日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★Agresmilito, konkermilito aŭ invada 侵略戦争★本多勝一的战争理论“侵略” /Katsuichi Honda's theory of war "Aggression" /本多勝一の戦争論「侵略」をとらえる目⑥


この日の昼すぎ、記者団と別れた私たちは、サイゴンを車で出てメコンデルタに向かった。私たちとは、サイゴンの旅行社につとめているガイド兼通訳・グエン=ダン=チュー氏と運転手である。目的地は、38年前に1ヵ月潜入して生活を共にしたゲリラたちの拠点、チャビン省のコチエン島だ。メコン川コチエン分流の中にある。
久しぶりに見るサイゴン市街は、貧民街に相当するところが目につかない。かつてのようなボロ車もなく、その点は日本の車列の風景とあまり変らない。人力車は激減したものの僅かに残っている。オートバイの量は相変わらず圧倒的だが、輸入ものと自国製がほぼ半々、輸入は日本のほかに中国と韓国からもあると聞いた。いずれにしても民衆の漲る活力は戦争中と変らない。
郊外には新しい共同住宅棟群が目立ち、さらに新しい共同住宅棟計画で広く整地されている。チュー氏によると、サイゴンの居住市民は公称540万人だが、実際は700万人だとか。メコンデルタに向かう広い有料道路も新しいが、べつに高速道も計画されている。
ロンアン省にはいったあたりの屋台店に、焼酎の壜が並んでいる。三色あるのを店主が説明した。白は米から作り、「酒好きはこれですね」。赤は糯米から、黒は薬用酒で「年寄りはこれを選ぶ人が多い」。
「ハンモック喫茶店」で休む・店内には椅子のかわりにハンモックがつるされていて、寝て休む方式。こういう着想も昔はなかったなあ。池の上に便所を作って糞で魚を飼うメコンデルタ方式は健在だ。この池で水野菜も作るから実に無駄がない。ここで生長した魚は、食べるときパイナップル・タマリンド・タロイのズイ・水野菜などと共に煮魚にすると匂わないそうな。メコン川にできた新しい橋を渡ってコチエン分流ぞいに南下し、この日はチャビン市で泊る。チャビンってこんなに大きな町だったかなあ。町の通りはネムの花ざかりだ。今年はメコンの水が少ないので海水が奥まで侵入し、田んぼに水が引けないという。雨季が始まっていいころだが、まだ全く降らない。
チャビンの郊外に出て、メコンの川岸でサンパン(小舟)をたのむ。3万ドル(約2万ドル=二百余円)。ああ、38年前にゲリラに案内されて解放区へ向かったときも、そこから1ヵ月後に脱出したときも、このようなサンパンだった。あのときの風景が脳裏によみがえってつい涙腺が刺激されてしまうのも、歳月を重ねた老体の証明なのだろう。
メコンはやはり途方もない大河だ。このコチエン分流にしても幅が何キロあることか、目測では見当もつかぬ。大きな連絡船も往来する。気付いた一件に、ニッパヤシ林がかなり復活していることがある。ゲリラに案内された当時は、河岸はもちろん大小のザック(自然の運河)もマングローブ林やニッパヤシ林が鬱蒼と繁っていたが、非人道的な手段であれ一切を考慮せぬ米軍は、これがゲリラ活動に好都合と知るや、例の枯葉剤空中撒布作戦を展開しした。

*枯葉剤(かれはざい)は、除草剤の一種でありアメリカの植物学者、アーサー・ガルストンによって発明された。その後モンサントによって量産され、化学兵器として軍事利用された。ちなみに、ベトナム戦争で撒布された枯葉剤はダイオキシン類の一種2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) を高い濃度で含んだものであり、通称オレンジ剤とも呼ばれている。

Esperantoエスペラント語→Senfoliilo (aŭ kiel neologismo defolianto) estas ajna kemiaĵo ŝprucita aŭ senpolvigita sur plantoj por kaŭzi ke ĝiaj folioj forfalu. Klasika ekzemplo de tre toksa senfoliilo uzita por taktikaj celoj estas Oranĝa Agento, kiu estis uzita ĝenerale de la usona militistaro dum la Vjetnama Milito de 1961 al 1970.
30年前のサイゴンに陥落・米軍敗走の直後、私はハノイからサイゴンにはいり、さらにこの解放区も訪ねた(*1)。驚いたのは、ニッパヤシ林がハダカにされて見通しがよくなっていたことだ。ワシントン大統領が先住民族(インディアン)絶滅作戦を始めて100年間に、伝染病散布をはじめどれだけ無茶苦茶をやったか。それは日本での原爆からイラクでのウラン弾にいたるまで、以後も続けられてきた。枯葉剤作戦もその一例である。日本に手術にきたベトちゃん・ドクちゃんなどのように、さまざまな奇形児・異常児が生まれた。合州国の本質は二百数十年変わらない。そのように裸にされたニッパヤシ林が、今ある程度よみがえっている。

*ベトちゃんドクちゃんは、下半身がつながった結合双生児としてベトナムで産まれた兄グエン・ベト(Nguyễn Việt, 漢字: 阮越、1981年2月25日 - 2007年10月6日)、弟グエン・ドク(Nguyễn Đức, 漢字: 阮德、1981年2月25日 - )の双子の兄弟の日本語による愛称である。兄弟を指して80年代から90年代にかけて日本のマスコミなどで呼び習わされた。2人が結合双生児となったのは、ベトナム戦争時に米軍が大量に散布した枯葉剤の被害の可能性があると報道された。1988年、ベトが急性脳症となったことを契機として手術で分離した。

Tiếng Việtベトナム語→Hai anh em Nguyễn Việt (25 tháng 2 năm 1981 – 6 tháng 10 năm 2007) và Nguyễn Đức (ngày 25 tháng 2 năm 1981) là cặp sinh đôi dính liền sinh đầu tiên ở Việt Nam. Được kỷ lục thế giới ghi nhận và được quốc tế đánh giá cao. Được hỗ trợ bởi các tổ chức như hội chữ thập đỏ và chính quyền Việt Nam, họ đã được phẫu thuật tách rời vào năm 1988. Việt qua đời vào năm 2007.[1]
コチエン島に上陸すると、まっすぐロンホア村のセオラン部落へと田んぼ道を歩く。水をひかれず泥がひび割れている田も少なくない。小さな街村状に並ぶ家の間の小路を抜けて、昔のことをよく知っているという農民の家に案内された。グエン=ミン=ダト氏(78歳)。用意してきた38年前の写真を見せる。
消息を最も知りたかった2人は、当時「巨人」と私たちが呼んでいたカオ=ヴン=ギェム氏と、解放区滞在中の世話役だったグエン=ヴン=オン氏だ。「あ、この人は去年亡くなりました」巨人の写真を見るなりリダト氏は言った。身長180センチ以上の巨人氏をこの島で知らぬ者はなかった。ダト氏とほぼ同年で、通称「ハイさん」と呼ばれていたそうな。
そして、オン氏もまた、15年ほど前に病死していた。「生きていれば80歳近いはずです」とダト氏は言う。当事「チューさん」と偽名で呼んでいたオン氏は、実名サウ=ジエンだった。地雷をふんで右足を失ったためか、30年前に再会したときは元気がなかったが・・・。
ロンホア村にはほかにも会いたい2人のゲリラ女性がいた。私たちのための料理も作ってくれた若い2人だが、生きていればやはり70歳以上だろう。ニッパヤシ林を背にした2人の写真を見たダト氏の娘が、この2人を知っている老女がいるというので、近くのその農家まで案内してもらった。だが、サウ=トゥームという67歳の彼女によれば、2人はチャビンからゲリラとして来ていたが、2人とも死んだという。
要するに、つまるところ、38年前に親しく接した人々は、すべて亡くなっていた。若いゲリラの大部分が戦死していることは30年前の再訪のとき知ったが、若くない世代もこうなった。村の地方警察も訪ねたが、若い駐在は何も知らない。この村の戦死者は804人に達した。
ベトナムを旅行する外国人よ。全土いたる所にある殉死者・戦死者の共同墓地に注目されよ。解放戦線(南ベトナム)だけで戦死が約200万人、全墓地の全住宅のそれより広いという。ほかに北ベトナムの戦死者やサイゴン政府軍の膨大な戦死者がいる。これに対する合州国の戦死者は(わずか)5万4000人。侵略された側は、ここまで犠牲を払って史上最大・最強の侵略軍を追い出したのだった。
サイゴンの宿で深夜便を待つ間、昔よりはるかにうまくなったベトナム=ビールを飲みながら想う。ひどい後遺症はまだまだ続く。だが一つの「時代」は過ぎた。世代が変ったのだ。しかしイラクを見よ。ワシントン以来の合州国侵略史は世代を超えてなおも進行中である。しかもウラン弾の放射能は何万年も残る。枯葉剤の影響も長期にわたっているが、それをはるかに上回る期間の被害をもたらすのだ。そんな侵略軍に呼応して自衛隊をイラクに派兵した小泉首相の日本と、そんな小泉を支持する多数の日本人・・・。
*1 サイゴン陥落時の解放区再訪のルポは、拙著『ベトナムの戦後を行く』(朝日新聞社・1997年=『本多勝一集』第13巻)に収録。
*2 ウラン弾に「劣化」の語を付けないことについては『週刊金曜日』2002年6月21日のイラク=ルポ第5回参照=拙著『非常事態のイラクを行く』(朝日新聞社)に収録。(『週刊金曜日』2005年6月10日)

「花はどこへいった」が伝えるベトナムの現在
久しぶりに映画の試写会を見に行った。映画(わが少年時代は「活動写真」が大好きな割に見る数が少ないのは、ジャーナリストとしての本業が今なお多忙ということのほか、映画以外にも好きなことが多いので絶対時間が少なすぎるのだ。山にも登りたいし絵も描きたいし音楽も聞きたいし友人と飲みながら語りたいし・・・。
映画の試写会案内が来てもあまり行けなかった上に、3年ほど前だったか、行ったら満席でことわられたので、以来全く行かなくなった。こんど来た試写会案内は『花はどこへいった』と題してベトナムの枯葉剤(ダイオキシン)問題を扱っているというので、満席でことわられないよう席を予約してから行った。
行ってよかった。こういう作品に「感動」とかいった陳腐な単語を並べたくないし、中身についてもあまり詳述すべきではあるまい。とはいえ表題だけではわからぬから一言で説明すれば、ベトナムに侵略した米軍C123プロバイダー双発輸送機の編隊が、戦争中に幾度となく散布した膨大な枯葉剤による、地上の人間にもたらしたその悲惨な結末である。3,40年も前のこの非道のおかげで、今なお想像を絶する醜怪な(とあえて書く)障害の新生児が続出しているのだ。
ひどい。「とても人間とは思われぬ」といった表現があるが、動物でも昆虫でも、かつそれが何らかの障害をもった場合でも、こういう人工的原因以外の変形ではこれほど醜怪ではない。ゲジゲジやヒルのような”下等動物”もそれなりの整合性をもった存在であって、決して醜怪ではない。


終らない米国の犯罪 
だが、そのような醜怪な「わが子」を抱きしめていたわる母親たち、その顔、その表情・・・。どうして見る側が涙をこらえられようか。撮影する側もおそらくそれを感ずるからこそ、母親の表情からレンズをしばらく離さない。この視点は、やはり女性の監督・撮影(坂田雅子氏)によるものだからなのだろうか。この人の「初監督作品」とのことだが。
四捨五入すれば80歳になる「老新聞記者OB」は感受性も鈍くなっているだろうが。それでも見終わった試写室で思わず拍手を送りたかった。でもこの深刻な内容に拍手はふさわしくあるまい。そして「記者OB」としてはこんなことも脳裏をかすめたー
これは現役の新聞記者だったら大型ルポルタージュとしてやれる仕事だ。写真と記事で1人でも可能なルポの典型であろう。新聞の一頁全体を当てるとか、連載形式だとか。げんに20年たらず前まではそれがよくあって、記者の名とともに実例を挙げたこともある(*1)。
俺自身の記事でも、この坂田作品に関連してベトナム報道の場合でいえば、連載は『戦場の村』を96回つづけたし(*2)、全頁をつぶした一発モノも4回(うち1回は3頁に及ぶ写真特集=藤木高嶺氏の写真と拙文)やっている。『朝日新聞』は来月から字を大きくするほか、「読みごたえのある大型ルポ」に力を入れると予告(2006年3月1日朝刊)したから、おおいに期待して見守ることにしよう。
さらに想う。米軍によるイラクへのウラン弾(いわゆる劣化ウラン弾)使用だ。『週刊金曜日』で現地報告したように、その残酷さは枯葉剤をしのぐばかりか、はるかにひどいことに放射能被害が今後どれほどつづくものか見当もつかぬ。しかも合州国政権は、こうした巨大犯罪の責任を認めようともしないのだ。

*劣化ウラン弾(れっかウランだん、Depleted uranium ammunition、略称DU)とは、弾体として劣化ウランを主原料とする合金を使用した弾丸全般を指す。Deutschドイツ語→Uranmunition, auch DU-Munition (von englisch depleted uranium), ist panzerbrechende Munition, deren Projektile abgereichertes Uran enthalten.
実は初代アメリカ大統領たるワシントン自身が、この巨大犯罪の元祖である(*3)。大統領就任後、頭部のアレゲーニー山脈を越えて先住民(俗称インディアン)への侵略を開始して以来、1890年(明治23年)の「ウンデッド=ニー虐殺」で北米大陸(今の米本土)での侵略が終わると、つづいてハワイ・フィリピン・ベトナム戦争等々(日本もか)を経てイラクにまで、それは二百何十年間連続しているのだ。
*1 『週刊金曜日』2006年11月24日の「新聞はおもしろいルポを書いてくれ」参照
*2 『朝日新聞』1967年4月から12月まで「戦争と民衆」と題する6部作・その第5部が『戦場の村』だったが、単行本ではこれを全体の表題にした(第6部は「解放戦線」)。
*3 たとえば本書120~121ページなどを参照。
なお、関連して藤永茂氏の著書『「闇の奥」の奥』(三交社・2006年)を推しておきたい。
とりわけVI(最終章)『「闇の奥」の奥」に何が見えるか』は、こうした巨大犯罪を考えるための大きなヒントとなろう。「アメリカ合衆国の歴史を、その建国から一貫して、帝国主義的拡大の歴史として見ることが可能である。」として、ワシントン以来ウンデッド=ニーでの北米住民(インディアン)最終大虐殺からキューバ、プエルトリコ、グアム島、フィリピン諸島、ハワイ諸島、そしてベトナム、イラクに到る”道すじ”をわかりやすく説明している(この中でフィリピンでの米軍総司令官アーサー=マッカーサーは、日本占領総司令官ダグラス=マッカーサーの父親)。
フィリピンでのこの米比戦争で「アメリカ軍戦死者は4200人とされている。フィリピン川の死者総数は60万と推定される。ゲリラの活動を封じるために無数の村落が焼き払われ、住民は強制収容所に引き立てられた。」「アメリカ軍司令官の1人ジェイコブ=スミスが下した明快そのものの命令を書き留めておく。-「10歳以上はすべて殺せ」(Kill everyone over ten)。この男は、ウンデッド=ニーの北米先住民大虐殺にも参加した古参の軍人であった。」(『週刊金曜日』2008年3月21日)

ベトナム戦争に酷似してきたイラク
ベトナム戦争は、もともとベトナム人によるフランス独立戦争だった。第二次大戦で日本が敗退したあとのベトナムに、フランスはまた植民地にすべく占領軍を送ってくる。そうはせせまいと、ホーチミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)が対決する。その最後の決戦が、1954年の有名な「ディエンビエンフー」であった。
本来であれば、ベトナムはこれで独立を完了していたはずだ。が、そこに介入したのがアメリカ合州国、このワシントン以来二百余年間にわたって西へ西へと侵略をつづけてきた軍事大国である。その残酷爆弾や枯葉剤作戦等々に対し、ベトナムは歴史的伝統ともいえる徹底したゲリラ作戦で抵抗する。合州国は反戦運動も高まり、どうにも手におえなくなって戦争の「ベトナム化」政策をとった。つまりアメリカ兵を引揚げるかわりに、その配下にあった南ベトナムのサイゴン政権軍(これをカイライ軍とするのがベトナムの正史)に責任を押しつけて撤退する。アメリカ合州国始まって以来二百余年にして初めての歴史的敗北である。ベトナムのこの勝利は、日露戦争でヨーロッパが初めてアジア(の日本)に敗れた意味以上の歴史的大事件といえよう。「ベトナム化」によってサイゴン政権は北ベトナム軍(および「南」の解放戦線)と直接対決する”内戦”となったものの、もともと使命感などない「南」の”カイライ軍”の崩壊は歴史的必然である。サイゴン落城のどたん場、アメリカ大使館員やその配下たちが、沖に待機する米軍艦にヘリコプターで脱出するときの悲喜劇は、世界中がテレビで”観戦”できる貴重な現代史でもあった。

自衛隊の役割とは
あれから30年。いま合州国はイラクに侵略・占領中だ。『東京新聞』の2005年7月18朝刊「こちらの特報部」がまとめた「激変・イラクの政治力学」をみると、その戦争の経過がベトナム戦争のそれとますます酷似してきたことに改めて感慨をあらたにする。その「デスクメモ」にいわくー
「・・・軍事力を背景に、思い通りの新政府を作ろうという米国の試みは無謀にすぎる。まして十分な計画を欠いていたとなれば、既存、そして、新たな勢力が入り乱れるのは必至。やっぱりね。米国は「イラク化」をどう正当化するのかな。(若)」
イラクは南北分割こそなされなかったものの、クルド地帯といった大きな反政府地域があった。さらにシーア派とスンニ派という対立する二大宗教分派をかかえる。サダム・フセイン元大統領は、独裁政権であれ、ともかくこうした諸対立を抑えこんでいた。
*クルド人(クルドじん、クルド語: Kurd, 英語: Kurds)は、中東のクルディスタンに住むイラン系山岳民族。
*シーア派(アラビア語: الشيعة‎、ラテン文字転写:ash-Shīʻa(h)、ペルシア語: شیعه‎、アゼルバイジャン語: Şiəlik)は、イスラム教の二大宗派の一つで、2番目の勢力を持つ。
*スンナ派(アラビア語: أهل السنة (والجماعة)‎ 、ラテン文字転写:Ahl as-Sunnah (wa’l-Jamā‘ah))、あるいはスンニ派(日本では報道などでこちらが一般的に知られる)は、イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつとされる。
国連を無視して明白な侵略に走った合州国ブッシュ政権だが、2008年4月にイラクの「暫定政府」を「移行政府」にして発足させて以後も、武装勢力とか抵抗勢力とかよばれる側からの攻撃は一向に衰えず、サダム=フセインの統率力にさえ及ばぬうちに、アメリカの世論調査を過半数がイラク政策反対となり、ついにベトナム同様「どうにも手におえなくなって」戦争の「イラク化」政策をとらざるをえなくなった。
抵抗勢力とか言っても、要するにこれはゲリラ戦争ということだ。かつての「アルジェの戦い」(アルジェリア独立戦争)に近い。ベトナムのような解放区や組織の堅い解放戦線はまだないのであろうか。攻撃の手段に「自爆テロ」が多いことは、不当な侵略に対する怒りや使命感がベトナム以上に強いことを意味しよう。神風特攻隊との違いはすでに論じたが(*1)、イスラーム的世界観たるジハード(聖戦)意識があるとはいえ、全宇宙にかけがえなき自らの生命を投げうってアメリカ帝国主義と対決するのだから(ただしそれが、侵略への正当防衛とはいえ、無関係な市民を巻き込むことをよしとするものではない)。
*サラフィー・ジハード主義(サラフィー・ジハードしゅぎ、アラビア語: السلفية الجهادية‎)は、フランスの政治学者ジル・ケペルによる造語で[1]、サラフィー主義において1990年代半ばに勃興したジハード運動体もしくは思想[2]。

*アルジェリア戦争(アルジェリアせんそう、英語: Algerian War, アラビア語: ثورة جزائرية‎; フランス語: Guerre d'Algérie)は、1954年から1962年にかけて行われたフランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争。フランス本土と当時はフランス領(名目上は植民地ではなくフランス本国の一部とされた)であったアルジェリアの内戦であると同時に、アルジェリア地域内で完全なフランス市民権を付与されていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、対照的に抑圧されていたベルベル人やアラブ系住民などの先住民(indigene,アンディジェーヌ)との民族紛争及び親仏派と反仏派の先住民同士の紛争、かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもある。
「イラク化」のあとのイラクは、当然ながら「国内情勢が、安定より内戦へ向かっている」(『東京新聞』)。そして「米軍という「保護者」の弱体化は、イラク南部サマワに駐留する自衛隊に不安材料となることは間違いない」(同)-つまりイラクに小泉が派遣した自衛隊の役割は、ベトナムに派兵した当時の韓国軍、私も従軍した「猛虎師団」等の米カイライ兵的役割そっくりなのだ。
*1『週刊金曜日』2005年6月10日の「風速計」。また2001年9月21日号の拙文「無差別テロを『真珠湾』や『神風特攻隊』と一緒にするな」も。(『週刊金曜日』2005年7月29日)

原爆を製造した良心的科学者の死
第二次世界大戦中、アメリカ合州国の原爆開発「マンハッタン計画」で中心的な役割を果たし、水爆開発にも関与した物理学者・ハンス・ベーテ博士が、2005年3月6日にニューヨーク州イサカの自宅で死去したことを、日本でも在米記者の記事として各紙とも2005年3月8日夕刊で伝えた。98歳だった。
*マンハッタン計画(マンハッタンけいかく、英: Manhattan Project)は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツなどの一部枢軸国の原子爆弾開発に焦ったアメリカ、イギリス、カナダが原子爆弾開発・製造のために、科学者、技術者を総動員した計画である。計画は成功し、原子爆弾が製造され、1945年7月16日世界で初めて原爆実験を実施した。さらに、広島に同年8月6日・長崎に8月9日に投下、合計数十万人が犠牲になり、また戦争後の冷戦構造を生み出すきっかけともなった。

*ハンス・アルプレヒト・ベーテ(Hans Albrecht Bethe, 1906年7月2日 - 2005年3月6日)は、アメリカの物理学者。シュトラスブルク(当時ドイツ領、現フランス・ストラスブール)出身のドイツ系ユダヤ人移民。1967年、「原子核反応理論への貢献、特に星の内部におけるエネルギー生成に関する発見」によってノーベル物理学賞を受賞した。
「米政府の臨界前核実験やイラク戦争への参加に反対した」(『東京』)「打倒ナチスを目ざして開発した原爆は広島に投下された。「想像以上の威力だった。2度と繰り返してはならないと感じた」(1996年、AP通信)ことから、戦後は一貫して核軍縮を支持」(『朝日』)。
記事を読みながら、さまざまな思いにかられた。ノーベル賞なるものの愚劣さはさて措て(*1)、ベーテ氏が良心的かつ真摯な学者だったことに疑念の余地はない。長命だっただけに、戦後60年をひたすら平和のために働いたが、それは戦前にやった原爆開発という人類史上の巨悪への償いの気持ちもあっただろう。
だが、合州国の内部も”探検”してあるいた者の目からすると、いくばかの疑問符もつけざるをえない。これはベーテ氏個人というよりも、その周辺の「アメリカ的情況」によるものなのであろうか。
まず情況全体からして、今のイラク侵略に到るまでの「合州国侵略史」を、ベーテ氏はいささかも変更することはできなかった。チョムスキー氏に代表される尊敬すべき良識人はいても、それが決して主流になることはなく、侵略は常にすすめられてきた。ベーテ氏やチョムスキー氏は、結果的に免罪符の役割をつとめさせられることになる。

*エイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky、1928年12月7日 - )は、アメリカ合衆国の哲学者[1][2]、言語哲学者、言語学者、認知科学者、論理学者[3][4]。マサチューセッツ工科大学の言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授[5]
ベーテ氏は広島の惨劇に「予想以上」というが、その前の「世界初の原爆実験「トリニティ」の現場にも居合わせた(『毎日』)のだから、惨劇は十分に予想できたはずだ。この原爆実験の映画を私も見たことがあるが、あれで惨劇が予想できないほど弱い想像力なのか。

*トリニティ実験(トリニティじっけん、英語: Trinity)とは、1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験である。
もっと問題なのはその後の放射能である。本誌で2001年に発表した私の現地ルポ「アメリカは変ったか?」(現在は『週刊金曜日』別冊ブックレット④に収録)を思い出していただきたい。そのIX章「先住民像はどうなっているのか」で報告したように、放射能を放つウラニウム鉱の危険性を、合州国政府は住民や鉱山労働者に一切かくしてきた。それが戦争中の軍事機密だからというならまだしも、戦後も延々何十年間にも及んだ。その結果、主たる住民のナバホ人たちは、やがて続々とガンで死にはじめる。「ロスアラモス(原爆製造地)から現地の先住民族に危険を訴えて内部告発する良心的科学者は、ついに何十年間も現われなかったのだ」(ルポ『アメリカは変ったか?』から)

*ナバホ族(ナバホぞく、Navajo)は、アメリカの南西部に先住するインディアン部族。アサバスカ諸語を話すディネの一族。「ナバホ」とは、テワ・プエブロ族の言葉で、「涸れ谷の耕作地」という意味。

とくに肺ガンが多く、1993年の調査ではウラニウム鉱労働者のうち死者も含めると68%に達する。周辺の一般住民のガン発生率も全米平均の17倍だ。飲料水に含まれるウランが通常の30倍に達するなど、詳細は右のルポに書いたが、最大の問題は合州国の体制側がその危険性を現地でかくし通してきたことにある。あまりにひどい状況にナバホ人の側が騒ぎだし、ワシントン政権が「放射能被爆賠償法2000年」をやっと成立させたものの、これでは全く不十分なので、修正すべく現地での闘いがさらにすすめられている。
こういう場合、足もとのひどい放射能災害にベーテ氏がやったという報告は一切聞かない。ベーテ氏をドイツから招いたオッペンハイマー博士も、水爆製造反対などに加わった良心的科学者だが、足もとの人類の災害に対して何か貢献した形跡はない。

*ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer, 1904年4月22日 - 1967年2月18日[2])は、アメリカ合衆国の理論物理学者。戦後は核実験停止運動や核兵器廃絶に積極的に取りくみ、ノーベル物理学賞も受賞した・・・ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は東欧ユダヤ人の画家エラ・フリードマンである。弟のフランク・オッペンハイマーも物理学者。

広島への惨状に関しては前述のとおりだが、これもまた「実験場」だったことと、ソ連への脅しが目的だったこと、さらに原爆はドイツ降伏以前から投下対象がドイツではなくて日本の”黄色いサル”を目標にしていたことなどは進藤榮一氏の分析(ちくま『敗戦の逆説』、岩波『分割された領土』など)で明白だが、こうした情況にベーテ氏もオッペンハイマー氏も、結局は何のブレーキ役も果たさなかった。
単純な「無知」なのだろうか。似たようなことは日本でも「科学者」の一部にしばしば見られる、責めては気の毒だが・・・。

*1 ノーベル賞の愚劣さは、拙著『殺される側の論理』(朝日文庫)収録の「『ノーベル賞』という名の侵略賞・人種差別賞」と「笹川良一氏にノーベル賞を」。また同書の著作集版(『本多勝一集』第17巻=朝日新聞社)収録の「昭和天皇こそノーベル賞を!」参照。関連書に拙著『大江健三郎の人生』(毎日新聞社)。なお大江氏との間でつづいた「やりとり」は朝日新聞社の『本多勝一集』第21巻「愛国者と売国者」(1997年)第3部に収録されている。(『週刊金曜日』2005年3月25日)

遅すぎたクラスター爆弾禁止条約
クラスター(集束)爆弾の製造や使用を禁止する「クラスター爆弾禁止条約(オスロ条約)」の署名式がノルウェーのオスロで2008年12月3日に開かれ、日本を含む約90カ国が署名した。米国・ロシア・中国といった大国が加わっていない点に大きな限界があるとはいえ、重要な「第一歩」には相違なく、かつてベトナム戦争で北ベトナム(当時)や17度線周辺を取材したところ、米軍による爆弾の非人間性に強い怒りを覚えたものだ。

*クラスター爆弾(クラスターばくだん、英語: cluster bomb)は、容器となる大型の弾体の中に複数の子弾を搭載した爆弾である。クラスター弾、集束爆弾(しゅうそくばくだん)とも呼ばれ、昔は親子爆弾[注釈 1]とも呼ばれた。
*クラスター弾に関する条約(クラスターだんにかんするじょうやく、英: Convention on Cluster Munitions)は、クラスター弾の使用や保有、製造を全面的に禁止する条約。
「人道的爆弾」などというものがそもそも形容矛盾であることは措くとして、もし爆弾が空から正確に”敵方”の兵器なり兵士なりだけに命中し、しかも周辺の無関係市民らに全く被害がないものなら、カタチとしてはそういう爆弾もありうるかもしれぬが、そんなことはまず不可能。必ず周辺の「それ以外」に被害が及ぶ。
だが、米軍の最前線に従軍し、かつ北ベトナムや解放戦線の最前線にも従軍取材した者として、いやさらにアメリカ合州国本土の末端米兵や第一次イラク戦争の現場を取材した者として言えば、コトはそんなレベルの話ではない。「それ以外」の被害など眼中にないどころか、当初から「それ以外」自体を目標とすることさえ珍しくは全然ないのだ。
典型的な一例は、パリでの和平協定調印にいたる直前の1972年12月、ハワイの中心部市街地にB52の12日間にわたるジュウタン爆撃で”圧力”を加えたことだが、それ以前に北ベトナムの中小都市は「それ以外」たる民衆の民家すべてを爆撃や艦砲射撃で破壊しつくし、瓦礫の平坦地と化している。そのひどい実態はルポ「北爆の下」(『本多勝一集』第13巻=朝日新聞社)で詳述したとおり。
実はこのやり方が、ワシントン政権以来二百数十年の「アメリカ合州国史」そのものであることを、ワシントン以前の歴史も含めた長編として書くことも、「老後」の仕事のひとつとして予定している。
で、クラスター爆弾とはどういうものか。種類はさまざまだが、基本は親爆弾を投下すると空中で爆発して多数の子爆弾となり、地上に達すると地面・家屋・木の枝など手当り次第に爆発する方式である。これはベトナム戦争中にハノイで実物やその被害者らを取材した場合でいえば、当時の米軍でとくに”開発”されて有名になったボール爆弾がある。できるだけ多数の人間を一挙に殺傷するために開発されたこの爆弾は、次のような構造と機能を持つ。
飛行機から投下されるときの状態は、長さ2メートル半ほどの紡錐形をした親爆弾で、投下後何秒間で破裂するかは時限信管によって調節できる。これが破裂すると中から600個前後の球状の子爆弾が飛び出す。子爆弾には4枚の突起が出ていて風車の役をなし、落下につれて回転が速くなって、ある回転数以上になると安全装置がはずれる。その結果「手当り次第に爆発する」(前述)ことになる。
子爆弾1個の外皮には300個ほどの小球がぎっしり埋めこまれていて、直径5~6ミリの、パチンコ玉より小さな鋼球が、あらゆる方角にいる人間に向かって飛び散る。だから1個の親爆弾から十数万個の弾丸が、広範囲の地域を一挙に飛びかうことになる。
犠牲者の保存溶液づけや写真をみると、人体の表面には小さな痕跡しか残さないが、体内にはいってから残酷な行動をとる。たとえば頭をやられた場合、頭骨を貫通した小球は脳みその中をジグザクに進み、反対側の頭骨にぶつかって停止している。
こういう残酷爆弾を、B52のような巨大爆撃機が直径800から1000メートルの広さで連続投下する。これで殺された一般民衆は数知れぬが、取材した生き残りの1人で当時25歳の女性(中学教師)の場合、200ヶ所近い負傷で弾丸約100個を摘出したものの、最後の10個ほどはついに体内に残されたままとなった。(前記のルポ『北爆の下』にこの女性の上半身の傷跡を掲載。)
最初から無差別虐殺を広範囲に実行する目的という点で、これは毒ガスと同じ残酷兵器である。広島・長崎にいきなり投下された原爆の無差別大虐殺と、規模こそ違うものの同質であろう。
クラスター爆弾禁止条約の締結は、ベトナム戦争を現場で見てきた者からすれば遅きにすぎるとはいえ、重要な「第一歩」(前述)には相違ない。これを使った巨悪の米国をはじめ、中・口の早急な加盟を望みたい。
(『週刊金曜日』2008年12月12日)

米軍に拘束されたワリード氏
最初の海外ルポ『カナダエスキモー』(1963年)を新聞連載したのは31歳の夏だったが(現在は朝日文庫版)、以来ベトナムなど各地の海外取材がつづき、2002年の『非常事態のイラクを行く』(『週刊金曜日』連載、朝日新聞社刊)では70歳に達していた。トシのせいなのか、あるいは核兵器ウラン弾放射能に当てられていたせいか、体調の異変がこの年の末ちかくまで続き、すでに入国査証を取得していた北朝鮮の取材も中止せざるをえなかった。

*エスキモー(英語: Eskimo)は、北極圏のシベリア極東部・アラスカ・カナダ北部・グリーンランドに至るまでのツンドラ地帯に住む先住民族グループである。彼らは元々狩猟採集生活者の暮らしを送っており、肉と魚だけを食べていたが、白人との交易が始まって小麦粉と砂糖を食べるようになってから、肥満や糖尿病を患うようになった[1]。カナダ政府とアメリカ合衆国政府により「保護するべき集団」と見なされ、パターナリスティックな扱いを受けている[2]。
*イヌイット (Inuit) は、カナダ北部などの氷雪地帯に住む先住民族のエスキモー系諸民族の1つで、人種的には日本人と同じモンゴロイドである。エスキモー最大の民族である。遺伝子的にも日本人と共通の祖先が居ると学者によって発表されている。

そんなイラク取材だが、全面的に協力してくれたイラク人にワリード=H氏がいる。ワリード氏の事情でルポの中に実名は出さず、単に「イラク写真家協会のQ氏」とだけしてあった。
私のイラク滞在はわずか2週間ほどだが、それでもワリード氏とごく親しくなれたのはその人柄によるところも大きく、イラクで彼と接したジャーナリストはたいてい好感を抱くようだ。これには、米侵略軍のウラン弾による白血病やガンに冒された子らを救うべく、早くから「アラブの子どもとなかよくする会」を設立していた伊藤政子氏の協力が元にあり、ワリード氏はイラク側でこの会を支えていた。岩波ジュニア新書で今春刊行された豊田直己氏の「戦争を止めたいーフォトジャーナリストの見る世界」にもワリード氏が紹介されている。
そのワリード氏が、2008年の2月22日、米軍の支配下にあるイラク警察によって突然逮捕され、そのまま今も拘束されている(*1)。豊田直己氏の「ワリードさん救援のお願い」状によれば、情報は断片的でしかないがつなぎあわせると、「ワリードさんは来日(2007年)にさいして取得したイラクのIDカード(身分証明書)を持っていたため、それ以前のものとの二重の取得とみなされたようです。」
11年前(1998年)からワリード氏の協力で取材してきた報道写真家・森住卓氏の救出費カンパお願い状によると、3年前から彼は宗派対立の渦に巻きこまれてシーア派の軍団に脅迫され、ついには米軍の家宅捜索のさい弟と共に逮捕されたらしい。「米軍に逮捕され拘束されている市民は無数にいます」(森住氏)
侵略米軍の占領下イラクの風景の一端である。ベトナム戦争中の侵略米軍を思い出す。
*1 豊田直己氏によると、ワリード氏は2010年3月になって釈放された。逮捕の口実は「銃砲不法所持」に類することだったようだが、イラクの一般市民に銃砲を持つ者など全然めずらしくない。しかし弟はまだ(2010年現在)拘束されたままとのこと。(『週刊金曜日』2009年8月7日)

かくて「満州事変」前夜へ?
「ブッシュのペット」こと小泉純一郎氏の仕掛けた選挙の結果は見てのとおりである。元・自民党政調会長たる亀井静香氏が「こんなことをしていると日本は大変なことになりますよ。国民の皆さん、よく考えないと」とテレビで発言していた。
*Shizuka Kamei (亀井 静香, Kamei Shizuka) (1er novembre 1936) est un homme politique japonais.

そう。だが「よく考え」ることは、日本で”主流”を占める「国民の皆さん」はもうできまい。再びなんらかの「8月15日」的なものにぶつかるまで止まらぬだろう。その「大変なこと」(亀井氏)が、60年前以上の民族的危機に陥らぬことを祈るばかりである。
去年(2004年)亡くなった石川真澄・元『朝日新聞』編集委員は、小選挙区制による無残な結末を当初から予言していた。第一次大戦後のドイツがヒトラーを登場させるに到った情況は、連合国側のやりすぎにも大きな原因があったが、今の矮小ヒトラーたる小泉を登場させた日本の情況には、そんな外的要因はほとんどない。
*소선거구제(小選擧區制)는 하나의 선거구에서 1명의 당선자를 선출하는 선거 제도이다
*Masumi Ishikawa石川 真澄( (Masumi Ishikawa, Masumi Ishikawa, 1933, March 26 - 2004 July 16 [1] ), the Japan of the journalist . Born in Tokyo(東京都出身) .
石川氏の死後1年にして今夏(2005年)刊行された同氏著『戦争体験は無力なのか』(岩波書店)の中で、選挙制度に直接関連する一文「政権交替を妨害した小選挙区制」(2000年8月記)は、このときの総選挙(第二次森喜朗内閣発足)がすべて石川氏の指摘どおりになり、小選挙区選挙では「第一党」に対して不当に膨大なボーナス議席が与えられることを、論理的・数量的に説明している。一ヵ所だけ引用しよう。-
「果たして、今回の総選挙では、小選挙区で自民党の得票率が41%だったのに対して、民主党は28%にとどまった。そして議員数のほうでは自民党は177(議席率59%)を当選させ、「4割の得票率で6割の議席」という小選挙区制の教科書通りの結果を出した。」
1993年当時、石川氏が少数派として小選挙区制に猛反対したころ、小選挙区制推進側またはそれに近い立場で報道にかかわったマスメディア関連の諸氏よ、どんな気分ですか?
今は「満州事変の少し前」に相当すると原寿雄氏が述べたのは2004年の夏だが(『週刊金曜日』2004年8月20日号の拙文)、事態はもう「満州事変当時」になっているようだ。当時は弾圧機関があったが、今はもうなくてもそうなっている。これも「従順なヒツジ型遺伝子」のせいか、まさに「戦争体験は無力」(石川氏)なのだ。(『週刊金曜日』2005年9月16日)
*Toshio Hara原寿雄 (Toshio Hara(神奈川県出身), 1925 15 marto, [1] - 2017 30 novembro ), la Japanio de la ĵurnalisto . La plumnomo estas Jiro Owada小和田次郎.


イラク侵略と「個人」としてのアメリカ兵
イラクの米軍死者は今年すでに854人を超えた。開戦後の合計は3857人である(『朝日』2007年2月7日夕刊)。こうした報道に接すると、大はアメリカ合州国の歴史から、小は米兵個人個人の面影にまで、これまでの取材からつい連想が及んでしまう。
合州国の歴史。それはワシントン初代大統領以来一貫して侵略の歴史であった。この事実は、合州国の内外を問わず案外看過されてきたが、今もつづく現実なのだ。にもかかわらず、日本のマス=メディアは「侵略」という単語を使おうとしない。ましてやワシントン以来二百何十年間一貫する侵略史をみる認識など、今なお極く少数であろう。
さらにその侵略の内実を米兵個人個人についてみるとき、かれらに侵略あるいは逆に使命感を抱いた聖戦といった意識のある例など、まずはほとんどないだろう。これはベトナムの戦場や米本国での帰還米兵を取材して理解したことである。ではなぜかれらは兵卒になったのか。
まず「国籍取得のため」が非常に多い。合州国にはメキシコとの長い国境から密入国してくる例をはじめ、国籍のない住民がかなりいるのだ。そのほかでは職業としての兵隊も少なくない。これらの背景からは、必然的に低所得階級出身者が兵卒に多くなる。かれらに中高所得者なみの収入がもしあれば、危険なイラクの戦場などへ行かないことは歴然としている。
もうひとつの「歴然」とした事実は、戦場という最高のカネモウケの舞台での大量消費だ。古典的資本の論理の見本である。
そして、これも『週刊金曜日』で報告したように、イラクで参戦した米兵自身も含む広範な放射能被害(*1)、イラク戦争でのウラン弾(いわゆる劣化ウラン弾)という核兵器使用は、こうして敵味方を問わぬ方向でひろがり、とりわけイラクでの一般民衆の被害は、万単位の死者を含めて今後どれほど発病するものか見当もつかぬ。
こんな合州国にひたすら追従してきた日本の自民党政権に、民主党はどこまで「差」をつけることができるだろうか。
*民主黨(みんしゅとう)是日本政黨,1998年由多個在野政黨合併而成,2009年至2012年為日本的執政黨,2016年与维新党的一部分合并组成民進黨。
*1 これについては『週刊金曜日』2002年に連載されたルポ「ブッシュが狙う”悪の枢軸”イラクを行く」で報告した(拙著『非常事態のイラクを行く』(朝日新聞社)収録)。(『週刊金曜日』2007年11月30日)
戦争は止められるか、ジャーナリズムの課題
2009年12月8日は1941年の太平洋戦争開戦68周年にあたるので、日本ジャーナリズト会議(JCJ)から記念講演を依頼された。俺は講演が苦手なので、あらかじめ質問項目を出してもらい、それに答える形式をとるようお願いした。会議は東京・九段の自動車会館・与えられたテーマは「戦争は止められるか、ジャーナリズムの課題」とし、内容は「新聞記者が現場に行かなくなった問題。なぜなのか。記者の質が変わったのか。「戦争」という言葉、「侵略」という言葉」などが含まれる提案だった。
*日本ジャーナリスト会議(にほんジャーナリストかいぎ、英称:Japan Congress of Journalists)は、マスメディア関連の編集者・ライター、PTA新聞及び労働組合機関紙の編集者、フリーライターなどが参加する日本の団体。略称:JCJ。
この内容であれば話のへたな俺でも可能かと思われたのでお引き受けした。午後6時半開会、柴田鉄治JCJ代表委員長のあいさつ。冒頭でベトナム戦争のルポ『戦場の村』から「家宅捜索」の章を、元テレビ東京アナウンサー宮崎絇子氏が朗読した。質問者はJCJ運営委員の須貝道雄氏。
質問1 40年ほど前のベトナム戦争について、本多氏はいま朗読されたようなルポ記事を書き、大きな反響を呼びました。あの時どのような考えでベトナム取材を企画したのですか。恐怖心はなかったのですか。会社の幹部の姿勢はどうでしたか。
俺のベトナム報道は望まれていなかった
本多 私はもともと新聞記者になるつもりは全くありませんでした。大学では遺伝学教室にいたので、できれば大学院に残って研究をしながら海外にも出たいと思いましたが、漠然たる目標としては当時の日本で一番の探検家だった今西錦司先生が憧憬の的であり、その弟子たる梅棹忠夫とか川喜田二郎・中尾佐助・吉良龍夫などの学者たちに連なる分野に自分も将来加われたらと、クラブ活動で同志たちと共に「探検部」を創設して、これらの先生がたに顧問になってもらいました。
*Imanishi Kinji (japanisch 今西 錦司(京都府出身); * 6. Januar 1902; † 15. Juni 1992) war ein japanischer Ökologe, Entomologe, Anthropologe, Evolutionsbiologe und Philosoph. Er war der Gründer des Instituts für Primatenforschung (Reichōken) der Universität Kyōto (voller Name Kyōto Daigaku Reichōrui Kenkyūjo (京都大学霊長類研究所), engl. Primate Research Institute) und zusammen mit Itani Jun’ichirō einer der Begründer der japanischen Primatologie.
*UMESAO Tadao (梅棹忠夫(京都府出身), 23-a de junio 1920 -3-a de julio 2010) estis sciencisto pri etnografio kaj etnologio, japana esperantisto.
*Jiro Kawakita (川喜田 二郎(三重県出身), Kawakita Jirō) was an ethnographer, a pioneer in participation of remote Nepalese villagers in researching their problems, resulting in practical benefits of portable water supplies and rapid rope-way transport across mountain gorges.[1] He was awarded the Ramon Magsaysay Award in 1984.[1]
*Sasuke Nakao (中尾佐助(愛知県出身), Nakao Sasuke?), né le 12 août 1916 à Toyokawa et mort le 22 novembre 1993 à Kyoto, est un botaniste et ethnobotaniste japonais.
*吉良 竜夫(きら たつお(大阪府出身)、1919年12月17日 - 2011年7月19日[1])は、日本の生態学者。理学博士。大阪市立大学名誉教授。元日本生態学会会長。初代日本熱帯生態学会会長。
探検部創設の直後からパキスタン奥地やネパールやイランなどへ部員が出てゆき、私もヒンズーラージとかスワート王国(パキスタン)に2年つづけて行きましたが、信州の実家の事情で帰郷せざるをえなくなった。実家は雑貨店で私は1人息子ででしたが、重度身障者の妹もいるので、親父は私に店を継がせて薬局も経営させる計画だったのです(私は薬剤師の資格もありますから)。
しかし薬屋になるのがどうしても嫌で、こっそり新聞社を一社だけ受験して、落ちたらあきらめて実家に・・・と考えました。なぜ新聞社かといえば、学生時代の2度目の探検にさいして『朝日』のニューデリー支局にいた特派記者が、スワート王国の途中までついてきて記事を送稿した。これは『朝日』が後援していたので、さらに奥地の様子は私もあとで何回か新聞記事に書かせてもらいました。このときの『朝日』特派員の活動を見ておもしろそうだったのが受験の理由です。
さいわいその「一社だけ」の受験で採用となったので、まず札幌支局のサツまわり(事件記者)を皮切りに3年半ほどしてから、東京支社でまたサツまわりです。ところが1963年の1月、北アルプス薬師岳で史上最大の山岳遭難事故が起きて愛知大学生13人が全滅しました。各社とも冬山のベテランを動員していわゆる取材記者になりましたが、私は様子をみて考えた末、大型ヘリをチャーターして空から現場に強行着陸し、他社を出し抜いて全員の遭難死を確認・スクープしたのです。

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