日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

옥중 19 년 - 한국 정치범의 싸움/獄中19年―韓国政治犯のたたかい/19 ans de prison - Combattre des criminels politiques coréens/獄中十九年:韓國政治犯的鬥爭XIX annos in carcere-Coreanica Pugnans politica scelestos/Suh Sung (서승徐勝)④

彼はまた、在所者の処遇改善を要求する時に、必ず矯導官の処遇改善を一緒に持ち出した。「1日8時間3部制勤務」「無報酬の非番勤務の解消」などは矯導官の切実な要求ではあったが、当時は不平不満は洩らしても彼らは上部の命令に抗して行動する力も勇気もなかった。それから10年たって、張棋杓氏の提案はようやく実現することになる。彼の主張はこうだ。「矯導官の処遇が改善されない限り在所者の処遇が改善されないし、在所者が人間的処遇をうけようとすれば矯導官も人間的に処遇されねばならない」。看守は敵だと考えていた老政治犯たちにはまったく新しい話だった。
実際、末端の矯導官は哀れだ。安月給に長時間勤務だ。少数の昼勤者を除いて甲乙部に分かれ1日交替の24時間勤務をするが、出退勤時の点呼や教育などがあり、さらに1,2時間の拘束をうける。週1,2回に非番勤務があり、朝9時の帰宅が昼になり、さらに午後3時、4時になることもある。逃走などの事故が起きたり非常訓練があると、何日も家に帰れない。監獄は上位下意の保守的で権威主義的な風土をもっている。幹部は部下を虫けらほどにも思っていない。理髪所勤務の看守が椅子に座って居眠りをしているのを巡視中の副所長に見つけられ、鼓膜が破れるほど張りとばされているのを目撃した。もし些細なミスがあれば、受刑者の面前でも幹部は矯導官を侮辱したり暴行を加えた。                     

不正腐敗が構造化していた韓国の監獄で、末端看守は上役に付け届けをしなければ冷や飯を食わされた。「補職」とよばれる勤務部署にもピンからキリまである。用度課副食係や作業課のように年間数億の金と物を扱うところも、所長室勤務のように暇なところもある。受刑者と直接接触せず夜間勤務や非番勤務のない事務職は、毎日喉を嗄らして<泥棒たち>と争い、上役から怒鳴られ、上役の監視に威々競々とし、ゾッとするほど長時間勤務を強いられる保安課看守にとって羨ましいかぎりなのだ。
それにもまして、看守にたいする社会的偏見は彼らの大きな悩みだ。「獄卒」という伝統的蔑視は劣等感に連なっていく。看守になりたくてこの職業を選んだという矯導官に出会ったことがない。驚いたことにどこに勤めているか、子供にもいっさい知らせない看守もいる。看守たちは矯導所の正門をくぐったとたんに頭が痛みだし、消化が悪くなると訴える。皆、機会があれば転職したいと言う。食ってゆくためにしようがなしに肩身狭く看守稼業をしている。
矯導官は権力の手足であり、命令に忠実な執行者である。しかし、彼らも分断祖国の痛みを分けている同胞であり、歪曲された社会のなかで人間らしい生活を奪われている民衆の一部なのだ。彼らを利用の観点だけで見るのではなく、その痛みと悲しみに関心を持たなくては監獄の民主化や受刑者の人間的獄中生活は望めない。
獄鬼神
人々は獄死を恐れる。獄死をした魂は獄鬼神<怨鬼>となり監獄のなかをさまようと、看守も嫌がる。懲役は生きている人間に課せられる。刑法にも「死に瀕した囚人は刑の執行を停止する」とある。いくら罪人でも「最後は家族の見守るなかで」という温情のようでもあるし、官の面倒を省くためでもあるようだ。だが非転向囚にはその最後の温情も与えられず、すぐ隣にある病舎にすら入ることもかなわず、独房の鬼神となった人たちがいた。
76年3月、奇世一先生は癌で病死した。先生は全羅北道金堤で生まれ、日帝時代は中国で暮らし、解放後は清津で労働者だった。還暦を過ぎた小柄で物静かな老人は、脱腸のため歩き方がギクシャクしていた。転向工作には断固応じなかったので満足な治療もうけられなかった。癌が判明して運命を直感した先生は、同志に遺言を残した。①党から与えられた任務をまっとうできなくて申しわけない。②祖国統一を見ないで死ぬのは残念だ。③北にいる息子に自分の死を伝えてほしいー。獄中で死んでいった人たちの遺言のパターンはだいたい、祖国統一と党、そして家族への思いでつづられている。
朴正来先生はソウル生まれで「満州」で青年時代を過ごし、解放後、北朝鮮に移った。54年にソウルにきて逮捕され無期刑をうけ、私が大邱にきたときから結核房にいた。大変謙虚な人柄でソウルの名門出身であるにもかかわらず労働者、農民の側に立って生涯を捧げてきた。また若輩の私にも必ず丁寧語を使った。医務課では投薬はしたが、手術は夢で、現状維持に汲々としていた。一般囚の場合、結核患者は馬山の結核療養監獄に送られるのだが、非転向囚だからと一坪ほどの独房に3人を押し込んで放置していた。78年に入り、先生の病勢は悪化した。大きな金盥に血を2回も吐いた。止血剤として塩を食べるしか方法はなかった。口辺に鮮血も生々しい先生は、「克服しなければ」と、ボロ布で口をぬぐっていた。獄中で非転向政治犯たちは<克服>という言葉をよく使った。飢えや寒さを<克服>して、病を<克服>して、テロや弾圧を<克服>してきた。<克服>とは、到らねばならない所と現実との深い断絶を飛び越えようとする。凄まじい意志力や執念だ。しかし、末期の結核が革命精神で<克服>できるものではなかった。晩秋に3回目の大喀血をして獄死した。
75年、大田から移送されて大邱にきた申昌吉先生は、仏様のような仁慈な笑みをたたえていた。忠清道人らしく控え目で柔和な先生の生涯は決して平穏ではなかった。学校もほとんど通えず、幼くてしてソウルで画家の奉公人になり、大きくなって「満州」の豆満江辺の苗木会社で働いた。先生は「日本人は温順な忠清道人を使うのを好んだ」と、回想していた。解放後は北朝鮮の咸鏡道の会寧で消費組合の仕事をした。58年に政治工作員としてソウルに来て、清涼里に精米店を開き家庭を持ったが、73年に逮捕された。先生は還暦を過ぎていて、高血圧などの持病があって病弱だったが、特にヘルニアに苦しみ、布で作った脱腸帯をしていた。83年に突然激しい腹痛を訴えたが、医務課では胃薬を処方するだけだった。私たちの外部病院診察要求にも当局は「もう少しようすを見よう」と言うばかりだった。運命を直感した先生は遺言を残した。「もうだめなようだ。祖国の統一を見ないでは死ぬにも死にきれない。徐先生が生きて獄中から出たら、平壌にいる息子、申東俊に私の最期を伝えてほしい」。翌朝、先生は腸嵌顿でこの世を去ってしまった。

先生の言葉によれば、解放前までは別に政治意識はなく、日本人の実直な使用人だったという。社会主義社会が先生に意識の大変化をもたらし、民族統一と社会主義革命のために身命を捧げようと考えるにいたったという。先生が<間諜>として逮捕されると家庭は破綻し、家族は先生を怨んだ。先生が亡くなったときにも遺骸の引き取りを渋り、矯導所の説得でようやく引き取ったほどだった。しかし、80年代半ばの祖国統一への民衆の熱望の高まりと、分断民族史の高まりにより、彼は父が何を願っていたかを理解し、父の死を心から悼み、平壌にいる兄と会うことを願うようになった。
孫純永先生は78年5月に獄死した。京畿道出身の先生は朝鮮戦争のとき義勇軍に参加し、人民軍に入隊した。除隊後は江原文源精錬所の労働者だった。40代初めの明るく勤勉誠実な人柄で、骨惜しみせず老人たちの世話をよくした。胃に大きなシコリができ、胃癌であることが誰の目にも分かるようになったのが半年前のことだった。病も進んだ冬の終わりだった。後部階段の横にあった暖炉にあたっていた先生は、私を呼び止めた。私のオモニの詩を作ったという。先生は独房で詩をつくり、3,40首を諳んじるという。オモニは、不許可になった何回かを除いて、2ヶ月に1度は面会にきていた。差し入れは皆に分けられ、さまざまな消息は人々の心を躍らせた。離れ小島の連絡船というか、辺境の村の郵便馬車というか、皆はオモニの面会を心待ちにし、面会にくるころにこないと私よりさきに心配をした。孫先生はこんな気持を詩にうたった。今はよく憶えていないが、リアリズムにあまりにも忠実で、お世辞にも上手な詩とはいえなかった。オモニの苦労を讃え、感謝を込めて「蝶のように玄界灘を舞って行き交うオモニ」と、結ばれていた。
監獄の健康は自分で守るしかない。だから獄中では冷水摩擦やヨガ、丹田呼吸もするが、漢方医書、特に「東医宝鑑」は宝物のように珍重されていた。皆が指圧や鍼を学び自家治療をした。金属片を所持することは禁止されているので、拾った針金を研いだのや縫針を隠し持って治療をした。特舎の政治犯の間では、このころ韓国で流行していた断食や菜食などの自然療法の本が大いに読まれた。
先生の場合、早期発見されても手術や化学治療をうけられる可能性はなかったが、孫先生の癌が医務課で確認されたときにはすでに手遅れで、治療の方法がなかった。
思い余った私たちは看守に申し出て炊事場から野菜をもらったり、裏庭にハトムギを植えたりして自然療法もしたが、先生の病は坂を転げ落ちるように悪化した。もう若葉のころ、房をのぞいてみると孫先生は「昨日、真っ黒な宿便が出てスッキリした。身が軽く飛んでゆくようだ。これでよくなるようだ」とニッコリとさわやかに笑った。しかし、これは消えさらんとする生命の炎の最後の輝きだった。翌朝、点検のとき、先生の死は発見された。黒々とした瞳を大きく見開いたまま・・・。

大邱矯導所で無縁仏が出れば、市の共同墓地に埋めて、引き取り人がなければ5年後に火葬して合葬してしまう。墓はなくなり矯導所に記録だけが残ることになる。孫先生は3日間、医務課の死体安置室に置かれてトラックに載せられて、矯導所の近くの共同墓地に埋められた。埋葬をした外部雑役夫の話では、岩だらけの丘陵斜面を掘るのに苦労をしたそうで、野良犬が食わないように、岩で封墳をだいたい造っておいたという。駄菓子と焼酎一杯とを供えて野辺の送りは終わった。多くの政治犯のそれと同じように、いまは孫先生の墓を捜すすべもない。
III 思想転向制度との闘い
思想転向か?死か?
私が73年に大邱に行ったころ、教務課長は欠員だった。朴鎬俊部長が課長、係長、主任の代理を一手にひきうけていた。彼はすでに50歳近くだったが、看守をしながら通信教育でようやく牧師資格をとり、得意でならなかった。自分を「部長」ではなく「牧師」と呼ばせた。赤ら顔で現世的な厚い唇を持つ彼には、霊的要素はうかがえなかった。牧師になって出世するという願いは、思想転向工作班が設けられるや工作官<教誨師>となり、その後、小矯導所の教務課長に出世することにより「イエスの恩恵」は果たされた。朴牧師は興奮すれば地金を表わして暴力を振るったが、反共福音主義者としてキリスト教信仰が最良の転向工作だと確信していた。彼は、自ら「教務課長だ」と紹介し、そして私をおどした。「教育をうけたお前が、なぜ共産主義だ。聖書を読んでイエスを信じろ。1舎下にいると身のためによくない」。このときはまだ思想転向工作の準備段階だった。
思想転向とは、国家権力に対抗した人が国家思想に同調するか、国家権力に服従することを誓うことをいう。自分の内面での精神的格闘の結果おこった信条の変化である「同心」とは異なり、もともと「転向」には他人や社会の圧力を意識し、外部世界へ向けての態度表明を前提としている意味あいが強い。捜査機関では当然、物理的、心理的暴力によって強制される。「思想犯罪は既成の国家制度を変え、新しい理念の社会をつくりだそうとする。政治犯罪、思想犯罪の原因は犯罪者の考え方にその原因があり、それを変えない限り、この種の犯罪はなくならない」という乱暴な考え方から思想転向は着想された。しかし、これは権力者と支配体制を絶対化した独善的な発想だ。そもそも社会変革や革命の思想は現実への批判から始まり、その根底には批判をうけるべき現実がある。しかも人には自分が望む国家や社会を選んだり、つくりだしたりする権利がある。いわんや未来への理想や夢、あるべき社会の姿についての信念といった人間の内面精神世界の自由をなにをもって抑圧できるというのだろうか?
日帝は治安維持法(1925年制定)にたいする補完策として1931年ごろ思想転向制度をつくりだし、朝鮮でも施行された。天皇制と私有財産制度に反対する人を弾圧するのが治安維持法の目的であったが、朝鮮においては、植民地支配に反対し独立を求める民衆を弾圧することに重点がおかれた。日本では敗戦直後、アメリカ軍司令部が日本軍国主義の最も悪しき制度として思想転向制度を廃止した。不幸なことに朝鮮は分断され、韓国ではアメリカの後援をうけた親日派が権力を握り、左右イデオロギー対立のなかで、日帝の法と制度がそのまま温存された。朝鮮民族を弾圧した治安維持法、朝鮮思想犯観察令、朝鮮思想犯予防拘禁令が、それぞれ国家保安法、反共法、保安観察法、社会安全法の名で継承・再生され、数多くの愛国者や民衆を殺害、弾圧してきた。まるで強盗の刃を奪って自分の胸をさすような自虐的倒錯をそこに見る。ことに韓国では、「反共」は国是として最大の美徳だった。独裁政権は、反共の名のもとであれば、人権の蹂躙も殺人も許されるという社会的風土をつくりだした。
1947年の左翼団体非合法化措置から49年の国家保安法改正まで、思想転向制度は法的に明文化されないまま、主に警察が拘束者たちを転向させた。それから改正国家保安法の保導拘禁条項により、非転向囚を拘禁したり転向者の更生・福利を図るという美名のもとに、彼らを保導連盟に網羅した。朝鮮戦争が始まるや後顧の憂いをなくすため、これら転向者を数万名も虐殺した悪名高い「保導連盟事件」がおこった。

*《치안유지법》(일본어: 治安維持法 치안이지호[*])은 일본 제국 말기에 천황 통치 체제를 부정하는 운동을 단속하는 법률이다. 1925년 5월 12일에 시행되고, GHQ 점령 1945년 10월 15일 폐지되었다.

*국민보도연맹 학살(國民保導聯盟虐殺)은 1950년 한국전쟁 중에 대한민국 국군·헌병·반공단체 등이 국민보도연맹원이나 양심수 등을 포함해 공식적으로 확인된 4934명과[5], 10만 명에서 최대 20만 명으로 추산되는[6][7][8] 민간인을 살해했다고 추정되는 대학살 사건이다.[9] 보도연맹원 학살 사건이라고도 불린다. 이 사건에는 미군도 민간인 집단 학살 현장에 개입했다.[10] 오랜 기간 동안 대한민국 정부가 철저히 은폐했고 금기시해 보도연맹이라는 존재가 잊혀져 왔지만, 1990년대 말에 전국 각지에서 보도연맹원 학살 사건 피해자들의 시체가 발굴되면서 보도연맹 사건이 실제 있었던 사건임이 확인됐다. 2009년 11월 진실화해를위한과거사정리위원회를 통해 정부는 국가기관에 의해 민간인이 희생되었다는 것을 확인했다고 밝혔다.[11] 현재에도 사건 진상 조사가 이루어지고 있다.
朝鮮戦争後、ますます硬直した反共体制のもとで、1956年、法務部長官令により思想転向は公式に制度として確立された。56年に、それまで転向の有無に関係なく工場に出役していた非転向囚は、不就役となり終日監房に収容された。これにより非転向囚の相対的な身体の自由、運動の機会、より良い食事と処遇の機会を剥奪し、特舎を非人道的監視下において暴行・虐待し、転向を強要した。
1961年の朴正煕のクーデター以後、それまで全国各所に分散されていた非転向政治犯は大田に集結させられたが、68年ごろ北朝鮮の特殊部隊が政治犯の奪回をはかっているとの噂があり、非転向政治犯を大田、光州、全州、大邱の四矯導所に分散させた。

1973年6月、思想転向工作班が四矯導所に設けられ、転向工作は体系的、組織的なものになった。中央情報部によれば中央情報部は「調整権」を持ち、他機関を調整<命令、指揮>できるので、矯導所もその調整をうけた。実情は矯導所の政治犯の収容管理はするが、政治犯にたいする政策決定は中央情報部が握っていた。全国の重要監獄には中央情報部、保安司、治安本部対共局の担当官がおり、常駐する場合でもあった。未決政治犯にたいしては捜査と公訴維持のための恐喝と脅迫、既決囚にたいしては情報収集、捜査、逆工作、管理(人質として、あるいは非常時に処分するため)をおこなった。思想転向工作は、対共産主義・対北朝鮮イデオロギー戦争の一環として中央情報部対共心理戦局の統制下にあった。
1972年、朴正煕は永久執権の野望に燃え、維新体制を発動させ、米国のベトナム戦争敗北に危機感をつのらせ、時局を「準戦時」と規定した。維新体制は、朴正煕が心酔していた日本極右の「昭和維新」に啓発され、日帝が太平洋戦争時に発した国家総動員体制、翼賛体制を模倣し、すべての政治運動と政治批判を禁じ、反政府、反体制運動の抹殺を公然と掲げた。このような情況において反共国是の根幹に挑戦し、みずから共産主義者であると主張する非転向政治犯を生かしておくわけにはいかなかった。思想転向工作班の設置は、明らかに維新体制の一環としてこのような政策意志の表われだった。1975年、大邱教務課長に就任した姜哲亨は我々非転向囚を集めて公言した。「お前たちには転向か死かという選択しかない」

特舎の最古参は1951年10月に拘束された李鍾煥先生だ。51年以前からの人がいない理由は朝鮮戦争の際に西大門刑務所(今のソウル拘置所)など大田以北の監獄の政治犯は人民軍により「解放」され、以南の政治犯は「大田監獄虐殺事件」のように国軍の退却とともに「処分」されたためだった。その後、捕まった人のうち、北からきた人はほとんど間諜罪、南のパルチザン出身者は内乱罪、反乱罪、附逆(敵に協力すること)罪などの適用をうけた。4・19革命後、民主党政府は一般赦免を下し、政治犯も間諜罪の被適用者を除いて減刑され、無期刑は20年前になった。この人たちの満期が70年代初めに集中した。この非転向囚が釈放されれば、「赤い病菌」で社会が汚染されるとして、一方で思想転向工作を体系化し強化し、他方で獄中・獄外の非転向者を永遠に社会から隔離するために社会安全法を制定した。
思想転向審査
思想転向の手続きは次のようだ。まず思想転向者と思想転向声明書を作成する。これを思想転向審査委員会にかけ、さらに中央情報部の裁可を得て思想転向は終わり、転向囚として特舎を出て一般囚と同じ扱いをうける。思想転向書には、「自分の罪を認めるか?」「共産主義と社会主義をどう考えるのか?」「北朝鮮と金日成にたいする考え方」「自由民主主義をどう考えるか?」「尊敬する人物は?」「宗教の有無」「出所後の生活設計」など7項目の質問があり、これに答えて書き、署名して拇印を押す。
転向声明書は、自分の歩んできた過程と思想の告白、懺悔、新たな覚悟などを書く。「金日成と共産主義者にだまされてきた。韓国の社会経済発展に驚いた。自由大韓の懐に抱かれ、反共勇士として反共第一線で身をもって闘うことを誓う」といった具合だ。転向声明発表会が開かれ、非転向囚や一般在所者の前でこの声明を朗読したり、所内放送で流したり、特別な場合には北朝鮮向けに放送したこともあった。80年代ごろからは発表会などが非転向囚の反発を招くことや、強制転向させられた政治犯が壇上で声明書を読みながら泣きだしたりして、逆効果があり廃止された。

思想転向審査委員会は所長を委員長とし、各課長、工作班長、中央情報部大邱支部の担当情報部員、1、2名で構成され、毎月ひらかれたが、実際は情報部員が決定権を持っていた。審査会では「本当に転向したのか?」「反共精神が確立したのか?」「仲間を裏切れるか?」などを中心に質問が出される。この場では工作班の連中が弁護士の立場で本当に転向したことを力説し、情報部員が検事の立場で疑いを投げられるパターンで進んだ。工作班としては実績をあげて、転向工作報奨金(1人当たり10万ウォン)を獲得しようとした。審査に落ちれば再審査となるが、この過程が転向者をよりハッキリとした転向への深みにはまらせることになる。敗北の認定、自らの思想と行動の誤りをみとめ否定するだけでなく、反共精神の確立と反共戦線への挺身を約束させられる。審査に通れば中央情報部の本部に書類が送られ、可否の最終決定がおこなわれる。
転向工作の対象者
転向工作の対象者は、国家保安法、反共法、刑法、軍刑法、国防警備法(間諜、反乱、内乱、利敵、便宜提供)などの被適用者である公安事犯だ。しかし、同じ罪を犯しても学生や宗教人、在野運動家、制度政治家(在野政治家と異なり、法の枠内で政治活動をする者)など、その動機の純粋さが認められる人は公安関連事犯として分類され除外された。その基準は時代とともに変わり曖昧であった。非転向囚のなかには工作員、パルチザン、職業革命家もいたが、犯人隠匿罪、便宜提供罪や不告知罪のように思想や主義と関係なしに肉親関係や友人関係などのかかわりでそうなった人もいた。

「マッコリ(濁酒)反共法」というのは、酒を飲んで政府や現実にたいする不平不満を吐露したり、怒りをぶつけ、反共法の讃揚・鼓舞罪などの軽微な罪で捕まる人のことをいう。そこから転じて、共産主義や社会主義に確信を持たない短期囚をさす言葉としても使われた。たとえば黄海道出身の人が北朝鮮の黄州リンゴが韓国の大邱リンゴよりおいしいと言って讃揚・鼓舞罪で捕まってきた。市の職員がブルドーザーで無許可の住居を撤去したとき、住まいが壊され行くあてのない貧民が「お前たちはそれでも人間か?金日成よりひどい奴らだ」と言って反共法で起訴された。「金日成よりひどい奴」と言うのは金日成を相対的に高めているという理屈だ。この人たちは大部分、「働けど働けど暮らし楽にならず」で、現実にたいする強い批判意識をもっている。しかし、個人としては強大な権力に正面から立ち向かうことのならない「風吹けば風より先に伏せ、風去れば風より先に立ち上がる」民草だ。獄中では、こういう人たちを確信犯と区別し、多少の同情とからかいの意をこめて「マッコリ反共法」(違反者)と呼んでいる。安酒マッコリに鬱憤をはらす韓国民衆の悲哀が産み込んだ言葉だ。庶民の酒飲み話にまで浸透した情報統治の一面を見せてくれる。
75年ころ、黄弼宇氏は政府誹謗をしたとかで反共法で捕まってきた。半白髪の彼は、結核患者で、自嘲的で挫折した古きインテリの雰囲気があった。ある日、彼は私を捕まえて、「朴正煕のやることは日本の奴らと同じじゃないか。「新しい村の運動」とかは昔、武者小路という日本人がやってたことだよ。いまさら「新しい村の運動」とはね」と、当時政府で熱を上げていた「セマウル運動」を皮肉った。このような人たちを政府では「不平不満分子」といっていた。
*Atarashiki-mura (新しき村), "New Village", is a Japanese intentional community founded by the author, artist and philosopher武者小路実篤 Saneatsu Mushanokōji(東京都出身).
*무샤노코지 사네아쓰(武者小路実篤)는 일본의 소설가, 시인, 극작가, 화가, 귀족원칙선의원이다. 동료들에게는 무샤(武者)라는 호칭(애칭)으로 많이 불렸다고 한다. 일본 예술원 회원이며 문화훈장을 수상한 경력이 있다. 증 종3위.
朝鮮総連に属する人が韓国に住む貧しい親兄弟に仕送りをしたり、小遣いを渡したり、親の葬式や墓を建てるために送金して、親兄弟が反共法の金品授受罪に問われて捕まってきたこともよくあった。

国家保安法、反共法の誣告・捏造罪(他人に刑事処分をうけさせる目的で、この法の罪にたいし誣告、もしくは偽証をし、または証拠を捏造、湮滅、隠匿した者)で2,3年に1人ぐらいが大邱監獄に入ってきた。韓国では憎む人を破滅させたり、ひどい目にあわせるために「様子がおかしい、スパイではないか?」「あいつは<アカ>だ」と密告することがよくあった。こうして捕まれば、罪がなくても拷問されたり監視をうけたりひどい目にあう。悪くすればデッチ上げられ、監獄行きとなる。朝鮮戦争前後には根拠のない密告で多くの人が殺されたという。ただ、密告された人が誣告者を上まわる社会的パワーやコネを持つ場合に密告者が誣告罪で捕まることになる。奇妙なことには、誣告罪の人も以前には転向させた。「私は反共精神では誰にも負けません。なんで私が転向するんですか?」「うるさい。国家が命ずる通りにするのが大韓民国の忠誠なる国民だ」。当局もさすがにこの矛盾に気づき、80年代からは誣告罪は思想転向対象者から除外された。獄中でも質の悪い前科者は、誰かが批判的なことをいえば<アカ>だと密告したり、告発すると金品をゆすったりすることがあった。情報政治は必然的に裏切りと密告を育てるものだ。
デッチ上げられた人々も「共産主義者でもないのになぜ転向せねばならないんだ?」「俺は反共主義者なのに転向とは共産主義者になれということか?」などと争った。河源次郎氏は大阪で生まれて、解放後、父母の故郷の慶尚北道水川に引き揚げた。高校を卒業して重装備免許を取って中東やインドネシアなどで仕事をしたが、石油景気の沈滞で仕事がなくなって、観光ビザで日本に入国して土木現場で仕事をした。たまたまその会社の社長が朝鮮籍だったのが災いして、83年に奥歯が折れるほど拷問され、「海外就労者間諜団」の主犯としてデッチ上げられ、7年の刑を宣告された。7人の共犯のなかで彼が主犯になったのは、彼だけが高卒で学歴が一番高かったからだという。彼は朴正煕の崇拝者であり民主共和党(朴正煕がつくった党)党員研修所2期生であることを自慢していた。「飯食うために仕事したのが何が悪い。俺に転向しろとは<アカ>になれということか」と、怒鳴り散らしたので、工作班も手を焼いていた。

もちろん、非転向政治犯の大半は共産主義、社会主義思想をもち、金日成主席を敬愛し、朝鮮労働党と北朝鮮政府を支持する人たちだ。しかし、思想転向工作班の工作官たちは正面から思想論争をする能力も立場も持たなかった。工作官たちが「北(北韓傀儡集団、韓国で北朝鮮をこう呼んだ。80年代なかば以後は北韓)には自由がない。大韓民国は、金さえあれば好きなことはなんでもできる。どんなにすばらしいか」などといえば「お前たちこそ南だ。軍隊の作戦指揮権もアメリカが持っているじゃないか。恥しくないのか、世界にそんな独立国がどこにあるんだ。お前たちの自由は労働者を搾取する自由、失業する自由、乞食をする自由、体を売る自由、学校に行けない自由、クーデターをする自由じゃないか」と反撃をくらった。「金日成は偽物だ。皆さんは金日成に騙されている」と言えば「じゃ本物を出してみろよ。朴正煕は日本軍の将校だったじゃないか。金日成首領は日本の侵略者と銃を持って闘った愛国者だよ」と言い返した。「韓国の経済成長は、<漢江の奇蹟>と言われている。高速道路も作ったし、テレビのない家はないぐらいだ」と言えば「日本やアメリカから金借りて、日本の部品を持ってきて作るなら誰にでもできるよ。経済成長だと言うけれど、外国人と金持ちを肥らせているだけだ。貧富の格差はますます激しくなり、民衆は貧困にあえいでいるじゃないか」と反発した。
*조선로동당(朝鮮勞動黨)은 조선민주주의인민공화국의 유일 집권정당이다. 한자 표기는 "로동당"이지만, 영문 표기로는 Workers' Party of Korea, 즉 "조선로동자당"이다. 조선사회민주당 및 조선천도교청우당과 같은 당이 존재하지만 형식적인 야당이자 관제야당(우당)에 불과하다. 실제 정치권력은 조선로동당에 집중되어 있으며, 이는 《사회주의헌법》 제11조의 "조선민주주의인민공화국은 조선로동당의 영도 밑에 모든 활동을 진행한다" 라는 구절에 규정되어 있다.

工作官は、反共主義と自由民主主義を対抗イデオロギーとして非転向囚たちに持ち出した。しかし、反共は共産主義の否定ではあっても、それ自身が積極的内容を持つイデオロギーではない。銃で権力を奪取した軍事独裁政権のもとで、それを自由民主主義だと称えることは「黒を白と言い張る」の類でなんの真実味も説得力もなかった。70年代に入って、不正選挙、戒厳令、維新、大統領暗殺、非常事態宣布、光州虐殺と生々しい事件が連続している状況で、自由民主主義などとは絵そらごとにすぎなかった。市場経済と社会主義経済制度の優劣をどんな立派な理論で論じたとしても植民地時代とそれ以後、搾取され抑圧され貧困のなかで辛酸をなめてきた大部分の非転向囚たちの経済倫理観を揺るがすことはできなかった。
思想転向制度は論理的、合理的に思想の是非を争うよりも、暴力で権力の前にひざまずき無条件隷従をする人間をつくりだすのにその目的があった。

間諜
国家保安法違反者の半数ほどは、間諜罪で刑をうけている。スパイとは敵国の国家機密や軍事機密を探知、収集、漏洩、伝達するものだというのが通念である。韓国では刑法第98条と国家保安法4条2,3項で間諜罪を規定し、7年以上、無期懲役、死刑を与えるとしている。韓国の「法典」(玄岩社刊)を開けてみると条文があり、その下に判例が載せてある。
―国家保安法上、間諜罪の対象となる国家機密は純然たる意味での国家機密に局限されるのではなく・・・この機密事項が一般的に知られており日常生活を通じて経験できることであっても、北韓傀儡集団に有利な材料になれば、これを探知、収集する行為は間諜罪を構成する。(1987年6月23日、大法院判決)
―日刊新聞に報道される事項でも傀儡集団(北朝鮮)に秘密にすることが大韓民国の利益のために必要だと思われる軍事関係の情報であれば、それを探知、収集することも問題となる。(1968年7月31日、大法院判決)
これだけ見ても、まず機密とは「このうえなく重要で秘密なこと。特に外部にさらしてはならない国家機関や組織体の重要な秘密」(「新国語辞典」韓国、東亜出版)であるとするなら、「一般的に知られており日常生活を通じて経験でき・・・日刊新聞に報道される事項」が機密だというのは概念の矛盾である。新聞、雑誌などは海外購読があるので合法的に北朝鮮でも入手できるし、テレビやラジオの放送は電波が北朝鮮にまで届くのを知りながら放送をしている。上の判例通りにすれば、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ会社の社員とそれを許可した文化公報部などの長官は間諜罪で逮捕されねばならない。また「・・・有利な」「・・・の利益のために必要だと思われる」という文言はきわめてあいまいなもので、罪刑法定主義の原則にもとるものだ。

「機密」概念の無限定的な拡大の結果、米の価格、公表された政治施策、人口、道のりなど、なんでも機密になり間諜罪の適用をうけた。また間諜罪は政敵を陥れたり、国民を恐喝したり、スケープゴートをつくりだして独裁への批判の鋭鋒をかわしたり、反共・反北朝鮮感情を煽ったりして、独裁政権にさまざまな形で利用された。93年10月、ようやくにしてソウル地方法院で、一般的に知られている事項の伝達に機密漏洩罪を適用しないという判決が下りた。しかし、94年5月、大法院は1,2審の判決をくつがえし、公知の事実であってもそれが敵を利する場合国家機密の漏洩にあたるとして、裁判の差し戻しを命じた。
すくなくとも19年間、私が獄中で出会った非転向囚には、「機密」を探知した間諜はいなかった。もし本当に機密探知をした人がいたなら、そんな人を韓国政府が生かしておくはずはなかった。間違いなく死刑になっただろう。金善明先生などは1951年に38度線で捕まった。まだ韓国見物もしてないからスパイのしようがないのだが、北朝鮮からこようとしたのはスパイをするためだったのに違いない、と間諜罪で無期懲役をうけ、43年になる今も獄中にいる。

紙一枚のために
「紙一枚書けばいいものを、なぜそんなに意地を張るのか?」と、工作官はよく言った。私は「では、紙一枚を、なぜそんなに書かせようとするのですか?」と反問した。獄中でも、釈放されてからも、同じ質問を頻繁にうけた。転向書を一枚書かないために、金善明先生は43年間も監獄に繋がれている。多くの人が、この紙一枚のために獄死し、拷問され、何十年もの歳月を獄中に埋めてきた。
転向を拒否する理由はいろいろある。工作班では「非転向囚は北に家族がいて、家族に迷惑がかかるから心配で転向できないんだ」とよく言った。そんな面もあるかもしれない。しかし、全政治犯のなかの数パーセントにもならない、ごく少数の非転向囚にだけ家族の問題があったとは思われない。

洪命基先生は忠清南道の瑞山農校を出て、義勇軍で北に行って平安南道中和郡党で活動をしていた。63年に南にきて逮捕された。拷問で中指が曲がっていた。背骨も痛め、睡眠も充分にとれない体だった。先生の趣味は勉強だった。猛烈に勉強して、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、スペイン語を修得した。一文字の濃い眉毛と鋭い目は、謙厳で端正な先生の遺志力と、祖国と民族への烈々とした愛情を湛えていた。出所後、私がアメリカで偶然に会った在米同胞は、昔、大田監獄で看守をしたときに、先生を法廷へ護送したことがあったという。死刑求刑をうけていた先生は、少しも怯えることなく昂然と頭を上げて社会主義革命と祖国統一の大義について滔々と述べたという。そのことを彼は「あんな肝っ玉の大きい人は初めて見た」と、畏敬の念を持って回想していた。獄中生活でも、先生はいっさいの妥協を拝した。そんな生き方は、看守から憎まれ損をするので、政治犯たちも本質にかかわらない問題は適当に折り合ったり妥協したりするのだが、先生はソンピ(李朝の読書人)のように不器用に監獄生活をした。先生は教条や時流便乗ではなしに、自分が生きた時代への誠実な認識と、正義の実現への信念で共産主義者になり、朝鮮労働党員になった。
私が出所する1年ほど前に、「獄中生活をしながら先生の一番嬉しいことは何ですか?」と、先生に聞いた。「(朝鮮民主主義人民)共和国の消息を聞くことだよ。共和国が建設されて、発展する様子を知ることが一番嬉しいよ」。そのころ監獄には、韓国運動圏の「北韓を正しく知る運動」の影響で大量に出版された「分断を越えて」やルイゼ・リンザの北朝鮮訪問記などが入ってきていた。社会主義祖国の発展を自分のことより大切にした非転向囚の多数は先生のように共和国への愛情を持ち、思想の「純潔性」を守り、「党」への信頼と共産主義者としての信念を持つ人たちだった。20~30年の獄中生活で世界は大きく変わった。その人たちのなかには、50年代的冷戦時代の歴史認識を固守している人もいれば、その後の情勢を分析して思想を発展させてきた人もいる。しかし、抗日闘争を指導してきた金日成主席への厚い信頼と民族自主独立、そして平等社会の実現という社会主義的理想への信念では共通していた。

私は出獄直後の記者会見で次のように述べた。「・・・人間らしく生きるためには、・・・すべてを放り出して敗北することはできない。最小限の人間としての自分の良心、ないしは存在というものを自分が守らなければならないという気持、そして凶暴な権力に屈服して良心を奪われることはできないという意志、そういうものが最終的に私を支えてきたといえます。・・・」
私は学生運動をしながら社会主義思想に目覚めたが、獄中で自分を分解して考えると、社会主義の基本的な概念には同感をしながらも巨大な思想体系を身につけているかといえば、自信がなかった。しかし、人間として最小限守らなければならないし、誰も否定することのできない普遍的価値があった。私は獄中での思考をそのような強固な基盤に置き、そこから出発しなければならないと考えた。暴力で人間の内面世界に踏み込む思想転向制度は拒否されなければならないということは明らかだった。
私は工作官や検事からよく言われた。「日本で育ったから「6・25」(朝鮮戦争)も経験していないので、共産主義の恐ろしさを知らない。お前には国家観が確立していない」。国家観などと言われても、急に国家主義華やかなりし昔の亡霊が出てきたようで、嫌悪感を感じるだけだった。独裁政権のもとで、スポーツ・芸術などの分野で国際的な責任をとると、「国威宣揚」云々されるのも同じだ。「国家」は民族分断のための象徴操作に用いられていた。私がソウル拘置所にいるときに、この問題について検事に明らかにしたことがあった。「過去になにがあったとしても、わが民族は統一をしなければならない。私たちにとっては明らかに、民族は国家より上位にある。二つの国家よりもひとつの民族がたいせつだ」

70年代には、緊急措置令違反の学生たちに釈放の条件として、維新体制を支持し維新体制創造に積極参加するという「反省文」をとったことがあった。鄭和栄氏や李康哲氏などは維新体制、朴正煕独裁とのいかなる妥協も拒み、朴正煕が殺されるまで獄中で頑張った。しかし、大部分の学生たちは、これを紙切れとみなし「反省文」を書いて出所した。そのうちの多くは、これにとらわれることなく出所して維新反対運動に遭進した。ただ80年代に維新時代を総括しながら「あまりにも安易な妥協ではなかったか?」という反省が出された。日帝時代に、さまざまな言いわけをしながら親日行為をした知識人への反省がおこり、便宜主義が韓国の精神史を蝕んできたという熾烈な批判も出された。緊急措置令と「反省文」を全員が拒否したなら維新体制はもっと早く崩壊していた、という意見も出された。1人ずつの妥協が、全社会的な精神の荒廃と敗北主義をもたらすという自省もあった。内面における精神世界の自由は民主主義の大前提であり、人が独立し主体性を持つためには不可欠なものだという認識が、あの時代にはまだ充分でなかった。
紙一枚が、時には人の精神をしばる呪符になることもある。人間が自らに課した精神の禁域は鉄格子より強固であることもある。韓国政府は、いまだに国家保安法と思想転向制度を固守し、30~40年も獄中生活をしている33名の非転向囚を獄中に捕えている。この人たちの釈放が韓国社会の不安をつくりだしたり、まして国家安保に危険を与えるものではない。ただ、みせしめとして彼らに苛酷な刑罰を与えている。思想転向制度は韓国の国是である反共イデオロギーの最後の支店なので、あらゆる不合理と非難を押してこの制度を守っている。たった一枚の紙が国家とイデオロギーという膨大な構造物を支えている。

差別支配の構造
獄中の思想転向制度の法的根拠となっているのは、56年の思想転向についての法務長官令と69年に作られた「受刑者累進処遇過程」(法務部令111号)である。その第2条1項5号には「確信犯でその思想を放棄せざるもの」は、この規程の適用から除外するとある。
「累進処遇」とは、まず受刑者を罪名、罪責、刑期、前科の有無、年齢、経歴などによって矯正の可能性を判断して、ABCDに分類して「責任点数」を与える。看守が毎日受刑者を評価して、月1度、作業点数と行状(素行)点数を付け、責任点数を消却していけば処遇総数が4級から1級へと上がっている。処遇が緩和される制度である。たとえば4級囚の書信発信や面会はひと月1回だが、3級囚は2回、2級囚は週1回、一般囚は無制限だ。そのほかに飯の大きさ、テレビ視聴、服装、頭髪、筆記道具の所持、社会見学の回数などすべての処遇に差がつけられる。特に2級囚以上は優良囚(模範囚)といって優遇される。最も重要なことは、優良囚になれば仮釈放や赦免の優先対象者になれることだ。反面、官規違反して懲罰をくらえば、営々として積み重ねた点数は一朝にして没収され降級する。出役(労役に出る)をしないものは未指定といい、累進処遇から除外される無級である。未指定には裁判を終えてまだ分類の終わらない者や、患者、障害者、妊産婦のように労役に堪えないもの、問題囚として出役させない者などが含まれるが、非転向囚も規程により処遇から除外される。
累進処遇者は矯導所が受刑者を差別して支配するアメであり、「在所者規律及び懲罰に関する規程」(法務部令第225号)がムチだ。不平不満なしに看守の言うことをよく聞く<いい子>にはアメをやり、逆らえば容赦なく叩きのめす。

社会が健全であれば、規範を守ることは、その構成員の義務であり利益でもある。しかし、監獄社会は強制されたもので社会構成員の自発的約束により作られたものではないので、自発的義務遵守の動機が存在しない。もちろん道徳的、社会的贖罪意識により「潔く刑に服す」こともあるだろう。ただ社会が道義を失った場合、受刑者に贖罪意識を期待することは無理なことだ。だから差別的で不道徳な社会の監獄での模範囚とは、規律に盲従する主体性を喪失した非模範的な人間だと言えるかもしれない。普通の受刑者はこんな複雑な理屈より、とにかく早く釈放されたい一心で唯々諾々と面従腹背の獄中生活を送るのだ。「国旗への誓い」や「国民教育憲章」「在所者遵守事項」を何百ぺん暗誦させても価値として内面化されることなく、獄門を出れば一瞬にして忘れ去られる。
差別の構造のなかで最下層を占めるものが非転向政治犯である。何十年監獄にいても最悪の処遇しかうけられず、88年までは転向書を書かなければ生きて獄門を出るいかなる可能性もなかった。その意味で、テロや拷問をしたり非人間的術策を弄せずとも、累進処遇規程自体が強力な転向強制装置だった。累進処遇規程も、思想転向制度を促すために1933年に日帝の検事が考案した行刑累進処遇令を源流としている。

一方、思想転向工作をするときは餌を与えて、転向者が特別優遇されるようなことを工作官たちは言うが、法的に特別優遇されるわけでもなかった。所長や保安課長などが巡視のとき、物知り顔に「思想犯は思想に問題があって矯導所に入ってきたのだから、思想だけ直せば捕えておく必要はなにもない。転向して早く家に帰りなさい」などと説教した。しかし、政治犯は転向すれば、ようやく普通の囚人並みに扱ってもらえるだけのことなのだ。
累進処遇規程の「受刑者分類級別基準表」によれば、「確信犯でその思想を放棄せざる者」(非転向囚)は矯正難易度が級外のD級で、翻意した左翼確信犯(左翼確信犯で共産主義思想を放棄するという意思表示があって転向の意志を表わした者)や翻意した一般確信犯(左翼政治犯を除く政治的及び、宗教的理念にたいする確信を翻意し、その意志を表わした者)は改善困難のC級である。C級にはそのほか「前科4犯」「A、B級の犯罪類型で審査結果、改善がきわめて難しい者・・・」がいる。いわば、転向しても政治犯は前科4犯並みだ。
在日同胞や時局事犯のなかには、政治的決断により特別早く釈放された例もあるが、一般的に政治犯は転向しても殺人犯並みの扱いで、無期刑なら18年ほど務めなければならなかった。転向した統一革命党関連無期囚は20年にして釈放された。そのうえ非転向囚は政治犯としての自尊心や権威を重視したので看守の暴言や粗雑な言葉遣いを決して許さなかったが、転向すると泥棒並みに扱われたので、たいがいは頭を低くして看守の横暴を甘受するしかなかった。このような屈辱が嫌で政治犯前科のある人は転向を嫌ったが、暴力で強要されたり、どうしても出所しなければならない事情があって矯導所の統制システムを受け入れるしかなかった。
法や規則による差別だけではなかった。監獄は「法の前での平等」をうたってはいたが、金、面会、学歴、コネ、力のあるなしなどで徹底的に人を差別する不平等社会だった。

思想転向の始まり
思想転向工作を担当する部署を、大田では「工作班」(思想転向工作班)といい、大邱では「専相班」(思想転向工作専担班)といった。工作官は一般矯導職の制服公務員とは異なり、私服を着て「教誨師」の職名を持っていた。原則としては初級大学(短大)卒以上で公開募集するとされていたが、実際には中央情報部の古手や引退した部長、それに所長や議長の息子などがコネで入ってきた。私服勤務で仕事は楽だったが、制服職員にたいする命令権もなく、よくいって教務課長どまりで所長には昇進できなかった。制服職員は彼らを軽視する傾向があり、教務課と保安課はことごとにいがみあっていた。
教務課長(教誨監、副所長級)の下に工作班長の教誨官(課長級)がおり、その下に係長・主任と呼ばれている4級中の教誨師と4級乙の教誨師補がいた。そしてそれを補助する看守2名という構成だった。工作官は2~6年ほどで転勤になった。工作班の構成員も非転向囚の数によって増滅した。
転向工作の前奏曲となったのは、キリスト教女性節制会の登場だった。節制会の目的は生活を節制し、善行を施し、イエスの教えを伝達することだった。中産層婦人たちで構成される節制会は毎週監獄を訪れ、パンや餅や果物などを配っては宣教をした。矯導所は宗教を重要な教化手段と考え、信者が増えれば、それだけ矯正教化に成果があったとした。教務課長の手腕は、どれほど多くの教派から宣教にこさせ、小はパン袋から大は自動車教習場にいたるまで、どれほど多くの寄附を取り付けるかによって評価された。ほとんど毎日キリスト教、天主教、仏教、聖公会、浸礼教などの宗教集会があり、日曜日の総集教誨をそれら教派で主管することもあった。慰問品欲しさに宗教集会に出る<餅信者>も多かったが、二重取りを防ぐため1人1教派しか認めなかった。
工作班は節制会を工作に利用するため、月1,2度集会を持った。会長は肥満した部長判事夫人で、副会長は頬骨の突き出た狂信的な社長夫人だった。彼女たちは、私たちがサタンに取りつかれている哀れな人間だと信じていたようだ。集会が始まると讃美歌をうたい、祈禱をした。「神の前に頭をたれなさい」と言ったが、誰も頭を下げなかった。「頭を下げないと天罰が下ります」と脅したり、「頭を下げても損をすることないでしょう」と、祈禱をさせようと躍起になった。ついには後ろで目を光らせていた工作官が「頭を下げんか」と怒鳴り出して喧嘩になった。それでも大邱はましな方だった。
大田では、福音教の金信玉女牧師が転向工作に深くかかわった。毎週、聖書研究班を開き、出席して祈る政治犯にだけ、特性の折詰弁当を食べさせた。このころ大田では、転向させるために飯を半分に減らす「飢餓作戦」を行なっていた。減食は断食よりいっそう辛い。少量胃に入った飯が胃の活動を刺激するために、飯を食ってからさらにひどい空腹感が襲ってくる。栄養不足で黄色くなった政治犯の鼻先に弁当を突きつけて転向を迫り、弁当を残してソッと房の同志に持って行こうとすれば、奪い取って情容赦なくゴミ箱にたたき込んだ。食い物の怨みはなんとやら。このことは政治犯に語り継がれて呪詛の種となった。

73年9月から転向工作の第一段階は始まった。はじめは<善心攻勢>で「自分たちはあなたたちの苦哀を解決するためにきました。困ったことはなんでも言ってください」と私たちに接近した。それまではほとんど不許可になっていた手紙を許したり、家族を面会にこさせたりした。運動許可も毎日10分となり、パンや日用品などもくれた。こんな懐柔策が2ヶ月ほどつづいた。
軍人や船乗りが手紙をどれほど待ちこがれるか、とう話はよく知られている。監獄でも事情は同じだ。老政治犯たちは長い歳月を獄中で過ごしながら、家に残してきた幼な子が若木のようにすくすくと育っていくのが大きな生きがいになっていた。たまに舞い込んでくる手紙を何十回となく読み返し、出会う人ごとに「末っ子の奴がもう大学に行くんだって、歳月の流れは早いものだなあ。あの時は、まだお乳を飲んでいた奴が・・・」と、相好をくずして語るのを見て、「ああ、子どもの1人もつくって監獄にくるんだったなあ」と、羨ましい思いをしたこともあった。百年が1日のように過ぎていく監獄の生活は、時の流れを実感するのが難しい。何もなすことなくジッと耐えて独房生活をしていると、祖国と人民のためにすべてを献げることを誓った鉄のような革命家も、時には恐ろしい消耗感や、何物も残さずこの世から消え去ってゆく者の空漠とした孤独感にとらえられることもある。こんなときに、実際の人間生活のなかで自分の分身が、愛する者が存在して、日々、成長していることを感知することは、大きな慰めでもある。
思想転向工作は、この慰めや希望すらも踏みにじり、手紙のやりとりを禁止したり、手紙を取り引きの材料にしたこともあった。それでなくても発信は月1回、直系家族にだけ許され、内容も矯導所内部事情や政治問題に触れてはならず、安否を伝えることにかぎられた。70年代半ばまでは字数も300字にかぎられ、字数や内容が制限にふれ不許可になっても当人に知らせてくれなかった。入ってくる手紙も内容制限をしただけでなく、法的には3日以上所持することが許されず、読み終えれば倉庫に領置しなければならなかった。家族以外の手紙は不許可にして、1ヶ月後に焼却処分した。

75年ごろ工作官が「アムネスティってなんだか知っているか?」と、私に尋ねたが、分からなかった。房に帰って英韓辞典を調べると「赦免、恩赦」とあったが、工作官がなぜ尋ねたかは分からなかった。その後、それが国際赦免委員会と訳され、政治犯、良心囚を支援する世界的組織であることを知るようになった。そのときちょうど、アムネスティ・インターナショナルから手紙がきていて、工作官も知らなかったので私に聞いたのだった。これと同じようなことが70年代の後半にもあった。
ある日、工作官が英文の手紙を持ってきて「この手紙は所長宛てにきたんだが、所長が何の内容か、いますぐ訳せとおっしゃって弱ってるんだ。これを訳してくれないか?」と頼んだ。看守が時々、英語や日本語の手紙を読んでくれと、私に持ち込んだことはあった。しかし、所長宛ての手紙は初めてだった。読んでみると、オランダの人権団体からきた、私の健康保障と釈放を要求する手紙だった。翻訳してやると、工作官は少々慌てて、間の悪そうな顔をして帰っていった。アムネスティから私を激励したり当局に釈放を要求する数百、数千の手紙がきたが、工作官の気分によって何通かを見せてくれただけで、多くの人の誠意と願いは、そのほか多くの支援者の手紙とともに監獄の焼却炉の灰燼と化してしまった。しかし、これらの願いと努力がまったく無駄だったわけではなかった。監獄では誰にも知られていない囚人を殺したり虐待しても、それほど大きな問題はなかった。拷問して殺しても、「心臓麻痺」として書類処理すればすむことだった。だから外部の人が、ある囚人の存在を知って関心を寄せているという信号は、極端な弾圧にブレーキをかけることもあった。


Nederlandsオランダ語→Amnesty International is een vereniging die de naleving van de mensenrechten beoogt zoals die zijn vastgelegd in de Universele Verklaring van de Rechten van de Mens en andere internationale mensenrechtendocumenten. Het symbool van deze niet-gouvernementele organisatie (ngo) is een kaars met prikkeldraad, een verwijzing naar het motto 'Het is beter een kaars aan te steken dan de duisternis te vervloeken.' Met afdelingen en individuele leden in meer dan 150 landen, en een totaal van meer dan zeven miljoen leden en ondersteuners, is het 's werelds meest verbreide

面会も事情は手紙と同じで、月1回、直系家族しか許されなかった。面会時間は矯導所では、はじめ5~10分ぐらいだった。事件の話、時事に係わる話、矯導所の内情について、外国語の使用など一切禁止だった。妹の英実はその時、朝鮮語を知らなかったので、面会に来ても、日本語を知っている古参幹部などが立ち会わなければ、ほとんどなにも話せないで帰ったこともあった。「特別面会」といって、思想転向を迫られたり、恩に着せられたりしなければならなかった。弁護士も事件で選任された人以外は非転向囚と面会できなかった。獄中で暴行事件などがおきて弁護士に会おうとしても、獄中からの選任を許さなかったので不可能だった。
73年の11月になると平和な時期は終わり、強制転向の第二段階として規律が強化された。矯導所では行刑法、同施行令、同施行令原則、法務長官令、通牒、矯正累進処遇規程、保安勤務遵則、在所者遵守事項、所長指示等々、数え切れない法と規則が受刑者と看守を縛っている。これをすべて守って暮らしていくことは不可能だ。それに在所者の義務のみを強要し、権利は無視する偏跋的なやり方だ。もともと法に従って執行するのが行政なのに、この通りおこなえば看守も受刑者も苦しい。「差し入れや購買なしに監獄の飯だけ食っていれば、3年で死ぬ」と言われていた。看守は在所者を脅すときには「それじゃ原理原則<規則>通りにやってやろうか?」と言う。在所者も<原理原則>を恐れる。韓国には当時「できることも、できないこともない」という文句があった。法の通りにはいかない、ということだ。歴代軍事政権は法を破りクーデターにより政権を簒奪し、民主国家としての体面をつくろうためにもっともらしい法を作ったが、権力者は法の上にいて法を守らない。法治国家ではなく、人権とコネとワイロによって動かされる全権、暴力、人治国家だった。監獄には公式と非公式の乖離があり、その間に<ゆとり>があり、それで息を継いでいた。
飢餓作戦
特舎の規律強化は、すぐに通房の徹底統制、正座(朝鮮の正座は日本の胡座、日本式の正座は敵に降伏するときの座り方として、非常な屈辱と考える。獄中で罰を与えるとき「膝を屈してすわれ」と、日本式の正座をさせた)の強要、検房の強化、規定外物品の押収という形で現われ、私たちに大きな苦痛を与えた。規律が強化され、食生活に大きな影響があった。飯は麦50パーセント、米25パーセント、大豆25パーセント、1から5まで数字が上に打ち出されと円錐台のカタ飯だった。5等は患者食で8勺の白飯(ただし必要な患者にだけ)、4等は1合、3等は1合2勺というふうに大きくなった。非転向囚を含め、作業をしない<未指定>の在所者は、4等だった。出役すると行刑総数と作業強度によって飯が大きくなり、1等は鉄工所の切断工とか汲み取りをする衛生夫が食べた。非転向囚の食事は、50年代には5等の雑穀飯だったが、それすら朝鮮戦争直後の食糧不足と不正腐敗のため定量ではなかった。「一口、二口で終わってしまう、電球のように小さい飯」は57年8月から4等になった。
獄中では「目が秤り」などというが、何十年も同じ飯を食べていた私たちは、かさを見ただけでもおおよそ何グラムになるのか見当がついた。房で箸などで天秤を作り、バターなどの重量表示のあるものをかけて目方を量る人もいた。ある人は一個の飯のなかに豆や米が何粒入っているかを数えもした。汁が配られる時には視察口に張りついて、汁の実の大根の葉がどれくらい入っているかを知るためにアルミ缶をのぞき込み、実が公平に配られるかを見守る人もいた。大根の葉がたくさん入ってきた日には、なんだか得をしたようで私も気分がよかった。以前には、便所から出てきた鼠を捉えて食べたり、洗面場の下水に落ちている豆を看守の目を盗んで拾ってきて洗って食べたことを考えてみても、ひもじさは人間を卑しくさせるものだということをつくづく知らされた。
不正をして職員が米を持ち出したり、炊事夫が横流しするので、飯の定量はいつも不足だった。あまりひどいと、定量の飯を食べるために飯を拒否する断食闘争をした。定量どおり1合でても、副食が劣悪なので差し入れのない人には足りない。栄養不足になる。飢えている特舎の政治犯は、ひもじさを逃れるために水を足して飲んだ。特舎の人は80パーセントほどが高血圧だった。殺伐とした雰囲気から来る心理的緊張と、塩分を取り過ぎることが原因だった。
獄中ではすべての物が犯則<ヤミ取引>の対象だった。カタ飯も例外ではなかった。だいたいひと塊り10ウォンほどで他の品物と取り引きされた。特舎でも何個かは出まわった。それに配食を終わって残った飯粒などは、ふつうは希望者に順番に分け与えるならいだったが、規律強化以後、飯も汁も残った物はいっさい捨てられてしまった。済州島出身の図体の大きい元白圭先生は、同志たちのやりくりで他の人の2倍ほどを食べていたのだが、糧道を断たれて2ヶ月間に萎びたナスビのようになり、この飢餓作戦に屈服して転向した。
特舎の政治犯は、基本的に購買物や差し入れは全員に公平に分配した。栄養補給のために予算を作り最低限、毎月1人当たり「バター」(半ポンドのマーガリン)1個、玉子10個、乾パン1袋ほど行き渡るようにした。「バター」は糸で切って30等分しておいて毎日1片ずつ食べていた。名節<祭日>の時は、リンゴや餅を買って配った。患者や虚弱者には玉子やリンゴなどの栄養分を追加した。消化酸素剤、ビタミンのおうな薬も買って分けた。食堂のかけうどんは1杯40ウォンだったが、たまに買って分けたこともあった。これらを特舎では<援助>と呼んでいた。

問題は買うことより、分けて各房に送ることだった。獄中では規則で物品の援受はできない。特舎ではこの規則が特に厳しかった。だから看守にと奉仕員が大目に見てくれるように、ワイロを使ったりして彼らとよい関係を築かねばばらなかった。奉仕員に使いをさせれば、送る物品の価値の50~100パーセントを与えねばならなかった。しかし、これすらも規律の強化で途絶えてしまった。
血肉の情
思想転向工作の第三段階は、家族を通しての説得だ。金鎮哲工作班長は、「転向とは(まわ)って家にかって帰ることだよ」といったが、家と家族を転向工作の手段として用いる方法は、日帝時代から使われている古典的な方法だ。1943年の日本官憲資料によれば、転向者の28パーセントが家族関係を転向の理由としている。家族主義、儒教的「孝」の倫理が強い東洋においては、血肉の情が有力な転向工作手段だった。もちろんこの場合、家族の自発性より工作班の強制である場合が多い。6,70年代には法的根拠なしに非転向囚には面会を厳しく制限した。家族がワイロを使うか、転向工作上必要な時だけ面会させた。一般囚は保安課長の決裁で面会許可がおりるのだが、非転向囚は所長の決裁が必要だった。実際には中央情報部の許可が必要で、面会内容を逐一情報部に報告した。

韓国では、<アカ>の烙印が押されただけでも社会的差別と排斥をうける。ましてや<間諜>だとなれば社会的に抹殺されるかもしれない。連座制(国家保安法、反共法などの違反者の家族は、外国旅行や公務員任用資格などの制限をうける制度)は1981年に方としてはなくなったが、ある家族のなかで<間諜>が出たといえば家族親戚みんなが引っ張られ殴り倒されたうえ、何人かは連座して投獄され、家族は破綻してしまう。そして残ったか家族は後々までも要視察者として所管警察情報課の定期的査察をうける。警察は動静把握をするだけでなく、金をゆすったり、酒食の供応を強要した。連座制により、家族は公務員や会社員にもなれなかった。家族は食母(家政婦)や行商や日雇いなどをして延命した。近所の人は警戒し、村八分にされた。獄中の苦労より残された家族の苦痛のほうがより大きいかもしれない。家族は政治犯を怨んだ。「間諜の子だ」とイジメられる子供の心は惨憺たるものだ。家族たちは転向してくれと、泣いてすがりついた。奇世文先生の息子は全南医科大学に合格したが家族の社会的な迫害のために自殺してしまった。このような悲劇は少なくなかった。
私の向かいの63房の崔鍾翼先生は、江原道麟蹄が故郷だ。そこは朝鮮戦争の前は38度線以北の領域で、後には、以南に編入された。人民軍兵士として参戦し、捕虜となった。工作班では故郷の老母を連れてきて、彼を親不孝者だと責めたてた。結局、母の涙の前に転向せざるを得なかった。獄中で、面会は一番重要で嬉しいことである。しかし、血肉の情と良心の葛藤は拷問よりも辛いことだったので、70年代には家族面会を拒否する政治犯たちもいた。そうすると工作班では「アカは親も兄弟も知らない。倫理も道徳もない恐ろしい人間どもだ」と言いふらした。しかし、彼らこそ血肉の情を非人間的な転向工作の道具につかっていたのではないか。
私のオモニの場合も、5分か10分の面会をするためにはるか日本からやってきても、面会する前にまず教務課長や工作官の説教を延々と聞かねばならなかった。「転向しろと言え。じゃないと面会はさせん」「なぜ泣かないのか?泣け!ほかのオモニはみんな泣く。泣いて息子にすがりついて転向を勧めろ」。オモニはいつも「私は学校も通ってませんので転向が何か知りません。息子のほうがよく知っていますので息子が判断します。息子は悪いことをするような人間ではありません」と言いはった。なんでもいいから転向を勧めないと面会させないと脅かせば、「この人たち、転向せえと勧めろと言うてはるけど、私は知らんさかい、正しいと思ったようにしなさい。ただ人を裏切る汚い人間になったらあかんで」と言ったものだ。

白色テロ
思想転向工作の第四段階は暴力とテロだった。73年12月の末に孔印斗先生がまっ先に拷問された。孔先生は馬山出身で智異山パルチザン支隊長をしていた。「4・19学生革命」の後の赦免で20年に減刑され、75年が満期だった。工作班室で工作官2名が先生を椅子に縛りつけて棍棒で足を乱打した。これはほんの始まりだった。次々と呼び出しては棍棒で殴り、手錠をかけ、手をねじ上げて転向書にむりやり拇印を押させた。強制押捺で転向した人もいたが宋相俊先生は15日間抗議断食をして書類を破棄させた。宋先生は釜山地区パルチザンだが、孤児で一時期、洞窟住まいする乞食の集団にいたことがあり、一般前科があったから余計にひどく殴られた。宋先生は毛が濃くて「山賊」の愛称で呼ばれていたが、寡黙で勇気のある人だった。
やはり強制押捺させられた朴鳳鉉先生は、教務課長面談を要求し1週間断食をした。工作官は一度転向書を書けば変更はできないと言いはったが、自分の転向書を確認したいから見せろと言って、それを破り食べてしまった。朴先生は全羅北道淳昌出身で、苦労して日本で大正大学に通い、解放後、延世大学を卒業した。教員生活をしていて、朝鮮戦争の時は光州高校校長も務めた。人民軍の後退に従い、北に行って専門学校のドイツ語の教師をしていた。勤勉で、学問にたいする探究心の大変旺盛な人だ。獄中でも文芸学と語学(ドイツ語、フランス語、ラテン語、英語)を探究していた。世が世なら大学者になっていただろう。性格は竹を割ったように明快で気概のある人だ。
74年秋、工作班では通房を防止するために、各房に盗聴器を設置した。すべての行動が洩れなくあからさまに監視されるのは、いくら監獄だといっても恐ろしい心理的緊張と圧迫を呼び起こした。当時まだ工作班の暴虐の前に萎縮しきっていたので、誰も面と向かって抗議をできなかった。ひとり朴先生は盗聴機を仕込んだスピーカーの線を引きちぎって振り回しながら叫んだ。「20年も監獄で暮らした。還暦も過ぎて高血圧でいつ死ぬかわからない。殺すならひと思いに殺せ。屁を放る自由もないこんな所で暮すより死んだほうがよっぽどましだ」。これを契機に騒乱が起こり、結局、あからさまな盗聴器は撤去された。
このころ白色テロの嵐は、大邱ばかりでなく全国の政治犯監獄で吹き荒れた。この時のテロは、満期が近づいた有期囚を中心に進められた。私は無期だったのと全身傷だらけで手のつけようのないことと、日本などで国際的注視をうけていることから、第一次テロは免れた。大邱は、それでも大田や光州に比べてテロの程度がましなほうだった。大田では拳銃を突き付けて転向を迫ったり、恐ろしい拷問がつづけられ、2人殺されていた。85年に大田から大邱にきた奇世文先生は、「(戦場の)前線から後方にきたようだ」と評した。それには、教務課長や工作班長の性格、大邱矯導所の一般的雰囲気などが作用していたと思われる。
1974年に入り、工作はますます激しさを増した。まず、在所者の最小限の権利を奪った。自らの<原理原則>を超えた法の蹂躙だった。書信、面会、読書、診察、購買などが禁止された。運動も些細なことに難癖をつけて何日かずつの停止処分を下した。ふつう雪のときは運動するが、3月は雪が多くて、それを口実にひと月の間に、3日しか運動できなかった。本当に体が腐りそうだった。夏の暑いさかりに0・78坪の房に7,8名を詰め込んだこともあった。座る場所もなく、暑さと睡眠不足で失神する人も出た。74年秋には2週間ほどスピーカーのボリュームを全開にして、1日中音楽を流しつづける精神的拷問もした。なかでも最も悪辣なのは、診察を中止したことだ。病気になっても「薬が欲しければ転向しろ」と毒づいた。
工作班では保安課と組んで、特舎を監視し生活を統制するために、悪名高い浦項のカンペ(ゴロツキ)金成基を奉仕員として配置した。奉仕員は暴行や傷害などの初犯者や、運転手などの過失犯から選ぶのだが、金成基は牛のような体格をした前科7犯のカンペだった。前科者は看守より監獄のなかの事情と在所者の行動を知りつくしているので、どんな動きも彼の目を逃れるのは難しかった。金成基がきて、舎棟は恐怖に包まれた。夜は舎棟中央の17房に他の2名の奉仕員と寝泊りして、夜の通房を監視した。昼は足音をしのばせ、房の前後をまわり、些細な通房も見逃さなかった。受刑者が触れることを禁じられている鍵を持ち歩き、通房があれば、すぐに扉を開けてひきずり出した。担当は金成基の言うなりで、彼が特舎の王者だった。何人も彼に殴られた。権寧徳先生、白光培先生、朴判守先生は彼に懲罰房に放り込まれて針で全身を突き刺す拷問を受け、朴先生以外は転向させられた。
非常な勇気をもってー俊植の暴露
74年8月、オモニが面会にきて、私たち兄弟がアムネスティ・インターナショナルの「良心の囚人」に選ばれたこと。俊植が大田で、歯が抜け背中が真っ黒になるほど10余人の看守に集団暴行されたことを伝えてくれた。そして74年春、彼は光州に移され、そこでも工作班が暴行をはたらき、真冬に水をあびせて布団を押収するなどの暴挙をおこなったという。工作班では、ことの露見を恐れ、オモニと面会させなかった。半年ほど一度も面会が許可されないので、オモニは息子は殺されたのではないかと大変心配した。この問題を各界に訴え、西村関一牧師(当時社会党参議員議員)が金鍾泌総理の許可を得て面会した。そこで恐ろしい拷問とテロを俊植が暴露して、世界の人々に大きな衝撃をあたえた。これは思ってもみなかった反撃だった。

当時、中央情報部は「天下になす能わざりことなし」の権勢に酔い、血に迷ったテロ集団だった。ソウルの崔鍾吉教授は拷問で殺されたという。相手が国会議員でも与党の最高幹部でも「このごろの態度が生意気だ」というだけで引っぱって拷問した。これが73年8月の金大中拉致事件を引き起こした。中央情報部の驕りと暴虐は、血迷った朴正煕の驕りと暴虐だった。
*金大中绑架事件(韓語:김대중 납치 사건)指1973年8月8日發生在日本東京的綁架事件。該事件由大韓民國中央情報部(KCIA,現在大韓民國國家情報院的前身)策劃實施,目標為當時流亡美國與日本的大韓民國政治家、民主派人士及最大反對黨領袖,後來成為韓國總統的金大中。
看守すら接近し難い「監獄の中の監獄」からこんなに手痛い反撃をうけることになるとは、情報部も夢にも思っていなかったのだろう。中央情報部は、俊植の暴露に怒り狂い、さらに暴行を加え、俊植の房の通気孔を溶接し看守1人を房の入口に配置し、24時間監視する特別監視をおこなうという報復をした。恐ろしい報復を覚悟で、俊植は真実を彼の言葉どおり「非常な勇気をもって」暴露した。振り返ってみれば、その後もテロはおこなわれたものの、この暴露により工作班のテロ攻勢は大きな山を越えた。彼らが大言壮語した非転向囚の絶滅は、失敗に帰した。
しかし、私たちの状態も惨憺たるものだった。73年12月から74年4月ごろまでのテロで、非転向囚の3分の2が転向してしまった。テロが下火になったからといっても、転向工作が終わったわけではなかった。相変わらず暴行もあったし、隠微な形でのさまざまな弾圧があったが、私にとっては6ヶ月間、本を押収されたのが一番辛かった。独房で本がないことは死ぬほど辛いことだった。この弾圧のなかで私たちがとれる抵抗は、まず強制転向に最後まで屈しない個々人の闘争だった。集団闘争を試みるなど、とてもできない状態だった。1人ずつゴボウ抜きにされて行く同志を見ながら、手をこまねいているばかりだった。「このまま一方的にやられるのか?抵抗の契機を作り、なんとか流れを変えなければならない」という焦燥感が募っていた。

1976年、死んだように息をひそめていた私たちは、ついに抵抗の声をあげた。3月、孫允 先生が、朴光祖工作官に殴られ鼻血を出しながら房に戻ってくると、抗議断食を始めた。尹喜輔先生も50余回蹴られ、肩が抜けるという暴行をうけた。孫先生は全羅北道扶安郡白山面で生まれ、日本で学び帰国後、白山中学の教師を務めた。48年に南労党扶安郡責任者として逮捕され、懲役8ヶ月をうけた。焼け火箸で下腹部を焦がす拷問をうけ、無惨な傷を残していた。その後、入山しゲリラ活動をしたが53年に捕まり、大邱監獄で死刑囚として7年を過ごし、「4・19」で無期に減刑された。孫先生は慢性胃腸病で体が弱く、頭だけが大きくて、骨格標本のように痩せていた。万事に不器用でもの静かな孫先生の楽しみは、ひとりで数学や物理学の問題を解くことだった。
体があまりにも弱いので、断食は無理だった。3日過ぎて「同調断食をして問題を解決しなければ命が危ない」という声が同志の間でおこったが、萎縮していた私たちは踏み切れなかった。断食6日目には孫先生は医務職員にかつがれて房を出たが、夕方まで戻らなかった。点検の時に部長が補助担当に「木札はもう要らないから抜け」という声が聞えた。木札は囚人番号、姓名、生年月日、刑期を白字で書いた幅3センチ、長さ15センチほどの黒い木片だ。獄中では移動するとき、常についてまわり、房の扉の横にある房の面積と収容定員がしるされた木札函に差し込むことになっている。木札が必要ないということは死亡を意味する。部長の声が聞えるいやな、崔夏鍾先生が口火を切った。舎棟では「殺された!」「孫先生が殺された!」という壮絶な叫び声が上がり、「孫先生を生き返らせろ!」「殺人者を処罰しろ!」と叫びながら全員鉄扉を打って大騒ぎになった。保安係長が数十名の武装看守を動員し威嚇し鎮圧にあたった。係長は「死んでいない。入院させただけだ」と嘘をついたが、「なぜ木札がいらないのか?」という追及に答えられなかった。
後でわかったことは、孫先生を医務室に連れて行き、工作班の陳正看守が喉にホースを突っ込み強制給食拷問をした。医務部長が、「容態が悪い。急にあまり詰め込みすぎた」と慌ててカンフル注射を打ったが、孫先生の息は絶えてしまった。私たちは殺人に抗議し、所長面談を要求して全員死をかけた断食闘争に入った。要求項目は①暴行者と殺人者の処罰、②所長の公開謝罪と拷問根絶のための事後保証、③故人の葬礼に同志を参加させること、だった。断食3日目に安清吉保安課長が交渉代表3名と面談した。課長は、①今回のことは工作班でやったことで、自分は事故を遺憾に思う、暴行者になんらかの処分はするし、特舎を保安課で管理し再び不祥事のおこらないようにする、①断食を終えれば副所長面会を斡旋する、②老人の代表が死体安置室で香を献げるのを許可する、と約束した。これで私たちは断食を終えた。暴行者の処罰はうやむやになり、所長面会も実現せず、人命犠牲の代価としてはあまりにも貧しい結果だった。しかし、工作班の攻勢が始まって以来、はじめての集団闘争で工作班の蛮行を糾弾し、闘争意志を明らかにした。当時の力関係では、これで満足するしかなかった。

赤い星―工場地下組織事件
75年12月3日、23名の非転向囚を含め100余名の政治犯が大田から大邱にきた。75年7月に社会安全法が作られ、清州に社会安全法による拘束者を収容する保安監護所を新築するまで大田6舎を臨時監護所に使うために大量移送が断行されたのだ。
安永基先生は慶尚北道善山出身で、釜山商業を出て朝鮮戦争のとき、義勇軍で北に行った。人民軍徐隊後、建設大学と大学院を卒業し、平壌市建設団の建設技師として、平壌大劇場、玉流館などの建設にたずさわった。スポーツ万能でサッカーやピンポンもうまかったが、水泳選手で大同江での遠泳大会では二等になった。65年、38度線を越えた太臼山脈で銃撃をうけ逮捕された。大田監獄で彼は妥協しない熱烈な共産主義者として当局から睨まれた。大田監獄では自分の娘を強姦殺人した麗水のカンペ高水済らゴロツキ3名を<掃除>として特舎に配置した。安先生は74年1月、その房に連れて行かれ、夜どおし殴られ、針の束で刺されて転向させられた。数日後、転向声明発表会で彼は腰が立たず担架で運ばれ、傷だらけの手を隠すために白い手袋をして舞台に座り込み、号泣しながら声明書を読んだ。その彼が、大邱にきた10ヶ月後の76年10月に、特舎に手錠をかけられて入ってきた。
*평양대극장(平壤大劇場)은 조선민주주의인민공화국 평양직할시의 승리 거리와 영광 거리의 교차점에 조선식 건축양식으로 세워진 극장이다.[1]
*옥류관(玉流館, 영어: Okryu-gwan 또는 Okryu Restaurant)은 평양시 중구역 대동강변에 자리잡고 있는 식당이다. 이 식당은 평양냉면과 평양온반이 유명하고 이 외에 다른 요리 등을 판매한다. 평양시 중구역 창전동에 위치하고 있으며 1960년 8월 15일에 해방절(광복절)을 기념하기 위해 준공 및 개업하였으며, 전통식 합각지붕으로 지은 2층 건물이다.

矯導所では春秋に運動会をする。閉じ込められていた囚人たちが1日中グランドで飛び跳ねるだけでも大変な楽しみだが、作業場対抗で競技し、入賞チームにはメリケン粉や芋、日用品などの賞品が出るので、在所者はこの日を指折り数えて待ち望んだ。運動会は獄中最大のお祭りだ。この日は看守全員が非常警戒をしき、未決を除く全受刑者が参加する。肉汁、果物などの特別食が出て、グランドではうどん、パンなどの売店がならび、地方有志や篤志家も招かれ、平生獄中では見られない子供や女性も運動場を闊歩した。各チームは人形や旗、看板などを作り、応援団もくりだし、女舎チームは嬌声を上げながら踊って大騒ぎだった。「地獄の釜の開く日」とでもいうか、いつも固く閉ざされ険悪な監獄からは想像しがたい解放感と奔放さが渦巻いた。喧嘩する者もなく、殺人犯、強盗、強姦犯、詐欺師が一緒になって子供のように汗まみれになって跳んで、走って、応援する姿は不思議だった。競技には参加できなかったが、非転向政治犯も伝統的にこの日ばかりは参観を許された。一日中青空の下で太陽の光を浴びて、老若男女の姿を見ることだけでも至福の時間だった。しかし、悪質教務課長、姜哲亨の提案で76年春以降は非転向囚は除外され、この楽しみも奪われた。

76年秋の運動会で、一部過剰忠誠する工場ボスと姜哲亨教務課長の差し金で、人形を火あぶりにする「金日成火刑式」をすることになった。当時、総力安保体制のもとで、中・高校の運動会や官製デモでこの火刑式がおこなわれていた。共産主義にたいする敵愾心と同族にたいする憎悪を最も粗野な形で演出するこの行事は、はけ口のない凶悪犯を刺激し、左翼囚にたいする暴行を呼び起こす危険性があった。
安先生は「火刑式」を取り止めさせるため、所長面会を申請した。実際、取り止めになったのは、所当局が安先生の説得に応じたのでも、金日成主席に敬意を表したのでもなかった。「火刑式」が当時工場にいた2,300名の転向左翼囚と凶悪犯の暴動を呼び起こすことを、恐れたためだった。課長は安先生に手錠をかけ、縛って特舎にブチ込み、工場の転向左翼囚の動向を綿密に調査し始めた。これが<赤い星>事件(「大邱ラジオ事件」ともいう)の端緒だった。実際「火刑式」阻止は工場地下組織(在監同志会、いわゆる「赤い星」)での決定で、安先生が直訴人に選らばれたためだった。77年正月に李命善保安課長は工場の大捜検を命じた。タレ込みがあったようだ。捜検の結果、洋裁工場の二班台(作業台)の下の排水管奥深くに隠してあったトランジスタラジオが押収された。監獄でラジオは絶対禁止だった。二班台長、李俊泰先生は、日本にいる朝鮮総連幹部である父と会ったために国家保安法で10年刑をうけていた。彼は連行され鼓膜が破れるほど殴られ、ラジオの出所と関連者を吐かされた。ラジオは工場交替看守、鄭又栄が5万ウォンをもらって持ってきたものだった。鄭担当と関連者は全員特舎に収容され、中央情報部が泊り込みで調査をすすめた。

工場地下組織<赤い星>は「在監同志会」として60年代末からあったが、「7・4声明」後の72年秋、「南朝鮮民主化闘争同志会」として祖国統一と民族解放をうたった綱領要約をつくり、工場出役政治犯10余名を網羅した。その後、何人かは出所し、組織は獄内外にまたがるものとなった。獄外では資金をつくり、獄中では組織の拡大と学習、非転向囚への支援を担当した。ラジオを入手し、ソウルと平壌のニュースを聞き、ニュースネットワークに渡した。ニュースネットワークは出役している転向政治犯50名ほどを対象としていた。特舎にはビタミンなどの援助をし、たまに重要ニュースを伝えてきたが、警備が厳しかったので円滑にいかなかった。
指導者は獄中の朴宗麟先生、獄外の鄭栄勲先生だった。
朴先生は「満州」、豆満江岸で生まれた。父は金日成抗日軍の都市連絡員で、日帝に捕まり7年の獄苦で得た病のために解放後まもなく死亡した。兄たちも抗日軍の隊員だった。
朴先生は「革命遺子女」として萬景台革命遺子女学院にすすんだが、朝鮮戦争がはじまるとすぐ無断退学して、偽名で人民軍に志願して通信兵になった。除隊後、上佐(大佐)階級の内務省通信課副課長として在職中、59年無電手としてソウルに派遣された。60年1月、米・韓諜報部隊内の地下組織事件として世人を驚かせた「牡丹峰事件」で逮捕され、無期囚になった。彼は小柄で色白の病弱な人だったが、謙虚な人柄で人望を集め、その経歴とあいまって工場の政治犯の中心人物となっていた。                 

鄭先生は全羅北道高畝の人で日帝時代から独立運動家だった。解放後、金炳魯大法院院長の秘書などもつとめたが、南労党員として逮捕され、75年に出所した。雄弁家で頭脳明晰な鄭先生も工場の政治犯の中心人物だった。
先生は一審裁判中の77年6月25日(朝鮮戦争勃発の日)、昼食がすんだ直後、便所の鉄格子から首を吊って自殺した。約30分後、これを発見した看守が慌てて死体を廊下に引きだし紐を解こうとしたが、青い木綿の官服を裂いて撚った紐は喉に固く食い込み、解けなかった。看守は1舎の向かいの理髪所までとんでゆき剃刀をもってきて紐を切ったが、すでに遅かった。死体はカッと目を見開き歯をくいしばり、首を吊るときに足が地に着かないようにあぐらをかいて脚を縛っていた。まるでこわれた座仏のように廊下に転がっていた。
鄭先生の自殺以前にも私が73年に大邱に移った直後、首を吊った尹宗河先生をはじめ4名、その後さらに4名、70年代に特舎で計9名の自殺者がでた。胃癌を患っていた工作船の船長、黄老人は、前方の視察口の鉄格子で首を吊ったが、他は全部便所だった。
自殺は舎棟担当のみならず、保安課長以下、関係職員全員が懲戒される重大な保安事故なので、矯導所では防止に腐心した。通房を防ぐために視察口を閉じれば、独房は完全な密室になった。視察者さえ通り過ぎれば、自殺でもなんでもできた。勤務規定では10分に一度ずつ視察をすることになっていたが、71個房を看守1人で休みなく視察するなど、できない相談だった。私たちが視察のときだけ正座をし、神妙をよそおったように、看守はおおむね居眠りしたり本を読んだりして、上役が巡視にきたときだけ勤務しているようなふりをした。そこで自殺防止のために視察口を開放したが、やはり通房が問題だった。自殺と通房のジレンマをめぐって、保安課の政策は動揺し、このころ、視察口の蓋を開いたり閉じたり、立てたり斜めにしたり、目まぐるしく方針が変わった。
自殺が1件おきるごとに、保安課は上部に報告するための防止策をとらねばならなかった。はじめは、房内の動静がよく見えるようにと便所の扉を取り払った。次は、紐をかけられないように目の細かい鉄格子を張った。それから、首を吊っても足が地に着くように便所の床を3,40センチ高くした。しかし、これらの措置は自殺を防止するのにほとんどなんの効果をもたらさなかった。肝心なのは自殺に追い込む弾圧や非人間的状況をなくすことだが、当局には毛頭そんな考えはなかった。

鄭先生の自殺で検事と中央情報部は激怒し、嬌導所は大きく面目を失った。裁判中の被疑者が死んで裁判の進行にも蹉跌がでたが、情報工作と事件拡大のための端緒を失ったほうが大きな問題だった。金容泰舎棟本務担当は、勤務怠慢で3ヶ月の減俸処分をうけた。
10名ほどの事件の関係者のうち、南勉宇、権養彬先生とは向かいどうしで時々通房をした。南先生は当時70歳ちかくで、鷹のような印象のひとだった。平壌では検事をしていた。獄中では詩や随筆を法務部教化誌の「新しい道」によく投降していたので、名前は記憶していた。作品はあまり良いものだとは思わなかったが、先生は「領置倉庫に書き貯めた大部の日記、文芸作品があるのだが、生きて持って出たい」と、強い執着を持っていた。獄中で日記をつけたり文芸作品を書いたりすることは、鉛筆を持っているだけで懲罰1,2ヶ月はくらう私たちには想像もできないことだった。権先生は平北鉄山のモナザイト鉱山に付属する鉱山専門学校の校長をしていたという。55歳の彼は2年前の75年に出所して故郷、慶尚北道義城の反共連盟会長が経営する練炭工場に経理員として就職し、前年、社長の紹介で、結婚したという。先生は社長に頼んだりして、釈放のために手をつくしていた。
彼らは私に「どうして何もしないで独房に座っているのか。出て(転向して)できることがいくらでもあるじゃあないか」と無能さをたしなめた。「非転向を通すべきか?偽装転向をして何かなずべきか?」という論争は政治犯のなかで常に提起された。偽装転向をしてをして大事をなす人もいるだろう。だが私には大事をなす能力も展望もなかった。それに偽装転向の論理はしばしば自己合理化の論理に変質しがちだった。「ミイラ取りがミイラになる」というか、状況の論理のなかで自分でも何が本当の自分なのか分からなくなってズルズルと「偽装」が「本物」になっていった例を多く見かけた。なによりも、たとえ偽装であれ、私にはあまりにも卑屈な権力への阿諛はなしえなかった。

非転向囚の多くは自分の「政治的純潔性」に誇りを持ってはいたが、権力に身も心も売りわたした者をのぞいて転向者をあまり悪しざまに言ったりはしなかった。大部分の転向者と非転向者はお互いに共感をもちいろいろな面で助け合うところがあった。転向制度は権力がつくりだした分断制度である。獄中で非転向囚を最も苛酷に処遇して、転向と非転向を分け、人間の精神を分裂させ、家族を分裂させ、同志を分裂させ、社会を分裂させ、民族を分裂させる制度であった。
裁判の結果、朴先生が二つめの無期、他は5年から20年刑が宣告された。転向者が追加刑をくらうと、再転向をしなければならなかったが、彼らの半数ほどは再転向を拒否した。ラジオをもたらした鄭又栄担当には国家保安法の便宜提供罪で1年6ヶ月の実刑が言い渡された。
独裁者の死、70年代の終末
1979年10月26日、独裁者朴正煕は宮井洞中央情報部別館での淫蕩な酒宴の席で腹心の金載圭中央情報部長の銃弾に倒れた。

*朴正熙被槍殺案指的是1979年10月26日晚7時45分(韓國時間),時任韓國總統的朴正熙在漢城宮井洞,韓國中央情報部的秘密宴會廳內被時任中情部長金載圭槍殺的事件。朴正熙胸部及頭部中彈當場身亡。一同出席宴會的青瓦台警衛室室長以及四個保鑣也一同遇害。在韓國,此事件以其發生日期通稱為「10.26事件」[1]。
人々は朴正煕により韓国が経済的発展を遂げたと評価する。しかし、彼の19年間の統治は不正と腐敗、数えきれない民衆の血と涙で汚れきっている。その独裁政治に高まる内外の批判にもかかわらず、恐怖情報政治によりしぶとく生き延びた朴正煕の最期が、こんなにあっけなく訪れるとは夢にも思っていなかった。「10・26大統領暗殺事件」の真実と、右翼から左翼、そしてまた右翼と変身を重ねた朴正煕の死後に花開きかけた「ソウルの春」も、全斗煥のクーデターと「光州虐殺」によって一場の春夢と化した。しかし、朴正煕の死は、いかに強大で暴虐な独裁政権にも終わりはくることを再確認させてくれた。
10月27日朝、運動に出た誰かが、死刑場の向こうの保安課の屋上に半旗が上がっているのを見つけた。所内のスピーカー放送はいつになくしめやかなクラシック音楽を流しつづけた。国家元首級の人物が死んだことを直感した。夕食のとき臨時奉仕員として出ていた民青学連の李康哲氏が視察口にくっつき、小声で言った。「徐兄、看守に気どられないように黙って話だけ聞くんだよ。朴正煕が射たれたんだ」。私は思わず「万歳(マンセ)!」と声を放った。彼は目を剥き、「シーッ!」と叱って足早に立ち去った。

「4・19学生革命」に鼓舞され祖国を意識し、民族意識を形づくった私は、その成果である民主化と統一への大きな前進を無残に踏みにじった朴正煕の「5・16軍部クーデター」を憎んだ。大学に入り韓日会談反対闘争に参加し、反軍事政権闘争の歴史の流れに身を投じた。獄中でも弾圧される民衆と出会い、独裁者の暴悪と非人間性をますます実感した。1人の独裁者を除いても社会は根本的に変わるものではないと言われる。しかし、怒りは抑えがたかった。莫大な犠牲を払い、驚くべき勇気で反独裁闘争をたたかってきた韓国の青年学生運動のなかから、ハルピン駅頭で伊藤博文を射殺した安重根のような義士が出てこないのが不思議だった。「わが民族は1人の独裁者のためになぜこのように苦しみ、莫大な犠牲を払わねばならないのだろうか?」独房で幾度か独裁者が倒れる夢を見た。
ついに独裁者は倒れ、70年代は幕をひいた。
*안중근(安重根, 1879년 9월 2일 ~ 1910년 3월 26일)은 대한제국의 군인, 항일 의병장 겸 정치 사상가이다. 세례명은 토마스(Thomas, 도마, 다묵(多默))이다. 본관은 순흥(順興), 고려 시대 후기의 유학자 안향의 26대손이다.[1][2]
IV オモニ    ー80年代大邱矯導所
オモニの霊前に
オモニ、最後のお手紙をさし上げます。勝の体内を烈しい嵐が吹き荒れています。腹の中には悲しみが溢れ、目の前には数限りないオモニの姿が浮かび上がり重なりあってぐるぐるとまわっています。オモニ!逝かれるのですね・・・。英実が「オモニはもう再び面会に来られへんけど、これからはずっと、オッパ(兄)といっしょにいはるんよ」と言いました。オモニ!もう、これからはいつでも、勝とともにおられるのですか?想い出します。愉しかった幼い頃、野原に花を摘みに行きましたね。動物園にも、水泳にも行きましたね・・・。夕餉の団欒、オモニの料理・・・。オモニとともにすごした追憶は、どこでも甘美で暖かいのです。
想い出します。オモニの温かく厚く柔らかい手を、オモニの体臭を、年月を経るにつて、ますます澄んでいった眼の輝き、時としてどこか淋しさを隠しきれなかった、あの天真な笑み。勝には滅多に見せようとされなかった、限りなく流された涙。すこし前屈みで、ちょこちょこと歩いて行かれたうろし姿、今も耳の奥深く響く、哀切な慟哭。
想い出します。幼いころから重ねてきた多くの不孝、失敗、誤ちを、10年の間通いつづけられた面会の場面を想うたびに、勝の胸ははり裂けます。とくに、最後の面会となってしまった昨年11月15(4)日には、零下10度に下がる厳しい寒さのなかで、大きな苦痛にみまわれながらも、お体の不自由なことはまったく顔に表わしもしないで帰って行かれました。その、まさに直後に破綻が訪れ、遠い別れの道へ発って行かれようとは・・・、夢にも知らなかった勝は本当に馬鹿でした。ただただ、大声で泣くばかりです。
10年前、勝が炎に身をつつまれ地面に倒れた時、頭上には高く蒼い空がひろがり、「さあ、これでこの世のすべての苦痛と別れるのだ」という妙な平穏のなかで、空に吸い込まれるような錯覚にとらえられながら、口の中で「オモニ、すみません。オモニ、赦してください」と、しきりにつぶやきました。オモニはいつでも勝を赦してくださり、守ってくださいました。オモニは、勝の杖、安息処、命でした。誰にとっても大切なオモニ、しかし、勝のオモニはその誰よりも立派なオモニです。いちばん誇らしいオモニです。
英実は「オモニはまた、生き返らはって、みんな一緒に暮らすんや」と言いました。本当に、再び会い、再び一緒に嵐山の家で暮らしたいものです。そうして、オモニに御恩の数百分の一でもお返しすることができなければ、この侮恨をいったいどうすればいいのでしょうか。
オモニは、もはや逝かれました。
この、ぽっかりと開いた空洞、恐ろしい欠落、骨の髄をえぐる痛みをどうすればいいのでしょうか。落目がさむざむしい曠野のまよい児のように、声をかぎりに「オモニ!」と呼びましょうか。幾万里も遠いとおい黄泉の道を訪ねて行きましょうか。夢のなかでお会いしてまた消えゆく朝露・・・。泣いて泣いて、泣き疲れて泣き寝入り、目を醒ませば痛みは、永劫に額に打ち込まれた荊の王冠のようにいつも新たな痛みであるものを・・・。
オモニの思いは何ですか?
オモニが最も願っておられたことは、私たちと一緒に愉しく憂いなく暮すことだったのでしょう。今もオモニの言葉、「体も心も健康に・・・」と言われた言葉と、昨年12月のお手紙に書かれた「人は誰でも自分自身の力で生きて行かなければならない」という言葉を、心に銘じております。生きて甲斐のないこの身ですが、それでも、オモニの心配を少しでも減らさなくてはね。
オモニは、今でも私たちみんなの肉となり血となって、ともに生きておられます。しかし、最期にお医者さんがオモニに、「朝まで辛抱すれば楽になりますよ」と言われたとき、オモニは「朝まで・・・しんどいな・・・」とおっしゃって、そのまま朝を見ることなく逝かれたのですね。どうして、お待ちにならなかったのですか?朝まで・・・朝まで・・・。
1980年5月29日
すべての罪をお赦しください。どうか、安らかにお眠りください。  不孝子 勝 つつしんで
オモニ
オモニは民族の運命を担うかのごとく、光州の市民が血しぶきをあげて倒れていた1980年5月20日に、大出血をしてこの世を去った。
オモニは77年11月に子宮癌の手術をした。78年2月23日に退院すると、静養の暇もなく、5月27日の俊植の満期出所日にあわせて渡韓した。
ところが韓国政府は社会安全法の「監護処分」を適用して、7年の刑期を終えた俊植を引きつづき監獄につなぐ暴挙をおかした。社会安全法は75年7月、ベトナムでのアメリカの敗北に危機感を抱いた韓国政府が、防衛税法、民防衛基本法などとともに準戦時四法の一つとして制定したものだ。
社会安全法は出所した政治犯に、監護、住居制限、保護観察の三段階の処分を適用し、その行動を蓋然性だけによって、裁判なしに法務部の行政命令だけで、無期限に人身を拘束した基本的人権を制約するという驚くべきファッション的なもので、維新独裁統治の極致だといえる。その最も重要な目的は非転向者への弾圧にあり、「反共精神の確立=思想転向をする」まで非転向出所者を監護所に拘禁した。社会安全法も1941年の日帝の改正治安維持法の予防拘禁規定にその淵源をもつ。

俊植を乗せた護送車は、夜明けに獄門で息子の出所を待つオモニと英実を尻目に、全州矯導所から清州保安監護所が完成するまで臨時監護所に使われていた大田矯導所へ直行してしまった。私たち兄弟が囚われてから、私の大火傷、死刑宣告、俊植にたいする転向強要拷問など生と死との危うい綱ひきのなかで、オモニは絶望の奈落に落ちるような恐ろしい瞬間をいく度となく経験してきた。ただ母性愛と不屈の魂で、このとてつもない苦痛をしのいで息子たちを励まし支えてきた。病は気からとやら、気の休まる暇もない緊張の歳月が凝って固まり癌になったのだろう。待ち焦がれた俊植の満期に再び息子を獄に奪われた衝撃も大きかっただろう。
78年春、オモニは面会室で、首からかけていた患者カードを見せてくれた。「子宮癌の手術をしたんや。いまでも毎月2回検診をうけてるけど、先生のお話では幸いに初期やというし、経過もええ言うてはる。現代科学の力やなあ」と心地よげに語った。皮肉な話だ。かえって科学がどれほど無力かを露呈したというのに・・・。そのときまた、こうも言った。「死ぬまで一生懸命働いてポックリ死ねたら一番ええ」。一生働きつづけてきたオモニらしかったが、運命を予感しているようでヒヤッとした。しかもオモニは、ポックリではなく生き地獄のような痛みと苦しみに苛まれながらこの世をさっていった。
私はおどけて合槌を打った。「オモニ、今度また生まれてきたら何になりたい?」「蒙古人に生まれて、馬に乗って思いっきり野原を駆けまわってみたいなあ」。あまりにも意外な答えにビックリした。「なんでまた?」「人もいやへんし、広々としてええやないか」。コロコロと肥ったオモニが馬に乗って大草原を疾駆する姿を想い浮かべただけでも可笑しかった。しかし、才能も可能性も時代と社会制度と女という枠のなかに押し潰されたオモニの生涯を考えると、決して奇抜な考えでもないようにも思えた。そこには「生まれ変わっても朝鮮人に生まれて、お前らと暮らしたい」という模範解答の入り込む隙はなかった。人のいない茫々とした草原を駆ける夢・・・。
韓国の11月はどっちつかずで気まぐれだ。小春日和がつづいたかと思えば、急に雪を降らせたりする。79年11月14日、この日は急激に冷え込んだ。何年ぶりかの寒さで、大邱では初氷が張り、零下3,4度を示した。山奥の清州では零下7,8度まで下がっただろう。「維新だけが生きる道」とか言って、<維新>に身命を捧げるかのように言っていた工作班の連中は、朴正煕が死んで動揺し、私たちにたいする態度は一変した。親切を装い久しぶりに<特別面会>をさせてくれた。教務課長室にだけは暖炉が焚かれ、ポカポカと心地よかった。オモニは背を丸くして火に当りながらつぶやいた。
「大邱はええなあ。あったこうて。韓国がこんなに寒いとは思てへなんで、コートを持たんときたんや」。清州では1週間以上も火の気のない部屋で震えながら面会したのが相当こたえたようだった。
これがオモニとの最後の別れだった。

私はなにも知らなかったが、ちょうど全斗煥が下剋上で軍の実権をにぎった12月12日の検査で膀胱後壁に癌転移が発見された。しかし手術や放射線治療をするには手遅れで、オモニは回復の見込みなく6ヶ月の時限付きの命となった。その月、末弟の京植の代筆でオモニが珍しく手紙をよこした。「ちょっと事情があって面会に当分行けないかもしれないが、心配するな。人間は結局、自分の力と智恵で生きてゆくのだ。しかし、お前は決して1人ではない」呉己順と震えて歪んだ字で署名がしてあった。気がかりな手紙だった。それから手紙も、またふた月一度の面会も途絶えてしまった。
年が明けて80年3月29日、支援者の方が面会にきた。「ソウルの春」の影響なのか、崔盛吉教務課長は6年ぶりに家族以外の面会を許可した。まずオモニの様子から聞いた。彼女は、すこしためらいながら「風邪をひかれたのと腎臓がすこしよくないので入院されていますが、5月には面会にこられると言っておられます」と曖昧に答えた。悪い予感がしたが、それを確認したくなかったので、それ以上は聞けなかった。
5月17日、全斗煥は民主化を要求する学生と民衆の怒涛のようなデモを弾圧するために拡大戒厳令を宣布し、最も強力な大統領候補であった金大中氏に内乱陰謀の罪をかぶせて逮捕して、つづいて光州の市民にたいする大虐殺を引き起こし、「ソウルの春」は終わりを告げた。大邱でも矯導所外郭に軍が進駐し、将校は所内を巡察して物々しい気配だったが、私たちはまだ、<光州虐殺>が起きたことや、市民軍が光州矯導所を解放しようとして熾烈な戦闘があったことなどを知らなかった。
5月28日、英実がきた。青黒い服を着て蒼白な顔がボーッと浮かんで見えた。顔が腫れていたせいか、目はいつもより顔の中心から離れて付いているようにみえた。英実が教務課長室に入ってきた瞬間、すべてのことを察知した。ソファーに座るなり私の手をとり泣きだした。「オモニが死なはった」。全身を濡らすように涙が止めどなく溢れでて、抑えるすべがなかった。英実はハンカチを取りだし、私と自分の涙を交互に拭きながら淀みなく話しつづけた。入院生活、地獄の責め苦のような闘病、嵐山の家での束の間の家族との最後の日々、そして大出血と死の瞬間、葬式の話まで1時間以上つづいた。工作官もこの時ばかりは神妙に聞いていた。英実は確信のある言葉つきで「オモニは私たちのなかに生きてはる。また生き返ってみんあと一緒に暮すんや」と結んだ。
大きな山が崩れたようだった。体のなかが虚ろになりふるえた。「オモニ、ボーボー燃えてかわいそうやった。お骨を京植オッパ(兄さん)と拾うたんや」。小さなビニール袋に入った石膏片のような遺骨を手渡し、もう1度私の涙をぬぐって立ち去った。

オモニが亡くなったことは一瞬にして特舎にひろまり、舎棟は涙の海になった。獄中で死んだ同志も多い。肉親を亡くした人も数えきれない。しかし、私の知るかぎり、オモニの死ほど人を悲しませたことはなかった。息子を2人も獄中に置いて逝ってしまったオモニの無念さを思い、オモニを亡くした息子の悲しみに涙を流した。それにもまして、オモニは特舎の希望であり、皆のオモニだった。オモニが差し入れたパンやリンゴ、セーター、下着、靴下、毛布まで、オモニの手に触れたものに接しなかった人は誰もいなかった。恐ろしい拷問とテロが吹き荒れるなかで、孤立無援の非転向囚の苦しみを外部世界に伝えたのはオモニだった。沈鬱な獄中に、時には明るい話題をもたらしてくれた。しっかりと踏ん張り、工作班の脅迫や嫌がらせに屈しなかったオモニだった。接見場で出会った政治犯の家族たちに心からの同情と支援を惜しまないオモニだった。オモニより年上の老政治犯も自分の母のように「オモニ、オモニ」と言いならわした。
オモニは被植民地民族の子として生まれ、教育を受ける機会がなかった。まして政治や思想を学ぶなど思いもよらないことだった。ただ生まれ持った潔癖と正直と頑固、そして長い下積み生活のなかで身につけた。力弱く怨み多い庶民への同情と常識での世の中を見た。息子が捕まり保安司に、検察に、裁判所に、監獄にと通い、自然に不義な権力の正体を見出し、権力に馬鹿にされ踏みにじられた民衆に出会った。私が未決のとき、担当検事はままにならない頑固なオモニに手を焼いて「ゴリキーの「母」みたいだ」と、罵ったことがあった。オモニは「ゴーリキてなんや?」と私に尋ねた。
74年、俊植が拷問され国際世論の非難が起きると、独裁権力の最後の砦である監獄、しかも最も隠蔽された非転向囚特舎での蛮行が曝け出され、独裁政権は驚愕した。秘密の要塞に風穴を空けたオモニを警戒し憎悪した。情報部大尉出身の朴栄基工作官は「大韓民国の矯導所接見場に女間諜が公然と出入りしている」と憎々しげに私をにらみ付けた。暴虐の真実を伝えることが間諜行為だとは・・・。オモニは韓国にくるごとに監視と脅迫をうけた。
工作官は、ほとんど2世同様のオモニに、母国語もロクに話せない、と嫌味を言った。英実にも「言葉もできないのか!在日同胞は気楽に暮らしているので、愛国心などこれっぽちもない」と、李吉雄工作班長は罵った。英実の差恥心が自分のものになり、私もトウガラシを食ったように体の中がカッと熱くなった。「ウリマル(我々の言葉=母国語)を勉強せよ」と、おりあるごとに手紙に書いても勉強しない妹にも腹が立った。「こんな奴に馬鹿にされやがって!」海外に住む同胞も、民族の言葉と文化を一生懸命身につけ、誇りを持って生きていかねばならない。しかし、在日同胞が自国語を満足にできないのは、日本の植民地支配と祖国の分断が作りだした状況にもよる。それに、日本で民族教育を守り育てるために韓国政府は何をしたのだろうか?愛国者熱と説教を垂れている者が、自国語も学べなかった海外同胞の痛みをどれほど分かっているのだろうか?海外同胞のために何をしたのだろうか?同胞の痛みを自分の痛みとして、お互いの足りないところを助け補い合うという考えが少しもなかった。維新官僚の工作班長は、同胞を転向工作の対象にしてイジメ抜いていた。
7月12日、オモニと英実は大邱駅でソウルに帰る汽車の切符をかっぱらわれた。光州では「矯導官」を自称する男の詐欺にあった。ソウルでは朝鮮人参だとだまされて、草を詰めた箱を買わされた。保安隊員や矯導官、工作官などが息子を人質に取られている母情を食い物にしようと、糞にたかる蒼蝿のようにオモニをだまし、威し、苦しめた。事情の分からない土地で数限りない災難や侮りにあった。そんな話をしながらオモニは「まあ、かわいそうな人たちや。ああでもせんと食べていけへんのやろ」と寂しそうに笑っていた。

私が幼かったころ、オモニはごく普通の主婦にすぎなかった。しかし、息子を獄中に取られてから変わった。強く生きようとした。強烈に残る思い出がある。1972年末、ソウル拘置所にいたころ、私はオモニとの短い面会を終えて房に戻ってきた。しばらくして同房の若いタクシー運転手が面会を終えて戻ってきた。彼はちょうど、私の次に接見室で面会をした。「徐兄、徐兄。さっき面会してたのは徐兄のオモニでしょ。オモニが接見室の前庭の片隅に座り込んで、地を打って慟哭されてましたよ」。さっき接見室で私の健康を案じて話を聞きながら温和に笑っていたのに・・・。亡くなるまで私の前では涙は見せまいとしたオモニだった。
人革党、南民戦
朴正煕が死んで12月に緊急措置令違反者は全員釈放され、特舎には新しい政治犯が入ってきた。人民革命党の金漢徳、全昌一氏など7名だ。人革党事件は74年、朴正煕が民青学連を背後操縦した組織としてデッチ上げ、75年に河在完氏など8名を死刑に処して、その暴挙が国際的非難をうけた事件だ。彼らは大邱と釜山を中心とする旧革新党(進歩党、社会党、社会大衆党などの社会民主主義合法政党)の人々で、政府が学生を中心とする反独裁闘争を弾圧し、維新体制を合理化するためにつくったスケープゴートだった。家族の団結も固く、シノット神父や金芝河氏の暴露を通じて冤罪であることが広く知れ渡っていた。矯導所当局も彼らを乱暴に扱えなかったので獄中処遇改善闘争の大きな力となった。
金漢徳氏は進歩党副大統領候補、朴己出氏の秘書をして民族民主青年同盟で活動していた人だった。なぜか彼は「警護要視察対象者」だった。それは大統領など要人に危害を加える恐れのある人をさし、大統領の行き先地の警護要視察対象者は他地域に移すか留置場に拘留した。大統領が大邱にくるといえば、別途に看守1名が彼に付いて勤務をした。すでに監獄にいるというのに・・・。
在所者のうち、要視察者は逃走、暴動、自殺などの保安事故を起こすおそれのあるものから指定される。相当は毎日、要視察動静簿にその行動を記入して、保安課要視察係に提出する。要視察指定の基準は一部、本務担当に任されることもあって、その時々変動があるが、無期囚は基本的に要視察だった。特舎ではほとんどが無期囚だったので、あまり意味はなかった。ただ法務部が直接指定する法務部要視察(特別要視察ともいう)があって、いっそう厳しい視察をうける。このばあい金大中氏や金芝河氏のように毎時間単位で動静を記録することもある。法務部要視察は各矯導所に数名ずつしかいないが、私も19年間これに該当した。

×

非ログインユーザーとして返信する