日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon/반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인/半難民の位置から - 戦後責任論争と在日朝鮮人(서 경식 徐京植Suh Kyung-sik)①

De la position d'un débat semi-réfugié sur la responsabilité d'après-guerre et les Coréens au Japon (japonais) Livre - 2002/4/1 Suh Kyung-sik(Auteur, original)
반 난민의 위치에서 - 전후 책임 논쟁과 재일 조선인 (일본어) 단행본 - 2002/4/1서京植 서 경식 )
From the position of a semi-refugee-Postwar responsibility controversy and Koreans in Japan (Japanese) Book – 2002/4/1Suh Kyung-sik (Author, Original)

Suh Kyung-sik 徐京植(Seo Kyung-sik, 서 경식, 1951-) est un écrivain et écrivain littéraire coréen au Japon . Professeur, Faculté de droit contemporain, Université d' économie de Tokyo (Pensée asiatique contemporaine). Né à Kyoto . Diplômé de la Faculté des Lettres de l'Université Waseda . Ses frères aînés sont Suh Sung徐勝 , un professeur spécialement nommé à l' Université Ritsumeikan , et Suh Jun-sik徐俊植, un militant des droits de l'homme. Le plus jeune de quatre frères.

徐京植( 徐京植,1951年生)是日本的韩国 作家和文学 作家 。 东京经济大学当代法学院教授 (当代亚洲思想)。生于京都 。 早稻田大学文 学院毕业。 他的哥哥是立命馆大学的特聘教授徐勝(Suh Sung)和人权活动家徐俊植(Suh Jun-sik) 。 四兄弟中最小的。

Kyung-sik Suh徐京植 (Seo Kyung-sik, 서 경식, 1951-) is a Korean writer and literary writer in Japan . Professor, Faculty of Contemporary Law, Tokyo Keizai University (Contemporary Asian Thought). Born in Kyoto . Graduated from Waseda University Faculty of Letters . His older brothers are Suh Sung , a specially appointed professor at Ritsumeikan University, and Suh Jun-sik , a human rights activist. The youngest of four siblings.




身を灼く恥
海水浴かな?・・・最初は、そう見えないこともない。下着姿の女性が5人。向かって左端の少女は母親らしい女性のうしろに顔を隠しているが、その母親の表情は穏やかで、わずかに頬笑んでいるようにさえ見える。中央の年老いた女性の表情は沈んでいるし、その右の若い女性の表情は厳しいが、いずれも取り乱している様子はない。右端の女性にいたっては、まるでカメラマンにこんなことを話しかけているみたいだ。「ねえ、あなた、ちゃんと撮ってよね。大切な記念写真なんだからさ・・・」記念写真?いったい何の?よく見れば、彼女らの背後には脱がされた衣服が積み上げられている。銃を担いだ兵士たちが四方に監視の目を配り、あれこれと指示を下している。次の写真、さらに次の写真へと目を移すと、彼女らの運命が疑問の余地なく明らかになる。
私は1996年3月、エルサレムのヤドヴァシェム博物館でこの一連の写真を見た。キャプションには「処刑を前にしたユダヤ人女性、ラトヴィア、リエパヤ」とあった。かなりの時間、写真の前を動くことができなかった。激しい恥の感覚に灼かれた。裸である彼女らが恥しいのではない、見ている自分が恥ずしいのだ。いったい誰が、どんなつもりで撮影したのだろう?いや、シャッターを切るとき、カメラマンの心の中で多少とも葛藤めいた感情が動いたのではないかと期待したくなるのは、むしろ私の甘っちょろさのせいかもしれない。人間は、こんな場面にいたっても眉ひとつ動かさず、毛すじほどの動揺も覚えることなく、与えられた職務を遂行することのできる存在なのだ。ある者は撮影という職務を、別の者は射殺という職務を。これはたしかに大切な記念写真である。「人間」という存在が実際に示してみせた極限的な冷静さと鈍感さの。白い屍体が折り重なる溝は、私たちが「人間性」と呼び慣わしてきた通念の、断絶の裂け目だ。


*ヤド・ヴァシェム(ヘブライ語とイディッシュ語:יד ושם Yad Vashem)は、ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)の犠牲者達を追悼するためのイスラエルの国立記念館である。イスラエルの首都エルサレムのヘルツルの丘にある。야드바솀(יד ושם)은 나치 독일에 의한 유대인 대학살 (홀로코스트)의 희생자들을 추모하기 위한 이스라엘의 국립 기념관이다. 이스라엘 예루살렘 헤르츨 언덕에 있다.Latinaラテン語→Yad Vashem (Hebraice יד ושם scilicet Latine „Monumentum et nomen“ secundum biblicam sententiam Libri Isaiae 56.5 dabo eis in domo mea et in muris meis locum et nomen melius a filiis et filiabus:nomen sempiternum dabo eis, quod non peribit, officialiter „Locus memorialis Israel martyrum et heroum inter Soa) est monumentum Hierolosymae dicatum. Yad Vashem condtum est, iussu Parlamenti Israelis, die 19 Augusti 1953[1]. Anno 2008 duo milliones peregrinatorum illo iustos inter gentes accepit.

보안경찰 및 보안국 특수작전집단(Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des SD 아인자츠그루펜 데어 지허하이츠폴리차이 운트 데스 에스데[*])은 나치 독일의 친위대(SS) 산하의 준군사조직으로, 제2차 세계 대전 기간 발생한 독일의 학살행위 중 주로 사살을 이용한 학살행위들에 대한 책임이 있는 죽음의 부대다. 특수작전집단은 나치 독일이 정복한 영토에서 벌어진 지식인들에 대한 학살 행위와[1] 유대인 문제의 소위 "최종 해결책"을 수행하는 데 관여했다. 이들에게 살해당한 사람들은 거의 모두 민간인이었다. 살해 대상은 지식인과 사제들부터 시작하여 소련의 정치장교, 유대인, 집시, 동유럽 전역의 파르티잔 활동 가담자로 확대되었다. Polskiポーランド語→Einsatzgruppen (Grupy Operacyjne) – grupy operacyjne hitlerowskiej policji bezpieczeństwa (Sipo) i służby bezpieczeństwa (SD) działające w czasie II wojny światowej, a organizowane przez Główny Urząd Bezpieczeństwa Rzeszy RSHA.

1941年6月22日、ドイツ軍は一斉にソ連領内に侵攻したが、軍のうしろには移動殺戮部隊「アインザッツグルッペン」がつき従っていた。この部隊は占領地域で共産党活動家、ユダヤ人、「ジプシー」と呼ばれ差別されてきた人々、知識人などを「処分」する任務を与えられていたのである。ドイツが席巻したソ連西部の広大な地域には、開戦時約400万人のユダヤ人が住んでいた。うち約150万人はドイツ軍の来襲前に逃げたが、逃げ遅れたユダヤ人たちは移動殺戮部隊と、ラトヴィア人、リトアニア人、ウクライナ人など現地住民からなる補助警察隊とによって徹底的に狩り出され殺戮された。
その最も著名なケースは、ウクライナの首都キエフ近郊のバービー・ヤールで1941年9月29日と30日の2日間に3万3千人以上が虐殺された事件である。目撃者によると、ユダヤ人たちは一ヶ所に集められ、そこで外套、靴、服、下着まで脱がされ、持参した貴重品を指定された場所に置くように命令された。その後、大人も子供も谷底に追い立てられ、すでに殺された者の屍体が積み重なる上にうつぶせになるように命じられて、次々に射殺されたのだ。リエパヤはラトヴィアの海岸地方の小都市である。リエパヤの女性たちを「処分」した手順が、バービー・ヤールで実行されたものと同じであることは写真から見て取れる。リエパヤは無数の「バービー・ヤール」のひとつ、それも比較的目立たないひとつに過ぎなかった。占領地ソ連でこのようにして虐殺されたユダヤ人犠牲者の総数は約120万人といわれる。これにアウシュヴィッツなど絶滅収容所での犠牲者を加えて、400万人あるいは600万人という数字になる。しかし、こんなことを書いたところで、数字は数字に過ぎない。
バビ・ヤール (ウクライナ語: Бабин Яр, ロシア語: Бабий Яр, 英語: Babi Yar) はウクライナの首都キエフにある峡谷である。キエフの現クレニーウカ、ルキヤーニウカ、およびスィレーツィ地区の接するあたり、聖キリル修道院近くに位置する。Esperantoエスペラント語→Babij Jar aŭ Babin Jar (ukraine Бабин Яр; ruse Бабий Яр) estas ravino sur administra areo de Kievo, ĉefurbo de Ukrainio. Tiu ravino estis okazejo de la amasmurdo de judoj en 1941, dum la dua mondmilito. Tiu genocido okazis la 29-an kaj 30-an de septembro 1941 kaj postulis vivon de pli ol 33.000 judoj. La murdojn efektivigis grupo de la germana nazia sekreta servo Sicherheitsdienst sub gvido de Paul Blobel, ĝin helpis la Germana 6-a armeo de la Wehrmacht sub gvido de Walter von Reichenau.
リエパーヤ(ラトビア語:Liepāja)はラトビア西部、バルト海沿岸の都市。クルゼメ地方の中心都市で、人口 約85,000人。ラトビア国内でも第3の規模を有する。リエパーヤ港はラトビアの三大港の一つで、リエパーヤ国際空港は国内に3つしかない国際空港の一つ(現在は首都リガとの間に季節便(夏)が運行されるのみ)。Latviešuラトビア語→Liepāja ir trešā lielākā pilsēta Latvijā, viena no deviņām republikas nozīmes pilsētām valstī. Tā ir lielākā Kurzemes pilsēta, kas atrodas Latvijas rietumu krastā starp Baltijas jūru un Liepājas ezeru, kuru ar jūru savieno Tirdzniecības kanāls. Liepāja ir nozīmīga kultūras, izglītības, rūpniecības un ostas pilsēta ar trešo lielāko ostu Latvijā pēc pārkrauto kravu daudzuma.
1999年の夏、私は息の詰まりそうな日本を一時脱出したのだが、パリの市立近代美術館の売店で一冊の写真集に出遭った。むしろ摑まってしまったというべきだろう。ウクライナ在住の写真芸術家、ボリス・ミハイロフによる「ボムズ」(bomzhes)の写真集『ケース・ヒストリー』(Case History)である。私が来る前に、パリでは彼の写真展が開かれていたらしい。ボムズとは現地の言葉で「何ら社会的支援のないホームレス」を指す。旧ソ連の崩壊から10年、「新ロシア人」と呼ばれる新興成り金によって特徴づけられた時代が過ぎ、貧困の時代がきた。「ボムズ」は、以前には存在しなかった「新しい階級」なのである。
通行人の理由のない暴力をうけ顔が腫れあがった少女。何かの病気なのか、下腹部が異様に突出している裸の老女。長大なペニスをさらけ出して立ち尽くす老人。その胸に刺青されたレーニン像。・・・そこに映されているのは、市場経済のグローバリズムという無慈悲な戦争の最前線で傷つき倒れていく人々の姿である。
「私は突然、あの場所で多くの人々が死んでいったのだと感じた。そしてボムズは最初に死ななければならない。英雄のように・・・まるで彼らの生が他の人々の生を守ったかのように。そして、私は、自分の持ち物を手にした裸の人々ーガス室に向うような人々の写真を撮って掲げた。・・・私は新しいサヴァイバルの境界にかなう、新しい道徳性の境界に関心があった。」(ミハイロフによる解説から)。
写真家は非難を覚悟で、あえてホームレスたちの裸体を撮ったのだという。その裸体を見て私は、リエパヤの女性たちの写真を見たときと同じ恥の感覚に襲われた。心の底から震 し、数夜にわたって夢魔に苦しんだ。私の脳裏で狂おしく渦巻いていたのは、プリーモ・レーヴィの言葉である。
「さらに現実的なのは自己啓発、あるいは人間的な連帯において失格したという告発である。ほとんどすべての生き残りは、救いを差し伸べることを怠ったという罪の意識を覚える。より弱く、ずるさが足りず、年老いているか若すぎる仲間、かたわらで彼らがつねに助けを求めているのが収容所の日常である。連帯を、人間らしい言葉を、助言を、ただ話を聞いてくれる耳を、そうした要求はつねに、どこでもあったが、ごく稀にしかかなえられなかった。おまえは他者の代わりに生きているがゆえに恥じるのか?・・・われわれの誰もが隣人の場所を奪い取って、その代わりに生きている。こうした疑惑はわれわれを蝕み、深く巣食う。」(Primo Levi'Shame' 'The Downed and the Saved' 訳、徐京植)
アウシュビッツから生還したレーヴィは、平和のための証人という役割を自らに課した。だが、やがて証言が少しも尊重されないことを知り、収容所の外の世界もまた「収容所」であることを発見した。「人間」であることの恥に身を灼かれ、1987年4月、トリーノの自宅で階段から身を投げた。ドイツ敗戦後、ユダヤ人虐殺などナチスの犯罪が露わになったとき、ほとんどのドイツ市民が、自分は見なかった。聞かなかった。知らなかったという態度をとった。しかしレーヴィは、彼らドイツ人はナチズムの統治に同意していた。戦後になって自らの無罪証明のために「無知」を利用していると批判し、このような「意図的な怠慢」こそが犯罪的だと告発していた。告発の矢はいま、誰に突き刺さろうとするのか。
リエパヤの女性たちとの連帯において失格した私たちは、いまもウクライナのボムズたちとの連帯において失格している。世界のいたるところで、人間は人間との連帯に失敗を重ねている。しかも、自らの弱さ、卑怯さ、あるいは愚かさのゆえに、そのことから目を背けているのだ。これは「意図的な怠慢」ではないのか。アウシュヴィッツ以後を生きる私たちの、「道徳性の境界」が試されている。
(初出:週刊朝日百科『世界の文学73 ホロコーストと強制収容所』朝日新聞社、2000年12月)。


프리모 레비(Primo Michele Levi, 1919년 7월 31일 ~ 1987년 4월 11일)는 유대계 이탈리아 화학자이자 작가이다. 아우슈비츠 생존자로서의 경험을 쓴 《이것이 인간인가》가 대표작이다.

Українськаウクライナ語→Бори́с Андрі́йович Миха́йлов (Boris Mikhailov), *25 серпня 1938, Харків, УРСР) — український арт-фотограф, який постійно мешкає в Берліні та Харкові. Вважається класиком сучасної фотографії і одним із перших медіа-художників. Мистецтво Михайлова має концептуальний та соціально-документальний характер. Русскийロシア語→Борис Андреевич Михайлов ( Boris Mikhailov ), 25 августа 1938, Харьков, УССР — советский и украинский художник, фотограф.


宋神道(1922年11月24日-2017年12月16日),生於朝鮮的忠清南道,是一位在日韓国人女性。生平=根據當事人的證詞,她於1922年在朝鮮的忠清南道出生,12歲時父親過世。16歲時以「在戰地工作可賺錢」為由被召募到中國,但被迫在慰安所充當日軍的慰安婦達7年之久。戰後隨日本軍人到日本,在宮城縣女川町與在日韓国人同居。2011年3月11日,發生東日本大地震,所居住的地方遭海嘯沖毀,因此遷居東京都。2017年12月16日,因衰老在東京都逝世,享耆壽95歲。

母を辱めるな
母は侮られ、人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆って忌み嫌われるもののように彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。誠に彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った。しかるに我々は思った。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は我々の咎のために傷つけられ、我々の不義のために砕かれたのだ。彼は自ら懲らしめを受けて我々に平安を与え、その打たれた傷により我々は癒されたのだ。(略)彼は暴虐な裁きによって取り去れらた。その世の人のうち誰が思ったであろうか。彼はわが民の咎のために打たれて、生けるものの地から絶たれたのだと。-旧約聖書『イザヤ書』53章
私の母がこの世を去る時、息子(私にとっては兄)が2人、政治犯として韓国の監獄に囚われていた。独裁者の死によってかすかに芽生えた釈放の期待は、別の独裁者の登場によって摘み取られた。光州に戒厳軍が投入され、多数の市民を虐殺したのが1980年5月18日。子宮癌による大量出血のため、母が京都市内の病院で息を引き取ったのが2日後の5月20日未明である。「朝までの辛抱やで、朝になったら楽になるよ!」という私の気休めに「朝まで?まだまだやないか・・・」と応じたのが最後の言葉だった(1)。
「慰安婦」とか「朝鮮ピー」とかいう言葉を生前の母から聞いた記憶はない。だが、母はきっとその言葉の意味を知っていただろう。日帝時代(2)の末期、朝鮮では若い娘が「挺身隊」という名目で狩りだされ日本軍の慰みものにされているという噂が広く流れ、未婚の娘をもつ朝鮮人家庭にパニックが広がった。その当時、母はすでに日本に住んでいたが、社交家で親分肌だったという祖父をたよって故郷の同胞がわが家に頻繁に出入りしていたというから、このまがまがしい噂は母の耳にも入っていたはずだ。
それに、あれは1960年頃だっただろうか、わが家は小さな町工場を営んでいたが、工員のなかに1人、兵隊あがりの日本人がいた。日頃は温厚寡黙なその人が食事時など一杯はいると、中国の戦線で「便衣隊」をどんなふうに殺したか、銃剣が人体に深く刺さっていく感触まで描写しながら上機嫌に語っていたことを私は憶えている。まだ小学生の私がそんな話を耳にするのを、母はひどく嫌っていた。いまになって想像するのだが、あの兵隊あがりはきっと「朝鮮ピー」をどんなふうに抱いたかなどということも話していたのではないだろうか。
1965年に刊行された朴慶植氏の『朝鮮人強制連行の記録』を、私は高校生の時に読んだ。だが、同書にある「慰安婦」に関する記述は、つい最近まで私の記憶から消えていたのだ。恥かしいことである。軍隊として動員され片脚切断の重傷を負った玉致守さんという在日一世からの聞き取りである。
「玉致守氏の乗った船で南方に連行された朝鮮女性だけでも2千数百名に上る。これらの女性は故郷にはいるときには戦争への協力を強制され、軍需工場、被服 で働くのだといわれて狩りだされた17-20歳のうら若い娘たちであった。しかし実際はこうして輸送船に乗せられて南方各地の戦線に送られ軍隊の慰安婦としてもてあそばれた。(略)玉氏が3回目に沈められた船にも150余名の同胞の女性がのっていた。途中沖縄の宮古島に下船させたので海のもくずとはならなかったが、彼女らの運命はどうなったかわからない(3)。」
解放後(日本敗戦後)も在日朝鮮人の間で、「慰安婦」をめぐる記憶が語り伝えられていたことがわかる。わが家に出入りした同胞たちの話題にもなったことだろう。ただ低い声で語り伝えられるだけの、姿も形もない「慰安婦」。-彼女らの運命に私の母がどれくらいわが身を重ね合わせていたかは、ただ想像してみるほかない。
すでに昨(1996)年6月、ある新聞記事(4)を目にした時から、私の胸のなかで、ゴツゴツしたかたまりが限界近くまで膨らんでいた。板垣正参議院議員が、韓国から来日した元「慰安婦」の金相喜さんに対して、「カネはもらっていないのか」と何度も問い詰め、「強制的に連れていったという客観的証拠はあるのか」と言い放ったのだ。同じ紙面には「明るい日本・国会議員連盟」の会長に就任した奥野誠亮元法相が「慰安婦は商行為」と述べたという記事も出ている。板垣議員は朝鮮軍司令官も務めた戦犯の家族であり、日本遺族会顧問でもある。奥野元法相は内務官僚出身で、終戦時には米軍の押収をまぬがれるため公文書を焼却して証拠隠滅を行なったと自ら語っている人物だ(5)。植民地支配の当事者ともいえる彼らが過去の罪を認めようとしないことには、いまさら驚きはしない。しかし、その記事を見たときには、何ともいえない嫌悪感がこみ上げてきた。とうとう決定的な一線が越えられたと感じた。この恥を知らぬ人々は最低限の慎みすらかなぐり捨て、面と向かって直接に、被害者を辱めるという行為に踏み出したのだ。
同年夏から「自由主義史観研究会」の藤岡信勝という東大教授が恥を知らぬ人々の合唱に加わり、97年度採用予定の中学校歴史教科書から「慰安婦」に関する記述を削除するよう要求する動きを始めた。この東大教授や、西尾幹ニ、小林よしのり、坂本多加雄などといった人々が発起人となり、同年12月2日には「新しい歴史教科書をつくる会」が発足した。それからしばらくたったある日、歯医者の待合室で雑誌の頁を開いたとき、私の中のゴツゴツとしたかたまりが破裂したのだ。「新しい歴史教科書をつくる会」の発起人のひとり山本夏彦が、元「慰安婦」が今ごろ騒ぎだしたのは「金ほしさ」のためといえばこれは誰もうなずくと書いていたのである(6)。
「金ほしさ」だって?元「慰安婦」たちは、差別と貧困の中で刻々と年老いている。75歳になる宋神道さんにしても、異国日本で周囲の無理解と差別にさらされながら、身寄りもなく、生活保護だけをたよりに暮しているのだ。どんなに心細いことだろうか。喉から手が出るほど金がほしいのは、当り前だ。それに、彼女たちには補償金を要求する正当な権利がある。「金がほしい」としても、だからといって侮辱されなければならない理由などない。

宋神道さんは1993年4月5日、在日の元「慰安婦」としては初めて、日本政府の謝罪と補償を求める訴訟を東京地裁に提起した。宋さんは最初から弁護団や支援者に言っている。「おれは謝ってもらいてえ。謝ってもらえればそれでいいんだ。金目当てじゃないってことを分ってもらいてえ」(7)。法廷での本人尋問の際にも、「いらない、金、謝れば一番いいんだ。謝って二度と戦争をしないこと」と、はっきりと答えている。このような原告の意向を受け、提訴の際は金銭的補償の要求(金員請求)をせず、謝罪文の交付と国会における公式謝罪のみを請求した。原告の受けた被害はとうてい金銭に換算できるものではないという点に加えて、「差別のある日本社会のもとでは、原告に危害が加わる恐れがあること」も、金員請求をしなかった理由のひとつに挙げられている(8)。しかし、裁判開始後、日本の法律では謝罪請求だけでは訴訟が成り立たないという裁判官の意見によって金員請求を追加したのである。
「俺たちの税金で生活保護を受けて食ってるくせに、なんで裁判を始めるんだ。文句があるなら韓国へ帰れ」「金が欲しくて裁判始めたんだろう。もう金はもらったか」-宋さんは地域の人々にそんな陰口をたたかれているという(9)。提訴当初の原告側の危惧は、まさに板垣正、奥野誠亮、藤岡信勝、小林よしのり、山本夏彦らの言動によって裏付けられた。新聞、雑誌、講演などを通じて公然と行なわれる被害者への侮辱に、かなりの数の日本人が腹のなかでうなずいているのだろう。これがあからさまな「危害」でなくて何だろうか。
「私の母を辱めるな。」-この時から私は、日本軍の性奴隷にされたすべての元「慰安婦」たちを「母」と呼ぶことに決めたのだ(10)。これは単なる感傷的な比喩ではない。
昨日(1997年7月24日)、私は宋神道さんに初めてお会いした。というより、そっと宋さんの姿を見るつもりである集会に出かけたら、紹介されてしまったのだ。元「慰安婦」は「私の母だ」と、あちこちで書いたり言ったりしてきたのに、私は実際に彼女たちの姿を見たことも、声を聞いたこともなかったのである。現実の宋さんを前にすると、「私はあなたを母だと思っています」などと、とても言いにくかった。おれはこんな息子をもった憶えもねえよ、長い間、見向きもしなかったくせに、都合のいいときだけ気やすく「母」なんて呼ぶんじゃねえーそういって叱られそうな気がした。無理もない。宋さんが困難な訴訟を始めて4年以上になるのに、私はただ気を揉んでいただけで、一度だって傍聴にも行っていなかったのだから。申し訳なさがこみ上げて、ただ、すみません、すみません、と詫びていたら、おめえ何をそんなに謝る、泥棒したわけじゃあんめえーそう言われてしまった。
宋神道さんは1922年の生れである。私の母は戸籍上は1920年生まれとなっているがこれはいい加減なもので、本人は常々、戌年(1922年)生まれだと言っていた。宋さんの出身地は現在の韓国の忠清南道論山郡。私の母の生まれ故郷である公州郡とは隣どうしだ。私の母と宋さんは、同郷の同年生まれなのである。母の生前に2人が知り合っていたら、ほんとうの姉妹のように親しくなっていたかもしれない。
解放後日本から引き揚げた祖父(母の父)は、論山で百姓をして暮らしていた。30年ばかり前、高校1年生のとき、私は祖父を訪ねてその土地に行ったことがある。
べったりと広がる田圃、あばらが逃げるほど痩せた飴色の牛、荷役に酷使されて背中が赤く禿げた朝鮮馬、誰もが充血した目をした農民たち、椀で飲む一杯の濁酒とやけっぱちな哄笑・・・そんな風景の中に、かつては日本人地主のものだったという屋敷が不似合いに立派な姿で残っていた。祖父のところも決して豊かではなかったが、それでも、そこには下働きの女性がいた。決して私と目を合わそうとしなかった彼女が朝から晩まで追い立てられるように働いて得る代償は、収穫後の米一叺だということだった。それが1年分の労働の報酬のすべてだと聞いて、絶句してしまったことを思い出す。あれから2,3年後、祖父は胃癌で死に、わずかな田畑は人手に渡った。あの女性はどうなったのだろうか。
今ではずいぶん様子が変わったが、私が訪ねた頃はまだ、あの土地にも日帝時代の朝鮮農村の貧しさの片鱗が残っていたのだろう。いや、日帝時代の貧しさは到底あんなものではすまなかったはずだ。当時の朝鮮農村では朝鮮総督府による「産米増殖計画」(1920-34年)が強行されており、朝鮮での米の生産量は約2割増加したが、朝鮮人1人あたりの米消費量は約4割も減少した。朝鮮人農民の多くは米を作りながら自分ではその米を食うことができず、土地を手放して没落していった。その救いのない植民地の貧しさのただ中に、私の母も、宋さんも、産み落されたのでだ。

宋神道さんは12歳の時、父親を病気で亡くした。母親と妹の3人だけがとり残されたのだ。疲弊の極にあった当時の農村で、一家に唯一の働き手を失うことが何を意味していたかは想像に難くない。宋さんは数え年16歳のとき嫁に出されたが、これは「口べらし」だったのだろう。当時はめずらしいことではなかったはずだ。だが、宋さんは結婚初日に婚家から逃げ出したのだという。実家に逃げ帰ったものの母親に追い出された宋さんは、子守りや洗濯などの下働きをして、「まんまもらって食ったり」したというが、それがどんなに惨めな暮らしだったか、私はかつて祖父の家でみた、あの色黒で無口な女性の姿を重ね合わせてみる。私の母も宋さんと同じく、貧しい朝鮮人農民の娘だった。
「今はうっすら夢みたいに憶えてますけどね、家の前に川があったりして、山裾の一軒家ですけどね、・・・ものすごく貧乏でね。食べるだけが精一杯、憶えてるけど、私のお母さんのお父さんは、占い師と言うんですか・・・。手先が器用で、ザルを編んだり、百姓ちょっとしたりしてたんですけど、ものすごいケチンボで、おばあさんが正月に餅をついて子供らに食べさせるいうたら、杵に粉が付くので勿体ないからやめとけ言うて、喧嘩したことがあるらしいですよ。それだけ貧乏だったということですね。」
宋さんの父親は亡くなったが、私の母の父は日本に渡った。1920年代を通じて、窮乏化した何十万という朝鮮農民が生きる道を求めて、あるいは「満州」の間島へ、あるいは日本へと流れて行ったが、私の祖父もその一員だったわけである。
「酷いところへ行かされる前に(日本に)来た方がマシやというのでね。日本に「募集」があったさかいね。・・・(お父さんは)勤労奉仕させられてる時、途中でね、あの掘るもの(ツルハシ)を、どうせ行くんなら嫁さんのところの庭に放り込んでおけと思って、パーッと垣根越して放り込んでね。それで家族にも誰にも言わんと日本に来たらしいです。・・・私の母にも黙って、ね。(お父さん)が日本にきてから後で、心配してたら日本へ行ったという報せがあったらしいんです。」
「産米増殖計画」の過程で水利事業や道路建設などの労働に農民が駆り出されたが、「勤労奉仕」というのはそのことを指しているのだろう。とにかく、祖父は家族にも告げないままいなくなってしまったのだ。あとになって日本から連絡があるまで、残された家族はどんなに不安だっただろうか。何らかの事情で、そのまま祖父がいなくなっていたら・・・。たとえば自暴自棄になって家族を捨てる、労働現場で怪我をする、関東大震災のときのような虐殺にあう、・・・そういうことはみな、いくらでもありえたことだ。もしそうなっていたら、宋さんと同じように、私の母も、一家に唯一の働き手を失うことになっていたのである。
ともあれ、祖父は京都市郊外の農家の下働きとなり、故郷に残した家族を呼び寄せた。母が玄界灘を渡って下関に着いたのは満6歳のとき、1928年のことだ。ここで私の母と宋神道さんの運命が分岐したのである。

남자의 토라子 여자 虎造 (슈에이 샤 / 단편)Torako mâle Torazo femelle (Shueisha / court)男のトラ子 女の虎造

Song Sin-do宋神道 (Korean: 송신도; November 24, 1922 – December 16, 2017) was a Korean former comfort woman who had been living and campaigning in Japan for an official apology from the Japanese government. She had also recognised the need for the history of comfort women to be taught in Japanese schools to prevent a recurrence of the situation.

신 · 고마 니즘 선언 3 위안부 문제 (쇼가쿠칸 문고) 
<책의 내용>
"종군 위안부 문제 '- 고 선언 최대의 격투 여기에서 시작한다!
역사를 둘러싼 싸움이 시작됐다 -. "어설픈 정의 '에 경고를 탈 정의론에 이어 금기 된 종군 위안부 문제에 목숨을 걸고 나서는, 대망의 제 3 권. 위안부 강제 연행 사과 파의 논리를 완부없는까지 마구 친다 "고宣版· 종군 위안부 문제 자료집」, 감동의 「남쪽 섬에 눈이 내린다 '등 역사적 사실을 왜곡 자학 사관을 내세우는 위선 사람들과의 투쟁의 날들을 그린다. 화제 시끄러움의 역사 교과서 문제로 이어지는 36 장까지를수록.

위안부전자 책 고바야시 요시노리小林よしのり/ 저 
이것은 반한 아니다. 한일 미래를 위해! 반일 부족주의의 상징 '위안부'의 모든 것을 알 수! 
제 1 장 「반일」이 원리 국가 제 2 장 무서운 위안부 문제의 반향 3 장 진심으로 사죄의 의미 제 4 장 남녀 노소 · 위안부 문제, 대 논쟁 제 5 장 전장의 성욕과 페미니즘 제 6 장 약자라는 성역에 위치한 권력자 7 장 43 단체의 언론 봉살에 독수리는 굴하지 않는 제 8 장 아침 나마 본 흉포 한 선의의 파시즘 제 9 장 독수리는 광의의 강제 연행에 의한 자랑 노예였다! 제 10 장 우익 딱지 부착을하는 여성에게 감사 제 11 장 고 宣版 · 종군 위안부 자료집 제 12 장 「종군 위안부」의 진실 13 장 위안부 문제의 역사 제 14 장 위안부 문제의 역사 ②제 15 장 과거를 심판 현대인의 사치 제 16 장 위안부 문제의 역사 ③제 17 장 20 세기 여성의 인권 침해는 '성 노예'이다
Femme de confort Livre électronique Yoshinori Kobayashi 小林よしのり/ travail
Ce n'est pas anti-coréen. Le Japon et la Corée pour l'avenir! Vous pouvez voir toutes les «femmes de réconfort» qui symbolisent le tribalisme anti-japonais!

Chapitre 1 Un pays où «anti-Japon» est le principe Chapitre 2 Réverbération du terrible réconfort des femmes Chapitre 3 Inutilité des excuses sincères Chapitre 4 Les hommes et les femmes de tous âges et les femmes de réconfort, grande controverse Chapitre 5 Libido et féminisme sur le champ de bataille Chapitre 6 Chapitre 7 Une personne puissante dans le sanctuaire des faibles Chapitre 7 43 Je ne céderai pas au massacre du discours du groupe Chapitre 8 Le fascisme de bonne volonté féroce que j'ai vu le matin brut Chapitre 9 J'étais un homme esclave par entraînement forcé au sens large! Chapitre 10 Merci à la femme qui qualifie l'aile droite Chapitre 11 Déclaration de Go / confort militaire Documents sur les femmes Chapitre 12 La vérité sur les «femmes de confort» Chapitre 13 Histoire du problème des femmes de confort Chapitre 14 Histoire du problème des femmes de confort ②Chapitre 15 La grâce des gens modernes qui jugent le passé Chapitre 16 Histoire du problème de la femme de réconfort ③Chapitre 17 Les violations des droits humains des femmes au XXe siècle sont des «esclaves sexuelles»




De-war theory Après un procès avec Yoshinori Kobayashi auteur Satoshi Uesugi (éd.)
La "théorie de la guerre" de Yoshinori Kobayashi a propagé des malentendus et des malentendus sur l'histoire aux gens à travers les effets uniques du manga. Les auteurs qui ont affronté Yoshinori Kobayashi dans le procès "Déclaration de dé-gomanisme" ont de nouveau résolu l'histoire ...


×

非ログインユーザーとして返信する