日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Zweiter Weltkrieg/Seconde Guerre mondiale★=☆ナチスの戦争Le Troisième Reich en guerre☆纳粹党掌权Machtergreifung마흐터그라이풍<ヨーロッパ戦線>World War II All Front Guide第二次世界大戦全戦線ガイド/Shigeru Aoki青木茂④

イタリアと地中海    1940年10―12月
―ほんの数ヶ月前の必勝ムードとはうってかわり、バトル・オヴ・ブリテンの敗北、イギリス上陸作戦の放棄、地中海におけるイタリアの苦戦など、状況はドイツに楽観を許さない展開をみせていた。阻止することのできないイギリスの夜間空襲もドイツに不気味な影を落としていたー

<ヨーロッパ西部戦線>
●イギリス夜間空襲「ブリッツ」
10月を通じて、ドイツ空軍はロンドンを主目標とした夜間空襲「ブリッツ」を継続した。この空襲でロンドンでは、10月だけでも6000人を超える死者とそれを上回る数の負傷者を出した。またリヴァプールや、11月にはバーミンガム、サザンプトン、ブリストル、コヴェントリーも目標に加えられていった。コヴェントリーでは有名な大聖堂が破壊された。ドイツ軍が使用し始めた遅延信管は危険きわまりなく、イギリス軍はこれに対する特殊爆弾処理班を編成しなければならなかった。12月にはさらにシェフィールドが爆撃され、ロンドン空襲も続けられた。爆撃目標は主として港湾都市が選ばれていることから、イギリスではドイツ空軍がUボート作戦との連携をとろうとしていると考え、危機感を強めた。しかし実際にはドイツ空軍と海軍の関係は悪く、目標の一致は単なる偶然であった。こうした夜間空襲に対するイギリス側の防衛体制はまったく不充分なもので、サーチライトと高射砲の文字どおり闇雲な対応にとどまっていた。戦闘機はまだレーダーが装備されておらず、迎撃は不可能であった。そのため最も有効な手段は、ドイツ機の航法を妨害して爆撃目標を誤らせる方法であった。ドイツは航法装置を搭載した機を「バス・ファインダー」(Bus Finder=道案内)としていた。この「バス・ファインダー」が目標を発見できないように、航法装置そのものに対する電子妨害に力を注いだ。それは史上初の航空電子戦となってゆく。
ドイツ空軍は当初、「ニッケバイン」という夜間航法装置を使用していたが、イギリスが対応策をとったために、新しい「X装置」を開発した。11月14日のコヴェントリー空襲に使用され、大きな成果をあげた。しかしこの秘密もすぐにイギリスの知るところとなり、ドイツは引き続き「Y装置」を投入する。これらの装置はいずれも地上基地から発信される誘導ビームを「バス・ファインダー」が捉える方式であった。後期の「バス・ファインダー」は複数の電子装置を搭載することになった。イギリスは「バス・ファインダー」を迷わせる他にも、都市の近郊に囮の火災をおこし、ドイツ爆撃機主力が目標を特定できないようにする戦術も併用した。これも効果があり、やがてドイツの爆撃はほとんど失敗するようになっていく。10月にイタリア空軍がイギリス本土空襲に若干の航空機を投入したが、大きな損害を受けて、ヒトラーから帰還を要請された。いずれにしても、ドイツの対イギリス攻撃は大規模なものではなかった。この時、ヒトラーはすでにソ連攻撃を検討していたからである。


●イギリス空軍のドイツ本土夜間空襲
ドイツ軍上陸の危機が去ってから、イギリスはドイツに対してどのような攻撃を加えるべきか決定しなければならなかった。とりうる手段は、地中海など周辺地域での戦闘とドイツ本土爆撃しかなかった。しかしイギリスも、この時点で戦略爆撃に何が期待できるのか、わかっていたわけではなかった。問題はふたつあった。ひとつはどこを爆撃すればドイツの戦争遂行能力を奪えるのかがはっきりしないこと。もうひとつは、そもそもその目標を破壊できる爆撃方法があるのか不明だということであった。目標に関しては、ドイツの弱点が燃料にあることはわかっていたが、差し迫った問題として士気阻喪を狙った無差別爆撃とUボート戦力に対する攻撃が重要と考えられた。爆撃戦術については、実際に爆撃を行い、その効果を偵察によって確かめていくしかなかった。そこで10月からキール、ベルリン、エッセン、ハンブルグ、デュッセルドルフ、ミュンヘン、ケルン、ダンチヒ、マンハイムなどを目標として夜間爆撃が行なわれた。ドイツではより組織的、効果的な夜間迎撃システムを準備していた。早期警戒レーダー「フライア」1基と補足・誘導レーダー「ヴュルツブルク」2基による「ヒンメルペット」システムである。「フライア」と1基の「ヴュルツブルグ」で自軍の夜間戦闘機を誘導するのである。設置も運用技術もまだ未熟なものばかりであったが、1940年の暮れに向けて防空システムは着実に進歩を続けていた。

●Uボートの黄金時代
10月まではUボートの戦果は上昇を続け、ついに63隻35万2000トンという記録を打ち立てた。この期間にU47のエントランス艦長、U99のクレチマー艦長、U100のシュプケ艦長、U101のフロイエン艦長などの「Uボート・エース」(20万トン以上撃沈)が続々と誕生した。ところがUボートの戦果は一挙に32隻14万7000トンにまで激減した。全力展開していたUボート部隊が一度に補給に引き上げたことと、天候の悪化がその理由であった。この傾向は12月も続き、戦果は37隻21万3000トンにとどまった。実際、1940年末、大西洋にあったUボートはたった2隻であった。9月以来、数隻のイタリア潜水艦もジブラダル海峡を突破して大西洋へ進出し、ドイツと共に通商破壊戦を行なおうとした。ドイツは潜水艦不足の折からこれを歓迎したが、イタリア潜水艦部隊には通商破壊戦の戦術や訓練が欠け、また偵察行動も海図の表示の相違から、協同作戦による顕著な戦果はあがらなかった。イギリス西部近海での戦いはいったん終了する。イギリスの対策は効果の薄いUボート基地の爆撃よりも洋上でUボートを制圧する方法を模索し始めた。Uボートは水中速度が遅いので、発見して潜航を強いれば船団を完全に逃がすことができる。イギリス沿岸軍団が海軍の指揮下に入り、緊密な協調関係の下で作戦を開始した。具体的には「サンダーランド」飛行艇の洋上哨戒である。
ドイツ側では「コンドル」の機数が不足に加え、船団の追尾には航続距離が不足であることが判明したため、デーニッツ提督はより強力な航空支援を求めた。この時期「コンドル」は、Uボートの偵察よりも独航船に対する攻撃に精を出していた。その攻撃の成功が重なって自信をつけ、11月中旬からは船団も攻撃するようになり、1回の攻撃で1万トンを撃沈したこともあった。イギリスは「パラシュート・アンド・ケーブル」や偽装対空船Qシップなどで対抗したが「コンドル」を追い払うことはできず、「大西洋」の疫病神」と呼んで対策に苦慮していた。ドイツ海軍は通商破壊活動に、12月3日、この年最後の仮装巡洋艦「コルモラン」を出撃させた。
●ドイツ大型水上艦の出撃
10月23日、大型水上艦こそドイツ海軍の神髄であると確信する砲司令官レーダー提督の作戦が始まった。重巡「アドミラル・シェーア」の出撃である。この艦はポケット戦艦の3番艦で、類別変更で重巡と呼ばれるようになっていたものの、通商破壊には最も適した水上大型艦であった。「シェーア」は出撃早々の11月5日、船団護衛を行なっていた。イギリスの補助巡洋艦「ジャーヴィス・ベイ」を船団の6隻ともに撃沈した。この新たな脅威のため、イギリスは船団の航行をまる1週間中止せねばならなかった。11月30日、今度はドイツ重巡「アドミラル・ヒッパー」がブレストに向けて出撃した。この艦は高速だが航続距離が短く、通商破壊にはあまり向いていなかった。そこでブレストを根拠地にして活動する予定であった。出撃後一度だけ船団攻撃のチャンスがあったが護衛艦が強化されていたために襲撃を中止し、12月27日、戦果なくブレストに入った。

*エーリヒ・ヨーハン・アルベルト・レーダー(Erich Johann Albert Raeder、1876年4月24日 - 1960年11月6日)は、ドイツの海軍軍人。第一次世界大戦ではユトランド沖海戦など主要な作戦に参加、戦間期には海軍の建て直しに尽力、第二次世界大戦では海軍総司令官としてドイツ海軍を指揮した。騎士鉄十字章受章。最終階級は海軍元帥。에리히 요한 알베르트 레더(독일어: Erich Johann Albert Raeder)(1876년 4월 24일 ~ 1960년 11월 6일)는 독일의 해군 제독이다.

●アメリカの動向

フランス敗北後、アメリカはイギリスを援助することになったが、参戦にはまだ強い反対があった。特に共和党は戦争反対を打ち出していた。チャーチルと親交を結び参戦に積極的だったルーズヴェルトは、迫っていた選挙を待たず、戦時編成に切り替え、議会は選抜徴兵制の法律を制定した。1940年11月1日、ルーズヴェルトが3選されチャーチルは安堵の胸をなでおろした。ルーズヴェルトはこれでイギリスに軍事援助する権限をえたのであった。武器貸与法案の議会提出はこの年の12月、通過は1941年3月である。
*フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt [ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt], 1882年1月30日 - 1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家。民主党出身の第32代アメリカ合衆国大統領(1933年 - 1945年)。Idoイド語→Franklin Delano Roosevelt, politikisto (1882 til 1945) esis prezidanto di Usa de 1933 til 1945.

<地中海・アフリカ戦線>
●イタリア軍のギリシャ侵攻
エチオピア周辺とエジプトの勝利に続いて、イタリア軍は植民地となっていたアルバニアのギリシャ国境に兵力10万名を集結させ、10月28日、エビロスからピンドス山脈を経てイオニア海岸に至る戦線で一斉に侵攻を開始した。これに対してギリシャ軍は7万5000名を国境に集め、有利な地形と高い士気を武器に抵抗した。ヒトラーはこの知らせにイタリアの立場を支持し、必要があればクレタ島攻略にドイツ空挺部隊を提供することを申し出た。ところがイタリア軍は士気が低く装備も貧弱であったため、進撃はすぐに停滞した。それどころか11月下旬にはギリシャ軍が反撃に転じ、年末にはアルバニア領まで攻め込まれてしまった。
*ギリシャ・イタリア戦争(ギリシャ・イタリアせんそう、Greco-Italian War)は、1940年10月28日から1941年4月30日まで、枢軸国のイタリア、ドイツと連合国のギリシアとの間で戦われた第二次世界大戦の戦争を指す。Ελληνικάギリシャ語→Ο Ελληνοϊταλικός πόλεμος του 1940-41 (στην Ελλάδα αναφέρεται και ως Πόλεμος του '40 ή Έπος του '40) ήταν η πολεμική σύγκρουση μεταξύ Ελλάδας και συνασπισμού Ιταλίας και Αλβανίας, η οποία διήρκεσε από τις 28 Οκτωβρίου 1940 μέχρι τις 31 Μαΐου 1941, όταν και ολοκληρώθηκε η κατάληψη της χώρας από τις γερμανικές δυνάμεις, οι οποίες επιτέθηκαν στην Ελλάδα στις 6 Απριλίου 1941.

●タラント湾空襲
イタリア海軍の動きが鈍いことに業を煮やしたのは、ムッソリーニよりもイギリス軍のほうであった。イギリス地中海艦隊のカニンガム提督は、イタリア主力艦が外洋へ現われないため、港湾奇襲攻撃を計画した。空母艦載機によるタラント湾夜間攻撃「ジャッジメント作戦」である。目標の偵察を行ない、パイロットに低空雷撃訓練を施し、使用する旧式の複葉機「ソードフィッス」用の長距離燃料増槽が完成すると、イギリス艦隊はアレクサンドリアから出撃した。戦艦4隻、空母1隻および巡洋艦と駆逐艦からなる艦隊は船団を護衛するように見せかけながらクレタ島とマルタ島へ向かい、同時にジブラタルからはH艦隊の戦艦1隻、重巡2隻を中心とする艦隊がマルタ島へ兵員を輸送するため、「コート作戦」として出発した。出撃したイギリス艦隊は次のとおりであった。戦艦「マラヤ」「ラミリーズ」「ヴァリアント」「ウォースバイト」「バーラム」(H艦隊)空母「イラストリアス」当初は空母「イーグル」の参加も予定されていたが、損傷の修理が間に合わず、外された。
イタリア軍の航空偵察を封じるために空母は重要だったが、イギリス軍は空母1隻で攻撃を断行した。これらの艦隊は地中海の中央部で船団の護衛を装いながらタラント湾に近づいていった。目標のタラント湾には次のイタリア艦隊が停泊していた。戦艦「ヴォットリオ・ヴェネト」「コンテ・ディ・カブール」「ジュリオ・チェザール」「リットリオ」「アンドリア・ドリア」「カイオ・デュリオ」重巡「ザーラ」「フィウメ」「ゴリツィア」この他にも軽巡5隻、駆逐艦16隻、潜水艦21隻などがあった。11月11日夜半、空母「イラストリアス」から第1次攻撃隊12機が飛び立った。2機が照明弾、4機が爆弾、6機が魚雷を搭載していた。照明弾は対空砲火を引きつけると共に、反対側から突入する雷撃機に対し目標のシルエットを浮かび上がらせた。第2次攻撃隊は1時間後、照明弾搭載機2機、雷撃機5機で第1次攻撃隊とは逆方向から再び攻撃を行なった。
この攻撃は成功した。「ソードフィッシュ」2機が失われたが、イタリア戦艦の半数にあたる3隻に大打撃を与えた。「コンテ・ディ・カブール」は修理不能で、あとの2隻は修理に半年を要した。爆撃によって巡洋艦にも損傷を与え、航空機格納庫も破壊した。さらに、帰路についたイギリス艦隊は、4隻からなるイタリア船団を全滅させて勝利に華を添えた。この戦いで地中海のイギリス軍は一転して優位に立つことになった。
*タラント空襲(タラントくうしゅう)、ジャッジメント作戦[1] (Operation judgement) は、第二次世界大戦中の1940年11月11日から12日にイギリス海軍が行った空母艦載機によるイタリアのタラント(ターラント)軍港に対して行われた航空作戦で、MB8作戦の一部として実行された。Italianoイタリア語→Con notte di Taranto ci si riferisce ad un attacco aereo avvenuto nella notte tra l'11 ed il 12 novembre 1940 contro il porto di Taranto, durante la seconda guerra mondiale. In quella data la flotta navale della Regia Marina italiana, dislocata nel porto di Taranto, riportò gravi danni in seguito all'attacco portato dagli aerei imbarcati della Royal Navy britannica.

●北アフリカでイギリス軍の反撃
イタリア軍はシディ・バラニに堡塁で固めた陣地を構築していた。しかしこの防衛陣地は相互支援が考慮されておらず、この弱点をイギリス軍に衝かれることになった。12月8日、イギリス軍が「コンパス作戦」を開始した。作戦兵力はわずかに2個師団1万5000名であったが、機甲兵力ではイタリア軍に勝っていた。もともとこの作戦は、燃料、弾薬の補給の面から、4日間程度しか継続できないものとして計画されていた。ところが陣地に篭って油断していたイタリア軍は、後方補給路を攻撃されて取り乱し、2日後には敗走してしまった。イギリス軍には予想外の大成功であった。多数のイタリア軍の車両、大量の水、燃料を捕獲し、それによって攻勢は4日間から数週間にわたって継続できるようになったのである。イギリス軍は作戦開始6日後にはエジプト国境を越え、クリスマスにはバルディアを包囲した。
●地中海の航空戦
補給に関連する港湾が主な目標となり、イギリス空軍はベンガジ、アル・マヨル、ナポリ、レッセ、ブリティジを爆撃した。これに対するイタリア空軍はアレクサンドリアを襲った。


●フランス赤道アフリカ
ド・ゴールはダカールでの失敗にひるんでいられなかった。自分がフランスの反ファシズム勢力全体の代表であることを、連合国に認めさせなくてはならなかったのである。彼が次に目をつけたのは同じアフリカ西岸のガポンであった。アフリカの中央コンゴ、チャド、ウバンギ。シャリ、ガポンは「フランス赤道アフリカ植民地連邦」を構成していた。この中で、チャドの総督フィリクス・エブウェはこの年の8月にド・ゴール支持を表明し、その同調者が中央コンゴの首都、プラザヴィルを占領した。そこはウバンギ・シャリとガポンの中心地でもあった。このような経緯でガポンも当初はド・ゴール支持を決めていたが、イギリス軍と自由フランス軍のダカールでの敗退を知り、考えを変えていた。そこでド・ゴールはガポンの政略を決意したの出る。
10月12日、ド・ゴールの自由フランス軍がフランス領カメルーンと中央コンゴからガポンに侵入した。自由フランス軍はヴィシー・フランス軍約4個大隊の頑強な抵抗にあったが、11月7日、ガポンの包囲に成功した。翌日から陸・海・空から攻撃が行われたが抵抗は衰えず、完全占領までにさらに4日間を要した。イギリス軍はこの戦いにダカールの時のように協力せず、ヴィシー・フランスの潜水艦1隻を降伏させたに止まった。
この勝利でド・ゴールは一応の面目を施した。エブウェを首班とする「赤道連邦」がプラザヴィルに確立された。そこで発表されたプラザヴィル宣言とその付帯声明でド・ゴールは、ヴィシー政府の正当性を否定した。そして自らが自由フランスを代表すると宣言した。しかしアメリカは自由な選挙によらない代表を認めようとせず、イギリスもこれに歩調を合わせていた。
<ヨーロッパ東部方面>
●モロトフとの会談
11月、独ソ両国の関係改善のためソ連外相モロトフがベルリンを訪れた。ドイツはイギリス降伏後の世界分割の話でモロトフを丸め込もうとしたが、モロトフはヒトラーをはじめとするドイツ側にヨーロッパ中部における具体的な領土問題を容赦なく突きつけた。この態度はヒトラーを怒らせた。12月18日、ヒトラーは指令21号「バルバロッサ作戦」を発令した。

ひろがる戦場  1941年1月―3月
―ヒトラーはすでにソ連侵攻を決めていたが、その前に片づけておかねばならない問題が生じていた。前年の夏に参戦した同盟国のイタリアが侵攻する先々で敗北し、イギリス軍に抵抗と反撃の機会を与え続けていたのである。ドイツはこの問題をやはり力で解決するー
<ヨーロッパ西部戦線>
●「大西洋の戦い」
ヨーロッパにおける戦いは、その舞台を海と空に移していた。イギリスの海上補給をめぐる攻防と、互いの都市に対する空爆である。両軍とも空爆では敵に実質的な打撃を与えることはできず、海の戦いが焦点となっていた。この時期の海の戦いは水中、水上、空中へと多様な展開をみせている。1941年1月、ドイツ海軍は出撃準備の整った戦闘巡洋艦と重巡を通商破壊戦に投入した。前年秋からポケット戦艦「アドミラル・シェーア」が活動中であったが、ドイツ海軍は「シェーア」に加えて強力な戦艦(戦闘巡洋艦)2隻を出撃させ、前年の成功からさらに戦果を飛躍させようとしていた。海軍兵力で絶対的に劣勢なドイツ海軍は、イギリス海軍の態勢が整う前に最大限の戦果をあげなくてはならなかった。もしそれに成功すれば、海上封鎖が達成されイギリスを早期に降伏させられる可能性もまだ残っていた。
キールを出航した戦闘巡洋艦「グナイゼナウ」「シャルンホルスト」はリュトイェンス提督の巧みな指揮と新型レーダーの働きでイギリス本国艦隊やジブラダルを基地とするH艦隊の追撃をかわし、16隻8万トン以上の戦果をあげて3月22日、ブレスト港に無事入港した。またこれら戦艦の出撃とほぼ同時にブレストの重巡「ヒッパー」も出撃し、7隻3万トン以上を撃沈した。とりわけ2月8日から12日にかけてHG53およびSLS64師団に対して行なわれた攻撃はすさまじいものとなった。潜水艦U-37と第40爆撃連隊第2大隊の「コンドル」爆撃機5機が協力し、それに「ヒッパー」が加わった。2船団の35隻中、16隻を撃沈、2隻を撃破、総計5万トン近い損害を与えたのである。しかしこのような連携作戦の成功は、イギリスにとって幸いなことに、ほとんど例外的な出来事だった。この後「ヒッパー」は機関に不調を生じ、3月中旬には本国へむけてブレストを後にした。
そのころポケット戦艦「シェーア」は南大西洋、マダガスカル近海を荒らしまわった後、イギリス巡洋艦や空母の網の目をかいくぐってキールに向かった。11万5000トンの商船をイギリスからもぎとった「シェーア」は4月1日、任務を終えて帰還に成功する。この時期はドイツ大型艦の黄金時代であった。だが、ブレストに凱旋したドイツ艦には早くも不気味な影が忍び寄っていた。3月末頃からイギリス沿岸軍団の爆撃機、雷撃機がブレスト上空にしばしば姿を見せ、爆弾や魚雷を投下してゆくようになったのである。Uボートの活躍も続いていた。大西洋に展開するUボート部隊は20隻を超え、1月から3月までえに100隻56万トン以上を撃沈した。戦術的にはまだ独航船を狙ったケースが多かったが、Uボート作戦をより効果的にするための空中偵察を行なう計画も進められた。とりあえず第40爆撃連隊のFw200「コンドル」爆撃機がごく少数ではあるが活動を開始し始めていた。3月にはより組織化した「大西洋航空指揮官」がおかれ、150機余りを擁した。しかしドイツ空軍はUボートに協力するよりも直接船舶を攻撃することを好み、88隻28万トンに達する成果を上げている。
チャーチルは危険を感じていた。Uボートと航空機による撃沈に、水上大型艦が前年の秋から一連の作戦であげた50隻26万トンという戦果や仮装巡洋艦の戦果も加えると、ドイツ軍のイギリス船舶撃沈数は120万トンを超えていた。実際に船を失う脅威もさることながら、Uボートや戦艦、巡洋艦、そして機雷から船団を守るためのさまざまな処置は、イギリスの輸送能率を大幅に下げていた。イギリスは、まだ危機的状況から脱したわけではなかったのである。この状況を打破するために、チャーチルは戦争努力の第一目標を明確化した。3月6日、「大西洋戦委員会」を発足させ、前年夏の「イギリスの戦い」に続く「大西洋の戦い」を内外に宣言したのである。この決意に応えるかのように、3月中に3名のドイツのUボート・エースが艦とともに失われている。これは2月から着手されていた商船隊の組織化と護衛艦隊の強化の成果であった。レーダーの試用も始まっており、対Uボート作戦は着実に強化され始めていた。

●アメリカの去就
ヨーロッパにおけるドイツの圧倒的優位が確立され、イギリスが孤軍奮闘しているこの時期、アメリカの去就に世界が注目していた。1月6日、ルーズヴェルト大統領は年頭教書において言論と信仰の自由、恐怖と欠乏からの自由に言及し、アメリカを「民主主義の兵器庫」であると語った。4日後、「武器貸与法」が議会に提出された。2月8日、「武器貸与法」は下院を通過。続いて3月8日に上院を通過し、3月11日成立した。ルーズヴェルトは、対ドイツ連合国に「勝利の日まで」支援を与えると約束した。このアメリカの措置なくしてイギリスに未来はなかったが、同時にこれはイギリス経済に相当の制約を課することにもなった。アメリカのイギリス支援の姿勢は武器援助だけではなかった。2月1日、アメリカは海軍を再編成した。大西洋艦隊、太平洋艦隊、アジア艦隊の3つに編成され、そしてキング提督が率いる大西洋の戦力がとりわけ強化された。
*レンドリース法(レンドリースほう、英語: Lend-Lease Acts)、または武器貸与法(ぶきたいよほう)は、アメリカ合衆国が1941年から1945年にかけて、イギリス、ソビエト連邦(ソ連)、中華民国、フランスやその他の連合国に対して、イギリスの場合はニューファンドランド、バミューダ諸島、イギリス領西インド諸島の基地を提供することと引き換えに、膨大な量の軍需物資を供給するプログラムのことである。Esperantoエスペラント語→Lend-Lease (prunti-lui) estas ekonomi-, milithelpa sistemo dum la Dua mondmilito, per kiu Usono povis apogi aliancanojn per municio, tankoj, ŝarĝaŭtoj, aviadiloj, nutraĵoj kaj aliaj krudmaterialoj.

●被占領諸国での出来事
ノルウェー北部沿岸のロフォーテンで3月4日、イギリス・コマンド部隊による襲撃作戦が行なわれた。しかしドイツ軍の住民に対する報復が激しかったため、ノルウェーのレジスタンスはこれを支持しなかった。オランダではドイツがオランダ労働者をドイツで働かせようとしていることに対してストライキが起きた。
●イギリスの航空攻撃とドイツの報復
イギリス空軍の空襲はデュッセルドルフ、ケルン、ベルリンへと続けられていた。これに対してドイツ空軍は、Ju88夜間戦闘機の長い航続距離を利用して、空襲を終えて帰投するイギリス爆撃機を英国本土の基地までえ追尾し、着陸したところを爆撃するという方法で戦果をあげていた。この戦術は効果的だったが、それに投入できるJu88の機数は限られていた。攻撃を旨とするドイツ空軍では、防衛のための戦闘機はあまり重視されなかったからである。イギリス空軍はこの他、自ら「ルバーブ」(Rhubarb)と呼ぶ戦術をとった。これは昼間、戦闘機部隊でフランス北部とベルギー西部を哨戒してドイツ戦闘機を挑発する戦術であった。ドイツ空軍の「ブリッツ」はブリストル、ロンドン、ポーツマス、リヴァプール、クライドサイド、プリマスなどに対して、対ソ戦秘匿の意味もかねて継続的に行なわれた。イギリス空軍はイタリアをも爆撃し、ピサ、レグホーン(リヴォルノ)、ジェノヴァなどが目標となった。

<地中海・アフリカ戦線>
●ドイツ軍、地中海に現われる
敗走を続ける同盟国イタリアを助けるためにドイツはまず空軍を投入した。ノルウェーで対艦戦闘に実績のあった第10航空軍団の約360機が地中海に送られたのである。同航空軍団はシシリー島に展開し、年明け早々作戦を開始した。最初に襲われたのは、イギリスがギリシャとマルタ島を増強するためにジブラルタルから出発させた「エクセス船団」であった。ドイツ空軍はイタリア空軍との協同作戦で、1月11日、前年タラント湾を襲って名をあげたイギリス空母「イラストリアス」に大きな損害を与えた。「イラストリアス」は装甲甲板を持っていたため6発の命中弾を受けながら、かろうじて退避することに成功したが、イギリスはここに再びドイツ軍の実力をまざまざと見せつけられることになった。この一連の戦闘でイギリスは重巡と駆逐艦を各1隻失い、重巡1隻に損害を受けたが船団の輸送船は無事であった。またドイツ空軍は1月16日から船団攻撃に加えてマルタ島空襲も開始した。
しかしこの程度の圧力では、北アフリカにおけるイギリス陸軍の勢いを止めることはできなかった。すでにイギリス軍は前年のイタリア軍の侵攻開始拠点であったパルティアを占領しており、1月22日にはたった2日の攻撃でトブルクを陥としていた。2週間後の2月3日、イギリス軍はベダ・フォムでイタリア軍の退路を断ち、わずか3000名の兵力で2万名のイタリア軍を撃破する大戦果をあげた。追撃は続き、2月9日、イギリス軍はすでにエル・アゲイラにあった。こうしてイギリス軍は、大軍を打ち破り広大な地域(面積だけならフランス全土よりはるかに広かった)を瞬く間に占領する大戦果を得た。イタリア軍捕虜は20万名を数え、イギリス軍兵士1人で数千のイタリア兵を連行していく姿が報道されると、敗北と苦戦の中にあったイギリス国民は勇気を得た。ムッソリーニは開戦後わずか6ヶ月で敗退し、イタリアの士気はますます低下した。イギリス軍はリビアの首都トリポリに迫っていた。
ここでチャーチルは、北アフリカの戦いは一段落し、ドイツ軍の準備が整う5月までは小康状態になるだろうと判断した。そして、より危険な状況にあると思われるギリシャに兵力を移動しようと考えた。3月に入ると「ラスター作戦」(Operation Lustre)とよばれるギリシャへ向けた大がかりな輸送が行なわれた。ギリシャはドイツ軍の攻撃に対する抑止力として9個師団以上が必要であると要求を出していた。イギリス軍のオコナー将軍はギリシャ支援とトリポリ攻略の同時遂行は不可能であると主張したが入れられなかった。この間、ドイツから支援のtめ部隊がトリポリに到着しつつあった。到着したのは第5軽師団1個で、派遣予定の2個師団がそろうのは5月と見込まれた。しかしこのドイツ・アフリカ軍団の指揮官はロンメル将軍であった。大胆なロンメルはイギリス軍を奇襲する計画を持っていた。2月の20日~24日頃にドイツ軍とイギリス軍の最初の接触があり、ドイツ軍はイギリス軍の配置状況を探り始めていた。そして3月24日、ドイツ軍は早くもエル・アゲイラを奪回していた。

*トブルク包囲戦(トブルクほういせん、英: Siege of Tobruk)は、ゾネンブルーメ作戦に基づき、1941年4月10日から11月27日まで行われたドイツアフリカ軍団によるトブルクの包囲。Italianoイタリア語→L'assedio di Tobruch[2][3][4][5][6] si ebbe durante la campagna del Nordafrica della seconda guerra mondiale, quando le forze dell'Asse circondarono quelle alleate, in particolar modo australiane, poste a difesa della cittadina libica di Tobruch. La fortificazione fu occupata dagli Alleati il 21 gennaio 1941 cui seguirono nei mesi successivi una serie di offensive e controffensive da ambo le parti.[7]
*ラスター作戦[1](ラスターさくせん、英語: Operation Lustre)は第二次世界大戦中の1941年3月から4月にかけて、イギリス軍と連合国軍(オーストラリア軍、ニュージーランド軍、ポーランド軍)をエジプトからギリシャへ輸送する作戦。ギリシャの戦いにおいてイタリアの侵攻が失敗したこととナチス・ドイツの介入を見越しての作戦であった。Operation Lustre was an action during the Second World War: the movement of British and other Allied troops (Australian, New Zealand and Polish) from Egypt to Greece in March and April 1941, in response to the failed Italian invasion and the looming threat of German intervention.
*ガザラの戦い(ガザラのたたかい,英: Battle of Gazala)は、 第二次世界大戦中の北アフリカ戦線におけるリビアのトブルクをめぐり1942年5月26日から6月21日にかけて枢軸国軍と連合国軍との間で行われた戦闘である。Deutschドイツ語→Unternehmen Theseus (oft auch als Schlacht von Gazala bezeichnet) war die Tarnbezeichnung einer Offensive der Achsenmächte während des Afrikafeldzugs im Zweiten Weltkrieg.

●マタバン岬沖海戦
イギリスの輸送作戦にあわせて、東地中海ではイギリス海軍H部隊とイタリア艦隊が互いに敵を求めていた。3月28日、両軍はマタパン岬沖で衝突した。イタリア艦隊は新鋭高速戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト」を中心として重巡3隻、駆逐艦6隻、軽巡2隻、駆逐艦7隻の偵察艦隊の2グループからなっていた。イギリス艦隊は旧式ながら戦艦3隻、空母1隻、駆逐艦9隻の主力部隊と軽巡4隻、駆逐艦4隻の偵察部隊から成っていた。イギリス艦隊は戦略的には船団の護衛という防御的な役割を与えられていたわけだが、戦術的には積極的にイタリア艦隊を捕捉撃滅しようとしていた。
マタパン岬の海戦は偵察艦隊同士の接触にはじまり、イギリス艦載機による空襲、そして夜間戦闘で勝敗が決した。結果はイタリアが重巡3隻、駆逐艦2隻を失い戦艦が被雷したのに対し、イギリス軍の損害は攻撃機2機だけであった。レーダーと空母を持ち、イタリア軍の暗号を解読していたイギリス海軍の圧勝であった。この海戦以後、イタリア海軍はますます消極的になり、他方、事実上制海権を握ったイギリス海軍はいっそう大胆に活動するようになる。

*マタパン岬沖海戦[1][2](マタパンみさきおきかいせん、英: Battle of Cape Matapan, 伊: Battaglia di Capo Matapan)は、第二次世界大戦中の1941年3月に、地中海でイギリス海軍及びオーストラリア海軍とイタリア海軍の間で行われた海戦。Esperantoエスペラント語→La Batalo de Kabo Tenaro (en greka: Ναυμαχία του Ταίναρου, Naŭmaĥia tu Tenaru) estis marbatalo dum la Dua Mondmilito okazinta el la 27a al la 29a de marto 1941 ĉe la kabo samnoma.[1] La Kabo Tenaro troviĝas ĉe la sud-okcidenta marbordo de la duoninsulo Peloponezo, en Grekio, kaj la batalo okazis el tie ĝis la sudo de la insulo Kreto.

●バルカン半島に戦火
ギリシャに侵攻したイタリア軍も、北ギリシャと同様、苦戦していた。しかしギリシャは、このまま対イタリア戦で優勢が続いても、いずれドイツ軍の侵入を招くだけであることを悟り、2月、イギリスに介入を求めた。イギリスがこれに応じて部隊を移動し「ラスター作戦」を発動したことは前節で述べたが、3月末までにイギリス軍3個師団がギリシャに上陸した。ドイツは前年の秋からソ連侵攻の準備を進めており、実際その側面およびルーマニア油田の安全を確保するためにギリシャを占領する「マリタ作戦」(Operation Marita)を計画していた。その他のバルカン半島諸国はドイツと同盟関係を結ぶはずであった。ギリシャ侵攻は4月上旬に予定された。
しかし、ここでドイツにとって番狂わせの事態が発生した。3月27日、ユーゴスラヴィアでクーデターが発生し親独派が追われてしまったのである。このためドイツ軍はギリシャ侵攻に加え、急遽ユーゴスラヴィア侵攻をも行なう必要に迫られた。ユーゴスラヴィアは鉱物資源が多く、ドイツはクロム、ボーキサイト、銅、アンチモンなどの供給を受けていた。またルーマニアからの石油輸送ルートにもあたっていた。事態の急変にあたってドイツ軍、とりわけドイツ空軍の緊急展開ぶりは際立っていた。西ヨーロッパや地中海の各地から小部隊単位で600機をかき集め、うち半数を移動させ、わずか10日後のユーゴ侵攻を支援したのである。
*第二次世界大戦におけるバルカン戦線(英語: Balkans Campaign (World War II)、1940年10月28日 -1941年5月29日)は、中にバルカン半島の制圧を巡って戦われた、枢軸軍と連合軍の戦い。Françaisフランス語→La campagne des Balkans est une série d'opérations militaires entreprises par les forces du Royaume d'Italie et du Troisième Reich allemand contre l'ensemble des pays de la péninsule des Balkans, à savoir l'Albanie, la Yougoslavie et la Grèce, du 26 avril 1939 au 1er juin 1941.

*ユーゴスラビア侵攻(ユーゴスラビアしんこう)は、第二次世界大戦中の1941年4月6日から同年4月17日にかけて、ドイツやイタリアを中心とする枢軸国軍とユーゴスラビアとの間で行われた戦い。ドイツ軍はフランス侵攻に次いで電撃戦を成功させ、わずか10日あまりでユーゴスラビア全土を制圧した。欧米では4月戦争とも称される。
Esperantoエスペラント語→La invado de Jugoslavio, konata ankaŭ kiel Aprila Milito[1] aŭ Operaco 25,[2] estis german-estrita atako al la Regno Jugoslavio fare de la potencoj de la Akso kiu startis la 6an de aprilo 1941 dum la Dua Mondmilito. La ordono por la invado baziĝis sur la "Führer Directive No. 25", kiun Adolf Hitler publikigis la 27an de marto 1941, post la Jugoslava puĉo.[3]

●イギリス軍のエチオピア奪回
エジプトの南、エチオピア方面でも再び戦闘が始まった。前年の12月初旬からエチオピアをイタリア軍から奪回する作戦がイギリス軍のウェーヴェル将軍により進められていた。北のスーダンと南のケニアからの挟撃作戦である。1月19日、スーダンからエリトリアに向けて2個師団強による攻撃が開始された。エリトリアの「ケレン要塞」における戦闘ではイタリア軍守備隊は善戦したが、3月27日に陥落した。損害はイタリア軍3000名、イギリス軍4000名であった。この戦闘でエリトリアのイタリア軍は降伏した。イギリス軍はその間エチオピアに侵入し、3月16日までにアンバ・アラギ山まで進出した。
南のケニアからの侵攻は2月10日からイタリア領ソマリランドに向けて開始された。指揮官はカニンガム将軍である。現地部隊は進撃の困難を予想していたが、ひとたび攻撃を開始すると展開は予想を上回り、数日でソマリランドを席巻してしまった。そこでイギリス軍は一気に北上してエチオピアのジジガまで1000Kmを突進した。ジジガには3月17日に到達した。そこでアデン湾を渡ってイギリス領ソマリランドに上陸した部隊と合流し、首都アジス・アベバへ進撃を続けた。ここでもイタリア軍の脆さは攻撃したイギリス軍も驚くほどであった。
ソマリランドはイギリス空母「フォーミダブル」の艦載機による空襲を受けた。ドイツ空軍はイギリス艦のスエズ運河通過を妨害するため、爆撃機を飛ばして空襲や機雷の投下を行なっており、「フォーミダブル」は掃海を待って紅海に足止めされていたのである。
●中部アフリカの戦い
ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍によって1月から続けられていたフェザン作戦が3月1日、クフラの占領で一応完了した。この作戦はリビアの南東にあたるチャドから開始された。ここで選ばれたのは、自由フランス領で唯一そこが枢軸側と隣接していたからである。この作戦の成功は連合軍のアフリカ横断空路の確保に役立った。すなわち、黄金海岸のタコラディからナイジェリア、赤道アフリカ、スーダンを経てエジプトへ至る。いわゆるタコラディ空路の防衛である。


<ヨーロッパ西部戦線>
●大西洋の戦い
3月に創設されたドイツ空軍「大西洋航空指揮官」は150機余りを擁し、海上での活動を開始した。しかしドイツ海軍にとって残念なことに、最終的には大きな効果を上げるには至らなかった。その理由は第一に海上偵察に出撃しても、航空機と艦艇は互いに連携作戦の方法を知らなかったことがあげられる。第二は連合軍の船団護衛が強化されてUボートの活動域がヨーロッパ沿岸から遠ざかり、航空機の航続距離が充分でなくなったこと。そして、そもそも偵察機の絶対数が足りなかったことが三番目の原因であった。
アメリカはますますヨーロッパの戦争に接近してきていた。4月12日、アメリカはグリーンランドを占領し、21日、西経26度以西でドイツの艦艇を発見した場合、イギリスに通報することを決め、5月には50隻の旧式駆逐艦をイギリスに送ることを決めた。
5月10日、ドイツのエニグマ暗号通信にとって重大な事件が発生した。U-110がイギリス海軍によって捕獲されたのである。イギリスはドイツ側が機密漏洩対策を講ずることがないように、この捕獲を極秘扱いとした。そして新たに得た情報でエニグマ暗号解読技術をさらに大幅に進歩させ、6月にはその最初の成果をあげることができた。ドイツ海上補給艦に対する攻撃の成功である。ドイツは長時間海上で活動を続けるUボートや通商破壊艦のために、偽装した補給艦を配置していた。イギリスはその位置をドイツのエニグマ暗号の解読によって割り出し、1ヶ月の間に実に10隻を撃沈あるいは捕獲したのであった。これはドイツ海軍にとって大打撃であった。
6月22日のドイツの対ソ戦開始は大西洋の戦いにも影響した。大西洋のドイツ機も東部戦線に引き抜かれ、イギリスにはドイツが上陸してくることに対する警戒を緩め、本国にとどめておいた艦艇を船団護衛にまわすことができるようになった。それら艦艇は数隻でチームを構成し、協同でUボートを狩る戦術を磨いていく。後に航空偵察と連携できるとき、連合軍の対Uボート作戦は完成することになる。5月10日、ドイツ空軍を騒然とさせる事件が発生した。副総統ルドルフ・ヘスがMe110駆逐機を単身操縦してイギリスへ向かったのである。イギリスとの和平交渉に向かったと思われるが、両国ともこれをまともに扱わなかった。
*ルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘス[# 1](Rudolf Walter Richard Heß, 1894年4月26日 - 1987年8月17日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党副総統(総統代理、指導者代理とも訳される)、ヒトラー内閣無任所大臣。党内初の親衛隊名誉指導者であり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将。現在ではネオナチの信奉対象ともなっている。루돌프 발터 리하르트 헤스(독일어: Rudolf Walter Richard Heß, 문화어: 루돌프 헤쓰, 1894년 4월 26일 ~ 1987년 8월 17일)는 나치 독일의 지도자대리(일명 부총통)을 역임했던 인물로 나치당의 주요 인물이자 아돌프 히틀러의 부관이었다.

●戦艦「ビスマルク」
ドイツはついに新戦艦「ビスマルク」を完成させた。前年の秋からこの年の3月までのドイツ大型水上艦の実績から考えて、ドイツ海軍の水上艦支持者がこの新戦艦に寄せる期待は非常に大きなものがあった。しかし同時に、イギリスが刻々と船団護衛策を講じつつあることもわかっていた。できるだけ戦力を集中させていたドイツ海軍ではあったが、ブレストの「シャルンホルスト」は機関の修理中、「グナイゼナウ」は4月11日に空襲で損傷していたという事情から、5月に「ビスマルク」とともに出撃可能な戦艦はなかった。強力な部隊の集結を待つが、手強い対抗措置が講じられる前に素早い成果を求めるか、意見の分かれるところであった。新戦艦の艦長となるリュトイェンスは前者を希望し、海軍総司令官のレーダーは後者を要求した。
結局、5月18日、「ビスマルク」は重巡「プリンツ・オイゲン」だけを伴ってグディニア港を出航した。この出撃は「ライン演習作戦」(Unternehmen Rheinübung)と呼ばれた。
イギリス海軍は「ビスマルク」出撃の報を受けると2隻の重巡「ノーフォーク」「サフォーク」をアイスランドとグリーンランドの間のデンマーク海峡に派遣し、戦闘巡洋艦「フッド」と戦艦「プリンス・オヴ・ウェールズ」から成る艦隊をアイスランド南方に派遣した。また戦艦「キング・ジョージV」などを主力とする本国艦隊はスカパフローに待機した。
22日、両艦が新型レーダーでドイツ部隊を捕捉すると「フッド」の艦隊が迎撃に向かい24日に「ビスマルク」艦隊と接触した。しかし「ビスマルク」と「プリンツ・オイゲン」はたちまち「フッド」を撃沈し「プリンス・オヴ・ウェールズ」に大損害を与えた。「プリンス・オヴ・ウェールズ」は沈没寸前であったが、リュトイェンス提督はこれまでのセオリーどおりこれを追撃しなかった。「ビスマルク」にも数発の命中弾があり、重油が流出していたこともその一因と言われている。イギリス海軍の最初の攻撃は撃退されてしまったが、2隻の重巡は接触を続けた。しかしリュトイェンス提督はこの2隻の目を盗んで「プリンス・オイゲン」を離脱させることに成功する。
「フッド」を沈められたイギリス海軍は戦艦や空母を次々に投入し、ジブラルタルのH艦隊も大西洋に出撃した。イギリス海軍はこれで戦艦8隻、空母2隻、巡洋艦7隻その他を投入したことになった。ところが2隻の重巡「ノーフォーク」「サフォーク」は5月25日から「ビスマルク」を見失ってしまい、集結した大艦隊は「ビスマルク」が通ると思われるブレスト方面をあてもなく捜索せざるを得なかった。大量の重油を失った「ビスマルク」はイギリスの予想通りブレストへ向かっていた。「ビスマルク」はしかし、イギリス海軍の追尾を振り切ったことを知らなかった。「ビスマルク」はイギリス重巡のレーダー波を受け続けており、敵重巡との距離が開いて反射した電波が敵のレーダーまで戻っていないことがわからなかったからである。そのため身を隠すことを考えず、司令部に無線連絡をとってしまい、これによってイギリス海軍に所在を知られてしまった。
「ビスマルク」の所在を突き止めたイギリス艦隊は全速力でこれを追った。しかし方位を誤るなどのミスもあり、かろうじて「ビスマルク」を捕捉したのはH部隊の空母「アークロイヤル」だけであった。しかしこの「アークロイヤル」から発進したソードフィッシュ雷撃機は2回の攻撃の後、ついに「ビスマルク」の舵に魚雷を命中させ、その足止めに成功した。
やがて「ビスマルク」を包囲したイギリス艦隊は集中砲火を浴びせ、5月27日、巡洋艦の魚雷にとどめを刺されて「ビスマルク」は沈没した。ブレストまで余すところ800km、ドイツ空軍の傘にあと一歩の場所であった。ドイツ軍はもはや大型水上艦による通商破壊作戦は難しいことを認識しなくてはならなかった。なお「ビスマルク」から離れた「プリンツ・オイゲン」は6月1日、ブレストに入港した。

*ライン演習作戦(独:Unternehmen Rheinübung)とは第二次世界大戦中のドイツ海軍の作戦名の一つを指す。ドイツの大河であるライン川に由来する。Deutschドイツ語→Das Unternehmen Rheinübung war eine Operation der deutschen Kriegsmarine im Seekrieg des Zweiten Weltkriegs. Die Operation sollte den Druck auf die Nachschubtransporte zu den britischen Inseln erhöhen und den U-Boot-Krieg unterstützen. Im Verlauf des Unternehmens wurden bei zwei Seegefechten der britische Schlachtkreuzer HMS Hood und das deutsche Schlachtschiff Bismarck versenkt.

●イギリス対ドイツの爆撃の応酬
ドイツとイギリスは互いの都市を空襲しあっていた。いずれも夜間空襲が中心であった。ドイツ空軍のイギリスに対する空襲(ブリッツ)の目標は4月にはポーツマス、ブリストル、コヴェントリー、バーミンガム、プリマス、ロンドンなどであり、5月にはリヴァプール、ベルファースト、クライドサイド、ハル、ロンドンなどであった。ドイツ夜戦部隊は長距離夜戦で基地の爆撃機を襲っていたが、この任務に適するJu88Cはわずか10~20機しかなかった。
4月16日~20日、5月10日~11日のロンドン空襲は特に激しく、700機以上が来襲し、国会議事堂も破壊された。、リヴァプールなど港湾の損害も大きかったが、これもイギリス封鎖作戦とは関係がなかった。イギリス夜間戦闘機が質・量ともに充実し始めたこともあって、ドイツのイギリスに対する組織的な夜間空襲は5月でいったん中止された。そしてドイツ空軍機は爆撃機100機、戦闘機2個連隊200機を除いて、他の戦線に移動していった。
イギリス空軍の爆撃目標は、4月には、ブレスト、ソフィア、キール、ベルリン、ブレーメンなどであり、5月にはキール、ハノーヴァー、ハンブルグ、ケルン、ブレーメン、マンハイム、ブレストなどであった。6月にはイギリス空軍はルール、ラインラント、ドイツ北部の諸港を爆撃した。
海峡と北フランスに対してそれまで行なわれていた昼間攻撃「ルバーブ」飛行が継続され、戦闘機や戦闘爆撃機による昼間「スウィープ」(Sweep=機銃掃射)が行なわれるようになった。戦闘機の侵入は数機の場合もあれば、500機にも及ぶことがあった。また北アフリカではベンガル、デルナ、シラクサが目標となっている。6月に入ると、前述のようにドイツ軍は航空機をバルカン方面や対ソ戦に回したので、イギリス本土はマンチェスターが爆撃されたに過ぎなかった。その他の戦域の爆撃作戦は、まずアフリカでは攻防の続くトブルクや、アレクサンドリアにドイツ空軍の空襲があり、また6月22日に独ソ戦が始まると、苦戦しつつもソ連空軍がヘルシンキ、ブカレスト、ブロエシチ、コンスタンツァなどを爆撃した。

<地中海・アフリカ戦線>
●ロンメルの登場
ロンメル指揮下のドイツ軍は約200機の航空機に支援されつつ3月31日に攻勢を開始していた。イギリス軍はギリシャに兵力を割かれて今や弱体化しており、直ちに後退を開始した。トブルクは持ちこたえたが、唯一の機甲師団司令部は包囲されてしまった。地中海はアフリカとギリシャをめぐる戦いの焦点だった。アフリカの戦いに必要な補給と増援は両軍とも地中海の海上輸送によるところが大きかったからである。ことに枢軸側はほぼ全面的に依存していた。ドイツ軍がギリシャでの戦闘にけりをつけクレタ島攻撃を準備している4月下旬、イギリス軍は北アフリカのロンメル将軍の攻勢を食い止めるべく、高速輸送船5隻で戦車を中心とする軍需物資をアレクサンドリアに送り込む「タイガー作戦」(Operation Tiger)を敢行した。この船団は、もともと安全を期して喜希峰回りで輸送される予定であったが、約40日間を節約するために地中海を横断することが決定されたのである。空母「アークロイヤル」、戦闘巡洋艦「レナウン」などH部隊と、地中海艦隊に増派される戦艦「クイーンエリザベス」、巡洋艦2隻他に護衛されたこの船団は、5月5日に出航した。船団は5月12日、1隻を機雷で失っただけで任務を完了する。護衛についていたイギリス地中海艦隊とH部隊の艦艇は、その他の小船団の護衛やマルタ島へのハリケーン戦闘機の輸送、ベンガジに対する艦砲射撃など多様な任務をこなした。一方、5月にはドイツ第10航空軍団の一部が対ソ戦のために転出し、マルタ島に対する圧力は減っていた。
北アフリカでは、「タイガー作戦」で運ばれたマチルダ戦車240輌の出撃準備を待たずに、5月15日、イギリス軍は「ブレヴィティ作戦」(Operation Brevity)で反撃を開始していた。イギリスはこの反撃で一時エジプトーリビア国境に近い要衝、ハルファヤ峠を奪取したが、ドイツ軍も新着の第15機甲師団で反撃し、10日ほどでその再奪回に成功している。新着の戦車の準備が整って開始されたイギリスの「バトルアクス作戦」(Operation Battleaxe)は、6月15日から大々的に開始された。ところがロンメルの巧みな指揮とドイツ軍の強力な88mm砲の威力の前に、この攻撃はわずか3日で挫折した。


*バトルアクス作戦(バトルアクスさくせん、英: Operation Battleaxe)は、第二次世界大戦中の1941年6月15日から17日にかけて行われた、イギリス軍の作戦。北アフリカ戦線において、枢軸国軍に包囲されたトブルクを解囲するために行われた攻勢。ドイツ軍の反撃により、作戦は失敗した。Operation Battleaxe (15–17 June 1941) was a British Army offensive during the Second World War to raise the Siege of Tobruk and re-capture eastern Cyrenaica from German and Italian forces.[h] It was the first time during the war that a significant German force fought on the defensive. The British lost over half of their tanks on the first day and only one of three attacks succeeded.

●ドイツ軍バルカン半島席捲
ドイツ軍のギリシャ侵攻「マリタ作戦」(Unternehmen Marita)は4月6日に開始され、ユーゴに対する攻撃は同日のベオグラード空襲と2日後の地上軍の進撃で始まった。地上部隊は北から第2軍が、南のブルガリアから第1機甲軍団がベオグラード目差して進撃した。ドイツは民族間の対立も利用しながらたちまちユーゴを制圧。4月17日には停戦協定が結ばれた。見事な電撃戦ではあったが、ユーゴ軍は組織としては崩壊しても実質的な兵員が多数残ることになり、後はパルチザン活動の温床となって枢軸軍を苦しめることになる。事実、6月下旬にドイツがソ連に攻め込むとすぐにパルチザン司令部が設置され、チトー将軍のもとで7月早々活動を開始する。
ドイツのギリシャに対する攻撃は機甲2個師団を擁する第12軍が担当した。またユーゴに侵攻した第40機甲軍団も南へ転進してギリシャ侵攻に加わった。進撃するドイツ軍に背後を脅かされたアルバニアのギリシャ軍は13日から撤退を開始したもののすでに時遅く、16日にはピンダス山地に到達したドイツ軍に包囲されてしまった。ギリシャのイギリス軍は当初オリンポス山に防衛線を築こうとしていたが、ドイツ軍の急進撃のため、より南のテルモピュライまで後退を余儀なくされた。ところが4月23日、ギリシャは降伏してしまい、イギリス軍の戦いはそのまま撤退作戦となっていった。ドイツ軍は空挺部隊でコリント地峡の封鎖をするなど急迫したが、イギリス軍は4月24日から5日間にわたる「デーモン作戦」(Operation Demon)で主力4万名以上をギリシャ本土とペロポネソス半島からクレタ島とエジプトに脱出させることに成功した。海上を制するイギリス軍は軽巡6隻、駆逐艦20隻その他を投入してドイツ空軍とイタリア潜水艦による妨害と戦った。捕虜となったイギリス兵は1万名強であった。

●クレタ島降下作戦
イギリス軍がギリシャから撤退中の4月25日、ドイツ軍は空挺攻撃によるクレタ島の攻略を決定した。作戦を提案したのは他ならない空挺部隊の生みの親、シュトゥデント将軍であった。作戦はイギリス軍に立ち直る隙を与えず、5月中旬に実施される。作戦名は「メルクール作戦」(Unternehmen Merkur)とされた。攻撃兵力は第7空挺師団を中心とするシュトゥデント将軍の第11航空軍団の約2万名、600機の輸送機とグライダーで侵攻することになっていた。支援するのは地上攻撃を専門とする第8航空軍団の600機である。
これを迎え撃つクレタ島のイギリス軍は4万名を超えたが、ギリシャから撤退してきた士気の落ちた部隊が相当数を占めていた。戦車などの装備は貧弱で、航空機は5月に入ってドイツ空軍の空襲が始まると早々に撤退してしまった。しかしドイツ軍の侵攻作戦に関する情報だけはつかんでおり、これが奇襲的要素が重要な空挺作戦に対して大きな威力を発揮する。部隊および物資、燃料の集結をなんとか期日までに完了し、ドイツ空挺部隊の攻撃は5月20日から始まった。ドイツ軍は最初の目標をクレタ島の3ヶ所の飛行場に定めた。グライダー部隊とパラシュート部隊で飛行場を確保し、後続の部隊を輸送機で運ぶという作戦である。
ドイツ空挺部隊の攻撃は苦戦で始まった。待ち受けるイギリス軍の抵抗にあい、マレメ飛行場の奇襲的な制圧に失敗してしまったのである。そこでグライダー部隊の降下は成功したものの、パラシュート部隊はイギリス軍の直上に降下してしまい、7割という大損害を出していた。マレメ飛行場制圧の鍵は、飛行場を見おろす107高地である。ドイツ空挺部隊の精鋭は不利な状況にもかかわらず、ここに対して決然と攻撃を継続し、兵力が多く形勢も有利だったイギリス軍を動揺させて不完全ながら飛行場の確保に成功した。シュトゥデント将軍はそこへ損害を顧みず輸送機を強行着陸させた。
ドイツ軍の第2波は残る2つの飛行場、レティムノンとイラクリオンへ降下した。しかしここでも制圧に失敗し、ドイツ軍は危険な状態におかれた。しかしイギリス軍も混乱しておりこのチャンスを生かせず、時間がたつにつれてマレメ飛行場のドイツ軍は強化されていった。イギリス軍のマレメ飛行場奪回の試みが挫折すると、ドイツ軍は逆襲に転じて東へ進んで他の2つの飛行場付近で孤立していた部隊と連絡した。そのころ、海上ではイギリス海軍とドイツ空軍の戦闘が行なわれていた。ドイツ軍の海上輸送はイギリス海軍に阻止されてしまったが、ドイツ空軍はイギリス海軍に戦艦2隻を含む大きな損害を与えた。イギリス海軍が損害を出しながらも退却しなかったことは、ドイツ空挺部隊の損害を大きくした。
イギリス軍は5月26日、島の南側への退却を決定した。イギリス海軍はドイツ空軍の激しい攻撃の中、伝統に恥じない決死の救助活動を6月1日まで続け、およそ1万7000名のイギリス兵がエジプトに退却することができた。クレタ島の戦いにおけるイギリス艦艇の損害は沈没したもの巡洋艦3隻、駆逐艦6隻、損傷したもの戦艦3隻、空母1隻、巡洋艦6隻、駆逐艦4隻であった。ドイツ軍はクレタ島を占領した。これによってイギリスは東地中海の制海権を脅かされ、残るマルタ島にも危険が迫っているように見えた。しかしドイツ軍の損害も2万名を超え、それはイギリス側の1万5000名を上回っており、その後の大規模空挺作戦には慎重にならざるを得なくなった。

*クレタ島の戦い(クレタとうのたたかい、Battle of Crete)は、第二次世界大戦中の1941年5月20日-6月1日にかけてドイツ国防軍の空挺部隊(降下猟兵)と、ギリシャ領クレタ島を防衛するイギリス軍とイギリス連邦のオーストラリア軍、ニュージーランド軍およびギリシャ軍からなる連合国軍の間で戦われた戦闘を指す。ドイツ軍はメルクール作戦(独:Unternehmen Merkur,ギリシャ神話の商業・盗賊の神メルクリウスに由来)と呼んだ。両軍とも作戦立案や戦闘の過程で重大な誤りを犯したが、クレタ防衛軍の犯した失策により、マレメ飛行場はドイツ軍に奪取され、それが島全体の失陥につながった。ギリシャの戦い、地中海の戦いの一部をなしている。The Battle of Crete (German: Luftlandeschlacht um Kreta, also Unternehmen Merkur, "Operation Mercury", Greek: Μάχη της Κρήτης) was fought during the Second World War on the Greek island of Crete.
*クルト・アルトゥール・ベンノ・シュトゥデント(Kurt Arthur Benno Student、1890年5月12日 - 1978年7月1日)は、ドイツの軍人。最終階級は空軍上級大将。第二次世界大戦で軍司令官を務めたほか、降下猟兵の育成に貢献した。Deutschドイツ語→Kurt Arthur Benno Student (* 12. Mai 1890 in Birkholz, Neumark[1], Provinz Brandenburg; † 1. Juli 1978 in Lemgo) war ein deutscher Generaloberst der Luftwaffe im Zweiten Weltkrieg und ranghöchster Offizier der Fallschirmtruppe der Wehrmacht.

●中東の情勢
この時期、イギリスは東地中海で勢力を分散させ過ぎており、ウェーヴェル将軍はイラクとシリア、レバノンでやっかいな問題に直面することになった。イラクは開戦時からイギリスの影響下にある名目上の独立国にすぎず、ドイツとの外交関係を絶っていた。バスラ近郊とバクダッドの西80kmのハッバニアにはイギリスの空軍基地があった。ところが1941年の4月1日、イラクで親ドイツ派がクーデターを起こしてラシッド・アリが首相となり、親イギリスは国外へ逃亡してしまった。これが直ちにイギリスの権益を侵すものではなかったが、バスラ付近の油田の安全を考えるとイギリスはこれを放置できなかった。そこでまずインドのオーキンレック将軍が1個旅団をバスラに上陸させた。このイギリス軍の増強を容認できなかったラシッド・アリは、5月2日、約1万名の兵力でハッバニアの空軍基地を攻撃した。
同時にヴィシー・フランス領であったシリアの情勢もドイツ側に傾いた。シリアの物資がイラクに送られ、ドイツ空軍機約100機と、イタリア空軍約20機がシリアに送られたのである。ハッバニアのイギリス軍は地上では劣勢だったが、ウェリントン爆撃機で空からイラク軍を攻撃することができた。イラク軍は砲撃でこれに応えたが、5月7日には耐えきれず後退した。13日にはドイツ空軍がモスルに基地を設けたが、イギリス空軍はこれを制圧することにも成功した。5月13日にイギリスの増援部隊「ハブ・フォース」(Hub force)がパレスチナから救援に向かった。しかし5月18日、炎天下の不毛の大地を踏破してようやくハッバニアに到着したときはすでに戦闘は終っており、イラク軍は後退した後だった。そこで同部隊はバクダッドへ進撃し、5月末、ラシッド・アリはイランへ逃れた。同じ頃、バスラ周辺は上陸したインド師団に制圧され、イラクは休戦した。
一方シリアでは、ウェーヴェル将軍がチャーチルの攻撃要請に対して戦線が広がりすぎることを理由に抵抗していたがついに折れ、6月8日、自由フランス軍とイギリス軍3万4000名はダマスカスへ向けて出発した。ヴィシー・フランス軍のダン将軍は激しく抵抗したが、連合軍の力がやや上回っていた。そして、ベイルートが激しい空襲にさらされれると、ヴィシー・フランス軍の主導権は失われた。イラクでの戦闘を終えたイギリス軍「ハブ・フォース」とインド師団がシリアに向かい、同時にパレスチナから2個旅団が進撃して6月21日にダマスカスが陥落すると、首都ベイルートは裸同然であった。その後も戦闘は継続し、ダン将軍が休戦するのは翌月の12日である。これでイギリスはエジプトの背後を確保した。
その頃、遥か南西のエチオピアでは4月6日にイタリア軍が首都アジスアベバを放棄していた。イタリア軍は北部へ逃れて抵抗したが、5月16日に降伏した。残る部隊も7月に入って降伏する。
*Esperanto語→Rashid Ali al-Kaylani (arabe رشيد عالي الكيلاني, prononcita Saajjad Raŝid Ali al-Gajlani) estis filo de Sayyad Abdul Wahhab al-Gillani (n. 1892 m. 1965) kaj ĉefministro de Irako en tri

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