日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)⑧

①고마니스토 큰 파티 <3> 종군 위안부 탈 정의론 대 논쟁 (일본어) 단행본 - 1997/6/1고바야시 요시노리 (의) 오바마逸郎 (의)②Dec 7, 2014 —小林よしのりYoshinori Kobayashi小浜逸郎、次世代の党に見る反知性主義Itsuo Kohama, anti-intellectualism seen in the party of the next generation「知性が劣化して、在特会の「在日特権」デマに
騙されるようになってしまったIntelligence has deteriorated, and Zaitokukai's "Zainichi Privilege" hoax he's been deceived」
*小浜 逸郎(こはま いつお(神奈川県出身、1947年(昭和22年)4月15日 - )は日本の評論家。国士舘大学客員教授。

*고바야시 요시노리(일본어: 小林 よしのり, 본명: 고바야시 요시노리(일본어: 小林 善範), 1953년 8월 31일福岡県出身 ~ )는 일본의 만화가이자 평론가이다. 1976년에 만화가로 데뷔한 이후에 만화 《도쿄 대학 일직선》, 《왕괴짜 돈만이》를 발표하며 이름을 알렸다. 1992년에 《고마니즘 선언》을 발표하면서 정치·시사·사회 평론가로도 활동했다.Yoshirin Kikaku (よしりん企画?, litt. « Projet Yoshirin »)社長
*밀레니얼 세대(영어: Millennial Generation), 밀레니얼스(영어: Millennials) 또는 Y 세대(영어: Generation Y)는 X 세대의 뒤를 잇는 인구집단이다. 많은 전문가들은 일반적으로 1980년대 초반부터 2000년대 초반까지 출생한 세대, 미국에선 1981년생부터 1996년생까지를 주로 일컫는다.[1][2][3] 대부분 베이비붐 세대의 자녀들이라 에코붐 세대(echo boomers)라고도 한다.←↑↓→(中略)「断絶」の原因をもっぱら「無知」のみに求め、歴史の事実を知りさえすれば「断絶」は克服されるだろうというような、単純な楽観論は戒めなければならないと考えるからである(226頁)

[C]「歴史化」の要求、「単純化」の暴力

「やはり朝鮮の人は過去にこだわりすぎていると思う。(中略)その時代の<暗>の部分を忘れ去ることは出来ないが、こだわりすぎては新たなる<進歩>あるいは<発展>は考えられない。一説によれば、<過去の恨みを決して忘れない>ことが朝鮮では美徳である、とのことを聞いたことがある。だが、過去のことを少し水に流さなければ、一つの恨みが、新たなる、そして多くの恨みを呼ぶことになる。過去のことにこだわるより、新たな未来に目を向けよう。」(資料⑥)

朝鮮人や中国人は「被害者意識に固執しすぎているのかもしれない。(中略)確かに犯した罪は認めるべきだ。しかし私達は現在の人間であることも確かだ。過去をすてろとは言わない。でも切り捨てるということも必要であると思う。でなければ、いつまでたっても日本人の言葉は偽善的にしか聞こえないし、前進することはないと思う。」(資料⑦)

「進歩」「発展」「前進」といった言葉が、ここでは被害者の訴えを封じる万能のタームとして頻繁に登場する。このところ流行の「未来志向」という言葉もここに加えておこう。彼ら/彼女らは自国が帝国主義侵略や植民地支配を通じて蓄積した資本やインフラ、はては文化財にいたる膨大な資源の恩恵を享受することに何らの屈託も見せないが、被害者への責任・謝罪・補償となるとにわかに「それは昔のこと。自分たちには関係ない」と、「負の遺産」の継承を拒絶する権利を主張し始める。ここでは、自分が被害者の訴えを斥けるのは、決して私的感情や利害のゆえではない、「進歩」や「発展」という普遍的価値のためなのだ、という自己正当化が作動している。しかし、「進歩」とは何か?「発展」とは何か?そのことが真剣に問い直されている様子はない。為政者や資本が振りまく生産力発展第一主義、経済成長第一主義のイデオロギーに漠然と一体化しているだけである。

学生の感想のうち資料⑥の「過去の恨みを忘れないのは朝鮮では美徳」云々という記述は、まさに単純化、ステレオタイプの典型であり、さらに、日本社会に広がっている「恨みに固執する(したがって進歩のない)朝鮮人」という偏見の素直な一例でもある。

ここでもう1人のアウシュヴィッツの生き証人であるジャン・アメリーの言葉を想起しておこう。1960年前半の西ドイツ社会を念頭に書かれた文章である。

*장 아메리 (Jean Améry, 1912년 10월 31일~1978년 10월 17일)는 오스트리아의 작가이다. 본명은 한스 차임 마이어(Hanns Chaim Mayer)이며, 제2차 세계 대전 경험을 풀어낸 작품으로 유명하다.

「ヒトラー帝国は、当分はなお歴史の業務上の過失というものである。だが、いずれは歴史そのものとなる。世界史にわんさとある、血がどっさり流れた劇的な年月と較べても良くもなければ悪くもない、たいして変わりばえのしない帝国時代ということになる。SSの制服を着た祖父の写真が奥の間にかかげられ、学校の子供たちはユダヤ人選別台ではなく失業者問題に対する画期的成功が語られる。ヒトラーやヒムラーやハイドリッヒやカルテンブルンナーといったナチの大立者の名前がナポレオンやロベスピエールやサン・ジュストにもひとしくなる。(中略)「蛮行の世紀」としめくくられてケリがつく。そのなかで私たちとは何ものか。度しがたいやつらであり、かたくななる連中であり、言葉の厳密な意味において歴史に歯向かう反動家どもであるだろう。(中略)私たち犠牲者は自分の恨みごとに「ケリをつけ」なくてはならない。」

「ルサンチマンに囚われた人間の時間の感覚は逆さまだ。(中略)社会のなかで自分の個性をすて、ただ機能とのみ化した人々、すなわち鈍感な人であり無関心な人であるが、彼らはことごとく宥したがる。起こったことは起こったことでやむを得ないという。世になじみの言い草にみるように、「時がたてば収まる」のである。彼らの時間間隔は「いかれて」いない。(中略)自然な出来事、つまりは時間の生物学的進展のみでよしとしないことにこそ人間の権利が、また条件があるのではないか。(中略)倫理人間は時間をとどめたいのだーとりわけいまの場合、残虐行為の一点で当の行為者を釘づけにしたい。時間がモラルに寝返るなかで、そのとき彼(加害者)は人間として犠牲者に対面するかもしれないからだ(19)。」

このようにナチ犯罪の「歴史化」に反対し、「歴史の倫理化を願う」と主張したアメリーも、1978年に自殺した。


フランス国立教育研究所のジャン=フランソワ・フォルジュは、その著書『21世紀の子どもたちに、アウシュヴィッツをいかに教えるか?』(原題は『アウシュヴィッツに抗して教えるーÉduquer Contre Auschwitz』(20))の「日本語版への序文」において、次のように述べている。

「忘却を願い、歴史のページを急いで捲ろうとする人々は、無意識にせよ、死刑執行人(ナチ)の側に身を置いていると言わなければならない。それにくらべ、犠牲者たちの記憶はもっと長く保持される。犠牲者たちの記憶は真実が承認されることを切に求めてやまないのである。いかに時間がかかろうとも、これだけが苦しみを癒すことを可能にしてくれるだろうからだ。」


「自然的時間」の流れに身を任せて疑われない時間感覚は、つねに被害者証人に「過去にとらわれた者」「ルサンチマンに凝り固まった連中」というレッテルを貼りつけ、彼らを苦境に追いやる。こうして被害者は「ルサンチマン」に目がくらんだ者とみなされ、「退歩」「後進」「停滞」といったネガティヴな表象を貼り付けられる。被害者は「過去を水に流す」よう慇懃な口調で要求される。「発展」のため犠牲を甘受せよと要求される。アジアの戦争被害者だけではない。日本国内を見ても、水俣の漁民、三里塚の農民、沖縄の住民、国労の被解雇者など、多くの人々がこのレトリックによって国民マジョリティから孤立させられ、苦い既成事実を呑まされて来たのである。
プリーモ・レーヴィは、時間の経過とともに、証人が「単純化」の暴力ともいうべきものにみまわれる実情を述べている。学校などで強制収容所体験を語る際、きまって出てくる質問。時とともに執拗さを増し、非難の調子が透けて見えるようになってきた質問。それは、「なぜ逃げなかったのか?」「なぜ反乱を起こさなかったのか?」というものだ。被害者が、被害者であるにもかかわらず、それについて説明(ほとんど弁明)させられる構図が出来上がってしまう。レーヴィはこう述べている。
「それは「あの場で」事物がどうであったかということと、今日の想像力でそれがどうとらえられるか、ということの間の亀裂である。それは不正確な内容の本、映画、神話によってますます大きくなっている。それが単純化とステレオタイプの方向にずれていくのは避け難いことだ。(中略)時がたてばたつほど大きくなってしまうこの亀裂を乗り越えるのは、歴史家の仕事である(21)。」
[D]「共感共苦」(コンパッション)の欠如
プリーモ・レーヴィの作品に、「断絶」の極限的な事例が描かれている。化学者だったレーヴィは、収容所で一時期、化学実験室の勤務に配置される幸運に恵まれた。激しい労働や殴打からはまぬがれることができたが、そこで彼は、別の苦難を味わうことになる。実験室には、ドイツ人やポーランド人の(囚人でない)民間人も働いていたのだが、彼らから見ればユダヤ人の囚人は自分たちと同じ人間ではなく、「廃棄にふさわしい物質」に過ぎなかった。女性の職員たちは、囚人とは口もきかない。自分たち同士では、囚人のことを「シュティンク・ユーデ(臭いユダヤ人)」と呼びならわす。死ぬほど飢えている囚人の目の前で平気でジャムつきパンを食べ、クリスマス休暇の過ごし方についておしゃべりする(22)。ミュラーというドイツ民間人はレーヴィに向かって、「あなたはなぜそんなに不安そうにしているのですか?」と尋ねたのである。ドイツこそが、その「不安」の原因だというのに。第三帝国の「労働を通じての絶滅」政策の下で、囚人たちの寿命はせいぜい2,3ヶ月でしかなかったのだ。まさに冷徹な鈍感さの極地である。支配/被支配関係を日常化した人間社会は、人間と人間の間にこれほどまでの「断絶」を造り出す。
これは収容所という例外的な状況での出来事だと片付けられるだろうか?
在日朝鮮人に向かって、「なぜ日本にいるの?」「朝鮮語しゃべれないの?」「朝鮮に帰らないの?」「なぜ、日本に帰化しないの?」と無邪気に尋ね、説明を求める日本人は、ドイツ人ミュラーとどれほど違っているだろうか?
尹東柱の詩のような作品を見ると、「戦争や植民地支配って本当に最低だな、と思うけど、だからといってそれと日本の戦争責任を直接結びつけようとは私は思いません。過去には色々なことがあった。そして現在がある。人間でも色々なものをもって生まれた人とそうでない人がいるように、ひとつの国というのも、すべての国に平等な機会を与えられるということはありえないと思う。その人は悪くないのに不幸になる人がいるように、<貧乏くじを引く>ということは、国と国の間にもあるだろうと思います。」(資料⑧)

*윤동주(한국 한자: 尹東柱, 1917년 12월 30일 ~ 1945년 2월 16일)는 일제강점기 한국의 독립운동가, 시인이자 작가이다. 본관은 파평(坡平). 중국 만저우 지방 지린성 연변 용정에서 출생하여 명동학교에서 수학하였고, 평양 숭실중학교와 서울 연희전문학교를 졸업하였다. 연희전문학교 2학년 재학 중 소년(少年) 지에 시를 발표하며 정식으로 문단에 등단했다.
前記資料⑧の例は、筆者が講義四コマを用いて、尹東柱の生涯と作品を紹介し、念入りな作品鑑賞と時代背景解説をした後で書いてもらった感想文である。この学生は尹の作品に「感動」したかのように書いているが、そこから導かれた結論は背筋の凍るほど冷ややかなものであった。いうまでもないが、日本と朝鮮の関係は「当たりくじ」を引いた幸運な者と「貧乏くじ」を引いた不運な者との関係ではない。侵略し植民地支配した側と、侵略され支配された側との関係である。
ある学生は、差別発言に対して何もしなかった(むしろ笑っていた)自分自身のことを棚に上げて、在日朝鮮人が人種差別主義者と闘う勇気に欠け、「アイデンティティが欠如している」と非難する。(資料⑨)無知ないし差別的なマジョリティの中で孤立しているマイノリティにとって、自ら名のり出て差別と闘うことがどんなに勇気のいることか、この学生は想像しようともしていない。在日朝鮮人の学友が名のり出ることを困難にさせているのは自分自身であるという反省も、もちろん、ない。
他方、別の学生は、チマ・チョゴリの民族服姿の学生に、「あえて朝鮮人であることさらけ出す」(すなわち「アイデンティティが過剰である」)と批判している。(資料⑩)「日本で暮らすなら日本人らしくせよ」とう従来からある紋切りの蔑視が、このように若い世代の女性にも「継承」されているのである。身を隠していても非難され、身をさらけ出せば攻撃される。この相矛盾する二つのまなざしに挟撃され、圧倒的マジョリティのなかで、在日朝鮮人の若者は孤立している。
在日朝鮮人の公務員就任を認めるべきではないと主張する学生の例は、一見整然とした客観的立論をしているようだが、日本人「住民」の差別意識を既成事実として容認する枠内でのみ論じている。在日朝鮮人もまた国税と地方税を納税しており、「住民」の一員であるということは念頭にも浮ばないようだ。「不快感を感じてしまう」のは、実は架空の「住民」ではなく、この学生自身なのではないか。(資料⑫)
右の例に共通することは、これらの感想を書いた学生が自分なりの考えをかなり論理的に文章で表現することができるという意味で「学力」レベルが比較的高いこと、そしてそのうちの誰1人として自分自身が差別意識をもっているとは思ってもいないことである。彼ら/彼らは自らの発言の差別性を指摘されると、まるで不当な非難に遭ったかのように頑強に反発し、しばしば、自分への批判が「弱者のひがみ」や「被害妄想」のせいであると結論する。
彼ら/彼女らに欠けているのは歴史の事実についての「無知」ではない。欠けているのは、他者の苦悩に対する想像力であり、自分自身がその他者の苦悩に関係しているのではないかと疑ってみる自省力である。
前記のジャン=フランソワ・フォルジュは27年間高校教師をつとめた経歴の持ち主だが、生徒に「他人の苦悩に対する想像力」を育てることが何より大切な課題であると強調し、そうした「想像力」をとくにコンパッションcompassion」と呼んでいる。「コンパッション」は、前掲書では「共感共苦」と訳されている。フォルジュは「共感共苦」を育てる教育は、「時間と真剣さと内容をともなってはじめて可能になる」とし、クロード・ランズマンの記録映画『ショアー(24)』やプリーモ・レーヴィの文学作品のような優れた芸術が与える「抑制のきいた感動」が「共感共苦」へのドアを開いてくれるだろうと述べている。しかし、現実にはこの課題は教育者にとって、フォルジュも認めるとおり「並々ならぬ試練を要する作業」である。
いうまでもなく「共感共苦」の欠如は、植民地支配や侵略戦争の認識をめぐってのものだけではない。日本社会の全領域を覆い、日々深刻になっている。そもそも満員電車で立ちづくめの老人や妊婦の苦痛を想うことのできない者に、戦争被害者や被差別マイノリティの苦悩を想うことができるだろうか。この課題は、大学教育だけで、あるいは歴史教育だけの取り組みで克服できることではないであろう。しかも、逆にこのような困難につけ入る形で、いま国家の側は教育基本法の見直しや奉仕活動義務化といった反動攻勢を強めようとしている。


*《쇼아》(Shoah)는 프랑스에서 제작된 클로드 란즈만 감독의 1985년 다큐멘터리 영화이다. 홀로코스트에 관해 다룬 영화이다.[a] 영화 제작에 9시간 길이에 11년이 소요된 이 영화는 절멸 수용소를 포함, 폴란드의 독일 홀로코스트 지역 방문 시기에 란즈만 감독이 생존자, 목격자와 함께한 인터뷰를 담고 있다.[4]

[E]主権者(当事者)意識の欠如
「戦争を知らない私個人の意見としては「もう、うんざりだ」と思ってしまいます。日本の戦後賠償責任は国家として果たすものであり、個人レベルにおいての問題ではないからです。私たちは好んで日本人に生れたわけでもないのに、それが故に戦後の賠償責任をあたかも日本人全体に求めている現在の行為・主張は全く理解し難く、私にとっては過去の問題でしかないと思っています。」(資料⑬)
前記資料⑬に述べられているレトリックは、90年代の日本で常套句となった。1995年3月、高市早苗議員(当時新進党、1961年生)は衆議院外務委員会において、「戦後50年国会決議」に反対する立場から、「少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております」と発言した。この発言に喝采を送ったのは、必ずしも右派勢力だけではなかった。

*다카이치 사나에(일본어: 高市早苗(奈良県出身, 1961년 3월 7일 ~ )는 일본 자민당 소속의 정치인이다. 2016년 8월 제2차 아베 신조 내각 (개조) 이래 총무대신을 역임하였다. 남편은 정치인 야마모토 다쿠(山本拓)이며 호적상 성씨는 남편성을 따른 야마모토(山本). 지역구는 중의원 나라현 제2구이다.
本質主義的な国家観・国民観を批判し、「国家」「国民」という観念の自明性を解体すると主張する人々の中に、奇怪に転倒した形で、被害者無視の無責任論が蔓延しているように思われる。以下はその一例。「責任」をテーマとしてとりあげた1998年の日本倫理学会大会のシンポジウムに関連して書かれた文章である。
「集団的アイデンティティを持とうとしない人々にまで一体化を強要する民族国家(中略)の理念には反対である。私の目から見れば、「自虐史観」を批判して日本人としての誇りを主張する人も、戦後世代に戦争責任や罪障観を押しつけようとする人も、政治的な立場こそ違え、民族への帰属を強いるという点では変わらない。(中略)責任の償いがたさを情緒連綿と語るような人は、私には「金が問題ではない。誠意をみせろ」と無理難題を吹きかけてくるやくざを連想させる。(中略)人生は楽しむのが本当である。「日本一の無責任男」といったキャラクターに人々が共感をもつのも理由のないことではない(25)。」
*『ニッポン無責任時代』(ニッポンむせきにんじだい)は、東宝が1962年に製作した日本映画。
この種のレトリックは、戦後生まれという世代差を、あたかも絶対的な「アリバイ」であるかのように振りかざす。しかし、被害者が問うているのは過去の罪だけではない。その罪を隠蔽し、謝罪も補償も行なおうとしない。現在の日本国の責任なのである。それは当然、現在の日本国の主権者である日本国民に対して問われているのである。
「国家」や「国民」という観念は「想像されたもの(26)」だが、自分の頭の中でそれらを否定したところで、「国民」をやめたことにはならない。ある個人が集団への帰属意識をもとうがもつまいが、国籍を保持し、そのことによって国家から有形無形の拘束と庇護を受け、パスポート取得から参政権にいたるまで多岐にわたる国民的特権を享受しているといく現実があるかぎり、その人はまぎれもなく「国民」なのである。
国家が政策を誤ったとき、それを変更させる責任は第一義的に国民にあるのであり、国家が他者に被害を与えてしまった場合、それへの謝罪と補償を政府に行なわせる責任もまた国民にある。もちろん戦後世代の責任は、戦争時に不在だったという意味では戦前・戦中世代と同じ質のものではない。戦後世代には、過去の犯罪行為に関する限り、法的な意味での「罪」はない。その限りでは、彼らに犯罪行為の当事者と同質・同量の責任を問うことは合理的ではない。しかし、戦前からの連続性をもつ国家の主権者として、戦後世代の国民もまた政治的な意味での責任を負わなければならないことは否定できないであろう。そして、この政治的責任に背を向ける行為は、たんに倫理的に非難されうるのみならず、構造的に見れば自国の国家犯罪との共犯関係を結ぶことになるという意味で、限りなく「罪」に近いといわねばならない。国民であることの責任を自覚することと、日本民族としての「集団的アイデンティティ」をもつこと(国家や民族への無条件な忠誠心をもつこと)は断じて次元の異なる問題であり、両者は混同されてはならない。いま必要とされているのは、後者を注意深く斥けながら、前者を実現していくことであろう。
学生たち(学生に限らないが)の多くは、上記のような、国家の主権者としての当事者意識はほとんど持ち合わせていない。その理由は、彼ら/彼女らの観念の中で、自らと国家や政府との距離は目がくらむほど遠く、彼ら/彼女らは自分の何らかの意思表示や行為によって国家の政策に影響を及ぼしうるなどは想像することもできないからだ。いわば、彼ら/彼女らは、戦後日本の政治文化の中ではほとんど完全に主権者意識を奪い去られた状態に置かれてきたからである。それゆえに、彼ら/彼女らは、国家の政策の責任を問われたとき、それを不当な要求と感じるのである。
こうした当事者意識の欠如は他者認識の不在と表裏をなしている。自分を日本国の国民と自覚できない者は、日本国による被害者を他者と認めることもできない。ある在日朝鮮人学生がゼミで在日朝鮮人に対する差別問題を報告したとき、日本人学生の1人が「自分だって女性にもてないために苦しんでいる」と応答し、その場のほとんどの学生が「民族差別だけが特別じゃない」「それだけを言い立てるのはナショナリズムだ」という「批判的意見」が大勢を占めたというエピソードがある。このエピソードが示すように、日本人学生の多くは、自己と他者とを厳然と分かつ政治的・社会的・歴史的理解を認識することができず、ほかならぬ自国の、植民地支配や戦争を含む政治的行為による被害者を、あたかも不可避な天災による不運な犠牲者のようにみなす傾向をもつ。「貧乏くじ」という的外れな言葉が飛び出すのはそのためであろう。
加害/被害関係を正確に認識することができず、その関係の中での自分の位置を認識することができないため、戦争・植民地支配・民族差別の被害者と、一般的な身体的ないし社会的「生きにくさ」に悩んでいる人々とを同じレベルでしかとらえられない。したがって、その後に続く議論は、「生きにくさ」一般にどう対処するかという「悩みごと相談」のレベルにとどまることが多い。たとえば、ある者はいう。「誰もが「生きにくさ」をかかえている。朝鮮人や中国人だけが特別ではない。文句があるなら泣き言をいわず生存競争に勝つことだ。」別の者はいう。「被害者の人たちは本当に気の毒だ。自分は「戦争のない、豊かな日本」に生れた幸運を大切にしたい。」第三の者はいう。「自分も自身の「生きにくさ」をもてあましていたが、戦争被害者や被差別者の訴えに接して「元気」をもらった」あるいは「「癒された」、ありがとう。」いずれの場合も、加害者の主権者(国民)としての責任意識には結びついていない。右の第三者の場合でも、被害者に対する一方的な消費であることにかわりはない。
ここで述べたことはたんに歴史教育と植民地認識の問題領域を超えて、日本社会の政治文化そのものの危機的様相を現わしているといえよう。
主権者が責任を負わない国家、それは誰も責任を負わない国家と同義である。戦前日本の主権者は天皇であったし、天皇は「無答責」すなわち責任を問われない存在であるとされていた。その天皇制を否定し、国民主権理念を掲げて戦後日本は出発したのではなかったか。しかし、資料⑮の学生がいみじしくも言い当てているように、戦後日本の国民は「天皇が責任を問われない以上、われわれが問われるいわれはない」という形で、天皇を免責することによって自らを免責した。そのような想像上の免責状態は、日本国民が主権者としての権利・責任・尊厳を自ら放棄することによってあがなわれているのである。
自分は名目上の主権者だが実質上は主権者ではない、だから、自分に責任を問うのはやめてくれ、という議論は、あくまで日本の内輪の議論でしかないであろう。それが被害者(他者)に対して責任をとらない理由になるだろうか。それを他者に対して投げつけたところで、他者はこう答えるほかないであろう。「それでは、一刻も早く主権喪失状態を脱して実質上の主権者となるべく努力してほしい。植民地支配と戦争の責任を明らかにし、責任者を処罰し、被害者に謝罪と補償を行なうことは、まさにそのことのために役立つだろう。そのような努力が具体的な形で見えない限り、あなたがたは責任のがれに終始していると見なさざるを得ない。」

以上に挙げた、[A]「国民的自己愛」、自己中心主義、[B]「「経済大国」意識、「豊かさ」へのしがみつき」、[C]「「歴史化」の要求、「単純化」の暴力」、[D]「共感共苦(他者の苦悩への想像力)の欠如」、[E]「当事者(主権者)意識の欠如」といった断絶相は、互いに重なり合い、もつれ合っている。論理的に考えれば、[A]の自国中心主義と[E]の擬似普遍主義とは両立しないはずだが、現実にはそうではない。両者はしばしば、1人の学生の中にも並存している。両者をつなぐものは、結局、利己主義でしかない。
こうした幾重もの「断絶」が、被害者証人を孤立させ、その警告を無力化させ、ひいては、社会全体が過去に学ぶことを妨げている。いうならば、こうした「断絶」こそが、和解、友好、平和への直接の脅威なのである。
いうまでもなく、「断絶」は、たやすく超えられるものではない。もし、たやすく超えられるのなら、ジャン・アメリーもプリーモ・レーヴィも、あのように自殺することはなかっただろう。しかし、少なくとも、こうした「断絶」があるという自覚、自分自身のなかにもそれがあるのではないかと感じる繊細さが求められるのである。
繰り返し強調しておかなければならないが、以上に述べたことは、日本人学生を一方的に非難して満足を得るためではない。学生の感想文に現われた「断絶」相は日本人マジョリティに広がっているものであり、研究者・教育者たちにも無意識のうちに浸透しているのではないか、と問うためである。家庭、地域、学校、テレビなどのマスメディアを通して、学生たちは以上記のような「意見」をもつにいたっているのである。実際、学生たちのステレオタイプ化された意見には、それぞれのモデルをなす既存の言説があり、それを探し出してくることは難しくない。同じ日本社会に生きているのである以上、研究者・教育者だけはこのような「断絶」と無縁であるという仮説こそ根拠に乏しいのである。


むすびー「アウシュヴィッツに抗して教える」
先にあげたジャン=フランソワ・フォルジュは、「アウシュヴィッツの後に教えることは、アウシュヴィッツに抗して教えることである」、と述べている。フォルジュはこのことのために、次の三点を強調している。
第一に、正確・厳密に教えること。誇張、ゴマカシ、歪曲などは歴史修正主義や否定論のつけ入る隙となり、生徒たちから歴史への信頼感を失わせる。
第二に、犠牲者の苦悩への想像力(「共感共苦(コンパッション)」あるいは「心情の知性」とも呼んでいる)を育むこと、ここで、証人や証言、文学や映画などの芸術の役割が重要になる。
第三に、歴史教育と倫理教育は結びついているということ。(ジャン・アメリーは、「歴史化」ではなく、「歴史の倫理化」を求めた。)フォルジュは、「いじめ」の例をとって、「記憶の義務」とは「最も些細な屈辱や些細な差別を休みなく追い払うこと」を意味している、と述べている。いうまでもないが、ここでいう倫理教育とは、権威主義的方法で徳目を叩き込む「修身」教育とは正反対のものである。こうした教育の現実的な困難さは、フォルジュも深く自覚している。しかし、彼の以下のような言葉は傾聴に値すると考える。
「残念ながらわれわれは、ユマニスト的な価値観を、蛮行の再発を警戒する念を、その再来に抵抗する姿勢を、どう子どもたちに伝えたらよいかをはっきりとは知らない。われわれがただ知っているのは、これらの価値観を伝達するための必要条件は、その価値観をみずから尊重することだということだけである。ちょうど、敬意を払われることのなかった子どもたちが、敬意を払うのを学ぶことは決してできないであろうように。」
「記憶の義務」は、現在に対する「警戒の義務」と一体である。「現在」の危機が「記憶」を要請し、証人を召喚する。たとえば、前章で挙げた[A]から[E]までの学生の感想文の代わりに、日本国民としての反省、謝罪や必要を述べた「優等生的」感想文の束から模範的なものを選んで、日本社会の「現状」をまったく逆の姿に描き出すことも、技術的には不可能ではない。では、なぜ私はそうしないのか?
侵略戦争、植民地支配の過程で生み出された膨大な文献、証言、エピソードなどの山から任意に選択して、「あれは良かった」という印象を構成することは不可能ではない。なぜ、そうしないのか?いや、すでにそうしている人々がいる。その人々には、なぜそうするのかを問わなければならない。
このことは結局、研究者・教育者がいまを生きる1人の人間として、侵略戦争・植民地支配の(「細部」ではなく)全体像をどう認識するのかに関わる。さらにいうなら、なぜ、何を危機と感じ、何を目標に研究・教育するのか、という本質的な問いにつながってくる。問われているのは、研究者・教育者の「現在」に対する認識なのである。日本社会の「現在」-筆者自身その現状認識については先に述べたーが、筆者にこの報告を促した。フォルジュにならって言うなら、植民地認識にかかわる研究者・教育者は「侵略戦争」「植民地支配」を研究し教えるのではなく、それらに抗して研究し教えるという姿勢を、自らの中で確固とさせなければならないであろう。

(1) 本稿は、第4回日本植民地教育史研究国際シンポジウム「植民地認識はいかに深化したか」(2000年12月22日―24日、会場・東京学芸大学)における報告に加筆したものである。(2) 日本国の外国人登録上、「在日朝鮮人」の「国籍」欄記載は大きくいって「朝鮮」と「韓国」とに分かれるが、本稿においては、民族を指示する総称として「朝鮮」を用い、包括的に「在日朝鮮人」と称する。(3) 徐京植・高橋哲哉共著『断絶の世紀 証言の時代』岩波書店、2000年/高橋哲哉『戦後責任論』講談社、2000年、参照。(4) 1998年2月6日付『朝日新聞』記事(5) ラディカ・クマラスワミ『女性に対する暴力―国連人権委員会特別報告書』クマラスワミ報告書研究会訳、明石書店、2000年 VAWW-NET Japan『パウネットジャパン』編訳『戦時・性暴力をどう裁くかー国連マクドウーガル報告会訳』凱風社、1998年(6) 1993年8月4日、河野洋平官房長官演説(7) 1996年6月5日付『朝日新聞』記事(8) 石原慎太郎『「父なくして国立たず』光文社、1997年(9) 内海愛子ほか編『石原都知事「三国人」発言の何が問題なのか』影書房、2000年、参照。なお、国連人権差別撤廃小委員会は2000年3月20日、石原都知事の「三国人」発言は人種差別撤廃条約(第4条C項「高位の公務員による差別発言」)に違反すると指摘し、日本政府に対し再発防止のため適切な措置をとることを求めた。(10) 2000年5月16日付『毎日新聞』記事(11) 2001年4月3日、「新しい教科書をつくる会」主導の中学校教科書『新しい歴史教科書』(扶桑社)は、検定意見に従って記述を修正した上で検定を合格した。韓国、中国からは、修正後の同書に対しても懸念表明や抗議が続いており、外交問題化している。(12) プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』竹山博英訳、朝日新聞社、1980年 イタリアからナチ第三帝国の強制収容所へ移送されたユダヤ人は7千5百人以上にのぼる。そのうち終戦まで生き残ったのは、およそ8百人。プリーモ・レーヴィはそのうちの1人である。(13) 同書(14) ユルゲン・ハーバーマスほか『過ぎ去ろうとしない過去―ナチズムとドイツ歴史家論争』徳水 ほか訳、人文書院、1995年、参照。(15) 徐京植『プリーモ・レーヴィへの旅』朝日新聞社、1999年(16) 徐京植『母を辱めるな』、小森陽一ほか編『ナショナル・ヒストリーを超えて』東京大学出版会、1998年/本書17頁(17) 魯迅『阿Q正伝・狂人日記』竹内好訳、岩波文庫、1955年(18) 小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』洋泉社、2000年、225頁(19) ジャン・アメリー『ルサンチマン』『罪と罰の彼岸』池内紀訳、法政大学出版局、1984年 ジャン・アメリーは1938年、ナチス・ドイツのオーストリア併合にともなってベルギーに亡命。ドイツ軍のベルギー進攻後、対独レジスタンスに参加した。1943年に逮捕され、44年1月にアウシュヴィッツに送られたが終戦まで生き延びた。ベルギーからナチ第三帝国に送られた約2万3千人のユダヤ人のうち、生き残った615人の1人である。(20) ジャン=フランソワ・フォルジュ『21世紀の子どもたちに、アウシュヴィッツをいかに教えるか?』高橋武智訳、作品社、2000年(21) プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』竹内博英訳、朝日新聞社、2000年(22) 前掲『アウシュヴィッツは終わらない』(23) 1917年生まれの朝鮮人詩人、日本の支配下で禁止されていた朝鮮語で叙情詩を書いたが、生前は詩集を出版できなかった。同志社大学在学中の1944年、治安維持法によって検挙され、1945年2月、福岡刑務所で獄死。日本敗戦後、韓国で詩集が刊行されてベストセラーになり、現在では韓国・北朝鮮はもとより、在中国朝鮮人、在日朝鮮人にももっとも愛される代表的民族詩人となった。『空と風と星と詩―尹東柱詩集』伊吹郷訳、影書房、1984年(24) クロード・ランズマン『SHOAHショアー』高橋武智訳、作品者、1995年(25) 森村進「シンポジウムへの補足」『倫理学年報』第48号、日本倫理学会(26) ベネディクト・アンダーソン著、白石隆ほか訳『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』リプロボート、1987年 (初出:東京経済大学現代法学会誌『現代法学』第2号、2001年9月)
*追記 本稿は、第4回日本植民地教育史研究国際シンポジウムにおける報告(2000年12月22日)をもとに加筆したものである。同シンポジウムは「植民地認識はいかに深化したか」をテーマに、韓国、中国、台湾の研究者も参加して東京学芸大学で行われた。私は当日の口頭報告においても、日本人学生を一方的に非難することが目的ではなく、彼ら/彼女らの意識に反映した日本人マジョリティの意識(さらに研究者・教育者の意識)そのものを検討することが目的であることを重ねて強調した。それにもかかわらず、会場から私に対して、「日本人学生を切り捨てているのではないか?」「女性にもてないという悩みも当人にとっては深刻だ」などという質問があった。また、質問用紙の中には、「繊細さが求められるのは日本人学生だけですか?」というものがあった。本稿を曇りのない目で読まれた読者には明らかだと思いたいが、こうした質問はまったく的外れというほかない。このような感情的とすらいえる反発に接して、まさしく本稿でいう「断絶」が、ほかならぬ植民地教育史を専門とする研究者たちの間においてすらもはっきり存在していることを実感させられた。「断絶」は深刻である。
いま、国家とどう向きあうか ■インタビュー 聞き手/鈴木聡
―昨日、「日の丸」「君が代」法案が参院の本会議で審議入りになったわけですが、もしこの法案が通ることになれば、政府見解でいう「日本国民の総意に基づく天皇、その天皇を象徴とする国家」というものに、教育現場は否が応でも向かい合わざるをえないわけです。われわれは今どのように国家と向かいあっていくのかというテーマで、きょうは少し広い視野から徐さんにいろいろとお話を伺いたいと思っています。
90年代になって、冷戦体制の終結のもとで、戦争責任問題が新しい段階に入り、国家間の問題処理とは次元が違う、民衆レヴェルでの戦争責任問題が問題化する状況が広がってきた。にもかかわらず、事態はけっしてそのような方向にはすすんでいません。逆に、96年に新しい歴史教科書をつくる会が発足して一連の動きを始める。その延長線上で小林よしのり氏の『戦争論』が町の小さな書店でも堂々と山積みにされてベストセラーになっているわけです。

*새로운 역사 교과서를 만드는 모임(일본어: 新しい歴史教科書をつくる会 아타라시이레키시쿄카쇼오츠쿠루카이[*], 문화어: 새 력사교과서를 만드는 모임)은 일본의 역사에 대한 새로운 관점을 전파하기 위해 1997년에 결성된 일본의 우익 단체로, 일본에서는 만드는 모임(일본어: つくる会 츠쿠루카이[*]), 대한민국에서는 새역모(新歴會)라는 약칭으로도 불린다.
*「신 · 고마 니즘 선언 SPECIAL 전쟁론」『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(신 고마 니즘 아사 스페셜 전쟁론)는 고바야시 요시노리 에 따르면 일본 의 만화 작품. 1995 년 9 월부터 잡지 " SAPIO 」( 쇼우 갓칸 )에 연재되고있는 「 신 · 고마 니즘 선언 」의 별책 판이라고 체계를 가지고있다.
そういう動きとは一応別ですが、加藤典洋氏の『敗戦後論』が95年に出され、それをひとつの契機として、主に戦後生まれの知識人の間で、歴史主体性論争といいますか、戦争責任をどう引きとるのか、あるいは国民国家としての日本の行方をどう考えるのかという一連の論争も行われています。(たとえば『ナショナリズムと「慰安婦問題』青木書店)
そういうこの間の一連の動きのなかで、日本社会にたいする強烈な危機感をもって、精力的に発言されている徐さんに、きょうは率直にいろんな面からご意見を伺おうということです。
最初にプロフィールのようなことから少しお話しいただきたいんですが、徐さんは1951年に京都にお生まれなさって、国籍は韓国籍ですね。ただご自身は「在日朝鮮人」、それは韓国籍・朝鮮籍・日本籍のすべてを含む、日本に在住する朝鮮民族の総称である、と言っておられます。
国籍と民族
徐 今お話があったように、私は1951年に京都で生まれたんですが、それは私の祖父が1928年に日本に来たからです。日本が朝鮮を植民地支配していたその時代、産米増殖計画―実際には農村収奪政策―がすすめられたために、多くの朝鮮農民が流民化しましたが、私の祖父もその一員で、朝鮮の忠清南道という地方から日本に来たのです。歴史的にみると、在日朝鮮人の人口が急激に増えていったのがこの20年代です。そういう意味で私は典型的な在日朝鮮人の子孫といえると思います。
国家が自分たちに与える「国籍」という身分証明と、文化とか言語とか生活形式というようなもので規定される「民族」とは本来別の概念のものですが、多くの日本人は、それを日ごろは別のものとは意識していないようです。
私は今、非常勤講師として大学で教えているんですが、「あなたは日本人ですか?」という問いに「はい」と答えた学生に、「なぜ?」とさらに問うと、「日本国籍だから」という答えが圧倒的多数です。そこで、「では日本国籍は誰がもてるの?国籍はどういうふうに決まってるの?」と訊くと、答えられる人はほとんでいません。国籍法という法律があります。ここには「帰化」の要件も記されていますが、基本的には日本のそれ(国籍法)は血統主義にもとづくものです。日本人を父または母とする者が日本人である。つまり日本では、「日本人の子が日本人だ」という観念を社会の圧倒的多数がもっており、それを制度にもしているのです。
しかし歴史的に振り返ってみると、ことはそう簡単ではありません。1910年に日本が朝鮮を併合する以前は、私たち朝鮮民族は、近代的な意味での国籍というものはなかったのですが、その当時は大韓帝国という国の臣民でした。その大韓帝国が日本に併合され、朝鮮民族全員が本意ならず日本国臣民にされ、朝鮮人は日本国籍保持者にされたわけです。ところが、1945年に日本が敗戦し、52年のサンフランシスコ条約にともなって、日本は一方的に、朝鮮・台湾など旧植民地出身者の日本国籍喪失を宣言しました。逆にいえば、日本国はみずからの都合で国籍の範囲をあるときは拡大し、あるときは縮小させてきたわけです。
つまり日本にいる在日朝鮮人は、民族的には昔も今も朝鮮人ですが、その国籍は、あるときまでは大韓帝国、あるときから日本、45年からは非常に曖昧なかたち、52年からは剥奪され、そして祖国は南北に分断されて二つの国家が出来てしまうというふうに移り変わってきたわけです。
ところがこれをひとくくりに「在日朝鮮人」という言い方で呼びますと、1948年に朝鮮半島南半部に成立し現に存在している大韓民国の国民というニュアンスが非常に濃くなるわけですね。実際には「韓国」という言葉で朝鮮半島の南北から日本を初めとする海外にまで拡がった朝鮮民族の全体を総称することはできません。「在日韓国・朝鮮人」という呼称も用いられていますが「韓国・朝鮮」などという国家も民族も実在しないのですから、これにも賛成できません。そこで私は自己の国籍を有する国家である「韓国」とは明確に区別して、自己の属する民族の総称として「朝鮮」を用い、「在日朝鮮人」と名のっているわけです。政治的な力によってさまざまに引き裂かれてきたために幾つかの国籍に分かれてしまったけれど、それでも朝鮮民族はひとつの民族である、国籍がどうであれ、同じ歴史的背景をもつ人は同じ民族であるという意味もそこにこめています。
私が「在日朝鮮人」を名のるもう一つの理由は、それが日本社会のなかで、被差別者というニュアンスを歴史的。社会的に負わされている言葉だからです。だからこそ、朝鮮という言葉に不当に負わされた否定的な意味を逆転させるためにも避けずに使おう、という気持ちもあります。


戦後日本国民の「成功物語」と他者排除
―徐さんも親しくされている藤田省三さんは、高度成長以後の「平和で豊かな」日本社会を「安楽への全体主義」という厳しい言い方で問題にしました。自分たちに少しでも不快な感じを起こさせたり苦痛の感覚を与えたりする他者を一掃してしまおう、不快の源を根こそぎにしてしまおう、という社会を日本はつくってきたのではないかと、厳しく批判しておられます。そういう日本社会のなかで在日朝鮮人、つまり他者として生活されてきた徐さんが、日本社会をどういうふうに考えられてきたのか。
徐 戦後日本社会を基本的に規定している差別構造の中心に国籍の有無による差別が貫かれていると思います。つまり国民と外国人の間の差別、国民でない人間には人権が制約されるのも当然だ、というマジョリティの間の牢固としたコンセンサス、これは、今もあります。
在日朝鮮人のように日本による植民地支配の結果日本に住むことになり、しかもみずからの意志でなく国籍を剥奪された存在がはたして旅行者や訪問者のような一般外国人と同じなのか、という疑問が根本的にある。しかし、「ここは日本だ。嫌なら出て行け」というのが、50年代、60年代から、潜在的には現在も、日本人マジョリティから在日朝鮮人に向けられている眼差しであるし、社会制度の中にもそのような自民族中心主義の発想が根強く生きています。その背景には、そもそも多くの日本人が、在日朝鮮人がなぜ日本にいるのかという歴史的経緯にきわめて無知であるという現実があることはいうまでもありません。
あまり知られていない事実ですが、1945年以前は、朝鮮人であっても日本に定住し納税などある程度の要件を満たしている人(男性のみ)には選挙権がありました。この選挙権が剥奪されたのが、45年12月、戦後の第1回普通選挙のための衆議院議員選挙法の改正によってでした。その時、日本政府は付則をつけて、朝鮮・台湾など旧植民地出身者の参政権を、「当分の間停止する」という措置を一方的にとったのです。
―それは、天皇制批判が起こるのをおそれたということで?
徐 そのとおりです。そのことは歴史家によって論証されています。旧植民地出身者に投票権を与えると、公然と天皇制廃棄を叫ぶおそれがあるということが、選挙制度調査会の内部で議論されていたという史料が出ていますね。
そして日本国憲法が制定されるわけですが、マッカーサー草案ではpeopleと書いてあった文言を日本政府は「国民」と訳しました。憲法10条の「国民」の原文はa national、11条以下が peopleです。本来の意味は前者は「国籍保有者」、後者は「人民」で、別の概念です。ところが日本語ではどちらも「国民」と同じ訳語になっています。国民は国籍保持者である、国籍保持者が人権を擁護される、外国人には基本的人権が保障されなくてもいいという排他的な解釈を、日本政府も裁判所も長年とってきました。
具体的には、歴史的事情や日本の植民地支配責任などまったく無視して、一般の外国人と同じく、生活困窮者や精神障害者、犯罪者などの強制退去を規定した出入国管理法を在日朝鮮人にも適用した。外国人登録法を適用し、指紋の押捺を強制しました。

私が子どもだった頃は、在日朝鮮人は国民健康保険に加入できませんでしたから、ただでさえ貧しいなかから病気になると医療費を全額自己負担しなければなりませんでした。国民年金にも加入できませんでした。私たちには義務教育の就学通知がきませんでした。ことほどさように、戦後かなりの期間、国民でないという理由での在日朝鮮人に対する排除と差別が行なわれていたのです。
東京オリンピックを経て大阪万博にいたる60年代の高度成長期に、日本は敗戦国意識を脱し、世界有数の経済大国として国民的なアイデンティティを形成したと思いますが、そこでつくられた戦後日本の国民的な成功物語は、いま言ったような在日朝鮮人を初めとする植民地出身者を差別・排除する構造の上にあったし、ひいては侵略と植民地支配という負償にほうかむりしたものでしたが、そのことの自覚がほとんどの日本人に欠如していたのです。
そうした状態が現在は次第に是正される方向にあることは認めますが、その是正はどういう力によって、なぜ行われてきたかというと、ボートピープル受け入れをめぐる外圧の結果なんですね。ベトナム戦争後、難民がたくさん発生しましたが、そのときすでに経済大国になっていた日本は、難民をほとんど受け入れなかったために世界のひんしゅくをかいました。その時点で、日本はまだ国連の難民条約を批准していなかったんです。難民条約というのは端的にいうと、基本的人権における内外人平等、国籍の有無によって基本的人権における差別があってはならないということを規定しているんですが、日本はやっと1980年代に入ってから難民条約を批准し、それとの整合性をもたせるため、たとえば国民年金などの国内法も改正されたわけです。みずからの植民地支配および戦後の一貫した差別への反省からではありません。
草の根排外主義ということでいえば、今の私の教え子たちの世代の在日朝鮮人3世、4世はもはや私の世代が経験した差別を経験していないかというと、そうではないんですね。留学生なども大学などが紹介するアパートでないとなかなか入れない。同世代の学生たちが、公務員試験だ、教員採用試験だ、企業回りだと言っているときに、在日朝鮮人学生は「自分は就職のことなんか慌てていない」などと、ある種の強がりを内に秘めて寂しそうに笑っています。
今回、8割の議員が賛成して「日の丸」「君が代」法案が衆議院を通過しましたね。学校現場で「君が代」を歌わされると、そこにいる在日朝鮮人にとって学校はたまらなく居づらい場所になります。植民地支配の反省と天皇制の賛美とは根本的に両立しないからです。こういう現実に鈍感だとすれば、これもひとつの草の根排外主義ですよ。

当事者意識の欠落
―ところで日本では90年前後から、ポスト植民地主義の思潮の受容のなかで、「国民国家というのは消えゆくものだ」とか「民族という病」といったことが盛んに言われるようになってきた。しかし徐さんは、日本社会のそういう議論のなかには「特殊日本的な隘路」があるのではないかということを、早い時期から指摘されてきました(『「民族」を読む』日本エディタースクール出版社)、日本では公定ナショナリズムにたいして全面的に受容するか、全面的に否定するかという二つしかない。その場合の全面否定というのは、実践的にこの日本の国家をどうにかしていくというところでの否定ではなくて、国家の現実から目をそむけるというか、自分にとってどうでもいいもの、あたかも存在しないものであるかのように疎遠な現実として振舞う。そういう意識が日本の中に確実にある、という指摘でしたね。私自身、それを以前読んで感銘を受けたんですが、徐さんがそう言わざるをえなかった状況というところを、少しお話しいただきたいんです。
徐 私は、一つの国という場の中には複数のネーション構想があって、複数のものが絶えず相互に闘っているという状態が普通だと考えています。簡単にいうと、フランスでは王党派と共和派、イギリスでは保守党と労働党、朝鮮半島の場合ですと国そのものが分断されていて、二つ以上のネーション構想が激しく相克しています。韓国の中だけでも、反共軍事独裁・開発独裁というラインと民主化ラインというオルタナティヴなネーション構想とが激しく相克してきた。そう考えると、日本ほどベッタリと均質な空間ってあるんだろうか、と思わされます。50年代には、石母田正や上原専禄といった人たちが「国民文学」とか「国民教育」とかを提唱したのが、例外的な「別の日本」の構想だったといえるかもしれません。それには功罪両面があったと思いますが、成功したとは言えないと思うんですね。
私たちが他者として日本批判をするとき、日本人としてその批判を受け止める姿勢をみせる人は、むしろ公定ナショナリズムを擁護する人に多い。公定ナショナリズムを否定する人たちの多くは、私たちの日本批判にたいして「自分は日本人なんかじゃない」とか「おれを「日本人」にくくらないでくれ」とか、要するに暖簾に腕押し。そういうことを若いころから経験して来ました。
それには二つ理由があるように思います。一つは、アジアの他者とほんとうに向き合う経験がなかったことでしょう。もう一つは、国家とか政府というものと自分との距離感が非常に疎遠であるということです。自分たちが国家の主権者すなわち当事者であり、国家の政策を決定する主体である。その政策が失敗した場合には責任を問われ、誤ると自分たち自身が被害者にもなる。そういう政府や国家というものにたいする当事者意識が驚くほど希薄ですね。
このような現実はきのうきょうに始まったことではありませんが、そのことを、他者にたいする弁明や自己肯定のための論理に利用するということが見られるようになってきたのは90年代以降だと思います。つまり、自分たちが当事者意識をもてないということこそが、国民国家の時代を超えた意識のあり方、いわばナショナリズムを超越したあり方であり、アジアの戦争被害者にたいする国家としての謝罪や補償を要求する動きにかえって「ナショナリズムの罠にとらわれている」と冷笑する、というような、私からみると非常に奇怪な議論がどんどん出てき始めました。ここでの観念的なナショナリズム否定は、実際には、日本ナショナリズムにたいする批判としてではなく、国家犯罪の黙認や弁護を意味する自己肯定として現われているのです。
90年代の戦争責任論
―徐さんは『世界』(1999年)から、「断絶の世紀 証言の時代」という今日の日本を象徴するような題で高橋哲哉さんとの対談をしていらっしゃいますね。現在8月号まで出されています。この対話のなかで徐さんは、過去10年間の日本社会の動向に強い危機感を表明されている。東アジアにおいても戦争被害の記憶が呼び覚まされ、それまで声を発することを抑えられていた証人たちが一斉に立ち現われてきた。しかし日本人のマジョリティの支配的反応としては元「慰安婦」の人々の名のりや証言―いわば外圧―にたいする苛立ちというか不愉快というか、「もう終わったことを、なぜ今ごろ・・・」という雰囲気が圧倒的だということは認めざるをえない。徐さんは日本社会では「それはもう時代遅れだ」という言葉が恐ろしいほど暴力となって蔓延しているのではないか、いわば均質な画一的な時間のなかに身を寄せようとする「時間軸の全体主義」が非常な力をもち始めているのではないかと指摘されている。これは歴史教育を担っていこうとする教師たちにとってもたいへん大きな問題です。
徐 ちょうど今から10年間に昭和の天皇が死去しました。その89年はベルリンの壁の崩壊など、ひとことで言うと冷戦体制の終焉という世界史的な変化があった年でもあります。それ以後の10年間は今おっしゃったように、固有の顔や名前をや声をもったアジアの戦争被害者の姿が日本人1人ひとりの視野に入ってきた時代でもあるわけです。
昭和の天皇が死去したとき、その戦争責任問題がそれなりに注目されましたが、長崎市の本島等市長など数少ない例外はあったものの、日本社会の多くの場所で、とくにマスコミによって、戦後の象徴天皇制を含む天皇制批判は、中国、韓国などアジアの被害国やイギリス、オランダ等の戦争の相手国から、すなわち日本の「外」からくる、「内」には批判ない、「内」で批判している者は「外」の代弁者に過ぎない、という物語がつくられました。あれが、今日の自己中心的なナショナリズムの台頭の出発点にあったという気がします。

91年から従軍「慰安婦」だったという人たちが現われ出て、自分自身の言葉で固有の経験を語り始めました。日本人の1人ひとりからみれば、自分たちの国がアジアを侵略したという自覚が、それ以前はきわめて漠然としたものにとどまっていたのが、あらためて1人ひとりが問いかけられ、答えを迫られることになった。それは同時に、日本社会自体が新しく生まれ変わる大きなチャンスでもあったはずなんですが、10年後の現在、残念ながら無惨な結果に終わったと言わざるをえません。
1994年に細川首相が「あの戦争は侵略戦争だった」と言ったとき、遺族会を中心に右派から猛烈な巻き返しがありましたね。「侵略戦争だったというのなら、日本の兵士は犬死したと言うのか」という、まったく非論理的なキャンペーンが繰り広げられました。それが95年の戦後50年国会決議を牽制する保守派の共同のスローガンのようになり、地方議会では逆に日本の戦死者を顕彰する決議があがったり、顕彰碑が建てられたり、対抗的な保守派の動きが非常に強まったわけです。こうした右派的な情動に、「アジア人から謝罪謝罪と言われてウザったい」というような漠然とした反感を抱く人たちが合流していったとみることができます。その流れをうけて、「自由主義史観研究会」とか「新しい歴史教科書をつくる会」などが草の根保守主義を基盤に教科書攻撃を続けているわけです。
*자유주의 사관自由主義史観 (사유주의 시칸)는 일본 의 사회과 교육 학자의 후지오카 노부 카츠 (당시 도쿄 대학 교수)의 주창 한 역사 검증 법 및 사관.

Post-war theory (Chikuma Gakugei Bunko) (Japanese) Bunko – 2015/7/8 Norihiro Kato (Author) 패전 후 론 (치 쿠마 학예 문고) (일본어) 문고 - 2015/7/8 카토典洋 (의)

加藤典洋氏は95年から「自国の死者の弔いの問題を解決できないと日本は自己分裂したままで、謝罪することだってできないんだ」ということを「敗戦後論」で言って、大きな注目や支持を受けました。
ここで注意したいことは、「無意味な死者を無意味なままに」ということは、「犬死だと言うのか」と反発している右派の人たちの情動を㧦い取るために言い換えているだけだということです。「無意味」というのは「無駄死」ということなのか、それとも文字どおりに「意味がない」のか、そこのところを、彼はごまかしている。そもそも無駄に死んだから弔わないということではないわけでしょう。あの戦争の「意味」をめぐって続いてきた対立や葛藤を棚あげしたらいいじゃないかという「現実主義」の提案として、加藤氏のレトリックは重宝されているのです。朝日新聞や毎日新聞に繰り返し彼が起用されるのは、右派勢力の強固な巻き返しと左派的リベラリズムとの間の中間的な落としどころを示すという役割を彼が果たしたからだと思います。
―ちょっと補足しますと、加藤典洋氏はいわば「戦争責任をきちんととれる日本人を自分たちの手でつくろうよ」と言っているわけで、いま議論している文脈で肯定的に受け止める知識人もたくさんいるし、在日朝鮮人のなかにも「四つに組めるまっとうな人物が現われた」と歓迎する向きもある。今のお話は加藤氏は過去の日本人の靖国的な情念をそのまま引き継いだからちでの「日本人の器」をつくっていくという・・・。
徐 そうですね。そこがこの問題のやっかいなところです。しかし注意深く加藤氏の議論を追っていくと、彼は「謝罪できる日本人の主体をつくる」というふうに論を立てるけれど、現実には「日本という主体は自己分裂しているから謝罪できないんだ」という議論にしかなっていないんですね。つまり、現に日本社会にはアジアの戦争被害者への謝罪なり補償なりをすべきだと主張し、活動をしている日本人たちもいるわけですから、この人たちと連帯して右派勢力と闘い、この人たちの活動を支えていくことが、謝罪できる日本人をつくる道であるのに、加藤氏はこの人たちを揶揄する一方、まず自国の死者、それを戦艦大和の特攻隊員によって代表される戦死者を弔うことによって「日本という主体」をつくらなければ謝罪できないというのです。これには実際には、右派への妥協を意味するレトリックに過ぎないのです。
私は、「新しい歴史教科書をつくる会」に現われているような右派ナショナリズムがただちに日本社会の多数派を占めるとは考えていませんが、こういう人たちの存在が社会的に既成事実化し、加藤氏のような「現実主義」が台頭することによって、議論全体の座標軸が右へ右へとブレていく。たとえば毎日新聞が今年の春先に「跳べニッポン/ナショナリズム再考」という長い特集を連載していますが、この記事は、あえて名づければグローバル・スタンダード・ナショナリズムの提唱です。つまり「世界のどの国もナショナリズムがある。だから日本にもあっていいんだ」という「普通の国」路線です。
たとえば、こんな議論が展開されています。日本の首脳が外国に行ったときにはその国の無名戦士の墓に詣でるのが外交儀礼になっている。だけど外国の元首が日本に来たときにはそれができない。靖国問題が解決していないからだ。だから靖国神社からA級戦犯の遺骨だけを分配するとうかたちで、たとえば中国の首脳が来たときも靖国神社に行けるようにしたらいいじゃないか・・・。
つまり靖国神社がもっている本質に目を向けるのではなく、いわゆるグローバル・スタンダードに合わせるというかたちを借りて、日本のナショナリズムを普通の国のナショナリズムとして立ち上げていく。そして特集記事の結論は「惰性断ち、現実的な国家論を」。55年体制的な護憲論は惰性だ。今日、世界に通じる国家論をもたなければいけない、という結論になっているのです。
こういうものを旧来の右派的なものとの間にはもちろん線が引けますが、しかしこういうものがおそらく自民党、自由党、公明党、そして民主党内の相当部分までも横断的にまとめる「普通の国」路線、ネオ・ナショナリズム路線に道を開くものです。つまり、アジアにたいして謝罪するのは国連の安保理事会に入るためであり、諸外国なみに国家と国歌をもち、軍隊をもち、派兵もする、そういう方向へ道を開く議論になっているのです。

「時間軸への全体主義」について言いますと、私たちの多くがこういう問題を考えるときに暗黙のうちに前提としているような時間の流れの観念がありますね。「過去にいつまでもこだわっていると進歩がない」とか「新しいことはいいことだ」とか「時間がたてばたつほど生活は右上がりで向上していく」とか。こういう前提はじつは普遍的なものではなくて、高度成長以降の日本で、広くいうと資本主義市場経済の国家において国民に注入されてきた時間意識かもしれない。戦争被害者の時間意識はけっしてそれと同じではないのに、「いつまでも昔のことを言っているのは人類の進歩に反する」というかたちで封印され排除される。「今はもうそういう時代じゃない」とか「前向きじゃない」とか。そういうレッテルを貼る。それを私は「時間軸への全体主義」と呼んでいるわけです。
実際には右上がりで上がっていくという保証は何もないし、仮に自分の時間意識がそうであっても、他者の時間意識との間で対話しなければ平和が実現できるわけがないですね。平和というのは自分と他者との間にある問題ですから。そういう意識で、1989年以降のこの10年間は非常に危険な兆候があらわになってきた10年間だったという気がします。
「空虚な主体」から「危険な主体」へ
―徐さんはこの間のあやうい動向を、「空虚な主体から危険な主体へ」という問題としてとらえている。「空虚な主体」というのは、これまでのお話にもあるように、自分は一個人としてナショナリズムから自由になりたいとか帰属から自由でありたいという一見健全ともみえる意識の裏側に、国家がどうあろうと日本がどうあろうと自分は関係ないとそむける。忌避する、というものです。先ほどのお話ですと、そういうものはかつてからあったんだけれども、90年代に入ってからその「空虚な主体」が微妙に変質してきたというか、ある意味では「危険な主体」へと引き寄せられる。そういうものの一つとしてたとえば加藤典洋氏の議論もある、ということだと思うんです。
徐 具体的なお話をしたほうがいいと思うんですが、91年に初めて大学の非常勤講師になって私がたいへん驚いたのは、若い人たちの当事者意識の空虚さでした。つまり自分たちと国家、自分たちと政治との驚くほどの疎遠感。これは、私たち在日朝鮮人のように民主主義の理念だけを教わりながら実際には排除されてきた人間からみると、驚くべきことなんです。たとえば、私はもう年齢が50歳近いのですが、人生で一度も投票したことがない。国政選挙権も地方選挙権もないからです。韓国の選挙にも参政権がありません。私の学生たちは当然選挙権があるんですが、それを行使する気もないし、行使する場合でも自分はどういう政治を望むのかを真剣に考えているふうには見えない。こんな状況を見ていると、信じられないくらいもったいないと思うんですね。

もう一つは、私が「君たち日本人は」と問題提起すると激しく反発しますね。「日本人といってもいろんな人がいる」「悪いことをしたのは自分じゃない」と。つまり「国家が何か悪いことをしたとしても自分とは関係がない」、あるいは「昔の世代の人が何かやってもそれは自分がやったことじゃない」というのです。若い人がそう考えているのは、若い人だけのせいではなく、日本社会に非常に根強くあるそうした言説が若い人たちに浸透しているということだと思うんです。それは私は「空虚な主体」と呼んでいます。
たとえば小林よしのり氏が昨年、金大中大統領の訪日について描いた『謝罪外交に異議あり』というマンガ。これは朝鮮植民地支配にたいする全面的な肯定論です。「日本が朝鮮を支配しなければロシアが来て日本もやられたはずだ」とか、「日本社会は近代化に貢献したんだから韓国人から感謝されていいはずだ」とか、かつてからあるまったくのステレオタイプです。ところが、これを教材にしてみたのですが、マジョリティの学生はほとんど批判らしい批判ができないんですよ。
このことが示しているのは日本の朝鮮植民地支配という特定の問題にたいする知識・認識の圧倒的な欠如であることはいうまでもありませんが、他者にたいする想像力のはななだしい欠如だと思います。逆に「想像なんかできないのがあたりまえだ。私は朝鮮人じゃないから韓国人の痛みなんかわかりません」と言い切る学生もいます。ほんとうに幼い対応です。
これは若者批判としてだけ聞かれては困るのです。この間、大人たちがそういうことをたくさん言っています。相手ー戦争被害者-は「日本人よ」と呼びかけているのに、「私は日本人じゃない」というので答えにならない。それなのに、「過去および現在、日本という国の行為について、その国を構成している国民の1人としてどう責任を負うのか」というふうに問われると、少なからぬ知識人たちが強い拒否感を示しますね。
加藤典洋氏の議論や、いわゆる右派知識人の一部、たとえば福田和也氏などの議論は、その空虚な状態への苛立ちを逆にナショナリズムへと吸収するようなペクトルとして作用していると思います。

*후쿠다 가즈야 福田和也(東京都出身 1960 년 ( 쇼와 35 년) 10 월 9 일 -)는 일본 의 문학 평론가 이다. 게이오 대학 환경 정보 학부 교수, 주식회사 BS 후지 방송 심의회 위원을 맡는다.
たとえば安重根という韓国の独立運動の闘士がいます。私が子どものころは、日本人で彼を知っている人はほとんどいませんでした。ところが最近は教科書に載ったり、彼に関する本がたくさん出たり、先日小沢一郎氏が韓国に行ったときその記念館を訪れたりしていますね。それがいいことだと単純には言えない。なぜなら、安重根は「国のために命を捨てるのは男子の本懐」とかいう遺書を残しているんですが、安重根はあの難しい時代に国家建設のために闘った、伊藤博文もそうだった、という、ナショナリズム同士の相互承認と連帯という構図がみえるからです。ある時点までは、日本の植民地支配がどれほど朝鮮民族から反発されていたかを想起するとして考えられていたはずの安重根が、今度は日本人自身のナショナリズムへの情動を正当化するために利用される。「私たちも安重根のように自国を愛さなければいけない」というように。
仮に「同じナショナリズム同士」という論理が成り立つとしても、加害者と被害者を同列に論じてはならないのではないでしょうか。しかも現在の日本は、当時アジアを侵略したナショナリズムの延長上に今もあるわけですから、「お互い」という言葉をそこで軽挙に使ってはならない。私たち朝鮮人も今日の時点では、安重根が時代的制約性としてもっていたナショナリズム的な限界を批判的に超えていく方向で問題を考えなくてはならない。そうでなければ、それぞれのネーションがそれぞれの自己中心的な理念を掲げて永遠に争うという未来像しか描けなくなるわけですね。そういうかたちでの「危険な主体」への誘因があると私は見ているわけです。









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