日系カナダ人独り言ブログ

当ブログはトロント在住、日系一世カナダ人サミー・山田(48)おっさんの「独り言」です。まさに「個人日記」。1968年11月16日東京都目黒区出身(A型)・在北米30年の日系カナダ人(Canadian Citizen)・University of Toronto Woodsworth College BA History & East Asian Studies Major トロント在住(職業記者・医療関連・副職画家)・Toronto Ontario「団体」「宗教」「党派」一切無関係・「政治的」意図皆無=「事実関係」特定の「考え」が’正しい’あるいは一方だけが’間違ってる’いう気は毛頭なし。「知って」それぞれ「考えて」いただれれば本望(^_-☆Everybody!! Let's 'Ponder' or 'Contemplate' On va vous re?-chercher!Internationale!!「世界人類みな兄弟」「平和祈願」「友好共存」「戦争反対」「☆Against Racism☆」「☆Gender Equality☆」&ノーモア「ヘイト」(怨恨、涙、怒りや敵意しか生まない)Thank you very much for everything!! Ma Cher Minasan, Merci Beaucoup et Bonne Chance 

☆ Jugoslavija / Југославија★Yugoslavia Modern History/L'histoire moderne de la Yougoslavie・Nobuhiro Shiba/ユーゴスラヴィア現代史・柴宣弘①


ユーゴスラビア社会主義連邦共和国[注釈 1](ユーゴスラビアしゃかいしゅぎれんぽうきょうわこく、セルビア・クロアチア語、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語、マケドニア語: Socijalistička Federativna Republika Jugoslavija[注釈 2] / Социјалистичка Федеративна Република Југославија[注釈 3]、スロベニア語[注釈 4]: Socialistična federativna republika Jugoslavija)は、第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビアの社会主義国家。
*セルビア・クロアチア語(セルビア・クロアチアご、セルボ・クロアチア語、クロアチア・セルビア語とも:Srpskohrvatski / Српскохрватски、スルプスコフルヴァツキ、Hrvatskosrpski / Хрватскосрпски、フルヴァツコスルプスキ)は、セルビア人 (Srbi)、クロアチア人 (Hrvati)、ボシュニャク人、モンテネグロ人 によって話されている言語。ユーゴスラビアでは憲法上の公用語と定められていた。

各共和国の相次ぐ独立や、激しいボスニアの内戦の推移は、ユーゴスラヴィアを”多民族国家の悲劇”として、世界中の目をくぎずけにした。戦後、独自の路線を歩んだ連邦国家の成立をはさんで、統合と分裂が交差する複雑な歴史を、地域内部の動きと国際社会の対応から描くことで、95年末の「和平協定」以後の情勢に細かな視点を提示する。

Yugoslavia Modern History/Histoire moderne de la Yougoslavie/Nobuhiro Shiba
While depicting the complex history of the intersection of integration and division leading up to the Bosnian Civil War, it provides a solid perspective on the future situation.
The succession of independence of each republic and the transition of the fierce Bosnian civil war caught the eye of the world, making Yugoslavia a "tragedy of a multi-ethnic nation." After the "peace agreement" at the end of 1995, by drawing a complex history of intersection of integration and division from the movements within the region and the response of the international community, with the establishment of a federal state that followed its own path after the war. Present a certain perspective on the situation of.

Tout en décrivant l'histoire complexe de l'intersection de l'intégration et de la division menant à la guerre civile de Bosnie, il offre une perspective solide sur la situation future.
La succession de l'indépendance de chaque république et la transition de la féroce guerre civile bosniaque ont attiré l'attention du monde, faisant de la Yougoslavie une "tragédie d'une nation multiethnique". Après « l'accord de paix » de fin 1995, en tirant une histoire complexe de croisement d'intégration et de division des mouvements au sein de la région et de la réponse de la communauté internationale, avec la mise en place d'un État fédéral qui a suivi sa propre voie après la guerre Présenter une certaine perspective sur la situation de.


Professor Nobuhiro Shiba, who died suddenly last month from the editorial department , was preparing for a complete revision of "Modern History of Yugoslavia" (Iwanami Shinsho, 1996). This year is 30 years since the dismantling of Yugoslavia. In order to realize the wishes of the teacher, we are planning to publish it in August as "Yugoslavia Modern History New Edition" with the cooperation of the people concerned.(June 2021)
Le professeur Nobuhiro Shiba, décédé subitement le mois dernier du département éditorial , se préparait à une révision complète de « L'histoire moderne de la Yougoslavie » (Iwanami Shinsho, 1996). Cette année, c'est 30 ans depuis le démantèlement de la Yougoslavie. Afin de réaliser les souhaits de l'enseignant, nous prévoyons de le publier en août sous le titre "Yougoslavia Modern History New Edition" avec la coopération des personnes concernées.(Juin 2021)

柴 宜弘(しば のぶひろ(東京都出身)、1946年8月27日 -2021年5月28日[1])は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。専門はバルカン史。Cрпски језик/srpski jezikセルビア語→Схиба Нобухиро(Нобухиро Шиба, 1946, 27 августа - 2021 Мај 28 [1] ) је Јапану од историчара . Професор емеритус Универзитета у Токију . Специјализовао се за историју Балкана .Hrvatskiクロアチア語→Shiba Nobuhiro (Nobuhiro Shiba, 1946, 27 kolovoz - 2021 28. svibnja [1] ) je Japan od povjesničara . Profesor emeritus Sveučilišta u Tokiju . Specijalizirao se za povijest Balkana .


ユーゴスラビア(セルビア・クロアチア語: Jugoslavija / Југославија)は、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラブ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。国名として「ユーゴスラビア」を名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年に解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する(#国名参照)。なお、ユーゴスラビアの名は解体後においても政治的事情により、構成国のひとつであった北マケドニアが現在の国名に改名する2019年までの間、同国の国際連合等における公式呼称であった「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存していた。その国際的位置から『седам граничних, шест републичких, пет етничких група, четири језика, три вере, два карактера, једна нација七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家sedam s granice, šest iz Republike, pet etničkih skupina, četiri jezika, tri vjere, dva karaktera, jedan od nacijeseven of the border, six of the Republic, five ethnic groups, four languages, three religions, two characters, one of the nation』と形容される。
*ユーゴスラビア人(ユーゴスラビアじん、Југословени)とは、①かつて存在したユーゴスラビアの国民。ユーゴスラビア国籍保有者②多民族国家であったユーゴスラビアにおいて想定・提唱された統一的な民族概念、アイデンティティ。
*Srpskohrvatski / Српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Jugoslavija je naziv za tri države u jugoistočnoj Evropi koja su postojale između 1918. i 2003. godine, a nastale su kao težnja južnoslavenskih naroda - Srba, Hrvata, Slovenaca, Crnogoraca, Bošnjaka, Makedonaca i ostalih - ka nacionalnom oslobođenju i ujedinjenju.

セルビア共和国Република Србија(セルビアきょうわこく)Republika Srbija、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。首都はベオグラード。北にハンガリー、北東にルーマニア、南東にブルガリア、西にボスニア・ヘルツェゴビナ、南に北マケドニア、南西にモンテネグロと国境を接している。また、同国のヴォイヴォディナ自治州部は西にクロアチアが接している。 
*セルビア人(セルビアじん、セルビア語:Срби / Srbi)は、主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人・ボシュニャク人(ボスニア人)とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。
*セルビア語(セルビアご、српски језик/srpski jezik)は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語。

ベオグラード(セルビア語:Београд / Beograd、sr-beograd、ハンガリー語では:Belgrád ベルグラード / Nándorfehérvár ナーンドルフェヘールヴァール)は、セルビア共和国の首都であり、最大都市である。市名はセルビア語で「白い町」の意味である。ベオグラードはバルカン半島、パンノニア平原の中にあり、ドナウ川とサヴァ川の合流地点に広がっている。
はじめに
ユーゴスラビアとは、そもそも「南スラブ」を意味する言葉だが、国家としてのユーゴスラヴィアは二度生まれ、二度死んだといわれる(以後、必要な場合を除いてユーゴと略記する)。一度は、1918年12月に王国として建国され、41年4月にナチス・ドイツをはじめとする枢軸軍の侵攻にあい、分割・占領されて消滅した。もう一度は、45年11月に社会主義にもとづく連邦共和国として再建されたが、91年6月にスロヴェニア、クロアチア両共和国議会が独立宣言を採択するに至り、翌92年1月に、ECを先頭として約50カ国がこれら二国を承認することによって解体した。三度生まれ変わることはできず、民族対立による凄惨な内戦を通じて、73年間の歴史の幕を閉じたのである。
第二次大戦後のユーゴは、「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」という表現に端的に示される、複合的な国家であった。日本人にとっては、チトーを大統領とし、自主管理と非同盟を二本柱とする”独自の社会主義国”として知られていた。このユーゴが、北からスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニアの四共和国と、まだ国際的に承認されていない新ユーゴ(正式名称はユーゴスラヴィア連邦共和国、セルビア共和国とモンテネグロ共和国から構成)の五国に分解してしまった。
ここで、ユーゴ解体後の私の体験をひとつ、紹介してみたい。94年9月、マケドニア共和国の首都スコピエから新ユーゴの首都(ベオグラード)まで約10時間、列車で行ったことがある。この時、列車は比較的すいていてコンパートメントには私だけだった。発車まぎわにひとりの女性が乗り込んできた。この女性はベオグラード大学でイタリア語と英語を教えているという。セルビア共和国に入る国境の駅でのことである。
マケドニアとセルビアとの境界が、独立した国家の国境になってしまった現実を前にして、それだけで感慨深かった。パスポート・コントロールの順番が回ってくると、この女性教員が旅券を三通取り出したのには驚かされた。マケドニア共和国、旧ユーゴそれにスロヴェニア共和国発行の旅券であった。興味を引かれてパスポートを見せてもらうと、同世代であることがわかり話が弾んだ。この人の両親はマケドニア人とクロアチア人、夫はスロヴェニア人でスロヴェニアの航空会社アドリア・エアウェーに勤務するパイロット、スコピエに単身赴任しているという。
*アドリア航空(アドリアこうくう、英語:Adria Airways)は、スロベニア国営の航空会社であった。Slovenščinaスロヴェニア語→Adria Airways je bila največja slovenska letalska družba in članica združenja letalskih prevoznikov Star Alliance.
週末ごとに、やはりベオグラードに住む自分の妹に娘を託して、夫のいるスコピエ通いを続けているとのことだ。この人自身はベオグラードでの生活が30年を越したと言っていた。再度驚かされたのは、コントロールの係員が行ってしまうと、実はもうひとつのパスポートをもっているのだと言って、クロアチア共和国発行の旅券を見せてくれたからである。四通の旅券を持つこの人の例は極端かも知れないが、旧ユーゴという多民族国家の解体に伴い、いくつもの国のパスポートを取得せざるを得ない人たちが数多くいることを知らされたのであった。
ところで、最終的に連邦が解体する以前、ユーゴでは、80年代末から90年代初めにかけて「連邦制の危機」が進行しており、「第三の岐路に立つユーゴ」という表現が当時のジャーナリズムを賑わせた。第一次世界大戦の結果として建国された南スラヴの統一国家を「第一のユーゴ」、第二次世界大戦の結果として再建された国家を「第二のユーゴ」とする言い方が一般化した。本書では、この使い方に沿って「第一のユーゴ」、「第二のユーゴ」を用いることにする。
「第一のユーゴ」においても、「第二のユーゴ」においても、最大の国内問題は民族対立であったといえるだろう。このユーゴが位置するバルカン地域は、民族構成の複雑なことで知られている。その地理的な位置から、歴史的に諸民族が混在し、混血もすすんでいたところで、人為的な国境線をどのような形で引こうとも、自国内に少数民族を抱え込むことになるし、自民族が隣接する国々に少数民族として留まることになる。ユーゴはこのようなバルカン地域の縮図ともいうべき特色を持つ国家であった。
またユーゴは「はざまの国」といわれた。それは「冷戦」期に東西両陣営に属さず、政治・外交的に非同盟政策を採っていたからではなく、歴史をさかのぼってみると、この地域が古くは東ローマ帝国と西ローマ帝国との境界線に位置していたし、中世においてはビザンチン・東方正教文化圏と西方カトリック文化圏との接点でもあったからである。さらに近代に至ると、ユーゴを構成することになる南スラヴの諸地域は、ハプスブルク帝国とオスマン帝国との辺境を形成し、イスラム文化との接触も進んだ。
*東ローマ帝国(ひがしローマていこく、英語: Eastern Roman Empire[3])またはビザンツ帝国[注 1]、ビザンティン帝国(英: Byzantine Empire)、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。
*西ローマ帝国Западно римско царство(にしローマていこく)Zapadno Rimsko Carstvoは、ローマ帝国のうち西半分の地域を指す呼称である[1][2][3][4]。

*Српски / srpskiセルビア語→Хабзбуршка монархијаハプスブルク帝国 (њем. Habsburgermonarchie), некад и Аустријска монархија (њем. Österreichische Monarchie) или Дунавска монархија (њем. Donaumonarchie), незваничан је назив који користе историчари за земље и покрајине којим је владао млади аустријски огранак династије Хабзбург до 1780. године, а затим њен насљедник династија Хабзбург-Лорен све до 1918.
*Hrvatskiクロアチア語→Osmansko Carstvoオスマン帝国 (na osmanskom turskom: دولتِ عَليه عُثمانيه, Devlet-i Aliye-i Osmaniye, što znači "Osmanska Uzvišena Država"; na modernom turskom: Osmanlı Devleti, "Osmanska država," ili Osmanlı Imparatorluğu, "Osmansko carstvo", drugi nazivi Osmanlijsko Carstvo, Otomansko Carstvo i Tursko Carstvo) je bilo tursko carstvo koje je 1299.
このような歴史的背景をもった諸地域からなる「第一ユーゴ」は、南スラヴの統一国家であったが、南スラヴとしての一体感がほとんど生まれておらず、それぞれの民族意識、言語や文学、宗教の相違が、意識のなかでも解消されないでいた。加えて、ドイツ人Deutsche、ハンガリー人Magyar、アルバニア人Shqiptarët、ルーマニア人Româniなど多くの少数民族が居住していた。まさに多民族国家であり、それぞれの歴史を背負った複合社会であった。そのため、国民統合が緊急の課題とされ、国王をシンボルとして「上から」の統合化政策が進められた。
第二次大戦期にナチス・ドイツの占領下で、民族対立を煽る分断統治が行なわれるにともない、大規模な「兄弟殺し」が展開された。しかも、もう一方で民族、宗教、信条を越えて、大きな敵に対して積極的に戦おうとする愛国的なパルチザン運動が進められ、ユーゴ人としての共通意識と一体感が上げられたかにみえた。
戦後、大統領ともなったチトーが指導した「第二のユーゴ」で、パルチザン体験をもとに社会主義に基づいて推進されたが、ユーゴ人意識を徹底させることはできなかった。したがって、文化の面でも、これがユーゴ的だと誇れる明確な文化を生み出すことはできなかった。ユーゴの人々はたとえユーゴ人意識をもったにせよ、同時にいつもセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人といったそれぞれの民族意識を持ちあわせていたからである。
このような意識の人々からなる複合的な国家は、当然ながらきわめてもろい面を持っており、きっかけさえあれば崩壊に突き進んでしまう可能性さえあった。しかしもう一面で、その複合社会は多様な民族、言語、宗教の共存のための「実験場」でもあったということができるだろう。多様な文化が並行する状況から生み出される独自の表現は、容易に国を越える広がりを持っていた。たとえば、60年代にユーゴを離れてしまったが、映画界の奇才と称された監督マカヴェーエフ(ドゥシャン・マカヴェイエフ(Dusan Makavejev, 1932年10月23日 - 2019年1月25日[1])は旧ユーゴスラビア(現セルビア共和国)出身の映画監督、脚本家。政治的な風刺と性的表現を交錯させる前衛的な作風で知られる)、最近では86年と95年の二度にわたりカンヌ映画祭でグランプリに輝いたクストリツァ監督(エミール・クストリッツァ(Emir Kusturica、セルビア語: Емир Кустурица、1954年11月24日 - )は、旧ユーゴスラビアのサラエヴォ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)出身の映画監督、音楽家、俳優)、スケールの大きな奇想小説で世界的な脚光を浴び、『バザール辞典』などの邦訳もある作家のパヴィチ(ミロラド・パヴィチ(ラテン文字:Milorad Pavić、キリル文字:Милорад Павић、1929年10月15日 - 2009年11月30日)は、ユーゴスラビア・ベオグラード(現セルビア領)出身のセルビアの小説家。類のない仕掛けに富んだ幻想的な小説を発表した。また、詩人、散文作家、翻訳者、文学史研究家でもある)、80年代のショパン・コンクールで異色のショパン弾きと評されたピアニストのポゴレリッチ(イーヴォ・ポゴレリチ(Ivo Pogorelich[1][2]、原語表記はIvo Pogorelić、1958年10月20日 - )は、クロアチアのクラシック音楽のピアニスト)などを輩出している。彼らに、コスモポリタン的な面を見いだすことはできないだろうか。この文化の問題については、本書で十分な検討を加えることはできなかったが、必要な限りで言及した。
ユーゴという複合国家がなくなってしまった現在、新たな独立国は政治的にも文化的にも、単一性や均質性を追い求めているように見える。しかし、歴史を振り返れば明らかなように、この地域では多様性を排して単一性を追求することこそが危険なのであり、「民族の悲劇」を生み出してしまったのである。
本書は、異質性や多様性が排除され、解体してしまった国家であるユーゴの現代史を、統合と分離の経緯を追いながら、内戦にいたる歩みを「決定論」に陥ることなく見つめ直すことを目的としている。そのため、統一国家としての「ユーゴ」が解体して存在しないにもかかわらず、あえて書名を『ユーゴスラビア現代史』とした。これと関連して、ユーゴを含むバルカン地域、そして民族問題をかかえる多くの地域において、今後、多様性や異質性を保障する、新たな思考や枠組みを作りだす手口を見つけることをも目指している。
*南スラヴ人Јужни Словени(みなみスラヴじん)Južni Slaveniは、スラヴ人の中で主にバルカン半島周辺にいる旧ユーゴスラビアのボシュニャク人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などのことを指す。これらの民族は、ほかの西スラヴ人、東スラヴ人とは根本的に異なる歴史を歩んできており、ほかのスラヴ語とは異なる南スラヴ語群の言語を話す。バルカン型と言われ、民族の混血・混交が激しく、特にモンテネグロ人は、アルバニア人と共に古代まではイリュリア人、ブルガリア人は、その指導層がテュルク系のブルガール人であった。

第一章 南スラヴ諸地域の近代
個別意識と共通意識
7世紀ごろバルカン地域に移動、定住した南スラヴ諸族は、近代においてハプスブルク帝国とオスマン帝国の支配下に置かれていた。これら二帝国は広大な領域をもつ典型的な複合民族国家であり、その多民族統治の形態は本質的に類似していたといえる。ハプスブルク帝国はカトリックのオーストリア系ドイツ人が、オスマン帝国はトルコ系ムスリム(イスラム教徒)が支配層として存在していたが、ともに南スラヴを含む民族を抱えこんでいたため、帝国の維持はきわめて困難な問題であった。

ハプスブルク帝国は戦争と婚姻関係による領土拡大政策を進め、16世紀にはその領域を大きくのばして帝国としての様相を強めた。しかし、基本的にはハプスブルク王家を中心とする諸王国や諸領邦の集合体にすぎなかった。たとえば言語を見ても、帝国の行政語としてドイツ語が使われていたにせよ、それぞれの王国や住む農民たちは母語を用いており、農村では自治的な生活空間が維持されていた。多様な言語、そして多様な民族、宗教、文化が共存していたのである。18世紀になって、マリア・テレジアやヨーゼフ二世の時期から、軍事面でも地方行政の面でも集権化が試みられたが、帝国内に居住する多数の民族の統合が図れたわけではなかった。
*マリア・テレジア (独: Maria Teresia, 1717年5月13日 - 1780年11月29日)は神聖ローマ帝国のローマ皇帝カール6世の娘で、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の同皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者、オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ボヘミア女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)で、ハプスブルク帝国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。
*ヨーゼフ2世(ドイツ語: Joseph II., 1741年3月13日 - 1790年2月20日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1765年 - 1790年)、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王。ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの長男。マリー・アントワネットの兄にあたる。

一方、オスマン帝国は16世紀に、きわめて中央集権的な統治制度を作り上げたが、もう一面で、支配下に置いた諸民族に対して、民族的にも宗教的にも一定の自治を認めていた。オスマン帝国の統治が「柔らかい専制」と表現されるゆえんである。
オスマン帝国のバルカン統治は、直接的にはスルタンから与えられた軍事封土の保有者スィパーヒが当たった。スィパーヒは軍事封土内の農民に対する一定の領土権を認められたが、実際には租税徴収権を持っていたにすぎない。かれらは町に住み、農民の生活拠点である村に入ることはなかった。バルカンの村々に旧来からあった自治は損なわれることなく維持されたのである。また、オスマン帝国は異教徒を強制的に改宗することはせず、宗教的帰属を基本的な統合の単位として統治を行なった。ムスリムのみならず非ムスリム、例えばアルメニア教徒やユダヤ教徒と同様に、最大の非ムスリムである正教徒も、それぞれの自治を享受していた。ハプスブルク帝国の場合と同様に、ここでも多様な民族、言語、宗教、文化が共存していたのである。
*スルターン(アラビア語: سلطان‎ sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。
*スィパーヒー(オスマン語 سپاهی sipahi)とは元々ペルシア語の「兵士、軍人」を意味する سپاهی sipāhī からの借用語である(ウルドゥー語で「兵士」という言葉が由来という説もある)が、狭義にはオスマン帝国で組織され、中世ヨーロッパにおける封建制度の中での騎士に相当する集団を指す。召集されるにあたり給料として一定の封土での徴税権を帝国から与えられるティマール制がとられていた。
このような二帝国のもとで、南スラヴ諸族は自らの民族的アイデンティティを保持することができた。19世紀初頭のナポレオン戦争によって、ヨーロッパは民族の一体感に基づく「国民」意識を前面に掲げたナショナリズムの時代を迎えることになり、その影響はハプスブルク帝国にもオスマン帝国にもおよんだ。南スラヴ諸族も個別の民族意識を強めていき、知識層をはじめ、民族、すなわち社会の大部分を占めていた農民を含めた「近代的な民族」となるのである。
興味深いのは、個別的民族意識が形成された直後に、南スラヴとしての共通意識が生みだされることである。これはハプスブルク帝国内の南スラヴ、とくにクロアチア人のあいだで南スラヴ第一主義として思想運動から政治運動となって展開されていった。
以下ではまず、南スラヴ諸族に自己意識がどう形成され、自立に向かったかを概観する。これは、統合された「第一ユーゴ」の構造母胎が、どのような歴史的背景をもっているのかを考えるためであり、第一節ではオスマン帝国の、第二節ではハプスブルク帝国の支配下にあった民族に分けて説明したい。また、マケドニアの場合も類似しているのだが、とりわけ民族としての認識が特殊な形でなされたボスニア・ヘルツェゴヴィナについては、節をあらためて見ることにする。その上で、地域に従って形成されたアイデンティティについてもおさえておきたい。

スロベニア共和国(スロベニアきょうわこく、スロベニア語: Slovenija: SI-Slovenija.ogg [sloˈveːnija])、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国で[1]、主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。
*スロベニア人(スロベニアじん、スロベニア語: 複数形:Slovenci、双数形:Slovenca、単数形:Slovenec、女性複数形:Slovenke、女性双数形:Slovenki、女性単数形:Slovenke)は、スロベニアの大部分を占める南スラヴ系の民族であり、南スラヴ語系のスロベニア語を公用語とする。
*スロベニア語(スロベニア語: slovenski jezik, slovenščina)は、インド・ヨーロッパ語族に属するスラヴ語派のうち南スラヴ語群に属する西南スラヴ語の一言語。

リュブリャナ(スロベニア語: Ljubljana 言語発音: [ljuˈbljaːna] 、ドイツ語: Laibach、イタリア語: Lubiana、ラテン語: Labacum, Aemona)[2]は、スロベニアの都市およびそれを中心とした基礎自治体でスロベニアの首都である。

1 オスマン帝国支配下の南スラヴーセルビア、モンテネグロ、マケドニアー
近代セルビア国家の発展
1830年代に、フランスの詩人で、のちに1848年2月革命後の臨時政府首班となるラマルティーヌ(アルフォンス・マリー・ルイ・ド・プラ・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine、1790年10月21日 - 1869年2月28日)は、フランスの詩人、著作家、政治家。ロマン派の代表的詩人で、フランスにおける近代抒情詩の祖といわれ、ヴェルレーヌや象徴派にも大きな影響を与えている。また2月革命前後に政治家としても活躍した)は東方旅行から戻る途中、まだオスマン帝国領内にとどめられていたセルビア地方の町ニシュの近郊で異様なものを目にした。小高い丘の上に奇妙な塔が白く輝いている。近づいてみると、それは大理石ではなく髑髏を積み重ねて造られているいることに気づいた。髪の毛が残っている髑髏もあり、わずかな頭髪がひらひらと風にそよいだという。

*1848年革命(1848ねんかくめい)は、1848年からヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた革命。1848年から1849年にかけて起こった革命を総称して「諸国民の春」(仏: Printemps des peuples, 独: Völkerfrühling, 伊: Primavera dei popoli)ともいう。
*ニシュ(セルビア語: Niš/Ниш)は、セルビアの都市で、セルビア南部では最大の都市である。
1804年、オスマン帝国の辺境に位置するセルビア人が、バルカン地域初の大規模なオスマン帝国に対する蜂起を起こしたが、オスマン政府はセルビア人に対する見せしめとして、セルビア人死者約千体の髑髏で塔を築いた。ラマルティーヌが見かけたのはこの塔であった。
14世紀末から400年以上にわたってオスマン帝国の支配を受けてきたセルビアで、オスマン帝国に対する初めての大規模な反抗が生じた背景は三点ほど考えられる。
まず第一は、ユーゴスラビアのノーベル賞作家のアンドリッチ(イヴォ・アンドリッチ(Ivo Andrić, 1892年10月9日 - 1975年3月13日)は、ユーゴスラビアの小説家、詩人、外交官。1961年のノーベル文学賞受賞者)の歴史小説『ドリナの橋』(1945年)にも描かれているのだが、セルビア正教会が16世紀に独自の総主教を持つ自治教会として復活したことである。バルカンの他の地域では、オスマン帝国のバルカン進出過程で正教会の管区の再編成が行われ、イスタンブルの東方正教会主教(「世界総主教」と称される)がバルカン各地の正教徒の管轄権を握ることになった。その結果、自治教会を失ったブルガリアやルーマニアなどの地域では、東方正教会を通じてギリシヤ人の影響を強く受けていく。しかし、セルビアではセルビア正教会が民衆の教会としてセルビア人のアイデンティティを保持し続けた。
*『ドリナの橋』(セルビア・クロアチア語: Na Drini ćuprija[1]、トルコ語: Drina Köprüsü、英: The Bridge on the DrinaまたはThe Bridge over the Drina)は、ユーゴスラビアのノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの代表作。
*コンスタンティノープル総主教庁(コンスタンティノープルそうしゅきょうちょう、ギリシア語: Οικουμενικό Πατριαρχείο Κωνσταντινουπόλεως, 英語: Ecumenical Patriarchate of Constantinople, トルコ語: Rum Ortodoks Patrikhanesi)は、正教会で筆頭の格を有する総主教庁・教会である。
*セルビア正教会(セルビアせいきょうかい;セルビア語 Српска православна црква スルプスカ・プラヴォスラヴナ・ツルクヴァ、略称 СПЦ セペツェ)は、セルビアを中心にセルビア人の間で信仰されている正教会の一組織であり、独立正教会の一つ。
第二に、セルビアではオスマン軍のバルカン進出を決定づけた1389年のコソヴォの戦いに関する英雄叙事詩が、口承文芸となって近代にいたるまで伝えられたことである。コソヴォの戦いはオスマン軍が勝利を収めたが、この戦闘で果敢に戦ったセルビアのМаркоМрњавчевићマルコ王子Mrnjavčevićの英雄譚が伝えられ、セルビア人の民族意識が保たれる大きな要因となった。最後に、セルビアはオスマン帝国の辺境地に位置していたため、隣接するハプスブルク帝国内に居住するセルビア人商人を通じて、西欧の諸思想を受容することができたことである。
1804-13年の第一次セルビア蜂起は、豚を扱う商人カラジョルジェ(КарађорђеカラジョルジェKarađorđeことЂорђе Петровићジョルジェ・ペトロヴィチĐorđe Petrovićは、ナショナリズム運動である近代セルビアの祖と仰がれる)を指導者として、オスマン政府の統制を離れ傭兵集団と化したイェニチェリ(常備軍団)の圧政に対する反乱として生じた。しかし、蜂起がセルビア全土に拡大するにつれて、蜂起軍はオスマン帝国の軍隊と衝突せざるを得なくなる。この結果、「悪いトルコ人」の支配を打破して旧来の秩序を回復するため、スルタンへの請願という形で始められた蜂起の性格は変化していった。’

*Srpskohrvatski / Српскохрватскиセルビア・クロアチア語→Karađorđe ili Crni Đorđe (pravo ime Đorđe Petrović) (Viševac kraj Rače Kragujevačke, 15. septembra 1768. – Radovanje kraj Velike Plane, 25. jula 1817.), osnivač dinastije Karađorđevića.
*カラジョルジェヴィチ家(カラジョルジェヴィチけ、セルビア語 : Karađorđević/Карађорђевићи)は、近代セルビア王国およびユーゴスラビア王国の王家。 第1次セルビア蜂起の指導者カラジョルジェに始まる家系。

*コソボの戦い(セルビア・クロアチア語: Bitka na Kosovu、ボスニア語: Kosovska bitka、トルコ語: I. Kosova Muharebesi)は、1389年にコソボで勃発した、セルビア王国とオスマン帝国による会戦である。
*セルビア公国Моравска Србијаは、セルビア帝国が崩壊した後、1371年にラザル・フレベリャノヴィチが最有力君主となって成立した国家。
*セルビア帝国(セルビアていこく、セルビア語: Српско Царство)は、セルビア王国ネマニッチ朝の君主ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの皇帝即位により1346年に成立した帝国。

*イェニチェリ(トルコ語: Yeniçeri、オスマン語: يڭيچرى、ギリシア語: Γενίτσαροι、イタリア語: Giannizzeri、英語: Janissaries)は、14世紀から19世紀の初頭まで存在したオスマン帝国の常備歩兵軍団で、スプーンをシンボルにしていたことが知られている。常備軍団カプクルの中核をなし、火器で武装した最精鋭であった。トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を意味する。

*セルビア蜂起(セルビア語:Српска револуција セルビア革命)とはオスマン帝国支配下のセルビアで発生したセルビア人らによる独立運動のことである。この蜂起は第一次(1804年 - 1813年)、第二次(1815年 - 1817年)の2期に分けられ、第二次蜂起の結果、セルビアはセルビア公国として独立を果たす。
この時期はちょうどヨーロッパがナポレオン戦争に巻き込まれており、列強に支援を求めた蜂起軍は列強の利害関心に振り回されることにもなる。1806年に露土戦争が始まると、オスマン帝国はセルビアの自治承認を申し出るが、蜂起軍はこれを拒否し、ロシアの支持を期待して独立を要求するに至った。蜂起は独立を目指す民族解放の戦いへと変化したのである。結局、蜂起はナポレオン戦争が一段落したあと、その鎮圧に全勢力を傾けたオスマン帝国の軍隊によって押しつぶされてしまう。
*露土戦争Русско-турецкая война(ろとせんそう)Osmanlı-Rus savaşlarıは、ロシア帝国もしくはその前身国家とオスマン帝国の戦争Руско-турски ратである。

この第一次セルビア蜂起には、指導者として商人、кнезクネズknezと呼ばれる村落自治単位の長、聖職者などが参画したが、これに加えて多くの農民が参加し、オスマン帝国の巨大な軍隊と戦うなかで民族意識を強めていき、「近代的な民族」としてのセルビア人が生みだされた。1815年には、やはり豚商人のミロシュ・オブレノヴィチを指導者とする第二次蜂起が生じた。ミロシュはナポレオン戦争後の国際情勢を巧みに利用して、独立ではなく自治の獲得という現実主義的な方針を採った。オスマン政府との長期にわたる交渉が続けられ、1830年には公国として完全な自治を得る。
КнезクニャージKnezとは、ロシアをはじめとするスラブ人の国家における称号の一つ。

*ミロシュ・オブレノヴィッチ1世(セルビア語: Милош Обреновић I / Miloš Obrenović I、本名ミロシュ・テオドロヴィッチ、Милош Теодоровић / Miloš Teodorović[1]、1780年3月18日(ユリウス暦3月7日) - 1860年9月26日)は、セルビア公(在位:1817年 - 1839年、1858年 - 1860年)。

*Српски / srpskiセルビア語→Second Serbian UprisingДруги српски устанак представља другу фазу第二次セルビア蜂起Српске револуције (по неким историчарима трећу, уколико се у револуционарне активности рачуна и Хаџи-Проданова буна из 1814. године) против Османског царства, која је избила кратко по окончању Првог српског устанка.
*セルビア公国(セルビアこうこく、セルビア語 : Кнежевина Србија)は、1817年から1882年にかけてバルカン半島に存在した国家。1878年まではオスマン帝国の宗主権下にあり、1882年に君主が正式に「国王」を宣言して王制に移行した。
セルビア公国は近代的な国家機構の整備にとりかかり、1844年には、「バルカンのビスマルク」と称される外相ガラシャニンが、セルビアの外交政策の指針を秘密文書「НацхертањеナチェルタニエNačertanijeThe Draft覚え書き)」のなかで明らかにした。これによると、セルビアの政治目的は公国外のすべてのセルビア人を公国に統合することだとしており、その対象としては、中世セルビア王国が最大版図を誇った14世紀のドゥシャン王時代の領域に加え、セルビア人が居住していたが、まだオスマン帝国の支配下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナと、ハプスブルク帝国内のダルマチアやヴォイヴォディナが考えられていた。「ナチェルタニエ」はセルビア近代史を貫く「大セルビア主義」の基礎となる。どれほど実体をともなっていたかは別として、「大セルビア主義」という表現が1991年に始まるユーゴ内戦への過程でも多用されたことは記憶に新しい。

*イリヤ・ガラシャニン(Илија Гарашанин、Ilija Garašanin, 1812年1月28日 - 1874年6月28日)は、近代セルビア王国の政治家。「大セルビア主義」の基礎を作った。また、1844年に「ナチェルターニェ」と呼ばれる秘密文書を作成した。

クロアチア共和国(クロアチアきょうわこく、Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家である。首都はザグレブ。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。
*クロアチア人(クロアチアじん、クロアチア語:Hrvati)は、主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。クロアチアのサヴァ川、ドラーヴァ川流域、それらの地域より南のダルマチア地方沿岸部に居住する[1]。
*クロアチア語(クロアチアご、クロアチア語: Hrvatski 発音 [xř̩ʋaːtskiː])は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語である。クロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴビナの公用語である。クロアチアのEU加盟により、2013年7月以降EU公用語の一つにもなっている。


ザグレブ(クロアチア語: Zagreb)は、クロアチアの首都。同国最大の都市である。クロアチアの北西部サヴァ川河畔に位置しメドヴェドニツァ山(英語版)の南斜面にあり海抜は122mである。

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