日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Coréens au Japon<在日朝鮮人>Koreans in Japan윤건차尹健次/'재일'을 산다고는/「在日」を生きるとは/Kŏn-chʻa Yun=재일조선인Les Zainichi "Vivre "au Japon" "To live "in Japan⑤

ただ、実際問題として言うなら、在日朝鮮人が基本的人権が保障された社会環境のなかで、自由な一個の人間として日本国籍を選択し、自らの民族名その他の出自と文化を誇りうるならまだしも、今日のような差別的日本社会っで半ば他律的に帰化することは、やはり人間性の破壊につながると言うしかない。すなわち、帰化は、現時点においてはなお、原則的には拒否すべきものである。日本の法体系自体、まず在日朝鮮人を「定住外国人」として認めて「市民権」的発想を持たねばならず、「皇民化」的色彩をもつ「帰化」も、単なる「国籍取得」として捉え直さなければならない。そのためには、日本政府はなによりも、朝鮮半島や在日朝鮮人問題における「戦後処理」を誠実に履行し、そして在日朝鮮人や中国人、アイヌなどを含む多民族社会の現実を保障する法制度を確立しなければならない。そうしてこそ初めて、在日朝鮮人は、「中国国民」や「ロシア市民」へ、「アメリカ市民」などとして暮らしている「世界のコリアン」の一員として、「日本市民」として生きていくことを考えることができるのではなかろうか。

V 「在日韓国・朝鮮人」という言葉 -その分断・二分法思考ー
1 在日朝鮮人についての呼称
日本に住む朝鮮人をどう呼ぶかについては、すでにいろいろな場所でずいぶんと議論されてきた。いま「朝鮮人」と書いたが、これ自体議論の的になるもので、「朝鮮人」ではなく「韓国人」とすべきだとか、「韓国・朝鮮人」と書くべきだと批判の対象になりかねない。とくに在日朝鮮人の場合には、日常生活のレベルで南北の分断を抱え込んでいるので、「在日朝鮮人」とか「在日韓国人」、「在日韓国・朝鮮人」、さらには「在日コリアン」といった表現そのものが、そうした言葉を使う者の政治的アイデンティティを示すものと理解されがちである。
これまで朝鮮人の呼び方について最も多く議論されてきたのは、朝鮮人差別との関わりにおいてのことであったと考えてよい。それは当然、朝鮮にたいしての差別表現と連動するもので、事実、明石書店刊の「朝鮮にかかわる差別表現論」(1984年)や「朝鮮人差別のことば」(1986年)には、日本の朝鮮侵略と深い関係をもつ朝鮮・朝鮮人にかかわる差別語の歴史が明らかにされたうえで、差別や偏見を克服する方途が議論されている。「京城」とか、「北鮮」、「南鮮」、「鮮人」、「第三国人」といった差別語が主として日本人によって使用され、日本人の朝鮮・朝鮮人にたいする差別意識の根幹をなしてきたことは今さら言うまでもない。
しかし、近年、日本人の朝鮮人差別とはすぐさま結びつくとは言えないところで、朝鮮・朝鮮人の呼び方が問題にされるようになった。その端的な例が、NHKの語学講座をめぐる名称問題であった。1980年代前半、「朝鮮語」とか「韓国語」をめぐって講座開設が暗誦に乗りあげ、結局「ハングル講座」の名称でやっとのことで開始されたことは周知の事実である。この場合、「朝鮮語」にすべきだ。あるいは「韓国語」にすべきだといって紛糾したことが、日本人の朝鮮人を差別ないしは蔑視と全く関係のないことであったとは言い切れない。厳密には立証されにくいが、朝鮮・韓国語という表現にまとわりつく被差別性・被蔑視性を嫌って、「ハングル」の表現を主張した者も少なくなかったと推察されるからである。
だが、そうした朝鮮人差別と結びつく部分があったとしても、NHKの語学講座が「朝鮮語」や「韓国語」ではなく、「ハングル講座」で最終的に落ち着いた最大の理由が、南北朝鮮の分断をめぐる軋轢を回避するためであったことは異論のないところであろう。当時、「朝鮮語」とか「韓国語」という、分断国家のどちらか一方に肩入れするニュアンスをもつ名称を避けるために、統一用語として「韓国・朝鮮語」を使うべきだという主張もあったが(徐龍達「統一用語「韓国・朝鮮語」のすすめ」、『朝鮮研究』第227号、1983年1月、その他)、結局「ハングル」という朝鮮語(韓国語)特有の表現が採用された。本来、「ことば」というものが民族と深い関わりをもつものであることを考えるとき、「朝鮮語」という名称が歴史的・文化的には最もふさわしいものと思われる。けれども、現実の南北対立の政治的軋轢を避けるために、そしてまた「ことば」というものが「統一的」な性格をもつものであるという見地からして、「ハングル」という名称の採用も、止むを得ない措置であったと受け止められる余地がないわけではない。
それに比して、「韓国・朝鮮」という表現は、なんとなくわかりそうな言葉ではあるが、理性的に考えてみると、歴史的にも、文化的にも、また社会学的にも、納得のいかない言葉である。しかも、現在、日本では、この「韓国・朝鮮」、ないしは「韓国・朝鮮人」という表現が、ごく当たり前の言葉としてまかり通っている。とくに新聞やテレビなどでは、当然のように「韓国・朝鮮」と表現し、「在日韓国・朝鮮人」と言っている。しかも一方、海のかなたに目をやると、朝鮮半島南部の大韓民国(韓国)に住む人たちは、朝鮮半島を「韓半島」と呼び、朝鮮半島に住む人を「韓民族」「韓国人」と言っている。朝鮮半島北部の朝鮮民主主義人民共和国(共和国)に住む人たちの場合には、朝鮮半島を「朝鮮半島」と言い、そこに住むすべての人を「朝鮮民族」「朝鮮人」と呼んでいる。それなのに、なぜ、外国に住む日本人、そして朝鮮人(韓国人)までが「韓国・朝鮮」と言い、「在日韓国・朝鮮人」と言うのか。
「在日韓国・朝鮮人」という言葉が、南北朝鮮の分断国家の現実を是認した分断的・二分法的思考に基づいていることは論をまたない。日本人の場合、もともと「鮮人」「半島人」「第三国人」「韓国の人」「あちらの人」などと言って、わだかまりなく「朝鮮人」ないしは「韓国人」とはっきり呼ぶことのできる人が少ないが、それに比較すると「在日韓国・朝鮮人」という言葉は心理的にやや挫折感の少ない表現ということになるのであろうか。近年出版される書籍や小冊子などには、「本書では、呼称については、歴史及び文化の部分を除いては在日韓国・朝鮮人と表現しました」などと、わざわざ但し書きをつける例が増えてきている。他方、在日朝鮮人の場合には、とりわけ、「在日」の人権を主張し、差別撤廃の運動を展開している人たちが、しきりと「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使っていることが気にかかる。そこになにか落とし穴はないのか、当然心配になってこざるをえない。

2 「朝鮮」と「韓」、そして朝鮮人差別
朝鮮の歴史をみると、「朝鮮」という言葉は、壇君朝鮮、箕子朝鮮、衛氏朝鮮などとしてひろく馴染まれ、「韓」という言葉も、馬韓、弁韓、辰韓などとして使われたように、ともに古代から用いられてきた言葉である。なかでも、「朝鮮」という言葉は、14世紀末から約500年間朝鮮半島を支配した朝鮮王国によって広まったが、その朝鮮王朝末期の1897年には、国号は朝鮮から大韓帝国へと改称され、1910年の「韓国併合」まで存続した。日本人の側からみても、1897年以前は「朝鮮」ないしは「朝鮮国」「大朝鮮国」、それ以後1910年までは「韓国」という言葉を最も多く使っていた。つまり、「朝鮮」にしろ、「韓」にしろ、いずれも朝鮮の歴史で多用されてきた固有の言葉であり、そのどちらか一方のみを正当化する理由は見当たらない。
*단군조선 (檀君朝鮮)은 한민족 최초의 국가로 전해지는데, 단군조선의 개국 기원에 대해서는 현존하는 가장 오래된 기록인 《삼국유사》에서 인용된 《위서》(魏書)에는 단군왕검이 아사달에 개국한 국가로 기록되어 있다.[1] 일반적으로 고조선의 역사를 왕조 또는 지배자에 따라 구분하여 단군이 다스렸던 첫 번째 시기를 지칭한다. 단군이 나라를 세워 1000여 년 동안 다스렸다고 전해진다. 조선 시대에는 ‘전조선 (前朝鮮)’이라 부르기도 하였다.
*기자조선(箕子朝鮮)은 고조선의 왕조 중 하나인 고대 국가이다. 조선시대에는 일반적으로 고조선을 셋으로 구분하였는데 기자가 세웠다고 하는 기자조선은 이 중 두 번째 시기에 해당된다. 명칭은 단군조선과 같은 ‘조선’이지만, 구분을 위해 후조선(後朝鮮) 또는 기씨조선(箕氏朝鮮)이라 부르기도 하였다. 기자조선은 실재 여부를 비롯하여 건국 과정, 성격에 대한 인식이 시대에 따라 논란이 있다. 현재 대한민국과 조선민주주의인민공화국의 사학계는 일반적으로 기자조선에 대한 고전적인 인식(기자동래설, 단군조선-기자조선-위만조선의 승계 등)을 부정하며, 실재하지 않았다고 여기고 있다. 기원전 1122년부터 기원전 195년 경까지 존속하였다고 한다.
*위만조선(衛滿朝鮮: 기원전 194년 ~ 기원전 108년) 또는 위씨조선(衛氏朝鮮)은 고조선의 마지막 왕조로, 기원전 194년 연나라에서 이주한 위만이 고조선의 왕인 준왕의 왕위를 찬탈하고, 국호는 그대로 조선으로 한 뒤 왕검성에 도읍하여 건국했다.

*삼한(三韓)은 삼국 시대 이전 한반도 중부 및 남부에 자리 잡고 있던 마한(馬韓), 변한(弁韓), 진한(辰韓)을 통칭하는 말로, 청동기 시대에 한반도 중남부 지역에 성립하였던 진국에 기원을 둔 것이다. 이후 마한의 백제국(伯濟國)이 백제로, 변한의 구야국(狗邪國)이 가야로, 진한의 사로국(斯盧國)이 신라가 되었다는 설이 일반적이다. 삼한으로 통칭되는 78개의 ‘국’(國)의 성격을 두고는 여러가지 논의가 진행되어 왔는데, 대개 신지(臣智)를 정점으로 읍차(邑借)에 이르기까지 여러 단계로 서열화되어 있는 상당한 정치수준으로 추정된다.
「日本書紀」には、古代に朝鮮から渡来した高麗人・百済人・任那人・新羅人を総称して「韓人(からひと)」とと一般的に呼称したという記録があり、「続日本書紀」にもそれに類似した記述がある(「国史大辞典」第3巻、吉川弘文館、660頁)。しかし、だからといって、「韓人」という言葉が歴史的な表記として最も重い意味をもっていると短絡に考えるわけにはいかない。「高麗人」「海東人」(中国から見て海の東側に住む人びと)という言い方もあり、なによりも「朝鮮人」という表記が、朝鮮の歴史において深く浸透していたことは否定しえない。事実、大韓帝国と国号が改称される前の初期の日本留学生は、「大朝鮮人日本留学生親睦会」という団体を結成して「会報」を発行した(「親睦会会報」1895年)。それに対して、1909年、ハルピン駅頭で伊藤博文を拳銃で射殺した安重根は、翌年3月旅順監獄で処刑されるが、その間したためた多くの書には「大韓国人 安重根」と自著していた。実際、これまでの研究でも、「韓国併合」前の大韓帝国では、新聞紙上で韓国・韓国民という用語が用いられはしたが、朝鮮・朝鮮人の記述も同時に使用されており、それは社会的には、従来の朝鮮および朝鮮人の名称が一般にひろく使用されていたことを示すと言われる(内海愛子「「鮮人」ということば」、前掲「朝鮮人差別とことば」所収)。
けれども、1910年8月、朝鮮を「併合」した日本帝国主義は、「併合条約」公布の日に、勅令で大韓帝国の国号を廃止し、国号に代わる地域の名称として「朝鮮」という用語を使うことを宣言した。しかも、「併合」直後の9月、「大韓」の名前をもつ新聞雑誌がことごとく押収されたのに引き続き、10月には「朝鮮人」の略語として使われていた「韓人」という略称も全くといっていい程消し去られ、代わって「鮮人」という蔑称が登場して、たちまち見事なほどにそれに統一されていった(内海愛子「「北鮮」の用語にみる日朝関係」、前掲「朝鮮にかかわる差別表現論」所収)。以後、「鮮人」「不逞鮮人」「半島人」「半島同胞」「北鮮」「南鮮」といった差別語が定着されていき、それに従って日本人の朝鮮人にたいする蔑視観も強まっていった。
ただ最近の研究では、日本人による「鮮人」という呼称の使用は、豊臣秀吉の朝鮮侵略、つまり朝鮮民衆にたいする無慈悲な大量虐殺の現場において始まり、それは江戸時代末期においても秀吉の朝鮮侵略と関連して使用され、「神功皇后朝鮮観」を土台としていたこと、そして植民地時代にはこれらの再現として意識的に流布されたものであることが明らかにされている(「金光哲「「鮮人」呼称についてー1992年・秀吉の朝鮮侵略開始400周年とし関連してー」「こべる」第170号、京都部落史研究所、1992年2月)。
「朝鮮」や「朝鮮人」、「朝鮮語」などの言葉をフルネームで呼ばず、略語で呼ぶというのは大国意識・差別意識の露骨な表現形態である。日本の社会主義者でさえこうした差別意識の汚染から自由ではなかった。大正時代の「赤旗」や「前衛」その他の労働者団体の機関紙などには、「鮮人の解放」、「鮮人との連帯」、「鮮人鉱夫」、「鮮ビラ」などと書かれている。ごく稀に朝鮮の古名・雅称である「鶏林」や「槿城」という言葉を使って、「鶏林同胞」とか「扶桑(日本)槿域交流」という屈折した表現を使うこともあったという。せいぜい使って「朝鮮の人」であり、「朝鮮人」という言葉自体、すでに汚れた誘惑をもつものとして受けとめられていた。もっとも、民芸家の柳宗悦や植民地研究者の矢内原忠雄などは愛情を込めて「朝鮮」「朝鮮人」という言葉を使ったとされるが、それに対する批判もあり(佐藤正人「朝鮮史を見る日本人の「眼」」、「アジア問題研究所報」第2号、1987年11月、所収)、より厳密に考察してみる必要がある。
*Yanagi Sōetsu (柳 宗悦(東京都出身), March 21, 1889 – May 3, 1961), also known as Yanagi Muneyoshi,[1] was a Japanese art critic,[2] philosopher, and founder of the mingei (folk craft) movement in Japan in the late 1920s and 1930s.
*Tadao Yanaihara (矢内原 忠雄(愛媛県出身) January 27, 1893 – December 25, 1961) was a Japanese economist, educator and Christian pacifist. The first director of Shakai Kagaku Kenkyūjo (Institute of Social Science or Shaken) at the University of Tokyo,[1] he studied at Toynbee Hall and School of Economics and Political Science (London School of Economics).

本来、民族や国の名称は美しいものであるはずであり、それがなぜ日本人にとっては蔑称や差別語となったのか、その歴史的経緯を明確に把握しておかなければならない。しかし、いずれにしろ、朝鮮人自身は、日本帝国主義の支配下にあっても、自らを「朝鮮人(チョンソ・サラム)」や「大韓人(テハン・サラム)」などと、当然のように呼んだ。ただ、日本帝国主義の支配が深まっていくにしたがって、「朝鮮」という言葉は使いにくくなったのか、組織名などに「ウリ(我々)」という言葉を用いることもあった。朝鮮人留学生が最も多く学んだ早稲田大学の朝鮮人留学生同窓会がその名称を「早稲田大学ウリ同窓会」に改称したのは、朝鮮全土にわたる抗日運動へと発展した光州学生運動が勃発した年の翌年である1930年5月であった(「韓国留学生運動史ー早稲田大学ウリ同窓会70年史ー」1976年、参照)。

3 「在日朝鮮人」から「在日韓国・朝鮮人」へ
1945年8月、日本帝国主義が敗北して連合軍が上陸するや、旧植民地出身の朝鮮人・台湾人などは「解放国民」と規定され、来るべき独立国家建設の担い手とみなされた。そこにおいて日本に残留した朝鮮人は、自らを、侮蔑の語惑をもたらせた「朝鮮人」としてではなく、誇り高き「朝鮮人」として認識した。つまり、朝鮮の独立を間近に控えて、「朝鮮人」という言葉は、新たに光り輝く意味合いをもつものへと転化していった。解放直後の10月には自主的な民族団体である在日本朝鮮人連盟(朝連)が結成され、帰国と生活権を守る闘いが力強く推し進められていった。もっとも、翌46年10月には、朝連の左翼的色彩を嫌う民族主義者たちによって反共的な民族団体が別個に組織されたが、その名称は在日本朝鮮居留民団(民団)と、やはり朝鮮の名がつけられていた。新聞の表記にも、時にはまだ「半島人」(半島出身者)と記載されることはあったが、それも徐々に「朝鮮人」「在日朝鮮人」という表記に直されていった。
けれども、日本が敗戦したからといって、日本人の朝鮮観がすぐさま構造的に変化していったわけではない。占領国または被占領国のいずれの国民でもないという意味で、在日朝鮮人は「第三国人」という言葉は、戦後の混乱した経済状況のなかで「闇市」と結び付けて流布され、朝鮮人が日本の商取引や社会生活の秩序を乱している元凶であると攻撃された。ちなみに、「朝日新聞」(初期の「東京朝日新聞」を含む)の縮刷版には巻頭に「記事牽引」が付されているが、1946年半期の記事牽引には「在日第三国人と沖縄人」という項目までつけられていた。こここからも推察されるように、「第三国人」のなかには朝鮮人・台湾人などが含まれ、それは当時敗戦によって日本人の範疇から外され気味であった沖縄(琉球)人にも通じる意味合いをもってはいたが、主としてはあくまで朝鮮人を意味していた。
こうして戦後の日本においては、「鮮人」「半島人」「半島出身者」などの蔑称が根強く残り、また「第三国人」といった新たな差別的表現が登場したとはいえ、「朝鮮人」「在日朝鮮人」という言葉が改めて定着しはじめていった。しかし、それもつかの間、1948年8月に朝鮮半島南部に大韓民国が成立し、また9月に北部に朝鮮民主主義人民共和国が創建されることによって、在日朝鮮人をめぐる呼称にまた大きな波紋が広がっていった。すなわち、南北朝鮮の分断国家体制が確立されることによって、善かれ悪かれ、「朝鮮」は共産主義(「アカ」)、「韓国」は自由主義(「反動」)というイメージと重なって認識されるようになった。実際、大韓民国が樹立されるや否や、在日朝鮮居留民団は今日の名称である在日本大韓民国居留民団(民団)へと改められた。また1949年1月、東京に設置された駐日韓国代表部も、戦後一律に表記された外国人登録における「朝鮮」という「国籍表示」を、「韓国」に変更するように執拗に要求しはじめた。もっとも、在日朝鮮人の法的地位問題などをめぐってGHQの要請で1951年10月から始まった日韓予備会談では、韓国側は在日朝鮮人を「在日韓僑」「在日韓人」などと呼んでいた(「第1・2・3次韓日会談・在日韓人法的地位問題委員会会議録」韓国外務部、参照)。
ここで確認しておくべきことは、「韓国」という言葉は「大韓民国」の略称であり、現実に存在している分断国家の片方のみを指す国家の名称であるということである。しかし、日本語としての「韓国」という言葉は、基本的には、あくまで大韓民団の統治領域である朝鮮半島の南部のみを意味している。したがって「朝鮮」「朝鮮人」という言葉が、歴史的・文化的なものを含めての総称であるとともに、とくに朝鮮半島のすべての領域、南部の人びとしか意味しないものである。なかには、「韓国」は「大韓民国」の略称でもあり、したがって大韓帝国が統治した朝鮮半島全域をカバーするものであるとの反論があるかも知れないが、現在日本で使われている「韓国」という言葉をほんの一時期の「大韓帝国」と結びつけて考えるのにはやや無理がある。実際、「南」でも「韓半島」「韓民族」、あるいは「北韓」「北韓人」とは言っても、「韓国半島」「韓国民族」「北韓国人」とは言わない。英語表記の場合には、「北」でも「南」でも、また世界のどこにおいても「Korea」「North Korea」「South Korea」で通じ、なんら反発も受けないが、漢字表記の難しさとでも言うのであろうか。
いずれにしろ、南北の分断構造が固定化されていくなか、「朝鮮」「韓国」の呼称をめぐる軋轢・紛糾が激しくなっていった。なによりも、1947年8月から9月にかけて全面的に実施された外国人登録において、「国籍表示」が最初すべて「用語」としての「朝鮮」と表記されたが、その後韓国政府および民団の強い圧力・要望もあって、第1回の切り替え(期限3年)の1950年以後、「朝鮮」から「韓国」に記載変更する者が増えていった。1950年における「韓国」籍表示は、外国人登録した在日朝鮮人約54万5000人のうち14・2パーセントになったが(李瑜煥「日本の中の38度線」洋々社、1980年、244頁)、この場合の「韓国」籍は「朝鮮」籍と同じく、あくまで「用語」であって「国籍」ではなかった。そして1950年から53年の「朝鮮戦争」を経て、南北朝鮮の対立がさらに深まるなか、「朝鮮」「韓国」の呼称をめぐるつばぜりあいは激しくなる一方であった。「読売新聞」の1958年1月8日夕刊に平林たい子が「韓国人」という”随想”を寄せているが、国際ペン大会で会った韓国の文学者は「韓国文学を代表するよりも、韓国政府を代表して発言したという印象が強い」と、感想を述べている。
その間も、日本人の朝鮮にたいする差別的表現はあいかわらず続いたが、とりわけ「北鮮」「南鮮」という蔑称が頻繁に使われていた。1955年に結成された共和国支持の在日本朝鮮人総連合会(総連)が、59年に「北鮮」「北朝鮮」という表現の誤りを指摘して、「朝鮮民主主義人民共和国」の正式名称を使うべきだとし、また略称を用いるときには「朝鮮」と表記するよう各方面に要望した背後にあり、戦後も変わらない日本人のゆがんだ意識構造があった。
やがて1965年、朴正煕政権と日本政府のあいだで日韓基本条約が締結され、日本は韓国と正式に国交を結んだ。同時に「在日韓国人」の法的地位協定が締結され、正規の国籍となった「韓国」籍の所持者には「協定永住権」申請の資格が与えられ、単なる「用語」の「朝鮮」籍所持者とは処遇のうえで大きな格差がつけられることになった。事実、66年1月から5年間継続された「協定永住権」申請期間中、「朝鮮」籍から「韓国」籍へ切り替える者が続出し、1970年には約61万5000人の在日朝鮮人のうち54パーセントが「韓国」籍所持者となった(前掲、李瑜煥「日本の中の38度線」)。そして今や、「韓国」の旅券を交付されるようになった「在日朝鮮人」は、本国(韓国)への旅行などを通じて、「韓国」というアイデンティティを次第に我がものとしていくようになった。
こうして「韓国」「韓国人」という呼称が漸次日本社会に浸透していったが、1970年代においても、日本の革新勢力のあいだでは、朝鮮民主主義人民共和国政府が正統政府であるという認識が一般的であり、独裁政権のイメージが強い韓国を指すときはカッコ付きで(つまり「韓国」と)表記する場合が少なくなかった。ただ一連の日韓双方の条約反対闘争の過程において、日本の知識人・民衆の一部では、韓国の知識人が民衆との日韓連帯の可能性、つまり韓国の知識人・民衆との究極的に通底しうる立脚点を韓国の内側に見出すことによって、韓国にカッコを付けて呼ぶことの不明さを恥じるようにもなった(和田春樹「民衆への確信と祈り」、「記録」第124号、1989年7月、所収)。1972年に、韓国民主化運動に携わっていた鄭敬謨の「ある韓国人のこころ」という、「韓国人」という名をつけた書籍が、社会的な反発・違和感を受けながらも朝日新聞社から刊行されえたのも、そうした流れにおいて理解することができる。
日韓条約締結後、とくに協定永住権申請の期間を通じて、「在日韓国人」という言葉が浸透していくなかで、日本社会の一部では、それに対応する言葉として「在日朝鮮人」とか「北朝鮮人」という言葉が生み出され、在日朝鮮人の全体像がいびつになる傾向が現われ始めた。しかも、日本人の韓国への観光旅行が増加するにつれて、日本人の朝鮮(韓国)認識も、かつての植民地支配の歴史や足元の差別・偏見の問題を飛び越えて、空回りする気配を見せ始めた。そうしたなかで、在日朝鮮人のあいだでは、世代の交代、定住化傾向の促進などと絡んで、日本社会の差別的体質への反発が強まり、それらは全体として自らを「定住外国人」として位置付ける新たな思考と意識を芽生えさせていった。1970年代後半以降、在日朝鮮人および日本のマスメディアなどにおいて、「在日韓国・朝鮮人」という言葉が使われ、浸透していったのは、こうした歴史的な流れにおいてのことであった。
일본 속의 "38 선"-재일 한국인  2 개월 기록 ~"38th parallel" in Zainichi-Korean resident in Japan 2 months record-
4 「在日韓国・朝鮮人」という言葉の政治性
今日、朝鮮半島では、大国によって強要された分断国家体制のもと、北が「朝鮮」、南が「大韓」を国号の頭につけて合い対立している。そうしたなかで、「朝鮮」であれ「韓国」であれ、また「朝鮮人」であれ「韓国人」であれ、そのどちらか一方を無理に押し付けてはならないことは言うまでもない。しかし、ひとつの民族、ひとつの共同体を表現するのに、「韓国・朝鮮(人)」と併記していいものかどうかとなると、やはり少し考え込まざるをえなくなる。
いま、「在日韓国・朝鮮人」という言葉を、この日本で誰が一番最初に意図的に使ったのかを特定することは困難であるが、出版物で見る限り、1973年10月に創刊された在日朝鮮人の手になる雑誌「季刊まだん」が、書名の下に「在日朝鮮・韓国人のひろば」と銘打ったことを確認することができる。その編集後記には、前年の歴史的な「7・4南北共同声明」によって盛り上がった統一の精神が雑誌創刊の契機となったことが記されており、せめて「在日」という現実のなかで統一の場を確保したいという気持ちが読み取れる。ついで1972年10月に発足した「在日」の大学教員団体である「ムグンファ会」が、74年8月に「在日韓国・朝鮮人大学教員懇談会」と改称したことが知られている。また日立製作所の就職差別との闘いを勝利に導いた運動体を母体にして生まれた「民族差別と闘う連絡協議会(民闘連)」は、1975年6月に発行した「民闘連ニュース」創刊号から一貫して「在日韓国・朝鮮人」という用語を使っている。
日本の新聞では、「朝日新聞」が「65万人ー在日韓国・朝鮮人」という小さな囲み記事を1976年2月27日(東京・朝日)から50回連載したことがある。その時の取材記者によれば、連載が始まるや否やすぐに反応があり、新聞社の内部用語である中ボツ「・」で「朝鮮の分断を固定するのか」「二つの朝鮮論に立つのか」という批判が寄せられ、また逆に韓国籍の者からは「われわれは韓国人であって、朝鮮人ではない。それを文中では在日朝鮮人と呼んでいるのはけしからん」という抗議もあったという(宮田浩人「在日朝鮮人の顔と顔」、「季刊三千里」第8号、1976年12月)。
ついで1961年11月創立の日本朝鮮研究所が発行した」「朝鮮研究」を見てみると、1980年5・6月合併号(第200号)では「いま在日朝鮮人問題をどう語れるか」を特集しているが、翌81年8月号(第213号)では「在日韓国・朝鮮人教育問題はいま」という特集号になっている。ちなみに「朝鮮研究」は、ほぼ隔月ごとに「在日」関係の「日誌」を継続して記載していたが、81年10月号(第215号)までは「在日朝鮮人関係日誌」と表記し、次の82年2月号(第218号)からは「在日韓国・朝鮮人関係日誌」と表記しはじめた。
こうして1970年代後半以降、そこには当然理屈があるはずであるが、それについて徐龍達は、日本のマスコミでは、過去の惰性から、一般に「在日朝鮮人」を用いているが、それは三十有余年にわたる南北の分断という現実を必ずしも認識していないうらみがあり、少なくとも韓国では「朝鮮人」「朝鮮半島」という名称は存在せず、また在日同胞の国籍も約3分の2が韓国籍であるなどの理由をあげ、しかも民族は一つであって、いずれは統一すべきものであるところから「韓国人、朝鮮人」と分離して並列せず、「韓国・朝鮮人」と表記すべきだと主張した(徐龍達「在日韓国・朝鮮人の国公立大学任用の実情」、「朝鮮人」第16号、朝鮮人社、1979年1月)。
これはいちおう、「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使う人びとの考えを集約していると理解してよいが、もっともそれより以前の1972年9月に、徐龍達は「協定永住権」申請者が在日同胞の56・3パーセントと過半数を超えたことを根拠に、在日同胞の総称は「朝鮮人」ではなく、「主権在民、1人1票の原則」からして、朝鮮籍を含めて「韓国人」の呼称を用いるべきだと露骨に主張していた(徐龍達「在日韓国人の職業」、「別冊経済評論」1972年9月)。ついで言うなら、国際法学者の大沼保昭も、82年以後は「在日朝鮮人」に代えて「在日韓国・朝鮮人」という表現を使いはじめたとしつつ、その理由として、学問的には「朝鮮」にも、「韓国」にも各々一般呼称としての根拠、難点の双方があること、他面、自己をあくまで「韓国人」と規定し、「朝鮮人」とされることを不当とする人が少なくないこと、を挙げている(大沼保昭「単一民族社会の神話を超えて」有信社、1986年)。
*특별영주자(特別永住者, 일본어: 特別永住者)는 1991년 11월 1일에 시행된 일본의 법률 《일본과의 평화 조약에 따라 일본 국적을 이탈한 자들의 출입국 관리에 관한 특례법》에 나와 있는 '특별영주자' 해당 요건을 충족시키는 사람을 말한다.
*Onuma Yasuaki大沼保昭 (Yasuaki Onuma(山形県出身), 1946 < Showa 2009> March 8 - 2018 < Heisei 30 years> October 16 [2] ), the Japan of the jurist . Professor Emeritus of the University of Tokyo . Former specially appointed professor of the Faculty of Law, Meiji University . Specializes in international law . 
このように見てくると、「在日韓国・朝鮮人」という言葉にもそれなりの「理屈」があり、一概に否定できないものであるかのようにみえる。実際、呼称の問題の煩難さを避けるために、まだ政治的に汚染されていない「在日同胞」という言葉を使うべきだという提案もあるくらいである(金圭一「体験的在日同胞論」、「ウリ生活」第2号、1988年5月、参照)。もっとも、この「在日同胞」という言葉も、今でこそ韓国でもしばしば使われるが、初期の頃には「在日僑胞」と言うべきだという暗黙の了解があり、韓国から日本に来た者にとって、「在日同胞」と表現する者は「アカ」であるという認識につながることが少なくなかった。だいいち、「在日同胞」であれ「在日僑胞」であれ、外部の人間にとっては、どこの民族集団の同胞か、特定しかねることになる。
ただ、ここで確認しておくべきことは、「在日韓国・朝鮮人」という言葉が普及・浸透した大きな理由として、単に南北の分断が固定化したこと、「韓国」籍所持者が「朝鮮」籍所持者を大きく上回ったことなどだけではなく、その間の韓国の経済成長が著しく、日本人の韓国を見る目が変化してきたこと、そしてそれと連動して「韓国」という言葉に秘められていた差別・偏見・蔑視の語感が微妙に変質してきたと思われることである。女優の李麗(礼)仙は「大体、昔は朝鮮人だったのにいつのまにか韓国人になって、「エッ」と思ったことがある」としつつ、「小学校の時、確か朝鮮人だったのに、アレレ変だナって」感じたと述べている」(「コリア就職情報」創刊号、1986年9月、96頁)。そこには「チョーセン」と蔑まれてきたのが、いつのまにか「韓国人」とされた戸惑いが見られ、日本人そして朝鮮人(韓国人)という言葉を使う場合が少なくないことを示している。
それとより重要なことは、「在日韓国・朝鮮人」の「韓国」とは、「韓国」籍所持者を意味し、「朝鮮」とは「朝鮮」籍所持者を意味している。しかも、単に国籍の区別だけではなく、「韓国」とは韓国政府支持、「朝鮮」とは、朝鮮民主主義人民共和国政府支持と、少なからず政治的色彩を帯びて認識されている。実際には、「韓国」籍であっても韓国政府を支持せず、「朝鮮」籍であっても共和国政府を批判する人びとがいるにもかかわらず、「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使うかぎりにおいては、政治姿勢は自明のものとされかねない。もっとも、現実には、「在日」で「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使う人は、すでに意図的であれ、無意図的であれ、韓国政府を支持する人がほとんどではないかと思われる。その意味では、「在日韓国・朝鮮人」という言葉自体、きわめて政治的意味合いをもつもので、在日朝鮮人を国民国家システム、政治体制の次元で区分しようという傾向をもつ。
公平さを期すために言うなら、在日朝鮮人は、その存在自体が政治的である。現実の政治や南北朝鮮との関係を離れて生活を営んでいる在日朝鮮人は、実際には皆無と言ってもいいくらいである。「在日朝鮮人」という言葉を使っても、「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使っても、それはすでに一定の政治的姿勢の表明になり、政治的発言ともなる。つまり、それだけ、在日朝鮮人は、政治のなかに、南北朝鮮の対立のなかに巻き込まれてしまっているのである。そこから「在日コリアン」という言葉が出てくるのかもしれないが、それすらまた政治的意味合いを帯びていることは言うまでもない。

5 「国民」概念を超える民族の名称
日本で「コリアン」ないしは「在日コリアン」という言葉が一部の人によって使われたのは、なにもつい最近のことではなく、たぶん1960年代、あるいはそれ以前のことであったと思われる。英語の「Korean」を日本語のカタカナで表示したこの言葉は、世界のどこでも通用する便利な言葉である。しかし、やはりそれは、日本語としては奇異な、違和感をもつ表現として受け止められてきたと言ってよい。
ただ、それでも、1980年以降、東西冷戦の緩和、日本の「国際化」、韓国の経済成長、人的交流の地球規模化という世界の趨勢のなかで、朝鮮半島以外の地域に住む朝鮮人の消息が互いに伝えられるようになってから、この「コリアン」という言葉のもつ違和感も幾分減少してきたのではないかと推察される。つまり、約450万人といわれる在外朝鮮人の実態が知られるようになるにつれ、在日朝鮮人も「世界のコリアン」の一員として、すなわち「在日コリアン」として把握され、認識される傾向が少しずつ出てきている。もっとも、そうは言っても「コリア就職情報」など、韓国系の雑誌などで「在日コリアン」という言葉が盛んに使われていることに見られるように、この「在日コリアン」という言葉も一定の政治性を帯びており、その原語が英語であることとあいまって、在日朝鮮人全体が受け入れられる言葉としてはまだまだ成熟していない。
いま、在外朝鮮人のうち、民族集団としての自己を明確に「韓国人」として認識し、表現する在外朝鮮人社会を考えてみると、それはたぶん日本とアメリカであろうと思われる。この場合、100万人以上といわれるアメリカに住む朝鮮人(コリアン)は、主として大韓民国成立後の1960年代以降の移民であり、そのアイデンティティが「韓国」「朝鮮人」であるのはむしろ当然であるとも言える。そうすると、日本帝国主義の時代に日本に渡航してきた在日朝鮮人およびその子孫の多くが、何故に「韓国」「韓国人」という言葉を好んで使い、そこにアイデンティティを見出すのかというと、それはやはり、「韓国」という「国家」「国民」「国籍」の概念に呑み込まれてしまっていると考えるしかない。つまり、「民族」と同時に「国民」概念によって自己を認識し、区別されることを自らが望み、選択している。あるいは選択させられているということになる。
「民族」の概念が「国民」の概念より広く、歴史貫通的であることは今さら言うまでもない。事実、「世界のコリアン」を集めて1989年9月にソウルで開催された体育祭は、「世界韓民族体育大会」と称されていた。しかも、近年、韓国の新聞は、いわゆる社会主義圏との交流拡大をめざす「北方政策」とからんで、中国やソ連邦に住む朝鮮人の消息をしきりと伝えてきたが、そうした記事では、「韓国人」「韓国語」という表現の仕方も稀にはあるが、その多くは「韓人」「韓族」「高麗人」「朝鮮人」「朝鮮族」「朝鮮民族」「韓語」「朝鮮語」などという言葉で表現されていた。たとえば、1989年3月25日付け「東亜日報」の「在蘇韓人」という記事、およびそれを翻訳したと思われる4月4日付け在日韓国系「統一日報」の「民族教育の充実期す在ソ同胞」という記事では、旧ソ連に住む50万人の同胞たちが旧ソ連移住後、はじめて全同胞の組織体である高麗人文化協会を結成、きたる4月にモスクワで朝鮮民族大会を開催する計画であることを伝え、韓民族・韓人同胞の文化向上のために朝鮮語(韓国語)を学ばなければならないと強調していた。こうした事情は中国の「延近同胞」(朝鮮族)の場合もほぼ同じであり、それだけ日本・アメリカ以外の在外朝鮮人のあいだでは、「韓国」という「国民」概念に犯されていないことを示している。
*대한민국 전국체육대회(大韓民國 全國體育大會)는 대한민국에서 매년 개최되는 종합 스포츠 경기 대회이다. 줄여서 전국체전(全國體典)으로도 불린다.
*극동인민대표대회(極東人民代表大會)는 1922년 1월 21일부터 2월 2일까지 모스크바에서 열린 코민테른 국제대회이다. 최종회의는 레닌그라드(現 상트페테르부르크)에서 열렸다.[1] 극동피압박민족대회, 극동피압박인민대회, 극동민족대회, 극동무산자대회 등으로도 불린다.
もちろん、旧ソ連や中国の朝鮮人の大多数はロシアなど旧ソ連以来の国籍や中国国籍の所持者であり、日本やアメリカのように韓国籍を所持している者はあまりいないと思われる。しかし、たとえば、近年、日本で「サハリン残留韓国・朝鮮人問題」としきりに言われてきたことに見られるように、1990年9月に韓ソ国交が成立する依然においても、韓国の国籍所持者がいなかったことが、即、「韓国」の「国民」概念が存在せず、浸透しなかったというわけではない。これまで取り残されてきたサハリン残留朝鮮人と国交未成立時の韓国とのあいだで交流が徐々に始まるや、サハリン同胞の間に、「韓国」という「国家」「国民」の概念、そしてアイデンティティが浸透しはじめていた。もっとも、サハリンには、旧ソ連を祖国とみる自称「高麗人(コリョ・サラム)」(旧ソ連系朝鮮人)と、先祖の眠る朝鮮半島を祖国とみる「朝鮮人」(先住朝鮮人)とのあいだで政治的対立が続いていたとも言われる(朴亨柱「サハリンからのレポート」御茶の水書房、1990年、84-85頁)。
ちなみに、1991年9月にソウルで、世界の90カ国・地域から集まって「第2回世界韓民族体育大会」が開催され、同時に在外同胞の移民生活史などが討議される学術行事がおこなわれたが、その題目は「在日韓人・中国韓人・在ソ韓人・豪州韓人・欧州韓人・在米韓人・カナダ韓人・ハワイ韓人」など別に発表・討論された(「統一日報」1991年8月31日)。
このように考えてくると、在日朝鮮人にたいして、「国家」や「国民」「国籍」概念に囚われない何かいい名称はないものかと思案にくれてしまうが、今のところ適切なものは見当らない。
「在日」の歴史が長くなればなる程、「在日」と本国の人間とのあいだでは距離が開いてくる。
しかも、「単一民族国家」の観念および法制度の強固な日本で、「朝鮮系日本人」という概念も現実にはほとんど成立しない。外国へ移住した中国人は一般に「華僑」と呼ばれるが、華は中華の「華」、僑は僑萬(仮住まい)の「僑」でわかりやすい。近年では、現地で生まれ、現地の国籍を取得し、もはや仮住まいではない華僑を「華人」と呼ぶようになっているが、これもわかりやすい。ベトナムのボート・ピープルで外国に落ち着いた者は、「越僑」と呼ぶようになりつつあるという。ついでに言うなら、「パレスチナ人」というのは元来存在せず、彼らは、シリア、ヨルダンなどの他のアラブ人と同じアラブ人であった。しかし、イスラエルとの対決の前線にいるアラブ難民としての自覚とその存在へのアラブの承認が、「パレスチナ人」としてのアイデンティティを生み出したという(浦野起夫「エスニックの自決と国際社会」、「月刊自治研」1990年1月号、45頁)。
*화인(華人, 영어: overseas Chinese)는 중국에서 태어나서 다른 나라에 정착하여 그 나라에 활동하는 사람을 말하지만, 한국어권에서는 화교(華僑)라고 통칭한다. 한국, 동남아시아, 미국, 일본, 영국, 오스트레일리아, 러시아 등에 거주하고 있으며, 그 수는 약 4천만 명으로 추정되고 있다. 주로 광동, 복건계가 많지만, 최근에는 상하이나 베이징계 화교도 증가하고 있다. 이들은 출신지와 거주 지역의 언어를 사용하며, 최근에는 표준 중국어와 영어도 널리 쓰이고 있다. 동남아시아의 화교들은 주로 광동, 복건 등의 화남 지방 출신이 많다. 또한 화교들은 중국인 혼혈아들이다.
*Thuyền nhânボートピープル, dịch từ chữ boat people trong tiếng Anh, là thuật ngữ thường chỉ những người nhập cư bất hợp pháp hoặc người tị nạn xuất cư bằng thuyền trong nhóm nhiều người. Thuyền thường cũ và được đóng sơ sài, không dùng thích hợp để đi biển và không an toàn. Thuật ngữ này ra đời từ cuối thập niên 1970 khi một số lượng lớn người rời khỏi đất nước vì nhiều lý do sau khi chính quyền Việt Nam Cộng hòa đầu hàng Chính phủ Cách mạng lâm thời Cộng hòa miền Nam Việt Nam vào cuối tháng 4 năm 1975 và Việt Nam trở thành một quốc gia theo chế độ Xã hội chủ nghĩa.[1]
いずれにしろ、「民族」の名称が「国民」概念を超え、そのぶん国民国家システムや政治体制と距離をもち、政治的色彩や差別・偏見のひびきが薄れるのは事実であると言ってよい。分断国家体制の固定化のために、「在日朝鮮人」という言葉もたしかに政治的色彩をもっているが、「在日韓国・朝鮮人」という言葉の方がはるかに、分断された国家体制、政治的対立のひびきをもっていると言える。ただ同じ「民族」の名称といっても、差別・偏見・蔑視の語感が微妙に違うことがあり、差別的ひびきを避けるために安易な呼び方を使うと、為政者に利用されたり、一つの民族としての統一的アイデンティティを崩してしまうことにつながりかねない。「朝鮮人」という表現を避けて、「韓国人」という表現を使う心理の奥底に、そうした危険性がないとは言い切れない。
日本の場合、少数民族であるアイヌは、歴史的に同化政策の対象とされ、限りなく「日本民族」に服従することを強要されてきた。その過程において、アイヌの民族的誇りとアイデンティティが傷つけられ、その言語、文化、風俗習慣は無残にも破壊されつづけてきた。そして日本敗戦後の1946年2月、民族としてのアイヌの再生を願う2千余名が「北海道アイヌ協会」を設立した。しかし、そのアイヌ協会の活動は停滞し、アイヌという名前を嫌う若い世代を考慮して、61年には「北海道ウタリ協会」と改称して再出発した。「アイヌ」とは「人間」という意味であり、「ウタリ」とは「同胞」という意味であるが、それらは本来、差別とはなんの関わりもない言葉であった。しかし、シャモ(いわゆる和人)による近代の北海道侵略の過程でアイヌにはおびただしい苦痛が加えられるとともに、「アイヌ」という言葉も差別的ひびきをもつ言葉に転化させられてしまった。しかも、ウタリ協会の活動を協議したときの内閣総理大臣・佐藤栄作は、「ウタリ」という言葉の使用すら控えるようにと言い、アイヌの日本人化を進めようとした。けれども、現実には、1970年以降今日に至るまで、北海道をはじめとして、自らアイヌであることを名乗り、復権を願う、「復権アイヌ」が続出しており、「ウタリ協会」を「アイヌ協会」と名称を変更すべきだとする要求も強まってきている(新谷行「増補アイヌ民族抵抗史」三一新書、1977年、参照)。
本多勝一によれば、アメリカの黒人は、黒人をそのまま表現する「ブラック」という言葉で呼ばれることをかつては恥と思い、嫌ってきた。かわりに「カラード」という表現が使われていた。それが「黒いから黒人なのだ」と開き直り、むしろ誇るべき言葉として「ブラック」を積極的に自称しはじめたのが、1960年代に噴出したブラック・パワー(黒人公民権運動)であると述べている。しかも、黒人たちのそうした自覚がアメリカ先住民のインディアンに波及し、それらの成果はアメリカ現代史に確実に引き継がれているだけでなく、世界の少数民族にもはかり知れない活力を与える原動力となったと述べ、日本におけるアイヌの運動の意味を論じている(「朝日新聞」1986年12月15日)。「アイヌ」と「ウタリ」の関係は、まさしく「ブラック」と「カラード」の関係に他ならず、それはもしかすると、「在日朝鮮人」と「在日韓国・朝鮮人」の関係にもつながるのかも知れない。そこには確実に、一つの民族としての自負心、団結・抵抗・闘争への意志、すなわちエスニシティとしての自覚の質の問題が横たわっている。
*아프리카계 미국인(영어: African American)은 미국에서 아프리카인의 혈통을 가지고 태어난 사람을 말한다. 이들은 영어로 Afro American 혹은 Black American이라고도 불린다. 아프리카계 미국인들 중에는 흑인인 아프리카인의 혈통 외에 유럽인과 아메리칸 인디언의 피도 섞여 있는 경우도 많다. 미국 건국 이래 미국에서 백인을 제외한 가장 큰 소수 민족이었으나, 히스패닉계에 밀려 현재는 13%로 두 번째로 큰 소수 민족으로 밀려났다. 1790년대 이들은 미국 인구의 19.3%을 차지했지만 서서히 줄어들기 시작했다. 아프리카계 미국인들은 미국 남부에 가장 많이 거주하고 있다. 하지만 북부(중서부 포함)와 태평양 지역의 공업 도시들에 이주하면서 이주한 지역에 그들의 인구가 늘어났다.

6 「在日韓国・朝鮮人」という言葉のもつ落とし穴
今日、「在日韓国・朝鮮人」という言葉が普及・浸透している現実のなかで、その言葉の使用を一挙に否定するというわけにはいかないだろう。しかし、もともと「在日韓国・朝鮮人」という言葉が、分断国家のどちらか一方に肩入れすることを避け、「在日」総体を統一的に表現する用語として使われ始めたということからするなら、実際にその言葉を頻繁に使用する者が、そうしたニュアンスで使っているかどうかが問題になってくる。
日本のマスメディアが「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使うのはさておき、在日朝鮮人(韓国人)でこの言葉を使うのは、韓国籍所持者で、どちらかというと韓国政府を支持し、あるいは少なくとも韓国政府にたいして明確な批判・反対の活動をしない者、それを日本における差別撤廃を主張する運動家に多いということはすでに述べた。ちなみに、1988年現在、在日朝鮮人の総数は約67万7000人と言われ、そのうち「韓国」籍・「朝鮮」籍の内訳は法務省が発表しないため正確には把握できないが、84年当時で、「韓国」籍約42万、「朝鮮」籍約27万人と推定されている。これを在留資格によってみると、1988年現在、日韓法的地位協定に基づく協定永住権所持者は約32万9000人であり、「朝鮮」籍が多くの部分を占めていると思われる入管法上の永住許可者(在留資格「4-1-14」)には約26万8000人である。
このことからすると、「在日」総体の統一的用語として「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使う者は、当然、「韓国」籍所持者のみならず、二十数万人に達する「朝鮮」籍所持者、あるいは在留資格の相違で言うなら、協定永住権者のみならず一般永住権者、そして永住権を持たない者、さらには「解放」直後1度本国に行って戻ってきたとか密入国などで外国人登録をしていない「滞在居住者」(数万人とも指摘されている)など朝鮮人のすべてを含む「在日」の総体について論じてしかるべきである。
日本のマスメディアが「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使うのはさておき、在日朝鮮人(韓国人)でこの言葉を使うのは、韓国籍保持者で、どちらかというと韓国政府を支持し、あるいは少なくとも韓国政府にたいして明確な批判・反対の活動をしない者、それも日本における差別撤廃を主張する運動家に多いことはすでに述べた。ちなみに、1988年現在、在日朝鮮人の総数は67万7000人と言われ、そのうち「韓国」籍・「朝鮮」籍の内訳は法務省が発表しないため正確には把握できないが、84年当時で、「韓国」籍約42万人、「朝鮮」籍約27万人と推定されている。これを在留資格によってみると、1988年現在、日韓法的地位協定に基づく協定永住権所持者は32万9000人であり、「朝鮮」籍が多くの部分を占めていると思われる入管法上の永住許可者(在留資格「4-1-14」)には約26万8000人である。
*한일 법적 지위 협정에 따른 협의 결과에 관한 각서日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書 (日管법적 지위 경정에 기초한 교리의 결과에 관한 각서)는 일본에 거주하는 대한민국 국민의 법적 지위 및 대우에 관한 일본 국가와 대한민국 간의 협정 (통칭 : 한일 법적 지위 협정)를 점령, 재일 한국인 3 세 이후의 지위 확인 및 지문 날인 문제 에 관한 일본 과 한국 사이의 협정.
*The memorandum on the results of discussions based on the Japan-Korea Legal Status Agreement日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書 ( a memorandum on the results of discussions based on the Japan-Korea Legal Status Agreement ) is Japan regarding the legal status and treatment of Korean citizens residing in Japan. An agreement between Japan and South Korea regarding the status confirmation after Korean III in Japan and the issue of fingerprint imprinting , which inherited the agreement between the country and the Republic of Korea (commonly known as the Japan-Korea Legal Status Agreement) .
このことからすると、「在日」総体の統一的用語として「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使う者は、当然、「韓国」籍所持者のみならず、二十数万人に達する「朝鮮」籍所持者、あるいは在留資格の相違で言うなら、協定永住権者のみならず一般永住権者、そして永住権を持たない者、さらには「解放」直後1度本国に行って戻ってきたとか密入国などで外国人登録をしていない「滞在居住者」(数万人とも指摘されている)など朝鮮人のすべてを含む「在日」の総体について論じてしかるべきである。
そうした観点からすると、実態は極めて否定的である。「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使って書かれている論文や記事は、少なからず「韓国」籍所持者のことについてしか触れておらず、「在日韓国・朝鮮人」の人権擁護・差別撤廃の主張も、その内実は往々にして「韓国」籍所持者にのみ限定されている。もっと単刀直入に言うなら、「在日韓国・朝鮮人」という言葉を使い、反差別の運動をする者の多くは、韓国政府に発給された旅券をもって韓国を自由に往来し、韓国政府にたいしては公の場では一切批判的言動をとらず、韓国の民主化運動については沈黙し、ましてや「北」については一言半句も発しないという者ではないかと思われる。すなわち、「在日韓国・朝鮮人」といっても、その内実は「在日韓国人」であり、さらに言うなら、韓国という国家権力の体制内にある者のみを対象にしているのではないかと思われる。換言するなら、「在日韓国・朝鮮人」の「・朝鮮」という部分は、「在日」全体について考え、行動していることをアピールする修飾語、「ポーズ」にしか過ぎない。詩人の金時鐘は次のように述べている。
「「在日韓国・朝鮮人」などと、さもそれが現実に即した同等の扱いのように並称させられて久しいが、二つもの国籍をこのように並称させられるようになった直接のきっかけは、在日朝鮮人の生活権、生存権をなおざりにして、”国交の正常化”を取りつけた。「韓日条約」の締結である。それだけに、この並称の内実には対立、反目を当然視する分断固定の思想ともいっていい。おそろしいほどの思惑がまといついている。日本での定住を自明としていながら、なお「韓国」、「朝鮮」に擦り寄っていねばならない従属の生を、私は拒否する。「在日」を生きる私の主導的な意志からすると、「在日」の符丁とさえなっている「チョウセンジン」という陰にこもった呼び名は、「朝鮮人」という同じひびきの中でこそ回復されるべき名誉であり、友情であり、愛でさえあると思っている」(「「在日」のはざまで」立風書房、1986年、489-490頁)。
*金 時鐘(김시종、1929年1月17日 - )は、在日朝鮮人の詩人、朝鮮文学者。
ともあれ、今日、日本では、在日朝鮮人のみならず、ジャーナリズムを中心とする日本人も「在日韓国・朝鮮人」と併記して、いまや大流行である。なかには「学問研究」(?)の分野で、「戦前における在日韓国・朝鮮人に関する調査」(「韓」第107号、韓国研究室、所収)という題名まで登場するまでになっている。在日朝鮮人はいつから自らの意志で、「朝鮮人」「韓国人」に分断されたのか。「朝鮮」籍に切り替えれば、ただちに「朝鮮人」から「韓国人」に変貌するというその実体はいったい何なのか。さりとて、祖国分断の現段階において、旧ソ連邦の同胞が「高麗人(コリョ・サラム)」と言っているのを真似て、「在日高麗人」と呼ぶわけにもいかないだろう。
このように考えれば、在日朝鮮人の呼称はやはり歴史的存在という観点で問い直してみるしかない。すなわち、「在日」の問題は「「在日朝鮮人」という原点」(金明植「韓日関係史における在日同胞の人権問題」、「RAIK通信」第6号、1989年5月、所収)から捉えるしかなく、したがってその呼称も、基本的には「在日朝鮮人」でしかないと言ってもよい。もしどうしてもそれに違和感をもつのなら、「在日韓国人」ではなく、「在日韓人」という言葉を使うべきであろう。しかも、そうした言葉には当然、日本国籍を取得した朝鮮人(韓人)も含まれてしかるべきである。
ただ現在では、1991年4月に日本で開かれた世界卓球選手権大会に、南北朝鮮が「統一チーム」をつくって「コリア(KOREA)」という選手団名で出場した結果、「コリア」あるいはまた同年9月に南北朝鮮の国連同時加盟が実現し、日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化交渉も進展するなかで、事実上「二つの朝鮮」が現実のものとなり、今後、「コリア」「コリアン」がやむを得ない選択肢として登場するということもありうる。しかし、いずれにしろ、在日朝鮮人は、歴史的にも、社会的にも、あくまで「一つ」であり、分断的・二分法的思考を極力戒めなければならないことは言うまでもない。しかも、その「在日」は、「国家」「国民」「国籍」概念のもつ抑圧性と闘っていくとき、その存在を真に輝かせていくことができると言えよう。

VI 置き去りにされた「在日」-在日朝鮮人の法的地位ー
1 韓国大統領の訪日と「在日」の処遇問題
韓国の盧泰愚大統領が1990年5月24日から3日間、「過去の清算」という日本にとっては重い課題をもって、日本を公式訪問した。それは日本の植民地支配という歴史を背景に、1965年の日韓基本条約の締結後、経済を中心にあらゆる分野でモノとヒトの隣人関係が深まっている現実にもかかわらず、なおも韓国国民の対日不信感が解き切れないまま、期待と不安が交錯するなかでの訪日であった。そこでは旧ソ連・東欧圏を中心とする激変する国際情勢のなかで、「対等なパートナー関係」の確立がめざされたが、その最大のハードルは、代替わりした天皇の「お言葉」に象徴される日本の過去への謝罪であった。
宮中での晩餐会で、天皇は「わが国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛借の念を禁じえません」と述べ、韓国国民はいつまでも過去に束縛されていることはできません」、「真正な歴史認識に基づいて過去の過ちを洗い流し、友好協力の新たな時代を開かねばなりません」と、天皇の発言を「きわめて意味深いこと」と評価した。
天皇の謝罪については、憲法上、「象徴天皇」の政治的発言は認められないとする自民党首脳その他からの反発や慎重論が渦巻いたが、そうした主権は韓国国民の世論や「在日」を含む朝鮮民族にはいささかの説得力ももたないものであった。
もとより、植民地統治下の朝鮮人は、当時の大日本帝国憲法の適用を受けず、天皇によって「日本臣民」とされ、天皇に直属する朝鮮総督の支配下に置かれた。しかも日本敗戦後は、南北朝鮮であれ、「在日」であれ、ともに朝鮮人は1947年5月3日に施行された日本国憲法の枠外にあった。つまり朝鮮人は、これまで一度も日本の憲法の適用を受けたことはなく、したがって朝鮮人が日本に「過去の清算」を求めるとき、天皇が直接に謝罪すべきことは理の当然であった。いずれにしろ、天皇の「お言葉」によって「過去の謝罪」についてはいちおう「一区切り」がついたとされ、マスコミを含む日本側の一般的関心は、「過去の清算」にからむ具体的懸案の解決という課題に移っていった。
ここで「過去の清算」にからむ具体的懸案とは、在日朝鮮人の処遇、在韓被爆者の治療・援護、サハリン在住朝鮮人の母国訪問・帰国などの問題を意味したが、そのなかでも在日朝鮮人の処遇の問題が、日韓両政府にとって最も大きな懸案事項であることは、大統領訪日を前にその「障害」として「妥協」を急いだ「協定3世」問題の政府間協議をみても明らかであった。
1965年に日韓基本条約と同時に締結された「日韓法的地位協定」(日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定)」(66年1月17日発効)では、いわゆる協定永住第3代の地位について「この協定の効力発生から25年を経過するまでは協議を行なうことに同意する」とあり、日韓両国政府にとっては、そのタイムリミットを前に政府間協議が既定の問題として差し迫っていた。つまり、日韓法的地位協定によって2代目まで認められていた協定永住権は、3代目以降は白紙のままであり、それをめぐって在日朝鮮人の反差別の市民運動を核に、日韓双方ですでに数年前から議論がたたかさわされてきた。そこに天皇の代替わりや日本の国内政局の混乱で延び延びになってきた韓国大統領の訪日問題が重なり、いやおうなく「協定3世」(協定永住第3代)、さらには在日朝鮮人の処遇問題全般が日韓間の重要関心事として位置付けられてきた。
1988年現在、日本国籍をもたない在日外国人の約72パーセントは「韓国」「朝鮮」籍所持の在日朝鮮人で、その数67万7140人であった。そのうち日韓法的地位協定による協定永住者は32万8934人、その他の永住者(「入管法出入国管理及び難民認定法)」上の在留資格「4-1-14」、その多くは第22条第2項に基づくいわゆる特例永住者であるとみられるが)26万8642人であった。協定永住者はすべて「韓国」籍所持者であり、その他の永住者は「朝鮮」籍が多くを占めていると思われるが、「韓国」籍所持者も少なからず含まれていた。
在日朝鮮人の中にはこれら永住者の他にも、サンフランシスコ講和条約発効の日に日本国籍を剥奪されたまま在留資格・在留期間が未決定の「法」26-2-6」該当者が1万7541人、その子供で3年ごとに入管法上の在留資格「4-1-16-2」の更新を必要とされる特定在留者が2207人、さらにその子供(法126-2-6孫)で法務大臣の自由裁量に委ねられる入管法上の在留資格「4-1-16-3」の特別在留者が1万4911人おり、法的地位がきわめて複雑であった。換言するなら、在日朝鮮人は歴史的に、世代を重ねるごとに日本における法的地位が不安定になっていく構造のなかに組み込まれていた。
*샌프란시스코 강화 조약(영어: Treaty of San Francisco, Treaty of Peace with Japan, San Francisco Peace Treaty, 일본어: 日本国との平和条約 니혼코쿠토노헤이와조야쿠[*]→일본국과의 평화 조약)은 1951년 9월 8일 미국 샌프란시스코 전쟁기념 공연예술 센터에서 맺어진 일본과 연합국 사이의 평화 조약이다.

2 日韓両国政府は「在日」抑圧の「共犯者」
日本帝国主義の所産である 在日朝鮮人は、日本の敗戦後も日本国籍の所持者であったが、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効を契機に、法律によらない法務府民事局長通達で一方的に日本国籍を剥奪され、事実上無国籍・無権利の「外国人」とされてしまった。ここで、サンフランシスコ講和条約は言うまでもなく、日本帝国主義のアジアに対する植民地支配・侵略戦争の歴史的責任を清算するものではなく、アメリカを中心とする連合国との間で戦争の終結をはかるものであった。そのなかにあって、在日朝鮮人は、祖国が南北に分断されたのみならず、米ソ冷戦下の朝鮮戦争で筆舌に尽くしがたい苦痛を味わう一方において、GHQ占領下の「外国人登録令」を引き継いで講和条約発効と同時に公布された「外国人登録法」(法律125号)、「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基づく外務省諸命令の措置に関する法律」(法律第126号)などの法体系のもと、なんらの在留資格も法的保障もない存在とされた。つまり、日本の戦争遂行の過程において酷使され、塗灰の苦しみを味わった在日朝鮮人の側からするとき、指紋押捺に象徴される「外国人」とされることにおってそにお処遇は日本の「国内問題」ではなく、「外交問題」(1951年10月から日韓予備会談開始)へとすりかえられようとし、日本と南北朝鮮の外交関係の不在も関連して、日本国家による制度的差別が「合法的」なものとして押し付けられた。
平成24(2012)年7月9日、外国人登録法が廃止され,新たな在留管理制度が導入されました헤세이 24 년 7 월 9 일에 외국인 등록 법이 폐지되고 새로운 재류 관리 제도가 시작되었습니다The Foreign Resident Registration Law was abolished on July 9, 2012, and a new residence management system began.
*ポルトガル語→Registro de estrangeiro (外国人登録일본의 외국인 등록, gaikokujin tōrokuРегистрация иностранца в Японии) era um sistema usado para registrar informações sobre estrangeiros residentes no Japão . Foi tratado no nível municipal , paralelamente (mas separadamente) aos sistemas koseki (registro familiar) e juminhyo (registro residente) usados ​​para registrar informações sobre cidadãos japoneses.

さて、自由主義陣営に組み込まれた日本と韓国は、アメリカの助言のもとに外交関係樹立のための日韓会談を繰り返したが、そこにおいて在日朝鮮人(在日韓人)の問題はつねに大きな議題となった。しかし、李承晩ついで朴正煕に率いられた韓国政府の在日朝鮮人にたいする対応は、なによりも反共イデオロギーを優先させた祖国・大韓民国への忠誠の強要であった。事実、大韓民国樹立前の1947年に実施された最初の外国人登録ではすべての在日朝鮮人の国籍表示は「用語」としての「朝鮮」とされていたが、それをいかに「大韓民国(韓国)」に切り替えさせるのか、あるいは「北韓の共産主義者」の支配下にある在日朝鮮人の自主的民族教育をいかに規制・抑圧するのかといったことが日韓会談その他における韓国側の大きな関心事であった。
こうしてようやく1965年に日韓基本条約が締結され、同時に在日朝鮮人(韓国人)の処遇に関する日韓法的地位協定が結ばれたが、そこにおいて在日朝鮮人の権益は日韓の取り引き材料とされ、とくに韓国独裁政権の棄民政策の犠牲とされてしまった。日本側からするとき、日韓基本条約その他の協定には、過去の植民地支配についての日本政府の歴史的責任が明文化されておらず、それは当然、日本の戦後処理・戦後責任を曖昧にさせ得るものとなった。すなわち、「日韓条約」によって、「一つ」の歴史的背景のもとに形成されてきた「在日」は、「協定永住者」と「その他の者」の二つの法的に分離され、そこにおいて処遇の格差が合法化された。のみならず、日韓の共謀のもとに韓国の反共イデオロギーが持ち込まれ、在日朝鮮人全体が韓国政府の意図のもと、日本政府によって抑圧されるという構図が作り上げられた。そこはいわば、日本と結託した韓国の独裁政権の利益を貫徹しつつ、日本が在日朝鮮人に対する歴史的責任から免れると同時に、在日朝鮮人を「外国人」として管理・抑圧しようとする構図であった。
事実、日韓条約で日本政府はあたかも”白紙委任”を得たかのように、1966年から在日本朝鮮人総連合会(総連)の民族教育規制に標準を合わせた三度にわたる「外国人学校法案」の国会上程、さらに69年から四度にわたる「出入国管理法案」の国会提出と、在日朝鮮人に対する抑圧を執拗に繰り返した。しかも、日韓請求権・経済協力協定2条で「財産、権利及び利益並びに・・・請求権に関する問題が、・・・完全かつ最終的に解決されたこと」を「確認」したことによって、戦争犠牲者援護制度や各種の社会保障制度から在日朝鮮人を排除してきた日本政府は、戦後補償問題はすべて終決したという立場を取り続けることになった。実際、法的地位協定によって「妥当な考慮を払う」とされた処遇の内容も、教育、生活保護、国民健康保険の三つにしか過ぎず、しかも、その教育とは、日本の公務員による同化教育に他ならなかった。
もとより、日韓法的地位協定は、それ自体「同化・帰化」の観点から策定されたものである。日本政府にしろ、韓国政府にしろ、在日朝鮮人は早晩日本社会に埋没してしまうべき、あるいは埋没させるべき存在であり、協定永住第3代を空白にした「協定永住」は、そのためのプロセスにしか過ぎなかった。ましてや「協定永住」を拒否するその他の在日朝鮮人は、日本政府からするとき、法務官僚がいみじくも語ったように、「煮て食おうと焼いて食おうと自由」であった(池上努「法的地位200の質問」1965年11月)。韓国政府も在日同胞を保護するどころか、かえってその反共的・独善的施策で在日同胞社会に混乱と対立をもたらし、在日権益擁護団体であるはずの在日本大韓民国居留民団(民団)を時の政権の御用団体に仕立てあげた。事実、日本全国に張りめぐらされた民団組織は、独裁政権に追随する異質組織、さらには多額の団費を徴収する旅券発給の下請け・監視機関と化していったといっても過言ではない。換言するなら、「在日」は、日韓両国政府によってつねに治安の対象として位置付けられ続けた。
けれども、こうした法的に二分され、分断を強要された「在日」は、1970年代、80年代と、世代の
交代を加速させながらも、「朝鮮人」あるいは「韓国人」としてたくましく生きてきた。総連に比して「同化・帰化」の傾向が相対的に強いと言われる民団の意識調査をみても、「帰化を強く思う」のは3・4パーセントにしかすぎず、同胞同士の結婚を望むというのが67パーセントを占めている。しかも、日本社会での被差別体験が90パーセントにのぼり、法的地位の現状に不満をもつ者が87パーセントに達するのをみても、いかに在日朝鮮人にとって日本社会が排外的・差別的なままであり続けているかが了解される(「統一日報」1986年9月6日)。現実に、「在日」の定住化が進むなかで、国際人権規約・難民条約その他の「外圧」で、公営住宅の入居や国民年金の加入などの差別が撤廃されたとはいえ、今日なお「在日」は、「国籍条項」等によってさまざまな差別的処遇を余儀なくされている。

3 「在日」の処遇は日本の「内政問題」
在日朝鮮人の法的地位の問題は、当然のことながら当事者である在日朝鮮人にとっては深刻な問題である。1965年の日韓交渉のときには、当事者不在ということで在日同胞社会から稚逸(民団団長)が唯一オブザーバーの資格で法的地位委員会に出席したことがあるが、日韓両政府の交渉の席には入れなかった(「統一日報」1989年5月27日)。もとより石原莞爾の東亜連盟論に感銘を受け、「満州」判事を務めた人物が、形ばかりであったとしても在日韓国人の「代表」とされたことが不幸である。いずれにしろ、「協定3世」問題にむけて、在日朝鮮人(韓国人)はかなり早い時期から関心をもち、さまざまな啓発運動を展開するとともに、韓国政府にも種々の提言をおこなってきた。そこには在日の権益が無視されたかつての日韓交渉と同じ轍を踏まれてはかなわないという意識があり、事実、在日韓国青年会中央本部をタテに、韓国政府はやはり在日同胞の代表者を政府間協議に参加させず、ただ韓国政府に忠実と思われる5人の代表を選んで詰問委員に委嘱し、在日同胞の意見・要求を聞き、検討するという体裁をとっただけである。
もっとも「外交交渉」云々ということからするなら、在日朝鮮人を一方的に「外国人」とし、その法的地位等の処遇問題を「外交問題」にすり替えた日本政府の態度こそがまず問題とされるべきであった。戦前から居住し、あるいはその子孫である在日朝鮮人(韓国人)の意見・要求を無視し、ただ韓国籍所持の協定永住者ということで韓国政府との「外交交渉」で決着をつけようとするのは、あまりにも在日朝鮮人の歴史性と居住の実態を無視した独善的対応というしかない。
在日朝鮮人は「朝鮮」籍であれ「韓国」籍であれ、南北の分断国家が樹立される以前から日本で生活を営んでおり、現実に南北いずれの選挙権も持っておらず、その法的地位等の処遇は事実上日本政府の統治権の枠組みの中にあるものである。つまり、在日朝鮮人の間で協議されるべき性質のもので、日本の国内法によってその基本的人権が保障されるべき「内政問題」である。にもかかわらず、日本政府がつねに在日朝鮮人の処遇を「外交問題」に転化し、二国間協定で「解決」しようとするのは、それが植民地支配・侵略戦争に対する責任を曖昧にする「方便」であることを熟知しているからに他ならない。そこには当然、「対等なパートナー関係」には程遠い、日韓両国政府の歴史的関係がある。
ただ、先の「協定3世」問題をめぶる日韓両国の動き、とくに世論の動きは日韓基本条約の時とはかなり違っていた。1965年当時、日本の場合には、日韓法的地位協定の内容に対して、たとえば「朝日新聞」は社説で「子孫の代まで永住を保障され、しかもそのように広範囲な内国民待遇を確保するとなると、将来この狭い国土のなかに、異様な、そして解決困難な少数民族問題をかかえ込むことになりはしまいか。出入国管理上の、一般外国人の取扱いに比してあまりにも”特権的”な法的地位を享受することが、果たして在日韓国人のためになると、一概に決めこむことが出来るかどうか」(1965年3月31日)とまで論じる有様であった。一方、独裁政権のもとにあった韓国では、たとえば「朝鮮日報」が「政府は韓日交渉を進める理由として、60万名にのぼる在日僑胞の生活権確保を強調していたにもかかわらず、詳細な内容はいまだに明らかにしないばかりか、抽象的な表現ばかりで疑問を抱かざるを得ない」(1965年3月7日)と主張したように、全体として在日朝鮮人の処遇の問題は最後まで曖昧なままに済まされてしまった。
その点、国際間の交流が地球規模にまで広がり、日本と韓国の関係も密接になってきた今日においては、日韓双方における在日朝鮮人に対する認識はまだまだ不十分であるとはいえ、少なからず改善され始めてきたと言える。韓国の場合、そこには「韓日条約・・・在日同胞にとって「棄民政策」であったという事実を四半世紀過ぎた後に初めてわかるようになった」(「李鍾秀「日本人、彼らは誰なのか」、「全南日報」1990年3月16日」という反省があったと見てよい。
もっとも、「協定3世」、さらには在日朝鮮人全体の処遇問題がかなりの程度に日本の社会・政治問題として論じられるようになった基本的要因は、やはり当事者である在日朝鮮人、とりわけ若い2世、3世の死活をかけた闘争にあったと言ってよい。日本に住み続けることが自明である若い在日の世代にとって、法的地位を根幹とする処遇の改善を勝ち取ることは、即、「在日」としての自己のアイデンティティを確立することにつばがる闘争である。それだけに在日同胞を見殺しにしてきた韓国政府も、今回は在日朝鮮人(韓国人)に関心を抱いているというポーズだけは見せないわけにはいかなくなった。
いま、在日同胞の突き上げを受けて、当初韓国政府が日本政府に要求した内容をみると、「特殊な歴史的経緯、日本社会への定着性、人種の観点から、日本人に準じた地位・待遇を付与されるべきだ」と主張し、(1)子々孫々まで自動的に永住権付与、(2)退去強制の廃止、(3)再入国許可制度の不適用、(4)指紋押捺義務・外国人登録証常時携帯義務の廃止、(5)地方自治体職員への採用、政府の積極的関与、(8)民族教育に対する行政的・財政的支援、(9)地方自治体の選挙権・被選挙権を認める、ことであったとされる(「読売新聞」1990年1月5日)。これらの要求項目は、単に「協定3世」に限定されるものではなく、戦後日本を生きてきた在日朝鮮人がその生活のなかから切実に求め、すべての「在日」に適用されるべきだとするものであった。実際、内外人平等の原則からするとき、これらの要求項目はすべて、すでに実施されていてしかるべきものばかりであった。にもかかわらず、日韓協議の過程において日本政府はこれらの要求に対して強い難色を示し、大統領の訪日予定日が近付いてくるや、韓国政府も態度を一変させ、体制を整えるために「妥協」の道を選んでしまった。

4 日韓協議「合意」の不当性
訪日を前にして、韓国の盧泰愚大統領は「在日同胞3世の永住権問題を含む法的地位問題、原爆被爆者補償、サハリンの同胞帰者問題、慢性的な対日貿易赤字問題などの懸案に対して私の訪日で決着がつかねばならない」と述べ、「もし決着がつかないならば訪日を再検討し得る」と強調し、とりわけ「在日3世の法的地位問題の解決」に力点を置いたという(「毎日新聞」1990年2月7日)。そして、日韓双方でマスコミが騒ぎ、各界の著名人が署名・提言をおこなうなかで、政治家や政府高官が東京・ソウルを頻繁に往復した。にもかかわらず、その結果、4月末ソウルの日韓外相定期会議の席上で原則的に合意された「妥協」の内容はあまりにも貧弱なものであった。
日韓外相協議による在日韓国人の法的地位協定第2条(3世以下の子孫)についての「合意文書」は次のとおりであった(「毎日新聞」5月1日)。
【在留資格】簡素化した手続きで、羈束的に(裁量の余地なく)永住を認める。【退去強制】退去強制事由は内乱、外患の罪、国交、外交上の利益にかかわる罪、およびこれに乗ずる重大な犯罪に限定する。【再入国許可】出国期間を最大限5年とする【指紋押捺】3世以下子孫の立場に配慮し、これを行なわないこととする。このため指紋押捺に代わる適切な手段を早期に講ずる。【外国人登録証の携帯】3世以下子孫の立場に配慮した適切な解決策を見いだす。【その他】(民族)教育問題、地方自治体公務員および教師の採用問題、地方自治体選挙問題等については、今後とも協議を続けていく。
新聞報道をみると、海部首相は韓国世論に配慮して、最大の焦点になっていた「協定3世」以降の指紋押捺問題について、法務・警察両省庁の反対を押し切って、事実上適用を除外する決断をしたという。実際「合意文書」が発表されるや、法務省・警察庁は早速指紋押捺の代替手段の開発を急ぐとか、外国人登録は”最後の砦”であるとか言い出し、「3世以下」の法的地位・待遇の「改善」が、「協定1・2世」や他の在日朝鮮人、さらにはその他の在日外国人の法的地位・待遇の見直し、つまり「在留外国人の公正な管理」(外国人登録法第1条)のあり方の見直しにつながりかねないと強い警戒感を示した(「朝日新聞」5月2日)。そこには、自民党治安対策特別委員会が在日韓国人3世問題について、「治安問題は行政上の問題であって、政治問題ではない」(「朝日新聞」4月12日)と主張したように”治安からの発想”が濃厚であり、同時に”分断して統治する”という民族分裂の助長という本質があった。


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