Coréens au Japon<在日朝鮮人>Koreans in Japan윤건차尹健次/'재일'을 산다고는/「在日」を生きるとは/Kŏn-chʻa Yun=재일조선인Les Zainichi "Vivre "au Japon" "To live "in Japan③
*황민화 정책(한국 한자: 皇民化政策)은 일본 및 그 식민지에서 주민들에게 일본 천황에게 충성할 것을 요구하는 내용을 담은 교육 정책이다. 또 다르게는 황국신민화 정책(일본어: 皇國臣民化政策 코우코쿠시민카세이사쿠[*]), 황국 신민화 교육(일본어: 皇民化教育 코민카쿄이쿠[*]), 황민화 운동(일본어: 皇民化運動 코민카운도[*])이라 표현하기도 한다.
さて、日本に渡航した在日1世の多くが反日意識を胚胎したことは言うまでもない。朝鮮人がことあるごとに口にした「チョッパリ」という日本人を侮蔑する言葉は、もともとけだもののひずめ、ふたつに裂けた爪先を意味するもので、下駄をはくと足が親指と4本の指に「裂ける」ことを象徴する憎しみに満ちたものである(15)。そうした朝鮮人が日本国家にたいして反旗をひるがえすのは当然のことであった。日本の官憲も、「内地渡航の朝鮮人は、渡航後内地に於ける朝鮮人の差別待遇を目撃し或は自ら体験することに依り、以つて平素抱持せる不満を晴らさむと積極的実践運動に乗り込む」とする朝鮮人の動向につねに神経をとがらせていた(16)。実際、在日朝鮮人の歴史は同時に闘争の歴史であり、初期の朝鮮留学生らによる研究サークルや思想団体の結成にはじまり、労働者による各種の労働運動や民族独立運動の展開が一貫して継続された。
*쪽발이(チョッパリ)또는 쪽바리는 일본 사람을 비하하여 부르는 말이다. 앞부분이 둘로 갈라진 짐승의 발인 '쪽발'에서 유래하였다.[1] 일본인을 체격으로 비꼬는 표현이다.
戦前の日本における朝鮮人の闘いは、基本的には労働者階級を中心とする日本の社会主義・共産主義運動と連帯しつつも、独自の課題として民族解放をめざすものであった。そうした運動は、朝鮮人の知識人・学生そして労働者などによって展開されたが、日本人の運動家に比して学歴や階級は朝鮮人のほうが全体としてはるかに低かったと思われる(17)。また朝鮮人の知識人・学生の場合、その多くは「留学生」、ないしは「留学」を放棄し、あるいは挫折せざるをえなかった者である。植民地にあって、朝鮮の親たちは、せめて息子に新しい学問を身につけさせ、できれば現実の貧困から逃れる手立てにもしたいという期待から、田畑や家までも売り払い、あるいは抵当に入れて仕送りに励んだのである。当時、おしひしがれた状況のなかで学校に在籍していること自体が、差別社会のなかで風波を避けるひとつの便法でもあったが(豊島与志『在学理由』1938年(18))、しかも多くの朝鮮留学生は苦学のあげく、学費がつづかず退学を余儀なくされ、たとえ卒業できても就職はおぼつかなかった。なかには比較的裕福な留学生もいたが、その場合には両班(ヤンバン)意識が、労働者や困窮者との交わりを阻害する要因ともなった(19)。
いずれにしろ、植民地人として日本に暮らした朝鮮人は、望郷の想いにかられ、あるいは差別社会のなかで呻吟しつつも、それでも民族の伝統を守り、人間としての尊厳を犯されまいと苦闘した。けれども、植民地支配というものが、もともと支配・被支配のそれぞれの立場にたつ両者をともに傷つけるものである以上、在日1世が生活者として示すこまやかな同胞愛や隣人愛、情愛、親切などの一切は、しばしば日本の官憲に利用されることによって、逆に同胞や隣人の離間をもたらす要因ともなった。すなわち、日本の官憲そして企業は同胞や日本人から慕われ、面倒見のよい朝鮮人に目をつけ、飯場や炭鉱では飯場頭・中間指導者として抜擢して朝鮮人労働者の監視と生産性の向上に活用し(20)、また朝鮮人の官製統制組織である協和会では指導員・補導員に取りたてて手先として利用した(21)。そこにおいて朝鮮人の誠実さ・同胞愛・使命感・親切心は無残にふみにじられ、また同じ底辺生活者の朝鮮人と日本人とのあいだに芽生えた隣人愛も、官憲の介在によって、結果として国家権力に利用されることになった。しかも、そうした経歴をもたせられた朝鮮人は、日本が敗戦したのちには、いわゆる「日帝協力者」として厳しく批判されることにつながった。
5 1世にとっての「8・15解放」と「祖国分断」
在日1世が「8・15解放」をさまざまな形で迎えたことは言うまでもない。その多くはもちろん、祖国の「解放」に歓喜したであろうが、じつのところそれに関する具体的な生の記録はけっして多くない。在日朝鮮人が祖国「解放」を熱烈に歓迎し、「皇国臣民」から「朝鮮人」への転生をはかっていったという類の記録・自伝は、1世の転換というよりは、むしろ2世<前期2世>の生きざまを描写したものと理解すべきであろう。もとより、在日1世まるごと「朝鮮」であったといっても、すべての者が最後まで「民族」の志操を守り切ったわけではない。親日派作家に転落した李光洙が「内鮮一体とは朝鮮人の皇民化をいふのであって 方歩み寄ることを意味するのではない。朝鮮人の方で、どんなことがあっても天皇の臣民にならう、日本人にならうと押掛けて行く気魄によつてこそ、内鮮一体はなるのである。・・・だから、朝鮮人側からいへば、ひたすら自己を皇民化して行けばいい、内鮮一体にしてくれるとか、くれぬとか、そんな心配は、一切無用だ。問題は朝鮮人自身の心構や努力にある」(『内鮮一体随想録』1941年)とまで主張したのは別として、在日1世の大半があきらめの境地で、日本での日々の生活を送ったことは想像に難くない。
*이광수(李光洙, 1892년 3월 4일 ~ 1950년 10월 25일)는 일제 강점기의 언론인, 문학가, 시인, 평론가, 번역가이며 친일파 소속이다. 본관은 전주이며, 조선 목조의 차남 안원대군의 후손이기도 하다. 자는 보경(寶鏡), 호는 춘원(春園)·고주(孤舟)·외배·올보리·장백산인(長白山人)이며, 필명으로 춘원생, 경서학인(京西學人), 노아자닷뫼당백, Y생, 장백, 장백산인 등을 사용했다.
一般に、「皇民化」「内鮮一体」の論理は、日本人側からする同化と差別を典型的に示すものとされるが、それを朝鮮人側からみると、差別からの脱出をはかるものとして受け入れられた。「日本人以上に日本人になる」、「日本人になることのみが幸福になる道」という自己納得の仕方は、それ自体、民族的コンプレックスの表出であり、「2世的」な思考形態である。むしろ、帝国軍人に「志願」することによって挫折からの脱出をはかろうとした息子(呉林俊)にたいして、オモニ(母親、前期1世)が「朝鮮人はどこまでも朝鮮人じゃよ。日本人にはなれはせんぞ」(呉林俊『記録なき囚人』三一書房、1969年)と言った言葉こそ、「まるごと朝鮮」の1世の精神世界や思想を端的に表現するはずのものであった。もっとも、そうは言っても、ここには1世と2世の世代間区別のあいまいさ、つまり15年戦争の末期に自ら「皇国臣民」となることに励み、解放後は一転して、「朝鮮人」としての道を歩みはじめた年代の朝鮮人が、今日においては残り少ない「1世」とみなされがちであるという問題がついてまわる。事実、現在在日1世の記録・自伝として評価されるものの多くは、「1世」というよりは、むしろ「後期1世」、あるいはこれまた誤解を招きやすくなるが、強いていうなら「1世的」作品というべきものであるのかも知れない。
こうした「在日1世」という世代の規定のあいまいさを前提としていうなら、在日1世にとっての「8・15」は「解放」と「帰国」、「独立国家建設」への喜びにつながったが、しかし結果的に日本に残留せざるをえなかった在日1世にとっては、混迷する日本の政治・経済状況のなかで二重三重の苦しみの中での闘いの起点ともなった。なによりも日本敗戦とともにそれまで働いていた工場や炭鉱から放り出された朝鮮人は、現実には生活の糧を得るために闇商売をするほかなく、それは同じく貧窮のどん底にあった日本人と激しく衝突することになった。時あたかも、朝鮮その他からすべてを捨てて日本人が続々と祖国に引き揚げてきたが、「帰国後大多数の人は、朝鮮その他からすべてを捨てて日本人が続々と祖国に引き揚げてきたが、「帰国後大多数の人は、在日朝鮮人に対し誤解による反感と憎悪を示し、逐次それが露骨に表面化し*22)」、さらにそれは日本のマスコミによって民族排外主義としてあおりたられていった。
もとより、約240万人にも達していた在日朝鮮人の多くは、連合国総司令部(GHQ)や日本政府の支援のないままに、独自の努力で朝鮮への帰国を急いだ。日本敗戦の翌年である1946年3月、GHQの指示を受けた日本政府は旧植民地出身者の登録を実施しているが、それによれば登録した在日朝鮮人総数64万6943人のうち、帰国希望者は51万4035人と、総数のじつに約80パーセントが記憶の意志をもっていた。しかしこのことはまた、「解放」からわずか6ヶ月のあいだに、すでに約175万人もが荒波高い冬の玄界灘を渡って帰国したことを意味する。その後ようやく、帰国希望者にたいする日本政府の計画的輸送がはじまるが、すでにその時には帰国する者は激減していた。その理由としては、帰るべき38度線以南の地域にアメリカ軍政が布かれたことへの失望と、故郷に生活基盤のない在日朝鮮人にとって、1人あたり1000円以内という財産持ち帰り制限もあって、帰国後の生活の見通しがたたなかったことが指摘されている(23)。もともと出稼ぎにきた在日1世が「お金がなくて故郷に帰れない」というのは、世界史的な意味で移民<流民>が背負わねばならなかった真理<事実>であるが、それだけにいまや一つの社会体制に再編成されつつあった朝鮮の故郷で、幼なじみや同輩がそれなりに出世していくのを海のかなたから見つめるのは寂しいかぎりであった(24)。
日本人ですら失業者があふれ、餓死者まで出した時代に、なんの基盤もない朝鮮人はたくましく生き抜いた。時には闇市場における一部朝鮮人の羽振りのよさが実際よりも誇張されて伝えられ、朝鮮人はあくどい金儲けをするというイメージが広がり、官憲を中心に「第三国人」という差別用語さえ流布されることもあった。しかし、実際には1952年でも、たとえば大阪の朝鮮人の生活は「市内7万6千のうち最低生活者が48%を占め、小金のあるときには木賃宿に泊り、なくなればガード下で路傍にでも寝るという生活(『朝日新聞』1952年8月17日夕刊)であった。そうしたなかで、在日朝鮮人の犯罪が日本における大きな社会問題のひとつとされる傾向があったが、それは言うまでもなく「困窮の一つの現われ」であり、「その犯罪の一つ一つは在日朝鮮人生活の苦しさと涙の歴史」、さらには「困窮の深刻さを物語るもの」であって、したがって「朝鮮人が日本人よりも人種的に犯罪的であるが如き言論は許さるべからざる事」であったのは当然である(25)。
もともと手に技術をもたない在日1世は、土方や闇商売からはじまって、手近な飲食店、廃品回収業、土木建設など体一つで働く仕事しかなかった。それも激しい浮き沈みのなかで言語に絶する苛酷な労働に耐え、カネを貯えては子どもを食べさせ、学校に行かせた。しかも、そうした生活基盤の不安定さは日本人の差別や偏見、あるいは官憲による監視や弾圧でさらに制約されざるをえなかった。いきおいその生活スタイルは一発主義や計画性のない猪突猛進となりがちであったが、それでも在日1世のたくましいエネルギーは例外なしに民族愛、同胞愛に燃えていた。
そうした「体でぶつかる」という1世の生きざまは、なによりも日本における「祖国」ともいうべき民族団体の組織化とその最重要施策である民族学校の建設に具体化された。「解放」を迎えるや大阪や東京でただちに組織活動が開始され、1945年10月には早くも全国的組織である在日朝鮮人連盟(朝連)が結成された。当時極度の差別によって、いわば強いられた生活上の便宜から一つの生活共同体となっていた「部落」には、「解放」前から各出身地方面の親睦会や右翼の相愛会、あるいは警察主導の朝鮮人統制団体である協和会の支部などがあったが、それらは日本が敗戦するや否やみな愛国者組織となって、朝連のなかに包摂されていった(26)。初期の頃の朝連組織はたしかに、そうした「日帝」の協力者であった協和会のメンバーや「民族反逆者」もまぎれこみ(27)、また植民地生活の反動もあって、組織の末端では、組織の権威を盾にして、肩で風を切って威張り散らす風潮も少なくなく、ひどいところでは日本の警察さえ手出しできないこともあった(28)。さらに朝連時代の在日朝鮮人運動が日本共産党の指導下にあったことも、在日1世にとっては少なからぬ苦痛となったことも事実である。
しかし、いずれにしろ、在日1世の民族的エネルギーは、民族団体の組織化とその最も大きな表出となった民族学校の建設へと向けられた。実際、次代をになう子どもたちのための学校は、8・15以後わずか1年足らずで、525の初等学校、四つの中級学校、12の青年学校が建てられ、生徒数4万4000人、教員数約1200人をかぞえるまでに急成長した。こうしたエネルギーはもちろん、「強圧」や「制度」として発揮されたわけでもない。詩人の金時鐘は苛酷な植民地統治下において、ひたすら皇国臣民の誓いを新たにしていた頃の記憶を次のように語っている。
「天皇陛下の赤子、といわれるだけで胸いっぱいだった皇国少年の私にも、ひそひそとささやかれていた朝鮮語音の「サフェジュンジャ」(社会主義者)は、同族のために苦労している人、またはそのために追われたり、囚われている人たち、という共通の意味あいを響かせていた。・・・回天となった”終戦”のおかげで、私もようやくその「サフェジュイジャ」の実相を知るに至ったが、植民地統治に手向かった人たち、民族主義者や自由主義者、農民運動家も組合運動家も、ひいてはキリスト教徒をはじめとする各宗派の信仰者たちもひっくるめて、民衆は「サフェジュイジャ」(社会主義者)と呼んだのだった(29)。」
*사회주의社会主義(프랑스어: Socialisme, 영어: Socialism, 독일어: Socialismus)는 생산수단을 공동으로 운영하는 협동 경제와 모든 사람이 노동의 대가로 평등하게 분배받는 사회를 지향하는 다양한 사상을 통틀어 일컫는 말이며, 또는 그 과정을 의미하기도 한다.[1][2]
もっとも、米ソ両体制による朝鮮半島の南北分断占領、そして1948年の南北分断国家の成立を最も大きな理由に、在日朝鮮人の民族運動もまもなく分裂を余儀さなくされていった。しかし、たとえば、大阪の場合、「大阪市警察庁のみるところでは府下12万の朝鮮人の約8個が北鮮系・・・」(『朝日新聞』1952年8月17日夕刊」とされたように、在日朝鮮人の圧倒的な思想傾向は「社会主義的」であった。総連の元活動家も、少なくとも朝鮮戦争をへた1955年くらいまでは、在日朝鮮人の9割以上が反李承晩であった、と回想している(30)。もとより、在日1世にとってみれば、政治的対立を発生させる内的必然性は何もなかったが、反共・独裁の生地獄であった韓国から5万とも10万ともいわれる「政治難民」が密航してくる状況において、さらに世界的に「社会主義」が「夢」として機能した時代において、その民族意識は大きく「社会主義」あるいは「北」の「イデオロギー」によって彩色されていくことになった。
そうしたなかで、在日1世の素朴な民族意識は、「民族」そして「祖国」すなわち「組織」であるという構図が堅固になるにつれて、南北どちらかの民族団体に吸収され、従属するものとして変容させられていった。そこには「祖国」のもつ「権威」にひきずられる儒教的、封建的、あるいは権力志向的体質の顧現がみてとれるが、それはそれで、在日の民族団体の急成長にみられるように巨大なエネルギーの源泉となった。ただその過程において、「まるごと朝鮮」の在日1世が当然にもっていた強烈な「民族」の意識は、政治に内属する「不幸な背理」によって、逆に伸びやかな思考、生の豊かさを禁圧するものとして作用していったと言わざるをえない。
6 家族のなかの葛藤
在日1世について語るとき、その「家」の観念や儒教的思考や、家父長主義などを欠かすわけにはいかないが、それは1世を中心とする家族の構成形態や家庭生活の内実、さらには祭祀<チェサ>に代表される日常的な民族的伝統の意味付けといったことについての考察につながる。在日1世のもつ特質は、当然のことながら2世・3世との断絶・相違によってより明確に把握されうる。したがって、一般に2世・3世がその成育の過程において不可避的に「不遇の意識」をもつとするなら、その要因の少なからぬ部分は1世自身に内在するものであり、それは1世の特質をかなり鮮明に浮き出たせるものでもある。
トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭部分で「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」(中村融訳、岩波文庫)と書いている。植民地下の朝鮮で幸福な家族がいったいどれくらいあったのかを想像するに困難であるが、しかしさまざまな形で不幸な家庭が多かったことは事実であり、とりわけ在日朝鮮人の場合には、基本的にそうであったということができるかも知れない。もとより何が「幸福」でなにが「不幸」かは規定しにくいが、少なくとも家庭や家族は民族・国家・社会の最小単位であり、その民族・国家・社会が植民地として抑圧下にあるとき、そこで営まれる家庭や家族の生活が、通常の意味で幸福であるはずはなく、むしろ民族・国家・社会の抱える矛盾のすべてが集約された形でそこに現われてくると言ってよい。
植民地人として日本で暮らした朝鮮人の家庭や家族、夫と妻、父と子などの問題は、それだけで何個もの本になる大きな題材であり、事実、戦後花開いた在日朝鮮人文学の主たるテーマの一つもそこにある。初期の日本渡航者はもちろんのこと、日本在住朝鮮人の男女比率はつねに男が多かった。日本官憲の資料によれば、男は1920年で88・5パーセント、30年で72・34パーセント、40年で62・37パーセント、45年8月で64・67パーセントを占めた(31)。
*안나 카레니나(러시아어: Анна Каренина, 문화어: 안나 까레리나)는 러시아의 작가 레프 톨스토이의 장편 소설이다. 1873년부터 집필을 시작했으며, 1875년부터 잡지 "루스키 베스뜨니끄"(러시아어: Ру́сский ве́стник, 러시아 메신저)에 연재했다. 1877년에 단행본 초판이 발행됐다. "전쟁과 평화"와 함께 톨스토이의 대표작이며, 현대에 이르기까지 지극히 높은 평가를 받고 있다.
「朝鮮の男」にとって、日本は地獄であった。出稼ぎに来たものの、甘い期待を裏切られて朝鮮の故郷へ仕送りもままならず、なかにはいつからとはなしに音信不通になる者も出てきた。朝鮮ではそれなりに家族愛や秩序ある隣人関係のなかで暮らしてはいたが、日本では転々とする孤独な生活を強いられ、働いた分だけカネにならず、事あるごとに傷つき、怒りっぽく、とげとげしく、荒々しくなる一方であった。日本人と、あるいは朝鮮人同胞の仲間内でも喧嘩早くなり、わずかな収入をドブロク代にあてて、酒盛りでウサを晴らすようになっていった。それにたいし、「朝鮮の女」は、男のいない「家」を守って、わずかの小作をやり、内職をやって生活を支えたが、それもついに立ちゆかなくなって、父や夫を追って日本に渡ってきた。国の独立が侵され、「家」の重みが一段と増した朝鮮で、必死に「家」を守ろうとした妻(「嫁」)が耐えかねて日本にたどり着いたとき、そこにはかつての優しい夫はいなかった(32)。ときには、家や田畑を処分して渡航費をひねり出し、やっとの思いで海を渡って夫の住むところにたどり着いてみると、そこには一緒に暮らす「日本の女」がいた。
「粗暴な父」と「耐える母」、そして「暗い家庭」という2世作家による在日朝鮮人文学に形象される「基本的パターン」は、それ自体、間違いなく日本帝国主義の所産であり、その後遺症はやや形を変えながらも、世代をついで今日にまで継承されている。さしたる教育も受けず、体ひとつで日本に渡ってきた在日1世の男にとって、日本での生活のすべてが意にそわず、夢や希望、あるいは男や家長としてのプライドさえずたずたに引き裂かれ、腕力でしか自己の存在を示し、「家」の秩序は守れなかったのかも知れない。その意味では、「粗暴な父」というのは、日本人の前ではどうにもならない朝鮮人の非力さ、あるいは日本帝国主義が強いた苦痛によって豹変させられた男の姿、さらには被植民地体験の精神構造の負の部分を象徴する表現でもある。
それに較べると「耐える母」は、「やさしいオモニ」であり、その「やさしいオモニ」は「朝鮮的なもの」「母なるもの」「民衆的なもの」を表微する代名詞でもある。朝鮮の女にとって、日本は相対的な社会的・経済的自立を可能にさせてくれる国ではなかった。のみならず一つの文化体系をもつ朝鮮にあるような、女性同士の”契<頼母子講>”のような互助組織も地域の秩序関係もまたそれ程なく、さりとて異国に地で夫につきしたがう以外の道もなかった。そこには儒教的・封建的思考も手伝って、たとえ再三再四やすらぎが切り裂かれることがあっても、家父長的な枠組みの「家」にしがみつくしかなく、またその「家」こそが「故郷」であり、「朝鮮」そのものであった。「朝鮮の母親たちの足は、何としっかり大地を踏まえていることか。ほとんど朝鮮語しかしゃべれず、朝鮮の民族服を着けながら、彼女たちは 々として働き、異郷の風霜にひるむことなく黙々としてその家庭を支えてきた」(金石範『1945年夏』筑摩書房、1974年)。泣きたいほど辛いこと、苦難の連続であったが、まさしくそれが植民地時代の朝鮮の「家族」と「民族」を救った。「過去36年間、実に忍び難きを忍んで来たのは、わが朝鮮の女性たちであ(33)」った。
もちろん、2世の眼からするとき、植民地時代だけではなく、「解放」後も家庭は暗く、重苦しく移った。それは悲しく、絶望的でさえあった。金鶴泳文学における父親像にみられるように、家庭、なかでも主として母親にたいして陰惨な暴力を振るうのが在日1世の男でだった。そこでは母のむきだしの争いごとが絶えず、家は憎悪のるつぼとなった。「酔った父が絶望的ないらだちから母を殴り、2人は獣のようにとっくみ合い、わめきあう」。夫婦の葛藤は救いようのない嗜虐・被虐的な陰惨な様相を呈した。しかし、それでもそこには、同じ民族、同じ被抑圧に立つものとして通底するものがあったとみてよい。「凄惨な場面」も、「(時がたってみるとそれは)なぜかこの上なく美しく、かなしいものとして思い出される。母は父の絶望を魂の奥底で受けとめ、そのいらだちをコトバではなく暴力でしか発露できないほど父を、とっくみ合うことでなだめていたわっていたのではないかと思う。とっくみ合い、お互いに悪罵のかぎりを吐きつけながら、実は彼らの魂は深く強く結ばれていったのではないかと私には思われる(34)」。
けれども、日本人女性と家庭をもった在日1世の男性の場合には、やや様相が違っていたはずである。もとより、朝鮮に本妻を置いたまま日本で日本人と結ばれた例は枚挙にいとまがなく、そこにはまた悲しい家族離散、複雑な家庭模様が語られなければならない。そうした「2人妻」の場合を含めて、日本人女性と結ばれた在日1世男性は、それが被抑圧民族の男と抑圧対策の女の結婚であったが故に、より大きな民族的葛藤を経験しなければならなかった。しかもそれは、若いうちはまだしも、歳をとればとるほど大きくなり、原体験の相違とも重なって、やりきれない寂しさがつのる原因ともなる。
もちろん日本人女性と家庭をもつに至った理由はさまざまである。徴用で連れてこられて東北地方にいた1世のなかには、本国に本妻がいながら「内鮮結婚」奨励で結ばれた場合が多いという。また戦火が激しくなり、死を予感した男女が破れかぶれの気持ちで同棲をはじめた場合もある。なかには出世をめざして日本人の娘と結婚した知識人もおり、さらには暗黒の時代にやさしい心づかいを示してくれた日本人女性と結ばれた例もある(35)。歴史学や社会学の課題としていうなら、「内鮮結婚」の歴史と実態を詳細に把握する研究が急がれるが、1939年末現在の統計では、日本全国で日本人女性を妻とする朝鮮人男性は9577人、うち入籍しているもの2363人と、内縁のほうがはるかに多かった。逆に日本人男性を夫とする朝鮮人女性はわずか183人で、そのうち入籍しているもの50人である。これを世帯数でみると、日本在住朝鮮人の世帯が21万780であるなかで、20世帯に1世帯は「内鮮結婚」であり、いわゆる混血児は1万5866であった(「内鮮人通婚に対する朝鮮人の動向(36)」)。
経験的にも朝鮮人と日本人の「国際結婚」は圧倒的に朝鮮人男性と日本人女性のそれが多く、そのかなりの部分が内縁である。在日1世の場合、それは「解放」後今日にまで引き継がれているが、そこには日本敗戦後、日本と南北朝鮮の関係が長らく途切れた状況のなかで、朝鮮に本妻を置いたまま日本人女性と結ばれた例も多く、また「北」を支持する思想態度の故に、本国(韓国)の戸籍に入られずに内縁のままになったという事情もある。今日的視点でみると、朝鮮人男性が民族的主体性を備えている場合には入籍し、日本人女性に朝鮮籍をとらせて、子どもも「朝鮮人」として育てた例が少なくないようである。内縁で子どもが母親の籍に入っている場合(「日本国籍」)でも、子どもを民族学校に入れて「朝鮮人」として育てたというものも少なくない。ただ朝鮮人男性が民族的コンプレックスのとりことなり、さらには朝鮮人であることを隠している場合には、子どもを「日本人」として育てることになり、しかもそれが現実には、かなり多かったのではないかと思われる。この場合、混血の子どもはアイデンティティの確立に深刻な苦悩を経験するのが通例であるが、「子どもに同じ苦労をさせたくない」という父親の「卑屈さ」があだとなって、年老いた朝鮮人男性のなかにはやがて余計者とされ(37)、「遺産」相続名等ともからんで家を追い出されるということもあると言われる。
ついでに言うなら、「解放」後の在日朝鮮人運動高揚の過程において、在日朝鮮人と結婚し、「朝鮮人」になり切ろうとひたむきな努力をつみ重ねていた日本人女性が、結局両民族の「宿命的」関係のゆえに離婚しなければならなかったという歴史があることも記憶にとどめておかなければならない。作家の山崎朋子や角圭子がそうした例であるが、朝鮮人の夫が属する民族団体(総連)があまりに組織・民族・祖国を前面に押し出し、2世を含む組織活動家に少なくなかった「日本人妻」を忌避する「政策」を打ち出したため、最終的には日本人女性が愛する夫から寂しく身を引いていったこともある(38)。
いずれにしろ、在日1世は、植民地人としての生活を強要されるなかで、人間として耐えがたい苦痛にさいなまれつづけた。そうした歴史の軌跡のなかで「民族」すなわち「朝鮮」を守るすべは、現実には「家庭」にしかなく、その中核は祖先の祭妃(チェサ)に代表される民族的な伝統的儀式によってであった。いかに父母が「民族」や「朝鮮」を想っても、子どもの多くは解放前であれ、解放後であれ、日本語中心の「皇民化」教育を受けており、それは自然的な意味での世代の交代をこえて、父母と子どものあいだを引き裂くばかりであった。作家の高史明が、父親の自殺未遂に遭遇して、それを食い止めようとして日本語で叫び、それにたいして父が、息子には通じない朝鮮語でかろうじて答えたという悲劇は(高史明『彼方に光を求めて』筑摩書房、1973年)、まさに日本帝国主義支配下の朝鮮の父と子の悲惨な関係を物語るものである。しかも、「祖先」と「民族」を世代をこえて伝えるはずの祭妃(チェサ)が、「日帝」下や戦後の日本でおこないうる唯一の「公式行事」という性格をもっていたにもかかわらず、それが2世・3世には「家観念」や「長幼の序」、「孝道」、「男女有別」などの封建儒教的遺習を強要するものとして受け取られがちであったところに、在日1世のやりきれない苛立ちと悲しみがあったと言ってもよい。
7 望郷と諦念、そして定住
在日1世にとってその生涯は、思わぬ展開の連続であった。まさか懐かしい故郷を離れて異国で生活するとは考えなかったであろうし、また日本で「解放」を迎えるや、すぐにでも帰国できると思ったはずである。それにもかかわらず帰国はおろか、日本での定住を結果的に余儀なくされ、しかもよりによって息子・娘までが「日本人化」して、朝鮮の血が途絶えていく恐怖をおぼえ、自らも日本の土と化していくのを予感せざるをえなくなっていった。そこに米ソ冷戦体制下の祖国分断が重なり、それは植民地人として体験したものをはるかにこえる苦痛をもたらすことになった。
1世の時代とは、ある意味で”「朝鮮人部落」の時代”である。そこにはたしかに、生活の困窮からくる一種の共感があり、故郷の匂いや民族の絆があった。1世にとって、「部落」は日本のなかの朝鮮であり、互いに支えあい、ぶつかりあいながらも、体験と境遇を共有する同胞中心の生活の場であった。けれども、そうした「朝鮮人部落」は、1959年からの「北」への帰国事業の開始によって、歯の欠けたくしのような姿へと変貌し、また60年代に本格化した経済の「高度成長」と「都市化」のなかで、若い世代が親の仕事を嫌って街へと出ていくことによって、衰退しはじめた。しかも、こうした「部落」共同体の解体は、同時に2世の進出とあいまって、1世の時代を著しく後退させていくことにつながった。のみならず、1965年の日韓基本条約の締結は、祖国分断の固定化を印象づけ、1世は自分の家を建て、墓をつくるなど、「永住」を前提とした生活設計をとりはじめた。
在日1世の人生哲学や思想は、学問や知識によって獲得されたものではない。思想というものが往々にして、西欧的普遍性のなかにその根拠を求めるものであるとされることからするとき、1世の思想は閉塞的な生活世界のなかで、まさに裸一貫の肉体労働から出発することによって形成された。日本人の2倍、3倍働け、差別に敗けるな、権利を守れ、学校をつくろう、祖国を統一しよう、といった1世を支えた思想は、自らの時代を精一杯生きることを美徳とする、その忍耐強くも、たくましいエネルギーによって生み出された。その思想は、祖国や民族、故郷、家族にたいする愛着と分かちかたく結ばれ、やわらかい感受性、同胞への献身によって彩られるものである。事実、無一文からたたきあげ、働きづめで財産を築きあげた1世は、それを組織や故郷、祖国などに還元する意識もまた強かった。
ただ祖国分断の現実において、そうした1世の「善意」は、必ずしも正当には評価されない時代の運命にあった。日本・「北」・「南」という三極分解のなかにあって、「寄付」という名の1世の「善意」は、すべて政治犯を色彩をもつものとなり、組織・国家権力によって裁断されざるをえないものとなった。すなわち、主義・主張が民族を支配し、民族の存立よりもイデオロギーが優先する時代の流れにおいて、1世はかぎりなく組織や国家権力によって利用され、吸い上げられる立場に立たされることにもなった。のみならず、政治的理由で何十年ものあいだ故国に行けない1世にとって、「故郷」そのものが何時のまにかきわめて「作為的」なものとなるしかなかった。sれを想うとき、1世にとって祖国や民族、故郷ははたして何であったのか、と、真剣に問い直さざるをえなくなる。すなわち、生きていくために「過去」をつねに自己の内部で新たに再生し、そこから自己を解放し、自由となって現在を生きる契機としていくことが不断に求められざるをえなかった(金泰生(39))。
ともあれ、在日1世にとって、祖国や民族、故郷、家族は夢であり、希望であった。たとえそれが<見果てぬ夢>であり、<かなわぬ希望>であったとしても、1世にはそれしかなかった。それはもちろん卑下すべきことではなく、いまはむしろ、そのためにすべてを捧げた在日1世の生きざまを、静かに思い浮べるときなのではなかろうか。
천황제 (天皇制, てんのうせい)는 일본의 천황을 중심으로 한 일본의 국가 제도이다. 협의로는 일본 제국 헌법 아래 군주제로서의 천황제를 말하며, 광의로는 근대 이전의 천황제와 일본국 헌법 아래의 상징천황제까지 포함한다.[1]
III 在日朝鮮人の<内なる天皇制>-権威的秩序の内面化ー
1 天皇と朝鮮人
1945年8月15日は、在日朝鮮人にとって民族解放の日であった。しかし、複雑な戦争終結・民族解放の迎え方をした在日朝鮮人にとって、民族解放という政治的解放が、ただちに在日朝鮮人の人間としての復権・解放を意味したわけではない。意識の変革は、権力者の交代や政治世界の転換にともなって自然に随伴するものではなく、ましてや在日朝鮮人は、自らの闘争で民族解放を勝ち取ったわけでもない。のみならず、「団体(天皇制)護持」に執着する日本政府の戦前・戦後を貫通する連続性によって、民族解放という「政治的解放」は、逆に、「外国人」とされた在日朝鮮人にたいする基本的人権の「合法的」蹂躙につながっていった。
8・15を転機に、在日朝鮮人は独立民族の一員として蘇生する道にむかって動きだし、実際「解放」と同時に、同胞の組織づくりに取りかかるとともに、「日本人」から朝鮮人への転換をとげはじめた。けれども、朝鮮人の言葉も歴史もよく知らず、内面奥深くに巣くっている「皇国臣民」の残滓はあまりに巨大であった。たとえ「奴隷的存在」であると知りつつも、いったんは「日本人」として生きようとした朝鮮人にとって、自己を直視し、暴露し、朝鮮人としての内実を獲得し、転生していくことは至難の業であった。
詩人の金時鐘は、「17の時に終戦になったのですが、日本が敗けた、ということが信じられなくて、二晩も三晩も泣き明かし」、「私は否応なしに、極端から極端へ自己を変えなければならなかった」と、その「いびつな思春期」の記憶を物語っている(『「在日」のはざまで』三一書房、1986年)。また普通には在日1世とみられる1922年生まれの歴史家・朴慶植も、「日本人への同化から朝鮮人として立ち直る私の生涯における一大転換のとき」、「母国語がわからないので(朝鮮人愛国烈士の)演説の内容は10分の1も理解できなかった」と述懐している(『在日朝鮮人ー私の青春ー』三一書房、1981年)。さらに8・15のとき旧制中学4年生の「皇国少年」であった朝鮮文学研究家の李丞玉は「<日本人>として泣いた1人であり、しかも「それ以後のおよそ10年間は<創氏改名>による<宮本>という姓を守り続ける<日本人>であった。・・・皮肉なことには、かの悪名高い<外国人登録法>が私の朝鮮人意識をかすかに支えていた」と語っている(金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』三一書房、1978年)。
いま、天皇を頂点とする権威的秩序の内面化を<内なる天皇制>と呼ぶなら、なんの媒介も自己変革もなしに「解放」を迎えた在日朝鮮人は、自己の精神の奥底にある<内なる天皇制>との深刻な対決をとおして、朝鮮人としての主体形成をなしとげていかねばならない課題に直面した。ましてや、戦前、明白な「親日派」に転向した朝鮮人にとって、朝鮮解放・民族独立の現実において、その<内なる天皇制>をいかに突き崩し、あるいは隠蔽していくかは、まさに生死存亡にかかわる重大事となった。時すでに、連合国(アメリカ)軍の占領下にあって、朝鮮でも、日本でも、「親日派」は、同胞から民族の裏切り者として厳しい糾弾の対象とされていた。
もとより、「親日派」とは本来、植民地当局の朝鮮人官僚、警察官、それに日本人の庇護のもとで富を築いた地主、企業経営者等を指し、そこにはまた、大日本帝国の尻馬に乗り戦争の変化に手を染め、朝鮮の青年たちを戦争へと駆り立てる役割を買って出た知識人らが含まれる(李景珉「解放政局と親日派問題」『思想』1989年12月号)。そうした親日派、とくにそのイデオロギー的中心ともなった親日派朝鮮人作家の精神のあり方については、その徹底した民族ニヒリズム、自虐と加害の二重のコンプレックス、「日本」という理想の発見、利己主義、事大主義、観念論的・非科学的思考様式などが批判されもする(李泳禧『親日文学人』、1986年10月)。
けれども、実際には、そうした民族反逆の主導者のみならず、ある意味では被害者である下級の「日帝協力者」も「親日派」という色合いを帯びて指弾された。たとえ主観的ではあっても、生きんがために特攻隊員となった若者はもちろんのこと、戦中・戦後の在日朝鮮人の組織活動を描いた金石範の『往生異聞』(集英社、1979年)に出てくるように、党再建・反戦活動で逮捕され、拷問・病気でやむをえず、獄中の同志たちの承認のもとに偽装転向のつもりで転向書を書いたことも、解放後に「日帝協力者」として査問を受ける理由となった。しかも、歴史的事実としては、在日朝鮮人がいちばん密集していた大阪の場合にみられるように、戦前各種の運動に参加して獄につながれた朝鮮人で、非転向をつらぬいた人は少なかったという(張錠壽『在日60年・自立と抵抗ー在日朝鮮人運動史への証言ー』社会評論社、1989年)。
それだけに、朝鮮人にとって、「親日派」と呼ばれることは恥辱であり、悪辣な日本人帝国主義者以上に糾弾の対象とされる根拠となった。逆に言うなら、「解放」後の「在日」朝鮮人にとって、過去の「親日」的行為をひた隠し、自己と天皇<制>についての関わりについて沈黙し、ただひたすら日本・日本人を告発し、また新生の民族・祖国を叫びつづけることがひとつの現実的な生き方となりやすかった。それはもし、過去との断絶によって思想の変革がなされるとするなら、思想変革・自己変革ぬきの、もう一つの「転向」と呼ばれかねない営みであった。その場合、戦前日本の左翼転向者が、「方向の誤り」をただして再び村においては模範人物となるという形で、家族と郷士のなかへ純真に立ち返っていったとするなら(藤田省三『天皇制国家の支配原理』第2版、未来社、1976年)、朝鮮人は、新たに意識化された「民族」と「祖国」という「まとまりの意識」のなかに吸収されていった。
ここで「まとまりの意識」というとき、日本人の場合、「天皇」を埋めこんだ「まとまりの意識」として成立していたと考えてよく、その「まとまりの意識」における天皇の意味は根深く、同時に虚構性をも含んでいた(加藤典洋『「日本人」の成立』『明治学院論叢 国際学研究』第2号、1988年3月)。朝鮮人の場合、その多くは<内地人に限る>や<朝鮮人お断わり>の貼紙に象徴される就職・住所等における極度の差別によって、いわば強いられた形で”「部落」”という集団を形成して生活を営んだのであり、それが「まとまりの意識」の原点であった。そこには各出身地方別の親睦会や翼賛団体の協和会組織があり、なかには秘密の左翼組織もあって、それらは解放後すべて愛国者組織となって、1945年10月には全国的組織である「在日朝鮮人連盟」(朝連)となった。つまり「一視同仁」の協和会組織などがそのまま解放後は、「民族」「祖国」を背にした朝連組織となり、そこに「急造された愛国者、憂国の志士がものすごい勢いでおどり出てきた」(呉林俊『絶えざる架橋』風媒社、1973年)。
いわば協和会の人間関係がそのまま新生祖国建設の意気に燃える民族組織に移行したと考えてよく、そこで金石範が『往生異聞』で述べているように、「組織活動家イコール愛国者」であり、戦前に闘い、拷問・転向などで傷ついた者より、むしろ「”内鮮一体”と”聖戦完遂”を叫んだ・・・日帝協力者のほうが身軽に転身して組織活動に従」った。「要はいま現在の組織活動にどれだけ忠実かどうかが問題なんだ」とされ、「それが組織活動家の原則的態度」であるとまで公言されるほどであった。そのことは、金石範の「1945年夏」で、前記した陸軍特別幹部候補生出身の陸軍少尉豊川(李成植)が、解放後の在日朝鮮人青年組織で突如、保安隊の責任者として登場すること、また協和会の元指導員や班長ら日帝協力者が同じく民族組織の幹部となって現われることに象徴的に示されている。つまり、そこには、「余りに傷の痛みがなさすぎ」(金石範)、「二重の転向」ともいうべき事態があった。
4 組織・民族・祖国
もちろん、解放後の在日朝鮮人運動が、祖国の独立と自らの権益擁護のために献身的に闘ったことは否定できない。一連の政治課題のほかに、帰国同胞の安全確保、日本人との連帯、生活貧窮者の救済、とりわけ同胞を啓蒙するための教育・出版事業の展開などは、戦後の混乱期を考えるとき特筆に価する。日本共産党の指導下にあった朝連で、多くの朝鮮人活動家が共産党員でもあった時期、そこには祖国の建設だけでなく、天皇制打倒、世界革命の推進というインターナショナリズムもあった。それにもかかわらず、「皇国少年」の歴史を多くもつ朝鮮人活動家が、たとえ「民族」「祖国」革命を高らかに謳い上げても、精神の基軸を変えないままの思想動員・組織活動の実際的ありようは、天皇制を裏返しにしたような権威主義的・官僚主義的なものになるしかなかった。
日本に取り残された朝鮮人にとって、民族組織は即、民族そのものであり、祖国であった。善かれ悪しかれ、組織のなかで、あるいはそれに寄り添うようにして生きる以外は他にすべはなかった。もしそうでなければ、日本の天皇制的社会に埋没するしかなく、それは親日的傾向を帯びていた作家・張赫宙(野口赫宙)が、1952年10月、「帰化を許され戸籍を埼玉県現在地に創設し、戸籍名を野口稔とする」(自筆年譜、『現代日本文学全集』87、筑摩書房版、1967年)とした道につながる危険性があった。けれども、一方、在日朝鮮人が両義的にしろ、組織の問題を自らの内に包摂せざるをえない存在であったことは、日々刻々と変転する政治情勢のなかで、組織や民族、国家がになうはずの困難を一身に受け止めざるをえないようにした。
*장혁주(張赫宙, 일본식 이름: 野口稔(노구치 미노루), 野口赫宙(노구치 가쿠추), 1905년 10월 13일 ~ 1998년 2월)는 한국의 소설가, 문학평론가로, 본명은 장은중(張恩重)이다.
1946年4月3日の『朝日新聞』(「声」)欄に、次のような在日朝鮮人青年の投書が掲載せれている。
「全朝鮮学徒諸君に告ぐー我らが祖国朝鮮は独立を約束された。・・・しかるに朝鮮人の現状はどうか。なかには憂国の士もあろうが、大部分は自己の利益追求に日夜を過し、独立に対する関心を持っているものは極めて少ない。そしてあたかも自らが今次の戦争に勝ったかのごとく誤認し、自己の利益のために日本人に対し恐喝に近い行動をさえあえて行っている。なかんずく終戦末結成された朝鮮関係諸団体中、比較的下級役員に多いのであるが、彼ら一部不良役員は自己の肩書(?)を看板に、その向う所まさに敵なきがごとき不遜なる行動をとり、その傍若無人なる振る舞いは許すべからざるものがる。・・・」(兵庫県尼崎市・徳山隆一こと洪乗淳)
ここではもちろん、なんの保障もなく荒廃の巷に放り出された在日朝鮮人の生活困窮や、植民地支配・戦争遂行の責任を負わないどころか、逆に在日朝鮮人を圧迫し、差別・蔑視する日本社会の現実的姿も考慮に入れて読む必要があろう。しかし、それにしても、金石範が『往生異聞』で書いているように、「どうやら活動家たちは委員長とか部長とかの組織の部署を、何やら権力機関の部署と勘違いしている向き」があったことは否めない。「皇国少年」であった高史明が、解放後日本共産党員として、「反党分子」を査問する側に立たされたという体験を踏まえて、かつての日本人植民地支配者と変わらない自己の変革、思想の覚醒へと歩みだしたということも、同じ文脈で理解することができる」(『夜がときの歩みを暗くするとき』筑摩書房、1971年)。
近代天皇制国家の専制性が、なによりもまず国家から自立した社会の形成を抑圧する権威的支配という点にあったとするなら(藤田勇『権威的秩序と国家』東京大学出版会、1987年)、在日朝鮮人も「組織」「祖国」に寄り掛かることによって、権威的支配秩序から自由で、創造的な共同体の形成に失敗していくことになった。たとえそこに、植民地人であった海外在住者という歴史的規定があるにしろ、今日的視点からするとき、自己の思想変革の弱さ、権力志向的な体質が指摘されざるをえない。しかも、在日朝鮮人の場合、米ソ冷戦体制のもとにおける1948年の南北分断国家の成立、および50年から53年にかけての朝鮮戦争という悲劇を経験し、そこにおいて「組織」「祖国」につらなる権威的秩序をさらに内面化することが要求され、それを拒否するとき、それによって意識化される「民族」を守り切れないという構造のなかに組み込まれることになった。
その際、「南」系の在日本朝鮮居留民団(民団)の歩みをみると、それは当初「朴烈の民団」と揶揄されるほどに(朴慶植『解放後在日朝鮮人運動史』三一書房、1989年)、天皇暗殺容疑で22年間獄中にあった朴烈、つまり「自分の見解で、自分の行動を律する能力のない・・・一種の喜劇役者」とまで評される「大英雄」(朴煕哲「大韓民国居留民団編」『民主朝鮮』1950年7月号)を団長に迎えて、その「権威」のもとに数多くの親日派・民族反逆者までもがたむろした少数集団であった。「満州国」判事、中央興生会(協和会の後身)指導課長などを勤めた権逸や、石原莞爾のもとで「東亜連盟」の実質的推進者であった曹寧柱などは、民衆の反撃を恐れて表面には出ず、裏で自己の利益を画策して民団を操縦した。もっとも、彼らも、反共独裁の大韓民国の成立とともに、民団が本国政府から日本における唯一の正統団体(在日本大韓民国居留民団と改称)として承認されるや、すぐさま組織の一線に復帰して、以後「祖国」の名のもとに「反共イデオロギー」を振りかざし、自らの「権威」を高めて反民族的行為を積み重ねていった。
*박열(朴烈, 박렬, 1902년 3월 12일 (1902년 음력 2월 3일)[1] - 1974년 1월 17일)은 한국의 아나키스트, 사회운동가이다. 본관은 함양(咸陽). 본명은 박준식(朴準植)[2] 간토 대지진 직후 대역사건 중 하나인 박열 사건의 주모자로 체포된 후 1945년까지 22년간 투옥 후 출소하여 일본에서 결성된 한국인 교민단체인 재일본조선거류민단의 초대 단장(1946년 10월 ~ 1949년 4월)을 지냈다.
それと比較するとき、朝連は、民族主義者・社会主義者を問わず、在日朝鮮人から圧倒的な支持を得、その幹部も基本的には、日帝協力者を排除した愛国者たちによって占められていたと考えてよい。しかし、日本共産党の指導下にあった朝連は、やはり「前衛党」の「権威」のもとに同胞に従属的姿勢を強いるという、官僚主義的体質を免れなかった。しかもやがて、吉田内閣の反動的政策によって朝連が強制解散させられて、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)に継承され、ついで1955年に在日本朝鮮人総連合会(総連)が結成されるにおよんで、在日の民族団体の対立・分裂が決定的となった。とくに民戦からの「路線転換」とその「偉大な首領」である「金日成元帥」への絶対服従を基本路線とした総連は、在日朝鮮人に強い民族的自負心を抱かせはしたが、しかもその内実において、自ら否定したはずの「天皇制」的体質を色濃くもつようになっていった。
5 <内なる天皇制>の克服の課題
いうまでもなく、在日朝鮮人は自ら、祖国の南北分断や在日組織の分裂・対立を望んだわけではない。国際政治の冷徹な論理になすすべもなかったと言えばそれまでであるが、しかし、一人ひとりの在日朝鮮人の心情からすれば、「一つの民族」「一つの祖国」があるべき姿であることは疑う余地もない。したがって、もし、人びとのなかば以上無意識にいだいている想念が、一つの整序された体系に結晶するとき、それに「思想」という名を与えるとするなら(鹿野政直)、在日朝鮮人の主体的な思想変革・自己努力によって、本国ではないこの日本の地に、「一つの民族共同体」を形成しえていたとしても決しておかしくはない。そこに自らの内部に彩色された「天皇制イデオロギー」を克服しえなかった在日朝鮮人の歴史的過誤があり、また独自の「思想」を形成しえなかった弱さがあるといえば、それはあまりにも酷な評価であろうか。事実、今日、在日朝鮮人が「人生の軸」としてきた「組織」、「民族」、「祖国」、「統一」、「社会主義」などの言葉を思い返すとき、そこにはかつての天皇制につながる権威的秩序の響きが感じとられる。
ひとが権威を求めるのは基本的欲求である。ひとは誰でも、自分たちを導き安心させてくれる権威者を必要としている(リチャード・セネット、今防人訳『権威への反逆』岩波現代選書、1987年)。しかし、権威を正当性と同一視するとき、そこには自由を放棄して、卑屈な従属に走ろうとする心性が生まれる。それは外的権威にすすんで服従することによって、暗黙のうちに自己の無力さを承認する態度でもある。
在日朝鮮人にとって、「8・15」は、手放しで称賛することのできないものである。その転回点以降の歴史において、権威的秩序への束縛から自らを解き放つという、内部批判の「誠実さ」を欠いていた。もし戦後の日本人が朝鮮・朝鮮人を棚上げにして、「平和と民主主義」のスローガンに逃げ込んだとするなら、在日朝鮮人は日本・日本人を告発しつつも、「組織」「民族」「祖国」を盾に、自らの「ゆがみ」を正す思想変革をなおざりにしてきたというしかない。したがって、侵すほうも侵されるほうも、無傷ではいられないのが「植民地」であるとするなら(金時鐘)、それを支えた天皇制国家の歴史の延長線上において、権威的秩序の内面化によって築き上げられた<内なる天皇制>を突き崩していくことが、朝鮮人にも、日本人にも、いま切に求められていると言ってよい。
IV「帰化」についての考察
―在日朝鮮人にとっての民族と国家―
1 「帰化」の概念とその歴史
1990年代の今日、世界各地では民族問題が噴出し、大きな政治的争点となっている。そうした民族問題は現実にさまざまな形態をもっているが、主としては少数民族の民族的自覚を基盤とし、自己が所属している国民国家としての権力国家に対する反発ないしは抵抗として表現されている。自己が所属している国民国家としての権力国家に対する反発ないしは抵抗として表現されている。つまるところ、民族問題とは、民族と国家の関係に収斂されると言ってもよいが、「単一民族国家」の観念が支配的にみえる日本では、あたかも何の民族問題も存在していないかのように錯覚されがちである。そこには、日本に居住している住民の圧倒的多数が自らを「日本人」であると当然のように考え、その「日本人」とは、同時に「日本民族」であり、「日本国民」でもあるとほとんどの者が意識し、あるいは意識することもない自明のこととして受け入れているとう現実がある。すなわち、「日本人」という日常用語は、たとえそれが明確な定義を欠く不定形な存在であっても、「日本民族」や「日本国民」という言葉t重なり合う概念記号として、水や空気と同じように至極当たり前なものとして日本社会に根づいている。
けれども、日本に居住する住民の圧倒的多数が「日本人」という言葉に安心感をもち、なんの危険も感じていない一方において、その「日本人」という言葉に脅かされ、危険を感じ、そのため常にそれを意識し、抵抗し、対決することなくしては生きていけない住民がこの日本にも少なからず存在する。それは当然、国民国家としての日本国家によって歴史的に不利益を被ってきた民族集団であり、具体的にはアイヌ・ウィルタなどの少数民族であり、また沖縄など被抑圧の歴史をもつ地域の住民であり、さらに日本帝国主義のアジア侵略の所産である在日朝鮮人や在日中国人などである。換言するなら、それほど意識されていないとはいえ、日本にも民族問題は厳として存在しており、それは本質的に世界の民族問題につながっている。
*아이누(러시아어: Айны 아이늬[*] 일본어: アイヌ 아이누[*], [ʔáinu])는 오늘날의 일본 홋카이도와 혼슈의 도호쿠 지방(東北地方), 러시아의 쿠릴 열도, 사할린 섬, 캄차카 반도에 정착해 살던 선주민이다. 일본의 주를 이루는 야마토 민족과는 다른 북방계의 민족으로, 역사적으로 개별적인 부족 국가 형태를 지녀왔으며, 독자적 고립어인 아이누어를 사용하였다.Als Ainu bzw. Aynu (アイヌ), seltener Aino, werden die Ureinwohner des nördlichen Japans und Teilen Russlands (Sachalin, Kurilen) bezeichnet. Genetische und anthropologische Untersuchungen legen nahe, sie als direkte Nachfahren der prähistorischen Jōmon-Kultur zu betrachten, deren Angehörige in einer Kernzeit von 14.000 bis 300 v. Chr. in ganz Japan lebten.
*윌타인(ульта, Ulta, Ulcha, Uilta, ウィルタ) 러시아의 사할린 섬, 쿠릴 열도 및 일본의 홋카이도에 걸쳐 거주하는 소수민족이다. 윌타족은 자신들을 윌타라고 부르며, 씨족에 따라서는 우리차, 오로크(Oroks), 나니(Nani)라고도 한다. 아이누 민족은 이들을 오로코라고 불러왔다.Les Oroks ou Orocks (Ороки en russe), aussi appelés Uilta, sont un peuple de l'oblast de Sakhaline, vivant principalement sur l'est de l'île. Selon le recensement de 2002, il y a 346 Oroks vivant dans le nord Sakhaline au bord de la mer d'Okhotsk, et au sud dans la ville de Poronaïsk.
*중국계 일본인(中國系日本人)은 중화인민공화국 국적자를 가리키는 ‘재일중국인’과 중화민국 국적자를 가리키는 ‘재일 타이완인’과 같이, 중국으로부터 일본으로 건너온 중국인을 합쳐서 부르는 말이다. 재일중국인(일본어: 在日中国人) 혹은 일본 화인(일본어·중국어: 日本華人)이라고도 부른다. 2007년말에는 606,889명이였고, 2008년에 655,377명의 재일중국인으로 등록되어 있다. 통계 상으로는 도쿄도 인구 100명당 1명은 재일중국인으로 알려져 있다. 일본과 거리가 가깝다는 지리적인 이점이 있어, 옛날부터 일본으로 이주하여 요코하마시, 고베시, 나가사키시에 차이나타운을 형성하고 있다중국계 일본日本華人,是泛指在日本生活的華人或華裔。