日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki②


モドロウの登場
「壁」の崩壊を境に、東独の国家権力の重心は急速に党から離れた。党主導による改革のチャンスは、12月中旬の党大会まで待たねばならない。小回りの利かない瀕死の党組織を尻目に、政治の実質権力は政府、議会に移っていく。人民議会は13日、ハンス・モドロウを新首相に、民主農民党党首ギュンター・マロイダを議会議長に選出した。モドロウは17日、28閣僚の連立内閣を発表、このうち11ポストを非共産主義政党四党に配分した。
*人民議会(じんみんぎかい、ドイツ語: Volkskammer)は、かつてのドイツ民主共和国(東ドイツ)の立法府。
*ドイツ民主農民党(ドイツ語: Demokratische Bauernpartei Deutschlands、略称:DBD)は、かつてドイツ民主共和国(東ドイツ)に存在した政党。

*ギュンター・マロイダ(ドイツ語: Günther Maleuda、1931年1月20日-2012年7月18日)は、ドイツの政治家。ドイツ民主共和国(東ドイツ)で1989年11月のベルリンの壁崩壊の直後から翌年3月の東ドイツ初の(そして最後の)自由選挙まで人民議会議長を務めた。
モドロウはかねて、東独党内でゴルバチョフの眼鏡にかなうと目されていた人物だった。73年から党ドレスデン地区委員会第一書記を務め、親日家でもあるモドロウは、ホーネッカー退陣後に初めて政治局入りしたのだが、80年代後半からクレンツ、シャポフスキと並び、党書記長の後継候補の1人として、名前が上がっていた。
ドレスデンはザクセンの郡として、伝統的にベルリンとの対抗意識が強い。自らマーケットの行列に並びもするモドロウの飾らぬ人柄は、ベルリンの党指導者連中と対照的で、市民の共感を呼んでいた。ゴルバチョフ政権の改革の進展がモドロウに自信を与えたことは、言うまでもない。
東独指導部は87年から88年にかけ公然とソ連に背を向け、スターリンの粛清への批判をテーマにしたテンギス・アブラゼの映画「懺悔」、続いてソ連映画祭の出品作5本の一般上映を禁止した。さらにソ連誌『スプートニクСпутник』を「独ソ友好の強化にもはや貢献せず、歪曲した歴史描写を流布している」(党機関紙『ノイエス・ドイッチュラント』)として、発禁処分にしている。
当時ホーネッカー指導部は党内のイデオロギー的引き締めにも乗り出し、ドレスデンに党調査委員会を派遣したことがあった。この時、厳重処分を主張したのはクレンツだったと言われている。モドロウは処分はまぬがれたものの、ベルリンの党中央入りする道は断たれた。クレンツとモドロウの仲はそれ以来冷えており、クレンツが書記長に選出された時、モドロウが「過渡期的解決さ」と冷たく言い放っているのをシャポフスキは聞いている。

*ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ・クリュチコフ(ロシア語: Владимир Александрович Крючков、ラテン文字転写の例:Vladimir Aleksandrovich Kryuchkov、1924年2月29日 - 2007年11月23日)は、ソビエト連邦の政治家、チェキスト。ミハイル・ゴルバチョフ時代にソ連国家保安委員会(KGB)議長。上級大将。ソ連8月クーデターの首謀者のひとり。
クリュチコフの暗躍
シャポフスキはまた、西ベルリン紙の記事を引用し、モドロウとソ連の関係について興味深い解説を加えている。この記事によると、87年当時、ソ連国家保安委員会副議長(のち議長)クリュチコフが、ソ連の核開発に貢献したドレスデンの物理学者マンフレート・フォン・アルデネ博士(マンフレート・フォン・アルデンヌ(Manfred von Ardenne、1907年1月20日 - 1997年5月26日)は、ドイツ人物理学者で発明家)を訪問し、改革問題を協議した結果、改革には国民の反体制運動の成長という客観的条件のほか、党中枢で行動を起こせる人物が必要との結論に達した。それがモドロウであった。
シャポフスキは、クリュチコフがこの時、第一書記モドロウに合わなかったとは考えにくいし、モドロウは少なくともクリュチコフの発言を知っていた、とみている。この頃から西側メディアでモドロウの名が取り沙汰され始めたのは、単に偶然の一致なのかどうか。シャポフスキは、ソ連サイドから意図的に情報がリークされたという見方を強く示唆している。
短命に終わった91年8月のモスクワ・クーデターの首謀者で、国家反逆罪に問われているクリュチコフは、ゴルバチョフ改革の信奉者だった。五章でも見るように、クリュチコフは89年のチェコスロバキア政変にも深く関与していた形跡がある。治安警察担当チェコ内務次官アロイス・ロレンツはこの年8,9両月、モスクワでクリュチコフと会談、警察当局が挑発し、チェコ政変の引き金となったプラハの11月7日デモの3日前、KGB次官グルシコが急遽プラハ入りし、ロレンツと接触した。ロレンツはデモ当日、グルシコとの会食途中、頻繁に席を外し、電話に立っていた事実が、チェコ議会の公式調査文書で確認されている。
モドロウの登場によって、ホーネッカー退陣から国境開放へと続いた東独の激突は、また一つ新たな段階に入った。新首相は地政方針演説で、法治国家性の強化と集会・結社法の制定、経済政策で西側との合弁事業や資本参加に道を開くことを予告した。人民議会は翌11月18日、「党の指導」を規定した憲法弟一条に修正を加える憲法改正委員会、旧幹部の汚職・権力乱用調査委員会を設置した。モドロウは「党が生き残れるかどうかが問われている」という強い危機感にとらわれていたが、モドロウ内閣が改革の主導権を握ったこと自体、党の役割が終焉を迎えつつある事実をはっきり示していた。
実権は党から議会へ
党は23日、ホーネッカーの党規違反に関する調査を開始、ミッタークの除名を発表し、同時に在野組織に向け、自由選挙と憲法改正を協議する「円卓会議」の開始を提案した。これより先、最高検察庁は、建国40周年記念日デモに対する弾圧事件の捜査報告を人民議会に提出、警察当局による弾圧措置は、ホーネッカーの命令を受けたクレンツから現場への事前の指示に基づき、実行されたことが明らかにされた。クレンツは23日、憲法一条の「党の指導」規定を削除する意向を表明。12月1日の人民議会で削除が決まった。党が政府の主導権を維持するためには、順序としてまず党自ら放棄を機関決定しなければならないところだったが、臨時党大会は一週間後であり、この点でも党は情勢に大きく遅れをとった。憲法改正は、議会が党から政治の実権を剥奪したことを意味した。
クレンツ指導部は12月3日の日曜日に緊急中央委総会を招集した。政治局は総会に先立つ地区第一書記との合同協議で、指導部は全員辞任すべしとの激しい突き上げを受け、総会に「指導部は旧政治局員による誤りの重大さを解明し、必要な結論を引き出せる状況にない。このことは、旧指導部に属していた現政治局員が党革新への着手に道を開く人事上及び政治上の決定に本質的に寄与したとは言え、確認されねばならない」という自己批判の辞職声明を提出、政治局員、中央委員が全員辞任した。
総会はまた、ホーネッカー、前人民議会議長ジンダーマン(ホルスト・ジンダーマン(ドイツ語: Horst Sindermann, 1915年9月5日 - 1990年4月20日)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の政治家、首相(閣僚評議会議長)(1973年-1976年)、前首相シュトフ、前国家保安相ミールケ、前労組同盟議長ティッシュら旧指導部の古参幹部12人の党追放も決めた。ホーネッカー引き降ろし工作の過程で、ゴルバチョフへの伝令を務めたティッシュ、政治局会議で冷ややかに辞任要求を突き付けたシュトフ、土壇場で反ホーネッカー派に寝返ったミールケ。いずれも「党革新・・・に道を開く・・・決定」に一定の役回りを演じはしたが、「ホーネッカー外し」により党の温存を図るという宮廷革命の幻想は、下部党員からの突き上げにより破産した。

党活動停止
この日の社会主義統一党史上、結果的には最後の総会となった。総会はエアフルトの第一書記ヘルベルト・クローカーを委員長に、モドロウの盟友のドレスデン市長ベルクホーファー、法律家グレゴール、ギジらをメンバーとする大会準備の作案委員会を設置、党は事実上機能を停止した。
クレンツは翌4日、モドロウとともに日帰りでモスクワに飛びゴルバチョフと会談、翌日5日夜、人民連合議長マロイダ宛てに、国家評議会議長の辞職願をしたため、6日、辞職した。後任に自由民主党党首ゲルラッハが就任した。クレンツは辞職願の中で「私が長年ホーネッカーが指導する政治局および国家評議会に席をおいていたことにより、私が代表する社会主義再生の政治に対する国民の信頼が潰れた」と認め、国民の信任がない以上、国家元首としての職責は果たせない、と辞任理由を述べた。党は議会議長に続き、国家元首ポストも野党に譲ることになった。

衰退する党
社会主義統一党は12月8-9日、臨時党大会を繰り上げ招集し、最高政策決定機関である政治局を頂点に、これとほぼ同メンバーで構成する日常党務担当の書記局、これら両者を選出する中央委員会から成る従来のソ連型の中央集権的党組織を廃止し、議長=副議長(3人)=執行委員長幹部会(6人)=執行委員会(指導部を含め100人)の新機構を創設した。議長にはモドロウ、ベルクホーファーらを選出、人事を終えていったん閉会した。
大会は16日再開し、党名を「社会主義統一党・民主社会党」に変更した。クレンツ、シャポフスキら旧政治局の生き残り組も90年1月、大半が党追放処分となった。
社会主義統一党の名称を残したのは、党分裂を回避するためだったが、副議長ベルクホーファーらドレスデンの幹部40人は90年1月21日、「党にはもはや自己変革の力はない」とする声明を発表し、離党した。一般党員数も前月の党大会の時点で、25%減の170万人まで落ちていた。党名はその後「民主社会党」に一本化されたが、権力を独占する国家政党であるが故に誇れた党勢が、権力の喪失とともに衰退するメカニズムは、東独も例外ではなかった。党は国家権力の権益を核に形成された巨大な党・国家官僚層の利益団体に堕していたのだ。
*左翼党-民主社会党(ドイツ語: Die Linkspartei.PDS)は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の末期から再統一後のドイツ連邦共和国にかけて存在した社会主義政党で、現在の左翼党の前身となる政党のひとつ。なお、左翼党-民主社会党というのは最終的な党名で、党が存在した17年間の大半においては、党名は民主社会党(ドイツ語: Partei des Demokratischen Sozialismus, PDS)であった。

消える国家
条約共同体と並行し、東独国家もまた急速に消滅へと向かっていた。11月17日の施政方針演説で、首相モドロウはドイツ問題について、統一を明確に拒否するとともに「条約共同体」の構想を発表した。具体的な内容は翌90年1月17日、「ドイツ民主共和国およびドイツ連邦共和国の善隣協力条約」草案として明らかにされた。
構想は「一民族内の二国家の存在」を基本とし、両国間に、①政策を調整する合同の政治諮問委員会、②省レベルの合同委員会ーを設置し、経済・通貨同盟から、将来の「国家連合」まで視野に入れていた。
モドロウの構想に対し、西独首相コールは11月28日、連邦議会の演説で、究極的に国家連合に至る、両独関係に関する「10項目提案」を対置した。コール案は、①東独国民の大量出国に対する緊急措置、②政治・経済体制の変更後の対東独支援の拡大(傍点筆者)、③条約共同体、④国家連合構造への発展ーなどを含んでいたが、東独が自由選挙を実施し、国家制度を変えない限り、援助には限界があることを明確にする意味があった。コール案はさらに、ドイツ統合の過程は全欧州の問題であると指摘し、ドイツ統合を欧州統合の一部と位置付ける考えを示した。明確な日程の見通しは避けながらも、ドイツ統一問題を正面に据えた見解を示した。
モドロウ提案が、両国が「対等の立場で」政治諮問委を構成するとしていたが、経済大国西独との力関係には差があり過ぎた。「壁」の崩壊後、流出する東独国民は連日2000人規模に達し、東独マルクの対西独マルク価値は10分の1以下に低下、経済は破局に向かっていた。全国各地で国家保安省の出先機関が群衆に襲撃されても、当局には打つ手がなく、国家そのものが音をたてて崩れつつあった。

モドロウの孤独
東独ドレスデンのエルベ川岸のホテルで12月19日開いた初首脳会談の席で、モドロウは西独に対し、経済改革への支援として150億マルクの供与を要請せざるを得なかった。モドロウは、「壁」の開放が東独経済に与える重圧を西独も等しく負うべきだとする「負担分担」の論理を展開した。コールはこの要求をはねつけ、「同情的支援」の用意を表明するにとどまった。モドロウにとっての成果は、条約共同体に向けた交渉を早期に開始するとの合意だったが、西独側は結局「同情的支援」を実行せず、条約共同体の準備交渉への熱意も間もなく冷めていった。
コールがモドロウを見放した背景には、近づく総選挙の日程があった。東独与野党の円卓会議は90年1月28日、モドロウの下に民主運動グループも政権に参加した「国民責任内閣」を組閣し、総選挙を3月18日に実施することで合意した。これに先立ち1月中旬、コールは条約共同体準備交渉を決めている。選挙が近いとみて、モドロウを交渉相手として見放したのだ。
2月13日、モドロウはボンを訪問したが、コールからはもはや対等の相手として遇されなかった。モドロウは回想録『覚醒と終焉』(1991年刊)の中で、コールの尊大な態度を苦渋を込めて書き留めている。コールは客人に対し「連邦共和国が所有する最高のものドイツ・マルクを、東独の市民もじきに持てるようになるよ」と言ったという。

*ロタール・デメジエール(またはドメジエール、Lothar de Maizière, 1940年3月2日 – )は、ドイツの政治家。ドイツ民主共和国(東ドイツ)の最後の閣僚会議議長(首相)、東ドイツ・キリスト教民主同盟党首を歴任した。
被後見内閣
選挙は円卓会議の合意通り3月18日に実施された。コールのキリスト教民主同盟(CDU)は東独CDUに全面的にテコ入れし、西側丸抱えの選挙戦で大勝した。CDUは定数400議席のうち163議席を獲得、社会民主党(88)、社会主義統一党の後身、民主社会党(88)に大差をつけて第一党になった。
*ドイツキリスト教民主同盟(ドイツキリストきょうみんしゅどうめい、ドイツ語: Christlich-Demokratische Union Deutschlands、略称: CDU)は、1945年に結成されたドイツの中道右派政党[1]。キリスト教民主主義、自由主義、社会保守主義を綱領とする[19]包括政党である[20]。
CDU党首デメジエールは西独の意に従う人物だった。4月、デメジエールは社会民主党を含む大連立政権を樹立し、ドイツ統合へとなだれ込んでいく。西独政府はデメジエールに諮問委員を派遣するなど、東独の後見人になっていた。デメジエールの4月19日の施政方針演説に先立ち、コールの顧問だった前出のテルチックはこの諮問委員からベルリンに呼ばれ、演説案の内容を協議した秘話を明かしている。
デメジエールの文案はポーランド国境問題で、統一前に国境条約に仮調印すべきだとするポーランド側の要求に譲歩した内容だった。これはコール政権の方針と食い違うため、修正させる必要があった。テルチックらは裏口から東独政府庁舎に入っていくが、これは「ボンが”遠隔操作”しているとの印象を避けるためだった」と書いている。実際、デメジエール演説は国境確定の手順には触れず、テルチックは「われらのアドバイスと連邦首相の介入が効を奏した」と自慢気に語っている。
通貨統合
西独当局が中心となって2月中旬から進めていた「通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約」は5月18日に、ボンで調印された。筆者は首相府に隣接するシャウムブルク宮殿で開かれた調印式に、日本人記者としてただ1人立ち合う幸運に恵まれた。デメジエールは調印式の挨拶で、他の東欧諸国に比べ東独は恵まれた立場にあると強調、目を潤ませて西ドイツに感謝の意を示した。ちょうど半年前、東独とCDU党員になった際「民主主義への要求が即社会主義の廃止要求を含んでいると考えるなら、われわれの理解と異なる」と述べていた人物の言葉とは思えなかった。当時の発言が自己保身から出たものだったのか、統一の動きが急激過ぎたのか。
*シャウムブルク宮殿(ドイツ語:Palais Schaumburg)は、西ドイツの首都であったドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州ボンにある新古典主義建築の建物である。
通貨統合条約は7月1日から発効した。西独連邦銀行が東の通貨管理権を掌握、国家統合の前に東独経済は西独に吸収され、両ドイツは法的問題を残して実質的に統合した。ドイツ問題が西独ペースで進むことは、拭い得ない事実だったが、ドイツ統一に伴うもう一つの問題は、戦勝四カ国の発言権だった。これはNATO、ワルシャワ条約機構という異なる二つの陣営に属する両ドイツの、統一後の国際的位置の問題で、ドイツ統一の「外的側面」と呼ばれた。統一の進展は、ソ連の出方にかかっていた。

NATOの中立か? 
モドロウは1月、「統一祖国ドイツのために」と題する構想の中で、国家連合に至る過程で、両ドイツの「軍事的中立化」が必要であるという考えを示した。ソ連指導部も当初、中立化論に立っていたが、統一ドイツの中立化は逆に、ドイツが欧州の軍事・政治的枠組みから離れて1人歩きする危険につながり、西欧諸国が反対すれば統一のチャンスそのものを失うことになる。コールはNATOの残留の方向でソ連の同意を取りつける腹だった。
東独の崩壊で不可避となったドイツ統一を前に、ソ連もとまどっていた。統一が欧州の不安定化につながる懸念と、ドイツが現国境を明確に承認するのかどうか、西独が東独を抱え込んだ場合、西独の対ソ経済支援はどうなるのかという現実的問題があった。
テルチックの回想記によると、ボン駐在ソ連大使クビチンスキーは90年1月初め、外相シェワルナゼの指示でコールに会い、食料緊急援助を打診した。コールはゴルバチョフを支援することで有利な立場に立つ好機と判断し、直ちに農相に検討を指示。2億マルクの国庫補助金を支出し、牛肉缶詰5万2000トンなどを廉価で緊急援助した。

*エドゥアルド・シェワルナゼ(グルジア語: ედუარდ შევარდნაძე、ロシア語: Эдуард Амвросьевич Шеварднадзе、ラテン文字表記の例:Eduard Amvrosievich Shevardnadze、1928年1月25日 - 2014年7月7日)は、ソビエト連邦及びグルジア (ジョージア)の政治家。
4月のワルシャワ条約機構会議で、シェワルナゼは統一ドイツのNATO帰属に反対する演説を行ったが、ハンガリー外相ホルン、チェコ外相ディーンストビールらがこれに反論すると、シェワルナゼは謝意を示したという。軍部保守派への手前、NATO帰属に反対の姿勢は見せたが、ソ連指導部の本心は別のところにあった。
5月中旬、テルチックはモスクワで首相ルイシコフ、外相シェワルナゼと会談、ソ連側は20億ルーブルの短期融資、150億ルーブルの長期優遇融資の希望を表明した。ドイツ側は対ソ支援はあくまでドイツ統一問題の解決を促進するパッケージの一部として扱うとの立場を強調した。つまり、ソ連側に経済支援を与える見返りに、ソ連側はドイツ統一を妨害しないという取り引きだった。
*ニコライ・イワノヴィチ・ルイシコフ(ロシア語: Николай Иванович Рыжков、ラテン文字転写の例:Nikolay Ivanovich Ryzhkov, 1929年9月28日 - )は、ソビエト連邦及びロシアの政治家。
ゴルバチョフ政権の問題は国内の経済危機と、対独譲歩に対する保守派の抵抗をいかにかわすかにあった。統一の実現には、ゴルバチョフの国内的立場とソ連の国際的メンツを保つことが不可欠の条件であった。本書の趣旨から外れるので、略述にとどめるが、ドイツ統一の「外的側面」を解決するため、関係諸国はさまざまに知恵を絞った。

*ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー (Hans-Dietrich Genscher、1927年3月21日 - 2016年3月31日) は、ドイツ連邦共和国の政治家。自由民主党(FDP)の党首として、ドイツ社会民主党のヘルムート・シュミット、次いでキリスト教民主同盟のヘルムート・コールと連立政権を組み、1974年から1992年まで、副首相兼外務大臣を務めた。
「2+4」
西独外相ゲンシャーは5月、統一ドイツの兵力に制限を設けるアイデアを打ち出し、8月末、ウィーンの欧州通常戦力(CFE)交渉の場で「37万人」の上限受け入れを表明した。米国は既に2月、中部欧州駐留外国軍の上限を米ソ各19万5000人に制限するよう提案していた。いずれも、ソ連からみた統一ドイツの軍事的脅威を除去するのが主な狙いだった。
ドイツ統一から派生する国境問題は、ポーランドの最大の不安の種だった。戦後、ポーランド東部地域がソ連領になる一方、ポーランド西部の対東独国境は西に移動した。ポーランド全体が西方に移動したわけだが、東独がソ連の影響下にある限り、ポーランドとの領土問題が起きる心配はなかった。しかし、ドイツが統一すると、状況は一変する。
*カーゾン線Linia Curzona(Curzon-Linieカーゾンせん、英語: Curzon Line)Линия Керзонаは、第一次世界大戦後、イギリスの外務大臣ジョージ・カーゾン卿によって提唱された、ポーランドとソビエト・ロシアの境界線のことである。第二次世界大戦後のポーランドの東部国境は、ほぼこの線の位置にある。
*オーデル・ナイセ線Granica na Odrze i Nysie Łużyckiej(Oder-Neiße-Grenzeオーデル・ナイセせんGranica polsko-niemiecka)Германско-польская границаは、現在のドイツ連邦共和国とポーランド共和国の国境線。オーデル川とその支流のナイセ川によって構成される。
ポーランド首相マゾビエツキは、統一前に東西ドイツがそれぞれ現国境の不安を承認するよう求めた。コールはこの要求を拒否、ポーランドの統一承認を取り付けるカードとして国境問題を温存した。西独政府は3月、東独の選挙が終了した後、東西両議会が現ポーランド国境を承認する決議を採択するとの方針を固めていた。そして、東西両独の議会は6月21日、「通貨・経済・社会同盟」条約と同時に、対ポーランド国境を最終的に承認する決議を採択したのだった。ポーランドの疑念は消えた。
主としてソ連への配慮が問題となる「外的側面」の解決には、このほか戦勝4カ国と東西ドイツを加えた、いわゆる「2+4」会議で、調整が図られた。6カ国外相は9月12日、モスクワで「ドイツに関する最終規定条約」に調印、統一にゴーサインを与えた。条約は国境線の維持と、ドイツ駐留ソ連軍の1994年までの撤退完了、統一ドイツのNATO加盟を確認。これとは別に、ドイツとソ連による友好善隣条約の締結も取り決められた。

東独消滅
統一ドイツのNATO加盟がソ連に与える心理的インパクトを除去することも重要だった。ゴルバチョフは、NATO加盟を承認する前提条件として、東西軍事ブロックの存在意義を失わせることを求めていた。ゲンシャーはかねて、全欧州安保協力会議(CSCE)の「機械化」を提唱していたが、これは東西軍事ブロックに代え、CSCEを、全欧州を包含する常設の国際機関にする構想だった。ドイツ統一を欧州統合の一部と位置付けるコール外交の具体化であるとともに、ゴルバチョフの「欧州共通の家」構想にも合致するアイデアだった。これは11月、パリで開催したCSCE首脳会議で、東西対立の解消をうたう「新欧州のためのパリ憲章」を採択し、同時に東西の戦力を大幅に削減するCFE条約に調印、東西軍事ブロック加盟国が「武力行使宣言」を採択することにつながった。
国際協議の進展をにらみながら、東独議会は8月23日、「(90年)10月3日」をもって西独に編入、統一を完成するとの決議を採択した。これを受けて、両ドイツ政府は同月31日、統一の最終仕上げを盛り込んだ統一条約に調印した。10月3日から西独基本法(憲法)その他諸法が東にも適用されることが確認され、東独国家の消滅は確定した。

負の遺産
最終的に政権を去った民主社会党の党勢はその後、10月のドイツ統一を経て坂を転げるように衰退し、91年秋の時点で、かつて240万人を保っているのが実情であり、統一後初の本格選挙となる大統領総選挙(94年)では、連邦議会進出は無理かもしれない。
ドイツ統一はまた、ドイツ民主共和国にアイデンティティーを見出し、その再興を夢見ていた人々の声をもかき消してしまった。それは元社会主義統一党の改革派党員たちや、ベルベル・ボーライらに代表されるホーネッカー体制下の民主運動の果敢な闘士たちであった。

*Deutschドイツ語⇒Bärbel Bohley (geborene Brosius; * 24. Mai 1945 in Berlin; † 11. September 2010 in Gehren) war eine deutsche Bürgerrechtlerin und Malerin. Bekannt wurde sie als Mitbegründerin des Neuen Forums in der DDR.
前年の政変に最も功績があった彼らの存在は、統一の障害でしかなかった。ホーネッカーは90年1月、腎臓がんの手術を受けて退院した後、ポツダムのソ連軍病院に保護されたが、東独検察庁は「ベルリンの壁」と東西国境地帯での不法出国者への射殺を指示したとして殺人罪で起訴。90年3月、ほぼ1年ぶりに、事実上の亡命扱いでモスクワに移送されたものの、彼の運命を再び変えたのは、同年8月のソ連の政変だった。ゴルバチョフにはもはやホーネッカーを保護する力はなく、ロシア共和国は12月、国外退去を通告、ホーネッカーはその後、チリ大使館に保護を求めたが、92年7月、ロシア治安当局の手でベルリンに強制送還され、11月12日から裁判が始まった。

だが、重病の”元国家元首”の罪をどこまで裁けるのか、疑問も多い。訴追が勝者(西独)による敗者(東独)への報復の色彩を帯びることはないのか。あのボーライが、ホーネッカーはじめかつての党幹部擁護の声を上げたのは、皮肉なめぐり合わせだった。元共産党幹部への執拗な訴追は、共産党支配下の政治的迫害と全く同質であり、民主主義が定着していない証拠という怒りからだった。92年夏、ロストクで起きた難民排斥を叫ぶ極右暴動の背景には、高まる失業不安に加え、国家喪失から来る若者たちの精神的危機があるといわれる。急激な国家統合の代償として、旧東独地域が背負い込んだ負の遺産は大きい。
              2 マジャール党の革命ーハンガリー

*ハンガリー(ハンガリー語: Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペストである。
*ハンガリー民主化運動Rendszerváltás Magyarországon(ハンガリーみんしゅかうんどう)Переход Венгрии к демократииは、1985年頃から1990年までのハンガリー(ハンガリー人民共和国)における民主化運動のこと。この民主化の過程で後の汎ヨーロッパ・ピクニックからベルリンの壁崩壊に連なるハンガリーとオーストリア間の国境の開放が行われた。
*ハンガリー人民共和国(ハンガリーじんみんきょうわこく、ハンガリー語: Magyar Népköztársaság [ˈmɒɟɒr ˌne̝ː
pkøstɑ̈ːrʃɒʃɑ̈ːɡ] マジャル・ネープケスタールシャシャーグ, 英語: Hungarian People’s Republic)は、1949年から1989年までの共産主義体制下のハンガリーの正式国名である。この国名は、1918年から1919年までの短命に終わった、いわゆるハンガリー第一共和国も使用していた。この国家はソビエト連邦の強い影響下に置かれた衛星国であり、1989年の民主化によって同国がマルクス・レーニン主義を放棄するまで存続した。この国家は、ソビエト連邦の後押しにより1919年に第一共和国を倒して成立した、世界2番目の共産主義国家であるハンガリー評議会共和国の後継国家と考えられている。
*マジャル人(マジャルじん、ハンガリー語: magyarok)は、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。日本語の表記ゆれによっては、マジャール人とも呼ばれる[注釈 2]。ハンガリー語では「ハンガリー(マジャル)人」は単数形が magyar [ˈmɒɟɒr](マジャル)、複数形が magyarok [ˈmɒɟɒrok](マジャロク)。

*Magyarマジャール語⇒Szűrös Mátyás (Püspökladány, 1933. szeptember 11. –) magyar politikus, diplomata, az MSZMP vezető politikusa, az Országgyűlés elnöke, a Magyar Köztársaság ideiglenes köztársasági elnöke, országgyűlési képviselő.

「西」へ
東独情勢の転回点となった建国40周年記念日の89年10月7日、ベルリンの記念式典ではソ連のゴルバチョフのほか、チェコスロバキアのヤケシュ、ブルガリアのジフコフ、ルーマニアのチャウシェスク、ポーランドのヤルゼルスキら各国の指導者がひな壇に並んだ。ゴルバチョフとヤルゼルスキを除いて、いずれもこの後1ー3ヶ月余りの政治生命であることはむろん知る由もない。
この式典にたった一国、最高実力者を送らなかった東欧の国があった。ちょうどこの夜、ハンガリーの首都ブダベストでは、社会主義労働者党(共産党)が国家の指導政党であることを自ら止めようとしていた。西独行きを希望する東独難民に対オーストリア国境を開き、ホーネッカーを窮地に追い込んだマジャール人たちは、さらに「西」に向け飛躍しようとしていた。
*ブダペスト/ブダペシュト(ハンガリー語: Budapest ハンガリー語発音: [ˈbudɒpɛʃt] , 英語: [ˈbuːdəpɛst], [ˈbuːdəpɛʃt] or [ˈbʊdəpɛst]; )は、ハンガリーの首都で、同国最大の都市[10]。
ハンガリー語では、「ハンガリー」を「マジャール」と呼ぶ。言語はマジャール語である。マジャール族はウラル中南部地方に起源を持ち、9世紀ごろKárpátokカルパート山脈Carpathian Mountainsを越えて、DunaドナウDanube流域の肥沃なNagy Alföldハンガリー平原Great Hungarian Plainにまで西進してきた。マジャール人の血には、今も「西方」への民族的衝動が脈打っているのだろうか。
*ハンガリー語あるいはマジャル語(ハンガリーご、マジャルご、magyar nyelv)は、主にハンガリーで話されている言語。現在はハンガリー及びセルビアのヴォイヴォディナ自治州にて公用語となっている。ハンガリーでは住民の93.6%(2002年)のマジャル人がハンガリー語を話し、国語化している。
この日、2日目に入った社会主義労働者党の党大会は「国家政党の時代は終わった」と宣言し、議会制民主主義に基づく西欧型社会民主主義政党、「社会党」として出発することを決定した。大会が確認したスターリン主義との決別は、ロシア的後進性を断ち切り、西欧に融合しようとする意思の表われでもあった。
一発の銃声はおろか、反体制派の激烈なデモもなく、深く静かに進行したハンガリー革命の功績は、なによりもハンガリーの党自身にある。では、ハンガリー革命はどのように準備されたのか。まず、党が指導した改革の軌跡を振り返ってみる必要があろう。
*ハンガリー社会主義労働者党(ハンガリーしゃかいしゅぎろうどうしゃとう、ハンガリー語: Magyar Szocialista Munkáspárt [ˈmɒɟɒr ˈsot͡siɒliʃtɒ ˈmuŋːkɑ̈ːʃpɑ̈rt] マジャル・ソツィアリシュタ・ムンカーシュパールト[1], , MSZMP, MSzMP [ˈɛmɛsɛmpe̝ː] エム・エス・エム・ペー)は、かつてハンガリーに存在した政党。社会主義のハンガリー人民共和国時代の一党独裁政党である。

*『賛称』 (さんしょう、ハンガリー語: Himnusz) は、ハンガリーの国歌。「神よ、マジャル人を祝福し給え (Isten, áldd meg a magyart)」で始まる歌で、この名称でも知られている(Hu-Isten áldd meg a magyart)。8番まであるが、通常は1番のみが公式に歌われる。作詞はキョルチェイ・フェレンツ (Ferenc Kölcsey)、作曲はエルケル・フェレンツ (Ferenc Erkel)。この曲は1903年に正式に国歌として認められた。また、第二の国歌として「訓辞 (Szózat)」と呼ばれ、「汝マジャル人よ、故国に揺るがず誠実たれ (Hazádnak rendületlenül légy híve óh magyar)」で始まる歌もある。この歌は憲法によって「賛称」とほぼ等しい法的、社会的地位を得ている。「ラーコーツィ行進曲」という曲も知られており、これは作曲者が不明の短い歌詞のない曲である。この曲は軍の行事にしばしば用いられる。国歌としては珍しく、国民の誇りを宣言するのではなく、神への直接の抗弁を表現している。

*カーダール・ヤーノシュ(ハンガリー語: Kádár János, 出生時はGiovanni Csermanek, 1912年5月26日 - 1989年7月6日)は、社会主義政権時代のハンガリーの政治家。実質的な最高指導者であるハンガリー社会主義労働者党書記長(1956年-1988年)を務めたほか、首相(閣僚評議会議長)に2期(1956年-58年、1961年-65年)在任した。
カダルの遺産
新経済メカニズム
ハンガリーの党は既に1960年代後半から地道な改革に着手していた。1966年5月、社会主義労働者党中央委員会は、「新経済メカニズム」への移行を決定した。新経済メカニズムとは、①価格自由化による一部市場経済の導入、②企業ごとの生産に応じた資金決定、③企業決定への労働者参加、④集団農場の権限拡大ーである。実際の開始目標時期は2年後の1968年1月1日と定められた。企業の自主権を軸とする経済活動の自由化が目標である。
だが、経済的自由と政治的自由の峻別は極めて困難であるばかりか、両者は相互補完関係にある。1966年11-12月の第9回党大会では、早くも経済改革が大会議論の中心テーマになっている。この大会では、「党内民主主義の拡大」と「国会の権限強化」がうたわれた。11月にはソ連・東欧諸国に先駆けて複数候補制を定めた選挙法が制定された。ソ連で複数候補制が導入されるのが85年のゴルバチョフ政権誕生後であることを思えば、ハンガリー改革は20年先を進んでいたと言えよう。当時約60万人を数えた党員のうち、高等教育修了者ないしかホワイトカラーの比率は38%に達しており、一般労働者の35%をわずかに上回っていた。
順調に滑り出すかに見えたハンガリー改革は、しかし68年、チェコスロバキア共産党の改革「プラハの春」へのワルシャワ条約機構軍の介入で一時頓挫する。ハンガリーの第一書記カダルは当時、チェコスロバキア共産党第一書記ドプチェクと会談、軍事介入という最悪の事態を避けるために奔走している。それは「プラハの春」の挫折がハンガリー改革の足を引っ張ることを懸念したためだろう。ドプチェクは後年、同盟国首脳でカダルだけが頼りだったと回想している。カダルはハンガリー改革がいよいよ急進化する89年7月に死去しているが、病床でのハンガリー誌とのインタビューで、あの当時、最後まで軍事介入に難色を示し、モスクワでブレジネフから「ヤーノシュ(カダル)、ほんの小部隊を送るだけですべてが達成されるのだよ」と同意を説得された事実を明かしている。

*Magyarハンガリー語⇒Nyers Rezső (Budapest, 1923. március 21. – Budapest, 2018. június 22.) magyar közgazdász, politikus, egyetemi oktató. 
党書記ニエルシュ
ハンガリー経済改革を指導したのは、時の党書記レジエ・ニエルシュだった。60-62年、30代の若さで蔵相を務めたことのあるこの元社会民主党員は、当時既に「社会主義的市場経済」の理念を温めていた。それは、企業に自主権を保障し、生産高と利潤に応じて賃金を決定し、企業間の自由取り引きによって商品価格を形成するという考え方だ。国家による中央集権的経済管理を緩和することがその前提となる。
だが、時期が悪かった。「プラハの春」を戦車と銃弾で粉砕したソ連は「社会主義陣営の統一と団結」の維持に敏感になった。ハンガリーの経済改革が必然的にもたらす中央管理の緩和は、党権力の権威低下を意味する。ソ連の疑念は高まり、カダルはしばしば「協議」のためモスクワに招聘される。
こうしたソ連からの圧力の中で、ハンガリー改革は次第に減速していく。1973年、新たに国家計画委員会が創設され、賃金・価格政策の中央統制が再び強化された。党中央委員会は翌74年3月、改革の大黒柱ニエルシュとリベラル派として知られたイデオロギー担当書記ジョルジュ・アツェルの解任を決定。この人事は「新経済メカニズム」の導入を決めた66年の中央委員会決議の修正を宣言するものだった。少なくとも、ソ連指導部に向け、そうしたジェスチャーを示す必要があった。ニエルシュは科学アカデミー経済研究所長に左遷され、再び党指導部に戻るのは実に14年後の1988年5月、カダルが引退する党全国協議会を待たねばならなかった。

*Magyarマジャール語⇒Dörgicsei és kisjenei ifjabb Antall József Tihamér (Pestújhely, 1932. április 8. – Budapest, 1993. december 12.) magyar politikus, könyvtáros, orvostörténész, muzeológus, Magyarország első szabadon választott miniszterelnöke a rendszerváltás után.
だが、「プラハの春」の挫折後、ソ連の肝煎りで成立したチェコスロバキアの新政権が、前第一書記ドプチェクはじめ改革派党員を除名、政治の舞台から抹殺していったのに比べ、ハンガリーの改革派に対する処分は穏やかだった。1956年の民主化と動乱の後、ソ連にとって穏健派カダルは頼みの綱だった。改革を進めつつも、巧みにソ連との友好を忘れないカダルは、ソ連に付け入る隙を与えなかった。
思想・信条を超えて有能な人間を登用する、というのがカダルの信条であった。社会民主党出身のニエルシュを1960年、蔵相に抜擢したのもカダルである。社会主義諸国が厳しく制限していた西側への旅行も、ハンガリーでは比較的自由だった。60年に3万5000人だった西側への旅行者数は、60年代には約5倍に、80年には380万人に跳ね上がった。多少形式的にではあるが、政府閣僚の指名は党政治局会議のあと党の大衆組織である「愛国人民戦線」と協議するという慣行も定着した。文化政策でも、検閲は比較的穏やかだった。

*Magyarマジャール語⇒Pozsgay Imre (Kóny, 1933. november 26. – Budapest,[6] 2016. március 25.) politikus, egyetemi tanár, az MDP (1950–1956), az MSZMP (1956–1989), az MSZP (1989–1991) tagja, a Nemzeti Demokrata Szövetség alapító ügyvezetője, majd elnöke volt a párt feloszlásáig (1991–1996).
改革派新世代
理論家ポジュガイ
こうした歴史的経験の蓄積のもとに、ハンガリーの劇的な改革が実行に移されたのである。
ハンガリー改革が一種の停滞期を迎えた80年代後半、”飛躍”への強力な牽引車の役割を果たした人物は、同党きっての理論家イムレ・ポジュガイである。マルクス主義哲学者で歴史家でもあるポジュガイは、政治改革への確固とした理論的基礎を与えた。ポジュガイは50年入党、70年の党宣伝部副部長を皮切りに、76年から82年まで文化相、82年から88年まで党の大衆組織「愛国人民戦線」書記長を歴任。そしてカダルが退陣した88年5月の党全国協議会でグロース政権の政治局入りし、以後、党指導部を改革方向にぐいぐい引っ張って行く。
*Magyarマジャール語⇒A Hazafias Népfront 愛国人民戦線(rövidítve: HNF) sajátos társadalmi szervezet volt 1954 és 1990 között, amelynek célja „a magyar társadalom valamennyi osztályának, rétegének összefogása” volt. Egyéni tagsága nem volt, tömegmozgalomként működött.
ポジュガイの改革構想は愛国人民戦線時代に開花している。後に90年春の自由選挙で政権党となる「民主フォーラム」は87年9月3日に結成されるが、ポジュガイは同月、フォーラムの記念集会に出席して講演し、改革の基本構想を提示している。この時期、まだ指導部入りしておらず、一党中央委員としての改革案であったが、その後のハンガリー改革が向かうことになる方向性を明示した内容であり、彼のイデオローグとしての力量を遺憾なく発揮している。
かき卵か目玉焼か
この講演で、ポジュガイはまず、批判の矛先を党内保守派よりもむしろ、”改革派”に向けた。
「ラジカルな改革は、従来の改革に対する批判的評価を抜きにしては不可能だ。われわれはシステムの機能障害だけでなく、長年この問題に進歩的回答を与えようと努めながら未だ正しい道を発見できないでいる人々がもたらす障害を問題にしなければならない。同じ改革に二度足を踏み入れることはできないのだ。・・・かき卵から目玉焼きを作ることはできない。目玉焼きのためには新しい卵が必要であるように、新しい改革のためには新しい構想が必要なのだ」
ここで彼が批判の俎上に乗せているのは、改革を総論では認めながら、党の権威失墜と権力基盤の動揺を恐れる党指導部である。もはや小手先の制度いじりでは済まされないという認識がある。その上で、ポジュガイは、①党と国家関係の見直し、②議会の復権、③結社の自由化、④地方自治の強化、⑤所有形態の多様化、⑥新憲法制定ーといった、当時としては極めて急進的な改革プログラムを提唱した。
現存の社会主義は政治的に「上」からつくられた制度であり、中央権力の意思により方向を左右される。したがって、改革実施の前提条件はまず「政治における障害を除去すること」でなければならない。第一の問題は「政治生活のあらゆる面に麻痺作用を及ぼす党と国家の癒着関係」である。彼の主張によれば、党・国家の癒着は、党組織を単に行政官僚機構に落としめており、党自身にとってもマイナスである。そこで、共産党による一党支配の下で問題を解決するには、党の仕事を大衆に公開することだと主張する。
「すなわち、権力中央が現在の方法で構成され、機能するのであれば、党の仕事の公開とは大衆による党のコントロールを意味する。・・・国家が自由なところで、国民は自由たり得ないのだ」
複数政党制
では、大衆による党に対するコントロールはいかにして可能か。ポジュガイ理論は「結社の自由」を保障する立法措置にある。従来も、ポジュガイが書記長を務める愛国人民戦線など様々な社会・政治団体はあった。しかし、ここで問題になっているのは「組織の結成を、行政の裁量ではなく組織者の主体的権利とする結社法」である。
ポジュガイは歴史認識の方法論においてマルクス主義者である。彼の歴史認識は講演中の次の言葉に要約されていた。
「われわれの時代の特徴について、私は現代がなお資本の時代であり、その合法則性がそれを無視する人々をも支配するところの単一世界市場が存在するとの見解に立つ。この法則性を顧慮しない者は、代償を払わねばならない。われわれもこの認識を欠いたまま、長らく経済運営に努めてきたのであり、この諸法則の無視がわれわれの経済発展を妨げ、経済発展の方向を逆行させてしまったのは明らかだ」
現代はまだ社会主義の条件がそろっていないという、当時の共産党員としては驚くほど率直な告白である。私有制を含む所有の多様化を認めることで、様々な社会グループの利害を代表する結社・政治団体が登場し、それが行政を管理する要因として働くという。議会の機能強化についても「国民主権に基づく議会の役割と機能」が必要だとする。ポジュガイは「複数政党制」の表現は慎重に避けているが、これらの主張が複数政党制容認を含意していたことは明白だ。

*ネーメト・ミクローシュ(ハンガリー語:Németh Miklós, 1948年1月14日 - )は、ハンガリーの政治家。ハンガリー首相を1988年11月24日から1990年5月23日まで務めた。中東欧諸国で共産主義政権の崩壊が相次いだ東欧革命の激動の時代に、ハンガリー社会主義労働者党の指導者(政治執行委員会幹部会員)として[1]、そしてハンガリーの共産主義政権の最後の首相として、ハンガリー民主化運動に関った。
政治局の改革派トリオ
一時足踏みしていたハンガリー改革は、1988年以降、再び前進し始める。発火点になったのは同年5月、31年ぶりに招集された社会主義労働者党全国協議会である。ハンガリー動乱以来党首の立場にあった書記長カダルは健康問題もあり、ついに引退。後任にカーロイ・グロースを選出した。同時に、新政治局には「経済改革の父」レジエ・ニエルシュが返り咲き、のち改革に決定的な役割を果すイムレ・ボジュガイ、ミクロシュ・ネーメトも選出された。ポジュガイは55歳、カール・マルクス経済大学講師を務め、米国ハーバート大学留学経験もある元党経済政策部長のネーメトは40歳。老練ニエルシュを加えた”老中青”の3人組が、のちの「共産主義からの脱皮」を決定付ける。しかし、”改革派”グロース書記長を吞み込む改革のほとばしりは、当時まだ顕在化していない。

*ハンガリー動乱(ハンガリーどうらん、洪: 1956-os forradalom「1956年革命」)は、1956年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起を指す。ハンガリー事件、ハンガリー暴動、ハンガリー革命とも[5]。1956年10月23日、ハンガリー国民が政府に対して蜂起した。彼らは多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施し始めた。ソ連軍は1956年10月23日と停戦を挟んだ1956年11月1日の2回、このような反乱に対して介入した。1957年の1月にはソビエト連邦は新たなハンガリー政府を任命し、ハンガリー人による改革を止めようとした。蜂起は直ちにソ連軍により鎮圧されたが、その過程で数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ亡命し、またこのことにより、国旗から中央の紋章が削除された。ハンガリーでは、この事件について公に議論することは、その後30年間禁止されたが、1980年代のペレストロイカ政策の頃から再評価が行われた。1989年に現在のハンガリー第三共和国が樹立された際には、10月23日は祝日に制定された。

*Magyarマジャール語⇒Grósz Károly (Miskolc, 1930. augusztus 1. – Gödöllő, 1996. január 7.) magyar politikus, a Minisztertanács elnöke, az MSZMP főtitkára.
グロースは11月、書記長就任に伴い87年以来務めてきた首相を辞任。後任にネーメトが就任した。ネーメトはグロースと同じボルショド県出身で、グロースの後押しがあったといわれた。20歳代で国家計画庁次長の要職に就き、80年代に党中央委に移り87年6月には党書記局入りしたエリート党官僚である。
*ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーン県(ボルショド・アバウーイ・ゼンプレーンけん、洪: Borsod-Abaúj-Zemplén megye)は、ハンガリーの県。県都はミシュコルツ。ハンガリーの県のなかで、面積・人口ともに二番目の規模である。
88年も押し詰まった12月末、筆者がインタビューした際、新首相は「責任ある政党となら連立の方向に進みたい」と述べ、複数政党制を志向する姿勢を明確に打ち出した。当時、ソ連や一部東欧諸国では「プルーラリズム(複数主義)」の可能性が議論されていた。しかし、あくまで共産党による一党支配の枠内での複数主義、言い換えれば党内民主主義の確立といった議論の枠を超えず、ネーメトの発言はかなり大胆な内容を含んでいた。
ネーメト内閣は12月、社会主義国では初めて、政党結成を容認する結社法、集会の自由を認める集会法の二法案を国会に上程。国会は翌年1月、法案を可決し、政党活動の自由に法的保障が与えられた。この頃から、ハンガリーの進路ははっきりとソ連・東欧の同盟諸国から離れて行った。

動乱再評価と党内論争
大衆蜂起論
ハンガリーの改革が党主導で行なわれたことは前に述べた。党自ら憲法でうたわれた「党の指導」を放棄し、国民経済から政治・社会のすみずみまで支配する国家政党から、議会主義に基づく一社会主義政党に”転落”する道を選んだのである。この過程はむろん、党内諸潮流の激しい路線論争と軋轢を伴っていた。
保革両派の対立の最初のきっかけは、1989年2月に発表された「40年間に関する報告」と題された戦後史の総括文書であった。科学アカデミー総裁イバン・ペレンドを座長とする党中央委員会歴史小委員会がまとめた報告書で、全文は党理論誌『タルシャダルミ・セムレTársadalmi Szemle(社会評論)』に掲載された。ここで論争の焦点になったのは、1956年のハンガリー動乱に対する評価であた。
報告書には「1956年10月の大衆蜂起」とタイトルが付いた項目があり、56年10月23日に発生したデモを「武装大衆蜂起」と規定。当時の指導部がソ連の介入を要請したため、蜂起は「大衆の目からは、一種の民族独立戦争」に転化したと指摘し、「反革命」という従来の一面的評価に修正を加えている。報告書はさらに、その後ソ連軍の第二次介入で動乱が鎮圧されるまでの2週間について「蜂起が発生した時点で、社会主義の徹底的民主改革と革新への重要な努力が決定的な力となったし、それは(動乱中)存在し続けた」と記述している。そして、旧体制の復活をもくろむ勢力や過激な民族主義者らも加え、革命と反革命が交錯する複雑な情勢下で、イムレ・ナジ政府は情勢へのコントロールを失い、逆に情勢に押し流されてしまったと分析している。

*ナジ・イムレ(Nagy Imre, 1896年6月7日 - 1958年6月16日)は、ハンガリーの政治家。閣僚評議会議長(首相:1953年 - 1955年・1956年)。ハンガリー動乱時にソ連の侵攻に抵抗し、秘密裁判の結果処刑された。

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