日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☭Четвёртый интернационал☆『BOXING/Antid Oto』《Из Канада с любовьюカナダより愛をこめて‎》Pray for Peace and Freedom in Ukraine and Russia/Sunday(Dimanche)Special(2022/04/10)Велика Британія【Британська імперія大英帝国の誇りБританская империя】Великобритания①



(1)1980年3月16日 統一世界ミドル級タイトルマッチ15回戦 王者ビト・アンツォフェルモ(アメリカ+45勝(19KO)3敗2分⇒50勝(21KO)7敗2分)VS挑戦者故アラン・ミンター(イギリス+ミュンヘン五輪銅メダル(125勝20敗)36勝(23KO)6敗→39勝(23KO)9敗)ネバダ州ラスベガス
*Українськаウクライナ語⇒Алан Мінтер (англ. Alan Minter, нар. 17 серпня 1951 — пом. 9 вересня 2020) — британський боксер, олімпійський медаліст.
*Русскийロシア語⇒Вито Антуофермо (англ. Vito Antuofermo; 9 февраля 1953, Пало-дель-Колле) — американский боксёр-профессионал, выступавший в средней весовой категории. Абсолютный чемпион мира в среднем весе (1979-1980). Чемпион мира по версии WBC (1979-1980), WBA (1979-1980) в среднем весе.

ー期待の五輪メダリスト、サウスポーのミンターが14回にダウンを奪われ、薄氷の2-1のスプリット・デシジョンながら。15回判定勝ちでアンツォフェルモを破り、念願の新王者に就く。アンツォフェルモ(イタリア系+俳優でもある↓)は、アルゼンチンのウーゴ・コーロHugo Corroに判定勝ちで奪ったタイトルの2度目の防衛(初防衛戦はマービン・ハグラーMarvelous Marvin Hagler(アメリカ)と引き分け)に失敗した。往年の東京テレビ(12チャンネル)にて観戦。ミンター(再び★追悼★2020年に死去=享年69歳)のアマ出身らしいきれいなサウスポースタイルと、アンツォフェルモの頑丈さが印象的だった。鳴物入りでプロ入りしたミンターは、ボクシング専門誌を購読しはじめた少年時代(本屋での立ち読みも含め)国際欄(白黒写真)に頻繁に現われていたのを懐かしく回想する。
(2)1980年6月28日 再戦 イギリス・ロンドン
ー「絶好調ミンター、初防衛(『ゴング』誌)」8回TKO勝ち「ストップ寸前の激しい打ち合い」(この双方の写真、なぜか小学校の卒業記念文集みたいのに載せた覚えがあります笑=「早く出してくれ」とせっつかれ(担当者(同級生児童の母親)の家まで届けに行った)思いついたので切り取り、貼ったのがよみがえる)。ミンターは好みの選手だったので(当時は層が厚かったミドル級とはいえ、案外長期王座すら予想していた)次の防衛戦においてハグラーに惨敗(3回TKO負け)したときは悲しかったです。そしてミンターのマネージャー兼プロモーターは故ミッキー・ダフ(ユダヤ系ポーランド人)Mickey Duff(★追悼★2014年に死去=享年84歳)であった(少年時(30年代後半)にナチスの迫害を逃れて、イギリスに移住)。
*Русскийロシア語⇒Ми́кки Дафф (англ. Mickey Duff; 1929—2014) — британский боксёр-профессионал польского происхождения, выступал в полусредней весовой категории во второй половине 1940-х годов. Также известен как менеджер и промоутер в области бокса, работал со многими известными чемпионами.

「Hey, Joey Zasa!😂Joey, up your ass😁おう、ジョーイ・ザザ!ジョーイ、くそ食らえ」「Get the fu×k outta here!!😠ここから失せろ!!」Vito Antuofermo(as Anthony Squigliaro)is an Italian American actor
Русскийロシア語⇒«Крёстный оте́ц 3» (англ. The Godfather Part III) — кинофильм, заключительная часть знаменитой гангстерской саги, в которой продолжается рассказ о судьбе «семьи» дона Корлеоне. Семь номинаций на премию «Оскар» и «Золотой глобус».c


(1)1980年11月1日 WBC世界ライト級タイトルマッチ15回戦 王者ジム・ワット(イギリス+37勝(26KO)7敗⇒38勝(27KO)8敗)VS挑戦者ショーン・オグラディー(アメリカ+73勝(62KO)1敗(ダニー・ロペスDanny Lopez(アメリカ)に4回TKO負け)⇒81勝(70KO)5敗)イギリス・グラスゴー
ーワット(スコットランド系)が大苦戦しながらも12回逆転TKO勝ちでオグラディーを退け、アルフレド・ピタルアAlfredo Pitalua(コロンビア)に12回TKO勝ちで奪ったタイトルの4度目の防衛に成功した。若きオグラディー(アイルランド系)は有利に試合を進めながら、額の傷からの出血が激しくストップされてしまう(リングサイドで、オグラディに声援を送っていた姉妹さんの写真も記事に載っていた『ボクシングマガジン』)。ワットは前戦では強敵ハワード・デービス・ジュニアHoward Davis Jr.(アメリカ・ロス五輪金メダル)に15回判定勝ち(デービスの初黒星)「ワット、デービスの野望砕く(『ゴング』誌)」。さらに2度目の防衛戦においては、同国人の人気者チャーリー・ナッシュCharlie Nashも4回にノックアウトしていた。敗れたとはいえ評価が俄然、高騰したオグラディ(戦績だけ立派な選手(名のある選手としては①元WBAフェザー級王者だった強打のロメオ・アナヤRomeo Anaya(メキシコ+東洋王者金沢和良Kazuyoshi Kanazawa(北海道出身・アベジム)を5回にノックアウト=金沢のラストファイト)に3回KO勝ち②世界ランカーシゲ・福山Shige Fukuyama(鹿児島県出身・協栄ジム+ロペスに9回KO勝ち)に5回TKO勝ちしたくらいだった)ではなく実力を証明)は、無敗のWBA王者ヒルマー・ケンティHilmer Kenty(アメリカ)から2度のダウンを奪い、15回判定勝ちで王座に就く。ただ初防衛戦を行なわないうちにタイトルを剥奪されてしまい。それからはふるわず、挑戦者決定戦にてサウスポーのパンチャーアンディ・ガニガンAndy Ganigan(アメリカ)に無惨な2回KO負け。 続いて元ウエルター級のランカーだったピート・ランザニーPete Ranzany(アメリカ)に10回判定負け。ラストファイトは元WBAライト級2位ジョン・ベルデローサJohn Verderosa(アメリカ)に4回TKO負けした試合となった。引退後は、USAチャンネルの解説者として活躍している。
*Deutschドイツ語⇒Jim Watt (* 18. Juli 1948 in Glasgow, Schottland) ist ein ehemaliger britischer Boxer im Leichtgewicht. Er war von 1972 bis 1973 Britischer Meister, von 1979 bis 1981 WBC-Weltmeister und von April 1981 bis Juni 1981 Ring-Magazine-Weltmeister.
*Françaisフランス語⇒Sean O'Grady est un boxeur américain né le 10 février 1959 à Oklahoma City.
(2)1981年6月20日 WBC世界ライト級タイトルマッチ15回戦 王者ジム・ワット(38勝(27KO)7敗)VS挑戦者元2階級王者故アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア+66勝(55KO)5敗⇒77勝(62KO)8敗)イギリス・ロンドン
ーアルゲリョ(★追悼★2009年に自殺=享年57歳)が無難な15回判定勝ちで三階級制覇を達成(以後4連続KO防衛)。むろん下馬評は圧倒的に挑戦者有利だったながら(王者にとっては相手が悪過ぎたといえる)敵地だったのと、タフなワット相手なので無理にノックアウトは狙わなかった。地元王者とファンたちに遺憾なく敬意を払い、アルゲリョは模範的な人格者。紳士だった(引退後のドキュメンタリーでオスカー・デラホーヤOscar De La Hoya(アメリカ(バルセロナ五輪金メダル)六階級制覇)も、ずっとアルゲリョを見習うよう心掛けていたと語っていました)。ワットはこの試合後、引退した。アルゲリョはWBAフェザー級王者時代(ルーべン・オリバレスRubén Olivares(メキシコ)に13回KO勝ちでタイトル奪取=4連続KO防衛)、来日。無敗の18連勝(16KO)中だった後のWBCJ・フェザー級王者「KO仕掛人」の異名を持っていた豪打者故ロイヤル・小林(再び★追悼★2020年に死去=享年71歳)Royal Kobayashi(全日本選手権制覇・ミュンヘン五輪代表(ベスト8進出)熊本県出身・国際ジム)を5回にノックアウト。防衛に成功している(二階級目はWBCJ・ライト級王者アルフレド・エスカレラAlfredo Escalera(プエルトリコ)に13回TKO勝ちして獲得(再戦も13回KO勝ち)8度(7KO)防衛)。そして四階級制覇を志し、WBAJ・ウェルター級王者故アーロン・プライヤーAaron Pryor(★追悼★2016年に死去=享年60歳)に挑んだが「アルゲリョ無念・四冠ならず(『朝日新聞』)」14回TKO負け(再戦も10回KO負け)。またこの当時、プライヤーと対戦経験(6回TKO負け)があるサウスポーの日本王者亀田昭雄Akio Kameda(高校・大学選手権制覇・モントリオールプレ五輪銀メダル・栃木県出身・ミカド⇒協栄⇒風間ジム)とアメリカでノンタイトル10回戦がほぼ決まっていた「もう、戦えるだけで光栄ですよ」(笑顔の写真は忘れられません(ハンマー糸井(4回KO勝ち)戦後の記事)流れてしまったのはいまだに残念です)。二年後に再起①一度ノンタイトル戦で判定負けしているヴィロマール・フェルナンデス Vilomar Fernandez(ドミニカ)からKOこそ逃したとはいえダウンを奪い、判定勝ちで雪辱②元WBC王者ビル・コステロBilly Costello(アメリカ(赤井英和Hidekazu Akai(高校・大学選手権制覇・大阪府出身・グリーンツダジム)が挑戦(前哨戦で不幸な事故=大和田正春Masaharu Owada(東京都出身・角海老ジム)に7回KO負け)するはずだった)+ブルース・カリーBruce Curry(アメリカ)に10回KO勝ちし王座獲得)に4回KO勝ちするがそのまま引退「アルゲリョはパンチがスロー。引退したほうがいい(コステロ言)」 そして8年後に再びカムバック。一勝するが翌95年、中堅選手のスコット・ウォーカーScott Walker(米・白人+フリオ・セサール・チャべスJulio Cesar Chavez(メキシコ)に2回KO負け)に10回判定負け(往年のボディーブローは相変わらず強烈だったが)を喫したのがラストファイトとなった。加えて、一般にはほとんど知られていないが、後に二度来日している(①88年のタイソン初来日時②95年10月、元WBA世界J・ウェルター級王者平仲明信Akinobu Hiranaka(高校・大学選手権制覇・ロス五輪代表・沖縄県出身・沖縄ジム)との(東京水道橋後楽園ホールにおける)EX2R)。
*Українськаウクライナ語⇒Андрес Алексіс Аргуельйо Бохоркес (ісп. Andrés Alexis Argüello Bohórquez; 19 квітня 1952 — 1 липня 2009) — нікарагуанський професійний боксер, згодом — суддя・・・1986年2月9日の試合を最後に引退。インタビューで浮気を繰り返し、経済的に困窮していることやコカイン中毒であることを認め、うつ病で自殺願望があったことを告白 。8年後の1994年8月27日に復帰するも、1995年1月21日の試合を最後に再度引退した・・・2009年7月1日、マナグアの自宅で死去、57歳没。深夜1時頃に拳銃で心臓を打ち抜いて自殺したと伝えられた。


(1)1981年9月15日 欧州ミドル級タイトルマッチ12回戦 王者トニー・シブソン(イギリス+42勝(30KO)3敗1分⇒55勝(37KO)7敗1分)VS挑戦者前世界ミドル級王者アラン・ミンター(39勝(23KO)8敗)イギリス・ロンドン
ー新旧交代劇。躍進中の豪打者シブソンが古豪ミンターを3回に二度倒し、ノックアウト。両者の勢いの差が出た一戦。ミンターはこの試合を最後に、引退した。ミンターは再起戦においてはランカー対決、強豪アーニー・シングルタリーErnie Singletary(アメリカ+世界ランクの常連、後に対戦したトーマス・ハーンズThomas Hearns(アメリカ)も倒せなかった=10回判定勝ち)に判定勝ち。ながら再びランカー対決となったムスタファ・ハムショMustafa Hamsho(シリア・サウスポー・ハグラーに二度挑戦(11回TKO負け+3回KO負け)に2-1のスプリット・デシジョンとはいえ、10回判定負けを喫する「ミンターは判定に大むくれ」「アメリカではジャブでポイントをとれないのか?(『ボクシングマガジン』誌)」。地元の先輩英雄を見事なノックアウトで下したシブソンは、世界のトップボクサーの一人となり知名度があがった。
*Polskiポーランド語⇒Tony Sibson (ur. 9 kwietnia 1958 w Leicester) − angielski bokser, zawodowy mistrz Europy (EBU), Wspólnoty Brytyjskiej oraz Wielkiej Brytanii w kategorii średniej. Trzykrotnie walczył w swojej karierze o mistrzostwo świata.
(2)1982年2月21日 世界ミドル級タイトル挑戦者決定12回戦 1位ドワイト・デヴィソン(アメリカ+31勝(23KO)1敗⇒44勝(33KO)8敗)VS2位トニー・シブソン(44勝(31KO)3敗1分)イギリス・バーミンガム
ーシブソンが12回判定勝ちでデヴィソンを破る殊勲。ハグラーへの挑戦が決定した。ずっとランク上位に名を連ね、ハグラー打倒の最有力候補とみられていた長身のデヴィソンはミュンヘン五輪金メダルのサウスポー、シュガー・レイ・シールズSugar Ray Seales(アメリカ+ハグラーと2敗1分)、無敗同士のホープ対決で17連勝(14KO)中だった「フィラデルフィアの殺人パンチャー」カーチス・パーカーCurtis Parker(アメリカ)に10回判定勝ち。ところが無名の中堅選手ロビー・エップスRobbie Epps(アメリカ・長身の白人選手)に思いもよらぬ判定負けで連勝をストップされる(世界ランク入りしたエップスは、故トニー・アヤラ・ジュニアTony Ayala Jr.(アメリカ)に初回TKO負け)。とはいえ再びランカー対決にて強打のウィルフォード・シピオンWilford Scypion(アメリカ+ハグラーに挑戦し4回KO負け)からダウンを奪い、判定勝ち。再浮上中だった。シブソンの体力と強打がデヴィソンの老獪さ技巧を制した一戦だったといえる(デヴィソン贔屓だった私も、何か嫌な予感がしていたとおりの結果になってしまいました)。世界戦へ駒を進めた意気あがるシブソンと対照的に、デウィソン(実力は申し分なかったにせよ、派手さと華には欠け、スター性はなかったかもしれない)はこの敗北以降、地味な存在となる(後年デトロイトのクロンク・ジムKronk Gymに移籍するが、再び世界のトップに現われることはなかった)。


(1)1983年2月11日 統一世界ミドル級タイトルマッチ15回戦 王者故マービン・ハグラー(アメリカ+全米選手権制覇(55勝1敗)55勝(46KO)2敗2分⇒62勝(52KO)3敗2分)VS挑戦者トニー・シブソン(47勝(27KO)3敗1分)マサチューセッツ州ウースター
ーハグラーがシブソンを寄せつけず、6回TKO勝ちでミンターから(3回TKO勝ち)奪ったタイトルの6連続KO防衛に成功。シブソンは敵地における一戦ながら物怖じせず、果敢に攻撃したが相手が悪かったといえる。シブソンはこの敗北以降、打たれ弱くなった(それほどハグラーのパンチは破壊力があるということです)。実力者シブソンに関しても、別の時代だったら世界タイトルを獲得していたと思う。ハグラー(タフだったし、まず当てさせない)のボクシングは’危なげ’というものとは無縁だった(ランカーはことごとく軍門に下った=12度(11KO)防衛)。その分(いわゆる’スリル’に欠ける)’安定’し過ぎていた(やや一般受けしない)面もあったかもしれない。とはいいつつ今から回想しても、その称号『Marvelous驚異的(素晴しい)優秀』にふさわしく前代未聞、偉大な名王者。ハグラーほど非の打ちどころのない、完璧なボクサーそしてサウスポー(もともと右利き)はいなかった(見本となるようなスタイル)。 無冠時代に判定負けしている故ウィリー・モンロー・シニアWillie Monroe Sr(アメリカ)とボビー・ワッツBobby Watts(アメリカ)にも双方、痛快な2回KO勝ちで雪辱している。そしてラストファイトとなったシュガー・レイ・レナードSugar Ray Leonard(アメリカ(モントリオール五輪金メダル)五階級制覇)戦(僅差の2-1スプリット・デシジョン、判定負けでタイトルを奪われた)も、ハグラーが勝っていたという意見も少なくない(ハグラー自身、レナードから直接「あの試合は、負けていた」と聞いていたらしく、再戦要求にもレナード(防衛戦すら行なわずに(WBA/WBC/IBF三団体とも)タイトル返上)は応じなかった)。
*Українськаウクライナ語⇒Марвін Гаглер (англ. Marvin Hagler; 23 травня 1954, Ньюарк (Нью-Джерсі), США — 13 березня 2021) — американський боксер професіонал середньої вагової категорії. Чемпіон світу в середній (версія WBC, 1980—1987; версія WBA, 1980-—1987; версія IBF, 1983—1987) ваговій категорії
★追悼★ロイター通信が2021年3月13日、ニューハンプシャー州の自宅で死去したことを報道。66歳没。
(2)1988年2月7日 IBF世界ミドル級タイトルマッチ15回戦 王者フランク・テート(アメリカ+ロス五輪優勝金メダル(125勝5敗)21連勝(12KO)無敗⇒41勝(24KO)5敗)VS挑戦者トニー・シブソン(55勝(37KO)6敗1分)イギリス・スタッフォード
ーテートが地元の英雄シブソンを10回にストップ(シブソンのラストファイト)。試合前、現地に到着した王者テートが、挑戦者シブソンと一緒にガッツポーズでうつっていた写真も懐かしい。テート(アマ時代はクロンク・ジムに所属)は無敗対決となった決定戦において不利の予想を覆し、わがカナダ・ブリティッシュコロンビア州バンクーバー出身のマイケル・オラジデ・ジュニアMichael Olajide Jr.(イギリス・ロンドン生まれ(引退後はボクセサイズboxerciseのトレーナー兼俳優actor)アフリカのナイジェリア系二世)から二度のタウンを奪った末、ワンサイドの15回判定で破りタイトルを獲得したばかり(延期Postponeが重なり、オラジデにとっては不運(約六ヶ月のブランク)「本当にがっかりしてしまったTremendous discouragement」)。またテートは五輪決勝でもカナダ代表、ここオンタリオ州トロント出身のショーン・オサリバンShawn O'Sullivan(ワールドカップ(83年ローマ大会)銅メダル)に勝っている(オサリバン(アイルランド系・銀メダル)はプロでは大成しなかった)。アメリカ時代、引退したシブソンについて『リング』誌上の記事に「シブソンは『勇敢な戦士Courageous Warrior』として記憶されるだろう」と載っていたのを記憶している。しかしテートは次戦において、無敗のランク1位マイケル・ナンMichael Nunn(アメリカ)に、一方的な9回TKO負けでタイトルを失ってしまう。テートはそのまま二度と世界王者に返り咲くことはできなかった(一階級上げて、ロス五輪のチームメートだったバージル・ヒルVirgil Hill(ミドル級銀メダル)に二度挑戦したが、二度とも判定負け)。
*Русскийロシア語⇒Фрэнк Тейт (англ. Frank Tate; 27 августа 1964, Детройт) — американский боксёр средних весовых категорий. Выступал за сборную США в первой половине 1980-х годов, чемпион летних Олимпийских игр в Лос-Анджелесе.


(1)1983年3月19日 WBC世界ウェルター級王座決定12回戦 1位ミルトン・マクローリー(アメリカ(アマ105勝5敗)20連勝(17KO)無敗⇒35勝(25KO)4敗1分)VS2位コリン・ジョーンズ(イギリス(モントリオール五輪代表)24勝(21KO)1敗⇒26勝(23KO)3敗1分)ネバダ州リノ 
ー「ジョーンズに非情なドロー(『ボクシングマガジン』誌)」マクローリー、三者三様の引き分けで辛うじて王座獲得(レナードが返上したタイトル)。勝利を確信して胴上げされていたジョーンズは呆然自失(悔し涙を流していた)。現在からみても、この試合は明らかにジョーンズが勝っていたと思う。マクローリーにも笑顔はなく、まるで敗者のようにしょんぼりした表情で控室に引き上げていた。イギリスの白人選手について私見を述べさせていただけば(むろん一概にはいえないにせよ)共通する特徴は頑丈さと勇敢さ。加えて攻撃力とその強打だと結論します。このジョーンズも典型だったといえる。マクローリーはデビュー以来、17連続KO勝ちを記録。弟のスティーブSteve McCroryはロス五輪金メダリスト(五輪準々決勝で判定勝ちしたIBFバンタム級王者ジェフ・フェネックJeff Fenech(豪州・ワールドカップ(83年ローマ大会)銅メダル)に挑戦したが、14回TKO負け=プロでは大成しなかった)。周知のとおり、デトロイトのクロンク・ジム出身(ハーンズ(五階級制覇)の弟弟子及び師匠故エマニエル・スチワードEmanuel Steward(再び★追悼★2012年に死去=享年68歳)子飼いの選手だった)。ランディー・シールズRandy Shields(アメリカ=7回TKO勝ち)、ピート・ランザニー、ロジャー・スタフォードRoger Stafford(アメリカ)といった世界ランカーたちを連破(みな難敵相手だったとはいえ、3連続判定勝ちで『The Ice Man相手を冷たくさせる』強打はやや湿りがちであった)。
*Gaeilgeアイルランド語⇒Dornálaí Meiriceánach Afracach, a bhí ina churadh marcmheáchan, is ea Milton McCrory, a rugadh ar 7 Feabhra, 1962 i Detroit, Michigan.
*Русскийロシア語⇒Колин Джонс (англ. Colin Jones; род. 21 марта 1959, Горсейнон) — британский боксёр, представитель полусредней весовой категории.
*Українськаウクライナ語⇒Емануель Стюард (англ. Emanuel «Manny» Steward; нар. 7 липня 1944, Ботом Крік, Західна Вірджинія, США —† 25 травня 2012, Чикаго, США) — американський боксер-аматор, тренер професійних боксерів та коментатор боксерських двобоїв на телеканалі HBO.
(2)1983年8月2日 再戦
ーマクローリーが二回にダウンを奪い、12回判定勝ち。タイトル初防衛に成功。ただしこの試合も判定は2-1であり、競っていた。こうした形で、再戦となれば(初戦がどういう内容であれ)必ずしも勝てるというわけではないのがボクシングの厳しさのひとつであろう(状況はまったく異なる)。ジョーンズはこの後、地元にWBA王者ドナルド・カリーDonald Curry(アメリカ+モスクワ五輪代表)を迎え、挑んだが傷による4回TKO負け(ジョーンズのラストファイト(激しい出血によりストップされ、がっくりと泣き崩れていた)この選手も運がなかった)。一方、マクローリーはこの後、3連続KO防衛を経てカリーとの統一戦を迎える(結果はすでに語ったよう、2回KO負け)。 さらに二階級制覇を賭けてWBAJ・ミドル(スーパーウェルター)級王者マイク・マッカラムMike McCallum(アメリカ)に挑戦し(ずっとペースを支配していた=チャンピオン(あまり調子はよくなかった)は大苦戦)10回TKO負け。 続いて元WBC王者、強打のルペ・アキノLupe Aquino(メキシコ)に二度ダウンを奪われ、10回判定負け。兄貴分「ハーンズ二世」と期待されていたほどは、伸びなかったかもしれない。


(1)1988年5月28日 世界ミドル級ノンタイトル10回戦 ナイジェル・ベン(イギリス(アマ41勝1敗)17連勝(17KO)無敗⇒42勝(35KO)5敗1分)VSティム・ウイリアムス(アメリカ+15勝(11KO)5敗1分⇒16勝(11KO)17敗1分)イギリス・ロンドン
ー『The Dark Destroyer暗黒の破壊者』のニックネームをひっさげ、デビュー以来破竹の連続KO勝利を重ねていた豪打のベンが2回KO勝ち。中堅選手のウイリアムスはロードバック中の元トップアマだったアレックス・ラモスAlex Ramos(アメリカ+鳴り物入りでプロ入り『The Bronx Bomberブロンクスの爆撃機』さんざん騒がれながらも(天才が故の遊び好きと練習嫌い)大成できなかった)に8回TKO勝ちしていた。ベンはイギリス陸軍にいたころ、ボクシングを始めた(北アイルランドと西ドイツに駐屯)。
*Русскийロシア語⇒Найджел Грегори Бенн (англ. Nigel Gregory Benn; род. 22 января 1964, Илфорд, Англия) — британский боксёр-профессионал. Бывший чемпион мира во 2-й средней весовой категории.
(2)1989年5月21日 英連邦ミドル級タイトルマッチ12回戦 王者ナイジェル・ベン(22連勝(22KO)無敗)VS挑戦者マイケル・ワトソン(イギリス+21勝(17KO)1敗1分⇒25勝(21KO)4敗1分)イギリス・ロンドン
ーベン、痛恨の連勝ストップ。ワトソンに6回TKO負け。ベンは初回からいつも通り、左右フックを強振しながらワトソンをコーナーにロープに追い詰め、威力満点のパンチを叩きつける。ながらワトソンはガードを高く上げ、がっちり固めベンの強打に耐える。見た目ほど有効なクリーンヒットはなかったように感じた(そしてワトソンはタフな選手)。展開は変らないが、だんだん打ち疲れの様相を示してきたベンと対照的に、ワトソンは的確なパンチを当て始める。最後はダウンを奪われ(ベンは力が抜けたように、あお向けに倒れた)そのままストップされ初黒星。試合後、ベンは完敗を認め、ワトソンと健闘を讃え合っていた。この時はモントリオールにいたが、ワトソンはこの勝利により俄然注目され、ボクシング専門誌でもさまざまな特集記事が組まれていた。
*Michael Watson MBE (born 15 March 1965) is a British former professional boxer who competed from 1984 to 1991. He held the Commonwealth middleweight title from 1989 to 1991, and challenged three times for a world title between 1990 and 1991. Watson's career was cut short as a result of near-fatal injury sustained during a loss to Chris Eubank for the WBO super-middleweight title in 1991.


(1)1990年11月18日 WBO世界ミドル級タイトルマッチ12回戦 王者ナイジェル・ベン(27勝(25KO)1敗)VS挑戦者クリス・ユーバンク(イギリス+24連勝(14KO)無敗⇒45勝(23KO)5敗2分)イギリス・バーミンガム
ー世紀の対決はWBCインターナショナル(マイナータイトル)王者のユーバンク(ジャマイカ系)が7回にダウンを奪われながらも(ちょうど足が滑ったところにベンの右ストレートが命中。ユーバンクは「スリップ」だと抗議していた)9回にダウンを奪い返しベンをストップした。ベンはこの試合では、いつものフックをぶん回す「突貫戦法」ではなく、真直ぐのジャブを突き刺しながら鋭いストレートを主体に戦う(スピードがあり、迫力があった)。ユーバンクのスタイルは派手さはないが、よくまとまっていて堅実なように見えた。基本に忠実なボクシング(この頃は例の’歌舞伎’「パフォーマンス」は(すでに’徴候’は見えていたとはいえ)あまりやっていなかった笑)。ながら一発パンチの破壊力では断然ベンが上回っている。ユーバンクについてはほとんど知らなかった。けど、モントリオール時代『KOマガジン』誌上において記者会見の模様が紹介されており(無表情のまま’石’のように突っ立っているユーバンクを盛んに挑発しているベンの写真が載っていた)ベンのファンである私は、ベンが勝つと信じていた(でも嫌な予感はしていました笑)。
*Русскийロシア語⇒Крис Юбенк (англ. Chris Eubank), (Родился 8 августа 1966 года, Лондон, Англия) — британский профессиональный боксёр, выступавший в средней, второй средней, полутяжёлой и первой тяжёлой весовой категории. Чемпион мира по версии WBO в среднем весе (1990—1991). 
(2)1993年10月9日 WBC世界スーパーミドル級タイトルマッチ 王者ナイジェル・ベン(37勝(32KO)2敗)VS挑戦者WBO世界ミドル級王者クリス・ユーバンク(35連勝(18KO)無敗1分)イギリス・マンチェスター
ー再び英雄決戦(約三年ぶりのリマッチ)。ベン、仇敵ユーバンクに雪辱ならず(1-0の引き分け防衛)。復讐に燃えるベンは頭を剃り上げて登場(気合いが入っていた)。ユーバンクはいつもの「能面」ズラ(パフォーマンス込み)悠然と現われる。ベンはマウロ・ガルバノMauro Galvano(イタリア)に敵地で3回TKO勝ち(再戦も判定勝ち=最終回、試合終了5秒前くらいにいいパンチを食い(ゴングに救われた)危なかったが)して、獲得したタイトルの四度目の防衛に成功。一方、ユーバンクはベンから奪ったタイトルを11度防衛していた。試合前も、両者ハーレーダビッドソンHarley-Davidsonに乗って対峙するコマーシャルが流され、大いに宣伝されていた(日本で言えば、薬師寺保栄Yasuei Yakushiji(愛知県出身・松田ジム)VS辰吉丈一郎Joichiro Tatsuyoshi(岡山県出身・大阪帝拳ジム)戦(薬師寺の判定勝ち)に等しい)。ベンは終始試合を優位に進めており、強打を命中させ、何度もユーバンクを窮地に追い込む。ユーバンク(後半に強いタイプ)は最終回、逆転を狙って猛烈に打って出ていたが仕留められず。両者のライバル関係は熾烈である。判定がアナウンスされる瞬間、顔を近づけて睨み合う場面が印象的だった。勝利を確信していたベンは「それはないだろう」といった感じで不満がみなぎり、憤懣やる方ない表情となる。「ナイジェル・ベンとの試合ではこういうこと(歌舞伎「パフォーマンス」)はできなかったですね笑。ベンはパンチありますからね(小泉氏)」「ボクシングのスケールからいえばナイジェル・ベンの方が、ひとまわり大きいと思うんですよ(浜田氏)」。 この試合の記者会見においてもユーバンクは’石’(完全に無視)、ベンは’冗舌’であった(敵意剥き出し)笑①ユーバンク⇒「He doesn't sit well with me彼は行儀よく座ろうとしない」②「 (ワトソン(不幸な事故により引退後も)とは話もすると語り)I like Michael私はマイケルは好きなんだ(ユーバンクについて)Because he is a fu×king a×sholeなぜなら、あいつは嫌な奴だからだ」(しかし両者は引退後(多くの例にみられるよう)テレビに共演し和解Reconciliationしている)。


(1)1991年6月22日 WBO世界ミドル級タイトルマッチ12回戦 王者クリス・ユーバンク(27連勝(17KO)無敗)VS挑戦者マイケル・ワトソン(25勝(21KO)2敗1分)イギリス・ケンシントン
ーイギリスが誇る英雄同士によるスーパーファイト。ユーバンクが2-0の際どい判定勝ちで強敵ワトソンを退けた(ベンから奪ったタイトルの3度目の防衛に成功)。とはいえ、ワトソンが勝っていたという声もあがり両者は三ヵ月後に再び対決する(私見としてワトソンの場合も、ボクシングのスケールではユーバンクより一枚上だったと思う)。ユーバンクは勝負強い選手だった。
(2)1991年9月21日 WBO世界スーパー・ミドル級王座決定12回戦 イギリス・ロンドン
ー再戦は序盤から劣勢だったユーバンクが、最終12回TKO勝ちでワトソンを破る(採点は三者ともワトソンの勝ちだった)。11回にワトソンは痛烈なダウンを奪う(ノックアウト寸前だった)。しかし何とか立ち上がったユーバンクはダウンを奪い返し(この時、ワトソンは後頭部をキャンバスに強打)次のラウンド開始早々にストップした(ワトソンのダメージは深かった)。そして残念ながら、悲劇的な事故に繋がり、これがワトソン最後の勇姿となってしまう↓。大分後にみた記事では車椅子に座り、かつて金のネックレスをつけ、黒のハイネックがよく似合った逞しい肩幅はなく(目線も合っていない)。「大木」みたいだった腕も「楊枝」のように細くなっており、痛ましい限りだった(『ワールドボクシング』誌)。さらに別の頁で詳しく紹介したジェラルド・マクラレンGerald McClellan(アメリカ)がベンとの激闘の末、逆転KO負け。惜しくも再起不能になってしまった試合を観戦していたワトソンは「まるで自分をみているようだった」と語っていた。

*Life after boxing:Watson sued the British Boxing Board of Control (BBBoC) for negligence and won damages reputedly of around £1 million. The High Court ruled that the BBBoC was responsible for medical provision at a fight and that administering oxygen and resuscitation on site would have made a considerable difference to Watson's outcome. Mr Justice Kennedy said that the board was "in breach of its duty to Mr Watson". This decision was upheld at the Court of Appeal, and the BBBoC did not appeal to the House of Lords, selling their London headquarters to pay out a £400,000 compensation settlement. The judge said that this was "sadly a long way short of the damages that [Watson] would have received had the defendants had the money or had they been insured".

*試合後すぐにマイケル・ワトソンはコーナーで意識不明に陥る、しかし主催者の不備で救急車も医者も準備されておらず、医者が到着するまでの8分間ワトソンはリングにただ横たわっていた。28分後にようやく病院に運ばれて手当を受けることができたが、その後ワトソンは40日間危篤状態が続き、脳内出血で凝固した血を取り除く手術を6度に渡り受けた。ワトソンは奇跡的に意識が回復するが読み書きさえできない寝たきりの障がい者となってしまったことで、英国ボクシング管理委員会を損害賠償請求で訴えた。裁判所は、意識不明になってすぐにワトソンに酸素吸入などの応急手当を行っていれば、障がいが残る可能性が低かったことを認め、準備を怠った英国ボクシング管理委員会に賠償金を支払うよう判決を下した。(その後、ワトソンは10年以上の懸命のリハビリで歩行ができるようになるまで回復した)。
*ユーバンクの不祥事:1992年、車を運転中に路肩で仕事をしていた土木作業員をひき殺したとして逮捕される。


(1)1984年5月13日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 フランク・ブルーノ(イギリス+21連勝(21KO)無敗⇒40勝(38KO)5敗)VSジェームス・スミス(アメリカ+13勝(11KO)1敗⇒44勝(32KO)17敗)イギリス・ロンドン 
ーブルーノの初黒星。無名の選手だったスミスに痛恨の最終10回ノックアウト負け(すさまじいダウンだった)。「本物?ブルーノ(『ボクシングマガジン』誌)」連続KO勝ちを続ける’怪物’についての記事だった。とにかくブルーノの’ヒットマッスル’(往年のジョージ・フォアマンGeorge Foreman(アメリカ)をも凌駕するような)「鋼鉄の鎧」そのものの体型に驚嘆した。一気に世界のひのき舞台に躍り出たスミスはラリー・ホームズLarry Holmes(アメリカ)のIBFタイトルに挑戦するが、判定負け。続いてトニー・タッブスTony Tubbs(アメリカ)、マービス・フレージャーMarvis Frazier(アメリカ)といった強豪に連敗し、北米タイトル戦においてティム・ウィザスプーンTim Witherspoon(アメリカ)に判定負け。しかしWBA王者に復帰していたウィザスプーン(タッブスに判定勝ち)との再戦では見事な初回KO勝ちで雪辱とともに、念願の世界王座を手に入れた。この頃のブルーノは(盟友のベンに似て、柔軟性に欠ける体の固さが目についたが)パワフルな豪打にまかせて積極的に攻撃するファイターであった(だんだん「ボクサー」スタイルに変貌していく)。スミスについては、むろん往年の「東京テレビ」12チャンネルで放送されていた。一般の方々には、結構派手に宣伝されていたWBC王者無敗の若きマイク・タイソンMike Tyson(アメリカ)との統一戦(判定負け)を見た人がいるかもしれない⇒「抱きつきスミス(『デイリー・スポーツ』紙)」クリンチ戦法に終始(試合終了「5秒前」に猛烈に打って出る笑)。やんやの批判を浴び、勝ったタイソン(後にブルーノに連勝①5回TKO勝ち②3回TKO勝ち)にも笑顔はなかった。はじめに「タイソン」の噂(デビュー以来、19連続KO勝ち)を聞いたとき(民放チャンネルでみた友達=ボクシングファンではない)ブルーノかな?と一瞬頭をよぎった想い出も懐かしいです。
*Русскийロシア語⇒Франклин Рой «Фрэнк» Бруно (англ. Franklin Roy Bruno, родился 16 ноября 1961, Хаммерсмит, Лондон, Англия) — британский боксёр-профессионал, выступавший в тяжёлой весовой категории. Чемпион мира среди профессионалов в тяжёлом весе по версии WBC (1995-1996), чемпион Европы по версии EBU (1985). Награждён Орденом Британской Империи. 
*Deutschドイツ語⇒James „Bonecrusher“ Smith (* 3. April 1953 in Magnolia, North Carolina) ist ein ehemaliger US-amerikanischer Schwergewichtsboxer und WBA-Weltmeister.
(2)1987年3月24日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 フランク・ブルーノ(28勝(27KO)2敗)VSジェームス・ティリス(アメリカ(アマ92勝8敗)36勝(27KO)11敗1分⇒42勝(31KO)22敗1分)イギリス・ロンドン

ーブルーノが5回にティリスをストップ。ブルーノの重そうなパンチの連打を浴びたティリスは横を向いてしまう。ブルーノはウィザスプーンに挑戦し10回TKO負けした再起戦を見事な勝利で飾った。『Quick速い(敏速な)機敏な』 の異名を持っていたティリスはデビュー以来無敗の20連勝(15KO)を記録するが、マイク・ウィバーMike Weaver(アメリカ)のWBAタイトルに挑戦し(凡戦だった)15回判定負け(初黒星)。さらに後のWBC王者無敗の新鋭ピンクロン・トーマスPinklon Thomas(アメリカ)に8回TKO負け。次戦にて後のWBA王者故グレッグ・ペイジGreg Page(アメリカ)との生き残り戦に(ダウン応酬だったとはいえ)8回TKO負け(ハーンズのWBAウェルター級タイトル防衛戦(バエスPablo Baez(ドミニカ)に4回TKO勝ち(テキサス州ヒューストン(セミが(後のWBAJ・ミドル(スーパーウェルター)級王者)東洋王者三原正Tadashi Mihara(高校・大学選手権制覇・群馬県出身・三迫ジム) ディオニシオRamon Dionisio(フィリピン)に5回KO勝ち)だった)レフェリーは日本人の森田健(群馬県出身)Ken Morita氏)にアマ出身、期待のホープだった二人(ペイジ(19連勝(16KO)無敗)はスーツ姿、ティリスは洒落た黒のシャツにカーボーイハットを被っていた)がリング上で紹介されていたのも感慨深い)。この一戦を境にティリスは「噛ませ」的な選手に落ちぶれ、一流どころたちの「踏み台」となってしまう。そして「英国紳士」そのものの人格者である
ブルーノはこの当時から、イギリスにおいてもっとも知名度の高いボクサーであり(現在も同じく)敬愛される「国民的英雄」です。
*Svenskaスウェーデン語⇒James Tillis, född 5 juli 1957 i Tulsa, Oklahoma, är en amerikansk före detta boxare.


(1)1989年10月4日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 タイレル・ビッグス(アメリカ+世界選手権(82年ミュンヘン大会)優勝金メダル・ロス五輪優勝金メダル(108勝6敗)15勝(11KO)2敗⇒30勝(20KO)10敗)VSゲーリー・メイスン(イギリス(ジャマイカ)31連勝(30KO)無敗⇒37勝(34KO)1敗)イギリス・ケンシントン
ー躍進中の強打者メイスンが、地元にビッグスを迎え7回にノックアウト。終了間際、痛烈なダウンを奪われたビッグスはそのまま立ち上がれなかった。元アマスターのビッグスは無敗対決となったが王者タイソンに挑戦(7回TKO負け(連勝ストップ)初黒星)した次戦において五輪決勝で勝っている後のWBO王者フランチェスコ・ダミアニFrancesco Damiani(イタリア・銀メダル)に5回TKO負け(ワンサイドの内容)。他の五輪アメリカ代表と入魂の仲(故ウィテカーPernell Whitaker(金)テーラーMeldrick Taylor(金)ブリーランドMark Breland(金)ホリーフィールドEvander Holyfield(銅))雑誌などでも、盛んに特集が組まれていた)だったビッグス(アマ時代は軽快なフットワークを駆使した典型的な「アリ戦法」一発パンチはそれほどなかった)も、プロでは大成できず(キャリア晩年には「麻薬」にも手を染めてしまう)。期待は大きかったが、伸びなかった選手であった)。
*Русскийロシア語⇒Тайрелл Биггс (англ. Tyrell Biggs; 22 декабря 1960, Филадельфия, Пенсильвания, США) — американский боксёр-профессионал, выступавший в тяжёлой весовой категории. Чемпион XXIII Олимпийских игр в весовой категории свыше 91 кг (1984). 
*Deutschドイツ語⇒Gary Mason (* 15. Dezember 1962 in Jamaika; † 6. Januar 2011 in Wallington, London) war ein englischer Schwergewichtsboxer.
(2)1991年3月6日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 レノックス・ルイス(イギリス(カナダ)ジュニア世界選手権(83年サントドミンゴ大会)優勝金メダル・ワールドカップ(85年ソウル大会)優勝金メダル・ロス五輪代表・ソウル五輪優勝金メダル(85勝9敗)14連勝(13KO)無敗⇒41勝(32KO)2敗1分)VSゲーリー・メイスン(35連勝(32KO)無敗)イギリス・ロンドン
ー無敗のホープ対決。五輪金メダリストのルイスが7回にメイスンをストップ。メイスンは右目の腫れが酷かったが、最後まで果敢に攻撃していた(パンチ力はほぼ互角だったと思う)。この当時のルイスはもっぱら右強打の破壊力に頼る、一発屋だった(腰つきもフラフラしていて、安定感がもうひとつ)。トレーナーはルイスが「チアリーダーcheerleaderのようなものだ」と酷評したペペ・コレアPepe Correaであった(この試合はモントリオールでテレビ観戦しました)。コレアはルイスがオリバー・マッコール Oliver McCall(アメリカ)に2回KO負けの惨敗を喫し(初黒星)WBCタイトルを失った後、解雇される(新任はマッコールの補助トレーナーとしてコーナーについていた、故エマニエル・スチワード)。この頃のルイスは(イギリス出身ということもあり)五輪決勝でTKO勝ちしている後の統一王者リディック・ボウRiddick Bowe(アメリカ・スーパーヘビー級銀)、さらに後のWBO王者レイ・マーサーRay Mercer(アメリカ・ヘビー級金)に比べ、やや出遅れていた感があった(破竹の連勝を続け、次々と強豪を連破していたこの二人(特にマーサー)の方が、雑誌にも頻繁に登場していた)。ボウはホリーフィールドとの無敗対決に(ダウンを奪い)判定勝ちでタイトルを獲得。マーサーは同じく無敗対決で↑のダミアニに9回KO勝ちし、タイトル奪取(ずっと劣勢だったのを左アッパーを鼻に命中させ、一発で逆転ノックアウト=モントリオールで仕事が終った後、テレビ観戦したのを感無量で思い出します)。イギリス、ロンドン生まれのルイス(ジャマイカ系)は12歳のとき、ここオンタリオ州キッチナーに移住(五輪もカナダ代表であった)。アマ時代、ニューヨーク市内のジムでロス五輪に備える若きタイソンと(一緒に練習。スパーリングもした)故カス・ダマトCus  D'Amatoを真ん中に(ルイスはその間)隣にケビン・ルー二ーKevin Rooney(笑顔で肩を組んでいる)も交えて一緒に撮っていたあどけない表情の写真(同じく笑顔の少年タイソンはひとり挟んで右端にいる)も懐かしい(周知のとおり、二人は晩年(実現が遅すぎた)雌雄を決する(世紀の「スーパーファイト」ルイスは約40億円、タイソンは約30億円のファイトマネー)ルイスの8回KO勝ち)。また↑で紹介したオラジデも一時、ここで汗を流していた(世界ランカー同士、↑で参照したハムショとのスパーリングも脳裏によみがえる)父親のシニアMichael Olajide Sr.(テートに初黒星を喫し、アイラン・バークレーIran Barkley(アメリカ)にも敗れた(5回TKO負け)後、ジュニアは離れた)はニューヨークを拠点にしていたトレーナー(余談としては、女性ボクサーの元IWBF世界ストロー級王者シュガー・みゆきSugar Miyuki(東京都出身)もシニアの手ほどきを受けている)。
*Українськаウクライナ語⇒Ле́ннокс Лью́їс (англ. Lennox Claudius Lewis; нар.2 вересня 1965 Лондон) — канадський і британський боксер-професіонал у надважкій ваговій категорії. Олімпійський чемпіон 1988 р. в надважкій вазі (у складі збірної Канади). 
*キッチナー(英: City of Kitchener)は、カナダのオンタリオ州南西部の都市。2006年現在の推計人口は広域圏で約20万人である。
*Jose "Pepe" Correa is a boxing trainer who has trained Sugar Ray Leonard, Roberto Durán, Lennox Lewis, Simon Brown and Maurice Blocker. 


(1)1991年11月23日 世界ヘビー級ノンタイトル10回戦 レノックス・ルイス(17連勝(16KO)無敗)VSタイレル・ビッグス(19勝(12KO)4敗)ジョージア州アトランタ
ー新旧五輪金メダリスト対決となったが、ルイスが3回にビッグスをノックアウト(3度のダウンを奪った)。アマ時代の借り(ロス五輪準々決勝で判定負け)を返した。ビッグスは前戦においてもボウに8回TKO負け。もはや往年の面影(連勝中及びアマ時代)はなかったといえる。小泉氏も指摘していた通り、アマ時代のような「アリ戦法」とスピードを持続できず(増量したことも手伝い)足がむかしのように動かない。一方、ルイスはメイスンに勝ってから(元WBA王者ウィバーを6回にノックアウトしたのを含め)3連続KO勝ち。再びその強さをアメリカにて遺憾なく発揮。知名度と評価に磨きをかけた。
(2)1992年10月31日 WBC世界ヘビー級王座挑戦者決定12回戦 1位レノックス・ルイス(21連勝(19KO)無敗)VS2位ドノバン・ラドック(カナダ+27勝(21KO)3敗⇒40勝(30KO)6敗1分)イギリス・ケンシントン
ールイスが強敵ラドックに2回TKO勝ち(こちらもアマ時代に負けているラドックに雪辱)。初回終了間際に得意の右ストレートを命中させ、ラドックはもんどり打って倒れる(ダメージは深かった)。2回早々、再びダウンを奪いストップした。 大男のルイス(196センチ)に対すると、巨漢ラドック(191センチ)が小さくみえた。『Razorカミソリ』の異名を持つラドックは周知のとおり、タイソンと二度激戦を演じた選手(①7回TKO負け②(2度ダウンを奪われ)12回判定負け)。タイソンの『Iron(鉄)アイアン』パンチを、雨あられと浴びてしまったダメージは結局、残っていた様子(特に2戦目は顎を骨折。打たれ脆くなった)。ラドック(ジャマイカ生まれ、ここトロント育ちのカナダ人)については「必殺パンチ」he called(彼自ら呼んだ)『The Smashスマッシュ』(「もってんならはじめにいえってんだよ」?笑⇒ComicマンガManga/Animeアニメ『Hajime no Ippo(The First Step)Первый шаг』←『Шаг вперёд, два шага назад一歩前進、二歩後退One Step Forward, Two Steps Back (Vladimir Lenin)』再笑)highly versatile (大変多才(多目的な)用途の広い)half-hook(半フック), half-uppercut(半アッパー) left-handed punch(左パンチ)により、「日本」では実在の人物より’有名’なのかもしれない。それはともかく、ラドックはタイソン戦までジェームズ・ブロード
James Broad(アメリカ・モスクワ五輪代表=プロでは大成しなかった)に初回TKO勝ち。さらに二人の元WBA王者①スミスに7回TKO勝ち(豪腕荒れ狂い、薙ぎ倒した感じ)②マイケル・ドークスMichael Dokes(アメリカ(同じくアマ出身)全米ゴールデングローブ制覇+ボウに挑戦し、初回TKO負け)を4回、痛烈なKO劇で失神させた。 再起戦は、いきなり無敗の24連勝(23KO)中の新鋭フィル・ジャクソンPhil Jackson(アメリカ+後にルイスに挑戦し、8回TKO負け)を相手にせず、4回にノックアウト。続いて元WBA王者のペイジに8回TKO勝ち(ストップは「危ない」と心配になるほど(ペイジがかわいそうだった)打ちまくられた挙句となる)。快勝のルイスはこのままWBC王者に認定される(挑戦するはずだった新統一王者ボウが、WBC王座を放棄したため)。世界タイトルから遠のいてしまったラドックはこの後、前WBO王者故トミー・モリソンTommy Morrison(アメリカ+ルイスに6回TKO負け)と対戦。初回、先制のダウンを奪うも、4回逆転KO負け(すでに往時の勢いはなく、ルイス戦以降、一層打たれ脆くなってしまった様子)。2015年に約14年ぶりに51歳で再起。2連勝(1KO)するがここトロントにて、地元の中堅選手ディロン・カーマンDillon Carman(カナダ)に3回KO負け(ラストファイトとなる)。
*Донова́н Ра́ддок (англ. Donovan Ruddock; род. 21 декабря 1963, Сэнт-Кэтрин, Ямайка) — канадский боксёр-профессионал, выступавший в тяжёлой весовой категории. 


(1)1994年3月19日 WBO世界ヘビー級タイトルマッチ12回戦 王者マイケル・ベント(アメリカ+ワールドカップ(85年ソウル大会)銅メダル・世界選手権(86年リノ大会)銅メダル(148勝8敗)11勝(6KO)1敗)VS挑戦者ハービー・ハイド(イギリス+24連勝(23KO)無敗⇒49勝(43KO)4敗)イギリス・ロンドン
ー無敗の強打者ハイドがベントを7回にノックアウト。元エリートアマのベント(イギリス生まれのジャマイカ系)はモリソンに初回KO勝ちでタイトルを強奪したばかり。試合前、宣伝のため路上で顔を合わせた両者は取っ組み合いを演じ、マスコミを大いに賑わせる。とはいえ内容はハイド(ナイジェリア出身)のワンサイド(フィニッシュはすさまじかった)。試合後、控え室にて倒れたベントは外傷性脳損傷traumatic brain injuryと診断され、この試合を最後に引退した。
*Русскийロシア語⇒Херберт Окечукву Мадуагву англ. Herbert Okechukwu Maduagwu более известный как Херби Хайд (англ. Herbie Hide, родился 26 октября 1971, Оверри, Нигерия) — бывший британский боксёр-профессионал нигерийского происхождения, экс-чемпион мира среди профессионалов в тяжёлом весе по версии WBO.
*Русскийロシア語⇒Майкл Бентт (англ. Michael Bentt, родился 4 сентября 1965, Лондон, Англия) — американский боксёр британского происхождения и кино-, и телеактёр.
(2)1995年3月11日 WBO世界ヘビー級タイトルマッチ12回戦 王者ハービー・ハイド(26連勝(25KO)無敗)VS挑戦者前統一世界ヘビー級王者リディック・ボウ(アメリカ+ソウル五輪銀メダル(104勝18敗)35勝(31KO)1敗1NC⇒43勝(33KO)1敗1NC)ネバダ州ラスベガス
ーボウが都合四度のダウンを奪い、ハイドを6回にストップした。 ボウはホリーフィールドとの再戦に敗れ、連勝ストップ(初黒星)。 再起戦は無敗のバスター・マシス・ジュニアBuster Mathis Jr(アメリカ)と行ないながらも、4回(無効試合)ノーコンテストに終わる(クリンチの際、膝をついたマシスに右アッパーを打ち込んでしまい。マシスが続行不可能となったため)。 しかし同じく無敗の新鋭ラリー・ドナルドLarry Donald(アメリカ・バルセロナ五輪代表)に文句なしの12回判定勝ち。再び無敗の王者ハイドへの挑戦となった。 ボウは体が一回り大きく(196センチ)ハイドが素早く出入りしながら、いいパンチをまとめる度に強烈な一撃をお返してダウンを奪う(この展開が最後まで続いた)。 ただ以前のように強くて(構えた位置から真直ぐ伸び、戻る)長いジャブが出なくなり、全体として雑になったように思える。ボウは次戦においてはアマ時代に負けている宿敵、これまた無敗のホルヘ・ルイス・ゴンザレスJorge Luis Gonzalez(キューバ(201センチ)ソウル五輪代表(不参加)アマ時代は無敵=ビッグス、ルイスにも勝っている)を圧倒。見事な6回KO勝ちで雪辱した。そしてライバル、ホリーフィールドとのラバーマッチを迎える=6回に先制のダウンを奪われるも、8回逆転KO勝ち(勝ち越し、決着をつけた)。そして評判が悪かった無敗のアンドリュー・ゴロタAndrew Golota(ポーランド・ソウル五輪ミドル級銅メダル+ルイスに初回KO負け)との二戦に臨む(取巻きに愛想を尽かし、名トレーナーの師匠故エディ・ファッチEddie Futchも離れてしまった)。双方(ボウは敗色濃厚だった)ゴロタのローブローによる、失格負けとなるが(特に初戦はたいへんな大乱闘騒ぎに発展してしまい)悪名を轟かせてしまう(①7回失格勝ち②9回失格勝ち(ボウのラストファイトとなる)2004年に再起=3連勝(1KO)を記録)。そして引退後ボウは、只ならぬ夫婦間暴力(妻を気絶させるほど殴った)を働き離婚(加えて(3人の子どもを)誘拐容疑で逮捕された)。同じく、残念ながらハイドもその後、暴力事件や麻薬関連など不祥事が続き。度重なる逮捕、裁判沙汰。社会面を賑わせてしまう(悲しい限りです)。
*Русскийロシア語⇒Риддик Боу (англ. Riddick Bowe; 10 августа 1967, Бруклин, Нью-Йорк, США) — американский боксёр-профессионал, выступавший в тяжёлой весовой категории.

①英連邦王国Королевства Содружества(えいれんぽうおうこくКоролівства Співдружності、英::Commonwealth realmCommonwealth-Königreich、あるいは、コモンウェルス・レルム(一般に定着した日本語訳が存在しないため)Royaume du Commonwealthは、コモンウェルスの加盟国で、イギリスの君主(法人としての国王も参照)に在位する者を自国の君主(国王)・元首として戴く、個々の独立した主権国家を指す②コモンウェルス・オブ・ネイションズ(英語:Commonwealth of NationsСодружество наций、通称:コモンウェルス(CommonwealthСпівдружність наційは、イギリス帝国のほぼ全ての旧領土である54の加盟国から構成される経済同盟③イギリス人(БританцыイギリスじんБританці、英:British people)、または、Vereinigtes Königreich英国人Britanniquesとは、イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)の国民である。イギリスは、イングランド、スコットランド、ウェールズ、及び北アイルランドの4つのカントリー(country)から成る連合王国(立憲君主制国家)なので、基本的には、イングランド人English peopleScottish peopleスコットランド人Scots fowkWelsh peopleウェールズ人CymryPeople of Northern Ireland北アイルランド人Muintir na hÉireannによって構成される。

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