日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Coréens au Japon<在日朝鮮人>Koreans in Japan윤건차尹健次/'재일'을 산다고는/「在日」を生きるとは/Kŏn-chʻa Yun=재일조선인Les Zainichi "Vivre "au Japon" "To live "in Japan①

'재일'을 산다고는 윤건차尹健次 [의] "윤 / 코ォン챠"To live "in Japan"  Kŏn-chʻa Yoon [Author] << Yun / Koncha >> Vivre "au Japon" Kŏn-chʻa Yoon [Auteur] << Yun / Kooncha >>
日本の植民地支配の歴史的所産である在日朝鮮人.半世紀を経た日本の戦後史のなかで,在日朝鮮人にとって歴史とはなんだったのか.在日二世として生きる立場から,「在日」の過去と現在を整理し,未来への方向を模索.
내용 설명
일본의 식민지 지배의 역사적 소산 인 재일 조선인. 이미 반세기를 거쳐 일본의 전후사 속에서 재일 조선인에게 역사는 어떤 것이 었는지. 조국 분단의 현실을 입은 사람들은 어떤 전후사를 일본에서 살아 왔는지. 재일 두 세로서 사는 입장에서 '재일'의 과거와 현재를 확인하고 미래의 방향을 모색한다.

尹 健次(ユン・コンチャ、윤 건차、1944年 - )は、在日朝鮮人2世の政治学者、神奈川大学名誉教授。近代日朝関係史、思想史専攻。京都府出身。京都大学卒業。東京大学大学院博士課程修了。1981年「朝鮮近代教育の思想と構造」で教育学博士。2015年3月まで神奈川大学外国語学部教授。
윤건차(尹健次,1944년~)는 재일조선인 2세로 교토 대학을 졸업하고 도쿄 대학에서 '조선근대교육의 사상과 운동'이라는 논문으로 박사학위를 취득하였다. 현재 가나가와 대학 교수로 재직중이며 일본 근대사상사, 한국 현대사상사, 근대 한일관계사를 가르치고 있다.

序論
在日朝鮮人は、日本の朝鮮植民地支配の歴史的所産である。1945年8月15日以降、日本の戦後史がすでに半世紀の時を刻むなかで、いったい在日朝鮮人にとって、歴史とはいかなるものであったのであろうか。祖国の「解放」にもかかわらず、それはすぐさま分断の歴史となり、在日朝鮮人は事実において、分断時代を生きることを余儀なくされた。その間、在日朝鮮人は、歴史といかに切り結び、歴史にどのように参与してきたのであろうか。
本書の題名にある「在日」という言葉は、1970年代後半以降、主として日本に住む朝鮮人を指すものとして使われてきた。それは単に「朝鮮」籍や「韓国」籍という国籍<表示>の違いを超えて、在日朝鮮人を総称するだけではなく、とりわけ、若い世代の生き方を示す[在日を生きる」というとき、そこには単なる生の持続への願いだけではなく、人間解放への熱い思いが横たわっている。しかも、現実に、「在日」はそれ自体、必要以上に政治的存在であることを強いられ、今日の世界史的転換期における国家・民族・個人の諸問題につうじる矛盾を集約的に抱え込む存在となっている。
在日朝鮮人2世の1人として言うなら、朝鮮人、そして在日朝鮮人の歴史は「悔しさ」そのものの連続であった。日帝<日本帝国主義>の支配、「解放」、南北分断国家成立、朝鮮戦争、分断固定化の全過程において、朝鮮人は何世代にもわたって、民族の解放、祖国の独立を夢みて闘ってきた。その闘いの前線に生きたおびただしい数の先達たちは、家族や、それぞれの夢や希望をすべて放り出し、ひたすら民族の矜持や自己の尊厳を求めて闘った。結果として、祖国は南北分断を克服しえないまま敵対し、朝鮮半島以外に住む在外朝鮮人の数は約450万人にも及んでいる。その基本的要因が日本帝国主義の朝鮮侵略、そして第二次世界大戦後の米ソ冷戦にあったにしろ、闘いに身を投じた朝鮮人の少なからぬ人生は報われるどころか、いまに至るまで不幸そのものである。貧困に苦しみ、家族を失い、離散した肉親の再会もままならないその苦しみや悲しみは、今日の「在日」の2世・3世にとっても心の痛みであり、「悔しさ」以外の何物でもない。
もちろん、問題は個人的不幸の累積にとどまるものではない。そこには植民地の支配・被支配や帝国主義の問題、資本主義・社会主義や冷戦体制の問題、南北朝鮮の国家権力や日本の排他主義の問題、歴史における民衆の問題、といった社会学的考察を必要とする諸問題が内包されている。朝鮮人、とりわけ在日朝鮮人の生の軌跡も、そうした数々の問題を抱え込みつつ、より大きくは世界の歴史の流れのなかに位置づけられるものである。逆に言えば、「在日」が自らの歴史と主体性を踏まえて語るとき、それは今日の世界史的な国家・民族・個人の諸問題にも通底する。さまざまな事柄を明らかにするものになると思われる。
「在日」が「在日」を語るというとき、それは何よりも、「在日」が植民地支配を受けた民衆であり、その子孫であることを前提とする。その意味で、「在日」は世界システムからするとき、先進自由世界というよりは、むしろ抑圧されている第三世界の範疇に属している。また「在日」を語るということは、即、民族を語ることであるが、この「民族」という言葉は、戦後の日本では最も嫌われ、使ってはいけないもの、卑しむべきものというようなニュアンスで感じとられてきたものである。つまり、日本の知識人がともすれば民族とか階級といった社会科学の原理的なものをないがしろにし、没歴史的、非主体的な傍観者的風潮に流されやすい傾向にあるなかで、「在日」は日常生活においてすら、それらの原理的なことを考えざるを得ない構造のなかに置かれてきた。しかも、「在日」は、いまなお軍事的緊張を抱えた分断祖国をもち、それさえも依拠すべき土地、安住の場所ではないという意味で、精神的には人間が生きていく上でいちばん基本的なものを欠いた「境界人」という位置にあるとも考えられる。
もっとも、そうは言っても、「在日」の現実の生活実態や意識のありよう、思考方法は、この日本の「飽食」のなかで限りなく「日本人」に近いものとなり、世代交代の進行とも重なって、民族や階級といった原理的なものが見えにくくなっているのも事実である。それは換言するなら、「在日」が自らの歴史と主体性との関連性において、「在日」の問題を理論化し、新たな状況に対応する努力を怠ってきたことを意味する。実際、近年、「在日」に関する書籍その他が巷にあふれんばかりであるにもかかわらず、「在日」の生き方に直結する「在日」自身の理論は、不在のままであると言い続けられて久しい。
だが、考えようによっては、「在日」全体を包摂しうる理論は不在なのではなく、もはや成立しえないものであると言えるのかも知れない。「いかに生きるべきか」という人間存在の基本問題において、葛藤や苦悩を含む生の方向性を設定しようとすること自体がすでに困難であり、間違いではないのか。あるいはいかなる理由であれ、他国に移り住んだ者がその地で「同化」していくのは、人間社会の自然的現象であるとの論も成り立ちうる。さらには、分断された祖国、激しいイデオロギー的対立、国籍<表示>・民族組織・職業その他の個人的属性の多様さ、マイノリティとしての孤立・分散性といった諸条件は、「在日」を一つの理論で包摂するには複雑すぎるということも言える。
けれども、他方、アメリカやヨーロッパ各国における各種少数民族や民族理論・差別問題などの研究の広がりと奥深さを思うとき、日本における在日朝鮮人研究の貧困さが際だつのもまた事実である。アメリカにおける黒人や日系人その他のアジア人についての理論的研究は、当の黒人や日系人その他のアジア人の生活を改善し、諸人種・諸民族の共生・共存という人類の理想に大きく貢献してきた。社会科学の問題として捉えてみても、そうした研究の深まりは、社会科学一般の進歩に大きく寄与し、アメリカ社会全体の法制度その他の前進にも計り知れない影響を与えてきた。その点、日本人研究者の多くはアメリカの黒人問題やユダヤ人問題などには多大な関心を寄せても、足元の在日朝鮮人問題については忌避する態度をとり続けてきたと言わざるをえない。そこに日本人にとっての「朝鮮問題」の「重さ」があると言えばそれまでであるが、いずれにしろ、在日朝鮮人を学問研究・理論研究の対象として捉えることが、きわめて重要であることは否定しえないことである。
もっとも、いまここで、日本人の在日朝鮮人についての研究や関心のあり方を問題にするつもりはない。むしろ、ここでは、当事者である在日朝鮮人が「在日」をいかに生き、被抑圧者の視点に立ちつつ、いかに自らの歴史と主体性に関わってきたかを問題にしたい。その場合、「在日」にとって国家や民族、階級、組織、イデオロギーといった事柄が大きな位置を占めるが、それらを考察する視座を「民主主義」に置くことも可能である。
実際、現代社会において、冷戦体制の終焉と関わる最も大きな課題は、いかにして民主主義の深化をはかるかであり、それは南北朝鮮はもちろんのこと、「在日」にとっても現実の課題である。「在日」に関係する南北の国家権力やそれにつらなる在日の民族組織、あるいは知識人、そして民衆の1人ひとりに至るまで、「民主主義」の理念・言葉を否定する者はなく、しかも現実には民主主義をめぐって大きな綱引きがあり、個人のレベルでいうなら、現実の緊張関係のなかで萎縮し、あるいは権力によって抑圧され、蹂躙されるという事態が繰り返されてきた。逆に、知識人のなかには、口では民主主義を抱えながらも、実際には個人の利益を優先させ、またときには権力の反民衆的な抑圧政策にすすんで加担し、人間的・社会的に非民主主義な態度をとってきた者も少なくない。
もとより、知識人は孤立して存在するのではなく、所属する社会の枠組みによって規定されて存在するものである。そうしたなかで、世界一般におけると同じように、あるいはそれ以上に、在日朝鮮人社会において知識人の役割は大きな位置を占めてきた。もともと被植民地支配の歴史を背景に、「在日」知識人の数はきわめて少ないところから出発したが、その後新たに育った知識人も、南北朝鮮の分断や日本の排外主義のなかで、言いしれぬ苦難の道を歩んで来ざるをえなかった。そこには、「在日」知識人が、日本の知識人と違って、政治的・経済的・社会的にきわめて弱い立場に立たされることを運命づけられていたという理由がある。
日本敗戦後の南北朝鮮では、まがりなりにも知識人が新生国家をになう中核的存在となった。「北」では人民政権の成立、朝鮮民主主義人民共和国<共和制>の創建当初は、それでも学問的な研究や芸術、映画などでかなり優れたものがあったと言われるように、知識人はそれなりに創造的な力を発揮することができた。「南」の場合には、アメリカ占領軍と反動勢力によって社会主義・民族主義を問わず、愛国的な知識人が迫害をうけ、やがて大韓民国<韓国>成立後はアメリカ留学帰りの知識人が独裁政権を支えていった。しかも、悲劇的な朝鮮戦争を経て、南北朝鮮がともに硬直した政治体制を強めるなかで、知識人、とりわけ社会科学の研究者の存在基盤は弱まるばかりであった。
在日朝鮮人の場合、「8・15解放」の時点で、高等教育を受けていた者、大学に通っていた者はそれほど多くはなかった。しかも、「親日教育」をもろに受け、その大多数は民族的主体性とはほど遠い「皇国青年」であった。事実、「解放」と時を同じくして日本全国に、民族学校が雨後のように設置されていったが、その教師となった「知識人」の多くは、朝鮮語をまともに読み書きができず、朝鮮の地理や歴史についての知識も浅薄であった。
こうしたなかで、「在日」知識人の最初の責務は、日本のなかの「祖国」ともいうべき民族団体<組織>に寄与することであり、また学問研究を志す者にとっては、なによりも朝鮮の歴史の体系化に力を注ぐことであった。当時、民族教育がきわめて活発に展開されたとはいえ、教えるべき歴史がいまだ体系化されておらず、満足な教科書もあまりなかった。したがって「在日」の学問研究は、まず朝鮮歴史の研究からはじまり、しかもそれは、日本の大学やアカデミズムから排除された在野の立場で遂行される他なかった。実際、「在日」知識人の朝鮮歴史の研究は、配属者の細々とした生計によって支えられ、また民族学校の教師として教壇に立つ合間をぬっておこなわれた。
植民地統治の悲惨な歴史のなかから生まれた「在日」知識人にとって、物事の判断基準はけっして社会科学的な見地からではなかった。もとより、知識人の「夢」や「希望」として機能した「社会主義」の認識自体、科学的な学習の結果得られたというよりは、反日・反侵略の抵抗意識、さらには本能的ともいうべき生理感覚によって体得されたものであった。いわば「在日」知識人は、皇国臣民の日本精神を否定すると同時に、それに代わる「民族」そして「社会主義」という別の理念を身につけ、「極端から極端」への変身を迫られたことになる。

日本社会から閉め出された閉塞感が一方にあるなかで、「在日」知識人は自らの人格のなかに分断線を刻み込ませながらも、祖国と民族に熱い思いを寄せた。そうした数少ない研究者たちは、在日本朝鮮人連盟<朝連>、ついで在日朝鮮統一民主戦線<民戦>、さらに在日本朝鮮人総連合会<総連>と、主として社会主義志向の路線をとる民族団体に糾合されていった。とくに1955年の総連結成後、「在日」の社会科学者は総連傘下の在日本科学者協会に組織され、急速に共和国との結びつきが強められていった。朝鮮人研究者としての主体性を築くことは、即、組織の方針に忠実であることとされ、「民主中央集権」「唯一指導体制」に組み込まれていかざるを得なかった。他方、1960年代に入ってさえ、在日本大韓民国居留民団<民団>系に属する歴史学者は1人もいないといっていい程に、「在日」の歴史学者や文化人は「北」の側に属していた。

*재일조선인연맹在日本朝鮮人連盟(재일본ちょうせんじん연맹, 재일 조선인 련맹 / 재일 조선인 연맹 )은 1945 년 (쇼와 20 년) 10 월 15 일에 결성되어 연합군 최고 사령부 (GHQ) 점령 일본에서 1949 년 (쇼와 24 년) 9 월 8 일에 해산 된 일본 거주 조선인 에 의해 조직 된 단체 [1] . 약칭은 「조련 (조련, 철영, 조련 ). " " 공화국 에 직결하자 "를 슬로건으로 내걸고 있었다 [1] 在日本朝鮮人聯盟,1945年(昭和20年)10月15日成立至1949年(昭和24年)9月8日解散的日本朝鮮人團體,簡稱朝聯。
*재일본조선인총련합회(在日本朝鮮人總聯合會,일본어: 在日本朝鮮人総聯合会 자이니혼초센진소렌고카이[*])는 일본에 있는 조선민주주의인민공화국에 강한 소속감을 갖는 재일 조선인의 단체이다.
*약칭은 조선총련(朝鮮總聯), 총련(總聯)이며, 대한민국에서는 조총련(朝総聯)이라고 부른다. 재일본조선인련맹을 모태로 1955년 5월 25일 ~ 5월 26일 도쿄도 다이토구 아사쿠사 공회당에서 한덕수 의장의 발기에 의해 결성되었다.
*재일조선통일민주전선在日朝鮮統一民主戦線 (재일 도전 통일 민주 선키 않습니다 재일 조선 통일 민주 전선)은 재일 조선인 에 의해 1951 년에 결성 된 조직. 약칭은 「백성 전 (민선) "이다.
*조국통일민주주의전선(祖國統一民主主義戰線)은 조선민주주의인민공화국의 정치 단체이다. 흔히 조국전선으로 약칭한다.


*재일본대한민국민단(일본어: 在日本大韓民国民団 자이니혼다이칸민코쿠민단[*])은 일본에 거주하는 재일 한국인을 위한 단체이다. 보통 민단(일본어: 民団)으로 약칭한다.
1965年の日韓基本条約の締結とともに、共和国・総連の「南」への対決路線は加速化し、それは同時に知識人への思想的統制として露骨化していった。「チュチェ<主体>思想」の名において知識人に求められたのは、批判的知性と主体性の確立ではなく、実質において「権威」への盲従と異なった意見の排除であった。社会科学者は自由な論文執筆や出版活動が許されず、文学者は日本語で書くと、虚無主義・コスモポリタニズムの元凶のように批判された。総連傘下の知識人は当然「南」に肉親や親族を抱えており、知識人としての誠実さを示そうと努力すればするほど、「南」の縁者が弾圧によって苦しみ、同時に自らも、日本での政治生活において不利を被ることになった。しかも、組織にたいする批判は「最高幹部」にたいする批判、さらには祖国にたいする反旗という図式さえ成立し、いったん「宗派分子」と指弾されれば、「在日」社会から締め出されることにもつながりかねなかった。

*대한민국과 일본국간의 기본관계에 관한 조약(大韓民國-日本國間-基本關係-關-條約) 또는 한일기본조약(韓日基本條約)은 대한민국과 일본이 서로 일반적 국교 관계를 규정하기 위해 1965년 6월 22일에 조인한 조약이다. 4개 협정과 25개 문서로 되어 있다. 일본에서 사용하는 명칭은 일본국과 대한민국과의 사이의 기본 관계에 관한 조약(일본어: 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 (にほんこくとだいかんみんこくとのあいだのきほんかんけいにかんするじょうやく))이다.

*주체사상(主體思想)은 조선민주주의인민공화국과 조선로동당의 공식 이념이다.[1] 김일성주의(金日成主義)라고도 하며, 엄밀히 따지면 김일성주의는 “주체사상을 핵심으로 하는 사상·이론·방법의 전일적 체계”를 뜻해 주체사상보다 상위의 개념이지만,[2] 조선민주주의인민공화국에서는 이 둘을 구분하지 않는다. 명확한 구분을 위해 김일성주의와 동일시되는 주체사상을 "넓은 의미의 주체사상", 그보다 협소하고 이론적인 부분의 주체사상을 “좁은 의미의 주체사상”이라고 한다. 2012년 5월에 성립된 조선로동당 당헌에는 김일성-김정일주의(金日成金正日主義)라는 표현이 있는데, 이는 김정일의 선군정치와 결합한 전일적 체계로서의 주체사상을 뜻한다.

南北対立という巨大な民族的矛盾が持続するなかで、国家・組織の内部矛盾は温存・再生産され、結果的に国家・組織の封建的・反理性的・非人間的状況が持続させられていった。そのなかで、総連の活動家や知識人は組織的に全人格を変容させることを強いられ、それは必然的に権力志向主義に走ることによって、「革命歌」という言葉を虚偽観念に満ちたものに変容させていくことになった。しかも、被植民地支配の歴史を背景に、「民族」と「祖国」への「組織」がほとんど同義語として捉えられてきたなかで、「宗教」と指弾されることは組織からの脱落を意味するだけでなく、「民族反逆者」「祖国喪失者」に転落し、人間性の破壊にもつながりかねない呪術的意味をもっていた。
こうした時代の変転のなかで、少なからぬ知識人が共和国・総連から離れ、韓国・民団へとくら替えしていった。もちろん、そこには、「北」への不信があり、それは「北」に帰った優れた学者や知識人が行方不明になっているという事実とも結びついていると思われる。また「南」の経済成長と「民主化」の一定の進展という客観情勢の変化もある。さらに大部分が「南」出身者である「在日」にとって、やみがたい望郷の念があり、「南」に残された老いた肉親や親族への思いもあった。なかには、「北」に代わる「南」という、心の拠り所を必要にしたという「説明」も成り立ちうる。
しかし、「北」の陣営に属していた者にとって、「南」は「反共」「独裁」の国であったにもかかわらず、多くの場合、その「転身」は表面的には深刻な自己苦悩もなく、あまりにも鮮やかに成し遂げられたかのような感がある。とりわけ社会主義祖国を信じ、それを学者や教師として「在日」の若い世代に教えた知識人たちが、なんら社会的に、自らの内面の変化、思想の総括をしないままに「南」へと変節していったことは、「在日」全体の思想、精神を限りなく退廃させることになった。たとえ朝鮮本土ではない日本の地に住んでいても、銃剣で対峙している「38度線」をいとも簡単に乗り超えていく者に対して、癒しがたい不信感が芽生えるのは理の当然である。「在日」は「民族」であるという意味では、そうした知識人は、「民族」的には一貫しているようにみえても、その思想やイデオロギーは以前と大きく異なり、事実、彼らは「南」の体制を批判することを止め、民主化運動にも冷淡な態度をとっている。
在日朝鮮人はもとより民衆的存在であり、権力的存在ではない。しかし現実には、「在日」は祖国によって鼓舞される一方において、つねに利用・抑圧の対象とされ、とりわけ知識人はそうした傾向を帯びさせられてきた。そのうえ、「在日」知識人、とくに研究者は、日本の研究者と比較するとき、物理的、物質的な存在基盤が決定的に弱かった。日本の研究者は、大学や研究機関、言論機関で給料が保証され、社会的地位も多少の流動性があっても安泰であった。研究とはまず暇とお金が必要であり、また研究・発表の自由が制度的に保障されていてこそ可能である。その点、「在日」の研究者には物質的基礎がなく、研究・発表の自由を保障するアカデミズムといったものがなかった。そのため、もともと民衆的存在であるはずの「在日」、とくに社会科学者は、誠実に仕事をすればする程、権力に利用され、あるいは権力によって睨まれるという構図のなかに組み込まれていかざるを得なかった。
そうしたなかで、高等教育を受けた多くの者は、日本の閉鎖社会において自己の才能をのばすこともできず、総連の活動家や民族学校の教師となった。活動家や教師である限りにおいてはネクタイを締め、「知識人」としての「体裁」を維持することもできたが、組織の方針に批判的になることは、すぐさま路頭に迷い、食べるために飲食業やサービス業など、意に沿わない仕事に従事することを意味した。戦後日本の在日朝鮮人社会において、一貫して「医師」<開業医>が知的で食べられる唯一の職業としてあり続け、結婚の相手としても、血眼になって同胞医師を探し求めてきたのも、基本的にはこうした「在日」の生活の不安に由来するものであった。
しかし、いずれにしろ、「在日」が「在日」である限りにおいて、やはり守らなくてはならない基本線が二つあると思われる。一つは、在日朝鮮人であるこの意味を考えて、民族的な尊厳を守り、自らの市民的権利獲得の努力をすることである。もう一つは、「在日」のよってきたる歴史的背景から、なんらかの形で祖国統一に関わるということである。とくにモノ書き、活字である。その場合、祖国や民族の統一への関わり方は千差万別であろうが、少なくとも口先だけでそれを唱えることは許されない。「北」の組織からはみ出た一部知識人が、「南」の権力に秋波を送り、体制べったりのまま「南」に往来するというのは、やはり納得しがたいものである。祖国や民族の統一というのは、その前段階において民主化運動に関わることであり、それはたとえば、デモで死んでいく学生がいる現実に具体的にどう向き合うかの問題である。
在日朝鮮人は抽象的・観念的に存在しているわけではない。「在日」の若い世代が「民族」に目覚めて、朝鮮語や朝鮮歴史を勉強しようとしても、教わる人や学校が「北」系であるか、「南」系であるかによって、すぐさま南北どちらかの権力に結びつけられてしまう。つまり、朝鮮人<韓国人>として成長することは、即、南北どちらかの権力関係を自己の人格に彩色させていくことを意味する。「在日」は南北の双方に親や兄弟姉妹をもつ場合が少なくないが、「北」あるいは「南」に行く「パスポート」ひとつ取るのに、政治生命のすべてをかけなければならないという辛さも背負っている。
そのため、在日朝鮮人は、「在日」として生きようとすると、それぞれが個人のレベルで、権力に対する抵抗線、基本線をどこに引くのかが問題になってくる。政治とは無関係に生きたいと願っても、それは現実には、すぐさま権力制度の壁に阻まれてしまう。「在日」である限りにおいて、やはり抵抗線、基本線を決めざるをえず、しかもそれは、自らの人間としての尊厳を守っていこうとすると、たとえ間接的であっても祖国の統一に関わるものとなっていく。とくに「在日」の社会科学者にとっては、このことが核心的な問題とならざるを得ない。ともあれ、今日の激動する世界情勢のなかで、在日朝鮮人はますますその生き方を問われていくことになる。
とりわけ、日朝国交正常化交渉の開始(1991年1月)、南北朝鮮の国連同時加盟(同年9月)、「南北間の和解と不可侵および交流・協力に関する共同宣言」の合意(同年12月)、そして日本の世界への影響力の増大という状況推移のなかで、日本の植民地支配の所産であり、南北朝鮮を「母国」とする在日は、自らどのような生の姿を見せていくかが真に問われている。しかも、そこではとくに、社会主義の理念が色あせ、共和国の政治的・経済的苦境が深まっていくなかで、総連やその影響下にある知識人が今後、どのような道を歩み、民主主義の深化という世界の課題にどう答えていくかが注目されることになる。そのことは、これまで「在日」の諸問題が日韓関係によって大きく規定されてきたなかで、共和国・総連のありようが「在日」の未来に少なからぬ影響を具体的に及ぼしていくことを意味する。

*남북 관계(南北關係) 또는 북남 관계(北南關係)는 현재 한반도 내의 분단국가인 대한민국과 조선민주주의인민공화국 간의 관계를 말한다.

本書はこうした歴史の転換点において、「在日」がいかに過去を総括し、現在の位置を見定め、未来への方向を設定しうるのか考えようとするものである。もとより、その論述は、主として社会科学的接近を試みたものであるが、当然、限界や弱点がつきまとい、ときには認識不足や自己矛盾のそしりを免れない部分もあろう。しかし、たとえ不十分ではあっても、この時代に生きた「在日」2世の1人が、歴史に参与し、自らの主体性を明らかにするためにも、こうした形でひとつの試論を提出しておくことは決して無駄ではないと思われる。
I 朝鮮人にとっての国境 -政治的抑圧と内面的葛藤―
1 国境という権力制度
「在日朝鮮人」とは、「日本国」という一つの国家の国境内に住む朝鮮人を指していう。ここで「国境」というのは、国家による権力支配の証であるが、近代の国民国家、そしてそこにおける「国民」概念というとき、それはたかだかフランス革命以降の所産でしかない。事実、近代国民国家の基礎とされる国籍、戸籍、選挙、税金などといったものが日本で制度化されたのは明治維新以降のことであり、そこにおいて「日本人」ないし「日本国民(臣民)」という意識も急速に浸透していった。同じ東アジアにある中国・朝鮮でも、中国人・朝鮮人は政治・法律概念との関連で自らを中国人・朝鮮人と意識することは歴史に照らしてそれほど多くなく、基本的には文化的・社会的概念に依存してきたと考えられる。そうした状況が大きく変わったのはそれぞれ19世紀中葉以降のウェスタン・インパクトによってであり、とりわけ日本の軍事的侵略・植民地化政策によってであった。
*프랑스 혁명(프랑스어: Révolution française [ʁevɔlysjɔ̃ fʁɑ̃sɛːz], 영어: French Revolution, 1789년 5월 5일 ~ 1799년 11월 9일)은 프랑스에서 일어난 시민 혁명이다. 프랑스 혁명은 엄밀히 말해 1830년 7월 혁명과 1848년 2월 혁명도 함께 일컫는 말이지만, 대개는 1789년의 혁명만을 가리킨다. 이때 1789년의 혁명을 다른 두 혁명과 비교하여 프랑스 대혁명이라고 부르기도 한다.
*국민 국가(國民國家, nation state)는 국민공동체를 기초로 하는 국가를 말한다. 근대 국가의 한 부류이며, 프랑스 시

민혁명을 거쳐 오늘날 가장 일반적인 국가형태가 되었다. 민족 국가(民族國家)라 번역하기도 한다.[1]
ただこの場合、近代国民国家の基礎である国籍、戸籍といったものが日本・中国・朝鮮で制度化されていったと言っても、帝国主義国家すなわち宗主国であった日本と、半植民地であった中国、そして植民地であった朝鮮ではそれぞれの特質が違っている。現実に、半植民地であった中国は別にして、植民地本国であった日本とその完全植民地であった朝鮮における国籍、戸籍のありようはきわめて異質なものであった。しかも、その延長線上において今日、日本人は国籍や戸籍をそれほど意識することなく日常生活を送り、また自由に国境を越えて世界に飛び立つことができるが、朝鮮人はつねに国籍や戸籍をつよく意識せざるを得ず、また日本人ほど自由に国境を越えて世界に飛び立つというわけにもいかない。換言するなら、日本人がいともたやすく「ボーダーレスの時代」を口にする傾向があるなかで、日本国家によって国籍、戸籍(または外国人登録)を歴史的に大きく規定されてきた朝鮮人、とりわけ在日朝鮮人は、いまもなお、国境、国籍、戸籍(外国人登録)によってつよく縛られ、容易に「ボーダーレス時代」を口にすることのできない状況に置かれている。
*국적(國籍, Nationality)은 국가의 구성원이 되는 자격을 말한다. 국가를 구성하는 3대 요소(국토, 주권, 국민) 중 하나인 국민은 일정한 자격을 갖춘 사람에게 국적을 부여함으로써 만들어진다.
*한국에서 호적(戶籍)은 호구를 알아보려고 만든 호구 장부이다. 호적은 호주를 기준으로 하여 가별(家別) 단위로 하여 그에 속하는 사람들의 신분에 관한 사항을 기재한 공문서로, 주로 부부를 중심으로 이루어진 가족을 등재하되, 때에 따라서는 여러 세대의 가족이 한 호적에 기록되기도 하였다.[1]

*Alien registration (外国人登録, gaikokujin tōroku) was a system used to record information regarding aliens resident in Japan. It was handled at the municipal level, parallel to (but separately from) the koseki (family register) and juminhyo (resident register) systems used to record information regarding Japanese nationals.
なにはともあれ、1989年現在、朝鮮半島に住む朝鮮人の数をみると、朝鮮民主主義人民共和国(共和国)の人口約2200万人(推定)、大韓民国(韓国)の人口約4280万人、あわせて約6480万人と推計されている(「東亜年鑑」1989年版)。朝鮮半島以外の在外朝鮮人の数は1988年6月時点で、世界104カ国にわたって約428万に達する(「統一日報」1989年10月3日)が、ここには中国在住の中国国籍所持者約176万人、旧ソ連在住の旧ソ連国籍所持者約40万人が含まれている。もっとも、在日朝鮮人は約68万人とされているが、その数字は明らかに朝鮮・韓国籍の所持者のみを示し、日本国籍の取得者<帰化者>を除外している。それに在米朝鮮人は約116万人であるが、これも韓国籍所持者とアメリカ市民権所持者が混在しているとみられることなどからしても、統計の作成自体に曖昧さがある。しかし、いずれにしろ人口の自然増加も考慮に入れると、約7000万人の朝鮮人が今日、この地球上に住んでいることになる。世界各国にこのように多くの同胞が居住しているという点で、朝鮮人はユダヤ人と華僑<中国人>にけっして劣らない特質をもっているが、それが基本的には、日本帝国主義の朝鮮侵略に起因するものであることは今さら言うまでもない。

2 近代の間島移住
今日いうところの「朝鮮人」という概念がいつ成立したのかについては決して論究しなければならない重要な課題であるが、紀元前から多くの朝鮮半島居住者が日本列島に移り住み、「渡来人」として今日の「日本人」の形成に重要な意味をもったことは疑いの余地がない。そうした移住の流れはおよそ9世紀中葉まで続いたというが、その後朝鮮と日本は例外を除いては没交渉の時代に入っていった。しかし、日本を中心にして考えてみると、1930年代までの日本には多くの種類の外国人が渡来し、多様な活動を繰りひろげ、そのうちのある部分は日本に定着・同化していった。事実、15世紀の対馬で朝鮮関係の実務を担った秦氏も中国人であり、東アジア・東南アジアの通交網は華僑が主要な担い手であるが、もしくはその深い関与が認められるという(1)。

*소 씨(일본어: 宗氏 소시[*])는 과거 일본에서 쓰시마 국(対馬国)을 지배했던 슈고(守護)・센고쿠 다이묘(戦国大名)이다. 하타 우지(秦氏)의 먼 후손인 고레무네 우지(惟宗氏)의 지족이지만, 무로마치 시대(室町時代) 중기 무렵부터는 헤이안 시대의 무장 다이라노 도모모리(平知盛)를 조상으로 하는 간무 헤이시(桓武平氏)로 자처했다.
それに反して、中世・近世の時代、朝鮮人は中国人と違い、自ら望んで日本に渡来した者はほとんどなく、漂流か倭寇の被虜、さらには豊臣秀吉の朝鮮侵略(1592-98年)に際しての被虜であった。そこには朝鮮の厳しい海禁<鎖国政策>があったが、その海禁政策はもっぱら、高麗王朝およびそれにつづく朝鮮王朝の被害をもたらす倭寇対策で日本人を取り締まると同時に、それと「連合」する恐れや可能性を排除するために、自「国民」にたいして鎖国政策を徹底したと考えることができる(2)。

*왜구(倭寇, 일본어: 倭寇, 영어: Wakou, Japanese dwarf pirates)는 통상적으로 고려와 원나라의 연합군이 일본 열도 침략에 실패한 이후인 13세기부터 16세기에 걸쳐 한반도와 중국 대륙의 연안부나 일부 내륙 지역을 약탈하고 밀무역을 행하던 무리를 가리킨다. 그러나 그 이전에도 왜구는 존재했다는 기록이 존재한다.
近代以前の朝鮮人が今日的な意味での「国民」概念をもっていたとは到底いいがたいが、しかしまた、朝鮮人としての自己認識をまったくもっていなかったとも言えない。それは当然、民族の意識であろうが、それは国家・国民といった概念とは重ならない民族概念「エトノス(ethnos)」、つまり朝鮮の言語・文化およびそれへの同族・帰属意識を共有する、人類の下位案団としての民族の意識であったといってよい。
そうしたことからするとき、19世紀中葉以降の朝鮮人の「国」外への渡民・移民は、明らかに近代国民国家の特質である国家や国民概念、国籍といったものと深い関わりをもつものとなった。それは何よりも、19世紀以降の東アジアそして世界そのものがすでに先進資本主義国家をはじめとする列強の角逐の場となっており、朝鮮王朝の統治下にあった領域から一歩でも踏みだすことは、即、「国境」を越え、他国の統治下に入り、あるいは他国政府の介入を受けることを意味した。より正確に言うなら、それまで国家や国民概念、国籍というものをそれほど意識しないできた朝鮮人は錯綜する国際関係のなかで、とくに朝鮮が日本の植民地と化していく過程において、好むと好まざるとにかかわらず、国籍や戸籍などの近代国民国家の装置に向き合わせられることになっていった。
すでに述べたように、今日世界各国には多くの朝鮮人が住んでいるが、それは日本帝国主義の朝鮮侵略を基軸とする朝鮮近代史の所産である。朝鮮の近代はまさしく、朝鮮人の流移民史であり、事実、玄圭煥が長年にわたって心血を注いで完成させた「韓国流移民史」(上下2巻、総約2100頁、1967年および76年刊)には、朝鮮人の血と汗と涙、そして「恨(ハン)」の歴史が刻み込まれている。ついでに言うなら、日本帝国主義の台湾・中国侵略もまた、中国人の南方への流出をさらに加速させる結果を招いた。
一般的に、国境を越えて移住することは“他者との出会い”を意味するが、その内実は移住の形態によって大きく左右される。ここで集団的な移住には「流民」「移民」「植民」の三つの形態が考えられる。「流民」は生活苦や政治的抑圧などのために自国および移住国の法律や制度を無視して非合法に国境を越えていくことを意味すると理解してよい。それにたいして「移民」は、原則的には自国および移住国の了解のもとに合法的に出国し、定住することを指すものと理解してよい。そして「植民」は移民の一種であるが、日本人の朝鮮や「満州」(中国東北地区)への移住がそうであるように、帝国主義本国の国民がその統治権を及ぼしている植民地地域への移住を意味し、その実態は帝国主義侵略の一環をなしている。
朝鮮の場合、朝鮮王朝が日本の圧力で開港、1876年)を余儀なくされる以前から、すでに少なからぬ貧農層が豆満江・鴨緑江の対岸である中国の間島地方(北間島・西間島)やロシアの沿海州に流出しはじめており、その後日清戦争・日露戦争・韓国併合・満州支配という日本の大陸進出の進行とそれに伴う日本人の「民族移動」に押されて、大規模な朝鮮人流出がおこった。したがって朝鮮人の間島・満州・沿海州そして日本などへの移住は、その本質において移民というよりは流民の性格をつよく帯びるものであるが、日本の植民地体制が確立するにしたがって日本の作為的・計画的意図をもつことからして、一面において移民という性格をもっていることも否定できない。
*대조선국(大朝鮮國)[3] 또는 조선[4](朝鮮, 중세 한국어: 됴ᇢ〯션〮 또는 됴ᇢ〯션〯[5] 근대 한국어: 조션/죠션/됴션[6], 문화어: 조선봉건왕조(朝鮮封建王朝)[7], 리왕조 (李王朝)[8] 또는 리조조선(李朝朝鮮)[9], 1392년 ~ 1897년)은 유학을 통치 이념으로 삼아 한반도를 518년간 다스렸던 왕조이다. 고려 말 신진 사대부의 지지를 등에 업어 무관 태조 이성계가 건국하였고, 조선 후기에 조선은 고종이 선포한 대한제국으로 계승되었다.
*운요호 사건(雲揚號事件, 1875년 9월 20일(고종 12년, 음력 8월 21일))[1] 또는 강화도 사건(江華島事件)은 통상조약 체결을 위해 일본 군함 운요호가 불법으로 강화도에 들어와 측량을 구실로 조선 정부의 동태를 살피다, 조선 수비대와 전투를 벌인 사건이다.
*조일수호조규(朝日修好條規) 또는 강화도 조약(江華島條約)은 1876년 2월 27일(고종 13년 음력 2월 3일) 조선과 일본 제국 사이에 체결된 조약이다.
*한일 병합(일본어: 韓国併合)은 한일 병합 조약에 의거 일본 제국이 대한제국을 병합 통치를 말한다.
*한일 병합 조약(한국 한자: 韓日倂合條約) 또는 한국 병합에 관한 조약(일본어: 韓国併合に関する条約 칸코쿠 헤이고니 칸스루 조야쿠[*])은 1910년 8월 22일에 조인되어 8월 29일 발효된 대한제국과 일본 제국 사이에 이루어진 합병조약이다.

いずれにしろ、朝鮮人が「国境」を越えていった歴史を語ろうとするとき、それは何よりも、間島地方への流出から始めなければならない。すなわち、朝鮮農民が間島地方に移住したのはすでに17世紀にさかのぼるとされるが、清は早くから封禁令を出してこの地域を神聖な霊域として移住禁止の措置をとってきた。しかし、1712年の白頭山<長白山>に定界碑が建立されて「国境」が取り決められ、封禁地帯として立ち入りが禁じられていたにもかかわらず、19世紀後半になると封建末期における農民層の分解や朝清両王朝の排除・抑止力の低下もあって、間島地方に農耕や採金・採参・伐木などを目的とする朝鮮人・漢人が流入しはじめた。1881年、清は封禁令状を撤廃して自国民の定住・開墾を公認し、同時に一帯の調査をした結果、そこにすでに農耕をおこなっている多数の朝鮮人を発見した。そのとき、延辺(ほぼ北間島にあたる)に住む朝鮮農民の数はすでに1万余人に達していたともいう。翌1882年、吉林将軍銘安等はこれら朝鮮農民の数はすでに1万余人に達していたともいう。翌1882年、吉林将軍銘安等はこれら朝鮮農民を清国戸籍に編入し、琿春・敦化両県に分属させる方針を立て、北京礼部から朝鮮国王にこれを通告した。それにたいし朝鮮はいったんこれを了解するが、流民の増大を恐れて態度を変えて、清に越境農民の刷還を求めた。

こうして越境流民にかんする朝清両国の交渉は暗誦に乗り上げたが、当時朝鮮をめぐる国際関係において清がもっとも警戒していたのは日本の勢力の増大と、それにつづくロシアの進出であった。そうしたなかで1883年9月、清は朝鮮との関係を改善するために「吉林朝鮮商民貿易地方章程」を結んで、85年には朝鮮人が清領に入ってきて貿易をすることを許可した。ついで1890年、清は朝鮮人の同化政策を打ち出し、「必須剃髪易服始能受田鳶氓」、すなわち清朝風に髪を剃って辮髪にし、中国服を着用する者にのみ入籍を許して、土地を耕す権利を認めた。しかし、こうした民族同化政策は朝鮮農民の民族的自尊心を深く傷つけ、自らの土地をもてないままに雇農や小作農に甘んじながらも、入籍する者は少数に過ぎなかった。やがて日露戦争の終結を大きな契機に、ロシアにかわって日本の勢力が増大するにつれて朝鮮人の間島地方進出が激しくなり、しかも日本帝国主義は、それを満州・中国侵略に積極的に利用する策に出た。日本は1907年、延吉県の龍井に武装軍警を不法に駐屯させ、「韓国総監府間島派出所」を設置して、間島・満州侵出の拠点とした。1909年には、日本は清国政府にいわゆる「間島協約」の締結をせまり、この条約の規定にもとづいて、龍井に通商地を作り、派出所を総領事館に改めた。
1910年8月の「韓国併合」以後、朝鮮人の移住は間島地方にとどまらず、間島を越えて満州地域へと広がりはじめた。当時延辺に進出していた朝鮮農民はたゆまない努力と知恵で稲作に成功し、潅漑水路の設置、水田面積の飛躍的拡大、収穫量の増大などをもたらして、中国人のあいだからも高い社会的評価を受けることになった。1916年、延辺地区(安図、敦化を除く)の総人口は26万5000人に達したが、そのうち朝鮮族はじつに20余万人をも占めた。けれども、日本が朝鮮を完全にその支配下に入れてのち、日本帝国主義は自国民<朝鮮人>の保護を口実にいっそう中国の主権を犯すようになっていった。実際、朝鮮の植民地化とともに植民地的農村過剰人口の圧力のもとで、朝鮮人の間島・満州への移住の流れはいっそう拡大し、そこには国外に民族独立運動の舞台を求めた亡命民族主義者も多数まじっていた。そうした事態に直面して、清国政府は朝鮮人にたいする同化圧力を強めるとともに、漢人の移住を積極的に勧奨する動きも示した。

1912年に中華民国が成立したあと、民国政府は国籍法を公布して、日本帝国主義の魔手から朝鮮人を保護するという比較的寛容な政策をとったとも言われる。しかし、それは逆にみれば、朝鮮人が日本人として治外法権を享有し、日本の先兵的役割をはたすのを嫌って、中国国籍の取得を勧告し、中国人への同化を推しすすめたとも受け取れる。事実、民国政府は国籍取得の勧告とともに同化教育その他の同化政策を強化し、それに応じない朝鮮人は追放令の対象にしたともいう。いわば「韓国併合」によってすでに日本人化を強いられていた朝鮮人は、間島・満州の地においては中国への同化を強要されることによって「二重の同化政策」に苦しむようになり、民族の主体性と尊厳が極度に傷つけられる事態に直面することになった。

*조선족(朝鮮族, 중국어 간체자: 朝鲜族, 정체자: 朝鮮族, 병음: Cháoxiǎnzú)은 중국의 소수민족 중 하나로, 주로 1945년 이전 만주의 간도 지역으로 이주해 거주해온 한민족 집단을 가리킨다.

3 沿海州およびハワイへの移住
ロシアが南ウスリー地方にたいする支配権を獲得したのは、1860年の北京条約によってであるが、この地域は沿海州に編入され、東シベリア総督の監督下に置かれた。和田春樹「ロシア領極東の朝鮮人1863-1937」によれば、沿海州へのロシア人移民がわずかずつしか増えなかったのにたいし、1863年に朝鮮人の13家族が朝鮮王朝の厳しい禁令にもかかわらず最初に移住してきて以来、朝鮮人がつぎつぎと、ロシア当局の許可なしに豆満江対岸のポシェット湾地域に移り住んだ。やがて1869年から翌年にかけては、朝鮮北部を襲った洪水や飢饉を避けて、一挙に6500人もの朝鮮人が故郷を捨ててロシア領に入り、その地における朝鮮人移民の数はロシア人農民の数をはるかに上回るようになった。
*포시예트만(러시아어: Залив Посьета, Posyet Bay)은 동해의 북서쪽에 있는 만으로, 표트르 대제만의 남서쪽에 접해 있다. 러시아 연해주의 최남단인 하산스키 군에 위치하며, 조선민주주의인민공화국 및 중화인민공화국(훈춘시)과의 국경과 가깝다. 만은 스스로프곶과 가모프곶 사이에 위치하고 있으며, 해안선은 울퉁불퉁하며, 많은 후미가 얽혀 있다. 북동쪽에서 남서쪽으로의 폭은 31km, 북서쪽에서 남동쪽으로의 길이는 33km이다. 포시예트, 자루비노, 크라스키노 등이 주요 마을이다. 여름에는 연해주 각지에서 많은 관광객이 해수욕이나 휴가를 온다. 예전에는 발해의 영토였으며, 지금의 크리스키노 부근에서 일본으로 향하는 발해사가 출항했다.


*고려인(高麗人, 러시아어: Корё-сарам)은 구소련 붕괴 이후 독립 국가 연합의 국가들에 거주하는 한민족을 이르는 말이다. 이들의 국가에는 러시아, 우즈베키스탄, 카자흐스탄, 타지키스탄, 투르크메니스탄, 키르기스스탄, 우크라이나, 몰도바 등이 포함된다. 약 50만 명의 고려인들이 중앙아시아를 중심으로 거주하였으며, 남부 러시아의 볼고그라드 부근, 캅카스, 남부 우크라이나에도 많은 고려인들의 공동체들이 존재한다. 이들의 정체성은 1860년대 초 무렵부터 러시아 제국령 프리모르스키주로 대거 이주한 재로한인(在露韓人)으로부터 유래한다.

러시아 령 극동의 조선인 1863 자 1937Koreans in the Russian and Soviet Far East, 1863-1937 Haruki Wada  Корейцы на Дальнем Востоке 1863–1937 гг.Корейцы на российском и советском Дальнем Востоке, 1863-1937 гг.  Харуки Вада


*와다 하루키(일본어: 和田 春樹, わだはるき(大阪府出身, 1938년 1월 13일 ~ )는 일본의 역사 학자이자 도쿄 대학의 명예 교수이다. 전문은 소련사와 한국 현대사이며, 부인은 정치학자인 와다 아키코이고 장녀 와다 마호는 네리마구의 의원이다. Харуки Вада (яп. 和田 春樹; род. 13 января 1938 года, Осака) — японский учёный, славист (русист) и кореевед.  Специалист по истории России советского периода, а также революционных, социалистических и крестьянских движений в России и Корее, профессор Токийского университета. Автор большого количества книг, включая «Мир крестьянской революции. Есенин и Махно».
朝鮮がロシアと国交を樹立したのは日本や米英よりおそく、1884年のことであった。しかし、両国の思惑の違いからロシア領内の朝鮮人の地位についてはいかなる取り決めもなされなかったため、朝鮮人の処遇はもっぱらロシア地方当局の恣意的政策にまかされ、地方責任者の交替のたびに大きく揺れ動くことになった。地方責任者によっては、朝鮮人移住者に対してロシア国籍の付与が好意的にはかられたこともあり、あるいはロシア国籍の取得が禁じられたのみんらず、すでにロシア国籍をもつ朝鮮人にも官有地で農業を営むことが禁じられたこともあった。いずれにしろ、多くの場合、朝鮮人には多額の税金が課せられたが、そうした政策の相違は、朝鮮人をロシアにとって有用とみるか、あるいは有害とみるかという認識の差によって生じたといってもよい。典型的には、日本ないしは中国との戦争が勃発した場合、朝鮮人にロシアへの忠誠を期待することはできないとする考えであり、その逆は、朝鮮人は農耕・林地開墾等、極東ロシアの開発に不可欠で、彼らの熱意と技能はそれに十分答えうるもので、しかも彼らはロシアに自然に同化しつつあるというものであった。もちろん、そうした論議の根底には、当然、朝鮮をめぐる日本・中国・ロシアの激しい綱引きがあった。
いずれにしろ、ロシアの動向に重大な関心を払っていた在ロシア日本大使館の報告にあるように、ロシア当局が「朝鮮人カ露国ト朝鮮及清国トノ国境一帯ニ定住スルコトハ国家的見地ヨリ露国ノ為メ危険ナルヘキ(9)と観えていたことは疑いの余地がない。もっとも、国境地帯をも含めて朝鮮人のロシア領移住は増え続け、さらに朝鮮が日本に併合されるに及ぶや、極東ロシア領在住の朝鮮人は日本帝国主義からの保護を求めて、ロシア国籍の取得を強く請願するようになった。
いま、沿海州における朝鮮人人口の推移を見ると、1906年には合計3万4339人(ロシア国籍取得者1万6965人、非取得者1万7434人)であったのが、1914年には合計6万4309人(ロシア国籍取得者2万209hと、非取得者4万4200人)と継続して増えていった。その間ロシア国籍の取得者もほぼ漸増していったが、それはロシア国籍でないと土地の分給、官業労働従事の機会等において、ロシア当局から差別的処遇を受けるため、あるいは併合による祖国喪失という事態に直面して定住を決意したこと、さらにはロシア当局が国籍付与に寛容的な政策をとったこと、などのためと思われる(10)。
これについてはロシアの現地紙も「特ニ近来ハ朝鮮人ノ希臘教(ギリシャ正教)ニ改宗スルモノ モ一般的風潮ヲナスニ至レリ」、「不安ノ境遇ヲ脱スル唯一ノ手段トシテ逐ニ露国帰化ヲ案出セルナリ」と、好意的に見ていた(11)。ただ、非合法に国境を越えて沿海州に移住した朝鮮人の数は、実際にはこの表の数字よりはるかに多く、またあくまで祖国の独立を夢見て、果敢に民族運動を展開していった朝鮮人も多かった。しかも、「ロシアに第二の祖国を発見した」少なくない朝鮮人は、ロシアの農民・労働者と手を携えて献身的な闘いを繰り広げ、1917-18年の極東におけるソビエト政権樹立に至る過程で大きな貢献をした。

ところで、朝鮮人の海外移住の歴史をみるとき、ハワイへの移民はごく少数にしかすぎなかったが、やはりそれは日本の朝鮮侵略によって決定的な影響を受けるものとなった。もともと1860年にハワイが直面した最大の問題は人口の急激な減退であった。1866年のハワイ原住民人口は6万2959人にしかすぎず、産糖業だけでなくハワイ王国の存在自体を左右する深刻な問題となった。そこからハワイに多くの移民が導入される政策が展開され、アジアからも日本人、フィリピン人、中国人、朝鮮人などが次々と移住していった(13)。
朝鮮人のハワイ移民は1902年12月に開始され、仁川(濟物浦)から神戸をへて最初の移民101人がホノルルに到着したのは、1903年1月のことであった。その後65隻の船舶による漂航によって移民の数は合計7226人に達し、1905年11月に中断されることになった。この移民中断の理由としては、朝鮮国王高宗が移民者の悲惨な生活状況を知って中止させたと説明されることもあるが、より決定的には、ハワイにいる日本人移民が低賃金でよく働く朝鮮人移民の増加を恐れて日本政府に抗議し、日本政府が朝鮮政府に圧力を加えて中断させたといわれている。時あたかも1905年、朝鮮は日本の「保護国」となって外交権が奪われ、5月にはホノルルの日本領事が韓国(大韓帝国)の領事を兼任するようになった。それにたいし朝鮮人移民は一斉に反対運動を繰り広げ、僑民代表を漢城(ソウル)に派遣したりしたが、すでに朝鮮政府は1903年に移民局を廃止したままでなんの効果もなく、日本の植民地統治のもとで日本人と競合する朝鮮人移民の流れは阻止された(14)。

*대한제국(한국 한자: 大韓帝國, 영어: Korean Empire) 또는 구한국(舊韓國)은 1897년 10월 12일부터 1910년 8월 29일까지 존재했던 제국으로 조선을 계승한 국가이자 한반도의 마지막 군주국이다. 1897년 고종황제가 대한제국 수립 선포 이후 대한제국 정부는 여러 개혁을 시도했고, 자주적 국가가 되기 위해 다양한 노력을 기울였다. 1905년 을사조약 이후 일본 제국에게 외교권이 박탈되었고, 이후 일본과 체결한 여러 조약으로 사실상 일본의 보호국으로 전락하였다. 1910년 8월 29일 한일 병합 조약으로, 대한제국은 일본 제국의 식민지가 되어 멸망하였다. 이 이름에 사용된 대한은 대한민국 임시 정부를 거쳐, 오늘날의 공화국인 대한민국 국호로 이어지고 있다.

ハワイに取り残された朝鮮人は農場での激しい労働に耐え、また一部はよりよい待遇を求めてロサンゼルスなどのアメリカ本土にわたり、肉体労働者として一心不乱に働いた。ハワイ以外にも、1905年にはメキシコに1031人の朝鮮人移民がゆき、そのうち288人がキューバに再移住した(15)。これ以外にもアメリカには、「保護国」ないしは1910年以後の「植民地」朝鮮再から、日本政府(韓国統監府・朝鮮総督府)またはキリスト教会派遣の形で、正規の旅券をもったごく少数の留学生がわたってきたが、むしろそれよりは、間島や沿海州をへて亡命の形で学びに来た者も少なくなかった。

実際、日本政府はアメリカにおける朝鮮人の反日運動の動きを警戒してアメリカ渡航希望者への旅券発給を極度に規制し、またアメリカにおいても朝鮮人は日本人とみなされ、当時急速に高まりを見せていた反日運動の攻撃目標となった。その結果アメリカ在住の朝鮮人の数はつねに低い数字を示したが、それでも1945年8月の「解放」の時点では約1万人を数え、そのうち約70パーセントがハワイに居住していたという(16)。
ここで念のために、朝鮮人に発給された旅券についてみると、まがりなりにも独立国家の体裁をとっていた時代は朝鮮政府によって正規の旅券が発給された。しかし、「保護国」下の1907年に日本が新たに「外国旅券規則」(外務省令第一号)を制定・公布した以後は、それを準用して「韓国臣民専用・日本帝国外国旅券」が発給されるようになった(17)。そして1910年8月の「韓国併合」以後は、法制的には「日本臣民」として旅券が発給されるようになったが、実際にはきわめて抑制されたことは言うまでもない。
*제1차 한일 협약(第一次韓日協約, 일본어: 第一次日韓協約)은 러일 전쟁이 한창 진행 중이던, 1904년 8월 22일에 대한제국과 일본 제국 사이에 체결된 협약이다. 협약의 정식 명칭은 한일 외국인 고문 용빙에 관한 협정서(韓日外國人顧問傭聘에 關한 協定書)이다.
*을사조약(乙巳條約) 혹은 제2차 한일 협약(第二次韓日協約)은 1905년 11월 17일 대한제국의 외부대신 박제순과 일본 제국의 주한 공사 하야시 곤스케에 의해 체결된 조약이다.
*한일신협약(韓日新協約)은 1907년 7월 24일 대한제국과 일본 제국 사이에 체결된 불평등 조약이다. 조약이 체결된 해가 정미년이었기 때문에 정미7늑약(丁未七勒約)이라고 부르며 제1차 한일 협약, 제2차 한일 협약(을사늑약) 등과 구분하기 위해 제3차 한일 협약(第三次韓日協約, 일본어: 第三次日韓協約)이라고도 한다.

毎年刊行の「朝鮮総督府統計年報」によって調べてみると、約1600万人の人口(1915年現在)を擁した朝鮮で、朝鮮人に発給された「外国旅券」は1907年が1万2783人、1910年が2914人であり、「併合」後は毎年ほぼ3000人から6000人の線で推移した。また詳しく統計がとられ始めた1911年から19年までの時期、実際に外国に出かけた朝鮮人および朝鮮在住日本人(内地人、1915年現在約30万人)の海外渡航目的および人員は表Iのとおりである。この表には明示されていないが、朝鮮人に発給された旅券は毎年、その84-90パーセントが朝鮮最北端で延辺に接している咸鏡北道の居住者にたいするもので、同じくほんの少し延辺に接している咸鏡北道の居住者にたいするものを含めると、じつに旅券発給全体の91-95パーセントまでを占める。事実、旅券をもった朝鮮人の渡航先は、その大部分がロシアで、その目的は商業、家事、農業、労働である。それに反し、満州移住の朝鮮人が多かったにもかかわらず、正規の旅券発給はきわめて少ない。西欧諸国に視察や研学(留学)で渡航する朝鮮人は毎年ほとんどゼロで、アメリカには毎年数人といった程度である。これは日本帝国主義が朝鮮で教育・科学・文化を無視し、いかに抑圧的な政策をとったかの証左である。ただハワイ(米領)には年によっては家事の目的で数十人ときには百数十人の単位で渡航することがあったが、これは”写真結婚”で海を渡った女性であると思われる。ちなみに1905年現在ハワイには朝鮮人女性は700人しかおらず、1910年から24年までに951人の女性が”写真新婦”としてハワイに渡ったという(18)。

*통감부(統監府 영어: Resident-General)는 일본 제국이 을사조약(乙巳勒約)을 체결한 뒤 대한제국 한성부(현재의 서울)에 설치했던 정치와 군사 관련 업무를 보는 관청이다. 형태는 대한제국 정부에 자문 또는 섭정을 하는 형식이었다. 한국통감부(韓國統監府) 혹은 보통 조선통감부라고도 한다. 조선총독부의 모체가 되었다.

*조선총독부(일본어: 朝鮮総督府 조센소토쿠후[*])는 일본 제국이 1910년 8월 29일 한일 병합 조약 체결일부터 1945년 9월 2일까지 한반도에 대한 통치를 위해 운영하던 직속기관이었다. 본부의 소재지는 당시 경기도 경성부(현재의대한민국 서울특별시)에 있었다.




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