日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

옥중 19 년 - 한국 정치범의 싸움/獄中19年―韓国政治犯のたたかい/19 ans de prison - Combattre des criminels politiques coréens/獄中十九年:韓國政治犯的鬥爭XIX annos in carcere-Coreanica Pugnans politica scelestos/Suh Sung (서승徐勝)①



徐勝(서승, 1945 년 4 월 3 일 -)는 재일 한국인 2 세. 원래 리츠 메이 칸 대학 특임 교수. 이전 리츠 메이 칸 대학 코리아 연구 센터 연구 고문 야스쿠니 반대 공동 행동 한국위원회 공동 대표. 전문은 비교 인권법 , 동아시아 의 법과 인권, 현대 대한민국 의 법과 정치. 북한 공작원 [1] [2] 의 혐의로 한국에서 함께 체포 된 인권 운동가徐俊植작가로 도쿄 경제 대학 교수 서경식 은 친 동생. Suh Sung (Korean: 서승; Hanja: 徐勝; born 3 April 1945) is a Korean professor, writer and former political prisoner.

獄中19年―韓国政治犯のたたかい
1971年、祖国に留学していた在日韓国人の著者は、「北のスパイ」として突然逮捕される。執拗に続けられる拷問、屈するよりは死を願い負った火傷、そして死刑判決・・・。新書「徐兄弟 獄中からの手紙」で知られる著者が、監獄という社会を克明に描きつつ、独裁政権への痛烈な批判、そして分断下にある民衆への深い愛情を文字に刻む。
はじめに
夜明けの川辺で釣糸をたれるアボジ(父)のウキはグイっと水中に引き込まれ、竿は大きくたわんだ。竿の先で大きな銀色の鮒が鱗をきらめかせ高く跳ねた。その輝きは無数のさざ波にキラキラと照り映え、まだ明けやらぬ川面は悄然と輝いた。
1945年4月3日の夜明け、まんじりともせずお産を待つうちに、ふと眠りこんだアボジは私の産声で胎夢(懐妊や出産のときに父母がみる夢)から目覚めた。生涯、魚釣が唯一の道楽だったアボジらしい夢だ。沖縄に米軍が上陸し、日本が敗戦への道を転げ落ちていたそのころ、徴用を避けて逃亡生活をしていたアボジは、次男の誕生を迎えるためにコッソリと京都の田舎のわが家に舞い戻っていた。この夢には、明日をも知れない戦争のさなかで、家族と自分の運命への息づまるような不安と緊張、暗澹とした現実のなかで先を求める切迫した思いがひそんでいるようだ。
私の生まれたその年に大日本帝国は侵略戦争に敗れ、朝鮮は長い苦渋に満ちた植民地支配から解放された。しかし、その喜びもつかの間、解放された民族としての平和と繁栄への期待は米・ソ両国による国土分断で無惨に踏みにじられ、植民地時代にもまさる苦難の分断時代が始まった。在日朝鮮人のこれまでの苦難も植民地支配と民族分断に起因している。わが民族全体がそうであったように在日朝鮮人もまた、日帝により祖国と故郷と人間の尊厳までも奪われた者たちである。皮肉なことに朝鮮の分断がつづく一方、日本は経済大国となり、在日朝鮮人の日本での定住化が進んだ。解放後、朝鮮民族が分断されずに平和と繁栄の道をあゆんでいたなら在日朝鮮人の多くは、当然、故郷に帰っていただろう。歴史的な意味では、今のなお、この問題は清算されていない。ともあれ私の少年時代は、在日朝鮮人が「奪われた者」として自らを強く意識した時代だった。
私の祖父母は1920年代に朝鮮の貧しい農村から仕事を求めて京都に移ってきた。父母は太平洋戦争を挟んだ荒々しい時代を、ただ若さと勤勉さをもとに生きぬき、5人の子を育て家庭を築いた。保育園に入るころだったろうか、私はアボジに手を引かれ、ある小学校でおこなわれた朝鮮人の集りにつれていかれた。薄暗い講堂の正面には青紅が噛みあいせめぎあう大きな「大極旗」(韓国の国旗)がかかっていた。人々はまばらにたちならび、うら寂しい「蛍の光」のメロディーにあわせて「愛国歌」をうたった。それから映画が始まった。激しく傷ついた画面には、飛行機の銃撃をあびて逃げまどう人々、炸裂する砲弾に吹き飛ぶ田畑、燃えあがる家などが現われては消えていった。朝鮮戦争のニュースフィルムだった。私が祖国というものを意識した最初の出来事だった。
幼いころから日本社会で日本人でない自分を意識させられ、朝鮮人としての私の意識は作られた。京都市で高校まで卒業し、東京で大学にかよったが、勉強よりも朝鮮人とは何かを考え、朝鮮人らしく生きることにより大きな関心があった。「奪われた者」として、自分の正体を取り戻し、自分が帰属すべき祖国と民族を取り戻したかった。そして大学を終え、引き裂かれた民族の不幸をのぞき尊厳を持つ人間として生きるために、韓国に行くことを決意した。そこで、19年間、分断の狭間に囚われ、死と生の境をさまよい、分断の歯車に押し潰される民族の恐ろしい現場を目撃した。
1990年に釈放されたが私が、この本を書くことを約束してから早くも4年の歳月が流れた。4年という時間は、獄中での19年間を反芻し評価するのに充分であったとは言えない。しかし、時間の経過とともに記憶はだんだんと薄れてゆく。それにもまして、今も監獄で苦しむ同志らの姿を思い浮かべると、これ以上の躊躇や怠慢は許されなかった。
私が語ろうとすることは、過ぎ去った日の思い出ではない。長い軍部支配が終わり、文民政府が樹立された韓国では、いまも南北朝鮮を敵対関係と規定し、人権を抑圧する国家保安法が厳存している。そして信念を放棄しないという理由で、3,40年にもおよぶ監獄生活を強いられている年老い、病み疲れた33人の非転向政治犯がいる。私が経験した非人間的な監獄の状況は現在進行中である。
私は出獄直後、「19年の獄中生活は思想転向制度とのたたかいだった」と言った。暴力と迫害、脅迫と欺瞞、人間心理の弱点をつく卑劣な術策に抗して韓国の非転向囚らは半世紀間たたかいつづけてきた。いかなる理由があるにせよ、暴力による思想転向の強制が許されてよいはずがない。だが、韓国政府は、今も反共分断体制を支える究極的な堡塁として思想転向制度を固守している。
イデオロギーの時代が終わったと言われている今日、思想や信条を守るため獄中でたたかうことにどれほどの意味があるのかという疑問もわくだろう。さらにすべてがうつろいゆく今の世に、ひとつの思想を守りつづけるのは「船に刻んで剣を求める」の類ではないかという指摘もあるだろう。しかし、政治犯たちが希求した民族の統一と自主、正義と平等の実現という理想が朝鮮半島ですでに実現され、その意味を失ったとは思われない。変わりゆく世界で変わらぬものの大切さを彼らは体現している。それに、暴力や強制のまえに膝を屈せず人間の尊厳をまもるたたかいは、いつの世になっても貴重なものといえよう。それゆえに、私はその人たちのたたかいの片鱗なりとも書きとどめたかった。
私は獄中のつれづれに、いろいろな本を読んだ。なかでも北京の街と民衆を愛し、その生活と抵抗を生き生きと描写した老舎の作品はよかった。私は監獄を憎む。しかし、そこに囚われた人たちを愛し、そのたたかいに敬意をはらっている。いつか私も老舎のように濃やかな筆致で、監獄の生活を描いてみたいものだと思った。だが、獄中では、紙もペンも持つことを許されず、なにも記録することができなかったので、そこでの出来事の多くは忘却の彼方に流れさってしまった。それに加えて、紙数の制約と私の能力の不足でその望みは果たせなかった。だが記憶を呼びもどし、ともに苦労した同志たちの助けをうけ、獄中でのことを、できる限り正確に記すことにつとめた。
人名は漢字表記したが、一部、朝鮮語の音から類推したものがあり、すべてに正確を期することはできなかったのでルビをふった。地名や難読字は頬雑を避けるために、原則として必要最小限のものにだけ初出にルビをふった。図表は舎棟配置図を参照することのできた「ソウル拘置所略図」をのぞき、私の記憶により作られた。引用された手紙、訴訟関係文書、宣言などは、本書を書くにあたり、私が見なおし新しく訳出、整理した。民族的、地理的総称には朝鮮、地域をさす呼称には韓国・北朝鮮を使った。
*라오서(중국어: 老舍, 1899년 2월 3일 ~ 1966년 8월 24일)는 중국 현대의 작가이다. 본명은 수칭천(舒慶春)으로 베이징 사람이다. 


*대한민국의 국기는 태극기(太極旗)라 부르며, 태극기는 흰 바탕의 기 위에 짙은 적색과 남색의 태극 문양을 가운데에 두고 검은색의 건·곤·감·리 4괘가 네 귀에 둘러싸고 있다.
*반딧불의 빛(일본어: 蛍の光 호타루노히카리[*])는 작별의 창가이다. 스코틀랜드의 민요 작별(올드 랭 사인)을 원곡으로 했다. 같은 원곡으로 한 한국의 노래로는 석별의 정이 있다.

*애국가(愛國歌)는 대한민국의 국가이다. 1919년 안창호에 의해 대한민국 임시 정부에서 스코틀랜드 민요인 〈올드 랭 사인〉에 삽입해서 부르기 시작하다가 1935년 한국의 작곡가 안익태가 지은 《한국환상곡》에 가사를 삽입해서 현재까지 부르고 있다.

I 保安司 - 獄中生活の始まり
拉致
玄界灘を越えると大地の色が変わる。岩山がちの花崗岩質の白い土壌にへばりつくような、矮小な樹々とワラ屋根。数千年の長い歴史を通じ、数え切れない外勢(外部勢力)の侵略を受けながら、ユーラシア大陸の端っこに懸命にしがみつくように生きてきた民族。世界の歴史をひもとけば、数限りない人間同士の殺し合いや残忍な抑圧などがある。朝鮮人だけが特別大きな苦痛や、犠牲を強いられてきたのではないだろう。それにしても、大地と島国に挟まれ、河のように流した血と涙を代価に、試練に打ち勝って、誇り高く独立を守ってきた民族だ。故なく課せられた運命の過酷さに苦しみながら、絶望の末に再生してきた民族だ。
私を呼ぶ機内放送で想念は中断された。派手なチマ・チョゴリを着たスチュワーデスは、ただ搭乗確認だと言う。もう10回以上も飛行機に乗っているのに、搭乗確認は初めてだ。なぜだろう?
1971年3月6日、金浦空港に降り立った。2年間のソウル大学校大学院修士課程を終え、京都の家で最後の冬休み(韓国の冬休みは12月末から3月はじめまで)を過しての帰りだった。新学期からは教養課程部の助手となるはずだった。
いつもは物欲しげに荷物を引っくり返す税関職員も、顔を見るなり「徐勝氏ですね。そのまま通って下さい」と言う。ゲートを出てタクシー乗り場に向かったが、長い列が作られていた。柱の陰から若い男が出てきて、有無を言わせず荷物を引ったくると「家まで行きましょう」と言った。一瞬、そのころ空港にはびこっていた白タクかなと思った。「いくらで行くんだ?」「ご心配なく。安く行くよ」と、助手のような男が黒い自家用車に手早く荷物を積んでしまった。
独立門の近くにある私の下宿からほんの100メートルほどのところで車は急停車した。後からつけてきたジープから、4,5人の男がバラバラと駆け寄り、2人が車のドアを開け両脇に乗り込むと、手をねじり上げ頭を抑え、黒いジャンバーをかぶせた。「情報機関員だ」と直感した。車は10分余り走り、閑静な住宅街のなかにある高い塀で囲われた木造モルタル2階建ての前庭でとまった。青瓦台(大統領官邸)のすぐ横の「保安司」(陸軍保安司令部)玉仁洞対共分室だった。
保安司は解放後、アメリカ軍政庁の情報課に始まり、(韓国)国軍創設(1948年)後、国軍情報局として発足し、陸軍本部特務隊(50年)、陸軍防諜隊(60年)、陸軍保安司令部(62年)、国軍保安司令部(77年)と名を変えた。保安司の本来の任務は、軍内部での情報収集と捜査だ。すなわち軍内部の反乱、クーデター、不正・腐敗、そして不純分子(左翼)の監視、情報、捜査だ。
1945年、朝鮮の解放後、李承晩は南北朝鮮の分断をさいわいに極端な反共政策を掲げ、48年に南だけの単独政府である大韓民国を樹立した。反共は国是(国政の根本理念)であるだけではなく、政敵を倒し、独裁と永久執権を正当化する最良の武器だった。朴正煕は、1961年に「5・16クーデター」を起こし、権力を掌握し、同年、中央情報部(KCIA)を創設した。それ以前には、特務隊、防諜隊は最も強力な情報機関だったが、それから保安司は中央情報部、治安本部(警察)対共局とともに韓国の三大情報機関の一つとして情報恐怖政治の凶器となった。また反共を錦の御旗に対共(対共産主義)分野では軍だけではなく民間人にたいしても猛威をふるった。
80年の保安司令部、全斗焕のクーデターの後は中央情報部を凌駕し、全能の権力をふるった。89年、民主化の高潮のなかで保安司の民間人を対象とする査察ブラックリストが暴露され、国民の激しい批難をあび、91年、名称を「国軍機務司令部」と変更し、民間人査察が禁じられた。現在の金泳三政権下では、その政治介入や不正・腐敗などが批判され、機構縮小の決定が下された。


*이승만(李承晩, 1875년 3월 26일 ~ 1965년 7월 19일)은 조선, 대한제국, 일제 강점기의 개화파, 독립운동가, 언론인, 정치인, 교육자, 대한민국 임시 정부의 초대 대통령이자 대한민국의 제1·2·3대 대통령이다.

↑は張都暎장도영(陸軍参謀総長)大将(元日本軍少尉)国家再建最高会議議長に就任(すぐ朴(副議長)少将に解任され逮捕。投獄+釈放後はアメリカ(ミシガン大学政治学博士号、ウィスコンシン大学教授)に亡命(2012年、フロリダで死去)*박정희(朴正熙(元日本軍高木正雄中尉),1917년 11월 14일 ~ 1979년 10월 26일)는 대한민국의 제5·6·7·8·9대 대통령이다. 본관은 고령. 호는 중수(中樹)이다. 군사정변으로 정권을 교체하고 제5대 대통령 선거에서 당선되어 1963년 대통령에 취임하였다. 1979년 사석에서 김재규 중앙정보부장에 의해 암살되었다
*5·16 군사정변(5·16 軍事政變)은 1961년 5월 15일 저녁부터 1961년 5월 18일 정오 무렵까지 서울, 부산, 대전, 광주, 김포, 부평, 수색, 포천 등에서 임시적 군정 실시를 목적으로 일어난 군사 반란 성격의 쿠데타를 말한다. 
*중앙정보부(中央情報部, Korean Central Intelligence Agency, 약칭:중정, KCIA 또는 정보부)는 대한민국의 특별 행정기관이자 정보, 첩보, 수사 업무를 전담하는 기관이었다. 국가재건최고회의의 산하기관으로 설립되었다가 1962년 3월 정부의 직속기관이 되었다. 설립 초기에는 국가재건최고회의의 산하기관으로 활동하다가 내각 직속기관이 된 후 초기에는 주로 수사 업무와 경찰, 검찰을 지휘하는 업무를 담당하다가 서서히 대공, 정보 수집 분야로 영역을 확장하였다.

*국군기무사령부(國軍機務司令部, Defense Security Command, DSC, 약칭: 기무사)는 대한민국 국방부직할의 수사정보기관이었다. 군사에 관한 정보 수집 및 군사 보안 및 방첩, 범죄 수사를 목적으로 했다.그러나 과거 보안사령부 시절부터 정치에 개입하거나 군사 반란을 주동하는 등의 문제가 있었다. 부대는 본부와 지원 부대로 구성되었고 지원 부대는 국군의 연대급 이상의 부대에 배속되었으나 배속된 부대와 별개의 독립부대처럼 운영되었다.
*김영삼(한국 한자: 金泳三, 1927년 12월 20일 ~ 2015년 11월 22일)은 대한민국의 제14대 대통령이다. 본관은 김녕(金寧) 이며, 호는 거산(巨山)이다.
ホールに引きずりこまれた私を迎えたのは、丸刈りの細身で長身の、蛇のように酷薄な目の男だった。保安司・対共処長、金教錬大領(大佐)だ。「なぜ捕えるのだ。逮捕令を見せろ」というと、平安道の方言で「間諜(スパイ)に令状はいらん。いつでも殺せる」と言い放ち、部下に「連れて行け」と、命じた。2階で荷物の検査をし、眼鏡を奪われ、素っ裸にされ、ベルトなしの軍服に着替えさせられ、1階ホールにつづく尋問室へ連行された。
尋問室は2坪ほどの狭い部屋だった。机が一つ、椅子が三つ置かれていた。三方の壁とドアは防音のためのクッションが入った汚れた緑色のビニールで覆われ、一方は監視用の大きなガラス窓だった。向こうは真っ暗で何も見えなかった。尋問は2人1組で脅迫・拷問組と懐柔組に分かれて、入れ替わり立ち替わり執拗につづけられた。名前、住所、家族関係から始まり、あらゆることを繰り返し尋問した。私が北朝鮮のスパイであるというのだ。夜なのか昼なのか、一点の光線も入らず裸電球だけが煌々とした部屋では時の流れを定めるすべがなかった。幾日、幾夜が過ぎ去っただろうか?背もたれのない椅子に座らされて、睡魔に襲われ目を閉じると容赦なく棍棒が飛んでくる。意識が朦朧としていって、私は意志をうしない、やがて自暴自棄になっていった。
一次尋問が終わると、つづいて西氷庫の対共分室に移された。そこでは数多くの政治犯を拷問し、事件をデッチ上げていたので人々に恐れられ、(西氷庫ホテル)として悪名を轟かせていた。当時はまだ新しい(ホテル)は建設中だったので、軍輸送部隊の片隅に仮り住まいをしていた。有刺鉄条網を載いた高いコンクリート塀に囲まれた基地の正門を入ると、両側にドラム缶を縦割にしたようなカマボコ兵舎が立ち並び、登り坂の突き当たりに一段と高く対共分室に使用していた兵舎があった。
兵舎に入ると、警備兵の居住区である内務班だった。3メートルほどの廊下をはさんで両側に20近くの野戦寝台が並び、片隅にはテレビが置かれていた。警備兵はシェパード犬を従え、ジーンズに黒い皮ジャンバーを着て、当時国軍ではまだ珍しかったM16自動小銃を携えていた。内務班を通りすぎ戸をくぐると、ベニヤ板でつくりつけられた独房が両側に10室ほどあり、さらに戸をくぐると8メートル四方ほどのだだっぴろい尋問室で、一番奥に小さい事務室が二つつくられていた。独房には何人か収容されている様子だったが、シーンとしていた。
独房は開口2メートル、奥行き2・5メートルほどの広さで、机と椅子が一つと布団が一揃え置かれていた。壁には覗き穴があり、外から錠がかかった。天井はカマボコ兵舎の屋根なりに半円を描き、裸電球がぶら下がっていた。背の高さのところに小さな窓があったが、鉄網が張られていた。私はそこで毎日、自供書を書かされ、随時呼び出されて尋問をうけた。尋問は2人1組の3組が交替でおこない、いきづまると「人間以下の扱いが受けたいか?」とか「北からきた筋金入りの奴も、ここでは這いつくばって泣きながら降参するんだ。お前みたいなヒヨコがどれほど頑張れるか、(拷問の)味をみせてやろうか」「いうことを聞かないと、米軍の収容所に送るぞ」などと脅迫し、拷問を専門とする組と交替した。北朝鮮を非難し、転向して「自由大韓」の胸にいだかれた帰順勇士がいかに幸せかを宣伝する洗脳工作のために、68年、青瓦台襲撃事件の金新朝などの転向者と会わせたりもした。

ここでは眠ることはできたが、充分ではなかった。2,3時間寝かせると起こし、尋問を繰り返した。しばり上げ、棍棒で乱打したり蹴ったり殴ったりして拷問した。前にさしだした手のひらを細身の棒で思い切り打ちすえられると、手がもぎ取れそうで、痛みは電流のように頭の芯を直撃した。拷問されて私はセメント床を転げまわりながら「いっそ殺してくれ」と哀願した。痛さと、次にくる苦痛への恐怖と緊張の前には、体裁も自尊心もふっ飛んでしまった。床に這いつくばって、命乞いではなく、死を乞うた。
2週間余りの分室での調査で自分たちの望む調書を作った後、「在日僑胞なので、反省の機会を与える。今後、国家に忠誠を尽くせ。今後の行動によっては処罰しないようにする。ここであった一切のことを口外するな」と、いったん釈放された。
弟の俊植は京都の高校を出て、私より1年早い1967年に韓国にきていた。ソウル大学校法科大学(法学部)の4年に進学するところだった。彼も冬休みを京都の家ですごしていた。新学期が始まるので2月16日に韓国に戻ってきたが、彼も金浦空港で拉致された。私とは別の場所で、残酷な拷問と尋問をうけたという。やはりいったん釈放されたが、後に逮捕された。

*1·21 사태(-事態)는 김일성의 명령으로 1968년 1월 21일에 조선민주주의인민공화국 소속의 군인 31명이 대한민국의 청와대를 기습하여 대한민국의 대통령 박정희를 제거하려다 미수에 그친 사건이다. 당시 유일하게 생포되었던 김신조의 이름을 따서 김신조 사건이라고도 한다.

*김재현(金在現, 1942년 6월 2일 ~ )은 남파 무장공작원 출신의 사상전향자이자 대한민국 임시정부 개신교 목사 이름인 김신조(金新朝)로도 많이 알려져 있다.
*서준식(徐俊植, 1948년 ~ )은 일본 출생의 대한민국 진보 인권운동가이자 사회주의자이다. 1971년 소위 유학생 형제 간첩단 사건으로 투옥되어 7년을 복역하고 사상과 양심의 자유를 지키기 위해 전향을 거부한 이유로, 10년을 더 복역하고 1988년에 출감하였다. 인권운동사랑방 대표를 역임했다.
4月の朝のあの青空―焼身
1971年には朴正煕と金大中候補の間で大統領選挙がたたかわれた。朴大統領は1961年の軍部クーデターの後、軍の政治的中立、民政移譲、大統領選挙不出馬を公約していた。しかし、それを破り63年選挙に出馬し、2期8年にわたって大統領を務めた。朴正煕が作った第三共和国憲法は、大統領の三選を禁じており、朴正煕も繰り返し三選不出馬を約束していた。しかし、またもや公約を破って憲法改悪を強行し、永久執権、終身大統領の道へと踏み出した。
一方、韓国民衆は軍事独裁の永久執権に強く反発し、学生をはじめとして野党、言論人、宗教人、知識人などが改憲反対と三選阻止の闘争に立ち上がった。そのころ朴政権は反独裁運動の急先鋒だった学生運動を抑えるために、現役軍人を調練教官団として大学や高校に常駐させ、軍事教練を実施し、学園の兵営化を図ろうとしていた。だが、これにも学生たちは猛烈な反対闘争を繰り広げ、朴正煕の大統領三選を阻止する運動はますます燃え上がった。こうしたなかで、反独裁・民主化闘争の旗手として40代の清新な金大中野党大統領候補の人気は予想以上に高まっていった。
4月18日、大統領選挙を10日後に控え、金大中候補のソウル遊説があった。会場の奨忠壇公園には100万といわれる大群衆が雲集し、演説の後、金大中候補の車につづいて数万の人々がデモ行進をした。「独裁を打倒しよう!」「永久執権反対!」のスローガンを」を叫ぶデモ隊は北上し、鍾路を左に曲がって中央庁の前、光化門ロータリーまで進出して機動隊と熾烈な攻防戦を繰り広げた。石が乱れ飛び、催涙ガスが立ちこもるなかでも、軍事独裁打倒の意気は天をつくばかりだった。
その日の夕方、保安司の黒いジープは、私をまた西氷庫の対共分室に連行した。初めとは別の兵舎だった。寒々とした裸電球に照らし出された。だだっぴろいセメント床の尋問室は、4月というのに冷え込んでいた。図体だけ大きいドラム缶製の軍用軽油暖炉は、倉庫のような空間を暖めるのにほとんど用をなさなかった。
尋問官は、黒いセルロイド縁の眼鏡をかけた蛸入道のような禿頭の年寄りと、浅黒いクシャクシャの顔をした40がらみの、元・南労党(南朝鮮労働党)員を自称する「魚先生」と呼ばれる男だった。この2人は最も残忍だった。棍棒を片手に持ち、尋問は初めから手荒く進められた。蛸入道は開口一番、「俺は無慈悲だ」と言い放った。
尋問はまた初めからおこなわれた。しかし、その中心は2点だった。一つは、私が北朝鮮の指令をうけ、ソウル大学に地下組織を作り、学生たちの軍事教練反対闘争と朴正煕三選反対闘争を背後から操縦し、政府打倒と共産主義暴力革命を企てたということ。もう一つは、私が親しくしていた金相賢議員(当時、金大中候補の腹心で選挙参謀だった)を通じ、金大中候補に不純な(=北朝鮮の)資金をとどけたということだった。大統領選挙の前に反独裁闘争の先鋒である学生運動に大打撃をあたえ、野党候補に「容共」の烙印を押し、威圧的な雰囲気のなかで、朴正煕の大統領三選の野望を果たそうという筋書きだった。
尋問は言葉どおり無慈悲だった。「苔に勝てる壮土はいない」という朝鮮の諺がある。乱打され転げまわりながら、自分の内部で、この拷問に耐えられないという切迫した恐怖感にさいなまれた。「もし筋書きを受け入れるなら?」―恐ろしい自問だった。1960年の「4・19学生革命」以後、河のように血を流し営々と築き上げてきた民主化と統一をめざす韓国学生運動は、大きな打撃をこうむる。私の祖国と民族への熱い思いは祖国の統一と正義を求める学生らとの共感から始まり、少なくとも彼らとの精神的一体感が私の民族的主体意識を支えてきたのではなかったのか?これで民衆の軍事独裁打倒と未来への希望は消え去ってしまう。口が裂けても「そうだ」とは言えない。たとえ死んだとしても・・・。
窓の外に社会学科の学友らが連行されてゆく姿が横切った。隣の建物から夜どおし学友たちの凄惨な呻き声と悲鳴が聞こえてきた。筋書きは動かせない。調書作成のための苛みだけが残っていた。「好きなようにしてくれ」と、声が喉元から限りなく飛び出そうとするのを必死で抑えた。尋問官にすがり付いて「殺せ!殺せ!殺してくれ!」と、幾度哀願したかわからない。2日にわたる拷問と尋問で、私の気力は尽き果てていた。悪夢のような夜は過ぎていった。尋問官たちも疲れ果てたようだ。窓外は白み、魚先生は蛸入道に「朝食でも食いに行きましょう」と、声をかけた。蛸入道は、交替者が来る前に出て行くのをためらっている様子だった。ボロギレのようになってしまった私と警備兵をしばらく等分に睨みまわして、「まあ、いいだろう」と立ち上がった。
尋問官たちが立ち去ってしばらくして、警備兵は突っ伏している私をちょっと眺めて、戸を開けて戸外に出た。半分開いた戸から朝の光が射し込み、紫色のタバコの煙がユラユラと立ちのぼった。「1人きりになるとは!」常時監視は鉄則だ。便所に行くのにも警備兵が必ず同行する。奇跡のようなことが起こった。「今しかチャンスはない。もう一度、尋問官が入って来たら、すべて筋書きどおりにされてしまうだろう」チョロチョロと燃えているストーブが目に入った。少し離れて一斗(18リットル)ほど入るタンクがパイプでストーブに繋がっていた。ボンという音とともに巻き上がる紅蓮の火柱に包まれ、泰然と座禅を組むベトナムの僧侶が脳裏に燃え上がった。
上着を脱ぎ、たたんで机においた。燃料タンクを持ち上げ、栓を開けて頭から油を注いだ。油はまんべんにかからず左側に少しそれた。マッチやライターを捜したが見当たらなかった。机の上の調書を一枚とり、グルグルと細長く丸めてストーブの火をつけた。火を腹部につけたが、予想に反し火は燃え上がらなかった。石油と違い、軽油は燃えにくいのを知らなかった。警備兵がタバコを吸い終わり部屋に入ってくれば、もっと恐ろしい拷問が待ち構えている。焦燥で体がブルブル震え、心臓は破れそうだった。火を左手に持ち替え、薬指と小指の間に挟み指先から炎が伝わり燃え上がるのを待った。下に向けた紙の火は細長く燃え上がり、指から肘までを焙ったが、なかなか火はつかなった。じれったいほどノロノロと指先から手へ伝わって燃え上がった。腕を包む薄いセーターが燃え上がるにつれて、刺すような痛みが走った。警備兵に気付かれまいと必死になって悲鳴を抑えたが、勢いを増した炎が肩から顔に移ると、こらえきれずに、「オー、オー、オー」と、悲鳴が喉仏を擦るように出てしまった。そしてセメント床に転がった。死のうとしたのに、本能的に火を消そうとした。死ななければならないという意志と本能的な死への恐怖の間で、熾烈な葛藤が私を七転八倒させた。
悲鳴を聞いて、兵は駆け込んできた。慌てふためき、ストーブのそばの防火用水のバケツをつかむなり、水を浴びせかけた。その瞬間、火は「ゴー」と音を立てて燃えさかり、兵は驚いて助けを求めに戸外に飛びだした。私は床を転げまわり、戸外に転がりでた。集まった兵士らは、砂を浴びせ軍毛布をかぶせて鎮火すると、担架とトラックと病院を手配しに散っていった。
4月の朝に太陽は燦々と、雲一片もなく、空は青く、高かった。何の苦痛もなく、「これですべては終わった」という静謐な安堵と平安だけがあった。草っ原に取り残された子供のように、物哀しい静寂のなかで、吸い上げられるような青空を見上げていた。涙が目尻を伝わって流れ落ちた。口のなかで、繰り返し、繰り返し、つぶやいていた。「オモニ(お母さん)、すみません。オモニ、許して下さい」

*金大中(朝鲜语:김대중金大中 Kim Dae-Jung,1924年1月6号-2009年8月18号)号后广(후광)别名忍冬草(인동초),本贯金海金氏,韩国政治家,大韩民国第15任总统,在朴正熙、全斗焕独裁政权期间多次因民主斗争入狱,被称为“亚洲的曼德拉”,2000年诺贝尔和平奖得主。

*김상현(金相賢, 1935년 12월 6일 ~ 2018년 4월 18일)은 대한민국의 정치인이다. 본관은 김해(金海), 호(號)는 후농(後農)이다
*남조선로동당(南朝鮮勞動黨, 영어: Workers' Party of South Korea),줄여서 남로당은 1946년 11월 23일 서울에서 조선공산당, 남조선신민당, 조선인민당의 합당으로 결성된 대한민국의 공산주의 정당이다. 당수는 초대 여운형, 2대 허헌, 3대 박헌영이 맡았다. 기관지로 노력인민이 있었다.
*4·19 혁명(四一九革命) 또는 4월 혁명(四月革命)은 1960년 4월 19일 대한민국 제1공화국 자유당 정권이 이기붕을 부통령으로 당선시키기 위한 개표조작을 하자, 이에 반발하여 부정선거 무효와 재선거를 주장하는 학생들의 시위에서 비롯하여 전국의 대규모 시민에게 확대된 반독재투쟁이자 혁명이다.
陸軍首都総合病院
トラックはゆっくりと漢南洞、三角地を過ぎ、混雑するソウル都心の太平路を景福宮迎春門の前にある陸軍首都総合病院(次の年、病院の金浦移転後、保安司の本部になった)へと向かった。応急室に入ると、2,3人の軍医が、寄ってたかって肌に焦げ着いたシャツとズボンをハサミで切り離し、ピンセットで取り除いた。スイカのように膨れ上がってきている顔にワセリンガーゼを当て、喉に酸素呼吸器を差し込むための穴をあけた。麻酔なしにいきなりメスで喉を突き刺し、軟骨をゴリゴリとハサミで切り開いた。炎を吸いこんだので口のなかの天井までズルっと剥がれてしまい、顔が膨れ上がったために呼吸困難だったからだ。ゴリゴリという音を聞きながら、意識は闇のなかへ遠ざかっていった。それから、ひと月余り昏睡状態だった。時々、痛みで意識が戻ることがあっても、顔を包帯でグルグル巻きにしていたので何も見えなかった。
麻酔をして手術したのかどうか分からない。恐ろしい痛みで意識が戻ったことがあった。先が焼け焦げた左手の薬指と小指の半分を切り落され無くなったことは、後からわかったことだ。時々、手のひらの赤裸の肉を鉄ブラシでこすり取るような痛みがしたのを憶えている。消毒綿でふき取っていただけだが、皮がなく赤剥げになった手のひらの神経をこすったからだ。意識を失っている間、体液の流出と感染を防ぐために、顔、腕、胸などに一次植皮した。そのための皮膚を背中や腿、尻などから取ったので、もともとの45パーセントの火傷部位に加えて、膝から下を除いて満身創痍になった。
悪夢の連続だった。保安司で拷問される夢。隣の地下尋問室から聞こえてくる悲鳴。追われつづける夢。荒涼とした暗い荒野を走って、走りぬけてたどりついた港の波止場をさまよう夢・・・。脈絡のない数々の夢は薄暗く、今はもうボーッと霞んでしまったが。だが、今も脳裏に鮮烈に焼き付いている夢がある。
ソウル市庁前の広場は、プラカードや旗を掲げ、拳を振り上げる大群衆で埋めつくされた。徳寿宮の「大漢門」という扁額が、バカでかく頭上にのしかかるように懸っている。旗がなびく。歌声が湧き上がる。群衆は肩を組んで怒涛のように叫び、滾り立つ大渦巻のように激しく広場をまわる。「勝利の日は来た!」「解放の日は来た!」「・・・革命万歳!万歳!」という叫び声。「ああ、勝利したのだ」。高鳴る私の胸は息苦しいほどだった。涙が見えぬ目から流れ落ちた。ひと月余り陸軍病院にいることを忘れていた。意識が回復し、目の包帯を取って陸軍病院の将校用重患室にいることを思い出した。夢のなかのさまざまな叫び声と呻き声は、隣の応急室に前線部隊から運ばれてきた瀕死の軍人たちのものだった
目を覆っていた包帯を取ったとき、世の中はキラキラした透明な光で満ちあふれていた。目は開けたものの、右目はまぶたが引きつって巻き上がり、ガーゼを当てた。ある日、若い看護将校は私の顔をのぞき込んで「きれいなまつ毛もこんなに生えてきた」と、ささやいた。しかし、私は自分の顔を1年ほど見られなかった。保安司の連中と医師は、私が破壊された自分の顔に衝撃をうけて自殺するのではないかと、周辺からすべての鏡を撤去することを命じた。皆は口をそろえて「手術はうまくいった。男前だよ」と、おだて上げたが、口はストローが1本ようやく入るほどに焼け縮まり、眉毛も耳も融けてしまった。原爆に焼かれた野原のように焼けただれた私の顔に芽生えたかすかな新しい生命の兆しがまつ毛だった。
それから数日たって、足を持ち上げてみた。足は千鈞の重さだった。「こんなに足が重いとは・・・」。ようやく持ち上げた足を見た。鎌のような足だった。足の裏はおおむね平らだったと思っていたのに、肉のこそげ落ちた足は骨格がそのままあらわれ、三日月のようだった。毎日、足を上げ下げして運動した。そして数日たって、警備兵の介添えで起き上がった。激しい眩暈がしてベッドに倒れ込んだ。また練習を重ねて起き上がった。体重を量ると40キロ足らずだった。もとの74キロから半分に減ってしまった。意識を回復して間もなく、検事がやってきた。検察調書だとも言わず調書を作り、足指の拇印を押していった。このころから熱心に繰り返された歩行練習は、私を拘置所に送る準備だった。


*서대문형무소(西大門刑務所) 또는 서대문 감옥(西大門監獄)은 1907년(융희 원년) 대한제국을 점령한 한국통감부가 서울에 건설한 형무소이다.
*서울구치소(서울拘所)[1]는 대한민국의 구치소이다. 법무부 교정본부 산하의 서울지방교정청 관할 기관이며, 경기도 의왕시 안양판교로 143에 위치하고 있다.
*교정본부(矯正本部, Korea Correctional Service)는 대한민국 법무부의 하부조직이다. 경기도 과천시 관문로 47 정부과천청사 1동에 위치하며, 본부장은 고위공무원단 가등급
*한일신협약(韓日新協約)은 1907년 7월 24일 대한제국과 일본 제국 사이에 체결된 불평등 조약이다. 조약이 체결된 해가 정미년이었기 때문에 정미7늑약(丁未七勒約)이라고 부르며 제1차 한일 협약, 제2차 한일 협약(을사늑약) 등과 구분하기 위해 제3차 한일 협약(第三次韓日協約, 일본어: 第三次日韓協約)이라고도 한다.에 속하는 일반직공무원 또는 검사로 보한다.
ソウル拘置所・病舎2房
6月の末、ようやく少しずつ歩けるようになったころ、鬼のような顔をした検察庁の職員がやって来た。急に服を着せられ、徳寿宮の横のソウル地方法院(裁判所)の判事室に連れて行かれた。判事は名前、住所、日本の住所などを確認し、拘束すると言い渡した。そのまま私は、ソウル拘置所に入獄させられた。今は新築されソウルの南方、安養市に移ったが、ソウル拘置所は「京城監獄」の名で、日帝(日本帝国主義)が朝鮮を実質的に支配した「第三次韓日条約」が結ばれた1907年、西大峴底洞(旧・金鶏洞)に起工された。韓日合併の前年、1909年10月に完成し、1912年に「西大門刑務所」と名を変えた。日帝はここに数多くの独立運動家や罪のない朝鮮民衆を囚え、殺したため怨嗟の的となった。
血を吸い込んだような赤黒いレンガ塀を見上げ、巨大な灰色の鉄門をくぐった。保安課で身分帳(受刑者に関するすべての事項が記録される個人フィルム)を作り、木綿の青い囚衣に着替え、黒いゴムシン(ゴム靴)をはいた。廊下を左に曲がり、2管区中央に出た。
拘置所は二つの管区に分かれる。南側の1管区は1舎から6舎まで60年代に建て増しされたセメント造りの新建築であり、北側の2管区は7舎から12舎までと病舎、死刑場を統括し、レンガ建ての旧監獄からのものだ。2管区中央は10,11,12舎が扉のように開いた要の部分に当たる。10舎坪の中央には管区を統制する管区室があり、2管区に出入りする未決囚はここを通過し、検査を受ける。
2管区中央には、鼻が天井に向き額の狭い、50代半ばの医務課長が立っていた。横には金コンデ(年寄りの卑語、ジジイ)看病夫が白い野球帽とガウンを着けて侍立していた。監獄医は濁った視線を投げかけ、口を開いた。「なぜ手に包帯をしているのか?」「少し前に掌をひろげる手術をしたが、収縮するのでギブスをしてる・・・」最後まで聞かず、シワクチャの痩せ猿のような金コンデにボソッと「消毒してやれ」と言ってクルッと向きを変え、スタスタと立ち去った。金コンデは、左手で浣腸薬を注入するブリキの円錐筒の器具を持ち上げ、右手でホースをとって、手の包帯やギブスを解かずに上からチュッ、チュッと、1,2回消毒液らしきものをふりまくとあたふたと課長の後を追いかけた。それから<指導>(チド・受刑者中、看守の補助をする者。後述)に支えられ、鉄格子戸をくぐり10舎の廊下を通り抜け、庭に出て20坪ほどの階段を登ってようやく病舎にたどり着いた。

病舎は拘置所の北西のかどの監視台のすぐ下にあった。背後の金鶏山の山裾で、構内では一段と小高いところにあった。3棟のうちの前棟は医務課事務室、治療室、調剤室などが入った管理棟だ。中棟は屋根が波打ち、今にも崩れそうな木造平屋の一般病棟で、6部屋あった。後棟は4部屋からなる結核患者用の隔離病棟で、その後ろの死体安置室は隔離病棟の陰湿さをいや増しにしていた。
日帝時代に建てられた病室は頽廃磨耗していた。昔は部屋を暖めたであろう壁ペチカは、解放後一度も使われたためしがないようすで、錆びついていた。窓枠もガタピシしていた。裸電球のぶら下がった天井は、雨漏りで大きな地図を描いていた。ただ時代の垢で黒光りする鉄格子と、三寸ばかりの厚板の扉だけが、永久の生命を持つように頑丈だった。「これが病室か?」8畳ほどの陰気な部屋には、病室らしさを示すものは何もなかった。板の間に患者用の白い布団が敷いてあるだけだった。
病舎1房は7,8坪で一番大きく、20名近くの本当の患者が収容されていた。3房から6房までは、それぞれ2、3坪で6,7名ずつ収容されるが、ほとんどが<ナイロン患者>だった。<ナイロン患者>とは、金やコネを使って入舎するニセ患者のことだ。ワイロをもらった保健社会部の局長、賭博の社長、密輸犯から金塊を横取りした刑事、高級サギ師といった人たちだ。
私のいた2房は、他の未決囚と私との接触を当局が嫌って他の人を転房させ広い部屋を独房にしていた。ただ、監視のため<指導>と、看病のために3人の看病夫が同室したが、昼はみんな仕事に出かけるので、私1人残った。
<指導>は強姦、暴行殺人罪などで2、3年の懲役刑をうけた中期囚から選ばれ、看守の補助、代行をして戒護、同行、歩哨などの仕事をした。軍服に似た指導服に<指導>と書いた腕章を着け、所内を<独歩>(看守の同行なしに1人で歩く)する特権があった。彼らは看守の手先として時には看守以上に横暴で、同じ受刑者を殴ったり蹴ったりして看守気取りだった。保安課長は<指導>を看守の動向を監視するスパイとして利用したので、看守すら恐れることもあった。その力を背景に<指導>は、タバコのヤミ取引などの<犯則>(所の規則を破ること。主に不正な物々交換を指す)をして、監獄の腐敗の一原因となっていた。
看病夫は、女人禁制の男舎で看護婦の役目を果たした。凶器になる医療器具を扱ったり、所内で高価にヤミ取引される薬を扱ったので、多くが宗教的確信犯である「エホバの証人」から選ばれた。彼らは教理により、国旗への敬礼を拒否し、銃をとることを拒んで兵役法違反で懲役刑をうけていた。7名の看病夫のうち、5名は「エホバの証人」。残りは病院の助手出身で堕胎手術で人を死なせた自称「外科医師」の金コンデと、密輸薬品を横流しして捕まった薬剤師の具看病夫だった。
医務課職員としては、女医1名を含む医者3名、看守部長2名、看守3名がいた。監獄医は公務員として課長級の待遇と技術手当を受けていたが、韓国社会における医師の平均収入と比べ格段に少なかった。しかし、午前中、3,4時間だけの勤務であり、午後は他で稼いでいた。患者はどうせドロボーだからと、いい加減な医療がまかり通ったし、監獄囚としての旨味もあった。刑事訴訟法によると、既決囚が健康上、拘禁生活に耐ええない場合、刑執行停止になり、未決囚の場合は、拘束の停止(俗に、病保釈)になるが、まず監獄医が診断をして<重痛報告>を出し、検事が確認する。獄中天国である病舎に入ろうとしても、医師の判定が必要だ。地獄の沙汰も金次第で、ニセ患者たちは出所したり病舎に入って楽をしたりするために、多額のワイロを必要とした。この実入りは監獄医棒給の数倍から、数十倍に達しただろう。
在所者は監獄医をトルバリ(ヤブ医者)と呼び軽蔑した。実際、当時監獄医のなかには衛生兵や産婆出身で「限地医師」(韓国では以前、医者が少なく無医村が多かったので、正規の医科教育を終えていない者にも試験をして、指定された農漁村でだけ開業可能な資格を与えた)だった者や、あやしげな方法で買った者が多く、技術的に信頼がおけない場合が多かった。

拘置所に着いた日は、初めて病室から出て歩きまわったので疲れ果てた。病<舎>2房へ到着するとすぐ倒れ込んだ。夕食のとき、看病夫が私を起こし、アミ(醬蝦)の塩辛をおかずに粥をスプーンで食べさせてくれたが、喉を通らなかった。鉄格子のある病室に横たわり、天井を見あげた。「ここが監獄なのだ」。監獄の板天井はシミで黒々と複雑な模様を描いていた。私と同じように眠られぬ夜、天井を見上げたであろう何千、何百という囚人たちの民族と家族と故郷への思いが、さまざまなシミや模様を作ったのか・・・。ふと、何百もの目が私を見下ろしているような錯覚に陥った。
医務課の処方はダイヤチン(抗菌剤)と包帯交換だけだった。治療室を取りしきる金コンデは、縮んでだんだん曲がってゆく私の指を見て、珍説を持ち出した。「爪が伸びて曲がるから指も曲がる。爪をまめに切れ」そう言われてみれば、指の肉は爪に焼き付いて、伸びた爪と一緒に曲がっていた。このバカげた話に動かされ、一時、熱心に爪切りをした。合理的な問題の説明と解釈を示さないところでは、イワシの頭でも通用する。この類の人間が医療の権威者として監獄でまかりとおっていた。
監獄の食事は、麦半分、米と大豆4分の1ずつのカタ飯(カタの語源は日本語の型。一等から五等まで大きさの違う鉄の型で円錐台に抜き出した飯)に一汁一葉と白湯が出た。患者は申し出ればチャン(獄用 、あるいは五件 )、タマネギの醬油漬け、キュウリの塩漬け、アミの塩辛が主で、週一度、半分腐った蒸した塩大刀魚や、サツマ揚げなどが出た。汁は大根の葉かキャベツの葉の薄い味噌汁だった。困ったことに菜っ葉をよく洗わないので、器の底にはいつも砂や泥がたまった。泥を沈ませて上澄みを飲みながら、「エジプトの文明はナイル河のたまもの」という文句を思い出した。この<官食>は、もっぱら金のない連中が食べた。行刑法(監獄法)には「未決は食事と寝具の自弁を原則とする」とあるので、金のある連中は<私食>とよばれる自弁食を食べた。
私食では、焼肉弁当、チゲ(鍋物)定食、オムライス、焼飯、おでん定食、蒸し豚のような食事類、うどん、蒸しパン、ジャージャー麵のような間食があった。名前はれいれいしくても、内容は粗悪で、値段だけは一般食堂なみだった。拘置所の独占事業なので、「嫌なら食うな」式で暴利を貪った。購買部にはバター(半ポンドのマーガリンのこと)、醬油、コチュジャン(朝鮮の唐辛子味噌)、ニンニク、天ぷら、キムチ、雑魚の佃煮のようなおかず類、乾パン、パン、リンゴ、飴、菓子、スルメなどの間食と、ランニングシャツ、パンツ、靴下、韓服、石鹸、歯ブラシ、練り歯磨き、手拭いなどの衣類や日用品を売っていた。
金も食欲もなかったので、私は粥に醬油をかけて食った。

看守部長
拘置所や矯導所(刑務所)では、所長が絶対君主のようなものだ。行刑法には各条項ごとに「所長は・・・をしなければならない」「所長は・・・をすることができる」と出ている。その気になれば、矯導所のことで「所長ができないことは何もない」と言ってもいいほどだ。矯導所は一個の独立機関であり、機関長としての所長は他の誰とも協議することなく矯導所内のことを決定する専決権をもっている。階級から見れば道(ド・日本の県に当たる)の警察局長や郡主(郡は道の下の行政単位)より上だ。ただその権限が監獄の中に限られているので、社会的権威も権力も持たない。所長はふだん塀の外の所長室に鎮座する雲上人で、塀の中の囚人は拝顔する機会もほとんどない。囚人たちの生活に密接な関係をもち、一番恐ろしいのは部長である。
所内では部長の羽振りがよかった。点検(点呼)も部長がした。監獄のほとんどの日常問題は、部長が決定し解決した。部長の前では、看守は猫の前の鼠だった。部長は会社では課長の上だ。監獄でもそうなら、所長の次くらいに位が高い。初め、私はそう思っていた。しかし、銀色の木槿の葉2枚肩章を着けた部長は、帽子に金帯を巻いた主任、係長クラスのトンテ(トン=糞、テ=帯。監獄では金色を糞色という)たちに敬礼する。課長以上、副所長、所長のマルトン(マル=馬、トン=糞)が巡視に立ったと言えば、所内は大騒ぎでまるで大名行列でも来るようだった。課長以上は大きな丸い金色の木槿の花の肩章と帽章をつけているので、馬糞にみたててマルトンと呼んだ。馬糞1つが課長、2つが副所長、3つが所長だった(表1参照)。          
韓国の監獄には日帝監獄の遺制、習慣が色濃く残っている。韓国政府は日帝との違いを強調するために監獄法を行刑法に変え、名称も「刑務所」を「矯導所」とした。明治時代の監獄法を今だに路襲している日本に比べ、法律としては行政法が近代的で秀れている。しかし、内容、習慣はそう簡単に変わるものではない。「領置(領け置き)、差入(差し入れ)、差下(差し下げ)、早出(早や出)、並出(並み出)、非番、出番、始末書、美濃紙、身分帳、閉房、入房、還房、連出(連れ出し)、呼出(呼び出し)、接見、出役(労役に出る)、外役、内役、施縄、絞縄、解脱、重痛、通房」など、朝鮮語になじまない日本の監獄用語を今日にいたるまで、そのまま朝鮮語読みしてたくさん使っている。ここにも解放後、日帝の残滓を清算し切れなかった韓国現代史の悪弊が影を落としていた。
部長は日帝時代に使われた「看守部長」の題名に由来する。正式名称は矯導(5級甲、現在は8級の矯査)で末端公務員だ。課長以上は、1,2年で全国34ヵ所ほどの矯導所を転々とする。主任と係長は2~4年で転勤をする。部長は看守(矯導補)からのたたき上げで、各矯導所に定着していて、最低10年以上の勤務歴を持つベテランだ。李氏朝鮮においても、科挙に合格して中央(朝廷)から派遣された朝官である郡守、県監、県令にたいし、地方で実務を司り、行政を牛耳る地方官=衛前がいたように、矯導所の日常実務は、実情を知りつくした位の低い部長が掌握していたので、幹部も部長を手軽く扱えなかった。              
公判
1971年7月19日、初公判の日だった。担架で一管区の出廷係の廊下まで運ばれた。小西門のソウル地方法廷まで、どう行ったか記憶にない。人々は、私の焼けた姿と、胸に張り付けられた左翼囚を表示するエビ茶色の囚人番号と、真っ赤な2センチ四方のプラスチック分類板をチラチラと眺めていた。ソウル地方法院の鳩舎(待機室)で初めて学友たち、姑母夫(父の姉妹の夫)、在日僑胞学生などに会った。私は、彼らが拘束されていたことを知らなかった。51名からなる「在日僑胞学生学園浸透間諜(スパイ)団事件*」を大々的に発表し、選挙のために存分に利用したことを知るはずもなかった。
*保安司は北朝鮮の指令をうけた在日韓国人母国留学学生など4グループが大学内などに地下組織を築き、学生デモ、反政府運動、民衆蜂起を煽り、政府を転覆させる任務を帯び暗躍していたと発表した。
姑母夫の拘束は意外だった。不告知罪(誰かが国家保安法や反共法に違反している事実を知りながら、捜査機関や情報機関に申告をしない罪)だと言う。同じく不告知罪で起訴された学生たちは、多くを語らなかった。彼らは私の火傷を知らなかったので、驚き案じるばかりだった。弟の俊植は少しやつれて見えた。俊植も焼けただれた私を見て気圧された様子だった。捕縄で縛られ、手錠をかけられた不便な手でソッと私の手をとった。「ヒョン(兄)、大丈夫ですか?」
鳩舎を出て狭い中庭を横切り、講堂のような大法院に入った。前列は被告と警備の延史で占められ、中間前寄りの席にいたアボジ(父)とオモニ(母)が立ち上がった。「勝!」「シッカリせえ!」延史はバラバラと駆け寄り、2人を制止し席に着かせた。2人が裁判に来たことは、前日、韓勝憲弁護士から聞いていたが、必死の形相で叫ぶアボジとオモニを見て、生きて会えた感慨と、苦労ばかりしてきた2人にまた大きな苦痛を与えた申しわけなさで、私はどうすればいいのか戸惑うばかりだった。裁判は、人定尋問だけで秋に延期された。

裁判が終わって午後、アボジとオモニが面会に来た。
アボジの顔からは、豆粒のような大きな汗が吹き出していた。オモニは目をキッと開け、噴き出す感情を懸命に抑えて小さく震えていた。よく見るために金網に顔をおしあてながら、オモニは「こっち向いてみ」「あっち向いてみ」と、私の耳がないのを確認した。手の包帯も解いて見せた。「大丈夫か?シッカリせえ」「大丈夫です。健康の回復が早い、と医者も驚いている」「耳も作ってくれると言ってるから、心配せんでええ」「口が小さくて不便やけど、粥を食べてる」。お互いがお互いの気持を慮って、感情を抑えた。私には、「心配せんとき」としか言うべき言葉がなかった。3分の面会はアッというまに過ぎてしまった。
私が拘置されてから、保安司の連中は一度も姿を現さなかった。拘置所では、医療施設、技術とも問題だった。季節も夏に入り、体から腐臭がプンプンした。一度手術して粥がすすれるほどになった口が、だんだん縮んでいくのも問題だった。そもそも保安司では裁判に間に合わせるために無理な手術と退院を強行したのだ。
そんなある日、軍の救急車に乗って保安司の連中がきた。どうやら医務課で自分たちの手におえないと連絡したようだった。1週間に2度、軍病院に行って治療するという。病院では、形成外科科長、寶少領(少佐)が入浴治療を命じた。浴槽に入ってこびりついたガーゼや、カサブタを湯にふやかせて除き、薬用洗剤で洗って包帯交換をした。
8月中旬に、口を大きくする2度目の手術を受けた。まだ傷が固まらず収縮をつづけているので手術は時期尚早、というのが寶少領の意見だったが、病院長の金大領は手術の強行を命じた。恐らく、拘置所生活をさせるために口を拡げるようにとの保安司の強力な圧力があったに違いない。
口の端を切り開き、中の皮を外に巻き出して縫合した。口が大きくなり、4ヶ月ぶりに看護将校が鉗子で綿をつまんで歯を磨いてくれた。飯も楽に食えるようになった。粥に飽いていた私は、飯をおいしいと思った。力もつくようだった。しかし、顔の傷はどんどん収縮し、鉄仮面をかぶせられたように顔がしめつけられ、そのうえ口も縮んでいき、結局、翌年3度目の手術をうけざるをえなかった。  


8月24日昼、市中にサイレンが鳴りわたり、枕元のラジオは臨時ニュースを流し始めた。共匪(コンピ・共産匪賊。北朝鮮のゲリラや偵察隊を指す)がソウル市の西南部、永登浦に侵入して軍・警察と交戦中だという。午後に、隣の応急室が急に騒がしくなり、銃撃戦で負傷し捕まった連中が運ばれてきた。実は、彼らは共匪ではなく、仁川沖の実尾島に基地をおく空軍特殊部隊員たちだった。部隊の行政委員の不正と蔑視、そして劣悪な待遇に不満を持った特殊部隊員24名は、武装して島を脱出し、バスを奪ってソウルに向かった。ソウル南西の検問所を破られ、遅まきにこれを知った政府は、軍・警察の出勤を命じ、市中心部に入る第一漢江橋の手前、永登浦帯方洞で交戦となった。3,4名の負傷者を除き全員射殺され、出動した軍・警察にも大きな被害が出た。
ベトナム戦争でアメリカの敗色が濃くなり、南北朝鮮の軍事関係が、一触即発の状態まで緊張していた当時、白昼に武装共匪がソウル市内に現われ、銃撃戦を繰り広げたという当局の発表はソウル市民を戦慄させた。しかし、実は、北朝鮮に潜入し、殺人、破壊、放火、拉致などをおこなう空軍特殊部隊であることが知れわたるや、政府と軍首脳の責任問題にまで発展した。この事件により、それまで公然の秘密だった対北朝鮮特殊部隊の存在が、白日下に曝け出された。
特殊部隊員は軍監獄で死刑や無期の重刑を宣告された者に刑の免除を条件に募集されるとも言われ、身寄りのない孤児などのなかから多額の報酬を餌に募集されるとも言われた。秘密の洩れるのを恐れ、島や山中の基地に隔離し、命がけの訓練をさせられ、命を的に北朝鮮に潜入し、消耗品として闇から闇へと葬られる。北朝鮮で捕まるとたいがいは教育をして韓国に送り返されるが、生きて帰れば情報機関で調査し、洗脳されたと判断すれば間諜罪で投獄した。
大腿部を打ち抜かれた特殊部隊要員が隣のベッドに移されて、呻吟していた。南北分断の無惨な犠牲者だ。数日間、陸軍参謀長など軍首脳の直接尋問があった後、彼らは軍刑務所に送られ銃殺された。

*실미도 사건(實尾島事件)은 1971년 8월 23일 경기도 부천군 용유면 무의리(현 인천광역시 중구 무의동) 실미도에서 훈련을 받던 공군 북파공작 부대의 부대원들이 교관 및 감시병 18명을 살해하고 섬을 빠져나와 인천에서 버스를 탈취하여 서울로 진입한 뒤 군(軍)과 총격전을 벌이다 거의 대부분이 수류탄으로 자폭한 사건을 말한다. 부대원과 진압군·경의 총격 과정에서 경찰 2명과 민간인 6명이 사망하였다.

裁判が始まると家族以外にも面会が許され、多くの友人、支援者が面会に来られた。9月21日、富山妙子画伯と会った。太倫基弁護士が接見(面会)に来て、富山氏と引き合わせてくれた。「日本で君のことが大問題になり、たくさんの人が心配している。今日、1人の方が面会に来られた。検事に頼んで許可をもらい、一緒にきた」富山氏はまず私の健康状態を聞いて、日本人の植民地支配にたいする罪責と在日朝鮮人について語るうちに、泣き出して言葉を継げなくなった。嗚咽する彼女を太倫基弁護士が支えながら立ち去った。
植民地支配の暴虐と、わが民族のはかり知れない犠牲はさておいても、解放後、わが国の分断とその結果であるとてつもない人間的悲劇は、日帝の植民地支配に起因するところが大きい。わが国が植民地支配をうけていなかったら、米・ソによる分割占領をなかったろう。歴史に「もし・・・」という仮定はないという反論もある。「日本が支配しなければ、朝鮮は野蛮なロシアや中国の植民地となり、もっと悲惨な結果になっただろう」という暴論や、日本は植民地支配を通じ朝鮮の経済発展を進め近代化を促したという「良き植民地支配」論もある。しかし、どんな仮定や反論も、加害者が被害者に与えた実際の苦痛や犠牲を正当化することはできない。
日本は朝鮮を侵略したことで民族分断の責任を負っている。それのみならず、いま南北朝鮮の人々の大多数が、日本は南北分断を日本の経済発展と国家利益追求のために利用し、統一を妨害してきたと考えている。1970年代のはじめに、日本の朝鮮植民地支配と、解放後の分断の責任問題を理性と感情でもって理解した日本人は少なかった。富山妙子画伯は、そんな少数者の1人だった。
8月末から裁判は毎週開かれ、早いペースで進行した。51名と発表された(在日僑胞学生学園浸透間諜団事件)「共犯」のなかで、私と関係があったのはソウル大学関係の7名だけだったが、裁判をうけた総数が20名と多かったので、1人1人の審理はごく短かった。一審では、私にはまだ保安司拷問室での恐怖があった。保安司の委員が時々やってきて、「もし、必要ならいつでも分室で再調査する」と脅迫し、裁判ごとにやってきて無言の圧力を加えた。毎回参席していた保安司対共処理査課や、工作課の連中が拷問の証人尋問には現われず、裁判は何回か延期されたが、ついに現われなかった。

赤三角―左翼死刑囚の標識
同じ年の10月11日に求刑公判があり、私と俊植には死刑が求刑された。同級の韓相震氏(現・ソウル大学社会学科科長)は、在日同胞学友に寛大な処分を願うと最終陳述をした。保安司がデッチ上げたにしても、私とのかかわりで獄苦を強いられてなお、友人を庇う彼の姿は凜としていた。10月22日に死刑の言い渡しがあった。求刑をうけたときもそうであったが、判決のときも実感が湧かず他人事のようだった。俊植は15年(二審では7年)の懲役刑、共犯のうち執行猶予付きの1年の懲役刑をうけた朱水吉君と姑母夫を除いて全員無罪だった。二審では分離裁判となったので、宣告の日が、弟とも、釈放される友人とも会えた最後の日となった。釈放が決まった学友たちは、口々に「元気で頑張れ」と、励ましてくれた。李成茂先生は「獄中で一生懸命勉強しなさい。必ず役に立つときがくる。また会いましょう」と言われた。俊植は「75年には、いずれにしても釈放される。兄(ヒョン)、元気で」と、手を握って別れた。当時、朴正熙が維新(ユシン)体制を宣布することは予想できなかった。朴正熙は四選出馬をしないだろうし、もし出馬するとすれば今回の選挙での反独裁運動の大きな盛り上がりから推して、政権は打倒さるるだろうという見通しだった。75年には大変化があるというのが、俊植が接触していた政治犯たちの認識でもあった、。しかし結局、彼は刑期を終えてからさらに10年を獄中で過ごし、私は90年まで投獄されることになったのだが、当時は思ってもいなかったことだった。          

死刑求刑をうけた時から、胸のプラスチック分類標識は「左翼死刑囚」を表わす赤い三角形に変わった。房の入口にも赤く塗られた三角形の板が釘付けにされた。そして、二審(控訴審)で無期懲役に減刑されるまでの4ヶ月間は、24時間手錠をかけられた。着物を着替える時と体を洗う時だけ、看守が手錠をはずした。食事と用便の時はとても不便だった。特に手錠をかけたまま寝るのは辛かった。
当時ソウル拘置所には、50人ほどの政治犯を含めて200人ばかりの死刑囚がいた。氏系は大法院(最高裁)の判決後、法務長官の執行具申により大統領が決定し、死刑執行指揮書が下達される。大法院判決後、例外的には5~10年ほど死刑執行されないこともあるが、執行まで普通2~4年ほどの期間を未決囚として拘置所に置かれる間、死刑囚は不安な日々をおくる。死刑囚は死刑執行されて、はじめて既決になるから大法院判決が下っても未決のままだ。死刑執行の時間は、政治的効果や政治・社会情勢との関係・本人の改悛と行政、外部からの陳情、事件の性格などを考慮して決定されるようだ。死刑囚は執行を遅らせるために再審請求をしたり、改悛の情を表わすために宗教を帰依し熱心な信者となったり(ふりをした)、眼球や臓器の提供を遺言したりする。その間、赦免減刑されることもある。所内の俗説では、執行されず10年を越せば減刑だというが・・・。

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