日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

抚顺战犯管理所=中國抗日戰爭期間侵華日本戰犯共計982人⇒中国が日本人戦犯の直筆供述書を初めて全文公開45人分を毎日1人ずつ ③


日本人戦犯36人目・柏葉勇一の供述書公開 乞食を山中に放棄(二)
日本人戦犯・柏葉勇一の1954年7月から8月の供述書によると、柏葉は1890年に日本の広島県で生まれた。1932年に中国東北部で中国侵略戦争に参加し、海倫憲兵分遣隊長や偽満洲国撫順市警察局局長などの職を務めた。


柏葉が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1941年9月、撫順で勤務中、所属警察に命令し、老虎台採煤所から逃亡した250人の捕虜労働者を捜索して包囲し、「一部ヲ拳銃ニテ射殺シ大部分ヲ逮捕」した。
撫順では、所属警察に命令し、「毎年一回若クハ二回市内」で「乞食刈ヲ実施シ、二百名乃至三百名ヲ逮捕シ(この数字は1954年8月1日の自供で「50人」に改められた)、自動車ニテ興京県山中ニ放棄シ」、「其ノ一部ハ身体衰弱カラ死亡シタルモノト認ム」
1942年9月には、撫順の炭鉱の「伝染病発生地域ニ於ケル隔離特別警戒」を自ら実施し、97人を隔離し、54人が死亡した。そのうち「永安台二十五番地区隔離所ニ於ケル隔離者」のうち「衰弱甚シキ者ヲ修理工場ノ鉄鉱炉ニ入レ多数焼死」させた。(編集MA)「人民網日本語版」2014年8月8日
 
日本人戦犯37人目・藤原広之進の供述書公開 民間人を自ら殺害
日本人戦犯・藤原広之進の1954年7月から8月の供述書によると、藤原は1897年に日本の愛媛県で生まれた。1935年に中国東北部に赴き、中国侵略戦争に参加した。穆稜・湯原・新京などで日本憲兵分隊長などの職を務めた。1945年8月31日に捕虜となった。


藤原が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1936年2月には、半截河などの地で抗日救国人員の「荘俊哲以下十名」を検挙し、憲兵に命令して3月15日に9人を「厳重処分(殺害)にせしめた」。
1938年3月には、「(中国共産党)北満臨時省委、吉東省委系統」「合計二〇四名」を検挙し、このうち「六十八名を(中略)哈爾濱検察庁に送致し」、「死刑七名」の宣告を行った。
1938年4月中旬には、湯原県での抗日聯軍の鎮圧行動において、「四名の平和人民を捕へて部下に命じてその三名を殺ろさせ、私は横川の銃剣でもって他の一人を刺殺したのであります」
1944年3月中旬には、逮捕した「抗日地下工作員稚某といふ平和愛国人民を哈爾濱石井部隊に送致しました」(編集MA)「人民網日本語版」2014年8月12日

日本人戦犯38人目・上坪鉄一の供述書公開 細菌実験に捕虜を移送
日本人戦犯・上坪鉄一の1954年5月から7月の供述書によると、上坪は1902年に日本の鹿児島県で生まれた。1933年5月に中国華北部に赴いて中国侵略戦争に参加し、鶏寧・東安・四平の日本憲兵隊中佐隊長などの職を務めた。1945年8月24日にソ連軍によって拘留された。


上坪が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1944年8月から1945年2月までは、「鶏寧、平陽、東安地区に於いて部下分隊長に命じ抗日地下工作人員九名(氏名は記憶せず)を検挙せしめ厳重なる拷問を以って取調べた上内八名は特移扱として哈爾濱特務機関を経て石井部隊に特移送せしめ」た。
1944年9月と10月には、逮捕した中国人1人(ソ連のスパイ)を「特移送として(中略)申請し」、「哈爾濱憲兵隊に移送せしめ該隊より石井部隊に特移送せり」。「特移送は『防諜(思想)上の重大犯人にして将来逆用の見込なき者は特移送として憲兵隊司令官に申請し司令官の認可及移送命令に依り哈爾濱憲兵隊に送致す』を示達せられあり、哈爾濱憲兵隊にては之を石井部隊に送致し、石井部隊にては細菌研究の実験に供するものなりと哈爾濱憲兵隊戦務課長より」説明された。
1944年11月には、勃利分隊に命じて抗日地下工作員約90人を逮捕し、1945年4月、「其内十名(使命は記憶せず)は特移扱として哈爾濱特務機関を経て石井部隊に特移送せしめ」た。
1945年4月初めには、平陽分隊が逮捕した抗日人員8人を「特移扱として(中略)申請し」、「哈爾濱憲兵隊を経て石井部隊に特移送せしめたり」
1945年5月には、勃利分隊が逮捕した抗日人員2人を「石井部隊に特移送せしめたり」
「以上私の鶏寧、東安隊長として検挙せる中国人は何れも愛国抗日の積極的先進分子にして私は彼等の大部分を石井部隊に特移送し最も非人道的な細菌研究の実験に供した」
「私が鶏寧、東安憲兵隊長として部下憲兵に命じて抗日地下工作人員を検挙の上拷問を以って厳重なる取調べを実施せしめたる者は既報せる者一五〇名以上、内特移扱として哈爾濱石井部隊に特移送せる者四四名、拷問致死二名でありますが」、「未だ報告し得ざる者相当多数ある事は確実であります」(編集MA)「人民網日本語版」2014年8月12日
 
日本人戦犯39人目・蜂須賀重雄の供述書公開 愛国武装人員を逮捕
日本人戦犯・蜂須賀重雄の1954年12月の供述書によると,蜂須賀は1896年に日本の鹿児島県で生まれた。1918年には日本によって強制的に占領された中国の旅順で警察任務を担当し、1944年には偽奉天鉄道警護上校団長に任じられた。1945年9月28日に逮捕された。


蜂須賀が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1933年8月,鞍山で部下を率いて愛国武装人員を逮捕したが、1人が負傷して死亡した。
1943年7月上旬、宋杖子の村で抗日軍を援助した愛国青年を逮捕させた際には、「扉を閉鎖して内側より押へて抗拒した為中国人特務は発砲し家宅内に在りたる老人男(青年父)に命中し屠殺する罪行を犯したり」(編集MA)「人民網日本語版」2014年8月12日

日本人戦犯40人目・堀口正雄の供述書公開 細菌実験に愛国者を移送
日本人戦犯・堀口正雄の1954年8月の供述書によると、堀口は1901年に日本の東京都で生まれた。1937年から中国の東北部で中国侵略戦争に参加し、日本新京憲兵隊惇化憲兵分隊長や錦州憲兵隊中佐隊長などの職を務めた。


堀口が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1937年8月には、捕虜となった抗日聯軍愛国分子1人を「惇化県城西側砲台山高地ニ連レテ行キ、部下ノ憲兵軍曹ヲシテ日本刀デ首ヲ切ラセルノ惨行ヲシマシタ」
1938年末から1939年8月までには、逮捕した愛国者8人を拷問の上取り調べ、そのうち「三名ハ哈爾濱第七三一部隊ニ特委処分トシテ送致」した。
1939年6月には、部下の憲兵隊が拷問して殺害した中国人1人を、「夜ヲ利用シ山ノ中ヘ持ッテ行カセ埋メマシタ」
1939年8月には、部下が逮捕中に中国人1人を銃撃によって死亡させ、「屍体ハ暗夜ヲ利用シテ牡丹江河ニ投ゲ棄テ」た。
1942年8月から1943年8月までには、抗日人員計約80人を逮捕し、そのうち「憲兵司令官ノ認可指令ヲ得テ哈爾濱第七三一部隊ニ送ル」としたものは「約20名」にのぼった。(編集MA)「人民網日本語版」2014年8月12日

日本人戦犯41人目・野崎茂作の供述書公開 数十人を拷問・銃殺(二)
国家公文書局はこのほど、日本人中国侵略戦犯・野崎茂作の供述書を公式ウェブサイトで公開した。これによると野崎は、1931年から1935年まで数十人の抗日戦士を逮捕・銃殺した。
野崎の1954年8月の供述書によると、野崎は1898年9月に日本の静岡県で生まれた。1931年から中国東北部で中国侵略戦争に参加し、奉天日本憲兵隊兵工廠分隊曹長や懐徳県警務科科長などの職を務めた。1946年1月15日に逮捕された。


野崎が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1931年10月から12月までは、部下を率いて3回にわたって「十五名ノ張学良愛国軍兵士ヲ検挙シ部下井上軍曹ニ命ジ拷問取調ヲ行ハシメ」、12月25日に「拳銃ヲ以テ銃殺サセマシタ」
1932年8月には、部下を率いて奉天で張海鵬の部下の軍士5人を拷問した後、拳銃で銃殺した。
1932年12月には、憲兵を率いて荘河県で鄧鉄梅抗日武装兵士18人を逮捕・拷問し、「荘河県城北方五百米点ノ荘河ノ砂原ニ於テ部下憲兵十五名ヲ現場デ指揮命令シテ(中略)計十八名ヲ一列横隊ニ並ベテ騎兵銃ヲ以テ銃殺」した。
1932年12月には、憲兵を率いて大孤山西方の村落で抗日人員と共産党員5人を逮捕し、拷問の後、銃殺した。
1933年2月、新京憲兵隊吉林憲兵分隊班長と憲兵曹長に在任中、部下を率いて劉東波の部下5人を吉林市外西南2kmの地点に連れて行き、銃殺した。
1935年6月、奉天日本憲兵隊附属地分隊での在任中には、密山県で李杜軍の抗日戦士12人を検挙したことを報告し、上司の命令を受けてすべてを銃殺した。(編集MA)「人民網日本語版」2014年8月13日

日本人戦犯42人目・溝口嘉夫の供述書公開 数十人の死刑を執行
国家公文書局はこのほど、公式ウェブサイトで日本人中国侵略戦犯・溝口嘉夫の供述書を公開した。これによると溝口は1943年3月から1945年8月までに、数十人の中国の愛国者の死刑を行った。


溝口の1954年8月と1956年6月の供述書によると、溝口は1910年に日本の長崎県で生まれた。1933年10月に中国東北部に赴き、中国侵略戦争に参加し、偽満洲国哈爾濱地方検察庁検察官などの職を務めた。


溝口が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1943年3月から6月までは、「私は巴彦に於て中国人愛国者九名を死刑にし又四名を取調中に監獄内で死亡するに至らしめて合計十三名を殺害」した。
1945年5月には、偽満警察署を襲撃して逮捕された「中国人愛国者二十六名を起訴し、そのうち九名に対し死刑」を求刑し、同年7月10日に9人の死刑を執行した。
1945年6月には、逮捕された「中国人愛国者三〇名を起訴し、そのうち三名に対し死刑」を求刑した。「同年八月十日から十三日までの間に哈爾濱道裡監獄内に於いて右三名の中国人の死刑を執行して殺害しました」
1945年6月には、捕虜となった東北抗日聯軍第三路軍指戦員や抗日救国人員など35人を起訴し、「孫国棟隊長以下十五名に対し死刑、二十名に対し十五年以上の徒刑を求刑しました」。「同年八月十日から十三日までの間に哈爾濱道裡監獄に於いて孫国棟隊長以下十五名の死刑の執行をして殺害しました」(編集MA)「人民網日本語版」2014年8月14日


日本人戦犯43人目・志村行雄の供述書公開 逮捕者を凍傷研究に移送
国家公文書局はこのほど、公式ウェブサイトで日本人中国戦略戦犯・志村行雄の供述書を公開した。これによると、志村は中国侵略期間中、哈爾濱(ハルビン)石井部隊の軍医中佐が海拉爾に来て凍傷の研究を行った際、逮捕した中国人を駅から凍傷研究所まで護送した。志村の1954年6月の供述書によると、志村は1902年に日本の兵庫県で生まれた。日本の中国侵略戦争期間中には、海拉爾日本憲兵隊隊長などの職を務めた。


志村が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1944年6月頃には、扎賚諾爾の炭鉱と発電所を破壊しようとした4、5人を検挙し、「一部ハ特異(特移=特別移送の誤字)扱トシ其他ハ検察庁ニ事件送致シタ」
1944年12月20日頃には、「哈爾濱石井部隊ヨリ松本(記憶確実ナラズ)軍医中佐来隊シ」、凍傷の研究を行った。護送者を駅から凍傷研究所まで護送し、「該当者ノ海拉爾駅到着日時ノ通報アラン都度海拉爾憲兵分隊ニ命ジ護送セシメタ。右該当者は何レノ憲兵隊ヨリ来タシカハ記憶セザルモ該研究期間(中略)ニ、三乃至四名アリタル如ク記憶シアリ」
1945年3月には,「海拉爾憲兵分隊ニ於テ延安ヨリ派遣セラレタ共産党員一名ヲ検挙シテ特異扱トセリ」
1945年4月には、「三河憲兵分遣隊ニ於テ共産党関係者三名を検挙シ特移扱トセリ」
1945年7月初めには、「満洲里憲兵分隊ニ於テ満洲里駐在蘇聯領事館ノ密偵タリシ中国人一名ガ右領事館員ノ命ニ依リ同地駐屯日本軍部隊ニ謀略放火シタ事件ヲ検挙シ特異扱トセリ」
1945年8月18日には、逮捕の過程で瀕死の状態となった中国人を部下に命じて殺し、兵営内に葬った。(編集MA) 「人民網日本語版」2014年8月15日

日本人戦犯44人目・小林喜一の供述書公開 中国人を細菌実験に提供
国家公文書局はこのほど、公式ウェブサイトで日本人中国戦略戦犯・小林喜一の供述書を公開した。これによると、小林は部下に命令し、多くの中国の軍人や愛国者を斬殺・銃殺し、中国人1人を軍医による盲腸炎手術実験に提供し、ソ連の諜者として1人を哈爾濱(ハルビン)の石井部隊の細菌実験用に「特別移送」した。小林の1954年6月の供述書によると、小林は1895年に日本の埼玉県で生まれた。日本の中国侵略戦争期間中、奉天日本憲兵分隊長などの職を務めた。1945年8月20日、瀋陽でソ連軍の捕虜となった。


小林が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1935年11月中旬には、部下に命令して逮捕した中国人1人を軍医の盲腸炎手術実験に提供し、その後、「他の三名と共に四名を赤峰北方一粁の河原で軍刀を以って殺害させました」
1936年7月上旬には、部下に命じて中国人6人を「赤峰北方一粁の河原で軍刀を以って殺害させました」
1936年9月上旬には、部下に命じて中国人3人を「赤峰北方一粁の河原で軍刀を以って殺害させました」。さらに1人を自動車で満鉄赤峰病院に運び、「川崎院長は一名の日本人医師(名は記憶して居りません)と二名で劇薬注射で殺害解剖試験の上死体は病院構内に埋めたと後で申しました」
1936年10月中旬には、部下に命じて中国の愛国者3人を「赤峰北方一粁の河原で拳銃を以って銃殺させました」
1937年9月3日には、部下に命じて張家口第一監獄に収監されていた中国人を監獄の「南方一〇〇米の草原の中に連行銃殺させました」
1937年9月4日には、部下に命じて中国人2人を「張家口東方一粁位の草原と思いますがそこに連行銃殺させました」
1937年9月15日には、部下に命令して中国軍の捕虜1人を「トラックで大同西方二粁位の畑の草原中に連行銃殺させました」
1944年1月には、「利用工作の価値が無い」「ソ聯無電諜者」を「特移扱として哈爾濱石井部隊に送り細菌の試験に供しました」
1945年8月11日、「また戦争もあることだろうから戦時有害分子を釈放するのは困ると思うから処置して撤退準備せよ」と命じ、未釈放だった中国人を殺害した。(編集MA) 「人民網日本語版」2014年8月18日

日本人戦犯45人目・西永彰治の供述書公開 抗日活動家数十人を殺害

中央公文書館は16日、日本人戦犯・西永彰治の中国侵略犯罪の供述書を公開した。西永(別名・中村亮介)の1954年7月の供述書によると、西永は1899年に日本の山口県で生まれた。日本の中国侵略戦争期間中、延吉間島日本派遣憲兵長や開封日本憲兵分隊長などの職を務めた。


西永が自供した重要な罪行として、以下のものが挙げられる。


1933年8月から1934年3月までは、所属の憲兵を率いて共産党の遊撃隊員と反満抗日分子20人を「延吉川流域延吉橋梁下流の河原に於て」殺害した。
1934年秋から1935年初夏にかけては、所属の憲兵を率いて共産党遊撃隊員と反満抗日分子16人を「図們市北側に沿って流れある延吉川流域に於て」殺害した。
1939年8月から1940年11月まで、開封憲兵分隊長に在任中、所属の憲兵に命令して抗日救国人員12名人を殺害した。(編集MA)「人民網日本語版」2014年8月19日



「日本軍の言うこと聞かない奴はみんなぶっ殺っしゃえっていう考えだからね。非常に乱暴なんですよ
「いわゆるその、豚は肥らしてから料理しようっていう言葉があったようにねえ。少しはねっ、ソ連で苦労してきたから、まあ、飯ぐらい食わしてやってえ、ねっ。精神的にさ、まあなんていうのかな、私はもう諦めました、お悪うございましたっというふうにしておいて最後は処罰しようと、だと思ってたんですよっ。だからいろんなことで反抗した」
「私もねえ。学習部長として、今までは各部屋には警察官もいれば兵隊も憲兵もいる。いろいろと雑然とした人たちがいたわけですよっ。じゃあ、こうしようということでね、職場別討論、職業別。例えば私は59師団の何々部隊の兵隊だから同じ部隊だけ集まる、憲兵隊は憲兵だけ集まるぞ、と、警察官は警察官だけ集まる。そういうグループ別にしてね、そこで今度はお互いの総合討論を始めたわけですよ」
「少佐だったっけなっ、大隊長。自分たちの部下と一緒にやったわけですよねっ。わしゃあ、そんなの知らんっつってねえ。その大隊長がさあ、とぼけたわけだっ。そしたら、何言ってんですかっ隊長あんたっ!あんたの命令で始末せえ、っていうから、俺たちはみんな殺した。始末せえっていったのあんたでしょっ!あんた責任あるんじゃないですかっ。そしたら「ええっ?!」そこでねえ、はじめてその大隊長も、ああ、そう言われればそうかなっとなったんだ」


Chukiren Fushun War Criminals Management Office brainwashing process (Nanjing related)Channel Sakura verification Review the distorted historical image of the former Japanese army's "bad deeds"

「”認罪”のときだらね、もうすごいよ。同じ部隊でね、悪いことしてるのに悪いことしてねえっていう人がいるべさ。そしたら同じ部隊の人だから、なんだおまえこういうとこでこういうことしたんでねえか、ってね。そういうねっ、ものすごい討論がはじまるわけ」


















南京大虐殺の歴史に新証拠 人民網日本語版 2020年08月24日10:22
国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀念館は22日、南京大虐殺の生存者である夏淑琴さんが日本右翼分子を名誉毀損で訴えた際の代理人弁護士・談臻氏の遺族から関係する資料や物品の寄贈を受けた。新華社が伝えた。「最も貴重なものは、当時応訴のため夏さんに同行して日本へ渡った弁護士、記念館職員らと共に撮影した写真だ。また、資料には日本の対中友好関係者の名刺もある。これらはこの歴史案件のディテールの描写を補いうる」と張建軍館長は語った。1998年、亜細亜大学教授の東中野修道氏と自由史観会会員の松村俊夫氏は2冊の著書で夏さんらを「偽証人」として描写した。2000年、夏さんは南京で松村氏と東中野氏を相手取り名誉毀損訴訟を起こした。夏さんによる中国国内での訴訟に対して、東中野被告は東京で反訴した。談氏等と南京の支援弁護団は夏さんに同行して日本で応訴。夏さんが日本の裁判所に出廷すると、相手側は突然訴訟を取り下げた。夏さんは直ちに反訴した。2009年、日本の最高裁は夏さんが『「南京虐殺」の徹底検証』の著者と出版社を相手取り起こした名誉毀損訴訟で、夏さん勝訴の判決を言い渡した。この間、談氏等は日本の対中友好関係者及び弁護団と共に、日本右翼分子と法廷闘争を繰り広げた。談氏が推し進める形で、南京市弁護士協会と南京市法律援助基金会は2017年に「南京大虐殺の歴史の真相を守る弁護士大連盟」を結成。南京大虐殺生存者の権益保護、南京大虐殺の法的問題の研究及び民間訴訟の推進等に尽力している。2020年6月12日、談氏は病没した。8月22日、談氏の遺族は「夏淑琴名誉毀損訴訟」に関係する物品、記念館と関係のある資料及び個人的遺品を無償で記念館に寄贈した。「記念館にとって談弁護士は歴史への責任感のある人だった」。張館長は「数日前に南京大虐殺の生存者がまた一人死去して、登録されている生存者はわずか73人となった。歴史の証人が減り続ける中、記念館は寄贈された資料や物品のための専用スペースを設け、談氏の重要な貢献を銘記する。また、さらに多くの人々に歴史の記憶を継承し、平和的行動を実践する使者となってほしい」と述べた。(編集NA)「人民網日本語版」2020年8月24日

中国侵略日本軍の残虐行為を暴き批判し続けて30有余年 日本人元解放軍兵士の「第二の人生」 
人民網日本語版 2020年08月17日14:32
「どこも煙塵に包まれ、空全体が黒く、電柱にも死体がぶら下がっていた」。今年91歳と高齢の日本人元解放軍兵士・山辺悠喜子さんは新華社の記者に自らの体験をこう語った。山辺さんは80年近く前、父の仕事で日本の東京から中国遼寧省の本渓へ転居した。本渓湖炭鉱の大規模なガス爆発の凄惨な光景は今なお忘れることができない。新華社が伝えた。当時は日本の対中侵略の事は分からなかったが、1945年8月15日以降、敗戦とは何かを身をもって理解した。その後、山辺さんは東北民主連軍(後に「東北人民解放軍」と改称)の人員募集に躊躇なく応じた。東北三省から北京、さらに漢口、桂林、南寧へと、簡単な医療・看護知識を学んだ山辺さんは解放軍に従軍して南北を転戦し、遼瀋戦役、平津戦役、宜沙戦役、衡宝戦役、広西戦役など大小の戦役に相次いで参加して、積極的に負傷者の治療にあたった。1953年に山辺さんは帰国し、臨時雇いの仕事で生計を立てた。1984年に退職すると、当時の部隊の指導員と直ちに連絡を取り、長春ベチューン医科大学の日本語教師となった。1990年に中国黒竜江省社会科学院のチームが吉林省、長春市、ハルビンなどで行った「東北陥落14年史」の現地調査に、長年この問題に関心を持っていた山辺さんも参加。この調査で山辺さんは中国侵略日本軍の犯した残酷な犯罪行為の揺るがぬ証拠を自分の目で見て、被害者の証言を自分の耳で聞いた。それ以来、山辺さんは中国侵略日本軍が中国で犯した途方もない大罪を暴き出して批判することに全力を注ぎ始め、非凡な意義を持つ第二の人生に入った。山辺さんは「731部隊罪証展実行委員会」を立ち上げたほか、日本軍の遺棄した化学兵器の調査にも尽力し、毒ガス弾の被害を受けた中国民衆による日本政府への賠償請求を積極的に支援し、中国人被害者への賠償と謝罪の問題について日本内閣府遺棄化学兵器処理担当室と交渉を重ねた。山辺さんは、より多くの日本人に本当の歴史を知ってもらうために、こうした行動を取って続けてきた。(編集NA)

専門家が新証拠 米日が取引して731部隊の犯罪行為を隠蔽 人民網日本語版 2020年08月17日15:42
日本の無条件降伏から75年を迎えるにあたり、中国黒竜江省哈爾浜(ハルビン)市社会科学院の「731」問題研究の専門家が、中国侵略日本軍の細菌戦に関する新たな発見を新華社の記者に示した。これら新たな証拠は第2次大戦後に米日間で秘密取引が行われ、米国が中国侵略日本軍第731部隊による細菌戦の犯罪行為を隠蔽したことを示した。新華社が伝えた。731部隊は「日本関東軍防疫給水部」を対外呼称として、第2次大戦時に細菌戦や人体実験等の研究に従事した中国侵略日本軍の秘密軍事部隊であり、ハルビン市平房区に本部を構えていた。ハルビン市社会科学院の楊彦君研究員は訪米を重ねて機密解除された日本の細菌戦に関する資料を調査したうえ、コピーして翻訳、整理、研究を行った。今回見つかった新たな証拠は主に米軍による731部隊隊員への尋問記録、調査報告、米国と731部隊の秘密取引に関する文書等だ。こうした資料の原本は米国立公文書館、米議会図書館、スタンフォード大学フーバー研究所等で保管されている。楊氏によると、第2次大戦終結後に731部隊の主要な隊員は日本へ逃げた。米国は4人の調査官を相次いで日本へ派遣し、細菌戦と人体実験について調査した。1945年9月から1948年11月の東京裁判終了までに、米国は少なくとも25人の隊員を尋問。この間に米日間で秘密取引が行われた。米国は隊員の戦争責任の免除を条件に人体実験や細菌戦などのデータ・資料を大量に獲得。これによって、東京裁判で隊員が裁かれないようにした。楊氏によると、こうした資料の翻訳・整理・分析を通じて、進駐軍と米国防総省、連合参謀本部との間の電文を含め、米国と731部隊の行った秘密取引と関係のある文書も発見した。こうした電文は世界を欺くために技術的表現を使用。石井四郎及び全隊員の責任免除を条件に全ての実験資料を得ることが内容の柱だ。(編集NA)

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