日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宜弘②

19世紀を通じて民族としての一体感を強めていったセルビアは、1878年のベルリン条約Берлински споразум により、近代的な国家として独立を承認されることになった(地図=参照)
*ベルリン条約(1878年)Берлинский трактат(ベルリンじょうやく)Berlin Antlaşmasıは、1878年6月13日から7月13日にかけて開催されたベルリン会議で結ばれた条約。露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約を修正した。

*大セルビア(だいセルビア、セルビア語: Велика Србија / Velika Srbija)Greater Serbiaとは、セルビアの民族主義者の間にみられる民族統一主義の概念である。
*ダルマチア(ダルマツィア、クロアチア語: Dalmacija, イタリア語: Dalmazia, セルビア語: Далмација)またはダルマティアは、クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯のこと。
*ヴォイヴォディナ自治州(ヴォイヴォディナじちしゅう、セルビア語: Аутономна Покрајина Војводина / Autonomna Pokrajina Vojvodina; 発音[ʋɔ̌jʋɔdina] 、ハンガリー語: Vajdaság Autonóm Tartomány [ˈvɒjdɒʃɑ̈ːɡˌɒutonoːm.tɒrtomɑ̈ːɲ]、スロバキア語: Autonómna Pokrajina Vojvodina、ルーマニア語: Provincia Autonomă Voivodina、クロアチア語: Autonomna Pokrajina Vojvodina、パンノニア・ルシン語: Автономна Покраїна Войводина)は、セルビア北部に設置された自治州である。
山岳の小国モンテネグロ
「黒い山」を意味するモンテネグロ(現地名フルナゴーラ)が中世セルビア王国と別の道を歩み始めるのは、14世紀のことである。
Душан силниドゥシャン王Dušan Silniの死後、中世セルビア王国が分裂して、ЗетаゼータZetaと呼ばれた山岳地はБалшаバルシャBalša朝のもとに、言語や宗教を同じくするセルビアとは異なり、モンテネグロとして独自の発展を遂げることになる。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Balšići su srednjovijekovna dinastija koja je vladala Zetom od 1360. do 1421. godine.Балшићиバルシャ朝 (такође Башићи или Баошићи)
*ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン(Цар Стефан Душан силни, Stefan Uroš IV Dušan Silni, 1308年7月26日 - 1355年12月20日)は、セルビア王国、セルビア帝国のネマニッチ朝の君主(国王在位:1331年9月8日 - 1346年、皇帝在位:1346年 - 1355年12月5日)。

モンテネグロは、ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和制国家。首都はポドゴリツァ[3](旧憲法ではツェティニェ[4])。南はアドリア海に臨み、北西をクロアチアのドゥブロヴニクとボスニア・ヘルツェゴビナ、北東をセルビアのサンジャク地方、南東をアルバニア、東部をコソボと接する。
*モンテネグロ人(モンテネグロじん)はモンテネグロを主に構成する南スラブ人であるMontenegrins (Montenegrin and Serbian: Crnogorci / Црногорци, pronounced [tsr̩nǒɡoːrtsi] or [tsr̩noɡǒːrtsi]; lit. "Black Mountain People") are a South Slavic ethnic group native to Montenegro.
*モンテネグロ語(モンテネグロご、Crnogorski jezik / Црногорски језик)は、モンテネグロで話されている言語であり、2007年から同国の公用語となっている。南スラヴ語群の中央南スラヴ語に分類される。現在モンテネグロ語を話す人口は半数がセルビア人を占めている。セルビア語、クロアチア語、ボスニア語、およびモンテネグロ語の4つは、言語学的にはセルボ・クロアチア語の4つの少しずつ異なる標準化(複数中心地言語を参照)にあたる。モンテネグロで話されている言語はセルビア語と考えられていたが、20世紀末からモンテネグロ語という呼び名が用いられるようになった。


ポドゴリツァ(モンテネグロ語・セルビア語: ポドゴリツァ(モンテネグロ語・セルビア語: Podgorica/Подгорица)はモンテネグロの首都で、同国最大の都市である。リブニツァ川とモラチャ川が合流する適した場所に位置し、ゼタ平原とビェロパヴリッチ谷が接し居住地としても発展している。1946年から1992年までの旧称はティトーグラード(Титоград/Titograd)。
当初、首都はスクタリSkutari(現在はアルバニア国内のシュコドラShkodër)に置かれたが、15世紀末にはバルシャ朝に代わるツルノエヴィチ朝がオスマン軍の侵攻にあい、さらに山深いツェティニェに遷都しなければならなかった。モンテネグロはここを首都として、オスマン帝国による完全な支配を免れた。16世紀初め、ツルノエヴィチ朝が終息すると、しだいに影響力を増していた正教会のヴラディカ(主教職)が政治的支配権を手中にして、モンテネグロに特徴的な神政国家を形成する。
*シュコドラ(アルバニア語: Shkodër)はアルバニア北西部シュコドラ県の都市である。シュコダル湖に面し、シュコドラ県の県都でアルバニアの町の中でももっとも古い歴史のある町の1つでアルバニア北部の文化や経済の中心地である。

*Српски / srpskiセルビア語→Иван Црнојевић (умро 1490)Ivan Crnojević је био владар српске средњовековне државе Зете, односно Црне Горе у раздобљу од 1465. до 1479. године и поново од 1481. до 1490. године. Био је син и наследник Стефана Црнојевића.
*ツェティニェ(セルビア語: Цетиње、ラテン文字表記:Cetinje)は、モンテネグロの都市および基礎自治体。イタリア語の名はチェッティーニェ(Cettigne)トルコ語の名はチェティネ(トルコ語: Çetine)。モンテネグロの歴史的な首都であり、かつては憲法上の首都でもあった。
*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Vladika, narodski naziv za arhijereja, episkopa pravoslavne crkve (u starim izvorima i za biskupa, npr. Josipa Jurja Štrosmajera). Ponekad se odnosi i na Isusa Hrista. U Crnoj Gori vladikom su zvali vladara u čijim je rukama bila i crkvena i svjetovna vlast (npr. vladika Rade - Petar II Petrović Njegoš).
19世紀末のヴラディカに選出されたダニーロ・ペトロヴィッチはヴラディカ職を世襲化し、その後第一次世界大戦までペトロヴィッチ家の統治が続いた。ヴィラディカ統治のモンテネグロはオスマン帝国支配下に置かれたバルカン地域のなかで、ダルマチア海岸のドゥブロヴニクとともに、一定の税を納める貢納国として独立を守った。しかし、山岳地の小国モンテネグロが独立を守るのは容易なことではなく、絶えず存在したオスマン帝国の脅威のなかで、強力なモンテネグロ人意識が育まれていく。19世紀に入ると、モンテネグロ人意識はさらに強化され、「近代的な民族」としてのモンテネグロ人が形づくられるのである。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Danilo I. Petrović (ćirilica Данило I Петровић Његош, Njeguši 6. lipnja 1826. - Kotor 13. kolovoza 1860.) crnogorski knez (orig. knjaz) državni poglavar Kneževine Crne Gore.
*ドゥブロヴニク(クロアチア語: Dubrovnik、イタリア語: Ragusa、ラテン語: Ragusium、ドイツ語: Ragusa,Ragus)は、クロアチア、アドリア海沿岸のダルマチア最南部に位置する都市及び基礎自治体で、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の郡都である。
第一次セルビア蜂起の時期にヴラディカであったペータル一世は行政機構の再編成に取り組み、モンテネグロ近代化の基盤を築いた。後を継いだペータル二世は人口12万の小国モンテネグロの集権化を進めて、行政面の近代化を図った。ちなみに、ペータル二世は政治家としてよりも詩人ニェゴシュとして知られている。オスマン帝国からの民族の解放と自由の尊厳をうたいあげた彼の叙事詩「Горски вијенацゴールスキ・ヴェーナッツGorski vijenac(栄光の山並)」は、セルビア語文学最高傑作のひとつとして、今日でも読み継がれている。

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語⇒Petar I Petrović Njegoš, kanonizovan kao Sveti Petar Cetinjski (Njeguši, 1748 — Cetinje, 1830) je bio mitropolit crnogorski i vladar od 1782. do 1830. godine.

*Srpskohrvatski / српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Petar II Petrović Njegoš, za života poznat kao vladika Rade (po rođenju Rade Tomov Petrović;13 novembra.1813 - 10. oktobar, 1851) je bio crnogorski pjesnik, episkop i vladar.
*Српски / srpskiセルビア語→Горски вијенацゴールスキ・ヴェーナッツ (у првом издању Горскıй вıенацъ) Gorski vijenacрефлексивно-херојска је поема у облику народне драме Петра II Петровића Његоша, настала у доба српског романтизма. Дело је објављено у Бечу 1847.
北マケドニア共和国(きたマケドニアきょうわこく、マケドニア語: Република Северна Македонија、アルバニア語: Republika e Maqedonisë së Veriut)、通称北マケドニア(マケドニア語: Северна Македонија、アルバニア語: Maqedonia e Veriut)は、東ヨーロッパのバルカン半島南部に位置する共和国。前身はユーゴスラビア連邦の構成国の1つで、南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を外国に囲まれた内陸国である。
*マケドニア人(マケドニアじん、マケドニア語: Македонци、ギリシア語: Μακεδόνες)は、マケドニアに住む人々のことをさす。時代によって定義は異なる①古代から中世にかけ、マケドニア地方に在住したギリシャ人の一派。②ギリシャ北部に住むギリシャ人。下記のスラブ系民族とは異なる概念。③南スラヴ語群に属するマケドニア語を母語とする現代の民族。
*マケドニア語(マケドニア語: македонски јазик)は主として北マケドニアで使用されている言語である。インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派の南スラヴ語群に属する。アレクサンドロス大王で有名な古代マケドニア王国で話されていた言語は古代ギリシア語のマケドニア方言であり、それとは異なる。マケドニア語はブルガリア語と近縁で、セルビア・クロアチア語とも類似性がある。また、別系統のルーマニア語、ギリシア語、アルバニア語などとも共通の特徴があり、バルカン言語連合と呼ばれる。


スコピエ(マケドニア語: Скопје/Skopje [ˈskɔpjɛ] )は北マケドニア共和国の首都。
マケドニアをめぐる対立
マケドニアとは歴史的な地名であり、この呼称はアレクサンドロス大王の古代マケドニア王国に由来している。マケドニアという地域の範囲は時代によって異なるが、19世紀後半以降、北はブルガリアのシャル山脈ШарПланинаとリラ山脈РилаПланина、南はギリシャのオリンポス山地Όρος Όλυμποςとエーゲ海Αιγαίο Πέλαγος、東はブルガリアのロドピ山脈Родопите、西はアルバニアとの境界にあるオフリド湖Охридско Езероとモンテネグロとの境界にあるプレスパ湖Λίμνες Πρέσπεςに挟まれた地域と考えられた。山がらのバルカン半島にあって、マケドニアは肥沃な平野と良港テッサロニキΘεσσαλονίκηに恵まれ、豊富な鉱物資源を有していた。そのため、古来この地域の多くの民族が去来した。このマケドニアに、6世紀から7世紀にかけて移動してきたのが南スラヴ族であり、かれらがマケドニア人を形成することになる。

*アレクサンドロス3世(ギリシア語: Ἀλέξανδρος Γ'、紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日)、通称アレクサンドロス大王(ギリシア語: Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(王)(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)である。また、コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオも兼ねた。ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれた。
マケドニア地方の民族構成は、隣接するブルガリア人やセルビア人と共通のスラヴ語を話しながら、かれらとは異なる南スラヴ族の住民、そしてトルコ人、ギリシャ人、アルバニア人といった具合に複雑であった。このことに加え、オスマン帝国のもとに深く組み込まれていたため、近代においてもこの地域のスラヴ語を話す住民の民族意識の覚醒が遅れた。その結果マケドニアは、オスマン帝国からの独立や自治を達成した近隣諸国のギリシャ、セルビア、ブルガリアの領土的野心の対象とされた。1870年代から、これら三国がマケドニアの領有を主張して対立を繰り返す。
ギリシャは、マケドニア地方がイスタンブルの東方正教会総主教座の管轄下に置かれており、正教徒であるスラヴ語を話す住民は自らギリシャ人と意識していると主張した。一方ブルガリアは、言語的にみてマケドニア語がブルガリア語の一方言にすぎないと唱えた。ブルガリアはロシアの支持を得て、1870年に東方正教会から自立したブルガリア正教会総主教代理座を設置すると、それまでギリシャの影響の強かったマケドニア地方に宗教を通して勢力を拡大していった。またセルビアは、マケドニア語の語彙がセルビア語と類似していること、セルビア正教の宗教上の習慣(家族固有の守護聖人を祭る儀礼СлаваスラヴァSlavaのこと)もマケドニアと共通していることを主張した。
*イスタンブール(トルコ語: İstanbul [isˈtanbuɫ] 、英語: Istanbul [ˌɪstænˈbuːl]、ラテン語: Constantinopolis コンスタンティーノポリス、ギリシア語: Κωνσταντινούπολις コーンスタンティヌーポリス /現代ギリシア語 Κωνσταντινούπολη コンスタンディヌーポリ)は、トルコ最大の都市であり、経済・文化・歴史の中心地。
*ブルガリア正教会(ブルガリアせいきょうかい、ブルガリア語: Българска православна църква)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある独立正教会の一つ。ブルガリアを中心にブルガリア人の間で信仰されている正教会の一組織である。
こうした対立は1877-78年の露土戦争によって尖鋭化した。この戦争でロシアが勝利を収め、マケドニアの全域を含む「大ブルガリア公国」の創設を認めるサン・ステファノ条約が締結された。しかし、ロシアのバルカンへの影響力強化を恐れたイギリスやハプスブルク帝国が強く反発した結果、ビスマルクBismarckの仲介によりバルカン条約が結ばれた。これにより、「大ブルガリア公国」の領域は縮小され、マケドニア地方はオスマン帝国に返還された。以後、マケドニアの領有をめぐる近隣諸国の対立は激しさを増し、マケドニア問題は外交史上の「東方問題」の主要な部分を形成することになる。

*大ブルガリア(だいブルガリア、Велика България、Velika Balgariya)ブルガリア公国[注釈 1] (ブルガリア語: Княжество България / Knyazhestvo Bulgaria)は、1878年から1908年にかけてバルカン半島に存在した公国。露土戦争の結果として1878年3月に結ばれたサン・ステファノ条約により、オスマン帝国の宗主権下で広範な自治権を有する自治公国として成立した。

*サン・ステファノ条約Сан-Стефанский мир(サン・ステファノじょうやく)Ayastefanos Antlaşmasıは、1878年の露土戦争の講和条約。イスタンブール西方の村・サン・ステファノ(英語版)において1878年3月3日にロシア帝国とオスマン帝国のあいだで結ばれた。
バルカン諸国の対立とヨーロッパ列強の利害が絡むなかで、最大の犠牲者はこの地方にすむ住民であった。マケドニアの住民の民族的自覚は遅れていたが、1893年には「マケドニア人のためのマケドニア」を掲げるVMRO(内部マケドニア革命組織Внатрешна македонска револуционерна организација)が形成された。しかし、マケドニアは1913年の第二次バルカン戦争の結果、近隣のギリシャ、セルビア、ブルガリアの三国によって分割されてしまう。

*内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党Внатрешно Македонска Револуционерна Организација - Демократска Партија за Македонско Национално Единство(ないぶマケドニアかくめいそしき・マケドニアこっかとういつみんしゅとう)Unutrašnja makedonska revolucionarna organizacija - Partija za makedonsko nacionalno jedinstvoは、北マケドニア共和国の政党である。略語はVMRO-DPMNE。

*第二次バルカン戦争Междусъюзническа война(だいにじバルカンせんそう、英語:Second Balkan WarDrugi balkanski ratはブルガリア王国が第一次バルカン戦争での取り分に不満を感じて、1913年6月16日(ユリウス暦)/6月29日(グレゴリオ暦)に元同盟国のセルビア王国とギリシャ王国を攻撃したことで勃発した戦争。

ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエボ。ボシュニャク人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人中心のスルプスカ共和国の二つの構成体[3]からなる連邦国家でもある。両地域にまたがるブルチコ行政区は中央政府が直轄している。
*ボシュニャク人(ボシュニャクじん、ボスニア語: 男性単数: Bošnjak/Бошњак [boʃɲǎːk]、女性単数: Bošnjakinja/Бошњакиња、男性複数: Bošnjaci/Бошњаци)は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。
*ムスリム人(ボスニア語・セルビア・クロアチア語: Muslimani / Муслимани)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国において、南スラヴ系のボシュニャク人を指して用いられていた呼称であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国の主要構成民族のひとつであった。「モスレム人」とも呼ばれる。
*ボスニア語(ボスニアご、bosanski jezik)は、南スラブ語群に属する言語の標準形の一つであり、セルビア・クロアチア諸語のシュト方言が基本となっている。


サラエヴォ(ボスニア語:Sarajevo [sǎrajeʋo]、クロアチア語:Sarajevo、セルビア語:Сарајево)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。同国の構成体のひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもある。ボスニア・ヘルツェゴビナで最大の人口をもつ都市。


2 ハプスブルク帝国支配下の南スラヴークロアチア、スロヴェニアー
クロアチア人の自立
クロアチア人がクロアチア地方に移住したのは6~7世紀にかけてのことである。クロアチアは地理的な位置関係から隣接するボスニア・ヘルツェゴヴィナと同様に、東のBizantsko Carstvoビザンツ帝国Византијско царствоと西のフランク王国双方の影響を受けた。しかし、両者の対抗関係を巧みに利用して、10世紀初めにトミスラヴがこの地域を統一し、クロアチア王となった。
*フランク王国(フランクおうこく、ラテン語: Regnum Francorum, ドイツ語: Fränkisches Reich,フランス語: Royaumes francs)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。

*トミスラヴKralj Tomislav(ラテン語: Tamisclaus、クロアチア公在位:910年頃 - 925年頃、クロアチア王在位:925年頃 - 928年以降)は、クロアチア王国の初代国王である。
ダルマチアDalmacija海岸のビオグラードBeogradを中心地とするこの中世クロアチア王国は、ビザンツ帝国とヴェネツィアによる外からの攻撃を受けつつ、国内的にも王位継承問題が繰り返されたが、200年間にわたり継続することになる。11世紀後半の国王クレシミルとスヴォニミルの時期はクロアチア王国の黄金期とされ、西方教会からカトリックを受容している。セルビア人が中世セルビア王国に愛着をいだくように、クロアチア人にとって中世クロアチア王国は自らのアイデンティティの拠り所であった。
*最も高貴なる共和国ヴェネツィア(もっともこうきなるきょうわこく ヴェネツィア、ヴェネト語: Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、イタリア語: Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、Repùblica de Venessia、Repubblica di Venezia)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。

*クロアチア王国(ラテン語: Regnum Croatiae、クロアチア語: Kraljevina Hrvatska, Hrvatsko Kraljevstvo)は、中央ヨーロッパに存在した国家である。王国の支配領域はイストリア半島の大部分とダルマチア地方の海岸部の一部を除くクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの一部で構成され、およそ2世紀にわたって主権国家として存続していた。

*Hrvatskiクロアチア語→Petar Krešimir IV. Veliki bio je hrvatski kralj koji je vladao od 1058. do 1074. godine. Iz vladarske je dinastije Trpimirovića. Prvi vladar za kojega je u suvremenim izvorima potvrđena titula kralja Hrvatske i Dalmacije.

*Hrvatskiクロアチア語→Dmitar Zvonimir (lat. Demetrius Suinimir, Suonimir, Suonemerius, Zolomer, Zuonimir) († ?, 1089.), hrvatski ban, herceg i kralj Hrvatske i Dalmacije, vladao je od 1075. do 1089.
1102年、王位継承問題をめぐって内紛が生じ、この機会にハンガリー王がクロアチアとのあいだに協定を結び、クロアチアおよびダルマチアの王を兼ねることになる。これ以後、クロアチアは内政上の自治権を認められてはいたが、ハンガリー王国のもとに置かれた。16世紀の初めに、モハーチの戦いでハンガリーがオスマン帝国に敗北し、その独立が奪われると、クロアチアはハプスブルク帝国とのあいだで、それ以前のハンガリー王国と同様の関係を取り結んだ。こうした関係は1918年にハプスブルク帝国が崩壊するまで継続する。
*ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、ハンガリー語: Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。

*クロアチア王国(クロアチア語: Kraljevina Hrvatska 、ラテン語: Regnum Croatiae、ハンガリー語: Horvát Királyság 、ドイツ語: Königreich Kroatien 英語: Kingdom of Croatia)は、ツェティン城での選挙(英語版)後の1527年から1868年までハプスブルク家が治めていた王国である。1804年から1867年まではオーストリア帝冠領の一部であり。同時にハンガリー王冠領の一部でもあった。長らく首都はザグレブにおかれていた。

*モハーチの戦い(モハーチのたたかい、ハンガリー語: Mohácsi csata、トルコ語: Mohaç Muharebesi)は、1526年8月29日にハンガリーのモハーチ平原で行われた、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。
15世紀初頭には、クロアチア人の揺藍であるダルマチアの大部分がヴェネツィアの支配下に入り、クロアチアと分断された。16世紀中頃から、クロアチアの中心は11世紀末以後カトリックの司教座がおかれていた内陸部のザグレブ(ドイツ名アグラムAgram)に移った。14世紀にオスマン帝国がバルカンに進出するなかで、ハプスブルク帝国支配下のクロアチアは、オスマン帝国との国境地域を形成することになっていった。
ハプスブルク帝国はオスマン帝国の侵攻に備えて、ダルマチアとスラヴォニア(ドラヴァ川DravaСаваサヴァ川
Savaに挟まれたクロアチアの地域)とヴォイヴォヴィチの一部にまたがる帯状の地域を「軍政国境地帯」として直接統治した。17世紀から18世紀にかけて、オスマン帝国の統治を嫌う多くのセルビア人がドナウ川Donauやサヴァ川を越えて、国境警備兵としてこの地域に入植した。ダルマチアやスラヴォニアの「セルビア人問題」が1991年のクロアチア内戦の原因となったことはよく知られているが、その起源はここにある。
軍政地域と民政地域に分断されてしまったクロアチアの領域を統合することが、近代におけるクロアチア人の夢であった。クロアチア人にと
っては、中世クロアチア王国(「クロアチア・スラヴォニア・ダルマチア三位一体王国」の領域、すなわちザグレブを中心とする内陸部クロアチアとスラヴォニアとダルマチアが固有の領土と考えられていたからである(地図2参照)。

*クロアチア=スラヴォニア王国(クロアチア語: Kraljevina Hrvatska i Slavonija ;ハンガリー語: Horvát-Szlavón Királyság ;オーストリアドイツ語:Königreich Kroatien und Slawonien ;英語:Kingdom of Croatia-Slavonia )は名目上の自治王国であり、オーストリア=ハンガリー帝国内で憲法上定義された別個の政治国家であった。

*ダルマチア王国(クロアチア語: Kraljevina Dalmacija ;ドイツ語: Königreich Dalmatien ;イタリア語: Regno di Dalmazia)またはダルマティア王国は、1815年のウィーン会議から1918年のオーストリア=ハンガリー帝国解体まで存在したオーストリア帝国及びオーストリア=ハンガリー帝国の構成国の一つであり、オーストリア帝冠領に属していた。
ダルマチアは400年におよぶヴェネツィア支配のあと、ナポレオンの短い統治を受け、19世紀初めからハプスブルク帝国の支配下に組み込まれた。また、ダルマチアとスラヴォニア地方の一部は1881年までハプスブルク帝国の軍政がしかれていた。
一方、ハプスブルク帝国のもとで、ハンガリー化の脅威にさらされていた内陸部のクロアチア人は、ハンガリーの圧力をはねのけて、自治を保持しようとする動きをみせた。こうして、クロアチア人の民族意識が明確になっていく。
19世紀前半期にはドイツ・ロマン主義Deutsche Romantikの影響を受けて、ハプスブルク帝国内諸民族のあいだに文化的な民族再生の運動が進展する。クロアチアの場合は、1830年代から「イリリア運動Ilirski pokret」として展開された。イリリアとは南スラヴ族が移住する以前にこの地に居住していた古代イリリア人に由来しており、クロアチア人文学者のガイを指導者とするクロアチア知識人の運動であった。ガイは当時チェコでみられた、スラヴの連帯をとくスラヴ主義の影響を強く受けており、バルカンに居住するすべての南スラヴ族、すなわちブルガリア人、クロアチア人、セルビア人、スロヴェニア人が単一のイリリア人の末裔であると考えていた。
*Deutschドイツ語→Die deutsche Romantik, deren Ursprünge in Jena gesehen werden, prägte ab etwa 1800 Literatur, später auch die Malerei und die Musikästhetik in Deutschland.

*Hrvatskiクロアチア語→Ilirski pokret naziv je za politički pokret koji su, u ozračju hrvatskog narodnog preporoda razvio najprije u Hrvatskoj, a kao svoj cilj imao je kulturno i političko jedinstvo svih „Ilira“, to jest južnih Slavena. Pokret je trajao od 1830. do 1843.
*イリュリア人(古代ギリシア語: Ἰλλυριο,ラテン語: llyrii/Illyri)は古代のバルカン半島西部やイタリア半島沿岸南東部(メッサーピ)に住んでいた民族である。

*Hrvatskiクロアチア語→Ljudevit Gaj (Krapina, 8. srpnja 1809. – Zagreb, 20. travnja 1872.), bio je hrvatski političar, jezikoslovac, ideolog, novinar i književnik. Središnja osoba ilirskog pokreta koja je imala važnu ulogu i u hrvatskom narodnom preporodu.
このように、ガイの考えはPanslavizamスラヴ主義Панславизамに基づいていたが、かれの最大の政治目標はクロアチア人が固有の領土と考えるクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの統合であった。ガイはこれらの地域を統合するためには、まず言語の統一が必要だと主張した。これらの地域では、「何」を意味する言葉の違いから、「カイ方言」と「チャ方言」、それにセルビア人と共通の「シュト方言」に区分されていた。結局、ガイはセルビア人の存在を考慮して、シュト方言でクロアチア語の言語的統一を図ろうとした。
*汎スラヴ主義(はんスラヴしゅぎ、ロシア語: Панславизм パンスラヴィーズム ロシア語発音: [pənsɫɐˈvʲizm]、ポーランド語: Panslawizm パンスラーヴィズム ポーランド語発音: [panˈsla.vʲizm]、チェコ語: Panslavismus パンスラヴィスムス チェコ語発音: [ˈpanslavɪzmus])は、スラヴ民族の連帯と統一を目指す思想運動である。
*カイ方言(クロアチア語:kajkavski)は、クロアチア語の3つの主要な方言の1つであり、名称は日本語の「なに?」と同じ意味の言葉は「kaj」であることに由来する。主にクロアチアの北方の地域で話される。クロアチア語の標準語(セルボ・クロアチア語の新シュト方言に基づく)との相互理解可能性はあまり高くない。
*チャ方言(クロアチア語:čakavski)は、クロアチア語の3つの主要な方言の1つ。主にクロアチアの西部の地域で話される。クロアチア語の標準語(セルボ・クロアチア語の新シュト方言に基づく)との相互理解可能性はあまり高くない。また、チャ方言内部での方言差も大きく、北部方言と南部方言はあまり通じない。

*シュト方言(シュトほうげん、セルビア・クロアチア語:Štokavski)は、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語などのセルビア・クロアチア語の主要な方言のひとつである。
こうしたガイの考えは、セルビア人とクロアチア人との共通意識を築くうえで重要な意味を持った。しかし、実際にはイリリア運動はスラヴという大義のもとにクロアチアの利害が見え隠れしたため、セルビア人とスロヴェニア人のあいだに深く浸透することはできなかった。むしろ、イリリア運動は民族にとって言語の持つ重要性を強く認識させ、クロアチア人の民族意識を発展させたといえる。

国家を持たなかったスロヴェニア人
スロヴェニアは中世に自らの国家を形成しているセルビア人やクロアチア人と異なり、歴史上自らの国家を持つことができなかった。6世紀後半、サヴァ川上流およびその周辺地域に定住したスロヴェニア人は、8世紀中頃にはフランク王国の支配を受け、カール(シャルルマーニュCharlemagne)の治世にカトリックを受容して西方教会の勢力下に置かれた。カトリックの布教活動はドイツ人による植民活動をともなっていたので、スロヴェニアにおけるドイツ人の影響が増大していった。
*カール大帝Karl der Große(カールたいてい、742年/747年/748年4月2日 - 814年1月28日[1])Karel Velikiはフランク王(在位:768年 - 814年)にしてローマ皇帝[注釈 1](在位:800年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。
10世紀中葉、神聖ローマ帝国が形成されると、スロヴェニア人の居住する地域はその支配を受け、さらにドイツ化が進められた。それにもかかわらず、スロヴェニア人がこの時期に自らの民族性を保持できたのは、スロヴェニア人のカトリック聖職者が活発な啓蒙活動を展開したことが指摘できる。13世紀後半、ハプスブルク帝国から神聖ローマ帝国の皇帝が選出されたあと、スロヴェニアに対するハプスブルクの支配が確立し、第一次世界大戦期まで継続する。
*神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、ドイツ語:Heiliges Römisches Reich, ラテン語:Sacrum Romanum Imperium, 英語: Holy Roman Empire)Sveto rimsko cesarstvoは、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部を中心に存在していた国家。
19世紀に入ると、文化的な民族再生運動がスロヴェニア人のあいだでも進行した。スロヴェニア人はハプスブルク帝国内のいつくかの州に分散していたが、こうした運動に先鞭をつけたのは、リュブリャナLjubljana(ドイツ名ライバッハLaibach)を中心として、スロヴェニア人が多数を占めるクライン地方のカトリック司祭であり、詩人・歴史家のボトニクであった。16世紀の宗教改革の時期に、クライン地方ではスロヴェニア語の使用が奨励され、スロヴェニア語に新たな息吹が与えられていた。これを引き継ぐ形で、ボトニクはスロヴェニアの歴史と言語の研究に生涯を捧げ、スロヴェニア語による初めての新聞をリュブリャナで発行して、スロヴェニア人の民族意識の覚醒に努めた。また、詩人・言語学者のコピタルはドイツ語化したスロヴェニア語の文法の確立に努力し、1809年にはスロヴェニア語の文法書を出版した。

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