日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Gim Ilseong김일성金日成・Kim Jong-il김정일 金正日『김일성 후 한반도/마에다 야스히로 (저)』/【Korean Peninsula after Kim Il Sung /Yasuhiro Maeda (Author)】/<金日成後の朝鮮半島 / 前田 康博(著)>⑧


第V部 南北の和解と統一の道は開けるか
第13章 対決から共存へ苦悩する南北
【和解の合意書と朝鮮半島の非核化宣言】
朝鮮半島をめぐる諸情勢は91年末から92年にかけて予想を超えるテンポで変化した。それは社会主義諸国の変質、ソ連邦の解体、欧州の統合、核軍縮・・・という「大状況」の変化が起きたことが、朝鮮半島の変革を引き出した大きな原因だが、朝鮮半島の内部で生じた変化にこそ注目すべきだろう。
また「核査察」問題はついに核超大国、米国に核撤去を余儀なくさせる結果を生み、1945年以来のアジア・太平洋地域における米国のプレゼンスは崩壊する兆しをみせた。朝鮮半島の変化とは、一般にいわれるように「対決から共存へ」と変わることで終わるものではない。軍事衝突の回避は平和の基礎条件だが、「共存」が分断の固定化であって朝鮮半島の問題はすり替えられたことになるからだ。
軍事対決をなくし、分断固定化ではない「平和共存」の状態とは、統一への地歩を固めるプロセスであるべきか。
南北の首相同士が6回の会合の結果、91年12月、ついに「和解と不可侵、交流・協力に関する合意書」に調印した。90年9月以来、難航を重ねながらの実現だけに南北双方が歩み寄りと譲歩をした劇的な成果となった。南北間の和解を示す現象はそれだけにとどまらず、同年の大晦日になって、「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」がまとまるという予想外の展開をみせた。
「双方の関係が国と国との関係ではない統一を志向する過程で、暫定的に形成された特殊関係であることを認め、平和統一を成就させるための共同の努力を傾けることを約束するー」。91年12月13日の歴史的な南北合意書は、朝鮮半島だけでなく、アジア全域の人々にも感動を与える序文を創り出した。

3ヵ月前の南北国連加盟は、朝鮮半島における軍事対立の時代が終わったことを告げたが、「一つの朝鮮」から「二つの朝鮮」への新たな暗転を意味することではないかという疑問を抱かせた。だが「国と国との関係ではない特殊関係」であることを双方が確認したことは、再び統一への希望をつなぐものとなり、「一つの民族、一つの国家、二つの制度、二つの政府」の原則が不変だったことを示した。
【東アジア全域の激変と連携】
朝鮮の統一は「民族内部の問題という意味では「小状況」の変化に過ぎない。だが日本を含む東アジアの「大状況」の激変を引き出す要素を持っている。この「和解・不可侵・協力・交流」の南北合意書は国際的な変化の潮流に沿った南北の英知が生み出したものだったが、その背後に日本があったことを指摘する人は少ない。北朝鮮と韓国がこれほど急ピッチで接近した理由として、第一に挙げられるのは、ソ連・東欧激変と米ソ冷戦体制が音を立てて崩れ始めたためである。朝鮮戦争再発の恐れがそれだけ遠のくことになり、1日も早く相手からの軍事的脅威を取り除き、軍備と軍事費の重荷を降ろしたいという南北当局の思いが一致点を見い出したものである。
これを「平和の配当」と呼ぶが、頼みの貿易が不振に陥り、経済停滞が深刻化している韓国にとって、もはや不毛の軍事力増強に耐えられなくなっていた。同様に自力更生型の民族経済路線を推し進めてきた北朝鮮でも、生産力の拡大により人民生活の飛躍的向上を図るためには、もう巨額な軍事費を大きく削る以外に方法はなくなっていた。南北ともに分断が長期化するにつれ、人民経済が大きな犠牲を強いられ、その限界はいろんな面で表面化してきた。
民族分断の状態を断ち切るためには、相互の不信感を除き、和解を果すことが必要なことはだれの目にも明らかだった。その次のステップが「統一」であり、91年末になって初めて「統一」という悲願達成に明るい希望の光がはっきりと見えた。朝鮮半島で起きている激変は、かなり本格的なものとみられている。
92年末になって、韓国側は1978年以来、14年継続してきた米韓合同軍事演習(チーム・スピリットTeam Spirit)を中止すると発表した。これに対し北朝鮮は南北核査察を条件に国際原子力機関(IAEA)との核保障協定に応じると表明、軍事的緊張はぐっと緩和の方向に向かった。

【南北和解の経済効果】
南北の和解と交流は貿易・経済面でも急ピッチで進んでいる。91年の南北間の貿易額は2億ドルを超えた。まだ第三国経由の間接貿易の形を取っているが、年々増加している。
韓国経済人の訪朝はブームといえるほど活発になっている。89年に現代グループの鄭周永会長が訪朝したのを皮切に、91年11月、統一教会の文鮮明氏が電撃的に訪朝し、金日成主席と観光開発や経済プロジェクトについて語り合ったといわれる。92年1月に韓国の財閥「大宇」グループの金宇中会長が金日成主席と会談、南北合弁で大規模な繊維製品工場を南浦地区に建設することで合意している。南北の資源、資金、労働力、臨海立地などが組み合わされて、「数年後には年間100億ドル輸出も可能」(金会長の話)と、南北和解ははやくも大きな経済効果を生みだし始めている。
*현대(現代)는 정주영이 세운 대한민국의 기업집단으로, 구조조정과 경영권 분쟁등을 겪으면서 현대그룹에서 현대자동차, 현대중공업 등이 완전히 분리되었다.
*정주영(鄭周永, 1915년 11월 25일 ~ 2001년 3월 21일)은 현대그룹을 창업한 대한민국의 기업인이며 전직 정치인이다.

*世界平和統一家庭連合(せかいへいわとういつかていれんごう、英語: Family Federation for World Peace and Unification、略称:FFWPU)は、朝鮮半島のキリスト教の土壌から発生した宗教法人である。文鮮明[3](1920年- 2012年)によって1954年に韓国で創設された。旧名称は、世界基督教統一神霊協会(せかいキリストきょうとういつしんれいきょうかい、英語: Holy Spirit Association for the Unification of World Christianity)である。
*文 鮮明(ぶん せんめい、朝鮮語: 문선명、ムン・ソンミョン、1920年1月6日(陰暦)- 2012年9月3日)は、韓国の宗教家。世界平和統一家庭連合(旧・世界基督教統一神霊協会。通称は統一教会、統一協会。以下便宜的に、統一教会と表記)、国際勝共連合を含む統一運動の創立者。妻は韓鶴子。

朝鮮半島は日本の植民地支配により大きな被害を受けた立場にありながら、第二次世界大戦後、米国の対ソ対決戦略により分断された。民族分断線となった38度線は米国が当時、いかなる朝鮮人組織とも、またソ連とも協議することなく、独断で決定した経緯を正確に把握する必要がある。

世界大戦の当事者としてのドイツが戦勝各国によって東西に分断されたのとは、まったく異なる。冷戦体制という分断の「外枠」が外れ、朝鮮半島の内部で南北当事者間の和解が成立したのである。分断46年にして初めて分断克服の好機が到来したのだ。この絶好機はさらに北朝鮮と日本、北朝鮮と米国、韓国と中国・・・など朝鮮半島を取り巻く国際関係の好転につながる兆しをみせている。

【朝米交渉と南北対話の相関関係
北朝鮮と米国の関係がどうなるかも朝鮮半島の平和と安全、統一にとって欠かせない要素だろう。朝米両国は88年から91年末までに北京で参事官レベルの接触を17回重ねていたが、米国側がより高官級の話し合いを望み、92年に入って1月末、ニューヨーク入りした朝鮮労働党の金容淳書記とカンター米国務次官(政治担当)が初めて会談した。「話し合いは率直で、有益だった。やりがいのある会談だった」とカンター次官が語り、朝鮮中央通信も「建設的な雰囲気の中で、満足におこなわれた」と報じたように、双方ともに肯定的な評価を与えた。
この接触は1回限りだったが、北京での朝米接触を政策レベルの定例接触にすることが決まった。これは91年9月に北朝鮮が国連に加盟して以来、もっとも目立つ外交的要素といえる。北朝鮮の国連入りによって、米国は韓国にある国連軍司令部解体決議案の実行を迫られており、ついに北朝鮮との直接交渉をしなければならなくなった。
この他にも朝米両国は昨年来、水面下で「秘密」接触を活発化させ、米国からは元在韓米軍司令官や米議員、大学教授、軍事研究者まで平壌入りしている。この交流も相互主義によって、北朝鮮側から外交部高官が米国を訪問、各界指導層との幅広い意見交換をしている。
だが米国の思惑は複雑であり、北朝鮮との関係改善を目的にしているとみなすのは単純すぎる。南北間で合意書が採択され、非核化宣言がさえたことに警戒心を募らせる米国は、北朝鮮との接近により、韓国を牽制し、東アジアでの影響力を保持しようとしている。同じく米国は朝・日接近にも神経をとがらせている。
米国がアジア戦略を変更していないことを物語るように、2月3日、米上院の公聴会で、チュイニー国防長官は依然として「米軍はアジア地域の安定のために長期駐留を続ける」と証言している。米日両国ともに冷戦思考から1日も早く脱却し、アジアの一員として共存するため「新思考」を確立することが望まれる。

독일의 재통일(獨逸의 再統一독일어: Deutsche Wiedervereinigung 도이체 비더페어아이니궁 )은 1990년 10월 3일에 과거 독일 민주 공화국에 속하던 주들이 독일 연방 공화국에 가입하는 형식으로 이루어졌다. 실질적으론 멸망한 독일민주공화국의 영역을 독일연방이 흡수 통일한 것이다. ‘재통일’이라는 단어는 1871년 독일 제국의 성립(독일의 통일)과 구분하기 위한 것이다. 같은해 3월 18일 처음으로 실시한 자유 선거로 뽑힌 독일민주공화국의 정부는 독일연방공화국과 독일을 점령했었던 네 나라 사이에 이른바 독일관련 최종해결에 관한 조약 (2+4 조약)을 맺어서 통일 독일의 전작권을 인정받았다. 통일한 독일은 그대로 유럽 공동체(지금의 유럽 연합)와 NATO의 회원국으로 인정됐다.
【ドイツ型再統一の放棄】
東西冷戦の終結、東西ドイツの統一にともない、「南北分断」状態にある朝鮮半島の緊張緩和と和解、そして、その「統一」に世界の関心が高まっている。長い間、厳しい軍事対決を強いられてきた大韓民国(韓国)と、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の両政権は90年代に入って急速に接近を試みはじめた。
90年9月、第1回南北首脳会談がソウルで開かれ、92年5月の第7回会談まで平壌と交互に開催した。91年12月の第5回会談で「南北の和解と不可侵および交流協力に関する合意書」にこぎつけたが、南北がそれぞれ討論のテーブルに持ち出した提案文書をそのままつなぎあわせ、互いに譲歩と妥協を重ねた結果である。

南北両政権は「別れていても同じ兄弟じゃないか。争いをやめて仲良くしたいー」という民衆の強い願いに押されて、とにかく「合意」という結果を出さねばならないぎりぎりの立場に立たされていたといえる。従来は「継続させることに意義がある」という歩み寄りのポーズが目立ったが、南北政権は91年以来、ともに神権に「和解」を図ろうとした。
南北政権は72年7月4日に「自主的に、平和的に、民衆の大団結を図る」という統一の三原則で合意したが、その後も東西の冷戦構造が崩れないため、「和解」につながらなかったといういきさつがある。「朝鮮問題」を考える場合、「朝鮮は一つなのか、二つなのか」は大きな相違となる。これまで韓国側は朝鮮半島には二つの国家があるという前提に立ち、別々の国家による「再統一」を目指してきた。これに対し、北朝鮮側は金日成主席が再三、「一民族、一国家、二政府、二体制」状態にあると表明し、あくまでも「一つの朝鮮」であるとして、「思想、理念、体制を超えて統一を実現する」と「南北連邦制案」を主張してきた。
91年9月に南北は国連に加盟したが、その際、日本などでは北朝鮮が従来の「一つの朝鮮」という伝統の政策を捨て、韓国を国家として認定したものーという議論が目立った。だが南北合意書では韓国側が一つの国家内の二つの政府同士の話し合いという基本立場を取り戻した点で画期的である。
東西ドイツはそれぞれ二国家として共存してきたが、韓国の盧泰愚政権は、長らく経済力で優位に立つ西ドイツが社会主義体制を放棄した東ドイツを併合した「吸収統一」をモデルにして統一案を描いてきたが、朝鮮半島では「一方が他方を呑み込んだり、呑まれたりしない」ことを知り、南北の和解に踏み切ったといえる。
92年に入って朝鮮半島の緊張緩和への動きは続き、韓国側から同年の「米韓合同軍事演習」(チームスピリット팀 스피리트)を中止すると発表した。一方、核開発の可能性があると指摘されていた北朝鮮は国際原子力機関(IAEA)との核保障協定に基づき、核査察を受け入れると表明するなど、南北間の相互不信を増大させてきた緊張緩和の要因が取り除かれる方向の好転しはじめた。
92年5月7日から開かれた第7回首相会談では、8月15日の独立記念日に南北に散り散りになっている離散家族の一部と芸術団が相互訪問することや、板門店に南北間連絡事務所を設置することも決まった。いずれも表面的な変化というより、「深部からの本格的な変化」といえる。実務交渉ではまだぎくしゃくする場面はあるものの和解と統一実現への歩みが一歩進んだ感がある。

【チームスピリット再開は国際情勢に逆行する】
米韓合同演習(チームスピリット)は1976年から始まった。著者は当時、ソウル常駐新聞特派員として、米韓の陸海空三軍が韓国全土で傍若無人に展開する大規模演習を直接取材したことがある。米本土から空輸された地対地ランス・ミサイルが板門店北方の非武装地帯に配備される模様や仁川、浦項などの海岸に上陸するシーンを目の当たりにすることができた。日本を母港とする米空母ミッドウェーに乗ると、同艦は38度線ぎりぎりまで北上し、艦上から次々と轟音を立てて最新鋭の爆撃戦闘機が発進していった。ミサイルもジェット機もすべて矛先は朝鮮民主主義人民共和国に向けていた。
*인천광역시(仁川廣域市, 영어: Incheon Metropolitan City)는 대한민국 서북부에 있는 광역시이다.
*포항시(浦項市)는 대한민국 경상북도 동해안에 있는 시이다. 시의 중심으로 흐르는 형산강이 영일만에 유입되면서 넓은 충적평야를 형성하고 있다. 
*USS 미드웨이 (CVB/CVA/CV-41)는 미국 해군의 디젤 항공모함이었다. 미드웨이급 항공모함의 1번함이며, 제2차 세계대전이 끝나고 최초로 취역한 항공모함이다. 베트남전과 1991년 걸프전에 참전했으며, 현재는 캘리포니아 샌디에고에서 USS Midway Museum이라는 이름의 박물관으로 사용되고 있다.

米ソ冷戦体制のさなかとはいえ、「なぜこれほどまでに大げさな演習が必要なのか?」と多くの米軍幹部関係者をつかまえて聞いたが、いずれも首を横に振り、言葉を返してこなかった。日本人記者のやや詰問調の問いに、まともに答えても理解させることはむずかしいと考えたのかもしれない。だが広報担当将校たちはミッドウェーの艦内にある、放射性物資を示すマークの扉の前にわざと案内し、質問には「ノーコメント」を繰り返しながらも、核兵器を使用した演習であることをあからさまに示した。
ミサイルは「核」、「通常」いずれの弾頭も搭載可能だと説明するが、核弾頭を韓国に持ち込んでいるかどうかには答えない。そしてブリーフィングを通じて西側各国の記者たちに「世界最大の演習」と書くようしばしば促した。それはこの演習が北朝鮮の国力を徹底的に消耗させることを狙った米国特有の物量作戦だったからである。
チーム・スピリットは単に北朝鮮を威嚇するだけでなく、さらに当時のソ連・東欧さらに中国も加えた東側全部をアジア・太平洋地域から威圧することを目的にして年々規模を拡大していった。
地上軍の大半を分担する韓国軍将校に前述の疑問をぶつけると、かれらははっきりと「米国の力を借りて北韓(北朝鮮)を抹殺したい」と憎しみの感情を露にした。それほどまでに同じ民族への憎悪の心を持ち続けることができることに多くの外国人記者は改めて驚かされた。それは軍国主義下における反共教育の痛ましい犠牲者だったが、韓国の民衆のすべてがそうであったわけではない。長期間、上陸用舟艇が走り回る漁村では零細な漁民たちは戸外に出ることも許されず、荒らされる漁場をただながめていた。高速道路を滑走路として離発着するジェット機に、バスの長距離客たちは不満をもらしながら天を仰いで待ち続けた。我が物顔に走り回る米兵を見るにつけ、多くの民衆は平穏な生活を大きく狂わせるこの演習に不快感を示し、筆者と同じように「なぜこのような演習が必要なのか」という疑問を確実に膨らませていた。

【米韓は緊張激化で何を狙っているのか】
以来13年間、国際情勢は大きく変化した。ソ連邦の自壊、そして東側陣営の崩壊とつづいて東西間の冷戦体制は事実上消滅した。だがこの間、重い軍事費負担がたたって米韓両国の経済的衰退が顕著になったにもかかわらず、米韓両国の軍部を軸とする保守勢力の冷戦思考は温存され、世界最大規模を誇るチーム・スピリットは現在にまで続けられてきた。韓国において朴正煕・全斗煥時代はともかく、89年の激動を経験したはずの盧泰愚政権も冷戦思考を捨てようとせず、米国に従属する買弁政権であることを自ら暴露した。「チーム・スピリット93」は「32年ぶりの文民政権」だと日韓のマスコミがはやしたてる金泳三大統領の政権下で実行された事実をはっきりと記憶しておく必要がある。
同じくこの演習再開は米国がレーガン・ブッシュからクリントンへと政権が代わっても東アジアにおける「新しい秩序」創りに米国が参加しようとしないことを意味している。92年度の演習中止は盧政権の柔軟な対話姿勢を示すものではなく、米韓両国がさらに朝鮮半島における軍事力増強を進めつつ、北朝鮮の軍事力のみを縮小させることを狙った一種のトリックだった。
南北合意書の発効後1年間に米韓両政権が南北の和解の進展を促すため軍事演習の永久的中止や軍備縮小の措置を取った兆候はない。他方、北朝鮮は伝統的な交易国の破綻の影響を大きく受け、その軍備は相対的に縮小しており、どのような軍事情報によっても軍事面で増強されたふしはない。旧ソ連、東側陣営の消えた現在、北朝鮮のみを威嚇する「チーム・スピリット」の再開は、米韓の軍部と産軍複合体の永続的な利益を確保することが主目的である。その合い言葉は依然として「アンチ・コミュニズム」という陳腐な冷戦思考の上に置かれている。
軍事演習を始めたのは米韓側であり、その中止はどのような取引材料にもならない。まして核装備した軍事演習をしつつ、核査察の取引材料にしようというのは悪質なブラックジョークでしかない。おりしも故朴正煕大統領が78年当時から韓国独自で核開発を進めていたことがソウルで暴露された。米国から大量の核兵器を持ち込ませ、自ら開発を進めた国が、核戦争を想定した軍事演習で狙うものは何か。それは「民族の統一」ではなく、分断の永久的な固定化でしかない。
金泳三政権のスローガンである新韓国の創造も、経済難局克服も、チーム・スピリット93の再開とともに一気に色あせてしまった。米日韓を率直に結ぶ「アジアの冷戦的支配構造」を突き崩さなければ、「東アジアの新秩序を創り出すのは誰か」という問いに対する答えは生まれてこないことをこの時代錯誤の軍事演習は物語っている。

第14章 韓国社会に変化の兆しは見えるか
【盧泰愚政権はどんな政権だったか】
93年2月25日、韓国で金泳三氏が第14代大統領に就任した。金新大統領は与党民正党総裁を盧泰愚前大統領から継承し立候補した。韓国は共和国制を採用しており、改憲が行なわれていないため「第6共和国」はそのまま引き継ぎ、後半を担うことになる。それでは第6共和国前半を受け持った「5年間の盧泰愚政権とはいったいどんな政権だったのか」にしぼって検証してみる。
大統領選挙は主要な立候補者が非軍部出身者だったため、だれがなっても「文民政治」が32年ぶりに復活するといわれ、金泳三新大統領の打ち出すであろう内外政策にどの程度の新鮮味が盛り込まれるかに期待が寄せられている。盧前大統領は、「第五共和国」(韓国ではオゴンという)すなわち全斗煥大統領とその政権の不正腐敗の処理を国民から突きつけられ、任期の前半は野党・在野勢力との攻防に終始し、同時に母体を同じくする「五共勢力」とのあつれきに悩まされた。「盧泰愚・金泳三」が首尾よく「六共」(ユッコン)を二期10年を掛けて、完結することができるかどうか。
元来、五共(全政権)は陸士同期生である全盧両将軍の緊密な連携プレイによって生まれたものであり、六共一期(盧政権)も五共と本質的に同根のものであったことは多くの事実が証明している。盧政権は全政権の旧悪を自ら暴露したかったわけではなく、韓国民衆の強い監視の目の前でやむなく、「五共非理」と呼ばれる典型的な官権力の不正腐敗問題に取り組まねばならなくなったのである。結論からいえば、五共時代の不正腐敗を上回り、盧大統領自身の一族をも含む「六共腐敗」が生まれ、その政権も有終も有終の美を飾ることができなかった。

【独裁と不正腐敗の系譜】
韓国の政治は共和国ごとに特徴をもっており、軍部、文民出身を問わず民主政治にはほど遠い独裁政治に終始してきたことがわかる。
「第一共和国」-1948年8月、米軍政下で登場した李承晩初代大統領は、「文民」出身にもかかわらず、60年4月の学生革命で打倒されるまで反共を叫び、12年間、民主主義弾圧の過酷な独裁政治を行なった。
「第二共和国」-代わって野党民主党を基盤とする張勉政権(尹潽善大統領)が登場、大統領権限を大幅に縮小した責任内閣制を取った。
*장면(張勉, 1899년 8월 28일 ~ 1966년 6월 4일)은 지난날 미국 주재 대한민국 대사·대한민국 국무총리·대한민국 부통령 등을 지낸 대한민국 대학 교수 출신의 정치가이다.
*윤보선(尹潽善[3], 1897년 8월 26일 ~ 1990년 7월 18일)은 대한민국의 제4대 대통령을 역임한 정치인이다. 국회의원과 1948년 12월 15일부터 1949년 6월 5일까지 서울 시장을 지냈고, 1960년 8월 13일부터 1962년 3월 23일까지 대한민국 제4대 대통령을 역임하였다.

「第三共和国」-民主化と統一を求める民衆と学生の運動が高揚するのに反発した朴正煕少将が61年5月16日、軍事クーデターを起こした。
「第四共和国」-朴大統領は71年4月の大統領選挙で野党の金大中候補に急迫されたため、72年12月、直接選挙制から間接選挙制に代えて永久政権化を企図した。だが民主化運動の高まりのなか、79年10月側近に射殺された。
「第五共和国」-79年末の全斗煥、盧泰愚将軍らによる軍上層部の粛清を目的とした「粛軍クーデター」を経て、80年春には民主化運動のリーダー金大中、金泳三および朴時代の首相、金鍾泌の「三金時代」が到来するかとみられたが、同年5月、光州で民衆虐殺事件を引き起こした全・盧将軍らが政権奪取に走り、「ソウルの短い春」は終わり、陸士11期出身者で政治権力の中枢を固めた軍政時代を迎えた。
*김종필(金鍾泌, 1926년 1월 7일 ~ 2018년 6월 23일)은 대한민국의 정치인이다.
このように韓国では原則として、これまで改憲を行なうたびに共和国が変わる仕組みを踏んできた。すなわち憲法で規定されている大統領選出方法などを時の権力者が強権的に変更したものだが、盧泰愚政権から金泳三政権の交代には改憲を伴っていないことが六共継続の根拠となる。ソウルでは金泳三政権を「六共二期」と呼ぶべきかどうかで議論が沸いた。盧政権の亜流ではなく、「文民」政治の復活を強調したい金泳三陣営としては「六共」ではなく「七共」(チルゴン)にしたいところだ。一部マスコミも意図的に「新しい七共」と見出しでうたうが、これには何らの根拠もない。
今回の大統領選挙で文字通り与党民正党の後続総裁として慶尚道票、軍部、官財界など共通の地盤から立候補し、当選したのであり、盧政権を「六共一期」、金政権を「六共二期」と呼称するのがいまのところ妥当といえる。

【全・盧コンビの絶妙の連携プレー】
盧大統領の「第六共和国一期」の性格が、それまでの一共から五共とどこが異なり、どこが同じなのかを分析する必要がある。まず指摘されるのは、朴正煕、全斗煥、盧泰愚ら32年間一度も途切れることなく、軍部内で権力の継承がなされたという事実である。
朴正煕、全斗煥両政権間には、射殺という不測の事態が起きたが、陸士11期出身の将軍達が民衆の自主的な政治浄化の意思を阻止して軍政継続に成功した。全斗煥将軍がお手盛りの間接選挙制により大統領に就任したことである。この「五共」の成立の状況と比べて、全斗煥、盧泰愚両政権のバトンタッチが一定の「民主的手続き」、すなわち87年12月の大統領選挙が再び直接選挙制に戻され、金泳三、金大中、金鍾泌の三金も立候補して戦われたことである。そこから盧大統領の誕生はとにかく民衆の洗礼を受けたとされてきた。いかなる官憲介入と不正投票が行なわれたとしても、将軍間の単なる「政権のタライ回し」ではなく、「文民政治への過渡期的」性格を帯びた「一味違う」政権だとの評価が日米などからも聞かれた。
だが全斗煥・盧泰愚コンビは出身母体(軍団)が同じであり、前記、粛軍クーデター以来、運命共同体を形成してきた間柄だった。全・盧コンビは87年12月の第13代大統領選挙を迎え、どうすれば三金を打倒し、軍人による政権の継承に成功するかーをめぐって両者一体となって心を砕いた。おそらくこの第13代大統領選挙が全・盧二者のみならず韓国軍部にとって生き残りを賭けた正念場だったと思われる。全・盧二者をトップとする韓国軍部は、朴射殺に遭遇した時よりも危機感を募らせた時期にあたっている。
全・盧コンビの絶妙な連携プレイは、87年6月のいわゆる「6・29盧泰愚”民主化”宣言」の絶妙な発案と果敢な実行によって発揮された。執権7年の間に、全斗煥政権はその一族ぐるみの不正事件と民衆弾圧措置の続発で民衆の怨みの的となり、同年6月初めにはソウルや全土を覆う大規模な反政府抗議デモを受けて政権機能が麻痺する事態に陥った。
【大統領禅譲を期待した盧氏】
「87・6民衆闘争」と後に呼ばれるようになった一連の民衆蜂起は偶発的なものではなかった。87年6月10日、与党民生党を全党大会で全大統領の意思にしたがって、盧泰愚代表委員(当時54歳)は次期大統領候補に正式に選出された。重要なことは、このときは間接選挙制下であり、盧代表委員は実質的に後継大統領に選出されたのも同然だったことである。盧氏は高々と片手を挙げて候補受諾を示し、演説を通じて「全大統領の改革の意思を引き継ぎ、平和的政権交渉とソウル五輪の二大国家事業を成功させたあと、改憲を実施する」と自動的に半年後に転がり込む大統領の座を夢見ながら語った。20日後にどんでん返しの目にあるとは想像もしなかっただろう。当時の「東亜日報」(6月13日付)は「盧泰愚氏に問う」として「人心を知らないにもほどがある。今までそれを知らなかったのか。知りながら目をそむけていたためか」と候補受諾の盧代表を非難した。
全政権は徹底的な弾圧手段としてそれまで再三、実施されてきた「大統領非常措置」を発動するしか残された手段はないという土壇場に追い詰められていた。のちに米「ニューズウィーク誌」(7月9日付)が「学生革命か、あるいは軍による弾圧かの二者択一の状況にある」と表現した。
当時、民主化運動の指導者、金大中氏は自宅軟禁されており、全大統領はナンバー2、あるいは穏健派と目される金泳三氏と交流することで局面打開を図ろうとした。だが全大統領は大統領選挙の直接選挙(国民投票)にする案に同意せず、6月26日には最大規模の「国民大行進」が予定されていた。盧代表委員はしきりに金泳三氏と会い、穏便な解決案を探していたという。
6月29日、突如、盧氏が特別宣言を発表した。八項目の内容は、①ただちに大統領直接選挙への改憲を実施する、②選挙管理のための選挙法を改正する、③国民和合のため金大中氏の赦免・復権と政治犯を釈放する、④国民の基本的人権を確保する、⑤言論の自由を確保する、⑥地方自治制度の実施と、大学の自律化、教育の自治を保障する、⑦健全な政党活動の実施と対話、⑧社会の浄化と安全な社会共同体作りーだった。
日韓の言論界は全大統領の強権政治を是正して民主化を進める盧氏の画期的な案として飛びついた。この時、事態収拾をめぐって全・盧両者の間に微妙な確執が生じ、ついにその協調路線に限界がきたと思われた。だが大方の予想を超えて全・盧コンビの息は水面下でぴったりと合っていたのだった。

【民主化宣言の脚本は大失敗】
ソウルの情報によると、前日、盧氏は陸士同期生の元将軍を伴い、大統領官邸を訪れたが、全大統領は首をたてに振ろうとしなかったという。したがってこの盧宣言は全大統領への謀反であり、一種の宮廷クーデターという見方が強まった。全大統領はこのあと「盧委員の提案を受け入れることにした」との談話を発表し、さしもの混迷も一気に沈静した。他方、全・盧コンビから政権を奪い取れるのは時間の問題と見ていた野党・在野・民主化勢力はあまりの劇的な展開に衝撃を受けた。
全党大会でいったん大統領の座を手中にしたあと、盧氏は民衆の反発に愕然としたのだろう。そして必死に起死回生策として民主化宣言を考えたと思われたのだが、4年半後の91年末になって全大統領の元補佐官が「月刊朝鮮」(92年1月号)で次のような興味のある事実を暴露した。
*《월간조선》(月刊朝鮮)은 이낙선이 운영하던 월간지인 '세대'를 1980년 4월 1일에 조선일보사가 인수하여 제호를 바꿔 발행하는 한국의 월간지이다. 조갑제가 1991년부터 2004년까지 장기간 편집장으로 재임했다가 2005년 대표이사직 사임과 함께 김연광에게 편집장직을 물려주고 명예기자로 2선퇴진했다. 
「6・29宣言」は全大統領自身がすべて発案し、これを盧委員の案として発表させたいというものだった。「死中に活を求めた」全大統領は、「野党勢力の要求する直接選挙制(国民投票)への復帰はもう阻止できないが、そうなると今度は逆に金大中、金泳三両氏は必ず分裂して共倒れになる、これなら盧泰愚代表委員は勝つ」と考えて、盧委員に民主化宣言を発表させ、自分が追認するシナリオを書いたという。もしこの暴露が事実だとすれば、盧氏の政権獲得へのプロセスは全斗煥大統領の筋書に乗っただけであり、五共と六共は本質的に差異がないことが分かる。
*6.29 민주화 선언(六二九民主化宣言), 약칭 6·29 선언(六二九宣言)은 1987년 6월 항쟁 직후인 6월 29일에 민주정의당 대표인 노태우가 직선제 개헌요구를 받아들여 발표한 특별 선언이다.
日韓のマスコミが一斉に、「木によりて魚を求む」たぐいのこじつけとしかいえないだろう。ちなみに「6・29盧泰愚民主化宣言」の八項目は5年半を経てどの程度実現したか。④から⑧までの五項目の実現は韓国の現状を見ると、まだ半分も達成されていないことが分かる。③は当時の金大中氏の釈放のみが譲歩の主眼であり、政治犯釈放と民主化社会にいたっては盧政権は全政権よりはるかに上回る拘束・逮捕・服役者数を記録し、「民主化社会の実現」にはほど遠いものとなった。⑧の「社会浄化と活気に満ちた社会共同体作り」は、所得格差の拡大、財閥の肥大化、盧大統領一族を含む権力内の大がかりな不正事件の頻発、地域間感情対立の悪化・・・などかえって悪化した様相を呈している。

この宣言の目的が①のみにあることは明白だろう。あくまでも国民の求める「民主化」ではなく、盧泰愚委員を当選させることにおかれていたわけである。このようにみると盧政権の民主化実践度はかなり低いものといわざるを得ない。
【共通点は統一否定政権】
「6・29民主化宣言」が全大統領から政権を(間接選挙制によって)禅譲される道を諦め、三金、正確には二金との対決に持ち込んだのが盧氏自身の決断だったのか、あるいは全大統領がなんとしても二金のいずれかに政権を奪われることを避けるために考え出した奇想天外の妙手だったのか・・・は依然として謎に包まれている。やがて全・盧両氏のいずれかが回顧録などで明らかにする時がくると思われる。全大統領のシナリオであった場合、その狙いは後継政権による不正腐敗摘発を阻止することと、引退後の自らの地位保全にあったことはまちがいない。第六共和国成立と同時に「五共非理」の非難が始まり、山寺に追いやられた全斗煥氏と盧氏との間に初めて感情的な亀裂が生じたものとみられる。しかし盧氏にとって六共を守るため五共を見殺しにしなければならなかっただけであり、軍事政権が本源的に持つ非民衆性、換言すると非民主主義的体質の否定ではなかった。
盧政権発足当時、多くの韓国民衆は、盧大統領とその六共政権が民主主義の成熟と統一への道を閉ざし続けてきた「国家保安法」の即時撤廃に踏み切るかどうかに注目した。韓国ではこの国家保安法および民衆弾圧法規としての社会安全法、さらに世界にその悪名で知られた国家安全企画部(KNSP)法=前身は中央情報部(KCIA)=などを次期政権が廃止するか存続させるかを一種のリトマス試験紙としてきた。
朴政権発足と同時に作られた国家保安法は、全政権下で反共法を吸収してより強化され、猛威を振るったが、さらに盧政権では廃止されるどころか改編を加え、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)と民衆レベルでの対話、統一促進の動きを封じ込める役割を続けた。この点でも六共は寸分違わない「統一否定政権」だったというべきだろう。
韓国の政治犯家族などで構成する「民主化実践家族運動協議会」の調べでは、「盧政権5年間で時局関連拘束者(政治犯)は8000余人にのぼり、これは五共7年間の政治犯4700人をはるかに上回る。このうち805人がまだ監獄にいる」と報告(92年5月末現在)している。国家保安法による拘束者は全体の56%、431人、労働関係法156人(19・5%)、これに指名手配されている人を加えれば政治犯(良心囚と呼ばれる)は在日韓国人14%を含め、少なく見積もっても1000人を超えると同協議会は推定している。
92年のクリスマス特赦措置で、4年間、訪朝したことから投獄されていた女子学生、林秀卿さん(25歳)ら一部が仮釈放されたが、在日韓国人は1人も釈放されなかった。大統領就任式に際して通例、特赦が予想されるが、金泳三大統領が「全政治犯の釈放」に踏み切ることはまずないと見られている。
【根無し草の韓国民主主義】
盧泰愚氏は93年2月8日、離任を前に外国人記者団と会見した。盧氏は「在任5年間で民主主義が韓国社会に確固として根をおろした」と自賛した。これを伝える日本の新聞も「激動の過渡期を担った盧大統領は、民主化を軌道に乗せ、北方外交で国際的な地位を高めた・・・」(「朝日新聞」同日付)と評価し、全大統領と異なり、韓国で初めて平和な引退を実現する大統領となるだろうとみている。
記者会見で盧氏は「北方外交」について「北との交流、協力と統一促進が目的だった」と述べたが、はたして本当にそうだったかはさらに検討が必要だろう。元来、「北方外交」は、全政権が80年代初にソ連・東欧など当時の共産主義圏を形成していた東側諸国との関係改善を目的にスタートさせたものである。ちょうどレーガン政権が新冷戦政策を引っ提げて登場し、これに追随する政策のひとつが北方外交だった。全政権の「北方外交」は北朝鮮を共産主義圏から切り離し孤立化させるというきわめて挑発的、好戦的なものだった。それは日本列島を米国の不沈空母とする論を展開した中曽根内閣のそれとリンクし、「ロン・ヤス・ドファン」体制と呼ばれる三国軍事同盟強化のもとで展開されたものである。
盧泰愚政権になってから、特に89年のソ連・東欧激変後、この北方外交は加速した。韓ソ国交(90年9月)、中韓国交(92年8月)を中心にベトナム・モンゴル・ポーランド、ハンガリーなど東欧各国との関係正常化が進んだ。しかし、盧政権の北方外交が全政権のそれと性格を変えた兆候はまったくない。基本的に同じである。米ソ冷戦体制の崩壊とソ連圏の激変という予想外の激変が、旧共産主義圏側から韓国に関係改善を迫ってきたという側面を否定できないのである。盧氏が自画自賛するように北方外交が「北との交流、協力、統一促進を目的としていた」点は事実関係からうかがうことはできない。

【分かれる北方外交の評価】
「韓ソ国交」と盧泰愚政権の北方外交の二本性だが、この評価も二つに分かれる。韓中ロ三国がそれぞれの国策を賭けて冷戦体制からの脱却に必死となった。そこから92年8月の韓中国交も冷戦体制の崩壊を決定的にしただけでなく、アジア地域で新しいパラダイム(枠組み)作りを目指したという積極的な評価も可能となる。90年9月の韓ソ国交につづく韓中関係の改善は「不確実性」を増していたアジア・太平洋地域における脱冷戦をいっそう加速させる可能性を秘めている。
しかしこのようなプラスの評価は朝鮮半島自体の平和と安定が前提となる。南北朝鮮の一方の当事者の米中ロなど周辺諸国との関係改善は「十分条件」だが、「絶対条件」ではなく、かえって各国の思惑と関係改善は「十分条件」だが、「絶対条件」ではなく、かえって各国の思惑と国益が微妙に絡み合い、南北朝鮮間に無用なあつれきを生じさせる恐れがある。南北朝鮮の和解と統一は全関係国相互の関係改善問題を一気に解決するのであり、北方外交はもはや無用の長物といえよう。
ただ韓ソ国交、韓中国交ともに日本の外交無策をひときわ目立たせるという予想外の効果を生んだ。韓中ロ三国の相互関係の改善は時代の要請であったことは確かである。とくに朝鮮戦争で交戦した中韓両国の敵対関係が解消されたことは歴史の必死の流れだったが、同時になぜ盧政権は南北当事者の和解と対話促進にこそ全エネルギーを傾注しないのかという疑問が残る。当然、交渉相手である北朝鮮指導部の確固とした統一政策との真剣な対応が求められることはいうまでもない。
北方外交が南北対話と統一促進という側面を持っていたとは考えられない。「北より優位に立つ」という対決路線の一環であったことは、盧政権の「統一政策」と呼ばれる一連の対北提案の分析によって十分に理解できるだろう。盧大統領は、①「民族自尊と統一繁栄のための特別宣言」(88年7月7日)、②「韓民族共同統一方案」(89年9月11日)を打ち出した。7・7宣言と呼ばれる前者は民族共同体という意識を前提とし、まず前年の三項目で①政治、経済、宗教、文化、芸術など各界人、学者・学生の南北相互交流と海外在留者の南北自由往来を許容し、②南北赤十字会談妥結以前の離散家族の書信往来・相互訪問などを推進し、③南北交流を民族内交易として取り扱うーを提案した。さらに後年三項目で⑤韓国の友好国の北朝鮮との交易を許容する、④国際舞台での南北対決を終わらせ、協力を促進する、⑤北朝鮮による米日など韓国の友好国との関係改善に協力する用意があるというものである。
だが提案の文言はともかく、当時は同年9月に開催が予定されている88年オリンピックを南北で共催するかソウルのみの単独開催とするかで内外から注目されていた。しかし盧大統領はこれにはまったく触れなかったという背景がある。百の提案よりも対話と統一促進にもっとも効果のあるはずの南北共同開催を呼び掛けなかったところに16年目にあたる季節だったが、同声明の打ち出した「自主的、民主的、民族の大団結」という統一の三原則には一切触れず、北朝鮮の「軍事・政治問題の解決」に言及せず、経済・人民交流の先行のみを強調しただけに終わっている。

【金泳三大統領のビジョン】
盧泰愚、金泳三両政権の相違点、類似点を検証することは今後の朝鮮情勢を分析する上で不可欠である。盧、金両政権間に「連続性」があるかどうかも内外の関心事である。92年12月、大統領に当選後、金泳三氏はソウル各紙との会見を通じ、盧政権の評価について「歴史が正しく評価する」と慎重に語り、「北方政策や南北関係など多くのことを成し遂げた」と前置きし、「民主化の過程で権威の喪失、無秩序、綱紀の弛みが生じた結果、社会的、経済的に活力を失った。これが民衆がいだいている最大の不満の要素だ」と内政面での失敗を指摘した。
失速状態にある韓国経済について、盧大統領は前記の記者会見でも、民主化の結果、労働者の賃金上昇が韓国商品の国際競争力を奪ったーと弁明していたが、民主化の前進が国民経済力を阻害するというのは的はずれであり、経済運営面での失敗の責任回避でしかない。韓国経済の「早熟早老」現象、金泳三氏の掲げる「韓国側」は、国際経済のかげりや韓国労働者の勤労意欲の低下に起因するのではなく、長年にわたる民族分断によって経済が陥った当然の帰結というべきものである。すなわち北との「一共」以来「六共一期」まで続いてきた厳しい軍事対決路線がもたらした結果そのものである。金泳三氏の掲げた「韓国病の克服」という公約は「分断経済」から脱却して「統一経済」を目指す以外に実現することはないのだ。80年代半ばまで都市0%以上という高成長を達成した韓国は、同じく成長度の著しいアジア・太平洋各国からも驚異の目で見られた。それは政治的自由の制約された、「独裁政治による非民主主義的政治体制」のもとでも高度経済成長が成し遂げられるのかという疑問だったという。盧泰愚政権がソウル五輪を強行した88年末からの韓国経済は急落の道をたどった。北方外交が冷戦思考に基づく対決政策の代名詞であったことは、この間、韓国の経済、貿易、産業構造が真の意味で「平和産業」に立脚したものでなく、「軍需」を基本とする構造がまったく変化していなかったことでもわかる。韓国にとって何よりも優先すべき国民経済の充実と繁栄であったにもかかわらず、高度成長の果実は軍事費の増大、軍部の肥大化に費消されてしまったのである。南北和解と対話・統一を志向した経済システムが導入されなかったところに「韓国病」が蔓延した原因がある。金泳三氏は早ばやと軍部の掌握する与党に入り、その内政外交の基本路線を認めて協力してきた。その意味で金大統領の盧政権に対する「外交面での成功と内政面での失敗」というコメントはこれまた的はずれのものといえるだろう。
【南北首脳会談を実現できるか】
5年間にわたる盧政権だけにその「功罪」は多岐にわたって検証が必要であり、とくに政治面でどれだけの民主政治が実行されたか、国民により健全な経済生活を保証できたか、についてはさらに詳しく分析を進める必要がある。韓国では次期政権下で与野党が前の政権の政策の是非、不正腐敗事件の処理をめぐって激しい論争を行なうのが例となっている。これが次期政権の「踏み絵」となり、前の政権の非理をどこまで隠ぺいするか、摘発するかが政治姿勢を示すバロメーターとされてきた。
今回の大統領選挙直後から金大中総裁が引退した後の野党、民主党(李基沢代表)が国会で盧政権下で問題となった「七大疑惑」を徹底的に究明する方針を明らかにし、前大統領を聴聞会で糾明することを要求している。六共一期最大の利権といわれた第二移動通信事業の選定問題(盧大統領の親戚関係にある鮮京グループが受注、その後返上)や軍情報司令部の土地売却詐欺事件、水西特恵疑惑、昨年末着工された新国際空港建設、京釜高速電鉄をめぐる収賄など大きなスキャンダルが目白押しで並んでいる。国民党の分解を軸に与野各党の再編成が進んでおり、近く韓国国会の政治地図が大きく塗り変わることが予想される。
就任早々の金泳三大統領が六共一期(盧政権)との違い(韓国では差別化と呼ぶ)を鮮明に打ち出そうとすれば、野党の要求に応じられない。金泳三大統領は月刊誌との会見で、過去に間違った点があれば改革しなければならないが、全斗煥を聴聞会に引き出したように前韓大統領の糾明は再びあってはならないとし、聴聞会に応じない意向を示した。
また金泳三大統領が盧政権下で行き詰まってしまった南北関係の打開にどのような手を打つかも注目の的だ。盧政権下では金日成主席との「南北首脳会談」が実現しなかった。「金主席と会う用意があるか」と聞かれた金大統領は、「核疑惑問題の解消が前提」と述べ、首脳会談を急がないことを示唆している。新大統領の訴える「安定の中の変革」が盧政権の政策の「忠実な継承」だったとしたら、韓国民衆の失望は大きい。多くの支持を集めたスローガン「新韓国の創造」が、軍部を母体とする政治勢力に振り回された過去32年間との決別を意味するものかどうかはまもなく判明するだろう。
あとがき
本書の仕上げを急いでいるころ、これまでにない暑い夏が続き、炎天下、人々は渇水に悩んだ。他方、日々の平穏な生活を求める民衆の願いを裏切るかのように、さまざまの激変が政治や外交の世界を覆っていた。
本書で主として取り上げた朝米間の「核疑惑」問題解決への交渉をはじめ、94年夏のわずか3ヶ月ほどを区切っても、①日本政府の自衛隊合意、②侵略戦争否定発言騒ぎ、③国連常任理事国入り問題、④ウガンダへの日本のPKO派遣、⑤米軍のハイチ侵攻計画、⑥アジア大会をめぐる中台関係、⑦旧ソ連の核物資密輸続出・・・など多数の複雑な内外問題が浮上した。これらの事象には規模の大小があるが、いずれも「米ソ冷戦後」という形容詞がつく新しい世界情勢を反映したものである。
核保有国の核物質の流出密輸は「核廃絶」と「核不拡散」問題に新たな要素を持ち込んだものであり、95年4月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議はこれこそ緊急の課題として取り上げる必要がある。また「米・ハイチ問題」は、今後も米国が「人権と民主主義」という独断的な尺度で世界中に”紛争の種”をまき散らす恐れを秘めている。現在進行している米国と北朝鮮との外交関係改善への動きは好ましい方向へ進む気配をみせているが、一歩間違えば、依然として米国が「極東の裏庭」を火の海にしかねない危険性を常にはらんでいる。
北朝鮮との対話の障害となっている韓国の「国家保安法」に対し、米国が撤廃を求め、米韓間に深刻な「ミゾ」ができつつある。米日韓の軍産複合体は三国同盟体制の維持強化を狙っているが、民衆レベルでは軍縮や基地撤去への動きを加速させはじめている。
これらは日本の常任理事国入り問題とも関連している。日本が五つの既存の常任理事国とどのような点で異なる役割を果すことができるか、ということである。たとえば米国などが核大国、軍事大国としてハイチ侵攻のような武力行動に出た場合、日本は非核国、”非軍事貢献国”として、これをけん制し、未然に平和解決を図る意思と政治力を持ち合わせているか、という設問である。従来のように国連を美化し、国連第一主義を唱え、単に米国の行動や政策に追随するだけなら、アジア・太平洋の代表としての役割も期待できないことになる。事実、中国、韓国、あるいは北朝鮮を含め東アジアの隣国はいずれも積極的に日本を支持してはいない。北朝鮮の「労働新聞」(94年9月18日付)は「日本の急務は過去の清算」と題し、「日本が国連の舞台に堂々と上がるには世界の人民、特にアジア諸国の信頼を受けることであり、アジアと世界の人民の前に平和の意思をはっきり示すことが重要である」と主張した。冷戦思考、大国志向から抜け出さないかぎり、日本は真の力を発揮できないことは明白となっている。
遅ればせながら、94年秋に入って日朝両国は秘密裏に北京で国交正常化交渉再開へ向けて接触を始めたという。朝米交渉で一定の前進がはっきり確認されるところまできたためだが、これも緊張の激化から緩和へのよい動きにつながってゆくだろう。
ハイチ問題で一転、武力行使から平和解決への転換をもたらしたカーター米元大統領は「見解が対立すると対話を拒否するという米政府の政策に根本的な問題がある」とクリントン外交を批判した。同氏は北朝鮮の核問題でも「だれかが訪問して相互に尊重し合える妥協をすれば、戦争の危機は回避できる」と語り、湾岸戦争も、グレナダ、パナマ侵攻も避けられたはずだと指摘した。この言葉は日朝交渉再開に臨む日本にもそっくり当てはまる。日本政府当局者こそ、北朝鮮を訪問して相互に尊重し合える妥協をすれば、事はすべて収まる。そのカーター氏は今度は南北対話の再開を促すため再びソウルと平壌を訪れるという。具体的に何ができるかというあてのない常任理事国入りを目指すより、日本は自主独立国家であることの証明として、せめて隣国との和解と過去の清算くらい、他人任せでなく自力の外交をしてほしい、そのように念じているのは著者だけではないだろう。
早くから本書の刊行について緑風出版の高須次郎編集員から多くの助言をいただいた。本書はできるだけ最新のものにしたいという願いから日々の重要な事業を盛り込んだ。短期的な分析も含め、「拙速」のきらいはあるが、94年夏に激動した朝鮮半島情勢をひとまず押えておく参考書として読んでいただきたいと思う。















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