日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Coréens au Japon<在日朝鮮人>Koreans in Japan윤건차尹健次/'재일'을 산다고는/「在日」を生きるとは/Kŏn-chʻa Yun=재일조선인Les Zainichi "Vivre "au Japon" "To live "in Japan②

4 在日朝鮮人の形成と日本の「国籍法」
近代に入って朝鮮人が日本に渡航しはじめたのは、朝鮮が日本の植民地になる以前からであった。森田芳夫「在日朝鮮人処遇の推移と現状」(法務研究報告書第43集第3号、1954年)によれば、1883(明治16)年末にすでに16人の朝鮮人の日本在留が記録されている。「韓国併合」の前年である1909年から1944年までの在日朝鮮人の人口推移は表2のとおりである
ここにあげられた数字には若干の誤差があるとも言われるが、1945年8月の日本敗戦時には、一般に朝鮮総人口の約2400万人の一割にあたる240万人もの朝鮮人が、日本に住んでいたといわれる。
初期の日本在住朝鮮人の多くは留学生であった。しかし1911年、大阪府の摂津紡績木津川工場での雇用を皮切りに、就業を目的とする渡航朝鮮人労働者が相次ぐようになった。1917年前後からは福岡県・北海道などの炭鉱、大阪・兵庫・和歌山・岡山など各地の紡績工場、造船所、製鉄所、ガラス工場などに続々と雇用されはじめ、紡績女工など朝鮮人女性の渡航も増えていった。このように在日朝鮮人の形成は、間島・沿海州などと違って、「併合」後の労働力需要等、最初から日本帝国主義の内部的要求と関連するものであった。そこには朝鮮における「武断統治」「土地調査事業」など植民地権力による苛酷な抑圧・収奪と、第一次世界大戦で莫大な利益をあげた日本資本主義の国内労働力不足の補充といった相互の構造的要因があり、1918年2月には朝鮮総督府から「朝鮮人労働者募集取締規則」なるものが出るほど、急激な朝鮮人労働者の移入があった。
*간도(間島, 중국어 간체자: 间岛, 병음: Jiāndǎo 젠다오[*])는 압록강 상류와 두만강 북쪽의 조선인 거주 지역을 일컫는 말로, 간도의 범위에 관하여는 여러 이견이 있다. 일반적으로 간도라 하면 현재의 연변 조선족 자치주 지역을 가리키며, 두만강 북쪽인 연변 지역을 '북간도'(또는 '동간도'), 그 서쪽인 압록강 북쪽 지역을 '서간도'라 부르기도 한다.
*프리모르스키주沿海州(러시아어: Приморская область)는 1856년부터 1922년까지 존재했던 러시아 제국의 주로 주도는 니콜라옙스크나아무레(1856년 ~ 1880년), 블라디보스토크(1888년 ~ 1922년)이다. 현재의 러시아 프리모르스키 지방에 걸쳐 있었다.
*일제 강점기(한국 한자: 日帝強占期) 혹은 일본통치시대의 조선(일본어: 日本統治時代の朝鮮)은 1910년 8월 29일 ~ 1945년 8월 15일 일본 제국의 식민지로서 일본령 조선이 존재했던 기간을 가리킨다. 일제 강점기는 한국의 역사에서 한국의 근현대사를 시대별로 나누었을 때 약 35년 간 이어진 주요 시대 중 하나이다. 1910년 한일병합[주 1] 이후 총독이 조선총독부를 통해 천황의 명을 받아 통치하는 형식으로 식민지배가 이루어졌으며, 정치적 및 외교적으로 전적인 권한은 일본 제국에 있었다. 일제강점기의 뜻은 일제에게 강제로 점령당한 시기를 줄인말이다. 일반적으로 이 시기를 일본의 한반도 지배 정책에 따라 세 시기로 구분하는데, 흔히 통치 정책의 방향을 기준으로 '헌병 경찰 통치기'(1910년~1919년), '문화 통치기'(1919년~1931년), '민족 말살 통치기'(1931년~1945년)로 각각 지칭한다. 1945년 8월 15일에 일본의 항복과 함께 해방되었으나 일본과 단교하고 양국관계는 끊어졌다. 조선총독부는 이후에도 한동안 존속하여 9월 2일 미군정과 소련군정 주둔 후 행정권 인수 인계 기간을 거치며 9월 28일까지 유지되었다.
*조선(대한제국 시기) 토지 조사 사업(朝鮮土地調査事業)은 1910년부터 1918년까지 일본이 한국의 식민지적 토지 소유 관계를 확립하기 위하여 시행한 대규모 조사 사업이다.
やがて1919年、東京留学生の独立宣言発表を契機に朝鮮全土を揺がす3・1独立運動が起こり、それに驚いた日本の官憲は日本への朝鮮人渡航を厳しく制限する方針を打ち出し、朝鮮総督府は「朝鮮人ノ旅行取締ニ関スル件」(総監部令第3号)を公布して、警察への旅行届出許可制とした。その結果朝鮮人は「旅行証明書」の取得が必要となって、一時日本渡航者は減少していった。しかし、3・1運動後の「武断統治」にかわる「文化政治」で「一視同仁」(形式的平等)のスローガンが強調され、また慢性不況下の日本独占資本主義が安価な朝鮮人労働者の移入を必要としたため、1922年12月渡航制限が撤廃されて「自由渡航制」に切り替えられるにおよんで、朝鮮人渡航者は再び急増していった。もっとも日本人労働者の失業問題とからんで「旅行証明書」の扱いがつねに厳しくされ、1925年10月からは乗船地の釜山で「渡航阻止制」が実施され、また同じ年に「過激思想宣伝取締ニ関スル件」がだされ、密航者を含む朝鮮人渡航者に対する取締りが厳しくなった。
1929年にはじまった世界恐慌と植民地収奪の強化で朝鮮の農村は疲弊し、死活の道を海外渡航に求めた朝鮮農民はますます日本・「満州」への流亡を余儀なくされていった。日本官憲はそれにたいし「旅行証明書」をたてにきびしく取締まり、1932-34年には渡航志願者の60パーセントが阻止されたという(19)。同時に日本政府は内務省を中心に拓務省・文部省・朝鮮総督府などと協議し、1934年10月に「朝鮮人移住対策の件」として「朝鮮人移住対策要目」をだし、朝鮮人の渡航減少、朝鮮北部および満州への移住勧奨、在日朝鮮人の同化徹底策などを打ち出した。ただそれも、それ程の効果をあげず、やがて太平洋戦争の激化を背景に100万人以上にのぼるといわれる朝鮮人労働者の「強制連行」につながっていった。
さて、こうして日本に渡航した朝鮮人は、形式的には「大日本帝国」の内部での「移住」に過ぎないはずであるが、実際には「旅行証明書」が必要とされたように、実質的には「国境」を越えることとほとんど同じであった。しかもそれは、朝鮮が「外地」として「異法地域」とされ、朝鮮人も「日本臣民」とはいいながらも、法制的には植民地本国人である「内地人」とは厳密に区別(差別)される地位におかれたことと連動している。
もとより、「内地」「内地人」という言葉は早くから使われていたが、法令上の用語としても1896年の台湾総督府国語学校規則で明文化されていた。それにたいし、「外地」という言葉は、1929年の拓務省設置以降、植(殖)民地にかわる用語として一般化していった(20)。大日本帝国憲法下の日本国家の人的統治の形態は、いわゆる「戸籍」(家籍)の登録を基礎とする。「身分」的支配であり、帝国憲法が適用されない異法地域(「外地」)の植民地人(「外地人」)には、内地の戸籍(内地籍)とは区別される「地域籍」(外地籍)が設定された。つまり台湾人にはいわゆる「台湾戸籍」、朝鮮人には「朝鮮戸籍」(1922年の「朝鮮戸籍令」による、それまでは「民籍」)が与えられ、内地・外地間の転籍は、結婚などごく一部の例外を除いては原則的に禁止された。それは、「日本人」となった「外地人」に、日本国家への忠誠を内地人と同様に期待することは困難であると危惧されたためである(21)。
事実、日本は1940年に「内鮮一体」の美名のもとに朝鮮人に「創氏改名」を強行したが、そのとき朝鮮総督府は「内地人朝鮮人ノ区別ハ一ニ本籍ニ依ルモノトス。即チ朝鮮ニ籍ヲ置ク者ハ朝鮮人ニシテ、内地ニ籍ヲ置ク者ハ内地人タリ」と、あくまで日本人と朝鮮人との区別(差別)を堅持した。当然、「異法地域」の朝鮮では、軍事、警察、教育などで「内地人」と朝鮮人の取り扱いが違っていたが、「創氏改名」後はその区別を明らかにするために、「関係官吏ハ必要ニ応ジ或ハ釈明シ或ハ戸籍謄本ヲ取寄セ証拠ヲ行フ等ノ手段ヲ採ルベキ」ものとされた(22)。「内地」居住の朝鮮人の場合も、「朝鮮戸籍」からの離脱は認められず、ただ選挙権・被選挙権、公職につく権利が認められただけであったが、その「恩恵」はごく少数の朝鮮人にしかもたらされず、かえって警察直轄の「協和会」組織に組み込まれて、厳しい監視下におかれた。
*일본식 성명 강요(한국 한자: 日本式姓名強要) 또는 창씨개명(일본어: 創氏改名 소시 카이메이[*])은 1940년 2월 11일부터 1945년 8월 15일 광복 직전까지 일본 제국이 조선인에게 일본식 성씨를 정하여 쓰도록 강요한 것을 말한다.
*내선일체(일본어: 内鮮一体)는 일본 제국이 일제강점기 조선을 일본에 완전히 통합하고자 내세운 표어로, 곧 내지(內, 일본)와 조선(鮮)이 한 몸이라는 뜻을 담고 있다. 이는 조선인의 민족 정체성을 사라지게 하여 일본으로 편입시키려 한 민족말살정책의 일환으로 평가받는다. 비슷한 구호로, 선만일여(鮮満一如), 내선융화(内鮮融和), 일시동인(一視同仁) 등이 있다.
*만주국협화회(滿洲國協和會)는 만주국에서 결성되었던 주민 조직이다. 만주제국협화회, 만주협화회, 또는 줄여서 협화회로도 불린다.
ところで、地域籍・家族の基礎は国籍であり、逆に日本国籍を有しない者は、地域籍・家籍をもつことができないはずである。日本には1899(明治32)年に公布された国籍法があるが、当初は外国生まれの日本人への国籍離脱規定を欠いていたため、在米(生地主義)日本人移民の子孫が二重国籍となり、排日の動きのなかで土地所有等で不利益を被る恐れが生じた。そこで日本政府は1916年および24年に国籍法を改正し、国籍離脱を認めるようにした(23)。しかもこの日本の国籍法は、台湾・樺太には施行されたが、朝鮮には日本敗戦に至るまでついに施行されずに終わった。つまり「旧国籍法は、明治32年勅令289号により台湾に、大正13年勅令88号により樺太に施行されたが、朝鮮には施行されなかった。したがって、旧国籍法は、朝鮮人には直接適用の余地がなく、朝鮮人たる身分の奨励とその結果としての日本国籍の得喪は、慣習と条理によって決っせられる外なかった。この慣習と条理の内容は、旧国籍法に準ずるものとするのが通説であった」(法務省民事局編「国籍法」実務研修教材11号)19頁)(24)。

もっとも、朝鮮が日本の植民地とされるにあたって、朝鮮人の国籍問題が支配権力の側で議論されなかったわけではない。むしろ逆に、「韓国併合」直前の統監・寺内正毅は朝鮮人の国籍問題に少なからず関心を示し、当時の東京帝国大学教授の山田三良に意見を求めてもいる。これについて山田三良は「併合」直前の1910年7月15日付けで、「要スルニ従来韓国臣民タリシ者ハ併合ニ依リ当然日本国籍ヲ取得スト難キ之カ為メニ韓国人ハ全然日本人ト同一ト為リタルニアラスシテ唯外国ニ対シテ日本国籍ヲ取得セシニ過キサルコト」としつつ、「韓国人」と「日本人」のあいだに「公法上如何ナル差別ヲ設タヘキカハ国法上ノ問題」であるとの意見書を提出した。つまりここでは、第三国との関係で朝鮮人の身分(国籍)を明らかにすることが重要であるとされており、実際「併合」後まもなくと思われる時期に山田が再提出した書簡でも、清露国境地帯における多くの「二重国籍ノ存在ヲ前提」とするなら、「制令ヲ以テ此際速ニ朝鮮ニ於ケル国籍法ヲ制定シテ何人カ朝鮮人ナルカヲ明カニスルコト最モ肝要ナリ」と主張したりもしている(25)。
*데라우치 마사타케(일본어: 寺内 正毅(山口県(長州藩)出身, 가에이 5년 음력 2월 5일(1852년 2월 24일) ~ 다이쇼 8년(1919년) 11월 3일)는 일본 제국의 육군 군인, 정치가, 외교관이다. 제18대 내각총리대신을 지냈다. 1910년 5월부터는 제3대 한국통감이었고, 한일 합방 이후부터 1916년 10월 14일까지 초대 조선총독이었다. 호는 오보(桜圃, おうほ) 또는 로안(魯庵, ろあん)이다. 빌리켄[1] 재상(Billiken 宰相)이라고도 불렸다.
*야마다 사부로(일본어: 山田三良(奈良県出身, 1869년 12월 10일 ~ 1965년 12월 17일)은 일본의 국제사법학자이다. 일본 법화회(法華会)의 창립자이다. 국제사법의 권위자로서 일본 문화교류의 공헌자로 일본 내에 알려져 있다.

いずれにしろ、日本統治下の朝鮮にあっては、朝鮮人の国籍は「慣習と条理」による「フィクションとしての日本国籍(26)」であり、それは民族差別の法的根拠となっただけでなく、第三国への国籍変更(帰化)を妨げて「朝鮮戸籍」に縛りつけ、朝鮮人を「帝国」支配の永遠の「奴隷」として位置付けた。しかも、「慣習と条理」の内容が、朝鮮人には適用されなかった国籍法に準ずるものとされたことは、まさしく日本帝国主義の本質を暴露するものであった。

5 列強角逐のなかでの「二重国籍」
日本帝国主義は朝鮮人に、日本人と同じ公法上の「日本国籍」を付与しなかったにもかかわらず、領土拡大の侵略政策の遂行においては「フィクションとしての日本国籍」を最大限に利用した。すなわち、日本は、ロシア領および満州にいる朝鮮人を「自国民」であるとして領事裁判権を主張し、また朝鮮人がロシアや中国の国籍を取得しようとする動きを牽制した。そこには朝鮮人を侵略の先兵として位置付ける露骨な意図があり、またアメリカ・ロシア・中国などの国籍をとった朝鮮人が、朝鮮に帰って独立運動を展開し、逮捕されると外国人としての権利を主張するのを阻もうとする意志があった(27)。ただ、日本の侵略意図がロシアよりは満州・中国に集中したこともあって、朝鮮人が新たに国籍をとることから生じる「二重国籍」の問題は、ロシアよりは満州においてはるかに深刻であった。
ロシアの場合、前記の和田春樹「ロシア領極東の朝鮮人 1863-1937」によれば、1917年の二つの革命と1918-22年のシベリア戦争は、ロシア領極東の朝鮮人社会を激しく揺るがせたが、1919年の3・1独立運動をはさんで朝鮮人移住者の数は増えつづけていった。そうしたなかで革命政権にとっては、朝鮮人を含む外国人の処遇が難問題となったが、それは土地の使用権が外国人に付与されず、さりとてロシア国籍の取得を認めても、分与すべき可耕地はすでに占有されていたためであった。1926年には、全極東地方の朝鮮人は16万8000人に達していた。そのうちウスリー地方には12万3000人、北方の諸州には4万5000人の朝鮮人が住み、ソ連国籍を取得した朝鮮人は約8万5000人にのぼっていた。もっとも沿海州以外の諸州に住む朝鮮人約3万2300人(その他の朝鮮人総数の3分の2)がソ連国籍を取得したのにたいし、土地整理事業が遅滞していた沿海州では国籍取得率は相対的に低かった。
*시베리아 출병 (시베리아 출병, 영어 : Siberian Intervention )은 1918 년 에서 1922 년 사이에, 제 1 차 세계 대전 의 연합국 ( 영국 · 미국 · 프랑스 · 이탈리아 · 캐나다 · 일본 · 중국 )가 " 혁명군에 의해 붙잡힌 체코 군단 을 구출 '을 명목으로 시베리아 에 공동 출병 한 러시아 혁명 에 대한 간섭 전쟁 중 [1] Esperantoエスペラント語→La Siberia Interveno (japane: シベリア出兵 [ŝiberia ŝuppei],Hepburn-Transskribo: Shiberia Shuppei) estis la elsendo de trupoj de alianco kaj la Imperio de Japanio al la Ĉemara Regiono de Rusio inter 1918 kaj 1922. Ĝi estis parto de interveno de la potencoj de la Entento en la rusa interna milito, por subteni la Blankan Armeon en ties batalo kontraŭ la bolŝevika Ruĝa Armeo.
こうしたなか、1931年9月、日本軍は「満州事変」を起こし、全満州にたいする公然たる侵略戦争を開始した。ロシアと日本との戦争の脅威は、国境を通じる伝統的な往来を断ち切ることによって、ソ連領極東と朝鮮人の生活を根本的にかえていった。朝鮮人の新規入国を締め出す新たな政策に伴って、在留朝鮮人に国籍取得を全面的に強制する政策が打ち出され、朝鮮人はみなソ連市民となり、コルホーズ員となっていった。
*소련인ソ連市民( Сове́тский наро́д, tr. Sovyétsky naró)은 구 소련의 민족범주의 하나이다구 소련의 분열이후에도 각 공화국 내부에서 스스로의 민족정체성을 소련인으로 정하는 사람들이 있다.
*콜호스コルホーズ(러시아어: колхо́з)는 소련의 집단농장 체계이다. 당영농장인 솝호스와는 달리 반당반민 농장 형식을 띠고 있다. 콜호스는 콜렉티브노예 호자이스트보(коллективное хозяйство)의 러시아어 약칭으로서 '공동 경영', '집단 농장'이라는 뜻이다. 농업 콜호스 이외에 어업 콜호스, 임업 콜호스가 있다.

こうして日本の侵略が拡大しつつあるなかで、ソ連籍朝鮮人はソビエト国家とスターリンに忠誠心を示したが、1937年8月末、ソ連政府は突然、極東在住朝鮮人全員の中央アジアへの強制移住を断行するに至った。「日本のスパイ工作の手先になる危険」という理由で、18万人もの朝鮮人がスターリンの指示によって、2,3ヶ月という短期間のうちに強制移住させられたことは、日本の侵略から「祖国」を守るとの決意を固めていた朝鮮人にとっては大きな衝撃であった。このとき、在ソ日本大使館は、ソ連政府にたいし、朝鮮には国籍離脱の法制がなく、したがって日本臣民である極東在日朝鮮人を強制移住させることは不当であると抗議をおこなっていたが、ソ連政府は、ソ連国民である朝鮮人の問題に日本が介入することは許されないと、抗議を決然と拒絶した。
一方、日本による領土拡大の侵略政策が強引に推し進められていった満州では、ロシアと違って朝鮮人の「二重国籍」問題が、次第に日中間の深刻な政治的争点となった。日本帝国主義は、1920-21年、シベリア出兵に名をかりて在満「不逞鮮人」狩りの暴圧を加え、満州侵攻の軍事的既成事実をつくりながら、一方朝鮮農民の満州移住にたいしては、いわば無作為的奨励の態度をとった。換言するなら、日本の中国侵略政策の遂行において、日本は土地収奪を在満朝鮮人に代行させ、間接的に満州の土地侵略をおこなった(28)。
1922年5月にハルピン日本総領事館の朝鮮総督府派遣官によって作成された「北満在住朝鮮人ノ状況」では「此等二重国籍者ニ就キテハ後日日支ノ問題トナルノ時期アルベシト難モ若シ朝鮮総督府乃至帝国政府ガ真ニ北満ニ於テ経済的地盤ヲ得ムトシ、之レガ為メニハ特権ノ便宜ヲ有スル鮮人ヲ善用スルノ得策ナルヲ認ムトセハ猶当分ハ現状ノ儘ニ放置シ」と、露骨に主張した(29)。つまり、中国国籍をもつ帰化朝鮮人を、土地買収・土地所有の手段として利用したのである。そこには「荒寥たる満州の野に内地人を移すは最も困難であるが故に、先ず朝鮮人の移住を奨励して満蒙未開の地を拓き、大いに生産物を得るに至れば、之に因りて内地人の知識と技術と資本とを要する事業は続々興るべ」しという、日本農業移民の現実的・経済的困難さを背景とする戦略があった(30)。
「韓国併合」以後、在満朝鮮人の所管は日本外務省に移されたが、実際には在満日本領事を朝鮮総督府の事務官が業務し、朝鮮総督府が在満朝鮮人問題の主導権を握っていた。「満州国」成立以後は、日本人の統治は駐満日本大使に統一されたが、在満朝鮮人は、外務省、関東府長官、南満州鉄道総裁、関東軍司令官と協議しつつも、やはり朝鮮総督府が指揮監督を受け持っていた(31)。そうしたなかで朝鮮総督府は、日本政府の方針に従って、日本への朝鮮人移住に阻止的統制を加える一方、植民地過剰人口の満州への移住を意図的に放置・奨励した。それだけ朝鮮人移住者に日本勢力浸透の先兵的役割を担わせたことになるが、そこにおいて在満朝鮮人、とくに中国国籍取得によって「二重国籍」となった在満朝鮮人は、日本・中国の双方から政治的抑圧を受け、そのために激しい内面的葛藤を強いられる立場に追い込まれた。
*만주국(Manchukuo, 중국어 정체자: 滿洲國, 병음: Mǎnzhōu Guó 만저우궈[*], 일본어: 満州国 만슈코쿠[*])은 일본 제국이 만주 사변 직후부터 만주 지역에 세운 괴뢰국이다.
在満朝鮮人の人口は、1910年約10万9000人、1920年約46万人、1930年約60万7000人、1943年約154万人と、急カーブを描いて増加していったが(32)、とくに間道地方では人口の大多数が朝鮮人という特異な状況が現出した。これに対し、1910年代から20年代前半にかけての中国軍閥政権、なかでも東北地方政権は朝鮮人移民一般に対して拒否的ではなく、各地における中国人と朝鮮人の関係も良好であった。中国軍閥政権にとっては、朝鮮農民の水田農業による未開地開墾はむしろ歓迎すべきことであったが、しかし、朝鮮人を利用したと土地買収への疑念をつのらせた中国は次第に日本との対決姿勢を強めていくことになった。
*중국의 군벌시대(中國- 軍閥時代, 영어: Warlord Era)은 1912년 청나라가 멸망한 이후, 군사력을 기반으로 전국 또는 지방의 일부에 웅거하면서 실질적으로 권력을 행사한 중국의 고급 군인 및 그들의 병력을 뜻한다. 군벌주의 등의 표현에서 쓰이는 사전적 의미의 군벌과 일본의 군벌 등하고는 차이가 있다.
*奉系是民国军阀派系,属于北洋系,先后以张作霖和其子张学良為首,并一度成为中国境内最大的军政府。
それにたいして日本は、1923年11月に京城(ソウル)の中枢院で外務省、関東庁、拓殖局、総督府、在満蒙領事等の会議を開き、「在満朝鮮人問題」について集中的な検討をおこなった。そこで在満朝鮮人の国籍問題と土地取得の問題が密接に関わっていることが確認されるとともに、結局は日本の満州侵略の布石を確保するために、朝鮮人の国籍変更を認めないことにした(33)。しかしそれが中国側をいっそう硬化させていくや、日本は1925年に中国との妥協をはかり、在満「不逞鮮人」の取締りを掲げた「三矢協定」を奉天全省警務処長干珍と朝鮮総督府警務局長三矢宮末とのあいだに秘密調印した。
中国の軍閥政権は朝鮮人の中国国籍取得をめぐって、帰化奨励あるいは帰化拒否と揺れ動いたが、1928年6月の国民党軍の北伐完了・張作霖の爆殺事件と重なる時期、中国は再び朝鮮人への圧迫を強めた。吉林省政府は1928年6月ついで9月、日本側の機関である朝鮮人居住民会等との関係の断絶、日本側経営の金融機関との関係断絶、朝鮮人子弟の中国各学校への通学、中国服の着用、などを条件とする帰化矯正策をとり、それを土地所有権を与える条件とする「同化政策」を強行し、同時に6ヶ月以内に帰化手続きを終えない者には省内(雑居地を除く)から退去させる方針をとった。こうした吉林省政府の方針は、実際には、朝鮮もしくはロシアに籍(国籍・家籍)をもつ者には帰化制限の意向を示すなど、法制的・実態的に現実にそぐわない喪失を帰化条件としていたのを撤廃したため、在満朝鮮人は民国の法律では、日本国籍からの離脱を厳密に問われないようにもなった(34)。
*중화민국 국민(中華民國國民)은 중화민국 국적을 가진 자이다.
*북벌(영어: Northern Expedition, 중국어: 北伐, 병음: běi fá)은 1926년부터 1928년까지 중국 국민당이 중국 공산당과의 협력으로 중국에 있던 군벌을 타도하기 위한 군사작전을 말한다. 이는 신해혁명 이후 지지 부진하던 중국 혁명을 가속화하고 전제군주제, 봉건제를 타도하기 위해 이루어졌고 결국 북양군벌(북양 정부)을 몰아내고 국민당(국민정부)이 중국을 재통일하게 되었다.
*황고둔 사건(중국어 정체자: 皇姑屯事件, 병음: Huánggū Tún Shìjiàn 황구 툰 스젠[*]) 혹은 장쭤린 폭살사건(일본어: 張作霖爆殺事件)은 1928년 6월 4일, 일본 제국 관동군이 중화민국 북양정부의 국가원수 겸 봉천군벌의 수령 장쭤린을 죽인 일이다. 선양 황구 구 황구툰역에서 장쭤린의 개인 열차가 철로 폭발로 파괴됐다. 이후 장쉐량의 봉계 군벌은 중국 국민당과 힘을 합하니 이를 동북역치라 한다. 이 사건으로 장쭤린을 포함한 2명이 사망했다.

しかし、いずれにしろ、在満朝鮮人の中国国籍取得をめぐって朝・中・日間には鋭い矛盾が生じ、そのなかで日本帝国主義は、帰化・土地所有による生活向上を望んだ朝鮮農民の欲求を阻止しつつ、あたかも在満朝鮮人の味方であるかのように装って、1928年から31年にかけて大々的な中国批判のキャンペーンを展開した(35)。朝鮮人側にしてみれば、中国国籍の取得は、即、中国人と同様の公民権が完全に保証されたわけでもなく(36)、かえって中国国民として中国側から政治的抑圧を受ける立場にもなった。とりわけ民族独立・反帝運動の朝鮮人革命家にとっては、中国国籍の取得は中国側に弾圧の合法性を与えることにつながった。満州で活動した革命家のキム・サンが1922年に上海で中国国籍をとりながらも、その後それを捨ててしまったのも、「中国国民」として逮捕・処刑されるのを恐れたためであると思われる(37)。
*만주파(滿洲派)란 북한에서 김일성과 함께 동북항일연군에서 항일유격대 활동을 한 인물들을 가리킨다. 김일성이 지휘했던 부대인 동북항일연군 1로군 제 6사에서 활동하지 않은 동북항일연군의 요인들중에서도 최용건같이 만주파에 포함된 인물들이 있다.이 만주파는 해방이후 갑산계 소련계 남로당계 등을 정권투쟁에서 몰아내고 북한의 정치·군사 분야를 이끌어가는 핵심세력이 되었으며 북한의 현대사는 김일성과 만주파를 따로 떼어놓고 생각할 수 없다.만주파란 용어는 북한연구에 권위자로 알려진 와다 하루키 교수가 사용하였다.
*동북항일연군(東北抗日聯軍)은 1936년 중국공산당 지도 아래 만주에서 만들어진 항일투쟁을 주도한 군사조직이다. 만주에서 활동하고 있는 조선인과 중국인의 유격부대를 중국공산당의 주도로 통합한 군사조직이다. 조선민주주의인민공화국의 주요 인사였던 김일성, 김책, 최현, 최용건 등도 이 항일연군에 참여했다. 당시 만주에 있던 수많은 항일계열 군사조직 중에 제일 큰 세력을 형성하였다
귀화(歸化, 영국 영어: naturalisation, 미국 영어: naturalization)는 다른 나라의 국적을 얻어 그 나라의 국민이 되는 일을 가리키며, 적국의 국민 또는 적대적인 인물이 귀화하는 일을 귀순(歸順)이라고도 부른다.
日本帝国主義にとって、在満朝鮮人は、その政治意識がどうであれ、その存在自体が侵略の道具であった。逆に中国にとっては、そうした構図そのものが朝鮮人圧迫の理由となった。けれども、朝鮮農民にしてみれば、「朝鮮での生活権の保障が得られず、やむなく懐かしい故国山川に背をむけても万里異国に追われた」のであり、けっして「日本帝国の走狗」ではなかった(38)。そのため満州はもとより朝鮮でも世論が沸騰したが、ついに1929年末には、中国東北三省居住の「帰化韓族代表」が南京の民国政府と直接折衝して中国国籍法の改正を迫り、在満朝鮮人の入籍促進・手数料免除、そして東北地方政権側が要求する日本内務省発行の「脱籍証書」取得義務の禁止を働きかけ、それによって朝鮮人が中国革命に参加できるようにすべきだと主張した(39)。それは当然、日本政府にたいする国籍法施行の要求となって表れたが、実際、「二重国籍の苦痛」を解消し、生活の安定を図るため、さらには「帰化朝鮮人なりとも日本の国籍を離脱し得ないので支那官憲は土地の所有権を付与せざる現状」を打破するには、国籍離脱の条項を含む国籍法の施行が不可欠であった(40)。
こうした朝鮮民衆の要求にたいして、日本側は朝鮮総督府を中心に協議を重ねたが、なお「二重国籍は黙認が穏当」との態度をとりつづけた(41)。しかし、日本政府もついに、いったんやむなく、1930年5月に拓殖者が在満朝鮮人に「帰化権」を付与する方針を確立し、斉藤実朝鮮総督の同意をえてその準備に入った。当時の「旭新聞」の報道によれば、「対満発展の先駆ともいうべき在満朝鮮人に帰化権を付与」し、「支那に帰化せしめて日本の国籍を喪失」させることは、「日本の対満蒙国家と矛盾する」ことであったが、「在満朝鮮人問題の病根」が「在満朝鮮人が土地の所有権を獲得し得ない点」にある以上、「支那側からあらゆる迫害を受け」つつある在満朝鮮人救済のためにはやむを得ない措置であった。松田拓務大臣が言明したように、それは単に国籍法を朝鮮に施行するという国内手続きの問題にすぎなかったが、しかし、現実には、日本の権益を失うことを恐れる反対の声がきわめて根強かった。なかでも間島在住40万人の朝鮮人だけには国籍法の適用を見合わせるべきだとの意見がつよかったが、それはすでに朝鮮人が全間島地域の半分にも達する面積の土地所有権を実質的にもっていたなかで、国籍法の適用によってそれにたいする日本の影響力が撤退することを憂えたためである(42)。
*사이토 마코토(일본어: 齋藤 實(宮城県(仙台藩)出身), 1858년 12월 2일 ~ 1936년 2월 26일)는 일본 제국의 해군 군인이자 관료, 정치인이다.
もっとも、こうした日本政府の動きもつかの間、同年7月拓務省の小坂次官が朝鮮・満州視察を口実に関係機関・各地有力者の意向を詳細に聴取した結果、国籍法の施行はかえって満州からの朝鮮人駆逐・排日思想の助長につながるとの「理由」で、突然中止されてしまった(43)。時あたかも、日本軍による満州支配の動きが加速化しつつある時期であったが、すでに在満朝鮮人は、その生活実態からして朝鮮への帰還は事実上不可能であり、一方、中国の国権回復運動が激化すればするほど、その領土内の「外国人(朝鮮人)」にたいする監視も強まるしかなかった(44)。こうした情勢のなかで、中国側は1931年2月、「移住朝鮮人取締令」の制定、「国土盗売暫行命令」の改訂を行ない、朝鮮人・日本人への土地売買を禁じてしまう措置をとった。これにたいして日本は、同年9月の「満州事変」、ついで翌年3月の「満州国」建国宣言で武力による決着をはかった。
もっとも、「満州国」の成立によって、在満朝鮮人の「二重国籍」問題が解決したわけではなかった。150万人以上にものぼる在満朝鮮人は形式的には日本国籍を有していたとはいえ、「満州国としては実に運命的な負荷せられたる民族問題の一環」をなし、満州の日本官憲にとっては頭痛の種であった。のみならず「満州国」の新国籍法もいまだ制定されていない状況において、いったんロシアあるいは中国の国籍を取得したことのある在満朝鮮人の扱いは、行政の種々の側面において混乱の要員となった(45)。そこには当然「満州国」の傀儡性という問題が根底に潜んでいた。


6 「国境」による生の分断
1945年8月15日、日本は敗戦した。それから、約半世紀、今日の日本では「ボーダーレスの時代」が語られ、世界的視野での地域的共同体の形成、国境を越えた環境・人権・麻薬など人類共通の課題、あるいは国家権力の及ばない市民社会への拡張等、国家・国境の枠組みそのものを変えていくことに関心が集まりつつある。それはそれで、否定すべきことではないにしても、しかし、それを語る日本・日本人は、自らの植民地支配・戦争責任・戦後責任の多くを棚にあげたまま戦後の歴史を歩んできた。しかし、それとは対照的に、日本帝国主義が犯した罪科の数々は、まるで朝鮮・朝鮮人が背負わなければならないかのように、朝鮮人は「解放」された後も、さらに大きな苦痛を強いられ続けてこなければならなかった。
なによりも、敗戦国の日本が東西に分割占領されたとするならまだしも、よりによって植民地であった朝鮮が南北に分断され、加えて、サハリンのソ連編入、中華人民共和国の建国などによって、朝鮮人は戦前以上に、国民国家の枠組み、国境によってその生が分断されることになった。そこに米ソ対立の冷戦構造、およびその代理戦争の性格を強く帯びた朝鮮戦争の悲劇が重なり、たった一回しかない人生において、朝鮮人は愛する夫、妻、兄弟姉妹、親族、友人に会えないまま”引き裂かれた生”を強要され、そして次々に死んでいっている。まさに「解放」後の朝鮮・朝鮮人は、国民国家システムの国境によって分断されることで、世界的規模における”離散家族”の歴史を刻んできた。
それにしても、「国籍」「戸籍」を国家の重要な拠り所とする日本は、戦後在日朝鮮人から「日本国籍」を一方的に剥奪し、あるいは強制連行したサハリン残留朝鮮人を「外国人」として放置するなど、一貫して自民族中心主義の道を貫徹してきた。そのなかで、在日朝鮮人は、あの忌まわしい「国籍条項」の名のもとに一切の戦後補償・公務就任権等を否認され、地球上最後の分断国家となった南北朝鮮の対立もからんで、つねに「三つの国家」のはざまで苦しんでこなければならなかった。
*일본의 국적(일본어: 日本国籍 にほんこくせき[*])은 일본 국적법에 의해 규정된다. 일본 국적법(1950년 법률 제 147호)은 '일본 국민의 요건'으로 일본 국적을 소유한 자를 국민으로 간주하고 있다. 부모 양계의 혈통주의를 원칙으로 하고 있으나 귀화에 의한 취득도 일부 인정하고 있다. 1950년 제정 이후 1952년(법률 제 268호), 1984년(법룔 제 45호), 1993년(법률 제 89호), 2004년(법률 제 147호), 2008년 최종 개정, 총 5차례의 개정을 통해 지금의 국적법이 완성되었다.

*사할린 한인(러시아어: Сахалинские корейцы, 영어: Sakhalin Koreans)은 사할린 섬에 거주하는 한민족을 말한다.
在日朝鮮人の国籍は韓国・朝鮮(実質的には無国籍に類似)・日本と分かれているが、サハリン在住朝鮮人の場合には、1990年末現在で約3万6600人(サハリン総人口約70万人)のうち、旧ソ連籍をもつ者が大半で、朝鮮民主主義人民共和国の国籍所持者はわずか400人と全体の2パーセントに過ぎず、無国籍者は5400人余りであったという。このうち400人が解放後から一貫して無国籍を貫いてきた人であり、残りの無国籍者の大半は共和国国籍を放棄して無国籍にとどまっていた人たちであるとう(「統一日報」1991年6月5日)。ペレストロイカ以前には、無国籍者はサハリンで隣町にいくのにも許可が必要であったと言われている。旧ソ連籍の在ソ朝鮮人も、ペレストロイカ以前には、民族固有の言葉や名前を捨てざるを得ない生活を永らく強いられてきた。ただ、中国の朝鮮族は、自らの民族解放・国家建設の闘いをつうじて中国国籍を獲得したという歴史のなかで、比較的民衆の自主性と尊厳を維持してきたと言ってよい。


*Корё-сара́м (кор. 고려사람, 고려인) — самоназвание большей части этнических корейцев на постсоветском пространстве.
ただ、今日、世界に散らばって生を営んでいる朝鮮人、とくに在外朝鮮人は、たんに国籍の違いによって政治的抑圧を強いられているだけでなく、世代交代による同化の進行、国際結婚の増加、種々の人種的・民族的差別、居住国における南北の対立、等々に基づくアイデンティティの危機に象徴されるように、国家、国境、政治による対立を自己の人格のなかに彩色させられることによって、激しい内面的葛藤に直面している。*脚注(補足説明)参考文献一覧、あとまわしにします。ご了承いただければ。

II 在日1世の思想 ー被植民地体験者の精神構造ー
1 在日1世とは
在日朝鮮人の歴史を考えるとき、当然のことながら、「在日1世」として分類される第1世代の渡日、および日本におけるその生活が原点であることは言うまでもない。日本帝国主義の朝鮮支配を基軸に、植民地人として生活のために日本に渡ってこざるをえなかった者、あるいは人生の最初の夢を日本での勉学に求めようとした者、さらには15年戦争の末期に強制連行で日本各地の炭鉱等で暗黒の生活を強いられた者など、在日1世の渡日の経緯とその人生模様はさまざまである。1910年の「韓国併合」の翌年にはわずか2千数百人にすぎなかった日本在住朝鮮人の数は、1925年に約13万人となって以後急速に増えだし、1930年には約30万人、1940年には約119万人、そして日本が敗戦した1945年8月には、じつに朝鮮総人口の1割にあたる約240万人にも膨れあがった。
「在日朝鮮人」という言葉は、基本的には朝鮮が日本の領土から切り離されたと考えてよい1945年8月15日以降の日本在住朝鮮人をさすもので、また「在日」という言葉は、1970年代後半以降、2世・3世の若い世代の新たなアイデンティティの模索と関連して使われ出したものである。その意味では、戦前渡日し、人によっては日本と朝鮮のあいだを何回も往来して定住性が不確定であった時期の朝鮮人を「在日朝鮮人1世」とか、あるいは「在日1世」と呼んでいいものか若干の問題がある。しかし、今日に至るまでの在日朝鮮人の形成史を考えるとき、歴史の連続性において「在日朝鮮人1世」、あるいは「在日1世」と呼んでもさしたる不都合はないと思われるので、ここでは一括してそのように呼称しておきたい。
近年、韓国籍・朝鮮籍をもつ在日朝鮮人約68万のうち、1世は1割にすぎなくなったと言われるが、まず何よりも、「在日1世」とは誰をさすのかという定義の問題がひっかかってくる。日本の朝鮮支配の期間だけでも36年にわたり、したがって当然1世の時代は短くなく、その時代を十把ひとからげに同じ色で塗り潰すわけにはいかない。しかし、留保条件ばかりつけていくと問題がいっこうに整理されなくなるので、やはり「在日1世」とは幼年期を朝鮮で過ごし、1945年8月の日本敗戦以前に渡日した人たちというように定義したい。ここで幼年期とは5,6歳のことをさすのか、あるいは12,3歳くらいまでの少年・少女期までも含むのかとなると、個人差その他で断定しがたいが、要するに精神形成の主たる部分が「朝鮮」であり、「皇国臣民」の「日本」ではないということである。
小沢有作は、在日朝鮮人の第1代は朝鮮そのものであり、朝鮮をまるごと否定した天皇制下においてそれを内に封じたとはいえ、朝鮮を顕してきた世代であり、第2代は、皇国少年化した自分の姿を凝視しつつ、朝鮮解放の体験を光源にして、自らを再形成していった世代であり、第3代は、朝鮮を隠して生きることからの翻身求めて、朝鮮との新たな出会いを自分・家族の内外に手探りつづけている世代であろう、と、在日朝鮮人の世代間の相違を把握しているが(1)、そうした理解でほぼいいものと思われる。これを在日朝鮮人文字の領域でみると、磯貝治良は、「朝鮮語なるもの」「土着的なもの」を作品のなかに全面的に再生しようという傾向が濃密である金達寿・金石範・金泰生らを1世作家として分類し、「半朝鮮人・半日本人」の意識がぬぐいがたく滲みこみ、「朝鮮人性の奪回」を苦闘している李恢成・金鶴泳・高史明らを2世(前期2世)作家として分類している(2)。
在日1世をこのように規定することを前提に述べていくと、1945年8月の「朝鮮解放」時に在日朝鮮人社会をリードしたのは、当然30歳から40、50歳の1世であった。もっとも、1990年代の今日においてすら、在日朝鮮人総連合会(総連)や在日日本大韓民国居留民団(民団)など民族団体の幹部は、基本的にはなお1世によって占められており、その意味では、在日朝鮮人の歴史において、とくにその民族運動の側面においては、1世が一貫して主導権を握りつづけてきたと言うことができる。ただ、そうはいっても、世代交代によって今日の在日朝鮮人社会の主要部分が2世・3世によって構成されていることは論をまたない。
*김달수(金達寿, 1919년 - 1997년 5월 24일)는 일제 강점기 경상남도 창원군(현재의 경상남도 마산시) 출신의 소설가이다. 재일 한국인 문학자의 효시라고 한다. 김달수는 10살에 한반도에서 일본으로 이주했다.
*김석범(金石範, きん せきはん, 1925~)은 일본의 소설가이다. 재일 한국인이며 본명은 신양근(愼陽根).
*金泰生(きむ てせん、김태생、1924年 - 1986年)は、在日朝鮮人の作家。代表作に『骨片』『私の日本地図』などがある。
*이회성(李恢成, 1935년 2월 26일 ~ )은 일본의 소설가로 당시 일본이 지배하던 남사할린 섬에서 태어났다.
*金鶴泳(きん かくえい、キム・ハギョン、김학영、Kim Hak Young、1938年9月14日 - 1985年1月4日)は日本の小説家。本名は金 廣正(キム・クァンジョン)。
*高 史明(コ・サミョン、こう しめい、1932年1月17日 - )は、在日朝鮮人二世の小説家 、山村工作隊において読売新聞渡辺恒雄のインタビューに答えた事で知られる共産党活動家である[1][2]。本名は金天三(キム・チョンサム)[1]。
いま、1951年10月に在日朝鮮科学時術協会が発表した「在日朝鮮人の生活実態(3)」という報告書をみると、調査対象となった東京都江東区枝川町1丁目の「朝鮮人部落」116世帯438人の朝鮮人住民のうち、朝鮮での出生者201人=37・4パーセントにたいして、日本での出生者は337人=62・6パーセントとはるかに多かった。これを年齢別構成でみると、25歳以上は196人であるが、そのうち朝鮮での出生者は172人=87・8パーセントと圧倒的である。
*재일본 조선인 과학 기술 협회在日本朝鮮人科学技術協会 (재 일본長泉寺건가 꽃받침 기술 협회, 재일본 조선인 과학 기술 협회)는 조총련 기반으로 도쿄도 분쿄구 에있는 재일 한국 · 조선인 의 과학자 · 기술 구성된 단체. 약칭 '科協" 북한을지지하는 재일 조선인에 의해 1959 년에 조총련 산하에 설립되었다. 북한을지지하는 재일 한국, 조선인에 의해 일본에서 선진적인 과학 기술의 획득과 무기 개발에 필요한 기술자 육성하는 것을 목적으로하고있다. 도쿄에있는 조선 대학교 와 친북 일본인 · 재일 민족 주의자들의 협력을 얻어 북한에 일본에서 핵 · 미사일 개발 기술 및 기타 첨단 과학 기술 · 서적 · 정밀 기기류의 거의 모든 것을 제공하고 있습니다 한 [1] [2] [3] .
このことは満24、5歳を境として相互の数値が交叉していることを示し、在日朝鮮人社会は1950年頃に早くも2世の時代に移りつつあったことを示している。ついでにいうなら、出生地に対応して、あるいはむしろ日本帝国主義の皇民化政策の結果として、調査対象者全員のうち日本語を話すことができるのは438人=81・6パーセントであるが、朝鮮語を話すことができるのは308人=57・2パーセントとはるかに少なかった。逆に日本語を話せないものは99人=18・4パーセントであるが、朝鮮語を話せないものは230人=42・8パーセントの多きに達していた。
もちろん、年齢による世代の交代と朝鮮人社会の生活実態における世代の交代は必ずしも一致せず、在日朝鮮人社会の1世から2世への世代交代は一般的には、1970年代はじめころであったと理解してよい。もっとも、1958年の日本人女子高生強姦殺人犯とされる李珍宇の逮捕、いわゆる小松川事件を大きな契機に、60年代にはすでに「2世論」がさまざまに論じられていた。それでも、たとえば、1973年1月に創刊された在日朝鮮人の雑誌「季刊まだん」は1世の問題意識がなお濃厚であり、その第4号(1974年8月)では、「最近”2世”という言葉を良く耳にするが、”2世”という言葉に踊らされてはならない」と、日本に同化することを無意識のうちに是認するような言葉の使い方に警告が発せられていた(4)。「朝鮮」を肉化していた世代である。
*The Komatsugawa incident 小松川事件is a murder case that occurred in Tokyo in 1958 ( Showa 33) . Also known as the Komatsugawa High School case or the Komatsugawa schoolgirl murder case .
*사건의 배경에는 빈곤 과 조선인 차별의 문제가 있었다고되어 오오오 승평 [2] 등 문화인과 조선인에 의한助命청원 운동이 높아졌다. 오오오 승평 , 기노 시타 준지 ,旗田巍, 요시카와 에이지 , 와타나베 가즈오 들은 "이 소년을 돕기위한 부탁해 '(1960 년 9 월)는 성명서를 내고,
事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があったとされ、大岡昇平[2]ら文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった。大岡昇平、木下順二、旗田巍、吉川英治、渡辺一夫らは「李少年を助けるためのお願い」(1960年9月)という声明文を出し、"저희 일본인 은 과거의 일본과 조선과의 불행한 역사에 눈을 덮는 수 없습니다. 리 소년의 사건이 불행한 역사와 깊은 관계가있는 문제입니다.이 사건을 통해, 나는 우리는 일본인과 조선인 사이의 상처의 깊이를 알고 일본인으로서의 책임을 생각하고 생각합니다. 따라서이 사건의 심리에 대해서는 특히 신중한 취급을 희망 싶은입니다 "
「私ども日本人としては、過去における日本と朝鮮との不幸な歴史に目をおおうことはできません。李少年の事件は、この不幸な歴史と深いつながりのある問題であります。この事件を通して、私たちは、日本人と朝鮮人とのあいだの傷の深さを知り、日本人としての責任を考えたいと思います。したがって、この事件の審理については、とくに慎重な扱いを望みたいのであります」"지금까지 일본인은 조선인에 큰 죄를 범했습니다. 그 큰 죄를 생각하면 딸이 이렇게되었다고해서 원망 근육 사랑은 없습니다. 만약 진宇君이 감형되어 출소 후 , 우리 회사에 거두고합시다 "
「これまで、日本人は朝鮮人に大きな罪をおかしてきました。その大きな罪を考えると娘がこうなったからといって、恨む筋あいはありません。もしも珍宇君が減刑になって出所したら、うちの会社にひきとりましょう」
そうした在日1世の思想が論理や理屈、政治的な主張、あるいは盲目的な忍従や生活習慣によって成り立っていたとはとても思えない。もし、ひとりの人間の全存在をつらぬくものが”思想”である(古在由重)、とするなら、在日1世の思想はまさしく、「日帝」(日本帝国主義)の苛酷な支配、生活苦、離郷、家族離散、激しい肉体労働、飲酒・酩酊、被差別意識、反日感情、民族的コンプレックス、「家」観念、望郷、民族独立精神、2世への期待、など、被植民地体験のすべてにおいて成立するはずのものであり、その核心は”民族”であったはずである。

2 1世の日本渡航
これまでのところ、在日1世についての歴史学的ないし社会科学的論究はほんの少ししかなく、学問的評価の仕方によってはあるいはほとんどないと言うべきかも知れない。しかし、在日1世についての資料や記録、聞き書き、自伝などはけっして少なくはなく、近年になってその数はますます増えるばかりである。なによりも戦前の在日朝鮮人に関する官憲資料の収集・復刻が一定の蓄積をもってきているが、朴慶植「在日朝鮮人関係資料集成」(全5巻・三一書房、1975年~76年)や同じく朴慶植編「朝鮮問題資料叢書」(全15巻・補巻・アジア問題研究所、1981年ー91年)、小沢有作編「近代民衆の記録10、在日朝鮮人」(新人物往来社、1978年)などはその代表的なものである。在日1世の歴史がほぼ終わりに近づくにつれ1世自身の記録や自伝も数多く刊行されているが、それは苦難に満ちた自己の記録を是非とも残しておきたいという個人的欲求とともに、在日朝鮮人社会そのものが植民地時代およびその後の歴史を客観的にみる余裕をもちはじめたことを意味する。そこにはまた、いま記録しておかなければ後世に何も伝えられないという一種の危惧ないしあせりもあるとみてよい。


*박경식朴慶植(1922 년 12 월 7 일 - 1998 년 2 월 12 일 )는 재일 조선인 의 재야 역사 연구자. 원래 조선 대학교 교수 [1] . 경북 봉화군 봉성면 금봉 마을에서 태어났다.
朴慶植(パク・キョンシク、1922年12月7日 - 1998年2月12日)は、在日朝鮮人の在野歴史研究者。元朝鮮大学校教員[1]。慶尚北道奉化郡鳳城面金峰里で生まれる。概要:1929年3月に両親とともに来日。1943年9月、日本大学高等師範部地理歴史科(夜間)卒業。1942年9月、国民学校助教となる。1949年3月、東洋大学文学部史学科卒業。朝鮮中高級学校、朝鮮大学校の教員を務める。1998年、自転車で帰宅途中に交通事故死[2]。満75歳没。
朴慶植が集めた段ボール箱1300箱に及ぶ資料は、全て滋賀県立大学に収められ、「朴慶植文庫」となっている[3]。

*오자와有作(오자와 유사쿠, 1932 년 - 2001 년 8 월 12 일 )는 일본 의 교육학 자, 동경 도립 대학 (1949-2011) 명예 교수. 도쿄 대학 교육 학부 교육 행정학과 졸업. 동 대학원 박사 과정 만기 퇴학. 일본 조선 연구소 소원을 거쳐 1967 년 에 동경 도립 대학 조수. 1968 년 '민족 교육론」에서 도쿄 대학 교육학 박사 . 1969 년 조교수를 거쳐 1982 년 에 교수 . 1996 년 정년 퇴임, 명예 교수. 재일 조선인 교육 문제를 추궁했다.
自己形成の記録または自伝としては、「ある在日朝鮮人の記録」(張斗植)・「越境」(高俊石)・「わがアリランの歌」(金達寿)・「生きることの意味」(高史明)・「私の日本地図」(金泰生)・「渡日韓国人一代」(金鍾大)・「在日を生きる」(鄭煥瓢)・「怨と恨と故国と」(鄭清正)・「稚逸回顧録」(権逸)などが出版された。そして80年代後半以降の特徴としては在日朝鮮人運動の主体の側の記録として「抗日朝鮮人の証言」(金泰燁)・「ある被抑圧者の手記」(金相泰)・「アボジの履歴書」(金乙星)・「在日60年・自己と抵抗」(張錠 )・「軌跡」(朴憲行)などが世に出るとともに、「11月のほうせん花」(皇甫任)に代表される朝鮮女性の貴重な個人史や「放浪伝」(金文善)にみられる最底辺に生きた自叙伝も現われている。
これらの記録ないし自伝の中身は当然のことながら十人十色であるが、1970年代までのそれが主として作家やもの書きの文学作品的なものであるのにたいし、80年代の自費出版による自伝の多くは、どちらかというと実業の世界で功なり名をとげた民団系人士の「成功物語」で、その内容も祖先の話、事業の成功、民団での役職、故郷への経済的貢献、叙勲・手柄話とやや次元が低くなる。80年代後半以降の運動の主体側からの記録・自伝についていうなら、それは主として戦前の労働運動・民族運動の回想および「解放」後の日本共産党・在日本朝鮮人連盟(朝連)時代の活動に関するもので、在日朝鮮人運動の主流ともいえる総連の活動家であった者の本格的な記録・自伝はいまだ刊行されていない。
さて、朝鮮人の初期の渡航者は圧倒的に男性が多かった。働き盛りの10代から40代のものが家族を残したまま関釜連絡船やのちには済州島・大阪を結ぶ定期航路で出稼ぎにきた。1923年頃からは「自由渡航」が原則的に禁止されたため、朝鮮から日本に渡るために警察で「渡航証明書」を手に入れるのに苦労することになったが、やはり渡航者の数は増えつづける一方であった。日本帝国主義の政策のもとで仕事を奪われ、土地を失ったことなどを理由に、労働力としての肉体を唯一の元手に、すべてを犠牲にして日本への出稼ぎに賭けたのである。そこには少なからず、「日本に行けば、何とかなる」という思いがあり、しかも多分に「日本は公明正大、絶対神聖で万世一系の天皇のもとに朝鮮人も日本人も等しく赤子だ」という皇民化の宣伝にのせられる「甘さ」もあったかもしれない(「金ラポジ体験談(5)」)。
1930年代に入って、朝鮮から家族を呼び寄せる者があいついで定住性を増していくが、渡日朝鮮人の朝鮮での前職は、その大多数が農業であり、1935年の東京府の調査によれば、世帯持ちの90・74パーセント、単身者の79・73パーセントまでが農業に従事していた。しかも、その大部分は没落した農民層であり、そのなかでも自作農からの没落者が主で、小作農からの没落者が従となっている。つまり、日本渡航者の基本的性格は、朝鮮の農村経済の破綻によって排出された過剰人口で、したがって渡航の最大の動機は、生活難を打開し、金儲けのために働くことであった。そしてその多くが労働ブローカーによって渡日した朝鮮人労働者の大部分は、日本各地で炭鉱・道路・鉄道・河川・発電工事などの日雇夫となり、また沖仲仕や工場の見習職工、雑役夫、それに危険な工事や「不潔」な仕事に従事した。植民地人として賃金も日本人労働者の約半分にすぎず、朝鮮人・中国人、被差別部落民、日本人という民族的系列・差別が厳然として作用した(6)。
1938年現在の日本在住朝鮮人の出身地域は、慶尚南北道、全羅南道が圧倒的で全体の80パーセントを超え、朝鮮半島の南北でいうと南部出身者が95・6パーセントまでを占めた(桑田芳夫「在日朝鮮人処遇の推移と現状」法務研究報告書第43集第3号)。当然、朝鮮半島北部の出身者はロシアの沿海州や中国の間道地方に流れていったわけであり、その意味で、在日朝鮮人とは、日本帝国主義の直接的圧迫のもと、故郷を捨てざるをえなかった「流民」であり、またその子孫である。
3 「朝鮮人部落」の形成とその生活状況
朝鮮人の日本流出が増えるにつれ、日本での居住先は「土方部落」や「労働者下宿屋」から、いわゆる「朝鮮人部落」へとしだいに移っていった。「朝鮮人部落」が形成されはじめたのは急速に在住者が多くなってきた1920年前後からといわれる。最初「朝鮮人部落」が形成されたとおもわれる地域は、渡航者たちがはじめて足跡をしるした下関や門司であった。やがて日本各地の主要都市には必ずといっていいくらいに「朝鮮人部落」がつくられ、大小の違いはあったが、朝鮮人のみの居住区を形成して生活を営んだ。大阪市内だけでも、鶴橋・猪饲野・左官町・天六などに「朝鮮人部落」が出現したが、そこには日本人の眼からすると、貧しく、不潔で、まさに「悲惨」とさえいえる状況であった。ここで「朝鮮人部落」が形成された基本的要因は、日本人家主が朝鮮人に家や部屋を貸さなかったためであり、また劣悪な差別賃金のために、河川敷や飯場、国有地、土地の所有関係が不明な場所、日本人が住めないような所などにバラック、掘立小屋を寄せ集めの材料でつくしかなかったためである(7)。
*코리아타운(영어: Koreatown) 또는 한인타운(韓人城) 혹은 한인촌(韓人村)은 한국 이외의 국가에 있는 한국인, 한민족 밀집지역 또는 상업지구를 뜻하는 말이다.
「朝鮮人部落」は文字どおり朝鮮人の町であった。「朝鮮人部落」に日本人の住宅が入り込むことは少なく、朝鮮人と朝鮮語、朝鮮語の夜学校などが幅をきかせる場所であった。日本語も十分にわからず、つねに警察に監視されているという緊張感を緩めて安心して生活ができるのは「朝鮮人部落」だけであった。「部落」では地縁・血縁的相互扶助作用がつよく働き、就職その他の生活上の便宜が比較的容易に得られ、貧しいながらも飢えにさらされることはなかった。いわば朝鮮人にとって、日本社会そのものが敵対的な差別構造をもっていたなかで、「朝鮮人部落」は自衛と生活、安息の場所であった。
日本帝国主義の朝鮮支配という構造的要因のもと、朝鮮人労働者が日本国内に大規模に流入してきたことは、日本人に大きな衝撃をあたえた。とくに日本人日雇労働者の賃金水準低下に重要な影響をもたらすとともに、彼ら労働者の朝鮮人にたいする偏見・蔑視の意識を増幅させることにつながった。1923年の関東大震災に際して、6000人以上にのぼる日本在住朝鮮人が日本の軍警そして民衆によって虐殺されたことは、その悲劇的な例証である。ただこうしたことはなにも日本人と朝鮮人の間だけにみられた現象ではなく、たとえばイギリス帝国主義とアイルランド支配と植民の過程において、イギリス本国人とアイルランド人の間においてもみられたことである。すなわち、19世紀前半の約30年間だけでも、少なくみても200万から250万人のアイルランド人が海外への移住を余儀なくされ、そのうち推定で約80万人がイギリス本国へ移住していったことは、イギリスの労働者階級に大きな衝撃を与えるとともに、その産業予備軍の貯水池としての作用によって賃金水準の低下をもたらし、それは同時に、イギリスの労働者階級の側における「貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化および道徳的堕落の蓄積」を促進することになった(8)。


*간토 대지진 조선인 학살 사건(關東大地震 朝鮮人 虐殺事件) 또는 간토 대학살(關東大虐殺)은 간토 대지진(1923년) 당시 혼란의 와중에서 일본 민간인과 군경에 의하여 무차별적으로 자행된 조선인을 대상으로 벌어진 대대적인 학살 사건이다. 희생자 수는 약 6,000명[1] 혹은 6,600명[2] 에 달하는 것으로 알려져 있다. 또한 수만명의 희생자가 나왔다는 주장도 있다.
*British rule in Ireland began with the Anglo-Norman invasion of Ireland in 1169. Most of Ireland gained independence from Britain following the Anglo-Irish War and became a fully independent republic following the passage of the Republic of Ireland Act in 1949. Northern Ireland still remains part of the United Kingdom.
いうまでもなく、史的システムとしての資本主義の発展過程においては、資本の論理によって被抑圧の位置に追い込まれた民族集団は、民族的・階級的に劣位にたつ抑圧される労働者集団として形成される。その際に、資本主義システムの内部では差別のための種々のイデオロギー装置が発展させられ、それまで必ずしも明確に存在しなかった人種(民族)差別だけでなく、男と女を区別する労働の価値評価と結びついた性差別も構造化されていく。これを日本帝国主義下の日本在住朝鮮人について当てはめると、朝鮮人は民族的にと同時に、階級的にも抑圧されたのであり、しかも、朝鮮の封建的遺制の上に資本主義の原理における女性差別も加わって、朝鮮の女性はさらに一段低く位置づけられるようになった。
のみならず、たとえば、移民の国・アメリカにおいて典型的にみられるように、アメリカ経済がつぎつぎと各地からの移民を吸収することによって、低賃金の労働者を継続的に確保し、それにしたがって人種(民族)差別の対象の最底辺(基軸)が新しく導入された移民労働者へと順次移っていったことと比較するとき(9)、朝鮮人は「単一民族観」のつよい日本の地において、唯一の、そして絶対的な被差別の<流民>労働者として位置づけられつづけたということができる。換言するなら、アメリカにおいて戦前の日本人移民が他の非白人移民の到来によって、まがりなりにもその社会的地位を向上させていくことができたのにたいし、日本在住朝鮮人は、「朝鮮戸籍」という離脱不能の法的拘束を受けつつ第三国への出国も認められず、しかも、日本には朝鮮人とほとんど同地位の若干の中国人がいるだけで、新たなアジア人移民がつぎつぎに到来するということもなかった。
いずれにしろ、日本在住朝鮮人は、民族的・階級的に絶対的な差別の枠組みのなかに押し込められ、日本社会の最底辺において低賃金労働者としての生活を強要された。日本人は肉体労働者・土方とみると朝鮮人と決め込んで蔑視感を露にし、逆に肉体労働抜きの在日朝鮮人の生活は考えられもしなかった。とりわけ、15年戦争の末期にいたる過程において、100万人以上にものぼる朝鮮人強制連行が実施されるにおよんで、日本各地の労働現場は朝鮮人であふれかえる観を呈すまでになっていった。ちなみに、日本の炭鉱における朝鮮人労働者の比重は、1937年の2・8パーセントから40年には10・7パーセント、44年4月には35-40パーセントにまではねあがり、さらに炭鉱における中核的な坑内労働者にいたっては、朝鮮人(若干の中国人を含む)が平均60パーセント、ところによっては70パーセントの高率を占めるまでになった(10)。しかも、そうした朝鮮人の大部分は満足な教育も受けたことがなく、また「創氏改名」政策のもとで「日本名」をひっさげざるをえなかった。
朝鮮人にとって日本での生活はあくまで仮のものに過ぎず、想いはつねに故郷や肉親に向けられていた。昼間激しい労働にあけくれた朝鮮人が夜になって帰って来、何はばかることなくくつろげるのがまさに「朝鮮人部落」であった。日本人の世界から隔絶された「朝鮮人部落」には、数少ない楽しみの濁酒(マッカリ)があり、素朴で、しかし一転して喧騒となり、荒々しく立ち回り、泣き叫ぶ女の声、大きな笑い声、物が崩れおち、怒鳴りあう男たちのひびく別世界があった。「夜は別世界であった。密造したマッカリ(朝鮮のドブロク)があり、ニンニクとトウガラシのきいた漬物があり、酔いがまわるにつれて口をついて故郷の民謡がつぎつぎに桶いて出た。日本の虐政を嘆きかなしむ青春歌も出れば、アリラン、トラジ、ノードルカンペン(遊ぶ川辺)、蘇上八景、春香歌など、ありとあらゆる歌がつづいて、夕方6時ころから飲みはじめた宴が、午前2時、3時までつづくということもめずらしくなかった(11)。

*도부로쿠(일본어: 濁酒→탁주) 또는 니고리자케(일본어: 濁り酒)는 일본의 술의 종류이다.
*《춘향가》(春香歌)는 판소리 다섯 마당 중 하나로서 춘향전의 내용을 바탕으로 하고 있다.
*"Arirang" 아리랑アリランestas la plej konata korea popola kanto. Arirang estas antikva korea vorto kiu signifas moderne. 'Ari' signifas "bela" (ekzemple, la korea vorto 아리따운 signifas "bela", "ĉarma", "linda") dum 'Rang' povas signifi "kara".
*도라지トラジ는 고대 한국인들 사이에 널리 불린 민요이다.[1]
4 植民地下の精神世界
在日1世は故郷を恋い慕いながらも、社会的地位も尊厳もない異国の地において、閉ざされた生を強いられた。しかし、「まるごと朝鮮」である在日1世にとって、自分が日本人とは異質の存在であることは自明であり、そこから日本社会の差別と抑圧のなかにあっても、いっさいの悲哀と憤怒を捨て去ることなく、それを踏みしめて自立する精神をかいま見せることができた。農村出身者の多い「朝鮮人部落」では、「母国の古いしきたりがそのままもちこまれ、・・・日常の生活意識にはじまって冠婚葬祭の儀式に至るまで、母国での慣例をひたすら重んじていた」。「こと冠婚葬祭に関するかぎり、相互の交わりを決して欠かさぬ気風があった。近親結婚はもとより、祖先の出生地<本質>を同じくする者の同姓結婚もまた外道として排斥される。出生届まで陰暦にしたがっておこなう人もあった。・・・これらはすべて日本ではなくて、母国の習慣にのっとったことだったからである。一見、頑迷とまで映る人々の態度には、民族の伝統を重んじ、失うまいと固執する切実な心情が示されていた。さらには、失われた母国の歴史が誇らしく挽回される日へのひそかな願望さえかけられていた。日本という異国の一遇で、母国のふるびた生活様式を墨守する人々の外観が如何に異様に映ったとしても、それを貫くことは人々にとって生きがいそのものであった(12)。」
作家の金泰生は、日本と朝鮮が交錯する場に立ちあらわれた在日1世の人間としての苦悩、民族のたたずまいをこのように慈悲深い造形力で描いた。苦悩の推積をかいくぐって出現するこの1世の強烈な個性は、当然のことながら日本人の視線からするいまわしさの感覚とは無縁のものであり、また日本人の視線に犯されて「不遇の意識」を内面化させられた2世・3世の劣等感や罪障感とも切り離されたものであった。けれども、こうして植民地人の生活の内部の奥底に立って凝視しないかぎり、在日1世の現実の生活のありようは当時の日本人一般の眼に映ったもの、そしてそれを変形したかたちで無意識のうちに受け継いだ2世・3世のそれでしかなかった。それはまさしく「かれらを無知で、不潔で、怠惰で、嘘つきで、野蛮で、狡猾で、破廉恥な存在であると決めつけて爪はじきしてやまない観念」であり、それはまた「人々をそのような悪徳を悉く負うたものとしてあつかいながら、その逆境から脱け出る可能性を根源において断ちきり、拒絶している側から強いられた観念」、つまり「偏見」というものであった(13)。
もっとも、「不遇の意識」から出発しながらも、世界につうじる「普遍性」を求めて生きていく立場にある今日の若い「在日」にとっては、やはり在日1世の苦悩や生活を批判的にみることもまた重要である。そうした観点から在日1世の記録や自伝に接してみると、そこには幾多の問題点が浮かび上がってくるが、そのひとつは「在日」朝鮮人社会における家父長的体質である。
*부권제(父權制, patriarchy 패트리아키[*]) 또는 가부장제(家父長制)는 남성이 권력을 가진 남성중심주의 사회의 일종으로, 남성이 정치적 지도력, 도덕적 권위, 사회적 특혜, 재산의 통제권에 대하여 독점적 역할을 수행한다. 또한 가족 단위에서는 아버지 또는 아버지에 해당하는 인물이 여성과 아동에 대한 권위를 가진다. 많은 부권제 사회는 동시에 부계제 사회이며, 즉 재산과 가문의 명의가 남성 혈통으로 계승된다. 이에 반대되어 여성이 정치적 지도력, 도덕적 권위, 사회적 특혜, 재산의 통제권을 독점한 사회를 모권제 사회라 한다.
もとより朝鮮は儒教の国であり、封建的体質を色濃く残したまま日本によって「併合」され、しかもその日本は、朝鮮の儒教的思考や家父長主義などを自らの支配政策のひとつの軸とした。ここで「家父長的体質」とはさまざまに規定されうるが、権威的秩序の志向、保守主義、地方主義、両班(ヤンバン)の階級的特権意識、閉鎖的家族制度、寄生的生活態度、早婚・蓄妾の弊風、労働忌避、等々があげられるであろう。これらはまさしく日本帝国主義が朝鮮人の「欠陥」としてあげつらい、「皇民化政策」の正当化のために総動員したものである。在日朝鮮人自身、両班(ヤンバン)を自認する者が「常民」(サンノム)という下級民衆を蔑む言葉を多用し、また陸地(半島)出身の人間が済州島出身者を、あるいは逆に済州島出身者が陸地出身者を一段低くまたは違って見、さらに陸地でも互いに他の地方出身者を対等に扱わないというのが日常的であった。
*Korean Confucianism한국의 유교 is the form of Confucianism that emerged and developed in Korea. One of the most substantial influences in Korean intellectual history was the introduction of Confucian thought as part of the cultural influence from China.
*兩班(韓語:양반/량반)是古代朝鲜贵族阶级,雏形出现在朝鲜三国时代,主要形成于高丽国、朝鲜王朝时期。是古代高丽国和李氏朝鮮的贵族统治階級与学者官吏。

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