日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

《貧困なるザ「我が国」精神》泡沫世代데카당스(Décadence)퇴폐파(頹廢派)Генерация пузыря버블 세대『短編ルポ集』Satoshi Kamata鎌田 慧/Katsuichi Honda本多 勝一⑮

本多 光ファイバーも実現した。あれが実現すると非常に大容量の情報発信が可能になるんですね。
伊藤 それにいろんな企業の開発で膨大な番組が気軽に見られるようになる。じゃあ何を放送するかというときに、放送するものがない。「もの」ってすぐに素人が作れるわけではないから、専門家集団が必要ですね。だったら私たちに任しておけということになってしまうじゃないですか。既存のテレビ局とは違うもの。本当に読者が知りたいもの、視聴者が知りたいものをわれわれが作りましょう、というかたちでやれると思うんです。フランスに『ルモンド・ディプロマティック紙』という大変すぐれたクォリティ・ペーパーがありますが、その編集長のラモネ氏は「これからは情報の洪水になってくる。情報が増えすぎると情報がないのと同じで、それは自由を減らす」と語っています。そのときに、これだというものを出せるやつが勝つので、それが専門家集団である。


*ル・モンド・ディプロマティー(Le Monde Diplomatique) 르몽드 디플로마티크Ле монд діпломатікとは、フランスの月刊誌(タブロイド判で刊行されるため、月刊紙と表記するほうが正確)。フランス語の他、英語、ドイツ語、スペイン語、日本語(オンラインのみ)など22言語で刊行されている。
本多 本当の意味でのジャーナリスト集団ですね。そういうアイディアとそれなりの場という両方持っていて、アイディアとしても外へ売れるし、自分たちでも場があるということ。
伊藤 やっぱり場を持っていなければ。
本多 インターネットも同時に、あれこそ簡単だから。
伊藤 これはすぐにできる。
本多 おおざっぱな話、たとえば200人の会社で、新聞だけでいえば100万部の新聞は可能だと思います。雑報は通信社だけでいいから、本当の意味のジャーナリストだけおけば、ライターとしては。
いま送っているのは、いわゆる大新聞と同じような総合新聞か、それともクォリティ・ペーパーかということ。
伊藤 ぼくはクォリティ・ペーパーだと思いますけどね。
本多 クォリティ・ペーパーなら30万部あれば十分ですし、そんなに何ページもいりませんから、値段も今の新聞より安くできる。
伊藤 結局、読者が欲しいのはルポと、問題の本質と今後の行方、どうすべきかの指摘、後は細かい情報ね。
本多 そうね。ニュース的なものは細かくたくさんっていんですよ。それからこういうことは可能ですか。たとえば朝日が特ダネを出すでしょう。「『朝日新聞』によれば」といって、次の日にそれを、あるていど裏付けをしながらやったとしても、それは違法ではありませんね。
伊藤 全然かまわない。たとえば、『ヘラルド・トリビューンHerald Tribune』などはまったくそれですね。『ニューヨーク・タイムズ』と『ワシントン・ポスト』の主な記事をぽんぽん寄せ集めして作っています。あれは両社との契約で作っているんですが。
本多 でも、それは「あと追い」とか第二報ではないでしょう。
伊藤 ええ、一報です。
本多 あと追いだろうが二報だろうが重要なやつは翌日みんなやりますよと。二報なら金いらんから。最初の資金と経営形態は、やはり韓国の『ハンギョレ』新聞が一番参考になりますね。読者が株主になるメディア。そんなわけで、伊藤さんの取材した『ハンギョレ』のルポが近く本誌で連載になります。(『週刊金曜日』2000年7月21日・28両号)
<注1>『アジア記者クラブ通信』が月刊で年間購読費3000円(郵便振替00180-4-709267アジア記者クラブ、会員になるには年間5000円)。事務所は〒162-0052東京都新宿区戸山2-20-511(TEL FAX:03-3204-2301MAIL: apc@cup.com URL: http://apc.cup.com/
<注2>この問題については「ペルー日本公使邸の『現場』と題して当時書いた一文が、拙著『貧困なる精神・M集』(朝日新聞社)に収録されている。
<注3>このとき一緒に入った4,5人は事前にゲリラ側の了解がなかったので、共同会見のあと出された。
<注4>田中角栄の選挙区ルポは、『朝日新聞』1976年12月7日夕刊(統合版は同8日朝刊)に発表されたが、さらに加筆された長編ルポに「田中角栄を圧勝させた側の心理と論理」として拙著『美しかりし日本列島』(朝日新聞社・1996年)に収録。
<注5>拙著『ジャーナリスト』(朝日新聞社・1995年)収録の「職業としての新聞記者」第一章「新聞記者になることの意味」で詳述。

                 今なぜ『ハンギョレ』なのか
「日本に真のジャーナリズムを創るために」と題して伊藤千尋氏と対談したなかで触れたように(前項)、今週号(『週刊金曜日』)から『ハンギョレ』のルポが連載されます。なぜ外国の新聞についてこのように詳細な紹介記事を発表するかについて、その背景を説明しておきましょう。
日本のマスコミに、もはや真のジャーナリズムはほとんど存在しないか、あっても非常に弱体化している点については、今や議論の余地がありません。もちろん良心的知識人はいるのですが、日刊紙の場合についていえば、そうした記者が会社の基本政策を決定できるような主流の位置におかれることは決してありえません。
そのような今のマスコミ(情報産業・情報商売)に対するさまざまな批判は、ほとんどその通りでしょう。マスコミ関連の雑誌でもよくとりあげられているし、私もその種の座談会などで発言してきました。先日(8月26日)の『アジア記者クラブ通信』100号記念シンポ(『週刊金曜日』協費)でも話したように、批判はもう「聞きあきた」し、今のマスコミがそんな批判を聞き入れて変る可能性はありません。
となれば、次の段階はただひとつ、自分たちで真のジャーナリズムのメディア(日刊紙やテレビ放送など)を創ることです。議論はそのための方法をめぐってやるべきではないか。
もうかなり前のことになりますが、朝日新聞社の硬派週刊誌『朝日ジャーナル』終刊号(1992年5月29日号)で、「ジャーナリスト党宣言」と題して日刊紙創刊の構想を発表したことがあります<注1>。その中で、読者が株主になる案を提唱したわけですが、これには『ハンギョレ』が念頭にありました。当時まだ創刊四年目の『ハンギョレ』でしたが、すでに確かな地歩をかためつつあったので、『朝日ジャーナル』でのこの「宣言」の直前に『ハンギョレ』の東京特派員・李柱益Lee Joo-Ick氏から詳細を聞くとともに、ソウルも訪ねて二日間ほど見学してきたのです。
あのときからすでに8年、『ハンギョレ』は60万部となり、韓国の全国紙10紙のうち部数と影響力で四位を占めるに至りました。韓国の人口は日本の約半分ですから、日本でいえば120万部に相当するわけです。最近『放送レポート』164号(2000年5月)の特集「政治とメディア」で、政治学者の高畠通敏氏が次のように提言しています。
「なぜ100万部単位で成り立つ読むべき新聞が日本にはないのでしょうか。そういう新聞をつくり直すことから本格的に考えないと仕方がない」
*Michitoshi Takabatake高畠 通敏 ( 1933 ( Showa 8) November 16東京都出身- 2004 ( Heisei 16) July 7) is a Japanese political scientist . Known for his research on econometrics . He is a professor emeritus at Rikkyo University .
本当に、日本には「なぜ」ないのでしょうか。需要は十分にあるはずです。にもかかわらず、なぜないのか。実は、私自身にも『朝日ジャーナル』での構想発表や『ハンギョレ』取材のあと、日刊紙創刊準備にかかわれなくなった理由が二件ありました。第一は、ほかならぬ本誌の創刊でです。私は書く「場」として筑紫哲也氏とともに創刊を応援したものの、自分が社長や編集長をやる心算も能力も全くなかったのに、創刊まもなくそれを引き受けざるをえない事態に陥りました。そして第二は、朝日新聞社から刊行が始まった著作集(全20巻)に、予想外の手間と時間をとられたことです。
それは措くとしても、今週の連載第一回で、『ハンギョレ』創刊に意欲的だった初代編集局長・ソン=ユボ氏の次のような言葉が出てきます。
ソン=ユボ氏は、CTSという初めて聞く言葉にとまどいつつ、半信半疑なままに「もしかしてできるかもしれない」と思い始めた。そして「自信は持てないが、自信を持ってやったことがこれまでにあっただろうか。問題はやるべきかどうかだ、挑戦すべきだ」と考えた。
そう。「やるべきかどうか」なのです。日本の日刊新聞は、いわゆる三大全国紙はもちろん、ほとんどが戦前のままつづいています。天皇と同じように、なぜ新しい本格的日刊紙ができなかったのか。理由は数えればいろいろあるでしょう。しかし最も根本的な最大の理由は、「やる」ことを決意した人々がいなかったからではありませんか。いろいろ障害や困難を数えたてていたら、できっこありません。やるのか、やらぬのか。まさに「中間の道はない」のであります。
そのようにして『ハンギョレ』は創刊されました。もちろん韓国と日本では、社会情勢や歴史が異なりますから、そのままそっくり応用するわけにもゆきますまい。しかし「マスコミ」ならぬ「ジャーナリズム」のメディアを創ろうとする者たちを求める人々にとっては、大いに参考になるに違いありません。この連載は、そんな意図のもとに企画されたことを理解の上で、お読みいただけたらと存じます<注2>
尊敬するジャーナリスト・原寿雄氏も言っておられるように、まことに「ジャーナリズムは平和革命の主役にふさわしい」(リベルタ出版『市民社会とメディア』の結びから)のですから。
(『週刊金曜日』2000年9月8日号)
<注1>拙著『ジャーナリスト』(朝日新聞社・1995年)収録の「ジャーナリスト党宣言」
<注2>伊藤氏のこのルポは、のちに岩波ブックレットの一冊にまとめられている。
                  一杯のスープについて         鎌田慧
たまに日本映画をみると、なんと日本はダメな国なんだろうと思ってしまう。日本の映画をダメにしたのは、日本そのものなのだから、ダメ日本映画=ダメ日本と、おなじものになる。といっても、やはりそれはいささか乱暴すぎる意見で、外国映画ならなんでもいい、というわけではない。それでも、日本映画を三本みるより、国を問わず外国のものを一本みているほうが、はるかに充実感がある。
さいきんみた唯一の日本映画は、『敦煌』である。これ一本で日本映画を語るのは申し訳ないが、なにか仰々しいだけで、大国になった日本の”威力”を感じさせられてしまった。

*『敦煌』(とんこう、中: Dun-Huang;英: The Silk Road≪Дуньхуан (фильм)Шёлковый путь≫Sur la route de la soie돈황 (영화)は、1988年の日本・中国合作映画。1989年の第12回日本アカデミー賞で複数受賞をした。原作は井上靖(Deutschドイツ語→Yasushi Inoue (japanisch 井上 靖Ясуси Иноуэ, Inoue Yasushi; * 6. Mai 1907 in Asahikawa, Hokkaidō北海道出身; † 29. Januar 1991 in Tokio) war ein japanischer Schriftsteller.)の小説「敦煌」。
たしかに、井上靖の原作にも戦闘シーンは多かったが、それでもあすこにはまだ、西夏文学にたいする、あるいは西夏の文化にたいする主人公の畏敬の念が書き込まれていたように思える。城壁に生い茂った蔦葛のような、飾りの多い西夏文学との出会いが、科挙の夢破れた青年にとって、ᠭᠣᠪᠢГовьコビ砂漠Гоби戈壁のむこうに蜃気楼のように揺れ動く、あらたな希望の出現だった。

*Українськаウクライナ語→Держа́вні і́спити (кит.: 科舉Imperial examination; спрощ.: 科举; піньїнь: kējǔ; кор. 과거, МФА: [kwɑːgʌ]; яп. かきょ, МФА: [kakʲo]) Chinesische Beamtenprüfung während der Qing-DynastieExamens impériaux— система централізованих екзаменів на отримання чиновницької посади в домодерному Китаї та країнах китаєцентричного світу — Кореї, В'єтнамі та Рюкю.
映画『敦煌』へのわたしの期待とは、佐藤純彌監督が自慢している古代戦法の披露などではなく、主人公が敦煌にたどりつくまでの砂漠との苦闘、あるいは砂漠そのものの描写だった。あのコビ灘を渡っていく青年の情熱は、カメラでの裁くとの対決によって、はじめて描ききれよう。砂漠は戦闘の場である前に生活の場だったはずで、どんな食物をどのようにして得ていたのかが、つい気になってしまう。その点でいえば、『一碗の汁』をめぐる時代の変遷をとらえた中国映画、謝晋監督の『芙蓉鎮』のほうが、はるかに才能を感じさせる。才能というのは、やはり問題意識というべきか。
①Русскийロシア語⇒Дзюнъя Сато (佐藤純彌 род. 6 ноября 1932, Токио, Япония東京都出身 — ум. 9 февраля 2019, Токио) — японский кинорежиссёр и сценарист


①Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Grad hibiskusa (pojednostavljeni kineski: 芙蓉镇; tradicionalni kineski: 芙蓉鎮; pinyin: Fúróng zhèn) je kineski igrani film snimljen u režiji Xie Jina i premijerno prikazan 1987②Françaisフランス語→Xie Jin (谢晋) est un réalisateur et scénariste né à Shangyu dans la province du Zhejiang en Chine le 21 novembre 1923 et mort le 18 octobre 2008 à Shangyu.
若夫妻がいる。屋台で「米豆腐」を売って生計をたてているのだが、その味は絶妙のようでいつも賑わい、やがて念願の店をもてるようになる。が、そのころ、この辺境にも文革の波が押し寄せ、儲けたのが裏目に出て店はつぶされ、夫は混乱の中で死亡してしまう。
*Latviešuラトビア語→Kultūras revolūcija (ķīniešu: 文化大革命문화대혁명Cultural Revolution, Great Proletarian Cultural Revolution, piņjiņs: Wénhuà Dàgémìng) Вели́кая пролета́рская культу́рная револю́цияbija radikāla Ķīnas Komunistiskās partijas, armijas un sabiedrības "tīrīšanas" kampaņa, ko 1966. gada pavasarī iesāka Ķīnas Tautas Republikas diktators Mao Dzeduns, lai atbrīvotos no citādāk domājošajiem partijas vadītājiem.
妻は追放されてきたインテリの世話で、清掃労働者となるが、二人はやがて結ばれ、また「米豆腐」を商るようになる。開放経済体制、小商店の育成、インテリの復権、中国の自由化を織りこんだメロドラマだが、時代が揺れ動いていても絶望せず、生き抜こうとするしたたかさがテーマともいえる。
「一杯のスープ」からはじまる叛乱を描いたのは、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』だが、『ワールドアパート』では、「一杯のスープ」をめぐる、黒人と白人の子どもの連帯が描かれていて、すがすがしい。

①『戦艦ポチョムキン』(せんかんポチョムキン전함 포템킨、ロシア語: Броненосец «Потёмкин»ブラニノースィツ・パチョームキン、英語:Battleship Potemkin)は、1925年に制作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の長編第2作で、「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。

②セルゲーイ・ミハーイロヴィチ・エイゼンシュテーイン(ロシア語: Серге́й Миха́йлович Эйзенште́йн Sergéj Michájlovič Ėjzenštéjn, Sergei Mikhailovich Eisenstein, ラトビア語: Sergejs Eizenšteins; 1898年1月10日(グレゴリオ暦1月23日) - 1948年2月11日)סרגיי אייזנשטייןは、ロシア帝国領のリガに生まれた、ソビエト連邦の映画監督。
『ワールドアパート』は、南アでアパルトヘイトと闘う夫婦と子どもを主人公にしている。
13歳になるモリーの父親は弁護士だが、警察に追われるようになって国外に脱出する。ジャーナリストの母親は、仕事をつづけながら、政治集会に参加して、逮捕されてしまう。その結果、学校では、親友が遠ざかるようになる。ある日、彼女はメイドの実家に連れていってもらう。黒人たちだけが囲いこまれたスラム街だ。
ここでモリーは、メイドの家族たちに歓待され、御馳走になるのだが、スープ皿を前にして彼女は声をあげる。
「あら、足がはいっている」そのいいかたが自然で、とてもいい。「足がはいっているのは、幸福がくるんだよ」
といいながらも、メイドが小鳥の足をすくいあげると、そばに座っていた彼女の子どもが受け取っておいしそうに食べはじめる。モリーは嫌そうな顔ひとつしないし、メイドは押しつけがましくない。家族たちもごく当り前にしている。おたがいの文化を尊重しあっている様子がよく出ている。

*Русскийロシア語⇒Апартеи́дアパルトヘイト, апа́ртхейд(африк. apartheid «раздельность»南非種族隔離아파르트헤이트, то есть раздельное проживание, работа и т. д.) — официальная политика расовой сегрегации, проводившаяся правившей в Южно-Африканском Союзе и Южно-Африканской Республике Национальной партией с 1948 по 1994 год.

①A World Apart is a 1988 anti-apartheid drama film and directed by Chris Menges and starring Barbara Hershey, David Suchet, Jeroen Krabbé, Paul Freeman, Tim Roth, and Jodhi May. Written by Shawn Slovo, it is based on the lives of Slovo's parents, Ruth First and Joe Slovo. The film was a co-production between companies from the UK and Zimbabwe, where it was filmed. It features Hans Zimmer's first non-collaborative film score②クリス・メンゲス(Chris Menges, 1940年9月15日 - )Крис Менгесは、イギリスの映画監督、撮影監督③Afrikaansアフカーンス語→Joe Slovo (Obeliai, 23 Mei 1926 – 6 Januarie 1995)Джо Словоג'ו סלובוwas 'n Suid-Afrikaanse politikus, leier van die Suid-Afrikaanse Kommunistiese Party, en 'n vooraanstaande lid van die ANC.
南アをテーマにした映画といえば、リチャード・アッテンボロー監督の『遠い夜明け』は、おっかなびっくり黒人異留地にはいっていく白人の新聞記者の話である。彼はようやく彼らを理解するようになるのだが、これにくらべれば『ワールド・アパート』での黒人と白人の関係は、きわめて自然である。黒人解放のために闘っている、との意識はまったくない。

①『遠い夜明け』(Cry Freedom자유의 절규Клич свободыは、1987年に製作・公開されたイギリス映画。監督はリチャード・アッテンボロー、出演はデンゼル・ワシントンDenzel Washington、ケヴィン・クラインKevin Kline②アッテンボロー男爵、リチャード・サミュエル・アッテンボロー(Richard Samuel Attenborough、Baron Attenborough、CBE、1923年8月29日 - 2014年8月24日)は、イギリスの映画監督、映画プロデューサー、俳優(
『大脱走The Great Escape』『ジュラシック・パークJurassic Park』などが日本の方々になじみがあるかもしれない)
アパルトヘイトは自分たちの問題なのだ。クリス・メンデス監督は、『キリング・フィールド』の撮影監督だったという。あの映画でのカンボジア人記者は、最後まで「助手」扱いで、わたしは不満だったが、この映画では、「共闘」の立場が貫かれている。とりわけこの映画ですぐれているのは、逮捕され、取調べを受ける母親の動揺で、動揺しながらも、辛うじて供述を拒否する内的なたたかいが着実に描かれ、監督の目配りのよさと才能を感じさせる。ストーリー全体は、脚本を書いたジョーン・スロボの実体験によるそうだが、ひと口でいうと、運動の視点が明確なのだ。反アパルトヘイトの指導者だったメイドの実弟ソロマンも逮捕され、『遠い夜明け』のスティーブ・ビコのように虐殺される。その葬儀のときに聞えてくる歌声が美しい。

①『キリング・フィールド』(The Killing Fields)킬링필드 (영화)Поля смертіは、1984年制作の英米合作映画。ニューヨーク・タイムズ記者としてカンボジア内戦を取材し、後にピューリッツァー賞を受賞したSydney Schanbergシドニー・シャンバーグСидней Х. Шенбергの体験に基づく実話を映画化したもの②ディス・プランឌិត ប្រន(英語: Dith Pran、 1942年9月27日 - 2008年3月30日)Дит Пранは、カンボジアの報道写真家(「助手assistant」?笑)

③バントゥー・スティーヴン・ビコ(Bantu Stephen Biko스티브 비코Стівен Банту Біко, 1946年12月18日 - 1977年9月12日)Стив Бикоは南アフリカのアパルトヘイト抵抗運動Internal resistance to apartheid活動家。かつ、アフリカ社会主義者であり、黒人意識運動Black Consciousness Movement (BCM)Swartbewussynsbewegingとして知られる1960年代後半と1970年代の草の根的な反アパルトヘイト・キャンペーンの最前線にいた。
この映画の特長は、南アの黒人たちの表情が、それぞれ自信に満ち充ちていて、輝いていることである。わたしは激烈なアルジェリア解放闘争を描いた、ジロ・ポンテコルヴォ監督の『アルジェの闘い』を想い起こしていたが、映画が終って、長いタイトルパックが流れているあいだ、南アのたたかいがけっして『遠い夜明け』などではなく、ごくちかい未来を予兆させているのを痛感させられた。生きる元気がでてくる映画である。

①『アルジェの戦い』(アルジェのたたかいLa Bataille d'Alger、原題:La battaglia di Algeri《알제리 전투》
The Battle Of Algiers«Битва за Алжир»Битва за Алжир (фільм)は、1966年にイタリアで公開された戦争映画
②ジッロ・ポンテコルヴォ(Gillo Pontecorvo, 1919年11月19日 - 2006年10月12日)Джильбе́рто Понтеко́рвоは、イタリアの映画監督。
この映画によって撃たれるのは、日本映画であり、日本そのものである。泰平小僧ニッポンの映画には、いまアッピールすべき何ものもないようだ。まるで、ニッポンには、何の矛盾もないかのように、映画は無気力の淵に沈んでいる。これだけ問題になっている原発についてでも、森崎東Azuma Morisaki監督(長崎県出身)の『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言While you're alive, you're a flower』一本だけ。痛快な映画だったが、不入りに終ったようだ。まして、まともに現実とむかい合おうとしない日本映画が、観客に支持されるわけはない。
さいきんの新聞記事によれば、ようやくトヨタ自動車は南アでの販売を縮小する方針をだしたそうだが、人権にたいして鈍感すぎる。工場の中にさえ人権など存在しないのが日本企業だからしょうがないが、GMやIBMなどはとうの昔に撤退している。「名誉白人」などと中途半端な存在となって南ア経済に食いこみ、対南ア貿易世界一の実績を誇っているのでは、ГиеныハイエナHyaenidaeШтрейкбрехерствоスト破りStrikebreakerMarodeur火事場泥棒Looter at a fire、といわれても仕方ない。
いまでもなお、大手商社などは売り込みにむかっている。南ア白人社会のおこぼれにあずかるのを拒否するためには、南ア大使館や外務省にデモをかけるのもひとつの方法であろう。(『どうしようもないJRなど』88年10月)
Portuguêsポルトガル語→Brancos honorários foi um termo jurídico que esteve institucionalizado desde 1961 pelo regime de apartheid da África do Sul, para conceder quase todos os direitos e mordomias dos brancos aos estrangeiros que não eram brancos.명예백인名譽白人From January 19, 1961, those with Japanese nationality日本国籍を有する者 were treated as "honorary whites名誉白人" for economic reasons . Japan has been South Africa's largest trading partner since the late 1980s, while Western countries have cut economic ties with apartheid South Africa for humanitarian reasons.榮譽白人(南非語:Ere-blankes,英語:Honorary whites②2015/02/13 —Japan PM ex-adviser praises apartheid in embarrassment for ... Author Ayako Sono, considered part of Abe's informal brain trust, set off a wave of online fury this week when she wrote in the conservative ...2015/02/19 — Sono Ayako has written that after seeing Apartheid in Africa, she came to hold certain opinions on racial matters←「曾野は戯れ歌を作った。『慶良間ケラケラ、阿嘉んべ、座間味やがれ、ま渡嘉敷』無恥というしかない」(鎌田慧『ドキュメント・現代』1989年)。

Peace Boat (ピースボート피스보트, Pīsu Bōto) is a global non-government organization headquartered in Japan established for the purpose of raising awareness and building connections internationally among groups that work for peace, human rights, environmental protection and sustainable development. "Peace Boat" may also refer to one of the ships embarking on a cruise under the Peace Boat organization.
                  ピースボートの旅         鎌田慧
8月は仕事をしてはいけない、とわたしは思いこんでいる。バカンスなどとシャレているわけではないが、仕事場にはなんの冷房装備もないし、喫茶店は涼しすぎて長居はできない。それでなんとなく仕事をする気にならないのだ。
そんな気分のときに、若ものたちが自主運営している「ピースボート」に誘われて、ことしも出かけてしまったのは、彼らが一生懸命、カネにもならないのにはたらいているのに共感があるためである。
8月19日の朝、ソ連船で新潟港を出航してナホトカに到着、夜行列車でハバロフスク。そこから飛行機でサハリンのユージノ・サハリンスク、さらに飛行機を乗り継いで最北端の石油の町、オハまで北上した。

①ナホトカ(ロシア語: Находка、ラテン文字転写:Nakhodka나홋카は、ロシア連邦の極東部、沿海地方に属している商港都市である。日本海の北西部にあるナホトカ湾に面し、日本との関係が深い。清朝時代の名称は灠溝崴であった。人口は約15万人

②Khabarovskハバロフスク (Russian: Хабaровск, tr. Habárovsk伯力하바롭스크) is the largest city and the administrative centre of Khabarovsk Krai, Russia

①Українськаウクライナ語→Сахалі́н або Карафуто (рос.Сахалин, яп.樺太Карафуто)사할린섬— острів біля східних берегів Азії, на Далекому Сході Російської Федерації; омивається Охотським і Японським морями

②ユジノサハリンスク(露: Южно-Сахалинск、日: 豊原、とよはら、英: Yuzhno-Sakhalinsk、ユージュナ・サハリーンスク유즈노사할린스크)は、ロシア連邦の実効支配が及ぶ極東連邦管区サハリン州の都市で、同州の州都である③オハ(ロシア語:Оха Okha アハー)오하 (러시아)사할린주(Сахалинская область)は、樺太島北端の東岸に位置する、ロシア連邦サハリン州の市である。
新潟に帰ってきたのが、8月27日。翌々日の29日の昼、こんどは名古屋港から中国の天津港にむかった。北京、長春、大連とまわって帰ってきたのが、9月5日。いま、遊び疲れで茫然自失、何から手をつけていいかわからない状態である。
ピースボートは、ことしで六回目とかで、わたしの場合は二回目の参加だが、疲れるとはいえ、けっこう楽しい。2,3歳の幼児から80歳すぎの老人まで、さまざまな階層のひとたちが全国から集まっている。
「過去の戦争をみつめ、未来の平和を創ろう」というのがこの運動の趣旨である。で、ことしの場合は、旧樺太と旧満州が目的地ということもあって、戦争体験者の乗船が多かった。50歳になるわたしでさえ、「内地」にいただけで、戦争の体験はなく、戦後しか知らない。戦後生まれでさえ、43歳になっていて、戦争体験は、日本では完全に風化している。
①Русскийロシア語⇒Маньчжо́у-го (кит. 大滿洲帝國 [Даманьчжоу-диго] «Великая Маньчжурская империя»), Маньчжу́рия (маньчж. ᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡠᡵᡠᠨ manju gurun, кит. 滿洲國만주국 «Государство Маньчжурия»)

②Polskiポーランド語⇒Tiencin (chiń. 天津톈진; pinyin Tiānjīn; dosł. „niebiański bród”; [tʰjɛn˥ tɕin˥] i) – jedno z czterech miast wydzielonych Chin, znajdujące się pomiędzy Pekinem a zatoką Bohai, jeden z największych portów świata i specjalna strefa ekonomiczna ustanowiona po trzęsieniu ziemi z 1976 r.③Беларускаяベラルーシ語⇒Пекі́н (кіт.: 北京베이징, Бэйцзін — «паўночная сталіца») — сталіца Кітайскай Народнай Рэспублікі і адзін з самых густанаселеных гарадоў у свеце, з насельніцтвам у 21,707 мільёнаў чалавек станам на канец 2017 года④Українськаウクライナ語→Чанчу́нь (кит. 长春창춘) — місто у Китаї, адміністративний центр провінції Гірін (Цзілінь). Населення міста 2 млн⑤Françaisフランス語→Dalian (chinois simplifié : 大连다롄 ; chinois traditionnel : 大連 ; pinyin : Dàlián ; Wade : Ta⁴lien² ; EFEO : Talien ; cantonais Jyutping : Daai⁶lin⁴, également nommée Lüda et en japonais Dairen) est une ville de la province du Liaoning en Chine, donnant sur le golfe de Corée

ところが、わたしがまわった地域では、戦中がそのまま遺っていた。
たとえば、サハリン島のユージノ・サハリンスク(旧豊原市)にいったとき、ピースボートには、この都市を故郷にもつ何人かが乗船していた。わたしが知っている限りでも、日本人、朝鮮人、西ドイツ人、そしてソ連の通訳の青年もまたこの町で生まれ育っていたのである。
故郷が日本人だけのものでなく、さまざまな国の人たちによって共有されているとの発見は、わたしにとって新鮮なものだった。そして、戦後も、ここに日本人、朝鮮人、ロシア人、そしてさまざまな少数民族が生活している。
現地で会った日本人のひとりは、わたしとおなじ歳なのだが、2歳のときに両親に連れられて岩手県から「樺太」に渡り、父と生き別れ。成人して朝鮮人の娘と結婚して、いまソ連国籍、いまだ一度も日本に帰ったことはない、という。
サハリン北端のオハ市から飛行機でユージノ・サハリンスクに帰るとき、晴れていて下界がよくみえた。北サハリンはどうしようもないタイガ(密林)と湿地帯だったが、北緯50度をすぎて、南サハリンに入るころは険しい山が深い森に覆われていた。わたしの前の席に座っていた60すぎの人物は身じろぎもせずに、窓に額をくっつけて窓の下を眺めていた。
彼はここで戦い、捕虜となってナホトカの港湾建設などに従事していたという。その青春をもう一度みるために、眼をひらいていたのだった。
名古屋港から天津港にむかう船の中に、ひとりの女子高校生が乗っていた。彼女は中国で生まれ、7年ほど前、日本にやってきた。父親が日本人だったことが確認され、岩手県に住む祖父と再会、それで両親と兄と一緒に日本にやってきた。明るい少女で、夏休みを利用して故郷に帰ることになり、その「帰郷」を撮るテレビ局のスタッフと一緒に乗船していたのだった。
日本語は完全にマスターしていてなんの不自由もない。事情をきかない限り、母親が中国人で、7年前まで中国の学校に通っていたことなど想像できないほどである。
故郷に帰る女性がもうひとり乗船していた。歌手の寺井一通さんの姉さんである。2歳の時、母と父と兄との四人で引き揚げてきた。もうひとりの兄は、長春(旧新京)で病死した。
「もしかしたら、わたしも”残留孤児”になっていたかもしれない」
と彼女はいう。中国人たちが盛んに「売ってくれ」というのを、母親が拒絶しながら、大連のちかくのコロ島からなんとか引揚げ船に乗ったのだった。
*중국 잔류 일본인(일본어: 中国残留日本人 주고쿠 잔류 니혼진[*], 중국어: 遺華日僑)Japanese orphans in China
彼女の母親は、船に乗っている間、「児玉公園」がみつかるかどうか、そればかり気にしていた。というのも、その児玉公園の一隅に次男の亡骸を埋葬してきたからである。「ひとにぎりの土を持って帰りたい」それが四十数年にわたる母親の悲願だった。
*Deutschドイツ語→Shishaku Kodama Gentarō (japanisch 兒玉 源太郎(大日本帝国陸軍大将); * 16. März 1852 in Tokuyama, Provinz Suō, Japan山口県出身; † 23. Juli 1906 in Tokio) war ein General des Kaiserlich Japanischen Heeres und Politiker während der Meiji-Zeit.
児玉公園は、「勝利公園」と名前を変えて現存していた。当時の面影はまったくなかった、という。ただ、児玉将軍の銅像がたっていた台座に彼女の記憶があった。いま、その台座の上に、右手をさし伸べた毛沢東の巨大な像がたっている。
彼女が住んでいた家を発見するのを手伝ってくれたのは、残留日本婦人だった。通訳の女性が彼女を探してきたのだそうだ。戦争はどこにでもさりげなく残っている。
中国人たちは、初対面の日本人にたいして、自分の肉親が日本兵に虐殺された、などとはいわない。けっして忘れているわけではないが、それがエチケットだからである。古いことをもちだして、せっかくの中日友好を傷づけては、との政治的配慮からで、そこでは個人感情は抑えられている。
ところが、加害者の日本人は、彼らの心の傷に気がつかない。石井細菌部隊Jednostka 731や南京虐殺をはじめとする残虐行為を覆い隠そうとする日本政府のやり方は、当時の残虐行為に負けず劣らずのきわめて卑劣なものである。
「満州」を植民地にした日本の不遜な態度は、たとえば長春市の中心街に遺る関東軍司令部の建物をひとつみるだけでもよく理解できる。
なんとその建物は、日本の天守閣のイミテーションである。占領したものの優越感の表現が、「日本文化」だったのだ。おそらく、そのころ、そこでは日の丸の旗が、へんぽんと翻っていたのであろう。醜悪な光景だったにちがいない。(88年11月)

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