日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

Revolutionen im Jahr 1989/Революции 1989 года/Chute des régimes communistes en Europe『東欧革命』三浦元博・山崎博康著【Eastern European Revolution - What happened inside power】Author Motohiro Miura , Hiroyasu Yamazaki③


ポジュガイ対グロース
実はポジュガイが主導するこの小委の報告は、次回党大会に向けた新綱領草案作成作業の一部であって、当然のことながら党中央委員会の討議を経て、夏ごろに公表されるはずだった。ところが、ポジュガイは1月28日、国営テレビのインタビューで、小委の作業結果として「大衆蜂起」論を公表してしまった。折しも、書記長グロースはスイスの国際経済フォーラムに出席中で不在だった。書記長は帰国後、直ちに「評価は時期尚早」として、ボジュガイ発言を軌道修正してしまった。半年前の党全国協での書記長就任時、改革派として登場したグロースを、急進改革派ポジュガイの対立を初めて白日の下にさらす出来事だった。
グロースはスイスからの帰途、機内で党機関紙『ネープサバチャーグNépszabadság(人民の自由)』、政府機関紙『マジャール・ヒルラップMagyar Hírlap(ハンガリー新聞)』に対し、党内対立が深刻化している事実をはっきり認めた。「(書記長就任以来)とりわけ党外大衆の思考の変革の点では、十分なことが成しえた。・・・しかし、党指導部内では、全国協以来、人間的な面でいかなる統一も形成できないでいる。・・・党内での気質や仕事のスタイルの相違は、政治的相違に転化し始めた。・・・ナショナリズムの問題と発展テンポの評価に関する見解の相違が存在する」と。
名指しこそしていないが、書記長がポジュガイの急進路線に公然と不快感を表明したことは誰の目にも明らかだった。ソ連・東欧の共産党首が党最高指導部内の不和をこれほどあからさまに認めるのは、異例のことだった。両者の対立はそれほど抜き差しならないものになっていた。書記長は帰国後、「何を問う」として、直ちに緊急拡大中央委員会総会を招集した。書記長辞任という事態も予想された。

2月10、11両日開催された中央委はハンガリー動乱について「大衆蜂起ではあったが、当初から復古勢力が分かちがたく存在し、後には反革命行動が顕在化した」ことを基本確認し、評価作業を継続することを決めた。同時に、中央委討議を経ずに歴史小委報告を公表したポジュガイ政治局員の行為および、ポジュガイ発言が誤解を生みかねない可能性があることを「遺憾」とする一方、中央委はボジュガイを信任するという玉虫色のコミュニケを発表した。ポジュガイに代表される急進改革派とグロースら穏健改革派による対決の第一ラウンドは、痛み分けに終った。

グロースの一党論
だが、中央委は急進派の勢いがいよいよ優勢になりつつあることも見せつけた。コミュニケを見ると、党は初めて「複数政党制による政治システムの複数化が可能」と認めていた。複数政党制の性急な導入は社会の不安定化を招くと警戒しながらも、原則として複数政党制を容認したことは、グロースの後退を意味した。
グロースは元来、一党支配の枠内での党の民主化を通じた改革を構想していた。この意味では、ソ連のゴルバチョフと同じ立場に立っていた。党の内側からの改革が可能であり、党はそれだけの自浄能力があると信じていた。グロースは当時の小論文で「一党制度の文脈における社会的複数主義」を主張していた。ハンガリーのある季刊雑誌に発表した論文の中で、グロースは次のように書いた。
「多くの人が一党制度は歴史の試練に耐えられなかったと言い、現在の諸問題がそのことを物語っていると主張している。したがって、彼らはいくつかの政党を認めよというのだ。・・・彼らはこれが恣意によって扱われるべき問題ではないことを理解していないようだ。・・・私は真の政党である一つの党こそ必要であると考える」
そして、党内に民主主義と規律が行き渡れば、社会主義労働者党は一党制度の下でも信頼を回復し、真の指導的役割を果たし得るという見解を示した。ポジュガイが1年も前の講演で発表した改革基本構想が「結社の自由」を明確に打ち出しているのと比較すると、両者の基本的立場の隔たりが分かろう。複数政党化を志向する首相ネーメト(党政治局員)の立場も、むしろポジュガイに近づきつつあった。
「党の指導」放棄
続いて10日後の2月20、21両日開催された拡大中央委員会は憲法改正問題を討議し、「憲法による『党の指導』明記は主張しない」ことを確認、「法治国家」の理念に基づいて大統領、議会、行政府の独立した権限を保障することを決定した。当時、ハンガリー人民共和国憲法第三条は「社会主義労働者党は社会の指導勢力」と規定していた。戦後一貫して国家機関を支配してきた党が、党の優位を放棄し、議会、政府の独立を認めることに同意したのは、東欧諸国では初めての画期的な出来事だった。新憲法の草案づくりは、これと並行してネーメト政府の手で着々と進んでいた。
ところで、この中央委では、戦後行なわれた政治裁判を見直す委員会を設置することも決まった。むろん、ハンガリー動乱鎮圧の後、処刑されたナジ首相、マレーテル国防相らの名誉回復の是非が最大の焦点になる。この委員会設置は、改革のペースをめぐって激しく揺れ動くハンガリー党内闘争の第二幕の布石となった。

*Magyarマジャール語⇒Maléter Pál (Eperjes, 1917. szeptember 4. – Budapest, 1958. június 16.)[1] magyar katona, az 1956-os forradalom egyik vértanúja, az 1956. novemberi harmadik Nagy Imre-kormány honvédelmi minisztere.
守勢に立つグロース
4月12日の中央委員会は、通常の総会としては異例の指導部選挙を実施した。政治局、書記局の党指導部は、党大会後の新中央委員会が選出するのが通例だ。一部の入れ替え人事は別として、通常の総会で新たに指導部全メンバーの選挙を行なうケースはほとんどなかったと言ってよい。選挙は書記長グロースがあえて求めたものであり、ハンガリー動乱の評価についてのポジュガイ発言に怒った書記長が、「信を問う」として要請していた選挙だった。政治局員11人がいったん辞任した。選挙の結果、書記長は再選された。しかし、正統派保守グループの重鎮だったイデオロギー担当のヤーノシュ・ペレツPerec János、組織担当のヤーノシュ・ルカーチLukács Jánosら四政治局員が落選する結果となった。
このころ、党指導部は三派に分かれていることがはっきりしてきた。ペレツら保守派、グロースの穏健改革派、ポジュガイの急進改革派である。ところが、保守派が選挙で敗れたことから、今や党内闘争の重心は書記長と急進派の対決に移り、「穏健派」対「急進派」の図式は「保守派」対「改革派」として映るようになる。左右両極の間でバランスをとってきた書記長の立場は、党内闘争の力学上、「保守」の方向に傾かざるを得なくなった。一方、急進派は中央委を二分する一大勢力として登場する基盤を獲得した。書記長の権威は低下していく。
改革グループは翌5月20,21両日、南部の都市セゲドで「党改革と社会」をテーマにした全国会議を招集。公然と”党内分派活動”に乗り出した。会議にはポジュガイ、ニエルシュの両政治局員が参加した。会議は「イムレ・ナジは政治裁判の犠牲者だった」とする決議を採択。中央委に対し、6月16日に市民組織が予定しているナジの再埋葬式典までに党の公式見解をまとめるよう要求した。さらに会議は、①「20世紀の社会民主主義とブルジョア社会の進歩」を汲んだ党への脱皮、②組織原則としての民主集中制の廃止、③党名の変更ーといった基本的立場を確認した。演説したニエルシュは市場経済と議会制民主主義に基礎を置く社会主義について熱弁を振るった。
*セゲド(ハンガリー語:Szeged、ブルガリア語:Сегет、クロアチア語:Segedin、ドイツ語:Szegedin/Segedin、ラテン語:Partiscum、ルーマニア語:Seghedin、セルビア語:Сегедин, Segedin、スロバキア語:Segedín、トルコ語:Segedin)は、ハンガリー南部に位置する都市・・・町の名前はハンガリー語で「突起」「突出物」を意味する「セグ(szeg)」に由来し、ティサ川の屈曲部に建つことからこの名がついたと考えられている。
改革派への合流を鮮明にし、5月2日、対オーストリア国境の鉄条網”鉄のカーテン”撤去に踏み切る外相シュラ・ホルンは改革派の別の地方集会で「ナジ裁判と有罪宣告は違法だ。ナジはワルシャワ条約機構脱退と中立化宣言を含め、あらゆる外交措置について当時のアンドロポフАндро́пов・ソ連大使(1982-84年、ソ連共産党書記長)と協議していた」などと発言、党内論争は56年事件をめぐる対立という形で進行していった。

*ホルン・ジュラ (Horn Gyula、1932年7月5日 - 2013年6月19日)は、ハンガリーの政治家。1994年から1998年まで首相を務めた。1989年にハンガリー社会主義労働者党(共産党)のネーメト政権下で外相に就任。オーストリアとの国境沿いの鉄条網を撤去、東西冷戦下の鉄のカーテンを開けた。これがきっかけで旧東ドイツ市民が西側への脱出を図ろうとハンガリーに殺到し、約千人の東ドイツ人がオーストリアに脱出した汎ヨーロッパ・ピクニックにつながる。東ドイツ政府から抗議を受けたが、ホルンは「多くの国民に逃げられるような国を作ってきた責任を考えるべきだ」と一蹴し、公然と東ドイツ人の西側への脱出を認めることでドイツ統一に貢献した。

ナジの復権
国民和解
元首相ナジの遺体は、ブダペストの無縁墓地から発掘されていた。6月には元政治犯らでつくる「歴史の正義委員会」などの主催で、再埋葬式がとり行なわれることが決まっており、党はハンガリー動乱への明快な評価、より直接的には式典への対応を迫られていた。

中央委員会は5月29日、結果的には社会主義労働者党にとって最後となる党大会の年内開催を決めた。同時にニエルシュが中心になって起草した再埋葬式典に向けた党声明が承認された。
一、中央委は再埋葬を歴史的・象徴的出来事と考える。この日は国民の歴史的・倫理的再生に寄与するだろう。
一、ナジの生涯と役割は最近まで不当に評価されてきた。党は裁判の過程でナジに対してなされた告発の再検討を速やかに終え、有罪とされた政治家らを公正に評価する必要があると考える。
一、中央委は事件の客観的解明に向けた科学的調査および、関連する史料の公表を支持する。民主的革新のための闘争の歴史とナジの役割を解明するため、外国の情報源への速やかなアクセスに向けた交渉を開始した。
一、ナジは戦後ハンガリー史の重要な人物であり、彼の歩んだ道は共産主義運動と不可分である。1956年10月、首相職に復帰するや、彼は異常な条件下で国家救済のために闘った。スターリン主義を抑え、国家的不正を正し、外部からの干渉の排除のため、反革命行動に反対して闘った。国際的条件と自らの外交政策がもたらす結果についての評価を誤りはしたが、ナジの名は民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体である。
一、事件のすべての犠牲者は国民的損失であった。再埋葬式典は国民和解のシンボルとしなければならない。
首相ネーメトは6月1日、ナジらの名誉回復を宣言する法案を政府として、国会に上程すると声明。続いて最高検察庁が裁判の判決無効を宣言、国民議会幹部会に判決の取り消しを申請した。戦後のソ連・東欧関係を象徴したハンガリー動乱の見直しはここに完結した。
ナジ復権は同時に、グロースの敗北という今日的意味合いを持ってもいた。
16日、市中心部の英雄広場でとり行なわれた再埋葬式には市民約10万人が集まった。事件後、米国などへ逃れた亡命ハンガリー人も多数が帰国した。政府は「政府はナジとその運命を共にした人々、大衆蜂起と国民的悲劇のすべての犠牲者を追悼し、遺族の悲しみを共有する。政府は、人が政治的理念のために不法な有罪宣告を受けることが二度とないよう全力を尽くす」とする声明を発表し、政治不信に満ちた戦後の位置時代に終止符を打った。
声明はさらに「ナジは傑出した政治家であった。・・・ナジおよびその支持者たちの理念、人間的・国民的”顔”を持った民主主義への努力は、現政府の政策の重要な要素を成している。・・・政府は新たな民主ハンガリーの創設のため、持てる力と創造力を集中する」と宣言し、全国民に式典への参加を呼び掛けた。

*英雄広場(えいゆうひろば、ハンガリー語: Hősök tere)は、ハンガリーのブダペストにある広場。

党首ニエルシュ
式典にはネーメト、ポジュガイ(国務相)、ニエルシュ(同)らが閣僚の資格で列席したが、党書記長グロースはついに顔を見せなかった。急進改革派との確執は、グロースの態度をますます頑なにしているようだった。歴史の転換期に時の勢いというものがあるとすれば、グロースはまさに情勢への対応を誤り、時流に押し流されつつあった。党政治家としての破滅は目前に迫っていた。
中央委員会は23、24両日、「党内情勢」を討議した結果、グロース書記長の事実上の解任とも言える人事を行なった。「書記長」ポストは残しながら、党最高機関として党議長を含む4人で構成する「幹部会」を新設。原鉱人の政治局は廃止し、21人から成る「政治執行委員会」を創設した。議長には改革派ニエルシュが就任、幹部会にはポジュガイ、ネーメト、グロースが入った。外相ホルンは政治執行委に加わった。ポジュガイは党公認の大統領候補となった。
前年の5月の党全国協議会で引退したカダルのため、名誉職としての党議長ポストが新設されたが、カダルは1ヵ月半前、病気を理由に議長を退いていた。新議長ニエルシュは幹部会員でもあり、実質を伴った党首となった。4人の幹部会の中で、グロースはニエルシュ、ポジュガイ、ネーメトの改革派トリオに包囲される形となり、完全に孤立した。しかも、後でも触れるが、ネーメト政府が発足して以来、党・政分離の方針に従い、駐留ソ連軍撤退への対ソ交渉や対韓国国交樹立など重要政策は政府の専権事項になりつつあった。ニエルシュもポジュガイもネーメト内閣の閣僚である。7月、ルーマニアのブカレストで開催したワルシャワ条約機構政治諮問委員会(首脳会談)にはニエルシュとネーメトが出席した。こうして、ハンガリー社会主義労働者党のグロース体制は1年余りで崩壊してしまった。
中央委員会は新指導部人事と同時に、党大会の10月開催も決めた。党内情勢を分析した討議総括は「根本的変革と並行し、党内には変革の性格、テンポおよびその結果に対する評価の違いをめぐる新たな緊張が生じている」と述べ、党大会招集の理由とした。そして、改革が目指すべき「新たな政治・経済モデル」として、①民主的社会主義、②法治国家、③多党制に基づく議会制民主主義、④社会的所有が決定的役割を果たす市場経済ーという「改革四原則」を確認した。
既に明らかなように、この事実は、改革派が5月にセゲドで開いた全国会議の綱領方針が、党中央委員会レベルで承認されたことを意味した。ニエルシュは西ドイツ紙「ウェルト(世界)」とのインタビューで「プロレタリア独裁」概念の放棄を宣言し、来るべき選挙は完全自由選挙になろうと予告した。

カダルの遺産
ナジ元首相の再埋葬式典から3週間後の7月6日、カダルは入院先の病院で息を引きとった。遺体は14日、市内の墓地に埋葬された。党幹部会は追悼声明を発表、56年事件後の困難な時期に誤りを犯したものの「フルシチョフ失脚後も、ソ連共産党第20回大会(非スターリン化)理念を支持し続けた」と賛えた。
長年、権力の座にあったソ連・東欧諸国の指導者の中で、死後ないし退陣後も一定の評価を受けているのはカダルただ1人である。ルーマニアのチャウシェスクの処刑(89年12月)は言うに及ばず、ブルガリアのジフコフ裁判(92年9月、実刑判決)などをみると、カダル評価は特異な現象だ。ハンガリー動乱の鎮圧後、ソ連の後押しで指導者の地位に就いたにもかかわらず、こうした評価があるのは、「妥協と中道の政治家」としてのカダル独特の人格が大きい。50年代初め、東欧で吹き荒れた民族派共産主義えの粛清の嵐の中で、自ら終身刑の判決を受けた体験もある。
追悼声明は「敵でない者は味方だ」という有名な一句をカダルの世界観として称賛した。62年1月、カダルは言った。「ラーコシ(ハンガリー動乱前のスターリン主義者)は、’われらに味方しない者は敵だ’というのが口癖だった。だが、われわれは言おう。’われらに敵対しない者は味方である’」。新約聖書マタイ伝福音書の一部「’なんじの隣を愛し、なんじの仇を憎むべし’と云えることもあると汝等きけり、されど我は汝等に告ぐ、汝等の仇を愛し、汝等を責むる者のために折れ」という言い回しを強く連想させるこの発言は、カダルの政治姿勢を象徴していた。

*ラーコシ・マーチャーシュ(Rákosi Mátyás, 1892年3月14日 - 1971年2月5日)は、ユダヤ系ハンガリー人の政治家。ハンガリー共産党書記長。誕生時の名前はローゼンフェルト・マーチャーシュ(Rosenfeld Mátyás)といった。

*ゲレー・エルネー(Gerő Ernő、1898年7月8日 - 1980年3月12日)は、第二次世界大戦後のハンガリー共産党指導者。1956年に短期間、党第一書記を務めた。誕生時の姓はジンガー(Singer)。ユダヤ系。
カダルが最後に残した同志あての遺書を紹介しよう。5月8日、カダルの病状悪化に伴い、党議長の職務からの「解放」を知らせた中央委の書簡に対する返書だ。
「私がペンを握るのさえ不自由していることは理解していただけるだろう。しかし今後肉体的、精神的な力を保ち得るかどうか不明だからこそ、諸君に返答することが私の義務だと考える。・・・私はほぼ半世紀にわたり労働者に従事してきた。政治活動で私が誤りも犯したことは間違いないが、信じていただきたいのは、すべての行為が私の善意から出たものであることだ。私は常に国民と運動と党の利益を第一と考えてきた。・・・国民和解とよりよきハンガリーの建設を目指した政治を信じ、支持してくれた国民の信頼に感謝する。・・・私は今、自らの責任について思いを致している。成長しつつある世代が30年間の成果と誤りを客観的に評価してくれることを望んでいる。・・・労働者運動で協力し、大いに討論した外国の同志諸君にも感謝したい。私は近代的な社会主義モデルをつくりだそうと試みた。・・・国民と党員およびその指導部が、ハンガリー国民と社会と党の前に立ちふさがる困難な責務の解決に成功するよう祈る」

「国家党」解体へ
「三角交渉」
複数政党制への移行を決めながらも、政治の現実は政府も国民議会も党が支配するという状況は以前続いていた。この矛盾からの出口は早期自由選挙の実施しかなかった。複数政党制への平和移行を協議する社会主義労働者党と在野団体の交渉は89年7月初めから始まった。これには、90年春の第一回自由選挙で第一党となる民主フォーラム、自由民主同盟、青年民主連盟、社会民主党、独立小地主党など九団体と社会主義労働者党、それには労働連盟が加わり、「三角交渉」と呼ばれた。社労党からはポジュガイが交渉代表として参加していた。
一口に「民主化」「複数政党制」などと言っても、戦後半世紀近くにわたる一党支配の機構は、社会の隅々にまで浸透している。「党イコール国家」である実態は、党支配が比較的穏やかだったハンガリーでさえ、他の東欧諸国と変わるところはなかった。憲法上、国家を代表する国民議会幹部会から、軍、警察を含む中央官庁はむろん、企業の末端まで党組織は強固に根を下ろしていた。
例えば、官民を問わず職場に党委員会がある。企業に経営のトップがいて、これを監督する官庁があり、行政部門の頂点に首相が座っているところまでは、西側諸国と変わらない。ところが、従来の社会主義体制下では、こうした企業や行政のマネジメント組織の背後に党のエスタブリッシュメントが存在した。企業、役所、地域のあらゆるところに党委員会があり、それぞれ党書記がいる。これらの組織はさらに、ブダペスト市党委員会といった上級組織に従属し、上級委員会の第一書記は党中央委員会に席を持つ。彼はさらに党執行部に従属する、という構造がある。結果として、企業の経営トップより企業内党書記が、市長より市党委第一書記が、首相より党書記長が実力を持つ現象が一般化する。国家機関と化した党組織の破壊なくして政治改革はあり得ない。
ポジュガイは野党側の要求に応じ、官公庁の党委員会の廃止には応じた。軍、警察の党組織も解体されていった。中央委は9月1日、官公庁の党組織廃止と裁判官の政党加入の禁止を受け入れたが、一般企業組織は維持することに固執した。対案として、共産党員は労組指導部には入らず、勤務時間内の政治活動を控え、野党にも同等の権利を認めることを提案した。
国民政党へ
党大会を前に、党内改革派はいかなる党への転換をイメージしていたのか。筆者が大会直前の10月2日、ブダペストのドナウ河畔にある党本部でニエルシュ議長に会った時、議長は目標とする新しい党の性格について「従来の民主集中制に代え、支部組織に重点を移し」、「社会の大多数を占める給与所持者を代表する国民政党」と語った。民主集中制とは、各国共産党の組織原則で、端的に言えば、党内における自由な討論を保障するとの建前の下に機関決定に従うことを義務づけ、同時に党大会が中央委を選出し、中央委が政治局・書記局を選出することにより、党指導部に党運営に関する決定権限を委譲、これにより、組織としては「一枚岩」の団結が保障される仕組みだ。だが、党指導部が民主的に選出されているという組織幻想は、指導部に対する下からの批判を許さず、上意下達型の党官僚機構を産み出しやすいのだ。
党幹部会員である首相ネーメトは、大会前、政府機関紙『マジャール・ヒルラップ』とのインタビューで、「党国家の解体の次には、国家党を解消しなければならない」と、党大会の目標を明瞭に語った。党と国家(政府)は分離した。次の課題は、党そのものを解体することだと宣言したのだ。

社会党創立
全国から代議員1280人を集めた社会主義労働者党の「89年党大会」は、同党にとって最後の大会となった。党大会としては第14回であったが、新党創立大会にしようとする改革派と、社労党の存続にこだわる保守派の妥協で、こんな呼称に落ち着いた。開幕演説で、ニエルシュは過去33年の党史を「未完の、断続的かつおざなり改革の歴史」と形容し「国家社会主義を解体する以外に道はない」と訴えた。ボジュガイは「過去の誤りに責任のない党員による新たな社会党の創立」を主張、グロースは、党内対立に触れた後「政治生活から身を引き、引退する」と述べ、敗北を宣言してしまった。
*ハンガリー社会党(ハンガリーしゃかいとう、ハンガリー語:Magyar Szocialista Párt、MSZP)は、ハンガリーの社会民主主義政党。旧ハンガリー社会主義労働者党の法的後継政党。社会主義インターナショナルに加盟。1990年の体制転換以降初の国会選挙以来、1994年、2002年、2006年の3度にわたり選挙に勝利し、連立によって与党となったこともある。
既に大勢は決まっていた。代議員の8割は「高等教育修了者」だった。ニエルシュ、ポジュガイ、ネーメトの3人もいわば党内知識人の代弁者、グロースのような叩き上げの党政治家の時代は過去のものになっていた。
大会は二日目の7日、党名を「社会党」に改称することを圧倒的多数の賛成で決定し「党の性格に関する立場」と題する“社会党創立宣言”を採択した。反対はわずか159票、棄権38票だった。宣言は「ハンガリー社会主義労働者党の名を冠した一時代が終わった。スターリン主義に起源を持つ体制は社会的、経済的、道徳的活力を使い果たし、今や世界の発展に追い付くのに適さない。党の国家政党としての歴史は終わった」と述べ。社会党創立を宣言した。ハンガリー動乱渦中の56年11月1日、混乱収拾のためカダル自らが創設した社会主義労働者党はここに消滅した。カダルの死から3ヵ月目であった。
翌10月8日の党紙からは『ネープサバチャーグ=社会主義労働者党機関紙』の表題が消え、単に『社会主義新聞』として発刊された。巻頭記事は「もはや国家党は存在せず、他党と同等の権利しか求めない新しい民主組織が結成された」と伝えた。第1回社会党大会となった党大会は一党独裁の放棄と国民政党への移行をうたう新党綱領と、党機構の官僚化を生んだ”民主集中制”を廃棄する新党規約を採択した。新綱領は前文で「自由選挙で国民の意思が表現される複数政党制の国家になる」と述べ、民主的社会主義の実現を立党の基本理念に据えた。党が代表するのは「社会の圧倒的多数を占める層、特に一般および強制労働者の利益」であると規定した上で、党の知的根源はマルクス主義に遡るとする一方、新しい科学的見解も吸収するとした。経済面では「国家所有、社会的所有、個人所有」の混在を認め、「競争」によって最も効率良い形態が勝利することを受け入れ、利潤原則に基づく市場経済への移行を目指す内容だ。外交面では「外国のモデルの模倣」を拒否、欧州諸国からの外国軍撤退の一部として、ハンガリー駐留ソ連軍も撤退すべきであると明記した。
党機構も西欧社民型に刷新された。ニエルシュが初代議長に就任。その下に23人から成る全国幹部会を設置。これはポジュガイ、ネーメト、ホルンが加わった。これとは別に大会に次ぐ議決機関として、議長、国会議員代表、地方支部代表ら150人前後の全国委員会を設置した。党執行部は大会で直接選出された。大会は毎年開催することも決まった。下部組織の意思を常に党の方針に反映させるための配慮だ。

マジャール共和国の復活
元首スールシュ
大会はさらに、56年動乱に絡み、大衆デモが勃発した「10月23日」を国家の記念日とするよう提案。国会は18日、あわただしく憲法を修正し「党の指導」条項を削除、共産党独裁と同義語だった1949年8月以来の「マジャール人民共和国」は「マジャール共和国」に改称された。この章のはじめに述べたように、「マジャール」とはハンガリー語本来の表現である。言語も、国名も、政党名も「ハンガリー・・・」が冠される場合、「マジャール・・・」が正式の呼称である。ハンガリーでは戦後の1946年2月、共和国が宣言されたが、共産党の一党独裁が完成するとソ連型憲法を導入し、人民共和国が発足している。共和国の復活は、共産党以前の時代への回帰だった。
23日当日、国会前のコシュート広場には海外在住ハンガリー人を含む数万人の市民が集まり、首相ネーメトはじめ政府閣僚も出席して式典が開かれた。正午、大統領選出までの臨時国家元首となった国会議員マーチェシュ・スールシュは、議事堂正面のバルコニーから厳かに共和国宣言を読み上げた。
スールシュは59年にモスクワ国際関係大学を卒業し、70-80年代にかけベルリン、モスクワの大使を歴任、83年から党書記を務めた生え抜きのエリート。書記時代、モスクワに年間60万ドルの党資金が上納されていることを知ってカダルに抗議、政治局員への道を棒に振ったといわれる熱血漢でもある。ロシア人の妻との間に生まれた息子が、80年代に西側に亡命する騒ぎを起こしたとの風聞が広まったこともある。
民族の遺恨
数分間にわたってスールシュが読み上げた共和国宣言は、以下のような内容だった。
「世界のマジャール人と外国の友人に挨拶を送る。この国の国民と、マジャールの運命を心に留めるすべての人々に呼び掛ける。・・・20世紀の終わりに近づきつつある今、われらは自由かつ民主的マジャールを創造せんと決意し、過去40年の歴史、とりわけ56年の国民蜂起と独立運動の結論を基に、新共和国の法的基礎を築いた。これは、国家の民主的変革に沿った新たな歴史的時期の始まりである。・・・われらは、間もなく自由民主選挙で明らかにされる国民の意思に従い、既に歩み出した道を進む決意である。マジャール共和国は、ブルジョア民主主義と民主的社会主義の諸価値が発現する、独立した民主的法治国家になる。・・・新共和国は国境の外に住む魔ジャール人の運命に責任を感じ、周辺諸国との関係増進に務める。われらは国際舞台に登場し、先進諸国への合流を加速することを望む。われらは東西双方との関係を発展させ、欧州の安全と統合および世界の諸問題の解決に貢献する。・・・わが国の基本的関心は、近隣諸国との善隣関係の促進であり、わららはドナウ地域の諸国民との協力、友好の強化を期待する。・・・すべての人々が国家のより良き未来のため、一貫して積極的に働くよう呼び掛ける。国家を現在の深淵から救うことができるのは、協同の力のみであり、これによってのみ、われらは自由と民主主義と繁栄の物質的・知的条件を獲得できるのである。・・・新マジャール共和国を長命かつ幸福たらしめよ。今日の記念すべき日に、私は祈念する。世界に平和を、諸国民の間に平和を!」
演説は、ハンガリー社会主義労働者党の改革派を突き動かしたエネルギーのすべてを表現し、感動的な響きを帯びていた。戦後、ソ連の支配の下で欧州の経済的・文化的絆から切り離され、独立を失い、欧州の二等国に転落したことへの民族的遺恨は、共産党員たちの深層心理にも癒しがたい傷痕をとどめていたのだ。宣言朗読の間、国会周辺の道路まで埋め尽くした群集は沈黙、感情の高まりを抑え切れずにすすり泣く年配者の姿もあった。
民族の矜持に根ざすエネルギーが、改革への衝動となって顕在化するのは、後に続く周辺諸国の政変にみられる共通した現象でもあった。

東欧崩壊の号砲
国境会談
ハンガリーのダイナミックな変革の波は、1988年5月の党全国協議会からわずか1年半の短時日の間に瞬く間に国境を越え、周辺の同盟諸国の屋台骨を揺るがし、ついには旧体制を崩壊させる劇的な波及効果を見せた。東西欧州を隔ててきた国境鉄条網の撤去が、東独政権崩壊のシグナルとなった。東西対決の前線国家である東独の動揺は、瞬時にしてブルガリア、チェコスロバキア、ルーマニアへと波及し、ついに欧州の政治地図を一変させてしまった。

ネーメトは首相就任後間もない1989年2月13日、隣りの中立国オーストリアの首相兼社会党党首フラニツキ
と国境で首脳会談を持った。まず、ハンガリー側の町ナジツェンクにフラニツキを招き、続いて午後からはオーストリア側ノイジードラー湖畔のルストに場所を移し、差しの会談を行なった。ネーメトが外国首脳との初会談の相手としてフラニツキを選んだことには重要な意味があった。しかも、会談場所として首都を避けたのは、あくまで”非公式”会談としてトーンダウンするためである。

*フランツ・フラニツキー(Franz Vranitzky、1937年8月4日 - )は、オーストリアの政治家。1986年から1997年まで首相を務め、1988年から1997年までは オーストリア社会民主党党首も務めた
*Magyarマジャール語→Nagycenk (németül: Großzinkendorf) nagyközség Győr-Moson-Sopron megyében, a Soproni járásban.
*ルスト(ドイツ語: Rust De-Rust.ogg 発音, ハンガリー語: Ruszt)は、オーストリアのブルゲンラント州の街で、行政的には郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)である。
*ノイジードル湖(ノイジードルこ、ノイジードラー湖、ドイツ語: Neusiedler See)は、中央ヨーロッパで二番目に大きいステップ湖である。オーストリアとハンガリーにまたがり、ドイツ語ではノイジードル湖、ハンガリー語ではフェルテー湖と呼ばれる。
会談の席でネーメトはフラニツキに重大な計画を打ち明けた。ルスト会談の後、記者会見したネーメトは、ハンガリー政府は対オーストリア国境にある国境線柵を1991年までに撤去すると発表した。ネーメトはさらに、会談では両国の国境通過箇所の増設と、国境に関税自由地域を創設する計画についても協議したと述べた。
会談より数日前、ソ連社会主義世界経済研究所の所長ゴモロフはハンガリー紙『マジャール・ネムゼトMagyar Nemzeti (ハンガリー国民)』とのインタビューで、ハンガリーの改革が進展し、オーストリアないしスイスに似た中立国になっても、ソ連には脅威にならないだろうと発言していた。ネーメトはボゴモロフ発言に関連して「ハンガリーは軍事ブロックが段階的に解消されることを支持する」とも述べた。
開かれた”鉄のカーテン”
ネーメトは4月、グロースから引き継いだ内閣を改造した。外相には、2月1日の対韓国国交樹立の立役者だった次官のジュラ・ホルンが昇格、賃金・労働庁、物価庁を統合した国家計画庁の長官にはネーメトと大学の同期生で非党員であるエルノ・ケメネシが迎えられた。蔵相も入れ替えた。外交と、経済を重点とする内政面での改革の布陣が出来上がった。
*Magyarマジャール語→Dr. Kemenes Ernő (Budapest, 1940. október 1. –) magyar közgazdász. A Magyar Tudományos Akadémia Költségvetési Bizottságának tagja.
先の国境会談でネーメトが予言していた国境の”鉄のカーテン”の撤去は、5月2日ついに始まった。両国国境350キロに沿って1960年代に張り巡らされた鉄条網と警報装置を年末までに撤去すべく、へジェシャロムHegyeshalom、ショプロンSopron、ソムバトヘイSzombathelyの三ヶ所から国境警備隊による解体作業が始まった。東独=チェコスロバキア=ハンガリーの西部国境に沿って東西欧州を分け隔ててきた”鉄のカーテン”に初めて風穴が開いたのである。
政府はこれより先の2月、国民議会幹部会に対し難民条約への’加盟申請を提案していた。チャウシェスク独裁体制下で経済破綻をきたした隣国ルーマニアのトランシルバニアTransylvania地方に住むハンガリー系住民が多数ハンガリーに流入し、経済財政を圧迫していた。条約加盟は国連の援助獲得が直接の目的であり、政府は国連難民高等弁務事務所(ジュネーブ)の調査団を事前調査に招いていた。
加盟が承認されたのは翌3月だが、政治難民の義務付けた条約への加盟は、対オーストリア国境の開放との相乗効果で同年夏、東欧諸国に激震を生む結果となった。

東独難民
東独からは毎夏、ハンガリーのバラトン湖畔や、さらにハンガリーを経由して遠くブルガリアの黒海海岸へ、多くのバカンス客が訪れていた。この年、5月ごろから、東独市民が鉄条網のなくなったハンガリー西部国境からオーストリア側へ不法越境、ウィーンの西独大使館に亡命を申請する事件が多発するようになった。5-7月だけで不法越境者数は237人に上ったが、オーストリア当局に出頭せず直接西独大使館に駆け込む家族やグループもいたので、実数ははるかに多いはずだった。ハンガリー側としては、同盟国東独との本来の関係から言えば、不法出国者は本国に強制送還しなければならないところだが、難民条約に加盟した以上、東独国民の扱いは微妙な問題になる。ハンガリーに流入する東独国民は夏期シーズンに入って急増、今度はブダペストやプラハへの西独大使館が亡命申請者であふれ返った。
*バラトン湖(バラトンこ、ハンガリー語: Balaton [ˈbɒlɒton] バラトン、古くは ハンガリー語: Balaton-tó [ˈbɒlɒtontoː] バラトントー、ハンガリー語: Balaton tava [ˈbɒlɒtontɒvɒ] バラトンタヴァとも、ラテン語: Lacus Pelso、ドイツ語: Plattensee)とはハンガリー西部にある湖。中央ヨーロッパ最大の湖。

外相ホルンは8月初め、東独国民を受け入れるための法案を準備中であることを明らかにした。難民の流入は一層加速され、8月中旬ハンガリーに滞在する東独国民は20万人規模に達した。オーストリア・ハプスブルク家の末裔、オットー・フォン・ハプスブルクの「汎欧州運動」が国境で開いた”鉄のカーテン”撤去を祝う平和集会では、参加した東独国民約500人がオーストリア側に集団逃亡するケースもあった。当時、ハンガリーもオーストリアも事実上、東独国民の西独への逃亡を黙認していた。ハンガリーはむしろ、難民問題の処理をテコに、マジャール人国家が「欧州」の一員である証しを立てようとしていたのだ。
*オットー・フォン・ハプスブルク(ドイツ語: Otto von Habsburg, 1912年11月20日 - 2011年7月4日)は、最後のオーストリア皇帝カール1世と皇后ツィタの第一子で、長男。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子(1918年の帝政廃止によって身分喪失)。ハプスブルク家の家長(1922~1961年、あるいは1922~2006年)。1930年代のオーストリアにおける君主制復活運動を指導し、ナチス・ドイツのオーストリア侵略計画に対抗した。オーストリア併合の最大の障壁とヒトラーに見なされ、そのオーストリア侵略計画は彼の名から「オットー作戦(ドイツ語版)」と呼ばれた。第二次世界大戦中にはアメリカに亡命してルーズベルト米大統領やチャーチル英首相と接触し、弟らとともにオーストリア解放に尽力した。
*汎ヨーロッパ主義または汎欧州主義(はんヨーロッパしゅぎ、はんおうしゅう-、英語: Pan-Europeanism)とは、欧州全体を一体的に捉え、1つに統合する、あるいは一体性を高めることを志向する思想のこと。
極秘会談
首相ネーメトは8月25日、外相ホルンを伴ってボンを極秘に訪問、米軍の飛行機からボン近郊のギムニッヒ城に直行し首相コール、外相ゲンジャーと対策を協議した。ネーメトはこの席で、国境開放の用意を打ち明けた。ネーメト自身の回顧談によれば、コールは「ドイツ国民はあなたの決断を決して忘れない」と感動に声を震わせた。事実、コールは5億マルクの対ハンガリー緊急融資で恩に報いた。この時の会談がきっかけで、ネーメトはその後もコールを訪問し、経済協力を要請できる仲になった。
会議が極秘にされた理由の一つは、東独側がハンガリーの動きに感づいている形跡があったためだ。東独情報部は1987年以来、オーストリア、ハンガリー領土に接するチェコスロバキアのブラチスラバBratislava近郊に「サファイア」のコードネームを持つ通信傍受施設三ヶ所を維持していた。チェコの政変後に明らかになったことだが、西独=オーストリア=ハンガリー間の電話、テレックス回線による赤十字の通信はすべて傍受されており、オーストリア政治家らの盗聴リストもあったことから、難民問題の進展は逐一東独側に感知されていたとみていい。
続いてホルンは31日、ベルリンに飛んだ。ホルンは東独外相フィッシャーに対し、①東独に帰国する国民を処罰しない。②西独移住申請には前向きに対応するーこの二点を受け入れるよう迫った。これは、西独政府との協議内容を反映した提案だったが、東独はなんら反応を示さなかった。
ハンガリー政府は9月4日、東独政府に対し「一方的措置をとらざるを得ない」と密かに通告した。同じ日、ブダペストの東独大使館は市内のキャンプ場や教会構内に仮設された難民収容所で帰国を促すチラシを配布し始めた。施設前に仮の領事事務のためキャンピング・カーをおいて国民の帰国申請を待ったが、効果があろうはずはなかった。
開かれた水門
ハンガリー政府は1週間後の9月10日、30分の閣議を開き、内相ホルバートを除く全員一致で国境開放を公式に決定、同日夕、11日午前零時を期して東独市民の出国を許可するという次のような政府声明を発表した。
一、ハンガリー政府は両ドイツとの協議で、問題が両国間の話し合いで解決されるべきだとの希望を表明したが、協議は不調に終わった。
一、本国帰国を拒否する東独国民は増え続け、オーストリアへの不法越境が増加した。ハンガリー政府にはこの状況に対する責任はない。
一、問題解決にあたり、ハンガリー政府は一般的に承認された国際的な人権原則を基本とした。政府は1969年に東独と締結した二国間協定を一時無効にすることを決定した。東独市民は本人が希望し、かつ相手国が受け入れる国に出国することが可能となる。
一、この規定は9月11日午前零時に発効する。
ソ連・東欧諸国は一般に、同盟国として相互に査証免除協定を結ぶ一方、相手国民が自国経由で西側へ逃亡するのを防ぐ相互義務を定めた付属議定書に調印していた。ハンガリーは難民条約への加盟に伴い、議定書修正のための交渉を開始しようとしていた。東独に対しても、協議によって無効化する考えだったが、東独側がこれに応じず、結局ハンガリーが一方的に無効宣言する形になったのである。
政府決定は「新たな二国間合意ができるまで」、協定を一時的に無効化するとしていたが、新たな二国合意とはとりも直さず、議定書の修正ないし破棄のことであり、ハンガリー政府は東独国民に西側への脱出ルートを永久に保証したに等しかった。
前章で見た通り、この危機の渦中、東独の社会主義統一党書記長ホーネッカーは、7月初めから急性胆のう炎で入院治療を受けており、国家としての意思決定能力を欠いていたことが問題を深刻化させる遠因になった。9月2日、ライプツィヒでは参加者1万人を超す初の民主化要求デモが発生し、福音教会はホーネッカーあてに「大量出国の原因は、市民が長らく期待していた社会変革が拒否されていることにある」として、国民との対話と改革を促す書簡を送った。
ハンガリー政府が東独国民の出国に青信号を出した日の9月10日、東独では反体制グループ「新フォーラム」が結成された。東独政府は10月3日、ハンガリーへの出国経路となるチェコスロバキアとの査証免除協定を停止し、国民の出国を禁止せざるを得なかった。国内に閉じ込められた市民の不満は直ちに体制批判へと転化、ライプツィヒを拠点とした大衆運動に発展し、同月18日のホーネッカー退陣につながっていったのだ。

その後の主役たち
社会党の苦難
ハンガリーの共産党解散は、党内保守派の離反を引き起こした。大会直後、カダルの同僚F・ミュニッヒの元秘書で、70年代に中国駐在大使を務めたロベルト・リバンスキが率いる「マルクス主義統一綱領派」は大会を否認、第14回社会主義労働者党大会の開催へと向かった。グロース、元政治局員ペレツがこれに同調した。保守派は12月、大会を開き、党書記長時代のグロースの外交顧問を務めていた若手ジュラ・トゥルメルを議長に選出した。トゥルメルは1953年生まれ、モスクワ国際関係大学出のエリートで、対西側関係の強化など短期間ではあったがグロース外交の展開に重要な役割を果たした。各種外国語に堪能で、日本語も勉強した経験があり、イデオロギー的に保守派というより、教養人タイプの党官僚だったが、グロースへの忠誠を守ったのだろう。しかし、社労党は90年の自由選挙で議席獲得に至らず完敗、政党としての生き残りの可能性は消えたと言っていい。
*Magyarマジャール語→Thürmer Gyula (Budapest, 1953. április 14.) kommunista politikus, a Magyar Munkáspárt elnöke.
しかし、新生社会党も苦難の時期にある。社労党の解散当時71万人いた党員は、党員証書書き換えを境に、約6万人に激減してしまった。過去の100万人近い党勢はまさに「国家党」が生んだ虚構でしかなかった。党が独裁放棄を明確にしたとたん、大半の党員が党を離れた事実は、彼らが「唯一の指導政党」である党に利益を見出していたに過ぎないことを物語っている。全386議席中33議席を獲得したに過ぎなかった。「ポジュガイを大統領に」という目算もまた、89年11月の国民党票でついえた。社会党はポジュガイのカリスマ性があるうちに大統領選挙を実施し、政局の主導権を確保しようとしたが、野党自由民主同盟が総選挙の実施が先決と主張、署名運動で国民投票に持ち込んだ。投票の結果、社会党の主張は小差で敗れた。さらに、総選挙に勝った野党側は、大統領を国民の直接投票で選出するとした与野党合意による憲法修正条項を再修正し、国会による選出に変更、ポジュガイが大統領に就任する日を完全に封じてしまった。
90年4月実施された総選挙で、社会党は民主フォーラム、自由民主同盟、独立小地主党に次ぐ第四党の地位に転落、政権の座を失った。
*ハンガリー民主フォーラム(ハンガリーみんしゅフォーラム、Magyar Demokrata Fórum)は、かつてハンガリーに存在した政党。中道右派政党。
*自由民主同盟(じゆうみんしゅどうめい、ハンガリー語: Szabad Demokraták Szövetsége SZDSZ)は、ハンガリーのリベラル・中道左派政党。自由主義インターナショナル加盟。
*独立小農業者党(どくりつしょうのうぎょうしゃとう, ハンガリー語: Független Kisgazdapárt; 略称: FKgP)は、ハンガリーの右派政党。直近の2006年のハンガリー総選挙では、議席を獲得することができなかった。正式名称は独立小農業者・農業労働者・市民党(ハンガリー語: Független Kisgazda-, Földmunkás-, és Polgári Párt)。日本では独立小地主党とも訳される。
しかし、総選挙では、ニエルシュ、ポジュガイ、ホルン、スールシュらはそろって当選を果たした。
それぞれの道党解体の仕事を成し遂げた指導者たちは、その後それぞれの道を歩んでいる。ニエルシュは90年5月、社会党第2回大会で議長を降り、国会議員の職に専念。ホルンが後任議長に選出された。第四党ながらニエルシュは国会資格審査委員会。ホルンは外交委員長に就任し、ハンガリー外交に影響力を残している。共産党の後継政党が政治舞台に確固とした足場を維持しているのは、東欧では特異な現象と言わねばならない。社会党はまた、92年9月、ベルリンで開かれた社会主義インタナショナル大会でオブザーバー資格を認められた。東欧の旧共産党の後身政党として初めて、西欧社会グループから認知されたことになる。
ネーメトは党を離れ、91年初め、東欧支援のため設立された欧州復興開発銀行の副総裁に就任、ロンドンに住んでいる。改革の牽引車だったポジュガイは離党後、与党民主フォーラム左派の仲間と新党「国民民主連盟」を旗揚げするかたわら、デブレフェン大学Debreceni Egyetemで教鞭をとっているが、ニエルシュとの個人的な親交は続いている。
92年4月、ネーメトはブダペストで開かれた欧州復興開発銀行の年次総会のため、ハンガリーに戻った。今も国民の人気は現首相アンタルをはるかに凌いでいる。ハンガリーのマスコミの関心は年次総会よりも、ネーメトが再び政治に復帰するかどうかにあったが、質問に対し、ネーメトは否定も肯定もしなかった。国民の記憶には、社会のめまぐるしい変化が肌で感じられた89年当時の首相ネーメトの姿が鮮烈に焼きついている。ネーメトは首相就任当時、父親が「郷里の人々に顔向けできないようなことだけはしてくれるな」と書き送った手紙を、今も座右の銘にしているという。将来、大連立政権が樹立される時代が来れば、無党派の首班として返り咲く可能性は十分あるし、有権者の期待も大きいのである。

ニエルシュ健在
92年4月のある日、ドナウ河畔の国会議員会館にニエルシュを訪れた。かつて、党本部だったころ「ホワイトハウス」と俗称され、権力の中枢だった場所だ。社会主義者ニエルシュは健在だった。3月で69歳を迎えたが、むしろ、党議長時代に比べ風貌も若返った印象で、筆者を玄関まで出迎えてくれた。
聞きたいことは二つあった。ハンガリーが国境の開放を決定した時、ゴルバチョフの事前の了解があったのかどうか。もう一点は、党組織が衰退してしまったことを、当時の指導者としてどう考えているかである。最初の質問に対するニエルシュの答えは明快だった。
9月10日の政府決定の直前、実はニエルシュの執務室にネーメト、ポジュガイ、グロースの四者が集まり、全員一致で国境開放を決定したのだ。しかも、この件はソ連指導部には全く通報しなかった。ゴルバチョフは当時からホーネッカーを敵視しており、ゴルバチョフが介入してくる危険は全くないという読みからだった。
その2ヶ月前、ブカレストで開かれたワルシャワ条約機構首脳会議の席上、ホーネッカーとチャウシェスク、チェコのヤケシュの3人は演説でゴルバチョフの対西側外交をあからさまに批判した。ニエルシュはこの光景を見て「ゴルバチョフは東欧への指導力を失った」と受けとめた。さらに、当のハンガリー指導部さえ、ハンガリー国境の開放が東独国家の崩壊に波及するとは予想もしていなかったのだという。したがって、ソ連指導部も波及効果を明確には読めるはずがなく、ハンガリーの決定に介入する理由はなかった。これが、ニエルシュらの判断だった。
社会主義者の夢
もう一つの問いについて、ニエルシュは笑いながら己の世界観の一部を披瀝してくれた。
60年代初期まで、自分はイデオロギー体系としての社会主義を信じていた。しかし、経済改革を担当するようになったその後、今日に至るまで、自分は「修正社会主義者」を自認している。「社会的所有を私的所有が補完する社会主義市場経済」が本旨だ。文化享受の格差の是正と、強力な社会政策による富の再分配が必要だという考えは変わらない。
中央集権型経済管理を基礎とするスターリン主義を「改良」し、社会主義的市場経済に移行することは無理であることがはっきりした。スターリン主義の本質とは、社会主義の衣をまとったロシア的後進性にほかならない。最後の党大会の決定は、スターリン主義に決別するため、避けて通れない道だったという。
だが、その結果、党は選挙を通じて政権の座からすべり落ちた。今後、再び政権を奪回できる目算はあるのか、と問うと、ニエルシュはいともあっさり「まだまだ無理」と認める一方で、自分の情勢認識を語ってくれた。
初の自由選挙で、社会党が獲得した11-12%の得票率は満足すべき内容だったと考えている。その後、三回の補欠選挙が実施されたが、一回は投票率不足で不成立。残る二議席は、社会党と与党民主フォーラムが分け合った。勝率五割である。これは国民の政権批判票が主として社会党に流れていることを意味し、次回総選挙では、政権復帰までは望めないが、より強力な野党に成長できるだろう・・・。ニエルシュの眼は輝いていた。
            3 思惑超えた議会革命ーポーランド

*ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく、(ポーランド語: Rzeczpospolita Polska)、通称ポーランドは、国連の区分では東欧、米CIAの区分では中央ヨーロッパに位置する共和制国家。欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)の加盟国。通貨はズウォティ。首都はワルシャワ。北はバルト海に面し、北東はロシアの飛地カリーニングラード州とリトアニア、東はベラルーシとウクライナ、南はチェコとスロバキア、西はドイツと国境を接する。

*ポーランド人民共和国(ポーランドじんみんきょうわこく、ポーランド語: Polska Rzeczpospolita Ludowa)は、第二次世界大戦後の1947年に成立し、1989年に崩壊したポーランドの国家体制である。ポーランド統一労働者党による一党独裁制を採るマルクス・レーニン主義の共産主義国家であった。第二次世界大戦の終盤、傀儡政権としてソビエト連邦に支配されたポーランドは[1]、ソ連にとって最も重要な衛星国であった[2]。ソ連は、ポーランドの国内及び外交政策に対し多大なる影響を持ち、自国の軍隊をポーランドに駐在させた。
*独立自主管理労働組合「連帯」(どくりつじしゅかんりろうどうくみあい れんたい、通称:連帯、ポーランド語: Niezależny Samorządny Związek Zawodowy „Solidarność”、略称:NSZZ „Solidarność”)は、ポーランドにおいて労働組合から公然たる反共運動へと発展した組織である。1980年、社会主義国として初の労働者による自主的かつ全国規模の労働組合として結成。
ショパンの心
ワルシャワでは5年に一度、ポーランドの生んだピアノの詩人ショパンにちなんだ国際的なピアノコンクールが開かれる。ショパンの作品を議題曲に演奏を競う若きピアニストたちの登竜門として知られる「ショパン・コンクール」だ。

*ワルシャワ(Warszawa[varˈʂava]ヴァルシャヴァ)は、ポーランドの首都でかつ同国最大の都市。人口約180万人。マゾフシェ県の県都。ポーランドの政治、経済、交通の要衝でもある。
*フレデリック・フランソワ・ショパン(フランス語: Frédéric François Chopin 、ポーランド語:Fryderyk Franciszek Chopin(フルィデールィク・フランチーシェク・ショペーン)、生年未詳(1810年3月1日または2月22日、1809年説もあり) - 1849年10月17日)は、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名だった。
この国は欧州の列強に分割支配され、18世紀末以降、欧州の地図から姿を消した。しかし、民族のアイデンティティーは失われるどころか、逆に強まっていった。ショパンもその1人であった。異国の地で祖国の独立回復を願い、ピアノにたくして限りない祖国愛を謳い上げた多くの名曲は今も人々の胸を打つ。ショパンの心臓はワルシャワ中心部の聖十字架教会に納められている。
民族の一体性を保ち、その精神的な拠り所となったのはカトリック教会だった。それは、戦後、ポーランドがソ連圏に組み込まれても変わらなかった。東欧を揺るがす民主化ののろしを上げた自主管理労組「連帯」の結成は、この国からローマ法王が選出されていたことと決して無縁ではなかった。「連帯」指導者ワレサもポーランド・カトリックの象徴「黒のマドンナ」のバッジを常に胸につけた敬虔な信者である。それは「独立」のシンボルでもあった。
*カトリック教会(カトリックきょうかいKościół katolicki、ラテン語: Ecclesia Catholica)Католическая церковьは、ローマ教皇を最高指導者として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座(聖座、ローマ教皇庁)に置くことから、ローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。
「連帯」は政変の主役に躍り出た。だが、立場が逆転し、政権の座を離れた統一労働者党(共産党)の側も「祖国の独立」を追求する点では同じだった。このことが”水と油”の関係であったはずの「連帯」と共産党を対話に向かわせていったのだった。
*ポーランド統一労働者党(ポーランドとういつろうどうしゃとう、ポーランド語: Polska Zjednoczona Partia Robotnicza、略称:PZPR)は、冷戦時代のポーランド人民共和国に存在した政党で、当時の支配政党である。1948年結成、1989年解散。

*ドンブロフスキのマズルカ(ポーランド語: Mazurek Dąbrowskiego)は、ポーランドの国歌。ユゼフ・ヴィビツキ(Józef Wybicki)作詞。「ポーランドは未だ滅びず(Jeszcze Polska nie zginęła)」の名でも呼ばれる。

*ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ(Jan Henryk Dąbrowski, 1755年8月29日 - 1818年6月6日)は、ポーランドの将軍にして国民的英雄。ヤン・デンボフスキ(Jan Dembowski)とも。ポーランドのピェシュホヴィツェ Pierzchowiceにて、シュラフタ階級の家庭に生まれ、ロシア帝国のヴィングラで亡くなった。
政変前夜の党と「連帯」
「連帯」の登場と戒厳令
ポーランドは既に80年8月、政府の食糧値上げに抗議する労働者の全国ストをきっかけに、当時としてはソ連・東欧世界でも前例のない独立労組「連帯」が登場し、「複数主義」政治改革への突破口を開いていた。ソ連で、社会主義のペレストロイカを掲げたゴルバチョフ政権が「意見の複数主義」を公式にテーゼとして打ち出したのは、それより8年もあとの全ソ党代表者会議(88年6-7月)のことであった。党と社会の活性化を図るため、「異論」の存在を積極的に許容し、自由な論争に制度的保障を与えようとする考えである。
「連帯」の構成に押され、権威失墜の危機に直面した党は「社会主義の再生」の総路線の下で、「国民合意の達成」すなわち、党に対する国民の信頼回復を大きな課題に位置付け、批判勢力との対話を通じて権力基盤の強化を図ろうとしていた。しかし、81年12月の戒厳令導入で「連帯」を非合法化して以来、社会とのミゾは深まる一方で、党第一書記ヤルゼルスキの改革は膠着状態に陥った。戒厳令は「連帯」による政治闘争の激化に伴い、ソ連をはじめ同盟諸国からポーランド党に対する圧力、警告が高まっていたことが背景にあった。軍政の最高指導者として戒厳令を布告したヤルゼルスキは、外部からの軍事介入を回避するためやむを得ずとった自力解決の措置だったと述べ、改革の後退はないと理解を求めた。だが、国民の不信は容易に解消しなかった。


*ヴォイチェフ・ヴィトルト・ヤルゼルスキ(Wojciech Witold Jaruzelski [ˈvɔjt͡ɕɛx ˈvitɔld̥ jaruˈzɛlskʲi], Pl-Wojciech_Jaruzelski、1923年7月6日 - 2014年5月25日)は、ポーランドの軍人、政治家。軍人としての最終階級は上級大将。元ポーランド統一労働者党第一書記、首相、国家評議会議長、ポーランド大統領。
*Polskiポーランド語→Stan wojenny w Polsce w latach 1981–1983Martial law in Poland/Военное положение в Польше – stan nadzwyczajny wprowadzony 13 grudnia 1981 roku na terenie całej Polskiej Rzeczypospolitej Ludowej, niezgodnie z Konstytucją PRL
89年の総選挙はこうした閉塞状況を打開し、党への信頼回復を目指す政治実験であり、ヤルゼルスキの賭けであった。しかし、円卓会議を経て、党の枠外にある社会勢力の国会進出に道を開いたとたん、他の章でも見るように、共産党を待ち受けていた運命は指導政党の座からの転落であった。重要なことは、当の「連帯」でさえ権力を手にすることを想定していなかったことだ。これは歴史の変わり目を的確に認識することがいかに難しいかの好例だろう。「連帯」でさえ、選挙後になって初めて”時の要請”に気付き、政権担当を決意したのであった。

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