日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

南京大屠杀否认者的“十三谎言”/『南京大虐殺否定論13のウソ』/"Thirteen Lies" by the Deniers of the Nanjing Massacre= 南京事件調査研究会/Groupe d'étude sur les enquêtes sur les incidents de Nanjing②

要するに、東京裁判や南京軍事法廷を、ウソだ、デッチ上げだというのは、まったくの言いがかりで、事実は厳然として存在し、裁判はその一端を証明したものだったのである。とくに2つの法廷で、山のように積み上げられた被害者側の証言の重さは、何ものにも代えられないものである。否定論の特徴は、この被害者の証言をまったく無視することにあるということができる。なお東京裁判との関連でいえば、ドイツの場合は連合国によるニュルンベルク裁判が終わった後も、ドイツの国内法によって自らの手で 戦争犯罪の追及をつづけ、ジェノサイドのような重大犯罪にかんしては、時効を停止して裁判を行なっている。自国の戦争責任をあいまいにしたままで、自国民の戦争犯罪を完全に不問にしてきた日本人とは大きな違いかあるといえる。東京裁判にたいして「デッチ上げ」説が出てくるような現状は、戦争責任にたいする無感覚、歴史認識の欠如のあらわれであろう。
①冨士 信夫(ふじ のぶお、1917年8月 - 2005年1月24日)は、日本の歴史家、海軍軍人。東京裁判(極東国際軍事裁判)研究家。Ֆուջիո Նոբուո 冨士 信夫(富山県出身 ֆուջի Նոբուո, օգոստոսի 1917 - հունվարի 24, 2005 թ. ) Japanese ապոնացի պատմաբան և նավատորմի սպա է : Հետազոտող ՝ Տոկիոյի դատավարության ( Հեռավոր Արևելքի միջազգային ռազմական դատավարություն ):『南京大虐殺はこうしてつくられた』(展転社 1995年)『こうして日本は侵略国にされた』(展転社 1997年)②Nobukatsu Fujioka 藤岡信勝(北海道出身 21 oktyabr 1943 -) yapon təhsil tənqidçisidir . Sosial araşdırmalar üzrə ixtisaslaşmışdır. Yeni tarix dərsliyi cəmiyyətinin vitse-prezidenti. Tokio Universiteti və Takushoku Universitetinin keçmiş professoru③Shōichi Watanabe (渡部 昇一(山形県出身, Watanabe Shōichi, 15 September 1930 – 17 April 2017) was a Japanese-born English scholar④Jin Matsubara (jap. 松原 仁, Matsubara Jin; * 31. Juli 1956 in Itabashi, Präfektur Tokio) ist ein japanischer Politiker

第2章 第2のウソ 当時、日本では誰も南京事件のことを知らなかった。
「知らなかった=なかった」とする虐殺否定論者の言い分は簡単に言えばこうだ。「本当に虐殺があったならば、どんな手段を使って隠蔽しても事実は漏れ伝わってくるはずである。しかしその形跡はどこにもない。当時の写真をみれば中国人の顔に安堵感が表われているではないか。これでも虐殺があったといえるのか・・・」しかし、これは本当だろうか?厳格な言論報道統制があったという事実に加え、それでも知っていた日本国民が実際にいたことに彼らはどう答えるのか?
Latviešu ラトビア語⇒Yutaka Yoshida 吉田 裕(Yoshida Yutaka(埼玉県出身) , 1954. gada 2. novembris ) ir japāņu vēsturnieks [1] . Hitotsubaši universitātes emeritētais profesors , Tokijas gaisa reida un kara katastrofu resursu centra direktors . Pārstāvis vienlaicīgus vēstures biedrība. Galvenā ir mūsdienu Japānas militārā vēsture, mūsdienu Japānas politiskā vēsture .


①南京大屠杀小说-松井将军日记 (日语)– 1/1984 田中正明  (長野県出身=作者)Fiction of Nanjing Massacre-On the Diary of General Matsui (Japanese) Book – 1/1984②Masaaki Tanaka  (Author) ماساكي تاناكا (باليابانية: 田中正明؛ بالكانا: たなか まさあき) هو كاتب ياباني، ولد في 11 فبراير 1911في ناغانو في اليابان، وتوفي في 8 يناي2006
2 本当に誰もが南京事件のことを知らなかったのだろうか      吉田裕
知らなかった、なかった?
南京虐殺否定論者の中には、南京事件の存在など当時から誰も知らなかった、だからこの事件そのものがなかったのだと強弁する人たちがいる。たとえば、虐殺否定論の「古典」である田中正明『”南京虐殺”の虚構』(日本教文社、1984年)は、日本人は、戦後の東京裁判で初めてこの事件のことを知ったのであって、「それまでは、日本国民のだれ1人として、南京にこのような大虐殺があったなどということを語る者はいなかった」と断言する。また、この本に推薦文を寄せている渡部昇一も、事件に関する流説さえ、当時、少年だった自分自身だけでなく、「私などとは比較にならないほど情報源を豊かに持った高級将校や高級官吏や新聞記者たちの耳にも入らなかった」として、そのことを事件そのものがなかったことの根拠にしている。

本当にそういえるのだろうか。そもそも、この種の議論は、日本政府や軍が実施していた報道統制の存在をまったく無視している点に特徴がある。実際、日中戦争が始まると、報道統制は、いっそう強化された。新聞を中心にして、これをみてみよう。まず、1937年7月31日には、新聞紙法第27条による陸軍大臣の新聞記事掲載禁止命令(陸軍省令第24号)が発動された。これにより陸軍関係の記事は、事前にゲラ刷り2部を警視庁および各府県警察部に提出し、そこで検閲を受けて陸軍当局の許可を得たのでなければ掲載できなくなった。
海軍の場合も、同様の新聞記事掲載禁止命令(海軍省令第22号)が8月16日に発動され、陸軍の場合と同じよう運用がなされている。重要なことは、検閲の際の判定基準である「新聞掲載事項許容判定要領」が、「支那兵又ハ支那人逮捕訊問等ノ記事写真中虐待ノ感ヲ与フル惧アルモノ」「惨虐ナル写真」などの掲載を禁じていたことである。こうした措置によって、日本軍によって戦争犯罪がなされたことを推測させるような記事や写真を掲載することは不可能になったのである(「栗屋憲太郎・中園裕編『戦時新聞検閲資料 別冊』現代史料出版、1997年」。
漫画家の小林よしのりは、『東京朝日新聞』1937年12月20日付の写真報道、「平和甦る南京 皇軍を迎へて歓喜沸く」をとりあげ、「この、のどかさは一体なんだろう」などとして、南京で戦争犯罪がなかったことの例証としているが(『戦争論』幻冬舎、1998年)、報道統制の実態を無視した暴論である。草森紳一「報道の写真」がいうように、「検閲を受けて新聞に開示された写真は、宣伝的報道写真というべきである」し(『不許可写真1』毎日新聞社、1998年)、ましてや検閲によって残虐行為の写真などが掲載されるはずもなかったのである。なお、静岡民友写真社の従軍記者として南京を取材した片山兵二は、1938年3月28日の「陣中メモ日記」の中で、次のように書いている(『わが青春の中国大陸従軍譚』非売品、1977年)。
「中華門附近の支那人街を視察。商店もマバラに開いているが、軍人や我々日本人の顔を見ると素早く奥へ逃げ込む。特に若い娘らの逃足の早いことには感心する」。
38年3月の時点さえ、まだ南京市民、特に若い女性の間には、日本軍に対する恐怖心が残っていたのである。また、この点については、松井石根中支那方面軍司令官自身が、38年2月6日の日記に、「支那人民ノ我軍ニ対スル恐怖心去ラズ」と書きつけている通りである(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集』偕行社、1989年)。

*Kaikosha (偕行社, Kaikōsha) is a Japanese organization of retired military servicemen whose membership is open to former commissioned officers of the JASDF and JGSDF as well as commissioned officers, warrant officers, officer cadets, and high-ranking civil servants who served in the Imperial Japanese Army. Since 1 February 2011 Kaikosha has been a non-profit organization described under Japanese law as a public interest foundation (公益財団法人).


« Новая Gomanizumu декларация специальная теория войны » (『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』Shin Gomanizumu Асам теория специальной войны) есть, Ёсинори Кобаясите из - за Японию из комиксов работы. С сентября 1995 года он принял форму отдельной версии « Декларации нового гоманизма », опубликованной в журнале « SAPIO » ( Shogakukan ) .


情報は確実にひろがっていた。
こうして、多くの国民は、南京事件のことを戦後、初めて知ることになった。しかし、田中正明などがいうように、事件の発生を知っていた日本人がまったくいなかったかといえば、そんな訳ではけっしてない。現地の日本軍関係者を除けば、この事件の発生をいち早く知ったのは、外交官僚のようだ。事実、当時、外務省東亜局長の地位にあった石射猪太郎の1938年1月6日の日記には、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を諜報し来る、掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼之れが皇軍か」と書かれている(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社、1993年)。
また、少し後になってから、事件のことを聞き及んだ外交官もいた。重光葵(Euskaraバスク語⇒Mamoru Shigemitsu重光葵 (Oita(大分県出身(元外相)・A級戦犯=禁固7年の刑), Japon, 1887ko uztailaren 29a - Yugawara, Kanagawa, Japon, 1957ko urtarrilaren 26a) japoniar diplomatikoa eta estatugizona izan zen)の場合がそれだが、1942年1月に特命全権大使として南京に着任した重光は、「赴任(中略)して南京事件の実相を知るに及んで、我軍隊の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった」と回想している(伊藤隆・渡辺行男編『続・重光葵手記』中央公論社、1988年)。

次に、軍人の場合をみてみよう。渡辺昇一は、軍の幹部でさえ事件の存在をまったく知らなかったかのように断定しているが、明らかに事実と異なる。一例をあげるならば、1938年6月に第11軍司令官に任命され、中国戦線に出征することになった岡村寧次中将(Deutschドイツ語→Okamura Yasuji (jap. 岡村 寧次(陸軍大将・東京都出身(支那派遣軍総司令官)B級戦犯容疑者=南京軍事法廷で無罪判決); * 15. Mai 1884 in Tokio; † 2. September 1966 ebenda) war ein General der Kaiserlich Japanischen Armee. Von November 1944 bis zum Ende des Pazifikkrieges war er Befehlshaber der China-Expeditionsarmee)は、「東京で、南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂を聞き」、さらに、7月には、上陸地の上海で軍関係者から次の事実を確認している(稲葉正夫編『岡村寧次大将資料(上)』原書房、1970年)。
一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦の大暴行があったことは事実である。
一、第一線部隊は給食困難を名として俘虜を殺してしまう癖がある。
南京事件に関するこうした情報は、軍内部でかなり広範囲にひろがっていた。事件当時、陸軍大学校の学生だった加登川幸太郎大尉(加登川 幸太郎(かとがわ こうたろう(北海道出身)、1909年(明治42年)7月7日- 1997年(平成9年)2月12日)は、日本の陸軍軍人、戦史研究家。最終階級は陸軍中佐)は、次のように指摘している。(「証言による南京戦史」(最終回)<その総括的考察>『偕行社』1985年3月号)。なお、加登川は、旧軍人出身の軍事史研究者の中では、最もアカデミックな業績を残した人物の1人である。
「筆者は48年昔のこの事件のあった頃、陸軍大学校の学生であったが、すでに南京戦線である種の「不法行為」の行なわれたことを耳にしていた。大学校の学生の耳にも洩れてくるほどのこの問題は軍中央部を悩ましたのであったのだ。従って、いわゆる「南京事件」については日本軍が「シロ」であったとは、筆者は初めから認識してはいない。」
また、南京事件に関しては、「事実に伴う流説が膨大に増幅された」と信じている下級将校の中にも、事件についての情報を伝え聞いている者がいる。例えば、歩兵第36連隊の予備将校として自分自身も南京攻略戦に参加した鷹尾正は、こう書いている(歩36記念誌刊行会編『歩兵第36連隊戦友会誌』非売品、1983年)。
「しかしながら、私は昭和15年9月から19年8月まで南京の支那派遣軍総司令部参謀部第2課に勤務する間に、当時の派遣軍の他の兵団出身の歴戦の戦友とも宿舎を共にした。離脱出部隊の殲滅戦を担当した当時の現役中隊長の体験談には耳を覆わずにはおれない事実も聞かされた。要するに「見なかった」「やらなかった」ということと「無かった」ということは別なのである。」

一方、海外からの情報に接する機会が比較的多かった知識人の中にも、たとえ部分的ではあれ事件に関する情報を耳にしていた者がいた。植民政策の研究者で敬虔なクリスチャンでもあった矢内原忠雄(矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年(明治26年)1月27日 - 1961年(昭和36年)12月25日)は、日本の経済学者・植民政策学者。東京大学総長。日本学士院会員。正三位勲一等瑞宝章。無教会主義キリスト教の指導者としても知られる。야나리하라 다다오 (矢内原忠雄(愛媛県出身), 1893년 1월 27일 ~ 1961년 12월 25일) 일본 의 경제학자・식민정책 학자로  일본 아카데미의 회원이었다. 무교회파 기독교 지도자로도 알려져 있다. 1937년 중일전쟁을 비판하여 도쿄대학 교수를 사직하였으나, 전후에 도쿄 대학의 총장을 역임하였다)の場合がそうである。矢内原が1939年11月26日の内輪の講演の中で次のように語っていた事実を、彼の個人雑誌である『嘉信』(第3巻第1号、1940年)から確認することができる。
「去る11月3日東京青山にて基督教徒大会なるものが開かれ、午前には基督教講演があり、午後には文部省宗教局長の講演を聴き、且つ某陸軍大将の挨拶があつた。この局長や大将は、現代社会の基督教に対する政治的解放者としてこの席に来たか。否、決してさうではない。この陸軍大将は南京事件当時の最高責任者であつた。南京陥落の時に、アメリカのミッションで建ててゐ基督教の女学校に対して、1つの大きな間違が犯された。そのことが報道されて、外国殊にアメリカの排日的感情に油がそそがれたのである。(中略)その事件の責任者たる者は、手をついて基督教会の前に謝らなければならない。基督教徒大会は、日本の基督教徒の名に於いて謝罪を要求すべきではないであらうか。」
「某陸軍大将」とは、中支那方面軍司令官の松井石根大将のことであり、矢内原はここで、女性に対する暴行事件のことを問題にしているのである。
知っていた一般の国民もいた
それでは、一般の国民は、南京事件について何も知らなかったのだろうか。けっしてそうではない。少なくとも、中国の日本人社会の中では、この事件の噂はかなりひろがっていたようである。なぜなら、法制史学者の瀧川政次郎(瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 - 1992年1月29日)は、日本の法学者。専門は法制史。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。学位は法学博士。國學院大學名誉教授。大阪府大阪市西区出身。Masajiro Takigawa (Takikawa Masajiro, May 26, 1897- January 29, 1992 ) is a Japanese jurist . Specializes in legal history . From the standpoint of legal science , he is committed to the systematization of legal history. The degree is a doctor of law . Professor emeritus at Kokugakuin University. Born in Nishi Ward , Osaka City, Osaka Prefecture )が次のように回想している事実があるからである(『東京裁判をさばく(下)』東和社、1953年)。念のために書きそえておくならば、瀧川は東京裁判で嶋田繁太郎元海軍大臣(Italianoイタリア語⇒Shigetarō Shimada (嶋田 繁太郎(海軍大将・東京都出身・A級戦犯=終身刑) Shimada Shigetarō?; Tokyo, 24 settembre 1883 – 7 giugno 1976) è stato un ammiraglio giapponese, attivo durante la seconda guerra mondiale)の弁護人を務めた人物であり、東京裁判を戦勝国による一方的な裁判だと批判したことでも知られている。
「南京占領後における日本軍の南京市民に加へた暴行が相当にひどいものであつたことは蔽い難き事実である。当時私は北京に住んでいたが、南京虐殺の噂があまりに高いので、昭和十三年の夏、津浦線を通つて南京に旅行した。南京市街の民家が概ね焼けているので、私は日本軍の爆撃によつて焼かれたものと考へ、空爆の威力に驚いていたが、よく訊いてみると、それらの民家は、いづれも南京陥落後、日本兵の放火によつて焼かれたものであつた。南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半歳を経た当時においても尚冷めやらず、南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。私を乗せて走る洋車夫が私に語つたところによると、現在南京市内にいる姑娘(若い娘)で日本兵の暴行を受けなかつたものはひとりもいないといふ。」
瀧川のこの証言は、日本側の宣伝写真を真に受けて、陥落直後の南京市内の「のどかさ」を強調する小林よしのり説に対する有力な反証ともなっている。

さらに、日本の国内へも、中国戦線における日本軍の残虐行為が、「流言」の形でひそかに伝えられていた(社会問題資料研究会編『支那事変に関する流言飛語に就いて 支那事変下に於ける不穏言動と其の対策に就いて』東洋文化社、1978年)。その中には、南京事件のことをさしているのではないかと思われる「流言」がある。たとえば、洋装店を営む住徳蔵という人物は、「日本兵ハ糧食ノ輸送ガ間ニ合ハズ数日引続キ食糧ヲ取ラズ突撃シ又ハ生芋ヲ喰リテ戦闘ヲ続ケ其為アル時ノ如キハ揚子江岸ニテ捕虜一万二千名ニ対シ食糧ヲ供給スルコト能ハズシテ屠殺シタリ由ナリ」と語って陸軍刑法違反で起訴されている。
また、日傭の小林末造という人物も、「上海付近ノ戦争ニ於テ我軍ハ支那兵約二万ヲ捕虜トシタルガ之ヲ全部機関銃ニテ射殺シ死体ハ揚子江ニ流シタル旨」と語って、同じように陸軍刑法違反で起訴されている。当時の陸軍刑法第99条では、戦時または事変に際し、「造言飛語」をなしたものは、3年以下の禁固刑に処するとされており、これによって、噂話の類まで厳しく取り締まられたのである。
最後に、昭和天皇が事件のことを知っていたのかという問題を検討しておこう。これについては、1936年に天皇の侍従になった徳川義寛が、「昭和12年の南京占領の時、日本軍がひどいことをしたということは、私は当時から知っていました。中国人捕虜を数珠つなぎにして撃ち殺すとか・・・」とした上で、次のように語っているのが参考になる(『侍従長の遺言』朝日新聞社、1997年)。
「南京虐殺があったとか無かったとか論争があるようですが、当時も関係者の多くは事実を知っていたんです。陛下が知っておられたかどうかはわかりませんが、折に触れて『日露戦争の時の軍と違う』ということはおっしゃっていました。」
断定することはできないが、昭和天皇自身が事件の存在そのものを知っていた可能性をうかがわせる証言ではある。以上みてきたように、事件の発生当時からかなり多くの人が、この事件の概要を知り得ていた。南京事件は、戦後デッチ上げられた事件であるとする主張には、何の根拠もないことは、もはや明らかだろう。

「参考文献」
天皇军与南京事变-另一本中 日 战争史 (日语)书– 1985/12/1 吉田裕  (作者)
L'armée de l'empereur et l'incident de Nanjing - Un autre livre sur l' histoire de la guerre sino- japonaise (japonais) - 1er décembre 1985 Yutaka Yoshida  (Auteur) Imperiestra Armeo kaj Nankina Incidento-Alia Sino- Japana Milithistorio (Japana) Libro - 1985/12/1 Yutaka Yoshida  (Aŭtoro)

①↑「”南京大虐殺”はアメリカと中国によって捏造された(デッチ上げられた)歴史的事件である」(編集故渡部昇一「博士」・東中野修道「教授」またはよしりん企画社長?)②Françaisフランス語→Higashinakano Shudo東中野修道(Shudo Higashinakano, de son vrai nom, Osamu, 19 octobre 1947-) est un historien japonais . Ancien professeur de droit à la Faculté de droit de l' Université d' Asie . Il est docteur en littérature (Thème: "Recherche sur le ministère de la sécurité nationale de l'Allemagne de l'Est" Université Rissho , 1995). Né dans la préfecture de Kagoshima(鹿児島県出身) .

①Françaisフランス語→La négation du massacre de Nankin 南京大虐殺否定est un point de vue, qui conteste le fait que les forces impériales japonaises ont assassiné des centaines de milliers de soldats et civils chinois durant la seconde guerre sino-japonaise, épisode très controversé dans les relations sino-japonaises. Malgré la popularité du négationnisme au Japon, elle est considérée comme un point de vue négationniste et n'est pas acceptée dans le principal courant universitaire, même dans les universités japonaises. 南京大虐殺否定난징 대학살 부인론은 일본군이 저지른 전쟁범죄인 난징 대학살을 부정, 축소하는 행위를 말한다. 주로 일본의 우익 세력이 행하며, 일본의 역사 왜곡의 일종이다②東中野修道(Shudo Higashinakano),『「南京虐殺」の徹底検証』(A Thorough Examination of “the Nanjing Massacre”), Tokyo:展転社(Tendensha), 
↑①左がベイツ教授(贝德士マイナー・シール・ベイツ(英語:Miner Searle Bates,1897年5月27日-1978年10月),历史学家)。Deutschドイツ語→Miner Searle Bates ( 28. Mai 1897 - Oktober 1978 ) ist ein Historiker aus Newark , Ohio , USA . Er promovierte an der Yale University und war Vizepräsident der Jinling University (heute Nanjing University ). Er war Berater der Regierung der Republik China. Im Dezember 1937, während der Schlacht von Nanjing, unternahm er als Mitglied des Internationalen Komitees der Sicherheitszone von Nanjing Aktivitäten zum Schutz der chinesischen Bürger)②右がスマイス教授(刘易斯·斯特朗凯西·史迈士ルイス・S・C・スマイス(英語:Lewis Strong Casey Smythe,1901年1月31日-1978年6月1日),美国传教士,金陵大学社会学系教授,南京大屠杀见证者,南京安全区国际委员会成员和管理委员会秘书)Esperatoエスペラント語→Lewis S. C. Smythe ( 31 januaro 1901-1978) estas usona misiisto . Sendita al la Respubliko de Ĉinio . Ĝi ankaŭ estas konata pro la raporto pri la Nankina Incidento (Nankina Masakro) okazinta dum la Nankina Milito)です③2人とも南京金陵大学の教授(南京金陵大学1888年—1952年)是美国教会1888年在中国南京创办的私立教会大学,1928年向中华民国教育部注册。1951年与私立金陵女子文理学院合并为公立(Jinling University in China)及び南京安全区国際委員会(南京難民区国際委員会(委員長ラーべ)The International Committee for Nanking Safety Zone・Comité international de la zone de sécurité de Nankin)委員。



第3章 第3のウソ              
世界でも報道されず、国際連盟、米・英・仏などから抗議はなかった
虐殺否定論者は「あったとしたら、なぜ、当時のメディアは報道せず、国際社会でも問題にならなかったのか」という疑問を呈し、だから「虐殺はなかった」と結論づけるのが常套手段のようだ。しかし、その前提そのものにまったく根拠がないばかりか、史実を歪曲しているのである。当時の資料を精読し、否定論の描く歴史像こそが妄想であることを実証する。
Românăルーマニア語→Tokushi Kasahara笠原 十九司(群馬県出身・1944-) este un istoric japonez . Profesor emerit la Universitatea de învățământ Tsuru . Este specializat în istoria chineză modernă.
3 リアルタイムで世界から非難を浴びていた南京事件       笠原 十九司              
世界の報道を知らなかったのは日本国民ばかり
南京大虐殺事件(南京事件と略称する)の事実を否定する人たちが繰り返すウソに、「事件当時世界のどの国でも報道されなかったし、国際連盟の非難決議もなかった」という主張がある。たとえば、渡辺昇一『かくて昭和は甦る』(クレスト選書、1995年)はこう記す。
「かりに南京大虐殺があったとしたら、なぜ、当時の国際社会で問題にならなかったのか」ということである。そのような時期に、南京で民間人を虐殺していれば、これは非難の的になったはずである。当時の南京には多くの欧米人がいる。国民政府の首都に住んでいるくらいだから、みな反日的な立場の人たちである。また、シナ大陸にはロイター、AP、UPIといった大通信社や、新聞社の特派員たちが多数駐在している。ところが、実際には、当時の国際社会で「南京の暴虐」ということを正式のルートで非難する声は上っていない。何しろ、被害者であるはずの中華民国代表でさえ、国際連盟の議場で「南京虐殺」のことを取り上げなかった」(同書、288頁、引用にあたっては、簡潔にするため適度に中途を省略したところがあるが、文章は原文のままである。以下引用文については同じ)。

昭和复兴日本的历史,粉碎了种族主义世界((选) (日语)精装书– 1995/5/1 渡边昇一 (作者)The History of Showa Revives-Japan that Crushes the World of Racism (Crest Selection) (Japanese) Hardcover – 1995/5/1 Watanabe Shoichi (Author) 
南京事件が当時世界で報道されなかったというウソは、旧内務省警保局『出版警察法』(復刻版、不二出版、1982年=出版警察関係資料,不二出版,1982年9月由井正臣ほか[解説]満鉄社員会[編],協和 ... 日本学芸新聞[昭和10年—昭和18年刊](全3巻) [復刻版],不二出版,1987年)を見るだけで見破れる。同書には戦時中、言論・出版の弾圧と統制を仕事にした当局が、南京事件を報道した外国の新聞・雑誌を検閲して発売禁止にしたリストが記載されている。つまり、日本当局は、世界の南京事件報道を検閲して税関段階でシャットアウトし、日本国民には見せないようにしていたのである。南京事件発生当時から、世界で虐殺の報道がなされていたことは、家永教科書裁判(家永教科书诉讼(日语:家永教科書裁判,いえながきょうかしょさいばん),是日本高中日本史教科书《新日本史》(三省堂出版)作者之一的家永三郎关于教科书检定(教科書審查)问题向日本国政府提起的一系列诉讼案件的统称。从1965年的第一次诉讼,经过1967年的第二次诉讼,最后直至1984年提出的第三次诉讼为止。1997年,日本最高法院对第三次诉讼作出判决,本案告以终结。从最初起诉到最终结案历经32年之久的本案也被《吉尼斯世界纪录》认定为“史上历时最长的民事诉讼”Españolスペイン語→Saburo Ienaga (家永 三郎 (愛知県出身Ienaga Saburō?, 3 de septiembre de 1913 - 29 de noviembre de 2002) fue un historiador, escritor y profesor japonés)で原告側証人として東京高裁の法廷に立った時に、私の意見書「世界に知られていた南京大虐殺」(教科書検定訴訟を支援する全国連絡会議編『家永教科書裁判・第三次訴訟高裁編第二巻 南京大虐殺・朝鮮人民の抵抗・731部隊』民衆社、1997年、所収)に紹介してある。ちなみに同裁判の判決(1993年10月22日)は南京大虐殺および日本軍の婦女暴行にかんする教科書検定が違法であると判定、南京大虐殺否定派の誤りを法的に確認したのである。
アメリカでは、事件初期に南京で取材していた『ニューヨーク・タイムズ』のF・T・ダーディン(フランク・ティルマン・ダーディン(英語: Frank Tillman Durdin, 1907年3月30日 - 1998年7月7日)は、アメリカ合衆国のジャーナリスト、ニューヨーク・タイムズ海外特派員[1]。日中戦争の南京戦における南京事件について報道したことでも有名Frank Tillman Durdin (March 30, 1907 – July 7, 1998) was a longtime foreign correspondent for The New York Times. During his career, Durdin reported on the Second Sino-Japanese War (1937–1945), the collapse of European colonial rule in Indo-China, and the emergence of the People's Republic of China. He was the first American journalist granted a visa to reenter China in 1971.[1])、『シカゴ・デイリーニューズ』のA・T・スティール(A・T・スティール(Archibald Trojan Steele,1903年6月25日 - 1992年2月28日)はアメリカ合衆国のジャーナリスト。1937年の南京戦における南京大虐殺(南京事件)を報道したことで知られるArchibald Trojan Steele (25 June 1903 Toronto, Ontario - 26 February 1992 Sedona, Arizona) was an American foreign or war correspondent for United Press, The New York Times, the Chicago Daily News and the New York Herald Tribune.[1] He covered China, Southeast Asia, the Middle East, and Africa from the early 1930s until his retirement in 1960. He then published several books, and is known for filing reports of the Nanjing Massacre in 1937 that first informed the world of the activities of the Japanese Army)の両記者の報道をはじめ、南京事件が多くの新聞・雑誌に報道されていた。また、南京安全区委員会のジョン・マギー牧師が虐殺の現場を撮影したフィルムを友人のジョージ・フィッチ牧師(
ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch、1883年 - 1979年)は、中国・蘇州市生まれのアメリカ人宣教師。キリスト教青年会(YMCA)南京支部長George Ashmore Fitch (1883–1979) was an American Protestant missionary in China, YMCA, Nanking Safety Zone International Committee Administrative Director, and the grandfather of politician George B. Fitch)が密かに持ち出して、アメリカに渡り、政府高官の前をはじめ各地で上映、報告して回っていた。これらの記録史料を収集翻訳したものが、南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』(青木書店、1992年)に収録されている。同書にはまだ存命中であった時のダーディン、スティールの両記者に私が直接インタビューして聞き出した事件の模様も収録されている。そしてこれらのアメリカにあった史料をもとに南京大虐殺の全体像を描いたのが拙著『南京難民区の百日―虐殺を見た外国人』(岩波書店、1995年)である。
南京事件と同時に同域で日本の海軍機がアメリカ砲艦パナイ号(同号には南京アメリカ大使館が避難のため臨時に置かれていた)を撃沈するパナイ号事件が発生し、前者はアメリカ国民に日本軍の侵略性、残虐性を印象づけ、後者は、日本軍がアメリカに不意打ちの敵対行動をとったという怒りを呼び起こし、両者あいまって対日抗議の日本製品ボイコット運動が展開された(詳細は拙著『日中戦争とアメリカ国民意識―パナイ号事件・南京事件をめぐって』中央大学人文科学研究所編『日中戦争―日本・中国・アメリカ』中央大学出版部、1993年、参照)。
*パナイ号事件(パナイごうじけん、Panay incident)は、日中戦争初期の1937年12月12日、揚子江上において、日本海軍機が米国アジア艦隊河川砲艦「パナイ」を攻撃して沈没させ、さらにその際に機銃掃射を行ったとされる事件。パネー号事件とも表記される。同日にレディバード号事件も発生している。The USS Panay incident was a Japanese attack on the American gunboat Panay while it was anchored in the Yangtze River outside Nanking (now spelled Nanjing), China on December 12, 1937

1937年12月,日本軍侵攻下の南京で避難民救済に奔走した外国人は,危険を冒して救援活動を行なう過程で,虐殺の実相を記録していた.本書は,彼らが残した史料と証言に依拠して,避難民・日本軍兵士・諸外国人の実像を活写しつつ,南京攻略戦の発端から1938年春までを辿り,南京虐殺の全体像に迫る.
1937(昭和12)年12月,日本軍侵攻下の南京で日本軍が多くの捕虜,市民を殺害した南京事件については,虐殺の有無とその規模についてかねてから論争が繰り広げられてきました.本書は,この事件の実像を知る上で必読の一冊です.まずタイトル,サブタイトルにご注目ください.
 日本軍侵攻下の南京には数多くの外国人が居住していました.その中で米国人宣教師たちが中心になって,南京安全区(難民区)国際委員会が設置され,避難民救済の活動を開始しました.翌年春までの約百日間にわたって,南京市外からも含めて難民区に流れこんだ十数万人の避難民を救済する活動に従事したのです.37年8月15日に開始された日本軍の南京空襲,日本海軍による米艦パナイ号撃沈の影響で外国人ジャーナリストも退去してしまった陸の孤島,南京で,南京占領後に頂点に達した日本軍の残虐行為を一貫して目撃したのが難民区にかかわった外国人たちでした.
 本書は,その外国人たちが記録した膨大な史料にも依拠しながら,南京事件の全体像を日本軍の南京攻略戦の開始から,38年5月の難民区の終焉までを対象にして描いた歴史ドキュメントです.
 本書を読んでいただければ,水と森と丘と寺院で知られる美しい古都の南京が日本軍の空襲と侵攻でどのように破壊されていくか.南京への攻略戦を進める日本軍が近隣の村からいかに物資を略奪し,農民たちへの虐殺をおこなってきたかが確かな史料と証言によって明らかにされています.その上で,日本軍が南京を占領した後の虐殺についても,避難民,日本軍兵士の動きが再現され,難民区の内と外で何がなされたのかを物語る貴重な史料によって,きわめて具体的に被害の実相が描かれています.
南京事件についてさまざまな立場はあるでしょうが,全ての読者にとって,日本の南京事件研究をリードしてきた著者による本書の叙述から,多くの示唆を得ていただけると信じます.なぜなら,このような視角から南京事件の全体像に肉薄するという仕事は本書以外に果たされたことがないからです.
 南京事件の真実を描く上では,日本軍側の史料と証言,中国側の史料と証言のいずれもが重要な意味を持っています.それと同時に南京難民区に関わり,自ら後々までPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しめられていった外国人たちが必死に残した史料は,避難民,日本軍兵士とは異なるまなざしから見た1937年冬の記録として決定的に重要なものです.そして,日本軍による残虐行為を阻止し,難民救済のために危険をかえりみず奮闘した彼らの活動は,結果的に日本軍による犠牲を少しでも食い止める上で大きな意義を持ちました.その人間的苦闘が本書でいきいきと描き出されています.
 単行本刊行から十年が経過しましたが,今回の現代文庫版では南京事件研究の新展開に則り,全章で新規加筆を行いました.また「補論・南京大虐殺事件における市民・農民の被害」と現代文庫版あとがきを書き下ろしました.後者ではこの十年の史料状況の変化と南京事件研究の現状についても解説しています.


Nanjing Refugee District 100 days Foreigners who saw the massacre  Author Tokushi Kasahara. 
Nanjing Refugee District 100 araw Mga dayuhan na nakakita ng masaker May-akda Ni Tokushi Kasahara

 抗日战争:日本/中国/美国 中央大学人文科学研究所 ( 编辑 ) 斋藤道彦 ( ed )出版社: 中央大学出版社Guerre sino-japonaise: Japon / Chine / États-Unis Institut universitaire des sciences humaines de Chuo ( éd . ) Michihiko Saito ( éd ) Éditeur: Chuo University Press


2017/02/14 - 米ニューヨーク・タイムズ紙の元東京支局長が、ベストセラーの自著「英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄」(祥伝社新書)で、日本軍による「『南京大虐殺』はなかった」と主張した部分は、著者に無断で翻訳者が書き加えていたことが8日明らかになった。英国人の”Fallacies in the Allied Nations' Historical Perception as Observed by a British Journalist(2016)著者ヘンリー・ストークス氏は共同通信に「後から付け加えられた。修正する必要があると述べた。翻訳者藤田裕行氏は加筆を認め「2人の間で解釈に違いがあると思う。誤解が生じたとすれば私に責任がある」と語った。翻訳者藤田裕行氏は「『南京大虐殺』とかぎ括弧付きで表記したのは、30万人が殺害され2万人がレイプされたという、いわゆる『大虐殺』はなかったという趣旨だ」と説明しているものの、著者であるヘンリー・S・ストークス氏は『わけの分からない釈明だ』と批判した藤田氏の改竄に対するストークス氏の言葉=(歴史の事実として)『南京大虐殺』はなかったという文章についてそうは言えない。(この文章は)私のものではない。ただ私は『MASSACRE(大虐殺)』という言葉は好まない。その言葉は使うことができない。日本語だと使えるだろうが、英語だと恐ろしくぞっとする。『大虐殺』と呼べないにせよ、南京で何か非常に恐ろしい事件が起きたかと問われれば、答えはイエスだ。(問題の部分は)後から付け加えられた。修正する必要がある。私に告げずに挿入すべきでなかった」

2017/02/14 - The former Tokyo bureau chief of the New York Times wrote in his best-selling book, "A British Reporter's Perception of the Victory of the Allied Nations in History's Filth" (Shodensha Shinsho), that the Japanese military had committed the "Nanjing Massacre." It was revealed on the 8th that the translator had added the part claiming that there was no Nanking Massacre'', without the author's permission. Henry Stokes, a British author of "Fallacies in the Allied Nations' Historical Perception as Observed by a British Journalist (2016)," told Kyodo News that "it was added afterward. It needs to be corrected." Translator Hiroyuki Fujita acknowledged the additions and said, "I think there is a difference in interpretation between the two. If there is any misunderstanding, I am responsible." Translator Hiroyuki Fujita said, "The reason I wrote the "Nanjing Massacre'' in square brackets is that there was no so-called "massacre,'' in which 300,000 people were murdered and 20,000 people were raped. Mr. Henry S. Stokes, who was the author, as saying, "It is an incomprehensible explanation." he criticized+Regarding Mr. Stokes' words in response to Mr. Fujita's falsification = "(As a historical fact) there was no 'Nanjing Massacre'," he said, "I can't say that. (This text) is not mine. However, I don't like the word "MASSACRE". I can't use that word. In Japanese it would work, but in English it's terrifyingly horrific. If I can't call it "Massacre", then something in Nanjing If you ask me if something very horrific happened, the answer is yes, [the part in question] was added afterward, it needs to be fixed, it shouldn't have been inserted without telling me."


①일본 상품 불매운동(日本商品不買運動)은 2019년 7월 일본 아베 정권의 대한민국 수출규제 및 대한민국 화이트리스트 국가 제외라는 경제보복과 무역제재(화이트리스트배제)에 항의하여 2019년 하반기에 대한민국 국민들이 자발적으로 일본 제품을 사지 않은 운동이다. 정치화와 선택적 불매운동으로 비판이 되기도 했지만 아베 정권의 대한 도발을 제지하고 과거사 청산 문제를 다시 재조명했다고 평가받기도 한다②抵制日货是經濟抵制的一種,目標為由日本所持有或及生產的商品。歷史上很多國家和地区都曾經出現過抵制日貨的呼籲或者行動,當中包括中國大陸、香港、臺灣、韓國以及美國等等。最近一次大型抵制是2012年中國反日示威暴動。

①Boycotts of Japanese productsБойкот японських товарівhave been conducted by numerous Korean, Chinese and American civilian and governmental organizations in response to real or disputed Japanese aggression and atrocities, whether military, political or economic②Boycott des produits japonaisБойкот японских товаров
: Des opérations de boycott des produits japonais ont été menées par de nombreuses organisations civiles et gouvernementales chinoises, toujours en réponse à une agression japonaise réelle ou perçue, qu'elle soit militaire, politique ou économique.

『大日本人』主流派の方々へTo the mainstream of the ≪Big Man Japan≫:①いつまでも『ゴーマニズム』「自虐史観」「ご都合主義」だの「未来志向」「私には関係ない」云々といい気になっているとIf you're always in a good mood say things like 'gomanism', 'masochistic view of history', 'opportunism', 'future-oriented', 'I don't care', etc、「全世界」「国際的」に↑こうなっても文句はいえなくなりますよyou won't be able to complain even if it becomes↑ "global'' and "international''. そしてこれらはあなた方ザ「我が国」人だけ「島国根性」限定の問題ではないAnd these are not problems limited only to you, the "our country", as "islanders"、「世界平和」が賭かかっていること"World peace" is at stake②またAlso、「ワーキングホリデー」や「英語学習」「自己啓発」あるいは「海外旅行」どうこうと世界を気ままにウロウロできなくなる可能性もあります"Working holiday", "English learning", "self-development", or "overseas travel", there is a possibility that you will not be able to wander around the world at will③(別に何の期待もしておりませんがI don't expect anything else)ともあれAnyway、あなた方次第なのも確かですI'm sure it's up to you(CANADA)2023/06/24 Anti-Japan反日Gaijinガイジン Antid Otoより



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