日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Coréens au Japon<在日朝鮮人>Koreans in Japan윤건차尹健次/'재일'을 산다고는/「在日」を生きるとは/Kŏn-chʻa Yun=재일조선인Les Zainichi "Vivre "au Japon" "To live "in Japan⑥


いうまでもなく、在日朝鮮人は旅券とビザをもって日本に入国したのではなく、日本の植民地統治下において「日本臣民」として日本に渡航し、あるいは強制連行などによって日本に居住することを余儀なくされた者であり、またその子孫である。したがって在日朝鮮人形成史の基本的要因は日本の国家権力であり、そこから在日朝鮮人に対する処遇は、在日朝鮮人が存在する限りどこまでも日本政府が責任を負うべきものである。にもかかわらず、日本政府は、在日朝鮮人の処遇問題を「外交問題」に転化し、とくに戦後補償などについては「日韓条約で決着済み」という態度を取り続けてきた。しかも、日本政府は基本的には、在日朝鮮人を一貫して入管法の枠内に押し込んで管理・抑圧の対象としてきた。事実、特別法による「協定永住」といえども、大きくは入管法と連動する枠内にあるもので、それは旅券とビザをもって新規に入国した外国人旅行者に対するのと本質的にはなんら変らない扱いのものであった。
先の「協定3世」をめぐる問題にしても、法務省の若手官僚の手になる「在日朝鮮人の法的地位をめぐる諸問題の研究」(畠山学著、法務研究報告書第74集第5号、1987年)における記述からも推察されるように、法務省は原則的には、「出入国管理行政上、入管法上の永住許可制度の枠内で」処理し、「特別の協定永住許可を付与する必要はなくなる」ことを前提にしてきたと考えてよい。もちろん日本の国家権力といえども一枚岩ではない。当初議会や政府首脳筋からは好意的な扱いが感じ取られたが、いざ政府各省庁の実務レベルになると、外務省が「国際化」を背景に指紋押捺や外国人登録証常時携帯の撤廃あるいは緩和を求めたのに対し、法務省と警察庁、とりわけ警察庁が強い抵抗を示したといわれる。そこには旧ソ連・東欧圏における民族問題噴出や過去の清算への動きと関連して、在韓被爆者やサハリン残留朝鮮人問題を含む、日本の植民地支配と戦争責任・戦後責任を問い直す動きがアジアで広がりつつあるという歴史認識が欠けていた。
ともあれ、在日朝鮮人の歴史的存在性からするとき、日韓両国政府による「合意」はその根底から批判されなければならないものであった。在日朝鮮人は日本政府に永住権を申請し許可されることなく、つまり日本人と同じく、なんらの在留資格もなしに子々孫々に至るまで日本に居住する権利をもつはずである。したがっていかなる意味においても退去強制ということはあり得ず、当然のことながら内乱、外患の罪、国交に関する罪なるものは規程されているが、具体的にはいかなる判決内容がそうした条項に合致するのか不明である。ましてや戦前のように大逆罪・不敬罪はなく、またなにが外交上の利益にかかわる罪となるのかわからず、そこに法務大臣お得意の「自由裁量」が入っていることは必然である。
再入国許可について言うなら、それは不適用とされてしかるべきものである。しかも、先の「合意」では出国期間最大限2年とされていたが、日本出国時に実際に許可されるものは最大限1年で、海外で必要に応じて1年まで延長を許可されるというものにしか過ぎなかった。実際には在留資格の種類、旅券の有無、旅行の目的などを理由に出国時に1年の再入国期間が認められないことも多く、またたとえ海外で再入国期間が延長され得るとしても、1年ずつの小刻みの手続きでは、たとえば6ヶ月以上の日本への再入国期間が残っていないと第三国へのビザ申請が拒否されるなど、思わぬ困難に遭遇することになった。つまり、再入国許可の出国期間が最大限5年という限り、再入国許可を必要としない日本のパスポートの有効期限が5年であることからしても、日本出国時に最初から5年間の再入国許可(数次)を出してこそ意味があるものである。ついでに言うなら、韓国のパスポートを所持しない「韓国」籍・「朝鮮」籍の在日朝鮮人、および「有効な旅券」を持たないその他の外国人に交付される「再入国許可書」は早急に改善されなければならず、とりわけ在日朝鮮人などの「定住外国人」には「定住外国人専用・日本国旅券」といったようなものが発給され、自由に諸外国を旅行できるように取りはからわれてしかるべきである(拙著「再入国許可書」と渡航の自由へ、「世界」1990年1月号、参照)。

5 「在日は一つ」の基本原則
今日、在日朝鮮人の圧倒的多数は、日本で生まれ育った2世・3世・4世である。「一つ」の歴史的背景のもとに暮しているそうした「在日」は、しかし現実には、国籍別では「朝鮮」「韓国」「日本」と、また在留資格別では長いあいだ、「協定永住」「入管法4-1-14」「法126-2-6」などと、様々であった。つまり、一つの家族として生活をともにしていても、その法的地位はばらばらであり、夫婦で、また親子で、さらには子供どうしで処遇が違うというのがごく普通になっている。それに加えて、日本には、在留資格を持たない朝鮮人、すなわち「朝鮮解放」、外国人登録の実施、南北分断、朝鮮戦争、サンフランシスコ講和条約の発効、分断の固定化という混乱の過程において家族が日本および南北朝鮮に離散し、やむなくその後日本に「密航」してきて外国人登録をしないまま数十年間生活を営んでいる、いわゆる「滞在居住者」が数万人いるともいわれている。
このように考えるとき、本来、在日朝鮮人の処遇問題は日本の「内政問題」として、入管法とは別の次元で、特別立法で措置されて然るべきものである。実際、「在日」問題の当事者は日本政府と在日朝鮮人であり、日本政府が在日朝鮮人の声を聞きながら、自主的に解決していくのが筋道である。そうしてこそ、就職や住宅入居など、日常生活のあらゆる面で厳然として存在する差別を解消していく、地道な方向性も開けてくるというものである。もちろん、その際、南北朝鮮の政府が、外交交渉その他をつうじて在日の処遇改善を側面から支援することは、「外圧」によってしか動けない、あるいは動けない日本政府に対して極めて有効なものとなるはずである。
いずれにしろ、「在日は一つ」という原則からして、在日朝鮮人の法的地位は一本化されなければならず、永住権を保障するに際しては在留資格、在留期間、退去強制、再入国期限、指紋押捺義務、外国人登録証の携帯義務、その他の制限をつけるべきではない。しかも、それは、民族教育の保障、公務員・教員としての採用、各種の差別撤廃といった具体的な処遇の改善が伴わなければならない。暗黒の生活を強いられている「滞在居住者」に対して、日本政府の温かい思いやりが注がれることもまた重要なことである。
そうしたなかで日本政府は、1991年1月10日の日韓首脳会談で確認された「日韓覚書」に基づき、指紋押捺制度については2年以内(1993年1月まで)に代替措置を実施するし、実質的に指紋押捺の廃止とそれに代わる写真・署名・家族事項の記入による外国人登録における本人確認の具体化政策を打ち出した。また日本政府はこの日韓両国政府の最終合意を受けて、1991年3月8日、国会に「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法案(入管特例法案)を上程し、4月26日に成立させた。これは在日朝鮮人の「管理」政策を一部変更するもので、一見すると「前進」と捉えられる内容となっているが、その内実はあいも変わらぬ植民地支配に対する責任の欠如と現状追認、複雑な在留資格の整理などにすぎず、根本的な問題の解決にはほど遠いものである。
この入管特例法では、なによりも、「特別永住者」という新たな永住権者を設定し、その範囲を「昭和20(1945)年9月2日以前から引き続き本邦に在留するもの」とその子孫で「本邦で出生しその後引き続き本邦に在留するもの」と規定した。これは「朝鮮」籍・「韓国」籍という国籍(表示)の違いによる差別的処遇を正当化し、在留資格を一本化したという点で評価しうるものであるが、子孫の「特別永住」は「法務大臣の許可」によるもので、在日朝鮮人の固有の「権利」として認められたものではない。しかも日本政府の従来の「見解」に従っても、旧植民地出身者が「日本国籍を喪失した」のは1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効を契機とするものであったにもかかわらず、一律に永住権を認める基準日をミズーリ艦上で日本が降伏文書に調印した1945年9月2日にすることは全く不当である。これは「特別永住者」から戦後の混乱期に起因する「滞在居住者」を排除することを意味し、日本政府が在日朝鮮人の歴史的存在性を無視していることを如実に示している。
のみならず、入管特例法では「退去強制」や「再入国許可」(当初4年以内、最大限5年)制度をそのまま存続させ、実質的に「永住権」の内実を空虚なものにし、「国籍」による差別を当然視している。そのことは、日本政府が、治安上の観点から、在日朝鮮人を退去強制させ、あるいは再入国許可自体を不許可にする「余地」を残していることを意味する。
これ以外にも、「日韓覚書」では、「地方公務員への採用については、公務員任用に関する国籍による合理的な差異を踏まえた日本国政府の法的見解を前提としつつ、採用機会の拡大が図られるよう地方公共団体を指導していく」とされたが、これは逆に、地方公共団体における公務員、とくに一般事務職への採用促進の機運を冷やす結果になっている。それは1991年3月22日の文部省通知「在日朝鮮人などの日本国籍を有しない者の公立学校の教員への任用について」が、「常勤講師として任用」と限定することによって、逆にこれまで「教論」として在日朝鮮人を採用してきた地方公共団体の足元を揺るがしているのと軌を一にするものである。そのことは、根本的にはやはり、日本政府による「在日」の民族教育否定の政策とつながるものであると言わざるをえない。
指紋押捺制度の廃止を盛り込んだ「外国人登録法」の改正案について言うなら、それは1992年5月20日に国会(参議院)で全会一致で可決、成立したが、指紋押捺廃止は在日朝鮮人・台湾人らの特別永住者のみに適用され、アジアからの出稼ぎ労働者を含むそれ以外の一般外国人を除外する差別的・分断的なものである。しかも外国人登録証の常時携帯義務を存続させるなど、外国人に対する治安的発想はいささかも改善されていないと言える。
しかも、現実問題として言うなら、日本政府が近年高まりつつある戦後補償の要求に対してまったく冷淡に対応していることは、在日朝鮮人のみならず、心ある日本人をも落胆させつつある。元日本軍の軍人遺族家族や従軍慰安婦、強制連行者、サハリン残留朝鮮人などの戦後補償の問題は、まさに日本社会が真に国際化しうるかどうかの試金石であるといえる。

6 日韓国交正常化交渉と「在日」
在日朝鮮人の処遇問題と関連して、是非とも言及したいことは、「在日」はなにも、日本政府によってのみ差別・抑圧されているのではないということである。「北」「南」「日本」の「三つの国家」のはざまで生きている「在日」は、南北の国家権力によっても大きな差別・抑圧を受けることが少なくない。もちろん、「国家」とは、本来的に、「国民」に保護を与えるものであると同時に、さまざまな局面において数々の圧迫・抑圧を加えるものである。その点、分断された南北のどちらとも必然的に深い関わりを持っている「在日」は、日常生活の要所要所において南北の国家権力から強い圧迫・抑圧を受けることになる。
先の韓協議に即して言うなら、韓国政府は当初再入国許可制度の不適用を日本政府に求めたが、韓国籍所持者が政治的理由その他で、韓国政府から旅券の発給を拒否された場合、再入国許可というのは何の意味ももたなくなる。現実には、1987年の学生を中心とする「6月抗争」とそれに続く「民主化宣言」以後、在日同胞に対する韓国政府の旅券発給は随分ゆるやかになったとされているが、それでも今日なお、さまざまな理由で、あるいは明確な理由なしに旅券の交付そして更新が拒否される事例が少なくないといわれる。実際、在日の若い世代が祖国(韓国)を見限り、日本国籍を取得していく大きな理由のひとつが、まさしくこの旅券の発給をめぐる困難であり、トラブルである。
*재입국 허가再入国許可書 (재입국 허가)는 일본 에 체류하는 외국인 이 일시적으로 외국으로 출국 (또는 모국 등에 귀국)하고 다시 일본으로 돌아올 예정이다 때 출입국 관리 를 단순화 화하기 위해 일본을 출국 전에 미리 일본 정부 로부터 부여되는 특별한 권한이다. 일본에서는 입관 법 제 26 조에서 규정하고있다.
*The Japan Re-entry Permit (再入国許可書), (or "Re-entry Permit to Japan") is a travel document similar to a certificate of identity, issued by Japan's Ministry of Justice. It is a passport-like booklet with a light brown cover with the words "再入国許可書 RE-ENTRY PERMIT TO JAPAN" on the front.

その点、1988年7月の「7・7宣言」で「南北の対立はない。相互の信頼を回復し、統一の道を歩もう」と述べた盧泰愚大統領は、なによりも同じ民族共同体の一員としての在日同胞に責任をもたなければならず、その言葉は旅券発給の下請け・監視機関と化している観のある民団のあり方、そして旅券発給業務における反民族的行為に対する反省につながらなければならないはずである。ついでに言うなら、近年、「在日」(韓国系)による処遇改善運動がますます活発に展開されつつあるが、そこでは韓国政府への批判的視線が弱々しく、その内実も「韓国」籍、さらに韓国のパスポートを持って自由に韓国を往来する人びとに限られているかのような印象を与えることが気にかかる。「在日」とは、「韓国」籍・「朝鮮」籍・「滞在居住者」のすべて、時には日本の国籍を取得した朝鮮人までもが含まれる概念であり、それは現実には「三つの国家」のはざまで、時と場合によっては国家権力と厳しく対決してこそ成立するはずのものである。
「在日は一つ」ということからするなら、在日朝鮮人の処遇問題に対する総連の対応も気になってくる。総連は先の日韓協議に際して、「協定永住者」だけを対象にするのは不当であると、日本政府に対して独自の要求を行なった。すなわち、(1)強制連行、強制労働、被爆者の実態を明らかにせよ、(2)朝鮮総連への敵視政策をやめよ、(3)朝鮮民主主義人民共和国の国籍の権利を尊重せよ、(4)外国人登録法を抜本的に改正し告発をやめよ、(5)在留権を保障し、出(再)入国の自由を保障せよ、(6)民族教育の権利を保障し、JR通学定期券の差別をなくせ、(7)商工業者に対する差別をなくし、営業上の権利を保障せよ、(8)社会保障や社会生活における民族差別をやめよ、などである(「朝鮮時報」1990年4月5日)。
こうした総連の主張はいちおうもっともなものであり、それは1991年1月に開始された日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化交渉においても基本的には踏襲されている(同胞生活相談シリーズ⑧「朝・日国交正常化と在日朝鮮人の処遇」在日本朝鮮人総連合会、1991年4月、参照)。
けれども、これまでの歴史をみるとき、若い世代が在日の多数を占め、その価値観を多様化しているなかで、差別撤廃や処遇問題に対する総連の対応は弱く、しかも「在日朝鮮人」云々と言いながらも、その実、「韓国」籍所持者を軽視している傾向がみられたと言ってよい。民団が韓国政府に追随すれば「在日」が不幸になるのと同じように、総連が共和国政府に追随する政策をとり、定住化の著しい在日朝鮮人全体の実態を軽視するなら、やはりそれは「在日」の不幸につながると言わざるをえない。その意味では、これまで「在日」の法的地位が主として日韓関係によって規定されてきたなかで、共和国政府が日朝国交正常化交渉でいかなる態度を示していくかが大きな関心事とならざるを得ない。共和国政府が真に「在日」の権利を擁護する方策を貫徹していくのか、あるいは日韓条約のときと同じように、本国(共和国)の利益を優先させて「在日」を切り捨てる方向に進んでいくのか、在日朝鮮人にとっては大きな分かれ道ともなりうる。それと関連していうなら、「解放後」の長い歴史において築き上げられてきた総連の自主的教育も、今後は共和国の「国民教育」としてではなく、文字どおり「在日」の「民族教育」として、さらに発展させられてしかるべきであると思われる。
こうしたなかで、南北朝鮮の国連同時加盟という、事実上「二つの朝鮮」ともいうべき新たな事態の推移とも関連して、今後、「在日」の国籍問題か日韓国交正常化交渉においてどう扱われるかが大きな関心事とならざるをえない。現在の「朝鮮」という国籍表示(用語)の所持者のなかには、朝鮮民主主義人民共和国を祖国とし、そこにアイデンティティをもつ者が多くいるものと思われる。しかし中には、植民地時代からの文字どおり「朝鮮半島」出身という意味で「朝鮮」をそのまま保持している者もおり、また反共・独裁のイメージが強い「韓国」を嫌って、共和国支持ではなく、「統一朝鮮」という意味で「朝鮮」の国籍表示をそのままにしている者も少なくないと思われる。
したがって、私見では、日朝国交正常化のあかつきには、日本政府は当然「朝鮮民主主義人民共和国」という新たな「国籍」を認めるはずであり、希望者は日本の外国人登録に際しては、それを「選択する」ことによって共和国国籍の所持者となるべきである。当然、共和国政府は、「朝鮮民主主義人民共和国」を選択した在日朝鮮人すべてに、共和国の旅券を無条件に交付する義務を負う。換言するなら、日朝国交正常化によって、現在の「朝鮮」という「用語」(国籍表示)が、自動的に「朝鮮民主主義人民共和国」の「国籍」にはならないということである。「在日」の歴史に即して言うと、日本政府が勝手につくった「朝鮮」という「用語」(国籍表示)から、かつて選択することによって「大韓民国」(「韓国」)を選びとったと同じように、希望者は選択することによって「朝鮮民主主義人民共和国」の国籍を取得すればよい。それは当然、南北の国家を選択しない「在日」(「朝鮮」)という国籍表示が、実質は無国籍、日本の「市民」、日本政府発行の旅行証明書等の渡航文書で南北朝鮮にも往来)という独自の存在を認めることにつながるが、「韓国」籍の場合も、韓国政府の旅券を所持しないかぎり、実質的には、「特別永住者」という名の「在日」(無国籍者)であるとみなしてもよい。もっとも、日朝国交正常化が実現し、在日朝鮮人が「北」あるいは「南」の旅券を選択的に所持できるようになれば、「大韓民国」から「朝鮮民主主義人民共和国」、あるいは逆に「朝鮮民主主義人民共和国」から「大韓民国」への国籍表示という、国際法上当然許される「個人の権利」を「北」「南」「日本」が相互に認めあうということになるはずである。
実際、日本の外国人登録法第2条では、「日本の国籍以外の2以上の国籍を有する者は、この法律の適用については、旅券を最近に発給した機関の属する国の国籍を有するものとみなす」と定めている。出生後一度も参政権を行使したことのない「在日」は、「国籍」という自らの基本的な法的地位については、せめて「北」から「南」かの選択権を行使しえてしかるべきである。ついでにいうなら、いったん日本国籍を取得した在日朝鮮人(「帰化朝鮮人」)が、日本に居住したまま、「大韓民国」ないしは「朝鮮民主主義人民共和国」の国籍をとることも、国際法上当然認められてしかるべきである。
もっとも、日本が南北朝鮮と外交関係をもち、さらにいつの日にか南北の統一政府が樹立されたとしても、それで在日朝鮮人の国籍や日本での法的地位の問題のすべてが解決されるとは思われない。そこには「在日」と世界システムとしての「国民国家」の関係をいかに調和・解決していくかという、大きな課題が残されるはずである。
ともあれ、旧ソ連・東欧圏での世紀の大変動、南北朝鮮の国連同時加盟、日朝国交正常化交渉の進展といった今日の情勢のなかで、日本と南北朝鮮、「在日」との関係も新しい枠組みを模索していかざるを得ない。とくに日本が世界において重要な役割を今後果たそうとするのなら、まず自らの「過去の清算」を明確にすることが前提となる。しかも、その出発点は、他ならぬ在日朝鮮人に対する処遇の改善である。そのなかにあって、在日朝鮮人自身、「在日」を生きるが故に、これまで以上に、自らの法的地位の改善に奮闘すべきことが求められると言ってよい。
VII 「在日」を生きるとはー「不遇の意識」から出発する普遍性ー
1 「戦後民主主義」のなかの「不遇の意識」
ここ数年間、世界は激しく揺れ動いている。旧ソ連・東欧・中東に吹き荒れた風はなおも続き、それぞれの社会内部の現実がむき出しになりつつある。そのなかにあって、権力支配層はもちろんのこと、被抑圧の民衆も、秘めた野心を渦巻かせながらも、次の一歩をどう踏み出すべきかと迷っている。各地の「民族紛争」にみられる途方もないエネルギーの発動にもかかわらず、いまだ誰もが、新しい理念を獲得できず、めざすべき目標も見えてこない。しかも、そうした動きは、世界最後の分断国家朝鮮にも徐々に、しかし着実に影響を及ぼしはじめている。

こうしたなかで、いま在日朝鮮人も、大きな転換期を迎えながら、頼るべき理念も、到達すべき目標も持ちえないでいる。もとより、在日朝鮮人は、日本そして朝鮮の歴史と社会の矛盾の集約であり、それを包括する一律的な原理や思想があるわけではない。今日の世界を特徴づける国家・民族・体制・個人といった命題がそのまま在日朝鮮人の問題であるにしても、孤立・分散化を余儀なくされている「在日」にとって、そうした問いの発し方自体がすでに困難となっている。つまり、「在日」を包括する絶対的な原理や発想がないなかで、「在日」の問題はやはり、「在日」の過去と現在の状況から出発する他ない。
近年、在日朝鮮人の生き方とその思想的根拠について意見を提出することは、世代交代の積み重ねと政治・社会情勢の複雑化などの理由で、ますます難しくなっている。一般的には、在日朝鮮人の生き方としては、これまでほぼ三つの類型が立論されてきた。「祖国」志向型、「同化」志向型、「在日」志向型の三つであるが、在日朝鮮人の複雑な存在条件と、そこから生まれる生活実態ならびに思想的営為からするとき、こうした図式的な範型化はほとんど意味をなさなくなっている。実際、在日朝鮮人は今日、好むと好まざるにかかわらず、「北」「南」「日本」の「三つの国家」のはざまで生活を営んでいる。南北の祖国と日本を分離した生き方を絶対化することはまだまだ非現実的である。
ここで「在日」という言葉について確認しておくと、これは1世から2世・3世への世代交代を背景に、在日朝鮮人の若い世代が、自らの主体をあらわす呼称として1970年代後半から用いはじめたものである。この言葉のもつ主張はけっして一様ではなく、さまざまな傾向を帯びているが、少なくともこの言葉を真っ先に使いはじめた人びとは、従来の「祖国」志向の人びとに批判的な立場で、「在日を生きる」という主張を展開した。その意味では、この「在日」という言葉は、当初は「祖国」にたいする対立概念であるという思想性をもっていた。しかし、実際には「在日を生きる」と主張した人びとが現実生活において祖国と断絶した生活を営んだわけではなく、近年においては、「在日」という言葉はますます、「事実としての在日」を言い表す言葉として浸透していると言ってよい。
「在日」という言葉が使われだした1970年代後半というと、日本では「石油ショック」を経て、新たな経済成長の道をひた走っていた時期である。そうした状況のなかで、在日朝鮮人社会も多様化の様相を示しはじめ、2世・3世が前面に現われはじめた。1945年8月の「解放」後、在日1世の仕事といえば、土方、飯場、沖仲仕、古鉄回収業などの肉体労働しかなく、その後しばらくして、遊技業や飲食業、その他のサービス業などへの進出がはじまった。1世は農村的で純朴な者が多く、多くが非識字でありながら、民族的な慣習や礼儀作法を大切に守りとおした。それに対して、2世・3世になると、高校卒業以上の学歴を持つ者が大部分となり、都会的でモダンなタイプが多数を占めた。1世が「朝鮮人部落」を形成して生活を営んだのとは違い、2世・3世は孤立・分散化の傾向を強め、民族学校に学んだ一部の者を除いて、その多くが朝鮮語ができないまま、当然のように日本語を生活言語とした。
*일본어(일본어: 日本語 니혼고, 닛폰고[주해 1], 이 소리의 정보듣기 (도움말·정보))는 주로 일본에서 사용되는 언어이다. 줄인 말로 일어(日語, Riwen, Tiếng Nhật)라고도 한다. 문자는 히라가나 가나와 한자(일본어: 漢字 칸지[*])를 사용한다. 일본의 사실상 법적 공용어이다. 주로 일본인이 사용한다 일본에서 태어나고 교육 받은 대부분의 사람은 일본어를 모어로 한다. 일본어의 문법 체계나 음운 체계를 반영한 수화로는 일본어대응수화가 있다.
在日朝鮮人社会の変化は、世代交代の急速な進行とともに、同胞間の経済力の格差の増大によってもたらされた。日本の最底辺という同一のスタートラインから出発した在日朝鮮人は、日本の経済成長のなかで、ある程度の財を成して安定する者、また大学などで学んで自己の才能を発揮し、日本社会の種々の分野で一定の社会的地位を確保する者が少なからず出てきた。他方、戦前もしくは「解放」直後よりは改善されたとはいえ、相当数の同胞が依然として日本経済の底辺近くに位置づけられたままとなり、在日同胞間の階層分化や生活態様の多様化が進んだ。加えて、南北分断の固定化と在日の民族運動の紆余曲折が重なって、1970年代後半以降、「在日」を「全体」として論じることが困難となりはじめ、それは必然的に、「豊かさ」のなかで育ちつつあった若い世代の民族性、アイデンティティ(存在証明)の問題に深刻な影響を与えはじめた。
こうして在日朝鮮人社会の一様性が崩れていくことは、そのまま、在日朝鮮人の戦後史の中心軸をなしてきた「民族」という理念が、そのリアリティを失っていく過程となった。それはまた、在日同胞の関心のほぼすべてを捉えていた「政治」にかわって、自己の「内面」や「文化」の問題が重視されていくことでもあった。さらに、「在日」の「民族意識」を支えているのは、血統や伝統というよりは、むしろ日本社会の根強い差別ではないか、ということがより自覚的に問いかけられていくことでもあった。事実、日本社会の差別は、それ自体、「在日」の民族意識を助長しつつも、抹消もするという、両義性をもつものである。
「在日」を生きるとは、たしかに差別に抗して生きることである。その根本的な理由が、近代における日本の朝鮮侵略にあることは言うまでもない。その意味では、日本帝国主義の所産である「在日」の若い世代は、不可避的に「不遇の意識」を生きることを運命づけられている。在日朝鮮人文学で1世作家とされる金石範は、こうした在日朝鮮人の歴史性に立脚して、「在日」が「被」「負」「不遇」の立場から出発することは「倫理的な要請」であり、そこからしか主体的な「自由」は獲得できないと述べている。しかも「在日」が自己の存在を意識した場合に感じとる矛盾のかたまりは、つねに何らかの民族的な様相を帯びるものとならざるを得ない(1)。換言するなら、「在日」の民族意識は、被差別体験という触媒によって獲得され、それは「日本」「日本人」にあらがうことをその不可欠の本質とする。それは一見「空虚さ」や「偏狭さ」を含むだけでなく、民族意識が基本的に近代の産物である以上、日本帝国主義によって温存・利用された「封建制」を少なからず含むものとならざるを得ない。
もちろん、「在日」といっても、その主張や思想、生活意識は多種多様である。在日朝鮮人文学の2世作家(前期2世)とされる李恢成は、日本社会からの差別と拒絶によって与えられた「不遇の意識」を生きる力へと転化するために、「日本人」から「半日本人(半朝鮮人)」をへて「朝鮮人」へ、という新しい生の道すじを鮮やかに描いたと評価されている。その場合、竹田青嗣(姜修次)は、李恢成文学においては、2世がいきなり「民族」理念をつかむには一般的な困難があり、したがって若い世代はまず「在日」の「家」から抜け出して民主主義的な「日本社会」のなかで生きたいという夢をもつ、という。ところが、「民族」理念は、さしあたり彼に「家」への帰属を強制するようなものとして現われるため、彼は「家」あるいは「父」への反抗の道すじとしてまず日本社会への人間的な理念を受け入れ、さらにこの理念と現実との大きな乖離につきあたって、はじめて「民族」理念を現出することになる。このことが、2世世代にとって「半日本人」の道を避けられないまま基本的理由となるが、この「日本人化」の道は、同時に、「民族」理念にとって最大の危機でもある、と説明する(2)。
*강수차(姜修次, 일본 이름; 다케다 세이지(竹田青嗣/たけだ せいじ), 1947년 10월 29일-)는 오사카부 출신의 재일 한국인 철학자, 문예 평론가이다. 평소에 쓰는 한국 이름은 강수차이지만, 호적상의 이름은 강정수(姜正秀)이다. 다케다 세이지(竹田青嗣)라는 이름은 다자이 오사무의 소설 "죽청"에서 따온 이름으로 별명, 필명일뿐 정식 일본 이름은 아니다.
また竹田青嗣は、同じく2世作家である金鶴泳文学について、金鶴泳の独創は、荒れ狂う父親像や暗い家庭にみられる。「在日」することの生き難さを自らの「吃音」の生き難さに重ね合わせるようにして摑むことによって、北か南かという二律背反的な問題の立て方をはじめて動かしたところにある、と評価する。この場合、「在日」とは単に差別のなかにあり、またその転倒した由来をよく知って負性を克服していく、ということではすまないもの、つまり「在日」とはむしろなによりも、取り返しのつかない不遇性を生きることである、という。すなわち、金鶴泳文学では、不遇性をどう回復するかという問いの道ずじではなく、それが超え難いものであるとき、ひとはそれに対してどういう態度を取り得るか、という方位をとったと説明する(3)。

ここにみられるように、「在日」の若い世代にとって、「不遇の意識」とはなによりも、無秩序、混乱、暴力、喧騒、怒号、貧困、ニヒリズムなどの言葉に象徴される自分の「家」(つまり父親、そして民族)そのものに起因するものであった。「粗暴な父」「陰鬱な家庭」はそれ自体、日本帝国主義の朝鮮支配、そして戦後日本の民族差別の産物でもあるが、「在日」の若い世代にとって、この個的な罪悪感をどう乗り越えていくかは、アイデンティティの確立において最大の課題となった。しかも、実際には、「在日」が「家」から逃避し、ついで期待をかけた日本の「戦後民主主義」に裏切られたとき、帰るところはやはりいったんは「家」(「民族」)しかなかった。ただ図式的に描けば、「現実→夢→再び現実」ではあっても、戻ってきた現実は、はじめの悩み多き現実と同じではなく、いったん夢世界を体験しその限界を悟ることによって、「在日」の1人ひとりが自らの努力次第で豊かな人間性をも確保しうる現実であった。
2 「民族」とアイデンティティ
1990年末現在、在日朝鮮人の数は、法務省の統計68万7940人である。その多くは2世・3世・4世であるが、いまなお「在日朝鮮人」という一つの「まとまりの意識」をもって暮している。厳密にいうなら、在日朝鮮人の呼称には、祖国の南北分断を背景に「在日朝鮮人」「在日朝鮮人」「在日韓国・朝鮮人」「在日」などがあるが、それをいまここで「在日朝鮮人」と総称しても何らさしつかえはない。
生地主義を原則とする欧米諸国からみると、「在日朝鮮人」という民族集団は、非常に分かりにくい存在である。移民や難民が続出する現在の世界にあっても、絶対多数の人びとにとって、ある一つの「国民国家」の「国民」であるということは、その政治生活においてもっとも普遍的で正当的な価値基準となっている。実際には、その「国民」は、人びとの心のなかに共有されている「想像の共同体」(白石隆・白石さや訳、ベネディクト。アンダーソン「想像の共同体」リプロポート、1987年)という性格を帯びているが、「在日」の場合には、「韓国」ないし「朝鮮」という外国人登録上の国籍(表示)の違いにもかかわらず、よりいっそう「想像の共同体」という性格を色濃く帯びている。
朝鮮半島が日本の植民地支配から切り離され約半世紀にもなるが、在日朝鮮人の多くは現在でも、基本的には「国籍」をもつ本国へは帰国せず、日本に半永久的に定住し、また日本国籍をとらずに、「朝鮮人」や「韓国人」であり続けようとする志向をもっている。事実、神奈川県が1984年に、県内在住の朝鮮人にたいして実施した聞き取り調査の結果でも、大多数の回答者は自己完結的な民族的生活圏が存立していない条件のなかで、「強い同化強制のインパクトにさらされていることを日常肌で感じつつも、歴史的規定性の中であえて民族的なものを指向する姿勢をとろうとしている(4)」、と報告されている。
このことは当然、朝鮮人が「朝鮮人」であり続けようとする民族的アイデンティティを保持していることを意味する。それはロシアや中国在住の朝鮮人が「朝鮮族」として、ロシアや中東人民共和国の「国民」であるとともに、朝鮮「民族」であるという心性をもっていることとはかなり異なる。いわば「在日」は一種の「境界人」であり、「慢性的なさびしさ」(徐俊植)ないし「不安にも似た得体の知れない愛情」(金鶴泳「凍える口」河出書房新社、1970年)を宿命的に身につけさせたれている。母国留学生としてソウル大学に学んだ徐俊植の場合、「「日本」をアルコールで洗ってしまいたいほど必至に「民族主義者」であろうと奮闘してきましたが、失くしたものは在日同胞への所属感であるばかりで、その代価に当然受けなければならない「本土生え抜き」の場所は拒まれているのです。人々は「徐俊植?あー、あの在日僑胞」といって私を知ってくれます。悠久なさびしさは、どこにも確固と根をはることのできないようなさびしさと同時に、友のいないさびしさでもあります(5)」、と独自している。
ここで「在日」の民族的アイデンティティがいかなるものであるかが問われてくるが、それはアメリカの日系人のそれとはかなり違うものであることが推察される。アメリカに渡った日本人1世は、排斥的ですらあった移民先で、郷愁的で民族主義的な感情を抱えながら文化的伝統をそのまま保持し、「日本人」というアイデンティティを失うことはなかった。この「日本人」あるいは「日系人」というアイデンティティは、日本にいる限りにおいては、○○県人といった同郷人レベルのアイデンティティで事足りたるものが、異国の地で他民族と接触し、しかも現地社会への同化に大きな限界があることから生まれた産物であった。2世はこの日本文化とアメリカ文化の二重構造のなかで成長したが、日米戦争の勃発で「国家への忠誠」という「ナショナル・アイデンティティ」の固定を求められ、そのアイデンティティの選択は文字どおり命がけのものとなった。すなわち、それは逆境のなかで意識的選択として確立された側面をもつものとなり、その裏にはつねに「日系人」という負い目がつきまとっていた。他のヨーロッパ系の人びとが「アイルランド系」とか「イタリア系だ」と自由に名乗っていたなかで、日本人だけは「自分はアメリカ人」と力まねばならなかった。その点、2世の場合、民族的アイデンティティは消失したというより、潜在化したということができる。
*일본계 외국인(日本系 外國人, 일본어: 日系人; 일계인)은 일본 이외의 나라에 이주하여 해당 국가의 국적 또는 영주권을 취득한 일본인 및 그 자손을 의미한다. 현재 약 300만명 이상 존재하는 것으로 추정되고 있다. 일본에서는 닛케이진(일본어: 日系人)이라고 표현한다.
*일본계 미국인(日本系美國人, 영어: Japanese American, 일본어: 日系アメリカ人)은 미국인 중, 일본에 뿌리가있는 사람들을 지칭하는 말이다. 19세기 말 일본에서 미국에 건너간 사람들과 그 후손을 가리키는 경우가 많다.
こうした2世の血のにじむような同化への努力と社会的地位の向上のもとで、3世になると少なくとも制度上は、日本人にも平等な待遇と社会的位置づけが保障されるようになり、依然として同族同士の結婚を望んでいるにしても、その思考と行動は「典型的なアメリカ人」のそれである。つまり若干の条件つきとはいえ、日系アメリカ人3世においては、大筋では個人主義・平等主義の観念など、アメリカ社会の規定的価値が、他の諸価値をも包摂する基本的な枠として彼らの行動を規定し、人格的特性として内面化されている。その意味では日系人においては日本的な規範・価値は消失したともいえるが、他方、黒人の公民権闘争などの影響もあって、1970年代以降、3世のあいだに日本文化への関心がとみに高まりつつあるともいわれる(6)。

もっとも、同じ日系アメリカ人といっても、周囲に日本人が多く、おそらく反日的偏見も少ないハワイの2世・3世は、アメリカ本土の2世・3世よりも日本人としての要素を多く残し、日本人社会のまとまりもはるかにしっかりしており、そして一般にアメリカ化しようとする衝動も、本土の日系人ほど気違いじみてはいなかったと言われる(7)。しかも、日系アメリカ人の場合には、生地主義でアメリカ市民権が保障されるなか、アメリカ経済がつねに移民吸収のメカニズムによって発展し(8)、差別の軸もつぎつぎに到着する新参の移民者に移っていった、という社会構造のなかにあったことを忘れてはならない。
そのことは、同じアメリカへの移住者のなかでも、19世紀中ごろアメリカに渡ったポーランド人が歩んだ道により端的にみられる。彼らは、宗教(カトリック)・出身階層(貧農)・悲識字・言語等の異質性によって、ワスプ(WASP)主流の白人社会でも最底辺に位置づけされて、最低賃金による鉱山・工場などでの就業、劣悪な居住条件と苛烈な人種的偏見など、在日朝鮮人と相似する道を歩んだにもかかわらず、今日ではかなり改善された社会的地位を確保している。この場合、ポーランド系2世は、外国にたびたび占領され、あるいは分割された祖国を背景に、ワスプ文化優位の社会のなかで、1世の文化や母国語を嫌い、姓をワスプ的なものに変えるなど、自らの民族的アイデンティティをひた隠しに隠し、やがて1世の居住地域からワスプの住宅地などに混入していった(9)。それはいわば、「同質」願望のなかで、「異質」劣等感を跳躍のエネルギー源とするものであった。
ただ各国の移民の同化過程は、もちろんさまざまである。戦前のブラジルに移民した日本人は、あまり恵まれない異境の地にあって、ブラジルに馴染めない分だけ天皇や日本の軍部を深く信じ、自分達の最終的な救いは日本からくると期待していたことはよく知られている(10)。またフランスでは、近隣ヨーロッパ諸国とアルジェリアなど植民地からの移住者を区別する差別的処遇がおこなわれたが、両大戦間期のイタリア移民がフランス人との国際結婚や、フランス共産党や労働組合などの労働者組織を媒介にして、フランス社会に急速に根付いていったことも知られている。
もとより、「民族」とは、一定の自然的な血縁的共同性を前提としつつ、言語・宗教・道徳・生活様式・風俗習慣などの伝統的文化を共有している人間集団で、そこでは一般に、民族意識といわれる共通的意識ないしは感情が共有されている、と一応は定義できる。しかし、こうした民族の概念自体、現実には経済の世界的規模化を基軸に、難民や移民の増加を含むボーダーレスの地球社会のなかで、次第に不透明さを増していっていることは周知の事実であり、それが現代世界の不透明さにもつながっている。その意味では、今日において、民族とは、資本主義成立期に、言語・地域・経済生活・文化の四つの共通性を基礎にしてはじめて形成された堅固な共同体であるとするマルクス主義的な説明はもはや説得力はなく、それはやはり、個別文化を共有し、それへの帰属意識を共有する人びとの集団である、と捉えるほうがまだ実際的であると思われる。
今日の学問では、これを文化人類学への民族概念「エトノス」として把握しているが、そのエトノスの核心は「自他ともに承認された帰属意識、つまりエスニック・アイデンティティ」であると言ってよい。ここでエトノス集団は「エトノス境界」によって維持されるが、それは必ずしも地球や領土に密着して理解されるべきものではなく、「うち」と「そと」の識別、他集団と競合する「社会的な境界」によって区分されると考えられる。したがって、民族(エトノス)とは、歴史的に固定された存在ではなく、つねに変形可能なものであり、「民族」の意識も歴史的カテゴリーであるとともに、その内実も経済的・政治的諸関係あるいは彼我の力学関係によっていつでも変わりうる流動的なものである。
こうした理解のもとでは、当然、民族とは、イズムや制度の産物ではなく、むしろ、逆に、国家は民族(エトノス)の営みのうち、権力に都合のよい部分だけを取り上げることによって、「国民国家」を基礎づける「国民」を作り上げてきた、ということができる。事実、今日においては、権力国家を中心とし、国際的な価値の序列化を伴うナショナル・アイデンティティの主張は、次第に時代遅れのものとなってきている。ただ、本来的に、アイデンティティというものは、「マルティ・アイデンティティ」が常識であり、たとえば1人の在日朝鮮人が「人間」に最も大きなウェイトを置くか、あるいは「朝鮮人」ないしは「韓国人」に置くか、さらに「男」か「女」、「同郷人」、「商売人」、「学生」等々、に置くかはきわめて個別的で、重層的、多元的である。その意味では、民族的アイデンティティの概念も、自己の集団と他の集団を峻別する自己規定を本質とするが、それは個別的な自己規定を出発点としている。
3 「国籍」観念の呪縛性
在日朝鮮人のアイデンティティは、もとよりマルティ・アイデンティティによって成立しているが、その中核は民族的アイデンティティであると言ってよい。もちろん、「在日」の1人ひとりによって、「民族」の観念はさまざまであり、自民族への愛着に満ちた強烈なものから希薄なものまで、あるいはまったく逆に自己の民族に対する反感といった形で存在している場合もある。
「民族」の中身も、南北どちらかの祖国ないしは統一朝鮮というイデオロギーと直結したものから、本国と切り離した「在日」というマイノリティとしてのものや、あるいは家族など自分のごく狭い生活圏のうちにとどまるもの、さらには日本人の差別・蔑視の裏返しである対決概念(憎しみ)としての「民族」の観念といったものも考えられる。在日1世の民族的アイデンティティは、祭祀(チェサ)に代表される「家」秩序が組み込まれて封建的色彩を帯び、同時に反日意識と絡んだ階級意識が含まれているとも推察される。一方、若い世代の民族的アイデンティティは、その大部分がむしろ、民族の壁を乗り越えようとする市民的アイデンティティであると言えるのかも知れない。
南北朝鮮に住む人びとにとって、民族のアイデンティティは通常の生活のなかに存在し、それは言語や文化、風俗習慣を含めた原初的な民族意識(エトノス)として現われる。そのアイデンティティの拠り所は、基本的にはひとの体と心をつくる故郷(くに)であると言ってよい。しかし、日本に住む朝鮮人にとって、民族のアイデンティティは殊更に強く意識されて育まれる。しかも、それは異国で生まれ育ったという空白によってだけではなく、南北分断による政治的歪み、イデオロギー的歪みのために、祖国との距離を遠くしたものとして現われる。のみならず、一般に、異境の地における民族的特性の喪失は、言語、文化、風俗習慣、食べ物、価値観の順であると思われるなかで、支配・被支配の関係がかぶさることによって、そうした民族的特性は逆に差別・偏見のタネとされてしまう。そこに在日の民族的アイデンティティが虚構性を含みながらも、ときにナショナリズムと一体になって現実の強い力となる理由がある。
「在日」の若い世代にとって、「朝鮮人となる」ことが人間性実現の回路であるとしても、本来の自然的な意味での「朝鮮的な感覚」(朝鮮人の生活感情)を獲得することが不可能であることは自明のことである。しかし、本来の姿で獲得することが不可能である歴史的立場にいながら、なおも民族を希求し、祖国に対する渇きを抱かざるを得ないのが、「在日」という矛盾した存在である。在日を生きる存在条件が非人間的で、劣悪であればあるほど、民族とか、祖国、統一という、悲観の「天国」は輝きを増していく。そこには竹田青嗣が李恢成文学を評して言うように、「実存性」のリアリティの不安にさらされることによって、その「実存性」を代行する「民族」や「祖国」という”実在物”に向かわざるを得ない条件がある(12)。換言するなら、民族や祖国にこだわることによってすべて解決するわけではないが、それによってアイデンティティを確保することをとおして、自尊心と生きる力を獲得していける道が開かれる。
詩人の金時鐘はいう。「朝鮮というものは、決して、「具体物としての実像」ではない、ということです。「朝鮮」という呼び名は、総体と人の抽象にすぎません。・・・あるのは自意識としての、総体の中の抽象としての朝鮮が横たわっているだけです。その戦後世代の内部でうごめき求められているのは、実に、自己にとって朝鮮とは何か、というとてつもない反問なのです」と。そこから在日の若い世代にたいしては、「在日」を生きる自己が、すでに一つの「朝鮮」であることを自覚し、少なくとも「在日」世代の負い目を日本での生活のせいにしない意志力こそ、必要です」、との期待が表明される(13)。
実際、戦後の在日朝鮮人にとって、この「朝鮮」という言葉に代表される民族と祖国は、アイデンティティの確立においてもっとも重要な位置を占めてきた。しかし同時に、他方では、この民族と祖国は逆に、そのアイデンティティそのものを抹殺してしまう邪悪な力を秘めたものとして働いた。「在日」にとっての祖国とは、具体的には第二次世界大戦後の米ソ冷戦体制を反映した南北の分断祖国以外の何物でもなかった。
現実に、在日朝鮮人は、北に朝鮮民主主義人民共和国(共和国)、南に大韓民国(韓国)の国家権力が存在し、また日本という差別的国家支配のなかで指紋押捺付きの外国人登録を強要され、「朝鮮」ないしは「韓国」という国籍(表示)をもたせるなかで、南北のどちらかに従属する仕方でしか自己の民族性や自立性を確保しにくい状況に置かれた。こうした「在日」のありように対して、李恢成は「青春と祖国」のなかで、北であれ南であれ、祖国は国民大衆のものであり、5千万民族のものである。祖国は決して二つの政治的国家の所有物ではないにもかかわらず、人びとは権力中心主義的な考え方をもつようになり、その結果、あたかも国家が祖国であるような錯覚が人びとの頭を支配し、はなはだしくは体制にたいする忠誠のあかしとして、祖国を国家に捧げてきた人も多かったと、批判している(14)。
本来、従属とは、自己のとり結ぶ諸関係を規制する外的権威への服従によって現実化するが、それはまた権威や権威者を求める人間の本性でもある。このとき権威は正当性と同一視され、すすんで権威・権威者に服従するとき、人びとは「安心」を手に入れると同時に、「卑屈」に走りやすくなる。とりわけ、「北」のように、国家が人民から絶対の服従を取り付けるために、人民にたいする権威者自身の無限の強さと愛というイメージを利用するとき、人びとの権威への忠誠はいやがおうにも増幅され、排他的とさえなっていく(15)。それは当然、アメリカの市民権にみられるような契約に基づく忠誠義務ではなく、選択不能な歴史的実在物としての民族にたいする無限の忠誠義務として錯覚されがちである。「在日」の場合、被植民地支配、南北分断、朝鮮戦争、さらには日本政府の「南」一辺倒・「北」敵視という歴史過程のなかで、こうした傾向は異常なまでに高まっていった、と言える。
この結果、「在日」の生活史と生活実態は、ながらく、「国籍」観念に呪縛され、民族イコール国籍、国籍イコール思想となって、在日朝鮮人総連合会(総連)や在日本大韓民団居留民団(民団)という在日の民族団体に強く束縛される存在としてあり続けてきた。それは日本の単一民族国家観の幻想の裏返しでもあり、またそれによって同化や帰化への歯止めにもなってきたが、同時に「国籍」観念に逆規定されることによって、「在日」は一貫して国家の論による不条理をつねに被ってきた。換言するなら、在日朝鮮人の民族や祖国への思いは、主として民族団体をつうじて南北の両体制への帰属と忠誠に帰せられ、非主体的な利用物として位置づけられがちであった。その場合、民族団体は国家のイデオロギー装置として機能し、「在日」の1人ひとりの民族性の維持に有効な働きもしたが、その組織力は当然、南北朝鮮の政治・外交・経済力に大きく左右されてきた。
事実、1960年代までの社会主義隆盛の時期にあっては、総連は多くの在日同胞にとって「夢」であり、「人生の基軸」であった共和国への媒介となった。その意味では、総連は、祖国統一のスローガンや民族教育のあり方に代表されるように、ことさらに本国志向を強めて在日の居住実態を軽視し、閉塞的な民族主義に陥る傾向を示してきた。また近年では、1959年以降帰国した約9万4千人の帰国者(「帰胞」)を仲立ちに、在日の経済的苦境にある「北」へ繰り込む重要なパイプ役を強めつつある。逆に民団は、本国志向を否定的にとらえ、若い世代にひたすら同化・帰化を誘導する役割をはたしてきた。1965年の日韓基本条約が「在日」の「棄民化」の性格をもっていたし、近年の在日韓国人の法的地位をめぐる日韓交渉でも、韓国政府高官の意識は「3世といえば、もう日本人(16)」というものであった。しかも、民団はそれ自体、大部分が「南」出身である在日同胞への旅券発給を餌に種々の名目で金品を押収し、万国博、駐日韓国公館や民団会館の建設、セマウル(新しい村)運動、防衛誠金、オリンピック、本国要路への寄金、公館官吏への餞別など、寄付金集めの機関と化してきた(17)。
こうして、在日朝鮮人は、生きる根源である「民族」のアイデンティティを確保しようとして、日本国家の民族排外主義だけではなく、南北祖国の国家主義的政策によって挟み撃ちに遭うという状況に置かれてきた。その結果、「在日」の思考はともすれば、個や自己を欠落させた「集団」「組織」「民族」「国家」へと流れ、偏狭な主義・主張が民族的批判精神の衰退をもたらすなかで、日本・日本人への不信を増幅させもしてきた。
もとより、故国を去って異境に住む者の民族意識のありようはさまざまである。国外に居住したポーランド人の場合、農民出身の集団的な労働移民は外地でも同胞とのつながりを保ち、教区やさまざまな団体に属して、国内におけるよりもずっと早く民族意識を成熟させてきたという。他方、孤立した移住者は、生活を立てるために民族性喪失という代償を払わざるを得なかったという(18)。朝鮮人の場合、中国延辺の朝鮮族は基本的に強度の集住性をもった農民社会に住んでおり、中国人民とともに日本帝国主義と闘って中華人民共和国を創建した中国の市民である。旧ソ連の中央アジアなどに住む朝鮮人は、庶民を中心に自らを「朝鮮人」でも「韓国人」でもなく、南北どちらにも属さない「高麗人」と表現するが、知識人たちは「朝鮮」または「韓国」という言葉を使用する傾向にあるという(19)。
しかも、韓国の経済的地位が上がり、一定の民主化も進みつつある今日においては、在外朝鮮人のあいだで全般的に韓国への信頼感が増え、「韓国」「韓国人」という言葉を使いつつ、そこにアイデンティティを求める志向が強まりつつある。1980年代後半以降、海外から韓国への「逆移民」や「逆留学(母国留学)」が増えているのはその証左である(20)。そうしたなかで、ソウルで学ぶ日本からの母国留学生の1人は、海外同胞と話していると、彼らが民族というものにあまりこだわらず、母国に対してあまりウエットな感情も表さず、民族が絶対ではないようだと、感想を述べている(21)。それだけ「在日」は、政治的共同体の概念である「国民概念」にとらわれ、その分暗い影を引きずってコンプレックスから抜け出せずにいることを示唆する。それは当然、日本では、自らの出自を明らかにして、民族的なものを残していけるという「安心感」をもち得ないことを意味している。

4 「在日」のアイデンティティ
ここでもう1度在日1世のことについて触れると、1世は日本という異国のなかで、朝鮮の古びた生活様式を墨守し、それを貫くことに生きがいをもった。その外観が子どもや日本人にどんなに異様なものに映ったとしても、それこそが彼らのアイデンティティそのものであった。1世の世界は、一見閉塞的で、保守的な「小宇宙」であったが、根本的な異質のなかで同質化された被抑圧者であったが故に、抑圧者の日本人を含む他者にたいして一括してすべて拒否的という傾向を帯びていた。2世・3世にとって、そうした1世の生きがいは逆に「偏見」で汚染され、1世の働き虫ぶりでさえまるで民族的劣等感のタネのように感じられた。
作家の金泰生はいう。「子供のぼくが(1世の)人々からあたえられた観念は、当時の日本人一般が朝鮮人にたいして抱いていた観念とあまりに酷似していた。・・・その偏見のゆえに蔑視をあび苦渋をなめ、屈辱にまみれながら、人々はそれぞれの暮しをまもりぬいていたのだとは、ぼくの理解が届くはずもなかった。ぼく自身がいつしかその偏見に自覚もできずに汚染されていたのだから(22)」と。
こうした在日1世の強烈な歴史体験と2世・3世のその受けとめ方の落差からするとき、在日の若い世代のアイデンティティの確立は、なによりも1世の体験を対象化し、偏見に汚染されている自己を自覚することからはじまる他なかった。そこではもちろん、「家」や「父親」、「朝鮮」をいったんは拒否し、「美しい日本」や「民主主義」に期待をかけ、その期待がたとえば就職差別や日本人との恋愛の破綻という、現実の差別・蔑視によって裏切られるという回路が必要であったが、それは若い世代にとって「朝鮮人」、つまり「人間」として再生しうる契機となりえた。まさに、「自分が朝鮮人として生きようと考えるようになると、それまであんなにもうとましかった汗や手の汚れが光って見えてくるから不思議だ。自分の内側に何を見るかによって価値観は大きく分かれるといえる。朝鮮人として生きていこうとする第一歩は”親の復権”ではなかっただろうか。「朝鮮」であるが故に否定した親を、「朝鮮」であるが故に再評価することによって”自らの復権”をはかったのであった(23)」。
しかし、もとより、1世の体験は、時の風化にさらされていく。若い世代にとって、共通体験も、追体験もありえない。若い2世・3世は、いったんは1世のふところに返りつつも、親の世代の「朝鮮」を乗り越え、新しい朝鮮像を描くことによって、自らの民族的アイデンティティの構築を要求されることになった。しかも、それは、日本社会の一定の民主化と経済的余裕のなかで社会の矛盾がいっそう隠蔽され、しかも祖国の南北分断というとてつもない瞬間のなかにおいてであった。
ときは流れ、いまや祖国を知らない若い世代が、「在日」の大部分を占めるに至った。この在日朝鮮人社会の構造的変化のなかで、若い世代の地すべり的な同化現象が顕著となっている。それはもちろん、世代交代の自然的な要因によるものであるが、それがまた、きわめて政治的な理由で意図的に作り出されてきたものであることは論を待たない。若い世代の民族意識は風化する一方で、「祖国」や「北」「南」という政治的発想も希薄となり、なによりも日本人との「国際結婚」が過半数を超えるようになった。植民地支配の過酷さを知らず、「豊かさ」のなかで育った若者は、一見もはや弱くも貧しくもなく、好きな物を食べ、ファッションを楽しみ、海外旅行をするなど、日本の若者と同じドライで享楽的な生活を満喫しているようでもある。
しかし、実際には、「在日」の若い世代は、その内面に不安感を充満させている。日本の”若者風潮”のなかにあって、「在日」の若者は表面的な華やかさとは裏腹に、なおも閉鎖的な世界に閉じこめられがちである。それは差別や偏見という形で表出する日本社会の矛盾・体質に起因するものであるが、大半の若者が親によって「日本名」という「通名」を名乗らされるという現実から引き出されるものでもある。本名を名乗れない「在日」の若者たちは、自我の根源において隠すことを強制され、習慣化させられ、日本のミーイズムの風潮に染まるとき、二重の意味で”自我の悲劇”に陥らざるを得なくなる。
実際、「在日」の若者にとって「本名」通名の問題は、つねに民族を意識する原点であった。これまでの在日同胞の本名使用に関する調査では、神奈川県の実態調査報告で「本名のみ、本名多く使用」が11・5パーセント(1984年)、兵庫県下定時制高校生が「本名使用」6・6パーセント(1985年)、また民団の意識調査では「通名なし」が8・5パーセント(1986年)、であった(24)。この本名か通名かの問題は、一定の年齢層の民族意識の強い人が民族学校など本名で育った人には少々食傷気味な話題でもあるが、しかし名前をどう名乗るかということに「在日」として意識、考え方が凝縮されていることも事実である。もっとも、本名を名乗ることが「在日」を語る資格ではなく、また本名を名乗る者がつねに民族意識が堅固であるというわけでもない。ただ本名を隠すことが、現実には、「在日」としてのアイデンティティのありようを歪めていることだけは否定しようもない。
民団の青年会が1988年にまとめた「在日同胞2・3世青年意識調査」は、若い世代の意識および生活、行動についての数少ない実態資料である。それによると、有識者の半数以上(55・5パーセント)が現在の職業が「希望とちがう」と回答し、2人に1人の同胞が社会人の第一歩で、職業選択という人間の一生のうちできわめて重要な問題で挫折感を味わっていることを示している。そこには家業を継がざるをえないとか、国籍による就職差別、専門性を生かせない、といった理由があるが、その多くが日本社会の民族差別と深い関わりがあることは容易に理解できる。こうした若い世代の自己実現における疎外感は、70パーセントを超える日常生活の物質的満足度にもかかわらず、生きがいや生活のハリといった精神的充足度の低さにつながっている(25)。それは、ブラジルの日系2世やその他の海外移住者の諸事例と同じように、とりわけ高学歴者に顕著な傾向である。
総連の場合、こうした生活意識調査は組織内部でときには行なわれるようであるが、対外的に公表されることはまずなく、日本社会における諸権利獲得のための運動にもあまり熱意を示さない。そこには「祖国統一」のために最大限活動するという総連の基本方針があるとみてよく、実際、民族学校を出た若い世代も活動家となって、「ゆりかごから墓場まで」という標語にも比せられる総連の自己完結的な枠内で生活を営む傾向が少なからずある。そこにはまた、日本社会への参入は、同化、帰化へとつながり、民族共同体の破壊に直結するという危惧もあるとみてよいが、いずれにしろ、そうした思考は、現実には人びとの意識世界をかなり狭めていると言ってよい。
ともあれ、1990年代の今日、「在日」の若い世代の民族意識は、植民地時代からの在日朝鮮人形成史の延長線上において、被差別の存在として「同じ民族のつながり」を求める意識であると言ってもよい。その「不遇の意識」には、当然、日本社会の不条理だけでなく、意識するとしないとにかかわらず、祖国の南北分断、民族分断がぬぐうことのできない負性として作用している。いわば、「在日」は、民族・祖国の危機を背景に、民族意識解体の危機、さらに人間性解体の危機にさらされつづけている。ただすでに述べたように、こうした「在日」の若い世代の民族のアイデンティティは、原始的な風土や個別文化を欠きながら”観念的”ないしは”人工的”な色彩の強いものである。換言するなら、在日同胞の母国留学生がしばしば実感し、あるいは在日朝鮮人文学にたいする韓国の文学批評が主張するように、「在日」の民族的アイデンティティは”朝鮮”という民族的な内実が欠落した日本的なものである(27)。
そうした意味では、「在日」の若い世代にとって、「民族」とは、朝鮮人として生まれた選択不能の「出自」そのものにある、と考えたほうがよいのかもしれない。実際、朝鮮の血を受け継いでこの日本で生まれた者は、当然のことながら、さまざまな仕方で自らの出自を意識しながら生きている。ある者は本名を名乗って、祖国統一や差別撤廃・市民権獲得の運動を展開するほどに誇り高い民族意識をもち、またある者は本名を名乗りながら、それほど目だつことのない普通の生活を営んでいる。一方、「日本名」を名乗りつつも、朝鮮半島につながる出自をあっけらかんに肯定する者、「日本名」を名乗ると同時に、朝鮮人であることを必死に隠している者もある。
「帰化」した朝鮮人は、多かれ少なかれ「後ろめたさ」を感じつつ生き、朝鮮人と日本人の混血者は、やはり朝鮮にまたがる出自を強く意識しつつ生を営んでいる。
こうなると、まさに「在日」にとって「エトノス」とは何かという根源的な問いにつながるが、少なくとも言語や文化に絶対的な価値を置くことは困難である。もとより、「在日」の若い世代にとって、生きながらに習得する母語はすでに日本語であり、「母国語」が朝鮮語であるかどうかも妖しくなりつつある。しかし、言語=国家、ナショナリズムという世界の一般的状況のなかで、「在日」が日本の国家との同一化を拒み、むしろ日本の排他的ナショナリズムに対峙する傾向にあることも事実である。ヨーロッパのエスニック・マイノリティのほとんどの成員はースウェーデン在住のフィンランド人を例外にー(昔ながらの)自民族の言語を話せなくなってきているが、そうした文化的属性の衰退にもかかわらず、エスニック・グループのメンバーシップが強調され、エスニシティが活性化しているのも世界の現実である(28)。しかし、他方、小松川高校女子高校生殺人事件の李珍宇や寸又峡事件の金嬉老(本名、権禧老)が獄中で、「朝鮮人としての生き方」を認識しはじめたとき、真っ先に朝鮮語を学びはじめたことにみられるように、在日朝鮮人にとって朝鮮語は人間性回復の根源でもあり、強さの証でもある。
*권희로(權禧老[1], 1928년 11월 20일 일본 시즈오카현 ~ 2010년 3월 26일 대한민국 부산광역시)는 재일 한국인 2세, 기업가, 범죄자로의 일본 최장기수였으며 일본인 조직폭력배를 살해한 죄로 체포되어 24년간 복역하였다.
그는 1999년 대한민국에 돌아올 때까지 김희로(金嬉老)라는 이름을 사용했다. 따라서 김희로라는 이름으로도 불린다. 일본 시즈오카현 시미즈 출생이지만 그의 고향을 모친의 출생지인 부산으로 간주하기도 한다. 1999년 대한민국 귀국 이후 부산광역시와 서울특별시에 주로 거주하였다. 

「帰化」者や混血者の場合には、その民族的アイデンティティの確立はかなり困難なものとなるが、自らの被抑圧者の側に置くとき、差別に抗する強いアイデンティティの獲得が可能になりうるようである。つまり、混血者の例で言うなら、抑圧される側、朝鮮人の側に立つとき、差別・蔑視に対しても開き直ることができ、抑圧する側の1人にならないと決心することもできる(29)。まさに、自分の出自をどう考えるかが、「在日」にとっての「民族」そのものであると言える。
5 普遍性にみる「民族」の回路
世界の移住者の歴史をみるとき、普通は3世くらいまでが話題となり、4世・5世になると定住国の国民(市民)として生活し、単に祖先は○○出身であるとうことで済んでしまうと言ってよい。その点、在日朝鮮人が4世になってもなお「朝鮮」ないし「韓国」という国籍(表示)をもち、「国籍」や「民族」の制度・観念に取り込まれているのは、世界において稀な例であるかも知れない。それだけ「在日」は、日本および南北朝鮮の政治的・社会的矛盾のなかに絡めとられていることを物語っている。そのことは、「在日」にとっての「民族」が、古典的な民族概念の要素である言語・文化・風俗習慣などを失いつつあるにもかかわらず、「典型的な朝鮮人」でも「典型的な日本人」でもない、一種の「境界人」として存在していることに端的にみられる。それは「在日」の多くが、なおこの差別的な日本社会で、偏見に汚染されている自己、すなわち「民族」としての「出自」を正当に自覚しえないでいることを示唆する。
ここで当然、「在日」が人間としての成熟をはかろうとするとき、何故に「民族」の回路が必要か、とういことが問題になる。若者のなかには、家を嫌い、父親を嫌い、朝鮮を嫌って「民族」を否定し、「コスモポリタン(世界主義者)」として生きることをめざす者も少なくないと思われる。あるいはそうした家とか、父親、朝鮮との葛藤もなく、「民族」を知らないままに普通に生きていけると暗黙のうちに了解している者も少なくないようである。しかし、この場合もやはり、大なり小なり、あるいは明であれ暗であれ、自らの出自にこだわっていることは事実であり、その意味において「民族」の回路を全否定することは、虚構の深淵に自らを投げ出すことになりかねない。
これをいま、若い世代の在日朝鮮人文学の流れでみると、その多くもやはり「民族」にこだわるという意味で、「民族」の回路を経ていると言える。ただそれらの文学表現が、在日朝鮮人の形成史をふまえたうえで、「在日」の現実の課題に答えうるものになっているかどうかは、また別の問題である。
朝鮮文学評論家の磯貝治良は、つぎのように言う。金連寿・金石範・金泰生・金時鐘・李恢成などの1世世代ないしはそれに近い2世(前期2世)世代文学は、植民地支配の歴史とその時代の作者の体験であり、また戦後=解放後の祖国の命運とそれとの関わりが色濃いもので、とくに2世世代の作家にとっては、「在日」という境遇のなかでいかに民族のものを獲得するかであり、その葛藤が主題であった。それに対して、同じ2世でも後期2世以降の作家は、「在日」を志向しつつもなお祖国志向の姿勢をもっているが、そこには1世のような祖国感情や前期2世作家のような民族理念とは異なる形の志向がみられ、それはつまるところ、直観的には心情や理念によって結びつくのではなく、祖国との関係における自己を対象化し、くにの社会状況、くにの民衆文化へつながろうとする志向である。また[在日」志向といっても、民族的主体への意志を含めたそれであって、短絡的な同化を意味しない場合が多い。祖国志向といい、「在日」志向といい、それらは切り結び合って、「在日」の意識・存在状況を形成しているのであり、その反映がjまさに新しい世代の在日朝鮮人文学であると言える。しかも、新しい世代の在日朝鮮人文学が、その生き方の中心に「私」を捉え、個の叫びを行動の起点にしはじめたことは、「在日」社会で市民的な主体意識が台頭しつつあることを意味し、それと民族的主体意識との分化、あるいは結合がはじまっていることを物語っている。
*磯貝 治良(いそがい じろう(愛知県出身)、1937年 - )は日本の作家、評論家。「在日朝鮮人作家を読む会」の主宰。金城学院大学非常勤講師。NPO法人「三千里鐵道」副理事長。
ただ、竹田青嗣の評論活動は、民族との関わりでいえば、一種の回避現象を見せている。つまり、彼の作品解説にもとづく文学論は水準の高いものであるが、視座は「祖国」「民族」「民衆」といった”範型”を否定し、いわゆるポスト・モダニズムの立場から、作家の内面に据えられたものである、と言える。それはいわば、「在日」の不遇性を克服されるべきものとしてではなく、それ自体が文学の主題として凝視されるべきものという閉塞性を余儀なくされ、解放への回路を断ってしまっている。
ここで後期2世以降は第三世代の作家として分類されうるが、磯貝はその1人である李良枝については、その著作活動が、民族のものへの開示から次第に「私」への回帰という過程を示しているという。もとより、第三世代の文学表現は非常に多種化しているが、それを特色づけるものは「私」個の叫びをモチーフの基底に据えていることである。換言するなら、そうした「私」個の叫びは、「在日」の状況を含み込んだ民族全体の主題にいまだ関わっていないというのである(30)。
文芸評論家の黒古一夫は、この李良枝、そして李起昇らの第三世代の文学にたいして、より鮮明な批評をしている。つまり、第三世代の作家は、日本の朝鮮人差別の現実について語ることはあっても、それはそれ以前の世代の作品にみられるような「怨念」を覚知することができない。つまり、「差別」に対する糾弾や闘いは見いだせない、と、辛辣である。換言するなら、第三世代の朝鮮人文学の最大の特徴は、「差別」が現前する「社会=日本」から<逃げ>ようとする人物は造形するが、その現実に立ち向かっていこうとする人物を「作品」のなかに見いだすことはできない、と批判する(31)。
*Кадзуо Куроко (яп. 黒古 一夫 Куроко Кадзуо(群馬県出身), род. 12 декабря 1945 года) — японский литературный критик, известный своими исследованиями по современной японской литературе. Преподаватель Университета Цукуба. Член жюри «Премии освобождения бураку».
*Yanji I (jap. 李 良枝이양지, Yangji Lee, Yoshie Tanaka; I Yanji, 田中 淑枝, Tanaka Yoshie; * 15. März 1955; † 22. Mai 1992) war eine japanische Schriftstellerin.
磯貝がいうように、「在日」の意識状況の変化を単純に世代論で割り切ることは危険であるが、新しい世代による在日朝鮮人文学の流れが、作者の個の叫びから出発しながらも、それが「私」の世界に内閉し、「在日」および民族の課題に広がっていないことは確かである。しかも、これは、当然のことながら、「安楽への全体主義」(藤田省三)が浸透しつつある日本社会の意識変化と連動している。そのことは、日本の文学賞が近年、「帰化」朝鮮人や日本人に限りなく近づいた「新人類」と呼ばれる在日3世に多く与えられ、「同化」の文学的要素を含む傾向にあることでも推察される。
芥川賞を受賞した李良枝は、受章直後のインタビューで、「韓国とか日本の問題ではなく、一個の人間としての感性の幅や奥行きを試されていることだと思う」と公言している(32)。また「朝日ジャーナル・ノンフィクション大賞」を受賞した姜信子は、民族という言葉は心に響かず、民族にあまりこだわることは問題の解決に向けてどれほどの効果があるのかと考え込んでしまう。私の民族意識は戦わない、あるのは両者(日本人と朝鮮人)の間に流れる「共に」と願う感情、つまり「共感」である、と述べている(33)。
*姜 信子(きょう のぶこ、カン・シンジャ、1961年[1]〈昭和36年〉 - )は、日本の作家。在日韓国人三世[2]。日本名は「竹田存子(たけだ のぶこ)[3]」。
ここにはやや強調して言うなら、明らかに、「民族」とか「祖国」を口にせず、日本と朝鮮の不幸な過去を語らず、日本の過去の清算についても沈黙する「在日」の新しい「世代」に「共感」する日本のジャーナリズムがある。つまり、「在日」の若い文学者と日本人の「感性」は、差別や蔑視、怨念、反省、償いといったものを欠落させたところで一致点を見いだしている。まさに宗秋月が批判するように「多様さを認めあえない排他意識が先の戦争であり、何故、在日であるのかの自明の理でもある。在日は列島に存続する限り永劫に、その理を問い続ける存在である」。換言するなら、「在日」が歴史の教訓と現在の課題をないがしろにした発言をするとき、それは関係の客観性のなかで、意味を逆転し、日本の排他的体質を温存・助長する役割を果たしかねない。しかも、これは単に領域だけではなく、今日の「在日」の全体状況が秘めている危険性でもある。
いうまでもなく、在日朝鮮人は日本の植民地支配の所産である。この事実はときの流れとともに消え去るものではなく、むしろ、日本が過去の清算をせず、世界に対して排他的・抑圧的な国家として立ち現われれれば現われるほど、逆に重要な意味をもってくる。しかも、「在日」は戦後一貫して南北の分断、民族の分断によって大きく規定され、それはいまも続いている。「在日」の「不遇の意識」も、基本的には日本の法制度と社会意識によるものであるが、少なくとも「在日」に関する法制度の多くの部分は、これまでは韓国政府とその外交交渉で取り決められたか、あるいは韓国政府が黙認してきたものである。しかも、いまや日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化がはじまり、「北」の政策・動向も「在日」のありように大きな影響を及ぼしていくのは必至である。
「在日」はそれ自体政治的存在であり、その政治を欠落させた議論は不毛であるばかりか、危険でもある。当然、南北分断の現実を排した「在日」の議論も、「在日」の未来を照らし出しはしない。実際、「在日」は「三つの国家」にとって、政治の題材であり、治安の対象であり、少なからず利用物でもある。こうしたなかで、「在日」が「朝鮮人」ないしは「韓国人」として生きようとするとき、日本の国家権力とともに、南北朝鮮の権力による統制を受け、また「帰化」して「日本人」になろうとしても、「日本的」な名前を強要され、他者排除の日本の自民族中心主義に加担することを余儀なくされる。
すなわち、「在日」が個としての広がりをはぐくみ、日本社会の不条理と闘い、世界につうじる自由・平等・博愛の普遍性に至ろうとするとき、必然的に日本と南北朝鮮の問題を視野に収め、南北分断や民族全体の課題を意識することを迫られる。それは、「在日」が、「不遇の意識」の原点である自らの出自を凝視し、普遍性に至る「民族」の回路を歩まねばならないことを意味する。

6 イデオロギーとしての「在日」
さきに、今日の民族概念は「エトノス」として把握され、それは個別文化を共有するとともに、自他ともに承認される「エスニック・アイデンティティ」という帰属意識をもっている集団である、と述べた。ここでエスニック・アイデンティティというと、ただちに「エスニシティ」という言葉が思い起こされるが、それは現代世界においてはひとつの国民国家内部に生じている民族間関係の動的なプロセスをふまえて、なおそれぞれの出自と文化的アイデンティティを共有している少数民族集団が表出する性格の総体をさしている。つまり、エスニシティは、国民国家内部において被抑圧の民族集団とは明確に規定されないまでも、国家への同一化とは距離をおくもので、むしろ支配的・被支配の関係では被支配の側に傾斜するものという性格を帯びている。
こうしてみると、「在日」は、「日本国」という国民国家ではないにしても、「民族」というよりはむしろ、「エスニシティ」として把握するほうが社会科学的に説明しやすいということにもなる。実際、在日1世はともかくとして、2世・3世はともかくとして、2世・3世・4世は、言語や文化、生活慣習といった民族の外的な諸指標では計れなくはりつつあり、しかも朝鮮語が話せないからといって、朝鮮のナショナリズムをもっていないというわけでもない。日本生まれの若い世代にとって、故郷(くに)はどこかと問われても、なお日本とは心情的に答えたくなく、さりとて暮らしたこともなく、多くは行ったこともない朝鮮だと言うわけにもいかない。しかも日本での定住が自明であるといっても、「朝鮮系日本人」や「韓国系日本人」という概念も事実上存在していない。「在日」にとって、「民族」とは、「出自」そのものであるという所以である。
現代世界において、民族は、かつてない波動状態の巨大なエネルギー源となっている。抑圧されてきた民族ほど民族意識が強く、排他的であるという歴史のなかで、旧ソ連邦や東欧圏では民族自決・国家建設の激しい闘いが続いている。また経済的破綻と民族紛争は、世界的規模で難民を排出し、生きるために四方に流出した彼らはそこでも民族問題を誘発しつつある。
しかし、そうした文脈において、在日朝鮮人は「民族自決権」という意味では、この日本で自決しゆる民族ではなく、母国をもつ「定住外国人」であり、日本の「市民」でもある。在日朝鮮人が「在日」として生きるアイデンティティの追求も、マジョリティとしての日本人が幸福になる方向においてのみ模索されるものである。そのことは1970年代後半以降に噴出した「在日」の反差別・諸権利獲得運動が、基本的に日本人との共生・共存を求めるものであったことにみられる。実際、1980年代をつうじて展開された指紋押捺拒否闘争をみても、それは日本人と朝鮮人の友情と連帯をはぐくみ、日本の民主主義の深化をもたらすのみであった。また今日急速に展開されつつある公務員・教員採用等における「国籍条項」の撤廃や強制連行者・軍人・軍属・従軍慰安婦などに対する戦後補償を求める運動にしても、それらはすべて日本の平和と民主主義を真に普遍的なものに高めようとする闘いでもある。
もとより、第二次世界大戦終了後の”戦後”の日本では、米ソ冷戦体制のなかでの「平和」と「経済」が、日本人の社会意識、そして一定の「反戦」意識の基盤ともなってきた。しかし、それはあくまで、歴史に対する責任を欠いた自民族中心主義の傾向をもつもので、国家によるイデオロギー的統合の方策に沿うものであった。今日いわれるところの「国際化」のスローガンをみても、それは日本経済の構造転換のなかで、国民の意識の高揚=国家統合の強化を狙うもので、それは現実には「国民」「非国民」の峻別を基礎にした国民統合の強化を意図するものである。その意味において、「在日」にとって、日本人への同化は、まさに人間性と思想性の解体以外の何物でもないものとして作用してきた。
こうしたなかで、日本人と在日朝鮮人は、1990年代の今日、植民地の支配・被支配によって傷ついた”双方の自己復元”(金時鐘)をいまもって課題とせざるを得ない。それは近代の国民国家形成の時代にあって、一方が植民地の支配国となり、他方は植民地に転落することによって苛烈に生み出された民族差別との闘いでもある。しかもそれは、「国民国家」のシステム自体乗り越えられるべき「ボーダーレス」の時代にあって、人びとを差別化・序列化してやまない「国家」という概念そのものとの闘いにもつながる。
しかし、それは、金時鐘の言うように、在日朝鮮人が被差別という被害者意識におしとどめることによって、挑戦と日本の民族の融和を空位にし、心ある日本人は、朝鮮人を自己の現在意識が照射される対象に位置づけるあまり、朝鮮人の内部矛盾を看過し、温存せしめるという、互いに照射しあう地点に立てない相関関係を打破する(35)、ことを前提とする。それは、「在日」の立場からするとき、差別・抑圧者である日本・日本人を論難する以前に、「在日」という自己自身への凝視と省察が不可欠であることを意味する。
すなわち、「在日」を生きるということが、人生を現実にどう生きるかということとすでに同義語になっているなかで、その核心は「不遇の意識」から出発しながらも、いかにして自己変革、思想変革をなしとげて、世界につうじる普遍性を獲得するかである。そこでは「在日」という人間存在の「不確実性、暫定性」(ニーチェ)を積極的に受け入れるとともに、民族意識と市民意識の結合によって、より高次の民族的アイデンティティと、”内外人平等”という日本基準の一種の「閉鎖性」を乗り越える市民的権利獲得への意欲が求められる。しかも、その意味には、植民地人としての歴史性からして階級的視座があってしかるべきであり、また分断を克服する「統一祖国」への希求があって当然である。その意味において、「在日」とは、実践への意欲、変革への意欲を内に秘めたイデオロギーであり、世界の普遍性に至る意志でもある。
あとがき
「「在日」を生きるとは」と題する本書は、在日朝鮮人2世の1人として、まがりなりにも「在日」の過去と現在を整理し、未来への方向を模索しようとしたものである。本書はまた、筆者がこれまで在日朝鮮人と関連して、戦後日本の思想や歴史、日本国家や日本人のありようをさまざまに論じ、批判してきたなかで、主体の問題として「在日」を総括することによって、批判する側としての最小限度の責任を果たそうと意図したものである。
本書は序論と7章からなるが、新稿の序論を除いて、各章の議論が最初に発表されたのは1990年8月から1992年1月にかけてである。その時期はちょうど、旧ソ連・東欧圏の激動、とりわけ1991年のソ連の「8月革命」に象徴される「社会主義の崩壊」、「米ソ冷戦の終焉」の激動期である。朝鮮と関連していうなら、1991年に日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化交渉が開始され、同年9月には南北朝鮮が国連に同時加盟した時期である。在日朝鮮人に関しても、内外の急激な情勢変化のなかで、日本政府の「入管特例法」の公布・施行や、指紋押捺制度の廃止を含む「外国人登録法改正」の動きなどによって、「在日」の法的地位が大きく変ろうとする時期である。本書に収録した論稿のうち、既発表論文の初出を明示すると、つぎのとおりである。
I「朝鮮人にとっての国境」-「季刊窓」第5号、特集・国家とはなにか、1990年10月 II「在日1世の思想」-「季刊窓」第6号、特集・民族とはなにか、1990年2月 III「在日朝鮮人の<内なる天皇制>-「別冊 文芸・天皇制」【歴史・王権・大 祭】河出書房新社、1990年11月 IV「帰化についての考察」-神奈川大学人文学研究叢書(7)「民族と国家」の諸問題」神奈川新聞社、1991年1月、所収 V「「在日韓国・朝鮮人」という言葉」-「ほるもん文化」1、特集・一冊まるごと在日朝鮮人、新幹社、1990年9月 VI「置き去りにされた「在日」」-「世界」第544号、特集・戦後責任を問う、1990年8月 VII「「在日」を生きるとは」-「思想」第811号、1992年1月
このうち、今回、こうして一冊の本にまとめるにあたって、とくに第V章、第 VI章の論稿に若干の修正や加筆をおこなった。「在日」に関する筆者の認識の論稿としては、本書に収録されたもの以外に、「在日」における民族と国家」(拙著「異質との共存」岩波書店、1987年、所収)、「「昭和史」における在日朝鮮人と日本国家」(拙著「孤絶の歴史意識」岩波書店、1990年、所収)、「「再入国許可書」と渡航の自由」(「世界」1990年1月号)、その多くは「在日」のありようと関係するもので、あわせて参考にしていただければ幸いである。
最後に、各章の原論文を掲載していただいた各出版社の編集者、そして本書の刊行を引き受けて下さった岩波書店の皆さんに感謝の言葉を述べたい。とりわけ、今回も編集の労をとられ、適宣に貴重な助言を惜しまなかった岩波書店「思想」編集長の合庭惇氏に、厚くお礼を申しあげたい。
                                1992年6月       尹健次

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