日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

戦争と罪責・野田正彰/전쟁과 죄책/战争与责任/Guerre et blâme・Masaaki Noda/전쟁범죄(戰爭犯罪, 영어: war crime)追加(2023/09/10)③


①ゴルゴタの丘Golgotha各各他山Calvaryגבעת הגולגולתאは、新約聖書においてイエス・キリストが十字架に磔にされたと記されているエルサレムの丘。されこうべの場所(古代ギリシア語: Κρανίου Τόπος、ラテン語: Calvariae LocusГолгофаともいう②ペンテコステ派Pentecostalism五旬節運動Пятидесятникиは、キリスト教のプロテスタント教会のうち、メソジスト、ホーリネス教会のなかから1900年頃にアメリカで始まった聖霊運動、つまりペンテコステ運動(Pentecostalism)からうまれた教団、教派の総称ないし俗称。この教派、教団に属する教会をペンテコステ教会という。

 ただ、日本のキリスト教指導者には失望した。
 1944年の夏、賀川豊彦が北京に来た。賀川は国際的に知られており、中国人のクリスチャンの間でも評判が高かった。賀川は奉天に来たとき、小川家にいつも泊っていた。それで賀川をよく知っていた小川さんは、早速訪ねて行った。
 「先生の講演に中国のインテリ、殊にクリスチャンは期待しています。今こそ、本当のことを言って下さい。日本の戦争の誤りを正し、戦争を一刻も早く止めねばならないと訴えて下さい。そうしたら先生の命は危ないかもしれません。でも、真実を訴えるのは今なんだから、ぜひやって下さい」
 だが賀川豊彦は、死んでいく人々と日々を送る小川武満さんの願いに応えようとはしなかった。
 その年の、8月18日、内地の日本基督教団の常議員会は「日本基督教団決戦態勢宣言」を決議している。「此ノ時ニ当リ皇国ニ使命ヲ有スル本教団ハ皇国必勝ノ為ニ躍起シ、断固驕敵ヲ撃摧シ、以テ宸襟ヲ安シジ奉ラザルべカラス」と。あるいは同年11月20日、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡」を発表し、アジアの各教会が日本を頂点とする東亜の秩序建設に従うように要求した。すでに「日本基督教」とも呼ぶべき、異常な宗教集団に変質していた。
 ただし賀川豊彦は戦後、小川さんに謝っている。48年に帰国し、翌49年8月、大阪北教会の牧師となった小川さんを、賀川は招いた。
 「命をかけて真実を語って下さいと言った、君の期待に応えられなかった。すまないと思っている」
 小川さんは、クリスチャンとしての謝罪だと受けとったのだった。

     監獄の医師たるを択ぶ
 45年夏、YMCAの礼拝に出ていた小川さんは、日本の降伏が近いことを知った。北京のクリスチャンは短波放送によって情報を得ていたのである。
 そこで彼は、陸軍監獄に行ったとき、中国語で「もうしばらく忍耐してくれ。必ず時は来る」と中国人の囚人に話しかけた。囚われた人たちは頷いていた。看守も黙って聞いていた。
 敗戦と同時に、小川武満さんは現地除隊を願い出た。北京天橋の貧民街にあったキリスト教関係のセツルメン「愛隣館」で、医師として医療伝道を始めた。日曜学校も開き、子供たちと親しくなった。
 一年たらずで、国府軍の憲兵隊によって愛隣館は接収されたため、その後は日僑自治会の医師となり、さらに北京の監獄や留置所にいる日本人の医療にたずさわるようになる。
 再び囚人の医療にたずさわるようになったきっかけは、日本人の遺体の引き取りからだった。留置所で三人の全裸死体を渡されたが、死因がわからない。「現場をみせてほしい」と頼んで獄舎に入ると、一部屋に40人ほどが押し込められ、皆が熱を出している。採血して調べると回帰熱。さらに一人は肺結核で喀血している。このままでは未決囚のまま、皆死んでしまう。小川武満さんは北京に残り、再び凄惨な監獄の医師を務めることに決心したのだった。

 敗戦時、中国にいた日本人は47年11月から翌6月にかけて帰国していった。しかし、戦犯容疑で投獄されている者や奥地にいて引き揚げが遅れている者がいる。そのため中国側(国民党軍)の許可を得て、北京(当時は北平)、太原、青島などに「日本連絡班」が作られた。

 北平日本連絡班は46年7月末に結成され、囚人への差し入れと医療を始めた。小川さんと眼科医の中川晶輝さんが名乗りでて、医療に当ることになった。

 小川さんは、敗戦まで中国人処刑に立ちあった監獄医であった。自ら掘らされた穴に斬首されて突き落とされた、中国人の死を確認する監獄医であった。殺される側からは、鬼のなかの鬼、日本鬼子のなかの日本鬼子とも見える。いつ告発されて、逆に囚人のなかに入れられるかもしれない。それでもなお中国に残り、監獄に収容されている人がいなくなるまで医療にたずさわるのが義務であると考えたのだった。

 この時、七つの留置所、戦犯拘置所、監獄、軍法処看守所などに500人を越える日本人(多くの徴用された朝鮮人を含む)が収容されていた。そのなかには、密告されて捕った者も少なくなかった。45年10月10日に国民軍が北京に入城するまで、北京の警備は日本軍に依託されていた。この間、軍の幹部で戦犯容疑者になると思った者は、犯罪行為を他人の行為にすり替える書類を偽造し、中国側に密告し、自分はいち早く帰国していた。誰かが処刑されれば、もうその犯罪は日本に帰っても問われることはない。中国側は密告があれば、すぐ逮捕した。拘留された囚人は弁明書を書かされるので、自分の罪を逃れようとして他人の名前を書くと、芋蔓式に捕えられていた。

 獄舎のなかで、上官と下級将兵との間に厳しい対立が生まれた。部下は、上官の命令によって殺害したのであり、責任は上官にあると主張する。上官は、軍隊には独断専行があり、彼らが勝手に殺したのであって命令は出していないと拒認する。「生きて虜囚の辱めを受けず」と言っていた上級将校が、「実は以前から平和のことを考えていた」と日記まで持ち出して弁明する。さらに判決をカネが左右した。軍の高級参謀や特務機関の幹部は、芥子(ケシ)の栽培で得たカネを隠匿しており、それを使った。

 このような駆け引きのうずまくなかで、例えば北京憲兵隊の西村少佐は「唯惨めなる部下を保身の質草として、我先にと故国に帰還した軍高級幹部の方々に対しては、次の言葉を慎んで奉呈したく思うのであります。曰く『愚かなる一部下が死を前にして始めて処世保身の妙諦を会得せり』と呵々」と書き加えた礼状を日本連絡班に残して処刑されていった。

 こうして再び、小川さんは戦時処刑に立ちあうことになる。以前は刑死の確認であったが、今度は死体の引き取りである。北京の南、天橋のごみ捨て場に戦犯処刑場があり、遺体を引き取らない限り、放置される。

 蔣介石総統の終戦告示文には、「暴に報ゆるに寛容と温情を以てす」とあり、日本人はこの布告に期待したが、実際には多くの人が逮捕処刑された。国民政府の戦争犯罪審判条例には、1931年9月18日の満州事変から45年9月2日までの間、満州、中国大陸にいた日本人の成人男子はすべて戦犯容疑者とみなす、とされていた。


 逮捕された者が殺人で告訴されると、ほとんど死刑の判決となった。死刑が実行されるかどうかは、ここでもカネと日本軍上層との関係によって左右された。北支派遣軍総司令官の岡村寧次大将は、敗戦後、南京にあって日本連絡班の総班長(蔣介石の顧問格)に変身しており、彼があの男の死刑を執行しないでくれというと、無期に判決が変わった。こうして日本の巣鴨戦犯刑務所に移送され、釈放となった軍幹部は少なくなかった。結局、46年9月から48年3月までに29人(その内、台湾人一人、朝鮮人四人)が処刑されている。
 小川さんは、処刑後、憎悪をもって遺体に群がる中国人のなかから、遺体を運び出す作業を続けた。石を投げられることもあった。いかに中国民衆の怨念が深いか、死体に鞭打つ人々の姿に痛感した。白鳥吉喬(48歳)は炭鉱の軍管理人として、中国人労務者を酷使し、巨額の富を隠匿していた。死刑判決後二年間、カネの取り引きによって処刑されずに来たが、48年3月12日に天橋刑場で銃殺された。
 銃声と同時に、担架をもって小川さんたちが走り降りようとするが、群集にさえぎられて近寄れない。中国憲兵は「しばらく待て」と警告する。群集のなかから年配の男が出て、白鳥の罪状を読みあげ始めた。白鳥は多数の中国人を酷使し、気に入らないと憲兵や警備隊に逮捕させて死なせてきた男であった。各村の代表は一人ずつ、この悪名高い男の罪状を読みあげられるごとに、棒で屍体を叩く。しかも叩いている写真を撮る。村にもって帰るため
であろうか。
 一人、また一人と屍体を打っている。小川さんは、日本人がこの大陸で何をしてきたのか、思い知らされるのだった。

     人間をここまで追いやってはならない
 戦犯処理が一応終った後、小川武満さんは北京残留日本人教会の牧師として、また中国社会服務所の医師として働き、解放軍による北京解放(1949年2月3日)の直前、48年12月に帰国した。中国で生れ、中国に育ち、中国人への医療伝道を志した男の、永い戦争が終ったのである。二人の弟は死亡していた。とりわけ末の弟、四郎の死に、かつて北支の病院で診察した兵士の姿が重なった。戦友の証言では、「小川少尉はフィリッピンに上陸して間もなく、水にあたって下痢が続き、体力が衰えたときマラリアにかかり死亡した」とのことだった。あれほど軍国青年であった弟、拓大空手部で体を鍛え、七生報国と言っていた弟の孤独で弱い死を思うと、いたたまれなかった。
 翌49年8月、大阪空襲で焼け落ちた大阪北教会の牧師に招かれる。教会堂再建にかけまわりながら、同志社大学神学部の聴講生になり、戦中、戦後の神学を研究し始める。日本神学校を卒業後、医師として働き、牧師として生活を送ることはなかった。今はしばらく専心したい。そして、教会と国家と戦争について思索を深めたかった。
 やがてその到達点を、六年後の55年5月、日本基督教会から離れた日本キリスト教会の第一回教職修養会で講演した。「終末論と歴史的秩序」と題して、
 「終末論は、世界の終末を論ずるのではなく、終末において歴史を語ることであり、終末論は歴史的秩序との関連に於て論ぜられ、終末論的希望に立つ教会は、この世の国家的秩序のもとにある歴史的現実の只中で、これと対決してゆるぐことなく、究極のものに根ざした決断的行為を生み出し、真実の歴史を形成していく原動力となるべきである。(中略)平和の問題は、国家の生存、教会の存在の根底に関わる現実の課題である。敗戦以来十年未だに国家秩序の混乱の中で、いかなる変転を来すか予測を許さざる中で、最も必要なものは、ゆるぎない終末論的信仰に基づく希望である」と述べた。ここには、極限状況に立って現実を見据えようとする人間の希望が語られている。
 一方、53年には大阪北教会の牧師をやめ、武蔵野の奥、神奈川県水郷田名で診療を始め、同時に田名伝道所を開いている。中国でできなかった医療伝道に、日本の山村で取り組もうとしたのであった。満州育ちの小川さんは、さらに日本の農村を知りたいと思い、二年間、秋田県峯吉川国保診療所で僻地医療にたずさわった。66年、再び神奈川県田名に戻り、以来、今日まで医療と伝道を続けてきた。この間、69年には「キリスト者遺族の会」の結成に加わり、前回に述べたように、靖国神社境内で「再び英霊を出すな」と訴えている。84年8月15日には、中曽根首相の靖国公式参拝に抗議し、参道に飛びだして彼に抗議した。86年7月、平和遺族会全国連絡会が結成され、その代表に選ばれている。

*Deutschドイツ語→Nakasone Yasuhiro (japanisch 中曽根 康弘; * 27. Mai 1918 in Takasaki群馬県出身; † 29. November 2019 in Tokio)Ясухиро Накасонэ war ein japanischer LDP-Politiker. Er amtierte vom 27. November 1982 bis zum 6. November 1987 als 45. Premierminister Japans.
 小川さんは、強がる人間のどうしようもない弱さを見つづけてきた。満州事変後の奉天で警備にたつ学生たちの恐怖心、さらに恐怖にかられての殺人。広島県福山での初年兵教育において、人格を退行させ、死に吸いよせられていく兵士たちの姿。石家荘や北京第一陸軍病院において、戦争栄養失調症で痩せ衰え、小さくしぼんで死んでいく兵士。あるいは自殺する兵士。彼らは略奪戦争に適応できないことを、身体すべてで表現していた。さらには、逃亡の容疑で銃殺される直前の兵士たち。
 人間をここまで追いやってはならない、という厳しい信念が小川さんにある。
 戦争は、国家の指導者たちの観念によって引き起こされる。だが戦場の現実は観念を越える。観念の生起は短時間で終るが、戦場の時間は永く、それに耐えている者にとって終りがない。永い非人間的な時間のなかで、ほとんどの人々が人格の解体の危機に直面する。
 小川武満さんは満州や北支において、人間の本当の弱さを見てきたのであった。今も、橋本龍太郎首相は靖国神社を参拝している。彼はそれを個人的な「心の問題」だという。幼いとき、母を失い、甘えていた叔父が特攻隊員として死んでいった。叔父は「俺に会いたかったら、靖国に来い」と言ったという。だから、靖国神社の参拝は個人的な行為だと弁明する。ここでも、戦争を直接知らない世代のひとりが、神風特攻隊という、「きれいな死」だけによって、戦争を観念的に捉えている。正常で健康な男性の一瞬の死は、観念的に美化されやすい。一線の戦場を知らない人々は、この観念による美化にしがみついている。しかし、小川さんは、現実の時間は永く、そこで人間は徹底的に心身を押し潰されていくことを知っている。

*Españolスペイン語→Ryutaro Hashimoto (橋本龍太郎 Hashimoto Ryūtarō? Soja, 29 de julio de 1937 - Tokio東京都出身, 1 de julio de 2006)Рютаро Хасимото fue un político japonés. Ocupó el cargo de primer ministro del 11 de enero de 1996 al 30 de julio de 1998.
 1981年、北京の首都教会で平和のための日中合同礼拝が行われた。小川さんは奨励の言葉を頼まれた。彼は中国語で語り始めた。
 「私たちは、ただ謝り、許しあいましょうとは言えない。私はこの北京の地で、私の目の前で穴を掘らされて首を斬り落とされていく中国人を見ていた。その人たちが首を斬られながら、死にきれないで『日本鬼子』と叫んでいる声を聞いた。その後に穴のなかに降り、脈が止まるまで見届けなければならなかった。私は何も出来なかった。人の命を助けるべき医師が、殺すことに協力した。本当に救わなければならない牧師が、見殺しにした。私は同罪者である。
 あなた方が平和のために祈るとき、日本による戦争を抜きにして考えることはないであろう。今、戦争の罪責を最も負っているのは私自身である。私はそのことを告白せずに聖書の言葉を語れない」
 これは、死ぬための戦争を生きのびた人の証言である。

 私は三年前、神奈川県の葉山島のお宅を訪ね、終日、小川さんのお話をうかがった。教会と診療所が隣接する丘の上のお宅で、私は80歳をすぎる彼の生き方に強い感銘を受けた。また95年7月末には、ハルビンで開かれた細菌・毒ガス戦争日中シンポジウムに、私がお誘いして、同行した。
 二日間にわたるシンポジウムは終り、ハルビンの夜は更けていった。あの夜、ホテルの喫茶室では小川武満さんと坂本龍彦さん(元朝日新聞記者)の二人が、いつまでも『馬賊の歌』を歌っていた。二人とも満州育ち、酒が入り、旅の別れが近づき、遠い昔の感傷につれもどされていたのであろう。私が部屋に帰ろうとすると、小川さんにがっしりと腕をつかまれ、立ちあがることができない。
*Tatsuhiko Sakamoto坂本 龍彦 Born in Yamanashi Prefecture in 1933山梨県出身. Faced defeat in Manchuria. He graduated from Waseda University's Faculty of Letters. In 1957, he joined Asahi Shimbun. He left the company in 1993 after serving in the Social Affairs Department and as an editorial committee member(From 『証言 冷たい祖国 国を被告とする中国残留帰国孤児たちTestimony: A cold homeland: orphans left behind in China who blame the country as defendants).
 あの夜、朗々と響く美しい小川さんの声には、理想を求めてひたむきに生きてきた人の艶やかな張りがあった。私はイデオロギーを疑い続ける柔軟さに生きようとしてきた。だが、信仰を生き抜く人の生涯にはいつも深く感動する。戦争と罪の自覚は、小川武満さんの生涯の課題である。

                                                           第九章 無邪気な悪人
      日本人の攻撃性
 「日本は平和だ、犯罪も少ない」とよく言われる。はたして、そうだろうか。アメリカのように多くの人種が混在し、難民を受け入れ、世界中のほとんどの紛争にかかわらざるを得ない社会と比べて、「平和だ、犯罪が少ない」と慢心していて良いものだろうか。さらに「日本人は平和ボケしている、水と安全はタダだと勘違いしているJapanese people are peace-obsessed; they mistakenly believe that water and safety are free」とまで飛躍し、防衛という名の攻撃心を喚起しようとする政治家や評論家がいる。

①300万部を超える大ベストセラーになったIl est devenu un best-seller avec plus de 3 millions d'exemplaires vendus.

②October 23, 2022ー小林よしのりが「お花畑国家」日本に再び警告するYoshinori Kobayashi warnt Japan erneut als „Blumengartennation“日本は戦争の当事国となる覚悟はあるのか?Ist Japan bereit, Kriegspartei zu werden?March 12, 2023ー戦後教育で徹底的に自虐史観を刷り込まれた日本人は、ウクライナのように勇敢に侵略者と戦えるのか?Werden die Japaner, denen in ihrer Nachkriegsausbildung eine selbstironische historische Perspektive tief eingeprägt wurde, in der Lage sein, wie die Ukrainer tapfer gegen die Invasoren zu kämpfen?ベストセラーBestseller『ゴーマニズム宣言SPECIAL ウクライナ戦争論Gormanismus-Erklärung SPEZIAL Ukraine-Kriegstheorie』大好評Sehr berühmt発売中!Jetzt im Angebot!
 だが、日本のように均質な文化を維持している社会で、同じく平和で犯罪の少ないところは多々ある。社会的条件の決定的差異をぬきにして、平和で犯罪の少ない日本という神話が信じられている。
 それでは問いを替えて、「日本は攻撃性の少ない社会か」と聞けば、どう答えられるだろうか。
 私は家の外に出ると、しばしば精神的に疲れる。擦れ違うトラックの運転手は警笛で小さな乗用車を威し、さらに罵倒する者さえいる。駅や電車のなかで凄む者も少なくない。まるで国会の委員会のようだ。街にたむろする若者の表情も険しい。集団主義を強いる過剰な放送は、至る所で暴力的な大声をあげている。このような目に見える表の通りの傍らで、子供たちのいじめは残虐を極めている。ヤクザはいつまでも温存されている。凶暴犯罪は確かに減ってきたが、決して攻撃性の低い社会とはいえない。青少年の凶悪犯罪は増えている。僅かな刺激で不機嫌になる人は多い。内に攻撃心を秘めた緊張の高い社会が、敗戦に懲りたからといって、本当に平和を好む社会に変わったといえるのだろうか。
 平和は理性によって維持される。侵略戦争は、得られるものよりも失うものの方があまりに大きい。割にあわない。また、多くの人間を殺す行為は不快である。そう考えるのは、理性に基づく。しかし戦争はいつも、非合理的な衝動が理性を覆し、もったいぶった論理をまとって燃えあがる。戦争と戦争の間、注目されてこなかった攻撃性が集団による暴力の回路を通して煽られる。このような戦争のメカニズムに対し、戦争反対の平和運動だけでよいのだろうか。理性の強化は、無意識の衝動への防禦になり得る。それと同時に、攻撃性についての積極的な分析も必要ではないか。
 敗戦時、日本人の攻撃性はどのように変容したのか。極大化された攻撃性は、果して減少したのか。その後、私たちの社会は攻撃性をどのように処理し、あるいは利用してきたのか。自らの攻撃性を自覚することがあったのだろうか。
 私は時どき、現在の社会の到達点を考えるのに、『きけ わだつみのこえ』(日本戦没者学生記念会編、岩波文庫、東大協同組合出版部から出た初版本は1949年)や『復刻 世紀の遺書』(巣鴨遺書編集会、講談社、1984年)を開く。日本国憲法は、敗戦時の日本指導層の知的反省が表現されたものであるがーもちろんそれは理想と保守とアメリカ占領軍の方針との妥協の産物でもあるー。他方、死を前にしての文章には知的反省だけでなく、弁明と感情の係わりが表われている。 
①『들어라 와다쓰미의 소리를』(Kike Wadatsumi no koeきけ わだつみのこえListen to the Voices from the Sea)은, 제2차 세계 대전 말기에 전사한 일본 학도병의 유서를 모은 유고집이다②Seiki no Isho世紀の遺書Will of the century is a compilation of the wills of people who were executed or died in prison as war criminals after the defeat in World War II.

    攻撃性の否認
 例えば、第三章(85頁)でふれた、小川武満医師が処刑後の遺体を必死になって取り戻した白鳥吉喬(元陸軍嘱託)の遺書(『復刻 世紀の遺書』より)を見てみよう。彼は多数の中国人を酷使し、気にいらないと憲兵や警備隊に逮捕させて死に到らせたとして、北京の天橋刑場で銃殺された。家族に宛て、
 「余は全く関係なき三谷隊の惨虐事件に対する中国人の復讐の犠牲となりたるものといふべし。(中略。真相を究明し・・・)余が八年間中国人の為に心血を注ぎ尽瘁したる業績に不当に加へられたる汚点を清くせられむことを」と言い、子供に対しては「母上の教を守り、強く正しく明るい身を鍛へ心を練り皇国恢宏の戦士たれ。父は未だ曾て何人も偽らず、何人をも苦しめた事もない」と遺している。
 あるいは、1938年の南京攻略の道筋、百人斬りを競い、日本軍人の武勇伝として内地の新聞に大きく報道された向井敏明(元陸軍少佐、1948年1月、南京にて銃殺刑)と野田毅(同、48年1月、広東にて銃殺刑)の遺書は次にように書かれている。

①Deutschドイツ語→Toshiaki Mukai向井 敏明 ( 3. Juni 1912山口県出身 – 28. Januar 1948 ) war ein japanischer Armeeoffizier . Sein Rang zur Kriegszeit war Major.
 向井敏明の遺書は、「我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件の罪は絶対に受けません。・・・我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです」と認め、また「野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめた事は伏して御詫びすると申伝へ下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。・・・公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。犯罪ではありません」と述べ、記者の曲解であると弁明している。首斬り話を冗談と呼ぶ男の、精一杯の弁明である。

②Françaisフランス語→Tsuyoshi Noda野田 毅( 1912鹿児島県出身-28 janvier 1948 ) était un officier de l' armée japonaise.
 同じく野田毅の遺書は、「俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。(中略)我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります」と述べ、もうひとつの遺書では、「つまらぬ戦争は止めよ。曾ての日本の大東亜戦争のやり方は間違つてゐた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言はぬが皆が思ひ上つてゐたのは事実だ。そんな考へで日本の理想が実現する筈がない」と書き、「天皇陛下万歳!中華民国万歳!日本国万歳!東洋平和万歳!世界平和万歳!死して護国の鬼となる」と結んでいる。
 それぞれ中華民国政府によって処刑されるのであるが、死を前にして、自分の死をなんとか意味付けようとしている。どの人も同じ論理である。「自分は日本軍人あるいは軍嘱託として当然のことをしただけで、戦争犯罪は犯していないし、中国人を苦しめていない。だが、戦争に敗けた以上、日中平和のために犠牲となって死ぬ」というのである。
 ここには、自分の行った残虐な行為の想起に怯え、他者からの非難とは無関係に、精神的に傷ついている人はいない。確かに裁判は杜撰であり、挙げられた証拠に誤ったものも有ったであろう。だが告発の有無にかかわらず、他国に侵入して何をしてきたのか、自分の過去を見詰めようとする構えはまったくない。
 彼らは自分の攻撃性にまったく気付いていない。自らの攻撃性は否認され、代りに敵に強い攻撃性があり、自分は相手の攻撃性を引き受けて犠牲になるのであると思い込んでいる。「投射」の心理的メカニズムを巧みに使っている。
 罪の意識は自らの攻撃性を他者に向けるのではなく、自分自身に内攻させることによって生じる。それ故、過剰な罪の意識は私たちを自殺や精神障害に追い込む危険性がある。しかし、他者の破壊よりも自らの苦しみを選ぶのが良心である。彼らは自らの攻撃性を否認し、相手にのみ攻撃性があると感じているので、そこに罪の意識は生じようがない。相手の攻撃性は自らの攻撃性への反応であり、あるいは自らの攻撃性の投射されたものであるとは思ってもみない。
 これらの遺書を読んでいると、私はその非個性的な同質の論理にあきれる。日本人は個人として戦争への係わりを問おうとしなかった。同じく敗戦においても、刑死に直面しても、個人として生きているように見えない。
 それは戦争指導者のひとり、東条英機(1948年12月、巣鴨で刑死)の遺書とほとんど違わないように思われる。

Nederlandsオランダ語→Hideki Tōjō (Japans: 東條 英機, Tōjō Hideki) (Tokio, 30 december 1884東京都出身 – aldaar, 23 december 1948) was een Japans militair en politicus tijdens de Tweede Wereldoorlog.
 「自分としては国民に対する責任を負つて満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。天皇陛下に対し、また国民に対しても申し訳ないことで、深く謝罪する。
 元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御念に依り行動すべきものであつたが、一部過を犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であつた」
 「東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族も亦他の民族と同様この天地に生きる権利を有つべきものであって、その有色たることを寧ら神の恵みとして居る」
 「日本は米国の指導に基き武力を全面的に抛棄した(註ー憲法第九条)これは賢明であつたと思ふ。しかし世界全国家が全面的に武装を排除するならばよい。然らざれば、盗人が跋扈する形となる。
 私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばならぬと思ふ。現に世界各国は、孰れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る。(これはお互いに慾心を抛棄して居らぬ証拠である)国家から慾心を除くといふことは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするといふことは不可能である。これでは結局は人類の自滅に陥いるのであるかも判らぬが、事実は此の通りである。それ故、第三次世界大戦は避けることが出来ない」
 「今回の処刑を機として、敵・味方・中立国罹災者の一大追悼慰安祭を行はれたし。世界平和の精神的礎石としたいのである」
 東条は直接残虐行為を行った人間ではなく、憲兵政治を敷いて人々を抑圧し、戦争を指揮した陸軍大将、総理大臣であった。彼に人間としての罪の意識を求めても無駄であろう。それにしても、彼の融通無碍な論理と他の戦犯の遺書はなんと似ていることか。さらに東条の長文の遺書は、将来の再建(つまり自衛隊)は傭兵制を考慮した方がよいとか、学校教育の方向、靖国神社の合祀などについて述べ、あたかもその後半世紀の日本が東条の意思どおりに経過してきたかのようである。
 日本の文化は何も変わっていないのではないか。私たちは何を変えようとし、何が同じなのか。 
 次に最も好戦的に生きた右翼、特務機関員の反省の内容を通して、分析してみよう。

The Claws of the White Wolf: The Secret History of Yamanishi Author Hakudo Nagatomi (author)1995
In 1945, the Sino-Japanese War ended. It is said that some soldiers and their families who could have foreseen defeat on the continent quickly returned home to hide, but 1.8 million Japanese were left behind. Focusing on the issue (incident) of remaining in Shanxi, China, which is still unknown to the general public.

*Русскийロシア語→Хакудо Нагатоми永富 博道 ( март 1916熊本県出身 — после 1995) — солдат Императорской японской армии , после поражения Японии в войне вступил в Китайскую националистическую армию в провинции Шаньси , Китай , и участвовал в коммунистической гражданской войне . Его настоящее имя — Коки Нагатоми永富 浩喜.
     厚い外皮をかぶった攻撃者
 永富博通(浩喜)さんは、これまで紹介してきた将兵と違い、極め付きの悪行を働いている。国士舘専門学校の学生のとき、右翼の学生運動のひとつとして南京虐殺に加わり、以来自ら進んで上海特務機関に入り、41年より北支派遣第37師団重機関銃中隊の兵士として山西省で暴れ回った。その暴戻なること、部下の中国人から「閻魔大王」と呼ばれていた。敗戦で現地除隊した後も、残留日本軍を組織し国民党系の軍閥・閻錫山の一翼を荷って人民解放軍と戦った。彼が解放軍に逮捕されたのは49年4月のこと、20歳で中国に渡って12年たっていた。
①Françaisフランス語→Yanluowang ou Yanluo wang (chinois simplifié : 阎罗王 ; chinois traditionnel : 閻羅王 ; pinyin : Yánluó wáng ; Wade : Yen²-lo² wang² ; cantonais Yale : Yim⁴-lo⁴ wong⁴ ; litt. « roi Yanluo ») 閻魔大王 est un dieu chinois d'origine bouddhiste, gardien et juge du Diyu (enfer).

②Українськаウクライナ語→Янь Сішань (спрощ.: 阎锡山; кит. трад.: 閻錫山; піньїнь: Yán Xíshān) (1883—1960)Yan Xishan or Yen Hsi-shan — китайський військовий і політичний діяч, генерал, один з останніх правителів мілітаристської доби, президент Виконавчого Юаня Республіки Китай у 1949—1950 роках.
 彼がいかに残忍であったか、特別軍事法廷の記録を拾ってみよう。永富さんは最近まとめた『白狼の爪跡ー山西残留秘史』(新風書房、1995年)に、起訴状と法廷記録を抜粋して載せている。
 例えば、情報工作隊を指揮し、山西省聞喜県の北白石村で43年1月に行った虐殺は、次のように述べられている。
 「日本軍は彼らに水をかつがせようとしましたが、彼らはかつごうとしませんでした。私は住民が強烈に抗日心を持っていることから、この村には必ず多数の武器や食料が隠されているとみなし、すぐに工作隊に住民を一軒の民家のコ字型の中庭に集めるよう命令しました。庭には大勢の男女がおり子供もいました。我々はこの中から15人をひっぱりだし、私がまず公衆の面前で拷問をしました。私は一人の住民の上着の襟をつかんで殴打し、工作隊に銃床や棍棒で殴るよう命令しました。この住民は顔を殴られ、目は破れ、体は赤く腫れ上がり、涙と血が一緒になって混じり滴り落ちました。
 彼らの子供達は『パーパ』と叫んでいました。私が彼らの父親や母親を殴ると、その子供達はその状況をずーと見ていました。それから私は彼らを一軒の家に閉じ込め、夕方、彼らに対してまた拷問しました。住民達は何も知らないと言うので、私は部下に命令してさらに拷問をするよう言いました。二日目の朝、私は工作隊に命令して、我々が住んでいた村の西にある凹地で全員を殺害しました」
 その拷問も、「大きな石と一丈(3・33メートル)余りの長い丸太を運んで来ました。そして首をそれではさんで、口の中に銃剣を差し込み、強引にかき回した。舌は切れてボロボロになり歯も取れて下に落ちました」というものである。
 また、近くの上下口峪村で農民八人を殺した時は、赤い房のついた槍で尻を刺して殺した。三人を彼が刺殺し、後は部下に真似させている。また、聞喜県横水鎮では一人の男を拷問拘留した後、馬車の後ろに縄で縛り付け、引きずって殺した。焼いた鉄箸で陰茎を焼き落とす、あるいは水責めにしてふくらんだ腹を踏みつける拷問を好んでいる。また、泌源県正中村では、怯えて穴に隠れている女性子供(12人)を見つけると、干し草で焼き殺したのであった。特別軍事法廷で起訴された事件だけで111人が惨殺されている。もちろん、彼が殺した中国農民はこれだけではない。200人をこえると自ら言っている。まさしく閻魔大王であり、本人もそう呼ばれるのが満更でもなかった。
 永富さんは、前回の富永さんと同じ熊本県の出身である。1916(大正5)年、阿蘇の内牧の旧家に、長男として生まれている。軍国主義を尊ぶ家庭に育ち、厳しいしつけを受けた。幼少時、体の弱かった彼は鍛錬を通して、弱さを過剰に代償していったようだ。子供時代、しつけや教育の名のもとに周囲から受けた攻撃性は、しばしば敏感な弱者を厚い外皮をかぶった攻撃者に変える。永富少年もそのプロセスをたどったのであろう。
 なお、永富家だけでなく、熊本県は軍国主義の極めて強い地域であった。熊本県人は今でも郷士の兵団を「六師団」と呼ぶ。熊本の男たちを最強の軍人と信じていた。例えば熊本大学には84年まで「体質医学研究所」があった(今は医学部付属の「遺伝発生医学研究施設」に縮小転換されている)。これは南京攻略などで戦果をあげた(南京虐殺でも重要な加害集団とみなされている)「日本一の六師団」の精強さを医学的に解明するため、熊本医科大学が当時の荒木貞夫文相(元第六師団長)に陳情して開設されたものという。

*Hrvatskiクロアチア語→Sadao Araki (jap. 荒木 貞夫, Araki Sadao, 26. svibnja 1877東京都出身 – 2. studenoga 1966.), japanski general koji je na Tokijskom procesu osuđen kao ratni zločinac.
 地元の大新聞『熊本日日新聞』は戦後15年たった時点でも『熊本兵団史』を出版し、あいかわらず在郷軍人会の活動が盛んで、尚武心を培う気風が養われていたと自慢している。南京虐殺の否定もすでにこの時点(1960年)で主張されている。
 そんな熊本県の田舎で育った永富少年は、父親について朝鮮・平壌の中学校に移った。平壌でキリスト教を知り、洗礼を受けた。だが、強者をキリスト教に求めた彼はそこに馴染めなかった。小さい頃から鍛錬してきた剣道を通して、天皇崇拝が染み込んでいた。牧師に、「キリストと天皇はどちらが偉いか」と問い、当惑する牧師が「キリスト」と言うのを聞き、キリスト教は駄目だと思った。考えること、批判することの大切さを知らず、強固に信じること、信じて行動すること、いわゆる質朴剛健がすべてだと思っていた青年は、キリスト教を捨て、東京の国士舘専門学校に進んだ。
 国士舘には熊本出身の国粋主義者・蓑田胸喜教授がいた。蓑田は京大・滝川事件や天皇機関説排撃の口火を切り、国体明徴運動を輿し、軍部や官憲と結んで言論統制と思想弾圧を煽った。永富さんは国士舘の近くに住む蓑田の家に出入りし、狂信的な国粋主義者になっていった。右翼の草わけ、頭山満の門を七度叩いて、門下生となり、「権益擁護」「暴支膺懲」といった言葉に酔い、神国日本による世界制覇に燃えていった。荒木貞夫(陸軍大将)や山本英輔(海軍大将)などの家への出入りも許されていた。

①Françaisフランス語→Minoda Muneki (蓑田胸喜?) est une figure de l'extrême-droite japonaise, né le 26 janvier 1894熊本県出身 et mort le 30 janvier 1946(敗戦後に首吊り自殺死).  Il participe au journal d'extrême droite japonais Genri Nippon②Русскийロシア語→Инцидент в Киотском университете (яп. 京大事件 Kyōdai Jiken) или Такигавский инцидент (яп. 滝川事件 Takigawa Jiken), начался в октябре 1932 года, когда профессор юридического факультета Императорского университета Киото Такигава Юкитоки прочитал лекцию о необходимости того③The Emperor's Agency Incident天皇機関説事件 is an incident that occurred in 1935 (Showa 10). The theory of interpretation of the Constitution of the Empire of Japan, called the imperial organ theory, was attacked as disrespectful. The imperial agency theory states that "the right to govern belongs to the state, which is a corporation, and is exercised by the emperor, who is the highest organ of the country, with the assistance of the minister of state,'' and based the cabinet's authority over the imperial prerogative regarding the military④Deutschドイツ語→Das „Kokutai Mei Chou Seimei“国体明徴声明 (alte Schriftart: 國體明󠄁徵聲明󠄁) ist eine Aussage, die Tatsukichi Minobes Theorie des Kaisers als Organ während des Vorfalls mit der Kaiserorgeltheorie von 1935 (Showa 10) ablehnte. Eine Regierungserklärung Dies geschah durch das Militär und rechte Gruppen, die damals versuchten, durch Druck auf das Okada-Kabinett die politische Kontrolle an sich zu reißen.

Tōyama Mitsuru (頭山 満, 27 May 1855福岡県出身 – 5 October 1944) was a Japanese far right and ultra nationalist politician who founded secret societies called Genyosha玄洋社(Black Ocean Society) and Kokuryukai黒龍会(Black Dragon Society)

②Françaisフランス語→Eisuke Yamamoto山本英輔(15 mai 1876 (9 Meiji)鹿児島県出身 - 27 juillet 1962) était un officier de marine japonais. Le dernier grade est celui d'amiral.
 1937年7月、盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident(七七事變)が起こり、日中戦争に突入、東京の各大学、専門学校では右翼学生連合「愛国」が結成された。その学生運動のひとつとして、12月、上海から南京まで、日本軍が攻略した各都市の視察旅行が行われた。帰国報告によって、全国の学生を中国侵略に駆り立てようと目論んだのである。それは後に、学徒出陣を学生内部から呼び込む運動となっていく。
 永富青年は国士舘の代表として、他11校の代表と共に初めて中国に渡った。そして最初の中国人殺害を行った。学生サークル活動のひとつとして戦場ツアーに出掛け、殺人を行ったのである。

     好き勝手放題に殺人
 上海の江湾から呉淞の砲台、大場鎮から閘北へと廃墟をまわり、閘北から貨物列車で南京に向った。集落に人影はなく、小川には裸の中国人の死体が浮かび、薄氷が流れを止めていた。
 南京は攻略されてから、まだ二週間ほどしかたっていなかった。学生たちは、南京城へ近づくにつれ、累々と横たわる死体に驚いた。
 南京城内には、残留したアメリカ人宣教師や医師、ドイツ人実業家によって、「Internationales Komitee für die Nanking-Sicherheitszone南京難民区国際委員会The International Committee for Nanking Safety Zone」が作られ、「国際難民区」が線びきされていた。国際委員会は南京の一定の地区内に住民を避難させ、そこで日本兵による殺戮を防ごうとしたのであった。だが、日本兵は避難民であふれる難民区に入り、強姦殺人を繰り返し、また「敗戦兵の掃蕩」の目的で兵役年齢の男たちを集団連行しては殺していた。
 永富さんたちも南京特務機関の職員につれられて、金陵女子文理学院Ginling Collegeなど難民区内の建物を視察してまわった。永富さんたちは、
 「東京の学生さんか、気に入った娘がいれば連れていってもいいよ。俺たちは毎日ご馳走になっている」
 「最初はガソリンをぶっかけて殺していたが、面倒なので重機関銃でしまつしている」と日本将兵に声をかけられ、興奮していった。この時も避難民から引き抜いた男たち20人ほどを車に積み、長江きわの「下関」に連れていき、殺害することになる。永富さんは最初の殺人を行った当時のことをよく憶えている。

 「何千という死体が積み重なっている。その間の狭い道を通って行くのですから、体がぶるぶると震えてくる。初めて見る光景ですから、自分は剣道四段、弱いところを見せちゃいけないと思うと、さらに興奮してくるんです」
 長江の堤近くにくると、引率してきた将校が学生たちに、「お前たち、自由にこの中国人を殺してみろ。土産話になるぞ」と誘った。
 そこで柔道の猛者は首を締め、空手の選手は殴り殺そうとするが、容易に殺せるものではない。
 将校は「俺が見本を見せてやる」と言い、日本刀に水をかけ、一刀のもとに首を斬り落とした。ところが彼らが斬首に注目している隙に、一人の男が逃げ出し、長江の濁流に飛び込んだ。永富青年は咄嗟に兵隊の銃を借りて、浮き沈みする男を射った。これが右翼学生の教育実習だった。
 永富さんは何の疑問も持っていなかったし、いかなる罪悪感も感じなかったという。軍隊のすることはすべて正しい、と信じていた。天皇様に敵対する中国人は一人でも多く殺さねばならない、天皇様こそ世界を支配する現人神、という思いをさらに強くするだけだった。
 上海で怪気焔をあげて帰国した「愛国」学生連盟は、各学校で日本軍の活躍を宣伝し、「今は大学、専門学校にいる時でない」と学徒出陣を煽った。

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