日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

南京大屠杀否认者的“十三谎言”/『南京大虐殺否定論13のウソ』/"Thirteen Lies" by the Deniers of the Nanjing Massacre= 南京事件調査研究会/Groupe d'étude sur les enquêtes sur les incidents de Nanjing①

南京大屠杀否认者的“十三谎言”  『南京大虐殺否定論13のウソ』 "Treize mensonges" par les négateurs du massacre de Nankin "Thirteen lies" by the deniers of the Nanking Massacre 南京事件調査研究会編 Groupe d'étude sur les enquêtes sur les incidents de Nanjing The Nanjing Incident Investigation Study Group

国防部审判战犯军事法庭,简称南京軍事法庭,是1946年2月成立的审判第二次中日战争中日本战犯的军事法庭。Русскийロシア語⇒Нанкинский трибунал по военным преступлениям был учреждён в 1946 году правительством Чан Кайши для суда над четырьмя офицерами императорской армии Японии, обвиняемых в военных преступлениях, совершённых во время Второй японо-китайской войны в Нанкине. Это был один из тринадцати трибуналов, организованных правительством Чан Кайши.
第1章 第1のウソ 南京大虐殺は東京裁判でデッチ上げられた 
日本のA級戦犯を審理するため、1946年に開廷した東京裁判(正式には極東国際軍事裁判)で、一般の日本人ははじめて南京大虐殺の詳細な実像を知ることになる。東京裁判の評価をめぐってはさまざまな議論がたたかわされてきたが、最近公開された映画『プライド』が裁判を批判的に描いて高収益を上げるなど、東京裁判を全否定する論調が広がりつつある。東京裁判は単なる「勝者の裁判」でなんら意義のないものであったのだろうか?BC級戦犯を対象にした南京裁判とあわせて考察する。


远东国际军事法庭(英語:International Military Tribunal for the Far East;日语:極東国際軍事裁判/きょくとうこくさいぐんじさいばん Kyokutō kokusai gunji saiban */?),又称东京国际军事法庭、东京审判、東京大審,是第二次世界大战结束後特設之國際軍事法庭,於1946年5月3日至1948年11月12日之間,由身為勝方的同盟國為解決敗方日本的戰犯認定等責任歸屬而創立。法庭設於東京市谷的原陸軍士官學校大講堂,位於今東京都新宿區市谷本村町的自衛隊設施「防衛省市谷地區」內。
Polskポーランド語⇒Międzynarodowy Trybunał Wojskowy dla Dalekiego Wschodu – międzynarodowy trybunał do osądzenia zbrodni dokonanych przez przywódców i pozostałych obywateli Japonii podczas II wojny światowej.

Pride (プライド 運命の瞬間;, Puraido: Unmei no Toki), also known as Pride: The Fateful Moment, is a 1998 Japanese historical drama directed by Shunya Itō. The film, based on the International Military Tribunal for the Far East of 1946–48, depicts Japanese prime minister Hideki Tojo (played by Masahiko Tsugawa) as a family man who fought to defend Japan and Asia from western colonialism but was ultimately hanged by a vengeful United States.  Hideaki Kase加瀬英明가세 히데아키 ((自称「醜い韓国人」критик, известный пропагандой исторического ревизионизма「ユダヤ専門家」?), 1936 წლის 22 დეკემბერი -) იაპონელი დიპლომატიური კრიტიკოსი . ასევე გამოყენებულია აკირა სუკეგავას სახელი 

↑左がヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)国家元帥(死刑判決・46年10月15日、絞首刑執行前日に服毒自殺・53歳)、右がルドルフ・ヘス(Rudolf Walter Richard Heß)国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)副総統(終身禁固刑・87年8月17日、刑務所内で首吊り自殺・93歳)。
ニュルンベルク裁判(ニュルンベルクさいばん)は、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判である(1945年11月20日 - 1946年10月1日)。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地であるニュルンベルクで開かれた。日本の極東国際軍事裁判(東京裁判)と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。뉘른베르크 국제군사재판(영어: Nuremberg International Military Tribunal) 또는 뉘른베르크 전쟁범죄수괴 재판(독일어: Nürnberger Prozess gegen die Hauptkriegsverbrecher)은 제2차 세계 대전 이후 연합국이 국제법 및 전시법에 따라 거행한 국제군사재판이다. 피고들은 나치 독일의 지도층 및 상급대장 및 원수급 군인으로, 홀로코스트를 비롯한 여러 전쟁범죄를 계획, 실행 또는 관여한 혐의로 피소되었다. 독일 뉘른베르크 정의궁에서 진행되었다. 이 재판에서 내려진 결정들은 고전국제법과 현대국제법의 분기점으로 평가받는다.
Esperantoエスペラント語→Akira Fujiwara (藤原 彰, Fujiwara Akira , 2 julio 1922東京都出身 - 26 februaro 2003) estis japana historiisto. Lia akademia specialaĵo estis moderna japana historio kaj li estis profesoro emerito en Hitotsubashi University . En 1980 li iĝis membro de la Scienca Konsilio de Japanio kaj estis iama prezidanto de la Historia Scienca Societo de Japanio.

1「東京裁判によるデッチ上げ」説こそがデッチ上げ  藤原彰
南京大虐殺は連合国の創作だった?         
南京大虐殺否定派が振りまいているウソの中で、もっとも事実に反しているものの一つが、「南京大虐殺は東京裁判によるデッチ上げ」という攻撃である。そもそも南京大虐殺などは存在せず、日本人はもちろん世界も知らなかった。戦後になって連合国が、日本の悪虐非道ぶりを示すために、ナチスによるアウシュヴィッツに匹敵するものとして、南京大虐殺のストーリーを作り上げ、突如として東京裁判に持ち出したのだ。そして証拠もないデタラメな裁判で、原爆の被害者を上まわる30万人の虐殺という説を、反日プロパガンダのためにデッチ上げたと主張するのである。冨士信夫、渡部昇一、藤岡信勝、小林よしのりなどの否定論の人々の「南京大虐殺のウソ」論は、異口同音にこの東京裁判による創作説、デタラメの復讐劇説に立っている。

Neue Gomanismus-Erklärung 5 Die Streunerrede: Die Streunerrede (Japanisch) Buch - 1998/9/18 Yoshinori Kobayashi  (Autor)Amazonで小林 よしのりの新・ゴーマニズム宣言 5 言論の迷走:新ゴーマニズム宣言 (10) (小学館文庫) ... 単行本: 222ページ; 出版社: 小学館 (1998/9/18)、津川雅彦氏との対談、時浦兼氏(自称「日本の戦争冤罪研究センター所長」よしりん企画(社長は?(NMB48)ナギ?)イチの「博識」(博学・勉強家)?)による大論文「南京の本当の真相はこうだ」で構成されている。 A la suite de la controverse "femmes de réconfort", le "massacre de Nanjing" a éclaté! Gorman est clair! Après la question des manuels et celle des femmes de réconfort, le débat sur le «massacre de Nanjing» a éclaté. Alors que les discours des intellectuels s'égarent et engloutissent les gens dans le tourbillon des soupçons, nous aboyons à Yoshirin!

最近の例では、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 第5集』(小学館、1998年)に収録されている時浦兼「南京の真相はこうだ」の説がある。これはGHQの命令で、全国の主な新聞に1945年12月8日から連載された「太平洋戦争史ー真実なき軍国日本の崩壊」に、南京虐殺が突然登場し、翌年の東京裁判でさらに本格的に展開されたのだとする。日本の戦争を否定するために、日本軍の悪行を作り出したもので、現在の「自虐史観」の原型だと非難している。
だがこの「東京裁判によるデッチ上げ」説こそが、ウソの固まりであり、デッチ上げなのだ。南京大虐殺は東京裁判で突然持ち出された事件ではなく、事件の進行とともにリアルタイムで世界にも、日本にも伝えられていた。「南京アトロシティーズ」(南京の残虐行為)、「ザ・レイプ・オブ・南京」という言葉は、その当時から日本軍の暴虐非道を非難して使われていたのである。
南京は当時の中国の首都だったから、外国の公館や報道機関も多数存在していた。外国人の多くは、日本軍が近づくと避難したが、1部の記者たちや、難民の保護にあたった宣教師や医師たちは踏みとどまっていた。南京を占領した日本軍は、入城直後の1937年12月15日に残っていた記者たちに退去を命じ、ニュースの発信や写真の持ち出しを禁止して、南京の実情が洩れるのを防ごうとした。だがそれでも、大虐殺の報道が世界をかけめぐることになった。
事件が進行しつつあった12月15日以降から、『シカゴ・デイリー・ニューズ』の南京特派員A・T・スティール、『ニューヨーク・タイムズ』の上海特派員H・アベンドと南京特派員F・T・ダーディンらが南京や上海から打った電報が、日本軍の残虐行為を世界に知らせた。とくに『マンチェスター・ガーディアン』の中国特派員H・J・ティンパーリーは、詳細な報道とともに、それをもとにした編著『戦争とは何かー中国における日本軍の暴虐』(What war means:The Japanese Terror in China)を1938年にロンドンとニューヨークで発行し、同年中に日本語訳と中国語訳が中国で刊行された。

中文: 田伯列著, 楊明譯. 《外人目睹中之日軍暴行》. 國民出版社. 1938.  Portuguêsポルトガル語→Harold John Timperleyハロルド・J・ティンパーリ (1898-1954) foi um jornalista australiano, conhecido por seus relatos da China na década de 1930, e pelo livro What War Means (O que significa a guerra, 1938), baseado neles.

1938年1月17日付で、広田弘毅外相(Latinaラテン語⇒Kōki Hirota (Iaponice 広田 弘毅(福岡県出身) Hirota Kōki(A級戦犯=文官中、ただ一人絞首刑) natus die 14 Februarii 1878; mortuus in Sugamo die 23 Decembris 1948) fuit legatus, politicorum peritus et Iaponiae primus minister a die 9 Martii 1936 usque ad diem 2 Februarii 1937(1936年3月9日から1937年2月2日まで首相)がワシントンの日本大使館宛てに打った電報が、アメリカ側に解読されていた。そこで広田は、上海で押収したティンパーリーの電報が、南京その他で30万人を下らない中国民間人が殺されたと述べていることを、情報として伝えている。外務省は当時から外国の報道を知っていたのだ。当時の外務省東亜局長石射猪太郎(石射 猪太郎(いしい いたろう(福島県出身)、1887年2月6日 - 1954年2月8日)は、日本の外交官。Esperantoエスペラント語→Itaro Ishii ( 6 februaro 1887 - 8 februaro 1954 ) estas japana diplomato)が敗戦直後の1950年に読売新聞から刊行した回顧録『外交官の一生』は、とくに「南京アトロシティーズ」の一項を設けて、軍とともに南京に入った福井総領事代理(福井 淳(ふくい きよし(神奈川県出身)、1898年2月1日 - 1955年5月3日)は、日本の外交官。元南西方面海軍民政府司政長官。Deutschドイツ語→Fukui Kiyoshi ( 1. Februar 1898 - 3. Mai 1955 ) ist ein japanischer Diplomat . Ehemaliger Generalsekretär der Zivilregierung der Südwestmarine)や、岡本上海総領事(岡本 季正(おかもと すえまさ(京都府出身)、1892年8月16日[1] – 1967年11月23日)は、日本の外交官。 駐オランダ大使、日蘭協会会長。Suemasa Okamoto (Okamoto Suemasa, 16 August 1892 [1] – 23 November 1967 ) is a Japanese diplomat . Ambassador to the Netherlands and Chairman of the Japan- Netherlands Association)からの報告で、日本軍の掠奪、強姦、放火、虐殺の情報を知って慨嘆したこと、石射が三省会議(外務省東亜局長と陸海の軍務局長)でたびたび陸軍に警告したこと、広田外相からも杉山陸相(스기야마 겐/하지메(일본어: 杉山 元(陸軍元帥), 1880년 1월 1일福岡県出身 ~ 1945년 9월 12일(自殺)는 일본 제국의 육군 군인이다. 원수, 육군 대장, 육군 대신, 태평양 전쟁 당시에는 참모총장을 지냈다)に軍紀の粛正を要望したことを述べている。そしてこの事件を「南京アトロシティーズ」と呼んだとした上で、「日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった」と書いている。
外務省ばかりではない。軍の中央部にも大虐殺の事実は知られていた。当時の参謀本部作戦課長だった河辺虎四郎(河辺 虎四郎(かわべ とらしろう、1890年(明治23年)9月25日 - 1960年(昭和35年)6月25日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。富山県出身。Bahasa Indonesiaインドネシア語⇒Torashirō Kawabe (河辺 虎四郎 Kawabe Torashirō, 25 September 1890 – 25 Juni 1960) adalah seorang jenderal dan Ketua Deputi StafJenderal Tentara Kekaisaran Jepang selama Perang Dunia II. Ia juga saudara bungsu dari Jenderal Masakazu Kawabe)の回顧録『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、1962年)には、参謀総長閑院宮載仁親王大将(Русскийロシア語⇒Принц Котохито (Канъин) (яп. 閑院宮載仁親王 Канъин-но-мия Котохито синно(陸軍元帥):, 10 ноября 1865 — 21 мая 1945) — 6-й глава наследной (син-но-кэ) ветви Канъин Императорского дома. Маршал Сухопутных войск Императорской Японии)の名で、松井石根方面軍司令官(Españolスペイン語⇒Iwane Matsui (松井 石根(愛知県出身(陸軍大将)A級戦犯=絞首刑) 27 de julio de 1878 – 23 de diciembre de 1948) fue un general del Ejército Imperial Japonés y comandante de las fuerzas expedicionarias enviadas a China durante la Segunda Guerra Sino-Japonesa. Fue ejecutado por sentencia del Tribunal Penal Militar Internacional para el Lejano Oriente en la posguerra por su papel en la Masacre de Nankín)にたいし厳重な戒告を出し、その案文を自分が作ったと書かれている。その戒告とは、1938年1月4日付「軍紀風紀の維持振作に関する要望」として記録に残っているもので、「軍紀風紀に於て忌しき事態の発生」を戒めたものである。また松井方面軍司令官は38年2月に解任されているが、これは事件の責任を負うたものとされており、松井自身はこのことに不満であった。この年の12月に陸軍省の兵務課長(軍紀風紀の担当)に就任した田中隆吉(田中 隆吉(たなか りゅうきち(島根県出身)、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将Catalàカタルーニャ語→Ryūkichi Tanaka (田中 隆吉). Nascut el 28 de setembre de 1896 a l'actual Yasugi (prefectura de Shimane) i mort el 1972 a causa d'un càncer rectal. Fou un general de l'Exèrcit Imperial Japonès (Kyūjitai. forma tradicional del kanji japonès: 大日本帝國陸軍) en la Segona Guerra Mundial)は、事件のことを「世界史上最もひどい残虐行為」だとし、憲兵や兵務課で、軍司令官や師団長ら責任者を軍法会議にかけることを検討したが、参謀本部が反対したので実現しなかったと述べている(栗屋憲太郎ほか編『東京裁判資料・田中隆吉尋問調書』大月書店、1994年)。軍当局が事件の反響の大きさに苦慮していたことは明らかで、さきの参謀総長の要望を受けて、ただちに中支那方面軍はその趣旨を隷下部隊に通牒している。
外務省や軍だけでなく、日本の報道機関も南京の事件の実情は知っていた。ただ厳重な検閲と報道統制のために、書くことができなかっただけである。当時の内務省警保局が出していた『出版警察報』(戦後に復刻版が出ている)には、「我軍が無辜の人民に惨虐なる行為を為せる如く曲説するもの」という理由で発禁処分になったものが、1938年1月9件、2月54件、3月29件となっている。これが南京大虐殺を報道した記事にあたるもので、その内容は眼を蔽うばかりの酷さである。
中央公論社の特派員として南京に滞在した作家の石川達三(石川 達三(いしかわ たつぞう、1905年(明治38年)7月2日 - 1985年(昭和60年)1月31日)は、日本の小説家。Tatsuzō Ishikawa (石川 達三(秋田県出身), Ishikawa Tatsuzō, July 2, 1905—January 31, 1985) was a Japanese author. He was the first winner of the Akutagawa Prize・・・ Embedded within an army unit later connected to the Nanking Massacre, Ishikawa wrote a fictional account (Ikite iru Heitai 生きている兵隊) of the atrocities suffered by Chinese civilians as well as the widespread pessimism of the Japanese soldiers)は、兵士たちから取材した虐殺や強姦の様子を描いた『生きている兵隊』を『中央公論』1938年3月号に執筆した。だが同号は即日発行禁止になり、石川は禁固4年執行猶予3年の判決を受けた。少しでも事件のことを書くこと自体が、弾圧の対象にされたのであった。つまり世界にセンセーションを巻き起こしたこの事件も、厳重な報道統制と言論弾圧によって、日本国民にだけは知らされなかったのである。
だから南京大虐殺という出来事は、実際に起こったときから10年近くも経った東京裁判で、突如としてデッチ上げられた事件なのではない。まさに同時進行で、世界にも、日本の上層部にも伝えられてた事件だったのだ。そのことを示す無数の証拠が存在しているのに、それを一切知らぬふりをするのは、ウソとしか言いようがない。東京裁判でいきなり突きつけられて驚いたのは、情報を遮断され盲目にされていた一般の日本国民だけだったのである。

《活着的士兵》(日语:生きてゐる兵隊(いきているへいたい))是日本记者石川达三的一部报告文学,以大屠杀期间在南京对侵华日军官兵面对面采访的记录为素材撰写而成。1945年12月初版。

↑日本側の官製プロパガンダ(宣伝)映画Japanese official propaganda film(1938年2月20日公開=南京占領から約3ヵ月後About three months after the occupation of Nanking)⇒故藤原教授が解説したとおりAs explained by the late Professor Fujiwara. 厳重な「検閲」と「報道統制」「言論弾圧」によりDue to strict "censorship", "press control" and "oppression of speech"、世界から隔絶していた「我が国」一般国民たち(現在もおんなじ?)が知っていたのはこれだけThis is all that the general public of "our country", isolated from the rest of the world (is it still the same now?), knew.

↑実際の「南京大虐殺」、生存者たちの証言も含めた欧米と中国共同編集のドキュメンタリー

伝聞証拠しかないから虐殺はなかった?
東京裁判について、否定派がもう1つ繰り返し主張しているのは、裁判は伝聞証拠ばかりによったデタラメなものだということである。そして必ず引き合いに出すのが、ジョン・マギー証人(约翰·马吉(John Magee,1884年-1953年),籍貫賓州匹茲堡,美国传教士,以在南京大屠杀期间救助中国平民而著名)にたいするブルックス弁護人の反対尋問の一節である。マギー牧師は、検察側が呼んだ9人目の証人として、1946年8月15日と16日の2日間にわたり、法廷で詳細な証言をした。マギーは南京の国際安全区の委員(南京安全区又称南京难民区,是1937年12月日本军队即将攻占中华民国首都南京时,南京城内的欧美侨民出于人道主义,为保护平民免遭战火而成立的难民区。安全区由南京安全区国际委员会进行管理,共设25个难民收容所。国际委员会与同样由西方侨民发起成立的世界红十字会南京委员会在日军南京大屠杀惨案期间,庇护了难民区内约25万中国难民。1938年2月18日,南京安全区国际委员会在日本占领军的逼迫下改为南京国际救济委员会,成为一个纯粹的救济机构,安全区随之解散,但区内的难民收容所直到6月才全部关闭)の中心的な1人で、日本軍の暴行、強姦、虐殺などの数多くの事例を挙げた。ところがブルックス弁護人は反対尋問でマギーから、日本兵による殺害のその瞬間を目撃したのは1人だという答えを引き出した。否定派はこの部分だけを取り上げて、証言はすべて伝聞証拠で、大虐殺などなかったとするのである。1998年に、東条英機を主人公にして、東京裁判を批判する立場で作られた映画『プライド』も、この場面をとくに詳細に描いて、東条に「みな伝聞だ」と言わせ、南京大虐殺を否定していた。
しかし安全区で、もっぱら怪我人や強姦の被害者の救護活動をしていたマギーが殺害現場に立ち会わなかったのは当然で、マギー証言の意義は夥しい数の被害者と接していたことにこそあるのだ。また彼は日本軍の目を盗んで、密かに16ミリフィルムのカメラで虐殺された死体や被害者を撮影し、貴重な史料を残している。それらを無視して、殺害現場を見たのは1人だけだという部分のみが、何回も持ち出されているのである。
東京裁判での南京大虐殺の審理は、1946年7月25日から47年4月9日まで、15回にわたって行なわれた。検察側証人として11人が出廷して証言したほかに、安全区の外国人委員や、生き残りの被害者など21人が、宣誓供述書を提出している。さらに安全区檔案(文書)、南京裁判所検察書、崇善堂(崇善堂 该堂为私立慈善团体,成立于清嘉庆二年(1797 ) ・・・由于大批南京同胞惨遭日军屠杀,尸横遍地,便组织了“崇字掩埋队”,自1937年12月26日至1938年5月1日,从事掩埋尸体的工作。当时堂长为周一渔。该堂于战后呈送给审判战犯军事法庭的埋尸统计表中记载:1937 年12 月下旬至1938 年5 月l 日,组织“崇字掩埋队”,堂长周一渔亲任队长,共于城区收埋尸体7548 具,乡区收尸104718 具)や紅卍字会(Polskiポーランド語→Światowe Stowarzyszenie Czerwonej Swastyki – chińskie stowarzyszenie międzynarodowe założone w 1922 roku w Pekinie, jako filantropijne odgałęzienie synkretycznej organizacji Daoyuan (道院).・・・Szczególną rolę odegrało stowarzyszenie podczas masakry nankińskiej w 1937)など慈善団体の死体埋葬記録、アメリカ大使館の事件関係の報告書、在中国ドイツ外交当局の報告書、ドイツ人ラーべの書簡などが証拠として提出されている。この膨大な証拠は、公刊されている裁判記録で読むことができる。検察側があげた圧倒的な残虐行為の証拠にたいして、弁護側の反証はあまりにも弱いもので、「法廷は、あっけにとられた」(児島譲『東京裁判(下)』中公新書、1971年)。松井石根被告担当の伊藤清弁護人によれば、「事件については、真相は別とし、検察側の証拠は圧倒的であり、世界中にあまりにも悪評が高かった事件でもあり、松井被告には少々気の毒とは思ったが、事実そのものの認否の事は一応に止め」たのだという(児島、同書)。だから弁護側の証人はわずかに3人、書証は3通にすぎなかった。
注目されていた南京大虐殺事件の法廷は、検察側の膨大な証拠を積み重ねての立証と、それに比べて呆気ないほど淡白な弁護側の反証に終始した。判決では「南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている」とし、松井被告に死刑を言い渡したのである。

*Takashi Hayasaka早坂 隆(愛知県出身2 septembro 1973-) estas japana nefikcia verkisto kaj raportisto . Membro de Japana Bungei-Familia Asocio .『指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎』(文春新書)『松井石根と南京事件の真実』(文春新書)『昭和十七年の夏 幻の甲子園』(文藝春秋)『戦場に散った野球人たち』(文藝春秋)『愛国者がテロリストになった日 安重根の真実』(PHP研究所)『日本の戦時下ジョーク集 満州事変・日中戦争篇』(中公新書ラクレ)
マギーへの反対尋問の一節だけを問題にして、2日間にわたるマギーの大量な証言の全体を否定し、さらには東京裁判の全体をも否定するという乱暴な結論を出すのが、否定派のやり方である。だがこれが、南京大虐殺を否定する戦争美化論者の常套手段なのだ。1つの欠点を見つけるとそれに飛びつき、それを口実にして全体を否定するというのが、今まで何回も繰り返されてきた否定論の手口であった。そしてかつてない大規模な内容と歴史的意義をもった東京裁判の成果を、まったく無視するのである。
たしかに東京裁判には、問題点がなかったわけではない。侵略戦争を犯罪だとし、それを計画し遂行した者を「平和にたいする罪」として裁いたのは、事後法によるものだから罪刑法定主義に反するという批判は当初からあった。また裁判は連合国軍最高司令部の管轄下におかれ、判事も検事もすべて中立国ではなく連合国から選ばれているから、勝者による敗者にたいする復讐劇だとする反発もあった。また裁判の内容をとってみても、裁判を主導したアメリカの利害が優先しており、天皇や上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王中将(朝香宮鳩彥王(1887年10月20日-1981年4月12日),1906年被明治天皇赐与朝香宮的宫号。朝香宮鳩彥王是南京大屠杀的有争议的责任人之一,因是皇族,故戰後並沒有被送上軍事法庭)を免罪にしたこと。財閥や官僚の責任を問わなかったこと、さらに資料の提供と交換で731部隊や毒ガス使用の問題を除外したことなどの欠陥も指摘されている。
だがそうした問題点はあるにせよ、東京裁判はほかに比べようがないほどの成果と意義があったことも、疑いのない事実である。何よりも、それまで日本国民にも隠されていた日本の戦争の真実を、膨大な史料をもとにして具体的に明らかにしたことの意義は大きい。1920年代後半からの日本の中国への干渉と出兵、関東軍参謀による張作霖の殺害、30年代初めの右翼クーデターである3月事件や10月事件など、それまで知らされていなかった歴史的事件を、国民は裁判を通してはじめて知ったのである。アジア解放の聖戦だと教えられてきた戦争が、領土や資源を獲得するための侵略戦争であったこと、その戦争の中で、「皇軍」と自称していた日本軍が、南京やシンガポールやマニラなどで大規模な残虐事件を起していたことも知らされた。法廷に提出された証拠と、それをはるかに上まわる1万点以上の未提出証拠書類は、今でも日本近現代史研究のための史料の宝庫となっている。
南京大虐殺についても、東京裁判は、その全体像をはじめて明らかにしたという意味をもっている。この裁判では、ウィルソン医師(http://yu77799.g1.xrea.com/siryoushuu/wilson01.html)、ベイツ教授、マギー牧師ら当時南京にいた外国人、虐殺の中から辛うじて生き残った被害者たち、その他双方の立場の証人、アメリカやドイツの公文書や多くの残存史料が法廷に提出された。そして生々しい事件の実態や、それらを総合した事件の全貌が、はじめて解明されたのである。もちろん現在では事件の研究は当時より格段に進んではいるが、裁判で明らかにされた事実も多く、その意義はいまだに失われてはいない。東京裁判を否定したり、無視したりすることは、意図的に事件を抹殺しようとするものと言わねばならない。


1937年12月16日(南京・陥落3日後)左から⇒1、長谷川清海軍中将(A級戦犯容疑者・台湾総督) 2、松井石根大将(中支那方面軍司令官) 3、朝香宮鳩彦王中将(上海派遣軍司令官) 4、柳川平助中将(第10軍司令官(皇道派の重鎮)司法・国務大臣を歴任)

南京の軍事法廷もデタラメの復讐劇?
大虐殺否定派が、もう1つデタラメだと言い張っている裁判は、中国の国民政府側が、1946年2月から47年12月まで、現地の南京で行った軍事法廷である。これは連合国各国が、それぞれに実施したBC級戦犯裁判の1つであって、国共内戦を前にした慌しい時期に行われた。裁かれたのは、事件当時の第6師団長谷寿夫中将(
谷寿夫(日语:谷 寿夫〔谷 壽夫〕/たに ひさお Tani Hisao,1882年12月23日-1947年4月26日,日本帝国时代的陆军中将,南京大屠杀的主要责任人,二战乙級戰犯。Françaisフランス語→Hisao Tani (谷 寿夫(岡山県出身), Tani Hisao?) (22 décembre 1882 - 26 avril 1947(銃殺刑) est un général de l'armée impériale japonaise qui fut impliqué dans le massacre de Nankin de 1937. Après la guerre, il est extradé en Chine pour être jugé au tribunal des crimes de guerre de Nankin. Il est exécuté peu de temps après par la justice chinoise)と3人の将校(100人斬り→向井敏明(事件当時少尉)少佐(山口県出身)、野田毅(少尉)少佐(鹿児島県出身)300人斬り→田中軍吉(大尉)中佐(東京都出身)→48年1月28日、銃殺刑)であって、中国の要求によってGHQが日本で逮捕し、南京に送られたものであった。中国にとっては南京大虐殺を取り上げるために、いわば象徴としてこの裁判が行われたのであった。谷が選ばれたのは、事件当時の高級指揮官の中で、中支那方面軍司令官松井石根大将はA級戦犯として東京裁判にかけられており、第10軍司令官柳川平助中将(야나가와 헤이스케(일본어: 柳川 平助, 1879년 10월 2일 ~ 1945년 1월 22일) 은 일본의 육군군인이다. 사법대신, 국무대신을 역임하였다Српски / srpskiセルビア語→Хеисуке Јанагава (јап. 柳川 平助(長崎県出身), 2. октобар 1879 – 22. јануар 1945) био је генерал војске Јапанске царске војске током Другог светског рата)や第16師団長中島今朝吾中将(Kesago Nakajima (中島 今朝吾(大分県出身), Nakajima Kesago, 15 June 1881 – 28 October 1945) was a lieutenant general in the Imperial Japanese Army during the Second Sino-Japanese War, who has been implicated in the Nanjing massacre of December 1937Eestiエストニア語→Kesago Nakajima (jaapani keeles 中島 今朝吾; 15. juuni 1882 Ōita prefektuur – 28. oktoober 1945) oli jaapani kindral)はすでに死亡していたからである。また3人の将校が中国側から指名されたのは、当時の日本の新聞で「百人斬り競争」などと書き立てられ、広く名前が知られていたからであった。なおこの裁判で殺人競争の罪を問われた2人将校の事件について、否定派は冤罪だと主張し、最近刊行された鈴木明『新「南京大虐殺」のまぼろし』(飛鳥新社、1999年)でも、同じようなことを繰り返している。だが本書の本多勝一論文(第6章)が明快に示しているように、2人が多くの捕虜を殺していることは間違いない事実である。こうした経緯もあったので、南京軍事法廷は、事件の全体像を総合的に問題にするのではなく、被告の犯罪事実を個別に認定するというものであった。事件の実情の解明よりも、被告が残虐事件にいかに係っていたかを追求したのである。ところが否定派は、南京法廷の裁判だけを取り上げて、これを事件のすべてだとし、実際とはまったく違うと批判するのである。そして裁判はいい加減で、南京大虐殺そのものが報復のためのデッチ上げだと主張する。南京で裁判が行われた直後に、この地域は人民解放軍の手に落ち、関係史料は中華人民共和国の南京にある中国第2歴史檔案館(中国第二历史档案馆The Second Historical Archives of China (SHAC, Chinese: 中国第二历史档案馆; pinyin: zhōng guó dì èr lì shǐ dàng àn guǎn) is located on 309 East Zhongshan Rd., Nanjing, Jiangsu, China. Address: 309 East Zhongshan Road, Nanjing, P.R.China, Postcode: 210016 Tel:+86-25-84800747, Fax:84808122, Link:Yang zhiyou)に保管されることになった。これが非公開であったこともあって、否定派の判決批判だけが独り歩きしていたともいえる。この史料群も、日本で否定派の動きが起こったのに対応するかのように、80年代後半以後に公開、刊行されるようになった。たとえばその1部の25点の史料は、『侵華日軍南京大屠殺檔案』(https://kknews.cc/history/blbno56.html)として公刊されており、その中の11点史料は『南京軍事裁判資料』として、南京事件調査研究会編の『南京事件資料集(2)中国関係資料編』(青木書店、1992年)に翻訳刊行されている。そして南京軍事法廷でも、やみくもに復讐劇を演じたのではなく、膨大な証拠を集め、多数の証人が証言していることが明らかになった。確かにそれは事件全体の解明という点では不十分であったが、個々の事実の認定という面では重要な史料となっている。この南京軍事法廷の記録も、事件解明のための重要な史料の1部だと言えるのである。
南京事故文件汇编 (日语)书– 10/15/1992 南京事件调查研究组Buch zur Sammlung von Vorfällen in Nanjing (Japanisch) - 15.10.1992 Nanjing Incident Investigation Study Group Nanjing Incident Document Collection (Japanese) Book – 10/15/1992 Nanjing Incident Investigation Study Group Kolekto de Nanjing-Incidenta Dokumento (Japana) - Grupo de Studoj pri Esploraj Naskaj incidentoj15/10/1992











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