日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

南京大屠杀否认者的“十三谎言”/『南京大虐殺否定論13のウソ』/"Thirteen Lies" by the Deniers of the Nanjing Massacre= 南京事件調査研究会/Groupe d'étude sur les enquêtes sur les incidents de Nanjing⑨


「1938年1月8日―今、日本兵は安全地帯における我々の努力を信用せぬように試みております。彼らは貧賤な支那人を脅迫して、我々が云ったことを否認させようとします。支那人のある者は容易に掠奪・強姦および焼打などは支那軍がやったので、日本軍がやったのではないと立証すらいたします。我々は今、狂人や馬鹿者を相手にしているのだと時々考えます。また我々外国人は全部生きてこの厳しい試練を経たのだと不思議に思います。」(洞富雄編『南京大残虐事件資料集(1)極東軍事裁判関係資料編』青木書店、1985年、125頁)
東中野氏は右のマッカラム日記の傍線部分だけ引用して中国軍強姦説の「例証」にしているのである。マッカラム日記は、安全区国際委員会のメンバーが日本軍の残虐行為を阻止すべく日本大使館やアメリカ大使館に対して不法行為を告発、抗議しているのに対して、日本軍の特務機関関係者が、貧しい人々を金品で買収し、かつ「言う通りにしなければ命を保障しない」といった類の脅迫をして、安全区委員会の抗議している日本軍の暴行は、実は中国軍が行なったものだと証言するように迫り、実際にそれに従った難民、中国人がいたことを書いている。「狂人や馬鹿者を相手にしている」というマッカラムの激しい言葉は、日本軍の強姦行為を中国軍の仕業に見せようと謀略を企てる狂人=日本軍と、それに金品と脅しで従い、命懸けで救済に奔走する外国人の恩を仇で返す馬鹿者=中国人がいることへの怒りの吐露なのである。その買収、脅迫された中国人のウソの証言を、中国軍強姦説の「例証」に「悪用」している学者が現在の日本にいることを天国のマッカラムが知ったら、なんと言うだろうか。
マッカラムの日記からは、日本軍特務機関が、南京事件の情報を上海の欧米人から世界中に広がりつつあったのに対抗して、南京の非行は中国軍の仕業であるという情報を流すための謀略活動を行なっていたことが分かる。東中野氏が「反日攪乱工作隊」説の根拠にした「基本史料」も、そうした情報活動をしていた憲兵隊が出所のものである。

James Henry McCallum was born on November 19, 1893 in Olympia, Washington. After graduating from the University of Oregon in 1917, he went on to earn his B.D. from Yale Divinity School in 1921. Later he obtained a Master’s Degree from Chicago Divinity School (1927) and continued his education by doing doctoral work at the Union Theological Seminary in New York (1939). In 1921, he married Eva Anderson and together they moved to China in the same year.  In China, he engaged in evangelical and community center work for the United Christian Missionary Society. During the Nanjing Massacre, he was the administrator of the Nanjing University Hospital and participated in refugee relief work. The letters he wrote during this time served as evidence in the International Military Tribunal for the Far East (Tokyo Trial). After the war, he was in charge of rehabilitation work in Nanjing as secretary of the Mission (1946-1951). At the end of his service in China, he handled missionary finances. McCallum returned to the United States in 1951. He passed away April 20, 1984 in Pico Rivera, California.

もう1つは、アメリカ人ジャーナリスト、ジョン・B・パルエルの回顧録から、1927年の南京事件で、外国人記者により、外国人女性凌辱事件が事実を踏まえないで誇張して報道されたのは、列強の武力干渉を引き起こそうという反動勢力の狙いがあった、と彼が批判した文章を「例証」に引用し、1937年の南京事件においても信憑性のない婦女凌辱報道が同様な意図から行なわれたと結論している(274頁)。
東中野氏は出展を「在支25年」としか記していないが、John B. Powell. My Twenty-five Years in China, The Macmillan Company, 1945.からの引用である(同書の156頁)。パウエル氏が言及した南京事件は、1927年3月、国民革命軍が南京に入城した時、外国権益の強制回収をめざす革命側が日本、イギリス、アメリカ等の領事館を襲撃し、これに対してアメリカ、イギリスの軍艦が南京城内に威嚇砲撃を加えた事件である。この時、外国人記者たちが革命側の軍と民衆が外国人女性を強姦したという巷のデマを報道したことをパウエル氏は強姦の事実がなかったことを確認して、批判したのである。
しかし、パウエル氏は同じ回顧録で1937年に日本軍が引き起こした南京事件は、1927年の南京事件と比較にならない苦難を南京住民に与えたとはっきりと書いている。しかも1937年の『レイプ・オブ・南京』は、第3次ポエニ戦争がカルタゴを征服、破壊した時に住民に与えた野蛮性に匹敵するとまで書いているのである。東中野氏が彼の文章を引用して、南京事件における日本軍の婦女凌辱の報道に信憑性がない「例証」にしようとしたのとはまったく逆に、パウエル氏の書は「南京における外国人宣教師たちの国際グループからの真正の報告によれば」と信憑性を高く評価したうえで、彼らがもたらした情報に基づいて、日本軍が難民区のミッションスクールから中国女性と少女を拉致していった事実も含めて、南京大虐殺の実際の様相を詳述している。さらには南京安全区国際委員の宣教師たちが撮影した写真を上海で直接見た衝撃も書いている(同書、306-308頁)
パウエル氏の回顧録の中の、1927年の南京事件についての1部だけを引用し、彼が同書で事実であったと明確に記している南京大虐殺を否定するための「例証」に東中野氏が「悪用」するのは、氏の著作に対する冒瀆である。東中野氏はウソを「例証」するために学問的にはとても許されないことを平然とやっているのである。

*南京事件,是在1927年3月,中國國民黨北伐军队攻占南京時,發生的暴力排外、英美军舰炮击南京、导致中外人员伤亡的事件。Asturianuアストウリアス語→L'Incidente de Nankín o Incidente de Nanjing (en chinu: 南京事件, pinyin: Nánjīng Shìjiàn; en xaponés:南京事件, Nankin Jiken) asocedió en marzu de 1927 mientres tomar de la ciudá polos Partíu Comunista de China comunistes a los nacionalistes.
*第三次ポエニ戦争(だいさんじポエニせんそう、紀元前149年 - 紀元前146年)は、かつてフェニキア人の植民地だったカルタゴと共和政ローマとの間で争われたポエニ戦争の3回目にあたり、最後となった戦争である。「ポエニ」という名称は、ローマ人によるフェニキア人の呼び名から名付けられた。戦争はカルタゴ市に対する3年間の攻囲戦であり、これによってカルタゴの町は完全に破壊され、残されたカルタゴの全領土はローマに併合され、戦争の際に都市に残っていたカルタゴの全住民は戦死(飢死含む)か奴隷となった。第三次ポエニ戦争により、国家としてのカルタゴは滅亡したEsperantoエスペラント語→La Tria Punika Milito (de la latina vorto poeni = punikoj) estas la tria kaj lasta el serio de tri militoj en la regiono de la Mediteranea Maro dum la antikva epoko.



自由自在に中国兵「反日攪乱工作」を捏造
東中野氏は、自分では「基本史料」を発見し、「例証」によって中国軍の「反日攪乱工作」が「実証」されたとして、つぎにそれを拡大応用して、自由自在に「反日攪乱工作」の事例を捏造していく。以下その例示だけにとどまる。
(1) 東京裁判でマギー牧師が証言した、家屋に侵入してもマギーらが駆けつけるとたちどころに逃げていった日本兵は、欧米人に掠奪・放火・強姦を見てもらうためにやってきた「反日攪乱工作隊」の中国兵であったのだ。欧米人に目撃されれば煽動の目的が達成されたから、あとは日本軍に見つからないようにすぐに逃げたのだ(278頁)。
(2) 南京安全区国際委員が中国人から連絡を受けて強姦現場に駆けつけたという記録は、「反日攪乱工作隊」のメンバーが、連絡をして委員を呼びに行く者と、駆けつけた西洋人に日本兵がしているように強姦の現場を見せる実行者と役割分担をして、擬装したものだった(281頁)
(3) ラーべ日記に、難民に開放していたラーべ宅にラーベが帰宅すると、侵入した日本兵が強姦しようとしていたところに遭遇、彼が駆けつけて追い出したと記されているのは、ラーべ宅に潜んでいた中国軍の大佐一味が、ラーべの帰宅時間を見計らって、日本兵の仕業に見せるために「自作自演の強姦劇」をやったのだ(397頁)。
(4) ラーべ日記の記述に、ラーべの家の周辺で放火や強姦がやたらと多いのは、ラーべに日本兵がやったと日記に書かせるために、「反日攪乱工作隊」が狙い撃ちして放火や強姦を行なったからだ(396頁)。
氏は中国軍の「反日攪乱工作隊」の実在をトリックで納得させることができたと思い込んだのか、後は右の事例のように史料的裏付けもまったくなく、想像、推測だけで自由自在に「反日攪乱工作」の活動を捏造し、中国兵を犯罪人に仕立て上げ、南京安全区国際委員の日本軍暴行の記録を中国兵の謀略であったと塗り替えていく。もはや学問とは無縁な「妄想の世界」である。そしてウソがどんどん大げさになって、冒頭に紹介した小林よしのり『戦争論』の「南京の安全区の中に2万人の国民党軍のゲリラが入り込み、日本兵に化けて略奪・強姦・放火を繰り返し、これをすべて日本軍のしわざに見せかけていた」という荒唐無稽な「反日攪乱工作隊」謀略説にまでゆきつくのである。


ことさらに「支那」と呼ぶ中国蔑視論者
南京事件否定派には石原慎太郎知事がそうであったように、中国のことを「支那」とことさらに蔑称する人が多い。東中野氏は戦後生まれにもかかわらず、本稿に引用した彼の文章に明らかなように、意識的に「支那」という蔑称を使用している。それは、東中野氏が強烈な中国人蔑視意識の持ち主であることの表明であり、日中戦争が誤った侵略戦争であったという反省の意識をもっていないことの表明でもある。東中野氏には、南京事件を引き起こす最大原因である南京攻略戦が国際法に違反した不法行為であった(本書第3章に前述)という意識に欠けるから、日本軍は戦時国際法を遵守し、悪いのはすべて中国軍だという論を容易に展開する。
戦前の日本政府は、中華民国という正式な国名があり、略称として中国という呼称があったにもかかわらず、蔑視し、軽視する意味でことさら「支那」と公文書にも表記し、正式な国名を無視した。日本国民も日清・日露戦争以降、中国や中国人に対する優越感と蔑視意識から「支那」「支那人」と呼び、日中戦争では「暴戻なる支那の膺懲(ようちょう)」「抗日支那の暴支膺懲」というスローガンのもとに侵略戦争を強行した。中国では、1930年に国民政府外交部から日本政府に「支那」ではなく中国の呼称に変えるよう要請がなされたが、日本側はほとんど無視した。1946年6月、戦勝国として東京に来た中国代表団から日本の外務省に「支那」という呼称を使ってはならないという通達があり、外務次官は、新聞社、出版社、大学等に対して「支那」という名称の使用を避けるよう通達をした。以後、日本人は「支那」という呼称を一般に使用しなくなった。現在では中国侵略戦争への反省とともに、「支那」という呼称に象徴される日本人の中国人蔑視、侮蔑意識が侵略戦争を支えていたという反省に立って、そして何よりも中国人が「日本人が「支那」と呼ぶとき、日本が中国を侵略し、中国人を侮っていた頃の歴史を想起する」として忌み嫌っていることを尊重して、良識ある日本人は「支那」という言葉は使わない。

【参照Reference】
①「アメリカ・イギリス・’支那’・ソ連らの戦勝国Victorious countries such as the United States, Great Britain, 'Shina'(China), and the Soviet Union(P44)」「’支那人’が’支那人’を殺してたのか~~~っWere 'Shina'(Chinese) people killing 'Shina'(Chinese) people?(P129)」「安全区に入り込んだ’支那兵’が略奪するので取り締まってほしいI want you to crack down on 'Shina'(Chinese) soldiers who have entered the safety zone and are looting the area(P129)」小林よしのりYoshinori Kobayashi『戦争論On War』90万部突破のベストセラーBestseller with over 900,000 copies sold
②Post-war derogatory connotations:The Second Sino-Japanese War fixed the impression of the term "Shina支那" as offensive among Chinese people. In 1946, the Republic of China中華民国 demanded that Japan cease using "Shina". In China中国, the term Shina has become linked with the Japanese invasion and Japanese war crimes, and has been considered a derogatory and deeply offensive ethnic slur ever since.
東中野氏がことさらに「支那」「支那人」という呼称に執着することは、彼が南京事件を引き起こした当時の日本軍の中国人蔑視意識を引きずっていることの証左である。本稿でそのウソを批判してきたような「反日攪乱工作隊」説すなわち日本軍の強姦を中国兵の仕業にしてもかまわないとするのは、中国人蔑視意識が心底にあるからであろう。南京事件における日本軍の強姦行為がなかったという否定説をさらに踏み出して、多くの婦女凌辱事件を中国軍の仕業に転嫁した東中野氏のウソは、被害者の中国人女性を二重、三重に傷つけるものであり、中国人の名誉を深く傷つけるものである。
「日中共同宣言」(1998年11月)で日本政府は「過去の一時期の中国への侵略により、中国国民に多大な災難と損害を与えた責任を痛感し、深い反省を表明した」のであり、侵略戦争を反省する歴史認識に立って、日中友好を進めることが現在の日本の国是である。東中野修道、小林よしのり氏らのウソは、日本の「国益」にも反するものである。


第12章 第12のウソ 
南京大虐殺の写真はニセものばかりだ
南京大虐殺に関する写真には、誤用問題が少なからず起こり得る。それは、当時陸軍の厳格な検閲制度があり、たとえ虐殺現場に居合わせた記者がいたとしても、日本軍に不利な写真は撮影できなかったからだ。つまり、現在出所がはっきりしている写真というのはたいてい陸軍省お墨つきのヤラセ写真なのである。否定派は誤用が起こり得る背景には触れずに、1つでも間違いを見つければ著作のすべてをファナティックに否定する。時と場所は違っても日本軍の残虐行為を写していることに変わりはない誤用写真をはたして「ニセ写真」と断定できるできるのだろうか。

12 南京大虐殺はニセ写真の宝庫ではない           笠原十九司
否定派の「ニセ写真」攻撃
南京大虐殺論争に敗退した否定派が「敗者復活」を夢見て集中しているのが、彼らのいう南京大虐殺「ニセ写真」である。小林よしのり『戦争論』は「第11章反戦平和のニセ写真を見抜け」につぎのように大仰に書く。
<南京大虐殺はニセ写真の宝庫>
「『南京大虐殺』はニセ写真の宝庫である。厳密な資料批判に耐え、「これが日本軍による民間人大量虐殺の証拠」といえる写真はまだ一枚も出てきていない。今、アメリカでアイリス・チャンという中国系女性が書いた『レイプ・オブ・ナンキン』という本がベストセラーになっている。この中もやはりニセ写真の宝庫である。」
<謝罪・回収に至った極悪ニセ写真>
「(笠原が)岩波新書で『南京事件』というのをだした。ところがこの本にも重大なニセ写真が使われていたことが、日大の秦郁彦教授によって明らかにされた!なんとこれは日本兵が「警備」していたのを「拉致」していたと正反対に書くという「キャプション捏造」の手口の中でも極悪の質のものだった!結局、岩波書店は冊子『図書』の中で、この極悪ニセ写真について謝罪、積極的回収はせず出荷停止、購入した人の申し出で交換することになった。この極悪ニセ写真は、今、アイリス・チャンが使ってベストセラーとなり、アメリカ人をだましまくっている」(164-166頁)。
私が『南京事件』の章扉に掲載した一枚の写真は、国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』に収録されていた日本軍が中国人女性を護送している場面の写真で、オリジナルは朝日新聞のカメラマンが撮影したものだった。同書のキャプションは日本軍が中国女性を日本軍司令部に連行して陵辱、輪姦、銃殺となっていたのが、私は「日本兵に拉致される中国人女性たち」というキャプションを付して掲載したのである。その時点で私が国民政府が同写真を抗日プロパガンダに悪用したものであることを見抜けなかったことを反省し、「新書『南京事件』の掲載写真について」(『図書』1998年4月号)を書いて、誤用した写真は差し替えた。
歴史書に写真を史料として掲載する場合、注意をしていても誤用してしまう場合がある。大切なのは写真の利用にさいして厳密な検討・批判を心掛けるとともに、誤用が判明すればそれを改め、事実を伝える写真に差し替え、以後はさらに写真史料批判を厳格にする努力を心掛けることである。しかし、森村誠一『続・悪魔の飽食』(光文社、1982年)が写真誤用で右翼勢力から強烈な批判攻撃と圧力をうけて、『悪魔の飽食』とともに出版停止に追い込まれ、中国帰還者連絡会編『新編三光』(光文社、1982年)が一枚の写真の説明が誤っていたのを批判、攻撃され、欠陥本として市場から引き上げられてしまったように、日本において写真の誤用は、侵略戦争の実態を国民が知ることを阻止しようという右翼、保守勢力による攻撃と圧力のターゲットにされる。日本社会ではそうした言論出版の自由への脅迫活動が、放任されたままである。

『戦争論』にあるように、拙著の一枚の写真の誤用も否定派からの攻撃のターゲットにされ、書物全体の信憑性が疑わしいと思わせるため、そして可能ならば出版停止に追い込むため、産経新聞、読売新聞、『正論』『諸君!』『SAPIO』をはじめ、枚挙にいとまがないくらい、攻撃が繰り返された。『SAPIO』(1999年7月14日号)は、「謀略の『南京大虐殺』キャンペーン」を特集、「虚報・『証拠写真』はこうして作られた 情報戦の強力な”武器“になった『南京大虐殺カラクリ写真館』」という編集部の記事があり、そこでも拙著の写真説明が執拗に取り上げられ、批判されている。
現在のドイツ社会では、ナチスの戦争犯罪の歴史を正視して出版、報道していこうという歴史認識のコンセンサスが政府、国民の間に築かれている。日本社会では、日本の侵略戦争の歴史を解明しようとする言論・出版活動に圧力を加え、阻止、妨害しようとする右翼、保守勢力の活動が野放しにされている。否定派の狙いは、相手の著作や作品、企画品に1つでも誤りや矛盾を発見すると、それを針小棒大に宣伝、攻撃して、全体の信憑性に疑問をもたせることにある。今、否定派が「ニセ写真」攻撃に集中しているのは、一枚の写真誤用でも発見すれば、それを著書全体の信憑性を疑わせ、ひいては作者の社会評価までも失墜させることを狙えるからである。
森村誠一『続・悪魔の飽食』、中国帰還者連絡会編『新編三光』が誤用写真を差し替えて別の出版社から出版されて、現在でも多くの読者を得ているように、批判され気づいた時点で誤用写真を改めれば、著書全体の信憑性はより高くなるのである。拙著の場合は、さいわいなことに、岩波書店側が圧力に屈せずにしっかりと対応し、出荷一時停止と取り替えの処置を取って、出版停止にはいたらなかった。
現在「自由主義史観研究会」は「プロパガンダ写真研究会」を組織して、全国の地方自治体が設立、あるいは企画している平和祈念館における戦争被害の歴史を展示した写真やビデオにたいする「ニセ写真」「ニセ映像」攻撃に力を入れ、写真の誤用を発見したら、展示そのものを中止、撤回させる圧力的行動を展開している。さらに、アイリス・チャン『ザ・レイプ・オブ・南京』が日本ではまだ翻訳が出版されておらず、日本人にはほとんど影響を与えていないのに、同書に掲載されている誤用写真を取り上げて、敗退した南京大虐殺論争の憂さをはらし、あわよくば「敗者復活」ができるかのごとく「ニセ写真」攻撃に熱中している(それがアメリカでは“日本の反動勢力の攻撃と闘うチャン”というイメージを高める皮肉な結果をもたらし、逆に日本社会のイメージを貶めているのだが)。藤岡信勝・東中野修道『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究―中国における「情報戦」の手口と戦略』(祥伝社、1998年)はその好例である。

*아이리스 장 또는 아이리스 순루 장(Iris Chang 아이리스 챙, 중국어 간체자: 张纯如, 정체자: 張純如, 병음: Zhāng Chúnrú 장춘루[*], 1968년 3월 28일 ~ 2004년 11월 9일)은 중국계 미국인 역사가이자 작가이다. 

《난징의 강간: 제2차 세계대전의 잊혀진 홀로코스트》(The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II)는 아이리스 장이 난징 대학살에 관해 쓴 논픽션 책이다. 《난징의 강간》으로도 불리며 1997년에 베스트셀러가 되었다. 난징 대학살은 1937년과 1938년 사이에 중일 전쟁 동안 중화민국의 수도인 난징을 일본군이 함락한 이후, 일본군이 자행한 대학살과 잔혹한 범죄 행위를 칭한다.

New edition sequel to Devil's satiety (Kadokawa Bunko) (Japanese) Bunko – 1983/8/1 Seiichi Morimura  (Author)
Nouvelle suite de la satiété du diable (Kadokawa Bunko) (japonais) Bunko - 1983/8/1 Seiichi Morimura  (Auteur)
森村诚一(1933年1月2日-),日本推理小说作家。
Сэйити Моримура (яп. 森村誠一(埼玉県出身), Моримура Сэйити, родился 2 января 1933 года) — японский писатель. Сэйити Моримура родился в городе Кумагая префектуры Сайтама. Окончил столичный университет Аояма.

Nova volumo Memoro pri Sanko-Ŝoka konfeso Vol.1 Kion japano faris en Ĉinio Dokumentoj de Kappa Romanoj 
Kunveno / Redaktado de Ĉinaj Returneaj Kunordigoj  Νέο τεύχος Sanko Shock υπόμνημα εξομολόγησης Vol.1 
Σειρά εγγράφων Kappa Novels Συνεδρίαση / Επεξεργασία Επαναληπτών της Κίνας

日本軍部が撮らせず、報道もさせなかった虐殺写真
アメリカのベトナム侵略戦争では、戦場におもむいた世界のカメラマンたちが、アメリカ兵のベトナム民衆に対する虐殺、残虐行為の現場を撮影して報道したことが、その侵略的本質を視覚をとおして世界の人々に認識させる役割を果たした。
しかし、南京戦では、日本から200名を超える新聞記者、カメラマンなどの大報道陣が送りこまれ、少なからぬ者が日本軍の虐殺、暴行、放火などの現場を目撃しているにもかかわらず、その時は撮影もせず、報道もしなかった。当時新聞連合社(後の同盟通信)の上海支局長をしいてた松本重治氏(Shigeharu Matsumoto (松本 重治(大阪府出身), Matsumoto Shigeharu, 1899–1989) was an internationalist. He was founder of the International House of Japan and a pioneer in building constructive relations between Japanese and others through shared knowledge of their diverse histories, needs and national aspirations.[1][2][3] He was awarded the Ramon Magsaysay Award in 1980. He was an influential journalist and an active participant in the internationalization of Japan in the latter part of the twentieth century)の回想録『上海時代(上)』(中公新書、1975年)に、南京にいた従軍記者の中に捕虜虐殺や強姦、暴行などを目撃、見聞していた人が何人もいたことが紹介されている。東京日日新聞(現毎日新聞)カメラマンの佐藤振壽氏(佐藤振寿 (1913年2月20日-2008年9月4日),日本新闻记者,摄影记者 Shinju Sato 佐藤振壽(東京都出身)sau Shinji Sato (Shinju Sato, bărbat, 20 februarie 1913 - 4 septembrie 2008 ) este un reporter de ziar japonez și fotograf de știri )は中国軍の敗残兵約100名を虐殺している現場にいあわせたが、写真は撮らなかった。「無抵抗で武器を持たない人間を殺すには、自己の精神を狂気すれすれまで高めないと、殺せないのだろう」「銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった」「写真を撮っていたなら、おそらくこっちも殺されていたよ」と回想している(同「従軍とは歩くこと」『南京戦史資料集2』偕行社、1993年、611頁)。
日本の従軍カメラマンたちが、虐殺現場にいて、殺害場面を目撃しても、撮影しなかった最大の理由は、当時「新聞掲載事項許否判定要領」(1937年9月9日、陸軍省報道検関係制定)に基づく厳しい陸軍の検閲制度があって、検閲をパスしなければ報道できなかったからである。同要領では次のものは「掲載を許可せず」となっている。
4、左に列記するものは掲載を許可せず (12)我軍に不利なる記事写真 (13)支那兵または支那人訊問等の記事写真中、虐待の感を与える虞(おそれ)あるもの (14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし 5、映画は本要領に準じ検閲するものとす(『不許可写真1』(毎日新聞社、1998年、223頁)。
右の検閲要領を知る南京戦地のカメラマンは、日本軍の虐殺、残虐行為を撮影することは当然回避した。それにしても、中国兵、中国人の残虐写真は掲載可というのは、なんとも策略的である。『不許可写真1』には、陸軍省の検閲をパスするつもりで、提出した写真でも「掲載不許可」の処分を受けた南京戦の写真が何枚か掲載されている。「南京市内掃蕩隊が敗残兵を獲物に引き揚げた 12月13日」とう手書きメモの付された、数名の中国兵を後ろ手に縛って銃剣をつきつけて連行する場面の写真は、「不許可」とされ、ネガまで没収された(144頁)。

「我軍に不利となる記事写真」の掲載は不許可となれば、掲載できるのは「我軍に有利なる記事写真」となる。小林よしのり『戦争論』に「ニセ写真」に代わり「出所のはっきりしている南京写真」として掲載している「平和甦る南京皇軍を迎えて歓喜沸く」という写真こそ「我軍に有利なるヤラセ写真」の類である。南京安全区国際委員のマッカラム氏は、そうした「ヤラセ写真」の撮影場面をこう日記に書き留めている。
「1938年1月8日、難民キャンプの入口に新聞記者がやってきて、ケーキ・りんごを配り、わずかな硬貨を手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじのぼり、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった」(南京事件資料集(1)266頁)。
こうした「ヤラセ写真」こそ日本側のプロパガンダ写真の典型であるのに、「プロパガンダ写真研究会」は、まったく調査も批判もするつもりはないらしい。私が誤用したのは『アサヒグラフ』(1937年11月10日号)に掲載された「硝煙下の桃源郷―江南の宝山県の盛橋(同誌では盛家橋とされている)は、「わが軍の庇護によって平和は甦った」部落で、日本軍部隊長が村長格におさまって、「村民から先生々々と慕われている」「食べるものがなくなれば、皇軍の残骸が給され」「働けば働くだけ貰い」「昼夜を分かねた庇護を加えられて・・・部落民の喜しそうな顔を見るがよい」というキャプションが付されている。私が誤用したのは「我が兵士に護られて野良仕事よりかえる日の丸部落の女子供の群」というキャプションがついた写真だった。「日の丸部落」の写真は、1937年10月14日撮影と記されている。その時の宝山県における上海戦の状況は、上海派遣軍参謀長・飯沼守少将の日記(偕行社『南京戦史資料集』1989年、所収)に詳細に記録されている。宝山県は日本軍の上陸地点にあたり、これを阻止するために、中国軍は精鋭部隊を投入して、日本軍と激戦を展開したことは『813淞滬抗戦』(中国文史出版社、1987年)にも詳しい(186-188頁)。
当時、宝山県の盛橋付近で作戦を展開していたのは第11師団の部隊であったが、同部隊は、宝山県の西県境にそって大楊―広福―麗店に構築された中国軍陣地で激戦を展開していた。第11師団の将兵の約3分の1が死傷するという大きな損害も被っていた。上海派遣軍の指揮官たちは、上海戦がすでに3ヶ月を経過したにもかかわらず、死傷者が増大するばかりで、征圧はできないことに焦燥感をつのらせていた。しかも、上海派遣軍にとっては必ずしも名誉ではない、第10軍の杭州湾上陸作戦がすでに検討されていたのである。1日も早く中国の陣地線を撃破するための作戦に集中していた第11師団の部隊には、「日の丸部隊」を長期的「庇護」する条件などなかったのである。当時、盛橋の農民たちが、「桃源郷」どころか日本軍の殺戮、破壊、婦女陵辱、放火などの恐怖にさらされていた事実は、李 新・徐俊元・石玉新主編『侵華日軍暴行総録』(河北人民出版社、1995年)に詳しい。日本軍は激戦地、日本軍の被害が多大だった地域では、報復として住民への虐殺、暴行を激化させるのが通例だった。同書の「上海市における日本軍の暴行」の章に「日本軍の宝山県における暴行」の節があり、宝山県もその例外ではなかったことが記録されている。日本軍の侵攻、占領にともない、盛橋でも15歳の少女が焼殺され、家族3人が泥沼に隠れていたのを日本軍に発見され、生き埋めにされている。盛橋周辺の村々では、数百から千人単位の村民が殺害されている(748-751頁)。本多勝一氏も盛橋の隣の麗 を訪れ、住民2244人が日本軍に殺害されたことを聞き取っている(本多勝一『南京への道』朝日文庫、1989年、46頁)。
周辺の村々とともに、日本軍の虐殺にさらされた盛橋の村民が、日本軍の危害を避けるため、「恭順」「歓迎」のポーズを取らされて、「ヤラセ写真」に収まったかもしれないが、「桃源郷」などではなかったことは、以上のことからも明瞭である。秦郁彦氏をはじめとして、否定派の人たちが、上記の「ヤラセ写真」を無条件に信じて、私が正反対のキャプションを「捏造」したとまで非難、攻撃するのは誤っている。


Matsumoto Shigeharu and his Shanghai eraМацумото Шигехару и его эра в Шанхае

①「ティンパーレー君、私も日本人の端くれである。南京の暴行、虐殺は、全く恥かしいことだと思っている。貴著が一時は、反日的宣伝効果をもつだろうが、致し方ない。中国人に対し、また人類に対し、われわれ日本人は深く謝するとともに、君の本をわれわれの反省の糧としたいものだ。丁寧なご挨拶で、かえって痛み入る」②「だが、私としては、被害者の数量よりも、日本軍人がやった非人間的な行為そのものに、胸を刺された思いであった」③「三人ともが十二月十六日から十七日にかけ直接に見たというのは、まず下関から草鞋峡の方向への河岸一帯にあった多数の焼死体であった・・・元軍政部構内で若い将校や下士官が「新兵訓練」と称して新兵を使って中国人の捕虜を銃剣で突き、そこにあった防空壕にぶちこんだ」④「私は、ベイツ教授を個人的にも知っていたが、その数日後、軽井沢で会ったことがあった。彼は、口も重く、『あのときは、全くひどかった。もう何も言いたくありません』と一言、語ったばかりであった」(『上海時代(下)』(中公新書)P251~P253)⑤「中島師団長自身の軍刀の切れ味をみるため、捕虜の試し斬りを日本からきた剣士にさせたことも書かれています・・・私は南京内外で虐殺された中国人は捕虜と一般中国市民たちを総計して三万人ぐらいと推定しています」(松本重治『昭和史への一証言』 P74~P78)http://yu77799.g1.xrea.com/matumoto.html

南京虐殺を撮影した日本兵
南京戦を取材した日本の報道カメラマンが軍部の厳格な検閲制度に従順にしたがって、自己規制的に南京事件の現場を撮影しなかったなかで、日本軍の大虐殺の一端をカメラに収めていた一兵士がいた。兵站自動車第17中隊の非公式の写真班を務めていた村瀬守保氏で、彼は自分の中隊の各将兵を撮り、それを自分で現像、焼付けして各将兵に送らせていた。戦闘部隊ではなく、輸送部隊であったため、戦火の直後をまわって、比較的自由に撮影ができ、かつ軍部の検閲を受けないでネガを保持できる恵まれた立場にいた。『村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録―私の従軍中国戦線』(日本機関紙出版センター、1987年)には、村瀬氏がキャプションをつけた南京での集団虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。これらの写真は、集団虐殺の現場から奇跡的に死を免れて逃げ帰った中国人の証言にある、射殺・銃殺、再度生存者を点検して刺殺したあと、最後は薪と石油で焼殺、焼却するという集団大量虐殺の手段が事実であることを証明するものである。その中に「虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体、ほとんどが平服の民間人でした」というキャプションの写真が3枚ある(46-47頁)。冒頭に引用した小林よしのり『戦争論』で、「厳密な資料批判に耐え、『これが日本軍による民間人大量虐殺の証拠』といえる写真はまだ一枚も出てきていない」と、氏としては珍しく逃げ道を用意した慎重な言い方をしているが、それでもウソであることを村瀬氏の写真は証明している。

70 years after World War II Moriyasu Murase Photo Exhibition Sino-Japanese War taken by a Japanese soldier 
70 años después de la Segunda Guerra Mundial Exposición fotográfica de Moriyasu Murase Guerra chino-japonesa tomada por un soldado japonés
一人一人の兵士を見ると、みんな普通の人間であり、家庭では良きパパであり、良き夫であるのです。戦場の狂気が人間を野獣にかえてしまうのです。このような戦争を再び許してはなりません。村瀬守保 
Looking at each soldier, they are all normal human beings, good dads at home, and good husbands.  The madness of the battlefield turns humans into beasts. We must not allow such war again.  Murase Moriyasu  
Mirando a cada soldado  Todos son personas normales, Buen papi en casa  Soy un buen esposo Battlefield Madness convierte a los humanos en bestias Cambiará.  Tal guerra otra vez  No perdones  Murase Moriyasu
日本軍の目を避けて南京虐殺を撮影した宣教師たち
日本軍に攻撃され、殺戮・虐殺された中国側、難民状態で辛うじて生き残った南京城内の中国人の側には、日本軍の虐殺、残虐行為を写真撮影できる条件はまったく存在しなかった。
日本軍占領直後の南京に12月15日まで留まって取材していた『シカゴ・デイリーニュース』のスティール記者もカメラを持っていた。彼は南京を去る時、日本軍が長江岸で約300人の中国人の集団から50人ずつを引き出しては機関銃で銃殺している場面を目撃している。しかし、望遠レンズのない時代ゆえ、日本軍に発見されるのを恐れてカメラ撮影はできなかった。スティール記者に私がインタビューしたさいに、彼が南京の日本軍を撮影した写真を拝借して、『南京事件資料集(1)』(青木書店、1992年)に掲載したが、日本軍に気づかれないように、背後からあるいは遠くからそっと撮った写真がほとんどである。銃をもって殺戮中の異常な興奮状態にある日本軍将兵の前でシャッターを切ることは、危険きわまりないことであったし、無事にすんでも発見されればとがめられ、カメラを没収されるのは目に見えていた。
南京事件の期間、ずっと南京にとどまった南京安全区国際委員の中で、ジョン・G・マギー牧師は16ミリフィルムのカメラをもち、アーネスト・H・フォスター牧師はカメラをもっていた。彼らは日本軍の目を避けながら虐殺死体群、一家惨殺跡、池中の虐殺死体、鼓楼病院に運ばれてきた強姦、殺傷、暴行などの被害者、掠奪、破壊、放火されて廃墟と化した街、等々の多くの写真を撮影していた。マギー牧師のフィルムはおそらく虐殺現場(殺害場面の撮影は不可能であり、虐殺された死体が放置された現場)や犠牲者の姿を撮影した唯一のものと思われる。マギー牧師の記録フィルムは、同フィルムを中心に『MBSナウスペシャル・フィルムは見ていたー検証南京大虐殺』(1991年10月6日放映)が製作され、ナンシー・トン製作『天皇の名のもとにー南京大虐殺の真実』(ビデオ)に収録されている。また拙稿「世界に知られていた南京大虐殺」(『アジアの中の日本軍』大月書店、1994年)では、オリジナルにあたるフィルム『侵略された中国』(無声)のキャプションの紹介と、同フィルムが奇跡的に世に出た経緯を説明した。
さきの日本陸軍検閲要領の「映画は本要領に準じ検閲する」を考えれば、日本の映画カメラマンが虐殺現場を撮影する可能性はゼロに近かった。それでも1938年に東宝文化映画部が制作した『南京』という記録映画(ビデオが「戦記映画復刻シリーズ21」として日本クラウン社が発売)は、「我軍に不利なる」場面の撮影は当然避けられているが、南京占領直後の南京城内の掠奪、強姦、放火された街のようす、疲労し無気力な表情の難民など、隠しようのない南京事件の舞台裏が撮影されており、見る者が見れば、南京事件を物語る映像記録の1つになっている。この映画を見れば、「平和甦る南京―皇軍を迎えて歓喜沸く」(『東京朝日新聞』1937年12月20日)や「南京・今ぞ明けた“平和の朝”建設の首都を飾り 光と水のお年玉 万歳・電灯と水道蘇る」(同前 1938年1月3日)という新聞報道のウソが分かる。
南京安全区国際委員たちが南京事件の一端を撮影した写真の多くは、イェール大学神学図書館に所蔵されている。拙著『南京難民区の百日―虐殺を見た外国人』(岩波書店、1995年)でも何枚か紹介した。ラーべ日記にも国際委員たちが撮影した多くの写真が収録され、中国語版にはそのまま掲載されているが、日本語版『南京の真実』(講談社、1997年)では残念ながら相当枚数が省略されている。ラーベがヒトラーに宛てた報告書(本書50頁参照)の附属文書(ドイツ語)には、安全区国際委員(主にマギー牧師)が撮影した南京事件関係の写真80枚がそれぞれにラーべの丁寧な解説をつけて収録されている。撮影者と出所と写真現場が特定できる貴重な南京事件写真資料である。ラーべ日記と付属文書のすべてが原文資料そのままに正確に翻訳出版されるのを期待する。
管見の限りでは、湯美如主編・章開沅編訳『南京―1937年11月至1938年5月』(三聯書店(香港)、1995年)にアメリカ人宣教師たちが撮影した南京安全区関係の写真が比較的多く掲載されている。

Ernest H. Forster was born in 1895 in Philadelphia and graduated from Princeton University in 1917.  After serving as assistant headmaster at St. Paul's School in Baltimore, Maryland for two years, Forster went to China as an Episcopal missionary and taught at Mahan School in Yangchow.  In 1936, he married Clarissa Townsend, daughter of a prominent lawyer in Boston, Irving U. Townsend. The Forsters returned to China and were stationed at Yangchow.  They were transferred from Yangchow to Nanking to serve at St. Paul's Episcopal Church only about one month before the capture of Nanking by the Japanese.  Clarissa Forster was evacuated from Nanking to Hankow in late November of 1937 and, by the middle of January 1938, arrived at Shanghai via Hong Kong.  Forster, with John Magee, another Episcopal minister, remained in Nanking throughout the critical months of the Nanking Massacre.

Aŭtoro De Tokushi Kasahara  Ĝenro Historio / geografio / biografio  Eldono dato 1994/09/20
Auteur Par Tokushi Kasahara  Genre Histoire / géographie / biographie  Date de publication 1994/09/20

「ニセ写真」攻撃のトリック
撮影者と場所と出所が特定できる正確な南京事件の写真資料は、以上述べたものが主要なものである。日中戦争において日本軍が引き起こした多くの侵略、残虐事件の中で、これだけフィルムと写真の資料が残されたのは、むしろまれな例であるといえる。それは、量的にも規模的にもはるかに被害が膨大であった「三光作戦」の現場写真がいかに少ないかを想起すれば、容易に理解できよう(「三光作戦」こそナチス・ドイツのホロコーストに相当することを拙著『南京事件と三光作戦』大月書店、1999年、に詳述したので参照されたい)。日本軍当局は、侵略、残虐事件の写真、フィルムを厳格周到に取締って撮影させず、たとえ撮影したものがあれば、兵士個人の日記、郵便物、持ち物まで含めて厳密に検査、検閲したのである。いっぽう、被害者の中国人側には、戦火、戦場において、日本軍の残虐行為を撮影、記録できる条件は皆無に等しかった。
アイリス・チャンの本も含めて、世に出ている南京大虐殺写真には、厳密な意味で南京虐殺の現場の写真でないものも多い。ただし、それらの多くは南京事件の最中に撮影された現場写真と特定できないだけで、首切りの瞬間や、中国人の刺殺場面、強姦被害の女性、中国人の虐殺死体等々の写真が語る日本軍の残虐行為そのものは事実である場合が多い。否定派の攻撃する「ニセ写真」とは意味が違う。南京事件とは違う場所と時期の写真を南京大虐殺の写真であると「誤用」したのであり、他の場所で日本軍の行なった残虐行為の写真資料としての価値はあるのである。「ニセ写真」とは、被写体が現実とはまったく違い「ヤラセ」「合成」「創作」などの詐欺的手段を使って撮影された事実でない写真のことである。
中国側の発行する南京大虐殺写真集に掲載されている南京事件と特定できない日本軍の残虐写真には、日本兵が南京の写真屋に現像・焼き増しを頼んだものが中国人側にわたり、戦後の南京軍事法廷で証拠資料として提出されたものでもある(洞富雄ほか編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社、1988年、所収の「呉旋さんの証言」)。『侵華日軍南京大屠殺暴行照片集』(南京大屠殺史料編辑委員会発行、1985年)の発行を準備していた南京市檔案館の関係者から私が直接聞いた話では、南京戦参加の日本軍捕虜や戦死者の所持品の中にあった写真が中国側にわたり、南京の日本兵が撮影、所持していた残虐写真という経緯で写真集に収録されたものもあった。
John B. Powel, My Twenty-Five Years in China, The Macmillan Company, 1945.には、パウエル氏が、南京のアメリカ人宣教師が送ってきた南京事件の写真を上海で見たとき、同じような日本軍の残虐行為の写真や強姦記念に被害者女性を入れて撮った写真などを、上海の朝鮮人経営の写真屋で見たことが書かれている。パウエル氏は、それらの残虐写真は日本兵が国内の友人に送ろうとしたものだと推定。その写真に写された行為が「近代戦のモラルからも、日常生活のモラルからも逸脱するものであるという意識はないようである」と嘆息している(308頁)。


Eine Studie über "Die Vergewaltigung von Nanjing" - Die Methode und Strategie der "Informationskriegsführung" in China (Japanisch) Buch - 1999/9/1 Higashinakano Shudo (Autor), Fujioka Nobutatsu (Autor) DE PATRIS "Nanjing de raptu" et Strategy-The method of "Prosopographia Militiarum Equestrium Quae Information" In Sinis (Iaponica) Hardcover - 1999/9/1 Higashinakano Shudo, (Latin) Fujioka Nobutatsu (Latin Edition)
Publisher content information:"The Rape of Nanjing" was suddenly published in the United States in 1997. The book, which claims that the "Nanjing Massacre" is more than the Nazi Holocaust, has become a bestseller with over 500,000 copies, despite the terrible content of ignoring historical facts, and Americans first learned of the incident. If Japan does not argue here, the content of the book will become "common sense in the world" and Japan will not be able to recover. In fact, this is the usual way in China to take advantage of information warfare. A masterpiece that thoroughly disproved the anti-Japanese forged document written by Chinese-American Iris Chang and criticized it completely! (A book recommended by Shodensha Sales Division Aizawa) The caption says that a Japanese soldier in a book published by a Chinese female nonfiction writer in the United States that has become a bestseller will take innocent Chinese. The photo I took. It's exciting to reveal the lie while presenting evidence. When you read this book, it will be dyed on the "right side".
instructions:"The Rape of Nanjing" was suddenly published in the United States in 1997. The book, which claims that the "Nanjing Massacre" is more than the Nazi Holocaust, has become a bestseller with over 500,000 copies, despite the terrible content of ignoring historical facts, and Americans first learned of the incident. If Japan does not argue here, the content of the book will become "common sense in the world" and Japan will not be able to recover. This is China's usual way of getting information warfare.






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