日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

南京大屠杀否认者的“十三谎言”/『南京大虐殺否定論13のウソ』/"Thirteen Lies" by the Deniers of the Nanjing Massacre= 南京事件調査研究会/Groupe d'étude sur les enquêtes sur les incidents de Nanjing⑥


↑「300人斬り」田中軍吉(事件時は大尉)中佐(42年に撮影した写真。戦後、GHQに逮捕され巣鴨に拘束)=田中军吉(1905年3月19日-1947年1月28日),第二次世界大战时期日本軍人。1937年至1938年南京大屠杀期间,在日本侵华派遣军之谷寿夫第6师团任上尉中队长,手持一把名为“助广”的军刀,连续劈杀中国南京战俘、平民300余人。山中峰太郎所写之《皇兵》一书详细记载了其杀人经过。战后由东京国际军事法庭引渡回中国审判,被处决于南京雨花台(南京国際軍事法廷において死刑判決→「100人斬り」の将校2人(収監・連行・裁判・処刑すべてこの3人いっしょ・谷寿夫中将(第6師団長・同じく銃殺刑)だけ別)とともに郊外で銃殺刑)。
①首相トイレ中座報道で小林よしのりスタッフ時浦兼氏「権力亡者の下痢ピー安倍」(きたないな・・・相変わらずあーた方は)「おまえら、汚物にまみれても」②Mar 16, 2013 - @tokky_ura 安倍「ああ^~、もう糞が出る~と言うまもなく、 右翼の顔にドバァ~と糞を思い切りひりだしてやったよ。もう俺もウヨちゃんも糞まみれや。」③【論説】 小林よしのり 「安倍の『美しい日本』は『下痢まみれの日本』だった=社長の専門Françaisフランス語→[Articles] Yoshinori Kobayashi "Le" beau Japon "d'Abe était" le Japon couvert de diarrhée. ネットの ... ウォール・ストリート・ジャーナルに小林よしのり『脱原発論』  クソさ加減とどっこいだな④【論説】 小林よしのり  ネットの匿名利用した地下ナショナリズムが日本劣化」=[Articles] Yoshinori Kobayashi Le nationalisme clandestin utilisant Internet anonyme a détérioré le Japon"

これでも完全な「創作」といえるのか?
つぎに前述②の「創作」問題。これは南京で蔣介石政権の軍事裁判にかけられたNとMについて、Nの弟が2人を救うべく浅海記者に「創作」だと証言するよう頼んだにもかかわらず、浅海氏がそう認めずに2人を見殺しにしたという意味である。これについては、あのウソつきと無学で知られる山本七平氏(注3)も、浅海氏が南京の法廷に提出した証明書について「これでは『百人斬りは事実だから早く処刑しなさい』と言っているに等しいではないか」と酷評している。だが、これもまた時浦兼・日本の戦争冤罪研究センター所長や山本ベンダサン氏による歪曲・捏造である。浅海氏は、あのとき報道したとおり、百人斬りは「住民・捕虜に対する残虐行為ではありません」などとしてN少尉らを弁護しているのだ。くわしくは前記・洞富雄氏の一文にゆずるが、要するに戦闘行為であり、戦場の手柄話だと浅海氏は証言した。そうすれば捕虜虐殺の罪に問われないはずなのだから、まさかNとMが何も言わなかったのに浅海氏が勝手に創作したなどと偽証するわけにもゆくまい。
そして、MやN自身も「戦闘行為」とか「冗談」と獄中で遺書に書いているのである。その「冗談」や「戦闘行為」にしても、Mは「Nが言った」、Nは「Mが言った」と、一種なすりあいをしている。その部分をつぎに引用しよう。
「N君が、新聞記者に言ったことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。」「公平な人が記事を見れば明らかに戦闘行為であります。」(M少尉の遺書=講談社『世紀の遺書』から)
「M君から父上へ“口は禍の元、冗談をいったばかりに、大事な独り息子さんを、死の道連れにして申し訳ありません”とのことです」(N少尉の父君あての手紙=『偕行』1970年9月号)「“口は禍のもと”と申します。M君の冗談から、百人斬り競争の記事が出て、それが俘虜住民を斬ったというのです」(同=『偕行』1970年10月号)
死刑判決の罪状は「捕虜と非戦闘員の殺害」だが、両少尉は判決後も「正規の軍事行動だった」と主張していた。つまり百人斬りの行為それ自体をトータルに否定はしていないのである。そして浅海記者は、そのような2人の主張を応援するような証言で助けようとしていたのだ。実際には「据もの斬り」であることを戦後わかっていたかもしれないにせよ、少なくとも2人のためには助命につながる証言を提出していたと理解されよう。
このほかさらに時浦兼・日本の戦争冤罪研究センター所長は、『週刊文春』が私について書いた歪曲・捏造記事をとりあげた上、N少尉に対して「・・・小手先の対応を繰り返しただけで、朝日新聞ともども誠意のある対応を一切しなかった」と虚偽を書いている。事実はどうだったか、録音も含めていつでも公開するので、その場を与えてくれるよう時浦所長に要請したい。
このほか時浦兼・日本の戦争冤罪研究センター所長の書いたものには「捏造・歪曲センター」を設立したいほどいいかげんな諸説が多いが、私も所属していた朝日新聞に関係する一か所だけ例を挙げておく。即ち、朝日新聞の当時の特派員の1人・今井正剛記者が、虐殺現場の体験を書いた記録(『特集文藝春秋―私はそこにいた(目撃者の証言)』1958年12月=(注4))について当時の南京特派員・足立和雄氏は今井正剛という記者を一言のもとにこう評したという。
―「あれは自分で見て記事を書く人ではなかった。人から聞いたことを脚色するのがうまかった」とのことである。だが、当の足立記者自身も次のように書き残していることを、時浦所長はどうお考えか(前掲の拙稿『南京大虐殺』から)。これは足立記者が、朝日新聞の南京支局ちかくで、同僚の守山義雄記者とともに見た大量虐殺である。

「昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集ってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上何ともできなかった。"便衣隊"は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。『悲しいねえ』私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。『日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ』と。内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。」(朝日新聞客員)(『守山義雄文集』守山義雄刊行社会、1975年、所収)              
これを拙著に引用するにさいして、足立和雄氏は健在だったので、このときの体験と今井正剛記者の目撃したことがおなじものかどうかたずねると、べつのときだという。このとき守山記者とは一緒だったが、今井記者と中村記者は別行動だったと。朝日の支局のそばの広場は、こうしたことが何回かおこなわれた虐殺現場のひとつだったらしい。
結論として、次のようなことが言える。すなわち、2少尉による据えもの斬りは確かであろう。ただしそれが100人に達したかどうかは誰も証明することができまい。だが、否定派がいう完全な「創作」とか「斬った中国人はゼロ」とかは、ありえないだろう。実際は以上に述べた通りである。
(付記)本稿を書き終わってから、この問題を最初に取りあげた前記・鈴木明氏が『新・南京大虐殺のまぼろし』という新著を刊行した。この百人斬り問題について書いているところを読んでみたが、右の論考に付け加えるべきことは全くなく、鈴木氏の見解にあたらしいものは一切認められなかった。
(注1)ここで実名を伏せて「MとN」としたのは次のような理由による。即ち、日本刀による「試し斬り」や捕虜虐殺などは、当時の中国における日本将兵の日常茶飯事だった。たまたま表面化したおかげでMとNが処刑された点、2人にとって実に同情すべきところがある。洞富雄氏も次のように書いている。
「私はこの2人の将校は、あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐性を責めるのではなく、その根源の責任が問われなければならない。この辺のことは、拙著『南京事件』の<事件の責任>の一節にくわしくのべておいたので、それをお読みねがえれば、私の真意がわかっていただけると思う。」(前掲『ペンの陰謀』から)。
右の洞氏の考えに全く賛成なので、ここでは実名は伏せた。
(注2)鵜野晋太郎(1920-99年)は中国・天津市生まれ。中国の撫順戦犯監獄に収容された千余人のうち、大尉以下の800人中ただ1人重刑となった陸軍情報将校。著書に『わが暴虐記』『戦犯論』のほか、ライフ=ワークとしての大著『菊と日本刀』(全2巻、谷沢書房、1985年)がある。

(注3)山本七平(イザヤ・ベンダサン)のウソつきと無学については、浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫、1986年)参照。
(注4)今井正剛のこの一文は、本多勝一『南京大虐殺』(朝日新聞社、1997年)の260-262頁に出ている。
第7章 第7のウソ 遺体埋葬記録は虚偽だらけ
東京裁判で虐殺の規模を推定するための重要な証拠史料として提出された遺体埋葬記録だが、それは戦後になって整理しなおされたものであった。それゆえ、否定派は遺体埋葬記録の信憑性に疑問を呈し、犠牲者数をできるだけ少なく見積もろうとする。本論では紅卍字会、崇善堂という2つの団体が残した遺体埋葬記録が戦後捏造されたいい加減な史料ではないことを実証する。


7 遺体埋葬記録は偽造史料ではない           井上久士
虐殺現場を示す重要な史料
南京大虐殺の規模を検討するうえで、遺体埋葬記録は重要な手がかりとなるものである。そのため戦後の極東国際軍事裁判(以下、東京裁判と略す)では検察側証書として提出され、判決の重要な根拠のひとつともなった。その埋葬者数は紅卍字会4万3071体、崇善堂11万2266体、合計15万5337体となっている(洞富雄『日中戦争大残虐事件資料集(1)極東国際軍事裁判資料集編』(青木書店、1985年、142、145、146、376-380頁)。東京裁判の判決は、「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。・・・これらの数字は日本軍によって、死体を焼き捨てられたり、揚子江に投げ込まれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである」と述べている(同前、396頁)。
一方、大虐殺を否定したりその被害者数をできるだけ少なく見積もろうとする人たちは、この埋葬記録を攻撃するのが常である。最近でも東中野修道氏はこの記録を「四等史料」「五等史料」と言って信用がおけないとしており(『「南京虐殺」の徹底検証』展転社、1998年)、松村俊夫氏もこの解釈について洞富雄氏や筆者を批判している(『「南京虐殺」への大疑問』展転社、1998年)。彼らの主張はあたっているのだろうか。そこで本章ではこうした遺体埋葬や遺体処理の問題について検討してみることにしよう。遺体埋葬記録には紅卍字会と崇善堂以外にもいくつかの団体と個人のものが存在するが、紙幅の関係もあるので、主要なこのふたつの団体の埋葬記録にしぼって考えてみたい。

紅卍字会とは何か
東京裁判に提出された遺体埋葬記録は、確かに当時の記録文書そのものではなく、戦後裁判のために無理をしなおされるものである。紅卍字会の楊登 氏の語るところによれば、それは「すべての死体収容・埋葬工作についての文書記録があったが、抗日戦争中、日寇によって没収されてしまった」からであるといわれている(加々美光行・姫田光義訳『証言・南京大虐殺』青木書店、1984年、166頁)。しかし、オリジナルな統計記録は失われたものの、紅卍字会と崇善堂が当時の資料の1部をひそかに保存していたので、それをもとに埋葬記録をあらためて整理したということである。
では、そうであるから、この埋葬記録は恣意的で信用のおけないものなのだろうか。まず紅卍字会の記録からみておこう。紅卍字会とは正式に世界紅卍字会といって「道院」という宗教団体の社会事業実行団体である。道院とは1916年ごろ山東省浜県でおこり、その後山東省の省都済南に進出し、21年、済南で正式に成立した新興宗教である(吉岡義豊『アジア仏教史・中国編III』佼成出版社、1974年、223頁)。当時中国には二百余りの道院(の支部)と三百余万の信徒を有していたといわれる。院綱に「至聖先天老祖、基教、回教、儒教、仏教、道教の5教主及世界歴代神聖賢仏を崇拝し、太乙真経を参伍し、5教の真諦を貫徹し、大道を 明にするを宗旨とす」とある。キリスト教・イスラム教・儒教・仏教・道教がみずから道教と称していたり、道院内に太公望呂尚や岳飛をまつっていたように、内実はかなり道教的なものであったようである(興亜院華中連絡部『南京及蘇州における儒教、道教の実情調査』1940年、34-36頁)。
当時、南京の道教は会長が陶錫三、会員数三百余人であったという。陶錫三は紅卍字会南京分会の会長も兼ね、南京陥落後の12月23日に成立する「南京市自治委員会」会長にも就任した。紅卍字会は1922年に創立され、道院に付設して「慈善博愛の善行を挙弁する事業機関」であった(興亜院政務部『中国社会事業の現状』1940年、34、191頁)。平時には医院(南京では市内鼓林路4号に医師10人ほどで運営)、貧民学校、孤児院、貧民工場の運営といった慈善事業を主にしていたが、戦争がおこると「救済隊」を組織し、医療、救護、埋葬、難民の輸送などの諸活動を行なうのを常としていた(前掲『南京及蘇州に於ける儒教、道教の実情調査』47頁)。                                             

世界紅卍字会南京分会は1923年に設立され、市内白下区龍王廟後小火瓦巷にあった(南京大虐殺史料編辑委員会『侵華日軍南京大屠殺史稿』江蘇古籍出版社、1987年、104頁)。南京にはこのほか城外に下関分会もあった(南京大屠殺史料編辑委員会・南京図書館編『侵華日軍南京大屠殺史料』江蘇古籍出版社、1985年、473頁)。南京が陥落すると、紅卍字会南京分会は南京区内寧海路2号に臨時事務所を設け、難民救済にあたるとともに、早速埋葬隊を組織して城内外の遺体の収容・埋葬にあたる(陳娼「南京慈善団体掩埋遇難同胞屍体詳情」『南京史志』1987年第6期、16頁)。  

信憑性の高い紅卍字会の埋葬記録
紅卍字会の埋葬記録によると、南京陥落後の1937年12月22日の最初の埋葬作業を行ない、城内では清涼山裏山で129体、城外では中華門外望江磯で109体、中華門外高輦柏村で261体、中華門外善徳寺で280体を埋葬している。紅卍字会の埋葬記録を月ごとに示すと、1937年12月が7247体、5月が1024体、6月が26体、7月が35体、8月が18体、9月が48体、10月が62体で合計4マン3125体となる。2月がもっとも多く、2月と3月で全体の69・5パーセントをしめている(紅卍字会の埋葬記録の詳細は『南京事件資料集(2)中国関係資料編』270-273頁に載っているので参照していただきたい)。
紅卍字会の埋葬について、すでに洞富雄氏が紹介しているように、『大阪朝日新聞』の「北支隊」1938年4月16日付けに関連記事がある。(『決定版・南京大虐殺』徳間書店、1987年、140-142頁)。同記事によれば、紅卍字会と南京市自治委員会と日本山妙法寺の僧侶が遺体埋葬に従事していて、「最近までに城内で1千793体、城外で3万311体を片づけた。約1万1千円の入費となつてゐる。苦力も延5,6万人は動いてゐる。しかしなほ城外の山かげなどに相当残つてゐるので、さらに8千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」とある。この数字を紅卍字会の3月末までの埋葬記録と比較すると、城内1793体は見事に一致する。城内の埋葬記録の統計は、正しくは1795体であるが、埋葬記録では1793体と計算まちがいをしている。計算をまちがえたところまで一致しているのは、この埋葬記録が当時の資料に依拠したものであることを逆に証明している。城外の埋葬遺体3万311体は、埋葬記録の3万6985体よりは6674体と少ないが、その時点でまだカウントされていない埋葬があった可能性も考慮に入れればおおむね符号すると見なおせるものである。
日本側の当時の記録として、南京特務機関の工作報告に紅卍字会の埋葬についてはっきりと述べられている。その1938年3月の報告には、「尚各城外地区に散在せる屍体も尠からず、然して積極的作業に取りかかりたる結果、著大の成績を挙げ3月15日現在を以て既に城内より1.793、城外より29、998計31、791体を城外下関地区並上新河地区方面の指定地に収容せり」とある(井上久士編・解説『華中宣撫工作資料』(15年戦争極秘資料集13)不二出版、1989年、164頁)。埋葬記録では、3月15日現在、城内1795体、城外3万5099体、合計3万6894体である。城外埋葬遺体は5101体多いが、おおむね一致する。遺体埋葬記録が当時の報告より約5000体以上多いのは、2月21日と22日に下関魚雷営に埋葬した5300体がぬけ落ちたためかと思われる。というのは紅卍字会の埋葬記録は一桁まで詳細に記録しているのに、2月21日と22日の下関魚雷営の遺体数は5000体、300体と概数で示されているからである。これは遺体がすでに腐乱していたため現地に埋葬したということだから、詳細な遺体数をかぞえずに概数だけを記し、後に補足したのかもしれない。

さらに1938年4月4日付けの紅卍字会南京分会から「南京市自治委員会」に宛てた資金援助等を要請した書簡では、「咲秋以来今日まで、埋葬した死体は合計3万数千体に及び、現在もなお続行中」とある(南京事件調査研究会編『南京事件資料集(2)中国関係資料編』青木書店、1992年、273頁。原文は南京市檔案館所蔵)。この調査票は8月22日に社会処から出され、27日に社会処に回答が返ってきたものである。埋葬記録によれば、8月末の埋葬総数は4万3015体であるからこれも一致する。同年10月14日付けで紅卍字会南京分会会長陳冠麟が「中華民国維新政府行政院」院長梁鴻志に宛てた補助金請求の書簡では「埋葬した死体は合計4万体に及び」とある(「中華民国維新政府」は38年2月28日に南京に成立した傀儡政権。『南京事件資料集(2)中国関係資料編』274頁)。同月「中華民国維新政府内政部」部長陳群が梁鴻志院長に宛てた資金援助要請の書簡でも、紅卍字会が南京陥落後、粥を施すところを2ヶ所、診療所を3ヶ所設けたこととならんで、「合計4万余体の遺体を埋葬した」と述べている(軍事科学院外国軍事研究部編著『日本侵略軍在中国的暴行』解放軍出版社、1986年、167頁)。
以上いくつかの例で示したように、当時の日本側の新聞報道でも、南京特務機関の報告でも、傀儡機構の公文書でも紅卍字会が遺体埋葬にあたっていたことを示しており、なおかつその埋葬者数が東京裁判に提出された埋葬記録と基本的に重なっていることは明らかである。要するに紅卍字会の記録は、けっして戦後になっていい加減に作り上げられたものではなく、信憑性の高いものなのである。
*Italianoイタリア語⇒Il Governo riformato della Repubblica di Cina (in cinese 中華民國維新政府, Zhōnghuá Mínguó Wéixīn Zhèngfǔ; in giapponese 中華民国政府改革, Chūkaminkoku seifu kaikaku) fu uno Stato fantoccio istituito nel marzo 1938 dall'Impero giapponese nelle regioni della Cina centro-orientale, occupate durante le prime fasi della seconda guerra sino-giapponese.
*Françaisフランス語→Liang Hongzhi (梁鴻志, 1882 - 9 novembre 1946) est un homme politique chinois qui fut le chef officiel de la clique d'Anhui du gouvernement de Beiyang avant de devenir membre du gouvernement national réorganisé de la République de Chine collaborationniste.


↑いわゆる南京大虐殺は、捏造だった(⇒が編集)Kubo Arimasa 久保 有政( 兵庫県出身1955 [1] 13 julio ) estas japana protestanta Biblia komentisto kaj la unua pastro de la Unuiga Ikebukuro Kristana Preĝejo. Reprezentanto de Eldonejo Remnant, Ministerio pri Restantaj. Kiel verkisto, li estas la ĉefa aŭtoro de la monata revuo " Restanto " kaj klarigas la bazajn instruojn de la Biblio por serĉantoj kaj kristanoj en la revuo. Li ankaŭ verkas kaj prelegas pri kristanismo. Naskiĝis en Itami-Urbo, gubernio Hyogo . 南京大虐殺は捏造だった ...さらに、神の日本への深い愛を知るには、日本人が東京裁判史観や左翼の自虐史観を脱する必要があると主張。日本の本当の歴史を取り戻すためとして、日本の近・現代史についても多くの著述を行なっている

*阿羅 健一(あら けんいち、1944年[1]2月9日[要出典] - )は、日本の評論家・近現代史研究家。1980年代まで畠中秀夫というペンネームを使用していた。「百人斬り訴訟を支援する会」会長[1]を経て、「中国の抗日記念館の不当な写真の撤去を求める国民の会」会長[1]、主権回復を目指す会顧問[1]、「田母神論文と自衛官の名誉を考える会」顧問[1]を務める。宮城県[1]出身、東北大学文学部卒業[1]。1966年[1]からキングレコードに勤務[1]し、1984年にフリーとなる[1]。Kenichi Ara (阿羅 健一, Ara Kenichi, born February 9, 1944) is a Japanese political commentator and researcher on modern history. Until the 1980s, he used the pen name Hideo Hatakenaka. 『南京「事件」研究の最前線 : 日本「南京」学会年報. 平成17年・18年合併版』 阿羅健一ほか共著(展転社、平成17年/2005年

ニセモノだと決めつける否定派のウソ
虐殺否定派の東中野氏は、「紅卍字会の埋葬記録は昭和13年2月1日から始まる」「昭和13年1月に、紅卍字会が埋葬を行なったはずもない」と述べてそれ以前の記録を否定しようとしている(『「南京虐殺」の徹底検証』304-305頁)。前述したように遺体埋葬の約70パーセントは2月と3月に行なわれたのだから、2月から始まったとしても大量の遺体埋葬作業が存在したことは否定できないはずだが、それを惜しくとしてもこれは正しい推定であろうか。
東中野氏が根拠としているのはラーべのヒトラー宛て報告書である。確かにそこには「1938年2月1日まで埋葬を許されなかった多くの屍体」があり、「私たちは2月1日まで屍体を埋葬することすら許されませんでした」「私は12月13日から1月末までこの屍体を埋葬するか、搬出するか、許可を申請しましたが、無駄でした。2月1日になって屍体はやっと消え失せたのでした」と記されている(片岡哲史「南京事件・ラーべ報告書」『季刊 戦争責任研究』第16号、1997年6月、46,52,53頁)。ラーべは1月31日の日記に「6週間もの間、わが家の前にうちすてられていた中国兵の死体が、ようやく埋葬されたと聞いて、胸のつかえがおりた」とも書いている(平野卿子訳『南京の真実』講談社、1997円、219頁)。
同じく否定派の松村氏も「ラーべの日記の公開によって、・・・紅十字会、紅卍字会、崇善堂の表や文書の内容が一挙に否定された」と喜んでいる(『「南京虐殺」への大疑問』340-341頁)。しかし、ラーべの上申書や日記は、彼がその体験した範囲内のことを述べたのであって、紅卍字会が2月1日以前に全然埋葬を行わなかった論拠とは見なしがたい。だいたい南京特務機関の38年2月の報告にも「紅卍字会屍体埋葬隊(隊員約600名)は1月上旬以来特務機関の指導下に城内外に渉り連日屍体の埋葬に当り2月末現在に於て約5千に達する死体を埋葬し成績を挙げつつあり」(『華中宣撫工作資料』153頁)とあり、埋葬数は不正確であるが、1月から埋葬に従事していたことは明記されている。

125頁で引用した3月の報告でも「本会(紅卍字会)の屍体収容工作開始以来既に3ヶ月」と記している(同前、164頁)。この報告は極秘扱いの内部報告であるから、わざわざウソを書く必要はないはずである。東中野氏がインタビューしたという満鉄から出向した元南京特務機関員丸山進氏の回想にも、「埋葬は概ね2月初めから始め」とあるだけで、「1月末まで埋葬は許可しなかった」と明確に証言されているわけでもない(「南京特務機関員(満鉄社員)丸山進氏の回想」『亜細亜大学日本文化研究所紀要』第2号、1996年、81頁)(注1)。そうであるから南京大虐殺否定派の畝本正巳(吴艳:日本社会关于“南京大屠杀”论争的发展演变过程肯定派的洞富雄在1986年3月出版的《南京大屠杀的证明》一书,用史实对田中正明、畝本正巳、渡部昇一、山本七平、畠中秀夫、阿罗健一等否定派的“南京大屠杀虚构说” http://www.aisixiang.com/data/113689-3.html)氏でさえ「第一線部隊は12月17日から遺棄死体を処理しており、紅卍字会は・・・12月22日から埋葬している。ラーベが「2月1日許可が下りた」というのは、不審である」(『真相・南京事件』文京出版、1998年、200頁)と述べているのである。東中野氏がそれでも「昭和13年1月に、紅卍字会が埋葬を行なったはずもない」とか「12月と1月の埋葬記録は、水増しの偽造であった」(『「南京虐殺」の徹底検証』314頁)と主張するのであれば、南京特務機関の報告はどう読むのか説明していただきたいものだ。
南京特務機関は2月と3月、紅卍字会の埋葬経費のかなりを負担したと思われる。それがこのふた月埋葬がはかどった理由のひとつであろう。しかしそれは「支那人協力者が漢奸(売国奴)として攻撃されないよう」(『「南京虐殺」の徹底検証』303頁)という配慮というよりは、日本軍の内面指導、すなわち直接の占領地統治をカムフラージュするためであった。              
東中野氏はまた、NHKスペシャル『映像の世紀』に登場する紅卍字会の映像はニセものだと断じ、「シンボル・マークの「卍」は腕章や隊旗のみに描かれていたにもかかわらず、紅卍字会の制服らしき服の腹の部分に「卍」が描かれている」ことを理由にあげている(同前書、305頁)。その論拠は朱友漁の「戦時下の奉仕活動とキリスト教会」という『チャイナ・クォータリ』1938年冬季号の論文に、そう書いていあるからだという。しかし当時紅卍字会の埋葬班班長として実際に埋葬にあたった高端玉氏の証言によれば、「埋葬に従事した者はそれぞれ上着かペストを着ていたが、間に合わない者もいて、腕章を印にしている者もいた。私は上着を着ていたが、上着の胸と背中には卍の字があり、帽子も卍がついたものもあった(当時私は写真も撮ったが、後にどこかへなくなってしまった)。卍は白地に赤で、上着の色は濃い藍色だった」という(南京大屠殺史料編辑委員会・南京図書館編『侵華日軍南京大屠殺史料』江蘇古籍出版社、1985年、473頁)。つまり胸に卍が描かれているから、これはニセものだと言えないし、むしろそれが普通だったのである。上の写真は紅卍字会の作業員と日本山妙法寺の僧侶を一緒に写したものであるが、ここでも卍は腕章ではなく、上着に描かれているのである。歴史研究においてはできるだけ多くの史料と渉猟と比較検証こそが必要なのであり、あるひとつの史料に書かれていないから以外のものはニセものだ式の決めつけはやめるべきである。


*漢奸是一個負面意義的語彙,泛指出卖中國國家民族利益的人,相當於“卖国贼”、“內奸”,也即通敌或叛國的中國人。「漢奸」在《辞海》的解釋是「原指漢族的敗類,現泛指中華民族中投靠外國侵略者,甘心受其驅使,出賣祖國利益的人」;在《现代汉语词典》的解釋是「原指漢族的敗類,後泛指投靠侵略者、出賣民族利益的中華民族敗類」。Hanjian漢奸=In Chinese culture, the word hanjian (simplified Chinese: 汉奸; traditional Chinese: 漢奸; pinyin: Hànjiān; Wade–Giles: han-chien) is a pejorative term for a traitor to the Han Chinese state and, to a lesser extent, Han ethnicity. The word hanjian is distinct from the general word for traitor, which could be used for any country or ethnicity. As a Chinese term, it is a digraph of the Chinese characters for "Han" and "traitor".
崇善堂の埋葬について
埋葬記録のなかで最も埋葬遺体数が多いのが崇善堂である。1937年12月から翌年4月までに合計11万2267体の遺体が収容と埋葬を行なっている。月ごとの埋葬数は、12月が1011体、1月が1556体、2月が2507体、3月が2475体、4月が10万4718体である。この記録に対して、4月に急に10万体以上の埋葬を行なっているのは不自然であるとか、崇善堂の慈善事業にはもともと埋葬は入っておらず、そのうえ南京陥落後翌9月まで活動停止状態で、その後も小規模な活動しか行なっていなかったから、あの記録はデッチ上げであるといった批判があびせられている(阿羅健一「架空だった南京大虐殺の証拠―謎の『崇善堂』とその実態」『正論』1985年10月号)。                                                                  
東中野氏も「紅卍字会を除けば、埋葬活動に従事した組織は存在しなかった」(『「南京虐殺」の検証』311頁)、紅卍字会以外の埋葬記録は「当時の記録に全く出てこない架空の記録」(同前、312頁)などと片づけている。はたして彼らの述べるように、崇善堂は埋葬活動を行なっていなかったのだろうか。埋葬記録は「架空」のものなのだろうか。
中国には近代以前から「善堂」とよばれる一種の慈善団体が存在している。多くはそこの地域の有力者が資金を出して設立したものである。南京にも数多くの善堂があり、崇善堂もそうした善堂のひとつであった。崇善堂は清の高慶(1797)年に創立され、当時すでに140年の歴史のある善堂であった。本部は城内南部の金沙井32号にあった。設立時には情報局といった。太平天国の南京占拠時に破壊され、1865年の再建時に崇善堂と改称したという(南京市地方誌編墓委員会編「南京民政志」海天出版社、1994年、460頁)。通常は寡婦救済・保育援助・棺材の施し、診療所の運営などの貧民救済を行なっていた。主たる財源は不動産収入であった。崇善堂は南京近郊江寧県の1672・85畝264室分を所有しており、そこからの地代・家賃で慈善事業を運営していた(同前)。であるから、崇善堂を「せいぜい従業員5,6人の街の葬儀屋」(田中正明『“南京虐殺”の虚構』日本教文社、1984年、327頁)とするような見解は論外である。崇善堂の埋葬記録に対する攻撃は、内容的にふたつの側面がある。第1は崇善堂は埋葬を行なっていないというものであり、第2は崇善堂の埋葬内容は信じがたいというものである。  
*Españolスペイン語→El Reino Celestial Taiping (idioma chino: 太平天囯; pinyin: Tàipíng Tiānguó; literalmente "Gran Reino Pacífico del Cielo" o "Reino Celestial") fue un estado oposicional en China desde 1851 hasta 1864, establecido por Hong Xiuquan, líder de la Rebelión Taiping (1850-64). Su capital fue Tianjing (chino: 天京; Wade–Giles: Tienching; literalmente: "Capital Celestial"), actualmente Nankín.       
*홍수전(중국어: 洪秀全, 병음: Hóng xiù quán 훙슈취안[*], 1814년 1월 1일 ~ 1864년 6월 1일)은 청 대 종교가, 혁명가. 태평천국(太平天國)을 건국한 사람이다. 광둥 성 태생이고 하카계 출신이다. 청 내에서 기독교에 기초한 종교 국가인 태평천국을 세워 청조에 반기를 들어 투쟁했다.       
まず第一点について、崇善堂の埋葬記録によれば、同胞の惨殺死体が至るところにあるのを見かねた堂長の周一漁がみずから隊長となって「崇字掩埋隊」(崇善堂埋葬隊)を組織したという。1938年2月6日付けで周一漁崇善堂埋葬隊隊長が「南京市自治委員会」に宛てた書簡がある。「査するに弊堂が埋葬隊を成立させてから今まで1ヶ月近くたち」と述べ、崇善堂の自動車は民国24(1935)年製なのでバッテリーなど自動車修理部品が緊急に必要だとし、その補助を要請したものである(『南京事件資料集(2)中国関係資料編』276頁、原文は南京市檔案館所蔵)。これに対し2月8日に「南京市自治委員会」から直接丁三自動車修理部と交渉するようにとの返事が出されている。ここから少なくとも38年はじめには崇善堂埋葬隊が組織され活動していたこと、崇善堂は自分の自動車を所有していたことがわかる。
同年12月6日付けの周一漁から「江蘇省賑務委員会」宛ての報告のなかで「今事変において、弊堂は難民区内に診療所を設け、埋葬隊を組織し、その他の救済事業も取り計らいました」と述べて、埋葬隊にちて言及している(同紙、278頁、原文は中国第2歴史檔案館所蔵)。39年1月21日付けで長年崇善会という別の善堂から「督辮南京市政公署」に宛てた資金援助要請書簡には、「昨年の南京事変で、死体が地に満ち、惨たること見るに忍びずにいたところ、本会保有の乙級の材木板木百余りを、崇善堂・紅卍字会など各慈善団体埋葬隊と地方人士が分けてほしいと訪ねてきたので、あげてしまいまったくなくなってしまった」とある(『侵華日軍南京大屠殺檔案』457頁)。これらの史料から崇善堂が当時埋葬隊を組織し、埋葬活動を行なっていた事実は確実である。                                                                                        
第2は崇善堂の埋葬記録の内容についてである(崇善堂の埋葬記録は『南京事件資料集(2)中国関係資料編』(275-276頁に載っているので参照していただきたい)。埋葬記録によれば、彼らは1937年12月から翌年3月までは城内で、4月になると城外で遺体の収容と埋葬にあたっている。城外では、中華門―新街口―鼓楼―挹江門の線以東を中心とし、城外では、南は中華門から雨花台・花神廟方面、通済門から高橋門方面、東は中山門から馬群であり、例外的に西の水西門から上新河方面にも手をのばしている。「紅卍字会は市西部の埋葬を担当し、本堂は市東部の埋葬を担当した」(『南京事件資料集(2)中国関係資料編』277頁)とされるから、おおむねこの線で作業はおこなわている。埋葬隊は4つの分隊からなっていて、それぞれ主任1人、隊員1人、常雇い作業員10人からなっていた。4隊40人の作業員ではとうてい人が足りず、城内では大量の臨時作業員を日当で雇い、城外では現地の農民が遺体の収容・埋葬に協力したという(『南京大屠殺』404頁)。
崇善堂埋葬隊の埋葬記録のなかで10万5000体近くと全埋葬者数の93パーセントを占めているのは、38年4月の城外においてのものである。当時城内の遺体埋葬はほとんど終了したものの、城外にはまだ放置されたか、かるく土をかけただけの遺体が多く存在していた。たとえば、盛文治という「民間人は、すみやかな遺体埋葬を要請した(「南京市自治委員会救済組」に宛てた3月4日付けの書簡で次のように書いている(『侵華日軍南京大屠殺檔案』453頁)。
「私はこのたび郊外から城内にやって来ましたが、3月になるというのに途中の馬家店・大定坊・鉄心橋は左右両側、人の死体と馬の骨が野に遍しという有様でした。あるいは小高いところで仰向けになって目を見開き口を開け、ある者は田のあぜに伏せて肉と骨をさらしており、頭がとれていたりで、たとえ5体満足なものでも、黒褐色を呈し腐乱しはじめています。そのうえ悪臭が鼻をついて人をむかつかせ、伝染病を避けるために、現地の人はみな鼻をおさえて歩いています。まだ日差しも弱く温度も高くありませんが、もし炎熱多湿の気候になったらと思うと、想像もできません。」                

4月になると気温の上昇とともに遺体の痛みもひどくなっていた。悪臭をはなつだけでなく、伝染病の蔓延も心配された。急いで手をうつ必要があったわけである。すでにふれた2月6日の周一漁の書簡でも「今や春となり、気温が上昇してきております。残っている遺体を迅速に埋葬しなければ、おそらく遺体が地面に露出し、関係する公共衛生はまことに少なくないと存じあげます」とある(『南京事件資料集(2)中国関係資料編』278頁)。崇善堂埋葬隊の場合、1度簡単に埋められた遺体が風雨で露出しはじめているので、それらを別な場所に移すか、その場に土を盛り塚をつくるというやり方が多かったのでないかと思われる。別な場所に埋葬する場合もそのためきちんと納棺したり、むしろで巻いたものはわずかで、多くは近くの塹壕・クリーク・池を利用したとされる(『侵華日軍南京大屠殺史稿』江蘇古籍出版社、1987年、119頁)。
そのようなやり方だから大量の遺体を埋葬できたのかもしれないが、同時に埋葬遺体数の記録に厳密さを欠くところがあったように思う。しかも今日の埋葬記録が当時のそれを正確に反映しているかどうかは残念ながら判断材料がない。また崇善堂についての記述が南京特務機関の報告など日本軍側文献や安全区国際委員会の文献には出てこないことも事実であり、崇善堂埋葬隊が日本軍に認知されていたのかどうかも今のところ不明というしかない。今後の史料発掘に待ちたい。
しかし、右に述べてきたことから、彼らが埋葬作業を行ない、相当の遺体を埋葬したことは疑いないことである。これを「当時の記録に全く出てこない架空の記録」と切り捨てることは、虚心坦懐に史料に接すべき研究者としてはいかがなものであろうか。総じて南京虐殺否定派は、紅卍字会にしても崇善堂にしてもその埋葬記録からできるだけ埋葬者を割り引こうとするか、埋葬そのものを否定しようと必死である。どのような史料も批判的にみなければならないことは当然であるが、自分に都合が悪い史料は無視し、あらかじめ決められた結論の方向にのみ誘導しようとする方法は、結局徒労におわるほかなく、やがては歴史のくずかごに棄てられることになるであろう。              

(注1)この報告は12月の埋葬を無視し、2月末までに5000体と埋葬記録と大きくかけ離れた数字をあげている。考えられる理由として、孫七魏王編『南京大屠殺』では、この報告が紅卍字会埋葬隊のひとつの組の報告だけに依拠したからではないかと推測している(401頁)。筆者も今のところこの可能性がたかいと考えている。


第8章 第8のウソ 山田支隊の1万5000人捕虜は釈放するつもりだった
1937年12月12日、南京から東方への中国軍の退路を遮断するために編成された山田支隊(第13師団歩兵第103旅団)。この支隊に捕えられた非戦闘員を含む約2万の捕虜は虐殺された。しかし、虐殺否定派は「自衛発砲説」すなわち、捕虜を解放しようとしたにもかかわらず、火災・暴動を起したため自衛のためにやむなく銃殺したのだ、という説を作り上げた。だが「自衛発砲説」を山田支隊の兵士たちの「陣中日誌」に照らし合わせると、この説は完全に崩壊するのである。

8 虐殺か解放かー山田支隊捕虜約2万の行方                      小野賢二
“自衛発砲説”の登場             
南京大虐殺否定論者が山田支隊の大量捕虜虐殺を否定するのに、必ず引き合いに出すのが“自衛発砲説”である。この“自衛発砲説”は敗戦後、福島民友新聞紙上に長期連載された「郷土部隊戦記」(注1)に初めて登場する。
その内容は、山田支隊が南京陥落直後の12月15日、南京で獲得した約1万5000人の捕虜を収容所に入れるとき、約半数いた非戦闘員を解放した。しかし、残った捕虜8000人がその夜9時すぎ捕虜収容所内で火事を起こしたため、銃撃して逃亡を防いだが、混乱に乗じて約半数が逃亡した。さらに17日、残った捕虜を対岸に解放するため長江岸に、渡河を開始したところ、対岸からの発砲を契機に捕虜が暴動を起したのでやむをえず銃撃した。この時の死者は1000名程度だった、というものである。しかし、この“自衛発砲説”は一次資料で裏付けられたものではなく、敗戦後に両角業作連隊長がまとめたという『両角業作手記』(注2)が元になっていた。
だが、同書は一方では軍から「皆殺セ」の命令が出ていたという重要な事実も明らかにしている。
*Gyosaku Morozumi (両角業作, Morozumi Gyōsaku(長野県出身), 4 January 1884 – 15 September 1963) was a general in the Imperial Japanese Army, commanding the Japanese ground forces of the Battle of Mindanao of 1945 in the closing months of the war・・・The IJA 65th Regiment was one of the units at the Battle of Nanking in 1937 during the Second Sino-Japanese War and was accused of the massacre of prisoners of war following the battle's end.[2]



大虐殺を記録した皇軍兵士たち
この“自衛発砲説”を読んで疑問を持ったのも調査を開始する1つのキッカケだった。俺は仕事の合い間を利用して、198年からおよそ7年間、山田支隊の基幹部隊だった歩兵第65連隊(会津若松)の元兵士たちを中心に聞き取り調査を実施した。調査は困難だったが、それでも、証言数約200、陣中日記等24冊、証言ビデオ10本、その他の資料を収集することができた。この中に、“自衛発砲説”に添ったものは1つもなかった。調査結果の要旨は次のようになる。
「山田支隊が1937年12月13日烏龍山、14日幕府山両砲台付近で捕えた捕虜は1万4777名にのぼり、その後の掃蕩戦でも捕虜を獲得、その総数は約1万7000-1万8000人にものぼった。捕虜は白旗を掲げ無抵抗で捕虜となった。この膨大な捕虜は幕府山両側にあった国民党軍の兵舎22棟に収容した。この時、非戦闘員の解放は行なわれなかった。捕虜収容所は歩兵第65連隊第1大隊(第1中隊欠)が中心に警備した。16日の昼頃、捕虜収容所内に火災(ボヤ)が発生したが、捕虜の逃亡もそれに対する銃撃もなかった。その後、当時の「アサヒグラフ」に掲載された捕虜の写真が撮影された。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で2000-3000人が虐殺(試験的に?)され、死体はその夜のうちに長江に流された。残りの捕虜を17日、上元門から約2キロ下流の大湾子で虐殺した(証言によると、魚雷営でも行なわれ、大湾子の虐殺には他部隊の機関銃隊が加わった可能性もある)。この17日の虐殺は大量の捕虜だったため、薄暗くなるころから開始された虐殺が18日の朝まで続いた。そして、死体処理には18,19日の2日間かかった。その他、歩兵第65連隊第1中隊は烏龍山砲台を警備し、その付近で多数の敗残兵をその場で、あるいは捕虜とした後、銃殺した。」
以上、この調査結果から“自衛発砲説は作り話であることがわかった。陣中日記等の資料は藤原彰・本多勝一両氏とともに『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店、1996年)として出版した。それでも、この事件の虐殺否定論が繰り返されている。ここでは現在主張されている虐殺否定論を検証してみたい。なお、以下で引用する日本軍将兵の日記や軍事郵便は、特記しないかぎり、すべて同書に収録したものである。

板倉由明氏の責任回避論
“自衛発砲説”をベースとして、山田支隊の捕虜虐殺否定にもっとも長期間情熱を傾け、論じ続けてきたのは南京事件研究家を自称していた板倉由明氏である。板倉氏は偕行社の会員ではないが、偕行社が組織した南京戦史編集委員会に入り、その南京戦史編集委員会が編集した『南京戦史』で、幕府山における山田支隊による捕虜約6000のうち「約3,000(処断)、約3,000(逃亡)」という結論を出した。
さらにその後、南京戦史編集委員会は『南京戦史資料集II』(偕行社、1994年)を出版したが、その中では、これらの陣中日記について「下級将校や下士官兵の日記には、ややもすれば噂や憶測をそのまま記録する傾向があり」としたのである。しかし、その主張には無理がある。問題の日記は末端の兵士たちが命令のまま自分自身で実行した行為を他人を意識することなく、自分のためにだけ書いているものなのだ。
ところが、この見解を出した1人でもある板倉氏は、後に「約3,000(処断)」の結論の責任を放棄して、「『南京戦史』の釈放中のハプニング説(“自衛発砲説”のことー筆者)も、決めてになる資料はない」(「南京大虐殺・虐殺はせいぜい1~2万人」『ビジネス・インテリジェンス』1994年8月号)、つまり『南京戦史』の結論には“根拠がない”と断定するに至った。ということは“自衛発砲説”は史料的根拠のない作り話であることを認めたことになる。だが、その後、板倉氏は新たな否定論の模索を始めた。同氏の「南京事件―「虐殺」の責任論」(軍事史学会編『日中戦争の諸相』錦正社、1997年)がそれである。
この論文の中で、板倉氏は「現時点では、軍の命令によって計画的・組織的に捕虜を虐殺した、という証明はできない」として、この虐殺が山田支隊の独断か、ある1人の参謀の独断命令によって行なわれた可能性が大であり、したがって日本側には公的責任はないという公的責任回避論に逃亡することになったのである。
この視点は上海派遣軍司令官だった皇族の朝香宮鳩彦王中将の責任問題を意識してのものだろうが、参謀1人の独断命令や、山田支隊単独の判断で捕虜2万人の大量虐殺など実行できるわけがなく、軍命令によって計画的・組織的に行なわれたのである。事実、軍命令であったことは陣中日記にも記述されている。また、当然のことだが、虐殺された人々にとって、軍命令であるか否かの区別は無意味でしかない。


Yoshiaki Itakura (板倉 由明, Itakura Yoshiaki(神奈川県出身), 1932–1999) was a Japanese researcher of military history born in Kanagawa Prefecture. He is most well known for his research on the Nanjing Massacre and was a member of a committee assembled by Kaikosha to study the incident. 「松井石根大将『陣中日記』改竄(「日本会議」所属の’有識者’田中正明「先生」)の怪」)(『歴史と人物』昭和60年冬号)「松井石根の日記の改竄について」 ( 『文藝春秋』一九八六年一月号)「「ラーベ日記の徹底検証」を批判する」(『正論』平成10年6月号)《本当はこうだった南京事件》,日本図書刊行会, 2000,文藝春秋World Daily 世界日報(Sekai Nippo) estas konservativa ĵurnalo eldonita en 1975 de la Monda Ĉiutaga Gazeto en Japanio .세계평화통일가정연합(世界平和統一家庭聯合, 영어: Family Federation for World Peace and Unification) 또는 단순히 통일교(統一敎, 영어: Unification Church, Unificationism)는 1954년 대한민국에서 문선명이 창시한 종교이다. 한국지부의 이름은 신한국가정연합(神韓國家庭聯合)이다. 문선명(文鮮明, Sun Myung Moon, 1920년 2월 25일 (1920년 음력 1월 6일) ~ 2012년 9월 3일)은 통일교(현 세계평화통일가정연합)의 창시자이며, 사망 전까지 통일교의 총재 직을 맡았다.















×

非ログインユーザーとして返信する