日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

옥중 19 년 - 한국 정치범의 싸움/獄中19年―韓国政治犯のたたかい/19 ans de prison - Combattre des criminels politiques coréens/獄中十九年:韓國政治犯的鬥爭XIX annos in carcere-Coreanica Pugnans politica scelestos/Suh Sung (서승徐勝)③


おはようも軍靴に踏みにじられて
翌朝6時に起きて点検が終わると、夜勤看守が1房ずつ戸を開け洗面をさせた。洗面といっても、バケツ一杯の水を汲んでくるだけだった。この水で洗面し、食器を洗い、冷水摩擦、掃除まですべてのことをしなければならない。一つの房の囚人を出して、戻ってくると完全に施錠をして、次の房の囚人を出すのが原則だったが、看守が面倒がって前の者が房にたどりつくと次を開けた。
私が房に戻ってくるとき、隣の11房の戸が開かれ、小柄な若者がバケツを持って出てきた。私は彼にコックリとうなずいて挨拶をした。それを見とがめた看守は、私を担当室に引っぱっていった。看守はそこで私をセメント床に正座させた。「朝の挨拶をしただけです。なぜ正座するのですか?」と言ったが、問答無用と軍靴で太腿を蹴りつけ、強引にセメント床に座らせようと抑えつけた。担当は三角アゴに狐のような酷薄な目をしている海兵隊出身の林万容という悪質看守だった。後に彼は在所者の家族から金をだまし取り免職になったが、所内でタバコ取引など不正の限りをはたらいた腐った奴だった。抑えつけられて蹴られているところに、尹本務担当が出勤してきた。彼は50過ぎの温厚な看守だった。彼は林担当から事情を聞き、私に軽く注意を与えて還房させた。初日から軍靴の洗礼をうけた。
本は辞典を含めて5冊許可されたが、検閲のために何日かしないとこない。退屈だ。房の視察口は閉ざされていた。端から端まで6歩半の房を檻のなかの獣のように往復した。人が房から出る気配があれば、視察口のわずかな隙間から人の姿をなんとか見ようとへばりついた。だから房から出られるほとんど唯一の機会である運動の順序がくるのを待ちこがれた。昼食がすんで午後になっても運動の順序はまわってこなかった。奉仕員に「運動はどうなった?」と尋ねると、明日だとのことだ。2日に1度、順番がまわってくるという。71個房、91人(未決と結核房などは3人1部屋)を房ごとに、1個房の運動がすめば次を開けて運動をさせる。1房5分ずつの運動時間でも、2日に1度しかまわってこない。戸の閉開や運動場までの往復を計算すると、正味3分にもならない。日曜、祭日、雨天などは運動がないので1週間に2度、3分間の運動ができればいいほうだった。行刑法は「雨天の日を除き運動をさせねばならない」と規定している。未決のソウル拘置所ですら1日10-15分の運動時間があった。大田では20-25分の運動時間があった。それと比べても、これはあまりにもひどかった。しかし、当時は抗議の声をあげる能力もなかったし、雰囲気もとげとげしかった。
巨大な「人間倉庫」
監獄で生命と健康を維持するためには、食事と運動が一番大切だが、それらは不足し、貧弱だった。監獄で唯一ありあまったのは眠る時間だった。監獄での日課は昼間勤務者の勤務時間である午前8時から午後5時までに終えなければならなかった。そのせいで夕食が冬季午後3時半、夏季4時という早い時間に設定されていた。夕食があまり早いので、慣れるまでは夜に腹が減った。就寝時間は、前・後夜の夜間勤務者が交替で仮眠をとる夜8時から朝6時までだったので、10時間もあった(表2参照)。
監獄当局は保安事故発生の危険度を受刑者の「運動性」と関連づけて見るので、就寝時間を長くとる傾向があった。寝ているより座っているほうが、座っているより立つほうが、立っているより歩いたり走ったりするほうが、何か保安事故が起きる確率がはるかに高いということだ。保安事故とは逃亡や自殺、放火や暴動、騒 、殺人はいうに及ばず、通房から些細な規則違反にいたるまで、矯導所の統制を逸脱するすべての出来事をいう。
受刑者はできるだけ動かないで、文句を言わず、飯を食って、息をして、死ななければ矯導所の役目は果たされるというわけだが、何十年もそんな生活ができるはずがない。看守と時々口争いをした。「そんなに保安、保安というなら在所者を椅子にしばりつけて勤務すればいいじゃないか」
韓国の行刑政策は建前として教育刑をその基本としており、行刑法は目的を「受刑者を・・・隔離し、矯正教化し・・・」としている。保安上の目的は隔離・拘禁確保にある。軍事独裁政権の爪牙としての監獄は、矯正教化の美名すら捨て去って維新体制の下に監獄に溢れる受刑者の収容に汲々としていた。矯導所に無数にある在所者遵守事項はもちろんのこと一見人道的に思える長時間睡眠までもが人間を品物のように扱う矯導所の保安便宜から作られたものだ。矯導所は「反社会的人間」を社会から隔離する「人間倉庫」だ。矯導所は国家権力に依託された人間という物件を、定められた期間保管する巨大な人間倉庫だ。倉庫ではいつも員数を数え、物件を原状のとおり保管せねばならない。身分帳には受刑者の身体的特徴や傷、歯の状態など受刑者についてのすべての事項が記入される。頭数を合わせて点検が、出役囚の場合などは毎日7,8回もおこなわれる。最大の保安事故は、逃走と暴動と放火だ。逃走は物件の喪失で、暴動や放火は倉庫の破壊を意味する。頭数が合わねば全職員が非常待機態勢に入り、数が合うまで退勤できない。
監獄では就寝時間に動静視察の便宜上、灯を消さない。目を手拭いでおおったりすると、保安障害物の設置になる。新入りたちは灯のついたまま眠るのに苦労するが、慣れとは恐ろしい。私も後日、寝ている夜中に急に停電したりすると驚いて目が醒めてしまい、闇のなかではかえって眠れなくなった。1日中仕事をせずに房に座って肉体的に疲れることもない。それなのに就寝以後、本を読むことも布団から出て座っていることも許されない。ただ天井の裸電球をボンヤリ見つめるだけだ。そんなときには無数のつまらないことが頭に浮ぶものだ。失敗したこと、間違ったことなど悪い思い出の渦のなかで、眠れない夜を過ごすのは辛いことだ。寝る時間もなく忙しいシャバの人たちには理解しにくいことではあろうが、外国の監獄でも事情は似ているようだ。
後日中国共産党幹部の『薄一波伝』を読んだ。彼は抗日戦争が始まる1930年代に山西軍閥、閻錫山に捕えられ、太原で監獄生活をする。そこでは夕食がすむと夕方5時から朝7時まで14時間も就寝時間で、布団のなかに入り、何もしてはならなかったそうだ。


*옌시산(중국어: 閻錫山, 1883년 10월 8일 ~ 1960년 5월 23일, 타이완 타이베이)은 중화민국의 군벌 정치가이다. 산시 성 우타이 현 출신으로 자는 보촨(伯川)이다.
*薄一波(1908年2月6日-2007年1月15日),原名薄书存,中国山西省定襄县蒋村人,是邓小平主政时期的中共八大元老之一[1],中国共产党和中华人民共和国的前主要领导人之一。

動物は食餌本能、生殖本能とともに認知本能を持っている。危険なことや有害なものを判別し、状況を把握することなしに生存することは不可能だ。また、人間は自由を渇望する。少しでも広い空間を願い、すべての拘束やその象徴からの離脱を願うのが受刑者の心情だ。長期の孤立した拘禁は拘禁症という精神異常をもたらす。ただ物理的空間だけでなく精神的空間感も重要だ。獄外の広範な情報との接触は意識における外部世界との連続性を保証し、精神的孤立を低減させてくれる。
政治犯の場合、各自の政治的信条や行動と現実政治との対立・矛盾により投獄されたので、政治の潮流や変化に敏感であるのは当然だ。所内処遇問題から釈放の問題まで政治情況が鋭く反映されもする。所内生活をつつがなくおこなうには、所長から奉仕員の身元にいたるまで雑多な情報も必要とする。
厳重に隔離された特別舎棟で通房により伝播されるのは<参考消息><獄中ニュース>、<伝達事項><獄中の同志間の伝達。告知事項>だ。情報は看守や職員や奉仕員の話、あるいは彼らとの対話内容、家族と面会、一部転向者からの通報、医務課や接見待機室で聞き拾った話、出廷者や新入者の話などから集められる。非転向者に与えられる法務部の反共教育資料である『正しい道』『新しい道』『教化資料』、キリスト教宣教雑誌である『信仰界』『希望』、そして政府のセマウル運動(セ=新しい、マウル=村、朴正熙がはじめた農村振興運動)広報誌の『新しい農民』のような官給雑誌の行聞を必死で読み、ゴミの山からダイヤ探しでもするように情報を得ようとした。これらクズのような雑誌も当局の機嫌によって、くれたりくれなかったりだった。
90名の政治犯が一つの目となり耳となり、蟻のように情報の切れっ端を集めた。それでも統制が厳しすぎるので、結局、私のような新入りや工場にいる転向者からの情報が大きな空白を埋めるのに重要だった。振り返ってみれば超人的な努力で集めた情報が必ずしも有用であったわけではない。それどころか、政治犯が望むのとは逆に流れる世態を知らせる場合も多かった。莫大なエネルギーの投入に見合う効果があったのか、という疑問も湧き上がる。時局の流れを知り、雑多な情報を集めることが必ずしも政治思想的立場を検証したり、釈放を早めることに益したわけではなかった。しかし、<参考消息>が交換される時間が一番楽しい時間だった。歴史の新しい展開への期待に胸震える時だった。
ある日、王水安先生と話を交わした。ソウル育ちの彼らは日帝時代からのたたき上げの施盤工で、岡山の軍需工場でも仕事をし、北朝鮮第一の咸興の龍城機械工場では技術指導員をしていた。労働者だった先生は勇敢だった。75年だったか、あばたの金相泰担当が、乾燥場で布団を干していた王先生に<通房>したと言いがかりをつけて殴りかかった。先生は看守の拳をヒョイとかわして看守のアゴに一撃をくらわし、素早く駆け込んだ。看守は思わぬ一撃に尻餅をついて、起き上がると泡を吹きながら激怒して舎棟に飛び込んだが、王先生の姿は見えなかった。看守は先生を捜しだそうと房ごと血眼になってのぞきこみ、本務担当に「犯人を引きずりだせ」とくってかかったが、本務担当も、粗暴で看守のなかでも喧嘩をよくして嫌われていた金担当をまともに相手にしなかった。一部始終を見ていた私は、後で先生に「そんなことしてどうするつもりですか?職員暴行でひどい目にあいますよ」と言うと、「殴られれば殴りかえさないとだめだよ。工作班の奴らにも殴り返してやるんだ」。先生はこの負けず嫌いのために集団暴行されたこともあったが、相変わらずだった。
先生は看守や工作官が抑圧的に出れば「世の中、いつどうなるか分からないんだ。お前たちの世の中ばかりじゃないんだぞ。あまりイジメるなよ」と、かえって彼らを脅かした。そんなときには彼らは、「なにもやりたくてやってるんじゃないんだよ。上の命令だからしょうがないだろう」と、尻っぽをまくこともあった。
しかし、先生は名より実をとる実利主義者でもあった。「王先生、運動と飯と参考消息の一つを取れと言われれば、どれを取りますか?」彼は深刻に考え込んだ。「みんなないと駄目だ」「欲張りですね。一つですよ」「それでも敢えて言うなら消息だな」。この重大な質問にたいして同志たちの意見は分かれた。5,60年代の懲役生活では飯が第一だった。70年代には飯の問題が完全に解決したわけではなかったが、大部分は王先生と同じで、その次は運動だった。
認知欲求を満たさずには、長い独房生活を耐え抜くことは難しかっただろう。暗闇のなかを手探りしながら進んできた力と判断は<参考消息>に支えられていた。


所変われば飯変わる
矯導所の食事は、法務部の予算と給食規程により決められる。どういうメニューにするかは、法務部から下される1人当たりの予算の枠内で各矯導所の給食委員会(所幹部と関係公言官庁代表などで構成)で決定するとされているが、実際にはほとんど用度課副食係の部長と看守によって決められる。主食(米・麦・豆)と調味料は法務部から供給されるので、どの矯導所も飯は似たようなものと思われがちだが、実情は大違いだ。監獄を自分の家のように出入りし、全国の監獄を渡り鳥のように移り歩く懲役プロたちの間では、「どの矯導所が暮らし良いか」の評価が詳細で正確である。暮らし良さの基準は規律が難しいか甘いか、タバコが入手しやすいかなどとともに、飯、寝床、水などの条件も重要視される。各矯導所ごとに一長一短はあるが、総合評価は、おおむね安養、全州、金海などが上位で、火田、木浦、青松などが下位だった。
副食材料は現地調達なので、大都会や農産物の主産地であるほど廉く多様な材料の入手が可能だ。大邱は有名なリンゴの産地であり、農産物の集散地である。それに「規模の経済」がある。1人当たりで予算が出るので、収容人員が多いほど大量廉価購入ができる。大邱矯導所はソウル、釜山、安養と並んで韓国最大の監獄の一つだ。
各地の伝統とか気質、食習慣なども関係してくる。嶺南(慶尚北道)人は大雑把で気分屋な面があり、細かいことに気を遣わない性分だ。だから大邱のは量が多く塩辛く、あまり洗わずに大雑把に作る。一方、忠清道人は糞真面目でコマゴマとして融通がきかないので、大田の食事は量が少ないが丁寧に洗って作ってある。反面、ソウル拘置所では私費で買い食いする未決囚が多いので、官食は質量ともに貧しい。
副食での違いが出るのは理解できるが、今もよく分からないのは、1人当たり同じ量が法務部から直接供給されるのに、カタ飯の大きさがなぜ違うのかということだ。ソウル拘置所の飯は水っぽくて豆が多い。大田の飯は小さくて白っぽい(米が多い)、大邱の飯は同じ等級でも大田のより1,2センチはかさが高く、真っ黒だ。それでも常にひもじい非転向政治犯たちのあいだでは、飯が大きいので大邱の懲役は楽だと評価された。
囚人の日々
監獄の生活は単調だ。毎日3度食って2日に1度運動するほかは、毎週ある診察、2週間に1度の風呂、1,2週間に1度のヒゲ剃りと散髪、月1度の映画鑑賞が、生活に変化を与えてくれる出来事だった。その他に、手紙を書くことや面会があったが、ほとんどの人は身寄り頼りがなかったので手紙にも面会にも無縁だった。
既決囚は削髪(短削ともいう。丸刈り)をする。集団生活における衛生上、削髪をすると説明しているが、それ以外の理由がありそうだ。削髪をすると年も若く、子供のように見える。削髪し、青い囚衣を纏い、名前を奪われ囚番(囚人番号)で呼ばれることによって、支配・統制される囚人として非人格化される。とにかく当時は削髪に熱心で、定期の散髪以外にも特別削髪隊を急襲させ、少しでも髪が伸びている者を強制的に刈る。在所者はシャバへの未練のためか、非人格的規格化にたいする拒否のためか、1ミリでも余計に髪を伸ばそうと懸命になる。散髪がくると、いろんな口実を設けて忌避する。バリカンを押し付けて刈ったとか刈らなかったとかで理髪師と喧嘩をしたりもした。理髪師に心づけをして、2分刈りほどにしてもらったりする。獄中の顔効きはスポーツ刈りや5分刈りをしてのしあるく、優良囚になれば、合法的に髪を伸ばせる。受刑者には満期3ヶ月前になれば(削髪保留証)が発行される。これを馬牌(李朝の暗行御使=隠密目付がもち歩いた馬が彫ってある銅製の身分証)とよび、後生大事に胸に縫い付けて「もう誰にもこの髪に指1本ささせんぞ。この髪だけは懲役を務め終えたんだからな」などと胸を張る。髪の毛がどれほど長いかも、既決監における重要なステイタス・シンボルだ。
しかし、特舎の政治犯は髪には未練がなく、2週間に1度ずつ必ず髪を刈った。理髪師が「座上さん(年寄りにたいする獄中敬称)、短かすぎてバリカンの刃もひっかかりませんや。この次にしましょうぜ」と言っても、刈ってくれと譲らなかった。髪が伸びると頭が痒いからだ。丸刈りの頭は毎朝、冷水摩擦をするとき身体の外の部分と同じようにゴシゴシとこすれば、ひんぱんに石鹸を使わなくてもよかった。「60年代には、石鹸の支給がなくて、貴重な飯を練って石鹸がわりに頭を洗った」と、老政治犯はいかにも無念そうに述懐した。
一つのバリカンで消毒もしないで何人もの散髪をするものだから、シラクモや円形脱毛症のような皮膚病が蔓延し、私の頭にも頑固に住みついて私を悩ませた。

診察は毎週水曜日、舎棟の廊下に机を持ち出して監獄医がおこなった。医者の顔など見ようとも見られないソウル拘置所に比べれば、これも長期囚に対する配慮だと言えるかも知れない。しかし、午前中だけやってくるパートタイムの監獄医の診察は、実にいい加減なものだ。「腹が痛いと言えばヘソのまわりに赤チンキで丸を画く」などと囚人は監獄医を戯画化して罵ったりもするが、腹が痛いと言えば触りもしないでノルモ(消化剤)を処方し、頭が痛いと言うとアスピリン、風邪にはバンビリンという式だった。その診察すら忙しいと部長が代診することが多かった。韓庸術部長は矯導官ではあったが永らく医務課に務め経験豊富であったので、監獄医よりも見立てが良いこともあった。なかなかの勉強家で独習でレントゲン技師の免許も取った。穏健であり医者のように権威を笠に着ず親切だったので、一舎下では韓部長を歓迎したほどだった。とにかくレントゲンでも写してもらえたのは彼のお陰であった。監獄でレントゲンなどは、よほどのことでないと撮ってくれなかった。重病の老人も「レントゲンまで撮ってもらった」と、納得して死の床についたのがそのころの実情だった。私は1983年、入所13年目にして初めてレントゲン撮影を含めた健康診断をした。
風呂は担当室の横の洗面場の水槽に給水車で運んだ湯を入れて、バケツ一杯ずつもらって洗うだけで、入湯することなどは考えられなかった。法的には1週1度になっているのに実際には2週間に1度。オイルショックのときには1ヶ月に1度しか風呂がなかった。それでも1舎下の人々は毎日冷水摩擦もするし、風呂のある日は運動がないので、誰もこの点に不満をもらす人はいなかった。79年ごろから風呂場に行って入浴するようになったが、はじめは5分ぐらいで、入湯も許されず流して洗うだけだった。しかも適温にすると湯を使いすぎるからと煮え立つ湯を使わせたので、手桶に汲んで冷ましながら湯を使っていると、すぐ時間になって、石鹸の泡だらけのまま還房したこともあった。
矯導所の映写会は夏休み、冬休みを除いて年10回ほどであるが、ロクな映画がきたためしがない。劣情を煽るものはいけないという監獄での上映の制約もあったが、教務課で映画予算を着服したので無料の反共広報映画やセマウル映画を上映した、という事情もあった。70年代には、だいたいコメディ、セマウル映画、反共映画だった。80年代に入り香港製の武侠映画の上演が多くなった。1舎下はほかの在所者の観覧が終わった頃、500人ほど入るかなり広い教誨堂にボツボツと間を空けて座らせ、<指導>や看守を中間に座らせた。映画自体への関心よりも、一時とはいえ独房から出られるし、同志の顔も見られるから、「風にでもあたりにいくか」と見物にいった。転向工作班ができて、74年ごろから維新体制の影響で反共映画を主に上映するようになったので、みんな映画観覧を拒否したこともあった。
映画のほかに1年2,3回ずつ所内反共雄弁大会やのど自慢大会、あるいは歌手などの慰問公演があった。慰問公演には懲役を務めている名高いニイサンがた(ヤクザがナイトクラブの営業部長や芸能プロモーターをした)の顔で有名歌手もきたので、一般在所者が首をながくして楽しみにしていた行事だった。ただし、これらの行事は1舎下へはスピーカーで放送され、参加は許されなかった。年に何回かは北からの「帰順者」の反共講演があった。内容は北朝鮮社会と指導部にたいする批判と「自由大韓」の礼讃であった。目についたのは、必ず2名ほどのKCIA職員が付き添って壇上に座っていたことだった。ある老政治犯は「可哀そうな奴らよ。何年も犬のように尽くしても信用されずに、情報部のヒモ付きでなくては1人で歩き回れないんだから」と、つぶやいた。
北朝鮮から工作員として韓国にきて自首した本当の「帰順者」もいる。しかし、大部分は捕まった後、命と引き換えに逆工作に乗って同志を売ったり、情報を提供したりして顕著な功労があった者たちだ。転向して協力をしたからといって、必ずしも死刑や投獄をまぬがれるわけではない。中央情報部からみて利用価値があると判断されねばならない。さんざん利用したあげく利用価値がなくなったり、政治情勢などの理由からスパイ団事件を発表する必要などがあれば、死刑に処したりも投獄することもあった。逆に、いくら大きな罪を犯しても利用価値さえあれば、無理やりにでも転向させ、常時監視つきの「帰順者」にさせてしまう。「帰順者」は法的に公訴保留者である。公訴保留者観察規則によれば第4条「監視」第8条「監督」の条項があり、厳しく常時監視をうけ、第5条「協助の要求」によって何でも情報機関の言うとおりにしなければならない。彼らは中央情報部対共心理戦局の統制下に、年に何回かの反共講演ツアーを組んで全国津々をまわった。


紙・神
監獄では紙は貴重品だった。毎日、赤や青などいろいろな紙の小片が混じっている真黒な薄い手のひらほどの大きさの再生産が一枚ずつ配られた。当局では紙を持たせると不正通信のための便箋に利用するという口実を設けて、在所者が貯めると押収した。しかし、金があれば50枚1束の紙が買えたので、これはイジメるためだったとしか思えない。1日1回の用便でこれで処理するのも大変なことだが、2回出たり下痢をすればどうなるのか?悲惨な話だ。手で拭いて洗ったという実話もあった。官給の雑誌などを破って使用するか、それ自体が貴重だ。本のない1舎下の人々は、くだらない官給の雑誌も大事に保存して、つれづれに繰り返し繰り返し読んだ。
世界で最大発行部数を誇る本は聖書だというが、監獄でも一番たくさん出まわるのは聖書だ。各教派が競って監獄宣教に熱を上げた。罪人中の罪人を改心させ懺悔させるのは劇的なストーリーになる。受刑者や前科者の干証(信仰告白)は牧師や宣教師たちに珍重された。前科者のなかにはこれを悪用して偽クリスチャンになり、監獄生活で楽したり出所を早めるために利用したりする者もいた。出所後、前科者の懺悔を売り物にして金品を集めたり、教会を渡り歩いて詐欺、窃盗を働いた例もあった。
聖書は監獄のなかで紙本来の機能を遺憾なく発揮し、チリ紙にも落とし紙にもなり急場を救ってくれた。1舎下の長期囚のなかには、これで器用に眼鏡入れを作った者もいた。紙と水と貴重な飯を混ぜ、紙粘土を作って型を作り、根気よく便所のセメント床で擦って格円筒形に整える。最後は聖書の表紙をはがして上張りをし、みごとな眼鏡入れが完成した。

紙と言えば全清元先生を思い出す。私が大邱に移された時、1舎下で一番若かったのが当時34歳の金先生だった。敏捷な体つきでまつ毛の長い彼は、美人の産地で有名な朝鮮の北端、咸鏡北道会寧の出身だ。労働者の子として生まれ、故郷で高校を卒業した人民軍に入隊した彼は優秀な軍人だった。軍官(士官)学校進学の勧めをふりきり、除隊後は故郷の炭鉱で働く一方、職場の楽団のリーダーもした。手先が器用でギターなども自分で作り、ギターの名演奏者で名歌手だったという。中央情報部で拷問され肋骨が2本折れ、首を絞められて喉の骨が陥没したために、彼の美声は面影もなく嗄れていた。春には白杏の花咲く故郷と、故郷で看護婦をしていた老母へのこよなき愛をよく語っていた。65年ごろ、党に召喚され対南工作員として教育をうけ、1970年大邱出身の白光培先生とともに釜山に上陸したが、そこで逮捕された。
彼が未決舎にいるとき、下痢をしているところに紙の配給がなくて難儀をしていた。看守に申し入れてもなしのつぶてだったので巡視に通りかかった主任に「紙をください」と願い出た。主任は「生意気だ」と激怒し、彼を縛り上げて懲罰房に放り込んだ。一般的に幹部面談やその他の願いごとなどは報告箋(願箋)を出すことになっている。通りがかりの幹部に直訴するのは<路上面談>といって、緊急の場合にはするが例外的である。これに難癖を付けたのだ。直訴の方法が無礼であるというより、紙のような官給品まで横流しにする不正構造を暴かれるのが嫌で抑えつけたのだろう。1舎下でも時々、紙が出ないので口論が起きたこともあった。「担当さん、紙!」
大きい魚が小さい魚を
韓国社会全体がそうであったように、監獄のなかでも「大きい魚が小さい魚を食べる」生態学的連鎖を明確に観察することができた。まず房内では監房長や古参、名の知れた前科者が力のない受刑者から領置全カード(獄中では現金を使えないので預けた金の残品を示すカードで物品を購入する)や所持物品や差し入れなどを巻き上げる。房からは水や食事を充分に確保したり、使い走りさせるために舎棟の奉仕員と<犯則>をする。毎日、購買申請を受け付けて翌日品物を渡すが、そこからインジョン(人情=心づけ)や飯一個、水一杯いくらのレートにしたがい、奉仕員に品物を与える。奉仕員はそのなかから担当に上納したり、毎日、担当の世話を焼いたりする。これはスバル(世話すること)といって、毎朝担当が出勤するビタミン剤つきの牛乳に卵の意味を2個入れたものやトーストを食べさせたり、リンゴやパンなどの間食を用意する。受刑者のメニューに鶏肉や豚肉などが出る日には、受刑者の定量から削って担当用にひと塊さしだす。さらに担当が使用するランニングシャツ、パンツ、靴下、石鹸、歯ブラシ、ネリ歯磨きまで準備する。奉仕員は担当の靴磨き、靴下やパンツの洗濯から洋服のアイロンがけまで世話を焼く、退勤するときにはお土産を包んで持たせる。夜間担当の夜食には、パンなどを入れた器を食通口に出しておく。これをチパッ<鼠の餌>といった。
担当は実入りのよい部署に配置されたり監督に手心を加えてもらうために、何個舎棟から監督する管区部長や保安課の配置部長、さらに主任、係長、課長にも酒を飲ませたり上納したりする。このような吸上げポンプの作用は、監獄の階級ピラミッドの頂点、所長に及ぶ。もちろん大物受刑者は釈放や所内での出役問題で課長級の幹部と直接取り引きすることもある。タバコは獄中で市中の何十倍の値段でヤミ取引されるが、看守が黙認したり、直接供給すれば収入は格段に増える。古参担当は「あのときは良かった。大きな舎棟の本務担当を2年すれば、家一軒買えたんだから、みんなコネを使ってでも矯導官になろうとしたもんだよ」と、60年代を懐古した。私が大邱にいったころも既決・未決中央部長や副食係の部長のように実入りのいい部署にいる部長は1,2年で家を買うといわれていた。
獄中での取り引きには廊下やランニングシャツ、パンツなどが現金の代わりに使われた。これが餌の連鎖を伝って部長のところに集まれば、部長はこれを購買部へ持っていきパチンコの景品のように換金し、同じ品物は翌日または受刑者に売られ、循環して水車のように金を吸い上げた。購買部は庶務課長、食堂は保安課長の利権事業だった。ピドウルギ<伝書鳩>といって、受刑者の家族に手紙などを届けたり、家族から現金や、監獄で禁じられている物品を運ぶのも看守の収入の源泉だ。もっと大きなところでは所長や課長クラスになれば年間数十億ウォンの予算に手を付けたり、出入り業者からワイロを取ったりした。所内ではいつも何かを壊したり建て直したりしていたが、これも工事についてまわる余禄を得るためだった。70年代の維新体制後半になると、<非理不正刷袂>「紀網粛清」などと言って、しばしば監査が来た。見せしめに何人かの所長などが首を飛ばされたこともあったが、基本的な枠組みを変えるにはいたらなかった。監獄は行政官庁のなかで最も保守的で、隠蔽され遅れた特殊社会ではあったが、いずれにしても政治に最も敏感に反応する官僚体系の一部なので、大きな政治が変らない以上、その変化を期待するのは不可能だった。
監獄中の監獄
1舎下の政治犯91名のなかで、20名ほどは未決囚だった。非転向者の大部分は南朝鮮労働党・パルチザン出身者、韓国にいた地下工作員、北からきた工作員と案内員などだが、社会党などの革新政党出身者、越北を企てた国軍将兵、漁夫、船員、そして数名の反共法違反者などがいた。非転向囚は何十年もの獄中生活をともにして、お互いがよく知り合っていた。転向工作に抗するという共通点もあったが、以心伝心でよく団結した。舎棟ではお互いを<先生>と呼び、恐らくは初期に政治犯の多数を占めていたパルチザンたちの生活習慣からきたと思われるが、全体をパルチザン式に<隊列>と呼んでいた。
大邱の1舎下は、矯導所新設時に非転向工作のために設計されたものだ。昔は非転向者を独房収容するには政治犯の数が多すぎた。多くの独房を備えた監獄が、68房を持つ大田を除いて無かった。転向工作のためには政治犯を徹底して分離・分断して各個撃破しなければならないという考え方から、大邱と光州に矯導所を新設して、各71の独房を持つ特別舎棟を作った。大邱特舎はその後、時局の変還に従い、大統領緊急措置令違反の学生、在野反体制運動家、精神障害者、普通の懲罰房でも抑えられない問題受刑者などを収容した。社会統制からはみ出した者を閉じ込めるのが監獄なら、特舎は監獄内での統制に服さない者を閉じ込める「監獄の中の監獄」だった。
特舎は最も恐ろしい「監獄の中の監獄」ではあったが、これすらも「人の心は鎖で繋げぬ」という真理を打ち砕くことはできなかった。特舎の収容者はこれ以上悪い処遇をうけようのない土壇場に追い詰められた人たちだったので、この人たちの主張を封じこめるものはなにもなかった。非転向囚は工作官との対話ではもちろんのこと、看守や奉仕員、受刑者など特舎にきて自分たちと接触する人には、国家保安法や反共法で禁じられている北朝鮮や朝鮮労働党、金日成主席や共産主義の称賛や支持、アメリカ帝国主義や独裁政権へのはばかりのない批判、マルクス・レーニン主義から唯物弁証法にいたるまで、言いたいことは何でも言った。工作官は思想転向工作をするのに非転向囚の考えを聞かないわけにもいかなかった。皮肉なことに、その意味では「監獄の中の監獄」が大韓民国で最も思想と言論の自由があったところだった。懲罰はあっても、法的に2ヶ月の禁置が最高罰だった。それに、何十年も監獄にいる政治犯に懲罰を与えつづけることは不可能だった。実際は懲罰より苛酷な処遇をしていたこともあったが、身をもって自らの思想と良心を守ろうとする人たちの意志を挫くことはできなかったので、特舎での言動は放置するしかなかった。獄中で追加刑を与えれば、幹部から担当矯導官まで職員の監督責任が同時に問われるので、事件を拡大するよりは縮小、ないしは揉み消して、事なきを得ようとする傾向があった。他の一般受刑者に影響を与えたり、問題が獄外におよぶ場合を除いて、追加刑を乱発するわけにはいかない事情があった。たとえば、所内で殺人事件が起これば傷害致死や暴行致死として検察に縮小報告した。所内で一般受刑者どうしが喧嘩をすれば、「お前を殺っても2,3年務めりゃおしまいだ」などと脅かしたものだ。ほとんどの無期非転向政治犯は追加刑に付いてまわる暴行や獄中生活空間の圧迫は嫌ったが、どうせ転向書を書かなければ無期限の懲役生活は同じことだったので、追加刑自体はそれほど恐れなかった。
人の出入りが激しくいつも騒々しいソウル拘置所から大邱の特舎にくると、その厳しい雰囲気に誰でも気圧されてしまう。些細な規律違反や反抗の気配があれば、容赦なく暴行と暴言が返ってきた。房の鉄扉が開閉されガチャンという錠の音がするごとに、ドキッとし緊張する。心臓の弱い老人などは、鉄と鉄がぶつかる錠の音がするたびに胸を刀で裂かれるようだと言う。私ははじめから暴行をうけ、ますます萎縮してしまった。担当の手先となり「虎の威を借る狐」のような奉仕員の監視と暴言にたいしてまで無力で卑屈な自分が恥しかった。

そんなとき、勇気を与えてくれたのは崔夏鍾先生だった。大邱に移送されてひと月ほどたったときだった。運動をしている私に、洗濯物を干しにきた崔先生が運動担当の気配をうかがいながらソッと近づいてきた。意気消沈している私に慰めの言葉をかけてくれた。「辛いでしょう。はじめはみんな同じだ。私だってはじめは戸を開ける音がしても胸がドキンとしました」。私の心中を見透かしたような一言は、「みんな同じだ。私もみんなと同じように凛々として生きていける」という勇気を与えてくれた。
先生は咸鏡北道城津(現在の金策)近郊で生れた。「満州」(中国の東北地方)の龍井で育ち、新京第1中学校を経てハルピン工科大学1年生のときに解放を迎えた。民族の解放は先生に民族自主と社会主義にたいする信念を持たせる大きな契機となった。解放後故郷に帰り、民主青年同盟の活動家として活動する一方、金策工業大学の冶金工学科に進んだ。大学5年で朝鮮戦争を迎えて人民軍政治軍官として入隊し、戦争後、中佐で除隊した。大学を出て国家計画委員会の対外貿易課長になり、1男2女を得た。
先生には2人の叔父がいた。上の叔父は「満州」の吉林などの都市で金日成抗日軍の地下工作員として活躍し、解放後、職業連盟(労組)中央副委員長などの要職に就いたが、抗日闘争時の無理がたたって病死した。下の叔父、崔周鍾将軍は皮肉なことに満州軍官学校と日本の陸軍士官学校を卒業し、日本軍少尉として解放を迎えた。親日派として2度にわたり投獄されたが、朝鮮戦争のまえに脱獄して、韓国へ逃亡して国軍に身を投じた。国軍の主流である満軍派(満州軍官学校出身)に属する彼は、61年、准将で光州の第31師団長として朴正煕のクーデターに参画し、「革命主体」として国家再建設最高会議建設分科委員長となった。

60年の「4・19学生革命」の後、学生をはじめとする南の国民のなかから統一への熱望が燎原の火のように燃え上がった。その年の8月15日に、金日成首相は「連邦制平和統一案」を提案し大々的なキャンペーンを展開した。連邦制統一を宣伝し、南北の団合を説くために60年、61年に北から多くの人が家族、親戚、知人を訪ねて南にやってきたが、大部分は逮捕された。満軍派は主に咸鏡道出身の「満州」移民の子弟で、北朝鮮に家族親戚を持った人が多数いたので、「5・16軍事革命主体」の軍人たちに統一を説くために多くの人々がやってきた。崔夏鍾先生も61年、叔父に民族的良心に立ち返り統一のために力を合わせることを説得しにソウルにきたが、叔父が当局に告発したため逮捕された。反共法第6条3項<潜入罪>で無期懲役の宣告をうけた。
*高麗lí民主联邦共和国(朝鮮語:고려민주연방공화국/高麗民主聯邦共和國)是朝鮮民主主義人民共和國已故最高領導人金日成在1980年10月10日朝鲜劳动党第六次代表大会上所作的朝鲜劳动党中央委员会工作总结报告中提出的兩韓統一後的國名[1],以一个民族、一个国家、两种制度和两个政府为基础。
韓国では同じ時期に、統一を説くために朴正熙に会いにきて刑場の露と消えた「黄泰成事件」が有名である。黄泰成は南労党の善山郡党委員長であった朴正熙の兄、朴相熙の同志であり親友だっただけでなく、その娘と金鍾泌(現・与党、民自党代表、KCIA創設者)との仲人であったともいう。南労党の慶尚北道委員長であった黄泰成氏は、朝鮮戦争のまえに北へ脱出して貿易省副相の地位にいた。63年12月、大統領選挙のただなかで野党の尹潽善候補が、朴が黄泰成氏を匿っていると暴露したため、朴は容共疑惑にたいして身の潔白を明かすために、家族の恩人でもある彼の死刑を執行した。この事件について今日、朴の人間的な無慈悲さはともかくとして、「破壊の目的を持たず、交渉や協商のためにきた者を死刑するのはあまりにも行き過ぎではなかったか?」という反省が韓国の内部から提起されている。その後、公式、非公式のさまざまな使者が南北を行き交っていることに鑑みても頷ける話である。崔夏鐘先生も反共法の潜入罪だけで30余年間、囚われてきた。

*황태성(黃太成, 초명은 黃泰成, 1906년 4월 27일 ~ 1963년 12월 14일)은 일제 강점기 조선의 독립운동가이며 前 조선민주주의인민공화국 무역성 부상으로 일명 황대용(黃大用)이라고도 불리었다. 그는 1963년 12월 14일을 기하여 이른바 황태성 사건으로 서울교도소에서 총살형이 집행되었다. 그의 유해는 대한민국 경상북도 상주에 안장되어 있다.
*박상희(朴相熙, 1905년 9월 10일 ~ 1946년 10월 6일)는 한국의 독립운동가, 공산주의자, 언론인이다. 대한민국 대통령을 역임했던 박정희는 그의 동생이고[1] 정치인 김종필은 그의 맏사위이다.
先生は理性に輝く美丈夫で、広い度量を持ち、人にたいして誠実に配慮する気配りの人でもあった。まだ40代の初めで青年の香りを残していたが、先生はその知性と意志、そして指導力によって非転向政治犯の柱だった。先生の堂々たる風貌と器の大きい人間性に、看守たちも敬意を表して「崔将軍」と呼びならわしていた。

当時、特舎で最長老格は金炳仁先生だった。まだ60になっていなかったが、背が曲がって入れ歯をしていた。慶尚南道固城出身で、日帝時代に日本に渡り労働者として生活するなかで労働運動と共産主義運動に身を投じ検挙され、静岡刑務所で解放を迎えた。解放後、帰国し南労党幹部として活躍をした。智異山パルチザンについて書いている「南部軍」という本には金三洪という名前で出てくる。南労党慶尚南道副委員長、委員長代理、慶尚南道進撃隊司令官として智異山で闘ったが、遊撃戦の敗北以後、下山し54年に捕えられた。当時身分が露われず死刑を免れた。先生は経歴と指導力、そして粘り強い意志力で同志の尊敬をうけていた。76年、非転向者として監護所へ行き、88年9月に保安監護所閉鎖の方針により日帝時期から40余年の監獄生活を終えて出所した。しかし、たった4ヵ月後、釜山の病院で生涯を終えた。生涯闘いぬいた最後の南労党最高幹部だった。
14房には金烔圭先生がいた。先生は慶尚南道咸陽出身のパルチザンだった。逮捕されるときに戦闘で左手肘から先を失っていた。片手で食器を洗い、洗濯をし、針仕事もした。大柄な農民である先生は、53年に捕まって監獄生活をしながら文字を習った。だが詠むべき本をほとんど持たなかった先生は、片手で糸をよったり、雑巾を縫ったり、熊のように房内を行ったり来たりしていた。20年間も閉じ込められた農夫の毎日は、どれほど手持ち無沙汰だったろうか。もう1人、釜山地区パルチンザン出身の姜東根先生は、右手がなかった。鄭永鎬先生も脳溢血の後遺症で左手身が不自由だった。19房には3人の結核患者がいた。このような障害者たちにも厳しい特舎の規律は同様に強要された。
朴判守先生は誇り高い南部パルチザンの生き残りだった。先生は慶尚南道晋州の人で、晋州農業学校に通った。植民地時代の晋州農校は有名な反日学校で、さまざまな反日運動を繰り広げた。先生も3年生のときに同盟休校闘争の首謀者として退学になり、日本にきて京都などで勉強した。第二次世界大戦が激しくなり朝鮮に戻ったが、徴兵や徴用を嫌って解放前の1年ほど、智異山で逃避生活をした。解放後には故郷に戻り、南労党の幹部党員として活躍した。1947年ころから米軍政府の南労党への弾圧が激しくなり合法活動が困難になってからは、また智異山に戻ってパルチザン闘争を指導した。朝鮮戦争以前のパルチザンを「旧パルチ」といい、以後のものを「新パルチ」というが、先生は慶尚南道党遊撃隊の後方部(補給、兵站、衛生などの支援作戦をする部隊)部長として旧パルチの時から戦闘に参加した。
朝鮮戦争後、逮捕され大田監獄にいたが、58年に500人ほどの非転向政治犯の脱獄未遂事件があて、先生はその5人指導委員会の1人として追加刑をうけて、木浦監獄に移送された。そこで数十日の命をかけた断食をおこない危篤状態になったので、刑執行停止をうけて、60年に釈放された。釈放後は、獄中で身につけた漢方医の技術などで糊口をしのいだが74年、反共法事件で拘束され5年刑をうけた。だが5年の刑そのものより木浦で刑執行停止されるときに残っていた8年の残余刑のほうが問題だった。79年に満期を迎えた先生に、工作班は転向するなら残余刑は免除するともちかけた。先生には老妻とまだ幼い息子がいて、先生が投獄されてから老婆が行商をしていたが、生活は困窮を極めていた。先生は苦悩の末、転向を拒否した。
私は先生を「鶴脚先生」と呼んでいた。それは、先生が鶴のように痩せていて脚が割り箸のように細かったからだ。あまりに虚弱な体格だったので、先生が断食すれば当局も死ぬのではないかと警戒した。しかし、先生は意気軒昂で覇気満々だった。先生は怒ると驚くほど大声を出した。懲罰房に入れられてカンペ(ゴロツキ)に針で刺されて拷問されたときも屈服しなかった。私たちの処遇が改善され老人たちが花壇いじりをするようになってからも、それを見る先生は「花などいじっていると、革命精神が緩んでしまう。あんなことは隠居のすることじゃ」と、苦々しい表情だった。先生はそのときすでに60歳を越し、特舎でも長老格だったが、いつも背筋をピンと伸ばし、年寄りじみたことは嫌いだった。房で読書にいそしんだが、特に「東医宝鑑」(李朝の医室、許凌が集大成した朝鮮医学の名著)を耽読して「特舎の医者」を自任していた。私たちも具合が悪いと先生の診脈をうけたものだった。
*허준(許浚, 1539년 ~ 1615년 10월 9일)은 조선 중기의 의관·의학자이다.
동의보감의 저자이며, 동의보감 외에도 선조의 명을 받아 임진왜란 종결 후, 각종 중국의서와 기존 의서의 복원, 편찬 및 정리에 힘썼다. 그밖에도 한글로 된 의서인 《언해두창집요 (諺解痘瘡集要)》, 산부인과 관련 의서인 《언해태산집요》, 기본 가정의서인 《언해구급방 (諺解救急方)》 등도 집필하였다. 한때 1543년생으로 알려졌으나 문장가 최립(崔笠)의 문집 《간이집(簡易集)》에 수록된 증송동경 대의 허양평군 환조자의주(贈送同庚大醫許陽平君還朝自義州)에서 최립이 그가 의주로 귀양가게 되던 1608년경의 일을 기록하면서, 허준이 자신과 동갑내기인 1539년생이라는 것을 언급한 사실을 언급한 것이 발견되어 알려지게 되었다.

先生は私を可愛がってくれた。非転向囚は、ほとんど勤勉で綺麗好きで房はいつもきっちり整理されていたが、私はもともと怠けもので整理整頓などもあまりしなかったので房は乱雑だった。週1回の掃除検査の日には看守がうるさく言うので嫌だった。特に毛布の耳を揃えて箱のようにととのえる軍隊式の寝具整理をさせられたが、不器用な私はいくらやってもうまくいかなかった。ある日先生は私の房をのぞいて「フムフム、男はあまり掃除などに気を遣わず、細かいことにこせこせせずに大きな気概を持たんといかんもんじゃ」と、妙な褒め方をしたので恐縮したことがあった。先生も時々、こぼした飯粒がくっついた服をそのまま着て歩いたりして、なりふりなど気にかけないところがあった。そのせいではないが、私も先生を尊敬し、大好きだった。ときには過激に過ぎるかとも思える徹底した物の見方も面白かったが、日帝時代から解放後にかけての先生の熾烈な闘いの経験からくる話は興味深く、教訓に満ちていた。先生は88年出所後、91年、波乱万丈の生涯を釜山で終えた。

特舎には国軍将兵もいた。金龍雲中領は朴正煕と同期の陸士2期で、日本にいる兄と会ったが、その兄が総連(在日本朝鮮人総連合会)の幹部だったという理由で捕まった。金相守少尉と黄建一少尉は38度線を越えようと試み捕まった。軍法廷で越北企図はだいたい2,3年の懲役を宣告される。
金少尉は大邱の人で貧しくて大学進学の志をとげられず、第3士官学校に志願入隊したが、正義感の強い人で、社会と軍の不正腐敗に憤怒した。38度線近くの前方小銃部隊小隊長として勤務するうちに、北の放送を聞き越北を決意した。偵察途中に脱走したが、道を間違って捕まってしまった。
特舎の人はほとんどがそうだが、金少尉は特に貪欲な読書家だった。私の持っていた英語や日本語の本などを借りて、看守の目を盗み寝るのも惜しんで勉強した。監獄には検房がほとんど毎日あり、施設の異常を調べたり、「不正所持品」を摘発したりする。検房では、本に許可証がはられているかどうか、そして本人のものか否かも調べる。本の貸借は特舎では懲罰もので、本は押収される。差し入れのない人は、他人の本を手に入れ許可証を偽造しもした。古い許可証を本に漬けるとインクが消えるので、手紙を書くときに看守の目を盗んで書名と氏名を書き込むのだ。金少尉は私に借りた本が検房で摘発されてひどく暴行をうけ、借りた経緯を追及された。その本は、私が奉仕員にパンなどを与えてひそかに送ったものだった。金少尉は最後まで「運動のとき、自分が本を借りてきた。本を読むのがなぜ悪いんですか?」と、顔を真っ赤にして言いはった。看守は「運動担当と本務担当が見ているのに、どうしてそんなことができるのか?」と責めたが、彼はガンとして言いはった。結局態度が反抗的だと、保安課地下室に引っぱって行かれ殴られたあげく、懲罰として1ヶ月間運動の停止をくらったが罪は最後まで自分がかぶった。
軍では38度線近くの「前方鉄柵勤務」を誰もが嫌がる。生命の危険もあるが、山奥で娯楽もなく外出もままならず、勤務も厳しいからだ。しかし、北に行くことを考えて、前方に配置されるように懸命にコネを使った国軍兵士を監獄でいく人も見た。
漁をしているうちに38度線を越え、北朝鮮の巡視船に捕まり、抑留されて帰ってきた漁夫(いわゆる拉北漁夫)たちも大邱にはちょくちょく入ってきた。大邱へは、東海(日本海)で魚とりをする東草、江陵、釜山などの漁港に住む漁夫たちが捕まってきた。韓国政府は漁夫が北に脱出するのを防ぐために、38度線の南に漁携阻止線を設け監視船を配置し、阻止線近くでは必ず船団を組ませ、単独漁携や、日没以後の漁携を禁じるなどの措置を採っていた。しかし、魚を追っているうちにレーダーもない小さな漁船は離れ離れになり、知らず知らずのうちに阻止線を越えたり暴風雨に流されることもある。漁夫は「魚を追ってりゃ38度線もなにも目に入るけえ」と言う。意図的に越北する場合もある。こうして北に数百人から千数百人の漁夫が抑留されていた。漁夫たちは短くは数ヶ月、長くは2,3年北朝鮮に滞在する間、工場、名勝観光地、博物館、農場などを見学し、演劇、映画、音楽会、運動競技などを見物する。長期在留すれば学校にも通う。
北から漁夫が帰るときに、北朝鮮側では船と漁携器具を修理しさまざまな贈り物と船一杯の魚、それに抑留期間中の賃金分まで持たせる。漁夫は帰ってくると必ず情報機関で取り調べをうけ、脅されて、北から持ってきたものを全部取り上げられる。情報機関では、北であったことや、北で他の漁夫がどんな態度であったかなどを全部調査し、北であったできごとを一切口外しないという念書をとってから釈放して、要視察者として監視をつづける。万一、酒を飲んだりして他の人に北のことを話すと、讃揚・鼓舞罪で捕まって1~3年の懲役だ。また洗脳された気配があれば間諜罪で重刑をうける。

私は在日朝鮮人として京都に生まれ、大学を卒業して韓国に行くまでは自国語もロクに知らなかったが、「自分は何者か?」という問いを通して、朝鮮の歴史と現実に深く関心を持ってきた。祖国分断の悲劇を知り、日本で、韓国で、その犠牲者たちと出会った。私の願いは、このとてつもない犠牲を乗り越え、平和で繁栄した統一民族社会を築くことだった。私は監獄で民族分断の歴史の現場を目撃し、その最たる犠牲者と出会った。当時はまだ自分自身20年近い獄中生活をすることになるとは夢にも思っていなかったし、20年もこの苛酷な監獄で生き残れるとは思ってもなかった。だから朝鮮戦争以後20年間も監獄で暮らしている老政治犯たちは、私には神様のように見えた。彼らは家族も面会もなしに、誰1人彼らの存在すら知らないままに、無一物で獄中に生き残ってきた。70名ほどの非転向囚のなかで、家族が面会にくる人は十指に満たない。零下10~15度にまで気温が下がる大邱の冬を過ごすのに、ゴミ箱のような綿がゴソゴソと固まった布団一枚と毛の抜けた毛布一枚、それに叺一枚が支給されただけだった。自弁できる者には2枚の毛布の差し入れが許されたが、5,6人を除いて差し入れが悪かった。冬下着も二着まで許されたが、冬下着を持っている人も何人もいなかった。私は当局の非人道的なやり方に憤慨して老政治犯に「冬をどう過ごしますか?」と尋ねた。「60年代半ばまではパンツもなかったよ」
釈放のあてのない無期囚となった私は、一生獄中で何をし、何に生き甲斐を感じなければならないのか漠然としていた。しかし、特舎の実情を知るにつけ、私は餓えと寒さにさいなまれるこの人たちの苦痛を少しでも和らげることに獄中生活を捧げようと考えるに至った。それから数年間、厳しい特舎で彼らに一着の下着、一個のパン、一冊の本、一コマの消息など小さな喜びを与えるためにすべての力と神経を集中させた。それが私の生き甲斐だった。
春夏秋冬
春・・・。独房には夏と冬しかない。大邱は半島南部の真ん中の盆地にある。大陸性の気候で夏は気温が40度近くまで昇り、冬は零下15度まで下がる。冬凍てついた監獄の厚い壁や体がようやくゆるみ、けだるい暖かさにウツラウツラするころ、5月に夏の熱気が襲ってくる。予告が長く訪れが遅い、つかの間の春だ。
独房の春は、鉄格子の間から漏れくる陽光から訪れる。壁に映る手のひらほどの陽光は日ましに大きくなり・・・立春、まだ雪と水に堅く閉ざされた大地に陽射しだけが若葉のように初々しい。3月になれば、ひと雨、ふた雨、土がゆるみ、春雷は冬を追っ払う。運動場の片隅に雑草が芽吹き、ライラックの芽が顔を出す。そして春の先駆者ケナリ(連翹)が真っ黄色な花を吹き出せば、もう4月だ。白い塀越しに山がツツジで真っ赤に燃え立つころ、大陸から黄塵が高く吹き寄せ、狂ったように咲き誇る花と若葉が妍を競う。
長い長い冬が終わったという安堵感に心も体もゆるみ、独房の住人は春の病を患う。強い日ざしに融け流れて、プンプンと臭いを発する春先の市場にならぶ冷凍明太のように、凍えた細胞は溶け崩れ、間節は緩み落ちるような具合で、風邪とも熱病ともつかぬものにとりつかれる。冬、氷にとじ込められていた悪臭は解き放たれ、極寒のなかで頼もしい保護者であった綿入れからは、顔をそむけたくなるようなすえた臭いがたちのぼる。
4月に入ると冬下着と綿入れを領置して、ひとえの薄い木綿の官服でブルブル震えなければならない。越冬食糧の大根葉の塩漬けは褐色に変色し、耐えられない悪臭を放つ。ほんの少し出まわる春の葉は、口に入るはずもない。萌え上がる緑のなかで緑に餓えて運動場の片隅の雑草を千切って口に入れては苦さに驚き吐き出した。囚人に春の菜が供せられるのは、4月も終わり、葉にトウが立つころだ。初めて緑が塩汁に浮けば、山海の珍味もこればかりと貪り食った。このころ便槽からおびただしい蜉蝣や蛆虫、ハエが湧き出し、夏の到来を知らせる。

夏・・・。着るものもなく極寒に傷めつけられてきた老政治犯は、冬が一番辛いという。しかし、私は害虫と暑さに悩まされる夏が一番苦手だ。なかでも蜉蝣には悩まされた。蜉蝣は初夏から涼風が吹くころまで我々を悩まし続ける。便槽の消毒などは月に一度もしてくれない。数百、数千の羽虫が便槽から湧き上がり、天井をびっしりと覆い尽くす。バターの紙箱を張り合わせ、便器蓋などを作るがあまり役にたたない。方法は雑誌や団扇でたたき潰すだけ。白い壁が見る見る真っ黒になってゆく。一番困るのは、虫がどこでも入り込んでくることだ。飯にも飛び込む、鼻の穴や耳の穴、不用意にあくびをすれば喉にも飛び込んでくる。寝ているときに耳に飛び込まれると、耳の穴を電灯の光の方に向けて、じっと虫がお出ましになるまで待つしかない。張虎先生は目に飛び込まれて結膜炎になり、目を真っ赤にして長い間、患った。新築建物だから南京虫がいなかったのが、せめてもの救いだった。
76年ごろまで、窓に防虫網を張るとなかの動静がよく見えないので保安障害物になる、と言って特舎には防虫網が張られなかった。窓の方は暑さを我慢して閉めたが、視察口からは蚊がどんどん入ってきた。目の悪い私が薄暗い電灯の下で、素早い蚊を殺すのは至難の技だ。血を一杯吸うと体が重くなり、動作が鈍り、羽音が高くなるので捕まえやすい。壁にとまった奴を打ち殺してウップン晴らしをする。
私の蚊退治はこうだった。座禅を組むように汗をタラタラ流しながら静座していると、蚊は汗の臭いを嗅いで飛んでくる。焦ってはいけない。蚊が手や足にとまり充分に針を尽きさすまで、じっと待つ。さて血を吸い上げようとする瞬間、エイっとたたき殺す。この方法が捕捉率が一番高かった。しかし、夜っぴいてこんなことをできないので根負けして眠りこむと、いやらしい羽音がして目がさめる。朝まで悪夢のように蚊と鬼ごっこをして起床・点検になり、けだるい体を引き起こすと顔や手足がボコボコに腫れていた。
虫は苦労の種である。しかし、孤独な独房で友達になってくれるのも虫である。独房にいつもいるのは蜘蛛だが、いつも巣を張って掃除するのが面倒だ。全州から移送されてきた李公淳先生は言った。「蜘蛛は動かないで、じっと網を張って引っかかる虫を餌食にする資本家みたいな奴だ。蟻は勤勉な労働者だ」。蜘蛛は嫌われている。それでも独房での唯一の友として、蝿を捕まえて蜘蛛に与えて育てている人もいた。
夏には団扇を一つずつ配給してくれる。しかし、腕が疲れて煽ぎつづけるわけにはいかないし、30度以上になれば扇ぐ風が熱くて使い物にならない。暑さをしのぐためには、パンツ一枚になって流れる汗をそのままに、ただ座って耐えるしかない。夜になっても、焼けついた屋根や壁のほてりで温度は下がらない。窓外の月光を見ても暑苦しい。呉牛喘月のサマである。
監獄は廃棄物や余り物の処理場だ。週に一度出る塩太刀魚もサツマ揚げも、市場で売れ残って腐敗寸前のものを監獄に持ち込む。米はもう1年越すと廃棄処分になる軍隊でも食わない3年古米だ。アメリカの余剰農産物導入で小麦が余れば、麦が収穫され出まわる前の6,7月ごろは小麦飯を食わされた。小麦飯は消化も悪く臭いが鼻について、さすがの飢えた政治犯もヘキヘキした。「また小麦飯か!小麦飯だけは食えん」。そんな小麦飯を炊いて食べさせた。毎年、夏の初めごろに週1回、日曜の昼飯として乾パンがでた。老人たちはずいぶん食べづらそうだった。政府が保有している有効期限の切れた非常食の乾パンを処分するために囚人に食わせたのだ。70年代の末から夏になれば、スイカやまくわ瓜を時々売ったのが大きな楽しみだった。後には監獄でも杏や桃などを売るようになり、果物好きの私を楽しませた。ブドウだけは酒を造るからと売らなかった。

朝鮮の諺で「老人は三伏(夏の極暑の期間、夏至の後から10日ごとに初伏、中伏、末伏がくる)の峠を越えられない」という。7月中旬に梅雨が終われば8月15日ごろまで大邱の気温は35,6度を上下する。昔は疫病のせいもあったが、猛暑に年寄りが死んでいった。獄中でも7,8月ごろに暑さにあたり食欲を失って死んでいった老人たちを何人も見た。我々は「(暑気あたりした)5,6月の犬」のようにグッタリと秋風を待つばかりだった。
秋・・・。台風が吹き荒れ、秋梅雨が降って秋嵐が立ち、ようやく快い眠りに就けるようになるころ、大邱の青リンゴが監獄にも出まわる。「秋夕」(仲状態)のころには栗や柿などの秋の恵みが売り出されることもある。韓国の秋はどこまでも高く青い空、澄明な空気、五殻の稔り、錦繍江山の秋景・・・と、四季のなかで一番美しい。しかし、我々にあh「秋来たれば冬遠からじ」で、秋風立てば冬を憂える。近づく永い永い冬を思って、秋を楽しむ余裕はあまりない。10月末には必ず一度、初寒がやってきて、小雪を降らしたり霜を立てたりする。
秋は冬じたくの時だ。まずは雑布や手拭として配られた着古しの官服からたて糸を抜き出し、より合わせて糸をつくることから始まる。充分に糸をつくって、10月に入ってくる布団の手入れをする。ゴミのように固まった綿をほぐし、まんべんに綿をならして糸でしつけていく。繊維が短く埃のような綿なので、細かく丁寧に縫わないと片寄ったり隙間ができてしまう。綿にはボタンを付けて寝袋のように作り、横から風が入らないようにする。次は綿入れだ。支給された服を解体し、前年の布団から引き出して苦労して隠しておいた綿を足して厚く大きくつくる。ズボンは腰の部分を足し、みぞおちまでくるようにして、朝鮮のパジ(ズボン)のようにつくる。これで腰巻きを兼用する。ズボンの裾には風が入らないようにボタンを付ける。綿や布が余ればボソン(足袋)をつくり、万全を期す。秋の楽しみは白い肥った白菜が汁に浮くことだ。白菜の味噌汁を麦飯にブッかけて食べれば昔を思い出す。初寒の後、ウラウラと小春日和がつづいて、11月の末にもう一度寒波がおそえば、もう冬だ。

冬・・・。秋分を過ぎて、寒露、霜降、立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒と冬は深まってゆく。季節を変造し偽造する都市の文化のなかで育った私は、季節の移ろいの持つ豊かな表情を知らなかった。暖房も冷房もない監獄では、ただ自然のなすがままに、逆らわないように生きるしかなかった。そんななかで自然の性悪さや苛酷さとともに、思いがけない親切や気前良さにも出会う。「陰暦んか古臭い。迷信の類だ」と思ってきた私も、24節気で季節を実感するようになっていった。少しジメジメと暖かい日本より季節がハッキリとし、大陸的な朝鮮の気候は24節気とよく合った。中国の中原との気候の類似のためだろうか。最近は地球の温暖化とやらで24節気も三寒四温も調子外れになってきた。10月に1回目、12月に2回目の寒波が襲い、冬至のころには本格的寒さがおとずれる。小寒には分厚い陶器の味噌壺が凍て割れるという。運動場の日だまりで暖をとり、日の光が日に日に長く力強くなっていくのを見守り、立春、そして春の訪れをひたすら待つ、獄中の冬だ。
同じ独房でも北側の0・78坪の房は、2階がなく、夏には西日が当たり、冬には日が当たらず北風が吹きつけるので、寒暑の差がいっそう激しい。冬には房のバケツの水が厚く凍り、吐く息は天井と壁に霜となって厚く固まり冷凍室になる。ホウキで天井を掃くと雪のように降ってくる。看守のスキを見て房で駆け足をし、眠る前に水を割り冷水摩擦をして体を温めて布団に入る。懲役袋のありったけの下着や靴下まで引っぱりだして布団の上に載せ、布団のエリのところと脇をボタンでとめて寝袋を作る。綿入れズボンの股のところを首に当てて、ズボンの両脚を首の下に巻き込む。ちょうど、前あきの部分が鼻先のところにきて、小便の臭いがする。頭にはナイトキャップの代わりにパンツを逆さにかぶって、準備完了だ。冷気はしんしんと板の床から一枚の叺と布団を貫いて背骨を刺す。回転焼のように転展反側を繰り返して寒さを避けながら朝の訪れを待つ。起床ラッパで凍てついた体を引き起こし、手足を伸ばすと、間接からギギギーと音がするようだ。朝、冷水摩擦をして半ば凍りついた細胞に血がまわり、ようやく体が動く。
看守とて寒さを逃れることはできない。76年まで大邱の舎棟には一点の火の気もなかった。明け方の3時から4時、温度が一番下がるころに、人が廊下をバタバタ走る音で目が覚める。寒さに耐えられなくなった看守が廊下を走っていた。
人は他郷にいて故郷を思う。まして監獄で迎える正月の名節には、故郷を思い、家族を思い、昔を思い、いよいよ寂しい。年末には仮釈放や赦免があり、取り残された哀しさもいやがうえにも増して、公休日で運動も面会もない正月はただ苛立ちばかりがつのる。日帝時代や解放直後には、名節になると「万歳(マンセ)!」を叫んで獄中示威した伝統もあって、保安課も名節中は特別警備に入り、舎棟担当を2人に増員配置する。そんな年末年始に名節らしさを感じさせるのは、特別食としてミカン一個、餅一個、飴一袋ほどが出されることぐらいか。正月の朝は銀シャリと豚汁や牛モツ汁が出る。しかし、3年古来の銀シャリは、粘り気もなく麦飯よりまずい。春だけを待ち焦がれる冬。春が来れば・・・長い長い苦しい旅を終えた旅人のように長いため息をつく。「今年も無事で冬を過ごした」と。
狂風、雷鳴、 雨―死刑執行
75年7月、大邱で私が見た最初で最後の政治犯の死刑執行があった。韓国の死刑場は四ヶ所ある。高等法院所在地であるソウル拘置所、大邱矯導所、光州矯導所、そして銃殺刑を執行する南漢山城にある陸軍矯導所だ。軍の死刑執行の実情は知らないが、民間ではソウル高等法院の管轄範囲が広いので韓国の死刑囚の8,90パーセントはそこで執行される。大きな国家保安法事件はほとんど中央の情報機関が扱うので、政治犯の死刑執行が地方であるのは珍しい。
執行された政治犯は裵栄先生と李石煕先生だった。2人は40代半ばの釜山の人で、北に行ってきて間諜罪に問われていた。普通、死刑囚は執行まで未決舎棟に置くが、彼らは大法院の判決後、1年余を特舎で過ごした。裵先生の夫人は陸英修大統領夫人と遠縁にあたり助命歉 願をしており、減刑の希望を持っていた。李先生は面会にくる家族がいないらしくて、青い木綿の官服を着ていた。7月のある日、構内清掃夫が死刑場の掃除をしたので明日死刑があるという噂がひろがった。翌日、すべての所内行事は中止になり全職員は非常勤務に入り、全在所者を入房させて施錠した。
9時過ぎに数十名の軍装をした看守が特舎に入ってきて、体格の良い武術看守たちが裵先生と李先生を1人ずつ両脇をかかえて引きずりだした。裵先生は端正な面持ちで顔色一つ変えず、前を向いて淡々と歩いていった。李先生は房の扉が開き虎のような看守が跳びかかると魂が抜けたようになり足が竦んでしまった。看守に引きずられブルブルと震えながら目を閉じ、手を胸で合わせて「主のみもとに参ります」と、繰り返した。彼は死刑囚になって、天主教に入信していた。
死刑場までは通路の両側に看守が人の壁を作った。死刑場では判・検事・各宗派の聖職者や所長以下、幹部たちが参席し、死刑執行指揮書朗読、遺言収録、死刑囚が望む宗教儀式と簡単な飲食の提供がある。そして落とし床のうえで椅子に座らせて、脚まで捕縄で縛りつけて白い目隠し頭巾をかぶせ、首にロープをかける。所長の命令でブザーが押されれば、壁の裏の赤いランプが点き、執行矯導官が鉄道のポイントのようなレバーをひく。バタンと床が落ち、死刑囚は3メートルほど落ちて首がしまる。「所長は・・・死相を検視してから5分が経過せずには絞縄を解くことを得ず」と、行刑法にあるが、実際には監獄医が聴診器を胸に当てて死亡を確認する。
レバーをひく看守はくじ引きで順番を決めた。執行看守には10万ウォンの報奨金が出たという。しかし、看守たちはみんな尻込みをした。ただ、趙相吉部長だけは進んでこの役を引きうけた。趙部長は勤務中にもつねに酒気を帯び、時々勤務中に矯導所の前の雑貨屋に入って焼酎をあおった。勤務はまったくでたらめだったが、笑って拷問をし死刑執行をする残忍さは在所者からは恐れられ、同僚からは一目置かれ、所当局からは重宝がられていた。その日も趙部長が買って出た。
死刑執行の模様を詳細に語ってくれた人の良い李担当に尋ねた。「趙部長は金が目当てで?」「なあに金なんか残るもんか、昨日も同僚と浴びるように大酒をくらって足が出たんだよ。腹よりヘソのほうが大きいってやつよ。何十人も殺しているんだから当たり前だろうが、趙部長は飲めば飲むほど真っ青になって1人で何かを罵ってテーブルをひっくり返して暴れまわるもんで、店は目茶苦茶だったよ。鬼神(霊、怨鬼)だっておとなしくしているはずがないもの」「担当さんは執行の順番がまわってくればどうします?」「矯導官やめて家で百姓するよ。ご先祖の名前を汚すわけにはいかんからな」

午前中に女囚1名を含む7名の死刑執行が終わった。
その日は真っ青に晴れ渡り、夏の陽差しは朝から強烈だった。矯導所の塀はますます白く映えあがり、浮き雲が一つ二つ漂い、妙な清浄感があった。2人が特舎から連れだされて間もなく、にわかに雲はかき曇り、狂風が吹いて雨が降りだし、雷が激しく鳴り渡った。執行が終わるころ、嘘のように雨はやみ、また燦々とした真夏の太陽と青空が現われた「運搬!」という声で昼食が運ばれ、監獄は何もなかったかのようにいつものリズムを取り戻した。
緊急措置令
維新憲法は、立法手続きなしに入身の拘束や死刑を含む刑罰を与えられる「緊急措置権」を大統領に与えた。74年1月にはじまり75年5月の9号まで出された「緊急措置令」によって学生や市民たちが捕まり、監獄は溢れかえった。
それまで韓国では儒教の伝統で学生の社会的身分は高く、「光州学生運動」(1929年日本人学生の朝鮮人女学生への侮蔑を契機として起こった大規模な反日学生示威)、「4・19学生革命」の伝統を受け継ぐ学生運動の権威もあり、民意の代弁者として動機の純粋性は深い尊敬をうけていた。政権にとって学生運動は、へたにいじったり刺激すると命取りにもなりかねないやっかいな腫物のような代物だった。学生運動は聖域であり、デモや集会で学生が捕まってもたいがいはすぐに釈放され、起訴されることはなかった。ところが、どたん場に追い込まれた維新独裁は良識を破り、このタブーに挑み、学生を大量拘束した。その後、全斗焕、盧泰愚政権においても、学生の特権は無視された。これは維新独裁にたいする国際的非難ともあいまって、政治犯にたいする同情や人権にたいする人々の関心を呼び起こした。

*The Gwangju Student Independence Movement (Hangul: 광주 학생 독립 운동 Hanja:光州學生獨立運動), or Gwangju Student Movement was a Korean independence movement in Gwangju against the 22 August 1910 to 15 August 1945 Japanese rule of Korea.
緊急措置令違反の学生たちを一般舎棟に収容すれば、一般囚にたいする法を無視した当局の処遇や人権蹂躙を学生たちが問題にし、一般囚が呼応し騒乱が起きるので学生たちを特舎に収容した。しかしその結果、韓国社会で最も深く隠蔽され秘密にされていた非転向囚の存在が外部に知らされ、孤立を打破する大きな契機が作られることになった。
同じ舎棟に収容しながらも当局は純粋な学生たちを非転向政治犯から徹底的に分離しようとした。「朱に交わって赤くなる」のを恐れた面もあったが、韓国社会のなかで広範な支持をうけて、家族など外部との接触を持っていた学生をはじめ、時局事犯をあまり粗暴に扱うわけにはいかなかった。かといって、思想転向工作を進めるうえで、非転向囚を時局事犯と同じに扱って苛酷な処遇を多少たりともゆるめるわけにもいかなかった。こうして同じ舎棟のなかでまったく違った処遇をうける二つの政治グループがいる二重構造が生みだされた。学生たちは運動時間も私たちの倍以上だった。通房も大目にみられ、書籍閲読、書信の許可も寛大だった。74,5年ごろまでは学生や民主人士たちの反共コンプレックスも強かったが、さらに反共的な国民感情を意識し純粋性を強調して、自らも<間諜>や<アカ>と一線を画そうとした。
しかし、正義と民主を叫んで投獄された者が、目の前の人権蹂躙や差別待遇に目をつむり、自分だけが厚遇をうけることは矛盾していたし、なによりもすべての政治犯は外勢による民族分断と独裁の犠牲者であるという客観的事実に目を向けざるを得なかった。反国家政治犯と反政府政治犯が、人権のスローガンのもとに一つになっていった。独裁者の弾圧が学生と私たちを結びつけてくれたのだ。獄中での闘いは広げ、従来の生存権闘争から政治闘争へと変貌していった。
74年末、啓明大学の学生会長だった白賢国氏が学生2人と学習組織をつくり自主的、平和的統一を主張し、維新体制を誹謗したというので反共法、緊急措置令違反で入ってきた。白氏は禁書だった岩波新書の『韓国からの通信』を所持、耽読したことでも反共法に問われていた。熱烈な民族主義者で予備校で英語の先生をしていたが、そこでは金九(独立運動家。上海臨時政府主席歴任、解放後、単独政府樹立に反対して自主統一を主張、李承晩の手下により暗殺される)先生の号、白凡を名前にしていた。獄中にいる間に生まれた息子に頭山となづけた。姓の白とつづけて民衆の霊山、白頭山になった。献身的な統一論者として彼は、特舎の老政治犯に深い同情を寄せ、物心両面での支援を惜しまなかった。
鄭和栄先生は76年11月、71房に入ってきた。慶北大学政治外交学科在学のときに「民青学連」事件で逮捕され、今回は警官を殴って捕まった。色白でパッチリした童顔に似合わず、巨体でサザエのような拳をもっていた。情報部で殴られても屈服しなかったので、「民青学連」でも一番の<悪質>として名誉の烙印を押された。勇気と機略で常に獄中闘争の先鋒に立った。77年秋には、明堂農民運動、環境運動などの分野で活躍したり、指導者となったり、韓国の在野運動の発展に大きく寄与した。彼らは年若かったが、学生運動の指導者として数十回にもおよぶ連行、逮捕、拘留、留置などを経験していたので度胸があり、権力との闘争では老獪だった。彼らの処遇改善闘争によって1舎下の処遇は大きく変わった。彼らは1971年秋に学生運動を弾圧する政府の方針により軍に強制入隊させられ、前方小銃部隊に配置されて苦労した。金容錫氏は72年維新憲法賛否の国民投票で、賛成票を投じよという小隊長の命令に最後まで従わなかったので小隊長の前で見せしめにひどい暴行をうけたという。以前は韓国では学生運動をしても軍隊に行ってくると、いわゆる「良識のある大人」になって運動から離れていったものだが、復学が執拗に運動をつづけていく伝統は彼らから始まったといえる。
断食闘争
77年ごろから獄中闘争の力関係に変化がきざした。学生や宗教人、在野人士が大量に投獄されると、獄中闘争と獄外の民主化・人権運動が呼応した。この背景には、反維新闘争と維新体制に対する国際的非難がたかまり、また「コリアゲート事件*」により韓米関係が悪化するなどの内外情勢のなかで、独裁政権が緊急措置令4、6,7、9号を発布し10年、15年刑、無期、死刑などの重刑を乱発して民衆を弾圧する一方、そんな重刑者を1年もたたずに釈放するなど政策に一貫性を欠き、法執行の権威を喪失して動揺していたという事情があった。
*70年代の半ば、米国で高まる維新独裁への批判をかわし、朴政権への継続支持をとりつけるために、KCIAと統一教会が関係し、多数の米国高官、政治家にワイロを贈るなど、不法なロビー活動をした事件。


*코리아게이트(Koreagate)는 1976년에 일어난 정치 스캔들로, 대한민국 중앙정보부가 박동선을 통해 미국 정치인들에게 뇌물을 주어 미국 정부에 영향을 끼친 사건이었다
*박동선(朴東宣, Tom Park, 1935년 3월 16일 ~ )은 미국 영구거주권을 취득한 한국계 미국인이다. 1970년대 미국 의회 로비 사건인 코리아게이트의 장본인이다.
監獄は大衆の日常から離れており、神秘化され、恐れられ、苛酷な刑が確実に執行されることによってはじめて恐喝装置として機能しうる。独裁者が大衆に権力を畏怖させ排詭させるために拘束者数と量刑をインフレートさせるほど、かえって権力の値打ちは下がり、大衆を刑罰の恫喝に慣れさせてしまう逆関数関係が生じる。70~80年代に韓国ではパンサリ(パンー房、サリ=暮らし。監房生活)をしない学生はかえって道徳的引け目を感じるという精神的風土まで現われた。独裁のもとで「矯導所は小さな監獄で、社会は大きな監獄だ」とも「三千里江山、これみな監獄」ともいった。これは全国土の監獄化という独裁統治の苛酷な現実をいい表わすとともに、監獄と社会の境界が崩れ、独裁が望むような監獄の固有な機能が失われつつあったことも示していた。
77年秋、慶北大の学生が接見室で通房をしたために暴行をうける事件がおきた。78年6月には朴烔圭牧師の子息、朴鍾烈氏がソウルから移送されてくるとすぐ新入りらしく神妙にしないということで暴行され、捕縄で縛られて私のとなりの37房に入ってきた。その前に韓国神学大学の朴聖献氏も新入り検査で暴行された。機先を制し、矯導所の規律に従わせるため新入りに脅迫したり暴行したりするのはよくあることだ。学生たちと私は抗議断食闘争をはじめた。老非転向囚たちが参加しなかったのは学生たちの老人たちにたいする配慮でもあるが、学生側にはまだ共闘することにたいするためらいもあった。
韓国の監獄では看守の暴言暴行は慣習化されていた。しかし、「公職にあるものの苛酷行為」は重大な人権蹂躙であるのみならず、韓国憲法と刑法でも禁じている明白な違法行為なので、闘争する側に絶対的な名分があった。

監獄では、言葉遣いをめぐって争いが絶えなかった。ちなみに朝鮮では長幼の序を重んじる儒教文化が強いので、目上の人には必ず丁寧な言葉を遣わなくてはならない。監獄では軍隊とおなじく一般囚たちは、カタ飯を何個食べたかで序列を決めたので、新入りは古参を天のごとく敬わなければならなかった。獄中では新入りの年長者には年を<預置>させて長幼の序を無視し、目下のように扱った。看守たちも囚人を人間扱いせず言葉遣いが乱暴で、政治犯とよく喧嘩になった。看守は「矯導官勤務通則」には「「平語」を遣う」とあるからといって、「下待語」を使ったが、私たちはそれを「尊待語」を指すと主張し対立した。しかし、私たちが人間的侮辱に敏感で強烈に反発したことと、非転向囚は高齢者が多かったので、看守も受刑者も私たちに普通は「尊待語」を使い、名前を呼ぶときは「先生」あるいは「氏」をつけた。
それ以外にも房内照明の改善、通風と採光のために目隠し板の撤去、図書検閲の緩和、運動・入浴時間の延長などを掲げて処遇改善闘争をおこなった。闘争が成功するかどうかは証拠の確保・保全、内部結束、外部と連絡をとりいかに問題を社会化させるかにかかっている。外部連絡なしに、断食闘争は充分な効果を上げることは難しかっただろう。
官僚は自己保身を旨とするので、矯導所内の問題がマスコミなどに知られることを極度に恐れる。接見や書信で矯導所内部の出来事に触れることを規則で禁じている。これを行刑<密行主義>という。<密行主義>はもともと受刑者のプライバシーを守るために生まれたものと考えられる。韓国では監獄は軍施設と同じく最重要保安施設であることから<密行主義>はますます歪曲され、百鬼横行する伏魔殿をつくり、不正腐敗と不法・無法を隠蔽する矯正官僚の伝家の宝刀となった。軍と監獄は類似点が多い。軍、公安公務員の団結権などを制限した<特別権力関係>などという概念をもちだして受刑者や末端矯導官の権利を無制限に抑圧しようとする。「命じられるまま従い、与えられるまま食べ、殴られれば打たれよ」というのだ。
非転向囚のように外部の支援がない場合、断食闘争は死をかけた真剣勝負になるしかない。実際、断食闘争あるいはその後遺症で餓死した人は何人もいる。83年、全南大学学生会長の朴寛鉉氏が断食して餓死してから、政治犯の個別断食を毎日法務部中央に報告するようになったが、それまでは、集団断食の場合だけ報告し、3日すぎると法務部から調査官が矯導所に派遣されるようになっていた。調査官が断食者に直接会うことは珍しく、形式的調査に終わることが多かった。それでも該当矯導所の所長以下幹部たちは所内問題を解決できない無能者として顰蹙を買い、死者が出れば検察や情報部から問責をうけた。官僚は経歴に傷がつくのを恐れるので、3日以内にことを収めるために激しく弾圧する。房の水を一滴のこらず持ちだしたり、冬には布団を回収したり、引きずりだして飯を食えと殴ったり、強制給食したりした。
行刑法では「理由なく不食する」ことを禁じており、「生命の危険がある時には<監獄>医師の立会いで強制給食させることを得」となっている。しかし実際は、断食初日から医者の立会いもなしに縛って地下室に連れ込み、強制給食の名目で大量の塩を入れた粥や煮えたぎる粥をホースで胃に詰め込んだり、ホースで喉や胃を突いたりする残忍な拷問をした。3日間頑張れば交渉を提案してくるが、不成立になれば死をかけた長期断食になりやすい。個人断食の場合、何週間もの長期にわたることが多い。学生たちは「4・19学生革命」記念日や「光州虐殺」記念日などの行事断食もしたが、非転向囚の断食闘争は官僚の経歴を担保に命と引き換えに闘うものであり、その決行には慎重で重大な決意を必要とした。断食闘争が社会問題になったり断食者を拷問して殺したりしたら、いったん、関係職員を懲戒するが、弾圧が上部指示であった場合は後に復職昇進させる。乱暴な「気質」を育て「士気」を高め、命令ならなんでもする看守を育てるためだ。
図書検閲
読書は独房での最大の暇つぶしであり、最高の楽しみだ。行刑法には「所長は教化上、特に適当でない書籍を除き閲覧を許可しなければならない」とある。しかし、検閲制度の本質は反理性であり、精神にたいする抑圧である。適・不適は曖昧で検閲官の恣意に任される。一般囚の書籍は矯導官が検閲し、政治犯の本は教誨師が検閲する。毎日数十冊差し入れされる英語、日本語の本、専門書を理解する能力も時間も、検閲官は持たない。基本的には法務部の「禁書目録」と「閲読許可指針」、それに文化公務部の「禁止図書目録」によるが、「指針」は「闘争心を煽るもの」「階級対立を助長するもの」といった具合にあまりにも包括的でほとんどの本が許可対象から外されるし、「目録」は3ヶ月ごとに改定されるが最新刊は収めらえない。このため検閲はますます保守的になり、よく分からないものは無条件不許可にするので争いの種になった。
70年代後半、学生たちが書籍検閲に反対し激しく闘って、かなりの検閲緩和をかちとるまでは、「社会」という字がタイトルに入っただけでも不許可だった。そのころ教誨師に抗議したことがあった。「なぜなんでもかんでも不許可にするのか?本は独房での命だ。独房に放り込んでおいて本も読ませないとはひどすぎる」。教誨師は「部屋に座って気楽に好きな本でも読んでいれば、転向するものもしなくなる」と嘲笑い、あるいは「私たちは毎日激務に疲れ、ひと月に本一冊読むのも難しい。お前たちはそうでなくても理屈をこねるのに、これ以上本を読ませたら私たちより利口になってしまう。それじゃどうやって転向させるんだ?」と劣等感を露わにした。知識を敵とし、盲目的な服従だけを要求する愚民化政策だ。合理的な論争に敗れれば暴力をふるい、相手の知識や情報の源を断ち、それを独占しようとする独裁政治の姿だ。

本を読もうとする人は真理と正義の追求に情熱を燃やし、身をなげうって獄に繋がれている。失うものを持たない人たちだ。読ませまいとする人は、飯を食わんがために公務員になった勤め人にすぎない。読みたいという情熱と執念は、俸給と昇進のために読ませまいとする官僚的防衛の立場を凌駕する。つまり学生は監獄に山積する副食予算の横領や資材の搬出などの不正・非理という当局の弱点を質にして、本を許可させた。黙認と譲歩は公認になっていた。
監獄の孔明
私は張棋杓氏を「監獄の諸葛孔明」と評したことがあった。彼は知謀知略の人であるのみならず、孔明が五丈原で作戦指揮だけでなく、陣中での訴訟から兵士の鍋釜の中にいたるまで細心な気配りのせいで過労死したように、自らの健康も省みず、周囲の人々に驚くほど細心な配慮をした。
*제갈량(諸葛亮, 181년 ~ 234년 10월 8일)은 중국 삼국시대 촉나라의 재상, 정치인이다. 자는 공명(孔明)이며 서주 낭야국 양도현(陽都縣) 사람이다. 별호는 와룡(臥龍) 또는 복룡(伏龍). 후한 말 군웅인 유비를 도와 촉한을 건국하는 제업을 이루었다. 형주 남부 4군을 발판으로 유비의 익천을 도왔다. 221년 유비가 제위에 오르자, 승상에 취임하였고, 유비 사후 유선을 보좌하여 촉한의 정치를 주장하였다. 227년부터 지속적인 북벌(北伐)을 일으켜 8년 동안 5번에 걸쳐 위나라의 옹·양주 지역을 공략하였다. 234년 5차 북벌 중 오장원(五丈原) 진중에서 54세의 나이로 병사하였다. 중국 역사상 지략과 충의의 전략가로 많은 이들의 추앙을 받았다. 그가 위나라 토벌을 시작하면서 유선에게 올린 출사표는 현재까지 전해 내려온다.

緊急措置令違反者との連帯闘争が本格化したのは、78年秋に張棋杓氏が特舎にきてからのことだった。彼は零細な縫製工場が密集している清渓川商店街の労働者からなる清渓労組のデモを指揮して投獄されたが、民青学連の宣言文起草者として指名手配をうけ、逃走中でもあった。69年にソウル法務大学に入学したときに、彼は他の学生より5歳年上で、すぐに学生運動の指導者になった。反政治地下新聞『自由の鐘』をつくり、70年末、全泰壱烈士が労働三権の保障を叫び六法事典を片手に焚身自殺を遂げるや、ソウル法科大学葬として全泰壱烈士の葬儀示威を敢行した。その後、全烈士の遺志を継いで清渓川商店街の労働者の権益擁護と組織化のために遇進した。71年10月には「政府打倒、市民臨時政府樹立陰謀事件」の首謀者として逮捕され、1年6ヶ月の刑をうけた。反維新闘争で指導的役割を果したが、韓国の逃走三大名人の1人であった彼は、逮捕を逃れ、長期間地下で運動を指導した。大邱にきたとき、彼は私と同じ34歳だったが、すでに韓国民主化闘争のため巨木だった。決して健康ではなかった彼は、獄中冷水摩擦と座禅とヨガに精進し、読書にいそしんだ。ある日、彼が食事をしなかったので房をのぞいてみた。目をとじて座禅を組んでいた。80歳の老母の訃報に接した、と淡々と語った。末っ子を獄中に置いて世を去った老母の思いは?そして彼の哀しみは?自分の悲しみには淡々と、他人の痛みには深い思いやりで処した彼だった。
1舎下への忘れられない張棋杓氏の贈物は、飯を四等から三等に引き上げてくれたことだ。彼には毎日のように大きな差し入れ袋が入ってきて、彼は金のない政治犯と一般囚に食べ物を分け与えた。しかし彼は、「官食が質・量的に改善されないことには、食べる問題の恒久的解決はない。飯を三等に引き上げるために闘おう」と提議した。解放後、政治犯たちはどれほど飢餓に苛まれ、食べるために闘い、涙を流してきたことか。できることなら三等食を得るために闘いたかった。しかし、「未就役者は四等食」と法規で釘を刺している。その四等すら確保できなくて、これまで闘ってきたではないか。「有るものを奪い取るやつらが、なんで三等をくれるものか。根拠のない要求をすれば弾圧されるのがオチだ」と老政治犯たちは懐疑的だった。
彼らがためらう様子を見て、彼は「よし、私が所長に会って必ず解決してきます」と言って面談に行った。帰ってくると、廊下の真ん中に立って結果報告をした。「副所長から特舎に継続して三等食を配食すると約束をもらいました」。皆は耳を疑った。闘争もなしに舌先三寸でこんなに簡単に決着するとは・・・。彼の説明は簡明だった。「矯導所でも軍隊でも、集団生活をするところでは飯はいつも余裕があるものだ。何十人分の飯を一等上げても微々たるもので、自分たちの腹が痛むわけではない。長期収容による健康悪化、老衰で栄養摂取をせねばならない、というのは堂々たる大義名分だ。それを受け入れさせる力さえあればいい。外部の運動とどれほど繋がっているか、矯導所の生理をどれほど把握し、その弱点を摑んでいるかが問題だ」。矯導所の非人道的処遇や不正腐敗に怒る民衆の声を彼は背景に持っていた。その力は彼がつちかってきた力だ。それ以後88年にカタ飯が廃止されるまで、私たちは三等食を守り抜いた。これで獄中での飢えからの解放は基本的に果たされた。

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