日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)②

탈 고마 니즘 선언 - 고바야시 요시노리의 '위안부'문제 (일본어) 단행본 - 2002/6/1 우에스기 사토시 (의)  Déclaration du problème de la «femme de confort» de De-Gomanism-Yoshinori Kobayashi (japonais) Livre-2002/6/1
Satoshi Uesugi (Auteur)

もっとも、日本に渡って来たからといって、母が安楽な生活を送ったわけではない。それどころか、母はわずか8歳から子守奉公に出なければならなかった。それに加えて、露骨な民族差別にされされた。ある大工の家庭に雇われたときには、母だけが土間の床几で食事をするように命じられたという。しかも、おかずはいつもタクアンだけだった。
「普通に遊んでいてもね、朝鮮人やからというだけで、もう一ぺんに(態度が)変わってね、「あァ、ニンニク臭いし遊ばんとこ」と、こうなる。・・・「チョーセン」てなんで悪いのかなァ、と自分で小さい時考えてました。私は学校に行ってへんし、着る物もええのを着せてくれへんし汚いからやろか、と思ったりしてましたけどね。・・・私もおかしなところがあるのか、(奉公先で)慣れて大事にされて、「お前はな、うちで真面目にようやってくれたら、箪笥、長もち買うてな、お嫁さんに行かしてあげるしな・・・」と言われるとね、何か不安になってくるんですね。・・・なんでかと言うとね、私は朝鮮人やのに、ウッカリしたら日本人になるのと違うやろか、・・・何かそんな気持ちが起きたんですね。」

そうやって母は、日本人の子どもたちが学校に通うのを横目で見ながら、幼い頃から奉公暮らしに明け暮れ、のちには「織り子」とよばれる西陣織の女工になった。同世代の在日朝鮮人女性のほとんどがそうであるように、母は小学校の門すらくぐったことがなく、晩年まで文字が読めなかった。父と一緒になり、太平洋戦争が始まってからは、父が徴用にとられるのを免れるため、京都府下の周山という村で小作農になったが、高率の小作料に加えて供出が強いられたため、筆舌に尽くしがたい極貧生活を嘗めた。
「畔ひとつ歩いてても、「うちの畔道、チョーセンが歩いてる」と、こうなりますやろ。それで、山ひとつ自由に行けしません。「チョーセンが山行って荒らす」とか言うさかいに・・・。昔は木を焚くさかいに枯木でも拾いに行きますやろ。そんな辛いときがありました。」
朝鮮憲兵隊司令部作成の「朝鮮同胞に対する内地人反省資録」(1933年)という文書がある(11)。そこで挙げられている78項目の事例をみれば、当時どれほどの民族差別が日常のこととして行なわれていたか、その一端をうかがい知ることができるだろう。以下はその一部である。「火事と聞いて駆け付けたが朝鮮の人の家と判って皆引き返す」「「鮮人(12)の腐れ頭を刈る器械はない」と散髪を断り追い返す」「停車場の待合室で待合中席を譲れと靴で足を蹴る」「商品券で物を買った鮮人客に「何処で拾ってきたか」と侮辱す」「落穂を拾った鮮女を泥棒と罵り足蹴にしたために流産す」「「ヨボ(13)臭い豆腐は買っても喰はれぬ」と侮辱した奥さん」「「ヨボは豚小屋の様な家ばかり」と敷地の貸与をはねつける」「「今日は日本に負けた日だ」と鮮童を罵る小学生」・・・
母は常々、あの日々を「死にもの狂い」で乗り越えてきたと語っていた。日帝時代の朝鮮人の暮らしは、朝鮮半島ではもとより、宗主国日本の国内にあっても、このように「奴隷なみ」といっても大げさではない。けれども、母と同郷で同じ年の宋神道さんは、あの日々、文字どおり「奴隷」の暮らしを強いられていたのである。何らかの偶然で運命の歯車がわずかに狂っていたら、それは私の母の体験でもありえたのだ。
宋神道さんは大田で子守をしていたとき、見知らぬ中年女性に騙され、新義州で「コウ」という朝鮮人の男に売り飛ばされた。中国の天津までは鉄道で、そこからは「大きな汽船」に乗って、連れてこられたところが武昌だった。1938年、宋さんが16歳のときのことだ。日本軍は、その前年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに本格的な中国侵略戦争を開始し、前年末に南京で大強姦と大虐殺を起こしていた。30万人の大兵力を動員した武漢作戦によって、日本軍が武昌を制圧したのがこの年10月27日、宋さんが武昌に到着したのは「寒いときだった」というから、11月か12月だっただろう。武昌への途中でも、到着してからも、宋さんはたくさんの死体を目にしたというが、硝煙と血の匂いが立ちこめる最前線に送り込まれたのだから無理もない。
朝鮮からいっしょに連れてこられて来た7,8人の女性とともに、宋神道さんが放り込まれた広い建物は、「世界館」という日本軍専用「慰安所」だった。そこが何をするところかも分からず、初潮すらまだだった16歳の宋さんは、しかし、すぐにむごい現実を思い知らされなければならなかった。
最初に「軍医の橋本少尉」が「下の検査」をした。検査が終った晩、その軍医が部屋にきた。
「遊びにきたの。・・・顔見たらやっぱり検査のとき見た顔だから、いや、この男、いったい何をするんだべなって、おっかなかったの。・・・こっちへ来いって、それが引っ張ってもだめだって、ういういと泣いたの。・・・半分は怖いし、半分は悲しいし、言葉は分からないし、大変だったよ。」
夢中で抵抗したしたところ軍医はあきらめて立ち去ったが、「帳場のサイ」や「コウ」に手荒く折檻された。「髪をひっぱって殴ったり、蹴っとばしたり、鼻血が出るくらい殴ったりしたの。・・・お前は借金背負ってきたんだから、借金払っていけだとかさ」。
宋神道さんは、そうやって「慰安婦」という名の日本軍性奴隷にされたのだ。
「入れ替わり立ち替わりにね。・・・言うことをきけだとか何とか言って、またいじめるんじゃないかと思って、気持ちが半分おっかなかったの。・・・とにかく言葉が通じないから、もう大変だったよ。とにかく嫌なら嫌と今ならばしゃべれるけど、俺は無学でしょう。学校も出ていないから。だから字も読めないし、言葉も通じないし、・・・裸なれだの、へのこなめろだのさ、いろんな軍人がいました。そういうやつらが一杯いました。・・・入れ替わり立ち替わりね。表のほう蹴っとばしたり、早くやれだの何のかんのって、外でせんずりかいてるやつもいるし、様々な人間がいました。帳場には殴られる。軍人たちには殴られる。本当に殴られ通しだよ。だから気持ちも荒くなるの、今は無理もないの。朝の7時から夕方の5時まで兵隊時間だから。それから5時から8時までが下士官、士官。それから8時から12時までが将校の時間。・・・飯食う時間がないんだってば。若いからいい。普通の人間だったらもう死んじまったよ。70人くらいとさせられたこともあるんですよ。・・・生理があろうが、肺病がたかろうが、マラリアであろうが、兵隊を相手にすることがきまっているの。」
逃げ出そうにも地理も分からず、文字が読めず、中国語はおろか日本語も満足にしゃべれず、まったくの無力で、誰一人として庇護者もいなかった。強いられる行為を拒めば容赦なく殴打され、自暴自棄になって暴れる日本軍人の刀で傷つけられた。その後遺症で宋さんの片耳は聞こえないし、右脇腹と肺の付け根には刀傷が残っている。
宋さんは武昌での3年間ののち、漢口の海軍慰安所を経て、岳州、宣昌、沙市、応山、威寧、長安、蒲圻などの慰安所を点々と連れまわされた。これらの都市はいずれも日本軍の作戦区域内であり、司令部や主要戦線が置かれた重要拠点である。その点で宋さんの記憶は正確であり歴史の事実にも整合すると、歴史学者の藤原彰氏は証言している(14)。日本軍による中国人の惨殺場面を強制的に見せられたこと、山の斜面に掘った人がひとり入れるくらいの穴で「慰安」を強いられたことなど、いまだに公開の場所で言葉にすることができない過酷な経験もあったという(15)。そんな性奴隷の生活を日本敗戦まで7年もの間、続けさせられたのだ。

こうして宋神道の法廷陳述を拾い書きしているだけで、胸が詰まってくる。しかも、ここに語られていることは、宋さんが実際に経験した地獄の何百分の一に過ぎないのである。宋さんはその記憶を封印することによって、ようやく生き延びてくることができた。忘れてしまいたかった、思い出したくなかった、それでも勇気をふるって法廷に立ち、ここまで語ってくれたのである。それを「金ほしさ」に騒ぎだしたのだと罵る者がおり、その野卑な罵声にうなずいている多くの者がいる。これは、いかなる世界であろうか。
憤り、悔しさ、悲しさ、申し訳なさ、それらすべての入り混じった思いに胸が詰まる。・・・16歳の少女に加えられた凄まじい暴虐に、国家意志によって、組織的に、何千、何万という女性たちに対して、こうした暴虐が加えられたことに、それが当たり前だと考えていた植民地支配者の民族差別と性差別に、それ以上に、現在なお、それを当り前だと考えて疑わない人々がこんなにも多くいることに。「慰安婦」の存在を知識としては知っていながら、こんなにも長い間、具体的なことは何もしてこなかった私自身の罪深さに。そして、日本の国家犯罪の「手先」となって同胞の女性を売買し、殴打し、搾り取り、寄生虫として私服を肥やした「サイ」や「コウ」、その他多数の朝鮮人犯罪者にも。
朝鮮人の「手先」がいたからといって、「元締め」である日本国家の責任はいささかも減免されない。「「慰安婦」を連行した業者の中には「朝鮮人」もいた」などという、民族差別意識につけこんだ責任のがれは許されてはならない。同時に、いかに「元締め」の罪が大きかろうと、「手先」には「手先」なりの罪がある。「元締め」の罪を追及するためにも、これら朝鮮人内部の犯罪者の追及は私たち朝鮮人自身の手でやりとげなければならない。
日本敗戦時、宋神道さんたち「慰安婦」は戦地に捨てられた。映画『ナヌムの家』(ピョン・ヨンジュ監督)には、当時捨てられたままいまも中国で暮らす朝鮮人元「慰安婦」が、たどたどしくなってしまった朝鮮語で故郷の歌をうたうシーンがある。
宋さんは現地除隊した元日本兵の誘うままに結婚し、この元日本兵に連れられて日本へ渡ってきた。しかし、博多港にたどり着いたとたん、元日本兵は宋さんを捨てたのだ。元日本兵は戦犯として処罰されることを恐れ、民間人を偽装するため宋さんを利用したものとみられる。見知らぬ異国日本にただ1人放り出された宋さんが、さらにどれほどの苦難を嘗めなければならなかったか、それをここに詳述することはできない。自殺をこころみて死にきれなかった宋さんは、ある在日朝鮮人男性に救われ、その男性とともに東北地方の一地方で戦後日本を生きてきたのである。
宋さん自身は元「慰安婦」であることを固く秘密にしてきた。「やっぱり恰好悪いわ。風呂さ行ったりすると。・・・それで自分の縫い物の針でとろうと思ってつついたんだけど、なかなかとれてこないもの。・・・大きい絆創膏はってれば見えないべちゃ。・・・そういうふうに隠れ隠れして、それで風呂入ったの。」宋さんは武昌の慰安所で金子という名前を付けられ、その名を左腕に刺青されていたのである。
「引揚げ手当て」をもらおうと役場を訪れ、役人になぜ戦場に行ったのかと問われても「慰安婦」だったと答えることはできなかった。しかも、その手当ては日本国籍のない者には交付されないものだったのだが、宋さんには、そんなことは知るすべもなかった。
「あんまり男とやりすぎてお前のべべ(性器)にはタコがよってるんだべ」「お前の穴はバケツみたいに大きいんだってな(16)」-そんな、毒を塗ったトゲのような言葉が浴びせられた。慰安所体験をもつ中国戦線帰りの元兵士が推測をつけ、いつしか、宋さんは元「慰安婦」だという噂が地域に広まったのだ。
「町会議員の平山」に「朝鮮さ、帰れ、帰れ」と言われ、宋さんは悔しさのあまりに殴りかかったこともあるという。「朝鮮さ、帰れ」-ああ、何と聞き慣れた台詞だろう。
私自身も幼い頃、子どもどうしのケンカになると最後はかならず「チョーセン、チョーセン、帰れ、帰れ」とはやされた。「チョーセン、チョーセン、パカ、スルナ、オナチメシクテ、トコチガウ(朝鮮、朝鮮と馬鹿にするな、同じ飯食ってどこが違う)と、近所の学級の子どもたちが大声で歌いはやした。大人たちが教えなくて、どうして子どもがそんな台詞を知っているだろう?
「チョーセン」とは何のことか、なぜ「チョーセン」である自分がこの日本にいるのか、どこに帰れというのか、何もわからないまま、泣くまいとして口をへの字にまげて帰宅すると、何も言わないうちに母はすべてを見通して、無条件に、ただ無条件に私を抱き締めたものだ。ことの経緯を聞くでもなく、ケンカの理由を問うでもなく、理由の如何にかかわらずケンカはいけないなどと退屈な市民道徳を諭すこともなく、ただ無条件に私を抱き締め、母は低い声で私の耳に何度も繰り返した。
「チョーセン、悪いことない、ちょっとも悪いことはないのやで」。その母の力で、私はまた、真っすぐに立つことができたのである。
どうして母は、あれほど揺るぎのない態度で「チョーセン、悪いことない」と言い切ることができたのだろうか?自分自身も幼いときに日本に渡ってきて、差別と侮蔑にさらされ、学校にも行けず、朝鮮民族の文化や歴史を知らず、文字すら読めなかった母が。
そう上、母は後年、息子ふたりを韓国の監獄にとられることになって、再び何度も息子たちを抱き締めなければならなかった。「ペルゲンイ(アカ)、悪いことない」と。
母に守られ、母のあらゆる犠牲の上で、いわば母の肉を喰らって、私は学校へ通い、文字を覚え、「知識」なんか身につけ、いつの間にか小ざっぱりした中産階級のなりをして、きいたふうな口をきいている。

母が世を去った2年後、まだ獄中にあった兄のひとり(徐俊植)が母の夢をみたと手紙に書いてよこしたことがある。夢の中の母はバスの停留所でひとり立っていた。嬉しくて駆け寄ってみると、母は鼻を赤くして泣いていた。
「お前たちがみんな立派な人になってくれるようにと大学に入れてみたら、大学で難しい勉強をしてきては、みんなこの母さんを無学だと言って蔑むではないか。お前たちは学のない母さんを恥に思っているのではないか。だから私独りでどこか遠いところへ行って暮らすつもりだ(17)。」
兄は夢の中で泣き、夢から覚めて『イザヤ書』53章を思い出したと書いていた。
宋神道さんを思うとき、私は母を思う。母を思うとき、宋神道さんや多くの元「慰安婦」を思う。侮られ、人に捨てられた人。顔を覆って忌み嫌われる人。私たちの病を負い、私たちの悲しみを担った人。この人を、私たちは尊ばなかった。植民地支配と戦後日本の差別社会の中で、民族分断体制と反民主強権政治の下で、つねに踏みつけにされ、軽んじられ、小突きまわされるように生きてきた人。富も地位も権力も知識も持たなかった人。だからこそ、まさにその故に、「自分たちは何も悪くない」と、一点の曇りもなく信じていることができたのだ。母たちは、その打たれた傷によって私たちを癒したのである。
いつの間にか母のことなど忘れかけていたこの身勝手な息子が、今度は、無条件に母を抱き締めるべき時なのだ。ことの経緯など問わず、「狭義の強制連行」があったかどうかなどと詮索することなく、ただ無条件に、日本による朝鮮「併合」そのものが「強制」だった。あの時、すべての朝鮮人が大日本帝国の臣民へと「強制連行」されたのだ。それ以上、どんな詮索が必要だろうか。母に向かって投げ付けられる石つぶてをこの身で受けとめながら、「正史」が黙殺し隠蔽してきた母たちの歴史のために、母たちとともに、また母たちに代わって、息子である私が声を発さなければならないのである。文字なんか覚え、知らず知らず心身を「知識」に侵されてしまったこの息子は、もはや母たちのようにひたすらに無垢であることはできないが、せめてその文字と「知識」を振り絞って、母たちを抱き締める力に変えたいと思う。
そして、私は知っている。こうして力んでみたところで、実際には私が母たちのために証言しているのではなく、今でも母たちが身をさらして私たちのために証言しているのだということを、宋神道さんがそうであるように。

(1) 呉己順さん追悼文刊行委員会編「朝を見ることなくー徐兄弟の母 呉己順さんの生涯」(社会思想社現代教養文庫、1981年)。以下、呉己順の言葉の引用は同書による。(2) 日本帝国主義が朝鮮を植民地支配していた時代を指す。朝鮮語の慣用的な表現。(3) 朴慶植「朝鮮人強制連行の記録」(未来社、1965年)122頁
(4) 「朝日新聞」1996年6月5日 (5)自治大学校史料編集室作成「山崎内務大臣を語る座談会」(1960年) (6)「週刊新潮」1996年12月19日号 (7)在日の「慰安婦」裁判を支える会発行の冊子「宋さんといっしょにーよくわかる在日の元「慰安婦」裁判」1997年5月16日。以下、本文中に引用した宋神道さんの言葉は同冊子による。(8)「在日の慰安婦裁判を支える会会報」創刊号、1993年5月28日 (9)川田文子「陳述書」(1997年10月15日、東京地裁に提出) (10)徐京植「もはや黙ってるべきではない」「分断を生きるー「在日」を超えて」(影書房、1997年)所収。この文章は「自由主義史観」「新しい教科書をつくる会」等の動きを憂慮する在日朝鮮人のアピール」(1997年12月20日)への賛同を呼びかけたもの。同アピールには「朝鮮人」1184名、それ以外9百名が賛同した。(11)宮田節子氏のご教示による。(12)朝鮮人に対する蔑称。(13)同右、日本語の「もしもし」や「おい」にあたる。朝鮮語の呼びかけが転じたもの。(14)藤原彰「鑑定意見書」(1997年10月4日、東京地裁に提出)(15)川田・前掲「陳述書」(16)同右 (17)「徐俊植 全獄中書簡」(西村誠訳、柏書房、1992年)220頁 (初出:「ナショナルヒストリーを超えて」東京大学出版会、1998年5月)

民族差別と「健全なナショナリズム」の危険
*本稿は、1997年9月28日、東京で開かれたシンポジウム「ナショナリズムと「慰安婦」問題」(日本の戦争責任資料センター主催)における私・徐京植の発言の記録である。当日のパネラーは私のほか、上野千鶴子、吉見義明、高橋哲哉の各氏であり、この4名の基調報告をうけたパネル・ディスカッションには金富子氏が加わった。司会は、西野瑠美子であった。
本稿の(1)は私の基調報告。(2)はパネルディスカッションでの私の発言を抜き出したものである。後に続く議論を読者によりよく理解してもらうため、このような形式であれ再録しておくことが望ましいと判断した。今回、言葉を補った部分を[ ]で示したほか、最小限の字句上の修正をほどこした。同シンポジウムの全記録は1年後の98年9月、「ナショナリズムと「慰安婦」問題」(青木書店)との書名で刊行された。
(1) 基調報告
私に与えられた時間で、どこまでお話できるか分かりません。峡の人のパネラーのなかでは私が唯一アマチュアだと思います。アマチュアの利点を活かして、いろいろ大雑把な暴論を述べようと思います。
「自由主義史観研究会」「新しい歴史教科書をつくる会」の主張は徹底的な民族差別、レイシズムそのものであるということを詳しくお話ししようと思います。ただ、このような主張が出てくる、たとえばフランスであったらこれは人種対立を煽った罪という法律に触れ、告発されかねないような言説が平気でばらまかれていることの背景には歴史的、現在的な日本社会そのものの問題があるということを指摘しなければならないと思います。直接に「新しい歴史教科書をつくる会」でなくても渡部昇一とか黒田勝弘とか田中正明とか、あるいは韓国から来た呉善花とか、こういう人たちによってここ6,7年くらいの間、執拗に日韓両国民の対立を煽るステレオタイプな言説が流布されてきました。そういうものの土台のうえにこの「つくる会」のような言説があると私は考えております。
ご紹介のように私はいま、大学でも教えておりますが学生諸君の「レポートの」なかに、たとえば、「朝鮮人は過去にこだわりすぎていると思う。朝鮮人の受けた仕打ちは許されるべきではないけれど、しかし当時は世界全体が狂っていたんだ。過去の恨みを忘れないことが朝鮮では美徳であるらしいが、それを水に流して新たな未来に目を向けてほしい」とか、あるいは、「恨まれるだけのことを旧日本帝国はやったと思うが、しかし以後の世代が日本に対して不信感を抱いている理由の一つには国民性の違いがあると思う」とか、「戦争を知らない私個人の意見としてはもううんざりだ。戦争の賠償責任は国家として果たすものであり個人レベルでは問題ではない、私は好き好んで日本人に生れたわけではないのになぜこのような非難を受けねばならないのか理解しがたい」とか・・・いま、会場から笑いがもれたわけですが、これが多数の日本の若者の意識である。そういう意識のマジョリティのなかで朝鮮人の教師としての私は孤立してもがいているという感じをもっています。

このような新しいタイプの、つまり朝鮮人は恨みが強い国民性があり謝罪謝罪と言い立てる、むかつく、というような差別感が醸成されている。これはまた小林よしのりたちによって2度利用されている。たとえば『新ゴーマニズム宣言3』というマンガ本を苦痛に耐えて私は読んだのですが、そこには読者からの励ましの手紙が収められていてその手紙の一つは在日朝鮮人からのものです。「朝生テレビ(TV朝日系列の深夜の討論番組『朝まで生テレビ!』)に出てくるような反日的日本人のおかげで韓国人である自分は周囲から差別される、だから小林先生がんばってください」という、この手紙が在日韓国人からきたということで2度利用する。同じようなことは藤岡信勝もやっている。
歴史的に振り返ってみますと、当然のことですが植民地支配と民族差別、レイシズムは密接不可分な関係にあります。植民地支配とは平然と他者の財産や生命を奪い、奴隷労働に駆り立て、場合によっては殺すというシステムがありますから、その他者は自分たち以下、人間以下である必要があるわけです。しかも被差別者の心は差別者には見えない。たとえば日帝の朝鮮支配の初期に憲兵政治という時代がありましたが、村々に日本人の憲兵がいて、これが絶大な権力を振るっている。一例を挙げると衛生検査というものがあります。「衛生」という「文明」を朝鮮人に普及する任務を帯びているということで、憲兵が村々の家に勝手に入って、汚いといって村人を小突き回す、殴る、こういうことが平気で行なわれた。
当時は「朝鮮笞刑令」という法律があり、それは即決令で、それに該当するような比較的軽い犯罪は鞭打ちで処罰してよろしいというものです。実際は命にかかわるような重罰ですが、しかもその笞刑令は朝鮮人にのみ適用するということを法律にうたっている。鞭打つ人間と鞭打たれる人間、その差別を平然として受け入れている。これが植民地支配というシステムでもあるわけですね。そしてそのようなメンタリティがずっと歴史的に醸成成されてきました。

ここに「新しい朝鮮」という資料がありますが、1944年に朝鮮総督府が出したものです。ここから一つだけ例を挙げますと、「労務報国を誓う」というくだりがあって、「由来、半島における産業立地の有利な点として労務者の豊富低廉が挙げられてきたが今や戦局の進展は益々わが国の労務資源の給源地としての朝鮮の使命を加重しつつある。」こういう意識の下に多くの朝鮮人の男が、もちろん女子挺身隊勤労令によって女もですが、日本の戦争体制に動員されました。動員しつつも、「ところで従来、内地における朝鮮人労務者の評判は一般に決して良くないことは事実である。その欠点として挙げられるところは恩義を感じないこと、忍耐力の弱いこと、怠惰で責任感の薄いこと、あるいは衛生観念に乏しいことなどが数えられ、内地人労務者に比して能率が劣る」と書かれています。被支配者に向かって、支配者に対する恩義の感情が乏しいということを民族的な欠点として挙げ、それをほとんどの日本人が疑わないこという現実、そのような意識がステレオタイプとして日本社会のなかに残され、しかもそれが一定の基盤をもっているという現実がいまなおあります。植民地資源の収奪だけではなくて、たとえば、同一労働に対して半分の賃金しか与えないことを当たり前だとする民族差別賃金がありました。いわゆる植民地超過利潤です。差別は帝国主義植民地支配の利益のためにぜひとも必要なシステムであったわけです。
そのような歴史的偏見と今日の新しい偏見が一定の歴史的社会的背景において結びつき再び台頭している。私は在日朝鮮人としてこの藤岡らの動きを黙って見ていることはできないという思いで、ある文章を書きました。(「もはや黙っているべきではない」『分断を生きる』影書房、所収)そこで私は「もと慰安婦の人たちは私の母だ。母を辱めるな」、つまりあの人たちは金欲しさ名乗り出ているのだという全く剥き出しの偏見が語られている現状を容認するな、ということを述べたわけです。このことに対して、ある日本人女性から、お前の論の立て方は「朝鮮人」という主体でこの問題を論じている、そのように「朝鮮人」という民族的主体をたてるのはおかしい、民族対立に繋がる危険があるのではないか、という違和感が表明されました。私はこの意見に直ちに賛成はしませんけれど、重要な問題を含んでいると思います。いまは時間がありませんが、のちほど時間があれば直接にこの点に関して述べたいと思います。

私が母を辱めるなと言ったその具体的な事情、たとえば在日の元「慰安婦」の宋神道さんという方がいらっしゃいますが、この方は1922年に忠清南道の論山郡というところで生れています。これは私の母の故郷でもあります。私の母は1920年生まれと戸籍上なっていますが、これはあいまいで、たぶん宋さんと同じ年ではないかと思います。2人とも極めて貧困な環境に育った。宋さんの場合にはお父さんが亡くなった。時代的背景は詳しく述べませんが産米増殖計画という農村に対する系統的収奪が行われていた。農民層の分解が急速に進展していた時期でもあります。一方、私の母の家は、母の父つまり私の祖父がいなくなった。それは実は、母のことばで言えば、勤労奉仕の最中に鍬だけ家に放り込んで逃げたからなんですね。どこへ行ったかというと、働き口を求めて日本に来ていたんです。後ほど連絡があったので母も日本に来た。日本に来て在日朝鮮人としての生活を始めることになります。しかし、そのときに私の祖父が「そのまま」いなくなるとか病気で死ぬとか、そんなことはいくらでもありえたわけですね。そうすると母も宋神道さんみたいに父親もいないまま極貧の農村で暮らすことになっていた。その後、宋神道さんは「慰安婦」としてまさに筆舌に尽くしがたい生活を送ってこられた。日本に来られて今でもベーベー(女性性器)が、バケツのようになっているとか、生活保護を貰っているくせにとか、朝鮮に帰れとか、蔑まれ続けている。これは母の歴史、物語そのものでもあるわけです。多くの朝鮮人の物語そのものでもあるわけです。
この「物語」といくことは実は難しい問題であって、先ほど吉見(義明)さんがおっしゃったように坂本多加雄たちはとくに、歴史は物語である、国民形成の物語であるという歴史観を主張している。しかし、私が言っている物語はそういうものではなく、国家のそれではなくて、国民という枠組みから排除され抑圧されてきた民衆、文字も読めず書けず、語ることも許されず、見下され、小突き回され、搾り取られ、打ち捨てられた民衆のその物語ということです。このような物語において、私は母を辱めるなと述べたわけです。
もちろんこうした物語には往々にして、容易に国家・国民の物語に回収されてしまう回路が用意されている。歴史学の発想そのもののなかに、上野(千鶴子)さんが批判なさったように、もうその回路が潜んでいると言えるかもしれない。しかし私はそのことに十分備えつつも、このような民衆の物語をもっと掘り起こして注目していきたい。自分がアイデンティティをそこに求めたいと考えています。

さて、この「慰安婦」問題については強制性ということをめぐって、いわゆる銃剣を突きつけた軍による直接の強制があったかなかったか、慰安所にいたことが強制なのか、といった議論があります。私はその議論の必要性を否定はしませんが、ここで根本的に求められている証拠は実は植民地支配そのものが全体として強制だったという観点だと思います。朝鮮人は強制的に大日本帝国臣民に練り入れられた。その当時行なわれていた法によってあるものは適法でありあるものは違法であったという議論は、往々にして実は、土台の重要性、根本的な規定性をぼかす方向に働くということなのです。「新しい歴史教科書をつくる会」の展開している議論は、当面する問題を戦争犯罪という枠組みに囲い込んで、しかもそれを事実の論証というかたちで否認する、あるいはそれを認めざるを得ない場合でも、他の国もやっていた、あらゆる戦争につきものだというかたちで相対化するという企みに貫かれている。論争のパラダイムを植民地支配そのものの罪、あるいは帝国主義そのものの罪にまで深めていかなければこの問題の本質をつくことはできないと思うのです。慰安所でいわゆる強制がなくてもそれは本質的に強制なのです。
これを男の側に置き換えますと、70数万人の朝鮮人の男が日本に連れてこられて働かされたた。それぞれに日本政府が発した「朝鮮人労務者移送に関する件」あるいは「国民徴用令」などの行政的法的手続きによって連れてこられています。そこに銃剣を突きつけての強制があったかなかったかなどというのは木を見て森を見ない議論であって、その法律そのもの、制度そのものの違法性が論じられなければならないと強調したいのです。朝鮮人に対して学徒志願兵制度というものもありました。しかし、その志願すらも植民地支配の下では強制だということです。そしてさらに土地の収奪や財産の収奪が始まって、労働力の収奪だけでなく、治安維持法による独立運動に対する弾圧というものがあります。無数の人たちがその犠牲になりました。その論理は「封土 窃」というのですね。国を盗み取る行為だから治安維持法違反だという理屈で、多くの独立を指向した朝鮮人が弾圧を受けました。これについては真相究明や名誉回復や補償の議論はまだまったく起こっておりません。私は、植民地支配そのものの違法性とその根本に横たわっている強制性というものに視点を広げて、近い将来にその弾圧被害者への謝罪や補償を求める方向に進まねばならないと思っております。
いま言ったように植民地化それ自体が強制であるということに対しては実は議論があって、日本国政府は従来、朝鮮の併合は合法的であり当時としては正当であったという議論を繰り広げ、今もその立場を維持しています。1905年の日韓保護条約が合法か不法かという議論では、国の代弁者である皇帝の署名や捺印があるかないかという議論が繰り返されているわけですが、当時の国際法では国の代弁者を直接ピストルなどで脅して署名させた条約は不法であるが、国そのものに強制力が加えられた場合はこれを不法としない、そういう規定があった。それに照らして合法か不法かという議論が交わされている。これはこれとして無意味とは言いませんが、しかしそのようなルールの枠組み自体が、実は国際社会を当時形成していた帝国主義諸国のルールであるということですね。そのルールから排除された人たちの名誉回復と補償の要求が今日、問題になっているわけなのです。
世界的に見ると、第二次世界大戦後にエチオピアとかアルバニアとか、イタリアの支配を受けた地域がイタリアに対して植民地支配そのものの謝罪と賠償の要求をしたことがありますが、これは国際社会から黙殺されています。このような意味では帝国主義諸国の植民地支配全般に対する謝罪とか補償とか賠償とかは、まさに日本だけの問題ではなくて全世界的に帝国主義支配がまだ終っていないという問題として私たちの前にあるわけです。
そのようなリアリティをもって日本の朝鮮支配そのものがもっている不法制・強制性というところまで視野を広げていくことが今日求められている重要な視点ではないかと思います。

これを男の側に置き換えますと、70数万人の朝鮮人の男が日本に連れてこられて働かされた。それぞれに日本政府が発した「朝鮮人労務者移送に関する件」あるいは「国民徴用令」などの行政的法的手続きによって連れてこられています。そこに銃剣を突きつけての強制があったかなかったかなどというのは木を見て森を見ない議論であって、その法律そのもの、制度そのものの違法性が論じられなければならないと強調したいのです。朝鮮人に対して学徒志願兵制度というものもありました。しかし、その志願すらも植民地支配の下では強制だということです。そしてさらに土地の収奪や財産の収奪が始まって、労働力の収奪だけでなく、治安維持法による独立運動に対する弾圧というものがあります。無数の人たちがその犠牲になりました。その論理は「封土 窃」というのですね。国を盗み取る行為だから治安維持法違反だという理屈で、多くの独立を指向した朝鮮人が弾圧を受けました。これについては真相究明や名誉回復や補償の議論はまだまったく起こっておりません。私は、植民地支配そのものの違法性とその根本に横たわっている強制性というものに視点を広げて、近い将来にその弾圧被害者への謝罪や補償を求める方向に進まねばならないと思っております。
いま言ったように植民地化それ自体が強制であるということに対しては実は議論があって、日本国政府は従来、朝鮮の併合は合法的であり当時としては正当であったという議論を繰り広げ、今もその立場を維持しています。1905年の日韓保護条約が合法か不法かという議論では、国の代弁者である皇帝の署名や捺印があるかないかという議論が繰り返されているわけですが、当時の国際法では国の代弁者を直接ピストルなどで脅して署名させた条約は不法であるが、国そのものに強制力が加えられた場合はこれを不法としない、そういう規定があった。それに照らして合法か不法かという議論が交わされている。これはこれとして無意味とは言いませんが、しかしそのようなルールの枠組み自体が、実は国際社会を当時形成していた帝国主義諸国のルールであるということですね。そのルールから排除された人たちの名誉回復と補償の要求が今日、問題になっているわけなのです。
世界的に見ると、第二次世界大戦後にエチオピアとかアルバニアとか、イタリアの支配を受けた地域がイタリアに対して植民地支配そのものの謝罪と賠償の要求をしたことがありますが、これは国際社会から黙殺されています。このような意味では帝国主義諸国の植民地支配全般に対する謝罪とか補償とか賠償とかは、まさに日本だけの問題ではなくて全世界的に帝国主義支配がまだ終っていないという問題として私たちの前にあるわけです。
そのようなリアリティをもって日本の朝鮮支配そのものがもっている不法制・強制性というところまで視野を広げていくことが今日求められている重要な視点ではないかと思います。


*요시미 요시아키(일본어: 吉見義明(山口県出身, 1946년 ~ )는 일본의 역사 학자, 주오대학교 상학부 교수이다. 전공은 일본사. 일본 전쟁책임자료센터의 대표이다. 일본군의 위안부 문제와 독가스 전쟁 연구자로 널리 알려져 있다.
*上野千鶴子(1948年7月12日-),日本社會學家。出生於富山縣中新川郡上市町,在京都大學社會學科畢業。上野是日本著名研究女性解放理論的女性主義者,在1980年代的日本學術界打出名堂,與淺田彰、今村仁司、栗本慎一郎、岸田秀等學者齊名。同時亦任東京大學社會學教授。
(2)パネルディスカッションより
[a] いま、上野(千鶴子)さんから質問がありましたし、私のところにも会場から質問が寄せられています。一つは「「慰安婦は私の母だ。母を辱めるな」という言説は国民国家の罠に陥る危険があると思うのになぜそう言うのか、それをアイデンティティとすることは無条件に共感することと捉えるが、もしそうならばそれはなぜか」。もう一つは、「「慰安婦」問題を戦争犯罪の枠に閉じ込めるなということがよく分からない。ようやくそれは国際的な女性運動の努力で戦争犯罪とされたのである。朝鮮だけを考えるのはナショナリスティック過ぎないか」。
先ほど言うことができなかったことを若干お話しして、その後に質問にお答えしようと思います。私は先ほど、私の学生たちの書いた文章をいくつか引用しましたけれど、簡単に言うと、悪いのは戦争であって自分ではない、悪いのは昔の人であって自分ではない、悪いのは日本人だが自分は自分を日本人だと思ってはいない、可哀相だが自分がそのことで損をする理由はない、補償に応じているときりがない。・・・こういう心理に集約できると思うのです。
西谷修さんは加藤典洋さんとの対談で、その辺のところをこう述べています。
「元従軍慰安婦の人たちが出てきて、日本は朝鮮に対してこんなことをした、恥じ入れといわれてもこまる。ただ、それは私にも関係がある。その関係が私を放してくれない。そこで大変居心地悪くなり、ある種の怒りを感じる。・・・われわれ戦後生まれの人間は、少なくとも私は、自分を日本人だと主張したりすることは一切してこなかった。それはできるだけナショナリズムと距離をとろうという意識でもあると思うけど、私は日本に生れて日本語をしゃべっている、だけど日本人でなくともかまわないんだ、という意識でやってきた。・・・「日本人は」と言われると、なぜその「日本人」の中におれを括り込まなければいけないんだ、と言ってきた。/ところがまさに戦後50年で、個々人に担われている生きた記憶が消えようとするときに、そして彼らが事実の承認と謝罪を求めているときに、それに答えうる「主体」を立ち上げるという要請に迫られている。」(「世界戦争のトラウマと『日本人』」『世界』1995年8月号)私はこの発言の前半部分はかなりうまく現実を述べていると思います。
韓国の「慰安婦」問題に関して運動をしてきた人たちから、まるで日本はおばけのように実体がなくて誰に向かって自分たちが問いかけるのか、誰がそれに答えるのかということがわからないという言葉をしばしば聞いたことがあります。象徴的なエピソードを一つ紹介しますが、『ナヌムの家』(韓国人女性監督ピョン・ヨンジュによる元「慰安婦」をテーマにしたドキュメンタリー)という映画が上映された折、右翼が消火剤を撒いてそれを妨害するということがありました。その時、その上映運動をしている人たちが上映を全うするための声明を出して記者会見を開きました。私はただちにそれに賛同して、一観客として、そういう時はたくさん行ったほうがいいんだという親しい友人の呼びかけに引かれて、朝早く会見場に行きました。しかし私はそこで、ある当惑を感じた。壇上に並んだ人のほとんどが、映画監督の土本典昭さん以外のあらゆる人が言ったことは、「『ナヌムの家』は特定の国を指した映画ではないんだ。普遍的な戦争と性暴力を語っている映画なのだ。それなのにこれに対して右翼国家主義者が反発している。だから言論の自由を守らなければいけないんだ。表現の自由を守らなければいけないんだ」、こういう話です。

しかしそうだろうか。もちろん、映画製作者の意図、あるいはそこに込められたメッセージは普遍的なものであるけれども、しかしそこにおける日本人の当事者性をそういう形で解除していんだろうか。日本がかつて犯した戦争犯罪、現在それがあらわになってきている、そのことに対する対処がいま日本人に問われているという認識で、これを受けとめなければいけないのではないか。映画監督の土本さんだけが、自分はかつて北方領土のことを映画にしたときに右翼から妨害にあった、まさに右翼は日本の弱点をよく知っている、ということを言った。それ以外の人はすべて、いわば自分自身の置かれている日本人としての立場を解除して、普遍的な言葉を普遍的なメッセージとして語った。しかもそれを、この映画上映を全うしたいという呼びかけのほとんど唯一の内容として。
これでいいんだろうか、このまま黙っていていいんだろうかと思っていた矢先にある人がそこで手を上げた。名の知れた新右翼というか、民族派の評論家ですが、彼が壇上の人たちに、あんたがたはおかしい、これはなにかそういう抽象的、普遍的人種の問題ではないんだ、日本が問われているんだ、自分は右翼のなかでは少数派だけど日本としてこれを受けとめなければいけないと思う、こう言ったんですね。私はこれを、「空虚な主体」と「危険な主体」との対峙というふうに思うのです。もちろん、私はどんなことがあっても、たとえ空虚でも、壇上にいる人たちの側に立ちますが。                        

こういう分離状態というのは今日、この「慰安婦」問題に限らず、戦後補償の議論のなかで私がしばしば感じている問題であって、先ほど言った西谷修さんの提起はその的を側(そば)を射ている、しかし的を射外していると私は思うんですね。国家国民という主体が、内向きの自己と外向きの自己に分裂しているという加藤典洋氏の えは、一見非常に巧妙ですけれど、そこに私は「奸計めいたもの」を感じるわけです。これは日本という実体的なもの、一つの人格や身体としての日本が分裂しているんだという言説になっている。しかしこれはごまかしです。ところがこのごまかしに多くの人が引きずられている。言うまでもないことですけれど、一つのネーションという場のなかには一つの身体が充満しているわけではありません。たとえばフランスには王党派もいれば共和派もいる。それぞれのフランスがある。私は「別の日本」というものの構想の貧困さが、このような日本の自己分裂という言説に多くの日本人が説得されてしまう状況を作ってしまったと思うのです。端的に言えば加藤典洋氏が自分自身の自己分裂を語っているだけなのに、多くの日本人が、赤坂憲雄氏とか池澤夏樹氏とかが自分自身の分裂を説明してもらったかのように「加藤氏へのレトリックに」引かれている。これはまさに、私が言った空虚な主体、主体の不在状態が危険な主体の方へと誘引されていく現実を表わしていると思うのです。
「日本人としての責任」ということについて高橋哲哉さんはいろいろおっしゃいましたけれど、私は基本的には賛成しながら、次の点を付け加えなければならないと思います。つまり、一例をあげますと、鹿島建設が戦時中に朝鮮人・中国人を強制連行して働かせてその補償をサボっています。そのサボっているという現実はいま、ここにある現実ではないのか。私は学生によく尋ねますが、あなたはその鹿島建設に就職しないのか。その下請け、取引先、メインバンクに就職しないか。あなたがそこに就職した時、鹿島の企業責任を問う覚悟はあるのか。言うまでもなく、就職するという分かりやすい関係だけではないですね。あなたの属している自治体が鹿島に発注しているのではないのか、鹿島に利益をもたらしているのではないか。鹿島というのはたんなる例ですが、日本の旧財閥系企業や今日の大手ゼネコンはほとんどずべてが植民地支配と戦争で大きな利益を得た。そこで行なわれた本源的蓄積とインフラ構築の土台のうえに戦後日本の繁栄があり、あなた方のひとりひとりはその受益者ではないのか。その特権の構造のなかにいるのではないかということなのです。
吉田裕さんが最近書かれた「現代歴史学と戦争責任」の冒頭の論文に、この責任論についての手際良いまとめがあります。そこでは山口定さんの未来責任の理論とか田口裕史さんの未来に向かって自ら運びとる責任という議論がなされている。しかし、そのように性急な未来責任の話に移っていいのか。現在、日々犯されている犯罪があるのではないか。そのことを知らなかったのならともかく、いま知っているならば既にそれはもう責任当事者ではないのか、犯罪ではないのか。鹿島建設における中国人の強制連行は「華人労務者移住の件」という当時の内閣の閣議決定で行なわれたものですね。国家と企業がそのように共犯関係を結んでいた。そのような共犯関係によってもたらされた利権の構造のなかであなた方は現在も暮らしているんじゃないのか、そのことを薄々感じながら現在の生活にしがみついているのではないか、というのが私の疑いなんです。日本国民としてこの歴史的、現在的な利権の構造のなかにいる日本人は、その日本人としての責任があるのではないのか。日本人として責任をとるということはまさにそういうことです。
*加藤 典洋(かとう のりひろ(山形県出身、1948年(昭和23年)4月1日 - 2019年(令和元年)5月16日[1])は、日本の文芸評論家、早稲田大学名誉教授。 講談社ノンフィクション賞、小林秀雄賞選考委員。

*나눔의 집(영어: House of Sharing)은 경기도 광주시 퇴촌면 원당리에 위치한 일본군 위안부 출신의 할머니들의 주거복지시설이다. 위안부 피해자 중 약 열 명 정도가 거주하고 있다.
*Byun Young-joo ou Byeon Yeong-joo (변영주) est une réalisatrice et scénariste coréenne, née le 20 décembre 1966. Ses films examinent souvent des questions sur les droits des femmes et les droits de l'homme. 
변영주(邊永姝[1], 1966년 12월 20일 ~ )는 대한민국의 영화 감독이다.

*西谷 修(にしたに おさむ(愛知県出身、1950年3月4日(70歳) - )は、日本のフランス哲学者。立教大学大学院文学研究科(比較文明学専攻)特任教授[1]。東京外国語大学名誉教授[2]。神戸市外国語大学客員教授[3]。Osamu Nishitani (西谷修) est un philosophe japonais, né le 4 mars 1950 à Aichi. Il a étudié aux facultés de droit de l’Université de Tokyo et de littérature française de l’Université municipale de Tokyo, puis a suivi pendant deux ans un DEA de lettres modernes en France de 1979 à 1981 à l’Université de Paris VIII1.

The House of Sharing (Korean: 나눔의 집, Nanum-ui jib) is a nursing home for living comfort women in Seoul, South Korea. The House of Sharing was founded in June 1992 through funds raised by Buddhist organizations and various socio-civic groups.
*土本 典昭(つちもと のりあき(岐阜県出身)、1928年12月11日 - 2008年6月24日[1])は、記録映画作家、ルポルタージュ作家。Noriaki Tsuchimoto (土本典昭, Tsuchimoto Noriaki?) ; 11 décembre 1928, Préfecture de Gifu, Japon - 24 juin 2008) est un réalisateur japonais spécialisé dans le documentaire connu pour ses films sur la maladie de Minamata et sur l'observation des effets de la modernisation sur l'Asie.
帝国主義の克服を
先ほどの「朝鮮だけを中心に考えているのはナショナリスティックではないのか」という質問に戻りますと、「慰安婦」問題というのはもちろん植民地支配、民族差別という側面と性差別という側面、この両側面が重層的になっている問題です。しかし、私はこの構造のなかでいま述べている民族差別の側面の指摘があまりに弱いと感じるが故にこの側面を強調しているにすぎないのであり、ナショナリスティックな意図からではないということはこの話で分かっていただけると思います。
詳しく述べれば、朝鮮人のなかに男という特権者がいて、しかもそのなかに対日協力者とか、植民地支配のなかで自らの保身を図ったり、富を蓄積したりした者もいる。もちろんそうです。しかし現在、少なくとも植民地支配をした日本人と被害者の朝鮮人を分ける線をいったん引いて、私は誰であり、あなたは誰であるのか、この目の前に提示されている問題にとって、私はどの方向、どの立場からアプローチすべきであり、あなたはどの立場からアプローチすべきであるのかということを明らかにすることなしには、国家が我々の意に反して我々を拘束している構造と闘っていくことはできないと私は言っているわけなんです。私はそういう主体として朝鮮人というものを念頭に置いています。エッセンシャリズムではありません。血統ではありません。そしてまたそれは家族主義でもありません。
なぜ、「憂慮する在日朝鮮人のアピール」を発表したとき、それに添えた文章(前出「もはや黙っているべきではない」)で「母」という譬えを出したのかということですが、ここで注意していただきたいのは、日本人の女であるという理由だけで自動的に日本人としての集団的責任は解除されない、このことを指摘しなければならないということなのです。もちろん反転して言えば、私は朝鮮人ですが、朝鮮人ということだけで私が持っている男性中心社会の特権者としての男という責任を解除されないということと同じです。そのような解除されない責任を負う者同士が、しかしなおかつ、共通のこの「慰安婦」問題、あるいはパラダイムをもう少し広げて、帝国主義支配に対する対決、全世界的な帝国主義支配を終らせるための闘いのなかで、どうやって手を結べるのかという問いかけとしてこのことを述べているわけです。

そして私は、埋められてきた母たちの声を母に代わって、もちろん私はその母との関係のなかでは至らない、親不孝な息子であったかもしれないけれど、虐げられ、文字も知らず、語ることのできなかった人の側に立って、その声を語るということが自分自身の義務であるだけでなく、今日私たちの前にある全世界的な意味での反帝国主義の闘いのなかで要請されている私自身の仕事だと考えています。
[b]
「別の日本」の構想を
私が先ほどから強調していることは、日本が国家補償を、「慰安婦」問題について行なわれなければならないのはもちろんですが、それだけではなくて、植民地支配、戦争の全般的な問題についてまで枠組みを広げるべきであるということなんです。さっき言及し損ねたんですけど、「慰安婦」問題について行なわれなければならないのはもちろんですが、それだけではなくて、植民地支配、戦争の全般的な問題についてまでえ枠組みを広げるべきであるということなんです。さっき言及し損ねたんですけど、「慰安婦」問題がやっと国家犯罪と認められるようになったのに私の言ったことの真意がわからない、という質問への答えは、こういうことです。つまり、いままでは戦争犯罪ですらないと黙殺されてきた行為が女性運動の力でようやく戦争犯罪とされた。しかし先ほど言ったように、何を戦争犯罪とするかという法は強者たちによって、帝国主義者たちによって取り決められていた。第一次世界大戦以降にそうこうことが行なわれているわけですね。だからもちろん、これを戦争犯罪と認定したことは大きな前進であって、そのことが不満だと言っているわけではないんです。しかしそこからさらに先に進まなければならない。そこからさらに進んで、全世界的な規模での帝国主義時代の克服という課題に照らして考えなければいけないし、そういう意味で帝国主義と戦争の時代の20世紀にどの立場で自分たちはかかわっているのか、ということを絶えず検証するということが極めて重要になってくると思うんです。
国民基金、女性たちのためのアジア平和基金の問題で言いますと、国民基金は日本国の現在の国家の要請を、市民とか国民とかいう普遍主義的な言説でくるんでごまかしているというところに問題がある。そのような市民からの同情とか、「元「慰安婦」の方々は」もうすぐ死んで行く人たちなので少しでもお金を渡したい、謝罪の気持ちをどうして素直に受け取ってくれないのかという人道主義的な言説にくるんで、日本という国家の国家意思が貫徹されようとしているところに問題の本質があると思います。それにかかわっている日本側の人々も個々人のなかでそのような混同や、国家との癒着が起きていると私は思うのです。
さて、国家に補償責任をとらせていくときに個々の国民はどういう立場に立つか、もうこれは先ほど言ったことの繰り返しに過ぎませんけど、個々の日本国民は現在の国家の政治意思の決定にかかわっているわけです。主体的にかかわっていると言えるし、それによって拘束されているとも言えるわけですね。日本の国家を変えていく一義的な責任者はあなた方日本人なんですよ。あなた方の払った税金が使われているし、あなた方が選出した議員たちが政策を決定しているのです。その国家と企業との日本国民とが過去の共犯関係をそのまま持ち越して現在もその利権を維持しているのではないか、というのが私が繰り返し強調している疑いなんです。それがヌレギヌだという「のなら、その」ことを証明することが、フェミニストであろうとなかろうと、この問題にかかわるすべての人に求められている事柄だと思います。               

高橋さんは先ほど「変形」という言葉でおっしゃったけど、私はもっと分かりやすく「変革」とか「改革」と言っていいと思いますが、「別の日本」、いわば天皇を父として仰ぐ家族的な一体性、戦後は、高度成長下の家族、企業のなかで一所懸命働くお父さんを中心として編成されている戦後ナショナリズムの核としての家族、そういう家族に表象される日本ではない、「別の日本」という構想を日本の人たちは持たなければいけないのではないか。そして、そういう構想を持っている人たちとー私はもちろん「別の韓国」、「別の朝鮮」という構想を持とうとしているわけですがー我々は出会えるし連帯できる。私が述べていることは「分離の勧め」ではなくて「連帯の呼びかけ」なのです。その「別の日本」普遍的価値を実現していくための「別の日本」というものは、もちろんはや「日本」でなくとも、より普遍的なものでいいのです。しかしこの現にある日本、いまあなた方を、望もうと望むまいと拘束しているこの日本を変えることなしには別の場所に出ていくことはできないと言っているわけで、これは加藤典洋氏が言っている「土管の内側」とかいう議論とはまったく違います。
[c]
さっき言い忘れたことについて少しだけ言わせてください。高橋さんが法について言われたことについて、私はもちろん全面的に賛成です。法という場で黙殺され、抑圧され、語ることのできなかった人間たちのこの叫び・要求を拡張していかなければいけないし、そのことは、まさに、政治的闘いによって勝ちとらなければいけないことだと思います。
それから、植民地支配全体の責任を認めないということは、旧植民地宗主国が共同で張っている最後の防衛線だということをとくに付け加えておきたいと思います。現在はまだ戦争犯罪という線に下がることさえ拒もうという動きとの鬩ぎ合いの最中ですが、それを突破した後も、さらにこの防衛線が待ちうけている。そのなかで、1965年に結ばれた日露条約が日本の植民地責任をあいまいにしたかたちで終っているという状況を、朝鮮人の側から変える、そのような「別の朝鮮」、それから朝鮮民主主義人民共和国と日本との国交交渉が進められていくときに、この問題「植民地支配責任」については絶対にゆるがせにしないという、その朝鮮、これが私のなかに構想されている「別の朝鮮」の重要な要素です。それと同時に日本が朝鮮植民地化を進める過程で日本と朝鮮との間で韓国併合条約にいたるさまざまの条約が結ばれていたからという形式的法理論は論外として、これを見直していくときに植民地支配全般について、日本国家がその不法性を認める、日本国民がそれを認めるという、「別の日本」が力強く構想されることを、ぜひ求めていきたいと思います。そのようなこと「植民地支配責任の承認」が世界に先だって日本と朝鮮の間で行なわれ、それが、その他の帝国主義国と他の被植民地国との間に広がっていく、このような大きな構想のなかで、「別の日本」、「別の朝鮮」を互いに構想していきたいと私は思っています。これが私の言いたかった結論です。
(初出:『ナショナリズムと「慰安婦」問題』青木書店、1998年9月)


심포지엄 민족주의와 '위안부'문제 (일본어) 단행본 - 1998/9/1 일본의 전쟁 책임 자료 센터 (편집) Symposium Nationalism and the "Comfort Woman" Problem (Japanese) Book – 1998/9/1 Japan War Responsibility Data Center (edit)
「日本人としての責任」をめぐって   ―半難民の位置から
・・・わたしたちがこうした政治的な、厳密な意味で集団的な責任を免れうるのは、当の共同体を離れることによってでしかできない。そして、だれしも何らかの共同体に帰属せずには生きることはできないのだから、このことが意味するのは、ある共同体を別の共同体と交換し、したがってある責任を別の責任と交換することにほかならないだろう。20世紀が、国際的に承認されうる共同体のどこにも帰属しない、真のアウトカーストである人たちというカテゴリーを生み出したことは真実である。すなわち、じっさいには政治的には何にたいしても責任を負わされ得ない亡命者や国家なき人々を生み出したことは真実である。(略)現実に即していえば、かれらは、唯一まったく責任のない人々である。わたしたちはふつう、責任、とくに集団の責任は重荷であり、一種の刑罰でさえあると考えているが、わたしの考えでは、集団の無責任にたいして払われる代償はかなり高いものであることが示され得る。 -ハンナ・アーレント(1)
私が初めて海外旅行に出たのは、いまから15年ほど前、30歳を少し過ぎた頃のことである。それよりはるか以前に2度、「母国訪問団」の団体旅行で韓国に行ったことがあったが、いわゆる海外旅行の経験はなかった。海外旅行に行くためにはパスポートが必要だが、これを入手することが、私にとって気軽なことではなかったからだ。
旅に出て2,3週間が経った頃、空腹をかかえ疲れ果てていた私は、南フランスのアヴィニョンという古い街でふらりと一軒の中華料理店に入った。いや、中華料理店だと思いこんでいたのだが、入ってみると、そこは中華ではなくベトナム料理店の店だった。そうとわかった瞬間、反射的に「しまった・・・」と思った。
すんなりと立っている店主らしい細身の男は、若い日のホー・チ・ミンに似ていた。ボート・ピープルだろうか?もしそうだとすれば、はるか故国を離れて、この地に小さな料理店を出すまでに、どんな艱難辛苦を経てきたのだろう。・・・そんなことを思ううちに私は落ち着かなくなり、内心の緊張がぐんぐんと増していくのを感じた。
在日朝鮮人は、植民地支配と世界戦争の時代が産み落とした一種の難民である。朝鮮人はすべて1910年の「韓国併合」によって無理やり日本臣民に繰り入れられたのだが、そのうち日本敗戦後も日本国の領域内に残された者が在日朝鮮人である。1952年のサンフランシスコ条約発効にともない、かつて朝鮮人に押しつけられた日本国籍が今度は一方的に剥奪されたが、その当時南北に分断された朝鮮半島では内戦の真っ最中であった。在日朝鮮人にとって自らが帰属する国家はまだ存在しないか、あるいはきわめて不安定な形でしか存在しない状態だったのだ。したがって、日本政府によって外国人登録を強制された際、大多数の在日朝鮮人は「朝鮮籍」と申告したが、それは本来、分断された朝鮮半島の北あるいは南のどちらの国家への国民的帰属ではなく、朝鮮民族総体への民族的帰属を意味していた。

他方、「韓国籍」は「朝鮮籍」とは異なり、韓国という国家への国民的帰属を意味する。より正確に言うと、そうした意味づけが韓国、日本両国家によって推し進められたのである。1965年の日韓条約によって日本が韓国とだけ国交を結んだ結果、「朝鮮籍」から「韓国籍」に切り替える在日朝鮮人が増加した。その理由の第一は、「韓国籍」取得者に限って「墓参」や「親族訪問」、あるいは「母国留学」といった目的で韓国と往来する途が開けたからである。第二の理由は、「韓国籍」を取得した者だけが、日韓条約の「協定永住権」という在留資格を得ることができる仕掛けになっていたからだ。一方、「朝鮮籍」の者は、「韓国籍」に対して圧倒的に不安定な在留資格に留め置かれた。「協定永住権」にかわって「特別永住権」という在留資格が「朝鮮籍」「韓国籍」の区別なく許可されることになったのは、実に4半世紀後(1991年)のことである。要するに、日韓条約を境に在日朝鮮人は分断され、その一部が韓国国民に編入されるとともに、一部は難民の地位に放置されたのである。
「朝鮮籍」にとどまることで受ける不自由・不利益のひとつは、パスポートが取得できないということである。日本国外に出ようとする「朝鮮籍」の者は、日本政府発給の「再入国許可証」を手に入れるしかない。この書類は別名「難民パスポート」と呼ばれるよう、ただ日本への再入国を許可しているだけのものであって、国家による外交的保護を約束するものではない。この書類だけでは入国や滞在が困難な国も多いのである。
私の一家は日韓条約以前から「韓国籍」だった。とはいえ、多くの在日朝鮮人がそうであるように、自分が「朝鮮人」という民族集団に属していることは日本社会からの不断の排除と差別によっていやおうなく意識させられてきたが、韓国という国家に帰属しているという意識は稀薄だった。3代にわたって日本に暮らしてきた私たち一家は、韓国という国家の形成に関与した覚えはまったくなかった。父祖の地の半分に造り出されたその国家が、私たちの頭越しに日本国家と話をつけて、私たちの法的地位を取り決めたのだ。
だが、そんな私も韓国政府が発給するパスポートなしには、ただの一歩も日本の外に出ることはできない。そのうえ、ご丁寧なことに、「韓国籍」の在日朝鮮人がパスポートを取得するためには、その前提条件として、韓国への「国民登録」という手続きを経なければならない。すなわち、難民から国民への編入手続きである。
国民国家が全地球上を隙間なく覆い尽くしているこの時代にあっては、ほとんどの場合、人はどこかの「国民」であることをいやおうなく要求される。現代世界は「国民」のみを正会員とする会員制クラブのようなものだ。たとえば海外旅行のような、ごく普通の人間活動を行なうのにも、この「クラブ」の会員でなければとんでもない不自由・不利益を嘗めなければならない。海外旅行の例は、たとえば就職、商業活動にまつわる許認可取得、不動産の賃貸や売買、学校への入学、保険や年金への加入、クレジット・カードの作成、はてはゴルフ・クラブへの入会やレンタル・ビデオの借り出しにいたるまで、多かれ少なかれ、通常の人間活動の各分野に置き換えてみることができる。難民(非「国民」)であるということは、そのあらゆる分野で有形無形の屈辱や磨滅感を強いられることを意味しているのである。(それでも私にとって、この「国民クラブ」に入会するため日本国籍に帰化することだけはまったくの論外だった。「どうして?」と、あなた方日本人は尋ねるだろうか?その理由をここにいちいち説明する親切心を、いまは発揮したくない。)

旅行している間、私はよく「ジャポネ(日本人か)?」と尋ねられた。そのたびに私は、にべもなく、「ノン」と返事をすることにしていた。たいていはそこで会話が途切れるのだが、まれに、「では、なに人?」と尋ねられることがある。「コレアン(朝鮮人)」と答えるが、民族的所属をあらわす「朝鮮人」も、国籍をあらわす「韓国人」も同じ「コレアン」なのである。相手がさらに踏み込んで尋ねてきた時には、在日朝鮮人の歴史と現状について厄介な説明をしなければならないが、理解されることはまれである。
アヴィニョンのベトナム料理店で私の頭を急速に占めたものは、もし、例によって「ジャポネ?」と尋ねられたら、どう答えようか、という思いだった。「コレアン」と答えたら、このベトナム人はどう反応するのだろうか?
ベトナム戦争はすでに終わっていたが、多くのベトナム人の心に焼き付けられた韓国軍兵士のイメージがそう簡単に拭い去れるものでないことはわかっていた。韓国の朴正熙軍事政権は1965年、アメリカの強い求めに応じ、韓国内の反対運動を容赦なく弾圧してベトナムに派兵した。最初の派遣部隊は「猛虎部隊」と名づけられていた。韓国兵は最前線で南ベトナム解放戦線と戦い、いわば勇猛な傭兵として悪名を高めた。多くの被害を被ったベトナムの一般民衆は、彼らを「ダイハーン(大韓)」と呼んで恐れ、蛇蝎のように忌み嫌ったといわれている。
韓国兵には米ドルで給料が払われた。この金は韓国に送金されて外貨事情を好転させた。韓国企業が戦争特需で利益を得、これを足掛かりに東南アジア各地に進出していった。韓国経済は、この大義のない派兵によって潤ったのである。その一方、ベトナムの各地には韓国人との混血児が遺棄され、元韓国兵の一部は予期しなかった枯葉剤の毒に現在も苦しんでいる。
しかも、私が初めて海外旅行に出たその当時、韓国の大統領は全斗煥だった。ベトナムに土足で踏み込んだ、かつての「傭兵隊長」である(全斗煥の次の盧泰愚大統領も「傭兵隊長」出身)。そのことが余計に、生身のベトナム人と遭遇した私を緊張させたのだ。


*라이따이한(베트남어: Lai Đại Hàn/ 𤳆大韓?) 혹은 한국계 베트남인/한국계 월남인(한국 한자: 韓國系越南人, 영어: Korean Vietnamese)은 대한민국이 1964년부터 참전한 베트남 전쟁에서 대한민국 국군 병사와 현지 베트남 여성 사이에서 태어난 2세를 뜻한다. 파리 협정에 따른, 한국군의 철수와 그 후의 남베트남 정부의 붕괴로 이어지는 순간 속에서 ‘적군의 아이’로 차별받았다. 단어 ‘라이따이한’에서 ‘라이’(베트남어: Lai/ 𤳆?)는 베트남에서 경멸의 의미를 포함한 ‘잡종’을 뜻하며, ‘따이 한’(베트남어: Đại Hàn/ 大韓?)은 ‘대한’을 베트남어식으로 읽은 것이다. 라이따이한에 대한 정확한 수치는 확실하지 않으나, 부산일보의 조사에서 최소 30명 최대 300명으로 보나 정확한 수의 조사는 이루어진 적이 없다.


New Gormanism Declaration 3 Yoshinori Kobayashi(author)  Shogakukan/1997
A heated debate over the inclusion of the comfort women issue in junior high school history textbooks. It completely destroys the logic of those who want to apologize for being taken away. A collection of 25 pages written by right-leaning Kobayashi and articles published in "SAPIO" magazine.

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