日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Coréens au Japon<在日朝鮮人>Koreans in Japan윤건차尹健次/'재일'을 산다고는/「在日」を生きるとは/Kŏn-chʻa Yun=재일조선인Les Zainichi "Vivre "au Japon" "To live "in Japan④


재일 코리안에게 이름 2 개의 이름 - 민족 이름과 일본 이름 Name for Koreans in Japan Two names-ethnic name and Japanese name

외국인 인권법 연락 회 「외국인 · 민족적 소수자 인권 기본법」과 「인종 차별 철폐 법」의 제정을 요구하는 연락 회 FOREIGN HUMAN RIGHTS LAW LIAISON COMMITTEE Liaison Committee calling for the enactment of the "Basic Law on Human Rights for Foreigners and Ethnic Minorities" and the "Law for Elimination of Racial Discrimination"

ここでは、そうした問題を抉りだす意味も兼ねて、今日の在日朝鮮人が抱えている最も大きな問題の一つである在日朝鮮人の帰化の問題をとりあげてみる。ここで、在日朝鮮人の帰化問題とは、いうまでもなく日本国籍を所持しない朝鮮人が、あらたに日本国籍を取得する問題であり、法律的には国籍変更の問題である。しかし、在日朝鮮人が外国人登録上の国籍表示である「韓国」または「朝鮮」を捨てて、日本の戸籍を編製することによって「日本国籍」を得ることは、単なる法律上の問題であることをはるかに超えて、人間存在の根底を揺るがしかねない重大問題である。いわば、在日朝鮮人にとって、「帰化」は、民族と国家の根幹にかかわる問題であり、深い苦悩と激しい葛藤を伴うアイデンティティの危機に直結する問題である。
他国の国籍を新たに取得するというのは、国民国家システムをとる近代世界においてはごくありふれたことであるが、そうした国籍取得(naturalization)を日本では「帰化」という言葉で表現する。しかも、日本においてこの「帰化」の歴史を考えるとき、まず頭に思い浮かぶのは古代における「渡来人」(「帰化人」)のことであり、それは事実上、現在でいう「朝鮮」や「中国」からの渡来者を主とし、東南アジアや南方の諸地域からの移住者はそれ程多くなかったものであると思われる。
上田正昭著「帰化人」(中公新書)によれば、古代における朝鮮・中国からの渡来の波は、およそ4期に分けることができるという。第1期は、紀元前200年頃から朝鮮を媒介とする大陸の文化が伝えられたときであるが、その当時はまだ、日本列島には世襲主義を主軸とする統一国家は十分に形づくられてはおらず、そのころには畿内大和を拠点とする世襲主義も成立していて、王権を中心とする隷属関係も次第に形づくられつつあった。第3期は、5世紀の後半から6世紀のはじめを中心とする期間で、渡来の波はいっそうの高まりをみせ、とくに朝鮮南部から新技術をもった人びとが多数移住してきた。それによってもたらされた技術や知識は、大和政権の機構の整備と充実に大いに役立てられ、古墳時代後期の民衆生活に少なからぬ影響を及ぼすとともに、仏教も受容されていった。第4期は、7世紀後半渡来の波がさらに大きなうねりを示したときで、それは唐・新羅の連合軍が百済をほろぼし、それを救援しようとした日本軍が大敗を喫するなど、朝鮮半島の政治・軍事情勢が激動した時期である。
こうして4つの時期を中心として渡来した移住者は、大和国家成立以前にあっては、いち早く同化し、成立以後にあってはそれぞれ役人となり、あるいは豪族となり、さらには農工の民となって土着していった。平安時代に入ると、桓武天皇の母が朝鮮渡来系氏族の出身であったこともあって、渡来人出身者が政権中枢部で重きをなす者も出てきたが、やがて9世紀の中葉ごろからは、新たな渡来者に対しては排外的態度を示し、ある種の鎖国へと移行していった。そこには、律令国家体制における「蕃国」思想があり、朝鮮(新羅)は日本への隷属的朝貢国、すなわち「蕃国」とする差別観が存在していた。
「渡来人」と「帰化人」がどう違うのかは、歴史学研究における重要な課題であるが、「帰化」という用語自体は、「日本書紀」を代表として、日本の古文献に数多く見出される言葉である。上田正昭は、そうした古文献から「帰化」とは「欽化内帰」であるとし、「帰化人」とは、王化をしたって渡来した人びとを意味すると説明している。すなわち、現在言うところの日本に渡ってきた外国人がすべて「帰化人」ではなく、国家の秩序に従い、その範囲に入った人(つまり「化内の人」あるいは化内の人たるべき人を、古代法の精神では「帰化人」と理解していたのであるという。そして8世紀の前後のころには、外国人に対する観念には、王化に浴した者すなわち「帰化人」と、単なる居留外国人すなわち「夷狄」という見方の二つがあったとされている(1)。
*사이(四夷) 또는 이적(夷狄)은 고대 중국에서 사방(四方)으로 거주하고 있던 이민족(오랑캐)에 대한 총칭이다.
こうしてみると、「帰化」とう言葉が、統一国家の成立、王権の確立と密接にかかわるものであることがすぐさまに了解される。換言するなら、「帰化」という言葉は、7世紀後半の律令国家の形成と切り離しては考えられないことを意味する。事実、7世紀後半というのは、これまでの歴史学研究において、「天皇」の称号が制度的に確定し、「日本」という国号が対外的に用いられ始めたとされる時期である(2)。しかも、「帰化」の理念が、統一新羅を「蕃国」と位置づけることによって成立しているとされることからしても、その本質は差別と同化の論理であると言ってよい(3)。すなわち、日本古代における渡来人をすべて「帰化人」と呼ぶのは適当ではなく、また「帰化」というのは「王化」(「皇民化」)と結びつく言葉であることを忘れてはならない。しかも、ここで確認しておくべきことは、少なくとも7世紀前半まではいわゆる「日本人」が存在しなかったという厳然たる事実である。「日本」が存在しないのに「日本人」が存在するはずはなく、したがって「外国人」という概念があったかどうかも疑わしい。
これについて加藤典洋は、少なくとも7世紀までの時代において、金連寿が「朝鮮半島から日本列島に渡来していたものたちを、われわれは「朝鮮人」とよぶことができるか」と述べているとしつつ、「当時、渡来者は、自分をそもそも現在了解されている形で、「外国人」とは自覚していなかっただろう」とし、「列島居住者も、彼らを「外国人」とは考えなかった」と、主張している。つまり、「日本人」とそれに対応する「朝鮮人」という観念がないところに、「外国人」に対する差別観念は存在しえないはずだということである。そこから、「日本人」という観念は、本来「天皇」を埋め込んだ「まとまりの意識」として成立してきたのではないかという疑念が生まれ、そうした「日本人」観念が歴史において実体を備えるに従って、差別の実体もまた強まってきたにもかかわらず、現実には「日本人」という観念に潜む虚構に麻痺させられているのが現代日本の姿であると、喝破している(4)。
いずれにしろ、「一衣帯水」の関係にあるとされる日本と朝鮮の歴史において、朝鮮半島から日本列島に集団的な移住があったことは事実である。古代の渡来人、中世の豊臣秀吉の朝鮮侵略に囚る被虜人、そして現代の日本帝国主義の朝鮮侵略によって形成された在日朝鮮人などは、日本人と朝鮮人の相互関係、朝鮮人の日本人化、差別と偏見、民族と国家、等の問題と直結するもので、それらが今日の「帰化」問題につながっている。なかでも、1592年から98年に至る秀吉の朝鮮侵略で連行されてきた5万人とも6万人ともいわれる朝鮮人の子孫たちのうち、薩摩焼の発祥地である「苗代川」に住みついた「高麗人」が、明治の中期までの300年間”日本の中の朝鮮”として、純粋に朝鮮の氏名、言葉、習俗などを維持しえていたにもかかわらず、近代天皇制国家の確立期に朝鮮の氏名、言葉、習俗などをすべて捨てて、日本人に同化させられていったことは重要な意味を持っている。

*히가시이치키 정 미야마(東市来町美山)는 가고시마현 히오키시의 오아자(大字, 일본의 말단 행정 구획)이다. 과거에는 나에시로가와(일본어: 苗代川)로 불렸으며 정유재란때 사쓰마 번주 시마즈 요시히로에 의하여 끌려온 조선 도공들이 마을을 이루고 살던 곳으로 사쓰마야키(薩摩焼) 자기로 유명하다.
*萨摩烧(日语:薩摩焼/さつまやき Satsuma-yaki)是一种日本著名的代表性陶瓷器,釉面有裂纹装饰。万历朝鲜战争期间,九州南部萨摩藩为发展当地的陶瓷工艺,从朝鲜掠来大量的陶瓷匠。萨摩烧就是这一时期被掠到日本的朝鲜陶瓷匠创建

*장훈(張勳, 1940년 6월 19일 ~ )은 재일 한국인 출신의 전 일본 프로 야구 선수이다. 일본에서는 하리모토 이사오(일본어: 張本 勲)라는 일본 이름으로 알려져 있고, 일본 프로 야구 최다 안타를 기록한 선수로 '안타 제조기'라는 별명으로도 잘 알려져 있다.
*오 사다하루(일본어: 王 貞治, 병음: Wáng Zhēnzhì 왕전즈[*], 1940년 5월 20일 ~ )는 일본 도쿄부 도쿄시 혼조구(현: 도쿄도 스미다구)에서 태어난 중화민국 국적의 전 프로 야구 선수이자 야구 지도자, 야구 해설가·평론가이다. 후쿠오카 소프트뱅크 호크스 주식회사 대표이사 회장 겸 단장, 일본 프로 야구 명구회 고문이다.
王貞治與妻子和三個女兒皆保有中華民國國籍,並持有中華民國護照;此外他也分別於2002年與2005年經中華民國總統陳水扁任命為無任所大使,也是兩岸分治後未曾在臺澎金馬居住的中華民國公民。

2 戦後日本における帰化の実態
在日朝鮮人の日本への帰化は、日本が第二次世界大戦に敗北したのち、日本の領土から朝鮮が分離され、日本に残留した朝鮮人が「外国人」とされたことから始まった。
もちろん、近代の黎明期、日本が侵略の意図をもって朝鮮に接近し、また朝鮮も近代化への課題を抱えて日本と交渉を開始したときから、日本人と朝鮮人の相互往来が活発になっていった。日本に居住する朝鮮人の数も留学生を中心に漸次増えていったが、それでもその数は「韓国併合」の翌年である1911年末現在2527人にしか過ぎなかった(森田芳夫「在日朝鮮人処遇の推移と現状」法務研究報告書第43集第3号)。むしろ、今日との関連でいうなら、朝鮮の近代的変革を意図して1884年12月に「甲申政変」を企てて失敗したあと日本に亡命せざるをえなかった初期の開明知識人たちが、日本で「日本名」をもち、使用せざるをえなかったことに注意を向ける必要がある。すなわち、朝鮮の近代化をめぐる守旧派と開化派の深刻な対立とそれを後押しする清国と日本の激しいつばぜりあいのなかで、金玉均、朴泳孝など、日本に避難した上層支配層出身の亡命者たちは、朝鮮からの刺客を恐れて「日本名」を名乗り、表札にまで「日本名」を掲げた(5)。

*갑신정변(甲申政變) 또는 갑신혁명(甲申革命)은 1884년 12월 4일(음력 10월 17일) 김옥균·박영효·서재필·서광범·홍영식 등 개화당이 청나라에 의존하는 척족 중심의 수구당을 몰아내고 개화정권을 수립하려 한 무력 정변이다. 진압 후, 갑신난 또는 갑신전란으로 불리다가 대한민국 임시 정부에서는 이를 '갑신혁명당의 난'(甲申革命黨의 亂)이라 불렀다.
*김옥균(金玉均, 1851년 2월 23일 ~ 1894년 3월 28일)은 조선 말기의 정치가, 사상가, 급진개화파이다. 1872년 문과 장원급제 후 여러 요직을 두루 거쳤고, 충의계를 조직해 개화 사상 확산에 힘썼으며, 동남제도개척사 겸 관포경사에 임명돼 울릉도와 독도를 개척했다.[2] 임오군란 후 일본식 급진 개혁을 주장했으나, 양무 운동식 점진적 개혁을 주장하는 외척 민씨 세력에 번번히 발목을 잡히다 못해 갑신정변을 일으켰다. 얼마 안되는 병력 부족으로 청나라 개입에 막혀 3일 만에 실패했으며 일본으로 망명했다. 청일 전쟁의 발발 직전에 중국 상하이로 건너갔다가 홍종우에게 암살됐다(김옥균 암살 사건). 조선으로 송환된 시신은 부관참시 후 8도에 효수됐다. 청일 전쟁 때까지 중일 두 강대국의 틈바구니에서 그의 존재는 늘 뜨거운 감자였으며 동양 3국 어디에도 그의 자리는 없었다. 후일 개화파가 집권한 뒤 복권됐고 일제 강점기 순종에 의해 충달공의 시호가 추서됐다.[3]
*박영효(朴泳孝, 1861년 ~ 1939년 9월 21일[2])는 조선 경기도 광주유수 겸 수어사 직책을 지낸 조선 말기의 문신, 정치인, 사상가로 급진개화파이다.

いずれにしろ、日本帝国主義の朝鮮支配のもとにあって、朝鮮人は天皇を媒介に「日本臣民」とされ、あらゆる側面において日本人化することが強制された。それは「帝国」に奉仕する「二流の国民」を育成する植民地支配の政策に沿ったものであるが、「皇国臣民」「一視同仁」「内鮮一体」その他のスローガンの変遷にもかかわらず、その本質は同化政策・皇民化政策であり、その基底に日本人の朝鮮人蔑視観があった。事実、1930年代以降、増加の一途をたどった日本在住朝鮮人の多くは「朝鮮人部落」などでその日暮らしを強いられたが、それは、住居・就職等、日常生活のあらゆる分野において示される日本人の朝鮮人蔑視のためであった。しかも、戦争の激化にともなう戦時体制化の一環として「皇民化政策」がより露骨に展開され、1937年以降、「皇国臣民の誓詞」制定、日本語常用の強制、創氏改名、強制連行、徴兵制などが矢継ぎ早に実施されていく過程において、朝鮮人の民族的アイデンティティはずたずたに引き裂かれ、「朝鮮」とか「朝鮮人」を名乗ることさえ抑圧され、表面的には朝鮮人の日本人化が急速に進行していった。
ただ、この場合、朝鮮人は「朝鮮戸籍」という「地域籍」「民族籍」の設定によって差別的民族秩序の下位に位置づけられていたとはいえ、あくまで「日本臣民」であり、日本への「帰化」という問題は起きなかった。それどころか、「国籍法」が朝鮮人には適用されなかったため、朝鮮人は第三国に移住し、他国籍を取得することも許されていなかった。つまり、日本帝国主義の支配下において、朝鮮人は永遠に日本の「奴隷」であり続ける他なかった。
やがて日本が敗戦し、約240万人に達していた日本在住の朝鮮人は、我先にと朝鮮への帰国を急いだ。しかし「解放」も束の間、朝鮮は米ソによって分断統治され、1948年には南北朝鮮に分断国家が成立し、1950年に勃発した朝鮮戦争に至る混乱を積み重ねていくばかりであった。そして日本に残留した約60万から70万の朝鮮人は、1952年のサンフランシスコ講和条約の発効を契機に、日本政府によって一方的に日本国籍を剥奪され、無権利状態の「外国人」とされてしまった。そこには、無条件降伏・植民地喪失という事態のなかで、日本政府が自らの植民地支配の責任を曖昧にし、「国体(天皇制)護持」を「至上命題」に、朝鮮・朝鮮人の切り捨てを図った構図が読み取れる。
こうして祖国と断絶された日本に生活の根拠をもつことになった在日朝鮮人は、以後、戦後増幅された日本人の激しい蔑視感の的となりながら、ある者は生業にいそしみ、またある者は民族教育その他の民族運動に献身しつつ、祖国への帰国を夢見、あるいは日本での生活基盤の確保に力を尽くし、世代交代による3世・4世の登場という今日に至っている。その間、日本政府は1965年に韓国政府と「日韓基本条約」を締結して韓国と国交を結び、「法的地位協定」に基づいて「韓国」籍を正規の「国籍」と認める一方、1947年の「外国人登録令」以来、単なる「用語」としてきた「朝鮮」籍は引き続き「用語」であるとして、国際条約上は事実上「無国籍」の扱いとしてきた。ちなみに、1990年現在、在日朝鮮人の総数は「韓国」籍・「朝鮮」籍合わせて68万7940人のことであり、「帰化朝鮮人」は含まれていない。もっとも、このこと自体、日本の「帰化」の問題、さらに日本の「単一民族国家」観と密接にかかわる認識方法・表現形態である。
さて、在日朝鮮人の日本への帰化は、本人(含、家族)の申請および法務大臣の許可処分、「官報」への告示、戸籍の編製によって成立するが、この問題は長らく公に議論することをタブーとされる性格を帯びてきた。それは日本人側からするとき、「単一民族国家観」に基づいて問題が顕在化することを避けたいという意識が働いていたためであり、その根底には朝鮮人に対する根強い蔑視観がある。また朝鮮人側からするとき、それは「民族への裏切り」と捉えられ、議論すること自体汚らわしいという風潮があった。そのためもあって、これまで在日朝鮮人の帰化問題についての本格的な考察は極めて少ないが、そのなかで貴重なものとしては、金英達「在日朝鮮人の帰化ー日本の帰化行政についての研究ー」(1980年、神戸大学卒業記念自費出版)と、伊地知紀子「日本の異民族受容度ー異民族政策と在日朝鮮人の帰化問題ー」(1988年、神戸市外国語大学卒業論文、未公刊)がある。
いずれにしろ、まず戦後日本における外国人の帰化許可者総数と、そこにおける在日朝鮮人の帰化許可者数の統計を明示するなら、表3のとおりである。
ここで明らかなように、日本における外国人の帰化は、歴史的にその圧倒的多数が在日朝鮮人である。しかも、日本の帰化行政においては、日本政府は原則として、朝鮮半島出身者は「韓国」籍・「朝鮮」籍を一括して「原国籍朝鮮」として扱ってきた。ただ、近年においては、戸籍を編製する際、希望者には「原国籍韓国」と表示することも認めているという。
統計で示されているように、在日朝鮮人の帰化は1952年にはじまる。金英達の前記著作の説明にしたがって帰化許可者数の推移について若干述べると、なによりも、在日朝鮮人の帰化の始まりは、サンフランシスコ講和条約を契機に朝鮮人の日本国籍が一方的に剥奪される際、すでに日本の公務員の地位にあった朝鮮人・台湾人のなかで、引き続きその地位に留まらせることが相当であると判断された者について、便宜上帰化申請をさせたことにあり、そうした朝鮮人公務員の帰化者は51人であった。1950年代を通じて、朝鮮人の帰化者は年間2000人台の水準であり、しかも、純然たる朝鮮人は半数以下であって、その他は、元日本国民およびその子供、そして日本人と婚姻関係・親子関係にある者であった。やがて、60年代に入って概ね3000人台の水準になるが、そこから59年12月から始まった朝鮮民主主義人民共和国(共和国)への記憶事業(1982年までに9万3000人が帰国)にからみ、その去就を迫られて帰化を決意するに至った者も少なくなかったと言われる。のみならず、65年の日韓両国政府間の「法的地位協定」によって、「協定永住」という新しい在留資格が設けられたにもかかわらず、帰化者数が高水準を続けたのは、「協定永住権」が決して「安定した生活」(法務大臣談話)を保障するものでなかったことを物語る。
1970年代、80年代、帰化者数は3000人から6000人台の間で推移するが、そこに南北分断の固定化と定住化傾向の進行、そして1世の減少と2世・3世の増加という世代交代が背景にあるのは言うまでもない。しかも、在日朝鮮人の結婚は、1976年を境に朝鮮人同士よりも、日本人(日本国籍の帰化朝鮮人を含む)との「国際結婚」のほうが多くなり、1987年には婚姻届が出された9088件のうち、じつに74・5パーセントにあたる6770件が日本人との結婚であった(厚生省「人口動態統計」)。これを人数でみると、1987年に結婚した在日朝鮮人1万1310人のうち、日本人と結婚した朝鮮人は59・9パーセントの6770人であった。
これと関連して、在日朝鮮人社会・教育研究所の調査によると、1987年の帰化者を「官報」掲載の件数・家族構成・男女別・生年月日その他から分析してみたところ、帰化件数でみると家族ぐるみではなく、単独で帰化しているケースが圧倒的に多く、全体の72・4パーセントを占めているという。男性単独は20、30代が合わせて77・5パーセント、女性単独は20、30代が合わせて85パーセントと多数を占めている。家族ぐるみを含む帰化者全体においても20,30代は合わせると全体の半分を占め、次いで10代、40代と続くが、若い世代の帰化が大半であることを示している。そしてこうした数字は、日本人男性との結婚、さらに子供の就学等の理由によるものではないかと推測している(6)。
3 「帰化」行政の思想
見方によっては、戦後これまでの在日朝鮮人帰化者総数約15万人というのは極めて大きな数字であるが、他方、2世・3世さらには4世という世代交代にもかかわらず、他国籍を保持したままであるというのも、世界の移民史。移住史からするとき、むしろ稀な例に属すると言えるかもしれない。
国籍の取得は通常「出生」に伴っておこるが、世界の国籍法制には親の血統で国籍を決める「血統主義」と、子供の出生地でその国籍を決める「生地主義」(出生地主義)という二つの原理が並立している。日本や南北朝鮮、中国、それにヨーロッパの多くの国々は血統主義をとっており、アメリカ合衆国や中南米の国々は生地主義をとってりうが、世界全体では血統主義をとっている国のほうがやや多いと言われている。しかし、純粋な血統主義、生地主義というのは実際にはほとんどなく、いずれかの主義を主にしつつ、ある程度柔軟に対処しているのが普通である。
生地主義をいちおうの原則とするアメリカの場合、移民や移住者に国籍取得(帰化)への圧力はないが、市民権をもたない永住権者は参政権がなく、あるいは公共機関に就業できないということがある。ただ、アメリカにおける永住権者は、市民となる過程にある外国人というより国民の一員として徴兵対象者名簿にも載せられる。それに対して血統主義の日本では、日本で出生しても、帰化しなければ日本国民とはならない。しかも、在米朝鮮人がアメリカ市民権を取得するのと、在日朝鮮人が日本に帰化するのとは全く意味の異なる行為で、現実に、アメリカでの朝鮮人の市民権取得者率は、日本での朝鮮人の帰化率よりかなり高いとされている(7)。

実際、日本においては、日本国籍者が「水」や「空気」にもたとえられるほどに「国籍」について無関心でおれる反面、外国籍者は、「国籍」のことは瞬時も忘れることのできない仕組みになっている。そこには当然、国家と国民の関係におけるアメリカと日本の相違があるが、それは国家に対する「忠誠」の観念と相違にも現われている。すなわち、アメリカ人は一般に「契約観念」に基づき行動しており、それがアメリカの国民性でもあるとされているが、その「契約観念」のなかに「忠誠」も位置づけられているという。ここで、アメリカでいう「忠誠」(Allegiance)とは、政府が国民に与える保護に対し、その政府に対する忠誠・遵法の義務であり、他の政府の国民になるまで、その政府への絶対かつ永久的な義務として有していなければならないものである。一方、日本における「忠誠」は、戦前には天皇への忠誠という形で存在し、忠義や忠君と同義であり、道徳として扱われてきた。戦後は、主権臣民ということで、忠誠の本質上の対象は国民ということになり、そのため忠君という意味での「忠誠」は消滅したが、国家に対する「忠誠」は倫理として残った。換言するなら、アメリカでは、「契約観念」が社会意思として発達し、国家と国民の権利義務が明確に位置づけられてきた伝統があるだけに、「忠誠」も国家は制度という原点で捉えられてきた。それに対して日本では、戦前・戦後を通じて、「忠誠」は制度としては扱われておらず、法律としても成分化されてこなかった。いわば、日本では、「忠誠」という概念は、自然に意識のなかに前提として入りこんでしまっている(8)。
いずれにしろ、日本において「帰化」は、外国人が出生後、自由意思による申請によって日本国籍を取得することをいうが、日本国家の側からするとき、一定の条件を具備する外国人の志望に基づいて日本国籍を取得させることをいう。ここですでに外国人とは誰を指すのかという問題が生じるが、法律的には日本国籍を有しない者、つまり外国籍の所有者または無国籍者を指すものと考えてよい。そして日本の国籍法では、帰化は普通帰化と特別帰化とを認めているが、普通帰化とは一般の外国人の帰化をいい、引き続き5年以上日本に居住していることなどの要件を必要としてきる。それに対し特別帰化は、簡易帰化とも称し、地縁その他の意味で日本と密接な関係をもつ外国人につき、普通帰化に際して求められる要件が緩和ないし免除される場合の帰化をいう。
さきに述べたように、帰化とは日本の戸籍を編製することによって完結するが、その戸籍は、日本人が無意識のうちに呪縛されている国家の人民支配のシステムである。それは世界でも特異な国家優先の制度であり、欧米の身分登記の制度とは根本的に異なるものである。佐藤文明著「戸籍うらが史考」によると、日本の戸籍を欧米の身分登記と比較して、その相違を国家の人民支配・管理という側面から整理してみると、(1)夫婦と未婚の子をワンセットで記録する(集団管理)、(2)個人の身分関係が生涯にわたって見通せるアナログ管理(生産管理)、(3)関連戸籍から血縁関係が無限にたどれる(親族管理)、(4)外国人を締め出して国籍の証明をかねている(国籍管理)、(5)人びとを氏(家名)を通して「家」に縛りつけている(氏管理)、という特徴をもっており、歴史的にも、現実的にも、天皇制や「家」制度のいイデオロギーを支える巧妙な装置であるとしている(9)。
したがって、帰化とは、外国人が新たに日本国家の強力な人民支配のシステムに繰り込まれることを意味するが、行政的には、帰化の許可・不許可は国家の絶対的な自由裁量であるとされ、その帰化行政において対象となる外国人は、実質的には在日朝鮮人が大部分を占めてきた。
ここで日本の帰化行政の実際について評論する余裕はないが、日本の帰化行政が閉鎖的・秘密的で、在日朝鮮人への治安的色彩が濃厚であることは周知の事実である。その思想の根幹はあくまで「単一民族国家観」の固守であり、帰化は即、「皇民化」につながっている。そこでは、かつての植民地支配の責任を認めず、在日朝鮮人社会の分断と民族的団結の破壊を暗黙のうちに意図しつつ、在日朝鮮人の「少数民族」化を防ぐ同化政策(日本人化)が基本となっている。しかも、その前提には、「日本」「日本人」とは「清らかなもの」「美しいもの」とする観念があり、それを汚す者は排除するという思想が流れている。
そのことは、法文上には明記されていない。「帰化許可の基準」という、1958年10月の法務省の部内用「参考資料(10)」によってもうかがい知ることができる。すなわち、そこでは、帰化条件の一般的な条件以外にもさまざまな項目を列挙し、帰化を許可するにふさわしくない者を具体的に記している。いわく、「納税の義務を履行していない者」、「妾を有する者又は妾であるもの」、「不健康な職業、例えば、パチンコ、その機械の製造、販売、麻雀、売春宿等を生業とする者」、「失業対策事業に従事するいわゆるニコヨン」、「共産党又は朝総連その他の朝鮮人団体に加入している者」、「生活様式その他の点で日本に完全に同化していると認められない者」、「いわゆる朝鮮人部落のような特殊地帯で生活している者」、「交際範囲の殆どが他国人である場合」、「少なくとも「かな文字」程度の読み書きができない者」、「病気療養中のもの」、「係官の調査に協力しない者」などである。
敗戦後の混乱期に、なんの保障もないまま日本社会に放り出された在日朝鮮人1世の多くは無学で、職業選択の余地はなく、その時々の社会・経済の動きに合わせて「古物商」「ヤミ米の買い出し」「ドブロク造り」「古鉄屋」「養豚」「ホルモン焼屋」などで生計をたてざるを得なかった。そうした状況は1958年頃でも基本的には変りなく、「パチンコ屋」等の新しい分野の開拓があったとはいえ、在日朝鮮人の大多数にとっては、なお日々の生活に困るという時代であった。1959年から始まる共和国への集団帰国は、まさにこうした生活苦と民族差別という閉塞状況からの脱出でもあった。そうしたことからするとき、当時の日本の帰化行政が、いかに「選別」的な意味合いをもっていたかをうかがい知ることができる。
もっとも、帰化の許可基準が法文上に明記されていないということは、時代の変化に応じて基準が変わり得ることを示している。韓国の朴正熙政権が登場し、日韓基本条約が締結された1965年から67年にかけて、日本政府は在日朝鮮人に対して盛んに帰化を奨励する広報活動を展開したことがあるが、その時期には帰化申請すれば90パーセント以上が許可され、許可されるまでの期間も3ヶ月位までにスピードアップされたという(11)。そこに、一連の日韓会談を通じて、在日朝鮮人の帰化(日本人化)を促進することについての韓国政府の暗黙の了解があったことは十分に推測される(12)。日本帰化行政自体、二重国籍の発生を防ぐ法的解釈などにおいて、共和国の国籍法を無視し、韓国法との連動のもとに遂行されている。
しかも、その後、1975年には、出入国管理行政発足25周年記念行事の一つとして、法務省入国管理局が全国の入管職員から募集した論文のなかで第一部秀作となった坂中英徳(入国管理局参事官室・法務事務官)の「今後の出入国管理行政のあり方について」では、同化(帰化)政策を積極的に推進すべきことを主張するにとどまらず、その方策として、民族的権利の抑圧や入管法制などでの規制で在日朝鮮人を帰化に追い込むという方法には限界があることを認め、逆保障することが重要であると説くまでになった。それは、在日朝鮮人の日本への帰化が年々増加申請者の年齢が若年化しつつあること、結婚により日本人と身分関係を有することになった者が申請者の過半数を占めていることなどにもかかわらず、帰化省にとっては、帰化後も日本社会での差別が解消せず、また帰化によって新たに同胞社会のなかで感情的対立が生じるという「二重の差別」に対処すべきだという提案であった(13)。
いずれにしろ、日本の帰化行政に貢献している思想は、「帰化」者を市民権的な開かれた観点ではなく、日本人ひいては「日本民族」として同化しようとするもので、そこには天皇を頂点とする日本の国家秩序への従順の強制がある。それはいわば現代版「皇民化」政策であるが、その端的な証左は、妻や子は夫あるいは親の従属物とみなす、家族ぐるみの帰化申請の押しつけ、さらには帰化後における日本的氏名の強要に現われている。しかも、「単一民族観」的日本国家からするとき、帰化は帰化行政の目標であると同時に、朝鮮人の同化を一層促進する出発的であり、そのための有効な手段であるとみなしていると言ってさしつかえない。
4 帰化の動機としての「不遇の意識」
帰化の問題は、以前は在日朝鮮人のあいだではタブー視され、公然と議論されにくい状況が長く続いたが、近年では、若い世代を中心に同化・帰化への傾向が強くなるに従って、雑誌の座談会やシンポジウムの席上で活発に取り上げられるようになってきた。
そうした在日朝鮮人の同化・帰化を推し進める最大の要因が、異質を拒否する日本の閉鎖的な社会のあり方にあることは言うまでもない。1970年代後半以降、在日朝鮮人の若い世代の新たな生き方の模索と関連して、「在日」という言葉が多用されるようになったが、その「在日」の多くにとって、青少年期に不可避的に自覚させられるのは、日本社会からの差別と拒絶によってもたらされる「不遇の意識」である。日本に渡来してきた1世が「民族」を当然のものと意識していたのに反し、2世・3世の若い「在日」は、あらかじめ「民族」という根をもっていないのが普通である。偏見と差別に満ちた日常生活のなかで若い「在日」は、民族的自覚をもっていないが故に「自分を偽り、周囲に朝鮮人であることを隠し」、「朝鮮人であることを隠すための空しい努力をするのに疲れてしまう」。そこから、若い「在日」の精神遍歴は、「半日本人」から「民族」へという新たな生の道すじをまがりなりにも開拓していくのか、あるいは「半日本人」から「日本人」へと後退していくのか、という二つの方向に大きく分かれていく。
ここで、「在日」の戦後史をみるとき、その生活や思想の中心軸はやはり「民族」という理念と理念は戦後一貫してリアリティを失っていく道すじをたどった。竹田青嗣(姜修次)が主張するように、その「民族」の理念とは、李恢成の文学に代表されるように、日本という共同制の壁につきあたり、やむを得ずそれに対抗する形で自分たちの共同理念として立てざるをえなかったものと言ってもよい(14)。もちろん、「在日」といっても、多種多様であり、家族教育や学校教育が民族的な根をもつものであるときには、「民族」の理念(意識)が回り道をすることなくまっすぐに育まれることもある。逆にまた、南北分断の固定化。在日民族団体の対立等によって、せっかく芽生え始めた「民族」の理念が主義・イデオロギーによって歪められ、はてしなく衰退の坂道を転げ落ちることも少なくない。
ただ「民族」という言葉と関連して言うなら、「半日本人」という表現形態はすでに「民族」を「正」なるものとし、民族の理念ないし意識の喪失は「悪」であるというニュアンスを前提としている。その点、今日活発に展開されている若い「在日」の運動は、「在日」であるということ、つまり「半朝鮮人」であれ、「半日本人」であれ、自らの現実の姿をいったん肯定し、そこから新たな生を追求していくことを意図しているものと考えてよい。
いずれにしろ、在日朝鮮人が帰化の道を選択するというのは、基本的には「不遇の意識」と密接な関わりをもち、たとえ主観的・利己的であるとしても、日本国籍を取得することによって自らの生を開拓したいという欲求に基礎づけられている。実際には、帰化する理由として、家族の場合には戸主(世帯主)の選択に引きずられてというのもあり、また密入国その他による不安定な在留資格を安定的なものにするために、あるいは日本人妻や子供への配慮、相続など、さまざまなものがあり、必ずしも積極的に「朝鮮」や「民族」を捨ててと一律に解釈するわけにはいかない。しかも、それにもかかわらず、在日朝鮮人の帰化といえば、通常、日本社会の差別や偏見から逃れるためという「民族」からの逃避、あるいは進学や就職、結婚、さらには商売(名義・銀行融資その他)の便宜のためという、社会生活の有利性という理由が多くの部分を占めていることは間違いない。
いま「同化」ということについて考えてみると、ひとつの土地に生まれ育っていくとき、その土地の環境や言葉、習慣、感性といったものに慣れ親しんでいくのはごく一般的で自然なことであると言ってよい。しかし、朝鮮人の日本への同化は、現実には朝鮮人に苦痛を与え、朝鮮人の非人間化をもたらすことが多い。それは同化が、天皇制を基礎にした日本の単一民族的国家意識、つまり排外主義的社会意識への屈伏を意味し、そこから自らの出自の根幹である”朝鮮”を放棄させられ、朝鮮人であることを卑下し、ついには自己そのものを否定してしまうことにつながるからである。しかも、ここで同化の概念は、帰化よりも広い「皇民化」の概念としてあり、その根底には過去の日本と朝鮮の不幸な関係、植民地支配の負の遺産がある。そのことは、同化ということが、「同質化」「単一化」という社会の均質作用を特質とするのではなく、社会的諸関係における支配・被支配の関係の強化、内面における差別・被差別の意識の増幅という方向に働きやすいものであることを意味している。
*문화 동화 (文化同化, 영어: cultural assimilation)는 어떤 민족이 다른 민족에서부터 문화 전통을 받아들이는 것을 말한다. 역사적으로 오래전부터 있었다. 한말의 동화정책:동화정책의 점진적 방법으로 관·공립 보통학교를 확장했다. 1906년 3월 이토(伊藤博文)는 시정의 개선을 위해 500만원(실수금 450만원)을 가져왔다. 그 사용계획을 보면 학교의 신축·수리비로 보통학교 34만원, 중학교 16만원, 도합 50만원을 교육시설에 투자했다. 그 결과 1906년 관립 9교, 공립 13교, 1907년 공립 28교, 1908년 공립 9교 등 관·공립 보통학교를 설치하였다. 이렇게 통감부가 관·공립 보통학교를 신축·확장한 것은 한국에 대한 수습책과 아울러 점진적 동화정책을 사용하기 위함에서였다. 곧 한말(韓末)의 아동들로 하여금 그들의 식민지정책에 무조건 복종케 하는 데 있었다.
*단일 민족 국가(單一民族國家)란 하나의 민족이 구성하는 국가라는 의미이다. 반대말은 다민족국가이다. 다만 타민족이 존재한다고 해도 그 수가 많지 않거나, 단일의 문화, 언어, 가치관 등을 전제로 국가가 운영되는 경우에도 단일민족국가로 분류하는 것이 가능하다.
こうしてみるとき、若い「在日」の同化現象が、単に日本社会における世代交代という自然的要因にのみ基づくものではなく、歴史的・社会的そして政治的に意図的に作り出されてきたものであることが理解される。事実、戦後の前半は別にしても、在日朝鮮人の法的地位や生活の大きな転機となった1965年の日韓基本条約の締結以降は、日本政府が韓国の独裁政権を政治・経済的に支援し、同時に「入管改正案」や「外国人学校法案」などを相次いで国会に上程して、在日朝鮮人社会への締め付けを強化したこと、在日朝鮮人の帰化が増加していったことの間には不可分の連関があったと言ってよい。実際、究極的には「帰国」か「帰化」かの選択を迫る日本の入管行政は、指紋押捺の強制に代表されるように、一貫して「法秩序維持」の名目で日本人の民族差別感を正当化しようとするものであった。まさに「在日」の民族意識の培養に決定的な意味をもつ朝鮮語習得、とくにその学習の場である民族教育をみても、日本政府は韓国政府との露骨な「共犯関係」のもとに、在日朝鮮人の自主的民族学校への破壊に狂奔したこともある。


在日外国人も日本国民と同じく、憲法上の基本的人権は保障される。외국인에 대한 지문 날인 제도에 관한 결의:재일 외국인도 일본 국민과 마찬가지로 헌법상의 기본적 인권은 보장된다. Resolution on fingerprint imprinting system for foreigners:As with Japanese nationals, foreign residents in Japan are guaranteed basic constitutional human rights.
2020/2/5 "아소 발언 '으로 생각했다 ... 왜"일본은 단일 민족 국가'라고 생각했다 하시는지? I thought in "Aso's remarks" ... Why do you want to think that "Japan is a country of a single ethnic group"?

こうした日本政府の在日朝鮮人に対する敵視政策のもとで、「在日」が厳しい差別的状況を強いられていることは今さら言うまでもない。神奈川県が1994年に、人権問題や民族差別の問題に関心の強い研究者の協力を得て、県内に住む朝鮮人・中国人の生活実態を調査したことがあるが(15)、それによると、職場については、自営業、被雇用者を問わず、職場の零細さが際だつが、被雇用者の場合、給与・賞与・各種手当てなどは日本人の水準からかなり低く、生活不安定の要因となっている。しかも、「経営者から差別を受けている」とアンケートに答えた人は3・7パーセントであるが、自分が日本人ではないことを同僚に全く教えていない人が14・3パーセントいる。そのなかで、外国人であることが知れたら「やめるように追い込まれる」「同僚との間が気まずくなる」と答えた人は、ちょうど半数の50・0パーセントであった。自営業者のうち65・6パーセントは、銀行などからの融資をめぐって「差別を経験した」「差別の例を聞いた」「初めからあきらめている」と答えた。朝鮮人生徒の場合、「学校や通学の時、民族的差別や侮辱を受けた経験があるか」との問い(複数回答)に「ある」と答えたのが62・1パーセントもいる。生徒による差別が49・5パーセント、教師による差別が12・6パーセントで、14・5パーセントは「体験はないが不安がある」と答えた。
在日朝鮮人の「通名」(日本式改名)も日本社会における被差別意識の具体的表現であるが、同じく神奈川県の調査によると、中国人の1・7パーセントが本名(中国名)であるのに対し、朝鮮人の91・3パーセントは本名のほかに通名をもっている。そのうち通名のみ使用が37・0パーセント、通名多く使用が33・6パーセント、本名・通名の使い分けが17・3パーセントと、じつに87・9パーセントが通名を日常的に使用している。まさに朝鮮人は「全般的に強く差別と同化の状況にさらされ、自衛の手段として通名を使わざるをえない」のである。これを逆に、「本名のみ」「本名多く使用」でみると11・5パーセントという数字となるが、これまでの朝鮮人生徒の本名使用の実態調査では、兵庫県下定時制高校の6・6パーセント(1985年)、郡立高校(舎、定時制・通信制)が27パーセント(1987年)という結果が出ている(「統一日報」1987年8月6日)。
もちろん、同化・帰化を日本の権力や社会的圧力の故にのみ帰するのは、問題を誤って理解することにつながる。同化を民族意識の風化、祖国への帰属意識の欠如、つまり朝鮮人としての自覚への希薄化、それに対応する形での日本的価値への傾斜とみると、まさしく同化・帰化は在日朝鮮人の内在的・主体的問題として把握しなければならない。現実に、「在日」の2世・3世は、本国の同胞と生活様式や言語、風俗、感性などを共有しているとはすでに言いがたく、「在日」のアイデンティティを日本帝国主義の被害者としての共通の歴史に求めることももはや困難となりつつある。好むと好まざるとにかかわらず、「在日」は「定住」の事実を積み重ねていっており、とりわけ1990年代に入った今日では、「在日」の大部分においては「帰国」という発想はないものと考えてさしつかえない。しかし、にもかかわらず、「在日」が同化・帰化の道をまっしぐらに突っ走っているわけではないこともまた周知の事実である。
もとより、「在日」を一つの「範疇」でくくることが困難になって久しいが、「北」「南」「日本」という「三つの国家」のはざまで、朝鮮人としての民族的主体性を堅持して生きていこうとする朝鮮人の対極に、帰化を積極的に肯定して生きていこうとする帰化朝鮮人がいることも事実である。日本に帰化した在日朝鮮人の親睦団体である「成和クラブ」は、そうした同じ境遇の人たちが民族への「郷愁」を語り合う場であり、帰化を希望する”同胞”の相談・助言にもあたっている。日本各地の地域クラブをつなぐ成和クラブ連合会が結成されたのは1973年であるが、官報に掲載された帰化の告示を見て、家内書を送付して入会の勧誘をする。実際には、所属メンバーの半数が事業主で、医師、弁護士も二ケタを数えるなど、エリートの集まりという色彩もあるが、そこで最大の悩みは子弟の結婚問題であるという(16)。
この成和クラブの場合、1世と若い世代との間に相違はあるとしても、1世を中心に「日本人」であることを「自負」しつつ、同時に、母国への思いと「民族」の意識を「保持」することに努めているようにもみえる。その場合、母国とは「韓国」であり、自らも「韓国系日本人」として認識しているようである。事実、帰化者への案内書には、「日本に居住する元韓国人で日本国籍を取得された帰化人」と有資格者を規定している。また初代会長の江崎光雄(林光植)も、「成和クラブニューズ」の創刊号(1974年3月20日)で、「つまるところ、韓国系日本人の看板は自他共に変る事はない。余り帰化の事にこだわる事はありません。むしろ帰化した日本人を誇りに持つべきです」と、明確に述べている。しかも、そうした認識は、政治的には韓国の反共イデオロギーの容認と、
朴正熙や全斗煥の独裁政権との友好関係維持となって表出してきた(17)。

ところで、帰化の動機が「不遇の意識」と大きく関わり合うということは、その根底に差別の問題があることは論を待つまでもない。高度経済成長の「豊かな日本」で生まれ育った若い世代には、この差別の問題を自明のものとして軽視し、あるいは業どおりしようとする安易な傾向もあるが、それで在日朝鮮人と日本社会の問題が解決されるわけではない。とりわけ、日本社会と同じく、あるいはある意味で日本社会以上に高学歴に執着し、執着しざるを得ない「在日」の若い世代にとって、自らの能力・学歴が日本の社会意識・社会システムによって民族的に疎外されるとき、「不遇の意識」はいきおい高ずることになる。つまり、教育のシステムが、なによりも差別のシステムとして貫徹している日本において、高学歴の「在日」が同じ条件の日本人より不利に扱われるようになったとき、その「在日」の若者はしばしば、人生への希望や目標を一挙に失い、「民族」や「国籍」、「出自」などをめぐる深刻な民族的ディレンマに陥ることになる。
一般に、一流大学の出身者に対するコンプレックスは、四流、五流の大学の出身者よりも、二流大学の出身者に多いと言われている。二流大学出身者は、一流大学出身者と大差がないという自信をもっているからであるとされる。換言すなわち、学歴差の小さい者が、自分より一段上の学歴の所有者を準拠として、学歴差別の不利益感にさいなまれているというのである。「在日」の場合、多くは学びたくても学べなかった1世の熱い思いを背に大学教育を受け、しかも就職差別で日本社会への門戸が閉ざされるとき、それは単に、一流、二流という企業間の格差に対する劣等意識ではなく、企業社会そのものに参入を拒否される自己への劣等意識として噴き出し、卒業しても仕事につけない「学歴コンプレックス」に苦しむことになる。「在日」の若者が高等教育を受ければ受ける程、教育にかけた親の期待を裏切って帰化に走る所以であり、逆に、親は、子弟に日本の高等教育を受けさせるのを躊躇するようになる。
さて、帰化を拒み、通名使用を条件になんとか就職したとしても、問題はさらに大きな形で迫ってくる。日本企業で生き延びるためには通常、「在日」であることを表に出せず、「仮面」をかぶらざるを得なくなる。しかも、日本企業では、「会社の方針」というイデオロギー教育が施され、就職規則その他への服従を強要されるとともに、企業内の不条理を正当化し、家族主義的な運命共同体の一員であることを当然視される。「在日」は日本企業では「日本人」としてのみ存在を許されがちで、加えて日常生活の大半をきわめて日本的な組織のなかで過ごし、日本的思考に傾いていく。しかも、良い環境に恵まれ、あるいは成功を重ねて生活が豊かになり、世界を見る目が広がるにつれて、それまで自分を苦しめていた日本社会が違って見えてくる。そしてついには民族的な問題からではなく、単なる生活上の利益、あるいはパスポートが取りにくいといった小さな不便を理由に帰化へと走ってしまう。すなわち、歴史的存在としての「在日」の本質的意味を考えることを止めて、単なる生活上の利便から「在日」であることを忌避し、一見容易にみえる帰化をひとり選択していく。それは意識においては、「二流の日本国民」として甘んじることにつながっていかざるを得ない(18)。
日本帝国主義の支配下において、少なからぬ朝鮮人が日本人の蔑視意識を全身で感じとりながも、自らの個人的栄達をはかるために、すすんで日本の朝鮮統治に従順となっていった事例は枚挙にいとまがない。それは旧「満州国」の「五族協和」、すなわち日・朝・漢・満・蒙の差別的民族秩序のなかで、満州国軍や協和会などで中枢的な役割を果たし、日本人に次いで優遇されたかつての「皇国臣民」としての朝鮮人、つまり「二等国民」としての朝鮮人のことを思い起こさせもする(19)。現実に、在日朝鮮人社会においては、生活が豊かになり、ある程度安定してくると、自分に不都合な存在から抜け出す道を探しはじめる傾向が強く、とくに”自称インテリ”にその傾向が強くなっているとも言われている。

5 帰化者の苦悩
欧米諸国での人種差別が語られるとき、それはアジア人や黒人など非白人に対する白人の差別意識や偏見が中心となる。実際、ヨーロッパでの移民労働者に対する差別をみても、その基底には皮膚・言語・宗教を異にする非白人に対する白人の露骨で明白な区別意識がある。その点、朝鮮人は、人種的にはモンゴル系の黄色人種で、形質的には日本人と最も近い関係にある。とくに在日朝鮮人と日本人の間では、欧米諸国におけるような皮膚・言語・宗教における明確な差異はなく、しかも、日本生まれ日本育ちの若い世代になる程、自然的な同化作用のせいか、在日朝鮮人と日本人の区別は表面的には極めてむつかしくなってくる。むしろ、在日朝鮮人にとっては、日本人との差異よりは、本国の朝鮮人や日本以外の世界各地に住む在外朝鮮人との差異のほうが大きいと言っても過言ではない。このことはなにも朝鮮人に限らず、たとえば、世界各地に住むユダヤ人を比較した場合、一国内のユダヤ人と非ユダヤ人との差異は、他国間のユダヤ人同士の差異よりも小さいと指摘されているのと同じである(20)。
このような在日朝鮮人と日本人との区別が表面的には困難であるにもかかわらず、いわゆる「在日朝鮮人問題」が日本社会の大きな社会問題として存在しているのは、それだけ在日朝鮮人に対する差別・偏見が陰湿で巧妙であることを示している。ただ、ここで注意すべきは、「在日朝鮮人問題」とは、基本的には「日本人の問題」でもあり、その大きな要因は日本人の側にあるということである。しかし、そうは言っても、現実に日本社会に住んでいる在日朝鮮人が、日本社会のありように決定的に規定されることによって、自らの内部に計り知れない矛盾と苦悩を抱え込んでいるのも事実である。帰化した朝鮮人の多くが、「自ら味わった生きることの苦労を子供には味わわせたくない」と思い悩み、とりわけ若者が「朝鮮」や「朝鮮人」の残臭を極力払い除け、「日本人より、より日本的になろう」と焦るのは、その典型的な証左である。
もちろん、時代の流れにしたがって、帰化者の苦悩も変化していく。しかも、そこには1世と2世・3世における世代間の相違もある。日本に「帰化」すれば、それで「日本人」として万事は成長するにつれて、自らの出自にこだわり、深刻な民族的ディレンマに陥ることにもなる。また逆に、日本の植民地統治のなかで言い知れぬ辛酸をなめてきた1世が、帰化を望む子供の心情を知って逆上し、ついに殺傷事件に至ることもある。また中には、会社運営等を理由に息子の意思で帰化させられた老父母が、幼き頃の故郷を思い浮かべて、深まる寂しさに耐えきれなくなることもある。
帰化のもたらした悲劇の典型として、しばしば、早稲田大学の学生であった山村政明(梁政明)が25歳のとき焼身自殺を遂げたことが話題にされる。9歳で親の意思で日本国籍所持者となった山村(梁)は、経済的困窮のなかで勉学を志したが、その青春はナイーブな感性を引き裂く民族的ディレンマ、それが原因ともなる恋愛の破局、学生運動の内部抗争による負傷、そして入信したキリスト教への懐疑等、さまざまな苦悩に打ちひしがれるものとなり、ついに死を決意した。
*山村 政明(やまむら まさあき、梁政明〈リャン・ジョンミョン〉、1945年6月21日-1970年10月6日)、は日本に帰化した在日朝鮮人2世。元聖書キリスト教会教会員。早稲田大学卒。山口県美祢郡秋芳町(現:美祢市)に7人兄弟の3男として生まれる。小学生の時に日本国籍を得る。1964年、東洋工業(現:マツダ)に入社するも、すぐに退社した。日本朝鮮研究所(現:現代コリア研究所)への入会を希望したが「日本に帰化した裏切り者」として拒絶された。その後、日本民主青年同盟に参加するも、退会。キリスト教に入信。1970年10月6日未明、穴八幡宮の境内で焼身自殺。25歳だった。
ぼくはこんな国に生まれたくはなかった。どんなに貧しくとも祖国朝鮮で生きたかった/幼時よりも、ものごころついてより、周囲の日本人の白い目は、ぼくに敵意と憎悪に蝕まれた人格を形成させた/外形は変わらなくても、ぼくたちは弱小民族の血を受け継いでいる故に、蔑すまれねばならなかった。不当な劣等感をぼくは個人的能力によって克服しようとしたが・・・/父母は苦心の末、この国の市民権を取得した。ぼくたちは法的には日本人になったのである。しかし、本質的平等等はたんに法によって保障されはしないのだ/ぼくが9歳の少年ではなかったら、国籍帰化を拒んだだろう。父母はぼくたち子供の将来、進学、就職等の不利を免れるためにというが、ただそれのみで、自らの祖国を棄てることができたのか?/祖国におけるみじめな生活をひきあいに出して、父母はぼくの抗議をあしらうのだった/どんなにみじめでもいい。どんなに貧しくてもいい。真の同胞の間に少年期を送ることができたなら、ぼくはこんな人間にならずにすんだだろうに/ぼくは父母を尊敬することができなかった。たしかに、戦前からの父母の言うに言われぬ労苦を思うと涙が出る。けれどもぼくたち親子には超え難いキレツ、冷たいカベが生じていた/ぼくは父母に甘えることも知らずに大人となった/1人の人の愛にふれて、キリスト教に入信して以来、ぼくが神の愛を努めて意識する時、ぼくたち親子の交わりは幾分かは回復されたかのようであった/この国の人の、我々朝鮮人に対する偏見をとり除き、両民族の真の和解と友好を確立することに一生を捧げたいと大きな理想を抱いたこともあった/しかし、壁は大きい。「朝鮮人は汚い。ずるい」とぼくの信頼していた学友、ヒューマニストを任じる学友が発言した時、ぼくはガク然とした/父母は、また兄妹たちも、自分たちの素性は極力隠す方が賢明だという/けれどもぼくは、必要と考えた時には、自らの素性を公言してはばからなかった。それ故に、楽しい語らいが白けきり、友を失い、恋を失ったこともあったけれど/ぼくの青春の最大の苦悩は経済的貧困の問題と民族の宿命であった/ぼくは中途半端な半日本人として生きるより朝鮮人として生きることを強く願った/この異国にあって、団結し、民族の主体性を守り抜こうとしている同胞学生を訪ねた時、彼らの手もぼくに対して差し伸べられなかった。ぼくが帰化者である故に・・・/はっきり言えば、彼らにとってぼくは、祖国を棄てた裏切り者なのだ/日本人でもない。もはや朝鮮人でもない祖国喪失者・・・/私の安住の地は、一体何処にあるのか?/(「民族の宿命(21)」)
ここには、死の間際まで、祖国喪失者の暗い影から自由になれなかった魂の叫びがある。日本人になり切れず、朝鮮人にも戻れず、さりとて「帰化者」としての独自の可能性をも育むことのできなかった悲しみがある。しかも、「同化」「帰化」が欺瞞に満ちたもので、それ以前の状態が含んでいるところの矛盾の隠蔽、ないしはそこからの逃避という性質を本質的にもつことが、あますところなく暴露されている。

もちろん、帰化者の人生模様はさまざまであり、また帰化していなくとも、「朝鮮」を隠して生きている者も少なくない。しかも、日本の帰化行政においては、帰化の事実が記載された最初の戸籍を他の地域へ転籍することによって、帰化者であることを一見してわからないようにする「行政上の配慮」までしている。しかし、いずれにしろ、「帰化者」、さらには日本人と朝鮮人の間に生まれた「混血者」が、「日本人」になり切れないでいるのは事実である。考えてみれば、朝鮮人や混血者が日本国籍を持ったとしても、「純粋の(元からの)日本人」と違うのは当然であり、それを無理に「純粋の日本人」であるかのように振舞うことを強要する日本社会がそもそも異常なのである。現実に、中国や旧ソ連、アメリカなどで暮らしている朝鮮人は自らの出自を隠さなければならないことはなく、朝鮮的氏名もそのまま使っている。そうした事実からするとき、日本以外の在外朝鮮人は朝鮮人として堂々と生きており、「朝鮮」を隠す理由が全くないことを示している。在日朝鮮人を客観的に見ることのできる本国やアメリカその他から来た朝鮮人が、在日同胞は生活は豊かではあるが、中国の延辺地域や在米朝鮮人に比して、「冷たい」「暗い」「活気がない」と評する所以でもある。
「朝鮮」を隠し、あるいは「差別」から逃れるために帰化をするというのは、植民地支配下での「同化政策」「皇民化政策」の延長線上における帰化であり、朝鮮人としての民族的誇りを一度も持てないままに、日本の偏見や差別意識に屈伏することを意味する。その点、たとえば、新しく欧米諸国からやって来た人が、日本語を自由にあやつり、日本の食物や風俗を愛し、結果として日本国籍を取得するのとは区別されるべきである。実際、偏見と差別意識の強い日本社会で、在日朝鮮人が「同化」されていくとするなら、それは必然的に、朝鮮人に対する日本人の偏見・差別意識を自己の意識として内面化することにつながり、そこで育まれる自我意識には被差別感とコンプレックスが渦巻くことになる。換言するなら、被差別・被抑圧の歴史的存在である在日朝鮮人は、植民地支配が植え付けた民族的劣等感を払拭することなくしては、人間として自由・対等なアイデンティティを持つことはできず、いつまで経っても、内面的な葛藤を免れないということである。



6 在日朝鮮人にとっての民族と国家
今日、在日朝鮮人にとって最も重要な課題は、「在日朝鮮人として生きるとは」どういうことなのか、ということであろう。そこで核心となるのは、「朝鮮」と「差別」にどう向き合うかである。「朝鮮」と「差別」から逃避する姿勢をとるとき、それは直ちに「同化」「帰化」への道となる。それを反対に、1世のアボジ(父)・オモニ(母)の血と涙を見て育った2世が、「朝鮮」と「差別」に前向きに対応して生きようとするとき、3世たちにも、朝鮮人としての誇りを持ち、気高く、強い人間に育ち得る可能性をもたらすことになる。「韓国のことなんかもういいよ。おじいちゃん」という息子に比べ、中学生の孫らは、私が昔のことを話したり、歴史について話すと、目をまるくして聞いてくれます」(「読者の声」『統一日報』1988年7月23日)。まさに、2世が自らの出自に対して肯定的に対処するとき、若い3世も「朝鮮」と「差別」に真正面から向き合う人間となる道が切り開かれていく。
さきにあげた神奈川県在住朝鮮人・中国人についての実態調査を担当した研究者たちの討論では、朝鮮人と中国人の意識にはかなりの相違があることが指摘されている。すなわち、中国人jは帰化してもいいという意見が多い一方、朝鮮人の最大公約数の意見は、日本に住んでも国籍は「朝鮮」籍ないしは「韓国」籍のままで帰化しない、というものである。しかし、名前の問題では、中国人の場合はほとんど本名で暮らしているのに対し、朝鮮人は通名が多い。しかも、家庭での食物、衣服、祖先の祭祀(チョサ)などの民族的なもの、つまり文化の伝承度になると朝鮮人の方が高い。ここから日本社会における民族差別が朝鮮人に対してより強く。したがってそこからも、通名を名乗っているからといって、朝鮮人がすでに同化してしまっていると決めつけるわけにはいかない、としている(22)。
現実には、約68万人の「朝鮮」籍ないしは「韓国」籍の朝鮮人がおり、そのほとんどは帰化を拒んで生きている戦前からの1世であり、またその子孫である2世・3世である。しかも、この帰化を拒んで生きている在日朝鮮人は、必然的に「民族」と「国家」に対峙することを余儀なくされるが、その「民族」と「国家」とは、つねに「美しいもの」「清らかなもの」「温かいもの」「力強いもの」として存在してきたわけではない。南北朝鮮の対立やそこにおける反共イデオロギー、ないしは唯一絶対の思想体系にみられるように、「民族」や「国家」、そして「イデオロギー」、「思想」、さらには「国籍」や「在外国民」、「海外公民」といった形で与えられるアイデンティティは、少なからず在日朝鮮人の人間性を歪め、同胞間の不信や対立を増幅させる源泉となってきた。しかしだからといって、逆に「民族」や「国家」を否定し、「在日」の歴史を無視して「人間性」のみを語り、「コスモポリタン」の道を歩むとき、そこには確実に「同化」「帰化」の陥穽が待ちかまえている。なかには、「在日」を嫌い、「日本」を嫌い、南北の祖国を嫌ったが、故に、アメリカやヨーロッパで”根無し草”となりつつある「在日出身者」もいる。
問題は極めて複合的であり、個別的でもある。とりわけ、若い世代の在日朝鮮人にとっては、「民族」の理念や意識が、「日本」と「差別」に対峙する「万能薬」ではなくなりつつあるとも言われている。
自己存在の拠り所を求めてソウルに母国留学したある若い女性はいう。「民族という薬を飲んで、なんとか自分自身を奮い立たせている。でも、その薬を飲めない人もいるし、飲んでも効かない人もいる。民族の誇りなんて私にはない。意地ならあるかもしれないが。・・・涙ぐましいほどの努力をして、同胞達は自分の存在理由を求め、その多くは民族という寄る辺にたどりつく。民族という言葉が、自分が傷つかないための防衛手段となる。そして、この日本でどうしようもない壁にぶつかると、外国人だから仕方がない、と素晴しいものわかりのよさで諦める。韓国・朝鮮人として自覚、誇りをもてと言うけど、そんなことを言うこと自体、在日同胞をバカにした話だと思う。民族的素養を持たない在日同胞は、その人間性をも否定的にとらえてしまう」(「統一日報」1988年7月16日)と。実際、日本で共和国系の朝鮮総連が運営する民族教育を受けた若者は、相対的にではあるが、そうでない若者よりは民族の誇りを持ち、帰化の数も少ないと言われているが、そのことがただちに、民族教育を受けなかった若者は民族的誇りを持っておらず、あるいは民族的誇りを持っていないが故に人間性が劣っているというわけでもない。
しかし、こうした前提に立ちながらも、一方において、人間は自らの出自に対する誇りを持たなくても、生きていけるかという問題がある。在日朝鮮人は日本社会で差別されるだけでなく、本国の同胞からも冷たい視線を受けてきたにもかかわらず、そのアイデンティティは、祖国を精神的ルーツとする世界史的にも稀な存在であると言っても過言ではない。そこにおいて、「民族」の理念ないしは意識が「在日」の若い世代に独特の輝きをもって現われたのは、「民族」という概念がそれ自体完全無欠で、豊饒な内実を含んでいたからというよりは、むしろ「不遇の意識」をはねのける直観的な通路として自覚されたからに他ならない。事実、在日朝鮮人の苦悩をもたらす基本的矛盾のひとつが祖国の分断であり、それに起因する「在日」の分裂・対立であったなかで、それにもかかわらず、これまで「在日」を支える共属意識があったとするならば、それはやはり、同じ民族としての喜びや苦難、怒り、悲しみを共有する感性であったと言える。
もちろん、ここで、「在日」の分裂・対立を過小に評価するつもりはない。南北の国家権力の代理機構的色彩を帯びた民族団体が、在日朝鮮人の「民族」理念に大きな影を落としてきたのは周知の事実である。とくに「同化」「帰化」という側面から見るとき、韓国系の民団が民族的共同体の形成を怠り、若い世代の民族的アイデンティティの育成に否定的影響を及ぼしたことは組織の現実のありようからも立証されることであり、しかも、その背景には韓国政府の棄民政策がある。これまでの実態調査でも、帰化者の大部分は「韓国」籍所持者で、「朝鮮」籍所持者でそのまま帰化するのは10パーセントくらいにしか過ぎないともいう(23)。近年では、「朝鮮」籍からいったん「韓国」籍に直した上で帰化する者も多いと言われているが、法務省が沈黙を守るかぎり、確実な数字をあげることはやはり困難である。ただ、民団のみならず、在日朝鮮人に民族の誇りを鼓吹する上できわめて大きな役割を果たしてきた共和国系の総連が、1960年代中葉以降政治主義の偏向を著しくし、「在日」総体の素朴な願いとかけ離れる路線を歩んでいることも、「同化」「帰化」を促進する要因となっていることは否定できない。
いずれにしろ、南北両朝鮮の国家の対立・危機をひとつの背景に、在日朝鮮人が民族的アイデンティティの危機、さらには人間性解体の危機にさらされていることは事実である。にもかかわらず、そうしたなかで近年、帰化者のなかから「民族」の理念ないし意識をとり戻し、日本国籍の所持者であるにもかかわらず、「朝鮮人」として生きていこうとする人たちが現われてきたことは注目に値する。ここで、「民族」や「朝鮮人」の証は、「国籍」ではなく、帰化に際して奪われた「朝鮮名(24)」、すなわち「民族名」を再び名乗ることである。これは日本国籍であっても、「日本人」になっていないという訴えであり、「日本国籍」すなわち「日本人」という図式を否定する行為の具体化である。それはまた、帰化申請時に十指の指紋を押捺させ、日本人にふさわしい日本的氏名の使用を強い、家族ぐるみの帰化を強要する世界に例を見ない同化主義的・排外主義的帰化制度への反発でもある。
1985年12月大阪で結成された「民族名をとりもどす会」の旗のもと、「差別逃れの日本名ではなく民族名を取り戻したい」という運動が各地に広がり、その最初の成果は1987年6月、日本姓「新井」から「朴」への戸籍記載事項変更を求める音楽家・朴実(44歳)に対して、京都家庭裁判所がそれを認める審判を下したことに現われた。さらに同年10月には大阪家庭裁判所が、16年前の高校1年の時、家族ぐるみで日本に帰化した大阪府立今宮工業高校定時制教論・鄭良二(33歳)が「帰化する前の本名を名乗りたい」と日本姓「河東」から「鄭」に変更したいとの申し立てに対し、それを認める審判を下した。そして運動は全国的な広がりを見せ、日本国籍でありながらも「民族名」を日常生活でも、職場でも名乗る人びとが現われてきた。そこには、帰化しても「日本人」に成りきれない帰化者、そして混血者などの日本籍朝鮮人が、「朝鮮人」として生きたいという思想がある。しかし、一方においては、1985年の国籍法・戸籍法の改正を大きな転機に、日本の行政・司法当局の一部が、「国際化」の流れのなかで、皇民化的発想の日本的氏名の強要には無理があると判断しはじめたことが底流にあると思われる。
こうした帰化者の「民族名」の主張が定着していくかどうかは、まさに日本社会が異質の存在を許容する民族社会を現実化しうるかどうかの社会的課題である。それに対して単一民族観的思考に浸っている多くの日本人が拒否反応を示すことは容易に想像されるが、現実には帰化した朝鮮人やその配偶者の中からも強い警戒心が表明されている。一般的に、帰化の問題を熱心に取り上げているのは韓国系の民団の影響下にある「在日」のメディアであるが、そのうちの一つである「季刊コリア就職情報誌」に次のような匿名の手紙が掲載されたことがある。
「先週の新聞で、本名をとり戻す運動を知りました。・・・籍は日本で、名前は外国名で、といわれる気持がどうもよくわかりません。・・・仮にあなたが、米国やヨーロッパに行ったとき、日本姓でないのに、日本国籍を示されるとしたら、我々日本人としては、ふにおちません。日本には中国系日本人とか、韓国系日本人という呼び名はないのですから。・・・主人は貴方と同じように帰化(韓国籍から)した日本人です。主人の場合、帰化によって、ちゃんと超一流の会社につとめていますし、戸籍面も、何の記載も残っておりません。会社でも日本人として通用し、一族も公務員となりつつあります。日本を愛し、日本人と結婚し、子ども達は親の過去を知りません。また、知ることもないでしょう。日本人として(混血であっても)成長し、日本の社会を背負う人間として生きています。そこで貴方のように帰化しているのに、本名を・・・と、となえる人達がいるのは、大変困ります。・・・貴方たちの運動は、大勢の帰化した元韓国人や朝鮮人の生活をおびやかしています。どうか、我々の生活をそっとしておいて下さい。・・・日本国籍のものは日本名。しごくあたりまえの原理だと思います(25)。
ここでは「朝鮮」を隠すことに対する執念を見て取ることができる。しかしまた、ここでは、日本社会では「朝鮮系日本人」という概念は実際には成立しておらず、社会的に顕在化していない事実を的確に言い当てている。実際、帰化した朝鮮人の多くは、日本社会で自らの出自を隠しており、「朝鮮系日本人」として表出していない。日本では、「日本人」という言葉に代表されるように、「民族」と「国家」は密着したままで、そこに「民族」と「国家」を分離した朝鮮系日本人(日本国籍)が存立する余地は未だない。
ここから「民族」と「国家」を分離して考えることの重要性が生まれてくるが、現実には、日本では「民族」=「国籍」という幻想がはびこっており、「日本人」=「日本民族」=「日本国民」という等式がほとんど成立している。日本国憲法をはじめとする日本の法体系自体、「日本国民」か「外国人」かという区分しかなく、日本の植民地支配の所産である在日朝鮮人を捉える「定住外国人」、ないしは「市民権」といった法的枠組みを持っていない。そこには当然、戦後日本の「民主主義」がマジョリティとしての「日本人」のみを包摂するもので、植民地支配や戦争責任は、戦後責任に裏打ちされたものでないという問題がある。つまり、「国籍」は、天皇を頂点とする「単一民族国家観」のもと、自民族中心主義を貫徹する要として機能し、国家による住民の区分け、管理・抑圧の有力な装置となっている。
もちろん、在日朝鮮人にとって、国籍が、逆の意味においてその生活や生き方を左右する重みをもってきたことも否定できない(26)。「朝鮮」や「韓国」といった国籍表示は、在日朝鮮人が自らのアイデンティティを確立し、「民族」の理念や意識を定立するうえで、これまで大きな役割を果たしてきた。それはある意味で、虚構性を帯びた現実の強い力として働き、同化・帰化の歯止めにもなってきたと言える。また見方によっては、在日朝鮮人は、苦渋のなかで国籍を選択・維持することを通して、ナショナリズムとアイデンティティの統一という重要な課題に対処してきたとも言えるかも知れない。
けれども、ひるがえって考えてみれば、日本社会における単一民族的「国籍」観をも反映して、在日朝鮮人も自らの国籍に逆規定されて本国志向を強め、「在日」としての民族的共同体の構築に失敗してきたと言わざるを得ない。つまり、南北朝鮮の冷戦構造が「在日」の民族内部で彩色され、国家主義的に分断・体制化されていく過程において、「国籍」はそれによって人を区別する「記号」として機能してきた。「朝鮮」籍の所持者にとって、「韓国」籍所持者は「反動」であり、「韓国」籍所持者にとって、「朝鮮」籍所持者は「アカ」であった。しかも、個別的に若干の差異があるとはいえ、「朝鮮」籍の所持者にとって、また「韓国」籍の所持者にとっても、帰化者や混血者は日本国籍の「日本人」であり、ともに暮らすべき同胞ではないと考えられがちであった。
こうしてみるとき、今後在日朝鮮人にとって、「民族」と「国家」(「国籍」)を分離して考えることが極めて重要になってくることがわかる。それは現実的にも、国家の論理だけでは生きていけなりつつある「在日」にとって、避けて通れない課題であると言ってもよい。すでに世界各地では、さまざまな経験が積み重ねなれているが、たとえば、スウェーデンでは、在住外国人の基本的人権が大幅に保障され、スウェーデン政府の公文書には「国籍(ナショナリティ)」という言葉はなく、すべて「市民権(シチズンシップ)」という表現になっているという(27)。
もとより、「在日のアイデンティティ」は、「三つの国家」に対して自立的な民族集団として、本国と密接な関係をもちつつも、日本社会の変革にかかわりながら、自ら創造して闘い取っていくものであろう。むしろ、今後の在日朝鮮人には、中国の朝鮮系やロシアの朝鮮人、アメリカの朝鮮人などを含めた「世界のコリアン(28)」の一員としての展望が要求されてくるであろう。もちろん、その前提として、日本帝国主義の朝鮮支配に主として起因する在外朝鮮人社会形成の歴史が正当に位置づけられねばならないことは言うまでもない。


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