日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)⑩


普遍性への通路 -『プリーモ・レーヴィへの旅』(朝日新聞社刊)を書きおえて
『アウシュヴィッツは終わらない』の著者プリーモ・レーヴィには、日本では、それに相応しい関心が払われているとはいえない。しかし、欧米では近年、ミリアム・アニシモフによる浩瀚な評伝『プリーモ・レーヴィーある楽観主義者の悲劇』(末邦訳)がフランスで刊行され、あるいは、アウシュヴィッツからの帰還の旅を描いた小説『休戦』(朝日新聞社)がイタリアで映画化(日本での題名は『遥かなる帰郷』)されるなど、「プリーモ・レーヴィ・ルネサンス」とでも名付けうるような現象が続いている。

Tregua (Iwanami Bunko) (giapponese) Bunko - 2010/9/17 Primo Levy (Autore), Hirohide Takeyama (Traduzione) 휴전 (이와 나미 문고) (일본어) 문고 - 2010/9/17 프리모 레비 (의), 타케 야마 히로 히데 (번역)

*《휴전》(La Tregua, The Truce)은 스위스에서 제작된 프란체스코 로시 감독의 1997년 드라마, 전쟁 영화이다. 존 터투로 등이 주연으로 출연하였고 베라 벨몽 등이 제작에 참여하였다. 이 영화는 로시 감독이 2015년 사망하기 전 제작한 마지막 영화이다.
本年5月に来日したフランスの歴史学者、ピエール・ヴィダル=ナケは都内で行なった「記憶の暗殺者とは誰か?」と題する講演で、<ホロコースト>否定論と闘うための立脚点となる重要な成果として、次の三つを挙げた。第一はラウル・ヒルバーグの綿密な歴史研究書『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(柏書房)、第二にクロード・ランズマン監督の長大な記録映画『ショアー』、第三にプリーモ・レーヴィの遺作品である。

*Pierre Vidal-Naquet, né le 23 juillet 1930 dans le 7e arrondissement de Paris, mort le 29 juillet 2006 à Nice, est un historien français.
*라울 힐베르크(en:Raul Hilberg, 1926.6.2~2007.8.4)는 오스트리아 태생의 미국인 정치학자이자 역사가이다. 홀로코스트 연구에 관한 최고 권위자로 인정받고 있다.
プリーモ・レーヴィが自殺して今年で12年になるが、瞬時に拡がった衝撃の波がおさまった後も、その名は忘却の彼方に薄れていくどころか、「記憶をめぐる戦争」の戦線に繰り返し召還されている。彼の遺した証言と考察の重みは、むしろ日に日に増しつつあるようだ。しかし、このようにだけ述べることで、プリーモ・レーヴィを<ホロコースト>の証人の椅子に縛りつけておくべきではないだろう。文学者としての彼がもっとよく知られてよいと思う。

私は近頃しばしば、自分の20代、30代の日々を息苦しい地下室にたとえることがある。大学3年になったばかりの時に韓国に留学中だった兄たちが政治犯として検挙され、その時から私は「生活」への実感を喪失し、さりとて地獄に転げ落ちるわけでもなく、宙ぶらりんの日々を送っていた。家業を手伝ったり、パチンコ店の経営見習いや麻雀荘のマスターのようなことをやりながら、時間さえあれば本を読んでいた。手にする書物は人間の残酷さや生きることの苛酷さを主題とするものに偏っていた。
よく覚えているが、『アウシュヴィッツは終わらない』を初めて呼んだのは初版が出てすぐ、1980年2月のことである。私はまだ30歳になる前で、韓国では兄ふたりが9年目の獄中生活を過ごしており、母はガンのために刻々と死につつあった。
頁を開いて間もなく、次のような描写に私は釘付けになった。
レーヴィたちイタリアから到着したばかりの囚人は、強制労働収容所に送り込まれた直後、がらんとした大部屋に押し込まれて長期間放置された。4日間も水を飲んでいない彼らは狂わんばかりに渇いている。その部屋には水道の蛇口があった。だが、そこには汚水につき飲用を禁ずと貼り紙がされているではないか。かまわず飲んでみると、やはり水は生ぬるく、甘く、どぶ臭くて、飲めたものではなかった。
「これは地獄だ。我々の時代には、地獄とはこうなのだ。(中略)何かきっと恐ろしいことが起こるはずなのだが、いっこうに何も起こらない状態がずっと続くのだ。」
大部屋はいわば地獄への待合室なのである。いつか必ず呼び出しがかかることだけは分かっているのだが、それがいつになるのか誰にも分からないのだ。・・・この描写は、「地下室」に幽閉され、恐ろしい呼び出しの声を待っているような、その当時の私自身の気持ちをぴったりと言いあてていた。
私の証言文学と比べて、レーヴィがとくに読者を惹きつける理由は何だろう?考えてみると、それは、彼の作品がたんなる証言―「たんなる証言」ですら極めて貴重なものであることを前提に言うのだがーの域を超えて、ある種の「普遍性への通路」のようなものを備えた、最上の意味での「物語」の質をもっているからであろう。その「通路」は彼の場合、少なくとも二つ用意されている。『アウシュヴィッツは終わらない』を一篇の物語として読むとすれば、そのハイライトは、レーヴィが囚人仲間にダンテの『神曲』、しかも「オデュッセウスの航海」のくだりを暗誦してきかせる場面からの生還の物語である。それは同時にダンテに象徴される「イタリア人」の物語、ルネサンスと人文主義の物語、ギリシャ=ローマ神話、地中海世界の広がりまでも重層的に示唆する。ここには古典的とすら呼びうる、堅固な物語の構造がある。これが、レーヴィの文字がもつ「普遍性への通路」の第一のものだ。
その第二のものは科学精神あるいは科学愛ともいうべきものといえよう。短篇集『周期律』(工作舎)の最後に置かれた作品『炭素』の主人公は、炭素原子である。古今東西の文学に、自然界における原子の循環と遍歴を物語った作品があっただろうか。しかもレーヴィはファシズム体制のただ中にあった若い日に、「化学者だけに知られている、業緑素の光合成という壮大な詩を人々に知らせるために」、この物語を着想したというのだ。そこには東洋的無常観とはまったく異なる、個々の生命体の有限性を超えた生命観、宇宙感への詩的イメージが脈打っている。レーヴィが化学者だったことの意味は、強制収容所で実験室に配置され生き延びるチャンスを得たことにとどまらない。精神の中核にこのような「普遍性への通路」を保っていたことが、地獄からの生還と再生につながったのである。
レーヴィの文字が、救いも出口もない状況をきびしく見据えながらも、同時にどこか私たち読者に生気と活力を吹き込む力を備えている理由もここにあるといえるだろう。私にとってそれは、自分を閉じこめている「地下室」の壁に開いた小さな窓だった。その窓のおかげで、窒息をまぬがれたのである。
1996年1月、鉛色の雲にとざされたトリノを訪れた。公共墓地に葬られているプリーモ・レーヴィの墓や、彼が4階から身を投げたレ・ウンベルト街の自宅を、どうしても自分の眼で見たかったからだ。その旅の見聞と、胸中で渦巻いたさまざまな思いを、『プリーモ・レーヴィへの旅』と題して本誌(『一冊の本』朝日新聞社)創刊号(1996年4月号)から19回にわたり連載させてもらったが、今回刊行されるのは、これに大幅に加筆したものである。紀行文と評論をあわせたような記述のかたちは、対象との遠近感から自然に出てきたものだ。私はかねてから、冷静な観察や批判的分析の対象としてだけではなく、どこか旧知に対するような近しい感情を、この見知らぬユダヤ人に抱いていたのである。トリノに向かう私の心にはたしかに、よく生きて逝った旧知を弔うために、遅ればせに、ひっそりと出かけていくような感情があった。(初出:『一冊の本』朝日新聞社、1999年8月号)。

変わらない日本 -在日朝鮮人から見た「日の丸・君が代」法制化問題
「いいたいことは随分あるけれども「日支親善」のもっと進んだ日を待たなければならない。遠からず支那では排日すなわち国賊、というのは共産党が排日のスロガンを利用して支那を滅亡させるのだといって、あらゆる処の断頭台上にも×××を仄して見せるほどの親善になるだろうが、しかしこうなってもまだ本当の心の見える時ではない。」
ここに引いたのは魯迅の文章「私は人をだましたい」からの数行である。もともと日本語で書かれたもので、雑誌『改造』の1936年4月号に掲載された。×××は日本側の検閲による伏せ字であるが、中国語訳では「太陽的円圏」が当てられている。すなわち「日の丸」である。親日傀儡権力を押し立て日本の中国侵略がますます激化していくだろう。そして、そうなっても支配者には中国民衆の心は決して見えないだろうという辛辣な警告と解することができる。
結びの一行は次のように書かれている。
「終わりに臨んで血で個人の予感を書添えて御礼とします。」
この文章が発表された年の10月19日、魯迅は上海で世を去った。翌年7月7日にいわゆる盧溝橋事件が起こり、日本の中国侵略は全面的戦争という段階へ突き進んでいく。魯迅の「血の予感」は的中したのである。(「竹内好編訳『魯迅評論集』岩波文庫によった。」
*루거우차오 사건(노구교 사건)은 1937년 7월 7일에 베이핑(현 베이징 시) 서남쪽 방향 루거우차오(루거우 다리, 중국어 간체자: 卢沟桥, 정체자: 盧溝橋, 병음: Lúgōuqiáo)에서 일본군의 자작극으로 벌어진 발포 사건으로, 중일 전쟁의 발단이 되었다. 이 사건을 계기로 일본 제국과 중화민국은 전쟁 상태로 돌입, 그 후 전선을 확대하게 되었다.
なお、同じ1936年、ベルリン・オリンピックのマラソン競技で朝鮮人の孫基禎が優勝したが、植民地下朝鮮の民族系新聞『東亜日報』は孫選手のユニホームの日の丸を塗りつぶして報道したため、朝鮮総督府によって無期限停刊処分をくだされている。


*1936년 하계 올림픽(영어: 1936 Summer Olympics, Games of the XIOlympiad, 독일어: Olympische Sommerspiele 1936)은 1936년 8월 1일부터 8월 16일까지 독일의 수도 베를린에서 개최된 제11회 하계 올림픽이다.
*손기정(孫基禎, 1912년 10월 9일 (1912년 음력 8월 29일)[1] ~ 2002년 11월 15일은 일제 강점기 때 활약한 조선인 육상 선수이자 체육인이다. 1936년 하계 올림픽의 마라톤에서 금메달을 수상하였다.
続いている皇民化
本稿の依頼を受けたとき、私に小学校時代の記憶がよみがえってきた。
私は1951年に京都市で生まれ、市立の小学校に通った。私が育ったのは比較的在日朝鮮人が多い地域で、ひとクラスに4,5人平均はいたように思う。ちょうど三井三池争議や60年代安保の時代で、担任の先生は、当時としてはそれが平均的だったのかもしれないが、私たち子どもにも戦後民主主義や平和の価値を熱を込めて語るというタイプの人だった。「教え子を戦場に送るな」というスローガンも、当時、その先生から聞いた記憶がある。給食費や修学旅行の積立金を持ってくることのできない生徒をそっと慰め、自分のポケット・マネーで立て替えておくような温情も兼ね備えた先生だった。
ただ私にとってつらかったのは社会科の時間に教科書を朗読させられることだった。社会科が得意で成績も良かった私は、しょっちゅう先生に指されたのである。教科書には「わが国の四大工業地帯」とか「わが国有数の塩田」とかいうように、「わが国」という言葉が頻繁に出てくるのだが、私にとってこの国は「わが国」ではない。日本式の通名を名乗っていた私は、その言葉にぶつかる度に「踏み絵」を迫られているような息苦しさを覚えた。読むときに「わが国」を「日本」と勝手に言いかえてしまえばいいのだが、それは子どもにとって簡単なことではない。私は自分が朝鮮人であることを隠していなかったが、それでもそのことをことさらに宣言するには特別な勇気が必要だった。またその逆に、知らんぷりして「わが国」と読んでしまうのは、何か卑劣な胡麻化しか裏切りのように感じられた。誰か自分以外の朝鮮人が日本人生徒たちにいじめられているのを目のあたりにしながら、それに抗議せず、自分も日本人のふりをして保身をはかる。-たとえて言えば、そんな感じである。そのため私は、いつも「わが国」のところにくると口ごもったり、わざと飛ばして読んだりしていたのだが、先生はその理由に気づいてくれないようだった。

*통칭명(通稱名) 또는 통명(通名)은 일반적으로 사람들에게 널리 알려진 이름이나 설명하는 말을 뜻한다. 한편, 일본에서는 재일 한국인 및 재일 조선인들이 사용하는 일본풍의 인명을 뜻하기도 한다.
卒業式では『仰げば尊し』と『君が代』を歌うことになっていた。卒業式を前に、先生は私たちに、『仰げば尊し』の歌詞の2番は歌わなくてもよいと告げ、「身をたて名をあげ」というくだりは戦前の立身出世主義そのままだから戦後の民主主義社会にはふさわしくないと、その理由を説明してくれた。なるほどと納得したのだが、いま思えば、なぜ1番はそのまま歌わせたのか疑問である。そして、それ以上に『君が代』については先生から何か話があったという記憶はない。卒業式の日が近づくにつれて、私の内心の緊張と憂鬱はどんどん高まっていった。
朝鮮人でなくとも、天皇を「天ちゃん」と呼んで揶揄するような大人たちは周囲にたくさんいた。『君が代』が何を意味しているかは、誰かに特別に教えられなくても、子どもながらはっきりとわかっていたのである。起立してそれを歌うということは、教科書の「わが国」どころではない、重大な「踏み絵」にほかならなかった。

自分ひとりだけでも起立を拒否するべきだ、そう思い詰めたのだが、当日になると私は十分な勇気を発揮することができず、みんなと一緒に起立だけはして、うつむいて唇を噛んでいたのである。この時の自分の優柔不断さは長い間の悔いとなり、現在も私の心に傷となって残っている。近ごろは「韓国人など外国人は子どもの頃から愛国心が強い。日本の若者もそれに見習わなければならない」などと悪用されかねないので、誤解のないように念を押しておこう。私は韓国または朝鮮民主主義人民共和国への愛国心から、前記のように感じたのではない。そうではなく、「長いものに巻かれる」自分、差別されている仲間を裏切り差別する多数派や権力者に迎合しかねない自分がいやだったのである。
いま当時を振り返って思うことはふたつある。ひとつは、植民地時代の皇民化政策が、そのような形で、戦後の日本社会でも継続していたということである。日本の植民地支配の結果、日本に居住することを余儀なくされた在日朝鮮人、その生徒に「わが国」といわせ、『君が代』を歌わせるのは皇民化以外の何ものでもないではないか。民族学校出身の国立大学受験を認めないことなども、同断である。
そして、ふたつには、そうした皇民化政策に、戦後民主主義の価値を熱心に説いていたあの進歩的な先生たちも、すこしも気づいていなかったということである。
現在はどうだろうか?数年前のことだが、ある地方都市の公立中学校に通う親戚の子と話していたとき、彼がぽつりと漏らしたことがある。彼は生徒会長だったのだが、その学校では体育祭で生徒会長が日の丸を掲げて来賓席の前を行進する慣例となっているというのだ。
「どうしよう?」という彼の憂鬱そうな表情を見ただけで、私の小学校時代の悩みの原因が数十年後のいまも少しも改善されていないことを実感した。「そんなのは断固拒否しろ」と言うことは、大人になった現在では簡単だが(いや、大人になっても状況によっては決して簡単ではない)、中学生の彼にそれを上から押しつけることは可哀そうだった。後日、その子に会ったとき、「どうなった?」と尋ねると、「ああ、旗もちを代ってくれというやつが他にいたから・・・」という。「変なやつだな」というと、「うん、でも助かった」というのだった。この子が成長していくまでに、いや成長した後でも、この日本社会でどれだけ有形無形の皇民化の圧力にさらされなければならないか、そのことを私は思わずにいられなかった。
こうした在日朝鮮人の子どもたちの心は、大多数の日本人には見えないのである。遠からず日本のあらゆる公立学校に日の丸がはためき君が代が流れるだろうが、そうなってもまだ本当の心の見える時ではない。

人のふんどし
「日の丸や君が代を『在日外国人もいる』ことを理由に反対されるのは困ったものだ。人をだしにせず、はっきりと自分がいやだから、強要される非民主性がいやだから、その歴史性や社会政治性を拒否するからと自分の立場で反対してほしい。(中略)日の丸や君が代は日本の、日本人の問題である。自分のふんどしで相撲をとってもらいたい。」
金伊佐子さんという在日朝鮮人女性の言葉である。(『在日女性と解放運動』『リブとフェミニズム』岩波書店)
私はこの言葉に、おおいに同感する。私自身、金さんが指摘している事態を、実感することが多い。1989年、昭和天皇が死去したとき、恐怖とともにそのことを感じた。主要マスコミはまるで事前に相談したように足並みを揃えて、天皇の戦争責任を弁護し、また日本の戦後復興にとって象徴天皇制はよかったと異口同音に述べていた。天皇の戦争責任を追及する声は、韓国、中国、オランダ、イギリス・・・まるで日本の「外」にしか存在しないかのようだった。マスコミは、そして日本の識者たちは「人のふんどし」で相撲をとったのである。
「『在日』がいるから」と、日の丸・君が代に反対している人たちに問いたいが、もし日本に在日朝鮮人など在日外国人が1人もいなかったら、どうするのか。在日朝鮮人といってもその数は、日本の総人口のわずか0・5パーセント程度である。もし在日朝鮮人の存在が日の丸・君が代反対の主要な根拠だということになれば、法制化推進派は在日朝鮮人を標的とし、在日朝鮮人を黙らせ、ひいては排除することに力を注ぐだろう。そうした発想が極限に達したのが、ナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策だったではないか。万一そうして悪夢が現実になったとき、つまり「日本社会の和を乱しているのは一部の在日朝鮮人だ(だから、やつらを排除せよ)」という世論が形成され力をもったとき、現在ですら在日朝鮮人を口実に用いている日本人たちが危険を冒してまで朝鮮人を保護してくれるなどと期待できるだろうか。
昨秋のこと、新学習指導要領に関する新聞記事を読んでいて、つい吹き出しそうになった。もちろん、笑っている場合ではないのだが、有島朗人・文部大臣の記者会見である。
「オリンピックなどで外国に行った日本人が、その国の国旗と国歌にご無礼した。こんなことがないようにするには、まず自分の国に愛着をもつことが必要。だから、国歌と国旗の指導は続けていく。」(『朝日新聞』1998年11月19日)
この文言はたぶん中曽根政権あたりからの「国際化時代にふさわしい日本人のアイデンティティを」という決まり文句を文相なりに繰り返したものだが、あらためてじっと見つめてもらいたい。これもまた、典型的な「他人のふんどし」ではないか。「ご無礼」された国(どこの国?)が怒り狂って日本に愛国主義教育をせよと要求した事実があるのか。逆に、中国や韓国からの、正しい歴史教育をして自国の侵略の歴史を若者に教えてほしいという要求には一向に耳をかそうとしないではないか。

*나카소네 야스히로(일본어: 中曽根 康弘(群馬県出身, 1918년 5월 27일 ~ 2019년 11월 29일)는 일본의 정치인이다. 제71·72·73대 내각총리대신을 지냈으며, 1947년의 제23회 중의원 의원 총선거를 시작으로 20회 연속으로 중의원 의원에 당선되며 2003년까지 56년간 의원직을 유지하였다.
こんな子どもだましの理屈が一国の文部大臣(東大学長だったそうだ)から語られているのである。本気でそう信じているのだとすればその知性の程度を疑うほかないし、もし表向きの理屈づけとして心にも無いことを言っているのだとすれば、人を(在日朝鮮人だけではない、日本人をも)馬鹿にするにも程があるではないか。しかし、私が不思議にも不気味に思うのは、国会議員、文部官僚から学校管理職にいたるまで、この幼稚な理屈をマニュアルのように唱えて怪しまない事態であり、マスコミや世論からも、この点に関する的を射た批判がほとんど聞かれないことだ。この人たちは自立した知性や恥を知る感覚がないのだろうか。死者まで出たというのに。
最近きいた別の例は、こういうものだ。定住外国人が多数いる関東のある県では「多文化共生」のかけ声が盛んだという。そして、さまざまな国籍の児童生徒が集まる公的な行事の度に、万国旗に日の丸をつけて飾り、壇上に日の丸を掲げるのだという。諸外国に国旗があるように、日本にもある、というわけだ。まさに先の文部答弁を忠実に実行しているのである。そうしてついに、公的な刊行物の表紙に、ブラジル国旗と日の丸を交差させたデザインを使用するにいたったので、いぶかったある人が問い合せると、それは日系ブラジル人生徒の描いた絵だという返答。それにしても、「多文化共生」を唱える趣旨に日の丸の表紙はそぐわないのではないかと問うと、相手からは、あなたは日系ブラジル人児童の心を大切にしてやれないのかという気色ばった言葉が返ってきたそうだ。
これまた、「人のふんどし」である。いや、「子どものふんどし」というべきか。あらためて当り前のことを言うのも気恥ずかしいが、真の多文化共生とは国家と国家との関係を意味するものではない。国家の枠をこえて人と人とが尊重し合うことを目指すものである。その場に国家を持ち込めば、かならず国家間の不平等関係がそこに投影されることになる。国家の手先に成り下がった「多文化主義」とは、表現をかえた帝国主義にほかならない。「満州国」の「五族協和」というスローガンを想起するだけで、そのことがわかるだろう。多文化主義は、細心の注意を怠ればいつでも国家に利用されうるのだ。
奇怪な転倒
こうして、「人のふんどし」を借りた理屈どうしの応酬を経て、いかにも浅薄に、きわめて重大な、無数の人々の生命がかかっているような事柄が既成事実化されようとしている。政治学者の丸山真男は日本軍国主義の精神構造を分析し、その特徴として「既成事実への屈伏」と「権限への逃避」を挙げている(『現代政治の思想と行動』未来社)。「もはやそれが「流れ」になっていたから抵抗しても無駄だった(あるいは、抵抗することなどおもいつかなかった)」「それは上司の、あるいは部下の権限に属することで、自分の権限はそこにはなかった」・・・東京裁判の法廷に立った日本軍の戦争指導者たちは異口同音に、そう自己弁護したのである。

<전후 민주주의>는 여기에서 시작되었다 -. 일본 파시즘 천황제 분석, 코뮤니즘의 이데올로기를 둘러싼 문제 등을 다룬 제 논고를 수록된 '억압의 이양'( '초 국가주의의 논리와 심리」), "무책임의 체계」( 「군사 통치자 정신 모양 ") 등의 중요 개념을 제출하고 발표보다 반세기 지난 현재에 이르기까지 반복 읽히고 언급되고 논의되는 전후 깊은 최장의 스테디셀러 저자의 사후 수십 년을 기념하여 만 준비를하고 새로운 쌍 · 신장 커버 공급에 등장!
〈戦後民主主義〉はここから始まった――。日本ファシズム、天皇制の分析、コミュニズムのイデオロギーをめぐる問題等を論じた諸論考を所収、「抑圧の移譲」(「超国家主義の論理と心理」)、「無責任の体系」(「軍国支配者の精神形態」)などの重要概念を提出し、発表より半世紀たった現在にいたるまで繰り返し読まれ、言及され、論じられる、戦後最深・最長のロングセラー、著者の没後十年を記念して、満を持しての新組・新装カバー装で登場!
마루야마 마사오(일본어: 丸山 眞男, 1914년 3월 22일 ~ 1996년 8월 15일)는 일본의 정치학자로서 일본정치사상사의 권위자이다. 1937년에 도쿄제국대학 법학부를 졸업하였다.
聞くところによると、日の丸・君が代を教育現場に押しつける管理職たちが自己の信念を披瀝することはまれであるという。いやむしろ、個人的な心情としては押しつけに疑問をもっている。不賛成である、などとほのめかす場合もめずらしくないそうだ。それでも、職員会議などでは、「とにかく、これだけはやらせてもらいます」の一点張りで、あとは口をつぐむのだという。まさに「既成事実への屈伏」と「権限への逃避」である。このように自主的判断を停止し、自らすすんでロボットのようになった人々が、かつての侵略戦争を上からも下からも支え、アジア諸国ばかりか日本そのものにも破壊的損害を与えたのである。こうした日本社会の現実こそ、私は心底、恐怖を感ぜずにはいられない。
世界の多くの人々にとってこれから血を流して闘い取らなければならない「思想・信条の自由」「言論の自由」が、いまはまだ日本にあるのだ。「自分は反対です」「自分はいやです」と、なぜ言えないのか。そうでなくとも、職務命令を振り回したりせず、時間をかけ、胸襟を開いて話し合うことが、なぜできないのか。そのことで自分がどの程度のものを失うのか、その代償としてどれほど貴重なものを得ることになるかを、いまこそ深く考えてもらいたいのである。
日の丸・君が代は広く国民に「定着している」というのが、法制化推進派の重要な論拠になっている。それどころか、慎重派までも「定着している事実は認める」とか「尊重する」とか言うことが多い。
これも私から見れば、奇怪千万な転倒した理屈である。ほんとうに「定着」しているのか。それは長年にわたる無理やりの強制の結果ではないのかーしかし、この点についてはいまは措こう。むしろ、以下の論点こそ重要である。すなわち、「いままでそれが法制化されなかったのは、国民への定着が不十分だったからなのか?むしろ、日本国民に定着しているからこそ、それを国旗・国歌にしてはならないのではないか?」
明治以来の天皇制国家・日本・対外侵略を通じて国民意識を形成してきた日本、その日本でかつて日の丸・君が代はほぼ完全に臣民に「定着」していた。いや戦前・戦後だけではない。先に私の小学校時代の例を述べたように、戦後においてすら、日本国民の大多数にそれは「定着」していたのである。だからこそ、たとえ99パーセントの国民が望もうとも、それだけは戦後日本の国旗・国歌にしないというのが、このことを考える最初の出発点ではないのか。それが戦前・戦中の日本とは断絶した別の日本として再生するという決意の表明だったはずであり、一種の対外公約でもあったはずだ。だからこそ中国の周恩来首相は、「日本軍国主義と日本人民は別である」と述べたのである。
*저우언라이(중국어 간체자: 周恩来, 정체자: 周恩來, 병음: Zhōu Ēnlái, 1898년 3월 5일 ~ 1976년 1월 8일)는 중화인민공화국의 공산주의 혁명가, 정치인이다.
ファシズム国家として第二次世界大戦を闘った三国のうち、ドイツ、イタリアは戦後、国旗を変えたが、日本だけは変えなかった。いや、このことはまだいまの時点では法的に確定したわけではない。しかし、法制化となれば、そういうことになる。それは結局、日本だけは過去から学ばなかったし変わらなかった、そして、今後も変わるつもりはないということを、全世界に向かって宣言するのと同じ効果をもつだろう。
深く考えてみるまでもなく、もし外国を「ふんどし」として利用するのではなく、ほんとうに外国との平和友好関係を築きたいのであれば、知性があり恥を知る文部大臣ならこう言うはずだった。
「かつて侵略と植民地支配のため日の丸と君が代を押し立てて外国に行った日本人がその地の諸民族にご迷惑をかけた。こんなことがないようにするため、どんなことがあっても日の丸と君が代だけは国旗と国歌にするわけにはいかない。」
もし、文相がそう述べていたら日本はアジア諸国だけでなく、世界中から深い尊敬を得られたことだろう。それは、日本の平和を確保するために、最新装備の軍隊よりはるかに役立ったはずである。
日の丸・君が代法制化の動きが加速する中で、自民党の矢野哲朗参議院議員は、今後、彼らが突き進もうとする方向を驚くほどの率直さで語っている。
「日の丸・君が代問題は有事法制、さらに憲法改正と、三段階で日本の21世紀を担う政党はどこかが明らかになる。」(『朝日新聞』1999年5月19日)
昨日(1999年5月24日)、国会で「新ガイドライン関連法案」が成立した。それが想定する軍事行動の主たる対象が朝鮮民主主義人民共和国であることも、公知の事実である。このままでは来世紀の到来をまたず、結局変わらなかった日本が、アジアにおける平和への重大な脅威となって立ち現われることになるだろう。
私も魯迅にならって、この文章の終わりに「血の予感」を書きとめておくべきだろうか。
*ここでの「在日朝鮮人」という用語は「朝鮮籍」「日本籍」のすべてを含む、日本に存在する朝鮮民族の総称、「在日朝鮮人」をたんに「在日」と呼ぶことは適切ではない。なぜなら「在日」という言葉は、ただ「日本にいる」という状態を指しているにすぎず、それは「日本側からの視点」でしかないからである。「日本に住んでいる朝鮮民族」であることを明示してこそ、この問題を日本・朝鮮両民族の歴史的・現在的関係との関連において考察することができる。(初出:『公論よ起これ!「日の丸・君が代」』太郎次郎社、1999年7月)
鮮やかな日本人 ―安江良介氏を悼む
安江良介さんと初めてお会いしたのは70年代の前半だった。安江さんが都知事秘書の仕事から岩波書店に復帰して間もなく、年齢も40歳になるかならないかという頃である。私は20代前半であった。とっつきにくかった印象だけが残っていて正確な日時をもはや思い出すことができないのは、あれから4世紀の時が流れたからだけではない。人は暗い地下室に長く放り込まれていると季節や時間の感覚そのものが曖昧になってしまうらしいが、私の中では、あの70年代の日々の記憶はもはや復元し難い破片のようになってしまっているのである。
*야스에 료스케安江良介 (야스에 료스케(石川県出身, 1935 년 8 월 26 일 - 1998 년 1 월 6 일 )는 일본의 편집자 , 출판인. 이와 나미 서점 사장.
1971年春、軍事独裁者・朴正煕が野党候補の金大中と熾烈な大統領選挙を闘っていたとき、韓国に留学中だった私の兄ふたり、徐勝と徐俊植が「反政府学生運動を背後操縦したスパイ」という嫌疑で逮捕された。選挙戦に辛勝した朴正煕は72年10月、クーデターによって維新独裁体制を樹立。73年8月には、金大中拉致事件を起こした。74年には「民青学連事件」があり、75年には「人民革命党」関係者8名が処刑されている。この間に、兄たちはそれぞれ無期懲役と懲役7年の刑が確定した。74年5月、徐俊植は故・西村関一牧師との面会を通じて、獄中での非転向政治犯に対する残酷な拷問を告発した。
*西村 関一(にしむら せきかづ(滋賀県出身、1900年6月4日-1979年8月15日)は日本の牧師、政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(2期)。アムネスティ・インターナショナル日本支部理事長。川北対合衆国事件の時には、減刑嘆願運動の中心的な人物として活動した。
学園、街頭、獄中・・・、韓国のあらゆる場所で軍事独裁への驚くほど勇敢な抵抗が続けられていたが、圧倒的な暴力統治によって状況は閉塞していた。暴力や死の気配を身近にひしひしと感じ、最も凄惨な、最も救いのない事態を思い描いて暮らす日々だった。何とか兄たちを救い出す手だてはないか、せめて獄死の危機をのがれることはできないか。途方に暮れた私は、正直にいえば、ひとかけらでも楽観的な材料はないものかと藁にもすがる思いで彷徨っていたのである。
初めて会った安江さんの眼光は鋭く、その口から出る情勢判断は厳しかった。気休めらしいことは聞くことができなかった。いっそう暗澹とした思いで岩波書店を辞去したことを憶えている。それ以来、難題にぶつかるたびに安江さんの意見を求め助力を乞うた。安江さんの決断によって、兄たちの獄中からの手紙は3度にわたって「世界」に掲載され、岩波新書として刊行された。
1979年10月に朴正煕は側近によって暗殺されたが、同年12月12日には「粛軍クーデター」によって全斗焕が軍部の実権を握った。その同じ日に、私の母・呉己順は京都市内の病院に再入院したのである。医師の診断では3年前に手術を受けた子宮ガンの再発、余命はおよそ半年とのことであった。徐俊植はすでに刑期を終了していたが、非転向政治犯への保安処分を定めた社会安全法によって引き続き拘禁されていた。その保安処分の更新期間が、やはり半年後に控えていた。韓国社会は民主化に向かうのか、それとも独裁へと後退するのか、情勢は複雑かつ不透明だった。母の命があるうちに、せめて兄のひとりだけでも解放させることができるだろうか。そのために、何をなすべきなのか。私の母の病状の真相を少数の信頼できる人にだけ打ち明けた。安江さんの反応はモラル(士気)の面においても、実際的な面においても、まったく真実味に溢れるものだった。「世界」80年4月号に、朝日新聞の宮田浩人記者による母からの聞き書き「病床から祖国を想う」が掲載されたことは、安江さんによる実際的な助力が表にあらわれたひとつの例である。

適切なたとえではないが、私は安江さんの姿に野球の捕手を連想し、自分自身もそのようでありたいと切実に願った。すぐれた捕手は絶体絶命のピンチを迎えたとき、一方で誰よりも沈着かつ冷徹に彼我の力量をはかり情勢を分析しつつ、同時に、最も情熱的に勝利を確信し、うなだれがちな自軍を声を励まして叱咤するものである。安江さんは常にそのような存在だった。しばしば、その目に涙が光るのを私は見た。感動、青春、道義といった言葉をいささかの衒いもなく口にした。それが似合っていたし、説得力があった。ある種の浪漫主義と戦略的思考とが、安江良介という一個の主体において見事に統一されていたのである。
あらためて手もとのノートを繰ってみると、安江さんは80年の5月10日に、わざわざ京都の病院に母を見舞って下さっている。その日は母の加減もよく、打ちとけた談笑が続いた。私は初めて、安江さんの、赤ん坊のように屈託のない笑顔を目にした。しかし、話題が韓国情勢に及んだとき、安江さんは表情を引き締めてこう言われた。
「再び軍がクーデターの挙に出る危険性がある。しかし、これは失敗するでしょう。」
死が目前に迫った母にとっては厳しすぎる響きだと聞こえたのは、私はまだまだ甘かったからである。
5月18日、予告どおり全斗焕に率いられた軍がクーデターを起こし、学生や民主人士、与野党の政治家が大量に連行された。光州市には戒厳軍が投入され、多数の市民が虐殺された。一時は「ソウルの春」と称された、民主化への淡い期待は木端微塵に吹き飛ばされた。そうした絶望的な暗転の渦中、5月20日の未明に母は死去し、27日には徐俊植の保安処分が更新された。
しかし、7年後の87年6月、民主抗争によって全斗焕の退陣が勝ち取られた。徐俊植は88年に、徐勝は90年に生きて出獄することができた。95年末には全斗焕は盟友の盧泰愚とともに内乱罪で裁きの場に立たされることになった。こうした経緯を見れば、クーデターは失敗するだろうという予言も的中したと言うべきであろう。ただ、現実の歴史の進行はしばしば、個々の人間の有限な生命の時間の中に収まらないのである。
いまになってみれば、初めてお会いしたときも、また母を見舞っていただいたときも、安江さんが安易な気休めを口にしなかったのは、ジャーナリストとしての自らの情勢判断に忠実だったからであり、何よりも、私のような若輩に対してでも、また私の母のような一介の庶民に対しても、誠実かつ対等に向かい合おうとする姿勢の故であったと思う。長くお付き合いいただいたが、安江さんのそうした姿勢にはいささかも変化はなかった。これは私に対してだけでなく、おそらく私たち朝鮮人(朝鮮半島の南北および在日の朝鮮人すべて)に接するときの、安江さんの基本的な姿勢であっただろう。
安江さんは日本人と朝鮮人という自他の立脚点の違いを常にある緊張感をもって自覚していた。親しみながらも狎れるということはまったくなかった。多くのいわゆる「朝鮮通」たちとは決定的にことなる点である。
安江さんは1976年の講演で、自分が朝鮮問題に関心を抱いてきた理由を、「あえて一言でいえば、私たち日本人が朝鮮民族との和解をいかにしてなしうるだろうかということに尽きます。言葉をかえれば、日本人のナショナリズムの形成と方向に最も重要な意味をもつものの一つは朝鮮問題ではないかということであります」と語っている。
(『南北朝鮮の現状と統一問題』『孤立する日本』影書房)日本の植民地支配の結果もたらされた日本・朝鮮両民族間の「持続する心理的緊張」をいかに解消するか、そのために日本政府の朝鮮政策をいかにして根本的に転換させるか、安江さんは一貫してそのことを自己の課題として掲げ、さまざまな実践的提言や行動を生涯にわたって持続された。それも、決して何らかの組織や党派に寄り掛かるのではなく、あくまで自己の責任と主体性において。
安江さんは同じ講演で、日本の朝鮮支配を批判した「殆ど無に等しいほど限られた小数の人たち」の例として中野重治、植村浩、柳宗悦の名を挙げ、「そのような先人がひたことに私は日本人としてわずかに慰められている」と述べている。だが、私自身はむしろ、安江さんは尾崎秀実のような人の細い系譜に位置する人だったではなかろうかと、勝手な想像をしている。尾崎にとっては中国、安江さんにとっては朝鮮が、日本および日本人の姿を照らし出す鏡だった。アジアの隣人と真に連帯できる日本を築くことが、両者の生涯に共通する主題だった。それだけではない。野村浩一先生は尾崎を「単独の革命者」と評しているが、この名は現代日本においては安江良介さんにこそふさわしいと私は思うのである。のちの世の日本人は、この時代に安江良介という先人がいたことによってわずかに慰められることになるだろう。
幾度も幾度も絶望と疲労に打ち負かされそうになりながら、その都度、どこからともなく奇跡のように湧き上がる学生や民衆の喊声に掘り起こされた、あの日々。死の恐怖に塗り込められた暗黒の日々。その漆黒の闇に、時ならず、まばゆい人間性の光が閃めくのを見た、あの日々。私たち朝鮮人のあの70年代、80年代の記憶に、安江良介というひとりの鮮やかな日本人の姿が刻み込まれている。(初出:『世界』1998年3月号、岩波書店/のち)『追悼集 安江良介 その人と思想』岩波書店、1999年)
*ნაკანო სიგეჰარუ中野 重治 (福井県出身დ. 25 იანვარი, 1902, ფუკუის პრეფექტურა — გ. 24 აგვისტო, 1979) — იაპონელი მწერალი, პუბლიცისტი. დაამთავრა ტოკიოს უნივერსიტეტის ლიტერატურის ფაკულტეტი (1927).
*야나기 무네요시(일본어: 柳宗悅(東京都出身, 1889년 3월 21일 ~ 1961년 5월 3일)는 일본에서 민예운동을 일으킨 사상가이자 미술평론가, 미술사학자이다.
*오자키 호쓰미(일본어: 尾崎秀実(東京都出身, 1901년 4월 29일 ~ 1944년 11월 7일)는 일본의 언론인으로 아사히 신문에서 근무하였으며, 공산주의자였다. 간첩혐의로 체포되어 처형당했다.


根こそぎにされた者の墓
この夏、パリでアブデルワハブ・メデブ氏という作家と知り合った。たまたまパリに来合わせていた鵜飼哲さんと、当地在住の画家・コリンさんとが、街外れのレバノン料理店で引き合わせてくれたのである。
*Abdelwahab Meddeb (arabe : عبد الوهاب المدب), né le 17 janvier 1946 à Tunis et mort le 5 novembre 2014 à Paris, est un écrivain, poète et animateur de radio franco-tunisien.
*鵜飼 哲(うかい さとし(東京都出身、男性、1955年 - )は、日本の哲学者。フランス現代思想、特にジャック・デリダの研究で著名。一橋大学名誉教授、一橋大学大学院言語社会研究科特任教授。
メデブ氏はフランス国籍だが、出自はチュニジアだという。パリに住み、大学で文学を教えている。私より4,5歳年長に見えたが、あちらの人々はみな口髭をたくわえて貫禄があるので、ほんとうのところは分からない。同席に人々の中に、眼の大きい、華やかな女性がいたが、この人はメデブ氏のパートナーだった。彼女はモロッコ出身で、現在はエジプトのカイロでフランス語を教えているということだった。地中海世界の広がりを感じさせられるカップルである。

*튀니지(아랍어: تونس 투니스[*], 프랑스어: Tunisie 튀니지[*], 영어: Tunisia 튜니지아[*]) 또는 튀니지 공화국(아랍어: الجمهورية التونسية 알줌후리야 앗투니시야[*], 프랑스어: République tunisienne, 영어: Republic of Tunisia)에 있는 나라이다. 북아프리카에 있는 국가이다. 튀니지는 이탈리아의 시칠리아 섬의 남서쪽과 사르데냐의 남쪽에 위치해 있으며, 서쪽으로는 알제리와 남동쪽으로는 리비아와 국경을 접하고 있다. 튀니지는 1956년 3월 20일에 프랑스로부터 독립하였으며, 현재 약 165,000 km²(64,000 평방마일)의 국토를 가진 세계에서 92번째로 큰 국가이다. 인구는 10,432,500명(2009년 7월 기준)이며 국민의 대부분은 튀니지인(Tunisian)으로 이루어져 있다. 공식언어는 아랍어(튀니지 아랍어-데리자)이며 제2국어로 프랑스어가 사용된다. 튀니지는 헌법에서 종교가 이슬람교임을 명시적으로 밝히고 있는 이슬람교 국가이다. 튀니지의 국가명은 동북부에 위치한 수도 튀니스로부터 유래했다.
モロッコ出身のあなたが、なぜフランス語を?と彼女に尋ねると、初等教育からフランス語で教育を受けたので自分の母語はフランス語なのだ、かつてモロッコの中流以上の家庭では、子女をフランス語で教育する学校に通わせることが多かった、という返事だった。パレスチナの小説家であるガッサーン・カナファーニもフランス語学校で教育を受けた。そのため、のちにアラビア語を修得するのに非常な努力を要した。彼はそうして自分のものにしたアラビア語でイスラエル国家によって放逐されたパレスチナ難民の悲哀と苦悩を描いた。そのことを私は日本語に訳された彼の作品とその解説で知り強い感銘を受けたことがある。なぜなら私もまた支配民族の言葉である日本語を母語とし、自民族の言葉を失った者だからだ。・・・

*Ghassan Kanafani (en arabe : غسان كنفاني, né le 8 avril 1936 à Acre, en Palestine et mort le 8 juillet 1972 à Beyrouth, au Liban) était un écrivain palestinien et membre important du Front populaire pour la libération de la Palestine (FPLP). Le 8 juillet 1972, il a été assassiné par le service d'intelligence israélien Mossad en réponse au massacre de l'aéroport Lod.
そんなことを言うと、彼女は大きい目をさらに見開いて真剣にうなずいていたが、真意がどこまで通じたか分からない。さわやかな口当たりのチュニジア・ワインの杯を重ね、ようやく初対面のぎこちなさがほぐれてきた頃合いに、きょうはどこへ行って来たのか?と、メデブ氏が私に尋ねた。
その日の日中、私はパリ郊外のティエ(Thiais)というところまで出かけて、パウル・ツェランの墓を訪ねて来たところだった。ツェランがその土地に葬られていることを、今春刊行された『ツェラーン研究所の現在』(中央大学出版部、1998年)という書物に収められた相原勝さんの写真で知り、どうしても自分の目で見たくなったからだ。


*파울 첼란(Paul Celan, 1920년~1970년)은 루마니아 출생의 독일어 시인이다. 
처음에는 의학을 공부하였으나 전쟁으로 중단하고 소련군 점령 후에는 빈으로 피신하여, 그 곳에서 최초의 시집을 발표하였다(1947). 1948년에 프랑스 시민권을 얻어 파리에서 살면서 프랑스어·러시아어(語) 어학교사 겸 번역가로 일하면서 시인으로 활약하였다.
地下鉄7号線の終点の、ヴィルジュイフ=アラゴンまで行き、そこからさらにバスに乗り換えて10分ほど行くと、思いがけないほど簡単にティエの公営墓地に着いた。しかし、墓地は、ちょっと日本の常識では想像がつかないほど広大で、相原さんの写真に添えられた「31区画12列39番」という説明がなければ、折角そこまでたどり着きながら肝腎の墓は見つけ出せなかったに違いない。
ツェランの墓は、これといった特徴のない簡素なものだった。墓石には3列に人名が刻まれていて、中央のパウル・ツェランを挟んで、上には生後すぐに死亡した息子フランソワ、下には妻のジゼルの名が刻まれていた。ただ不思議なことに、あれはラビスだろうか、鮮やかな青い石の破片がいくつも墓石の上に散乱していた。両隣の墓にはそんなものはなかったから、誰かがその石の破片をツェランの墓に撒いたとしか思えないのだが、いったい誰が、どんな意図でそうしたのかは、知る由もない。

ツェランの生まれた故郷である東欧のブコヴィナは、もとはハプスブルグ帝国領、第一次大戦後にルーマニア領、第二次大戦中は一時ナチス・ドイツに占領され、戦後は社会主義ルーマニアとソ連に分断された。ソ連側はウクライナ領になっている。ブコヴィナ地方には第二次大戦まで、人口の半数近いユダヤ人共同体が存在した。彼らの母語はドイツ語だった。長い歴史と独特な文化をもつこの共同体も、他の東欧のユダヤ人共同体と同じように、ナチの暴虐によってほとんど完全に破壊された。ツェランも強制労働収容所を経験したし、彼の両親は収容所で死亡している。
*스트리아-헝가리 제국(독일어: Österreich-Ungarn Monarchie 외스터라이히-웅가른 모나르히[*], 헝가리어: Osztrák-Magyar Monarchia 오스트라크-머저르 모너르히어[*])은 1867년부터 1918년까지 중부 유럽에 존재했던 입헌군주제 국가이자 열강 중 하나였다.[1]
*부코비나(루마니아어: Bucovina, 우크라이나어: Буковина, 독일어와 폴란드어: Bukowina)는 중앙유럽에 위치한 역사적 지역이다. 카르파티아 산맥과 드니스테르 강 사이에 위치하며 현재의 루마니아, 우크라이나 사이에 걸쳐 있다. 부코비나는 "너도밤나무의 땅"을 뜻한다. 우크라이나령인 부코비나 북반부는 체르니우치주에 속하며 루마니아령인 부코비나 남반부는 수체아바 주와 보토샤니 주에 속한다.
彼がパリに流れ着いたのは1948年のことである。親を殺した者たちの言葉で書くのかと批判されながら、彼は母語でしか書けないと、彼はドイツ語で詩を書き続けた。戦後の西ドイツ詩壇から高い評価を受けながら、パリに住み続け、1970年4月28日、セーヌ川に身を投げた。
ツェランCelanという姓は、先祖代々の姓であるアンチェルAntschel の綴りに手を加えて彼自身が造ったものである。墓石には、その造られた姓が彫られていた。私は、そのことを確かめたかったのだ。普通、墓というものの機能に、故人の先祖代々の来歴を想起させることがあるとすれば、ツェランの墓はそれとは正反対の、いかにも根こそぎにされた人間(displaced person)に相応しい。昨日も明日もないような、ポツリと孤立した墓であった。・・・
そんなわけで、今日はパウル・ツェランの墓に行って来た、と答えると、メデブ氏はちょっと頚をかしげ、興味を示すような眼の色をみせた。そこで私は言葉を継いだ。
実は私は墓に関心があって、1995年にはパリのモンパルナス墓地でハイム・スーチンの墓を見たし、1995年にはプリーモ・レーヴィの墓を訪ねてイタリアのトリノまで行って来た。・・・

*카임 수틴(Chaïm Soutine, 1893년 1월 13일 ~ 1943년 8월 9일)은 러시아의 화가이다.
スーチンもレーヴィも、ともにユダヤ人である。ベラルーシの寒村から1912年、パリに出て来た画家・スーチンは、エコール・ド・パリの寵児の1人となった。銀行と医者を決して信用せず、絵が売れて収入があったときもすべて現金でポケットに詰め込んでいたというし、持病の胃潰瘍に苦しみながら医者にかかろうとせず、ミネラル・ウォーターを温めて飲むという民間療法に固執していたという。ナチのフランス占領後は身を潜めて転々としたが、胃潰瘍が悪化して胃に穴があき死亡した。ジャン・コクトーなど数人によって葬られたが、誰も彼の詳しい出自来歴を知らず、そのため墓石に刻まれた生年も、名前の綴りまでも間違ってしまったという。それを自分の目で確かめてみると、なるほど生年は1894年、名はCHAIMEと誤っていた。正しい生年は1893年、名はCHAIMである。
*벨라루스 공화국(벨라루스어: Рэспубліка Беларусь 레스푸블리카 벨라루스, 러시아어: Республика Беларусь 레스푸블리카 벨라루시[*], 영어: Republic of Belarus), 약칭 벨라루스(벨라루스어: Беларусь 벨라루스, 러시아어: Беларусь 벨라루시[*], 문화어: 벨라루씨)는 동유럽에 있는 내륙국이다. 수도는 민스크이며, 민족 구성은 동슬라브족에 속하는 벨라루스인이 절대다수를 차지하며, 우크라이나인, 러시아인도 있다. 이 나라는 러시아와 매우 유사한 나라이며, 러시아어도 사용한다.
*에콜 드 파리(École de Paris) 또는 파리파는 보통 제1차 세계 대전 후에 파리에서 활약한 예술가를 말한다. 물론 베르나르 도리발과 같이 제2차 세계대전 후에 재차 파리를 중심으로 모인 예술가를 포함하여 부르는 경우도 있다.
*장 모리스 외젠 클레망 콕토(Jean Maurice Eugène Clément Cocteau, 1889년 7월 5일 ~ 1963년 10월 11일)는 프랑스의 시인·소설가·극작가·영화 감독이다.

『アウシュヴィッツは終わらない』で知られるプリーモ・レーヴィは、ナチ強制収容所の生き残りである。化学者であると同時に文学者であった彼は、生涯にわたって自らに証人としての責務を課した。それだけに、1987年、彼が自殺した時には、世界の人びとが大きな衝撃を受けた。かくいう私も衝撃を受けた1人で、彼の自殺した場所と墓を見るためにトリノまで出かけたのである。レーヴィの墓は、トリノの公営墓地の一角を占めるユダヤ人墓地の区画にあった。黒い石を用いているほかに、174517という六桁の数字が刻まれていた。あとになって気づいたのだが、それはアウシュヴィッツで彼の腕に入れ墨された囚人番号なのである。

造りものの姓名を彫った墓、死者の名の綴りを間違った墓、囚人番号を刻んだ墓。・・・いずれも20世紀という時代の真実を、ひっそりと、分かるものにだけ分かる言葉で語っているような墓である。私の話に興味をもったメデブ氏は、実は自分も、と口を開いた。メデブ氏は最近、ジャン・ジュネの墓を訪ねて、その訪問記を、まだ発表はしていないものの原稿には書いたというのだ。ジュネは、遺言にしたがって、モロッコのキリスト教徒墓地に葬られているそうだ。ほとんど荒廃してしまったその墓地に、ジュネの墓だけが、ポツリと「ひとり」で、あるのだという。・・・それを聞いて、私の空想はあっという間に広がった。ああ、いかにもジュネらしいな、と思った。
*장 주네(프랑스어: Jean Genet, 1910년 12월 19일 ~ 1986년 4월 15일)는 실존주의파에 속하는 프랑스의 시인, 소설가, 극작가이다.
私は在日朝鮮人の2世である。2世の両親が死んだとき、どこにどのように葬るべきか困った経験があるが、この次は自分自身の墓だ。ところで、フランス国籍を得てパリに住むチュニジア人のあなたは、どこにどのように葬られたいと思っているのか?・・・
私のこの問いに、メデブ氏はうっすらと微笑んで、ただ肩をすくめただけだ。君は、とメデブ氏は私に尋ねた。君は日本に住んでいるそうだが、コリア(韓国の意であろう)には家族や友人がたくさんいるのか?私の兄たちは韓国の軍事政権によって20年近く政治犯として投獄されていた。そのため私も、人生の最も大切な20年間を日本で半ば亡命者のように暮すことになった。だから、残念なことに韓国にあまり知人や友人はいない。・・・
そういうあなたは?と聞き返すと、メデブ氏は答えた。私の家族と部族(tribe)はすべてチュニジアにいる。私はここで1人ぼっちだ。あら?と、すかさず彼のパートナーが、いたずらっぽい目をして茶化した。そしたら私はどうなるのよ?だが、メデブ氏は遠くを見るような表情を崩さなかった。20世紀末のある夜、パリのレバノン料理屋で、チュニジア系フランス人と在日朝鮮人2世とが墓をめぐっておしゃべりをした。
人は、意識しようとするまいと、「死」の観念と弔いの儀礼とを通じて共同体につなぎ止められてきた。だが、帝国主義侵略、植民地支配、世界戦争、そして資本主義グローバリズム・・・20世紀に起きた、こうした出来事が、無数の人々を共同体から引き剥がした。私とメデブ氏とは、共同体から引き剥がされて、幽霊のように寄る辺なく漂っているわけである。いまだに共同体にどっぷりと首まで漬かっている人々、つまり他者を引き剥がした側の人々には想像もつかない。ある種の自由さを、私たちが享受していることは事実であるけれど・・・。
この夏はひどい暑さに苦しめられた。9月になっても、いつまでも暑さがやわらぐ気配がなかった。パリから日本に帰って、ひと月ほどたったある日、久保覚さんが急逝したことを知らされた。久保さんは60年代以来、知る人ぞ知る辣腕編集者であり、博覧強記の読書家だった。私が知り合うことになったのはかなり遅く、今から4,5年前のことだが、肝胆相照らすという間柄にはならないままだった。かねてから彼が在日朝鮮人らしいという噂は耳にしていたが、真実は分からなかった。私は直接本人の口から聞かされたことはなく、私の方からも確かめる機会はついになかった。彼の死後、彼が在日朝鮮人であること、日本籍に帰化していなかったことがはっきりした。どんな考えで、彼が自分の出自を秘していたのか、もはや正確なところを知るすべもない。
*久保 覚(くぼ さとる(東京都出身、1937年2月 - 1998年9月9日)は、在日韓国・朝鮮人の編集者、文化活動家、朝鮮芸能文化史研究家。本名・鄭 京黙(チョン・キョンムク)。
彼が遺したものは推定4万冊という蔵書である。書物で埋められた自宅には棺を置くスペースもなく、彼の遺骸は、書物を詰め込んだ段ボールの上に横たえられた。葬儀場が混んでいたため、残暑のきびしい4日間、遺骸はそのまま置かれていたという。遺された蔵書をどうするか、それより、墓をどうするのか、まだ何もきまっていないらしい。(初出:『影書房通信』20号、1998年10月)

あとがき
本書は、1997年から現在までに私が発表した著述から選んで編んだものである。『長くきびしい道のり』(1988年)、『分断を生きる』(1997年)に続く第3評論ということもできよう。書名を『半難民の位置から』とした。私は私自身も含む在日朝鮮人という存在を「半難民」であると考えている。その理由は本書中に述べている。副題に「戦後責任論争」という言葉を使ったが、ある特定の論争を指しているのではない。私はこの言葉を、戦後世代の日本人(日本国民)が過去の戦争についてどのような責任を負っているのか、また、現在の日本社会を規定している侵略戦争と植民地支配の負の遺産にどのように対面すべきか、といった論点をめぐるさまざまな談論を包括する意味合いで用いている。
加藤典洋氏の『敗戦後論』(『群像』1995年1月号)に対する高橋哲哉氏の批判から始まった論争は「歴史主体論争」とも呼ばれている。高橋氏は自らの主張を『戦後責任論』(講談社、1999年)で、ひとまず集大成した。私自身も、高橋氏との共著『断絶の世紀 証言の時代』(岩波書店、2000年)で、この論争への介入を試みた。しかし加藤氏は、高橋氏の「語り口」に「鳥肌がたつ」などと述べたことがあるだけで(「世界戦争のトラウマと『日本人』」『世界』1995年8月号)、その後の批判に対しては一切、応えようとしていない。
本書中でたびたび言及されているシンポジウム「ナショナリズムと『慰安婦』問題」は、1997年9月に開催された。パネラーの1人だった私が強調したのは、問題意識の枠組みを「戦争責任」から「戦後責任」(戦後世代の責任)へ、さらには「植民地支配責任」へと広げていく必要性であったが、残念ながらこの点の議論はあまり深まらなかった。ところで、このシンポジウムで上野千鶴子氏が、アジアの戦争被害者に対する「日本人としての責任」を承認すべきだとする高橋氏に対して、そうした認識は「ナショナリズムの「罠」にとらわれるものだ」と批判した。ここには、ナショナリズム批判と戦後責任論との理論的・思想的整合性をめぐる重要な論点が含まれている。これは、私の関心からいえば、日本人マジョリティの間に広く見られる「ナショナリズム批判と戦後責任回避の側立した統合」をいかに打破するかという実践的な課題でもあった。そこで私は本書に収めた論考「「日本人としての責任」をめぐって」および「「日本人としての責任」再考」を書くことにしたのである。
花崎皋平氏は当日のシンポジウムには出席しなかったが、のちに刊行されたシンポジウムの全記録を読んで「「脱植民地化」と「共生」の課題」(『みすず』1999年5月号、6月号)を発表し、この論争に参入してきた。この論文で花崎氏は「コミュニケーション・モード」という概念を用い、私と岡真理氏を批判している。ここに、論争の本来の脈絡とは別に、しかし私の考えでは同じように重要な、戦後責任論をめぐるマジョリティとマイノリティの間のディスコミュニケーション(私なりに言いかえると「断絶」)という論点が浮上してきたのである。これについては、花崎氏への私の「抗弁」を本書に収めた。以上のようなさまざまな議論も、広い意味で私のいう「戦後責任論考」に含まれるものである。その「論争」において、私はつねに在日朝鮮人(=半難民)という自らの立場を確かめながら、その位置から発言することを心がけてきた。
歴史学研究会の年次大会で報告するよう求められたのも1997年のことだが、歴史研究者でもない私に何が言えるか思い悩んだ末、避けられない試練ととらえ引き受けることにした。本書に収めた「「エスニック・マイノリティ」か「ネーション」か」が、その報告である。結果として、それまでかなり漠然としていた自らの「在日朝鮮人」観を、かなりの程度まで対象化し理論的に整理することができた。在日朝鮮人をめぐる議論も混迷の度を増している。私としては、この報告をできるだけ多くの人に参照してもらい、有益な相互批判につないでいきたいと願っている。
ところで、その大会で報告を終えてほっとした直後、1人の年長の歴史研究者が私に歩み寄ってきて、こう語りかけた時には言葉を失ってしまった。
「いやあ、実は私は今まで在日の方々に選挙権がないとは知りませんでした・・・」
私は、どう反応すべきだったのだろう?この研究者は第三世界のある地域における被差別民衆の研究で著名な人物だったのだ。その人にして、この発言である。そもそも歴史研究者たちの学術的会合で、在日朝鮮人を報告者に迎えておいて、こんな会話が交わされなければならないとは・・・。
第三世界研究も結構だが、足下の日本社会で現に行なわれている差別、自分自身にも責任のある差別について、これほど無知無関心でいいのか。そう言いたいのが私の正直な気持ちだが、その一方で、むしろ、この人物の率直さを称賛すべきかもしれないという矛盾した感情も否みきれない。なぜなら、自らの無知無関心に気づきもしない人々、無知無関心を覆い隠し続けている人々、無知無関心に居直って恥じない人々、さらには些末とすらいえる知識を山のようにもちながら被差別者への同情や共感を少しも持ち合わせていない人々などを、あまりにも多く見てきたからである。

1990年代、証人として出現したアジアの戦争被害者に遭遇し、日本は「証言の時代」を迎えた。それは、侵略戦争と植民地支配という歴史の負の遺産を克服して東アジア諸民族との真の和解に踏み出す好機でもあった。しかし現実には、それは、敗戦の経験によって日本社会にもたらされた「民主主義」や「平和主義」といった戦後的諸価値や制度に対する「反動の時代」となった。
前著「分断を生きる」の末尾には、「もはや黙っているべきではない」(1997年1月)という文章を収めてある。これは、「自由主義史観研究会」や「新しい歴史教科書をつくる会」の台頭など、加速する日本社会の右傾化現象に在日朝鮮人としての危機感から警鐘を鳴らしたものだ。しかし、1997年から今日までのわずか4,5年の間に、私の予想をも超えて、日本社会の右傾化は進んでしまった。1999年8月、日の丸・君が代を国旗・国歌とする法律が制定された。その際、「強制はない」という政府答弁があったが、学校現場では露骨な強制が日常化している。2000年4月、石原慎太郎東京都知事による「三国人」発言があった。首都の知事という高位の公務員が、明白な差別用語を用いて国民の排他的感情と他民族への敵意を煽り立てたのだ。
それから2ヶ月ほど後、今度は当時の森喜朗首相の「神の国」発言である。森首相はこの重大な憲法違反発言によって評判を落としはしたが、結局、発言を撤回することもなく、辞任にも追い込まれなかった。2001年4月には「新しい歴史教科書をつくる会」が制作した中学校歴史教科書と公民教科書が政府の検定に合格した。戦後的価値がわずかに残存している教育界に狙いを定めて総攻勢に転じた右派の運動が、公的空間に場所を占めることになったのである。
不人気の森首相に代わった小泉純一郎首相は、2001年8月13日、内外からの強い批判にもかかわらず靖国神社公式参拝を強行した。小泉氏は「政治改革、構造改革」を唱えて人気を得たが、このキャッチ・フレーズが本物なら旧軍人恩給や遺族年金をこそ廃止すべきだが、彼には極右国家主義勢力との癒着という日本の政治文化の病癖を改革するつもりは毛頭ないようだ。
2001年9月11日、ニューヨークの貿易センタービルとワシントンの国防総省が自爆攻撃を受けるという事態が発生すると、日本政府は率先して「対テロ戦争」への参戦を宣言し、自衛隊が米軍に補給活動をすることを可能とする法律改正を行なった。

アメリカのブッシュ大統領は今年の年頭教書でイラク・イラン・朝鮮民主主義人民共和国を「悪の枢軸」と決め付けて威嚇したが、先頃、そのブッシュ大統領が日本、韓国、中国を歴訪した際、韓国では「我々を戦争に引きずり込むな」と叫ぶ激しいデモに迎えられた。中国政府はアメリカの好戦的政策を牽制する明確なサインを発した。日本はどうであったか。
*조지 워커 부시(영어: George Walker Bush 이 소리의 정보듣기 (도움말·정보), 문화어: 죠지 워커 부쉬, 1946년 7월 6일 ~ )는 미국의 정치인이다. 2000년 11월 대통령 선거에 공화당 소속으로 출마, 당선되어 2001년부터 2009년까지 제43번째 대통령으로 재직했다.
*고이즈미 준이치로(일본어: 小泉純一郎(神奈川県出身, 1942년 1월 8일 ~ )는 일본의 정치인이다.
ブッシュ大統領は小泉首相から鏑矢を贈られて、ご満悦の態であった。その矢でいったい誰を射ようというのか。これこそ米軍に補給する日本の戯画である。全世界を見渡しても、日本ほど官民あげてアメリカの戦争政策に追従している国はないだろう。ブッシュ訪日に際して、反戦を唱える目立った動きもなかった。それでも、91年の湾岸戦争時には、文学者の反戦声明が発せられていたのだ。その声明が憲法を拠り所としている点をとらえて、「そうかそうか。では平和憲法がなかったら反対しないわけか」と冷笑したのが加藤典洋氏だった。それから10年たった現在、加藤氏流の冷笑が日本社会を覆ってしまったようだ。
アメリカがイラクへの攻撃を始めれば、結局のところ日本は追従するだろう。だとすれば、気の滅入る想像だが、北朝鮮に対しても同じであろう。朝鮮半島に自衛隊の日章旗がはためく日が来るのだろうか。今朝の新聞には、ブッシュ政権が「核戦略の見直し」により、ロシア、中国、北朝鮮、イラク、イラン、リビア、シリアの7カ国に対する総攻撃のシナリオ策定を軍部に指示したと報じられている。冷戦中もアメリカの歴代政権は自国が大量破壊兵器による攻撃をうけない限り、核による先制攻撃はしないという姿勢を保持してきたが、それがここへきて変更されるかもしれないというのである(『朝日新聞』3月10日)。核戦争の悪夢すら急速に現実味を帯びてきている。

現在、日本右派が当面の目標としているのは「有事立法」の制定であり、その先にあるのは憲法第9条の改定である。過去の侵略と植民地支配を反省せず、被害者に謝罪せず、外国人への差別意識や他民族への敵意を強め、国家主義に急速に傾斜している日本が、憲法上の制約さえかなぐり捨てたとき、いったい何が起こるだろうか。いまや日本こそが東アジアの平和にとって重大な脅威なのである。こうした反動は、必ずしも旧来の右派勢力によってのみもたらされたのではない。むしろ、従来は戦後的価値の担い手を自任し、右傾化への牽制力として一定の機能を果たしてきた市民派リベラル勢力の自己崩壊ないし変質こそが深刻である。90年代を通じ、かつてはこうした勢力に位置すると思われていた人々の多くが、ナショナリスティックな情動、自己中心主義、ことなかれ主義といった限界性と弱点を露呈した。加藤典洋氏の『敗戦後論』が日本人マジョリティに歓迎されたのは、その象徴的な一現象であった。
「頽落」という言葉がある。頽廃しつつ転落するさまである。ここ4、5年の日本社会の日本社会を言いあらわすには、この言葉がぴったりだと私は思う。ひとつの社会がこうもやすやすと頽落していくとは、不覚ながら予想できなかった。真摯で率直な言葉、真っすぐで素直な態度、正義への純粋な希求、他者への同情と共感、誠実な内省と自己批判―これらのものを、知識人や言論人の多くが揶揄し冷笑している間に頽落は加速化してしまった。「ナショナリズムだ」とか「糾弾だ、審問だ」などといって、他者からの批判や呼びかけに耳をふさいでいる間に、頽落から踏みとどまるチャンスすら摑みそこねたのだ。
「日本人たちよ」と、こういうだけで反発する人々のいることは分かっているが、それでも、あえて私は呼びかけよう。それとも、もう手遅れだろうか。
日本人たちよ、自らの責任に目覚めてほしい。あなたがたに問われているのは過去の侵略と植民地支配に起因する責任の自覚だが、同時にそれは、未来に対する責任でもあるのだ。東アジアの近未来を戦争の危機から救い出すことができるかどうか、あなたがた自身のものでもある平和を確保することができるかどうか、その責任があなたがたにかかっている。
本書は、半難民である私の、頽落の急流に対する抵抗の痕跡ともいえる。小さな痕跡とはいえ、こうしてそれを残すことができるのは影書房の松本昌次さん、松浦弘幸さんのおかげである。心からお礼を申し上げたい。

2002年3月10日   徐京植




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