日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

朝鮮人BC級戦犯の記録 内海愛子=조선인 BC 급 전범의 기록/Casier judiciaire de la classe BC coréenne/Korean BC Class Criminal Records②

Esperantoエスペラント語→La Kazo pri Misuzo de POW泰緬鉄道建設捕虜虐待事件-Tajlanda-Birma Fervoja Konstruo estis komuna entrepreno inter 1942 kaj 1943, kie la japana armeo okupiĝis pri konstruado de fervojo inter Birmo kaj Tajlando. Kazo, kiu misuzis kaj mortigis multajn militajn povojn kaj aziajn laboristojn.
버마 철도 건설 포로 학대 사건泰緬鉄道建設捕虜虐待事件 (버마 철도 건설 포로 학대 사건)은 1942 년 부터 1943 년 에 걸쳐, 태국 · 미얀마 간 철도 건설 예정지에서 일본군 이 철도 건설에 종사 한 연합 군 의 포로 과 아시아 인 노동자 다수를 학대하고 살해 한 사건 [1] .
ーパンワン刑務所には、すでに俘虜収容所の職員や朝鮮人軍属数十名が収容されていた。のちには、インド国民軍の兵士が1000人あまり収容されている。乏しい食糧に悩む李さんたちに、国民軍の兵士が差し入れをしてくれたこともあった。また、時々、炊事用の薪をとりに出かけたが、インド人の監視はルーズだったので逃げようと思えば、いくらでもその機会はあったという。しかし、収容されたものの李さんは、1回も取調べを受けなかった。毎日、強制体操をやらされ、草とりもさせられたが、いつ、釈放されるのだろうかと気軽に考えていた。そんな李さんを待っていたのは釈放ではなくシンガポールへの移送だった。
―1946年4月20日頃、李さんたちは、船でシンガポールへ送られて、そのまま、チャンギ刑務所の10メートルもあろうかと思われる高いコンクリート塀のなかに閉じこめられてしまった。こうして、タイ俘虜収容所の朝鮮人軍属たちは、何が戦争犯罪か判らないままに、戦争犯罪裁判の法廷に立たされることになった。

2 マレー俘虜収容所
-石油基地パレンバン-
シンガポール上陸

―サイゴンを出港した朝鮮人軍属の輸送船団が、昭南と名を変えたシンガポールの港に停泊したのは、1942(昭17)年9月10日、シンガポールが日本軍の手に陥ちてから、すでに半年以上も経っていた。4万人(華僑側の主張、日本軍は6000人と主張)の華僑が虐殺された事件の記憶も生々しい時ではあったが、昭南特別市と名を変えたシンガポールの町は、表面上は平穏を保っていた。市長には、元内務次官、南北支軍最高顧問だった大達茂雄が就任し、混乱した市政の立直しと戦闘で破壊された市街地の復旧が軌道にのりはじめていた。町には料亭や慰安所が開かれ、「昭南日本語学園」も開港、シンガポールは、イギリスにかわる新たな支配者日本の色彩を少しずつ強めていた。

ーマレー俘虜収容所に勤務する9個小隊810名の朝鮮人軍属は、シンガポールで船をおりた。大英帝国の東南アジア支配の牙城だったシンガポールは、その権勢を誇るかのような 酒な建物が立ち並び、広いアスファルト道路が走っていた。シンガポール港から、マレー俘虜収容所のおかれているチャンギまで24キロ、朝鮮人軍属を乗せたトラックは、広いアスファルトの道を東に向かって走った。シンガポールの東端チャンギには、高さ10メートルもありそうないかめしいコンクリート塀に囲まれた刑務所がある。ここに、マレー、シンガポールで捕虜になった9万7000余人のイギリス人、オーストラリア人の1部が収容されている。かつては、イギリス植民地統治に反対する政治犯や一般の犯罪人を収容していたチャンギ刑務所は、今、そのかつての支配者たちを閉じこめている。
ー日本の敗戦とともに、今度は日本人、朝鮮人を収容したこの刑務所は、シンガポールの統治者が変わるたびに、その収容者を変えながら、今日もなお、その偉容を誇っている。マレー俘虜収容所に配置された兪東祚さんは、創始改名による日本名を渡井次郎と称していた。日本の敗戦後、自らこのチャンギに幽閉されるなど、その時兪さんは想像もしなかった。
ー福栄真平中将(46年4月27日、チャンギで銃殺刑)が、収容所の所長だった。配属された兪さんたちは、軍の貨物 に食器や被服の受領に赴いた。この時、福栄中将、当時はまだ少将だったが、彼も自ら出かけた。係官は、軍属の規定に準じた品物を渡そうとしたところ、福栄中将は、「オレの部下は、普通の兵隊と違う。全部、将校以上のものを出せ」と命令した。当時の日本人の兵隊より、体格もよく教育水準も高かった、粒よりの朝鮮人の若者を、福栄中将は誇りにしていたと兪さんは話している。どこへ出しても恥ずかしくないこれらの若者に、軍装をきちんと支給することは、所長の任務と考えたのではないのか。所長自らが貨物 へ赴き係官に「軍の規則だから出せません」と拒絶されたにもかかわらず、強硬に主張し、結局、朝鮮人軍属たちは将校なみの軍装を受けとったという。ヘルメットなども、英軍から押収した立派なものだった。福栄中将のこうした態度に、朝鮮人軍属たちは感服したようだ。のちに、兪さんは、スマトラの石油基地パレンバンに派遣されたため、泰緬鉄道建設の実情については戦後、親友の李鶴来さんに聞くまでは、ほとんど知らなかった。
-1942(昭17)年9月、シンガポールに上陸した810人の軍属は、ただちに任務についた。兪さんは第5小隊に所属しており、パレンバンの第2分所の勤務だった。所属する小隊は、パレンバンへ移ったが、兪さんは、シンガポールに残って、自動車隊で教育を受けている。自動車の運転をする人など珍しかった当時のことなので、自動車の運転、整備、修理の訓練をうけた兪さんは、特別に技術者として養成されたことになる。当時の自動車運転技術は今でいうならば、ヘリコプターやセスナ機の操縦を覚えたほどの値打ちをもっていたのではないだろうか。新技術を覚え、意気揚々とパレンバンに到着した兪さんは、そこで毛布2枚と敷布を受領した。ところが、この敷布はオランダ人がテーブルかけに使っていたものをつなぎあわせたものだった。
ー「これ何なのよ」と尋ねる兪さんに、経理のY中尉は「敷布だよ」とすましてこたえた。真新しい敷布があること、オランダから押収したマットがあることを兪さんは知っていた。食べもののシミがついた使い古しの敷布と毛布2枚、これを敷いて寝た時のくやしさとみじめさは今でも忘れないと兪さんは語っている。何も物だけにこだわったわけではない。軍属に接する日本人士官の態度とその冷やかな、さげすんだような視線が、このやりとりのなかにあったからだ。士官の視線は、おそらく支配者の優越感と侮蔑の気持をこめたものだったのではないだろうか。少なくとも兪さんにはそう感じられた。技術者としてのプライドだけではなく、朝鮮人としてのプライドを著ましく傷つけられた彼は、日本の敗戦まで、マレー俘虜収容所2分所のパレンバンに勤務するが、それは、日本人将校や下士官とのケンカの毎日だった。
飛行場の建設
ー兪さんたちの監視した俘虜は、600人足らずだった。その主体はイギリス海軍の兵隊である。彼らは、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号やレパルス号の乗組員だったが、戦艦が撃沈され、駆逐艦でパレンバンに逃げのびたところを捕らえられてしまったのである。南緯3度の湿地パレンバンは、熱帯の猛暑に包まれていたが、俘虜になりたての体格のよい水平と、はじめて俘虜監視という任務につく兪さんたちとの間には、日常的に多少トラブルがあったもののほとんどとりたてて問題になるようなこともなかった。俘虜の証言も日常生活の不自由についての言及が中心となっている。
「われわれの収用生活の初期におきましては、パレンバンの市には、相当ストックがございましたので、われわれは服1着ならびに靴1足支給されました。その後1945年6月までは、全然支給がなかったために、俘虜たちは作業するために単なるズロースみたいなものしかなかったのであります。それと靴がなかったのであります。肌 絆も帽子もありませんでした。」(「速記録」37号)
ーそして、600人の俘虜に対し、便所が6つしかなかったこと、入浴のための水は井戸を使用していたが、乾期の間は全然風呂にはいることが出来なかった。また、1日1ポンドの水しか支給されず、その水も、飲料水として使用するためには、しばらくの間、ビンに入れて泥が沈むのを待たなければならないような水だった。そして蚊帳の支給もなかったと述べている。3日も着のみ着ままだとシラミがわくという地で、乾期の半年間に、まったく風呂に入ることが出来ないことは想像以上に苦しい。しかも、汗とほこりにまみれた1日が過ぎたあとに、水浴もできないとあっては、体力も気力も消耗してしまうだろう。だが、乾期の井戸は、600人の人間が、浴びるほどの水量はなかったのではないのか。近くに川でもあれば、この不便さは解消できたはずだろうが、市街地に近い学校を収容所として接収していたので、それも出来なかった。結局、俘虜たちは、泥水をすすり、汗とほこりにまみれて生きることを強いられたのである。
ームン河桟橋の荷上げ作業は、かなりの重労働であったが、初代の松平分所長は、”武士道精神”で俘虜を処遇する方針だったので、物量が”豊富”な時は、俘虜の死亡者はほとんどなかった。軍医としてここに勤務した仲井公輔氏の証言によると、この頃は俘虜の管理上、あまり問題はなかった。問題が起こったのは、ジャワから2800人にものぼるオランダ人俘虜が到着し、飛行場建設がはじまってからである。東南アジア最大の石油産地パレンパンは、1942(昭17)年2月、空から落下傘部隊が降下して、日本軍が占領した精油所である。日本にとってパレンバンは、石油供給基地として絶対防衛しなければならない要所であった。
ー戦局が、目に見えて悪化しはじめた1943(昭18)年12月28日、パレンバン防衛のために、第9飛行師団が新設され、空からの精油所攻撃を何とかして防がねばならない。精油所を中心に500キロ圏内における防空情報網をつくること、50キロ圏内に防空飛行場をつくること、約20キロ圏内に地上防空諸陣地をつくることが計画されたのである。
ーこの計画にそって、パレンバンの市街から75キロと50キロの地点に飛行場をつくることになった。もちろん、ツルハシ、モッコ、シャベルによる人海戦術である。ジャングルを切り開き、木の根を掘りおこす作業は、飛行場と鉄道の差はあっても、泰緬鉄道の現場と同じように、俘虜にとっては苦しい重労働であることに変りない。俘虜はみるみる骨と皮ばかりになっていった。
道端の草まで枯れ
ー鄭殷錫さんは、170センチを越すスラリとした長身である。均勢のとれたその体躯は、朝鮮にいる当時から目をつけられ、半ば強制的に志願兵に応募させられたのほどである。志願兵は、最後の関門をどうにか逃げることが出来たものの、軍属には無試験でイの一番に採用されてしまった。シンガポールに上陸した鄭さんー当時は石原辰雄という日本名を使わされていたーは、昭南神社の西南にある第4分遣所に勤務していた。激戦地ブキッティマにたてた忠霊塔や昭南神社の建立に俘虜が使われたが、シンガポールには食糧も豊富にあり、俘虜には軍の決めた量の食糧を支給することが出来た。遊郭、料理屋、日本式旅館が次々と店開きし、慰安所も開所した。シンガポールは、日本の占領地昭南島の"顔”をつくりあげていた。
ー鄭さんたちは、2週間に1度は外出することも出来たし、酒保で酒も食べるものも自由に購入できた。熱帯とはいえ、海に囲まれたシンガポールは、朝夕は涼しくしのぎやすい。緑陰濃いシンガポールの町は、イギリス植民地の暮しやすい工夫がいたるところにほどこされている。町はよく整備されており、石を敷きつめた歩道は、街路樹におおわれて心地よい。シンガポールで勤務しているぶんには、ほとんど問題はなかった。現に、敗戦までシンガポールに勤務していた鄭さんも同僚の日本人上官も戦犯になっていない。鄭さんの運命が狂ったのは、1943(昭18)年11月、パレンバンへ転属命令が出てからである。2個分隊60名が、パレンバン転属になった。
ーパレンバンでの仕事は、飛行場建設に使役される俘虜の監視である。自動車の運転技術をもつ兪さんは、パレンバン市内の本所にいたが、鄭さんは1500人近くの俘虜をつれてタンカランパライという部落の近くに移動した。ここが50キロ地点の飛行場である。75キロ地点は、ムン河を渡ったところにつくられている。そこは、42(昭17)年当時からいた俘虜を中心に作業がすすめられていた。鄭さんたちは、ジャワから輸送されてきたオランダ人、オーストラリア人、そしてイギリス人俘虜を管理するのが仕事である。
ー作業は飛行場設営隊の指揮の下にすすめられる。鄭さんたちは、俘虜の衣食住の面倒をみ、作業中の監視をする。監視といっても1500人を64人~65人の朝鮮人軍属でやるのだから、実際には逃亡されてもわからなかった。しかし、飛行場設営隊の周囲には、熱帯ジャングルが広がっている。自然の柵を前に積極的に逃亡を企てようとする者は少なかった。1日7時間から8時間の重労働と週に半日しかない休暇。椰子の木を切り倒し、その根を除去する作業が連日続いた。滑走路用に土地をならし、整地する。高射砲台とサーチライトの施設もあわせてつくった。
ー1日に、7時間か8時間の労働といえば大したことはないと思われるだろうが、赤道直下の平地、しかもパレンバンはムン河の河口近くにあり、そのむし暑さは日本の夏の比ではない。兪さんの言葉をかりれば、「乾期になると道端の草まで枯れてしまうほど暑い」のである。私も1976(昭51)年、ジャワ海に面したスマラン郊外の養魚場へ、日本企業の公害の実情を見に出かけた。この時は、炎天下を帽子なしに6,7時間歩きまわった。陽をさえぎるものは何もない。いけどもいけども養魚場である。喉はカラカラ、ひたすら”水””水”と思いながら、養魚場に落ちないよう足元を見て歩く。太い竹を2本並べただけの簡易橋を渡り、ズブズブと沈んでいく湿地のなかを不安な気持ちで歩く。
ー案内をしてくれた青年は、おおよその見当で歩きまわるので、何度も道を間違える。一刻も早く日陰に入って水を飲みたいと思っている私は、そのたびにガックリして気力が失せ、目まいがする。半日近く歩きまわって、人っ子一人出会わない。マングローブのグロテスクな根に、波が打ちよせる。照りつける太陽とその波の音だけしか聞こえない世界は、人を不安に陥れる。胸がしめつけられるようで息苦しくなってくる。水がないと思うから、よけいに渇きがひどい。とにかく、下を見て、ひたすらおいてきぼりにならないように歩くだけが精一杯、思うことは”水を飲みたい”そのことだけだった。ちょうど、炎天下を6時間か7時間歩いたことになる。あの時のことを考えると、炎天下の湿地で帽子もかぶらず、土方仕事をすることのつらさが伝わってくる。それも彼らは連日である。体力が消耗しない方がおかしい。
1日400グラム
ー熱帯で生水を飲めるところは少ない。パレンバンでも生水は飲めない。沸騰させ煮沸した水かお茶である。決められた時間以外、俘虜が自由に水を飲める状態ではないだろう。それも想像以上につらいことである。だが、俘虜の体力を最も消耗させたのは、食事の量である。飛行場建設が始まった頃は、重労働をする者は、米1日400グラム、軽労働300グラム、入院患者は180グラムだった。この時、鄭さんたち軍属は1日600グラムの米を食べていた。それでも腹が減って仕方がなかったというから、1日400グラムでは重労働に耐えられない。しかも、これは正味400グラムであったことはないという。
ー敗戦直後の、すき腹をかかえていた日本人の配給は1日325グラム(2合3 )、1100カロリーだった。配給だけで餓死した日本人がいたことを考えると、400グラムそれも正味400グラムない食糧で重労働は土台無理な話である。米1袋100キロ、これを頭割りで配給する。ところが、この米袋は破れていたり、ねずみが食ったりして、正味100キロあることはまずなかった。ひどいのになると半分しかない時もあった。それでも100キロとして俘虜に渡すのである。たてまえは1日400グラムでも、こうして途中で消えて、俘虜の口には入らなかった分も含まれての400グラムである。こぼれた米で足が埋るほどだったと鄭さんは語っている。
ー肉の配給も少ない。野菜は時にはトウガンが支給されることもあったが、あとは鄭さんたちが、川辺に自生しているカンクンと呼ばれるアクの強い青菜をトラック一杯刈りとってくる。それで塩ゆでにして支給したこともあったという。これを食べると口の中が真黒になった。兪さんがジャングル野菜と呼び鄭さんがカンクンと呼ぶこの青菜が、ジャワなどで日常食べる、いわゆるカンクンかどうかは確かめようがない。だが、名前はどうあれ、川辺の野草カンクンが、俘虜にとっては貴重な野菜であったことは事実である。口のなかは真黒になったが、カンクンのおかげで、俘虜は少しはビタミンを補うことは出来た。しかし、カロリーの絶対量は足りない。
ー栄養失調の俘虜は見るかげもなくなっていた。厚くて、たくましかった胸は肋骨と皮ばかりになり、ちょうど骨の上に皮がブラ下がっているようで、「おばあさんの胸みたい」だったし、尻の肉もすっかりそげ落ちて、立って歩くと肛門がまっすぐ見えたという。骨と皮ばかりになった俘虜が歩くと、カタカタと骨のふれあうような音がした。これが1日400グラム食べていることになっている俘虜の状態である。1日180グラム(1合8 )の患者は、たとえなおっても体力を回復させることはできない。俘虜が倒れるまで作業現場に出ようとしたのは、ひとえにこの食糧の配給の問題があった。作業に出ない、すなわち患者の仲間入りをすることは、そのまま死に通じることになる。無理して作業に出れば、それもまた死をはやめる。
ー鄭さんたちは、作業から戻ってきて、夕方に点呼をとる。翌朝、作業に出すために点呼をとると、昨晩いたはずの者がいない。逃亡かと思い、宿舎を調べると死んでいる。昨日の夕方まで働いていた者が、翌朝、死んでいる。こんなことが頻繁におきはじめた。1945(昭20)年5月に入ってからである。原因は栄養失調と過労。それに下痢でもすれば体力のない俘虜たちは、あっという間に死んだ、と軍医だった仲井さんは語っている。仲井軍医は俘虜の死亡報告書に「栄養失調」と記入したところ、本所から怒られた。軍の食糧支給基準からいって、栄養失調など認められない。きちっと病名を記入せよとのことだった。仕方ないので赤痢とかマラリアとかもっともらしい病名をつけたが、直接の死因は栄養失調だったのである。
ー敗戦後、戦犯裁判で朝鮮人監視兵に殴られた結果、死亡との告発状も出されていたが、仲井さんは軍医として、そんなことはありえないという。栄養失調による死亡を、殴られたとして告発したとしか考えられない。35年経た今日もなお、この点についての仲井さんの記憶は鮮明だった。栄養失調の直接の原因は、配給量の減少である。1日400グラムになったのは、1944年5月からである。それ以前は、重労働500グラム、軽労働300グラムだった。また、1943(昭18)年10月までは、重労働700グラム、軽労働500グラムが支給されていた。
誰の命令か
ー鄭さんがパレンバンにやってきたのは、配給米が減らされる時期にぶつかる。500グラムそして400グラムへと減っていた米の配給は、何も米がなかったからではない。長期持久戦を予想して、米の貯蔵を考えていたからである。蜂須賀邦房第分所所長と山川保二主計中尉が、米の出しおしみをしたのだと兪さんや俘虜は考えている。だが、これは鄭さんや兪さんの上官蜂須賀大尉の独断ではない。陸軍次官達で、「食糧等の節用に関する件」が、44(昭19)年5月6日に出されている。この通達によると1日の主食は玄米540グラム(または乾パン690グラム)、精麦165グラム、計705グラムとなっている。ところが、これは日本の陸軍部隊の配給量である。俘虜に対してはこの基準をもとに、労働および健康状態を  して、収容所長が支給量を定めるようにと通達されている。この通達では、重労働をしない者に支給する食糧を次のように定めて、これを実施するよう命じている。
将校およびそれに相当する者、米麦 1人1日 570グラム(俘虜情報局「俘虜ニ関スル諸法規頬集」)日本の軍隊では、米麦1日705グラム、これを基準に各収容所が俘虜の食糧を決定しろというのが、陸軍次官の通達である。また重労働しない俘虜の兵は、1日70グラムだった。この量は明らかに、軽労働にたずさわる兵の食糧にも満たない。だが、支給量は現地の事情を考慮して、収容所長が決定することになっている。長期持久戦を予想して、斉藤正鋭マレー俘虜収容所長が、1日400グラムと決定したことは、十分考えられる。1日400グラムは、斉藤少将の権限で決定し、蜂須賀分所長がその命令を実行したことは、その命令系統から考えて間違いないところであろう。だが、軽労働の兵ですら570グラムというのに、1日400グラムの食糧でどうやって体力を維持することができるのだろうか。
ー代表的な献立は、朝は薄い粥、昼はお粥に芋の葉、夜は普通のご飯に乾魚のどちらかが1日約10グラム支給された。カタカタと骨がぶつかるような音をたてながら、ゆうれいのような俘虜が歩く、それでも、44(昭19)年のうちは俘虜の死亡率は低かった。鄭さんの記録では2人だけだったという。俘虜の体力と引きかえのように飛行場が完成した。44(昭19)年初めのことである。飛行場建設が終ると、まだ体力のありそうな俘虜1500人が運び出されて、中部スマトラに送られていった。この年の3月から着手された「中部スマトラ横断鉄道」の建設のためである。パレンバンには、老人や患者など、重労働に耐えられそうにない者が残された。ほとんどが労働に耐えられそうにない俘虜たちだった。
ーパレンバンの市内から5~6キロ離れたスンゲイグロンに移ったのち、この体力のない俘虜たちが、米やセメント、弾薬の荷揚げ、精密機械工場での労働に使役された。キャンプ内には自活用の菜園もつくられていたが、栄養失調を補うことが出来るようなものではなかった。敗戦間際の1945年6月頃から、俘虜がバタバタと死にはじめた。6月42人、7月99人、8月135人、その原因は栄養失調と全般的疲労、それに伴う心臓病である(「速記録」137号)。鄭さんの管理していた俘虜も、一晩に11人も死んでしまったことがあった。栄養失調であっ気ないほど人が死ぬ。1回の下痢が命とりになることもある。1944年5月以来の食糧の減量が1年たって、俘虜の体力の限界を越えたのではないだろうか。特に伝染病がはやったわけではなく、文字通り、栄養失調により生命維持の限界をこえた人々が、死者の仲間入りをしていった。
中部スマトラ横断鉄道
ー1944(昭19)年、シンガポールの南方総軍は、中部スマトラの無煙炭露天鉱床に目をつけた。スマトラの石炭、マレー半島の鉄鉱石、石炭石を利用して、南方での製鉄を実現させようというのである。そのためには、中部スマトラのムアラからパカンバル港への石炭を積出ししなければならない。スマトラ島の脊梁バリサン山脈をこえて、インド洋側のパダンとマラッカ海峡に面するパカンバルを結ぶ(中部スマトラ横断鉄道)220キロの建設が計画された。鉄道建設には、泰緬鉄道の難工事を完成させた鉄道第9連隊第4大隊があたる。その労働力は、ジャワ人ロームシャとパレンバンから移動した1500人のオランダ人俘虜。44年6月のパカンバルは、たとえようもない暑さに襲われていた。鉄道隊は俘虜とロームシャを使って、44年3月から路磐構築、架橋作業をおこなってきたが、猛暑の6月にはレールの敷設をはじめた。鉄道第9連隊第4大隊の連隊材料 中部スマトラ派遣隊長だった岩井健氏によれば、この鉄道工事も難渋をきわめたという。
「建設予定線の予定でさえも虎が出没し、また俗に”夢を喰う動物”といわれるバクがのし歩き、あるいは野猿どもがけたたましくわめき散らした。村はずれにある駅舎となる建物や兵舎は、雑木丸太の格子を周囲にめぐらせて、虎から身を護るため、夜になると全員檻のようなその中に閉じこもる。」
「第8中隊の担当する路盤構築作業は、カンパル川を越えた20キロ地点あたりの湿地帯で、悪戦苦闘の連続だった。大木を伐り倒して下に敷き、埋め戻して先に進む路盤構築隊の作業は、ようやく湿地帯を突破したものの、レールを敷いたあとの保線作業に、多くの宿題を残した」(「C56南方戦線を行く」)。
ー虎と湿地に悩まされながらの工事で、44年11月末ごろには、1カ月に80名が死亡するという事態が生じたが、この原因は食糧不足と苛酷な労働とによるものだったと俘虜は証言している。ところが、日本側はこうした事態に配慮することはなかった。リンガー少佐の証言によれば、1945年6月16日頃、8月15日までに鉄道を完成しなければならない。そのため、歩くことの出来る者は全員仕事に出なければならないと通告されたという。そして、俘虜の健康状態は、いたるところで急速に悪化したが、薬は全然手に入らない。監視兵と鉄道隊の酷使によって、俘虜は全員疲れはて、意気喪失していた(「速記録140号)。パカンバルには、鄭さんや兪さんたちと一緒にパレンバンにいた張水業ー日本名小林寅雄ーが派遣されている。キング・コングとの綽名で呼ばれていた彼は、体が大きい。仲井さんの言葉をかりれば、「ちょっと人相がわるいかったし、大きな声で話す。目立ったので、俘虜もよく彼のことを知っていた」という。
ー兪さんは「小林はブルドックかチンパンジーのようにガッチリした体をしていた。性格はおとなしいのだが、上官の命令をそのまま忠実に守ろうとして、俘虜を殴ったりした」と語る。「命令通りにやっていれば、オレだって生きていないさ」と兪さんはつけ加えた。時々、「狂暴性」を発揮する張さんを掌握していたのが鄭さんだった。日本人の将校や下士官も手がつけられなくなった彼を、鄭さんがなだめたり、俘虜への暴行をとめたりしたという。張さんが俘虜を殴ったことは誰も否定していない。だが、彼の暴行で俘虜が死亡したことはないと軍医の仲井さんは断言している。死因は栄養失調か赤痢だったのだ。
ー鄭さんたちと別れて張さんはパカンバルへ移動していった。キング・コングの綽名にたがわぬ大きな体で、難渋をきわめた鉄道建設の現場でも率先して働いたのではないだろうか。日本軍の忠実な命令の実行者として、時には俘虜に恐れられながら。だが、鄭さんも兪さんも、パカンバルへ移動したあとの彼の様子については何も知らない。2人が張さんと再会したのは、敗戦後の戦犯裁判の場においてである。
-1945(昭20)年8月15日、中部スマトラ横断鉄道の開通式がとりおこなわれた。皮肉にも開通式の日が、日本の敗戦の日と重なった。この横断鉄道も、多くの犠牲者を出して建設されたが、結局、当初の目的のために、汽車1台走らせることなく終ったのである。無駄骨以外の何ものでもない。飛行場といい、この横断鉄道といい多くの俘虜の命を奪ってつくられたこれらの施設は、まったく利用されることなく終っている。戦争とはこんなものだといってしまえばそれまでだが、それにしても、あまりにも多い俘虜の死に対して、敗戦後、現場にいた朝鮮人軍属や日本人将校、下士官がその責任を追及されたのである。だが、何月何日までに完成せよとの命令を受けとった作業現場では、あらゆることに命令が優先する。
ー無駄な飛行場や鉄道をつくって多くの俘虜を死亡させたのは、大本営(注)の作戦上のミスではないのか。張さんは、確かに何人もの俘虜を殴ったかもしれない。だが、作戦上のミスによる多数の人間の無意味な死を招いた大本営の責任は、張さんの比ではないだろう。その張さんは、チャンギ刑務所で「絞首刑」になった。同じ裁判を受けた兪さんや鄭さんも、一命はとりとめたものの、戦犯として拘留され続けた。命令を出した側の戦争責任は、どのようにとられたのだろうか。
(注)대본영(大本營, 일본어: 大本營 다이혼에이[*])은 전시(戰時) 중 또는 사변(事變) 중에 설치된 일본 제국 육군 및 해군의 최고 통수 기관이다. 천황의 명령(봉칙 명령, 奉勅命令)을 대본영 명령(대본영 육군부 명령(大陸命), 대본영 해군부 명령(大海令))으로 발하는 최고 사령부로서의 기능을 가지는 기관이었다.
Françaisフランス語→Le quartier général impérial (大本営, Daihon'ei?) est un élément du conseil suprême de guerre établi en 1893 pour coordonner les efforts entre l'armée impériale japonaise et la marine impériale japonaise en temps de guerre1 En termes de fonctions, il peut être l'équivalent japonais du comité des chefs d’États-majors interarmées américain.
軍用道路の建設
ースマトラ北部の軍用道路も、結局は、完成しないうちに敗戦を迎えて、工事を放り出している。この工事は、北スマトラ中央部のスプランギッド山脈沿いに、クタチャネからブランクジュレンを通ってタケグンに至る戦略道路の工事である。この工事にも3000人からの俘虜が使役されているが、メダンのマレー俘虜収容所第1分所に配属された軍属たちが、監視業務にあたっていた。尹東鉱さんは、山奥のこの工事現場に、急遽つくられた分遣所の実質的責任者のような仕事をしていた。何のために標高1000メートルをこえる山岳地帯に道路をつくるのか、知らされてはいなかった。石炭か何かの資源の運搬用だと考えていた。
ー道路構築にあたった近衛工兵連隊つきの軍医だった篠田俊樹さんによれば、メダンにあった近衛師団の逃亡道路だったという。おそらく、連合軍のメダン上陸を予想して、近衛師団司令部が山越えをして、退却できる自動車道路をつくろうとしたのだろう。タケグンには近衛師団の司令部を移す考えがあったというから、尹さんたちは、そのための自動車道路の建設に従事する俘虜を監視していたことになる。この戦略道路は、ブランクジュレンからタケグンにいたる間を建設したあと、タケグンからタンセにいたる木馬道を構築することになっていた。これは本当の逃げ道である。この道路が完成すると、マラッカ海峡に面したメダンからインド洋側へと山を越えて逃げることが出来る。近衛師団も第25軍司令官も、山奥に退いて、徹底抗戦する態勢をつくろうとしたのかもしれない。
ー篠田軍医の記憶によると、この命令は、軍司令部の田辺盛武中将(戦後オランダ軍に逮捕され、48年7月11日メダンで刑死)から出され、近衛師団司令部の武藤章中将(A級戦犯=48年12月23日、東京巣鴨において絞首刑)へ伝達、それが近衛工兵連隊の浅海少尉へと下命された。浅海少尉はこの工事責任者として、オランダ(蘭印)裁判のメダン法廷で7年の刑を受けている。工事に使役されたジャワ人ロームシャとオランダ人俘虜は、アメーバ赤痢に悩まされていた。しかし、ここでも医薬品が不足しており、軍医だった篠田さんは薬草スベリヒュをすりつぶして、その汁をしぼって飲ませたりしていたという。
ー尹さんたちは1500~1600人の俘虜を監視していたが、まったくの山奥、自活しながら工事にかり出されていた。12人の軍医たちが1500人にも及ぶ俘虜を監視するなど不可能なことだ。1人の軍属が100人のオランダ人俘虜を引率して歩いている。時には、オランダ人俘虜に鉄砲を担がせ、無防備な姿で歩いている軍属もいた。それは、監視などという大げさなものではなく、単なる引率にすぎなかった。軍医の絶対数の不足と山奥の工事現場で逃亡もできなかったことも重なって、朝鮮人軍属の仕事は、監視というよりも、俘虜たちの日常の世話が主だった。
ーだが、ここでも工事にあわせて、工兵連隊に必要な数の俘虜を引きわたす仕事があった。作業中の俘虜の監視から食糧の世話まで、収容所側の責任にかかっている。食糧は飢餓に苦しむほど不足するということはなかったが、それでも恒常的に不足し、医薬品が不足していたことは篠田軍医の語っている通りである。方針が変更されたのか、この自動車道路が完成しないうちに、引揚命令が出された。1945(昭20)年の2月頃だった。尹さんは11人の軍属と共に、体力の衰えているオランダ人俘虜を連れてメダンに戻っていた。しかしこのクタチャネからメダンまでの山道を越えての移動に、トラックは使用されなかった。使いたくともトラックがないのである。仕方ないので行軍したが、もちろん落伍する者も出る。落伍者を収容する車もない状態では、殴ってもたたいても自力で歩かせる以外になかった。幸い死者はなかったが、この時の殴打は、敗戦後の戦犯裁判に微妙な影響を及ぼした。
ー尹さんをはじめ、12人の朝鮮人軍属全員が戦犯として有罪判決を受けたのである。尹さんの場合、48件の告発状が出されたが、そのほとんどが殴ったという内容だった。尹さんたちが監視していたオランダ人の俘虜の隊長ファン・デ・ランデ大尉は、戦後、蘭印地区戦犯調査委員長となっているが、尹さんにむかって「伊泉、だいじょうぶ」と語ったという。伊泉とは、尹さんの日本名である。しかし、結果は、20年の有期刑だった。俘虜の取扱い不良ということで、尹さんの20年を筆頭に20年、12年、10年、9年、8年各2名、7年3名、6年1名、5年2名と全員が有罪判決を受けている。軍医の篠田さんは5年の有罪判決だった。こうした判決に対し、篠田軍医は、尹さんたちが俘虜をひどく虐待したわけではなく、「オランダの報復手段だった」と断言している。
ー個人的虐待ももちろんあったと思われるが、それ以上に食糧や医薬品の不足による日本軍の俘虜取扱い基準そのものが問題だったのではないだろうか。食糧が不足していたため盗みやかっぱらいが多かった。日常的世話をしている軍属たちが、こらに何らかの制裁を加えなければ規律が保てない。営倉もない山奥の工事現場である。1発か2発殴って見逃すといった、きわめて日本的なやり方が行われた。日本の敗戦後、俘虜の監視をしていた尹さんは、同僚11人と共に、戦犯となって巣鴨プリズンに拘留された。北スマトラの山奥クタチャネでの虐待がその理由となっていた。無駄な軍用道路の建設のため、多くの俘虜やジャワ人ロームシャが汗と血を流し、時には命を落としている。そして、朝鮮人軍属たちは祖国の解放を見ることもなく、戦犯としてその身を巣鴨プリズンに拘禁されたのである。
3 ジャワ俘虜収容所
ー”地上天国”のなかの地獄ー
カボチャとトウガン
ーカボチャとトウガンを見るのはイヤだ。40年以上もたった今日でも崔善燁さんは、カボチャを食べない。南朝鮮の釜山からジャワまで、25日の航海が続いたが、その間、毎日毎日、カボチャとトウガンが出た。風呂に入れないだけでなく、洗濯も出来ない船の生活、東シナ海、南シナ海、荒波にもまれる船酔の苦しさ、ジーッと波を見つめていて頭がクラクラしてきたあの時の不快感、カボチャとトウガンを見ると1カ月のシラミと垢にまみれた不快な船旅がよみがえってくるのか、今でも絶対にうけつけない。何も知らない奥さんが、カボチャの煮つけを出した時、崔さんのあまりに激しい拒絶ぶりに、奥さんの方が驚いた。
ー崔さんにとって、カボチャは日本軍軍属として徴用された3年間の軍隊生活、戦犯として飢えにと絶望の間を彷徨した7年間の象徴ともいえるのかもしれない。忘れたい、思い出したくない10年が、カボチャを見るとどうしても蘇ってくる。見るのもイヤだという。サイゴンとシンガポールで軍属を降ろした崔さんたちの乗った輸送船団が、ジャワのタンジュン・プリオク港に錨を下したのは9月14日、釜山を発って25日目である。崔さんたち1400名の軍属は、ここで初めて南方の地を踏んだ。ジャワ俘虜収容所に配属されたのである。
ー崔さんの初めての任務はバンドン、代分所大分遣所である。闇夜のなかをトラックでバンドンに向かった。今でも覚えているのは、スコールのような激しい雨のなかを、曲りくねったプンチャック峠をこえて、バンドン入りしたことである。闇夜と激しい雨、崔さんを迎えたジャワは、暗い相貌を見せていた。花の都バンドンは、東洋のパリと称されるほど美しい町である。赤道直下にありながら、海抜700メートルのバンドンは、涼しい高原都市であり、かつては、オランダ人の避暑地だった。ちょうど真夏の軽井沢のような町と考えればぴったりする。食糧が豊富で、気候は爽やか、軍属たちも金はもっていた。
ー最初は、戦地手当も含めて50円ほどになったが、朝鮮の家族に仕送りしていたので、小遣いは月々20円か30円だった。それでも日本人の兵隊が7円の月給しかもらえない時に、その金は大金である。酒保もあるし、兵隊慰安所も開設されていた。朝鮮から連れてこられた女性が慰安婦として働らかされている。異郷の地で”うちの国のひと”と出会った時の気持ちは、何とも表現のしようがないほどだとある朝鮮人軍属は語っていた。懐かしいとかうれしいとかそんな単純なものではなく、何かこう胸がキューとしめつけられるような感情がこみあげてきたという。日本帝国主義の戦争に狩り出された者同士の哀しい気持が相通じることもあったろうし、”自分たちの言葉”で話しあえるうれしさもあっただろう。バンドンでの勤務は、週1回の外出も出来たし、酒を飲むことも、慰安所へ通うことも出来た。東北農家出身のある日本人の下士官は「浦島太郎の竜宮城みたいなもんだべ」と語っていたが、月給7円の彼にとって”竜宮城”ならば、20円も30円も小遣いが自由になる軍属にとっては、日本人下士官の蔑むような視線さえなければ、バンドンは、まるで”天国”のようだったにちがいない。
豚汁とゼンザイ班長
ー占領当初は、インドネシア人の対日感情も悪くなかった。350年のオランダの圧政から自分たちを解放してくれた者として、日本人を見ていたからである。かつての支配者オランダ人は、今や日本軍の手にとりおさえられ、兵舎や学校に閉じこめられている。自分たちと同じような、色の黄色い背の低い日本人が、白人に命令を下し支配している。その姿はインドネシア人にとって信じがたいものだった。「トウモロコシの実る頃、空から黄色い人間が降りてきて、自分たちを解放してくれる」こんな内容の「ジョボボヨの伝説」(注)があるジャワに、日本軍は、バリックパパンやパレンバンの精油所に、空から落下傘部隊で降下してきた。この伝説を信じる民衆が、”天から降ってきた黄色い人”日本人を解放者として熱烈に歓迎したのである。日本軍の占領の意図を民衆が見抜くのは、もっとあとになってからである。
(注)Legenda indonesia Apakah orang-orang kuning datang dari langit tentara Jepang? Legenda indonesia Ada legenda bahwa "di kerajaan saya, orang-orang kuning turun dari langit dengan pakaian putih turun dan menghancurkan orang-orang kulit putih." Ini ditulis oleh seorang raja bernama Joyo Boyo (1135-57) dalam buku ramalan "Baraddajuda" oleh para penyair Mpu-Sedar dan Mpu-Panul di tahun-tahun terakhir masa pemerintahannya. Karena itu, dikatakan bahwa tentara Jepang disambut oleh berbagai paduan suara Melapti (bendera) dan Indonesia Raya (lagu kebangsaan Indonesia) di seluruh Indonesia
.인도네시아 전설. 하늘에서 오는 노란 사람들은 일본군 였는지 인도네시아의 전설 "우리 나라는 하늘에서 하얀 천을 두르고 내려 오는 노란 사람들이 와서 백인를 구축한다"는 전설이 있었다. 이것은 죠요보요 (위 1135 년 ~ 57 년)라는 왕이 그의 통치 말년에 시인 무뿌 = 세다과 무뿌 = 빠누루 의해 "바랏다유다 '이라는 예언서에 적혀있다. 그 때문에 일본군은 인도네시아 각지에서 메라뿌티 (깃발)와 인도네시아의 국가 (인도네시아 국가)의 대 합창으로 맞이한다.
インドネシアの伝説 インドネシアの伝説。空からやってくる黄色い人々とは日本軍だったのか=「我が王国には空から白い布をまとって降りてくる黄色い人々がやってきて、白い人を駆逐するという伝説があった。これはジョヨボヨ(位1135年~57年)と呼ばれる王が、彼の治世の末年に詩人ムプ=セダーとムプ=パヌルによって『バラッダユダ』という預言書に書かれている。その為日本軍はインドネシア各地で、メラプティ(旗)とインドネシアラヤ(インドネシア国歌)の大合唱で迎えられたという。
ー当初、インドネシア人は日本軍に協力的だった。かつてのオランダの兵舎や学校に閉じこめられた俘虜達たちも、その頃は特別な労働も課せられていない。朝鮮人軍属の仕事は、逃亡を防ぐための警備が主だった。俘虜たちはかつての軍隊の階級をそのまま生かした自治制をとっており、将校には、兵隊が雑用係りとしてついていた。炊事も内部で当番制をとって係を決めていた。バンドンの3ヶ月は夢のように過ぎてしまった。崔さんにジャカルタ(42・8・5・バタビアはジャカルタと名を変えている)への転属命令が出た。ジャカルタへ出むくと、そこには、20~30人の崔さんの仲間がいた。ジャカルタは、バンドンと違ってむし暑い。そこで、釜山の野口部隊でうけたような初年兵教育を再びうけた。銃の扱い方、手入れの仕方、射撃、銃剣術、軍人勅論の暗誦、歩哨、敬礼など、ジャカルタのむし暑い気候のなかでの訓練が続いた。それにどういうわけか、2ヶ月間、毎日毎日、昼になると豚汁が出たという。崔さんにとっては、豚汁もまたイヤな記憶に結びつく食べものである。「このクソ暑いのに豚汁なんぞ出しやがって」と、炊事係を半ば恨みながらも、崔さんは2ヶ月、毎日、豚汁を啜りながら訓練にはげんだ。
ー熱帯での訓練は骨身にこたえた。朝鮮の釜山では、訓練のあと、崔さんたちはよくゼンザイ(善哉)を食べた。疲れた体に、ゼンザイは胃に染みわたるように旨かった。そのゼンザイはジャカルタではなかった。かわりに、”ゼンザイ班長”が、ジャワに来ていた。崔さんが”ゼンザイ班長”と呼んで恐れた下士官は、常に竹の棒をもって歩き、ゼンザイを食べようと並んでいる崔さんたちにむかって、並び方が悪い、デレッとするな、姿勢を正せと怒鳴った。竹の棒で殴られるまでもなく、崔さんたちは“ゼンザイ班長”の顔を見ると、全員ピリピリして姿勢を正し、整列した。3000人の軍属が、誰1人として知らぬ者がいないほど怖い“ゼンザイ班長”はそれほど有名だった。この“ゼンザイ班長”が、のちに“バンブー・モリBamboo Mori”として、俘虜に恐れられた森正男Masao Mori曹長Sergeant Major(46年9月11日、シンガポールにて絞首刑)である。

朝鮮人軍属とインドネシア人兵補
ー崔さんの新たな任務は、インドネシア人兵補の訓練だった。民間人を収容している抑留所の警備を担当する。オランダの植民地だったジャワには、オランダの民間人が多数いた。オランダ人との混血や華僑も多い。これら「敵国人」や「第三国人」の処遇をどうするかが問題だった。今村均中将(戦後、豪州軍により禁固10年の有期刑を受けた。68年まで存命)が司令官だった第16軍の軍政は、これら「敵国人」の取り扱いがあまりにも寛大だとして、軍中央から批判された。それまでかなり自由な行動を許されていた「敵国人」の登録が始まったのが42(昭17)年4月、これと同時に、オランダ人官公吏2000人が拘禁されている。
ー登録されていた「敵国人」が全員収容されるのは44(昭19)年3月、戦局が悪化し、連合国の「後方攪乱」が本格化してからである。11万人の抑留者の警備は、日本人、朝鮮人の手では、とても担いきれない。そこで3000人のインドネシア人を兵補として採用し、彼らに訓練を施し、警備にあたらせることになったのである。この訓練に朝鮮人軍属があたった。日本語で、時にはマレー語で自分たちの習ったものを、今度は崔さんたちがインドネシア人に教えた。
ー兵補の教育は3ヶ月、殴られながら日本の軍隊教育を身につけてきた朝鮮人軍属が、今度は教える側にまわる。軍隊で初年兵の教育にあたる一等兵か上等兵の地位についたのと似たような状態である。訓練のなかで、インドネシア人兵補はかなり殴られたようだ。頬をさすりながら、40年前のビンタの痛みを語ってくれた元インドネシア人兵補もいた。3ヶ月の兵補訓練が終わると、崔さんの勤務は中部ジャワのスマランになった。5000人のオランダ人、混血の女性を、日本人将校1人、下士官1人、朝鮮人軍属2人(のちに3人増員)そしてインドネシア人兵補15人で、管理しなければならない。敗戦までの2年間、スマランにある最大の抑留所、「ジャワ抑留所2分所第4分遣所」に崔さんは勤務することになった。女ばかりの5000人のキャンプである。
女だけのキャンプ
ー5000人の女ばかりのキャンプを管理することは、思ったより気苦労の多い仕事である。キャンプといっても、刑務所のような隔離された建物ではない。市街地の一角を区切ってそこのなかにある家屋に住むといった形式である。1周するのに、1時間はかかるという広さの地域を有刺鉄線で囲み、出入口には衛兵が番をしているので、自由に外出はできない。こうした不便さを覗けば、抑留所のキャンプのなかで、女たちは、日常の生活を営んでいた。炊事は、共同でおこなわれた。日本軍の支給する米や材料を使って、炊事当番が調理したものを、各班ごとこに配るというやり方である。5000人の女たちを15の班に分け、各々の班から選出された班長が、日本軍からの命令を受けて、内部で統治する。いわゆる「自治制」を敷いたかたちをとっている。俘虜収容所は、軍の階級を生かした内部統治原則によって管理されていたが、それと似たような管理の方式が実施されたのである。
ーところが、この班のシステムは、思ったほど上手くいかなかったようだ。大体、軍隊のような階級がはっきりあるわけではないし、収容された人々がこうした訓練を受けたこともない。班長による管理が十分上手くいったかどうかは疑問である。第一、1人の班長が各々300人以上の収容者を管理するのだ。細かいところには目が届かなかったのではないだろうか。崔さんたちが収容された女たちと接触することは少なかった。何か伝達事項があれば、班長を集めて、彼女たちに伝える。通訳は、会食をしているファン・デル・ブール夫人、彼女を中心に15人の班長が、抑留所で仕事をしていた。そこには、タイピストや事務をする職員が2,3人働いていた。もちろん、全員が収容された女たちである。事務所の仕事のなかに、収容所1人1人の銘々票をつくる仕事があった。
ーこの票には、名前、国籍、性別、生年月日、身分職業などが記録され、東京の俘虜情報局長官へ送られている。俘虜の場合と同じように抑留者全員の銘々票が、東京にある情報局長官のもとに集められるシステムになっていた。もちろん、死亡報告も逐一行なわれている。大本営は、東京のど真中で、「大東亜共栄圏」を各地に点在する俘虜収容所と抑留所の状況を、逐一知っていたことになる。崔さんたちの分遣所の5000枚の銘々票も、もちろん東京に送られている。この仕事は、抑留されている女たちの手で行なわれていたのである。崔さんたちの記憶によれば、初めは、男の医者がいたが、それも男だからというので、キャンプのなかに入れなくなったという。医者もいないし、医薬品は絶望的に不足していた。病気になると、よほどの重態でもなければ、医者にもかかれないし、薬もない。
ー初代の所長長谷川大尉は厳しい人だった。「命令には絶対服従すべし」、長谷川大尉は抑留されている者に、「絶対服従」を要求した。しかし、収容されている女たちは、軍人ではない。「絶対服従」といわれても、なかなかそれに応じようとしない。長谷川大尉は、こうした命令違反者によく暴力をふるったという。もちろん、警備にあたっていた崔さんたちが手を出すこともあった。キャンプの一角に空家をつくり、そこを営倉として、命令違反者を入れたこともある。
ー儒教の影響が強い国朝鮮の誇り高き男である崔さんにとって、オランダ人の女の態度が感情を逆なでにすることもあったろう。350年の植民地統治の支配層オランダの女性は「傲慢で生意気、作法がなっていない。誠実でない。日本帝国軍隊を侮辱する顔をする。反抗心がその顔にはっきり出ている」、そして時には明らさまに反抗的な態度をとる女もいた(「速記録」139号)。注意してもなかなかいうことをきかないので、カッとなって、殴ったこともあると崔さんは言う。「女子の小人は扱い難し」これが崔さんの偽らざる思いだったようだ。感情的になる、細かいことをグダグダ言いつのる、嘘をつく、おそらく、毎日毎日が女と顔をあわせる仕事で、崔さんは、女にうんざりしていたのだろう。慰安所などへ行く気にもなれなかったという。
ー週1回の外出日には、仲間の軍属と午前中にチェスをやり、午後には、他の抑留所に勤務している軍属たちと、ウィスキーを飲みながら、よく喋った。カニと卵を使った芙蓉蟹(かにたま)を食べて、実に甘いと思った。友人と週1回の会食とテニス、これが、単調な抑留所勤務の崔さんにとって、唯一の楽しみだった。スマランには、崔さんの勤務する第4分遣所のほかに、のちに刑死した朴成根ー木村成根ーの勤務している第1分遣所、第2がなくて、第3、第4、第5分遣所まであった。4と5は女ばかり、3は男だけ、第1は女と子供が収容されていた。他の分遣所は、1000人から2000人の規模であり、崔さんのいた第4分遣所だけが、5000人というとび抜けて大きい抑留所だった。医薬品は不足していたが、栄養失調はなかったし、死亡者ゼロ、病死ゼロだったので、特に問題はなかったと崔さんは言う。では抑留された女の側は、どう思っていたのだろうか。
慢性的な飢餓
ー崔さんのいた第4分遣所は、ランバサリーキャンプと呼ばれていた。このキャンプは超満員で「普通の土民居住区域を取片づけた跡に置かれたものであります。婦人達の戸外労働は強制的でありました。少女達は重い米袋を5百ヤードより遠い所を運搬せねばなりませんでした。団体刑罰も行なわれました。拷問も行なわれ、1度は7日間も続きました」(速記録」139号)。極東裁判に提出された抑留されていたある婦人の口供書の1部である。ここでいう戸外労働は、おそらく崔さんが指導していた耕作のことではないだろうか。崔さんは、女たち20人を指導して、空地という空地を耕やし、パヤムと呼ばれるほうれん草のような野菜をつくらせた。これはすべて、病院の患者用に収めた。かわりに、砂糖を100キロ運びこんだ時、全員に配るまえに20キロをとって、彼女たちに配給したという。ずいぶん、よろこばれたと語ってくれた。
ー極東裁判に提出された抑留されていたある婦人の口供書の1部である。ここでいう戸外労働は、おそらく崔さんが指導していた耕作のことではないだろうか。崔さんは、女たち20人キロをとって、彼女たちに配給したという。ずいぶん、よろこばれたと語ってくれた。また、若い娘が米袋を担いだことも事実だ。崔さんは、「オランダの若い娘は力があるから、米袋1つぐらい平気で担いだね」という。口供書で書かれていることは、崔さんが特に問題だと意識しているようなことではない。だが、抑留されている女たちにとっては、事情が違う。崔さんたちが、特に意識しようとしまいと、彼は彼女たちにとては命令者であり、管理者であり権力者である。命令に従わなければ、団体刑罰もあった以上、その言辞はすべて抑圧する者の行動でしかない。女たちは、ジーッと耐えていたのだろう。問題がなかったのではなく、問題が崔さんたちの目には見えなかったのではないだろうか。栄養失調はなかったというが、毎日90グラムの米しか支給されなかったとの証言もある。あるインドネシア人兵補は、抑留されている者は、米など食べることが出来なかった。トウモロコシと芋だけだったと語ってくれた。日本の敗戦直後、これら抑留所を訪れたコリンズ英陸軍中佐は女たちの状態を次のように証言している。
「婦人の体質上の状態は、男子と大体同じでありましたが(長期にわたる飢餓の影響を示し、また脚気、マラリアを患い、熱帯性潰瘍を患うといった状態・・・引用者)彼らの精神状態はさらに深刻なものであったと思います。私はこういう印象を受けました。彼女らの全存在というものは、非常に強烈な飢餓の観念に支配されておったということであります。婦人と会話をいたします時には、彼女らは一般的に反応がなく、また当時収容所にありました、通常の刺激に関して、これを全然感じなかったという気がいたしました。そして、これらの刺激の中で、直接その飢えを満足せしめるような刺激でなければ、全然明確なる反応がないような気がしました。チデン収容所におきましては、婦人はもう飢餓に慣れきっておりましたので、普通の食糧の供給品を彼女らに持って行ったところが、婦人間の指揮官にこれをみんなに配給するように説得するのに、非常にわれわれは困難を感じました。私にこういう説明が与えられました。収容所の統率者達は、もし後ほどになって配給が減るような場合があるかもしれないから、これらの供給品は、貯めておかなければならないという観念をもっておるということでありました。私はこういうことを発見しました。その収容所において、葉という葉、花という花、昆虫類、蜘蛛、鼠なども全部そのカロリー的価値に関して看護婦によって、非常に綿密に調べられたということを発見いたしました。
第2の、常軌を逸した点と申しますのは小さいものを所有して、そしてこれを獲得せんとする気持ちでありました。例えば紐だとか、古い煙草の空箱、あるいはセルロイドの紙の一片などというものは、真なる意味において一つの所有物でありました。私は数ヶ月これらの婦女子および一般民間人の引揚に関係しておりましたが、これら婦人達は、ほとんど全部、引揚げる時に、収容生活当時持っておりました古い缶カラや、布の一片やそのほか全くなんら役に立たないようなものをもっておったことを発見いたしました。この飢餓の観念並びに物を所有したいというその気持は、ほとんど半永久的なものになっておったようであります。と申しますのは、1946年1月、私はスマトラのパダンからオランダへ向けてバタビアまでの途中、一般男子および婦女子の、もと収容されておった者と一緒に旅行したことがあります。(宮本モニター、訂正、スマトラ、バタビアを通じてポーランドへ向かっておった途次)彼らはその時においてすら、彼らが収容所におった当時、水の容器としてつくった缶カラやそのほかいろいろ道具などをもっておりました。乗船いたしましてから、食事がすむと、母連中は、こぼれたパン屑などをテーブルから綺麗に拭き取ってそしてもって行くのを見ました。これらの食物の残飯は缶カラに入れておいたのであります。婦人からよくこういうことを言われました。この習慣はもうすっかり婦人の身についてしまっておったので、食べ物が少しでもどこかに残っておれば、それをもって行かなければ気がすまないようになってしまっておったということを告げられました。
ダムステ検察官 自分達の感情を抑へる意味におきまして、彼女らは精神的に狂っておりましたか。
コリンズ証人 初期におきましては、ほとんど無感情でありました。感情を現わすようなことは、ほとんどありませんでした。これは女子は性的に抑制されておって、そして彼らの唯一の気持というものは、飢えに対するものであったからであると思います。(宮本モニター 訂正 飢えを満足させるものに対してであったからであります)(「速記録」137号)

ーコリンズ証言は、彼女たちがいかに飢えていたのかを明らかにしている。もちろん、彼が訪れた抑留所は、崔さんの勤務していたところではない。ジャカルタの1万0200人を収容しているチデン抑留所だったという。しかし、チデンだけが、特別に食糧配給が少なかったわけではないだろう。抑留者に、食糧を供給しているのは、日本軍である。1日1人何グラムとその支給量が決められており、その量が飢餓を生むものであったことが問題だったのである。労働に従事していた俘虜でさえ、カタカタと骨がなり、胸の皮がたれ下るような食糧しか支給されていない。労働をしない彼女たちは、日本軍にとっては、タダメシを食う厄介者だったのではないだろうか。飢えは、当然のように彼女たちを襲った。1日米90グラム、アジア粉と呼ばれたタピオカの根からとった粉でつくった黒いパン、少量の肉、青野菜、こうした食べもので、1日1000カロリーをとっていたようである。女たちは、慢性的な飢餓状態におかれていたと証言されている。敗戦後の日本人のカロリーが、1100カロリーだったことを考えあわせると、1000カロリーがいかに空腹か、想像できる。子供たちもまた、飢えと恐怖におびえていた。
「コリンズ証人 子供は一般的に飢えておったようでありますし、また栄養不良の影響を現わしておりました。あるものはそれほど影響を受けておらないようでありましたが、あるものはちょうど目光がなくて育った植物のような状態を示しておりました。彼らの多くのものは非常に痩せ衰えており、また多くのものは普通マラリアと関連して思い出すような血色をしておりました。子供の大部分は、赤痢を患ったことがあるというふうに告げられました。そしてその大多数は、収容所の日本人守衛に関して、非常に強烈なる恐怖観念をもっておったということも告げられました。これは守衛が子供自身に対して残虐なる態度を見せたからではなくて、守衛が子供達の母に対してなしたる殴打打擲などに原因すると思います。子供は初めは非常に終始黙っておって、なかなか笑いませんでした。」(「速記録」137号)
ー日本の敗戦後、コリンズ中佐が訪れた抑留所の状態は、崔さんの語るのとはかなり違っている。崔さんのところは、飢餓状態はあったものの、他に問題はなかったのだろうか。初代の長谷川大尉は、よく暴力をふるった。2代目の永田中尉は、バリバリ命令を下す厳しい人だったが、気持ちはやさしい人だったと崔さんは語っている。厳しく、バリバリ仕事をやる上官の下で、時には、命令に従わない者に手を出したこともあると、崔さんは殴ったことを隠してはいない。おそらく、どの抑留者も似かよった状態だったのではないのか。収容されているオランダ人女性が、日本人や朝鮮人軍属を馬鹿にし、インドネシア人兵補を見下していたであろうことは、容易に想像できる。1ヵ月に1度、厳しい持物検査がおこなわれたというが、それでも秘密裏に、短波受信装置が持ち込まれていたり、出入りに華人の商人などを通じて、日本の戦局が不利なことを、収容されている者は、よく知っていたようだ。敗戦が近くなればなるほど、収容者の態度にそれがあらわれはじめた。同じくスマランの第1分遣所で勤務していた金東海さんは、「猿みたいな奴らだ」と聞こえよがしに言われたという。戦局は不利でも、収容所の実験は、いまだに日本の側にあった。命令違反、不服従には暴力も加えられたであろうし、拷問もあったろう。力で押さえこんでいたのだ。
ー45(昭20)年8月15日、敗戦と同時に、彼我の力関係が一挙に逆転した。崔さんたちが、収容されることになった。2年間、飢餓と暴力の下に呻吟した抑留者たちが、恨みつらみを綴った告発状を蘭領印度地区戦犯調査委員会に提出しはじめた。名前を知っている者には、名ざしでその行為を指摘した。2年間、同じ抑留所にいた崔さんの名前を知らない人はいない。崔さんが忘れていたようなことまで告発された。崔さんはその告発の3分の2は本当だが、3分の1は嘘だったと言う。代分遣所の抑留者の会長をしていたファン・デル・ブール夫人が、崔さんの弁護にあたってくれた。日本語の達者な夫人は、会長として、働いていたが、その「思想」がよくないとの理由で、抑留所当局により、途中から、第3分遣所へ移されてしまった人物である。「親日分子」などではなかったが、崔さんが、抑留者のため便宜をはかったことを証言してくれたのである。抑留所に勤務した朝鮮人軍属は、崔さんと同じように、飢餓状態、医薬品の不足、日常生活上のトラブル、殴打を問題にされ、戦後、戦犯として告発されたのである。日本人下士官1人、朝鮮人軍属1人とインドネシア人兵補で運営していたある分遣所では、日本人、朝鮮人がともに戦犯になってしまった。100%の戦犯告発である。こうした事態は、ジャワの抑留所では、かなり共通しており、戦闘のほとんどなかったジャワ島で多くの戦犯が出た理由の一つに、この一般民間人と婦女子の抑留所の問題がある。
ー俘虜収容所と軍抑留所は、共に、朝鮮人軍属が中心になって運営していた。その収容者の状態が、いかに悲惨であったのか、当事者の告発のなかから垣間見ることが出来る。だが、こうした状態の責任が、ひとり朝鮮人軍属にあったといえるだろうか。陸軍大臣、その直属の俘虜情報局長官は、日誌と月報によって、逐一報告されてくる俘虜と抑留者の状態を、十二分に知っていたはずである。食糧の支給量を決定し、労役につかせることを強要したのも、陸軍大臣と情報局長官である。朝鮮人軍属は、その命令実行者にすぎない。抗命権のない日本の軍隊では、いかなる理不尽なことであれ、上官の命令に逆らうことは、「朕」の命令に逆らうこととされた。それは、反逆罪として時には死を意味する。朝鮮人軍属が、命令に背反することは実質的に不可能であった。だが、抑留者の最末端で勤務した崔さんたちが、抑留所のあまりにも悲惨な状態の責任を問われて、敗戦後、戦犯として告発されていく。
バンブー・モリと共に
「そりゃ殴ったさ、命令だもの。殴らなきゃ、こっちが殴られる。俘虜の間で“バンブー・モリ”と言えば、知らない者がいないぐらい有名だったね。オレはそのバンブー・モリの通訳だったから、結局、いつも2人で一緒に動いていた。モリが殴れと言えば命令だから殴らないわけにいかないし・・・。それでも、10回ぐらいだったと思うよ。オレだって、モリから2回も殴られたことがある。ヤツは俘虜だけでなく、オレたちのこともよく殴ったね。いつも竹の棒を持って歩いて、いうことをきかない奴とか、命令に違反した奴をそれで殴るのさ。金鵄勲章をもらっていたから、気が強くなってたさ。人を1人ぐらい殺しても死刑にならない。労働者あがり、小僧あがりだったから、力が強い。モリに殴られたら、そりゃ大変さ。自分で殴るのが面倒くさい時とか殴るのに疲れるとオレにやらすのよ。命令だっていってさ」

ーパンダ海に浮かぶハルク島は、東西15キロほどの小島である。この島にバンブー・モリと彼の通訳だった李義吉さんが俘虜2000人を連れて上陸したのは、1943(昭18)年5月、ちょうど雨期のはじまった頃だった。島に上陸してみると、俘虜を収容する施設は何一つなかった。バケツをひっくりかえしたようなという形容がピッタリするほど、激しい雨が降るなかで、雨露をしのぐ施設が何もない。俘虜は各自が持参した毛布を、地面にじかに敷いて寝るが、30分もたたないうちに、水を含んでグッショリ濡れてしまう。無駄とわかっていても、一晩のうちに何度も起きて、毛布をしぼる。雨に打たれ、寒さにふるえてゆっくり寝ることも出来ないまま、ハルク島の一夜があけた。“雨の島”との呼び名がぴったりするほど、ハルク島は雨が多かった。
―朝起きる、近くの川へ水を汲みにいき、それでごはんを炊く。ところが燃料がない。近くの森から木を切ってきてそれを薪にするが、雨期でタップリ水分を吸収した生木は、なかなかもえない。重油をかけて燃やしながら2000人分のごはんを炊くのだから大仕事である。30時間ぶりに俘虜たちは食事にありついた。それも水気の多い粥だった。まず、宿舎の建設からとりかかった。宿舎といっても、椰子の葉でふいた竹の小屋である。バンブー・モリと恐れられた日本人下士官と李義吉さんたちは、ジャワ俘虜収容所派遣題分所に所属していた。蘭領印度、今のインドネシアで降伏したオランダ人、イギリス人、オーストラリア人等の俘虜8万人を管理していたジャワ俘虜収容所から、ハルク島に派遣されてきたのである。
―2000人の俘虜を、1人の将校、下士官1人、朝鮮人軍属40~50人で管理しなければならない。いきおい、仕事は朝鮮人軍属の肩にかかってくる。特に、英語の得意な李義吉さんは、事務と通訳の仕事に利用された。飛行場説営隊が指示してくる数の俘虜を、労働に出さなければならない。これの指示通り、そろえて設営隊にひきわたす。毎日、1600人が労働に出された。2000人分の炊事の監督、宿舎の修繕などを俘虜を使ってやることも仕事である。
―バンブー・モリは、李義吉さんの上官だった。英語のできないモリは、常に李さんを連れて歩き、2人は行動を共にしていた。モリは、いつも竹の棒の杖を持って歩き、俘虜を容赦なく打ちすえたという。その竹は俘虜の尻をたたくので、いつもヒビ割れていたほどだった。彼のこうした行動は、ハルク島で始まったことではない。ジャワにいる時から、彼はバンブー・モリと恐れられていた。イギリス国籍のボーア人(注1)作家ヴァン・デル・ポスト(注2)は、その著「影の獄にて」のなかで、モリをハラという名のモデルにしたてて、次のように描いている。

「ハラの丈は実に低く、ほとんど小人と見まちがえられるばかりであり、あまり横に広いため、ほとんど正方形に近かった。頭はないに近く、後頭部のほとんどない絶壁頭が、その広い肩のうえに、ほぼ垂直に鎮座していた。頭髪は薄く、漆黒だった。極度に粗いガサガサと毛質、坊毛がりにされた毛は、雄豚の背中の剛毛のように、堅く、こわばって、空中に突きだしていた。両腕は異例なまでに長く、ほとんど膝にとどかんばかり。反対の足のほうは、ばかに短くて極端に太く、ひどいがに股になっていた」。
(注1)アフリカーナー(アフリカーンス語: Afrikaner)は、アフリカ南部に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植した人々が合流して形成された民族集団である。現在の南アフリカ共和国やナミビアに多く住んでいる。言語はオランダ語を基礎にしてフランス語、マレー語、現地の言語等を融合して形成されたゲルマン系言語であるアフリカーンス語を母語とする。かつてはブール人(Boer)と呼ばれた(「ブール」〔Boer〕とはオランダ語およびアフリカーンス語で農民の意。"Boer"の英語読みに基づいてボーア人とも表記される)。主な宗教は改革派(カルヴァン派)に属するオランダ改革派教会である。アパルトヘイト時代の厳密な定義では、オランダ系(同化したユグノーなども含まれる)であること、アフリカーンス語を第一言語とすること、オランダ改革派教会の信徒であること、この三つをみたすことが「アフリカーナー」の条件であった。Afrikaansアフリカーンス語⇒Die Afrikaners is die grootste van Suid-Afrika se twee inheemse blanke bevolkings. Hulle verskil van Engelssprekende Suid-Afrikaners deur hul taalkundige en religieuse agtergrond. So is hulle merendeels van Nederlandse, Duitse en Franse afkoms, met kleiner invloede van onder meer Switsers, Skandinawiërs en Portugese, en is tradisioneel aanhangers van Calvinisme, 'n vorm van Protestantisme.
(注2)サー・ローレンス・ヤン・ヴァン・デル・ポスト(Sir Laurens Jan van der Post, CBE、1906年12月13日 - 1996年12月16日)は、少なからぬ作品を有する20世紀のアフリカーナー著作家であり、農耕者にして、戦争の英雄、イギリス政府首脳陣の政治顧問、チャールズ王太子の側近中の側近、王太子の息子ウィリアム王子の代父、教育家、ジャーナリスト、人道主義者、哲人、探検家、自然保護論者である。
Sir Laurens Jan van der Post, CBE (13 December 1906 – 16 December 1996), was a 20th-century South African Afrikaner author, farmer, soldier, political adviser to British heads of government, close friend of Prince Charles, godfather of Prince William, educator, journalist, humanitarian, philosopher, explorer and conservationist.
―だがそのハラの両眼ばかりは、実にすばらしく美しく輝いていたと描かれている。同時に、
「ハラは獰猛な朝鮮人の衛兵を配置して彼らを支配し、命令を与え、ハラの顔色や態度に敏感な、熱烈な帰依者に仕立てあげていた。この連中は、当の教祖よりも、もういちだん熱烈だった。ハラは、われわれに規則を設け、これに反するものは処罰した。罰したばかりではない。これに違背した若干の者を、殺すまでしたのである。」(「影の獄にて」)
ー著者のヴァン・デル・ポストは、俘虜の1人として実際にバンブー・モリの虐待下にあった人である。ジャワでバンブー・モリの支配していた朝鮮人の衛兵が誰であったのかは知らない。だが、ハルク島へ派遣されたあと、李義吉さんが、その配下に置かれたことは、李さんが自ら語っている通りである。ハルク島でもモリは竹の棒を手離すことはなかった。
ー李義吉さんも、徴用されて以来、殴られながら教育を受けてきた。まして、ここは戦場である。俘虜が怠けたり、盗みをしたりして規則に違反した時は、殴ったり、蹴っとばしたりして、許すのが日本軍のやり方である。書類をつくって憲兵隊へまわせば、その俘虜の命は保障の限りではない。2、3発殴ってすませるのが最良の方法だと李さんは考えたと言う。殴っただけでは、死にはしないのだから。バンブー・モリと李さんは、仕事の上からも、いつも2人で行動しなければならなかった。殴るモリと共にいた李さんもまた、俘虜たちからは、嫌われ、恐がられていたのだろう。敗戦後、李さんは、分所長の阿南三蘇夫中佐とバンブー・モリと共にシンガポールのチャンギへ移送された。もちろん、戦犯裁判のためである。2人は死刑の判決を受けたが、李さんはどうにか命をとりとめた。
ー殴ったことも、問題だった。だが、それ以上に問題だったのは、飛行場建設に俘虜を使ったこと、食糧、医薬品の不足から、多数の死亡者を出したこと、建設が終了し、ハルク島からジャワ島へ戻る途中、多数の死者を出したことだった。大本営の戦況判断が甘かったことから、補給を絶たれたままサンゴ礁の島に2000人の俘虜をかかえることになった李さんたちは、俘虜のあまりにも悲惨な死を、毎日目にしながらどうすることも出来なかった。ハルク島に死臭が漂い始めた。
無駄だった飛行場
ーハルク島に派遣された2000人の俘虜は、メナド(北スラウェシリ)アンボン島出身のオランダ兵が中心だった。日本兵がよく「黒色オランダ」と侮蔑的に語るように、このメナド、アンボン島の土着インドネシア人やオランダ人との混血者は、オランダの植民地統治下にあったインドネシアで、支配者の「手先」として使われた人たちであった。
ー俘虜の仕事は、飛行場建設である。連合軍の反攻を43(昭18)年以降に予想して、大本営はこのオーストラリアを真南にひかえるモルカッカ諸島の島々に飛行場を建設しようとした。1942(昭17)年6月29日に、建設の指示が出されたが、パンダ島防衛のために、第7飛行師団司令部が編成されたのは、その年の12月14日。そして、実際に建設の労役に使うため、俘虜をモルッカ諸島に移送したのが、43(昭18)年の5月である。指示から飛行場建設の着手まで、約1年の歳月が経過している。大本営は当初、43年に入ると連合国の反攻があることを予想していたにもかかわらず、建設に着手したのが43年6月、しかも、シャベル、ピッケルなどの道具を使った人海戦術で、サンゴ礁の島に飛行場をつくろうというのである。キャンプから飛行場建設の現場まで3キロ、その道は、雨が降るとぬかるみ、18センチもの泥におおわれたと俘虜だったC・G・トンプソンが、「ロームシャ」と題する本のなかで書いている。雨のなかで濡れねずみになりながら椰子の木を倒し、その根を取り除く、体力も気力も弱った俘虜10人が1週間もかかったというのだから、作業は当初の計画通りには進まない。
ー敗戦後、李さんは連合軍の飛行場づくりの様子を見て驚いた。部厚い鉄板を運んできて敷きつめ、あっという間に飛行場をつくってしまう。日本軍が4ヶ月か5ヶ月かかる仕事を、連合軍は1~2週間でやってしまうのである。ブルドーザーというのを、李さんはハルク島で初めて見た。日本軍の設営隊がこれを使っていたが、李さんの言葉をかりれば1台で俘虜1000人分の仕事が出来たという。しかし、このブルドーザーも2台しかない。結局人力が中心となる。栄養失調で体力の弱っている俘虜を叱咤しながら、サンゴ礁を整地する。島の北岸に長さ1500メートル、幅65メートルの滑走路をつくるのが仕事である。熱帯の強烈な日ざしを受けたサンゴ礁の白砂は、栄養失調で目の衰えた俘虜たちには、余りにもまぶしい。衰えた目を保護するために、俘虜たちは、自家製のサングラスをかけはじめた。竹を輪切りにし、そこにセロハンを張り色を塗ったかんたんなものである。
―竹製サングラスを考案して、目を保護することは出来ても、栄養失調はいかんともしがたかった。特に新鮮な野菜が不足していた。パンダ島に浮かぶケシ粒ほどの島に、2000人の俘虜を連れた収容所が上陸しただけでなく、飛行場の設営隊、ジャワ人ロームシャも上陸。しかも、この島はサンゴ礁のため、水田耕作は出来ず、米の自給は不可能である。野菜もほとんどとれない。近くのアンボン島やセラム島に食糧の買い出しに出かけることもあったが、これらの島にも、飛行場設営のため2000人の俘虜と多数のジャワ人ロームシャが来ていた。彼ら自身が食糧が足りないため、近くの島へ食糧の買い出しに出ているほどである。食糧、特に野菜の集荷は絶望的だった。1人に1枚ずつタピオカ(キャッサバ芋から作った 粉、ここではキャッサバ芋をさしている)の葉のスープに浮かべてやろうとすれば、2000枚も集めなければならない。そんな葉がどこから手に入るのだろうか。塩もまったく手に入らない。ドラム缶で海水を煮たてて塩をつくることもやったが、1日中たてて手をすくえるほどの真黒い塩が出来ただけだという。これを2000人に分ければ、ほんの一つまみにもならない。
―米のメシに乾燥タニシ、野菜を浮かべたスープ、こんなものが食べられるうちはまだよかったようだ。44(昭19)年も半ば頃になると蒸したトウモロコシを空カン一杯、糊状になったタピオカの粥に塩か砂糖をかけたもの、それに乾燥タニシが少々といった食事にかわっていった。ジャワ島からの補給が途絶え、自給できるもの、手に入るもので、とにかく飢えをしのぐよりほかに仕方がなかったのである。これらの食糧が一体何カロリーになるのかは分らない。とにかく、生きているのが精一杯な食事では、労働しようにも体が動かないだろう。バンブー・モリの竹の棒が、いくら俘虜たちの上にふり下ろされようと、衰弱し、疲労しきった者には、その痛みも感じなくなってしまう。泰緬鉄道の現場にいたアーネスト・ゴードンは、行軍に落伍して、ひどい打擲 を受けたが「私たちはなぐられても張られても何も感じなかった」と書いている。殴られても痛みを感じなくなる。殴られて気落ちすること、これはいずれも死への入口に立っていることを物語る。
ーバンブー・モリが、ヒステリックに竹の棒をふり下ろし、李さんが蹴とばしても、食糧事情が改善されない限り、能率はあがらない。だが、病人もまた、俘虜の現場へ出たがった。昼食に出される設営隊の弁当が、収容所の支給する食事より若干よかったためだという。無理をしても働き、食糧にありつかなければならない。それほど、俘虜の食事はひどいものだった。カロリーが不足し、ビタミンが不足し、塩分が不足する。体力の弱った俘虜に、炎天下の労働だけは十二分に課せられた。李義吉さんは、そんな状況を、「本当にひどいもんで、言葉にならないぐらいだ。連合軍が、その状況を目撃していれば、もっともっと戦犯が出たはずだ」と言う。陽気に当時の状況を語ってくれた李さんも、俘虜の死にふれると、力をこめて「本当にひどい」と何度も繰返し話す。その俘虜の1人、英空軍将校デニス・ブライアン・メイスンは、証言する。
「この収容所では俘虜は飢え、殴打されました。大抵の者が病気であったにも拘らず、1日に10時間、主に飛行場の構築に強制的に働かされました。着るものも長靴も俘虜達に給与されませんでした。大多数の者が脚気、マラリア、赤痢で悩まされていました。病気の患者は飢え、食事に鼠、20日鼠、犬、猫、蝸牛を補充しなければなりませんでした。医療供給は全然ありませんでした。開放式便所だけしか最初の12ヶ月間、使用を許されず、その結果、赤痢の蔓延となりました。15ヶ月あまりの間に、386人が病気と飢餓の為急死しました。」(「速記録」43号)

ーメイスンは、派遣された俘虜は2050人だと述べている。そのうち、386人がハルク島で死亡した。「ロームシャ」と題してハルク島での体験記を書いたC・G・トンプソンは死者367人と書いている。いずれにしてもこれだけ多くの俘虜が死亡したことは間違いない。だが、せっかく生き残った者も、ジャワ島への引揚げの途中、その大部分が死に、ジャワに辿りついた者は600人あまりだった。10人のうち7人が死亡したことになる。李さんの証言によれば、患者が栄養失調で死ぬ間際に皮膚から水がたれてきた。それが、竹の隙間からポタポタたれて、地面にたまると、そこにうじが沸いてきた。死臭とも腐臭ともつかぬその臭いは、何とも表現しようのないほど、くさいものだったという。
―目が見えなくなる者、水ぶくれのようにふくれあがる者、マラリアの高熱にうなされる者、起きあがることも出来ない赤痢患者は、大小便をたれ流している。それが竹の床の間から地面に落ち、臭気をはなっている。多い時は、1日に20~30人も死亡した。死者を埋葬するのは、仲間の俘虜たちである。1日10時間、時にはそれ以上の労働に酷使された俘虜たちに、硬いサンゴ礁の土地を掘る力はない。浅く掘った穴に、遺体をまとめて埋葬する。それでも埋めきれない死体が、毎晩5,6体は残っていた。増え続ける死者に穴掘りが間にあわなかったのである。もちろん、棺を作っている時間も余裕もなかった。俘虜が使っていた毛布にくるみ、そのまま穴のなかに放りこんだのである。腐敗する死体は、浅くかけた土を突き抜けて、あたり一面に、腐臭を放つ。激しい雨が、死体をおおう土を押し流すこともあった。死臭と死に瀕した者の放つ臭気と放置された患者のたれ流す排泄物の臭気・・・。エメラルド色に輝くパンダ海のサンゴ礁ハルク島には、その自然の美しい風景とは遠くかけはなれた地獄の図がくりひろげられていた。 楽な性格の李さんも、その地獄絵が40年近く経た今日もなお脳裏から離れないのだろう。「ひどかった」「本当にひどかった」と繰り返し語る。
-43(昭18)年中に、飛行場は完成した。だが、日本軍の飛行機はやってこなかった。あるのは、連合軍による爆撃だけだったという。何のために飛行場をつくったのかわからない。李義吉さんたちが、ハルク島に辿りついた43(昭18)年5月には、パンダ海の制空権も制海権も、連合軍の手に陥ちかかっていた。オーストラリアの北部ポートダーウィンには、約100機の航空機が配備されていたというから、ハルク島は完全に連合軍の制空権内にあったことになる。現に、43(昭18)年7月22日には、李さんが出発したジャワ島のスラバヤにB24が来襲している。最前前に飛行場をつくらなければならない李さんたちは、自ら「敵」の懐のなかへとびこんでいったことになる。
ー食糧の自給が不可能なことがはっきりしている小島に、2000人からの人間を投入したからには、食糧、医療などの補給体制が整えられていなければならないだろう。日本軍も2000人を餓死させるつもりはなかった。スラバヤから資材や食糧を積んだ船団が何度も出発していた。43(昭18)年9月、陸軍の徴用船3隻と護衛中の水雷艇が、魚雷の攻撃を受けて沈没、翌10月、同じく2隻の徴用船がアンボン島を目の前にした湾の入口で沈没、翌11月、同じく1隻が沈没している。12月下旬、おそらく正月用の食糧なども満載していたであろう、天城丸、大島丸が同じく、アンボン島、ハルク島を目の前に爆撃を受けて撃沈した。これらの船には護衛艦厳島がついていたが、B24、B29による空からの攻撃に、3隻ともパンダ海の藻屑となってしまった。もちろん、李さんや俘虜の胃袋に入るはずだった食糧もあっけなく海底に没してしまった。
ーこうした資材、食糧輸送船の沈没があいついだ。パンダ海には「敵」の潜水艦が、回遊しており、空には「敵」の飛行機が悠然と飛んでいた。ジャワ島と、ハルク島やアンボン島、セラム島を結ぶ補給路は、完全に切断されてしまったのである。44(昭19)年になると、空襲も激しくなってきた。飛行場を爆撃の目標にしている。穴のあいた滑走路を、修理する仕事が続いた。いつ飛来してくるのか。あてもない日本軍の飛行機が降りたつために、爆撃と修理のイタチごっこが続く。
死の航海
―ジャワ島への引揚げが始まったのは、1944(昭19)年8月である。潜水艦が出没し、空にはB24やB29が飛びかっている。P38と呼ばれる戦闘機は、上空でエンジンを止め、音もなく突っこんで、機銃掃射を加える恐ろしい飛行機である。制海権、制空権を失ったパンダ海を辿って、生き残った1600名の俘虜を移動させることは、至難のわざである。アンボン島やセラム島の飛行場建設にも各々1000人の俘虜が派遣されている。これらのうち生き残った者あわせて約3000人からの人数が数隻の船に乗りこみ、船団を組んでパンダ海を西に向かって航海する。そんなことはすでに夢物語になっていた。引揚げが決まったといっても、乗り込む船すらない。とにかく、何でもよいから、船を見つけて乗り込む、バラバラになってのジャワへの帰島である。そのジャワへの航海は、日本の敗戦を暗示するかのように、悲惨の一語に尽きる“死の航海”だった。この航海の様子を、イギリスの航空大尉ウィリアム・ブラックウッドが証言してる。李さんの話とあわせて、その状況を追ってみよう。

ー李さんの乗り込んだ船は、一度、沈没したのを引揚げたものだった。540トンのその船に、約150人の俘虜と分遣所長倉島中尉とバンブー・モリそして李さんたち朝鮮人軍属が乗りこんだ。時速5ノットという信じられないような老朽船が、集結地アンボンを出発したのが8月。この船は、向かい風が吹くと、少しも前へすすまない。敵機に見つかればひとたまりもない。昼は島影にかくれ、夜になると星の光を頼りに西へ西へと航海した。追い風の時の航海は、心地よく船が走る。だが、少し強い向かい風が吹くと、一晩中、走ったつもりなのに、船が少しも進んでいないということもあった。薄氷を踏む思いの連続である。船がスラウェシ島南東端のムナ島に近づいた。ラハ港に一時待避しようとしたが、コンプレッサーが壊れていて、錨を一たんおろすと、これを巻きあげることが出来ない。船は、停泊できずに、一晩中、ラハ港の湾のなかをぐるぐるまわっていたこともあった。
―錨を降ろした船のなかで、俘虜は次々と死んでいった。15ヶ月の激しい労働で、身体が弱り、栄養不良と虐待のため、耐えがたいほど体が悪くなっていたのである。ほとんど全員が脚気に罹っていた。脚気も重くなると心臓にきて死亡することもある。赤痢やマラリアも衰えることはなかった。毎日のように俘虜が死んでいった。動かない船の上では、水葬以外に方法がない。死体の足に、砂の入った袋を結びつけて、舷側から海中に投じた。ところが、2,3日もすると死臭が漂い、腐乱しかかった死体が浮いてくる。これにまた、砂の入った袋を結びつけて、海底に沈める。死体は1体や2体ではなかった。150人の俘虜のうち、50~60人が死亡したという。そのうち、何人がラハ港の湾内に停泊中に死亡したのか、李さんもはっきり記憶していない。ただ、俘虜がどんどん死んでいったことは確かである。死者を海中に投じ、2,3日して浮いてくる死体を、再び海底に沈める。動かない船の周囲には死臭がたちこめていた。腐乱した死体の浮いた海の水で米を洗って、メシを炊いた。生きている者も一様に死の匂ひを漂わせ、死者と生者の境が失われたような地獄の様相を呈しながら、李さんたちの乗った老朽船は、1ヶ月近くもラハ港の湾内に停泊していた。
―だが、この老朽船もついに敵機に捕らえられ、リベレーター機の射撃を受け、火災を起こして沈没してしまった。李さんたちは、日本人将校やバンブー・モリと共にボートで脱出したが。だが、150人の俘虜のうち、何人が救出されたかは明らかではない。次にラハ港に寄港する船を待った。マロン丸500トンに、500人の俘虜を乗せた船が、寄港した。ロンドンの地下鉄のラッシュ・アワーの様に、ぎゅう詰めにされた俘虜たちは、寝る場所すら見つけることがむずかしかった。500人の便所は、船べりの2コの箱しかない。水は1人1日半パイント(約0・231リットル、約1合3 )足らず、病人が増加していった。ここに、李さんたちが乗りこむことになった。500トンの船に600人近くが乗るのだから、超満員の船内は、筆舌につくしがたい混雑を生じた。ほとんど1人として満足に座ることも出来ず、いわんや横になることはまったく出来ない。なかでも、李さんたちが連れていた俘虜たちの状態は最悪だった。ブラックウッド大尉の証言によると、それは次のようである。
「乏しい食物とその上、海中に投ぜられるという気疲れや燃える船から漂流したので、自分で生きる事も出来ず、彼らの状態は見るも恐ろしい様子でした。彼らの多くは不具の脚気でしたし、数名は半狂乱で、全員哀れなほど弱っておりました。彼らは私の分遣隊で残っていた480名ばかりの者と、ごちゃごちゃに入り混ってどうにかして、船に詰めこまれた。甲板は舷門に覆とてなく、ハッチには、真の重病人が数名居るだけの余地しかありませんでした。人々は皆、凸凹した薪の東の上に散らばって横になり、熱帯の太陽を受けて、恐ろしく火ぶくれになっていました。舌は黒ずみ始め、シャツを着ていない剥出しの肩は出血し始め多くの者には正気の痕跡もなくなりました。夜は死にかけている者のわめき声や叫び声眠ろうとする疲れきった者の呪詛、脚気で死のうとする者を苦しめる絶えざるしゃっくりで満ちていました。」
「形容の出来ない恐ろしい光景は、茶飯事となりました。狭い船のここかしこに寝ている人間の縺れた塊を辿って通路を選びながら看護人が、死者の裸の衰弱した身体を舷側まで、運んで行きました。ここで、立会の者だけにしか聞えずに、海で死ぬ者の葬式の読経が、重りをつけて身体が海中に投ぜられる前に行なわれました。日射病で発狂した1人の青年は、彼の狂った頭で訳のわからぬことを30時間も叫んだのでしたが、やがて、口もきけない程弱ってしまいました。彼の死ぬ直前に、彼は便器として使用されていた一杯になった缶をこわして、それが水だと思って制止する前に、中身をガブガブ飲みました。」
「ある晩、1人のオランダ人が死にかけていたので、彼は非常に大きなしゃっくりを始めました。46時間中、森軍曹(音訳)が船横に現われ、もしこの男に眠る注射を与えなければ、病人は全部殴るとおどしました。注射は行なわれましたが、30分で彼は再び目を覚ましました。森軍曹(音訳)は、威嚇を繰り返して、また注射が行なわれました。1時間後に、再びその男は目をさまし、またしゃっくりを始めました。あらん限りの声を張りあげて、日本人の軍曹は、第3回目の注射をするか、さもなければ、下に降りてきて、担架の患者の間で棒で彼を散々に殴ってやると言い張りました。第3回目の注射が行なわれました。そして今度は、可哀想なこの男は、もう声を立てませんでした。彼は死んだのでした。」
「夜間は、看護人たちには恐ろしい仕事がありました。それは人々が横臥した身体の上を、大便用の缶や尿の壺を持って、人の混んでいるハッチを爪先で歩き廻るのですが、人々は脚気で非常に腐っているので、脚で軽く触れただけでも、大声で叫びました。」(「速記録」135号)
―11月下旬、船は東部ジャワのスラバヤの港に到着した。李さんたちがアンボンを出港してから75日目、マロン丸の乗員には68日目の陸地である。乗っていた630人のうち、生き残ったのは325名だった。その生き残った者もまた、2ヶ月も身体を洗わず、寄生虫がはいまわっていた。俘虜たちは衰弱し、よろけるような歩どりで、スラバヤの地を踏んだのである。

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