日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)/④

第39师团(だいさんじゅうきゅうしだん)是大日本帝國陸軍师团之一。Die 39. Division (jap. 第39師団, Dai-sanjūku Shidan) war eine Division des Kaiserlich Japanischen Heeres, die 1939 aufgestellt und 1945 aufgelöst wurde. Ihr Tsūshōgō-Code (militärischer Tarnname) war Wisterie-Division (藤兵団, Fuji-heidan) oder Fuji 6860 bzw. Fuji 6861.戰後B / C類戰爭罪犯的歷史:什麼是真正的戰爭責任 (日語)書– 2010/8/1 富永正三  (作者)Postwar History of a Class B / C War Criminal: What is Real War Responsibility (Japanese) Book – 2010/8/1 Tominaga Shozo  (Author)
第59師団(だいごじゅうきゅうしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ=The 59th Division (第59師団, Dai-gojūkyū Shidan) was an infantry division of the Imperial Japanese Army. Its call sign was the Robe Division (衣兵団, Koromo Heidan). It was formed on 2 February 1942 at Jinan as a security (class C) division, simultaneously with 58th and 60th divisions.
第7章 過剰適応
中国で戦犯となった小島隆男さんの罪責の認識とそれを支える感情について、分析してきた。さらに、徴兵された一般の将兵の体験を通して、人間はどこまで残酷になれるのか、それはいかなる心理過程をたどって可能になるのか、残虐行為への傾斜に抵抗できる精神があるとしたら、それはどのようなものか、考察を続けていこう。
小島さんは山東省で「労工狩り」を行い、中国側から三光作戦と呼ばれた、華北での占領地掃蕩作戦を荷なった中隊長であった。ソ連から中国へ送られた戦犯容疑者は969人。その内、この山東省に駐留した北支那方面軍59師団の将兵が約400人いた。次いで多く、2百数十名をしめていたのが、湖北省の第一戦線にいた中支派遣軍39師団である。両師団関係者で600名をこえ、残りは他の師団の将兵、および関東軍憲兵、元満州国警察、司法関係者であった。
富永正三さん(83歳)は、第二グループの39師団に属していた。彼は理知的な人であり、大学では社会科学のひとつ、農業経済学を専攻している。そんな彼との対話を通して、残虐行為への心理プロセスを分析していくことにする。
現実を見つめる能力
富永正三さんは1914年(大正3)5月、熊本県下益城郡の農村に生まれた。家は大地主であったが、彼が中学を卒業するときには、家産は傾いていた。それでも7人の兄弟は、それぞれ高等教育を受けている。経済的には商船会社に勤める長兄の力もあり、とりたてて困ることはなかったが、肉親との繋がりは薄幸であった。「あるB・C級戦犯の戦後史―ほんとうの戦争責任とは何か」(水曜社、1986年)のなかで、彼は次のように述べている。
「私は子どもの頃から身内の死に直面する機会が多く、小学校の前後に祖父と兄、中学時代に両親を失い、続いて卒業直前、母がわりに私の面倒をみてくれた祖母を亡くして、田舎の生家には私1人となってしまった。当時2人の兄は上海にいたので、親戚の総意で私は宇都宮にいた長姉のところに引き取られることになった。そういうことから私には一種の無常感ともいうべきものができて、学生時代にはよく1人で古い寺を訪ねたり、神社の森を歩き廻ったり、ときには1週間も人と口をきかないこともあった。孤独は私にとって苦痛ではなかった」
幼い時から、何度となく死別し、とりわけ愛する祖母と母を喪い、ひとりで生きていかねばならなかったことが、孤独を苦痛と感じない、集団に溶け込むことを必ずしも快と感じない。そんな人間を形成していったと自己理解している。他者に頼らないさびしさ、それを包む強靭な構えを、彼は選びとったようだ。
引き取られた姉の家の主人は軍人だった。陸軍中佐で、宇都宮師範の配属将校であった。しかし、ここで軍国主義に染まったわけではない。こんなこともあった。ある時、義兄に「軍人も職業であり、官吏や会社員と本質的には変わらない」と意見を述べた。義兄は激怒し、「帝国軍人を会社員と同じと考えるとは、何ごとだ。軍人は天皇の股肱であり、国家の干城である。いざという時は、命を捨てて国に殉ずるのが軍人の務めである」と怒鳴りつけた。
姉も「こんなにお世話になっておいて、何ということを言うのですか。謝りなさい」と泣いて怒った。「私に力があれば、あんたを殺して私も死にたい。そうでなければ、主人に申し訳ない」と、彼女は責めた。だが、富永少年に謝る気持はなかった。いかに命がけだからといって、軍人が特別に威張っていいわけはない、と思っていた。ただし、それは軍人の傲慢に対する反発であって、決して反戦思想や軍隊を否定する思想ではなかった。
富永さんが中学を終えるころ、満州事変が起こっている。軍国主義の風潮は着実に強くなっていた。熊本県は軍人を尊ぶ地方である。そして村の資産家の家に生まれ、同級生のなかで唯2人、中学に進んだという選ばれた者としての境遇。青年は当然、そのような社会を肯定し、そのなかで一定の役割をはたす者として自分の将来を見ていた。
大学は東京大学農学部の農業経済学科に進んだ。自由主義者といわれた河合栄治郎教授(河合 栄治郎(かわい えいじろう、1891年2月13日 - 1944年2月15日)は、日本の社会思想家、経済学者。第二次世界大戦前夜における、著名な自由主義知識人の一人。河合栄治郎 (카와이 에이지(東京都出身), 1891 년 2 월 13 일 - 1944 년 2 월 15 일 )는 일본 의 사회 사상가, 경제학자 . 제 2 차 세계 대전 전야의 저명한 자유주의 지식인 의 한 사람)の社会政策、大内兵衛教授(大内 兵衛(おおうち ひょうえ、1888年8月29日 - 1980年5月1日)は、大正・昭和期の日本のマルクス経済学者。専攻は財政学。日本学士院会員。元東京大学教授、法政大学総長。Ōuchi Hyōei (japanisch 大内兵衛; geboren 29. August 1888 in Takada (高田村), Bezirk Mihara (三原郡) (Präfektur Hyōgo兵庫県出身); gestorben 1. Mai 1980) war ein japanischer Wirtschaftsfachmann und Marxist, Professor an der Universität Tokio und Präsident der Hōsei-Universität)の科学的社会主義の立場にたつ財政学―後に2教授とも軍部、文部省から攻撃されて大学を追われたーなどの講義も受けた。マルクス、エンゲルスのいくつかの著作も一応読んだ。マルクスの「共産党宣言」は大学図書館でわざわざノートに写しとっている。知識としては学んだが、思想的に引きつけられるということはなかった。
「大学時代は、どちらかというと右翼的だったでしょう。軍国主義なんて言葉を、私は知らなかった。軍隊に入ることは決して望んでいなかったけれど、それを受け入れる素地は十分にあった。徴兵検査は当然のものとして受けたし、甲種合格になった以上、もちろん入隊しなければならないと思っていた」と富永さんは振り返る。
それでも兵役につく前に10ヶ月ほど、就職している。1939年に大学を卒業、東畑精一教授(東畑 精一(とうばた せいいち、1899年(明治32年)2月2日 - 1983年(昭和58年)5月6日)は、日本の農業経済学者。農学博士。
Seiichi Tobata (東畑 精一, Tobata Seiichi(三重県出身), 2 février 1899 - 6 mai 1983) est un professeur d'agriculture, et un pionnier de l'économie agricole)の紹介で満州糧穀会社(満州農産公社)に入った。そこは、満州国内の穀糧を買い占めて配給する、統制経済の本拠であった。
翌40年2月、熊本歩兵第13連隊補充隊に入営。1年半後の41年8月、中国・湖北省荊門 県子陵舗にあった中支派遣第39師団歩兵第232連隊へ見習士官として転属。以後45年5月まで、荊門、当陽、宜昌という、漢水から長江にかけての、重慶に最も近い第一線で戦闘に従事してきた。43年7月に連隊の第10中隊長になっていた。戦争末期、満州防衛のため転進、7月末、衰弱しきって奉天(瀋陽)の北、開原に到着したが、そのまま戦うことなく8月30日にソ連軍によって武装解除された。、
以来5年間、建国なった中華人民共和国へ移送される1950年7月まで、富永さんもソ連に抑留され強制労働に従事させられた。彼の場合、中央アジア、カザフ共和国カラカンダ6ヶ所に転々と収容された。沈着冷静な性格のためか、移った先の各ラーゲリで将校代表にされ、それに伴う責任を問われては繰り返し追放となり、ラーゲリをたらい廻しさせられた。そして50年2月、ハバロフスクのラーゲリに移送され、7月18日、中国側に移管されたのであった。
綏芬河で中国に引き渡されて以降の経過、処遇、心理的変遷は、他の収容者とほとんど同じである。中国側に捕まった以上、必ず殺されるという不安、その不安を撥ね返そうとする傲慢。命令されて戦争に従事しただけなのに、戦犯とされる理不尽への怒り。何十万というソ連抑留者のなかから、どうして自分たちだけがこのような目にあわなければならないのか、運命の気紛れへの不満。かつてあれほど中国人を殺害し、もし逆の立場なら直ちに報復したであろうに、今はこれほどまで丁重にあつかわれる当惑。
それぞれの感情を、富永さんも往き来した。ただし彼は、感情の谷から山へ、不安から空虚な期待へ、振幅を大きくする人ではなかった。現実を検討し、変化がなければないものとして受け入れ、変化があれば、いかに対応すればよいか、その都度判断することに精神を使っていったようだ。私は富永さんや小島さんの話をうかがっていると、苛酷な状況を生き抜いた人の強靭な精神を感じる。それは強張った権威性や攻撃性とは異質な、現実を見つめ続ける能力によって支えられている。彼らは、後に捕虜の精神医学的研究が整理した知見とよく合っているように思える。
例えばC・R・フィグレーが編集した「ベトナム神経症」(辰沼利彦訳、岩崎学術出版、1984年)には、E・J・ハンターの書いた「捕虜体験―その長期的・短期的影響」が収録されている。この論文のなかに、南ベトナムで捕虜になったアメリカ兵の生死とパーソナリティーについての研究が要約されている。それによると、自分自身も南ベトナムで捕虜となったことのあるF・カシュナーは、米軍医学部門の雑誌(1974年)に次のようにまとめているという。
「生存者は積極的に行動し、清潔を保ち、ユーモアのセンスを保持し、よく働き、そしてその環境にうまく対処した。それに反し死亡した者は捕虜生活の環境を拒否し、または抵抗した。自己をさげすみ、キャンプ生活で助けあうことを拒んだ者は通常、抑うつ的になり、引きこもり、絶望的となり、そのあげく汗まみれの強制労働に駆り出された」
敵に卑屈になった者も、闘争心をもって抵抗した者も、結局は生きて帰らなかったと述べている。日々の現実検討を忘れなかった者が、生還したのである。それは、ウィーンの精神科医ヴィクトール・フランクが、ナチの強制収容所において、解放の期待を膨らませすぎた者は、幻想に裏切られると同時に生きるのを止めた、と述べているのと共通する。南ベトナムの捕虜のおかれた状態やナチの強制収容所は撫順戦犯管理所と比較できるようなものではなかったが、それでもなお富永さんたちの生き方は同じ傾向を伝えている。それは、日々を生きることに関心を失わないという特性である。

感情の過剰防衛
撫順に収容されて間もなく、朝鮮戦争が激しくなり、爆撃などの心配から収容者たちはハルピンに移送された。富永さんたち尉官以下の将兵は、ハルピンからさらに北50キロ離れた呼蘭監獄にまわされた。そこは撫順戦犯管理所とは違い、土で作られたあばら家だった。部屋は狭く、水も不足し、入浴もできずにひと冬を越した。
あけて1951年3月、人民志願軍(中国義勇軍)はアメリカ軍を押し返し、停戦協定も間近いとの説明があり、撫順への帰還が発表された。ただし、先にも述べたように、中尉以上の軍人、満州国の高級官吏、病人など2百数十人はハルピン監獄に集められた。
富永さんたちハルピン残留尉官組の多くは、朝鮮戦争の推移に考え込んだ。「中国軍は弱い」「中国人は劣等」と思い込んでいた。精鋭な日本軍が戦って敗けた、我々より強いアメリカ軍。やがて中国軍を追ってアメリカ軍が満州へ入ってくる、我々捕虜を解放してくれるだろう、そう期待した。そのアメリカ軍を人民解放軍が押し返したとは・・・。もうひとつは、管理所の工作員の態度。
ひとりひとりが、自分だったらこうするだろうと思っていた取扱いと、全く違う扱いを受けて驚いた。自分たちは中国人をまるで犬猫のように扱ってきたのに、彼らは全く報復的な態度をとらない。何故なのか。初めは警戒心をもって見ていたが、「彼らは本気なのだ。日本人の生活習慣まで考えながら、人間として扱ってくれている」と分かってきた。
この2つ、弱いはずの中国人がアメリカ軍を押し返したという再評価、そして自分たちを侮辱しない中国人の態度が、収容された者の反省をうながしていった。しかし、それは日本人という、一般者としての反省であって、個人として罪を引き受けるには、まだまだ高い精神的障壁があった。
「人間の取扱いはこうあるべきだ。俺たちのやったことは間違っていた。初めて、自分たちの過去に対する批判の目が開かれるところまでは行ったんです。そこでぶつかったのは、確かに悪かったが、それは命令によるものだった。命令がなければやらなくってすんだ、という思いです。悪いのは命令者である。軍人勅論に「上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命を承る義なり」と言っているではないか。悪いことをしたが、本当に悪いのは命令者たちであって、俺たちはむしろ被害者でしかない。そういった思いが、いつまでも続いたんです」富永さんの自問自答は、「さあ、あなただったらどうする?」と問いかけているようだ。
日本の旧兵隊の多くが、そして敗戦後の日本人の多くが、戦争期の残虐行為を知るたびに、自分たちは悪いことをしたと少しは思ったに違いない。だが一瞬でも思うと同時に、「それが戦争というものだ」と思考の上で防禦し、「それ以上、言わせないぞ」と過剰に身構えたのではないか。あとはさまざな理由をつけることができる。寝た子を起こすな、国益を損なう、賠償を請求されるとどうなる、と。このような感情的な過剰防衛を引き継いで、戦後世代も生きてきたのではないか。
その問いをたずさえて、富永さんの話を聞いていくことにしよう。ハルピン監獄に移り、戦犯たちは自分たちの侵略行為が悪であると気付き、何故あのような戦争を行ったか、学習し始めた。日本語の本が読めるようになり、初めのうちは小説を読んでいた人も政治、経済、社会思想の本に関心が向かった。富永さんは、改造社版の「マルクス・エンゲルス全集」を読み始めた。とぎれとぎれに廻ってきた高畠素之訳の「資本論」を再読した。大学生の時に読んでいたが、今度は集中力も理解力も違っていた。彼は拡大再生産や恐慌論を図式にして回覧し、皆に喜ばれた。
北京でアジア太平洋和平会議が開かれると聞き、242名が署名した「侵略反対平和擁護」の文章を日本代表団に送ったのも、この時(1952年10月)である。こうして1年、2年と過ぎて行った。だが、個人としての戦争犯罪を自覚するということとは、ほど遠かった。あけて53年1月、富永さんら大尉、中尉14,5名が集められ、ハルピン組の管理教育科長だった金源さん(後に撫順戦犯管理所・所長)より、
「君たちはすでに初歩的な学習をしてきたので、その成果にもとづいて、まず過去に中国でやったことを、細大もらさず紙に書いて見てはどうか。自ら進んで告白することは非常に立派な行為である。誤りを認めて改めることは進歩であり、暗黒から光明の道への転換である。しかし、非常に困難なことなので、よくよく考えて取り組みなさい」と訓示された。
「部屋に帰り、同室の者に伝えると、皆シーンとしてしまった。昼食になっても、誰も黙りこんでいる。黙って飯を食う。午後になってもそうです。いよいよ来るものが来た、とため息ばかり。私は金源科長から、罪を自白することが暗黒から光明の道への第一歩だと言われたことを、言葉としては理解できた。だが、実質的にはドロを吐かせるつもりだとしか考えられなかった」
富永さんたちは、ザラ紙を10枚ずつ受け取った。足らなければいくらでも渡す、という。紙を前に腕を組み、皆黙っている。富永さんは戦時を振り返った。試し切りもやった。初年兵に捕虜を刺させたり、略奪、放火は毎度となくやっている。どれひとつでも、十分に死刑に値する。考えた上で理知の人、富永さんは、「どうせ死刑になるのであれば、隠しておいても同じだから、該当する主要な罪行を書き並べよう」と決断した。
「私は極めて単純な考えから書き出したんです。私が書き出したら、皆びっくりして、隣もペンをとるんですが、また置いちゃうわけですよ」重苦しい房内の雰囲気のなかで、富永さんは次のような罪状をまとめた。
「1、1941年(昭16)9月、歩兵第232連隊に見習士官として着任した時、連隊集合教育最終日、湖北省荊門県子陵舗にあった連隊本部東方台地において、連隊長大沢虎次郎少将(少将進級と同時に仙台留守第2師団兵務部長に転出することになっていが、後任の堀静一大佐の着任を待っていた)の命令により、連隊長、各大隊長、中隊長を始め、各将校の面前で、教育係田中少尉の指導のもとに、見習士官(22名)の「腕試し」と称する捕虜の斬殺がおこなわれた時、私は4番目に実行した。
2、1944年(昭19)5月、湖北省当陽県双蓮寺において、私は中隊長として大隊本部から「教育用」として渡された捕虜(密偵)を中隊裏の松林の中で、初年兵教官斉藤少尉の指揮のもとに初年兵に刺殺させた。
3、1941年(昭16)9月、湖北省荊門県子陵北方地区の戦闘に、小隊長として参加、武器を捨てて投降して来る中国軍兵士を捕虜にするのは面倒だと、軽機関銃で射殺させた。
4、1941年(昭16)12月、湖北省、荊門、当陽北方地帯でおこなわれた冬期山岳作戦に小隊長として参加、連隊長堀大佐の命令により、通過地域の民家100戸以上を放火、焼却した。
5、1943年(昭18)12月、常徳作戦残留期間、湖北省当陽県老場北方において第1大隊(大隊長山中少佐)が白楊寺陣地を攻撃、山麓部落民百数十名を惨殺した時、私は中隊長として参加。連隊長浜田大佐の命令により第1大隊側面の警戒に当たり大隊の行動を援助した」
富永正三さんは、その日の内に書き上げた。「これだけ書けば十分だろう」と思った。死ぬのに十分だろう、ということだった。それにしても、富永さんの年月についての記憶は正確である。最初の罪行は別にして、後に続く殺害や放火はぼんやりとひと固まりになっている人が少なくない。だが彼は、正確に何年何月まで思い出している。
翌朝、彼は上記内容の文章を清書し、看守に「坦白書く」と言って渡そうとした。ところが、看守は無視して行ってしまう。30分ほどして、再び廊下に廻ってきた看守を呼び止めると、けげんな顔をしてやっと受け取った。彼は、そんなに簡単に坦白書が書けるとは毛頭思っていなかったのであろう。富永さんは「これで終わった」と息を吸い、壁に背中をもたせかけて、煙火を吸いながら本を開いた。監房のなかの呻吟は続いていた。
昼食がすんで一休みしていると、「373」と呼びだされた。どの国の収容所も、収容した者の姓名を奪い、番号に変える。中国の収容所も例外ではなかった。373は富永正三さんの番号だった。看守に連れられて、昨日の会議室に入っていくと、金源科長が厳しい顔をして待っていた。彼は富永さんが提出した文章を手にして、叱責した。
「これは坦白書ではない。坦白書とは何日も苦しみ抜き、深刻な反省の後にやっと書けるものである。君は苦しみもせず、殺すなら殺せ、といった気持で書いている。君は中国人民に対する悪質な反抗者であり、真面目に坦白学習をしている仲間の妨害者である」そう金源指導員はきめつけ、「君をただちに地下牢に隔離する」と命じた。
こうして富永さんは地下牢に連れて行かれた。いくつもの階段を下り、まったく光の届かない真暗な廊下を抜けていった。日本の監獄時代以降、使っていないようで、湿気を帯びて黴くさかった。看守はひとつの扉を開け、富永さんを入れ、鍵をかけて立ち去った。板張りの6畳ほどの部屋、四囲はコンクリートの壁、真中に薄暗い裸電球が点り、その下にちゃぶ台のような低い机が置いてあった。
ここで金源科長がとった手段は、明らかに暴力(物理的強制)である。日本軍人として暴行、虐殺に馴れてきた富永さんは、それほどの暴力とは映っていない。金源科長は、秩序ある指導を行っていると思っていたのであろうが、自発的告白を求めながら、会話と物理的強制を使い分けている。同じころ、中国で地主階級、キリスト教宣教師に加えられていた暴行に比べると、軽い懲罰である。だが、富永さんの深い反省を求めるのに懲罰は不要であった、と私は思う。彼については、対話によって、十分に反省を求めることは可能であった。
他方、潔癖で几帳面な性格の金源さんは、苛立ちと葛藤があったと思われる。監獄の外にある中国民衆の憎しみ、それにもかかわらずひたすら彼らを守っている所員の努力、それにすら気付かず、歪んだ優越民族意識をもって中国を侵略しておきながら、今なお「我々は捕虜であって戦犯ではない」と主張する日本人戦犯たちの傲慢への憤り、彼らを世話する所員たちの心のなかにある、憎しみと人道的処遇の葛藤。そして、戦犯管理所の幹部として、月日は経過するのに認罪教育が進まない苛立ち、それらが漠然となっていたのであろう。
金源さんは「覚醒」に収められた「歴史的経験のない偉大な実践―日本と偽満州国戦犯改造工作の想い出」のなかに、「毎日学習が始まる前に、私と張夢実と王永生の3人は、時間前に教室へ行き、会議室をきれいに掃除しておいた。私たちはこの教室を戦場と考えていたので、その準備を完全なものにしたかったのである」と書いている。戦場の比喩を使っているが、彼は掃除することによって、戦犯たちの完全な反省を求めたのであった。事実の列挙ではなく、苦しめた人々への感情レベルの悔悟と共感を伴う反省を期待していた。だが、自分が何を求めているか、軍人・金源さんには十分わかっていなかったのであろう。それは、地下の独房に隔離するという厳罰命令として表現された。

怨念に触れる
小机の前に座って、富永正三さんは「俺もいよいよ落ちるところへ落ちたな」と思った。だが、動揺はなかった。看守の足音が遠ざかり消えた後、静まり返っている。薄明かりに目が慣れてくると、窓のないコンクリートの壁のところどころに、引っ掻いたような跡がある。じっと見詰めていると、「打倒日本帝国主義」という字が浮び上がってきた。さらに「日本鬼子」、「堅決闘争」の文字も読める。立ち上がって見ると、爪で書いたのか、黒く血がこぶりついている。血が滲んだ漢字を見た瞬間、富永さんは背筋が凍るのを感じた。反満抗日の中国人がここにぶち込まれ、拷問され、殺される前に書き残したもの。怒りと怨みのメッセージである。富永さんは敗戦から8年後に初めて、殺された人の怨念に向きあったのだった。
富永さんはソ連抑留中に2度、隊の責任をとらされて営倉に入れられていた。その時のニク体的苦痛とは、今回の苦しさは違っていた。カザフのラーゲリ、内陸の凍て付く冬。衛兵所の裏に営倉があり、小屋の地面に水を撒き、凍らしてあった。その上に簀子が置かれていた。そこに一晩、座らされた。防寒外套は着ていたが、深深と冷えてくる。初めは「何くそ」と頑張っていたが、疲れて眠気が襲ってくる。寒けが走り、目が覚める。それが一晩中続く、凍死するかもしれないと思った。しかし、その時の肉体的苦痛とは違っていた。ここは、かつて犯罪を犯した土地。処刑されるかもしれないという不安をもって、殺された中国人の怨念と対峙する苦しみ。富永さんは内省する。金源指導員は「不真面目な態度」と批判した。不真面目とはどういうことか。彼は「罪を認めることが、暗黒から光明への第一歩」といった。暗黒と光明とはどういう意味だろうか。暗黒は死、光明は生か。それは自分で決めることだという。だが、生殺与奪の権は中国が握っている。中国側に「助けたい」という善意があるのに、それがわかっていないのか。だが、助けるに値すると思わせる行動をあえてとるのは、欺瞞ではないのか。それとも、「殺すなら殺せ」とふてくされた態度をとっているのだろうか。
事実を簡潔に、「斬殺」、「刺殺させた」と書いた。殺されていった人々にとって、そんな簡単な言葉ではすまされはしない。それではなぜ、そう書かねばならなかったのか。各罪行の前に「連隊長の命令により」、「大隊本部から教育用に渡された」と書いた。俺の意志ではなかった、上官の命令だから仕方なしに斬った、と思っている。だが、殺される側から見れば、自分の意志ではなく上官の命令によって斬るという弁明に、何の意味があるというのか。上官の命令だから、大目にみるといった、勝手な考えは成り立たない。
しかも、双蓮寺の刺殺については、「大隊本部から渡された」のなら、大隊長の命令を私が受けているはずである。そんな命令が伝えられた事実はない。おそらく斉藤少尉と副官との間で合意したことを、中隊長の私が認めた、・・・つまり私が命令したのである。富永さんは、殺されていった人々の血の滲んだ落書の前で、弁明が先だち、そのあとに事件を単に列挙していたことに気付く。どうして、こんなことさえ分からなくなってしまったのだろう。


殺人鬼への転落
富永正三さんは、戦地に来て最初の斬殺について、詳しく思い起こしている。私は富永さんから聞き取りをしているが、彼自身が「あるB・C級戦犯の戦後史」に当時の心境を加えて罪行の全容を書いているので、おおよそ引用させていただこう。
「私の手にかかって殺された被害者は24名の捕虜の1人だった。その前日、私たち(見習士官)の指導教官だった田中少尉は、連隊本部の営倉の前に私たちを案内し、土間に麦ワラを敷いた馬小屋のような部屋に閉じこめられていたこの人たちを指さし、「これが君らの腕試しの材料だ」と説明した。あまりにやせ細っているのに驚いてそのわけをきくと、明日の計画のために数日来ほとんど食事を与えていない、ということである。この人たちがどのようないきさつで捕虜になったかは聞かなかったが、おそらくその年の夏の初めにおこなわれた「江北作戦」の「戦果」であったろう。
当日、私たちが現場に着いたとき、24名の捕虜は後手にしばられ、手拭いで目かくしされたまま座らされていた。その前には横10メートル、幅2メートル、深さ3メートル以上の大穴が掘られていた。連隊長以下将校が席につくと、田中少尉は連隊長に一礼し、「ただいまから始めます」と報告、使役兵に命じて捕虜の1人を引き立てさせ、抵抗するのを蹴飛ばし、引きずるようにして穴の前に引き据えた。田中少尉は私たちの顔を見廻し、「人間の首はこのようにして斬るのだ」と言いはなつや、軍刀のさやを払い、用意してあった水桶から杓子で水を汲み、それを刀身の両側にかける。右手で軍刀を一握りして水をきり、捕虜の背後に両脚を開いて立ち、腰を落とし、軍刀を右上段に構えた。軍刀は振り下ろされた。首は1メートルも飛び、左右の頚動脈から噴水のように2本の血柱が立ち、胴体は穴の中へ転げ落ちた。私たちは初めて見るあまりにも凄惨な情景に呼吸も止まる思いだった。一同呆然と立ちすくんでいると、田中少尉が一番右端の者を指名したので、それから順番に次々と出て行き、私は4番目に出た。
私はこの計画が発表されてから、このような行為は人道にそむき、国際法に反するのではないかということから若干の抵抗を感じてはいたが、私にはもっと差し迫った切実な関係が提起されていた。それは私が赴任した中隊で、私の部下となる下士官、兵はみな歴戦の勇士であり、私だけが戦闘の経験がない、というコンプレックスであった。このように部下を指揮するに当たって「捕虜の1人も斬れない」とあっては野戦の小隊長は勤まらない。このような気持が、私をむしろ積極的に行動させた。
私は連隊長に一礼して前に進み出た。見苦しい態度をとってはならないと気を張っていたが、案外足はしっかり地に着いていた。穴の縁にはやせ衰えた1名の捕虜が手拭で目かくしをされて引き据えられている。義兄が氏原大佐から贈られた栗田口何某のさやを払い、刀身に水をかけ、捕虜のうしろに立った。捕虜はすでに観念しているのか頭を垂れて動かない。失敗は許されない、と思うとますます緊張してくる。大きな深呼吸をするとすこし気持が落ちついて来た。足場を固め、右上段に構え、気合もろとも一気に振り下ろした。ガチリと何か固い手ごたえがあったが、首は飛び、胴体は血を吹きながら穴の中へ転げ落ち、血なまぐさい臭いがあたりにただよった。刀身の血を水で流し、水をきって紙で拭き取ると、1ヶ所小さい刃こぼれがあたりにただよった。きっとあごの骨に引っかけたに違いない。刀身にはギラギラする脂が付着していて、いくら拭いてもとれなかった。
もとの席に帰って私はやっと「つとめ」を果たした、という感じを持った。私は「人間であること」より「野戦小隊長であること」を選んだのである。こうして22名の見習士官がことごとく血の洗礼を受けた。中には手元が狂って頭に斬りつけ、目かくしがはずれて狂い廻るのを、田中少尉の「突け!」という指示で、あわてて後ろから心臓を突き刺して仕止める、という場面もあった。最後に捕虜が1名残っていたが、田中少尉は将校に向かい、「どなたか希望者はありませんか」と呼びかけた。すると古参の中尉があらかじめ用意していた新刀の包みを解いて、いかにも気軽に出て来たと思ったら、慣れた手つきで、アッという間に始末してしまった。24名の遺体は血の中に浮いていた。田中少尉から「これで終わります」という報告を受け、連隊長は満足した表情で立ち去った。私は捕虜の首を斬り落とした瞬間から、これで1人前になった、という実感があった。思えばこの蛮行の瞬間から、私たちは人間であることを止め、殺人鬼に転落したのである」
富永さんらしい、出来事の細部にわたる経過記述と冷静な自己分析を行っている。このような自己分析が、地下牢に入れられた時点ですべて出来ていたわけではないであろう。その後さらに3年8ヶ月にわたる戦犯管理所えの生活によって、深められたものであろう。とはいえ、大きな転機は、「殺された者の側から見て、私はいかなる人間か」と考えられるようになったからである。
「地下牢における体験が、今まで引っ掛かっていた、命令だから止むを得なかったという考えを変えさせたのです。殺される側から言えば命令だからと言うことでは、通らない。それならば、実行者としての責任をまずとる。実行者は実行者としての責任がある。その上で、今度は命令者の責任を追及するのが、順序ではないか。こうして初めて、自分と対決することができるようになったのです」、という。
富永さんの告白には、日本軍隊というひとつのシステムが、いかに単純な青年を殺人遂行の部品に変えていったか、重要な視点が出されている。「戦争は人間を残酷にする」とよく言われる。だが、そのような一般化は思考の怠惰である。それぞれの戦争があり、それぞれの軍隊があり、そのシステムのなかで人間は残酷になっていく。
富永さんは、帝国大学卒、徴兵され、他の高学歴者と同じく、当然のように志願して見習士官となった。そして野戦小隊長(少尉)になる。「私の部下となる下士官、兵はみな歴戦の勇士、私だけが経験がない。このような部下を指揮するに当たって、捕虜の1人も斬れない、とあっては小隊長は勤まらない。私は人間であるより、野戦小隊長であることを選んだ」のである。ここでは所属集団への適応、適応しながらのエリートとしての地位の維持―つまり日本型上昇意識―が、彼を残酷を感じない殺人ロボットに変えている。
人間はいかにして残酷になり、それに抵抗するにはどうすればいいのか。アメリカの心理学者、スタンレー・ミルグラム(スタンレー・ミルグラム(Stanley Milgram、1933年8月15日 - 1984年12月20日)は、アメリカ合衆国の心理学者。イェール大学とニューヨーク市立大学大学院センターで教鞭をとった。Stanley Milgram (August 15, 1933 – December 20, 1984) was an American social psychologist, best known for his controversial experiment on obedience conducted in the 1960s during his professorship at Yale)が行った「アイヒマン実験」を参照しながら、さらに分析していくことにしよう。


第8章 服従への逃避
新人教育としての首斬り
私たちは戦争時の残虐行為を聞いたとき、「戦争とはそんなものだ、人間を獣にする」と一般化しがちである。「英米も、ソ連も、中国側だってやっている」という反論を付け加えて、自国の犯罪を中和する人もいる。個々の事例を検討した上での帰納ではなく、前もっての一般化は、事実を忘却しようという意図を隠している。
富永正三さんが、かつての軍隊日誌のように戦犯行為の結果のみを記述し、その経過の分析に入らず、「上官の命令だったから、しかたがなかった」と自己弁明していたのも、前もっての一般化であった。内容の分析に入っていくと初めて、命令に進んで応えていった自分が見えてくる。捕虜を腕試しの材料にすることは、「人道にそむき、国際法に反するのではないか」と僅かに抵抗を感じる富永正三もいた。だが彼は、これからなっていく野獣小隊長として、日本軍の入社式を通過する方を明らかに選んでいる。教育のある日本人の多くは、役職と自分を別のものとは考えない。辞令が下りる前から、次の役職に一体化しようと身構えている。そんな男たちが殺人の入社式を通過するのに、内的障碍はなかった。
自分の部下となる下士官、兵はみな人を殺して1人前だ。上官は「斬れ」と言っている。権威による命令、部下に引け目を見せたくないという思い。2つの押し出す力を受けて、彼は帝国陸軍に素直に適応していく道を選んだのだった。
集団への適応は、結果としては出世につながる。だが、富永さんは出世のため捕虜を斬ったのではない。あくまで序列社会に生きる者として、ひとつの地位こなすために、殺したのであった。そのため、彼は斬られる中国人にまったく関心はなかった。「栗田口何某のさやを払い、刀身に水をかけ、足場を固め、右上段に構え・・・」と、あくまで帰属集団の一員として見苦しくないように、よき適応者としての形にこだわっている。殺される相手も、殺される者として見苦しくなければ、それでよかった。
日本軍は処刑にあたって、よく手拭で目かくしをしている。この場合もそうである。目を覆うことによって相手を消沈させ、処刑を容易にしようとしている。と同時に、あくまで優越者と敗残者の相い補う形にこだわっている。ためらうことなく殺す者、うなだれて死ぬ者。これは多くの侵略者が求めた、病的な美意識である。そして、相手の顔を見ないことによって、殺害者は自分の想像力を抑止し、将来、殺した相手を情動的に想起しないように、自分自身を心理的に防衛している。
富永さんも、目かくしをした人を殺したため、相手の顔を想い起こすことはなかった。だが地下牢に入れられ、日本軍に殺されていった中国人捕虜の血を吐くように落書きを直視したとき、富永さんの集団適応者としての整った形は崩れていった。相手は敗残者一般ではなく、苦しむ人、家族をもち社会関係のなかに生き、死にきれない人に変わった。彼は抑止していた想像力を呼び戻した。
殺した相手を追想によって、ひとりの人間に変える作業は、富永さん自身を集団の一員からひとりの人間によみがえらせる道でもあった。「させられた戦争」「命じられた行為」と思っている限り、能動的な個人はいない。「命令者と実行者の責任は別であり、実行者には実行者としての責任がある。実行者としての責任をとることによって、命令者の責任を問わなければならない」そう考え抜くことによって、富永さんは初めて「個人」であろうとしていた。させられた人間ではなく、意志して行為した人間と自覚することによって、個人になろうとしたのであった。軍隊という外的世界に適応し、昇進のシナリオに乗って生きていたというのが、富永さんの分析である。ただし、日本的昇進のシナリオを拒否した人もいた。富永さんは、忘れていたエピソードを思い出す。
「私たち22名が斬ったとき、誰1人、反抗する者はいなかったんですね。ところが後に初年兵に試し斬りをさせたとき、私の中隊じゃないんですけど、僧侶がいまして、拒否したんです。「仏教徒として出来ません」と拒否したんです。それは立派だと思いました。捕虜の首を斬るのは教育なんです。したがわなければ、一般の兵隊の場合には進級に関係する。誰を上等兵にするか決めるとき、当然そういうのは後回しになる。兵隊に行ったら、少なくとも上等兵にならなければならない、というのが一般的な考えだったんです。そのため、どんなことがあっても上官に認められたい、目立ちたいという駆り立て
る雰囲気がありました。そんななかで拒否することは、普通の者にはできない。処罰はされなかったけれど、進級は遅れたでしょうね」
この小事件も、日本的集団主義の磁場のなかで展開されている。教育は一応、連隊長の命令で行われているが、中隊長である富永さんも斬首を推奨する権威の厚い層を構成している。そして、駆り立てる文化。そこに、別の価値観に立つ者が消極的拒否をする。彼は「捕虜を殺すことは許されぬ」と主張したのではなく、「私は出来ない」と言ったのです。この抵抗に対し、日本的集団主義では命令者が処罰することをしない。それでは命令者、処罰する者が個人として浮びあがるからだ。もちろん、「捕虜を殺してはならない」と積極的に抗議した場合、処罰されていたであろう。そうでない限り集団は「あいつは駄目だ」と判断し、進級させないことによって、見えない処罰を行う。見えない処罰においては、処罰する者は隠されている。処罰するのは集団である。
生きていれば多くの兵隊がなるはずの上等兵になれない、もしかすると、それ以上の生死にかかわる不利益があるかもしれない。それを覚悟で、彼は仏教の五戒の第1に挙げられている不殺生を守ろうとした。それでは、暴力を強いる命令の前で、人が倫理的に抵抗できるのは、宗教という別の価値体制に依拠する場合だけであろうか。権威の下で強いられたとき、人はどこまで残酷になり得るのか。あるいは、すでに実行した行為に対して罪悪感を持ち得る人は、どのような人か。

権威の許可の下での残虐行為
スタンレー・ミルグラム(北米、エール大学心理学科)は、1960年から63年にかけて、刺激的な心理実験を行った。権威と服従についての実験的研究は19世紀末より行われてきたが、ミルグラムの実験は、アウシュヴィッツを経た後の現代人の人間性について、深く考えさせるものである(「服従の心理」岸田秀訳、河出書房新社)。
実験デザインはきわめて簡素である。1時間4ドルの報酬で、大学の心理学研究への協力を公募した。やってきた被験者は実験者の説明を受け、すでに待っていたもう1人の被験者(実は実験の共謀者であり、被害者役を演じることになっている47歳の男性)と、どちらが「教師」となりどちらが「生徒」となるか、くじ引きをする。くじ引きは八百長であり、被験者は必ず教師、共謀者は必ず生徒になるように仕組まれている。つまり、自ら選んで生徒を罰する役を選んだのではなく、偶然にー運命によってと言いかえてもいいかもしれないー教師役になったと思うように計画されている。
実験は、「青い 箱/ よい 日/野生 鴨」などが読みあげられ、次に「青い」の後にはどの単語がくるか、記憶のテストで始まる。生徒(共謀者)が間違えると、教師(被験者)は15ボルトから450ボルトまで順々に上がっていく電気ショックのスイッチを押さなければならない。各スイッチには「かすかなショック」、「中程度のショック」、「強いショック」、「非常に強いショック」、「激しいショック」、「きわめて激しいショック」、「危険―すごいショック」、それ以上は、単に、×××と表示してある。
生徒(実は共謀者)は隣りの部屋につれていかれ、電気椅子に縛りつけられる。そして「火ぶくれとやけどを防ぐため」電極軟膏がぬられ、「ショックは非常に痛いかもしれませんが、皮膚に損傷が残ることはありません」と説明される。隣りで聞いている被験者は、電気ショックをかけることの残酷性を十分に知らされるわけだ。
実験は条件を変えて行われた。例えば、生徒の声が聞こえる実験条件での生徒の反応、75ボルトまでは文句を言わず、それから不満を伝え、150ボルトでは被害者は絶叫する。「先生、ここから出して!もうこれ以上は実験はやりたくない!もういやだ!」と叫び、270ボルトでは苦悶の金切声となる。300ボルト以上では、記憶テストに答えることを拒否する。だが、無答は誤答とみなされ、被験者は「あなたが続けることが絶対に不可欠です」と実験者によって勧告される。
電気ショックがいかに不快、残酷なものか体で知ってもらうために、各被験者が教師役を務める前に、45ボルトの弱電流を試しに与えられている。しかも実験中、ショック送電器の水準をひとつずつ上げていく度に、電圧水準を読みあげるように命じられる。それは被験者に、自分が何をしているか忘れさせないためである。被験者は30番目のショック水準、450ボルトに達すると、この最高電圧水準を使って実験を続けるように求められ、2回施行すると、実験停止が告げられる。あなただったら、この恐ろしい電気ショックをかけるであろうか。
ミルグラム教授は、精神科医、心理学の大学院生と教授、そして中産階級のおとなたち3グループ、計100人に、実験結果を予測してもらった。各グループはほぼ等しく、「被験者全員が実験者に服従することを拒否するであろう。ただ、1%か2%を越えない病的な変質者だけが最高水準のショックまで進むであろう」と考えた。彼らは、人間は暴力で強制されない限り、行動の主人であり、罪なき人を苦しめたりしないと信じていた。
だが、実験結果は彼らの信念と予測を完全に裏切った。壁を通して先の抗議の声が響いてくる実験条件下(I)で、実に62・5%の人が450ボルトの最大値まで電気ショックを送り続けた。被害者を遠く隔て、ようやく300ボルトで壁をどんどん叩く条件(II)に変えると、さらに増え65%の人々が最大値まで送った。この場合、全員が300ボルトまで送電しており、「はげしいショック」から「きわめてはげしいショック」と書かれた送電盤の移行点、300ボルトで中止した者は、僅か12・5%であった。家庭の弱電圧ですら、いかに恐ろしいか、よく知る人々がすべて300ボルトまで懲罰を加えたのである。
眼前1メートル内に被害者を縛って実験を行った場合(III)は、40%の人々が最高値まで電気ショックをかけている。被験者が被害者に接触し、嫌がる手を押さつけて電気ショックを送る条件(IV)では、30%の人々が最高値までやりとげた。被害者との近接は、明らかに服従を低下させている。それでも、ほとんどの人々が150ボルトまでの「強いショック」を送っている。僅かに実験を中断した人は、どんな人か。ミルグラムは「権威と対決する個人」の章で、2人を紹介している。神学校で旧約聖書を教える教授は、被害者と近接する条件(III)下、150ボルトで中止した。
実験者―「わたしたちがつづけることが実験のために絶対必要です」被験者―「それはわかりますが、なぜ実験がこの人の生命より優先するのかがわかりません」実験者―「皮膚組織に損傷がずっと残ることはありません」被験者―「それはあなたの意見です。彼がやめたいのなら、わたしは彼に従います」
彼は不服従を主張したのではなく、被害者の命令に従うという形で、服従すべき相手を変えたのである、とミルグラムは分析する。「この人にとっての問題の解決は、権威の拒絶ではなく、悪い権威を排除して良い権威(神の権威)に従うことであった」という。
もう1人、32歳の技術者は、個人の責任において実験を拒否した。
実験者―「あなたがつづけることが絶対必要です」レンセーリア氏―「でも、やめたいとわめいている人が相手では、やれません」実験者―「迷うことはありません」レンセーリア氏―「自分のことは自分で決めます。(むっとして、疑わしそうに)どうして自分で決めてはいけないのですか?わたしは自由意志でここにやってきました。研究計画のお手伝いができると思ったのです。でも、そのために人を傷つけなければならないのなら、あるいは、わたしが彼の立場にいたとしても、わたしは出てゆきます。つづけることはできません。すみませんが・・・。すでにもうやり過ぎたのではないかと思います」
彼は神学校の教授のように権威的信仰者ではなく、個人主義の傾向の強いオランダ改革派教会の会員であり、態度は温厚で知的であったと付記されている。
富永さんが思い出した僧侶は、神学校教授の構えに近い。彼は仏教の五戒に基づいて、捕虜の斬首を拒んだのであった。彼には世俗的命令よりも高い、宗教的命令があった。これら少数の例外を除いて、ほとんどの被実験者は実験者に対して従順で、生徒(被害者)に無関心であった。実験が終わって、被害者を苦しめた責任について問われると、異口同音に「実験者に責任がある」と答えたのである。なぜ、こうなるのか。
ミルグラムは、何らかの目的遂行をめざす社会的組織において、人は容易に「代理状態」になり、自分自身を他人の要望を遂行する道具と見なすようになる、と考察している。彼は、ベトナム戦争におけるソンミ事件(米軍が109人の村民を殺害)にふれながら、服従について以下のようにまとめている。
(1) 道徳的というより、行政的観点に支配されて任務を遂行する一群の人たちがいる。
(2) 実際、関係者たちは任務としての殺人と、個人的感情の表現としての殺人とを区別している。彼らは、自分のすべての行動が高い権威からの命令にどれほど忠実に従っているのかということに道徳感をもっている。
(3) 忠節、義務、規律といった個人的価値は、ヒエラルキーの技術的必要からきている。個人はそれらを高度に人格的な道徳的規範のように感じているが、体制の水準では、それらは、大きな組織を維持するための技術的前提条件に過ぎない。
(4) 言葉がしばしばいいかえられる。言語水準において、行為が、各人の育ちの一部をなしている言語的道徳概念と直接的に葛藤しないようにするためである。遠回しな表現が好んで使われる。これは、酔狂でやっているのではなく、個人を、その行為のあますところのない道徳的意味合いに直面させないための手段である。
(5) 部下の心のなかでは、責任はつねに上の者が取ってくれる。「権威による許可」への要求が非常に多い。実際、上の者にくり返し許可を求めるのは、ある水準で部下が、道徳的規則に違反せずにすまないことを感じ取っていることを示す早期の徴候にほかならない。
(6) 行為はつねに、一連の建設的目的によって正当化され、何らかの高邁なイデオロギーの目標に照らして、崇高なものと見なされるようになる。実験においては、いやがる被害者にショックを送る行為を正当化するために科学が使われた。ドイツでは、ユダヤ人の絶滅は、「ユダヤの害虫」を除く「衛生的」処置であるとされていた。
(7) 事態の破壊的展開に反対したり、それを話題にしたりするのは、つねに、一種の不作法とされる。たとえば、ナチ・ドイツでは、「最終解決」にもっとも身近にかかわっていた人たちのあいだでも、殺人のことを話題にするのは失礼なこととされていた。実験中の被験者たちが、実験者に反対するとき、たいてい、ばつがわるそうにしていた。
(8) 従者と権威との関係がそのままうまくいったときには、不道徳な命令を遂行することからくる緊張を和らげるため、いろいろな心理学的順応が行なわれる。
(9) 服従は、反対意思や哲学の劇的な対決といった形を取るのではなく、社会関係、栄達の希望、技術的なきまりきった仕事が主調をなしている広い雰囲気のなかにはめ込まれている。一般に見られるのは、良心と苦闘している英雄的な人物や、権力をもつ地位を悪用している病的に攻撃的な人間ではなく任務を与えられ、仕事ができる男だという印象をもたれようと努力している官吏である。
すぐれた指摘である。このようにミルグラムの実験は、人間理解の洞察に富む。

システム化にどう抗うか
ところで、人類は霊長以上に残酷な動物であるかという根拠はない。だが、人類の文明は権威のもとに団結して目的遂行することを推奨してきた。個人よりも、小さな集合よりも、大きな集団が凝集して同一の目的達成に向かえば、確かに効率はいい。そのため今日の社会は権威を分散しながらも、個々の権威の下においては容易に服従しやすい心理を育てている。しかも、分散して見える権威は強固に構造化されている。
従順であることは善と見なされる。判断力は目的達成のあめにのみ求められ、目的そのものについての懐疑や批判は忌避される。そして、何かが一丸となって遂行される。殺害や反社会的行為さえも業務になりうる。しかも個々の小さな権威に従順であるつもりでいても、権威はシステム化されており、私たちの努力は大きな社会のうねりとなっていく。
それでは、どうすればいいのか。選択肢はいくつかあると、私は考える。
ひとつは、文明が不断に推奨する権威への服従の心理を、さしあたって作り変え難いものと認め、その上で大きな権威である国家の動向を批判していくという構えである。政治や経済政策への批判だけでなく、権力が分立し相互に監視する関係がシステム化されているか否か、さらに批判が必要である。つまり、私たちが市民としての政治性を十分に持ち続けねばならない。そのためにも、批判の自由(言論の自由)と知る権利は基本的条件である。
防衛に限っていえば、軍隊の意思決定のシステムについて、調査し改善を怠ってはならない。これまでは、日本の自衛隊は憲法違反か否かが論争され、その延長でPKO派遣が問題にされるにすぎなかった。他は、予備編成時、軍備の内容が問われるだけである。それはハードウェアの検討であって、ソフトウェアの検討はまったく行なわれていない。自衛体内の上下の人間関係、リーダーシップのあり方、過剰な規則や慣例によって硬直した権威主義が保持されていないか、私たちは現状を知らねばならない。例えば、防 大学という単一機関による将校養成は自衛隊人事にどのような問題をもたらし、非合理的権威主義を温存し、相互の批判を奪っていないか、検討しなければならない。
軍隊内の意思決定の文化は、装備以上に軍事を動かす。にもかかわらず、敗戦直後、わずかな研究書(例えば、飯塚浩二「日本の軍隊」東大出版社、1950年、岩波書店の「同時代ライブラリー」に収録されている)が出ただけで、その後の自衛隊の文化の形成過程や現状については、研究されていない。いかなる組織も、家族のようなまったく私的な単位でないかぎり、その意思決定の文化が外から検討され続けることによってのみ、逸脱をまぬがれる。だが、自衛隊については文化の検討は行なわれていない。さて、第2の選択肢は、軍隊にかかわること一切の拒否である。
ミルグラムの研究は、兵役のある国で、良心にもとづく兵役拒否、他の社会福祉活動への代替を支えた。ミルグラムは、「アメリカの民主社会で形成されたたぐいの性格は、その市民として、邪悪な権威の指令による残忍な非人道的行動と縁を切らせるよすがとはなり得ない」と結論している。
彼は、権威主義の傾向が強い人に服従した被験者が多く、カトリック教徒はユダヤ教徒やプロテスタント教徒より服従的であり、教育の高い者は低い者より反抗的であり、法律、医学、教育などの精神的職業の者は、工学、物理学など、より技術的職業の者より大きな反抗を示した、と述べている。また、兵役期間が長いほど、高い服従が見られたが、元将校は兵役の長短に関係なく、下士官として兵役をつとめた者より、服従の水準は低かった、と言っている。しかし、これらの差はほとんど意味を持たず、結局のところ、「個人がどうふるまうかを決定するのは、彼がどんな種類の人間かということよりむしろ、彼がどんな種類の状況におかれているかということなのである」と彼は結論づけている。
彼のように状況決定論に立つ限り、兵役に直面した男たちは、権威の良き意思を信じるか、あらかじめ兵役を拒否するか、いずれかしかないことになる。だが、このような思考は社会を改善する思想たりえない。良心より兵役拒否は尊重されるべきだが、危機における国家は兵役拒否者が多数になることを許しはしない。詰まるところ、権威の良き意思を妄信する動きに無防備になってしまう。第3の選択肢は、非人道的な命令に対して、拒否する人間になることである。それには、2つの分枝がある。
ひとつの分枝は、国家に集約されていく世俗的権威に対して、それを超えた権威を持つことである。神との対話に生きる人間は強い。富永正三さんがエピソードとして語った戦場の僧侶も、社会心理学者ミルグラムがあげた神学校の教授も、仏や神の絶対的権威において非人道的行為を拒否した。第2章で述べた小川武満さんも、プロテスタント信仰者として理性を維持した。私が調査してきたソ連の強制収容所でも魂の主人たちが強靭であったことは知られている。今日のヨーロッパ、貧しい中東やインドなどにおいても、その社会矛盾にもかかわらず、伝統宗教が人間の道徳をよく支えていることを感じる。かといって信仰者がすべて理不尽な命令に対する抵抗者であり得るのではない。
それには信仰者の内面において、「神に祈る自己」と「状況に生きる自分」との厳しい緊張が求められる。その上、世俗的組織である教団や教会は常に、国家権力との妥協の論理を組み立ててくる。それは、キリスト者・小川武満さんが戦後半世紀にわたって批判し続けてきた問題であった。仏教界においても、極く稀ながら浄土真宗のように罪責を担う教団の使命が問われてきた。
1、 カトリック教会(カトリックきょうかい、ラテン語: Ecclesia Catholica)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる[1]。
2、 プロテスタント(英語: Protestantism, Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではカトリック教会(旧教[1])に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。
3、 仏教(ぶっきょう、旧字体: 佛敎、サンスクリット: बौद्धधर्मः、英語: Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである[1]。世界的にもキリスト教・イスラム教に次いで幅広い国々へ広がっており、世界宗教の一つとみなされている。特に東アジアで広まっており、日本でも多くの信徒がおり、出版物も多い[注釈 1]。
4、 浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨である[1]。鎌倉仏教のひとつ。鎌倉時代初期の僧である親鸞が、その師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え[2]を継承し展開させる。親鸞の没後にその門弟たちが、教団として発展させた。古くは「一向宗(いっこうしゅう)」・「門徒宗」などと俗称され[3]、宗名問題を経たのち戦後は真宗10派のうち本願寺派が「浄土真宗」、他9派が「真宗」を公称とするが[3]、本項では代表的事典類[3][4][5]の表記に従って「浄土真宗」の名称で解説する。

他のひとつの分枝は、自分のおかれた状況を批判的に見つめられる個人の形成である。命じられたことでも、それは自分の責任において行っているか、問いを忘れない自我を求め続けていくことである。このような個人は、同時に、犯した非人道的行為について罪を自覚する人でもある。現代の信仰者も、神に祈る自己の責任を自覚しようとしてきたと思われる。前の分枝は後の分枝とどこかで接触しているようだ。
ミルグラムの実験結果は、このような個人の抵抗力は少ないと伝えているかもしれない。しかし、私たちの希望はそこにしかない。私は社会的に第1の選択肢を選び、個人としては第3の選択肢において努力するしかないのではないか、と考える。



道徳上の罪と形而上の罪
こうして考えてくると権威に対する構えについての私の考察は、ドイツの哲学者カール・ヤスパース

カール・ヤスパース(独: Karl Theodor Jaspers、1883年2月23日 - 1969年2月26日)は、ドイツの哲学者、精神科医であり、実存主義哲学の代表的論者の一人である。現代思想(特に大陸哲学)、現代神学、精神医学に強い影響を与えた。『精神病理学総論』(1913年)、『哲学』(1932年)などの著書が有名。ヤスパースは、その生涯の時期ともあい合わさって、3つの顔を持っている。精神病理学者として、哲学者(神学者)として、政治評論家としての活動である)の「罪責論」と対照しあっているように思える。ヤスパースは過去について問うたのだが、私は、15年戦争の罪を自ら問うことのできなかった社会で成長してきた者として、現在と将来をいかに生きるかを問うている。2つの問いは、同じかもしれない。
ヤスパースはユダヤ人の妻とかろうじて生き抜いて、ハイデルベルグで敗戦を迎えた。その年の8月、罪を自覚しない大学人、そしてドイツ人に向かって、次のように講演した。
彼は「ドイツ国内で政府に反抗してみずから死を選び、ないしは少なくともそのために殺された者は幾千人、その大部分が名も知れぬ死を遂げたのだった。われわれ生き残った者は死を選ばなかったのである。われわれの友人のたるユダヤ人が拉致されたとき、われわれは街頭にとびだして、わめき立て、われもまたかれらとともに粉砕されてしまうというような危険を冒しはしなかった。われわれが死んでみたところでどうにもなりはしなかったろうという正しくはあるが弱々しい理屈をつけて、生きながらえる道を選んだのであった。われわれが今生きているということが、われわれの罪なのである」と語りかけている。
このような罪の自覚に立って、彼は翌1946年、「罪責論」を著した(橋本文夫訳、「ヤスパース全集10」理想社、1965年)。彼は4つの罪の概念、刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上の罪では、犯罪が犯されたとき何もしなかったことにおいて、神の前で罪が問われている、とヤスパースはいう。
そして、「道徳上の罪と形而上的な罪とは、個人のみがこれをおのれの属する共同体においておのれの罪として把握するのであり、これらの罪は終わるということがない」と結んでいる。この著作は、終わることのない罪の自覚の上に創られるはずの戦後世界の、深い挫折を今も伝え続けている。ヤスパースは「罪責論」を著した後、ドイツ社会に絶望し、スイスのバーゼルに移って行った。

第二次大戦後を生きるとは、このように問いかけることでなかったのか。もし、戦争を生き抜いた世代が、ヤスパースのように問いかけていたなら、戦後の社会も私たちの自我形成も変わっていたであろう。だが、そんなことを言っても無意味である。私たちは、罪の問いを現在において答えねばならない。そのためにも、数少ない戦争における罪の自覚者の言葉を聴き続けよう。

Nach dem Kriegsverbrechen fragen (Heibonsha Library) (Japanisch) Buch - 1. August 1998 Karl Jaspers (Autor), Karl Jaspers (Originalautor ),Asking for the crime of war (Heibonsha Library) (Japanese) Book – 1 Aug 1998 Karl Jaspers (Author), Karl Jaspers (Original Author)
回心者への偏見
地下牢の富永正三さんに話をもどそう。彼は、殺されていった中国人の血の遺書に向きあって沈思した。若いとき、自分は他の連中よりヒューマニズムを弁えているという自尊心があった。だが結局、同じことを行ってしまった。もし法学部に学び、戦時国際法の知識を十分に持っていれば、いささか違った行動をとっていたかもしれない。だが、自分は一様に、戦場では何をやってもかまわない、と思っていた・・・。確かに悪いことをした。だが、軍隊では上官の命令は天皇の命令であり、抗命者は死刑である。上官の命令させなかったら、罪を犯さずにすんだ。自分たちは被害者ではないか。こうして中国側の捕虜になって罪を問われるのは、ただ<運のめぐり合せ>でしかない・・・。
今までこのように考え、<自分の意志ではなく、上官の命令で仕方なく首を斬った>と弁明していたが、殺される者の側から見て、<お前は上官の命令で仕方なく斬るのだから、許してやる>とはならないはずだ。実行者には実行者としての責任がある。命令者には命令者としての責任がある。それなら、まず実行者としての責任をとり、その上で出来れば命令者の責任を追及するのが順序であろう・・・。
こうした思索を日記につけ、新たに20枚にもなる坦白書を提出した。金源科長は2度目の坦白書を受けとり、富永さんを地下牢に出した。1ヶ月以上、闇のなかにいたことになる。
明るい部屋にもどってすぐ、富永さんは激しい腹痛と弛張熱(午後になると微熱が続く)に苦しめられ、52年3月、ハルピン医科大学附属病院(元関東軍陸軍病院)に入院となった。結核性の腰椎カリエスと診断され、上半身ギブスでかためられ、安静を命じられた。病院では、最高の治療と丁重な看護を受けた。貴重な輸入品であるストレプトマイシンを毎日注射され、麻薬が使われた。激痛のため一睡もできない富永さんは、2日に1回、麻薬の注射で痛みを止めて眠った。こうして2週間で、熱も痛みも止まった。食欲はなかったが、十分な食事が運ばれ、さらに毎食リンゴがついた。当時の日本では、これだけの治療は受けられなかっただろう。
1年半後の1953年の秋、ハルピンに残っていた210名と共に、病院から撫順に移送された富永さんは、郊外の療養所に入れられた。かつての満鉄の保養所であったと思われる療養所はすばらしい施設で、毎日、ご馳走が出た。ここで初めて、日光浴を指示された。最初は日陰で、だんだんと直射日光に慣れるように配慮された。人里離れた閑静な保養所で外気に当たり、食欲も少しずつ出てきた。ギブスをはめての外気浴のなかで、ぼんやりと想ったことを、富永正三さんは「あるB・C級戦犯の戦後史」に書き加えている。
「澄んだ空には、秋特有の、ほうきで掃いたような淡い雲が流れ、自分自身がその中へ溶けこんでしまいそうになる。ふと子どものころが思い出される・・・。隣りの村の小学校の運動会に200米徒競争の選手として招待され、賞品にもらった1帖を小脇に、仲間といっしょに、アメ玉をしゃぶりながら稲のたわわに稔ったたんぼ道を帰る。ひときわ高い柿の木のてっぺんで百舌がキリ・キリーッとあたりの空気を引き裂くようにないていた。さんさんと降りそそぐ秋の陽に汗ばんだ顔で「ただいま!」と元気よく玄関をはいると「お帰り!」と祖母がにっこり迎えてくれる。「これ今日の賞品!」と言って差し出すと、祖母は顔中しわだらけにしてことのほか喜び、仏壇に持って行って供え、引きかえに供物の菓子をおやつにくれる。病気がちの母は火鉢の横に座っていて、やはり機嫌よくお茶を入れてくれる・・・。それから同級生からたった2人が中学に進み、長い学校生活。やっと終わって社会に出、結婚したら間もなく軍隊へ、そして中国の戦場へ・・・。はっとわれに帰り、「これでよいのだろうか?」とそっとあたりを見廻す。歩ける人は思い思いに歩き廻り、あるいは日なたぼっこをしながら話しこんでいる。中国ではどうして私たちをこのように待遇してくれるのだろうか?もともとどのような取扱いをされても文句の言えない私たちなのに・・・」
田舎育ちの少年が、時代の波に翻弄されてここまで来てしまった。少年と同じように、幸せに生きられるはずだった中国の人々。少年は戦争犯罪者になり、中国の何千万という人々は殺されていった。そして今、時は何事もなかったかのように、両者を老いさせている。ほとんど夢見ることのない富永さんは、少しばかり夢想の入口に近付いていたのであろう。別の人生を送って中年に達した自分、侵略戦争に苦しめられなかった中国の人々のイメージ。彼はそんな夢想の一歩手前で、大陸の秋の空を眺めていたのであろう。

1年半、療養所で闘病した後、55年夏、撫順戦犯管理所にもどってきた。3年半ぶりにギブスがはずされ、担架で運ばれる生活から、あつえられた革製のコルセットをつけての歩行練習に入った。富永さんは55年の冬、一般の大部屋にもどってきたとき、皆の表情がすっかり違っているのに驚いた。かつての曇った緊張した顔ではなく、本当に解放された明るい顔になっていた。彼らは54年から55年にかけて、認罪学習を徹底的に行っていた。富永さんは、学習に遅れたと焦りを感じたほどだったという。
その後の中国での経過は、他の戦犯者と同じである。1人ひとりが中国に行った戦争犯罪について小グループで討論を繰り返し、新生中国の参観旅行に加わり、56年8月21日、最後の第3組として最高人民検察院の起訴免除の決定を聞き、釈放されて帰ってきた。
富永さんたち数人の委員は、天津まで見送りに来た呉浩然指導員から送別の招待を受けた。6年間の思い出を共に語りあった後、宴の最後に、呉さんは「君たちの帰国後の生活は決して楽ではないと思うが、どんなことがあっても、再び銃をかついで中国にやってくることのないように、君たちの健康を祈る」と語った。
富永さんは、この惜別の言葉が今も耳に残っている。「再び中国を侵略する、そんな愚かなことを考える者はいない」とほとんどの日本人は思うだろう。だが、それは侵した側の発想であって、傷ついた者の心とはほど遠い。傷ついた者の悲惨な体験は、こだわりたくないと思っていても当然回想されるのであり、回想された瞬間、その人たちにとって過去の体験は眼前のものとなる。呉浩然さんの言葉を、「そんな愚行は2度とありえない」ではなく、侵された側の心情になって聴くことのできる人に、その時富永正三さんはなっていた。
帰国後の生活再建は困難を極めた。1歳すぎて別れた娘は、高校2年生になっていた。娘が「お父さん」と呼んでくれるまで、半年かかった。彼も家庭の感覚を取りもどすのに月日を要した。
就職はいつまでも出来なかった。大きな腰椎用のコルセットをはめての職探しは、苦痛だった。東京都の失業対策事業の事務の日雇い(ニコヨン)があり、それで日々を繁いだりした。東大ゼミの担当だった東畑精一教授に指示され、履歴書を出したこともあった。ところが履歴書に添えた手紙に、「戦争はこりごり、これから私は反戦平和に生きたい」と書いたために、「富永君は頭がおかしくなっているから、しばらく冷やさんといかん」と周囲に伝えられ、アジア経済研究所など東畑人脈での就職は閉め出された。人々は、「中国帰りは洗脳された人」という政治的偏見にとらわれていた。就職できないかわりに、公安調査官が時々やってきた。
一方、60年安保闘争のときは、中国帰還者連絡会の仲間と日中友好協会の旗の下にデモに参加した。デモのスローガンのうち、「安保反対」よりも「岸を倒せ」に富永さんの心は昂っていた。無謀な戦争を遂行したA級戦犯が、そのまま首相になっている。岸信介への怒りは、侵略戦争の事実を認めない日本人に向けられたものでもあった。またそれは、「実行者は実行者としての責任をとる。その上で命令者の責任を追及する」と、あの地下牢で考え抜いた論理にもとづくものであった。
富永正三さんは今年83歳。腰椎カリエスの後遺症で、歩くとひきつるように痛む脚と腰に耐えながら、中国帰還者連絡会の会長として発言している。87年8月15日の敗戦記念日にも、平和遺族会の集会に参加し、静かに語りかける富永さんの姿があった。
彼の脳裏に時々、武器を捨てて投降してきた中国兵を射殺させた光景が浮かんでくる。最初に首を斬った人は、目隠しをされて後向きだった。なぜかその人よりも、「かまわん、撃て」と命じて殺した年配の中国人の姿が脳裏に侵入してくる。誰の命令でもない、自分が下した命令で男は殺された。倒れる男の幻は、富永正三さんが荷い続ける罪の意識を呼びおこすものである。富永さんは自分が日本軍人に順応していく過程を、「私は学生時代からどちらかと言うと硬派で、いわばすんなり戦争に入りこんでしまったようだ」と答えた。すんなり戦争にはまりこんだ青年は、すでに多くの中国人を殺している部下へのコンプレックスから、中国人の首を斬る新人教育によって、人間から日本鬼子に変身した、と説明していた。
私は彼の話を聞きながら、「すんなり戦争にはいっていった」心理の奥には、少年の目に5人の家族を喪った体験も関係していると思えた。たった1人になった少年に、当時の日本の文化はどんなメッセージを送ったのだろうか。大切な人を喪っても、人と人との繋りは信じるにたると伝えたのだろうか。もちろんそうではない。人生は坦々と順応していくしかない。理想を言ってもどうなるものではない、とかんじさせたのであろう。
そう伝えると、富永さんは「自分の喪失感は特別なものでない」と否定されたが、私は富永正三さんの少年の日の無力感、その無力感をいたわろうとしない権威的で暴力的な文化が、すんなりと戦争に入っていく青年を育てたように今も思う。私が罪の意識を問うのは、他者の悲しみにやさしい文化を創らなければ、平和はないと考えるからである。



Françaisフランス語→Shozo Tominaga (富永 正三, Tominaga Shōzō, 1914 or 1915 – January 13, 2002)[1] was a Japanese war criminal turned peace activist.

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