日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

★שַׁבָּת安息日Le samedi 토요일(土曜日)Субботаיום השבת★Special☆Boxing往年の「ヘビー級特集」Muhammad Ali/Joe Frazier/George Foreman☆from Richmond Hill ON Canada/2021/04/24②


フロイド・パターソン(Floyd Patterson、1935年1月4日 - 2006年5月11日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。ノースカロライナ州出身。元世界ヘビー級王者。



(1)1956年11月30日 世界ヘビー級王座決定15回戦 故フロイド・パターソン(ヘルシンキ五輪(52年)ミドル級優勝金メダル(40勝4敗)+30勝(22KO)1敗→55勝(40KO)8敗1分)VS元世界L・ヘビー級王者故アーチ・ムーア(160勝(118KO)20敗8分→186勝(132KO)23敗10分)イリノイ州シカゴ
ー期待の五輪金メダリスト。故カス・ダマトCus D'Amato(85年に死去(肺炎pneumoniaをこじらせた)★追悼★享年77歳)門下の若武者パターソンが5回にムーアを沈め、颯爽新王者に戴冠。ムーアは39歳でL・ヘビー級王者になり9度防衛。すでに42歳になっていた。ガードを高く上げ、上体を忙しく動かし。スピードを重視するパターソンのスタイルは、’ダマト・タイソン’時代の原型(師匠の葬儀Funeral でも兄弟弟子元世界L・ヘビー級王者「静かなる戦士」(名ボクサー100人)故ホセ・トーレスJosé Torres(プエルトリコ(メルボルン五輪(56年)ライト・ミドル級銀メダル)2009年に死去★追悼★享年72歳)と並び、先頭に立って棺を担ぎ。後ろにケビン・ルーニーKevin Rooney(タイソンの元トレーナー(兄弟子)タッブス戦で来日) 、ジェイ・ブライトJay Bright(タイソンの元トレーナー(元ボクサーではない(解雇されたルー二ーは「ダマト縁の人物のようにいわれているが、ただ周りにいただけ」と批判していた)アマ試合1戦のみ=どちらかといえばタイソンの「親友」「側近」(精神面のサポート)「入魂の仲」)ダグラス戦で来日)、まだ19歳のあどけない青年だったマイク・タイソンMike Tyson*そして故ジム・ジェイコブスJimmy Jacobs (88年に死去(白血病leukemiaにより)★追悼★享年58歳=タイソンの保護者(ダマトファミリーの後援人)兄貴分だった)と続いていた)。
*「彼のような境遇で育った青年には理解と助けが必要だ」「ここまで長生き出来たのはマイクがいたからさ。彼が努力する姿をみていると生きる希望がわいてくるよ(横には童顔の養子タイソンが座っている)」(死去するしばらく前のドキュメンタリー)「とても辛い。家の中に話し相手がいなくなってしまったんだ」(ゲッソリやつれた表情の若きタイソン)。
*Italianoイタリア語→Archie Moore (Benoit, 13 dicembre 1916 – San Diego, 9 dicembre 1998) è stato un pugile statunitense.
(2)1962年9月26日 世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者フロイド・パターソン(38勝(28KO)2敗)VS挑戦者故ソニー・リストン(33勝(24KO)1敗→50勝(39KO)4敗)イリノイ州シカゴ
ーリストンが初回にパターソンをノックアウト(相手にならなかった)。巨木のような豪腕唸り、壮絶なKO劇。倒されたパターソンのダメージは深く、テンカウントを聞いた。ようやく念願の王座に就く。パターソン(敬虔なキリスト教徒)は故インゲマル・ヨハンソンIngemar Johansson(スウェーデン(2009年に死去★追悼★享年76歳)ヘルシンキ五輪ヘビー級銀メダリスト=決勝で故サンダースに敗れた)に3回TKO負けで一度王座を失うが、再戦で5回KO勝ちし奪回に成功。ラバーマッチにおいても(初回に2度ダウンを奪われるも倒し返し)、6回KO勝ち。因縁のライバルとの対決にケリをつけた。通算6度(6KO)の防衛に成功。プロ入りしてから、師匠ダマトの助言によりヘビー級に階級をあげたパターソンに対して。リストンとは「戦艦対巡洋艦」ぐらいの体格・体力差があり、パワーも桁違いだった(フォアマンVSノートン戦を彷彿)。
(3)1963年7月22日 再戦 ネバダ州ラスベガス
ーリストンが再び3度のダウンを奪い、初回KO勝ち(初防衛に成功)。最後は仰向けに倒されたパターソン。今回もテンカウントを聞く。王座復帰はならず。リストンの挑戦が遅れたひとつの原因は、むろん実力を警戒されたのも事実だったとはいえ。パターソンの師匠ダマトが暗黒街(マフィア)と繋がりがある挑戦者を嫌い、一切受けつけなかったためとも伝えられていた。ともあれ「リストンこそは世界ヘビー級史上最大の口径を誇り得る主砲をそなえた巨艦だったはずだ。如何なる挑戦者も真っ向からの力比べだったらひとたまりもなかったであろう」(故寺内氏)。一言「王者になるのが遅すぎた」に尽きるだけに、本当に残念です。
*ガゼルパンチは、ボクシングの元世界ヘビー級王者フロイド・パターソンがあみ出したとされるパンチの一種。オーソドックススタイルの場合、身体をやや左側に捻りつつダッキングして、そこから伸び上がって相手の懐に飛び込むのと同時に左フックを頭部に叩きつける。しばしば、ボロパンチのようにフックとアッパーの中間の軌道を描くとされる。



(1)1969年12月6日 北米ヘビー級王座決定12回戦 元世界王者ソニー・リストン(49勝(38KO)3敗)VS故レオチス・マーチン(30勝(18KO)5敗)ネバダ州ラスベガス
ー強豪マーチンが9回にリストンをノックアウト。リストンはずっと劣勢で鼻血を出し、目が塞がっていた。マーチン(リストンの元スパーリングパートナーSparring partnerだった)の右ストレートを浴びたリストンは前のめりに倒れ、うつ伏せのまま立ち上がれず。「リストンが世界王座に復帰するいかなるチャンスも、この敗北により失われた」(ドキュメンタリー)。マーチンのラストファイト。リストンはアリに連敗した後、スウェーデン(4試合行った)やメキシコに遠征した試合も含め14連勝(13KO)中(ただし格下相手ばかり)。CMやドラマなどテレビにも出演。ラスベガスに居を移していた。リストン最後の試合となった翌年6月のウェプナー戦で1万3千ドルのファイトマネーを得たが。1万ドルをローンの支払いにあて、残りをセコンドに渡したという「彼の手元には何も残らなかった。この時点で破産(一文無し)寸前だった」(ドキュメンタリー)。そして約半年後の70年12月30日「ビッグ・ベア(大熊)Big Bearも人生の最期は寂しく、ひっそりと息を引き取った(名ボクサー100人)」、38歳の若さで世を去る。1月5日、新年の休暇旅行から帰ってきた奥さんが(出先から電話しても応答がなく、心配して日程を繰り上げた)、寝室のベッドで死んでいるリストンを発見(正確な死亡日時は不明(正式な生年月日(実際には2歳くらい年長だったといわれる)も不明だった)死後約1週間が経過していたという)。葬儀と埋葬には先輩王者でもあり、友人だったジョー・ルイスJoe Louisも参列(悲しそうな表情で棺を担いでいる)。墓石には”A MAN”と刻まれた。
*チャールズ・"ソニー"・リストン(Charles "Sonny" Liston、1932年?[要出典] - 1970年12月30日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。アーカンソー州出身。
*Françaisフランス語→Leotis Martin est un boxeur américain né le 10 mars 1939 à Helena, Arkansas, et mort le 20 novembre 1995 à Philadelphie, Pennsylvanie.
(2)1962年11月15日 世界ヘビー級ノンタイトル12回戦 故カシアス・クレイ(ローマ五輪(60年)ライト・ヘビー級優勝金メダル(99勝8敗)+15連勝(12KO)無敗→56勝(37KO)5敗)VSアーチ・ムーア(185勝(131KO)22敗10分)カリフォルニア州ロサンゼルス
ー五輪金メダリストのホープ、若きクレイが45歳の古豪ムーアを圧倒。4回に3度のダウンを奪い、ストップした(倒すたびに両手をあげ、アリシャッフルを披露。バンザイして直立したりとアリならではのパフォーマンスを演じる)。'Moore in Four'(ムーアを4回に倒す=語呂合わせ)という予言実行に成功。TKO勝ちが宣告されるやアリは敗者ムーアに駆け寄り。抱擁して健闘を讃えていた。ムーアは翌年行った試合(3回TKO勝ち)がラストファイトとなった。
*ムーアは、この時期にアメリカ遠征中の故ジャイアント馬場(Giant Baba馬場 正平Shohei Baba(新潟県出身・元読売巨人軍投手)1999年に死去★追悼★享年61歳)氏と異種格闘技戦を戦っている。


(1)1965年11月22日 WBC世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者モハメド・アリ(21連勝(17KO)無敗)VS挑戦者前王者フロイド・パターソン(43勝(30KO)4敗)ネバダ州ラスベガス
ー新旧メダリスト対決はアリがワンサイドの12回TKO勝ちでパターソンを退けた。2度目の防衛に成功。ジョー・ルイスJoseph "Joe" Louis Barrowと並んで黒人たちの英雄だった故シュガー・レイ・ロビンソンSugar Ray Robinson(88年に死去★追悼★享年67歳)を原型とし模擬。応用した’アリ・スタイル’VS’ダマトスタイル’の決戦となった。しかし リストンにニタテを食らわし勢いに乗る若武者アリに比べ。パターソンはすでに全盛期は過ぎていたといえる。パターソンはリストンに連敗したあと、5連勝(3KO)。下に参照したように、WBAからWBCが脱退し「世界タイトル」は分裂。WBA王座の決定戦はエリスとクォーリー間で争われた→エリス(マーチンに9回TKO勝ち。ボナべナにも12回判定勝ち)が15回判定勝ちで新王者に就く。2度目の防衛戦においてニューヨーク州公認(NYSAC=ニューヨーク州アスレチックコミッション) 世界ヘビー級王者フレージャー(↓で紹介するマチス(東京五輪(64年)代表+フレージャーは国内予選決勝戦で負けた)との決定戦に11回KO勝ちで奪取(痛烈なKO劇によりアマ時代の借りを返した)+4度(3KO)防衛)に4回TKO負けで転落。ともあれ、アリとパターソンは約7年後に再び戦う。
*シュガー・レイ・ロビンソン(Sugar Ray Robinson、1921年5月3日 - 1989年4月12日)は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。本名はウォーカー・スミス・ジュニア(Walker Smith Jr.)。ミシガン州デトロイト出身。元世界ミドル級および世界ウェルター級チャンピオン。多くの評論家やファンが、全階級を通じて史上最高のボクサーと認める「オールタイム・パウンド・フォー・パウンド」。日本のボクシング批評においては「拳聖」と称される。
1940年代半ばにおいて、すでに現代のボクシング技術と比しても遜色のない、リズミカルなフットワークやジャブ、左フックのダブル・トリプルコンビネーションなどを当然のように駆使した技術的先進性。モハメド・アリやシュガー・レイ・レナードの先駆けともいえる華やかなボクシングスタイルとスター性。そして同時代を生きた強豪とことごとくグローブを交え、そのほとんどを打ち破り、歴史に残る数々の名勝負、芸術的ノックアウトシーンを実現した圧倒的実力。いずれをとっても史上屈指の万能な存在であり、前述のアリやレナードをはじめ、後世の名選手達に多大な影響を与えた。ミドル級において成し遂げた同一階級での世界王座5度獲得は、階級や統括団体が増加した21世紀のボクシング界においても並ぶ者がない大記録である。アマ85連勝(65KO)無敗・175勝(109KO)19敗6分(デビュー以来40連勝=初黒星(ラモッタJake LaMottaに10回判定負け(トータルは6度対戦)ロビンソンの5勝1敗)後、再び33連勝)。
*全米ボクシング協会 (NBA) - National Boxing Association。世界ボクシング協会(WBA)の前身(1921年にアメリカ合衆国で創立)。
*世界ボクシング協会(せかいボクシングきょうかい、英: World Boxing Association WBA)は、プロボクシングの世界王座認定団体の一つ。本部はベネズエラのマラカイに所在していたが、2007年にパナマのパナマシティに移転した。1921年にアメリカ合衆国で設立された、最も古い世界ボクシング機構である。世界ボクシング評議会(WBC)、国際ボクシング連盟(IBF)、世界ボクシング機構(WBO)の3団体も、もとをたどるとWBAに行きつく。IBF・WBOについてはWBA会長選挙が設立に影響を与えている。
*世界ボクシング評議会(せかいボクシングひょうぎかい、英: World Boxing Council, WBC)は、プロボクシングの世界王座認定団体の一つ。本部はメキシコのメキシコシティにある・・・WBAからの脱退:1965年10月19日、WBC会長国メキシコがWBAを脱退する。カルロス・オルチスCarlos Ortiz(プエルトリコ「戦慄の強打者」(名ボクサー100人)世界ライト級王者+2度来日(1、ノンタイトル戦で日本王者故高山一夫Kazuo Takayama(兵庫県出身(帝拳ジム)2度世界挑戦)に大差の10回判定勝ち2、世界タイトル戦で東洋王者故小坂照男Teruo Kosaka(千葉県出身(帝拳ジム)3度世界挑戦)に5回KO勝ち、防衛に成功)対イスマエル・ラグナIsmael Laguna (「パナマの荒法師」(名ボクサー100人)+3度対決(初戦は挑戦者ラグナが王者オルチスに判定勝ちでタイトル奪取。再戦はオルチスが雪辱、判定勝ちで奪回。ラバーマッチもオルチスが判定勝ち+ラグナは後にタイトル奪回(ラモスに9回KO勝ち)地元に東洋王者ガッツ・石松Guts Ishimatsu(栃木県出身(ヨネクラジム)後の(5度防衛)世界王者)を迎え9回KO勝ち、防衛に成功)、ニノ・ベンベヌチNino Benvenuti(イタリア「華麗なる名血」(名ボクサー100人)ローマ五輪ウェルター級金メダリスト+デビュー以来65連勝(ローマに遠征した日本ミドル級王者故赤坂義昭Yoshiaki Akasaka(秋田県出身(暁ジムから帝拳ジムへ移籍)元大相撲力士=三段目「郷の山」)を2回にノックアウト)「韓国初の世界王者」(名ボクサー100人)金基洙김기수Kim Ki-soo(ローマ五輪代表+「リングの先生」(名ボクサー100人)フレディ・リトルFreddie Little(米)に判定勝ちも含め2度防衛)に判定負けで王座転落及び初黒星)対サンドロ・マジンギSandro Mazzinghi(イタリア+金に判定勝ちでJ・ミドル級タイトル奪回(リトルとの初防衛戦で8回無効試合(劣勢だった)地元レフェリーの不当処置としてタイトル剥奪)+初戦は無敗の挑戦者ベンべヌチが王者マジンギ(ラルフ・デュパスRalph Dupas(米)に9回KO勝ちでタイトル奪取+再戦も判定勝ち)に6回KO勝ち。再戦も15回判定勝ち。ベンべヌチは後にミドル級王者「MSGの花形」(名ボクサー100人)エミール・グリフィスEmile Griffith(米)に判定勝ち(初挑戦は判定負け)2階級制覇。しかし
「パンパの拳雄」(名ボクサー100人)カルロス・モンソンCarlos Monzón(14度防衛)に12回KO負けで喪失。再戦も3回KO負け=ベンべヌチのラストファイト)
の直接の再戦をWBAが許可したことに抗議。1966年8月27日のWBC総会で、独自のルールと、初のWBC世界ランキングを発表して、WBAから完全に分裂した。
(2)1972年9月20日 北米ヘビー級タイトルマッチ12回戦 王者モハメド・アリ(38勝(29KO)1敗)VS挑戦者前世界王者フロイド・パターソン(55勝(40KO)7敗1分)ニューヨークMSG
ーアリが再び7回TKO勝ち。老いた黄昏のパターソンに引導を渡した(ラストファイト)。アリはフレージャーに敗れ、初黒星を喫してから7連勝(4KO)を記録(マチス、シュバロ、クォーリーといった強豪たちを連破)。来日してフォスターに15回判定勝ちしたのもこの時期。パターソンはアリ戦以降12勝(8KO)2敗(クォーリーに12回判定負け、エリスのWBAタイトルに挑戦したが、15回判定負け)1分(クォーリーと10回引き分け)。アリは空位の王座決定戦でジミー・エリスを12回にストップし、獲得した北米タイトルの4度(3KO)目の防衛に成功。
*Suomiフィンランド語→Floyd Patterson (4. tammikuuta 1935 Waco, Pohjois-Carolina – 11. toukokuuta 2006 New Paltz, New York) oli yhdysvaltalainen nyrkkeilijä, olympiavoittaja ja ammattilaisten raskaansarjan nyrkkeilyn kaksinkertainen maailmanmestari, joka muistetaan erityisesti kolmesta ottelustaan ruotsalaista Ingemar Johanssonia vastaan.


(1)1966年3月29日 WBC世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者モハメド・アリ(22連勝(18KO)無敗)VS挑戦者ジョージ・シュバロ(元アマ・カナダヘビー級王者(16連勝(16KO)無敗)+34勝(28KO)11敗2分→73勝(64KO)18敗2分)カナダ・オンタリオ州トロント
ーアリが「岩石男」(名ボクサー100人)豪打のシュバロに15回判定勝ち。3度目の防衛に成功した(このトロント(シュバロの地元)が開催地だったとは知りませんでした(笑))。 "Boom Boom"のニックネームを持つシュバロは全キャリアを通じて、ダウンしたことはついに一度もなかったタフガイ。若さ漲り、世界王者としての風格も増したアリ。この試合も鋭いジャブを突き。スピードあるコンビネーションを見舞い続けたが、シュバロは倒れなかった。シュバロ(パターソンに12回判定負け)は長身のWBA王者故アーニー・テレルErnie Terrell(2014年に死去★追悼★享年75歳)に挑戦したが15回判定負け。2度目の世界挑戦だった(テレルはWBC王者アリとの統一戦で15回判定負け)。現在(シュバロ(父母は現ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦
Federation of Bosnia and HerzegovinaFederacija Bosne i Hercegovine(旧ユーゴスラビアYugoslaviaJugoslavija)出身のクロアチア人CroatiansHrvati移民)はカナダの英雄)この瞬間もここからそう遠くないところにいるんだろうなと考えれば、感慨も深いです(笑)。再び21世紀、インターネット時代の不思議☆
*ジョージ・シュバロ(George Chuvalo、1937年9月12日 - )は、カナダ人のプロボクサー。トロント生まれ。1960年代を代表するヘビー級コンテンダーであり、カナダ史上最も有名なボクサーの1人。身長183cmとヘビー級では小柄ながら、驚異的なタフネスと無尽蔵のスタミナを武器に満身創痍の凄絶なファイトで人気を博した強打のインファイター。モハメド・アリと2度の死闘を繰り広げたことで名を馳せた。
(2)1967年7月19日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 故ジョー・フレージャー(東京五輪(64年)ヘビー級優勝金メダル(38勝2敗=双方マチスに負けた)+16連勝(14KO)無敗→32勝(27KO)4敗1分)VSジョージ・シュバロ(47勝(41KO)13敗2分)ニューヨークMSG
ー五輪金メダリストのホープ、弱冠23歳のフレージャーが4回にシュバロをストップ。シュバロはアリに負けてから13勝(13KO)1敗(ボナべナに同じくMSGにおいて、10回判定負け)。若きフレージャーは元気溌剌。初回ゴングと同時にいつもと同じく「人間機関車」として突進。まさに’打ちまくった’(シュバロの顔面は血まみれ)。ながらもシュバロはひるまず応戦し、最後までビクともしなかった(さすがのフレージャーも疲れ切っていた様子)「ネバー・ギブ・アップ!Never Give Up!」「もう、ストップなのか。俺は全然平気だし、試合はこれからじゃないか」(名ボクサー100人)。



(1)1969年12月12日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 ジョージ・シュバロ(55勝(49KO)15敗2分)VS故ジェリー・クォーリー(33勝(20KO)3敗4分→53勝(32KO)9敗4分)ニューヨークMSG
ーシュバロが7回にクォーリーをノックアウト。シュバロは強烈な左フック一発で、後ろに吹っ飛ばした(クォーリーは仰向けに倒れる)。痛烈なKO勝利(とはいえ立ち上がっていたクォーリーはびっくり。ストップに猛然と抗議していた)。打ちつ打たれつの強打合戦となったが、両者ともすでに全盛期は過ぎていたと思う。シュバロはフレージーに敗れて以来、8勝(7KO)1敗(マチスに10回判定負け)。クォーリーはフレージャとの初顔合わせで7回KO負けしてから2連勝(2KO)中(けれども以降、(シュバロも同様)世界タイトルへ挑戦する機会には恵まれなかった)。
*Gaeilgeアイルランド語→Dornálaí trom-mheáchain Gael-Mheiriceánach ab ea Jerry Quarry (15 Bealtaine, 1945 – 3 Eanáir, 1999). "Irish" agus "The Bellflower Bomber" na leasainmneacha a bhí air. Rugadh Quarry in Bakersfield, California.
(2)1970年8月4日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 ジョージ・フォアマン(メキシコ五輪(68年)ヘビー級優勝金メダル(22勝4敗)+21連勝(18KO)無敗→76勝(68KO)5敗)VSジョージ・シュバロ(57勝(51KO)15敗2分)ニューヨークMSG
ー五輪金メダリスト、若きエリートのフォアマンがシュバロを3回にストップ「史上最高の豪打者といわれたフォアマンのパンチにも耐えたシュバロ。松ヤニの味を知ることはなかった(名ボクサー100人)」(しかしこの試合は最後、連打を叩き込まれ。苦しげに後ろに下がり、横を向いてしまう)。シュバロはクォーリー戦を含め、6連続KO勝ち中だった。今から回想してもこの「時代」は層が厚すぎた感じがする。トップには「五輪金メダリストトリオ」ともいえるアリ、フレージャー、フォアマン。さらにノートンがいてランカーたちも、強い選手ばかりがゴロゴロひしめいていた。
(3)1972年5月1日 北米ヘビー級タイトルマッチ12回戦 王者モハメド・アリ(35勝(27KO)1敗)VS挑戦者ジョージ・シュバロ(66勝(57KO)17敗2分)カナダ・ブリティッシュコロンビア州バンクーバー
ー約7年ぶりの再戦はアリが判定勝ち。アリはこの試合の一ヶ月前に来日したばかり。東京でフォスターと戦った。初顔合わせとおなじく、シュバロはアリのスピードについていけず。31歳となり若干は衰えたとはいえ。アリは「蝶の舞」フットワークからビシビシ左ジャブを放ち、連打をまとめては離れる(シュバロのパンチはほとんど当らなかった)。ながらこの後、4連続KO勝ち。そして約3年半のブランクから77年に再起。3連続KO勝ちするが78年12月の試合(2回KO勝ち)がラストファイトとなった(アリ戦以降は、著名な選手との対戦はなし)。


You watch out.(気をつけろ)He eats chocolate bars.(こいつはチョコレートバー(棒)を食ってるぞ).Yes, so I noticed(^_^おう、俺も気づいてた)

*Hrvatskiクロアチア語→George Louis Chuvalo (Toronto, 12. rujna 1937.) bivši je kanadski boksač teške kategorije, hrvatskog podrijetla. Nauspješniji je kanadski boksač svih vremena te spada među najuspješnije boksače uopće.



(1)1973年2月14日 世界ヘビー級ノンタイトル12回戦 前王者モハメド・アリ(40勝(31KO)1敗)VSジョー・バグナー(アマ13勝3敗+43勝(28KO)4敗→61勝(41KO)13敗1分)ネバダ州ラスベガス
ーアリが判定勝ち。長身の22歳、若きバグナーは9連勝(5KO)中。アリはこの試合は足を止め。前へ出てプレッシャーをかけ。真正面からのストレート攻撃が目立っていた(バクナーは正統派のボクサーファイター)。アリはまだまだ強かった。ハンガリー生まれのバグナーは幼少時(56年の1956-os forradalom「ハンガリー動乱」
Hungarian Revolution of 1956(ソ連軍による軍事介入)後)、両親に連れられてイギリスに来た難民。
*Magyarマジャール(ハンガリー)語→Joe Bugner (eredeti neve: Kreul József, Szőreg, 1950. március 13. –) magyar származású angol és ausztrál ökölvívó, színész.
*ハンガリー動乱(ハンガリーどうらん、ハンガリー語: 1956-os forradalom「1956年革命」)は、1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起を差す。ハンガリー事件、ハンガリー暴動、ハンガリー革命とも[5]。
(2)1973年7月2日 世界ヘビー級ノンタイトル12回戦 前王者ジョー・フレージャー(29勝(25KO1敗)VSジョー・バグナー(43勝(28KO)5敗)イギリス・ロンドン
ー敵地でフレージャーがノックアウトこそ逃がしたが
、判定でバグナーを破る。フォアマンに無残なKO負けにより、王座転落した再起戦を勝利で飾った。フレージャーは初黒星のショックはそれほど感じられず。相変らずの突進力とパワフルな連打で終始肉迫する(左フックもむかしと同じく、破壊力満点だった)。だがバグナーもシュバロほどではないにせよ、頑丈なボクサー(ロープに詰められながらもパンチをまとめ、よく打ち返していた)。
(3)1975年7月2日 世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者モハメド・アリ(47勝(34KO)2敗)VS挑戦者ジョー・バグナー(51勝(32KO)6敗)マレーシア・クアラルンプール
ーアジアでの再戦はアリが無難な判定勝ち。一戦目とは違い、今度はバグナーが追う形となり。アリは足を多様(往年の「蝶の舞」は健在。ジャブも速かった)。アリはフォアマンから奪回したタイトルの3度(2KO)目の防衛(通算12度(9KO)目)に成功。とはいえ、アリは初防衛戦(対ウェプナー)も楽勝だったとはいえず(最終15回KO勝ち)。また、次のライル戦も11回にストップするまでは負けていた(この試合、中野の公団住宅で見たのを鮮明に覚えています(「アリ、たいへんそうだな」って幼心に思った)。ライルが優勢で、本当に大苦戦でした)バグナーは2連敗した後、再び8連勝(4KO)を記録していた(エリス、フォスターに10回判定勝ちも含み)。この1戦後、ダンには初回KO勝ち。しかしライル(10回判定負け)シェーバース(2回TKO負け)に敗れ、そして無敗の若きマービス・フレージャー Marvis Frazier(ジュニア五輪(79年横浜大会)金メダリスト+ジョーの長男)にも10回判定負け)。86年に豪州オーストラリアAustraliaに移住、市民権を獲得した。そして約2年半のブランクからカムバック。以来、Aussie Joe(オージー(豪州の)ジョー)のニックネームとなる(再起後、3連勝するが(元世界王者故グレッグ・ペイジGreg Page(2009年に死去★追悼★享年50歳+タイソンVSダグラス戦(90年2月)時にスパーリングパートナー(タイソンをダウンさせた)として来日)に10回判定勝ち)。故国イギリスでの新旧英雄対決においてブルーノに8回TKO負け)。ブルーノに敗れてからは8勝(3KO)1敗の戦績(99年6月の試合(9回失格勝ち)を最後に、引退した)。
*Muhammad Ali and Joe Bugner fought two boxing matches with each other. Their first bout took place on 14 February 1973; and the second on 1 July 1975. Ali won both matches through unanimous decisions on points. The 1975 fight with Bugner was for the undisputed world Heavyweight title owned by Ali, it was held in Kuala Lumpur, Malaysia, making it the first and, as of 2021, only world Heavyweight title boxing fight held in that Asian country, and it was the last bout Ali fought before Ali's Thrilla in Manila, his third fight with arch-rival Joe Frazier.


Assistant Police Inspector, Furuhata Ninzaburo Special Laughing Kangaroo Asszisztens rendőrfelügyelő, Furuhata Ninzaburo speciális nevető kenguru Ask me anything!!(^_^なんでも聞いてくれ!!)「エゴイストだきさま(睨)」「いいかげんにしろ古畑っ!(怒)」

1964年 東京五輪代表選考国内予選決勝 バスター・マチス・シニアVSジョー・フレージャー

ーマチスの判定勝ち



(1)1968年3月4日 ニューヨーク州公認世界ヘビー級王座決定15回戦 バスター・マチス(23連勝(17KO)無敗→30勝(21KO)4敗)VSジョー・フレージャ(19連勝(17KO)無敗)ニューヨークMSG
ー因縁の仇敵による無敗対決は、フレージャーが11回にマチスをノックアウト。フレージャーの左フックを浴びたマチス(95年に死去★追悼★享年52歳)はロープ外に叩き出された。マチスは決勝でフレージャーを破り、代表となりながらも足を骨折してしまい、負傷欠場。仮に出場していれば金メダルを獲得していたと思う。派手さはなかったが、(フレージャーを連破したよう)それほど素質と実力はあったと個人見解(これも運がなかったに尽きる)。周知のとおり、息子のジュニア Buster Mathis Jr.はリディック・ボウRiddick Bowe (4回ノーコンテスト)、タイソン(3回KO負け)と戦った世界ランカーだった(ラストファイトはルー・サバリースLou Savareseに7回TKO負け)。
*Buster Mathis (June 11, 1943 – September 6, 1995) was an American boxer.
(2)1971年11月17日 北米ヘビー級タイトルマッチ12回戦 王者モハメド・アリ(32勝(27KO)1敗)VS挑戦者バスター・マチス(29勝(20KO)2敗)テキサス州ヒューストン
ー新旧五輪代表の対決はアリが判定勝ち(この試合も旋回しながら、よくジャブを突いた)。エリスから奪った北米タイトルの初防衛に成功。マチスは2連敗(前戦でクォーリーに判定負け)。ラストファイトはライルに2回KO負けした試合となる。


(1)1968年4月27日 WBA世界ヘビー級王座決定15回戦 1位故ジミー・エリス(アマ59勝7敗(全米ゴールデングローブミドル級制覇)+25勝(12KO)5敗→40勝(24KO)12敗1分)VS2位ジェリー・クォーリー(26勝(17KO)1敗4分)カリフォルニア州オークランド
ーアリが剥奪されたため空位となったタイトル。エリスが2-0の判定ながらクォーリーを破り、新王者となる。エリス(10連勝(6KO)中)は新王者選出の勝ち抜きトーナメントでマーチンとボナベナに勝ち、若きクォーリー(23歳、1分(パターソンとの初戦)をはさみ8連勝(4KO)中)は前王者パターソンに12回判定勝ちしたばかり。前述のよう、同郷出身の英雄だったアリとはアマ時代2度対戦。1勝1敗だった。ミドル級でプロ入り後は「無能なマネージャーの下で泣かず飛ばず。ボクシングだけでは6人の子供を食べさせることができないので、コンクリート職人として時間3・5ドルの労働を続けた」。しかしアマ時代のライバルクレイ(アリ)の専属スパーリングパートナーに雇われ才能が開花「アリのトレーナー、アンジェロ・ダンディがエリスの非凡さに目をつけ、マネージャーになってから、エリスの人生は一変した」(名ボクサー100人)。ダンディの忠告を受け階級をあげ、連戦連勝。そして念願のタイトル獲得。この試合はエリスの人生において、最高の瞬間だったといっていいかもしれない。
*ジミー・エリス(Jimmy Ellis、1940年2月24日 - 2014年5月6日)は、アメリカ合衆国の男性元プロボクサー。ケンタッキー州ルイビル出身。元WBA世界ヘビー級王者。
(2)1970年2月15日 WBA世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者ジミー・エリス(27勝(12KO)5敗)VS挑戦者ジョー・フレージャー(24勝(21KO)無敗)ニューヨークMSG
ーフレージャーが2度ダウンを奪い、4回終了TKO勝ち(エリスのダメージは深く、アンジェロ・ダンディーが棄権を申し出た)。タイトルを強奪。エリスは2度目の防衛に失敗した(初防衛戦はパターソンに15回判定勝ち)。フレージャーはニューヨーク州公認世界タイトルを2度目の防衛戦で強敵ボナべナを15回判定で退けたのも入れ、4度防衛(3KO)。フレージャーの豪腕が荒れ狂った一戦。ラウンド終了間際、左フックの連発を食い、エリスは前のめりに崩れ落ちる。次のダウンは痛烈(まともに顎に炸裂。仰向けに倒された。なんとか立ち上がったがフラフラ)。フレージャーは接近すると小さい左右のパンチをコツコツと当て(強弱をつけ、ボディーも叩く)、それから大きなスウィング。渾身の左フックを振るうから威力が倍増。まさに「人間機関車」突っ走るといった感じ。


(1)1971年7月26日 世界ヘビー級ノンタイトル12回戦 元統一王者モハメド・アリ(31勝(26KO)1敗)VS元WBA王者ジミー・エリス(30勝(14KO)6敗)テキサス州ヒューストン
ーライバルのプロにおける対決は、アリが最終12回にエリスをストップ(「エリスも所詮はアリの”影武者”にすぎなかった」)。上で触れたよう専属パートナーに雇われてから「アリとのスパーは苦痛ではなかった。ただの殴られ役に甘んじることなく、グローブを交わしながら一緒に成長したのだ」。エリスは前戦で来加。ここトロントで地元のシュバロに10回判定勝ちしたのも含め3連勝(2KO)中。かたや、アリはフレージャーに挑戦し、王座奪回ならず。痛恨の初黒星を喫した再起戦だった。「アリの方が一枚も二枚も上手だったですね」(小泉氏)。「マスコミはこれを因縁の試合として取り上げ、「友情の終わり」と書いたが、そうではない。アリが猪木とミックス・マッチをやった時には、取りまきのひとりとして来日してヘルプしていたし、最近のアリの再起には「健康を考えてやめた方がいい」と忠告している。ふたりの関係は相変わらずうまくいっているようだ」(名ボクサー100人)。
(2)1975年3月2日 世界ヘビー級ノンタイトル12回戦 元統一王者ジョー・フレージャー(31勝(26KO)2敗)VS元WBA王者ジミー・エリス(39勝(23KO)11敗1分)オーストラリア・メルボルン
ー約5年ぶりとなった豪州での2度目の顔合わせは、フレージャーが9回TKO勝ち。2人ともとっくに全盛期は過ぎた晩年においての再戦。エリスは3連敗(バグナー、ライルに判定負け)となる。次の試合(初回KO勝ち)を最後に引退した。フレージャーは次戦でアリに挑戦(「スリラ・イン・マニラ」14回終了TKO負け)。そしてフォアマンに再び5回ノックアウト負け。
*Русскийロシア語→Джеймс Альберт Эллис (англ. James Albert Ellis; 24 февраля 1940, Луисвилл, Кентукки — 6 мая 2014, там же) — американский боксёр-профессионал, чемпион мира в тяжёлом весе.



(1)1966年6月24日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 故オスカー・ボナべナ(アルゼンチン+20勝(17KO)2敗→58勝(44KO)9敗)VSジョージ・シュバロ(35勝(27KO)12敗2分)カナダ・オンタリオ州トロント
ー強打者同士による一戦。両者ともタフで鳴る。新鋭’リンゴー’ボナベナが判定勝ち(この当時はまだ無名だった)。2-0の判定となり競った内容だったとはいえ、シュバロを退けた。シュバロはすでにこの前、2度世界タイトルに挑戦(アリとテレルに判定負け)。
(2)1966年9月21日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 ジョー・フレージャー(11連勝(11KO)無敗)VSオスカー・ボナべナ(21勝(17KO)2敗)ニューヨークMSG
ーフレージャーがダウンを奪われ(危なかった)、大苦戦(フレージャーをダウンさせたのは、ボナベナとフォアマンだけ。アリも倒せなかった)。ながらも2-1の判定で辛くもボナべナに勝った。デビュー以来の連続KO勝ちは「11」でストップ。ボナベナはパンチもあり、本当に頑強な選手だった「フレージャーの強打には合計25ラウンド耐えた」(名ボクサー100人)。
(3)1968年12月10日 ニューヨーク州公認世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦  王者ジョー・フレージャー(21連勝(19KO)無敗)VS挑戦者オスカー・ボナべナ(38勝(29KO)4敗)ペンシルベニア州フィラデルフィア
ー世界戦での再戦。フレージャーが15回判定勝ち(3-0の文句なし)。今回は大差、ボナベナの完敗。2度目の防衛に成功した。下馬評は「3-1」でフレ-ジャー。とはいえこの試合もボナベナは善戦した。「人間機関車」ジョーはスタートから絶好調。軽快に前進し、左フックが唸りをたて放たれる。「ボナべナは5回に鼻血、6回には左目を切って血まみれ、KOは時間の問題と見られたが、7回、ボナベナは必死の形相で反撃、フレージャーを痛めつけている」フレージャーは驚きの言葉を残し「7回はびっくりしたぜ。俺のパンチをあんなに食いながら、平気な顔をしている。あいつは人間じゃないよ」。この試合でボナべナは一躍有名になり、世界で顔が知られた。別のページで触れたよう「76年5月、ラスベガスで誤って射殺され悲しい最後を遂げた。好漢リンゴーの笑顔がなつかしい」(名ボクサー100人)。


(1)1976年2月20日 世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者モハメド・アリ(49勝(35KO)2敗)VS挑戦者ジャン・ピエール・クープマン(ベルギー+24勝(14KO)3敗→36勝(20KO)16敗2分)プエルトリコ・サンファン
ーアリがクープマンに5回KO勝ち。弾むようなフットワークからスピードあるジャブを放ち、最後は連打を4,5発打ち込みダウンを奪う(クープマン(アリと戦ったルバース(オランダ)には10回判定負け)のダメージは深く、立ち上がれなかった)。5度目(4KO)の防衛(通算14度目)に成功した(さらにこの後、5度も防衛するのだから頭が下がる)。34歳となったアリは衰えたとはいえ、相手の出鼻にパンチをまとめる巧さはさすが。クープマンは前回のフレージャーやライルといった強敵たちに比べれば、’格下’の選手(とはいえクープマンもクロスアームにガードを構え、よく前へ出た)。クープマンはフランスのルシアン・ロドリゲスLucien Rodriguez(後にホームズに挑戦し、判定負け)には2連敗。フランク・ブルーノFrank Brunoにも初回KO負け。
*Españolスペイン語→Jean-Pierre Coopman (nacido el 11 de julio de 1946 en Ingelmunster) es un boxeador belga retirado que es mejor conocido por su pelea por el título contra Muhammad Ali en 1976, que Ali ganó por KO1​ en el quinto asalto.2​
(2)1976年5月24日 世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者モハメド・アリ(51勝(36KO)2敗)VS挑戦者リチャード・ダン(イギリス+33勝(16KO)9敗→33勝(16KO)12敗)西ドイツ・ミュンヘン
ーアリが5回にサウスポーのダンをストップ。カウンターが冴え、3度のダウンを奪うワンサイド。圧勝だった(アリ最後のKO勝ち)。7度目(5KO)の防衛に成功。この試合も全盛期は過ぎたロートルいわば’一ランク下’相手の試合、盛んにパフォーマンスに興じる。しかしダン(ヤングには8回KO負け)は繰返し倒されながらも闘争心旺盛。果敢に攻めた(最後にダウンを奪われ、とめられた時も。アリがいつまでも腕をグルグル回しているのに、怒ってまた突進していこうとしたほど)。ダンはこの次戦でバグナーに初回KO負け(さらに強打のカリー・ノエツKallie Knoetze(南ア+ボビックに3回KO勝ち)に5回KO負けしたのがラストファイトとなった)。
*Richard Dunn (born 19 January 1945, in Halifax)[1] is an English former heavyweight boxer who was the British (1975-76), European (1976) and Commonwealth (1975-76) Champion. He unsuccessfully challenged Muhammad Ali for the World Heavyweight title in 1976.[2]


(1)1977年5月16日 世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者モハメド・アリ(53勝(37KO)2敗)VS挑戦者アルフレド・エバンへリスタ(ウルグアイ+14勝(12KO)1敗1分→62勝(43KO)13敗2分)メリーランド州ランドオーバー
ーアリが辛くも豪打の新鋭若きエバンヘリスタを退け、9度目の防衛に成功。判定は3-0の大差だったとはいいながら(この当時挑戦者はまったく無名の選手)アリはさすがに年をとった。「蝶の舞」フットワークの頻度はますます落ち、ロープ・ア・ドープが多くなった。’スペインのロッキー’の異名をもっていたエバンヘリスタ(スペイン在住)は果敢に攻撃し、善戦したといえる(この試合で一躍、脚光を浴びた)。もはや最晩年(すでに36歳)。次に凡戦となるも、シェーバースに判定勝ちで10度目の防衛に成功する「アリ、また勝った」しかし「ファンの’アリ離れ’が進んでいる(だった記憶です)」(ボクシングマガジン)。そして11度目の防衛戦において、新旧五輪金メダリスト対決でスピンクスにタイトルを奪われた。「アマで約100戦、プロで60試合。でも顔がほとんど痛んでないだろう」(引退後(きれいな顔を両手でなでながら)すでにパーキンソンに発病した後)。アリはもちろん防御勘(簡単には当てさせない)よける上手さは圧巻だったのと同時に(すでに語ったよう)タフだった(ダウンを奪われたのはクーパーとフレージャーだけ)。
*Italianoイタリア語→Alfredo Evangelista, soprannominato La Lince di Montevideo (The Lynx of Montevideo) (Montevideo, 3 dicembre 1954), è un ex pugile uruguaiano naturalizzato spagnolo. Fu campione europeo in due occasioni (1977-1979 e 1987). Nei suoi assalti al titolo mondiale è stato invece sconfitto da Muhammad Ali nel 1977 e Larry Holmes nel 1978.
(2)1978年11月10日 WBC世界ヘビー級タイトルマッチ15回戦 王者ラリー・ホームズ(28連勝(19KO)無敗→69勝(44KO)6敗)VS挑戦者アルフレド・エバンヘリスタ(23勝(19KO)2敗1分)ネバダ州ラスベガス
ーホームズが圧勝。7回にタフなエバンヘリスタをノックアウト。最後は右を叩き込み、仰向けに倒した(エバンへリスタはテンカウントを聞く)。ノートンから奪ったタイトルの初防衛に成功した。エバンへリスタはアリに敗れた後、9連勝(7KO)中(クープマンに初回KO勝ち。王者ロドリゲスに11回KO勝ちで欧州タイトルを強奪=約2年後の再戦でも2回KO勝ち。しかしその2年後のラバーマッチでは12回判定負け。王座転落)。この頃がエバンへリスタの全盛期だったと思う。そして、向かうところ敵なしだったホームズ時代がはじまる象徴的な一戦。エバンヘリスタはこれ以降、世界タイトルとは無縁になる(地味なローカル選手の存在。徐々にランクも下がり、やがて消えた)。峠を越えてからの著名選手との試合はレオン・スピンクスLeon Spinks(5回KO負け)ペイジ(2回KO負け)レイナルド・スナイプスRenaldo Snipes(ホームズに挑戦し11回TKO負け、ペイジに判定負け)判定勝ち)ピエール・コーツァーPierre Coetzer(南ア=ボウ(7回TKO負け)ブルーノ(8回TKO負け)フォアマン(8回TKO負け))判定負け)アディルソン・ロドリゲス Adilson Rodrigues(ブラジル(ホリーフィールド(2回KO負け)フォアマン(2回KO負け)と対戦)判定負け)88年、2回KO勝ちした試合を最後に引退した。



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