日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

南京大屠杀否认者的“十三谎言”/『南京大虐殺否定論13のウソ』/"Thirteen Lies" by the Deniers of the Nanjing Massacre= 南京事件調査研究会/Groupe d'étude sur les enquêtes sur les incidents de Nanjing⑤



하타 이쿠히코(秦郁彦(1932년 12월 12일 ~ )는 일본의 역사학자, 현대사가이다. 전 니혼대학 법학부 교수. 야마구치현 출신. 일본군 위안부 문제 등 일본의 근현대사에 관한 연구나 저작으로 알려짐.秦郁彦(日语:秦 郁彦/はた いくひこ Hata Ikuhiko,1932年12月12日-)是日本的歷史学者。原日本大学法学部教授。1974年在東京大学取得法学博士學位。山口县出身。因专注研究日本近現代史并发表相关研究著作等而为人所知。

Nanjing Incident-Structure of "Genocide" (Chukou Shinsho) (Japanese) Shinsho – 2007/7/1 Ikuhiko Hata  (Author)Incidenti i Nanjing-Struktura e "Thertores" (Chukou Shinsho) (Japoneze) Shinsho - 2007/7/1 Ikuhiko Hata  (Author)

《昭和史の軍人たち》(文藝春秋、1982年/文春文庫、1987年)《昭和史の謎を追う》(全2卷.文藝春秋、1993年/文春文庫、1999年)《歪められる日本現代史》(PHP研究所(创始人⇒松下(田原?)幸之助氏https://www.php.co.jp/cn/)、2006年)《南京事件―「虐殺」の構造》(中公新書、1986年/増補版、2007年)《現代史の虚実―沖縄大江裁判・靖国・慰安婦・南京・フェミニズム》(文藝春秋社、2008年)
「数の論争」の落とし穴
南京事件の「数の論争」に夢中になっている人たちは、数字が客観的で絶対であるかのごとき錯角に陥り、統計資料と数字の計算と数字操作に没入、自分の信じる数字を相手が受け入れるまで論争を繰り返そうとする。彼らが論争に埋没している時は、犠牲者の1人ひとりの不幸や悲惨など念頭から消えてしまうのが普通である。最終的な決め手資料は存在しない「数の論争」に没頭する人たちは、掠奪、強姦、放火、拉致、暴行等の他の不法・残虐行為の問題にあまり関心をもたない傾向にある。ここの「数の論争」の「落とし穴」がある。
藤岡信勝氏の軌跡は「数の論争」に熱中する者が、どのような南京事件の「事実誤認」を持っているかを示す好例である。藤岡氏は「中国人民の犠牲者30万人というようなことを、何の疑問ももたずに長い間信じ込んでいた」という。「自分の思考枠の合致する限り、最も大きい数字を信用するという心理メカニズム」をもったという氏は、社会主義を信奉し、日本帝国主義を批判する思想をもっていた時は「一番大きい数字を信用することにした」ので「ついに50万の大台にのったか」という感覚をもって南京大虐殺50万人虐殺までも信じたと記す。
同じ氏が、今度は社会主義を批判し、日本帝国主義を肯定する思想に転向すると「30万人などという天文学的数字になるはずもない」と南京大虐殺否定に転ずる。その後一時期、秦郁彦氏の南京大虐殺「4万人説」を信じた氏は、「4万人説が正しいとすると、30万人説は、1人を殺したのも百人を殺したのも殺人の罪にかわりはないとして、本当は1人しか殺していない犯人に対し百人殺しの罪をかぶせて痛痒を感じない人権感覚の麻痺のあらわれである。この場合、「犯人」に擬さているのは、もちろん、「日本」であり、「日本人」である」とまで、30万人虐殺説をとなえる人(管見の限りでは日本の歴史学者にはいないが)を論難するようになった(引用は、藤岡信勝『近現代史教育の改革』明治図書、1996年、より)。
その後急速に思想の右傾化を強めた藤岡氏はついに「虐殺ゼロ」すなわち南京大虐殺全面否定説へと転落、「中村粲氏の「南京事件1万人虐殺説」を批判する」(『正論』1999年2月号)を執筆するにいたる。氏の変転の軌跡からは、氏が南京事件の実態と規模とを具体的に認識しながらその総体として数の問題を考えているのではないことがわかる。
いうまでもなく、被害者の1人ひとりに名前があり、顔があり、兄弟姉妹、家族があった。生き残った家族はそれぞれ死者にたいする記憶をもっているのである。その死者の家族が(ちょうど我々が戦争の犠牲になって死んでいった父母や祖父母、ならびに親族を忘れないのと同じように)彼(彼女)を思い続けて、今日にいたっているのである。
南京大虐殺の犠牲になった市民、難民、兵士は1人ひとりの個人であり、1つの生命をもち、1度だけの人生を生きていた人たちであった。個人の犠牲を考えれば、1万人、4万人、20万人、30万人であったかどうかという数の問題はあまり意味をもたない。ましてや、虐殺30万人でなければ、南京大虐殺はなかったという暴論は、犠牲者とその遺族を二重、三重に傷つけるものである。

【追加資料】三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」より
三笠宮:最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これごそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。

Reform of "Modern History" Lessons Rewriting of Modern History Education-Beyond the Good and the Bad View of HistoryNobukatsu Fujioka藤岡信勝[Author] '근현대사'의 수업 개혁 双書 근현대사 교육의 개혁 - 선인 · 악인 사관을 넘어 후지오카 노부 카츠 [저]『「自虐史観」の病理』(1997年、文藝春秋のち文庫化)共著・編著=『国民の油断 歴史教科書が危ない!』西尾幹二(1996年、PHP研究所)、のち文庫化)「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究 中国における「情報戦」の手口と戦略』東中野修道(1999年、祥伝社+Shigenobu Tomizawa冨澤 繁信(Tomozawa Shigenobu (神奈川県出身, 1926 [1] 3 de febrero, [ cita requerida ] -) es un empresario japonés e investigador histórico . Director [1] y Secretario General [1] de la Sociedad Japonesa de Nanjing ・・・Participó en la fundación de la "Creación de un nuevo libro de texto de historia新しい歴史教科書をつくる会 " y presidió el comité organizador『南京事件の核心―データベースによる事件の解明』展転社、2003年7月『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』展転社、2004年10月

南京の人口は20万人だったというウソ
「南京大虐殺当時の南京の人口は20万人であったから、30万人虐殺は虚構」という広く流布されているウソの一例を、藤岡信勝『近現代史教育の改革』(前出)から紹介する。
その(南京安全区国際委員会)文書の中に、南京市の人口に言及した箇所がある。12月17日、すなわち、南京陥落から4日後の日付のある文書の中に、次の一節がある。
「もし市内の日本兵のあいだでただちに秩序が回復されていないならば、20万の中国人市民の多数に餓死者がでることは避けられないでしょう」南京市の人口は20万だったのである。20万の人口の死で30万の「虐殺」をすることはできないということである。足りない10万は、幽霊でも殺さなければならない」(228頁)。
南京安全区国際委員会が右の文章で述べているのは、南京大虐殺の被害を免れて南京城内の安全区(難民区)に避難収容された市民と周辺からの難民の総計のことである。これを南京事件前の南京市の人口にあるかのごとくいうのはウソである。それに、この否定論には総勢約15万人にたっした南京防衛軍のことが抜け落ちている。中国のいう「30万人虐殺」には中国軍兵士の犠牲もカウントされているのである。
南京特別市は南京城区(市部)と広大な近郊区(県部)とからなっており、これまでは南京城区の事件のみが問題にされてきた。ここでは南京城区に限定すると、100万人以上あった同区の人口が日本軍の南京攻略戦直前にどのくらいになったかを確認できる公的文書には、1937年12月23日に南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡があり、そこにはこう記されている。
「調査によれば(南京城区)の現在の人口は約50万余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のための食料送付が必要である」(中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』北京出版社、1997年、512頁)。
1937年12月初旬には、南京防衛軍が「清野作戦」(侵攻してくる日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却してしまう焼野原作戦)で城壁周辺と街道沿いの村落を焼き払ったため、犠牲になった膨大な農民となって城内に避難してきたし、日本軍の南京進撃戦に追われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。一方では安全と思われる近郊農村へ避難していった市民も少なくなかったから、人口は流動的であったが、他の資料とも照合した結果、南京攻略戦が開始されたときは、南京城区にいた市民、難民はおよそ40万から50万人であったと推測される(詳細は拙著『南京事件』岩波新書を参照されたい)。それに日本軍の南京攻囲下におかれていた中国軍の戦闘兵、後方兵、雑兵、軍夫など総勢約15万人を加えてカウントしておくべきである。
ラーベ日記の翻訳本、ジョン・ラーべ『南京の真実』(講談社、1997年)を南京人口20万人説に利用した。冨澤繁信(自由主義史観研究会会員)「1つの嘘(南京30万人虐殺)を繕う為にもう1つの嘘(南京人口60万説)がいる」(『月曜評論』1999年7月25日号)があるので、その誤りも指摘しておく。冨澤氏は以下の記述を南京人口20万人説の根拠にして「南京の人口は20万人であった。人口20万人の市内でどうして30万人の虐殺が可能であるか」と述べる(引用文中の[]はラーべ日記のドイツ語版から石田勇治氏に訳出してもらったもの)。
1937年11月25日(ヒトラー総統宛の請願書)-非戦闘員の中立区域設置の件に関する日本政府への好意あるお取りなしをいただくよう、 心よりお願いいたすものです。さもなければ、目前に迫った南京をめぐる戦闘で、20万人以上の生命が危機にさらされることになります(62頁)。
(ラーべの日記本文)-今日は路線バスがない。全部漢口へ行ってしまったという。これで街はいくらか静かになるだろう。まだ20万人をこす非戦闘員(また20万人をこす中国人―彼らは非戦闘員だがー)がいるというけれども、ここらでもういいかげんに安全区がつくれるといいが、ヒトラー総統が力をお貸しくださるようにと、神に祈った(62頁)。
12月6日―なぜ、金持ちを、約80万人という恵まれた市民を逃がしたんだ?首になわをつけても残せばよかったじゃないか?どうしていつもいつも、一番貧しい人間だけが命を捧げなければならないんだ?(中略)要するにこれは中国人なのだ。こいつにとっちゃ、数十万という国民の命なんかどうでもいいんだ。そうか、貧乏人は死ぬよりほか何の役にも立たないというわけか!(85-86頁)
ラーベ日記(1)でヒトラーへの請願書は中立区(南京安全区)に最終的には20万人の難民が避難するであろうの国際委員会側の推定計画であり、当時の南京市の人口を指すものではない。11月25日の日記本文の「20万人をこす非戦闘員がいる」とあるのは、この段階で城内にいた市民の数の推測であるが、これに、11月7日から9日にかけて中国軍が城壁の周囲1-2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った「清野作戦」のため、家を失った膨大な農民と市民が城内の南京安全区に殺到した数を加算すべきなのである。
ラーべ日記の(2)の部分について、冨澤氏は「80万人が逃亡」という部分だけ引用して日中戦争前の南京の人口100万から(後述するように、ラーべは135万と捉えていたのに)差し引いて「実質20万ということ」の証明に利用している。ラーベは富裕な80万人を差し引いた貧しい残留した市民を「数十万」と書いているのを、氏は御都合主義に無視している。ラーべは、残留市民が20万とは記していないのである。さらに言えば、ラーべは「ヒトラーへの報告書」の中で、「私が(1937年)7月に発ったときには、南京の人口はおよそ135万人でした」(『南京の真実』296頁)と書いているから、135万から80万を差し引いたのが「数十万」ということになる。
右の冨澤氏の事例に見るように、ラーべの資料の1部だけを恣意的に悪用するのが否定派の常套手段である。


「南京大虐殺の目撃者はいない」というトリック
1994年5月、永野茂門法相(当時=永野茂門(Shigeto Nagano (大分県出身), 1922年 6月28日 至 2010年 1月4 日 )是日本 陆军 军官和地面自卫队军官 。 退休后,他担任参议院议员 (第二任期)。 荣誉头衔是排名第三的 仆人重 光 旭弘 )が、「自分は将校として、占領後の南京に行ったけれども、そんな事件は聞かなかった」「南京大虐殺はデッチ上げ」という発言をして、大臣を更迭された(注1)。自分は南京戦に参加した、占領後の南京にいたことがあるという旧軍人たちの多くは「自分たちは虐殺などやらなかった」「そのような大虐殺は見なかったし聞いてもいない」「20万人、30万人虐殺などという無差別な大殺戮は起こりえなかった」と真面目に思いこんで事件を否定している。しかし、彼らが自分の体験と記憶から南京大虐殺の歴史事実を否定するのは、自分の体験と見聞と認識の限界を自覚できていないからである。
阪神大震災の全体状況を目撃できた個人は1人もいないように、南京特別市という広大な区域でしかも長期にわたって行なわれた南京大虐殺の全体を目撃できた人など誰もいない。広域に散開して作戦をする各部隊は、他の部隊が虐殺をやっていても知る状況になかった。拙著『南京事件』に叙述したように、南京城区と南京近郊区とからなる行政区としての南京特別市において(南京戦区と重なる、日本の東京・神奈川・埼玉県を合わせた広さ)、3ヶ月あまりにわたって行なわれた日本軍の不法、残虐行為の膨大な事例を、空間的、時間的に総合した歴史イメージが形成できた後に、南京事件の全体像が分かるのである。ナチスのユダヤ人虐殺を映像でイメージさせた記録映画『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』、テレビ映画『ホロコースト』や『ショアー』に類するものは、南京事件については日本では一般には上映されないし、製作もされない。したがって、南京事件の歴史書をきちんと読まないと、歴史事実に基づいた南京大虐殺のイメージは形成されにくい。そのため、歴史事実と違う南京大虐殺の「虚像」が流布されて一般の南京大虐殺イメージとなり、否定派はその「虚像」を「虚構」と批判、攻撃しているのである。
南京大虐殺の「虚像」を「虚構」と攻撃
南京戦に参加したり、占領直後の南京にいた元日本軍の将兵には、10万、20万の市民の死体が南京城内外に累々と横たわっているという南京大虐殺をイメージして、そのような光景は「ぜったいに見なかった」「聞かなかった」と否定する証言をしている人が多い。否定派もこの「虚像」を批判して、そのような南京大虐殺は記録にもないと否定する。例えば、前述した(自民党)歴史・検討委員会の研究会で、笠原潤一国会議員はこう述べている。
「南京大虐殺は誰がこれを言いだしたんですか。実際にいろんな・・・ちょうど「南京城入城」というのを画家の早川さんという方が描かれた。岐阜の方ですわね。私の友人のお父さんですが、南京へ行った当時の兵隊さんに聞いてもそんなことはあり得ないと、20万人を殺したら、もう累々と南京城の中へ転がっていますよ」(歴史・検討委員会『大東亜戦争の総括』展転社、1995年、101頁)。
同じように、少なからぬ日本人がイメージしてきた「虚像」を、藤岡信勝『近現代史教育の改革』(前出)はこう記す。
「『南京大虐殺』とはどういう事実を指すのかということについて、私が長い間抱いていたイメージは、南京市内に入城した日本軍が、丸腰の中国人市民を無差別に掠奪、強姦、放火、虐殺した結果、死者30万人に及んだ、というものである」(227頁)。
ところが、藤岡氏は南京陥落直後の南京市街に出店がならぶ平和の情景を撮影した従軍カメラマンの写真を見て、南京大虐殺とこれらの写真とは両立不可能と、一転して虐殺を否定するにいたる。
東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』(前出)は、さらに南京安全区を現場とする「虚像」にまで想像をエスカレートさせ、得意然としてこう批判する。
「安全地帯(南京安全区)は・・・皇居外苑の4倍にあたる。そんな狭いところで10万人、30万人が虐殺されていたならば、死屍累々たる状況を呈していたであろう。誰もが、その惨状を記録していたであろう。そのような記録はラーべの日記にもない。日本軍の記録にもない」(231頁)
南京大虐殺の実像
「南京城内に進軍した日本軍が20万、30万の市民を寄ってたかって殺しまくった」というのはまったくの「虚像」である。そこで、実際に発生した南京事件の実像の紹介を簡単にしておきたい。詳細は藤原彰『南京の日本軍』(大月書店、1997年)、吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店、1985年)ならびに拙著『南京事件』「南京難民区の百日」をぜひお読みいただきたい。
南京大虐殺事件、略称としての南京事件は、日本軍が南京攻略戦と南京占領時において、中国の軍民に対して行なった、戦時国際法と国際人道法に反した不法残虐行為の総体のことをいう。事件の発生区域は、南京城区(市部・戦前の人口約100万人)とその近郊の6県(県部・戦前の人口130万人)を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京戦の戦区であり、南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。

南京事件における大規模な集団虐殺は城内ではなく、城外近郊の長江沿いや紫金山山麓、水西門外の郊外などで発生している。集団処刑は、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵、元中国兵と疑いをかけられた一般男子などを捕縛して城内から城外へ連行して殺戮したケースが多かったから、城内の中心街に数千数万の死屍累々などという光景はまったくない。しかし、現在の南京市の城内各地に虐殺記念碑が建っているように、城内の空き地や田園地帯、丘陵地帯において相当規模の集団処刑が行なわれた。
1937年12月4日以降、総勢20万近くの日本軍が波状的に南京戦区に殺到し、包囲殲滅戦(中国軍皆殺し作戦)を展開したために、市部と県部とを合わせ100万人以上は残留していた住民が巻きこまれた。村や県城、市内に残留したり、避難逃亡中の民間人、難民は、3つの段階に分かれて犠牲になった。まず包囲殲滅戦では、「敵(中国)側」の民衆と見なされれば殺害された。南京陥落後から12月17日の中支那方面軍の入城式のための徹底した残敵掃蕩作戦で、多くの市民・農民・難民の男子がもと中国兵の嫌疑をかけられて摘発、連行されて集団処刑された。入城式以後、翌1938年3月の軍事占領終了までの長期にわたって継続された「敗残兵狩り」「便衣兵(民間服を着た兵士)狩り」で市部と県部に残留していた一般成人男子が連行され集団処刑された。
金陵大学社会学教授スマイスは、1938年3月に助手をつかって行なった「南京地区における戦争被害―1937年12月から1938年3月」(前出)というサンプリング調査(市部では50軒に1軒、農村部では10軒に1軒)の結果と他の資料を総合して、民間人が殺害されたのは、市部で1万2000人、県部で6県のうち4県半のしかも県城を除外して農村部だけであるが、2万6870人という被害者数を算出している。注目されるのは、城内(市街)よりも近郊農村の被害者数の方が多いことである。南京地区の近郊区の県城と農村における犠牲者数の実態が今後解明されていけば、民間人の被害者数はもっと増大していくにちがいない。
民間人の犠牲者数について、同時代の公式調査資料はないが、ひとつの参考資料として現場にいた人たちの推定資料がある。ラーべがヒトラーに提出した報告書には、「中国の発表によれば総計10万人の中国の民間人が殺害されたそうです。これは少し過大な数字でしょう。われわれヨーロッパ人はその数は約5万ないし6万と推定しています」と記している(片岡哲史訳「南京事件・ラーべ報告書」『季刊 戦争責任研究』第16号)。1938年2月末にラーべが南京を離れた段階での推定数字で、南京城外や郊外の広大な地域で発生した多数の虐殺事件(ひとつの事件の被害は数人、数十人でも総計すれば膨大な被害者の数になる)の多くをまだ知っていない。阪神大震災の被害者の総数について、当初は予想もしなかった膨大な数が判明したように、一般に事件の全容が知れるにつれ、犠牲者数は増大していく。そのような傾向を勘案しながら、中国側の10万人、ヨーロッパ人の5,6万人という当時の推定数を参考にすることができる。       

南京事件のなかできわだって多かったのが、戦闘とはまったく無関係であった中国女性の強姦、輪姦ならびに殺害であった。被害実数の把握は当時にあっても困難であったが、南京安全区国際委員会の推計では、日本軍の南京占領直後には1日1000人もの女性が強姦され、占領初期には控えめにみても8000人の女性が強姦され、翌年の2,3月までに数万の女性が陵辱されたとされる。農村部では強姦・輪姦後の殺害が多く、さきのスマイスの調査にあった女子の死者4380人の多くがその犠牲者であった。
南京事件の集団虐殺でもっとも多かったのが、本書第8章と第9章に詳述した戦時国際法に違反しての中国軍の負傷兵、投降兵、捕虜、敗残兵の処刑であった。拙稿「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄他編『南京大虐殺の研究』晩聲社、1992年)で中国軍側の資料を使い、拙著『南京事件』で日本軍側の資料(前述したように大半が焼却処分されてしまったが)を使って分析した結果、戦闘兵11-13万、それに雑役を担当した少年兵、輜重兵(軍需品の輸送・補給にあたる兵)などの後方勤務兵、防御陣地工事に動員された軍夫、民間人人夫、その他の雑兵など正規、非正規の区別もつきづらい、したがって軍服も支給されないような非戦闘員もくわえて総勢約15万人の中国軍関係者のうち、8万余人が不法に虐殺されたと推定される。
現在の研究状況、資料の発掘状況、南京事件の全体像や歴史状況を総合的に検討した結果、現段階では、十数万以上、それも20万人近いかそれ以上の中国軍民が犠牲になったと推測される。日本軍側の資料の発掘・公開がさらに進み、中国側において近郊区(県部)の犠牲者数の記録調査がもっと進展すれば、より実数に迫る数字を推定することが可能となろう。
我々の現段階における推定総数と中国側の「虐殺30万人説」との違いは、さほど大きな問題ではない。南京大虐殺の規模の大きさと内容の深刻さを認識していることにおいて、基本的には我々と中国側とは同じである。重要なのは、日中双方が事件の実態と全体像の実証的解明を進めていく過程で、より実数に近い数字に接近していくことなのである。
(注1)山崎正男『陸軍士官学校』(秋元書房、1969年)によれば、永野茂門氏は陸軍士官学校の第55期生で、卒業が1941年7月であった。「将校として占領直後の南京に行った」というのも明白なウソ。当時永野氏はまだ陸軍士官学校にも入学していなかった。

Japanische Armee in Nanjing: Massaker in Nanjing und sein Hintergrundbuch (Japanisch) - 1. August 1997 Akira Fujiwara  (Autor) Tentara Jepang di Nanjing: Pembantaian Nanjing dan Buku Latar Belakangnya (Jepang) - 1 Agustus 1997 Akira Fujiwara  (Penulis)事実を知りたい人に最適の一冊。

Nanjingin verilöylytutkimus (japanilainen) - 1. huhtikuuta 1992 Tomio Hora (Muokkaa)Nanjingas slaktiņa pētījums (japāņu valodā) - 1992. gada 1. aprīlis Tomio Hora (Rediģēt)
*洞富雄(1906年11月14日-2000年3月15日)是日本的歷史學家,專攻領域為日本史。生於長野縣東筑摩郡本城村(現筑北村)。早稻田大學文學部畢業。早稻田大學文學部教授。他以南京大屠殺研究的先驅為人所知,發表了大量的相關論文,並投注心力編輯了許多相關的資料集。此外他也撰寫了《間宮林藏》等等關於近代日本北方史的著作。
Tomio Hora洞富雄(長野県出身14 november 1906-15 maart 2000) is een Japanse historicus, gespecialiseerd in de Japanse geschiedenis. Geboren in Honjo Village, East Tsukuma-gun , Nagano Prefecture (nu Chubuk Village ). Waseda University is afgestudeerd in literatuur. Waseda University hoogleraar literatuur.

Katsuichi Honda (本多 勝一(長野県出身), Honda Katsuichi, born January 28, 1932) is a Japanese journalist and author most famous for his writing on the Nanjing Massacre. During the 1970s he wrote a series of articles on the atrocities committed by Imperial Japanese soldiers during World War II called "Chūgoku no Tabi" (中国の旅, "Travels in China"). The series first appeared in the Asahi Shimbun.

第6章 第6のウソ
「百人斬り競争」はなかった
「2人の少尉が、どちらが先に」100人を殺すかを競いあった「百人斬り競争」は『東京日日新聞』1937年11月30日付朝刊にその第1報が報じられた。虐殺否定派はこの記事を荒唐無稽な捏造記事として、南京大虐殺そのものをなかったことにする1つの根拠にしてきた。たしかに当時の厳格な言論統制の下では国威発揚のための武勇伝としてあたかも白兵戦でのことのように脚色されているのは事実であろう。だが、この記事が書かれた背景には常態化していた日本軍の虐殺行為が確実にあったのである。

6 据えもの斬りや捕虜虐殺は日常茶飯事だった          本多勝一
繰り返される捏造論
「百人斬り競争」が、南京大虐殺に関連してよく問題にされたことをご存じの方も多いであろう。概要を言えば『東京日日新聞』(『毎日新聞』の前身)が1937年11月30日から12月13日にかけての紙面で、4回にわたって報道されたNとMの2少尉(注1)による殺人競争である。どちらが早く敵を100人斬るかだが、最後はNが105人、Mが106人で、どちらが先に100人を達成したかわからずにドロンゲームとされている。これがのちに問題となったのは、蒋介石政権による南京裁判でこの2少尉が死刑にされたからだった。
この「百人斬り」を、全くの虚報・捏造とする論評が、南京大虐殺を否定したい人々によって執拗に繰り返されている。最初のそれは、鈴木明氏の『「南京大虐殺」のまぼろし』(文藝春秋、1973年、それまでに月刊誌『諸君!』で連載)だったが、さらに山本七平(イザヤ=ベンダサン)氏その他にひきつがれ、現在もその亜流によってくりかえされている。
最近の1例として、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 第5集』(小学館、1998年)に収録されている時浦兼「日本の戦争冤罪研究センター」所長の「南京の本当の真相はこうだ」から問題部分を引用しよう。
① ・・・人間を斬ったとしてもせいぜい4,5人で刀は使えなくなる。しかも実際の戦闘ではN氏は大隊副官として作戦指揮をする立場だったし、M氏は砲兵の小隊長だから、2人とも前線で日本刀を振りかざすなどということはありえない。
② M・N氏両氏の関係者は記事を書いた東京日日新聞の浅海一男記者に、記事は創作だと認めるように頼んだ。だがついに浅海記者は「創作」とは認めなかった。
そのほか南京大虐殺に関して、事実に反するデタラメでひどい記述が多いが、ここでは「百人斬り」だけにしぼっておく。
① については、まずN少尉自身が南京占領のあと帰国してから故郷の小学校で語った講演を引用しよう。これはN少尉の話を直接きいた志々目彰氏が、月刊誌『中国』(1971年12月号)に書いた一文からである。
「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ・・・実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない・・・占領した敵の塹壕にむかって「ニーライライ」とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る・・・百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ・・・2人で競争したのだが、あとで何もないかとよく聞かれるが、私は何ともない・・・」
こういうことが真相だったのであろう。これでは、あの武勇伝も実は「据えもの百人斬り」であり、ようするに捕虜(または「捕虜」とされた一般民衆)虐殺競争の1例にすぎなかったことになる。実際問題として、宮本武蔵や佐々木小次郎が少尉クラスにざらにいたともおもわれず、白兵戦のような状況で自分が傷つかず100人も斬るというようなことは、常識的には無理なはなしであろう。すなわち、時浦兼・日本の戦争冤罪研究センター所長が指摘する①のうち、「・・・2人とも前線で日本刀を振りかざすことはありえない」の部分は「そのとおり」ということになる。
ということは、2少尉による(捕虜または「捕虜」とされた一般人)虐殺競争ということに当然なるが、時浦兼・日本の戦争冤罪研究センター所長にとっては、それではまずいのであろう。捕虜虐殺も「冤罪」にしなければ、その「研究センター所長」としては具合が悪いのであろう。そこで、①の前半「・・・人間を斬ったとしてもせいぜい4,5人で刀は使えなくなる」と主張することにより、捕虜虐殺そのものが「不可能」で「創作」だという方向に持ってゆく。

(1)時浦兼Ken Tokiura(彼は、ある時は「日本の戦争冤罪研究センター所長」を名乗りAt one point, he called himself Director of Japan's False War Crime Research Center''、またある時は小林を「お師匠」と呼んで、ゴーマニズム・シリーズにたびたび登場するat other times, he calls Kobayashi "master" and frequently appears in the Gomanism series)(2)Ken Tokiura 時浦兼is Yoshinori Kobayashi 's assistant . Born in Hokkaido . "Yoshirin planning " affiliation. Self-proclaimed(自称)" Director of Japan 's War False Crime Research Center ". (”日本の戦争冤罪研究センター所長”)He became a staff member in 1988 when he was serialized in " Obochama-kun " , and has been calling himself an assistant ever since . In 1987, he received the 13th Fujiko Fujio Award for "Kagayake! Mayu of the Sun " (3)日本の戦争冤罪研究センター所長(「日本の戦争責任研究センター」のパロディ・機関としては存在しない)。これからわかる通り、よしりん企画一の博識である=Directeur du Centre de recherche sur les fausses accusations au Japon (n'existe pas en tant que parodie ou institution du Centre de recherche sur la responsabilité de guerre au Japon).Comme vous pouvez le voir, c'est la meilleure connaissance de la planification Yoshirin.

Yoshinori Kobayashi小林よしのり/ Yoshikazu Takeuchi竹内義和 /Centre de recherche japonais sur les fausses accusations[Auteur] Yoshikazu Takeuchi (竹内 義和, Takeuchi Yoshikazu, born February 27, 1955 in Wakayama Prefecture(和歌山県出身) is a Japanese writer of fan guides and novels, as well as a radio co-host.

①N少尉の講演・仏語訳→« En fait, je n'ai pas tué plus de quatre ou cinq personnes en corps-à-corps... Nous faisions face à une tranchée d'ennemis que nous avions capturés et ensuite nous criions : 'Ni, lai-lai !' (Toi, viens !). Les soldats chinois étaient si stupides qu'ils se sont précipités vers nous un à un. Nous les avons ensuite alignés et décapités, les uns après les autres. On m'a loué pour avoir tué cent personnes, mais en fait, presque tous ont été tués de la sorte. Nous faisions tous les deux partie d'un concours et par la suite je me suis souvent demandé si c'était important, et j'ai dit que ce n'était pas important…»


日本刀はそんなにヤワか?
だが、日本刀とは、もともと「4,5人で使えなくなる」ものですか。もしそうなら、いまもテレビや小説や映画に出てくる剣豪たちの活躍は、すべて「不可能」な茶番ということになる。歴史上の剣豪も全部ウソで、日本刀など殺人にはまるで役立たない飾りものかオモチャである。
だが、本来の日本刀とはそんなにヤワなものではない。なるほど雑兵の多数が入り乱れての会戦であれば、鉄砲は別としても槍などの方が有利であろう。しかし「使い方を変えれば極めて効果的なものであることは、私自身の残虐行為だけから見ても断言できる。要するに日本刀とは、全く無抵抗の人に対してならばこれほど軽便な殺人用具はないと言い切れる虐殺用具なのである」と書いているのは、旧陸軍39師団231連隊第2大隊情報将校・鵜野晋太郎氏である(注2)。
鵜野氏は日本刀を二振り持っていた。一振りは父から贈られた「祐定」(すけさだ)もう一振りは母からの「貞光」である。前者は関ヶ原新刀の中でも最古の直刀に近い刃渡り2尺1寸もの、後者は昭和新刀の反りの深い2尺5分ものだった。昭和新刀は、祐定などの伝統ある日本刀と比べてナマクラだと馬鹿にされているが、それでも「据えもの斬り」ならかなりの威力があった。以下は、鵜野氏がそのナマクラの方(貞光)で1度に捕虜9人を斬殺したときの記録である(本多勝一『ペンの陰謀』潮出版社、1977年、収録の鵜野による「日本刀怨恨譜」から、これは鵜野氏の『菊と日本刀』上巻でも書かれている)。
「私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れてくるりと剣背(峰、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。“ドスッ」と鈍い手応えと同時に、噴水の如く、2,3本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄惨、無残、漂う血の匂い。・・・つづいて私は次の40がらみの村幹部の後方に廻った。(先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)目釘は異状ないが、刀身は僅かに曲りが出たようだ。(大丈夫だ。連続してどこまでいけるか。やるんだ)次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして3人、4人目へと息をもつかせず斬った。だが4人目は8分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。(失敗だ!落着け!)私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から40センチの所に膝をあてがい、右に約5度曲ったのを両手でぐいと元にもどしたが、僅かな曲りは残った。(エイッ、あとの5人を殺らなくちゃ)そのとき、聞き覚えのある不気味な歌―「抗日歌」を、5人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」だが不安がふとよぎった。-(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で1度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋(とき)まで静かに保管した方がよいと決心して来たではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。そうだ!母の為にも断じて貞光で斬ろう!)そのとき5人の斉唱は止んでいたが、悲痛な泣き声は続いていた。私は一段と兇暴に刀をふるって斬った。目釘は更に 曲して緩み、鍔元がガタガタになって来た上、再び刀身の40センチまでが右5度に曲った。そのため2人斬首して曲りを直し、また2人斬っては直して、ようやく最後の9人目の首を斬り落した。首を完全に落したのは1番目と9番目だけであった。血の匂いは暫らく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。」
日本から「進出」してきた軍隊と戦って捕われた中国の若者は、このようにしてナマクラの昭和新刀でも9人つづけて斬殺された。つづけて鵜野氏は、NとMの「百人斬り」について次のように書いている。
「進撃中の作戦地区では正に『斬り捨てご免』で,立ち小便勝手放題にも似た『気儘な殺人』を両少尉が『満喫』したであろうことは容易に首肯ける。ただ注意すべきは目釘と刀身の曲りだが,それもそう大したことではなかったのだろう。又百人斬りの『話題の主』とあっては,進撃途上で比隣部隊から『どうぞ,どうぞ』と捕虜の提供を存分に受けたことも類推出来ようと言うものだ。要するに『据え物百人斬り競争』が正式名称になるべきである。(中略) 何れにせよ,こんなにはっきりしていることを『ああでもない,こうでもない』と言うこと自体馬鹿げた話だ。私を含めて何百何千ものN・Mがいて,それは日中五○年戦争----とりわけ『支那事変』の時点での"無敵皇軍"の極めてありふれた現象に過ぎなかったのである。」
中国人捕虜または捕虜扱いされた民間人への据えもの斬りや試し斬りなど、このころ日本刀を持っていた将兵の大多数が体験者らしく、まさに「ありふれた現象」だった。小林よしのり氏も含めて、今の若い諸君には想像できないのかもしれないが、旧制中学で軍事教練をした世代たる私たちには「当然」のように思われるし、実際に故郷にいた復員将兵からそんな体験をよく聞いた。しかし試し斬りや据えもの斬りは、もちろん威張れることでも軍功でもないから、公然と刊行物に書かれることは稀である。



Chrysanthemen und japanische Schwerter - 1. Januar 1985 Shintaro Uno (Autor) Krizantemo kaj Japana Swordshita - 1 januaro 1985 Shintaro Uno (Aŭtoro)

②鵜野氏の証言・仏語訳→« Quoi que vous disiez, c'est idiot de discuter pour savoir si c'est arrivé de cette façon ou de cette façon quand la situation est claire. Il y avait des centaines et des milliers de [soldats comme M et N, dont je faisais partie, durant ces cinquante ans de guerre entre le Japon et la Chine. En tout cas, ce n'était rien de plus qu'un événement banal au cours du désordre chinois. »
鵜野晋太郎氏は、旧陸軍第39師団232連隊第2大隊情報将校として自ら40名以上 ... 以下、氏の告白手記『日本刀怨恨譜』(本多勝一編『ペンの陰謀』収録)から引用する。
Testimony of a person who experienced the cutting of fixtures Shintaro Uno is an information officer of the 2nd battalion of the 232nd Regiment of the 39th Division of the 39th Division of the Army. Sukegawa Sukemitsu”), and was the only person to be sentenced to heavy prison sentence in the war crimes trial in the People's Republic of China among the 800 captains and below. The following is quoted from his confession note, "Japanese Sword Revenge" (included in Katsuichi Honda's "Pen's Conspiracy"). (The subheading is by Takahashi.)
私自身が取材した中から、14人斬りの例を紹介しよう。これは中国人への「見せしめ」として処刑を見学させられた襲其甫氏の体験である。襲氏は南京攻略戦当時、南京の50キロほど東南にある溧水市に住んでいた学生だった。14人斬りの見学は、南京陥落の翌年5月ころのことである。以下、本多勝一著『南京大虐殺』(朝日新聞社、1997年)から引用する。
「廟山溝の処刑場につくと、14人の中国人男性がしばられ、ひざまずかされていた。郎という姓の通訳がいて、「日中親善」「東亜共栄」といった美辞麗句のあと「この14人はわるい人々です。みなさんはこういう人間のようであってはなりません」と演説した。14人がどんなことをしたのか具体的な説明はなかった。襲さんたち約200人は、みせしめとして処刑見学のためにあつめられたのである。うしろ手にしばれれた14人の男たちは、さらに3,4人ずつの数珠つなぎにされ、青や黒の布で目かくしされていた。そこはちいさな丘の裾にあるところで、かれらは丘にむかって1メートル前後の間隔で一列にひざまずいている。列のうしろに襲さんたち「見物人」がたち、周辺では100人ほどの日本兵が警戒にあたった。よこにある別のちいさな丘には重機関銃が一台すえられ、「見物人」を威嚇している。
日本刀による見せしめの斬首を担当したのは、ここの住民のあいだで「溧水魔王」とよばれていた将校「オガワ」であった。オガワは溧水に駐屯していて、ささいなことで住民をなぐったり殺したりするため悪名がたかかった。刀つかいの「腕」は人によって大差があるが、その点オガワは自信をもっていたという。オガワは14人の列の右端、つまり東西にのびる丘と平行にならぶ犠牲者の列の東端から斬りにかかった。まず軍刀に大きなヤカンで冷水をかける。刀をふりおろすとさけび声をあげた。同時に首がはなれ、その瞬間、切られた断面が内がわにちじむようにうごき、直後に鮮血が噴出した。
犠牲者たちのまえには溝がほられていて、おちた首はそこへころがりこむ。オガワは1度も失敗することなく、片端から1度で斬りおとしていった。目かくしをしていても、気配によって自分の番を感じとる犠牲者たちのなかには、首をすくめてかたくする例もあった。するとオガワは、軍刀で首の根をちょっとたたくようなしぐさをした。犠牲者は斬られたと思ってかびっくりし、首をひょいと上げる。その瞬間をねらってオガワはふりおろした。14人すべてを斬りおわるまでに30分か40分間くらいかかったが、軍刀はおなじ1本だけであった。オガワがすんでいた家はいまも無人のまま保存されている。なんらかのかたちで階級教育のための記念館にする予定である。オガワは演劇が好きだったという。」
なお、日本刀の「強さ」については、刀剣研究家・成瀬関次氏の著書を引用しつつ、前記『ペンの陰謀』で洞富雄氏が「南京大虐殺のまぼろし」と題して詳細に論じている。


↑左がM少尉(関ヶ原新刀「孫六」)、右がN少尉(無銘ながら先祖伝来の宝刀)→1937年12月13日の『東京日日新聞』(『毎日新聞』の前身)に掲載された、「百人斬り”超記録” M106対105N 両少尉さらに延長戦」と題する記事である。 

2015/04ーNew Gomanism Declaration SPECIAL War Theory 3 Yoshinori Kobayashi(Author) 幻冬舎Gentosha
"Theory of War" is finally complete! Will Japan continue to follow the United States, which seeks to conquer the world with overwhelming military power under the banner of "freedom and democracy"? "At this critical moment, what must Japan protect?" "Isn't that a value more precious than life?" "Japanese people, now is the time to realize that only Japan can stop the Anglo-Saxon rampage!" The ultimate weapon of thought that Yoshinori Kobayashi unleashes for the future of our country.
【追加資料】矢吹一夫『政変昭和秘史』(上)より
①(中略)当時の逓信事務次官だった小野猛は、極秘だがお目にかけよう、と言って分厚い数冊の写真帳を貸してくれたので、開いて見たら、暴行の限りを尽くした写真が一杯である・・・私はこれをちょっと貸してくれ、と頼み、正午に開かれる国策研究会常任理事会に持ち込んで、皆さん、食事が済んだら大変な写真をお目にかける、と言ったら、下村海南、大蔵公望、今井田清徳、大橋八郎などの役員たちが、珍しいものなら、食前でもよいから見せろ、といって聞かない。私が、食事が不味くなる、と言うのに、下村海南など、思わせぶりをするなよ、早く見せろ、と言うので、では、と言って写真帳を開いた。一同はこれを取り囲んで一見するや否や、さすがに顔色が変わり、ううん、と唸ったきり、しばらくは一言も発するものもない。これらの写真は、小野次官の説明によると、出征兵士たちが、自己の武勇(?)を誇示するためかどうか、写真に撮って家郷に送ったものが、途中検閲によって押収されたものだということだ。日本民族に潜在する残虐性が、戦場という異常状態に触発されて暴発したものであるにせよ、あまりにも無惨であり、ひどすぎるという慨嘆の声である。(P398)
② 終戦後のこと、この問題に関連するのだが、支那派遣軍最高司令官だった岡村寧次陸軍大将は、引き揚げて帰国後、戦時中日本軍兵士が中国大陸で犯した残虐事件について、数多くの資料を持っていること、 日本人がかような残虐事件を犯すに至ったのは、過去の教育が誤っていたのではなかろうか、新生日本の将来を考えると、どうしても日本人の精神改造というか、人格の練り直しをはからねばならぬと思うが、研究してくれぬか、と大きな袋をかつぎ込んで相談にやって来たことがある。私ももちろん同感であったのだが、この頃の私は、いわゆる「追放中」の身分であるのみならず、米ソ両国の検事団によって、厳しい取調べを受けていたので、どうすることも出来ぬ立場であった。(P398-399)




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