日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

《貧困なるザ「我が国」精神》泡沫世代데카당스(Décadence)퇴폐파(頹廢派)Генерация пузыря버블 세대『短編ルポ集』Satoshi Kamata鎌田 慧/Katsuichi Honda本多 勝一⑤


小林善紀(日语:小林 よしのり코바야시 요시노리/こばやし よしのりKobayashi Yoshinori ,1953年8月31日-)是日本男性漫畫家,本名小林善範(日語發音與筆名相同),暱稱「Yoshirin」(よしりん),為自營出版社「Yoshirin企劃」(よしりん企画)社長、以及政治運動團體「傲宣道場」主持人。福岡縣福岡市出身。

                                                              小林よしのり君に捧げる章        本多勝一
本誌の今週号(『週刊金曜日』2001年1月19日号)で特集されている女性国際戦犯法廷は、これまでに日本が主催した国際的行事の中で、久しぶりに真に歴史的意義のある、かつ世界的にも大きな反響を及ぼした大会議であった。(これに比べたら、たとえば、去年の「沖縄サミット26th G8 summit」など、日本が馬鹿にされる材料をまたふやしただけの、모리 요시로最低首相Yoshirō Moriによる行事にすぎまい。)この国際法廷の実現に、主催者やその協力者たちがどれほど大変だったか察するに余りあるが、今後の国際社会に長きにわたって波及しつづけるであろう成果は、はかりしれず、その労苦もむくわれたにちがいない。

*여성국제전범법정(Tribunal Internacional de Crímenes de guerra Sobre la Esclavitud Sexual de la Mujer en el Japón女性國際戰犯法廷, The Women's International War Crimes Tribunal on Japan's Military Sexual Slavery)은 VAWW-NET JAPAN을 포함한 인권단체들이 주최하고 국제적인 NGO들의 후원을 받은 법정이다[1]. 특히 일본군의 전쟁범죄, 일본군 위안부를 조직한 행위를 비판·검증하는 목적으로 세워진 모의법정이다.
ついでながら、この歴史的大法廷のことを、『読売新聞』は完全に無視し、一行たりとも報じなかったらしい。(「らしい」というのは、この間の同紙をくまなく読んだわけではないからだが、松井やより氏もそう語っている。)これが世界最大の発行部数だというのだから、日本人の哀しさと低民度の象徴のような新聞である。

①Українськаウクライナ語⇒Йоміурі Сімбун (яп. 讀賣新聞요미우리 신문 よみうりしんぶん, «газета „Оповісник“»; англ. The Yomiuri Shimbun) — японська загальнонаціональна газета видавництва групи Йоміурі, що виходить з 1874 року ②Yayori Matsui (松井やより마쓰이 야요리(東京都出身)Matsui Yayori) (April 12, 1934 – December 27, 2002) was a Japanese journalist and women's rights activist noted for her work to raise awareness of sex slaves and sex tourism in post-war Asia.[2] In 1961 she began work as a journalist for the newspaper Asahi Shimbun, retiring in 1994 to work as a full-time social activist, founding numerous women's organizations and writing on gender inequality in Japan and on sex crimes committed by the Japanese Imperial Army, namely against the comfort women of the Second World War.[3] Her work culminated in the 2000 Tokyo Women's War Crimes Tribunal, a tribunal held to gain some form of justice for the victims of Japanese military sexual slavery.[4]
この法廷の開催中の12月10日午後、法廷と趣旨を同じくするシンポジウム「ノーモア南京2000年東京大会」(星陵会館ホール)に私は出席していた。法廷で証言した中国人女性・楊明貞氏は、あの南京大虐殺当時の被害者なので、こちらにも来てくれ証言者の一人となったのであった。
楊明貞氏は、幼児強姦の被害者である。語るにつれて激しく泣き出し、通訳の女性に抱きかかえられるようにして舞台を降りていった。こういう証言のつらさは、被害者でなければ決して理解できないであろう。人間性も人格もすべて破壊された、これ以上はない最大の屈辱、多くの被害者が、いっそ殺してくれ、と思ったり叫んだりするのは、苦痛以上にこの屈辱に耐えがたいからなのだ。
だから楊明貞氏は、これまで仮名を使って語ってきた。今回ついに実名で語るにいたったのは、日本政府が責任をとろうとしない姿勢がつづくまえに、死ぬ前に自分の体験を自分の声で直接伝えておきたいと決意し、また今回の国際法廷での多数の証言者たちの勇気に支えられた結果でもあった。以下はその証言である。

1937年12月13日の朝、南京市に乱入してきた日本兵の一部が私の家に侵入すると、いきなり発砲してお婆さんを殺し、父も左手を撃たれました。母に「タバコとマッチをくれ」と言い、母が「どうぞ」と応じたのに、日本兵は母も蹴飛ばして怪我をさせました。負傷した父が逃げ出そうとしていると、午後二時ごろまた別の日本兵が来て、母がかくしておいた現金とネックレスを奪っていきました。
あくる14日、父母と私は安全区へ逃げようと、午後二時ごろ外へ出たところへ、また日本兵が現れて、家の中へ連れもどされました。そこで幼女の私を強姦しようとした日本兵が、私のズボンをぬがせようとしたのです。驚いた父親が私をかばってさえぎろうとすると、日本兵はなぐり倒し、負傷していた父親は倒れたまま動けなくなりました。
さらに15日、ひん死の父親は寝台にいて、やはり怪我をしていた母も寝ていました。そこへまた現れた日本兵は、寝台の父親の口を軍刀でこじあけたり、目を傷つけたりして、生きているかどうか調べました。母親は顔に墨をぬりたくっていたけれど、東洋鬼(日本兵)はその顔をなぐりつけ、強姦し、さらに局部に刀をつきさしたのです。そして、(別の日本兵に?)私も強姦されました。私はまだ幼女なので、局部がもちろん小さく硬いため、指をねじこんで強引にこじあけて強姦したのです。私は激痛のため歩けなくなりました。
父は数日後に死に、母もその後を追ったので、私は孤児になりました。私の面倒をみると言ってくれていた婦人も、安全区から戻ってきた彼女の娘とともに三人の兵から輪姦されました。日本兵は幼女であれ老女であれ、女とあれば強姦していきました。
年があけて(1938年)、11歳の少女が強姦された上、局所に銃剣がさし込まれたところを見ました。私もまた強姦されるところでしたが、局部がはれ上がっていたので、東洋鬼はあきらめたようです。(楊氏の語りは、もはや声涙ともにくだってよく聞き取れない。通訳の中国人女性も楊氏に何回も聞き直さなければならない上に、日本語がまだ不完全でわかりにくい。)
それからの私は、乞食をつづけながら南京の路上で生きてきました。主な食べ物は市場の残飯などです。日本兵の軍用犬に噛まれたこともあります。下半身の痛みはのちのちまでつづきました。今でもオシメを当てなければならない生活が後遺症として続いています。小便の調節機能がこわされたからです。
そんな乞食生活が、12歳になるまでつづいたころ、のちに夫となる15歳年長の男性に出会ったのでした。

*Françaisフランス語→Le japonais guizi日本鬼子(guizi japonais / lecture japonaise : Riben guizi르번구이쯔, Pinyin : rìběn guĭzi ) est un terme péjoratif pour désigner les )Singapour,Macao,Hong Kong,Taïwan,Chine(les pays de langue chinoise, principalement utilisé dansJaponais Un mot qui en est presque synonyme est le démon oriental東洋鬼 (Dong Youngi, Pinyin : dōng yáng guĭ ) .

https://www.youtube.com/watch?v=cqhNVW4Mck0&t=1783s
楊明貞氏の被害体験はこのようなものであった。これは楊氏が一方的に語った不完全なままなので、私の通常の「聞き書き」による方法の結果ではない。したがって細部は不明だし、前後関係で分かりにくいところも多い。私の通常の聞き書きであれば、当人が語った時間の10倍以上をかけて、風景として再現できるまで問いただして完成するけれど<注1>、今回はそれだけの時間を改めてとってもらう余裕が、楊氏の滞在日程上とれなかった。
しかし、仮に時間がとれたとしても、この種の問題だと「詳細」な質問によって「風景」を再現することが、私にはむずかしい。前述のように、全人格を破壊されたような想像を絶する屈辱行為を、根ほり葉ほり再現することになるからである。これが当人にとってどんなにつらいことか、たとえば私のルポ『南京大虐殺』(朝日新聞社=注2)でも、強姦以外のところについては質問に詳細に答えた婦人が、自分が強姦された体験についてはつぎのような方法で伝えた(同書19~20ページから)。

Massacre de Nanjing auteur Katsuichi Honda (Auteur)
こんどの取材旅行で予想以上におおかったのは、日本兵による強姦の体験者たちであった。しかし、これは中国の女性にかぎらぬことであろうが、いかに昔のこととはいえ、強姦された当人がそのときの屈辱の状況を詳細にかたることはまれである。相手が男性であり、しかも、当の日本兵たちの国からきた記者とあれば、それはなおさらのことだ。したがっておおくは公社幹部など第三者をつうじてかたるのだった。
ここに紹介する72歳の女性の場合は、46年前にうけた日本兵の暴行の体験をみずからかたったが、核心の強姦そのものの部分だけは、私にではなくて公社副主任にかたり、あとで私につたえた。実名をださないようにと依頼されたわけではないが、ここでは仮名としておきたい。
日本軍が上陸してきたとき、劉美齢さん(仮名)は26歳であった。やはり26歳だった農民の夫とのあいだに、6歳の長男以下3人の子があり、金山衝城外の家には老いた母親も同居していた。
3人の日本兵があらわれたのは、上陸二日後にあたる11月7日の午後である。6人の炊事場の竈のかげにかくれた。壁とのあいだに隙間があり、ふつうは薪などをおいてある。3人はしかしすぐに一家をみつけた。夫はただちにそとへ連行され、射殺された。一番下の八ヶ月の子を抱く劉美齢さんを、日本兵は銃床でなぐりたおした。劉さんは耳から出血して気絶した。
このときのけがで、以後三年間にわたって劉さんはベッドからおきることができず、横になったままだった。母親は乞食をして食物をはこんだ。日本敗戦の直前、14,5歳になっていた長男が、あるとき日本兵に徴発されて材木運びをさせられた。ちかくの大廟(方明謙の廟)の一部をこわして薪にするための作業だったという。作業中、長男は材木の下敷きになって死んだ。
劉美齢さんが直接私にかたったのは以上である。しかしほかの体験者のはなしを私がきいているあいだに、彼女は部屋のかたすみで公社副主任になにかをかたりながら、ながれる涙をぬぐっていた。彼女のかえったあと、副主任はつぎのようにかたった。
「これは劉美齢さんがあとでつたえてくださいと言ったことですが、あのとき銃床でなぐられたあと、劉さんは3人の日本兵にかわるがわる強姦されたのです。しかもそれから当分のあいだ自宅で監禁状態にされて、日本兵が連日のように、3,4人ずつきては強姦したので、何十人ともしれないちがった兵隊たちに連日の屈辱をうけつづけたのでした。」
自分が強姦された体験を、侵略者の国から来た記者、それも男の記者に語るのは屈辱の上ぬりのような気さえするだろう。せめて女性の理解者(西野瑠美子氏などのような)に語るほうが、まだ気やすめていどにはましであろう。
*Rumiko Nishino西野 瑠美子 (1952-長野県出身 ) is a Japanese reportage writer and journalist.
こうした取材体験を重ねてきた者の一人として、楊明貞氏らのように、自らの屈辱を公然の場で証言することがどんなにつらく、かつ勇気を要することか、心情を察するに余りある。だから楊氏は、自分が強姦された事実を子どもにも言えなかった。もう70歳近くなり、死ぬ前にどこかに訴えたいと思っていたとき(四年前の1997年)、南京のテレビで大虐殺の被害体験を聞きとるニュースを見た。それで話す気になって「南京大虐殺記念館」に出かけたのだが、対応した館員に強姦のことはどうしても言えず、父母が殺されたことだけ伝え、入口に出て泣いていると、館員が出てきてもっと話すようにと言われ、ようやく決心してすべてを語ったのである。これが被害から60年後の、初めての告白だったが、日本での証言も当初は弁護士の前だけだったが、今回は公衆の前でこうして語った。
日本が侵略した中国その他では、こうした被害者が数知れないのだが、いま売国的国粋主義者たちがナチの「ウソも千回言えば本当になる」方式ですべてを否定し、日本の国際的孤立化を進めている。

南京大虐殺についても、すでに事実によってとっくに論破された否定派が、文春の雑誌などでゲッベルス式確信犯として「ウソも千回」をくりかえしているが、小林よしのり型の無知なマンガ家はまたその下請け作業で民衆をだますのであろう。こんな作業が日本で可能なのも、戦後の日本が自らの手で戦犯を裁くことを怠り、真に反省してこなかった大情況が背景にある。その反映としてのマスコミは、だから侵略肯定派を公然または半平然と支援する。同じ旧侵略国でも、ドイツではこんな売国的風景が主流になることはありえない。(『週刊金曜日』2001年1月9日号)
①주간문춘Weekly Bunshun(일본어: 週刊文春Shūkan Bunshun)은 분게이슌주에서 발간하는 일본의 주간 시사·대중잡지이다. 1959년 4월에 창간하였다②Françaisフランス語→Bungeishunjū Ltd. (株式会社文藝春秋, Kabushiki-gaisha Bungeishunjū?), fondée en janvier 1923 par l'écrivain Kan Kikuchi, est une maison d'édition japonaise connue pour son grand magazine mensuel Bungeishunjū⇒Bungeishunjū (文藝春秋) (mensuel)All Yomimono (オール讀物, Ōru Yomimono) (mensuel)Shūkan Bunshun (週刊文春) (hebdomadaire)Bungakukai (文學界) (revue littéraire mensuelle)Crea (クレア) (women's quality)Shokun (諸君!) (op-ed magazine)Title (タイトル)Number (ナンバー)Betsugo Bungeishunjū (別册文藝春秋)③Dec 13, 2018 — 你知道,南京大屠殺,30多萬中國同胞被日軍殺害;你知道,1937年的南京,像是一個人間 ... 《文藝春秋特輯︰我在那里——目擊者的證言》1956年12月④Dec 30, 2021 — 他在日本文艺春秋社出版了《“南京大屠杀”之虚构》(’有識者Expert’田中正明Masaaki Tanaka「先生Sensei」著author)一书,公然为甲级战犯松井石根翻案招魂。 他把松井石根《阵中日记》的原文修改了900多处(原文を900箇所以上改竄していた)⑤パール判事の日本無罪論 (小学館文庫) | 田中 正明Judge Pal's Japan Innocent Theory (Shogakukan Bunko) | Masaaki Tanaka⇔ゴーマニズム宣言SPECIAL パール真論(小学館) | 小林 よしのりErklärung des Gomanismus SPECIAL Pal Truth(Shogakukan)|Yoshinori Kobayashi《新歷史教科書》《傲骨宣
言》«Напрямик в Токийский университет»«Оботтяма-кун»

①Jan 31, 1998 — Le négationnisme japonais s'affiche dans les publications ...— PUBLIÉ DANS LA REVUE « SAPIO », proche des milieux réactionnaires, Yoshinori Kobayashi dénonce l'histoire officielle et cherche à pointer ...②Mar 25, 2001 — But as attested by the huge sales of the nationalistic manga -- drawn and written by a best-selling author, Yoshinori Kobayashi -- Japan's ...③Avril 2002. Autour de la négation de Nankin et de la revue ... L'Actualité du révisionnisme historique au Japon. ... japonais ; ou encore Théorie de la guerre 2, manga de Kobayashi Yoshinori, alors encore membre du ...④Jan 25, 2011 Yoshinori Kobayashi — Concernant les crimes commis par l'armée impériale japonaise et notamment le massacre de Nankin, Kobayashi les rejette entièrement : "S'il y ...

①Dec 6, 2019 — Angela Merkel à Auschwitz : le souvenir des crimes nazis ... Angela Merkel s'est rendue pour la première fois depuis qu'elle est chancelière au camp d'Auschwitz, symbole de l'Holocauste, où 1,1 million ...②Dec 6, 2019 — La mémoire des crimes nazis est «inséparable» de l'identité allemande, a déclaré vendredi la chancelière Angela Merkel, à Auschwitz qu'elle ...③Jun 19, 2021ーKanzlerin Merkel: Jahrestag des Überfalls von Nazi ...Bundeskanzlerin Merkel hebt dabei die Politik von Michail Gorbatschow hervor: Diese habe den Deutschen 1990 die friedliche Wiedervereinigung ...④Dec 6, 2019 —Angela Merkel says Germany must remember Nazi crimes -The chancellor expresses Germany's "deep shame" on her first trip to the Auschwitz death camp.
<注1>私の聞き書きの方法は、拙著『調べる・聞く・書く』(朝日新聞社・1996年)で詳述した。
<注2>『南京大虐殺』は文庫版の『南京への道』のほか、その後の調査も含めた三回分のルポを集大成したもの。


[1987]Route vers Nanjing (Asahi Nonfiction) auteur Katsuichi Honda (Auteur)

Españolスペイン語⇒Pablo Ruiz Picassoパブロ・ルイス・ピカソ (Málaga, 25 de octubre de 1881–Mougins, 8 de abril de 1973) fue un pintor y escultor español, creador, junto con Georges Braque, del cubismoスペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家。フランス共産党員
                    恐怖の学校          鎌田慧
三木武夫首相の合同葬は、12月上旬、日本武道館で行なわれた。7000人も参列したという。自民党のなかでは、彼はまあマシな政治家だったであろう。それはともかく、その日、千葉県松戸市の小学校では、一分間の黙とうを捧げさせた、という。
①Русскийロシア語⇒Такэо Мики (яп. 三木 武夫 Мики Такэо(徳島県出身), 17 марта 1907 — 4 ноября 1988) — политический и государственный деятель, а также 66-й премьер-министр Японии с 9 декабря 1974 года по 24 декабря 1976 года②Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Macudo (松戸) je grad u Japanu u prefekturi Čiba. Prema popisu stanovništva iz 2005. u gradu je živelo 472.504 stanovnika.
話をきくだけでも腹だたしくなるが、いわずと知れた「Xデー」の練習である。というほどすでに、自治体、企業、学校などでの準備はととのっている。弔旗掲揚、長い黙とう、天皇についての校長の訓話。考えると憂うつな気持ちになってしまう。敗戦の夏まで、わたしは「国民学校一年生」だったので、校長が教育勅語を読みあげた光景を記憶している。あのアナクロがいままたはじまっている。学校の場から、である。

①Українськаウクライナ語⇒Імператор Сьова (яп. 昭和天皇, しょうわてんのう쇼와 천황, сьова тенно; 29 квітня 1901 — 7 січня 1989) — 124-й Імператор Японії, синтоїстське божество. Роки правління: 25 грудня 1926—7 січня 1989. Прижиттєве ім'я — Хірохі́то裕仁히로히토②Deutschドイツ語⇒Das Kaiserliche Erziehungsedikt교육에 관한 칙어 (jap. 教育ニ関スル勅語교이쿠니칸스루초쿠고, kyōiku ni kansuru chokugo, dt. „Die Erziehung betreffendes Edikt“, kurz auch 教育勅語, kyōiku chokugo, dt. „Erziehungsedikt“) wurde am 30. Oktober 1890 vom Meiji-tennō erlassen. Der Text stellte weniger ein Gesetz im strikten Sinne dar denn eine wohlmeinende Belehrung des Tennō an das japanische Volk.
学校に話にいって、二度ほどびっくりしたことがある。全校の生徒が座っている。後ろのほうで、黒い制服がゆれ動いている。生徒よりも、むしろ教師のほうが緊張している。
まず、校長挨拶である。司会の先生にうながされて、校長が立ちあがり、演壇にむかう。なにか重々しい雰囲気である。
と、校長は誰もいない演壇にむかって最敬礼をした。膝に頭がつくほどのお辞儀である。一回目の体験のときは、まだこんな校長がいるのか、との驚きだった。しかし、二回目のときはイヤな気持ちになった。
演壇の後ろにはいまはまだなにもない。が、校長たちはあきらかにそこに日の丸の旗をみすえているのである。あるいは、御真影かもしれない。
*어진영Goshinei(일본어: 御真影 고신에이)는 일본에서 일본 천황과 황후의 사진 또는 초상화를 높여 부르던 말이다.is a word that honors portraits and portraits of the emperor in Japan
日本の学校に脈々としてつづいてきた教育の伝統、それがいまよみがえりつつあるようだ。ラストエンペラーこと溥儀は、中国最後の皇帝であるばかりか、『満州』の最初にして最後の皇帝だったことによって歴史に二度も登場する。彼の自伝『わが半生』には、偶像崇拝について、つぎのように書かれている。
「私の写真は『御容』と呼ばれ、のち日本人の習慣に合わせたあの中国語とも日本語ともつかぬ『協和語』を広めて、『御真影』と改称され、規定によって機関・学校・軍隊およびいっさいの公共団体の特定の場所、たとえば機関の会議室、学校の校長室には神棚のようなものが掲げられ、外がわには幕を垂らし、そのなかに私の写真と『詔書』が掲げられていた。どんな人間でもその部屋にはいるときには、かならずこの幕のかかったところに礼をせねばならなかった。住民の家には御真影を掲げることを強制する法令の規定はなかったが、協和会が婉容(皇后)の写真をむりやり割り当てで買わせ、客間に掲げなければいけない、と指定した。この偶像崇拝教育の施行の重点は、軍隊と学校にあった」
軍隊と並んで、学校が天皇崇拝強化の拠点だった。『満州』は日本の模倣にすぎなかったから、それは日本そのものの姿だった。

①Esperantoエスペラント語⇒Aisin Gioro Pu Ji (Айсиньгёро́ Пуи́愛新覺羅·溥儀아이신 교로 푸이, pinjine Aìxīnjuéluó Pǔ YíПуї (імператор)), (naskiĝis la 7-an de februaro 1906 en Pekino; mortis la 17-an de oktobro 1967 en Pekino), estis imperiestro de Ĉinio kun registara devizo Xuan Tong (宣统), kaj kiel imperiestro de Manĉukuo sub devizo Kang De (康德). Li estis la lasta imperiestro de Ĉinio (1908 ĝis 1912). Li devenis el la manĉura princa gento de Aisin Giorro, kiuj regis jam ekde 1644 kiel Qing-dinastio선통제宣統帝Імпера́тор Сюаньту́н②From Emperor to Citizen (Chinese: 我的前半生, literally translated as The First Half Of My Life ) is the autobiography of Puyi, the last emperor of China.
88年6月、福岡市でひとりの小学教師が処分された。処分の内容は「戒告」だったが、重大な意味をもっていた。それは3月に端を発していた。問題になった小学校の卒業式は、形式的なものではなく、生徒本位のものとして実施されてきた。そのような卒業式は、全国的にみてもさほど珍しいものではない。子どもたちは、卒業式当日の演壇に飾るために、ピカソのゲルニカの絵を卒業制作した。絵はタテ2メートル、ヨコ5メートルのすばらしいものとして完成した。
*Polskiポーランド語⇒Fukuoka (jap. 福岡市, ふくおかし Fukuoka-shi) – największe miasto japońskiej wyspy Kiusiu, leżące w jej północnej części, ośrodek administracyjny prefektury Fukuoka.

*『ゲルニカ』Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがドイツ空軍による無差別爆撃を受けた1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画である。ドイツ空軍Luftwaffeのコンドル軍団Legion Condorによってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(Gernikako bonbardaketaゲルニカ爆撃Bombing of Guernica
)を主題としている。20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある。
2日前のリハーサルでも、その絵が飾られ、その前で卒業生のひとりひとりが、これからの希望を語る、という方法だった。
ところが、校長は「卒業式は儀式であり、簡素でなければならない。ステージには日の丸だけでいい」といいだした。当日、ゲルニカは横の壁に押しのけられ、演壇正面には、日の丸の旗が飾られた。君が代がはじまると、女学生のひとりが、「歌いません」と座り、二十数人もそれに同調した。彼女たちの担任の女子教員も座った。
卒業証書が手渡され、ひとりひとりの「決意表明」のとき、その生徒は「ゲルニカの絵をステージに張って欲しかった。わたしたちの平和と希望と愛を願って描いたものです」と発言した。すると、父母の席から「なにばいいよる」「やめんか」「帰れ!」などの罵声がとんだ。
女子生徒の家には、そのあとなんども脅迫電話がかかってきた。その混乱の責任が、担任教師に押しつけられ、処分となったのである。教師の教え方が悪い、ということだろう。しかし、それは子どもの自主性と思想をまったく認めない考え方である。
なぜ平和を願うゲルニカの絵がダメで、日の丸の旗でなければならないのか。その議論ができないまでに、子どもの自発性は押しつぶされようとしている。ゲルニカの絵では、さすがの校長も、最敬礼する喜びにひたることができないのであろう。(89年2月)






Deutschドイツ語→In den Tokioter Prozessen (japanisch 東京裁判, Tōkyō Saiban, offiziell: Internationaler Militärgerichtshof für den Fernen Osten (極東国際軍事裁判, Kyokutō Kokusai Gunji Saiban)) wurden nach dem Zweiten Weltkrieg durch die Siegermächte einige der politischen und militärischen Führer des japanischen Kaiserreiches wegen Führen eines Angriffskrieges und wegen Kriegsverbrechen angeklagt und verurteilt.


The Nuremberg trialsニュルンベルク国際軍事裁判Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal, IMT were held by the Allies against representatives of the defeated Nazi Germany, for plotting and carrying out invasions of other countries, and other crimes, in World War II.









                  

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