日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Zweiter Weltkrieg/Seconde Guerre mondiale★=☆ナチスの戦争Le Troisième Reich en guerre☆纳粹党掌权Machtergreifung마흐터그라이풍<ヨーロッパ戦線>World War II All Front Guide第二次世界大戦全戦線ガイド/Shigeru Aoki青木茂①


Zweiter Weltkrieg All Front Guide (Japanisch) - 23.02.1998 Shigeru Aoki (Autor) Seconde Guerre mondiale All Front Guide (Japonais) - 1998/2/23 Shigeru Aoki (Auteur) World War II All Front Guide (Japanese)  1998/2/23 Shigeru Aoki (Author)
*ナチ党の権力掌握(ドイツ語:Machtergreifung マハトエアグライフング)では、ドイツの歴史において、アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)によるドイツ国内における権力掌握の過程、第一次世界大戦敗戦によるドイツ帝国の崩壊、ヴァイマル共和政の混乱からナチス・ドイツ(第三帝国)への形成といった一連の史実を記述する。
ナチ党はドイツのそれまでの内閣や大統領の歴代政権が獲得することのできなかった強大な権力を「合法的」に手中にした。この権力掌握の過程は大きく分けて二つの時期に分類される。ナチ党が国内有数の政党になってから1933年1月30日にヒトラー内閣が成立するまでの期間と、政権についたヒトラーとナチ党が国内の政敵をほぼ一掃し、立法権・行政権・司法権の三権を含むドイツ国内の権力を、党・国家そしてヒトラーが支配するまでの期間である。後者の過程は政権獲得からほぼ2年以内の短期間であった。


*Русскийロシア語→Приход национал-социалистов к власти, захват власти национал-социалистами (нем. Machtergreifung, Machtübernahme) — процесс перехода власти в Германии к Национал-социалистической немецкой рабочей партии во главе с Адольфом Гитлером и последовавшей за ним заменой республиканского строя на тоталитарную диктатуру. Приход национал-социалистов к власти знаменует конец Веймарской республики.

*纳粹党掌权(德語:Machtergreifung,德语发音:[ˈmaxtʔɛɐ̯ˌɡʁaɪfʊŋ] ),德文原意为“掌权”)是指1933年1月30日德国威玛共和国政府权力被纳粹党和其民族保守主義盟友掌握。阿道夫·希特勒在这一天向兴登堡总统宣誓成为德国总理,亦标志德国由魏玛共和国时期正式进入第三帝国时期。


前史 世界大戦への胎動 第二次世界大戦全戦線ガイド 青木茂 新紀元社(1994年)
ーナチ党の台頭で敗戦国から再び強大な国家としてよみがえろうとするドイツ。そのころアジアでは日本が欧米列強に追いつこうと中国へ進出し、アメリカ、イギリスとの対立から資源豊富な南方に目を向け始めていた。第一次大戦から20年、世界はその残酷な記憶を捨て去ろうとしていたー
<ヨーロッパ>
●新しいドイツの誕生
1933年1月30日、ドイツの首都ベルリンは異様な興奮につつまれていた。新しい首相に、ナチ党党首、アドルフ・ヒトラーが選出されたのである。熱狂した人々の歓呼の中でナチス「突撃隊」(SA)は松明をかかげて行進した。ナチス時代の始まりであった。もっともヒトラーを首相に選んだ他党の政治家たちはヒトラーを一時的に雇ったようなつもりで、その政権が長期にわたることになろうとは夢にも思っていなかった。大統領のヒンデンブルクもヒトラーを評価していなかった。ヒトラーが首相になったのは、いわばちょっとした偶然であった。しかしヒトラーはこのチャンスを逃がしはしなかった。同年3月5日の総選挙の1週間前に起きた国家議事堂放火事件を機に、警察権力を活用して選挙を有利に進め、ナチスは自分たちですら合法的に取れるとは思っていなかった政権を手にしたのであった。以後、ヒトラーは着々と独裁体制への基礎を固めていく。
ヒトラーはまず全ドイツ国民を反ユダヤ主義に結集させることが必要であると考え、公約であったユダヤ人撲滅に着手した。突撃隊がユダヤ人商店に対するボイコット運動を繰り広げた。これを見た世界各国はナチスを危険視した。しかし逆にその運動のあまりの過激さゆえに、不安定な過渡期的なものであろうと考えてしまった。反ユダヤ主義は文化革命でもあった。1933年5月10日、ドイツ文化からユダヤ色を一掃しようと焚書が行なわれた。これにはドイツの学生や教師が進んで協力した。この結果、多くの作家、科学者が亡命し、のちに連合軍側にその能力をささげることになった。

*パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg、1847年10月2日 - 1934年8月2日)は、ドイツの軍人、政治家。 元帥。ドイツ国(ヴァイマル共和政)第2代大統領(在任:1925年 - 1934年)。Idoイド語→Paul Ludwig Hans Anton von Beneckendorff und von Hindenburg (1847 til 1934) militisto (marshalo) esis prezidanto di Germania de 1925 til 1934, dum Weimar-Republiko. Depos lia morto, Adolf Hitler divenis füher de nacional-socialista Germania.


*베를린 분서(伯林焚書)는 1933년 5월 10일에 나치 정권이 독일의 도서관에서 책을 불태운 사건이다. Españolスペイン語→La quema de libros en la Alemania por parte del régimen nacionalsocialista se inició el 10 de mayo de 1933 y consistió en una acción realizada específicamente por estudiantes, profesores y miembros del Partido Nacionalsocialista Obrero Alemán cuando estos echaron al fuego de forma pública libros de aquellos autores que habían sido condenados al ostracismo por considerarlos «peligrosos».
●ヒトラーの政権基盤確保

これと並行してヒトラーは国内の敵を一掃し始めた。その標的は共産主義、社会主義者、ジャーナリスト、反体制派国会議員などであった。突撃隊はオラニエンブルクOranienburgに最初の強制収容所を設置した。ナチスの支持者は中産階級が中心であった。倒産、失業、生産合理化に苦しむ商店主、サラリーマン、職人などの人々はヒトラーを強く支持していた。しかし労働者の中の組織労働者、すなわち労働組合員はヒトラーのライバルである社会民主党を支持していた。そこでヒトラーはかねてから組合が求めていたメーデーを祭日にすることを認め、1933年5月1日には盛大なメーデーが行われた。ところがその翌日、ヒトラーは労働組合を襲い、これを壊滅させてしまったのである。一方、当時不作に苦しんでいた農民に対してはその社会的地位を高く評価し、土地所有を保証する法案を通過させ、食料を援助して支持をとりつけた。ヒトラーはドイツの食糧自給率を上げることも考えていたのである。農業労働者と工場労働者との賃金格差も是正されようとしていた。
ヒトラーは大衆に仕事とパンを約束した。その公約は当時としては、最高の約束であった。そしてそのための条件は、全国民の一致団結であった。指導者が行なう外交政策や社会政策のひとつひとつを問題とするより、まず一致団結すること、そのものが重要だというものだった。強力な指導者の下で、ドイツは活気にあふれていた。ナチスのやりかたに不安を抱き、ドイツに対するデモが繰り返されていた外国にも、新しいドイツの自立を歓迎する人々が現れはじめていた。言われているようなナチスの暴虐は事実無根であったとして・・・。
ヒトラーは叫び続けていた。「怠けるな!!諦めるな!!ためらうな!!疑うな!!」

●突撃隊粛正と軍隊掌握
ヒトラーが政権を握って1年がたったころには、彼は反対派の一掃と議会の無力化に成功していた。集会、結社、言論の自由は封じられ、ユダヤ人は公職から追放されていた。しかしヒトラーには、ナチ党内の過激派である突撃隊、軍を中心とする保守派層という最も恐るべき敵が残っていた。ヒトラーは互いに反目しあうこれら二派のいずれかと手を結び、他方を切らねばならなかった。同じ独裁者であるソ連のスターリンの場合は軍を切ることになるが、ヒトラーは軍と手を結ぶほうを選んだ。突撃隊長の隊長はヒトラーの古くからの同志のひとり、エルンスト・レームであった。1934年6月30日、レームと突撃隊の幹部100人あまりが第2革命を防ぐという名目で粛正された。粛正の嵐はその後、ドイツ全土を覆う。その過程で、裁判なしに多くの人間が銃殺された。なかにはヒトラーと直接関係のない、粛正執行者の私怨だけで殺された者もいた。この粛正を実行したのはヒトラーのボディ・ガード、親衛隊(SS)であった。親衛隊はこれ以後、ドイツの新しい勢力となっていく。
1934年8月1日、ヒトラーはすでに大統領制を廃止しており、この日、総統および首相となる声明を発表した。翌8月2日、ヒンデンブルクが87歳で死去した。このときヒトラーは軍に、ヒトラー個人に対する忠誠を誓わせた。多くの軍関係者は、宣誓がはじまるまでヒトラーに忠誠を誓うことになるとは知らず、これまでどおりドイツ憲法に忠誠を誓うものとばかり思っていた。これはドイツ軍将兵にとって宣誓が絶対的なものであることを利用した、ヒトラーのしかけた罠であった。こうしてドイツ軍はヒトラーのものとなった。
*エルンスト・ユリウス・ギュンター・レーム(Ernst Julius Günther Röhm、1887年11月28日 - 1934年7月1日)は、ドイツ国の軍人(元陸軍大尉)、政治活動家、政治家「エルンスト、きみを逮捕するErnst, ich werde Sie verhaften」「レームは彼の功績に免じて許したIch habe Röhm für seine Leistungen begnadigt」「貴方は死刑に処される。総統は最終決断のための機会を貴方に与えたSie werden zum Tode verurteilt. Der Führer trifft die endgültige Entscheidung」「俺が殺されるべきというなら、アドルフ自らがやるべきだwenn ich getötet werden sollte, sollte Adolf es selbst tun」「わが総統よ…Mein Führer ...」「貴方はもっと早くそれを言うべきだったSie hätten es früher sagen sollen」「ヒトラーとは実にたいした奴だ!政敵を片付けるには一番良い方法だГитлер действительно большой парень! Это лучший способ избавиться от его политических оппонентов」
*장검의 밤(독일어: Nacht der langen Messer)은 1934년 6월 30일 아돌프 히틀러가 돌격대 참모장 에른스트 룀(Ernst Röhm)과 반(反) 히틀러 세력을 숙청한 사건이다.

●千年帝国の出発
1934年8月29日。ヒトラーを国家元首と認めるか否かを問う国民投票が行なわれた。ナチスは例によって国家権力を総動員し、90%、3600万人の支持を得ることに成功した。反対は400万人であった。ヒトラーは今後千年間はドイツに革命がないであろうと演説し、ドイツの各階層の支持を固める巧みな内政を続けていった。ナチスは民族共同体づくりに特に力を入れた。それは物欲よりも国民的な連帯を上におこうという呼びかけで、兵士も指揮官も、労働者も経営者も銀行家も皆同じ「豆スープ」をとる機会が設けられ、冬の助け合い運動、街頭で共同募金などが行なわれた。副総統ルドルフ・ヘス、宣伝相ヨゼフ・ゲッベルス、航空相へルマン・ゲーリングなど、ナチスでトップクラスの幹部たちも、率先して国民の間に入り、同じ仲間として振る舞った。このような「平等」と同時に業績主義が貫かれ、格安の旅行を提供する「歓喜力行団」( クラフト・ドゥルヒ・フロイデ=Kraft durch Freude)のような組織も置かれた。
経済面では、ヒトラーの行なった巨大な公共投資は失業者を減らし、労働者と財界を満足させていた。失業者は1932年の600万人から100万人に減少していた。1936年の被雇用者数が1570万人であることを見れば、これがいかに大きな成果であったかがわかる。財界は早い時期からナチスに資金援助を行なっていたが、充分な見返りを得ることとなった。そしてこの経済的活況は不況に苦しむ世界中の羨望の的であった。公共投資の内容も、世界最初の自動車専用道路「アウトバーン」(Autobahn)など、未来に希望を抱かせる堂々たるものであった。それは後に軍事利用も可能な実用的なものであった。土地を保証された農民は大収穫祭を恒例行事とし、それは総統への感謝の気持ちの表明となった。1936年のそれには100万人が集まって宗教的熱狂に包まれた。ドイツ国民が勤勉さと同様に求められたのは、次世代を担う優秀なドイツ人となる子供を生み育てることであった。「ヒトラー青少年団Hitlerjugend」「ドイツ少女連盟Bund Deutscher Mädel(BDM)」が設けられ、その上に「信念と美の会Glaube und Schönheit」があった。ドイツの若者は男女を問わずこれらの組織に属し、思想教育と肉体鍛錬を受けることになった。そして結婚資金の貸付制度が設けられた。最後にヒトラーは、私生活では友人と親しみ子供や犬を愛す、穏やかな一市民であることをアピールし、人格者として国民の堅い信頼を得ておくことも忘れなかった。
*Drittes Reich第三帝国Third Reichは、古くからキリスト教神学で「来るべき理想の国家」を意味する概念として用いられた。第三の国とも。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)による呼称が有名。Latinaラテン語→Imperium Germanicum 1933-1945 fuit dictatura, in qua Nationalistica Socialisticaque Operariorum Factio Germanica (NSDAP) dominationem habuit, cuius praeses sive "dux", ut ipse appellari voluit, fuit Adolphus Hitler.



●ドイツの再軍備
保守派や愛国者にとっては、第一次大戦の敗戦によって1919年に課せられたヴェルサイユ条約がある限り、いかに経済的に発展しようとも真のドイツがよみがえったことにはならなかった。ヒトラー自身も同条約を「一国の名誉をかくもないがしろにする行為」と糾弾して支持を得てきたのであった。ドイツがヴェルサイユ条約で失った近隣の領土にアルザス、ロレーヌ、ザール、ダンチヒなどがあった。これらを取り戻すことがドイツ再建の次のステップであることは自明であった。1935年1月、住民投票でザール地方がドイツに復帰することになった。この最初の領土奪回は平和的に行なわれたが、ヒトラーは領土拡張のためにはやはり再軍備が必要であると考えていた。前大戦で戦争に懲りた国民にもう1度武器を握らせるのは難しかったものの、武器や兵士に庶民が交流できる機会を数多く設け、これらを通じてそうした嫌悪感を和らげていった。ヴェルサイユ条約で禁じられた空軍パイロットの養成には航空スポーツ連盟が利用された。陸軍はヒトラーが首相になってからヴェルサイユ条約の枠を無視し増強されていった。外国の大使館付き武官はこの動きに気づいていながらも何も行動を起こさなかった。そしてついに、1935年3月、ヒトラーは平和時の陸軍兵力を36個師団55万人とすることを発表し、事実上ヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄することを宣言した。また密かに再建されていた空軍も1934年から1年かけた「ラインラント計画」によって、このとき4000機(半数は練習機だが)を整えていた。世界各国はこれに抗議したが、ヒトラーは抗議に対して平和を訴える演説で応えながらも軍備拡充を進め、同年10月には小規模ながら初の機甲師団が設けられた。
ヒトラー・ナチスの膨張を牽制すべくイギリス、フランス、イタリアは1935年4月に北イタリアのストレーザで会議を開き、統一戦線を張ることに合意した。いわゆる「ストレーザ戦線」である。ドイツ海軍はまだ再建が開始されたばかりだったが、1935年6月16非にイギリス・ドイツ海軍協定が締結された。ドイツの海軍力をイギリスの35%に止めることで合意に達したもので、これは、イギリスがヴェルサイユ条約の無効を自ら認め、同時に「ストレーザ戦線」をないがしろにするものであった。イギリスは後に記すフランス・ソ連相互援助条約によってソ連の勢力が大きくなることを恐れ、ドイツに対する圧力を弱めたのである。またドイツ海軍もイギリス海軍との戦いはないと考えるようになり、このことは後に重要な意味を持つことになる。

*ヴェルサイユ条約(1919年)(仏: Traité de Versailles)は、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約の通称。 Françaisフランス語→Le traité de Versailles est un traité de paix signé le 28 juin 1919 entre l'Allemagne et les Alliés à l'issue de la Première Guerre mondiale.
*ストレーザ戦線(イタリア語:Fronte di Stresa)は、1935年の会合によって成立したイタリア・イギリス・フランスによる連携。およそ2ヶ月ほどで崩壊した。Italianoイタリア語→Il fronte di Stresa fu un'espressione usata per definire l'intesa, in funzione anti-tedesca, siglata tra il ministro degli esteri francese Pierre Laval, il primo ministro britannico Ramsay MacDonald ed il capo del governo italiano Benito Mussolini, a seguito dell'incontro fra i tre nell'omonima località piemontese sul lago Maggiore, fra l'11 e il 14 aprile 1935, presso il Palazzo Borromeo.

●イタリアのエチオピア侵攻
イタリアは19世紀末から支配していたエリトリアとソマリランドの一部のほか1912年からリビアを植民地としていた。その後、ムッソリーニはアルバニアとエチオピア(アビシニア)侵攻という形で、植民地帝国建設の野望をさらに一歩進めようとしていた。1935年10月、国境問題を口実にイタリアはエチオピアに侵攻を開始した。国際連盟はこれを非難したが、ムッソリーニがそんなことを問題にするはずもなかった。イタリア軍は近代兵器を投入し、隣接するイタリア領ソマリランドとエリトリアから国境を越えた。特にその空軍力は、何の対抗手段も持たないエチオピア軍にとって恐るべきものであった。イタリア軍は1936年3月にエチオピア軍を壊滅させ5月5日には首都アディス・アベバを占領した。ハイレ・セラシェ皇帝は脱出してフランス領ソマリランド経由でイギリスへ亡命した。国際連盟はイタリアのこの行為に対して経済制裁を行なったが、禁輸品目はイタリアが特に必要としないものばかりであった。このイタリアの勝利にヒトラーは注目していた。
*Esperanto語→La Etiopia Milito aŭ pli precize la Itala Invado de Etiopio, nomata ankaŭ Dua Italo-Etiopa Milito, daŭris 7 monatojn, inter 1935 kaj 1936. Estis konsiderata montro de la politiko etendisma kiu karakteris en la Aksaj Potencoj kaj de la nesufiĉa efiko de la Ligo de Nacioj, antaŭ la komenco de la Dua Mondmilito.
*ベニート・アミールカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリアの政治家、教師、軍人。Italianoイタリア語→Benito Amilcare Andrea Mussolini, noto anche con il solo appellativo di Duce (Dovia di Predappio, 29 luglio 1883 – Giulino di Mezzegra, 28 aprile 1945), è stato un politico, militare, giornalista e dittatore italiano.


●ラインラント進駐
再軍備宣言から1年後の1936年3月7日、ドイツ軍3個大隊はライン河を越え、ラインラントに進駐した。この行為はフランスを刺激することは必至で、ドイツ軍部は純粋に軍事的見地から反対していたが、ヒトラーは政治的な判断からこれを強行した。これに対し、フランスは13個師団を国境に集結させるとともに国際連盟に提訴したが、武力衝突は結局起こらなかった。フランスはドイツよりもさらに戦争を欲してはいなかったのである。6月3日、ラインラント進駐の成功に湧く、ドイツ軍に不吉な影を落とす事故が起きた。空軍参謀総長ヴェーファーが自ら操縦するHe70で墜落死したのである。ヴェーファーは空軍内で戦略爆撃機の開発を推進していたことで有名だが、それ以上に空軍内部の人間関係の調整役として重要な存在であった。以後、ドイツ空軍の意思決定は非常に混乱することになる。
*ラインラント進駐(独: Rheinlandbesetzung、英: Remilitarization of the Rhineland)は、1936年3月7日にドイツが、ロカルノ条約により非武装地帯と定められていたラインラントに陸軍を進駐させ、同地のアーヘン、トリーア、ザールブリュッケンに兵営を設けて駐留を開始させた事件を指す。

Deutschドイツ語→Als Rheinlandbesetzung oder Remilitarisierung des Rheinlandes, in der NS-Propaganda „Rheinlandbefreiung“, wird die Stationierung von Truppenteilen der Wehrmacht in dem aufgrund des Friedensvertrags von Versailles entmilitarisierten Rheinland am 7. März 1936 bezeichnet.
*ヴァルター・ヴェーファー(Walther Wever、1887年11月11日–1936年6月3日)は、ドイツ空軍の軍人。第二次世界大戦前に空軍参謀長を務めたが、事故死した。最終階級はドイツ国防軍空軍中将。Walther Wever (* 11. November 1887 in Wilhelmsort, Kreis Bromberg; † 3. Juni 1936 in Klotzsche) war ein deutscher Generalleutnant und Chef des Generalstabes der Luftwaffe der Wehrmacht.

スペイン内戦( スペイン語:Guerra Civil Española、英語:Spanish Civil War)は、1936年から1939年まで第二共和政期のスペインで発生した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府(共和国派、ロイヤリスト派)と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派)とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦、メキシコが支援し、欧米市民知識人らも数多く義勇軍として参戦、フランコをファシズム陣営のドイツ、イタリア、ポルトガルが支持・直接参戦するなどした。스페인 내전(스페인어: Guerra Civil Española, 문화어: 에스빠냐 공민 전쟁)은 마누엘 아사냐가 이끄는 좌파 인민전선 정부와 프란시스코 프랑코를 중심으로 한 우파 반란군 사이에 있었던 스페인의 내전이다.
●スペイン内戦の始まり
1930年代に入ってスペイン国内はイデオロギーと民族紛争の坩堝と化していた。スペインで1936年7月18日、ついに内戦が始まった。内戦は2月に成立した人民戦線内閣と右翼ファシスト陣営の衝突という形をとった。ファシスト側はモロッコに根拠地を持っており、その主力部隊がスペイン本土に展開でできるか否かが序盤戦の焦点となった。政府軍が確保したのはマドリード、バルセロナほかスペイン本土の主要資源地域で、いくぶん優位に立っていた。海軍も政府側に立っていた。しかしモロッコ対岸のアンダルシア地方や北部のナバラ地方、アラゴン地方、レオン地方はファシスト軍の制圧するところとなっていた。ファシスト軍が有利だったのは軍事組織として完成していることで、これに対して政府側は民兵の組織化から始めなくてはならなかった。
戦闘はいくつかの戦線で同時並行的に行なわれた。おおまかに分類すると以下のようになる。
(1) マドリード周辺の攻防戦(2)ファシスト軍の制圧地域打通戦(3)散発的な政府軍の反撃
ファシスト軍の指導者となったフランコ将軍は同年7月21日には早くもドイツに援助を要請した。海軍が政府側に立ち、ファシスト軍には航空機がほとんどなかったため、独力ではモロッコの部隊をスペインに輸送できなかったからである。ファシスト軍はドイツ空軍の協力を得て大空輸作戦を行い、主力部隊をモロッコから本土へ展開させて8月6日から本土の制圧地域間の打通作戦を開始した。このときの空輸作戦では1万4000名以上の兵力が海を越えて移動し、ドイツ空軍にとっても大きな実績となった。本土の拠点であるアンダルシア地方から進軍を開始したファシスト軍は、北部の制圧地域へ向かいつつ、東のマドリード攻防戦に合流した。マドリードの攻防戦は開戦初頭から周囲の山岳地帯を中心に繰り返されていた。ファシスト軍はトレドに包囲されていた部隊を救出するなどの戦果をあげたが、政府軍にソ連からの援助が到着したこともあって、ついにマドリードを落とすことはできなかった。この間、カタロニア地方では政府軍がファシスト地域に対し、西に向かって反撃を行った。この作戦によりカタロニア戦線は西に進み、バレンシアとの中間に位置するテルエルがファシスト軍の突出部を形成することになった。
●ドイツ・コンドル軍団の登場
1936年10月1日、フランコ将軍は正式に総統に就任し、ファシスト軍はナショナリスト軍と呼ばれることになった。11月にはドイツから送られてきたコンドル軍団が活動を開始した。この5000名規模の空軍部隊は戦術と兵器の実戦テストを目的として送られたものであった。コンドル軍団も加わってマドリード攻撃作戦が12月から翌1937年2月にかけて行なわれたが、これも失敗に終わった。義勇兵からなる国際旅団の活躍と、ソ連製戦闘機による制空権の堅持が政府軍の勝利の鍵であった。3月にはドイツと並んで援助を開始したイタリア軍のマドリード攻撃が実施されたが、これも撃退されてしまい、マドリード攻防戦は休止期間に入ることになった。
マドリード攻略の失敗によって、ナショナリスト軍は内戦を短期間で終結させる望みを失ってしまった。内戦の長期化は資源地域を押えられているナショナリスト軍にとって不利であった。しかしマドリード攻防戦の間、ナショナリスト軍はスペイン南部と北部で都市を攻略し、あるいは政府軍の攻勢を退けて地歩を固めつつあった。そこでナショナリスト軍は、政府軍の支配する資源地帯を各個に攻略していくことに戦略を変更した。最初の目的はスペイン北部のバスク地方、アストゥリア地方であった。バスク地方への攻撃は直ちに開始された。4月26日にコンドル軍団によって行なわれた有名なゲルニカ空襲は、このときの作戦のひとつである。6月下旬にはビルバオが陥落しバスク地方はナショナリスト軍のものとなった。地形は複雑で「鉄の輪」と呼ばれる要塞に籠もった防衛側は有利であったが、政府軍に共産主義勢力とアナキスト勢力との内紛があり、この重要な攻防戦の間にバルセロナでは暴動が発生しているありさまだった。その結果、バスク地方はナショナリスト軍の集中攻撃を受けてしまったのである。
バスク地方の喪失にあわてた政府軍は、7月6日、マドリード近郊のブルネテで反撃を行なった。しかしナショナリスト軍の行動はすばやく、反撃はすぐに挫折してしまう。ブルネテの反撃を抑えたナショナリスト軍は再び北部の攻略に着手した。政府軍はこれを背後から牽制するため、カタロニアから西へ攻撃を開始した。コンドル軍団の投入などで攻撃はすぐに食い止められたが、北部の攻略完了は10月下旬となった。
1937年10月までに、政府軍の不利は明らかとなった。この劣勢を覆すべく、12月15日、酷寒のテルエル戦線で政府軍は攻勢に出た。ナショナリスト軍は一度は後退したものの、翌1938年1月8日には早くも逆襲を開始。政府軍も必至で抵抗したが、2月にテルエル北部でナショナリスト軍は新たな攻撃を開始し、進撃した政府軍の後方を脅かした。3月、政府軍の守りは破られ、ナショナリスト軍は4月上旬に海岸線に達し、カタロニアとバレンシアを分断した。勢いに乗ったナショナリスト軍は一気に戦争を終結に導くべく、政府軍の本拠となっていたバレンシアを北から攻撃した。一方、政府軍もカタロニアとバレンシアの連絡を復活させようとエブロ河で反撃を行った。戦闘は7月から11月まで続いたが、両軍とも攻撃に失敗し、ナショナリスト軍は消耗し、政府軍は撤退した。しかしこの戦闘中に、政府軍にとって致命的な国際情勢の変化があった。

*フランシスコ・フランコ・バアモンデ(Francisco Franco Bahamonde、IPA : [fɾan'θisko 'fɾaŋko]、1892年12月4日 - 1975年11月20日)は、スペインの軍人(大元帥)、政治家。長期独裁を敷いたことで知られる。Españolスペイン語→Francisco Franco Bahamondef​g​ (Ferrol, 4 de diciembre de 1892-Madrid, 20 de noviembre de 1975) fue un militar y dictador español, integrante del grupo de altos cargos de la cúpula militar que dio el golpe de Estado de 1936 contra el Gobierno democrático de la Segunda República, dando lugar a la guerra civil española.
*コンドル軍団(独: Legion Condor)は、ナチス政権下のドイツからスペイン内戦に派遣されたドイツ国防軍による遠征軍。ドイツ空軍を主体に、少数の陸海軍部隊を加え組織されたコンドル軍団は、1936年から1939年まで義勇兵の名目でフランシスコ・フランコの国民戦線軍を支援した。秃鹰军团(德文:Legion Condor)是一支由阿道夫·希特勒下令组织的军团,其成员来自当时德意志國防軍(包括空军、坦克、通讯、运输、海军和教练人员),其目的是在西班牙内战中支持弗朗西斯科·佛朗哥的法西斯西班牙國民軍。
●オーストリアとチェコスロヴァキア
このころヒトラーはオーストリア併合に着手していた。ヒトラーの生地でもあるオーストリアには600万人のドイツ系住民がおり、オーストリア・ナチスの勢力もあった。両国の併合はヴェルサイユ条約で禁じられていたが、1920年代からしばしば話題になっており、条件は整っていた。ヒトラーは1938年2月から武力行使を背景にオーストリア首相を脅して併合を実現しようとしていたが、首相は最後の切り札として、3月9日、ドイツとの併合の可否を問う国民投票を行なうことを国民に呼びかけた。その実施前の3月12日、ドイツ軍は急遽オーストリアに進撃し、併合(アンシュルス=Anschluss)を宣言した。ドイツ第2機甲師団と親衛隊「アドルフ・ヒトラー」連隊はヒトラーの誕生したリンツを経由して13日にウィーンに入った。ナチスは併合反対派とユダヤ人を襲い、マハトハウゼンに作られた強制収容所へ送った。
ヒトラーの次の標的はチェコスロヴァキアのズデーテン地方であった。ズデーテン地方のドイツ系住民を扇動してドイツへの復帰を希望させ、これを口実に1938年9月、進駐のための国防軍を動員した。れっきとした独立国への進駐は冒険で、ドイツの反ヒトラー派はこれが失敗することに期待した。ところがイギリスとフランスはチェコスロヴァキアと条約を結んでいながら逃げ腰であった。1938年9月、ムッソリーニの仲介でミュンヘン会談が開かれた。イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエがヒトラーと会談したが、チェコスロヴァキアの代表はここに招かれていなかった。この会談で、イギリス、フランスはドイツがズデーテン地方を獲得することに同意した。この会談に招かれず、またイギリス、フランスの弱腰を見たソ連は、これら同国と歩調を合わせてドイツを牽制するそれまでの方針を転換し、ドイツと協調しようと考えるようになった。10月3日、ドイツ軍はズデーテン地方に進駐した。


*アンシュルス(独: Anschluss、1996年ドイツ語正書法改革(英語版)以前の表記:Anschluß)とは、1、「接続・連結」を意味するドイツ語の普通名詞。2、1938年3月12日のナチス・ドイツによるオーストリアの併合(Der Anschluss Österreichs an das Deutsche Reich)を指すナチスの言語。Deutschドイツ語→Als „Anschluss“ Österreichs oder kurz „Anschluss“ werden seit 1938 vor allem die Vorgänge bezeichnet, mit denen österreichische und deutsche Nationalsozialisten im März 1938 die Eingliederung des Bundesstaates Österreich in das nationalsozialistische Deutsche Reich veranlassten.

*ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体は、第二次世界大戦直前の戦間期に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権下のドイツが主導して中欧のチェコスロバキアを分割・消滅させた一連の過程を指す。特に、過程の一部として行われたドイツに対するズデーテン地方の割譲は、ズデーテン割譲またはズデーテン併合と呼ばれている。チェコスロバキア解体は、ドイツ、ハンガリー、ポーランドに領土を分割させられる1938年の第1段階と、独立運動を激化させるドイツの策動でスロバキア・カルパト・ウクライナとベーメン・メーレン保護領に分裂して消滅されられる1939年の第2段階からなる。Esperanto語→La Germana okupo de Ĉeĥoslovakio (1938–1945) ekis per la germana aneksigo de la landlimaj regionoj de Ĉeĥoslovakio konataj kolektive kiel Sudetio, laŭ terminoj markitaj en la Munkena interkonsento. La ekskuzo de la germana estro Adolf Hitler por tiu militago estis la supozitaj ĉikano kaj subpremo suferitaj de la etne germana loĝantaro kiu vivis en tiuj regionoj. 

*ミュンヘン会談とは、1938年9月29日から30日に、チェコスロバキアのズデーテン地方帰属問題解決のためドイツのミュンヘンで開催の国際会議。イギリス、フランス、イタリア、ドイツの首脳が出席。ドイツ系住民が多数を占めるズデーテンのドイツ帰属を主張したドイツのアドルフ・ヒトラー総統に対し、イギリス・フランス両首脳は、これ以上の領土要求を行わないことを条件に、ヒトラーの要求を全面的に認め、1938年9月29日付けで署名された。このミュンヘン協定は、後年第二次世界大戦勃発前の宥和政策の典型とされ、一般には強く批判されることが多い。Françaisフランス語→Les accords de Munich furent signés entre l'Allemagne, la France, le Royaume-Uni et l'Italie représentés respectivement par Adolf Hitler, Édouard Daladier, Neville Chamberlain et Benito Mussolini (ce dernier s'était commis en intermédiaire) à l'issue de la conférence de Munich du 29 au 30 septembre 1938. Le président tchécoslovaque, Edvard Beneš, et le secrétaire général du Parti communiste de l'Union soviétique, Joseph Staline, ne furent pas invités.
●スペイン内戦の終結
このソ連の態度の変化は、スペイン政府軍にとっては決定的であった。ソ連の援助なしに、ドイツ、イタリア軍に強力に支援されたナショナリスト軍と対抗することはできなかったからである。1938年12月23日、ナショナリスト軍はカタロニア地方の攻略を開始した。翌1939年1月にはバルセロナが陥落し、2月10日まで同地方はナショナリスト軍の支配することとなった。2月27日、イギリス、フランスはついにフランコ政権を承認した。政府軍内部は支持派と抗戦派の対立が深刻になり、ナショナリスト軍はその後1ヶ月以内にスペイン全土の制圧に成功した。こうして4月11日、3年近く続いた内戦はファシスト側の勝利でその幕を閉じた。

*水晶の夜(ドイツ語: Kristallnacht、クリスタル・ナハト)とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害である。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。

*수정의 밤(독일어: Kristallnacht, 1938년 11월 9일 ~ 11월 10일)은 나치스 돌격대(SA)와 독일인 시민들이 유대인 상점과 시나고그를 공격한 사건이다. 한국어로는 ‘깨진 수정의 밤’ 혹은 ‘깨진 유리의 밤’으로도 불리는데 이 명칭은 사건 당시 수많은 유리창이 깨졌다고 해서 붙었다.
●大戦前夜のドイツ
1938年11月、パリでひとりのドイツ外交官がユダヤ人に殺された。ナチスは報復として、11月9日から11日にかけてドイツ全土のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)を焼き払い、ユダヤ人商店を破壊し、略奪した。壊れたショーウィンドーのガラスの破片が煌めいたところから、この事件は「水晶(ガラス破片)の夜」と呼ばれた。ユダヤ人たちは引き出され、殴る蹴るの暴行を受け、少しでも抵抗すれば連行されて二度と帰らなかった。アメリカはこれに抗議して大使を召還し、ルーズヴェルト大統領が非難の演説を行なった。1939年3月14日、ドイツ軍はチェコスロヴァキアの残余の地域に侵攻し、プラハを占領し、これらの地域を保護領としてしまった。この行為にはさすがのイギリス、フランスも怒り、ヒトラーを押えるには力しかないことに気づいたようだった。そしてヒトラーが再び侵略行為を起こした場合、戦争は必至であることを宣言した。
ドイツは1週間後の3月22日、リトアニアにメーメル地方の割譲をせまり「シュテッティン輸送演習作戦」を発動した。このときヒトラーは、できたての海軍とともにポケット戦艦「ドイッチュラント」で自ら出動して同地を占領、東プロイセンの一部としてしまった(
Paskutinė prarasta Vokietijos žemė yra tik lietuvis Memelis ir lenkas Danchihi. Hitleris galvojo gauti abu per bauginančią diplomatiją)。ヒトラーの次の目標はダンチヒ、そしてポーランドであった。7月から8月にかけて、例によってドイツ系住民への迫害を口実にポーランドに圧力をかけ続けた。今回のヒトラーの新しい切り札は、8月23日に突如締結された独ソ不可侵条約であった。世界を呆然とさせたこの条約の秘密条項には、ポーランドの分割が含まれていたという。


*独ソ不可侵条約(独: Deutsch-Russischer Nichtangriffspakt、露: Договор о ненападении между Германией и Советским Союзом、英: German-Soviet Nonaggression Pact)は、1939年8月23日にドイツとソビエト連邦の間に締結された不可侵条約。天敵と言われたアドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンが手を結んだことは、世界中に衝撃を与えた。Idoイド語→Molotov-Ribbentrop pakto esis pakto pri ne-atako signatita en Moskva, Sovietia, da Joachim von Ribbentrop (lora ministro pri exteral aferi de Naziista Germania) e Vyatcheslav Molotov (lora ministro pri exteral aferi de Sovietia) ye la 23ma di agosto 1939.
●隣国、フランスの状況
ドイツがその遠大な計画を実現するための、最初の障害はフランスであった。ドイツがヒトラーの下でヨーロッパ支配の準備を着々と進めつつあったとき、フランスはどのような状況にあったのだろうか。
第一次世界大戦の戦勝国であるフランスは、ヨーロッパ最大の軍事大国であると見られていた。そのため好戦的な公約をかかげるヒトラーの下でドイツが着々と軍備の増強を進めていても、よもやその力がフランスを上回ることがあろうと想像する者はほとんどいなかった。しかし、フランス軍は第一次大戦の勝利に安住し、ひどく保守的になっていた。戦車や航空機の使用、部隊の機械化といった新しい分野では前大戦よりむしろ後退し、情報通信面ではさらに問題が大きかった。実際この分野では遅れていたというより、認識が欠けていたと言ったほうがよいほどだった。68歳のガムラン将軍は電話回線も無線もないヴァンサンヌの司令部に引きこもり、伝令の定期バイク便で情報のやりとりを行なっていた。そこから出された指令が前線に到着するには実に48時間を要したのである。軍隊の機械化が進むことにより戦闘の展開速度が上がることを想像できなかったのであろう。
フランス軍弱体化の原因は、フランス軍をとりまく環境にも一因があった。すなわちフランス内政の混乱である。世界恐慌の影響が比較的少なかったフランスではあったが、1932年頃には不況が深刻化し、右翼、左翼、王党派が衝突を繰り返していた。内閣は猫の目のように交替し、一貫した政策をとりにくく、海外の動向に迅速かつ的確に対応することもできなかった。この混乱は長期間にわたり、1933年にヒトラーが首相となったときも、1938年にドイツがオースリアに進駐したときも、フランスに内閣は存在しなかった。またこの国際的な危機状態が政情不安に拍車をかけるという悪循環に陥っていた。
●フランス軍の対ドイツ戦略
国土が戦場となった第一次大戦の苦い記憶から、フランスの対ドイツ戦略は、もっぱら本国を戦争の惨禍から守ることに集中していた。1930年から1935年にかけて、当時の陸軍大臣アンドレ・マジノによってドイツとの国境沿いに敷かれた要塞線、通称「マジノ線」はその考え方を最も端的に表わしていた。「軍事技術の奇蹟」「フランスの楯」などと褒めそやされたこの要塞線の北半分は、少なくとも構想のレベルではたいへんなものだった。三重の要塞線は、対戦車壕とトーチカ、大口径砲塔、機械化された居住性に配慮した地下施設からなる難攻不落の要塞であるはずだった。しかし実際には居住性などに多くの問題をかかえ、計画通りの使い方は不可能であった。それも南半分はライン河にたよって本格的な要塞は作られていなかった。
ただ、いずれにしても「マジノ線」はスイス国境からルクセンブルグ国境まではカバーしていた。問題はベルギーとの国境で、ここに「マジノ線」を築くことは低地地方での工事の難しさ、および国境と工業地帯との距離の問題から困難であった。「マジノ線」構築と同時にフランスが進めた対ドイツ戦略は、ソ連との同盟であった。当時、ソ連は西欧との集団安全保障体制を築こうとしており、両国の利害が一致して、1935年5月に仏ソ相互援助条約が締結された。しかしこの動きはソ連を警戒するイギリスを刺激し、結果的にストレーザ戦線崩壊の引き金となってしまった。


*Françaisフランス語→La ligne Maginot, du nom du ministre de la Guerre André Maginot, est une ligne de fortifications construite par la France le long de sa frontière avec la Belgique, le Luxembourg, l'Allemagne, la Suisse et l'Italie de 1928 à 1940. 

*Latinaラテン語→Linea Maginot fuit longa munimentorum series prope limitem Franciae post primum bellum mundanum a Francicis instituta. Nomen ei datum est ab Andrea Maginot, qui multos annos belli ac coloniarum ministri officio functus est.

ポーランド侵攻は、1939年9月1日にドイツ国、及びドイツと同盟を組む独立スロバキアが、続いて1939年9月17日にソビエト連邦がポーランド領内に侵攻したことを指す。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスが相互援助条約(ポーランド・イギリス相互援助条約(英語条文、ポーランド語条文)、ポーランド・フランス相互援助条約)を元に9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。폴란드 침공(영어: Invasion of Poland), 또는 9월 전역(폴란드어: Kampania wrześniowa), 1939년 방어전(폴란드어: Wojna obronna 1939 roku), 제4차 폴란드 분할(폴란드어: IV rozbiór Polski)[15] 나치 독일에서는 (독일어: Polenfeldzug) 또는 백색 상황(독일어: Fall Weiss 팔 바이스[*])으로 불리는 전투는 독일과 소비에트 연방, 슬로바키아가 제2차 세계 대전 중 폴란드를 침공한 사건이다.

かくして、世界大戦は始まった    
1939年9月―12月
ードイツのポーランドに対する侵攻はイギリス、フランスとの戦いに拡大してしまったが、ヒトラーはまだこの戦争を限定戦争に止めることに希望を持っていた。一方、連合軍側はドイツの行動を決して認めない強い決意でいたものの、実際の戦争の準備は全くできていなかったー
●ポーランド侵攻
1939年9月1日、ドイツ軍は作戦「白の場合」を開始し、ポーランド国境を越えた。黎明の空襲でポーランド地上軍を圧倒しながら、機甲部隊を含む43個師団が北、西、南から侵入を開始した。イギリスは9月2日夕刻、かかる暴挙は容認できないとして、ドイツ軍が9月3日午前11時までに撤退を開始することを求める最後通牒を発した。ドイツはこれを無視。イギリス首相チェンバレンは3日11時15分、ラジオを通じてイギリスがドイツと戦争状態に入ったことを告げた。これに続いてフランスも同日17時、ドイツに宣戦を布告した。第2次世界大戦の勃発である。
この事態はヒトラーの描いていたシナリオとは異なっていた。知らせを受けたヒトラーは呆然とし、周囲に「さて、どうするね?Nun, was wirst du tun?」と訊ねたという。

*アーサー・ネヴィル・チェンバレン (英語: Arthur Neville Chamberlain, FRS, 1869年3月18日 - 1940年11月9日) は、イギリスの政治家。首相(在任:1937年5月28日 - 1940年5月10日)。Idoイド語→Arthur Neville Chamberlain (18ma di marto 1869 – 9ma di novembro 1940) esis Britaniana konservema politikisto qua esis chefministro di Unionita Rejio de la 28ma di mayo 1937 til la 10ma di mayo 1940.
*エドゥアール・ダラディエ(Édouard Daladier, 1884年6月18日 - 1970年10月10日)はフランスの政治家。3度に渡って首相を務めた(在任:1933年、1934年、1938年 - 1940年)。このほか17の閣僚経験を持つ(兼任も含む)。에두아르 달라디에(Édouard Daladier, 1884년 6월 18일 ~ 1970년 10월 10일)는 프랑스의 정치가이다. 1933년, 1934년, 그리고 1936년부터 1940년까지 세 차례 프랑스 총리를 역임하였다.
●イギリス、フランスの対応
一方、宣戦布告はしたものの、イギリス、フランスとも開戦の準備はまったく整っていなかった。イギリスはまずドイツ空軍の空襲を警戒し、特に毒ガス弾の投下を恐れた。宣戦布告したその日、間違いではあったが空襲警報が出されている。灯火管制や子供の疎開など、空襲に対する準備が開始された。これはドイツ空軍のプロパガンダがいかに成功していたかを示すエピソードである。ドイツ空軍にはポーランドを攻撃しながらイギリスやフランスと交戦する力はまったくなく、イギリスの被害といえば自ら強いた灯火管制による交通事故の多発ばかりであった。イギリスでは国民の士気はあまり高くなく、若者が志願に殺到するという光景も見られなかった。娯楽機関も閉鎖されたが、9月のうちに解除された。ポーランドとフランスの軍事協定では宣戦15日後には攻撃を開始することになっており、フランス軍はザール地方へ8Kmほど進撃した。しかしドイツの要塞線「ジークフリート線」を攻撃しようとはせず、しばらくすると特に理由もなく「マジノ線」に後退してしまった。
ドイツ軍もポーランドからある程度の陸軍、空軍部隊を引き抜いて備えたが、このときフランス国境には戦車はもちろん装甲車、砲も不充分で、そもそも絶対的兵力が少なく、もしフランスに攻撃されれば1~2週間と持たなかったであろうと言われている。またフランス空軍はルール地方の工業地帯を爆撃する能力をもっていたが、ドイツ空軍の復讐によってフランス全土に戦火が及ぶことを恐れて実施されず、空中で若干の小競り合いが発生しただけであった。フランスの基本戦略とドイツ空軍のプロパガンダの相乗効果であった。このようなフランス軍の行動は将兵の士気を低下させた。
*ジークフリート線(独: Westwall(Siegfried-Linie), 英: Siegfried Line)は、1930年代後半にドイツのフランス国境地帯を中心に構築されたドイツの対フランス要塞線。第一次世界大戦中に構築された防衛線(ヒンデンブルク線)に端を発する。ドイツの伝説上の英雄ジークフリートの名を冠してジークフリート線と呼ばれた。バーゼル(ドイツ・フランス・スイス三角点国境の街)付近からアーヘン(ベルギー国境の街)まで続く。第二次世界大戦勃発後には対オランダ国境まで延伸され、その全長は約630kmに及んだ。The Siegfried Line, known in German as the Westwall, was a German defensive line built during the 1930s opposite the French Maginot Line.

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