日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

朝鮮人BC級戦犯の記録 内海愛子=조선인 BC 급 전범의 기록/Casier judiciaire de la classe BC coréenne/Korean BC Class Criminal Records①



우츠미 아이코内海愛子 (내해 무승부, 1941 년 10 월 20 일 -)는 역사 사회학 들. 恵泉여 학원 대학 명예 교수. 마이너리티 연구 일본 아시아 관계론을 전문으로하고있다. 본명은 아이콘. 남편은 경제학자 무라이吉敬 [1] .1941 년 도쿄 출생. 1964 년 와세다 대학 교육 학부 영어 영문과 졸업. 1965 년 동 대학 제일 문학부 철학과 사회학 전공에 편입. 1967 년 졸업했다. 1974 년 동 대학원 사회학 전공 박사 과정 단위 취득 퇴학. 1975 - 1977 년 일본어 교원으로 인도네시아 국립 빠쟈 잘란 대학 ( 영어 ) 문학부 강사를 맡는다. 1977 년 귀국 후, 릿쿄 대학, 동경 도립 대학 등의 비상근 강사를 거쳐 1988 년 恵泉여 학원 대학 인문 학부 조교수. 1992 - 2007 년 교수. 2007 년 3 월 명예 교수. 2012 년 大阪経済法科大学 아시아 태평양 연구 센터 소장 · 특임 교수.
Korean BC Class Criminal Records
148 Koreans who were charged with war criminals at the end of Japan's war responsibility. A long, hard struggle document that continues to this day.
Casier judiciaire de la classe BC coréenne
148 Coréens inculpés de criminels de guerre à la fin de la responsabilité de guerre du Japon. Un document de lutte long et difficile qui se poursuit à ce jour.
조선인 BC 급 전범의 기록
일본의 전쟁 책임의 말단을 담당 전범 추궁당한 조선인 148 명. 현재까지 이어지는 긴 힘든 투쟁의 문서.
韩国BC级犯罪记录
148名在日本的战争责任结束后被控以战争罪犯的朝鲜人。 漫长而艰苦的文件一直延续到今天。
                    はじめに
ー朝鮮人が日本の戦争責任を問われて戦争犯罪人となっている。この事実を知ったのは10年以上も前のことである。戦犯といえば、東条英機や岸信介などしか思い浮かばなかった私は、”朝鮮人戦犯が存在する”その事実に、強い衝撃を受けた。日本人が朝鮮植民地支配の責任を問われるのなら、話は理解できる。
ーしかし、事実はまったく逆である。日本軍に徴用された朝鮮人軍人と軍属が、戦争中の行為を問われて戦争犯罪人となったのである。しかし、いわゆるA級戦犯として絞首刑になった日本人が7人、それに比べて、23人の朝鮮人がBC級戦犯として、絞首刑・銃殺刑に処せられている。台湾人の場合は、26人が戦犯として処刑された。なぜ、旧植民地の人々に、日本の戦争責任が転嫁されたのか。朝鮮人の存在が、しだいに、私の心に重くのしかかってきた。
ーA級戦犯が「特定の地理的制限をせず、かつ連合国諸政府の共同決定により処刑されるべき重大犯罪人」であるとされたのに対し、BC級戦犯は、日本が占領したかつての「大東亜共栄圏」の各地で開かれた戦争犯罪裁判法廷で刑を受けた人びとのことである。BC級戦犯とは、特定の地域において「通例の戦争犯罪」を行ない、各国の軍事裁判を付されて、有罪判決となった者をさし、ニュールンベルグ裁判の場合と違って、特にB級とC級とが区別されているわけではない(法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判概史要』)。
ーこのBC級戦争犯罪裁判法廷は日本を含め、アジアの49ヶ所で開かれた。容疑者として逮捕された人は2万5000人以上におよぶといわれているが、その正確な数はつかめていない。起訴された人は5700人、そのうち984人が死刑の判決を受けたのである。
ー日本の戦争中の行為を裁いたこれらの法廷で、朝鮮人147人(うち死刑23人)、台湾人173人(うち死刑26人)が、戦犯となっている。全有罪者に占める朝鮮人・台湾人戦犯は、5・6%にものぼる。朝鮮人戦犯148人のうち軍人は3人のみ、この3人はフィリピンの俘虜収容所長だった洪思翊中将(死刑=注)とフィリピン山中でゲリラと戦った2人の元志願兵(有期刑)である。のこる145人のうち、中国大陸で通訳として徴用されていた16人(死刑8人、有期刑8人)を除くと、残る129人全員が、俘虜収容所の監視要員として集められた軍属である。
ー軍属要員-二等兵以下、時には軍属、軍犬にも劣ると軽んぜられたこの人たちが、なぜ戦犯になったのだろうか。しかも、監視要員として集められた朝鮮人青年は3000人、そのうち129人が戦犯となっている。100人に4・3人の割合である。元憲兵のあつまりである全国憲友会がつくった「日本憲友正史」という部厚い本がある。この資料によると、憲兵で戦犯になった人は153人、敗戦時の憲兵総数は3万6037人だった。憲兵の戦犯比率4・3%。朝鮮人監視要員は、日本がかつて占領したアジアの人々に「ケンペイ」と恐れられ、今なお、その言葉が残っている憲兵と、同じ割合で戦犯を出したことになる。
(注)洪 思翊(こう しよく[1]、ホン・サイク[1]、1889年3月4日[1] - 1946年(昭和21年)9月26日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。日本統治下の朝鮮出身の日本陸軍軍人としては、王公族として皇族と同等の優遇を受けた李垠中将と並び、最も高い階級に昇った。太平洋戦争後、戦犯としてフィリピンで処刑された
홍사익(洪思翊, 1887년 2월 2일 ~ 1946년 9월 26일)은 대한제국과 일제 강점기 일본의 군인이며, 일제 강점기에 일본군 육군 중장을 지냈다. 한국인(조선인) 출신으로 일본 육군사관학교와 일본 육군대학 출신으로 일본 육군 중장에 올랐으며, 제2차 세계 대전 종전 이후에 필리핀 마닐라 국제 군사 재판에서 전범으로 처형되었다.战后联合国軍以他在任收容所所長期间战俘食糧不足等責任将其作为战犯审判,1946年4月18日判处死刑,同年9月26日在马尼拉被处决。

Deutschドイツ語→Hong Sa-ik (jap. ホン・サイク, Hon Saiku als japanische Lesung der Hangeul-Silben bzw. Kō Shiyoku als japanische Lesung der Hanja; * 4. März 1889 in Anseong, damaliges Korea, heutiges Südkorea; † 26. September 1946 in Manila, Philippinen)[1] war ein Generalleutnant der Japanischen Armee und der höchstdekorierte koreanischstämmige Japaner, der wegen Kriegsverbrechen der japanischen Armee im Pazifikkrieg verurteilt wurde.
ー朝鮮人俘虜収容所監視要員のこの高い戦犯比率は、一体どこに起因するのだろうか。俘虜収容所監視要員は、軍属 人であり、軍に徴用された民間人という扱いである。通訳や従軍記看護婦などと同じ身分だったことになる。監視要員とは、文字通り日本軍の俘虜になった連合国の将兵を監視し、面倒をみる仕事である。食糧、医療、衣料、通信物の管理など、俘虜が生存していくのに必要な日常のこまごまとした面倒をみる。言葉の通じない連合国の俘虜の面倒をみることは、思ったより難しい仕事である。まして、文化が違い風俗が違う。上背があり、堂々たる体躯の何千人もの白人の将兵を、少数の日本人、朝鮮人で統率しなければならない。「鬼畜米英」のスローガンをたたきこまれていたとはいえ、現実にその「鬼畜」米英蘭豪の兵隊を見た時、朝鮮人軍属のみならず日本人も威圧されたのではなかったのか。
ー日本軍のなかでは最下位でも、俘虜を命令し、統率するのが監視要員の仕事だった。もちろん、命令は「朕」の命令として上官から伝達されるものである。命令に従わない俘虜を「この野郎」と思い、殴ったこともあったろう。日本の軍隊で殴ることは日常茶飯事であった。例えば日本の軍隊では何かミスがあれば「適正」といってビンタを2,3とって公けにはしないで処理する。それは、日本軍独特の温情のあらわれだという。だが、この「温情」は日本軍のなかでは通用しても、連合国の将兵にそのまま通じるものではない。日々、俘虜と接して暮らす朝鮮人軍属は、日本軍の力を背景に、「敵」と踵を接する地点に立っていた。それは、日本と欧米の文化や価値観がぶつかりあい、せめぎあう場でもあった。「捕虜」に対する考え方の相違は、その典型例であろう。
ー俘虜を軽蔑する日本軍の将校は、俘虜になっても堂々と胸を張る連合国将兵、収容所ではこの二つの違った価値観をもつ軍人が、対峙していたことになる。しかも、権力は日本軍の手にある。力で日本軍のやり方を強要していく。その最大のものは「ジュネーヴ条約」を無視し、泰緬鉄道の建設や飛行場の設営に俘虜を労役に使ったことである。連合国の俘虜の27%が死亡したことが、戦後の戦犯法廷で大きな問題となった。
ーまた、当時の日本と連合国との生産力の差も見逃すことは出来ない。船倉に2段、3段のカイコ棚をつくって兵を輸送することは、日本軍の場合、珍しいことではなかった。しかし、「名誉ある捕虜」にとっては、こうしたことも耐えがたいものだったようだ。また、食糧事情も極端に悪く、日本兵すら飢えていた時に、当然俘虜にその矛盾のしわ寄せがいった。本書でも触れるように、多くの俘虜たちが、栄養失調で死亡した。末端で、俘虜の監視にあたっていた朝鮮人軍属が、悲惨な俘虜の死を目にしている。俘虜の惨状に最も心を痛めていたのは、日常生活の世話をしていた俘虜収容所の人々ではなかったのだろうか。そして、そのなかでも、日々、彼らと接する朝鮮人軍属ではなかったのか。
ーしかし心を痛めても、食糧や衣料が届かなければどうすることも出来ない。労働だけは、容赦なく課せられる。不足する食糧、苛酷な労働、そのなかで死亡が相つぐ俘虜たち。俘虜の死亡は、ひとり俘虜収容所だけが責任を問題ではなかったはずであるが、責任は現場に集中した。そして、その末端にいた朝鮮人(地域によっては台湾人)軍属に戦争責任が集中していったのである。
-1970年頃、日本に在住する朝鮮人女性の聞き書きのグループに参加していた私は、彼女たちの話のなかから、加害者である私たち日本人に見えなかった日本人の歴史と現実を具体的に教えられた。過去そして現在もなお日常的な差別の現実のなかに生きている彼女たちのしたたかな生きざまに触れ、穏やかなそして時には激しい語りを聞くなかで、私は加害者の側に身をおく自分自身をの生き方を、自らに問いはじめていた。
ー植民地支配、関東大震災時の朝鮮人虐殺、強制連行、在日朝鮮人への根深い差別、こうした重い事実をつきつけられた私は、朝鮮人で日本の戦争に加担させられ、さらにその戦争中の責任まで問われて戦争犯罪人とされた人たちの話を聞く心の準備が出来ていなかった。出会うまえにやらなければならないことがある。それは、日本が過去そして現在、朝鮮に、そして在日朝鮮人に何をしてきたのか、それを具体的に知ること、そして在日朝鮮人に対して幾中もの厚い壁をめぐらしている日本社会の状況を少しでも変えるべく努力をしてくことから始めなければならないと思った。
ー同時に、朝鮮人戦犯に関して活字になっているものを探し始めた。しかし、資料はきわめて限られていた。先述の洪思翊中将については例外として、階級の下の人たちについては、彼らの遺言や手記のなかから断片的に戦犯になった状況をつかむ以外に方法はなかった。日本軍戦犯の書いた手記に、朝鮮人が登場することはほとんどなかった。戦後、巣鴨プリズンに収容されていた人ですら、朝鮮人戦犯の存在を知らない人もいた。だが「極東国際軍事裁判速記録」には、朝鮮人が登場する。実名で出てくることもあるし、時には朝鮮人とか、監視兵という描かれ方でも登場する。裁判の証拠、証言という性格上、その描かれ方は、コーリアン・ガードが、いかに連合軍俘虜たちを虐待したのかの証言が中心になっている。また、戦争中、俘虜だったイギリス人、オランダ人などが体験記を発表しているが、被害体験を中心に書かれたこれらの手記のなかで、朝鮮人は常に加害者の役割を担って登場している。
ー証言や手記に登場する朝鮮人像は、「虐待する朝鮮人」ということになる。もちろん、日本兵が残虐だったことも描かれてはいるが、朝鮮人に対する彼らの感情が、時には日本人に対する以上に悪いことも見逃すことはできない。
「市民生活に於てまた軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優越的地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられるのは怪しむに足りない。」
ー丸山真男は、中国やフィリピンでの日本軍の暴虐が、一般兵隊によって行なわれた事実をこう受け止めていた。(『現代政治の思想と行動』)。植民地朝鮮から徴用された軍属もまた、圧迫を移譲すべき場をもたなかった人々だったかもしれない。その上、日本の軍隊のなかでもさらに圧迫される。唯一、俘虜が自分の下に位置する人間である。そこに彼らの抑圧が移譲されていったことは十分考えられる。俘虜が描く「虐待する朝鮮人」像は、差別され、抑圧された軍隊が、俘虜=自分より弱い立場の者に、より攻撃的になったことを物語っているようにも思われる。戦犯になった理由がそれだけでないことはもちろんである。
ー私が、朝鮮人戦犯でつくっている「韓国出身戦犯同進会」を尋ねたのは978年2月。ジャワでインドネシア独立軍に参加して戦死した梁七星(注)が、もと俘虜収容所の監視要員だった事実を知ったからである。梁七星の家族や同僚の消息を訪ねて「同進会」の事務所を訪ねた私は、もと戦犯だった人たちの何人かとお会いした。頭に白髪をいだく年齢に達した彼らは、梁七星のこと、そして自分たちがなぜ戦犯になったのか、淡々とした口調で話してくれた。それは、何も知らずに日本軍に協力させられた自分たちへの過去への思い苦渋に満ちた口調だった。「私たちが馬鹿だったんですよ」「俘虜を殴ったことは事実です」と語る言葉には、「日本人」として侵略戦争へ加担させられた過去への悔恨の念が込められていた。


(注)양칠성 (梁七星, 일본식 이름: 일본어: 梁川七星 야나가와 시치세이[*], 인도네시아어: Komarudin, 1919년 5월 29일 ~ 1949년 8월 10일) 은 인도네시아의 독립에 공헌한 한국인 독립운동가이다. 생애=양칠성은 1919년 전라북도 전주군 삼례면 삼례리(현 완주군 삼례읍)에서 태어났다. 그는 태평양 전쟁 중이었던 1942년, 일본 남방군에 입대하여 1945년까지 자와 섬 포로 수용소의 감시원으로 있었다. 1945년이후 조선에 돌아가지 않고, 인도네시아에 남아서 네덜란드의 재식민지화 정책에 대항하던 인도네시아 독립군에 가담하여 활동하였다가, 1948년 11월 부대원들과 산에서 게릴라전을 모의하던 도중, 네덜란드 군에 체포돼 1949년 8월 주민들이 보는 앞에서 총살되었다.[1] 그의 공적은 그가 사망한 지 26년 만인 1975년 11월, 인도네시아 군의 고위 장성이 된 옛 독립 운동 동료들의 노력으로 세상에 알려졌으며, 인도네시아 정부는 그를 외국인 독립 영웅으로 공인하였다. 양칠성은 현재 인도네시아 수도 자카르타에 위치한 칼리비타 국립 묘지에 안장돼 있으며, 현재 그의 묘비에는 KOMARUDIN YANG CHIL SUNG, KOREAN 라는 글씨가 새겨져 있다
.Bahasa Indonesiaインドネシア語→Komarudin (1919 - 1949) adalah seorang pejuang kemerdekaan Indonesia asal Korea.[1][2][3] Nama asli Komarudin adalah Yang Chil-seong (양칠성)[1], sedangkan nama Jepangnya Sichisei Yanagawa (梁川七星).・・・10 Agustus 1949, Komarudin, Abubakar dan Usman dieksekusi di Kerkhoff, Garut.[4] Sementara Djoehana mendapat hukuman penjara seumur hidup di LP Cipinang.[3] Mereka dimakamkan di TPU Pasir Pogor, lalu tahun 1975 dipindahkan ke Taman Makam Pahlawan Tenjolaya, Garut.[2] Komarudin gugur dan meninggalkan seorang anak laki-laki.[2]
ー自分たちのかつての仲間が、インドネシア独立英雄として、ジャワに渡ったことを彼らは心から喜んでくれた。なかでも同進会の会長をつとめる李大興さんは、オランダ軍による銃殺の直前に梁七星の姿を目にしていた。スポーツ選手のような黒いランニングを着た梁七星が、2人の日本人と鎖につながれて、連行されていった。日本人の1人が、かつての李さんの上官だったことから、彼はこのことをよく覚えていた。インドネシア人の監視員が、「あの3人はこれだよ」と首に手をやったことが、その記憶をさらに鮮明にさせたのかもしれない。同進会の人々と話していると「虐待する朝鮮人」の姿は見えてこない。謙虚な物腰の彼らの話を聞いているうちに、なぜ、この人たちが戦犯になったのか、改めて疑問を抱かざるをえなかった。40年という歳月が、戦場の「狂気」をぬぐい去ったのか、一市井の民としての日常が、平凡な市民の顔をつくりあげたのか、それとも俘虜収容所の機構や戦争犯罪裁判のあり方に問題があったのか。
ー戦友会が華々しく開かれ、戦記ものの出版が盛んな昨今だが、俘虜収容所に関して書かれたものは少ない。敗戦後、自分たちが俘虜になった苦労話は、記録も多い。しかし、戦争中、「敵国」の将兵を収容していた俘虜収容所の話をまとめたものは、ほとんど目にすることができない。戦史にのるような派手な仕事でなかった上に、敗戦後は、多くの戦犯者を出したことが、俘虜収容所について語ることを拒ませているのか、その実態さえほとんど解明されていないのが現状である。全BC級戦犯者のうち、有期刑の27%、刑死の11%が、日本人、朝鮮人、台湾人を含めた俘虜収容所関係者という。日本のみならず、「大東亜共栄圏」全域に設置されていた俘虜収容所の全体像とその実情を明らかにすることなしには、あの戦争の実態も見えてこないのではないのか、そして、戦争犯罪裁判が何を裁いたのか、その裁判の審理だけでなくその底流に流れていた感情も理解できないのではないかと思う。
ー自分の被った被害や差別に対しては敏感で、その被害体験の記憶がいつまでも消えることがないのは、人間に共通した感情なようだ。日本人が、敗戦後の捕虜収容所における体験を刻明に記しているように、イギリスやオーストラリア、オランダ、アメリカでも、かつて俘虜として辛酸をなめつくした人々が、その体験を発表している。今でも時々、テレビや新聞で、こうした事実がとりあげられているという。会田雄次(注)の『アーロン収容所』を読む時、これらかつての日本軍の俘虜だった人々の手記もあわせ読むことが必要ではないかと思う。そこには、カッコイイ戦記にはあらわれない戦争の悲惨な現実が、イヤという程描かれている。戦争とは、人を殺しつくすことだという事実も見えてくる。
(注)アーロン収容所 改版 - 西欧ヒューマニズムの限界 (中公新書)Aaron Camp Revised-The Limits of Western Humanism (Chuko Shinsho) (Japanese) – 2018/1/19会田雄次Yuji Aida  (Author)아이다 유우지 会田雄次(아이다 유우지, 1916 년 3 월 5 일 - 1997 년 9 월 17 일 )는 일본 의 역사 학자 , 교토 대학 명예 교수 . 보수 주의자 논객으로 알려졌다.Aida Yuji会田雄次(Aida Yuji , 1916年 3月5日 至 1997年 9月17 日 )是京都 大學的日本 歷史學家和 名譽教授 。 他被稱為保守派辯論。『アーロン収容所再訪』文藝春秋、1975年『原点からの発想 日本的英知の再発見』サンケイ出版、1978年 『極限状況の日本人 会田雄次版軍人勅諭』PHP研究所で改題新版『日本人の精神構造』
ー日本の降伏で戦争が終ったと思ったのもつかの間、俘虜の死の責任を問う戦争犯罪裁判が始まった。BC級戦犯裁判ーそれは世上よくいわれるように、勝者の敗者に対する一方的な報復裁判だったのだろうか。たとえ、そうした側面をもっていたとしても、連合国の俘虜の4人に1人が死亡し、1800万人を超すアジアの民衆を殺した日本の戦争責任は消えるはずもない。あの戦争裁判が、朝鮮、台湾に対する植民地支配だけでなく、かつて日本が占領した地域の民衆が被った被害をほとんど裁いていないという点でも大きな問題が残されている。勝者による報復だったか否かを論ずるだけでなく、フィリピンを除くアジアの独立国が参加していないことの意味がもっと論議されてしかるべきだろう。オランダのように、インドネシアの独立を否認して、武力による再侵略のなかで戦争犯罪裁判を実施した国もある。また、BC級戦犯裁判は、日本の植民地だった朝鮮、台湾出身の将兵や軍属たちを、「日本人」として裁いたことも大きな問題である。
ー「朕」の戦争責任が不問に付されたことと旧植民地の人々に戦争責任が科されたことは、共に戦争犯罪裁判のあり方に大きな疑問を残している。あの裁判で裁かれた戦争犯罪とは何だったのだろうか。戦後、私たちは自らの手で、どこまで戦争指導者を裁き、それに加担した自分たちを問い直してきたのだろうか。朝鮮人戦犯の戦後の孤独な闘いは、戦争責任に無関心な日本人への告発でもあった。
ー朝鮮人がなぜ戦犯になったのか、その事実関係を明らかにしたいと思い本書を書いた。本書は、俘虜収容所監視要員として徴用された朝鮮人3000人のうち、戦犯となった人びとに焦点をあてて記述したものである。日帝下の朝鮮で徴用され、インドネシア独立戦争に殉じた梁七星、ジャワで抗日運動を組織した「高麗独立青年党」(注)については、さきに刊行した『赤道下の朝鮮人叛乱』(勁草書房、1980年刊)で触れた。本書はその続編というべきものである。적도 아래의 조선인 반란赤道下的朝鮮起義 무라이의(村井吉敬) 우츠미 아이코 의(内海愛子)Koreanischer Aufstand unter dem Äquator

(注)高麗独立青年党の設立「高麗独立年次党結成」日本統治時代(1910年〜1945年)한국 독립 청소년 단 설
립 "한국 독립형 당 파티 형성" 일본 점령기 (1910 ~ 1945) 한국 독립 청소년의 설립에 관한 문서는 자바로 구성되어있다. Ambala에서 반일 투쟁의 시작 내용이 기록되었습니다. Pembentukan Partai Pemuda Independen Korea Periode pendudukan Jepang (1910 ~ 1945)
ー「南方」へ送られた朝鮮人軍属は、タイとジャワでマレーの俘虜収容所に配属された。したがって、本書もそれぞれの収容所に配属された軍属を中心に、タイ、シンガポール、スマトラ、ジャワへと話が広がっていくが、「大東亜共栄圏」のなかを、朝鮮人軍属は、俘虜と一緒に移動していたので、舞台が広がらざるをえなかった。
ー朝鮮人戦犯の問題は、戦後の国家補償の問題が解決されていあいこともあって、今なお、当事者による運動が続けられている。40年近くも経過したこれらの問題に対して、日本人や他のアジアの人びとの広汎な理解を得るのはむずかしい。戦後生まれが過半数を占めるに至った今日、「戦犯」といっても知らない人も多い。韓国出身戦犯者同進会の人たちと一緒に、国会請願にまわっている時、「なぜ自分たちが戦犯になったのか」説明に苦しむ彼らの姿をいく度も目にした。多くの人々に、その<なぜ>を理解してもらいたいと思ったことも本書をまとめる契機になっている。本書によって、多くの日本人が、朝鮮人戦犯の苦悩を理解し、その運動を支援して下されば、これほどうれしいことはない。そして、あの戦争が何だったのか、その責任がどうとられていったのかを考える契機になることを心から願っている。いま、ふたたび戦争責任を問わなければならないほどに、時勢は暗い坂道をころがり始めていると私は思うからである。
Aiko Utsumi 内海愛子( Aiko Utsumi , October 20, 1941 ) is a historical sociologist . Professor Emeritus of Keisen Jogakuen University . He specializes in minority studies and Japan-Asia relations. His real name is Aiko. My husband is economist Yoshitaka Murai [1] .  Born in Tokyo in 1941 . Graduated from Waseda University School of Education in 1964. In 1965, he was transferred to the Department of Philosophy, Faculty of Letters, Sociology. Graduated in 1967. In 1974, he completed a doctoral course at the Graduate School of Sociology and dropped out. 1975-1977 Lecturer at the Faculty of Letters, Padjadjaran University , Indonesia , as a Japanese teacher. After returning to Japan in 1977, he was a part-time lecturer at Rikkyo University and Tokyo Metropolitan University. 1992-2007 Professor. March 2007 Emeritus Professor. 2012 Director and Specially Appointed Professor of the Asia-Pacific Research Center, Osaka University of Economics and Law .
Esperanto語→Aiko Utsumi 内海愛子( Aiko Utsumi , 20 oktobro 1941 ) estas historia sociologo . Profesoro Emerito de Universitato Keisen Jogakuen . Li specialiĝas pri minoritataj studoj kaj rilatoj inter Japanio kaj Azio. Lia reala nomo estas Aiko. Mia edzo estas ekonomikisto Yoshitaka Murai [1] .  Naskiĝis en Tokio en 1941 . Diplomiĝis de Waseda Universitato- Lernejo de Edukado en 1964. En 1965, li estis transdonita al la Sekcio de Filozofio, Fakultato de Leteroj, Sociologio. Diplomiĝis en 1967. En 1974, li kompletigis doktoran kurson ĉe la Gimnazio-Lernejo de Sociologio kaj foriris. 1975-1977 Preleganto ĉe la Fakultato de Leteroj, Universitato Padjadjaran , Indonezio , kiel japana instruisto. Post reveno al Japanio en 1977, li estis partatempa preleganto en Universitato Rikkyo kaj Metropola Universitato de Tokio, kaj en 1988 fariĝis asistanto en la Fakultato de Homaroj de la Universitato Keisen Jogakuen . 1992-2007 Profesoro. Marto 2007 Emerita Profesoro. 2012 Direktoro kaj Speciale Nomumita Profesoro de Azia-Pacifika Esplorcentro, Osaka Universitato de Ekonomiko kaj Juro .

I 俘虜収容所の監視要員として
1、タイ俘虜収容所ー死の泰緬鉄道
初めて見る白人
ー「日本はさすがに強い!」。サイゴン(現在のホー・チ・ミン市)に上陸した李鶴来さんの、偽わらざる印象であった。町のいたるところに日の丸が掲揚されていた。そのなかをタイ俘虜収容所に勤務する朝鮮人軍属800名は、兵舎に向って行軍した。雹のような大粒の雨が、たたきつけるように降るなかの行軍だった。どこを通ったのか、初めてサイゴンを見る李さんには、さっぱりわからなかったが、日の丸の氾濫する、かつてのフランスの植民地サイゴンは、白い館と緑陰濃し熱帯の美しい町だったという。生まれて初めてバナナを食べた。パイナップルを初めて食べた李さんの友だちは、よく皮をむかなかったのだろう。口唇がはれあがってしまった。1942(昭17)年9月のことである。
ー李さんたちの俘虜収容所の監視要員として集められた3000人の朝鮮人青年が、釜山を出発したのは、8月19日、台風と敵潜水艦攻撃の恐怖におびえながら、彼らの乗った「ぶりすべん丸」(「クニタマ丸」ら9隻の船団が、サイゴン港の沖合サンジャクに停泊したのは出航11日後の8月30日である。サイゴンで、タイ俘虜収容所に勤務する800名が、仲間とわかれ上陸、他の軍属を乗せた船団は、再び南下していった。サイゴンには、1週間か10日もいただろうか、その間は特に仕事もなく、また、釜山での初年兵教育にも匹敵する厳しい訓練もなかった。久しぶりにのんびりすることができ、つかの間の休息といった気分だった。9月9日頃だったと思う。李さんたちは、行先もわからないまま汽車に乗せられた。汽車は西へ向って走っている。何時間ぐらい走ったのだろうか。ノンプラドックという駅で、下車した。ここは、タイービルマ間414・916キロを走る泰緬鉄道連接鉄道のタイ側の起点となる駅である。
ーノンプラドックで乗り換えた李さんたちの乗った汽車は、さらに、西に向って走っていった。カンチャナプリで、今度は船に乗り、川を溯る。この河が、映画『戦場にかける橋』で有名になったクワイ河(別名ケオノイ河)だとわかったのは、あとのことだ。この時は、行先もわからず、ただただ、命じられるままに行動していたのである。ワンヤイに上陸した。タイ俘虜収容所台分所がここにあった。李さんは、この第4分所の第3分遣所というところに配属されたのである。分遣所長は臼杵喜司穂中尉、24歳の若い中尉はいわゆる軍人精神の旺盛な人だったが、17歳の李さんを弟のように可愛がってくれたという。
ー李さんたち朝鮮人軍属の仕事は、連合軍の俘虜監視である。監視といっても、ただ見張っているだけではない。俘虜は、1942年6月に決定した泰緬鉄道の建設に、労力として徴用されていた。鉄道隊はこの俘虜を使いながら、路砦構築、レール敷設の工事を進めていく。俘虜収容所は、この俘虜の管理をし、鉄道隊の要求する作業人員を集めて、ひき渡す。作業についての直接の指揮は、この俘虜の管理をし、鉄道隊の要求する作業人員を集めて、ひき渡す。作業についての直接の指揮は、鉄道隊がするが、作業中の逃亡やサボタージュを見張るのは、収容所側の仕事である。
ーいってみれば、俘虜の衣食住等、一切の面倒をみながら、鉄道隊の作業を進歩状況にあわせて、必要な数の俘虜を、必要な時に提供する、それが任務であった。この面倒を見る仕事を、末端で担ったのが、3000人の朝鮮人軍属だったのである。大体、俘虜という言葉自体、あまり耳慣れない言葉だが、実態はともかく、その扱いが俘虜と捕虜では違う。俘虜は、「帝国の権内に入りたる敵国交戦者及条約又は慣例によって俘虜の取扱を受くべき者」をさしている。日本は、こうした俘虜を管理するために、1941(昭16)年12月陸軍省に俘虜情報局を設けているが、そこにはマレーやシンガポールやジャワで降伏して、日本軍の俘虜となったイギリス、オランダ、オーストラリア人などの銘々票が管理されていたのである。
ーこの銘々票は、大学ノートの大きさで、そこには、収容所の名前、番号、生年月日、国籍、階級身分、所属部隊、捕獲場所、捕獲年月日、父の名、母の名、本籍地、職業、通報先、特記事項が記入されるようになっている。こうして登録された捕虜を俘虜と呼び、食糧、衣料品、労賃、郵便の扱いなど、あらゆることが日本の法律に従って、処遇されることになる。俘虜が移動すれば、この銘々票も移動していく。この1枚のカードで、俘虜はどこまでも管理されたのである。李さんの所属した第4分所には、1万1000人の俘虜がいた。これを日本人の下士官7人、30人の朝鮮人軍属で管理するというのだから、大仕事である。
ー初めて、俘虜を見た時、李さんは「こわい」と思ったという。数に圧倒されただけではない。1942年10月頃のことだった。つかまって間もない彼らは、まだ、体格がよく、堂々たる体躯で李さんたちを圧倒したのだ。170センチの上背がある李さんの同僚の目線が、彼らの首筋にしか届かない。言葉の通じない大男の群れが、陽気に口笛などを吹くのを見て、日本人下士官や李さんたちは度肝を抜かれたようだ。
「卑しくも相手は捕虜だ。それなのに、この堂々たる態度はどういうことだ。」捕虜になることを厳しくいましめた日本の軍隊では考えられない連合国の俘虜の態度に、朝鮮人軍属のみならず、日本人下士官も、いささかショックを受けた。日本人下士官は、李さんたちの手前、威厳を見せなければと思っていたようだし、李さんたちも、相手の視線に「このチンピラ」と見下すものを感じ、馬鹿にされていると感じた。何千人もの碧眼紅毛の白人は、よく似ていてみんな同じように見えたという。
ー結局、通訳とか、俘虜の責任者とか、日常接触する人を除くと、最後まで名前と顔が一致することがなかった。おそらく、俘虜の側も同じだったのではないだろうか。彼らもまた日常接するごく1部の者を除いては、日本人も朝鮮人も同じように、「色の黄色いチビたち」と映っていただろう。だが、この名前と顔を覚えられる立場にあったことが、のちのBC級戦犯裁判にひっかかることになるのだが、その時の李さんには、そんなことは想像もつかなかった。白人俘虜の監視業務に 進したのである。
ジャングルの奥地へ
ー泰緬鉄道の起点から155キロ離れたヒントクは熱帯ジャングルの真只中にある。直系5センチ以上もある竹が数十本も、ひとかたまりになって、行手をさえぎる。天をつく大木にツタやカズラのようなものがからまり、木々を結びあわせ、空を覆う。うっそうとしたジャングルのなかの道は倒木と枯木の腐葉土で覆われ、ブヨブヨとして、足許が心もとない。李さんが、イギリス人、オランダ人、オーストラリア人の俘虜500人を連れて、ヒントクへ分駐するよう命令を受けたのが1943(昭18)年2月、日本人の上官は誰もいなかった。500人に向行するものは、李さんと同じ朝鮮人軍属6名のみ。ヒントクには、鉄道第9連隊大大隊がうけもつ工事区間75キロのなかで、最大の難所とされる地点があった。
ー李さんたちは、ヒントクへたどりつくと、まず、自分たちの住む宿舎をつくることからはじめた。それまでは天幕生活である。宿舎といっても、ニッパ椰子の葉で屋根をふき、竹で床を張る簡単なものである。しかし、こんな宿舎でも、500人を収容する宿舎をつくるのには、手間がかかる。だいいち周囲は熱帯のジャングルである。宿舎を建てる場所を、まず確保しなければならない。タイのジャングルには竹が多い。数十本で一株となっている竹薮は、根もとを切ったぐらいでは、簡単に倒れない。ロープにかけて、5,6人で引張る。伐採した竹は宿舎の材料に使うが、この竹にはトゲがあった。その根もまた、焼いても爆破してもなお頑強に残り、鉄道隊を悩ませた代物だったという。
ー6棟の宿舎と日本軍の宿舎、炊事場、病院が出来あがった。病院といえばきこえはよいが、薬はマラリアの予防薬キニーネが少量あるだけだったというから、病人の隔離宿舎といった方が正確かもしれない。もちろん、日本人の医者などいない。衛生兵すらいない。俘虜のなかの軍医が治療にあたったが、薬も医療器具もなにもないところでは、手のほどこしようがなかったのが実情だった。ヒントクへやってきた2月は、まだ乾期だったので、作業は比較的はかどった。山の湧水を飲水に使い、食糧も量は十分でなかったとはいえ、砕米があり、塩千魚にカボチャ、トウガン、ザボンなどがポンポン船で運ばれてきた。乾期のケオノイ河は、水量も少なく、ゆるやかに流れ、小さなポンポン船でもかなり上流まで溯ることができたのである。
ージャングルのなかの分駐所で、17歳の李さんが、はじめの数ヶ月の間、事実上の責任者だった。分遣所の業務連絡、命令の伝達、作業割出表による人員の配当、糧秣の支給、時には不寝番もあった。向学心に燃えていた李さんは、勉強する時間があると思って、俘虜収容所監視要員の募集に応じたのだが、現実には本を読むゆとりも余裕もなかった。500人もの俘虜は、軍隊の階級を生かした自治がおこなわれているとはいえ、けんかや盗難がたびたびおこった。特に盗みが多かった。食物や食物と交換できそうな品物、例えば時計、万年筆、ライターなどの盗みが横行した。食糧不足が原因である。俘虜は自分たちで営倉をつくって、秩序を乱す者を入れたりしていたが、時には手に負えないから何とかしてくれと申し出る場合もある。オランダ人の俘虜が、特に多かった。規律違反の報告を受けて、無視することはできない。呼びつけて、2,3回ビンタをとる。ビンタといえば、40年近くたった今日でも、李さんにとって忘れられない思い出がある。
ー天幕生活を続けていた俘虜たちが、ニッパ椰子の宿舎へ移動した時のことである。天幕は、再び、ジャングルの奥地へ移動する時に使用しなければならない大事な品である。ところが天幕を撤去しに行ったところ、これが影も形もない。宿舎に調べにいったら、オランダ人の俘虜が竹の床に敷いているではないか。怒った李さんが、何名かを殴った。この時のことは、いまだに鮮明に覚えているという。若くて、軍人精神をたたきこまれていた李さんは、忠実に上官の命令を守り、天皇のために頑張った。実直な性格の彼には、軍隊のなかで「要領」よく、「適当にやる」ことができなかったのだろう。真面目に勤務した。「大東亜戦争」が敗れることなど夢にも思わず、忠誠をつくし、「国」のために任務にはげむことだけを考えていた。軍馬や軍用鳩以下といわれる軍属傭人だっただけに、馬鹿にされたくないという気持ちも強かった。
ー日本人上官との間も、何となく上手くいかなかった。特に、下士官は、何かにつけて「お前たちは・・・」という態度を見せた。また、あからさまに「お前なんか1人ぐらいたたき斬っても、金鵄勲章をかえせばすむんだ」と言われたこともある。日本人上官に、文句を言わせないためには、任務をキチンとはたすことだ、李さんはそう考えていた。「皇国臣民の誓い」をくり返し唱和し、村に戻った志願兵が、名士として遇されるのを見て、李さんは育った。村の小高い丘の上で、志願兵がラッパを吹く姿は、子供心にカッコよく思い、ひそかに憧れもした。そんな彼が、「聖戦」完遂に、思いを抱かなかったとしても不思議はないだろう。世の中に異なったものの考え方があるのを知ったのは、敗戦後、しかも戦犯となって、巣鴨プリズンに収容されてからである。生まれてはじめて、ゆっくり本を読み、考えることができたのが刑務所のなかだったのである。
ージャングルのなかの分駐所には、何の娯楽もなく、酒すらあまり口にすることもなかった。しかし、山あいの寒村に生まれ、育った李さんには、そんな生活も大して苦ではなかった。戦争とはそんなもんだと思いこんでいたせいもある。また、若さゆえの気負いもあったかもしれない。
悲惨な俘虜たち
人跡未踏の熱帯ジャングルを切り開き、タイからビルマへ鉄道を通そうと計画した大本営陸軍部が、計画決定の際に、熱帯の厳しい自然条件をどれだけ勘案したのだろうか。補給の側道もなく、ジャングルの奥地へ、奥地へと鉄路を敷設する工事が、難工事であることは容易に想像できる。雨期には濁流がさかまくケオノイ河、大岩石地帯が行手をはばむ山岳地帯を通って、415キロを、ツルハシ、ノミ、シャベルなどの道具を中心にした人海戦術で、工事を完了しようというのである。工期はインパール作戦のため、43年10月までに完成し、おしりが切られている。だが、これも、途中2ヶ月の繰りあげ完成の命令が出された。これだけの難工事には普通6~7年かかるのが、鉄道隊の予測だというが、それを5分の1に縮め、。さらに、2ヶ月短縮しろという。結局、1年4ヶ月でしゃにむに、タイとビルマの間を結ぶ鉄道をつくりあげたのである。1日890メートルという鉄道史上のレコードともいうべきスピードだった。
―こうした無理は、すべて建設の現場に、特に労働者として使役されていた俘虜やアジア人労働者の上にしわ寄せされることになった。しかも、タイとビルマ間のこのジャングルは、タイでも名高い病原菌の巣であるという。マラリア、アメーバ赤痢、コレラなどの伝染病のほかに熱帯性潰瘍という恐ろしい病気もある。鉄道建設にあたって、こうした熱帯の自然の猛威に対して、慎重な医療や食糧の準備が十分なされたのだろうか。建設にあたっての努力は、俘虜5万5000人とロームシャともクーリーとも呼ばれたタイ人、ビルマ人、インドネシア人、マレー人の労働者7万人が充当された。熱帯のジャングルに13万からの人力を投入するとなれば、食糧、医療品、衣料の補給には、周到な準備がなされなければならない。
―特に、5万5000人の俘虜には、日本軍は1日の食事の支給衣服の一覧まで作成している。これを実際に支給するには、綿密な補給網がつくられていて当然であろう。雨期ともなれば、夕立のような激しい雨期で、連日雨が降り続く。急ごしらえの道路は粘土質のためドロ沼と化し、時には膝までドロにつかって歩くことすらあり、トラックによる物資の輸送などとても不可能である。ケオノイ河の水かさも増して、小さなポンポン船で、河を遡行して食糧を運ぶこともむずかしくなってくる。新鮮な野菜は論外としても、米などの主食すら底をつきかけることもあった。補給体制の杜撰さが、栄養失調による俘虜の死を招く。
ーヒントクよりさらに奥地に入った分所では、7000人の俘虜のうち3087人が死亡した。1日100グラムの米の配給が1ヶ月も続いた。もちろん、副食など何もない。これは日本軍が決めた量の5分の1にしかならない。こんな食事しか支給できない状態で、どうやって働けというのだろうか。俘虜は恒常的な飢餓状態におかれ、誰もが栄養失調の状態だった。栄養失調で体力がない上、赤痢やコレラにかかればひとたまりもない。建設の過程で俘虜とロームシャ4万3000人が死亡、その原因の99・9%がこうした栄養失調とコレラ、赤痢などの伝染病の併発によるものという。
―薬などもちろんない。人員からすれば20戸の野戦病院があってもおかしくない泰緬鉄道の建設現場には、病院どころか医療品すら満足になかった。軍医すら配属されていないところが多かった。病院が出来たのは、建設がヤマを越し、多くの死者を出したのちだという。遅すぎたのだ。生き残ることの出来た者は、戦後、その悲惨だったジャングルのなかの生活を刻明に記している。極東国際軍事裁判に出された陸軍中佐C・H・カップの宣誓口供書によれば、その生活は次のようなものだった。
「我々一行が移ったどの鉄道建設収容所でも、設備が完成しておらず建物には屋根もなかった。当時季節風の雨が降ってゐた。これらの収容所内の食物は、米と の汁か、あるいは米と豆の汁だけだった。始終次々の長靴はボロボロになってゐた。そして衣類や履物の履きかえもなかった。長靴を履いたままの線路上の仕事は、1日中泥土や水の中にゐるので非常に困難であった。その後、我々は線路に石を敷き兵達は靴なしでこれらの石の上を横切ったり、石切場で働かねばならなかった。仕事の時間は1日12時間から20時間の間であった。1日12時間、14時間というのが最も普通であった。通常、兵達は午前8時に出掛けて午後10時に帰って来た。我々には休日はなかった。我々の最初の休日は鉄道が開通して、9月の19日か20日頃、線路が、我々の収容所近くに接合された時だった。我々は5月14日、5日頃に着手して、9月まで休みなく毎夜毎夜働き通した。何ヶ月も何ヶ月も兵士達は日中に彼等の収容所を見ることはなかった。毎日毎日そして1日に何回も、働く人間の数を減らそうと努力して、私は抗議し、軍医将校も抗議し、また、副官も抗議したが何ら日本人を抑制せしむることはできなかった。彼らが言うには、兵達は仕事へと駆り立てる。もし、1千人が仕事に必要なら、その健康状態の如何を問わず1千人を連れて行くのだと。魚を数片入れた米飯が配給の食料であった。初めの中には、米はかなり沢山あったが、兵が病気になると、直ちに配給は労務者に与えられる分量の3分の1に減らされた。病人はそれから飢えて再起することは不可能であった。」(『速記録』133号)
―C・H・カップ中佐は、また、鉄道建設のためには、イギリス人およびオーストラリア人の俘虜の犠牲は問題ではないこと、あらゆる犠牲をはらって、命令された期間内に完成させなければならないと言われたことも述べている。
泰緬の奴隷たち
―自分の頭髪を鉛筆に、粘土や草木の液汁を絵の具がわりに、この"地獄“を描き続けた1人の俘虜がいる。『泰緬鉄道の奴隷たち』と題されたレオ・ローリングの画文集には、日によっては50回もの便所通いが必要だった赤痢患者の姿、密閉された貨車で5日間も輸送される俘虜の苦しみ、熱帯性潰瘍で骨までむき出しになっている俘虜の姿、コレラ患者の断末魔の苦しみ、日本軍による数々の残虐行為などが、刻明に描かれている。俘虜の1人として、ジャングルの奥地で生死の間をさまよったL・ローリングの目に映った泰緬鉄道の建設現場は”地獄“そのものだった。
「1日中雨だった。その雨のなかで苦労しながら椰子の葉や枝でお粗末な宿舎を作った。そのあとはいつも粥がでた。そして寝た。ところが夜中私はなんども猛烈な胃の痛みに襲われそのたび近くの溝へ自分を運んだ。一度そこへ20分もしゃがみこんでいた。そこで私は眠気とすこしでも乾いた場所へ移りたい欲望と、そして排出したい自然の欲求の板ばさみになっていた。私のテント、それは樹の枝にひっかけた地面用のシートだったが、すでに水はその上に1インチもたまっていた。私は用便からぐったりと疲れ切ってそこへ戻り、しばらく泣き、自分の運命を呪った。」
―だが、L・ローリングの呪われた運命は、さらに悲惨な状態に陥っていく。赤痢、熱帯性潰瘍、日本人、朝鮮人監視員とのトラブル-。俘虜の手記のなかには、必ずこの“監視兵”の残虐行為が記録されている。アーネスト・ゴードンは、現在、アメリカで牧師をしている元英軍俘虜である。彼の著書「死の谷をすぎて-クワイ河収容所」のなかには、随所に監視兵の姿が登場する。この監視兵は、ある時は鉄道隊の兵隊であり、収容所の日本人下士官であり、朝鮮人軍属であったりする。A・ゴードンにとっては、その違いは意味のないことだったのだろう。自分たちを管理、殴打する者の総称が“監視兵”として記録されている。
「翌年1943(昭和18)年の春が近づくころになると、日本兵の焦燥感は眼に見えて増大してきた。本部の命令通りに鉄道が完成しそうもないと予感した彼らは神経質になっていた。当然、自分たちの不安感を発散させるためのはけ口をさらに私たちに向けるようになった。それは日を追って非情になっていった。監視兵がどこかで英語の「スピード」という言葉を憶えてきて、たえず「スピード!スピード!」と叫びながら、あのいまわしい竹の苔を手に私たちを頭の上から監視した。」「その日、1日の仕事が終了した。ただちに工事用具の確認が行なわれた。確認がすみ宿舎へ帰る寸前というところで日本軍の俘虜監視兵が、シャベルが1本足りないと宣言した。その日本兵は、タイ人に売ろうとして誰かが盗んだのだと主張した。俘虜たちの列の前をい彼は大股で歩きつつ、どなりちらしていた。俘虜たちが卑劣で愚かであること、さらに最も許しがたいことは天皇に対する忘恩の不敬を犯していること、それらをなじった。さらに彼は、ブロウクン・イングリッシュの憤怒の声を張りあげて、盗んだ者は一歩前へ出て罰を受けろと命令した。だが誰ひとり動かなかった。監視兵の怒りは一段と強まった。すぐに暴力をふるうと誰もが思った。「全員死ぬ!死ぬ!」と、逆上した彼は金切り声で叫んだ。彼は自分が本気であることを示すために、銃を取り安全装置をはずし、肩にあてて狙いをつけた。俘虜たちをひと通り眺めたうえで左端の者から射殺しようとした。」結局、1人の兵が銃尻で殴り殺された。
―こうした体験を積み重ねたA・ゴードンは、ある日、ビルマから移送中の日本人負傷兵の姿を目撃し、俘虜への残酷な扱いの理由をはっきり理解したのである。負傷兵の状態は見るに堪えなねるものだった。戦闘服には、泥、血、大便などが固まってこぶりつき、傷口は化膿し、全体が膿で覆われたなかから無数のうじがはい出ていた。A・ゴードンは「それまで、いやいまもって、あれほど汚ない人間の姿を見たことがない」という。「日本軍は自軍の兵士に対してもこのように残酷なのである。まったく一片の思い遣りすら持たない軍隊なのである。それならば、どうして私たち俘虜への配慮など持ち得ようか。」俘虜やロームシャに対して残酷な軍隊が、自軍の兵士に対しても残酷なことを、A・ゴードンは、一瞬にして見てとったのである。日本の軍隊における抑圧はより下の者、弱者へと次々に転嫁されていく。朝鮮人軍属は、その抑圧機構の最末端にいた。そして、その上に、「皇軍が命をかけて捕獲した俘虜」がいたのである。

命令と俘虜の間で
1943(昭18)年10月17日、泰緬鉄道は完成した。「死の鉄路」とすら呼ばれたこの鉄道は、「枕木1本、人1人」といわれるように、4万3000人の犠牲者の上に、できあがった鉄道である。李さんの勤務していたヒントクに、第3分遣所が移動してきたのは、8月頃のことである。分遣所長の臼杵大尉がやってきたので、李さんの肩の荷がおりたとはいえ、実質的に仕事を担ったのは、朝鮮人軍属である。ビルマへ兵をすすめる都合上、工期が2ヶ月も短縮され、鉄道隊は昼夜兼行で作業をすすめていた。ヒントクを中心にした前後50キロの路磐構築は「他に例の見ることのできない難渋さを極めたものだった」という(岩井健『C56南方戦場へ行くーある鉄道隊長の記録』)。
ー大岩石油地帯である。立ちはだかる岩山を迂回し、断崖絶壁のへりに、へばりつくように路磐をつくり、そこにレールを敷設する。それを担った岩井隊長は、「鈍い光のなかに、霧の晴れ間からうかがい見るクウェノイ川は、驚くほど深い谷底にあった。谷底から吹きあげられて流れてくる霧の間から、遥か下方の鉛色をした川面をのぞいた私の足は、ただわけもなくわなわなと震えた」と書いている。断崖に路磐をつくる作業は、鉄道隊と俘虜の手で担われた。どうしても迂回路の探し出せない岩山は、岩場カットを行なう。作業は昼夜2交代の連続作業、7時と19時に交代する。鉄道も収容所も昼夜兼行の仕事が続いた。照明設備があるわけでもない。焚火の光で、ノミをふるい、ダイナマイトを仕掛ける。導火線が不足で一発につき4,50センチしかない。これで、1人30発も点火させるのだから無謀としかいいようがない。30発目に点火する頃には、第1発、第2発のダイナマイトが爆発していることもあった。
―点火の作業は、鉄道隊が担当していたが、時には、俘虜が行なうこともあった。ふっとばされて死亡した俘虜もいた。しかし、連隊長は、こう訓示していた。「連隊ハ全滅スルトモ、強行突破セヨ」。全滅を覚悟の建設に、無謀などとはいっていられなかった。降り続く雨のなかの作業、日本兵ですら着替えはなかった。俘虜が着のみ着のままなのはもちろんである。しかも、連日の豪雨のなかでは、洗濯しても乾くことはない。日本兵は半裸、俘虜もロームシャも一糸まとわぬ格好で労働する。はだしで岩場と泥んこの中を作業する。
―鉄道隊の現場作業を指揮した有門巧小隊長は、「1千立方メートルの爆破作業間の2ヶ月、私は服を脱いだことはない。睡眠は岩陰で、長靴のままのごろ寝、もちろんその間、一度も風呂にはいらなかった」という(広池俊雄『泰緬鉄道―戦場に残る橋』)。李さんの管理する俘虜を使っていた弘田栄治少尉もまた同じだった。特に弘田少尉の担当する地区には、最大のネックとなっている岩場があった。狭い切り通しのSカーブの除岩作業は難行をきわめていた。昼夜兼行、休憩時間もおしんで弘田少尉は、1人ノミをふるったという(広池、前提書)。

―もちろん、俘虜たちも2交代の作業を続けた。白々と夜が明けるころから、古風なアセチレン照明をたよりに帰途につくまで、雨に打たれて働く俘虜は疲れはてていた。病気にならない方が、おかしいぐらいだ。だが、ヒントクは、コレラが発生しなかったのが幸いして、死者は少なかった。500人のうち、死亡者は100人ぐらい。常時300人の俘虜が作業に出ていたという。李さんが「少ない」と語るのは、あくまでも、他の分所や分遣所と比較しての話しである。コレラ患者は出なかったものの、赤痢にかかっている者は多かった。李さんは、時には自分の給料で卵などを買って、病人に与えたこともあったが、そんなことでおさまるほど事態はなまやさしいものではなかった。病人でも薬なし、休養なしの現場だったと李さんはいう。
ー突貫工事をすすめる鉄道隊は猫の手も借りたいほど忙い。毎日作業人員の割当表が届く。しかし、慢性的栄養失調と、病人の続出している収容所側は、とても、それだけの人員を揃えることができない。結局、双方に納得してもらうためには、病人でも、若干でも症状の軽そうな者を選んで作業に出ざるをえない。鉄道隊には人数が足りなくとも、それで了承してもらうほかない。俘虜と鉄道隊の間に立って、収容所は時には鉄道隊に、時には俘虜に無理を強いながら、人数の調整をしていった。しかし前日までの鉄道完成は、大本営の絶対命令である。犠牲が俘虜に傾くのは明白である。弘田少尉が、直々に収容所を訪ね、もっと人員を出すよう催促したときも2,3度あったことを李さんは記憶している。
ーもちろん、ロームシャたちにもこの突貫工事のしわよせがいった。しかし、俘虜とロームシャを接触させず、別々の命令系統の下で使用していた日本軍の方針のもとでは、李さんたちに、ロームシャの惨状は見えてこなかった。俘虜よりロームシャの死の方が多いことが、彼らの置かれた俘虜以上に悲惨な状況を物語っている。李さんも病人を作業に出したことがある。また、ズル休みをしている俘虜を見つけたこともある。不潔な収容所のなかを、少しでもきれいにと思った彼は、よく収容所のなかを見まわって歩いた。そんな彼を俘虜たちは”リサド”(とかげ)というあだ名で呼んでいたという。ちょこまかとよく動くといった軽い意味だったかもしれない。
ーだが、俘虜は監視される立場にある。また、短波受信機をかくし持っていた俘虜たちさえいた。李さんに見つかっては困るようなことが、いろいろあったのではないのか。ズル休みを発見されたのもその一つだろう。監視する者とされる者、そこには彼の考え及ばぬ断絶があったと思われる。李さんがその管理にどんなに心を砕こうとも、俘虜にとって労働は強制された以外の何ものでもなかった。比較的死亡者が少なかったといわれるヒントクでも、俘虜たちは、午前8時から午後6時、時には10時までの苛酷な労働と栄養失調、マラリア、赤痢などの伝染病に苦しんでいる。李さんの力では、どうすることも出来ない事ではあったが、俘虜たちの怨みは、目の前の人間に向けられていったのである。
ーヒントクの最大の難所を受けもった鉄道隊の弘田少尉、収容所の臼杵中尉、そして分駐所の実質的な責任者だった李鶴来さんの3人は、いずれも日本の敗戦後、「俘虜虐待」を主な理由として死刑の判決を受けている。減刑になって一命をとりとめたのは李さんだけ。あとの2人は、シンガポールのチャンギ刑務所で絞首刑となった。
ジャングルの中から徴兵
ーレールの敷設が終り、郵便鉄道がノンプラドックとの間を往来するようになると、ジャングルのなかにも、慰安所が開設された。そこへは、ジャングルで作業する日本人の兵隊ばかりでなく、ここを通ってビルマへと進軍する兵たちが、つかの間の"快楽”を求めにいった。ビルマへ向って行軍する兵たちが、収容所で茶の接待を受けることもある。ある日、李さんはそのなかに「うちの国のひと」を見つけた。志願兵の一員として、インパール作戦に参加したその兵隊が、何という名前だったのか、生きて帰国したのかもまったく分からない。ただ、ビルマへと、ジャングルの奥地に向って行軍して行く朝鮮人志願兵に出会った時、李さんは特別に親しみを感じたという。
ーはっきりとした民族意識をもっていたわけではなかったが、やはり自分の国の人に出会えばうれしい。同じ軍服を着ていても、何となく自分の国の人はわかるものだ。言葉を交わすことは出来なかったが「ごくろうさん」と声をかけた。朝鮮人志願兵は西に向かって行軍していった。東からはジャングルのなかで働いていた朝鮮人軍属に”赤紙”が届いた。泰緬鉄道工事が一段落し、補修工事に日を送っていた1944(昭19)年3月頃である。
ー1944(昭19)年4月、朝鮮に徴兵制が実施された。李さんの所属する第4分所の朝鮮人軍属130人のなかから、3人がこの徴兵にひっかかった。李さんと同じ分遣所から安田仁根と金谷忠次の2人が、徴兵検査に出かけていき、そのまま徴兵された。2人の本名を李さんは知らない。その後の消息もわかっていない。ただ、李さんは、年齢からいっても、次は自分の番だと思ったことは今でもはっきり覚えている。軍人になることを嫌い、炭鉱労働者として徴用されることを逃げるために、俘虜収容所の監視要員となって南方までやってきたのだが、日本の植民地支配者は、熱帯のジャングルのなかまで、李さんたち若い朝鮮人青年を追いかけてきたのである。
ー募集の間、契約は2年と明記されていた。しかし、2年たっても一向に、朝鮮に帰してくれそうもない。それどころか、今度は徴兵である。約束を反故にしたまま何の音沙汰もない日本軍に対して、朝鮮人軍属の間には不満が高まっていた。タイでは金周爽が俘虜とともに逃亡した。ジャワでは朝鮮人が叛乱を起こしたとの噂も伝わってきた。李さんたちも日本人上官と何となく、しっくりいってなかった。何かにつけて「朝鮮人の軍属のくせに」と言われて侮蔑され続けたのである。外出日ともなると、朝鮮人と日本人下士官の喧嘩が絶えなかった。
ー1945年8月、李さんは、タイの首都バンコクに配属されていた。ある晩、収容所本所の金が金庫ごと盗まれた。40万円という大金が入っていた。主犯は石井と名のる朝鮮人軍属、同僚の新井と2人で金庫ごと奪って逃走したというのである。石井軍属は車の技術者、オートバイもろとも川に転落した李さんを助けてくれた恩人でもある。李さんはこの金庫ドロボーの話を聞いて、たまげてしまった。日本の敗戦が近いことなどまったく知らなかったからである。本所で副官をしていた矢代良亀氏によると、華人と軍属が組んで、トラックを乗りつけて金庫ごと盗んだそうだ。あわてて捜査にのりだしたものの、犯人を見つけることが出来ないまま敗戦を迎えた。日本の敗戦を見越した華人と朝鮮人軍属の見事な連携プレイとも言うべき事件だった。石井軍属たちは、日本の戦況を十分に知っていたのかもしれない。だが、若い李さんにとって、敗戦は突然やってきた。日本の敗戦によって、「うちの国」が解放される。解放が実感をもって考えられるようになったのは、朝鮮人軍属が集結してバンコクの町に「高麗人会」を組織してからである。
首実験
―ラジオでは「連合軍俘虜を虐待したものは厳罰に処す」と放送していたが、李さんはその放送を聞いても、他人事のように思い、よもや自分に関係があるなどと考えもしなかった。日本の軍隊の鞄から解放され、帰国する日を1日千秋の思いで待ちのぞんでいた。爆撃がやみ、活気を呈したバンコクの町では、連合国の俘虜による日本人や朝鮮人への暴行が頻発し、タイ人に対する暴行もあった。そのため、タイ人の白人に対する反発も強く、その一方で日本人や朝鮮人に対して同情的だったと李さんは語っている。
―特に“高麗”といえば格別で、多くの中国人は、「中国と高麗は昔からの兄弟国」であると言って、朝鮮が解放されたことを祝ってくれたという。石井軍属と華人による見事な連携プレイを考えあわせると、中国人と朝鮮人の心理的連帯感は、支配者であった日本人には想像もつかないほど強いものだったのかもしれない。

ーしかし、こうした解放感もつかの間のものだった。9月28日夕方まで、全員、高麗人会に集合するよう連合軍から命令があった。集合しない者は処罰するという。バンコクの町に散らばっていた軍属も、28日夕方、指定場所に集合した。ところが、指定場所は自動小銃をもった兵隊たちにとり囲まれている。明朝“首実検”をするという。この首実検は、元の俘虜や住民による戦争犯罪人の指名である。顔を見て“これ”“これ”と指名していくのである。顔見知りでもいれば、万事休すである。“首実検”と聞いても李さんは別に驚かなかった。自分たちは朝鮮人であるし、人殺しをしたこともなければ、戦闘に参加したこともない。特別に、戦争犯罪人となるようなことは何もしていなかったからである。
―翌朝、英、豪、蘭の俘虜が50名ほど、李さんたちの集合場所へやってきた。首実検の場所が6ヶ所もうけられ、朝鮮人軍属たちは一列縦隊で、この俘虜たちの前に並んだ。周囲は自動小銃をもった兵隊たちがとり囲んでいる。まず、イギリス、ついで、オーストラリア、オランダの順で、もとの俘虜たちが、首実検にあらわれた。6ヶ所無事、通過しなければならない。50名ほどが、首実検でひっかかった。李さんもその1人に入っていた。荷物を持って追いたてられるようにトラックのなかで、監視兵が財布から万年筆まで強奪したが、そんなことに思いわずらうことさえなかった。行先がわからない不安から銃殺への恐怖が皆の心をとらえてはなさなかったからだ。1時間ほど走って、トラックは赤レンガ造りの刑務所に到着した。バンコク刑務所である。





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