月22日、モロトフソ連人民委員会議議長(首相)及び外務人民委員(外相)). Voiceover of Molotov speech:
"Today at 4 a.m. ... without declaring war, Germany attacked our country (本日午前4時、ドイツは宣戦布告なしにわれらの国を攻撃した)... the attack was perpetrated despite a pact of non-aggression between the USSR and Germany(攻撃は独ソ不可侵条約にも関らず、はじめられた), which the USSR faithfully abided by(ソ連は誠実に(断固として)とどまった) ... responsibility for this attack falls entirely upon German fascist rulers(この攻撃の責任は、完全にドイツ人ファシスト指導者に帰せられる) ... at 5:30 a.m. the German ambassador in Moscow relayed the message from the German government (午前5時30分に、モスクワの駐ソ独大使はドイツ政府による用件(メッセージ=伝達事項)伝言を転送した)that the decision to launch war against the USSR(ソ連に対して戦争を仕掛ける決断を) was due to Red Army units concentrated near the East German border(なぜなら赤軍部隊は、東部ドイツ国境近辺に集中していたからだ). I replied on behalf of the USSR(私はソ連代表として返答した), that Germany attacked despite the peace agreement, making Germany the aggressor(平和(条約)合意にも関らずドイツは攻撃をはじめた。これでドイツは侵略者になった) ... Hitler's declaration today is a lie and a provocation(本日のヒトラーによる宣言(声明)は、嘘と挑発である), and he is trying belatedly to invent charges that the Soviet Union failed to observe the Soviet-German pact(彼は遅ればせながら、ソ連は独ソ(不可侵)条約を守らなかったという告発を(でっちあげた)発明した). Now that the attack on the Soviet Union has already been committed(現在、ソ連に対する攻撃はすでに実施された), the Soviet Government has ordered our troops to retaliate(ソ連政府はわれらの軍に報復(反撃)を命じた) and to drive German troops from our country(さらにドイツ軍をわれらの国からたたき出すため). This war has been forced upon us(この戦争は強制されたもの), not by the German people(ドイツの人々によってではなく), not by German workers(ドイツの労働者たちにではなく), peasants(農民) and(加えて) intellectuals(知識人(インテリ)たち), whose sufferings we well understand(我々は苦悩(難儀)しているのをよく理解している), but by the clique of bloodthirsty Fascist rulers of Germany who have enslaved Frenchmen, Czechs, Poles, Serbians, Norway, Belgium, Denmark, Holland, Greece and other nations(しかし残虐な(血に飢えた)ドイツファシスト派閥(徒党)の指導者たちは、フランス人、チェコ人、ポーランド人、セルビア人、ノルウェー人、ベルギー人、デンマーク人、オランダ人、ギリシャ人他多数の国々(国民たち)を奴隷化した). The government of the Soviet Union expresses its unshakable confidence(ソ連政府は揺るぎない自信を表明する⇒) that our valiant army(われらの勇敢な陸軍) and(そして) navy(海軍) and(及び) brave falcons of the Soviet Air Force(勇ましいソ連空軍) will acquit themselves with honor in performing their duty to the fatherland (は名誉とともに祖国のための義務を遂行する)and to the Soviet people(そしてソ連人たちへ), and will inflict a crushing blow upon the aggressor (さらに決定的な痛打を侵略者に与えるだろう)... The government of the Soviet Union expresses the firm conviction that the whole population of our country(ソ連政府は、断固たる(強固な)確信(信念)を表明する。わが国の全人口), all workers(すべての労働者たち), peasants(農民たち) and(さらに) intellectuals(知識人たち), men(男子たち) and(及び) women(女子たち), will conscientiously perform their duties and do their work(は入念(良心的)誠実に彼らの任務(職責)を果たし、遂行する). Our entire people must now stand solid and united as never before(我々の全人民は今、前例のないよう頑強に立ち向かい。そして団結しなければならない) ... The government calls upon you, citizens of the Soviet Union, to rally still more closely around our glorious Bolshevist party(政府はきみたちソ連の市民が、われらの栄誉に満ちた(輝かしい)ボルシェヴィキ党のまわりに、一層近づき集結するよう呼びかける), around our Soviet Government(われらのソ連政府), around our great leader and comrade, Stalin(われらの偉大な指導者及び同志スターリンのもとで). Ours is a righteous cause(正義はわれらにある). The enemy shall be defeated(敵は敗れる). Victory will be ours.(勝利はわれらのもの)". . .
バルバロッサ作戦(1941年7月―9月)
-ソ連に侵攻したドイツ軍は破竹の進撃を続けた。イギリスは直ちにソ連への協力を申し出るとともに、北極圏とイランを経由した物資支援ルートの確保に動き出した。太平洋と地中海での戦況はともにイギリス有利に傾き、チャーチルは合衆国大統領と共同で「太平洋憲章」を誇らしげに掲げたー
<ヨーロッパ東部戦線>●独ソ戦と日本
緒戦こそ勝利の連続ではあったが、ヒトラーは独ソ戦の行方を決して楽観はしていなかった。独ソ戦を開始して間もない6月30日、ヒトラーは日本に対ソ戦を開始することを要望している。ところが日本は4月に日ソ中立条約を結んだばかりで、ある程度、南方へ進出する方針を固めていた。すなわち南方の資源確保を優先させようとしていたのである。方針を転換し、ドイツと共にソ連を倒そうという意見もあったが、7月2日の御前会議でそれは最終的に退けられた。日本のこの決断によって、ドイツは短期間でソ連を倒すことに失敗し、同時にアメリカを正面から敵に回して完全な二正面作戦に入ることになる。
●北方軍集団の進撃
7月2日、ドイツ北方軍集団は再びレニングラードへのスタートを切った。第4機甲集団の第41、第56機甲軍団はペイプス湖の南端に近いプスコフを占領するとレニングラードの南部に広がる湿地帯に出た。ペイプス湖、イリメニ湖、レニングラードに囲まれたこの地域は機甲部隊の通行には不向きであった。地形が不利であったこととソ連軍に防衛のための時間を与えたことから前進が難しくなり、また機甲部隊の運用が適切でなかった。そのためにドイツ軍の戦線は7月中旬いっぱい不安定になり、前進は停滞した。この間にもレニングラードは市民総出で陣地の構築、兵器の生産にはげみ、守りを固めた。ドイツ軍は8月8日再び進撃を開始した。ソ連軍は頑強に抵抗し、イリメニ湖の北端にあるノヴゴロドでは激戦が続き、ルガ河畔のルガでもドイツ軍は前進を阻まれた。しかしこれらの拠点を突破できればレニングラード攻略は目前だった。8月21日、第41機甲軍団はレニングラードまで40kmのクラスノグワイジェイスクを占領した。8月の下旬にはエストニアの港、タリンにもドイツ第18軍による攻撃が加えられた。ソ連軍は海からの撤収をはかったが、ドイツの空襲と機雷によって大損害を受けた。しかしこの掃討作戦は第41機甲軍団の側面強化を遅れさせることになり、レニングラードそのものへの攻撃開始時期に影響した。
フィンランドも7月10日からソ連に侵攻して旧領土を奪回し、9月4日にはレニングラード北方のオロネツに達した。またムルマンスクから南に通じる鉄道線を遮断したが、それ以上前進せず、レニングラードに対する圧力は不充分であった。ドイツ軍のレニングラード攻略作戦は9月8日に開始された。ソ連軍は同市の防衛指揮官に新たにジュ―コフ将軍を迎えて防備を強化していた。ドイツ軍の強襲はレニングラードの防衛拠点をひとつ、またひとつ潰して9月11日には最大の目標であったドゥーデルホーフ高地、いわゆる「禿げ山」の攻略に成功し、市内を一望できるまでになった。中央軍集団を支援していた第8航空軍団も応援に駆けつけ、ドイツ第1航空艦隊の北方航空指揮所属機と協力してバルチック艦隊6万トンを撃沈している。ところがこの翌日、北方軍集団司令部にレニングラードの攻略中止命令が届いた。レニングラードは包囲にとどめ、第41機甲軍団を中央軍集団戦区に転出させよという命令であった。前線部隊の士気を考慮してこの命令は数日間発表されず、包囲継続に必要な拠点を確保するためドイツ軍は攻撃を続けた。


スターリンの大祖国戦争開始演説(1941年7月3日) Stalin Speech on German invasion in WW2 - operation Barbarossa 3 July 1941
Comrades!(同志たち!) Citizens!(市民たち!) Brothers(兄弟たち!) and sisters!(姉妹たち!) Fighters of our Army and Navy!(陸海軍の戦士たち!) I am addressing you, my friends!(友たちよ!私は告げる) The treacherous military attack on our Fatherland, launched on June 22 by Hitler’s Germany, is continuing.(6月22日にはじまった我らが父祖の大地に対する恥知らずな(裏切り・卑怯)ヒトラーのドイツ軍による攻撃は続いている) In spite of the heroic resistance of the Red Army,(英雄的な赤軍の抵抗にも関らず) and although the enemy’s finest divisions and finest air force units have already been smashed(敵の最強精鋭師団、最高の空軍編隊はすでに撃退されながらも)and have met their doom on the field of battle,(戦場でも崩壊に面しながらも) the enemy continues to push forward, hurling fresh forces into the attack.(敵は進撃を続け、新鋭軍団による猛攻を浴びせている). . . A grave danger hangs over our country.(祖国存亡の危機である) How could it have happened that our glorious Red Army surrendered 1 number of our cities and districts to fascist armies?(どうしたら我ら栄光の赤軍が数々の都市、地域をファシスト軍に明け渡すようなことが起るか?) Is it really true that German fascist troops are invincible, as is ceaselessly trumpeted by boastful fascist propagandists? (ファシストのプロパンガダ放送が止むことなく賞賛しているようファシストドイツ軍は本当に無敵(不敗)なのか?)Of course not!(もちろん違う). .
スモレンスクの戦い(Kesselschlacht bei SmolenskスモレンスクのたたかいСмоленское сражение (1941))は、第二次世界大戦の独ソ戦中に、ドイツ中央軍集団所属の第2装甲軍集団(司令官ハインツ・グデーリアン)、第3装甲集団(ヘルマン・ホト)らがソビエト赤軍4個軍を包囲した戦いである。ソビエト赤軍は西部正面軍(司令官セミョーン・チモシェンコ)、ソビエト赤軍予備軍(司令官ゲオルギー・ジューコフ)、中央正面軍(司令官フョードル・クズネツォフ)、ブリャンスク正面軍(アンドレイ・エリョーメンコ)が戦いに参加、最終的にはソビエト第16軍、第19軍、第20軍がスモレンスク南方で包囲され、第19軍の大部分のみ包囲から脱出することができたFrançaisフランス語→La bataille de Smolensk de 1941 (10 juillet 1941 – 10 septembre 1941) est le premier affrontement, sur le front de l'Est à Smolensk, entre les troupes allemandes du Groupe d'armées Centre et l'armée soviétique. 
スモレンスク (Смоленск, Smolensk) は、ドニエプル川沿いに位置する、ロシア連邦の西方の都市である。モスクワからは西南西へ360km、スモレンスク州の州都。人口は351,100人(2003年推計)、2002年国勢調査では325,137人であった。Latinaラテン語→Smolenscum, vulgo Smolensk (Russice Смоленск), ad flumen Danaprim situm, est urbs Russiae, metropolis regionis Smolenscensis.
●スモレンスクの戦い
ミンスクの戦いが終わる7月3日、グデーリアン将軍の第2機甲集団はドニエプル河畔のモギレフに達していた。第2機甲集団はそこでT-34を多数装備するモスクワ自動車化師団の戦車部隊と遭遇したが、苦戦の後にこれを退けることができた。7月10日、ホト将軍の第3機甲集団はヴィテプスクを陥とし、ドニエプル河に向かって進んでいたが、ロシアの奥地は次第に南北の幅が広がっていくため、機甲部隊も分散せざるを得なかった。ドニエプル河を渡った第2機甲集団はソ連西戦線正面軍が南からスモレンスク方面に向かおうとするのを阻止することに成功した。そして7月16日、北の第3機甲集団と南の第2機甲集団ともスモレンスクに達することができた。ソ連軍はスモレンスクの南東のイェリニャや、スモレンスクの150km西方のモギレフで、突出したドイツ軍に反撃を加えた。ドイツ軍はこの反撃を捕らえ、7月27日までに逆包囲してソ連軍100万名を撃破したが、自らの消耗も激しく、実戦力は開戦時のほとんど半分になっていた。グデーリアンはスモレンスクでの辛勝を無駄にせず、8月の上旬から中旬にかけてロスラウリやゴメリなどスモレンスクの南側面を固めながらソ連軍を細かく撃破していった。これは、モスクワ攻撃の拠点確保を意味していた。ドイツ空軍は7月12日、モスクワを初空襲し、21日以後本格的な空襲を継続した。8月、ソ連空軍もベルリンに対して報復の空襲を行なった。


オデッサの戦い(オデッサのたたかい、ドイツ語: Schlacht um Odessa、ロシア語: Одесская оборонаアヂェースカヤ・アバローナ、ルーマニア語: Bătălia de la Odessaバタリヤ・デ・ラ・オデッサ)は、独ソ戦初期の1941年8月から10月まで、黒海沿岸の軍港都市であるオデッサを巡って行われた戦闘。攻略は、ルーマニア軍が担当したが、ソ連軍の堅固な防衛陣地を破るのに難渋し、約2ヶ月の攻囲の末、大損害を被った後に、オデッサは陥落した。Españolスペイン語⇒La Batalla de Odesa se libró en 1941 entre la Unión Soviética y las fuerzas del Reino de Rumania, que recibió apoyo de la Alemania Nazi, durante la Operación Barbarroja en la Segunda Guerra Mundial. Lo que se esperaba que fuera un rápido ataque se convirtió en un largo asalto y después de cuatro ofensivas fue que las fuerzas rumanas lograron finalmente tomar el puerto soviético de Odesa.
オデッサ(ウクライナ語: Одеса [oˈdɛsɐ] (オデーサ、オデサ)、ロシア語: Одесса [ɐˈdʲesə]アジェーサ)は、ウクライナ南部、黒海に面した港湾都市である。オデッサ州の州庁所在地で、2015年現在の人口は約101万人、ウクライナで3番目に大きな都市となっている。面積は約160km2。ドニエストル河口から北に約30km、キエフから約443km南に位置する。Românăルーマニア語⇒Odesa sau Odessa (în ucraineană Одеса, transliterat: Odesa, în rusă Одесса, transliterat: Odessa, în greacă Οδησσός, transliterat: Odissós, în turcă Hacıbey) este un important oraș și port ucrainean situat în nord-vestul Mării Negre, este, totodată reședință a regiunii omonime. Populația orașului număra 1.010.500 de locuitori la 1 august 2015.
●ドイツ南方軍集団の進撃
第1機甲集団は7月までに100kmほど前進したもののソ連軍南西戦線正面軍の激しい抵抗の前に大規模な包囲作戦は望むべくもなかった。ソ連軍は「スターリン線」に入ることに成功し、ドイツ陸軍が第4航空軍団の支援を得てこの防衛ラインを突破できたのは7月9日であった。ドイツ軍は比較的ゆっくりとではあったが、着実に前進していった。7月2日、第1機甲集団の南カルパチア山脈の東側から、ドイツ第11軍がルーマニア軍と共に攻撃を開始した。独ソ開戦から1週間以上過ぎたこの時期にはもはや奇襲の効果はなく、ここでも戦闘しながらゆっくりと前進を続けるしかなかった。ドイツ南方軍集団の中核をなすこれらふたつの軍は、さらに1ヶ月ほどたった8月7日、ウマーニ付近でこの戦区で初めてソ連軍を大規模に包囲することに成功した。罠に落ちたソ連軍は3個軍で、ドイツ軍は捕虜10万名、捕獲戦車300輌を得た。ドイツ軍の進撃は勢いを増し、黒海沿岸のソ連海軍基地にも迫っていた。オデッサはすでに孤立しており、8月中旬にはオデッサとクリミア半島の中間にあるニコラエフから撤収が行なわれた。ニコラエフで建造中であった戦艦1隻を含む艦艇は撤収時に破壊された。この時ソ連黒海艦隊は戦艦1隻、巡洋艦5隻、嚮導駆逐艦3隻、駆逐艦13隻、潜水艦47隻、掃海艇15隻、水雷艇80余隻、航空機600機以上を有し、沿岸の支援やルーマニアのコンスタンツァ、ヴェルナに対する攻撃を行なった。南方軍集団はドニエプル河に接近し、8月28日、ソ連は第4次5カ年計画の成果であるドニエプル河畔のサポロジェにあるダムを自ら破壊した。

キエフの戦い(Schlacht um Kiew (1941)キエフのたたかいБитва за Київ (1941)Битва под Киевом, Киевская операция (1941))は、第二次世界大戦中、キエフ近郊でソビエト赤軍がドイツ軍に包囲された戦いである。この包囲戦では歴史の中でも稀有な大包囲が行われた。この包囲戦はバルバロッサ作戦の一環として1941年8月23日から9月26日まで続いた。ソビエト赤軍の歴史においては1941年7月7日から9月26日までとされており、キエフ防衛作戦(ロシア語: Киевская операция)と呼ばれている。

キエフ(ウクライナ語: Київ [ˈkɪjiu̯] キーイウ、ロシア語: Киев [ˈkʲiɪf] キーイフ)は、ウクライナの首都。
●キエフ
8月17日、ドイツ中央軍集団のグデーリアン第2機甲集団がゴメリで戦っている頃、南方軍集団はドニエプロペロフスクでドニエプル河に到達していた。この情勢はヒトラーに、キエフにおける包囲戦を決断させた。ヒトラーは「バルバロッサ作戦」の計画時からウクライナと、レニングラードの制圧を主目標とすべきであると考えていたが、ミンスクなどにおける勝利を見て、一時モスクワを主目標にする考えに傾いていた。しかしここで、ウクライナの首都であるキエフをモスクワの前に攻略する、最終的な決断が下されたのである。ドイツ陸軍は当初からモスクワ攻略を主張していたため、この決断には不満であった。8月23日、ドイツ第2機甲集団と第2軍は南方軍集団と協同でキエフ周辺のソ連軍を包囲する作戦を開始した。第2機甲集団を支援していた第2航空軍団も南へ回された。最初の激戦は南へ向かうグデーリアンの第2機甲集団のジェスナ河橋頭堡をめぐる攻防であった。グデーリアンは9月9日、コノトプに達した。同じ頃、クライスト将軍の第1機甲集団もドニエプル河畔のクレメンチューク付近から北上を開始した。キエフ地区のソ連軍部隊は明らかに包囲の危険にさらされていた。しかしスターリンは次のドイツ軍の目標はモスクワであると確信していたため、キエフ周辺の部隊に撤退を許さなかった。9月14日、第1、第2機甲集団はキエフの東160kmで合流し、空前の大包囲網が完成した。包囲されたのはソ連軍50個師団60万名以上であった。この後10日あまりソ連軍の抵抗は続いた。ソ連軍はキエフに多数の爆薬をしかけたため、占領したドイツ軍にも多くの死傷者が出た。大都市におけるゲリラ的な抵抗は予想外に部隊を消耗させることがわかり、このことはヒトラーにレニングラード突入をためらわせる大きな理由のひとつとなった。9月30日、キエフの戦いが終了すると、グデーリアンはモスクワへ向けて北へ向かった。10月2日にはモスクワ攻略「タイフーン作戦」が正式に発動される。

レニングラード包囲戦(Leningrader Blockadeレニングラードほういせん、ロシア語:Блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ、1941年9月8日 - 1944年1月27日)は、第二次世界大戦の独ソ戦における戦闘のひとつ。
●レニングラードの包囲
9月15日、ちょうど南方でキエフが包囲された頃、ドイツ軍はラドガ湖畔のシュリュッセルブルグを占領し、レニングラードの包囲が完成した。ただしこの包囲は陸路を包囲しただけであり、ラドガ湖という交通線が残されている限り、完全とはいえなかった。しかしこの交通線を通じて輸送しうる物資には限りがあり、レニングラードは多数の市民をかかえたまま、わずかな食糧の蓄えで冬を迎えねばならなかった。この日にはロシアで初雪が降り、はやくも冬の到来が感じられた。

サンクトペテルブルク(露: Санкт-Петербург,サンクトピチルブールク, IPA:[sankt pʲɪtʲɪrˈburk] Ru-Sankt Peterburg Leningrad Petrograd)は、ロシア西部のネヴァ川河口デルタに位置する都市で、レニングラード州の州都。1917年までロシア帝国の首都だった。人口約540万人。
●キエフ戦後のドイツ南方軍集団
キエフにおける勝利の後、中央軍集団のグデーリアンはモスクワ攻略のため北へ戻ったが、南方軍集団のクライスト第1機甲集団はさらに東への前進を続け、南方軍集団の側面となるクリミア半島の攻略を援助した。キエフの戦いが行なわれている9月4日から、クリミア半島へ通ずるペレコプに対する攻撃は開始されていた。ドイツ軍はいったんこれに成功し、クリミア半島に進んだ。しかしソ連軍の反撃によって進撃した部隊がクリミア半島に閉じこめられてしまう可能性が出てきた。ちょうどこのときキエフの戦いを終えた第1機甲集団が攻撃中のソ連軍の背後に現れることになった。
*ドイツ国防軍(ドイツこくぼうぐん、ドイツ語: Wehrmacht)は、1935年から1945年にかけて存在したドイツの武力組織である陸軍、海軍、空軍の三軍の総体を指す。国家唯一の武装者(独:Waffenträger der Nation)と定義される存在であったが、当時のドイツにはナチス党の組織である武装親衛隊など管轄外の武装組織も存在していた。1935年3月16日、徴兵制の再施行とともに発令された「国防軍建設に関する法律(ドイツ語: Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht)」[1]により、旧来の国軍(ドイツ語: Reichswehr )は、国防軍に改称された。総兵力は50万人となり、その後も多額の軍事費が投じられ、拡張と近代化が進められた。1939年のポーランド侵攻直前の兵力は318万人と世界でも屈指の規模であった[2]。第二次世界大戦においては連合国と戦い、当初は大きな勝利を収めたが1942年ごろから徐々に退潮し、1945年5月には無条件降伏を行い、1946年8月20日に正式に解体された。
Deutschドイツ語→Wehrmacht ist die Bezeichnung für die Gesamtheit der Streitkräfte im nationalsozialistischen Deutschland. Die Wehrmacht ging durch das Gesetz für den Aufbau der Wehrmacht vom 16. März 1935 aus der Reichswehr hervor und wird seit August 1946 offiziell als aufgelöst betrachtet. 
*ソ連地上軍(ソれんちじょうぐん、ロシア語: Советская Армия)は、1946年から1992年にかけてソビエト連邦軍の主力である陸軍につけられた名称。以前は「赤軍」として知られていた。ソ連陸軍(ソれんりくぐん)とも呼ばれる。
Русскийロシア語→Сове́тская Армия (сокр. СА) — официальное наименование основного формирования Вооружённых Сил СССР (кроме военно-морского флота, пограничных и внутренних войск).


モスクワの戦い(モスクワのたたかい、ロシア語: Битва за Москву, ローマ字表記:Bitva za Moskvu 英語:Battle of Moscow)は、第二次世界大戦中の1941年10月2日から1942年1月7日にかけてモスクワ近郊で行われた戦闘である。この戦いは600kmの防衛区域で二段階に分かれて行われた戦略的に重要な戦いであった。モスクワはソビエト連邦の首都であり、最大の都市であったため、バルバロッサ作戦で最も重要な軍事的、政治的な目標の一つであった。この戦いはドイツでは「タイフーン作戦」(ドイツ語:Unternehmen Taifun英語:Operation Typhoon)と名付けられており、モスクワ北部と南部からの両翼包囲を必要とした。モスクワの北方では第3装甲軍と第4装甲軍がカリーニン方面軍と対峙し、同時にモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道を切断し、モスクワ州の南方ではトゥーラの南で西方面軍 (ソ連軍)が第2装甲軍と対峙している一方、第4軍は直接西からモスクワへ進軍していた。アンドリュー・ロバートによればヒトラーのソ連の首都への攻撃は総攻撃に他ならなかった。"誇張ではなく第二次世界大戦の趨勢はこの大規模な攻撃の成果にかかっていた。Scotsスコットランド語⇒The Battle o Moscow (Roushie: Битва за Москву, romanised: Bitva za Moskvu) wis a militar campaign that consistit o twa periods o strategically signeeficant fechtin on a 600 km (370 mi) sector o the Eastren Front in Warld War II. 

J. V. Stalin Speech at the Red Army Parade on the Red Square, Moscow November 7, 1941
(1941年11月7日(独ソ戦開始約半年後)、モスクワ赤の広場。革命記念日軍事パレードにおいてのスターリンによる演説)COMRADES(同志たち), men of the Red Army and Red Navy(赤軍の陸海軍兵士たち), commanders and political instructors(司令官および政治委員たち), working men and working women(男女労働者たち), collective farmers-men and women(集団農場の男女農民たち), workers in the intellectual professions(教師(知識人=専門家)たち), brothers and sisters(兄弟そして姉妹たち) in the rear of our enemy(敵の背後で) who have temporarily fallen under the yoke of the German brigands(ドイツ人の追剥(山賊)たちの手に一時的に降服した(陥ちた)人間たち)), and(さらに) our valiant men and women guerillas(我々の勇敢な(雄々しい=断固とした)男子加えて女子ゲリラたち) who are destroying the rear of the German invaders!(ドイツ人侵略者たちの後方(背後)を破壊している人間たち) On behalf of the Soviet Government and our Bolshevik Party(ソ連政府及びボルシェヴィキ党を代表して) I am greeting you and congratulating you on the twenty-fourth anniversary of the Great October Socialist Revolution(私はあなたたちを、24回目の偉大なロシア社会主義革命記念日に招き祝う). Comrades(同志たち), it is in strenuous circumstances that we are to-day celebrating the twenty-fourth anniversary of the October Revolution(壮烈(激しい)状況下、我々は10月革命24周年記念日を祝っている). The perfidious attack of the German brigands(不誠実なドイツ人山賊による攻撃) and(及び) the war which has been forced upon us have created a threat to our country(それによる戦争は祖国存亡の危機をもたらした). We have temporarily lost a number of regions(我々は一時的に、数々の地域を失った), the enemy has appeared at the gates of Leningrad and Moscow(敵はレニングラードとモスクワの門前に現われた). The enemy reckoned (敵は計算した)that after the very first blow(はじめの一撃後) our army would be dispersed(われらの軍は蹴散らされる), and our country would be forced to her knees(そしてわれらの国は敵に膝を屈す). But the enemy gravely miscalculated(しかし敵は致命的(深刻=厳粛)に間違っていた(見込み違い)). In spite of temporary reverses(一時的な後退にも関らず), our Army and Navy are heroically repulsing the enemy’s attacks along the entire front(前線においてわが陸海軍は、英雄的に敵の攻撃を撃退している) and inflicting heavy losses upon him(多大な被害を与え), while our country(一方、わが国)—our entire country(わが全国)—has organized itself into one fighting camp in order(軍(務)隊内に秩序(規律)よく組織されている), together with our Army and our Navy(われらの陸海軍とともに), to encompass the rout of the German invaders(壊滅したドイツの侵略者を包囲するため). There were times when our country was in a still more difficult position(我々の国が、依然としてより大変な立場にあった時代がある). Remember the year 1918(1918年を思い起こしてみよう), when we celebrated the first anniversary of the October Revolution(我々が最初の10月革命記念日を祝ったとき). Three-quarters of our country was at that time in the hands of foreign interventionists(国土の4分の3は外国干渉軍の支配下にあった). The Ukraine(ウクライナ), the Caucasus(コーカサス), Central Asia(中央アジア), the Urals(ウラル), Siberia(シベリア) and the Far East(極東) were temporarily lost to us(は一時的に失われた). We had no allies(我々には同盟者はいなかった=孤立無援), we had no Red Army(赤軍はなかった)—we had only just begun to create it(我々はそれを創設しはじめたばかりだった); there was a shortage of food(食料の貯蓄はなく), of armaments(弾薬), of clothing for the Army(軍隊への衣服(軍服)もなかった). Fourteen states were pressing against our country(14ヶ国が包囲陣を敷いた). But we did not become despondent(だが我々は失望(落胆)しなかった), we did not lose heart(心(感情)精神は失わなかった). In the fire of war we forged the Red Army(戦下の中、赤軍は設立(構築)された) and converted our country into a military camp(我々の国を軍(隊)事施設に変換させた). The spirit of the great Lenin animated us at that time for the war against the interventionists(介入(干渉)主義者に対する戦争時、偉大なレーニンに励まされた(元気(勇気)づけられた)). And what happened?(そして何が起こったか?) We routed the interventionists(我々は干渉(軍)主義者たちを壊滅させた), recovered all our lost territory(すべての失われた領土を奪回し), and achieved victory(勝利を成し遂げた). . .

モスクワ(ロシア語:Москва́ IPA: [mɐˈskva] マスクヴァー)は、ロシア連邦の首都。Moscow (/ˈmɒskoʊ/, in US mainly: /ˈmɒskaʊ/ Russian: Москва, tr. Moskva, IPA: [mɐˈskva] (About this soundlisten)) is the capital and most populous city of Russia. 
■モスクワ防衛戦(図解・ソ連戦車軍団:上田信(画)齋木伸生(文)・並木書房・1998年)
キエフの包囲戦はソ連軍の大敗に終わったが、必ずしも悪いことばかりではなかった。ドイツ軍がモスクワ正面の部隊を引き抜いて包囲攻撃を行なった結果、ソ連軍は首都防衛のために貴重な2ヶ月の時間を稼ぐことができた。スモレンスクからモスクワまで400キロ間にいくつかの防衛線が設定された。ヴィヤージマ前面を南北に走るヴィヤージマ防衛線、モジャイスク前面を北のボルガ川貯水池からウパ川まで走るモジャイスク防衛線、そしてモスクワ防衛線である。首都防衛のためにブリャンスク方面軍、西方方面軍、カリーニン方面軍の下に50万人の部隊がかき集められた。一方のドイツ軍はモスクワ占領のため、中央軍集団の下に3個戦車集団を集めた。北からホトの第3戦車集団、ヘプナーの第4戦車集団、グデーリアンの第2戦車集団である。モスクワ攻撃命令、タイフーン作戦が発動されたのは10月2日であった(ただしグデーリアンの第2戦車集団は9月30日に行動開始)。ソ連軍の戦線は、第3、第4戦車集団の攻撃によってあっさり突破された。そして7日にはヴィヤージマでソ連西方方面軍と予備方面軍は包囲されてしまった。モジャイスク防衛線までは守るべき陣地線も無く、有力な部隊も存在しない。さらにソ連軍にとって衝撃だったのは、南からのグデーリアンの攻撃であった。この攻撃は完全に予想外であった。6日にはブリャンスクが陥落しブリャンスク方面軍は包囲されてしまった。グデーリアンの進撃は急で10日にはオリョールが陥落した。ソ連軍にはこの方面には文字通り何もなかった。ソ連軍は手元にある兵力をかき集めて防衛線を作り上げた。この部隊はカツコフの指揮の下、ムツェンスクに送られ幸運にも最高の働きをした。T-34戦車集団を効果的に防衛戦闘に使い、グデーリアンの部隊を1週間にわたって足止めしたのである。だが10月中旬、ヴィヤージマ正面のソ連軍はドイツ軍によって掃討された。ムツェンスクでもソ連軍部隊は消耗し後退せざるを得なかった。しかし天はソ連軍に味方した。秋雨の季節が始まったのである。道は泥沼となり、トラックはもちろん戦車でさえも行動することは不可能になった。ドイツ軍は気温が下がり、路面が凍結するまで攻撃を待たなければならなかった。この間にヴァシリエフスキーが参謀総長となり、ソ連軍は賢明に防衛準備を進めた。11月15日、ドイツ軍はモスクワへ最後の攻撃を仕掛けた。しかしソ連軍は完全に態勢を立て直していた。市周辺には何重もの防衛線が建設され、市民防衛隊を含む決死の兵士達が配備された。12月1日、ドイツ軍のオートバイ斥候はクレムリンの尖塔が望める市の外線に達した。しかしそこまでだった。ロシアの冬の到来である。冬季装備を持たないドイツ軍は行動の自由を失い、12月6日、ソ連軍の反撃が開始された。ソ連軍は100キロから250キロも前進し、モスクワ占領の脅威は消滅した。

1942年9月30日、首都ベルリン。ヒトラーのスターリングラード戦についての演説。
In my eyes(私の目には), the year 1942 already has behind it the most fateful trial of our people(過ぎ行く1942年はすでに、われわれの人民にとって最も重大な(運命を決する)年であった). That was the winter of 41’ to ‘42’.(それは41年から42年の冬であった)   Nothing worse can or will happen.(これ以上悪いことは起こりえない、もしくは起こらないだろう)  That we conquered that winter(われわれはその冬を(乗り切った)克服した), that ‘General Winter,’(その”冬将軍”を) that at last (ついに(やっと))the German fronts stood(ドイツ(人・軍)戦線が位置しているのは), and (さらに)that this spring(この春において), that is(それは), early this summer(この初夏), we were able to proceed again(われわれは再び前進することができるであろう), that I believe(それを私は信じている), is the proof that Providence was content with the German people((神の)摂理による証明は、ドイツ人民にとって(満足する)内容だった). It was a very difficult and a very hard test and trial, you all know that(みなさんがご存知のとおり、それはとても困難及び大変な試練と審理であった). And in spite of that(加えてそれにも関わらず), we not only got over the most difficult time(われわれは困難な時期を乗り越えただけではなく), but we managed very calmly to organize the attacking divisions(冷静に(落着いて)攻撃している師団群を(組織する)まとめることを成し遂げた), the mot. (motorized(エンジンつきの(軍隊が)自動車を装備した) and(そして) tank formations anew(戦車(隊)の新たな編成), which were designed to initiate the resumed offensive(攻撃再開を創始(先導)するために計画された). . . 

ヒトラーのスターリンに関するコメント:①「(1937年、訪独中の秩父宮雍仁親王Yasuhito, Prince Chichibuとの会談にて)私は彼を信じない、また憎みますIch glaube nicht an ihn und ich hasse ihn」②「(1940年11月12日、訪独中のモロトフV.M. Molotov外相との会談にて)スターリン閣下は歴史的人物であり、私もそうなるでしょう。是非閣下と会談したいSeine Exzellenz Stalin ist eine historische Person, und ich auch Exzellenz」③「(1942年、夕食会の席上にて)スターリンは我々の無条件の尊敬に値する。彼は彼なりに並々ならぬ人物であり、半ば野獣、半ば巨人であるStalin verdient unseren bedingungslosen Respekt. Er ist ein außergewöhnlicher Mensch, ein halbes Tier, ein halber Riese」④「ロシアをあの男にまかせるのも悪くない。もちろん我が国の管理下でだが。彼はロシア人を取り扱う方法を心得ているからなEs ist nicht schlecht, Russland diesem Mann zu überlassen, natürlich unter unserer Kontrolle, weil er weiß, wie man mit Russen umgeht」

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